Archives of the Salon's log
喫茶室 過去ログ83(2006.4.1〜4.30)

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喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2006年5月のログ] [2006年3月のログ]


出会える系サイト紹介♪  投稿者:無料出会いナビ  投稿日: 4月30日(日)17時44分45秒 Remote Host: ERR.CYLAB.CMU.EDU, Time: 1146386685
  (本投稿は、当掲示場の趣旨にそぐわないものと判断し、管理者権限に於いて削除)  

ご報告  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月30日(日)12時43分39秒
   前にこちらの掲示板で長期にわたって連載させていただいた論考を集めた本が二冊できました。

『靖国神社に参拝しよう』栄光出版社(四六判300頁/1500円)
(この本の元版はあちこちで引用され、雑誌「正論」靖国特集の参考文献にもなりましたし、渡部昇一さんの御本にも転載されておりました)

『皇統の危機に思う』栄光出版社(四六判350頁/1600円)
(この本の内容も、桜チャンネルなどインターネットのあちこちで引用されておりました)

 どうかよろしく。
 

『卑弥呼と日本書紀127』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月30日(日)12時24分25秒
  [承前]

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 この図5・3参照

 いちばん下の円は、神話の最後の部分にある、初代の神武(じんむ)天皇が即位されたという、畝傍(うねび)山の麓(ふもと)の橿原(かしはら)である。
 このあたりは、発掘によって樫の木(橿)があったことが分かっており、したがって橿原の名に違(たが)わず、また河川――というよりも水郷――に突き出た小半島状の土地で、船着き場などがあったらしく、初代の宮殿にふさわしい場所だったといえる。

 その右上の楕円が、磐余(いわれ)である。この一帯は、初期の大和(やまと)朝廷の勢力圏内だったらしく、神武天皇の国風謚号(しごう)は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)である。
 またのちに何人かの天皇が宮殿をつくったとされる場所でもある。

 そのすぐ上の楕円の磯城(しき)は、神武天皇に最後まで逆らったとされる八十梟帥(やそたける)の拠点で、梟帥が滅んだのちは大和朝廷の勢力圏内となり、のちに第十代崇神(すじん)天皇はじめしばしば宮殿がつくられた場所である。
 おそらく防備によく住みやすかったのであろう。

 またその上の纒向(まきむく)は、第十代崇神天皇の宮殿のすぐそばであり、かつ第十一代垂仁(すいにん)天皇や第十二代景行(けいこう)天皇の宮殿が置かれた場所で、数多くの遺跡が発見されているので纒向遺跡と呼ばれている。纏向とはこの地の古い村名で、『日本書紀(やまとのふみ)』に出てくるし、現在でも名が残っている。

 東西約二・五キロ、南北一・五キロという広大な面積にわたって、多くの遺構があり、祭祀(さいし)跡や運河の痕跡もあり、大和川にそそぐ巻向(纒向)川、初瀬川などを利用して大阪湾と連結した開放的な古代の大都市だったと考えられている。

 考古学の成果と『記紀』の記述とを総合して、すくなくとも崇神天皇の時代から垂仁を経て景行天皇の時代まで、三代にわたる大和朝廷の中心的な都だったことはまちがいない――と考えられている。
 本書では前記のようにここを仮に《纒向京》と称しているが、いずれは正式にそのように名づけられるのではないかと、予測している。

[つづく]
 

日本人としての気概をもって日常から  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月29日(土)20時11分8秒
  間違っていることには毅然とした姿勢を貫くこと。
偽善と付和雷同を排すること。

教育現場からの報告=最終回
教育現場からの報告=その4
教育現場からの報告=その3
教育“現場”からの報告=その2
教育“現場”からの報告
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/

ほんのささやかな日常から始まるのだとおもふ。
喜に浮かれ、楽に逃げこむばかりではなく、
もっと怒れ、もっと哀しめ。
http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%B2%A3%C5%C4%A4%E1%A4%B0%A4%DF&st=n
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50475842.html
感情をおさえることが美徳のときはもう過ぎた。
もう、どんどんそれを発露させていい時宜なのかもしれぬ。

■小泉純一郎外伝 − 最後の政局(平成18年04月28日) 投稿者: 冷泉 文恵
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0604/060428-7.html
 

日本、如何にあるべしや?  投稿者:怒る小市民  投稿日: 4月29日(土)18時50分44秒
  竹下さん、久々に寄稿させて戴(いただ)きます。
これまで幾度か投書を試みようとしたのですが、このサイトに寄稿されておられる皆様が何(いず)れ劣らぬ該博な知識を有す方ばかりで、小生、浅学故(ゆえ)に気後(きおく)れして躊躇(ためら)っておりましたが、此度(このたび)は勇を鼓舞して拙文を寄せる決心を致しました。
さて、申し述べたきことは我が国が晒(さら)されておる脅威についてです。昨今の北東アジア情勢を鑑(かんが)みますと、四方を海で囲まれた我が国の南は比較的、友好的な国々が連なっておりますが、東は茫漠たる太平洋。そして北と西に目を転ずれば、日本に害意を抱く支那・朝鮮が立ちはだかり、漁夫の利を得んと露国も日本を虎視眈々(こしたんたん)と狙っております。鮮人は日本憎(にく)しで凝(こ)り固まった馬鹿者であるが故、相応の警戒は必要でありましょうが何程(なにほど)のこともありますまい。なれど、世界最大の人口を擁す食人種共はこのまま看過もできません。ここのところ我が国が鮮人との諍(あらそ)いのため、様子見なのか静観の呈でありますが、一たび野心の爪牙(そうが)を露(あら)わにすれば、東シナ海のガス田開発にせよ、尖閣諸島の領有にせよ、更には台湾への軍事侵攻にしたところで、手もなく蹂躙(じゅうりん)され強奪(ごうだつ)を恣(ほしいまま)にされるは必定(ひつじょう)。存外、鮮人とのいざこざに掣肘(せいちゅう)してこぬのも、狡猾(こうかつ)なる支那人が両国の共倒れを待ち、一気呵成(かせい)に併呑(へいどん)する企(たくら)みなのやも知れません。
かかる国難に直面し、我が国は相変わらず腰の引けた外交よりできず。媚特亜の政治家、売国企業、反日マスコミが未だ隠然たる影響力を有したおります。また、巷間(こうかん)も僅(わず)かばかり目醒(めざ)めてきておるとは申せ、同盟国アメリカの安保に依存しきった平和にあたかも惰眠(だみん)を貪(むさぼ)る呈。憂国を胸に抱く保守・右派の人士も、小泉政権の支持や米国との同盟関係の是非、皇室継承問題と、語弊を承知で言わせて戴ければ瑣末(さまつ)な差異にかかずらっておる始末。
そこで竹下様、皆様方へお伺(うかが)いしたい。日本はこの先いかになすべきかと。唐突な愚問(ぐもん)で礼を失したものではございますが、忌憚(きたん)なきご意見を頂戴(ちょうだい)できればと存じます。
何卒(なにとぞ)、宜(よろ)しくお願い致します。
 

『卑弥呼と日本書紀126』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月29日(土)12時16分40秒
  [承前]

◆◆◆ 奈良盆地南部の詳細地理 ◆◆◆

 つぎの図5・2は、図5・1の右下部分――つまり奈良盆地の南部を拡大して精密に描いたものである。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 以下の各章では、この図を元にして、いくつかの説明図を作成しているので、ざっと眺めておいていただきたい。
 土地勘を得るために、JR線を描いてあるが、このほかに私鉄がたくさんあるし、道路も数多くあることは当然である。
 河川も代表的なものしか描いていない。
 このあとの多くの章で話題になるのは、初瀬川の両岸および寺川と初瀬川の間の土地で、〈卑彌呼〉の時代の遺跡が無数にあり、それが初期大和(やまと)朝廷の都や墳墓の跡だろうとされている。
(初瀬川は大和川の支流であるが、山に近いところまで大和川とも呼ばれている)

 図の中央上部に、破線の円で描いた「唐古・鍵遺跡」があるが、これは弥生時代における日本でも最大規模の集落跡であり、大和朝廷の成立との深い関連が指摘されている。
 また《三輪山》の北西山麓の《纒向(まきむく)京》は、第十代から第十二代にかけての天皇の都が造られたと考えられる遺跡で、時代的には『魏志倭人伝』とほとんど一致しているので、このあと再三にわたり、くわしく言及することになるであろう。

 そのつぎの図5・3は、『日本書紀(やまとのふみ)』などにしばしば出てくる、《大和》周辺の古い地名である。図5・2のさらに中心地帯に書き込んである。

[つづく]
 

メッカ巡礼  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月29日(土)01時17分38秒
  ■中国人 マルクス詣で 独の故郷にぎわう

共産主義の教祖 昨年10万人
 【ベルリン=黒沢潤】ドイツ西部の中小都市トリアに、中国人観光客が殺到している。お目当ては、共産主義の教祖、経済学者のカール・マルクスの生家だ。冷戦終結により、欧米では影が薄いマルクスだが、社会主義・中国ではいまだ崇拝の対象だ。マルクスがもたらした中国特需に同市は沸いている。
 同市によると、二〇〇四年にトリアを訪れた中国人観光客は前年比40%増の二万八千七百人。昨年は三倍以上の十万人に上った。
 背景には、欧州諸国が二〇〇四年九月から中国人団体観光客へのビザ発給を簡素化したことがある。欧州旅行は中国人の長年のあこがれで、欧州諸国では同年から中国人観光客が激増している。
 特に、トリアはマルクスの故郷で、生家も残されていることから、中国人観光客を磁石のように引き付けている。生家には、直筆の書簡や、幼少のころの写真が展示されているほか、最新の機器を通じて社会主義の歴史を知ることもできる。
 生家を管理する秘書のエルケ・ベッカーさん(39)によると、生家への年間来場者数は約三万人。中国人観光客はそのうち三分の一を占める。
 東西冷戦は終結したが、中国は数少ない社会主義体制下の国家だけに、いまだにマルクスを信奉する人も少なくない。生家に置かれている訪問者用ノートに、「『親愛なるカール。やっとあなたの家に来た』といった文章を書く人も多い」と、ベアトリクス・ブービエ館長(61)は話す。
 トリアでは突然やってきた中国特需を逃すまいと、中国人観光客の取り込みに躍起だ。街中には中国風のホテルが多数建てられ、ホテルの一部では、朝食に中国料理を出すところもある。商店のウインドー内の商品には、中国語の説明まで付けられ、通りの名前が中国語で表示されているケースも多い。ベッカーさんは「中国人の『トリア・ブーム』は少なくとも、数年間は続くはず」と期待を込めて話している。
(産経新聞) - 4月28日16時23分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060428-00000032-san-int

シナ人は、いまだ、妄想主観によって生み出された虚構の中の住人だ。
 

『卑弥呼と日本書紀125』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月28日(金)12時05分54秒
  [承前]

 隆起による湖や水郷や河川の消失は大阪湾近辺でもおなじであり、河内(かわち)湖も姿を消してゆくが、もと水郷的な地形の名残はいまでもあり、土木工事の不十分な戦後まもなくは、大雨が降った日の大阪市内は水がでて歩けないほどであった。
 奈良盆地全体にも、古墳時代まで水郷だった名残があり、年間の湿度変化がすくなく、したがって正倉院の御物の保存などに適していると、考古学者の樋口清之が指摘している。

《大和(やまと)》のある奈良盆地とは、以上のように、水利に恵まれていて、船で瀬戸内海からすぐに到達できる交通至便の場所であった。
 また仮に徒歩でいったとしても、大阪湾から《三輪山》の麓まで直線距離でマラソン距離以下なので、一日でじゅうぶんに着いた。
 うねった道を通ったとしても、昔の人の健脚なら一日の行程である。

 もうひとつ付記すると、《三輪山》の南麓を縫って東に向かうと、道はけわしくとも、何日か歩けば伊勢につき、そこから徒歩や馬で尾張(おわり)や美濃(みの)(愛知や岐阜)まで行けるし、また船で湾を横切って対岸に上陸して東海地方に進むこともできた。

 このように見てくると、「《邪馬台国》大和説」の《大和》とは、山々に囲まれた豊かな土地として《山門(やまと)》や《山処(やまと)》でもあるが、またどうじに、船でも徒歩でも海にすぐに出ることができ、努力すれば伊勢方面へのルートも確保できる、とても発展性のある地勢だった事がわかる。
 しかも、この盆地への入口で通りやすいのは、金剛山地と生駒(いこま)山地の間だけだから、外敵からの防備もしやすい場所であった。

 さらに産物も豊富だった。
 古代の重要品だった鉄や玉や朱の素材も産出していたし、農業にも林業にも適していた。
 大和朝廷はじめ豪族たちが覇権をかけてこの奈良盆地――《大和》――で争ったのも、肯けることである。

 加えて、この《大和》が『魏志倭人伝』の時代から開けた土地であったことを示す重要な発掘について記しておく。
 その一つは、朝鮮半島製と思われる陶片が大量に発掘されていることである。
 またもう一つは、福井県あたりの日本海沿岸から《大和》まで、危機を知らせる狼煙(のろし)通信の施設が、すでに弥生時代にできていたらしい――という発掘報告があることである。
 これらも、《大和》が〈卑彌呼〉以前から海外と交流していたことの傍証になるであろう。

[つづく]
 

ユニタール  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月28日(金)02時18分53秒
  http://www.unitar.org/
◇UNITAR Hiroshima Office
http://www.unitar.org/hiroshima/index.htm
http://www.unitar.org/hiroshima/jp/index.htm
■リンク
http://www.unitar.org/hiroshima/jp/related_links.htm
■広島平和研究所
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/
■リンク集
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/
平和関連団体 NPO法人ピースデポ
http://www.peacedepot.org/
http://www.peacedepot.org/index2.html
http://www.peacedepot.org/frame.html
■ 役員 (2008年2月総会まで)
http://www.peacedepot.org/whatspd/yakuin.html
梅林宏道(うめばやし ひろみち) ピースデポ代表、太平洋軍備撤廃運動(PCDS)国際コーディネーター、核軍縮議員ネットワーク(PNND)東アジア・コーディネーターとして軍縮、安全保障問題にとりくむ。世界的なネットワーク「中堅国家構想(MPI)」国際運営委員、「アボリション2000」の調整委員会委員。『核兵器・核実験モニター』の編集責任者。著書に「在日米軍」(岩波新書)「情報公開法でとらえた沖縄の米軍」「情報公開でとらえた在日米軍」「隠された核事故」など。神奈川県横浜市港北区在住。

他の役員もみな、日本共産党員か、それとなにかしらの恕リがりをもったものばかりではないのか。もろ共産主義者の巣のようなものではないか。国連機関が、密接につながっているとはな。それを、アカいマスゴミ労働者同志諸君が喜んで持ち上げやがる。まるで、忌国棄国亡国の輩だな。

「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」
http://peace.cside.to/
まんが『無防備マン』が行く!
 平和を積極的につくる方法「憲法9条を具現化させる無防備地域宣言!」
http://muboubi-net.com/manga/
「九条の会」
http://www.9-jo.jp/
九条の会でぐぐれ。
この国では、それと伺わせぬかたちで名称を代え、共産主義団体が密かに増殖している。
とはいっても、信者はあまり増えておらんようだが。

『「但馬で憲法9条をまもる連絡会」の主催。関西学院大法科大学院の徳岡宏一朗教授が「9条の心〜軍隊がなければ戦争は防げる」と題して講演する。』
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/hyogo/news/20060427ddlk28040560000c.html
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=331246&log=20060427
 

■中国が日本に「軍事侵攻」する日  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月27日(木)19時45分48秒
  週刊新潮 5月4・11日号ゴールデンウィーク特大号
http://book.shinchosha.co.jp/shukanshincho/

【特別レポート】
 中国が日本に「軍事侵攻」する日 日本ルネッサンス「拡大版」[第213回]  櫻井よしこ

上記の記事だけで350円は必見。(ご存知の方には、あまりにも初歩の知識かもしれんけどな。)
日本人に不足している、地政学と軍事学の基礎知識入門。
平松茂雄氏の発言も紹介。

中国は日本を併合する 平松 茂雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770040318
 

藤原不比等  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月27日(木)17時29分41秒
  (※ 4月25日(火)16時08分26秒のログ再掲)

■川口外務大臣談話 国際司法裁判所裁判官選挙における小和田恆氏の当選について(平成14年10月22日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/14/dkw_1022.html
■「国際司法裁人事の背景」、『軍縮問題資料』2003年1月号
http://www.geocities.jp/kawabe_ichiro/column/200301.html
■ユニタール・ラウンドテーブル (日時:10月27日2004)
 “現代世界における国際司法裁判所の役割と責任” 小和田 恆 国際司法裁判所判事
http://www.unitar.org/hiroshima/roundtables/owada_jp.html
■朝鮮半島にあまりにも近すぎませんか、ピースボートさま 2005/7/6(水)
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1108334
■December 24, 2005 日本原水協が新たな反米・反核を開始 賛同者に井上ひさしさん、井筒和幸さん
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50287934.html

国連は、もはやアカの巣になってる? 日本「国家」を“薄める”方向にしか機能しない可能性が大である。

2006年02月20日
旧宮家復籍の手がかりとして-フラッシュ作成の件
http://tech.sub.jp/2006/02/post_393.html
第千百三十二夜【1132】2006年4月13日 里中満智子『女帝の手記』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1132.html

>さあ、それにしても、である。平成の日本は女帝問題をあまりに安易に考えているのではあるまいか。誰が仲麻呂か、どこに道鏡がいるのかは知らないが、この時期はしばらく深々と天皇の歴史を覗きこんだほうがいい。

平成の“アカ”い不比等にでもなろうとしてるようにしか見えん。
しかも、やがては皇統を無力化し、この国を共和制にするために。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1383032

>『日本書紀(やまとのふみ)』の藤原不比等に匹敵する超人あるいはフィクサーということになる。
http://dosukoi.s142.xrea.com/2chlog//384.html
7-8。

(参考)関 裕二『[図解]誰も教えてくれなかった「古代史」の真実 ついに解き明かされた「歴史の闇」』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569643345
改めて「天皇家と藤原氏のつながり」(P83.)を見ると、ゾッとする。
 

■偽造(巻頭コラム 天地無用)  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月27日(木)17時20分21秒
  WiLL 2006年6月号 【総力特集 新聞の堕落】
http://web-will.jp/latest/index.html

『支那(チャイナ)が世界に君臨する皇帝支配の象徴として創始した年号の通例は二字漢字、その系譜を模した我が国も等しく二字漢字で通してきたものの、その間に目を驚かす顕著な異例が認められる。すなわち天平感宝から神護景雲に至る五回のみ四字漢字が続いた不思議は空前絶後である。年号の命名(ネーミング)は天皇の裁可に拠(よ)るが、この間の聖武(しょうむ)、孝謙、称徳の三帝はともに実質は空位、天皇大権のすべては皇后光明子が設置した令外(りょうげ)の官である紫微中台(しびちゅうだい)に集中した。本来の政府である太政官(だじょうかん)から兼官を装って移っている阿倍仲麻呂を従えた光明子が、事実上の皇位に在って年号を定めたのである。
 この猛女は支那(チャイナ)の則天武后に憧(あこが)れ悉(ことごと)く真似(まね)ている。その武后たるや唐王朝を簒奪(さんだつ)して独自に周を国名に定め即位した。それゆえ歴史の事実としては前唐から周へ、周から後唐へと政権が移ったにも拘(かか)わらず、女性蔑視(べっし)を旨(むね)とする支那(チャイナ)の正史は、唐朝が一貫存続したと偽装するため、武后の周朝を抹殺し、則天武后という假名に貶(おとし)めた。歴史の偽造を恥じず堂々と虚偽を通し、正史を恣意で弄(もてあそ)ぶ本家本元が、支那(チャイナ)のご都合主義であること疑いを容(い)れない。』

日本の地において、その流儀(スタイル)に右倣(なら)えする者も多し。とくに高学歴のものに。
そして、言葉によって生業(なりわい)をたてるもののなかで、やたらあちらこちらに巣食ってしまっておる。
http://society3.2ch.net/mass/index.html
http://blog.livedoor.jp/mumur/
■なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その2■
http://ugaya.com/column/taisha2.html
■岩波新書
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c81a9c5034309a72f3358dd57afa58e7
いま、アカ畑がおもろいらしい。  投稿日:04月26日(水)21時32分58秒
http://daitokai.jp/NOASAHI/bbs

宮崎正弘の国際ニュース・早読み
http://www.melma.com/backnumber_45206/
『「反日」の超克』
http://nishimura-voice.seesaa.net/
 

こりゃ、ログ流し工作やね。(笑)  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月27日(木)15時50分42秒
  日本人よ目覚めよ!! 来たれ、大和魂のサムライたちよ!!
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/
黄 文雄『日本人が知らない日本人の遺産―教科書が教えないもうひとつの歴史』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4413035380
『「奥の細道」は、日本人の歴史への美と心だけでなく、太古以来の日本民族の魂をも、自然の中に秘めている。
 中国が何よりも恐れているのは、日本人の精神と魂の覚醒なのである。』(P345.)

そりゃ、もちろんアメ公もやけどな。そっちはまだマシや。契約を重んじるユダヤ人にキンタマ握られてるようなもんやからな。日露戦争のときは、日本もだいぶ世話なったんやけどな。

■民主党副代表の赤松議員、違法献金…在日系企業か (ZAKZAK 2006/04/26)
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_04/t2006042601.html
■赤松議員が代表の民主総支部、外国企業が違法寄付(2006年4月25日21時57分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060425i314.htm?from=main3

民主党は外国人から寄附を受けていないか(平成18年04月21日)
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0604/060421-22.html
蛙の小便(平成18年04月24日)
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0604/060424-30.html
百年河清を俟つ(平成18年04月26日)
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0604/060426-7.html

『竹島問題の円満解決は、南鮮人に蛮人からの脱皮を期待するしかない。その上で、ノムヒョンの様なスットコドッコイの指導者でない、知的に洗練された指導者が現れる。冷静で、紳士的で、包容力に満ちた討論が出来る指導者である。
その様な願いは、百年河清を俟(ま)つといったものに違いはないだろうが ・・・・・ 』
 

『卑弥呼と日本書紀124』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月27日(木)12時21分36秒
  [承前]

 このように山からの良質な水が豊富だと稲作にも適しているし、いろいろな意味で暮らしやすかったであろうが、さらにもうひとつ、重要な交通上の意味があった。

 それは、右側の山地から流れ出る支流を合わせた大和川は、金剛山地と生駒(いこま)山地の切れ目の部分を通って河内(かわち)の平野に流れ出て、難波宮(なにわのみや 現在の大阪城の近く)の北を通って淀川に入り、大阪湾に出ていたのである。

 現在の大和川は新大和川と記された経路をとって堺市から海に入っているが、これは氾濫を防ぐために江戸時代初期、家光の時代になされた大工事によって切り換えられたもので、昔は北上して現大阪の中心地帯に流れていたのだ。
 そしてこのことは、瀬戸内を通って大阪湾に到着した船は、この大和川をさかのぼって《大和》まで直航できたことを意味している。


◆◆◆ 古代《大和》の水利の便 ◆◆◆

 さらに〈卑彌呼〉たちが活躍していた古代――弥生末期から古墳時代のころ――までは、現在の大阪湾のさらに内側が巨大な湖(河内湖と呼ばれる)となっていて、そこと大阪湾とは大きな水路でつながっていたらしい。
 つまり、大阪湾の内側にさらに一種の湾――淡水と海水が混ざり合った汽水湖のような湾内湾*――がある地形だったのだ。
 したがって旧大和川は、奈良盆地を抜けでるとすぐにその汽水湖に入っていたと想像できる。

 このように古代の《大和》は、周囲を山に囲まれた地域でありながら、海から直接船ですぐに行き着ける、交通至便の場所だったのである。
 しかも、金剛山地と生駒山地の切れ目さえ守れば敵軍を追い返すことも可能で、防御にも適した地形だった。
 神武(じんむ)東征軍が大阪湾から大和に行こうとして失敗したのも当然である。

(*湖といっても、河川の幅が極端に広くなったような地形だったらしい)

 この水利の至便さは、盆地の南部だけでなく《平城京》のあった北部の奈良市あたりでも同じであり、大和川の支流のひとつ、佐保川によって大阪湾から船便がつうじていた。

 奈良の《平城京》が京都の《平安京》に遷都した理由のひとつは、奈良盆地の隆起によって佐保川がせまくなって大阪湾からの船便に不便になったことだといわれているが、隆起によって時代とともに不便になっていったのは、南部の《飛鳥(あすか)京》《藤原京》などのあたりでも同様だったと考えられる。

[つづく]
 

甲類乙類  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月27日(木)12時15分16秒
  甲類乙類に分けられているのは、50音図で言いますと、「いえお/ゐゑを」の列だけですよね。
この列というのは、分かれやすかったのでしょうか。
それが次第に収斂(しゅうれん)して現在に至った・・・?
乙類はウムラウトに近い発音だったと、本に書いてあるのを読んだのですが、録音もなく文献も『魏志倭人伝』だけしか残っていない古代に、なぜそういう事が分かるのでしょうか?
 

古代日本語の甲類【かふるい】と乙類【おつるい】;訂正  投稿者:黄東洋(支那呼称問題)  投稿日: 4月27日(木)07時16分27秒
  >いつも音韻についての詳細な書込をありがとうございます。

お役に立てて光栄です。
少し訂正があります。

古代日本語の甲類【かふるい】と乙類【おつるい】 訂正

「温泉【をんせん】」は安土桃山時代の『日葡辞書』(日本・ポルトガル語辞典)で Vonxen とあり、これは當時の日本語で[wen∫en](誤)>[won∫en](正)のような發音だったものでしょう。
今の北京語で「温泉」は wenquan,「温家寶」は Wen Jiabao ですから、北京語の wen(温)が日本語音「をん」won と同系なのは確かです。

所謂(いわゆる)「旧假名(かな)」で「を」と書かれるのは、桃山時代から前に wo であったもので、「ほ」は Φo だったものでしょう。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

『弟と妹の語源の補遺』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月26日(水)13時47分27秒
   いま、白川先生の辞書を見ていたんですが、「おとこ」という言葉と「をとこ」という言葉と二種類あるんですね。
「おとこ」の「おと」は、年齢の若いものを示し、「劣る」や「落つ」と同源。
「をとこ」の「をと」は、霊がたちかえって若者になるという意味があるらしい。
(オロモルフにはなんだか同じ言葉のようにも思えますけど)
 

『卑弥呼と日本書紀123』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月26日(水)13時29分14秒
  ■■■■■ 五・三 《大和》の地理の概略 ■■■■■


 前節で「ヤマト」についての語源論や《大和》と《邪馬台国》の発音の類似性について調べたので、つぎに、奈良県の《大和》の地理や地勢を頭に入れてみることにしよう。


◆◆◆ 大阪湾から奈良盆地へ ◆◆◆

 図5・1に、《大和》地方および、大阪湾から《大和》までの概略の地図を示した。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm
(この頁の一番下)

 図の右側が奈良盆地または大和盆地であるが、この盆地のどのあたりに都(または宮殿)のおかれたかを、古い方からたどると、

〔一〕初代神武(じんむ)天皇ゆかりの橿原(かしはら 大和三山あたり)。

〔二〕第十代崇神(すじん)天皇の磯城宮(しきのみや 桜井市金屋)から第十一代垂仁(すいにん)天皇をへて第十二代景行(けいこう)天皇あたりまでの都《纒向(まきむく)京》がおかれた《三輪山》の北西山麓(狭い意味での《大和》)。
〔《纒向京》は仮の名で、一般には纒向遺跡といわれている。大和朝廷最古の都があった痕跡がつぎつぎに発見されている〕

〔三〕第十九代允恭(いんぎょう)天皇あたりから第四十代天武(てんむ)天皇のころまでの何回かの《飛鳥(あすか)京》(飛鳥古京)。

〔四〕第四十一代持統天皇から第四十三代元明天皇までの《藤原京》。

〔五〕元明天皇から第五十代桓武(かんむ)天皇までの《平城京》(奈良の都)。

 ――となる。

 さらに土地勘を養うために、図の全体を見ていただきたい。
 キイワードは大和川である。

《纒向京》、《飛鳥京》、《藤原京》、《平城京》などは、いずれも、東から東南部にかけてひろがる山地から流れ出る河川が大和川に合流するまでの、山の麓近くの平地にある。

 とくに纒向・飛鳥・藤原などの都があった盆地の中央から南にかけては、古代においては湖または水郷のような場所であり、大和朝廷ができたころも、現在よりはるかに幅のひろい――数百メートルもあったらしい――河川が多くあり、その間の微高地に集落や都市がつくられる、といった地形だったらしい。

[つづく]
 

竹島問題3  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月26日(水)13時19分1秒
  「日露戦争当時の竹島資料」

 一部の掲示板で提示しました資料に、さらに追加して纏(まと)めまして、小生の保存頁に保存いたしました。
 ご興味あれば、どうかご利用ください。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tksm_nr.htm
 

竹島問題2  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月26日(水)13時17分50秒
  ◆不可欠な国内周知

 竹島奪還に向けて、まず第一に重要なのは、国内への周知だと思います。
 そのためになすべきことを三つ考えてみました。

(1)教科書
 小中高の教科書に「竹島は純然たる日本の領土であるのに韓国が不法に占領している」と大書するべきです。

(2)地図への記載
 学生用はもちろん、一般用の地図にも、竹島の位置とそれが日本領であることが明確に分かるように描くべきです。
 残念ながら現在の日本地図はそうなっていません。
 今手元にある三冊の日本地図を見てみました。
▽学生さんようのハンディな日本地図
 これには、九州南端部にある小さな竹島しか出ていませんでした。
▽百科事典の付地図
 分厚い地図帳ですが、日本周辺の海流の図にしか竹島はありませんでした。
▽ユーキャンの地図帳
 前にテレビで宣伝していたユーキャンの大きくて厚い地図帳をある人から貰(もら)ったのですが、これにも、日本周辺の全体図にしか、竹島は出ていません。
 もちろん島の形状などまったく分かりません。
 地図への竹島の表示は、島根県など山陰地方の海岸よりの部分と隠岐と竹島を一体の図として描くべきです。
 そうしませんと、場所の感覚が生まれません。
 しかしそのような地図は滅多にありません。わたしは見たことが無いのです。
 これでは、日本人が竹島を知らないのは当たり前の話しです。

(3)天気予報
 テレビの天気予報に、竹島とその周辺を出すべきです。
 もちろん地図にも竹島を描くべきです。
 そうすれば、自然のうちに竹島が頭に入るでしょう。

◆宣伝戦が最重要

 上のような事は韓国側のみがやっていて日本側はやっていませんから、第三者が見ると、理論上も韓国に正義があると錯覚するでしょう。
 国際司法も重要ですが、それよりも、
「韓国は国際司法を避けているが、それは韓国側に法的な正義が無いからだ」
 ――という猛宣伝をするべきです。
 戦前の併合問題についても、しっかりとした歴史認識を持って反論するべきです。
 戦前の歴史と竹島は何の関係もありませんが、さらに、日本が近隣国に謝罪すべきような事は何も無いのですから・・・。
 武力とは戦闘で使うよりもむしろ交渉の道具として使うべきものです。
 

竹島問題1  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月26日(水)13時16分28秒
  ■新聞投書

 かつて韓国は李承晩ラインという一方的な領海線を引き、日本の領土であることが明白な竹島を占拠したばかりか、正当に操業していた日本漁船三百隻以上を拿捕(だほ)し、何の罪もない日本漁民四千人近くを拉致した。
 毅然たる措置を何もとらなかった日本政府は、日韓条約締結時に国際司法裁判所への提訴主張したものの、法的に自信のない韓国の猛反対に押し切られ、その後、自ら第三者に訴える道を閉ざしてしまった。
 韓国がいかに反対しようとも、もし日本政府が提訴の主張を執拗に繰り返していたなら、国際世論は、今とはかなり違ったものになっていたであろう。
 本紙五日付のアピール欄の意見のように、尖閣諸島は国際司法の問題ではなく、単なる自国防衛の問題だと思う。
 だが、無責任な事勿(なか)れ主義で自国民に犠牲を強(し)いてきた日本の外務省の体質を根本から変えない限り、尖閣諸島は竹島の二の舞になるだろう。北方領土や竹島についで、尖閣諸島までもツケを子孫に回すべきではない。
 外務省は猛省せよ。


■日本の絶望的なまでの宣伝下手

 上は、今から約10年前、産経新聞平成9年5月11日に掲載されたオロモルフの投書(数値を少し修正)ですが、言いたいのは、日本人の宣伝下手(べた)です。
 国際司法への付託は、日韓条約発効の少し前の1954年と1962年の二回にわたって日本が主張したそうですが、いずれも韓国の猛反対に押し切られて後退してしまいました。
 しかし、韓国は法的な自信が無かったのですから、それは当然予想されていたことでして、問題はその後の宣伝戦に負けたことです。
 負けたというよりも、韓国は必死、日本は何もしなかった――という方が当たっているでしょう。
 国際司法の問題で最も重要なことは、事前事後に、自国の正当性を世界中の政府や国民に訴えることです。
 ところが日本は、自国民にすら訴えようとしなかったのです。
 ごく一部の憂国の士が、涙ながらに本を書いたりしてきただけでした。
 学生が勉強する地図にも、竹島の位置がわかるような図はありません。
 これでは、勝てる筈がありません。

■戦前からの宣伝下手

 日本の宣伝下手は、戦前からです。
 とくにアメリカ人を味方につけるための宣伝戦争では、当時のシナ政府に完敗しています。
 日本が宣伝戦で何とか成果を挙げたのは、明治戦争の前後だけだろうと思います。
 

ありがとうございます  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月26日(水)13時09分15秒
  黄東洋さま
いつも音韻についての詳細な書込をありがとうございます。
わたしは、たとえば「お」と「を」と「ほ」の区別などは、まったくつきませんので、いつも一緒にして考えているのですが、世の中には、「いえお」と「ゐゑを」を区別できる人がいるらしい。
驚異です!
古い時代には本当に区別できていたんでしょうか?
 

和語の兄・姉・弟・妹・男・女・乙女・息子・息女の語源  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 4月26日(水)01時03分17秒
  あに
あね
おとうと<おとひと
いもうと<いもひと
おとこ<をとこ
おんな<をんな<をみな
おつ(復つ)<をつ
おとめ<をとめ

Click すると、Yahoo!辞書・国語辞典の頁が出ます。

「おとこ」は旧假名(かな)で「をとこ」なので古音は wotoko.
「おんな」は旧假名で「をんな」、「をみな」の轉音なので古音は womina.
「をと」woto は「復【を】つ」wotu>otsu と同系。
「おとうと」は「おとひと」の轉音なので古音は otoΦito,これが otowito>otouto>oto:to という変遷を辿【たど】ったのでしょう。
同樣に「いもうと」<「いもひと」も imoΦito>imowito>imouto>imo:to.

むすこ
むすめ

Click すると、Yahoo!辞書・国語辞典の頁が出ます。

「をとこ」wotoko と「をとめ」wotome,「むすこ」musuko と「むすめ」musume は、ko(子)と me(女)という和語の対応でしょう。

そうなると、「むすこ」を「息子」と書くなら、「むすめ」は「娘」でなく「息女」と書く方がよさそうですね。
シナ語では「娘」niang は母親の意味ですし。
「姑娘」guniang が少女の意味なのも不思議です。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

■岩波新書 2006-04-24  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月26日(水)00時29分32秒
  新書の元祖でありながら、昨今の新書ブームに乗り遅れていた岩波新書がリニューアルした。しかし、そのラインナップをみればわかるように、発想は古色蒼然。昔ながらの教養主義とマルクス主義と東大法学部である。中途半端(はんぱ)に変更した表紙のデザインに、それがよく現れている。

中でもひどいのは、トップバッター(No.1001)の柄谷行人『世界共和国へ』だ。全世界の歴史を新書版200ページで語る荒っぽさもさることながら、枠組がいまだにマルクスだ。最後は予想どおりネグリ=ハートが出てきて、カントの『永遠平和のために』で終わる。え?と思うと、あとがきで「これはいま書いている『トランスクリティーク』の続編のダイジェスト版なので、くわしいことはそれを読んでくれ」。

読者をバカにするのにも、ほどがある。そもそも、今どき柄谷行人なんてありがたがっているのは、岩波の編集者ぐらいのものだ。『国家の品格』が、通俗的ナショナリズムをそれなりに新しい装いで世の中にアピールしているのに、左翼は中身も装いも十年一日だ。新書の元祖が新書ブームの中で消えて行くのも、時代の流れだろう。

>「変わりますが変わりません」と、自ら申しております。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c81a9c5034309a72f3358dd57afa58e7
(池田信夫 blog からコピペ)
 

北朝鮮工作母船今年初入港  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月25日(火)16時08分26秒
  ■万景峰、今年初の新潟入港 拉致被害者家族抗議

 北朝鮮の貨客船「万景峰(マンギョンボン)92」が25日朝、今年初めて新潟港に入った。昨年10月以来、半年ぶりの入港。岸壁では拉致被害者増元るみ子さん=失跡当時(24)=の姉の平野フミ子さん(56)や「救う会新潟」のメンバーら約120人が横断幕を掲げ「拉致被害者を返せ」と船に向かって拳を振り上げた。
 平野さんはるみ子さんの写真を胸に抱き「小泉首相の最後の仕事として、万景峰を止めてもらいたい」と訴えた。西村真悟衆院議員は「万景峰を止めることが真の日朝友好の道を開く」と力を込めた。
(共同通信) - 4月25日10時43分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060425-00000049-kyodo-soci

サムライ・ニシムラ。(しかし、その叫び声も、何かしら虚(むな)しい。)
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060425

■万景峰号、半年ぶり入港=家族会などが抗議行動−新潟

 北朝鮮の貨客船「万景峰92」号が25日朝、新潟港に入港した。昨年10月以来、半年ぶりの入港。埠頭(ふとう)では北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)や救う会のメンバーが抗議行動を行った。
 万景峰号は午前9時前、旅客25人と雑貨約50トンを載せ、中央埠頭に接岸。乗客の下船後、国土交通省の外国船舶監督官が船内に立ち入り、昨年9月以来となる船舶安全性検査(PSC)を実施した。
(時事通信) - 4月25日12時0分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060425-00000021-jij-soci

◇北朝鮮日本人拉致事件
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/north_korea_kidnap/
http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%CB%FC%B7%CA%CA%F6&st=n

『ところで日記を読み返すとちょうどこの時の『ムーブ!』ではもともと竹島近海での韓国漁船の横暴を巡る地元漁民や片山鳥取県知事へのインタビューが流れる予定だったようだ。』
『ワシントンで拉致被害者の方々が金豚の非道を訴えるまさにその時によりによって餌をくれてやる国家とつきあう必要があるのか。』
http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20060425
>国際司法裁判所

■川口外務大臣談話 国際司法裁判所裁判官選挙における小和田恆氏の当選について(平成14年10月22日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/14/dkw_1022.html
■「国際司法裁人事の背景」、『軍縮問題資料』2003年1月号
http://www.geocities.jp/kawabe_ichiro/column/200301.html
■ユニタール・ラウンドテーブル (日時:10月27日2004)
 “現代世界における国際司法裁判所の役割と責任” 小和田 恆 国際司法裁判所判事
http://www.unitar.org/hiroshima/roundtables/owada_jp.html
■朝鮮半島にあまりにも近すぎませんか、ピースボートさま 2005/7/6(水)
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1108334
■December 24, 2005 日本原水協が新たな反米・反核を開始 賛同者に井上ひさしさん、井筒和幸さん
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50287934.html

国連は、もはやアカの巣になってる? 日本「国家」を“薄める”方向にしか機能しない可能性が大である。

2006年02月20日
旧宮家復籍の手がかりとして-フラッシュ作成の件
http://tech.sub.jp/2006/02/post_393.html
第千百三十二夜【1132】2006年4月13日 里中満智子『女帝の手記』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1132.html
>さあ、それにしても、である。平成の日本は女帝問題をあまりに安易に考えているのではあるまいか。誰が仲麻呂か、どこに道鏡がいるのかは知らないが、この時期はしばらく深々と天皇の歴史を覗きこんだほうがいい。

平成の“アカ”い不比等にでもなろうとしてるようにしか見えん。
しかも、やがては皇統を無力化し、この国を共和制にするために。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1383032
>『日本書紀(やまとのふみ)』の藤原不比等に匹敵する超人あるいはフィクサーということになる。
http://dosukoi.s142.xrea.com/2chlog//384.html
7-8。
 

弟と妹の語源  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月25日(火)13時48分56秒
   何日か前、兄姉弟妹の大和ことばの語源について検討しまして、上代では――
▽男女にかかわらず年齢の上下を示す「え・おと」
▽年齢の上下にかかわらず男女を示す「せ・いも」
 ――が使われていたが、この二種は交差していないことを記しました。

 その後、
「男で年上」=「あに」
「女で年上」=「あね」
「男で年下」=「おとうと」
「女で年下」=「いもうと」
 という交差した表現ができ、その最初が「あね」らしいと記しました。
(国語辞書を見ますと、「あに」が先でそれから「あね」ができたという説がむしろ一般的なようですが、先に文献をご紹介した犬飼隆博士はそれを否定しています。仮名書きの「あに」が平安期になるまで見つからないというのです)

 以下は素人の雑談にすぎませんが、「おとうと」と「いもうと」の出現について調べてみます。
 といいましても、いろんな説から私が納得しやすいものを選んでいるにすぎません)

「おとうと」の「おと」は「若い」という意味だそうです。
 前記の年齢の上下を表現する「え・おと」の「おと」ですね。
 現在まで残っていてよく使われる「おと」に、「おとる(劣る)」がありますが、昔は悪い意味ばかりに使われていたのではありません。

 前に『卑彌呼と日本書紀』で「ひこ(彦)」の「こ」が男、「ひめ(姫)」の「め」が女を示すことを記しましたが、これらと「おと」を組み合わせますと、
「おと」+「こ」=「若い」+「男性」=「おとこ(男)」
 および
「おと」+「め」=「若い」+「女性」=「おとめ(乙女)」
 ――が出来ます。

 で、このような「おと」の存在から、「おとうと(弟)」の「おと」がこれであろうことは、容易に推察できます。
 後半の「うと」は「ひと」のなまりだと言われます。
 したがって、
「おとうと」=「おと」+「うと」=「おと」+「ひと」=「若い」+「人」=「若い人」
 ――となります。
 つまり「おとうと」とは、男女にかかわらず適用される「年下の人」ということになり、これを兄姉弟妹に適用すると、「弟または妹」になります。

 では、「いもうと」はどうでしょうか?
「いも」が女性であることは何回も記しました。「せ・いも」の「いも」です。
 そこで、
「いもうと」=「いも」+「うと」=「いも」+「ひと」=「女」+「人」=「女の人」
 ――となります。
 つまり「いもうと」とは、年齢の上下にかかわらず適用される「女の人」ということになり、これを兄姉弟妹に適用すると、「姉または妹」になります。

 つまり、「おとうと(弟)」と「いもうと(妹)」はバランスしない語源を持っているわけです。
 語源的には、
「おとうと」=「若い人」=「弟か妹」
「いもうと」=「女の人」=「姉か妹」
 ――なのです。

 たしかに、最初のうちは「おとうと」が男女にかかわらず用いられていた事は古文を読んでみると分かりそうです。
 それが兄姉弟妹の表現に用いられて「年下の男」=「弟」を意味するようになったので、それに対して「いもうと」を「年下の女」=「妹」に使うようになったのでしょう。

 言葉は生きもので、時間とともに変化しますから、きっちりとした対応はあまり見られません。

 ところで、日本語の語源を調べておりますと、「男女を区別しない表現」が多いこと、および仏教が普及した時代以後に区別する表現が出来てきたことに気づきます。
 これは神道の特色(他の宗教と比較した特色)ともつながると思いますが、大和ことばには男女の区別が少ないらしいです。「せ・いも」という区別も、もともとは恋人を呼ぶときの言葉(せのきみ・・・)だったそうです。
 女性が男性と同じくらいに自由であることは、江戸時代に訪日した欧米人が驚いて記録している(近隣国と比較した)日本民族の特色です。
(終わりの数行は、かなりいいかげんな推量です)
(私が書いていることは素人の雑談ですから、あまり信用しないでください)
 

『卑弥呼と日本書紀122』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月25日(火)13時09分36秒
  [承前]

 七世紀前半の『隋書倭国伝』には、
「邪摩堆に都する、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬臺」
 ――とあるので、「邪馬台」は昔のシナでは「ヤマト」にとても近い発音だったとの印象をうける。
(五世紀半ばの『後漢書倭伝』の《邪馬台国》の註釈(たぶん唐の時代の註)にも、「今考えるに、邪摩堆の音がなまったのだろう」――とある)

*****

 以上を総括してみよう。
 甲類・乙類という古代の発音の違いは別問題として、「ヤマト」の語源としては「山のあるところ」あるいは「山への入口である門や戸」という意味からきたという説が有力で、漢字で書けば「山門」あるいは「山処」などが語源であろう――という説が一般的である。
 だから「ヤマト」は最初は山に近い場所、つまり神聖な山の麓の呼称であって、日本全体の名ではなかった。
 日本のあちこちに「ヤマト」という地名があり、また氏族名があり、そういう氏族の代表が大和朝廷の先祖であった。
 そして、奈良県の《大和》に本拠をおく大和朝廷が日本の各地を支配下に置くようになったために、シナ式表記の「倭」のかわりに美しく「大和」と書いて「ヤマト」と<当て読み>する単語が、日本列島全体の代名詞になっていったのである。

「和」は「倭」の代わりなので、「和」のみで「ヤマト」と読むのが本来である。
 したがって、大和を「オオヤマト」と読むことも多い。
 戦艦大和に祀(まつ)られていたことで知られる奈良の《大和神社》がその例である。

《邪馬台国》との関係については、「邪馬台」も「大和」も乙類で古代の発音は同じと想像されるので、《邪馬台国》が大和朝廷かその先祖の地《大和》であった可能性はきわめて高い。
 しかし、それだけで奈良県の《大和》が《邪馬台国》であると決めつけることはできない。
 九州の《山門》の音韻が変化して《邪馬台国》になった可能性も否定できないからだし、シナ史書『魏志倭人伝』の正確さにも大きな疑問があるからである。

*****

 もともと、録音が残されていない時代の音韻の研究は至難である。
 無数の文献が残っている江戸時代の話し言葉でさえ、その復元は困難だと言われている。
(前にテレビで試行していたが、何を話しているのかまったく聞き取れなかった)
 まして、文献すら無い時代の音韻研究には大きな壁があり、深入りは避けるべきであろう。

[次ぎは「第五・三節 《大和》の地理の概略」]
 

勝手ながら・・・・・  投稿者:南海太郎  投稿日: 4月24日(月)22時27分13秒
  竹下様、

勝手ながらリンクを貼らさせて頂きましたのでご報告致します。
今後とも宜しくお願い致します。

http://ameblo.jp/youkoku-seiron-kokubou/

そして今回の竹島についての政府の弱腰、残念でなりません。
これでは東シナ海のガス油田及び尖閣諸島が支那にもっていかれるのではないかと心配しております。
 

『卑弥呼と日本書紀121』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月24日(月)11時50分28秒
  [承前]

 つぎに、この甲類・乙類の区別を、「山門(やまと)」と「大和(やまと)」にあてはめてみると、

「山門」の「ト」は甲類
「大和」の「ト」は乙類

 ――となるので、この二つの地名(氏族名)は古代の発音が異なっていたことがわかる。
 そしてこれが、「大和」の語源は「山門」ではないし、また九州の「山門」は大和朝廷の出発点ではない――との説に結びつくのである。
 しかし、音韻がしだいに変化する例はたくさんあるので、これは一つの意見にすぎず、「大和」と「山門」は同源であるとする著名な学者も多い。
 もうひとつ、「山門」に近い言葉に「山処(やまと)」がある。文字どおり山のある処(ところ)という意味だが、こちらのほうは「大和」と同じ乙類であり、したがって「山処」が「大和」の語源だという説もある。

(前記の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』で北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)は「山迹(やまと)」説をとり、異説として「山止(やまと)」説を紹介している。前者は山を歩いた足跡、後者は山への居住という意味だが、これに賛成する学者は少ないようなので、ここでは参考にとどめる)

 さて次に、この甲類・乙類の区別を、《邪馬台国》がどこにあったかの問題にむすびつけてみよう。
《邪馬台国》の台を検討すると、

「邪馬台」の「ト」は乙類

 で、「大和」の発音に近いらしい。
 したがって、甲類乙類を峻別する意見では、
「《邪馬台国》大和説」
 ――となるし、また音韻変化を認める意見では、「山門」なる地名が九州にあるので、
「《邪馬台国》九州説」
 ――を否定すべきではない、となる。

 これは難しい問題である。
 邪馬台の台の読み「ト」を研究した浜田敦は「魏志倭人伝などに所見の国語語彙に関する二三の問題(昭和二十七年)」において、これは乙類であり「大和」の事と主張している。
 だが田中卓博士は、「邪馬台国の所在と上代特殊仮名遣(かなづかい)(昭和三十年)」において、シナ人が甲類乙類を正確に聞き分けたかどうかは疑問であることや、「ト」の音は『記紀』編纂の時代までに相当乱れていたらしいと述べて、峻別する意見に異議を唱えておられる(ちなみに田中卓博士はウル邪馬台国九州説である)。
 おそらく、《邪馬台国》の所在を音韻によって推理する事には限界があり、やはり考古学や他の文献の援用が不可欠であろう。

 ちなみに、『古事記(ふることのふみ)』に記された仮名書きの「ヤマト」は「夜麻登」で統一されているが、『日本書紀(やまとのふみ)』のそれは十通りもあり、そのなかには、「耶馬騰」という、「邪馬台」にとても似た音写文字もある。
『万葉集(まんにょうしゅう)』においては、万葉仮名の「夜麻登」などを除くと「山跡(やまと)」という表現が多いようである。

[つづく]
 

古代日本語の甲類【かふるい】と乙類【おつるい】  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 4月23日(日)17時22分25秒
  >「神」のミは微・未・尾と書かれているし、「上」のミは美

藤堂明保【とうどうあきやす】氏の『学研大漢和字典』で甲類と乙類の古代シナ語音を檢證してみると、餘り違いはありません。
ə は曖昧母音で、e の180度廻轉した記號。

「み」甲類
美;mιuər(周秦漢)>m(b)ιui(隋唐)>muəi(宋元明)>məi(mĕi)(清以降)  (藤堂漢和)1028頁
彌;miĕr>m(b)iĕ>mi>mi(mí) 433頁
民【みん】;miən>m(b)iĕn>miən>miən(mín) 701頁
諸早Gmιuər>m(b)ιui>muəi>məi(méi) 759頁
(→眉;mιuər>m(b)ιui>muəi>məi(méi) 893頁)
弭;miĕr>m(b)iĕ>mi>mi(mĭ) 434頁
寐;miuəd>m(b)iui>məi>mei(mèi) 365頁
瀰;mier>m(b)iĕ>mi>mi(mí) 781頁

三(和語「みつ」mitu>mitsu)
見(和語「みる」)
御(和語「み」)
水(和語「みづ」midu>midzu>「みず」mizu)
參(和語「まゐる」mawiru>「まいる」mairu)
視(和語「みる」)

乙類
微;mιuər>m(b)ιuəi>wəi>uəi(wēi) 449頁
(→薇;mιuər>m(b)ιuəi>wəi>uəi(wēi) 1136頁)
未;mιuəd>m(b)ιuəi>wəi>uəi(wèi) 624頁
(→味;mιuəd>m(b)ιuəi>wəi>uəi(wèi) 226頁)
(→妹;muəd>m(b)uəi>məi>məi(mèi) 327頁)
尾;mιuər>m(b)ιuəi>wəi>uəi(wĕi),i(yĭ) 382頁

所謂「甲類・乙類」の違いは、音素でなくて異音だったという説もあるようです。
「ゐゑを」については、ワ行ですから、「わ」wa と同樣、w で始まっていた音です。
「ゐゑを」は「爲wei 惠 hui 遠 yuan」の草書らしく、「いえお」は「以 yi 衣 yi 於 wu」の草書でしょう。
「ゐ」の音讀みは圓唇から平唇に移る wi,「ゑ」は we,「を」は wo でした。
「い」i,「え」e,「お」o との違いは最初に w があるかどうかでしょう。

假名の元になった漢字の現代北京音と比較してみます。

あ a ← 安 ān

わ wa ←和 huó, huò, hú, hé, hè (朝鮮語で hoa [hwa])

い i=yi ←以 yĭ (朝鮮語 'eui [щi],平唇で ui)

ゐ wi ←爲 wéi , wèi (朝鮮語で 'ui [wi],u [w]が圓唇で i が後半平唇)

う wu=u ←宇 yŭ (朝鮮語で 'u [u],「大宇」tai-'u [tεu]>Daewoo)

え e ←衣 yi (<隋唐 ・ιəi,現代朝鮮語 'eui [щi])

ゑ we ←惠 hui [huəi](日本語呉音「ゑ」we,漢音「くゑい」kwei)

お o ←於 (1) wū, (2) yū, yú (<隋唐代 (1) ・o,(2) ・ιo,現代朝鮮語 ’eo [Λ])

を wo ←遠 yuăn (<隋唐代 h^ιuΛn,現代朝鮮語で 'ueon [wΛn])

「圓【ゑん】」も朝鮮語では「遠」と同音で、慣用綴り won.

「温泉【をんせん】」は安土桃山時代の『日葡辞書』で Vonxen とあり、これは當時の日本語で[wen∫en]のような發音だったものでしょう。
今の北京語で「温泉」は wenquan,「温家寶」は Wen Jiabao ですから、北京語の wen (温)が日本語音「をん」won と同系なのは確かです。

日本語の「遺憾【ゐかん<ゐかむ】」と「遺言【ゆいごん】」を比較すると「遺」の音讀み「ゐ」wi と「ゆい」yui は、「うい」 ui と「いうい」 iui のように唇を丸める u を伴った發音だったとわかります。
------------------------------------------------------------
「倭」と「和」の古代音

「英和辭典」はシナでは「英日詞典」Yīng-Hàn Cídiăn.
「中日辭典」はシナでは「漢日詞典」Hàn-Rì Cídiăn になり、「漢和字典」との區別は
「日」と「和」、「詞」と「字」だけです。

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古代シナ語で「倭」は周秦漢代に ・uar,隋唐代は ・ua,「和」は周秦漢代に h^uar,隋唐代は h^ua だったようです。
(h^ は有聲音の h)

「倭」・uar と「和」h^uar に共通する音符(聲符)は「禾」h^uar.
「禾」
「粟の穗のしなやかに伸びた樣子、角が立たない」
呉音「ワ」wa,「クワ」kwa
h^uar (周秦漢)>h^ua (隋唐)>ho>hə (hé)
朝鮮語 hoa [hwa]

同系

「和」
「しなやかに垂れた低い粟(禾) 、角が立たない」+「口」→「やわらぎ」
呉音「ワ」wa,漢音「クワ」kwa,唐音「ヲ」wo
h^ar (周秦漢)>h^ua (隋唐)>ho>hə (hé,hè)
h^ar (周秦漢)>h^ua (隋唐)>ho>huə (huó,huò),hu (hú)
朝鮮語 hoa [hwa]
例;
「和尚」は周秦漢語で h^uar-dhiaŋ,隋唐語で h^ua-zjiaŋ,宋元明代は ho-∫ιaŋ,清朝以降は héshàng.
「和尚」と「和上」は日本語の呉音で「わじやう」wa-zjau.
「和尚」は朝鮮語で hoa-sang [hwasaŋ],
日本語の「をしやう」[wo∫(j)au]>「おしょう」[o∫o:]は唐音+漢音。

「委」
「曲がって垂れた稻(禾)」+「女」→「女性のなよなよした姿」→「しなやかに、力なく垂れる」→「身を委ねる、任せる、頼る」
呉音・漢音「ヰ」wi
・ιuar>・ιuĕ>uəi>uəi (wĕi, wēi)
朝鮮語 ’ui [wi]
例;「委員會」は日本語で「ゐゐんくわい」[wiwinkwai]>「いいんかい」[i:ŋkai],
北京語で wĕiyuánhuì,朝鮮語で ’ui-’ueon-hoi [wiwΛn(h)we].

「矮」
「短い矢(矢)」+「ぐんなりと曲がる(委)」→「曲がって低い物」、「丈の低い樣」
呉音「エ」e,漢音「アイ」ai,慣用音「ワイ」wai
・uăr>…>・ăi>iai…ai (ăi)

同系

「倭」
「女性のなよなよした姿(委)」+「人」→「しなやかで丈が低く背の曲がった小人」
(1)呉音・漢音「ワ」wa
・uar>・ua>uo>uə (wō)   朝鮮語 ’oai [wε]
(2)呉音・漢音「ヰ」wi
・ιuar>・ιuĕ>uəi>uəi (wēi)→「委」と同音で、今のシナ語では使われないらしい。

http://glin.jp/arc/arc.cgi?N=294
http://www.hosp.go.jp/~aono/newpage90.html
奈良時代に日本國内の舊國名を全て漢字二文字にする命令が出され、「泉【いづみ】」も「和泉」に、「紀【き】」も「紀伊【きい】」、「紀伊國【きのくに】」になったようです。「紀伊國屋」は「の」に對應する漢字がありません。「紀之國屋」、「紀乃國屋」とでも書くべき物。
奈良の「倭【やまと】」も「和」にした上で二文字にされ、「大和」になったのでしょう。

「和」はシナ語 huo>朝鮮語 hwa >日本語 wa, wo という形で傳來したのでしょう。
今のシナ語では「和服」を héfú と言いますが、「和」hé は「倭」wō の代わりなので huófú の方が日本語音 wafuku に近いと言えます

「惠」は日本語音で「ゑ」we,「くゑい」kwei,シナ語で hwei の樣な發音ですが、朝鮮語では hye [he]になっており、古代シナ語は *hiei のような發音だったのでしょう。
例;「朴槿惠」pak keun-hye [pakkщne]>Park Keun-Hye

「恵比寿ビール(惠比壽麥酒)」は YEBISU BEER と書かれますが、「ゑ」we と ye を混同するのは中世からあったようです。
「上野【うへの】」を Uyeno と書く例がありますが、uΦeno>uweno という變遷ですから Uweno のはずです。
「上野【うはの】」は uΦano から uwano になっています。

「維【ゐ】」wi と「唯【ゆい】」yui の場合、北京語で wei ですが、朝鮮語で ’yu であり、古代シナ語では、三重母音 iui の近い音だった可能性があります。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

続 原爆をネタに笑う韓国人達  投稿者:通りすがり  投稿日: 4月23日(日)13時11分58秒
  ■専守防衛http://www3.to/kokubou  より抜粋
**************************************************************************
大使激怒 日本大使の前で、ヒロシマ原爆をネタに下品に笑う韓国人

18日ソウルKOEXインターコンチネンタルホテル・ジュピターホール。数十種類のお酒と杯が置かれた壇の前で異色の講演が進行していた。主題は「世界の酒文化と韓国の爆弾酒」。講師になった沈載赫(シム・ジェヒョク)インターコンチネンタルホテル社長が「爆弾酒礼賛論」をくり広げている。

「私は爆弾酒(ポクタンジュ)飲む時、たった二つの原則を守ります。第一、絶対高級ウイスキーを使わないこと。家門の名誉をかけて作って来た高級酒をビールにぼちゃんと落として飲むということは冒涜ではないですか?第二、いやな人に無理やりに勧めないこと。その二つさえ守れば爆弾酒はとても楽しいです。」

シム社長の雄弁で爆弾酒の由来、種類、アルコール度数など「爆弾酒に関するすべて」が一つずつ解剖された。「ビールジョッキにビールを入れてウィスキーグラスをぼちゃんと落とせば原子爆弾酒。泡の飛ぶ模様がまるで広島に原子爆弾を投下した時のきのこ雲みたいだと言って付けられた名前で…。」 反対にビールジョッキにウイスキーを注いでビールをショットグラスに入れて交ぜれば水素爆弾酒。ビールジョッキにウイスキーを入れてそこにウイスキーを注げば中性子爆弾酒と言っている。「これは100% ウイスキーなので、酒仙級だけが挑戦することができます。」

「ワォ!私もたまに爆弾酒を飲むが、種類がこんなに多いとは知らなかったです。」DHLコリアのアラン・カーセルス代表取締役は「二杯や三杯までは私も軽く飲める」と笑った。
ビクトール・ウェイベルギー大使、大島正太郎日本大使など参席者の半分を占めた外国人は一様に「不思議でおもしろい」と言う反応だった。(中略)

この日の行事は韓国イメージコミュニケーション研究院(CICI)が「韓国を正しく理解して世界と通じよう」という主旨で用意したもの。行事を主催したチェ・ジョンファ韓国外大教授は「爆弾酒文化が分かると韓国の酒文化を理解することができないかと思って異色フォーラムを準備した」と言った。
**************************************************************************

動画。消えないうちにお早めにどうぞ。
http://www.774.cc:8000/upload-mini/src/up3404.wmv

なんつーか、観ててアホ。
原爆の話になったあたりで、もう外国人みんな呆然としてるもの。
笑えない、洒落(しゃれ)になってない。

この後、日本大使は訪問を中止したそうな。     以上
 

「日露戦争当時の竹島資料」  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月23日(日)13時08分24秒
   一部の掲示板で提示しました資料に、さらに追加して纏(まと)めまして、小生の保存頁に保存いたしました。
 ご興味あれば、どうかご利用ください。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tksm_nr.htm
 

『卑弥呼と日本書紀120』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月23日(日)13時02分39秒
  [承前]

◆◆◆ 甲類・乙類の諸問題 ◆◆◆

 そこで、名著として知られる渡部昇一『国語のイデオロギー』をもとにして、「神」と「上」を事例にとって説明してみよう。
 古代における「神」と「上」の発音の違いは、甲類・乙類という言葉で表されている。
 奈良時代までの母音は、現代のアイウエオの五音ではなく八音であり、いまのイエオに似ているが少しちがう〈イ〉〈エ〉〈オ〉が加わっていた。
 いまに残るカナで記せば、ヰヱヲ(ゐゑを)である。
 これは『記紀』や『万葉集(まんにょうしゅう)』などの表示から推察されるもので、これを乙類とし、現代のイエオに準ずる発音を甲類とするのである。

〈イ〉〈エ〉〈オ〉は、アルファベット的には、ドイツ語などにでてくるウムラウト(変母音)に類似したもののようである。
 この変母音に子音がつくため、
 キギヒビミ ケゲヘベメ コゴソゾト ドノヨロモ
 ――という二十(『古事記』では二十一という話もある)の音節が、甲類・乙類にわけられている。
 問題の「神」は調べてみると乙類であり、また「上」は甲類であることがわかる。
 この二つの単語では「ミ」の音が微妙に違い、「神」のミは微・未・尾と書かれているし、「上」のミは美と書かれている。
 そこで、この二つの言葉は別源であって無関係だとの意見がでてくるのだ。

 しかし、言葉が指し示す対象を次第に変化させてゆく過程でその発音も変わってゆくのは、ヨーロッパの言語でもいろいろと例があるとされる。
 また古代の日本語でも、「日」(甲類)と「火」(乙類)が同源である根拠が古代文献にあるとされている。
 したがって「神」と「上」は、発音は違っていても、同源である可能性がある。
「神」と「上」については、現在でもいろいろな研究がなされているが、最新の学説でも同源とされているらしい。
(この掲示板で『靖国神社一問一答』を連載した時に最新の説を記しておいた)

[つづく]
 

(無題)  投稿者:日本人としての誇りを取り戻した  投稿日: 4月23日(日)01時28分48秒
  ここ数年の反日報道か、自分の意識が変ったのか、良くわかってないのですが、近隣諸国からの酷(ひど)い悪意が気になり、最近ネットで関連情報を見て回ってます。

以前は右系の情報ばかりだろうと思い込み、敬遠していましたが、色々見て回ると苦労と時間を惜しまず、史実をきちんと検証しようとしているサイトが幾つもあることが分かり、心強く思っています。
その反面、日本を卑下(ひげ)する教育の弊害と思われることも色々あって悲しくなります。

学校給食で「いただきます」を言わせない親や、自国の国旗を嫌悪(けんお)し、祖先を否定するなど、おかしくなりつつある日本を今からでも変えてゆかないと、未来が無い気がします。
手遅れにならないうちに何とかしたい・・・
 

>原爆をネタに笑う韓国人達  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 4月22日(土)23時44分54秒
  朝鮮人も被爆したんですけどね。
韓國人の被爆者が祖国で冷たく扱われているらしい。朝鮮人は結局、同胞にも冷たい。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

耐震偽造事件  投稿者:yf  投稿日: 4月22日(土)18時44分23秒
  ロスアンゼルス地震の被害を調査した日本の専門家たちは 耐震基準の厳しい日本では
ありえない被害と胸をはった もろくも崩れたのが阪神大地震であった、、、
あれから10年 国民の疑心暗鬼を引き起こして 守銭奴と化した人非人共の裁きが始まる
詐欺で立件したいようだが 果たしてそうだろうか 地下鉄サリン事件に匹敵する邪悪さを
感じる 此奴等(こやつら)には大量殺人未遂罪を適用してもらいたい、、、
 

原爆をネタに笑う韓国人達  投稿者:通りすがり  投稿日: 4月22日(土)16時49分57秒
  日本大使館を招いた席上で原爆をネタに笑う韓国人達(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=gX-JbBYkiZ8

韓国が外国貴賓を招いた会での事。
ビールの泡を見ながら『泡が原爆の煙のようだ。広島原子爆弾酒だ』と発言。
それを受けて盛り上がる韓国人達。
わざわざ別カメラを用意し日本大使の表情を撮影。
一人、険(けわ)しい顔で屈辱に耐える駐韓大島日本大使。
コピペ
 

『卑弥呼と日本書紀119』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月22日(土)12時18分2秒
  [承前]

 神武東征説では、この地点が大和(やまと)朝廷の先祖に関係するとする考え方があるし、「《邪馬台国》九州説」では、この二箇所のどちらかが《邪馬台国》だったとする意見が昔からある。
 江戸時代の新井白石も福岡県の山門(やまと)説を唱えていた。
 地名は変化するので、九州の一部に「山門」なる地名が現存しているということは、昔は他の地域にも同様な地名があった確率が高いということであり、高千穂のあたりや現在の日向(ひゅうが/ひむか)のあたりにも「山門」があった可能性がある。
 また奈良県の《大和》も、本来は「山門」または「山処」といった漢字を当てはめるべき意味の「ヤマト」という地名だったのだろう――という説が多くの学者によって唱えられている。

 というわけで、「大和(やまと)」とは本来の漢字の意味からすれば「山門(やまと)」と書くべき言葉で、山の門つまり山への入口といった意味を持っており、これが、畏敬(いけい)すべき山地の近くに住んでいた大和朝廷の先祖がその土地につけた名であり同時に氏族名でもあり、それをあらわす漢字として「倭」を改善した「大和」を採用することにしたので、「大和」と書いて「ヤマト」と読む一見奇妙な読みができたのであろう――ということになる。
 これはなっとくしやすい推量であり、肯定する学者も多いらしい。

 ただしちょっと問題もある。
 それは、万葉仮名(まんにょうがな)の研究などによって、古代の日本語には同じ「ト」にも二種類あることがわかっており、その違いを検討すると、「大和」の「ト」と「山門」の「ト」は発音が異なっているので、語源が「山門」という説は成立しない――との意見があることである。

 この発音の問題を《邪馬台》にあてはめると、それは「大和」には似ているが「山門」とは違うとされ、「《邪馬台国》九州説」への反論にもなっている。
 古代の音韻の問題については、第二章で「神」と「上」は同源であろうと記したときに、古代の発音が違うので別源だという説もあることを記した。
 こういった古代の発音の複雑さに起因する議論は、《邪馬台国》論争においてよく出てくるので、認識しておく必要がある。

[つづく]
 

投稿  温泉宿屋の酒盛り  投稿者:三保 平清  投稿日: 4月21日(金)12時51分39秒
  竹島に 小泉なんぞ ありはせぬ  横目に眺めて 只冷静に

もう履けぬ 鼻緒の切れた ゴム草履   前にもあった タイヤと圧力

若さ消え 名前を変えよ 瀕死党   小沢の泥水 飲めるもんかよ
(春の小沢はざらざら行くよ 岸のスミレやレンゲの花は 迷惑してるらしい)

この菓子は やっぱりそうか 食えやせぬ  噛めば音する ダイサクダイサク
 

竹島史料提供  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月21日(金)11時31分46秒
   竹島問題のテレビ報道を見ていると、どこの国のテレビかと、がっかりします。

 日露戦争当時に日本が竹島を百パーセント自国領土として活用していた事を示す図面を提供いたします。これに対して朝鮮政府は何の抗議もしていません。
(日本海海戦のころの日本海軍の図面で、防衛庁図書館で探しました)

「1 竹島を望楼として利用していた事を示す図面」
 円弧の範囲が、視界のきく範囲です。
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tksm1.htm

「2 竹島が隠岐を経由して海底ケーブルで大阪まで連絡していた事を示す図面」
 韓国領のウツリョウ島との間は予定となっていますが、竹島は日本領として大阪まで連絡していました。
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tksm2.htm

 以上のほかにも、当時の海軍は竹島の水質検査や島の詳細な形状調査やそこで働いている日本人からの聞き取り調査(日本海海戦の時代にすでに日本人が竹島に住んでいました!)など、多くの資料を残してくれています。
 これらは10年も前に各所に提供しましたが、その価値を認めてご返事を下さったのは昭和史研の中村粲先生だけでした。

 ついでながら、下記もどうぞ。

「対馬を狙う韓国の野望」
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tsushima.htm

(とにかく日本の政治家やマスコミの呑気(のんき)さには呆(あき)れます)
 

『卑弥呼と日本書紀118』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月21日(金)11時29分23秒
  [承前]

◆◆◆ なぜ「ヤマト」と読むのか? ◆◆◆

 ここまではなるほど――と思われるのだが、つぎに疑問がうかぶのは、「ヤマト」という読みである。
『記紀』を読むと、「大和」だけではなく「倭」も「ヤマト」と読むことが多かったらしいとわかる。
 のちのは「日本」も「ヤマト」と読んでいる。
 そしてその「ヤマト」という読みは、《邪馬台》の読みとじつによく似ている。
《邪馬台》を「ヤマタイ」と読んでも「ヤマド」と読んでも「ヤマト」によく似ているし、ズバリ「ヤマト」と読むのだと唱える学者も多い。

 だから、「ヤマト」なる読みの詮索は、日本国の語源論だけではなく《邪馬台国》探しの面でもきわめて重要になってくる。
「大和」を単純に音で読めば「タイ・ワ」だし、訓で読めば「オオ(オホ)・ヤワラグ」などであり、どう工夫しても「ヤマト」なる読みは出てこない。
 したがって「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるのは、完全な当て字(当て読み)である。
 では、どこからその当て読みが出てきたのだろうか?

 もっともなっとくしやすい意見は、日本列島の盟主になった大和朝廷の先祖が住みついていた土地の名前が、漢字を知らなかったころからの純日本語で「ヤマト」と呼ばれていたからだろう――というものである。
 またそれを自分たち一族の名前にもしていたのであろう――というものである。
 そこで、大和朝廷の先祖がいた土地に、「ヤマト」なる地名が残っているかどうかを調べる段取りになるが、それには、その土地がどこだったかを求めなければならない。

《邪馬台国》に「九州説」と「大和説」があるように、大和朝廷の先祖の土地についても、最初から現在の奈良県の《大和》だったという説と、『記紀』に記されているように九州だったという説がある。
 奈良県の場合には《大和》そのものなので、問題はその地名の意味やいつごろからそう呼ばれていたか――ということだけであるが、九州については「ヤマト」なる地名をもつ場所を探さなければならない。
 それは、『記紀』にある高千穂の峰の近くや日向(ひゅうが/ひむか)の地には見つからないが、中北部には現存している。
 福岡県の山門(やまと)郡(ここに大和という町もある)とその近くの熊本県の山門(やまと)である。
 第六章でも説明するが、図6・2に位置を示してある。

↓↓↓↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H62-71.htm

[つづく]
 

Re: 上野石之助さん  投稿者:のりとー  投稿日: 4月21日(金)10時04分8秒
  > 二十歳まで日本で暮らしていても日本語を忘れてしまうのでは

それについてですが、とある(おそらく言語学)研究者の話によると、
二十歳まで日本にいて、特に岩手にいて、岩手の言葉を忘れてしまうとは考えがたい。
よほど、日本のことを忘れたい、あるいは思い出したくないというようなことがあったのではなかろうか。
ということでした。

旧ソ連下に居たわけですからね...
 

上野石之助さん  投稿者:はる  投稿日: 4月21日(金)05時03分48秒
  昭和十八年に二十歳で樺太(からふと)へ出兵し、戦後消息不明になっていた旧日本兵の上野石之助さん(83歳)が、ウクライナから故郷の岩手に一時帰国した。
すっかり日本語を忘れてしまったようだが、唯一話した「こんにちは」の一言に、わずかに岩手なまりが聞き取れたような気がした。
帰国できなかったのか、しなかったのか興味はあるが…、岩手は昨日も霰(みぞれ)模様で、一週間の滞在中に、故郷での花見は難しいように思う。
二十歳まで日本で暮らしていても日本語を忘れてしまうのでは、中国残留孤児達なら尚更(なおさら)だろうと思った。
 

『卑弥呼と日本書紀117』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月20日(木)11時58分27秒
  [承前]

[イ]にはもうひとつ、円形を意味する「ワ」から来たのだろうという説がある。
 それは、

「日本の集落や都市は昔から環濠と呼ばれる堀を周囲に円周的にめぐらした中にあった。だからシナ人からお前の国は何と呼ぶのか、と聞かれたとき、円形や環形を意味する日本語の「ワ」を使って「わのなかにある」あるいは「わのなかのくに」または「わのなか」といった答をしただろう。そこでシナ人は日本のことを「ワ」と呼ぶようになり、それを差別的な「倭」という漢字で表した」

 ――というものである。

 おそらくこの後者の[イ]の二つ、またはそれに近いことがあって、かなり昔――たぶん西暦前――の前漢の時代からシナでは日本のことを《倭国》と呼んでいたのだろう。
 そしてそれを知った古代の日本の知識層が、
「なるほど自分たちの国はシナ人によって倭と呼ばれているのか、それなら我々もこの文字を使って「倭」と記すようにしよう」
 ――と考えたのであろう。

 ところで、古い文書を読むと、日本人は自分の国のことを「倭」とも記しているが、それが次第に「大和(やまと)」に変化してきている。
 なぜなのだろうか?

 それは、日本人が次第に漢字の意味を勉強するようになり、「倭」は差別的な意味を持っていることがわかってきたからだろう――といわれている。
 古代の日本人はいろいろ考えた末、シナでの発音が似ていて、かつとても穏やかで良い意味を持つ「和」を採用して「倭」のかわりに使おうではないか――ということになったのであろう。

「和」はやわらぐ、なごむ、友好的、楽しむ・・・といった日本人好みの意味を持つ漢字である。
 この「和」を「ワ」と読むのはシナの音であるが、日本古来の発音である「ワ」は、円、環、輪、回・・・といった意味を持ち、落ち着きのある良い語感の言葉である。

 だから、「和」という漢字は、当時の日本人にとって、元々の漢字の意味も、読みから来る日本語としての語感も、ともにとても感じの良いものだったのだ。
 この「和」の前に「大」をつけて「大和」という単語をつくったのは、大和朝廷やその都がとても強く大きくて立派だ――という自負心からだろうが、ひょっとすると『魏志倭人伝』に記されていてる「大倭」にヒントを得たのかもしれない。

[つづく]
 

レスを有難う御座います。  投稿者:  投稿日: 4月19日(水)20時30分41秒
  オロモルフ様、ご丁寧なレスを有難(ありがと)う御座(ござ)います。

>現韓国の歴史教科書では、すべて韓国人がやったように読みとれる記述になっています!

やはり!という感じです・・・・。
オロモルフ様の『卑弥呼と日本書紀』などのご投稿も、いつも興味深く拝読させて頂いております。
これからも宜しくお願い致します。
 

Re:朝鮮半島の電気事情  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月19日(水)17時56分43秒
  電力関係はあまり知らないのですが、ほぼ電信と同様だろうと思います。
厳密に言いますと、「日本がやった」という表現には、
「日本が主体」
「日本の技術がほとんど」
「日本の強い要望による」
「日本側が運営」
「日本の資金による」
・・・など、いろんなケースがありますので、一概には言いにくいです。
たとえば、清国が主体になって京城(ソウル)〜義州(ウィジュ)まで強引に布設してしまったので、日本側も――というケースも、当時の政府は朝鮮政府ですから、日本が条約違反を責めて朝鮮政府にやらせたというもので、形式的な主体はあくまでも朝鮮政府ですし、運営の責任も朝鮮政府です。
だから故障だらけでうまくいかなかったのですが、日本側が技術と運営をほぼ全面的に担(にな)うようになったのは、日露戦争時の施設を民間用に開放した明治38年以後だと思います。
その前は、実質と形式と技術が入り組んでいますので、ややこしいです。
併合後は日本になりましたから、スッキリしていますが・・・。
(現韓国の歴史教科書では、すべて韓国人がやったように読みとれる記述になっています!)
あまり明確でなく恐縮です。
 

『テロ波の歴史捏造まがい』  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月19日(水)15時45分46秒
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『紫禁城の黄昏(たそがれ)』をめぐる、テロ並みの、歴史捏造まがいの所業。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003344812
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E%E3%81%AE%E9%BB%84%E6%98%8F

『紫禁城の黄昏―完訳 (上)』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396650329
◇完全復刻!「紫禁城の黄昏」・・改悪岩波版を越えて。
http://musume80.exblog.jp/1688794
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http://society3.2ch.net/test/read.cgi/mass/1142758027/209-210
 

朝鮮半島の電気事情  投稿者:  投稿日: 4月19日(水)15時29分22秒
  オロモルフ様

あれから朝鮮の電気事情の方にも注視してみたのですが、

・1887年 初めに電気が入ってきた。
・1898年 米国人によって漢城電気会社が設立された。->日韓併合後は日本の資本が投入
・電信の方は日本が最初に提供し、主に日本が敷設を行った。(後に中国も参入)

という認識で宜しいのでしょうか?
もしお時間がお有りでしたらレスを宜しくお願い致します。
 

宮中賢所物語  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月19日(水)12時45分25秒
  ◎高谷朝子(聞き手・明石伸子/書き手・太田さとし)
『宮中賢所(けんしょ)物語』ビジネス社(200601)

はじめに
内掌典
次清のこと
お正月の御用
お正月の御神饌
節分からの御用と候所の行事
六月からの御用
着物のこと
昭和天皇・皇后両陛下の想い出
内掌典の重儀
御大礼
今上陛下・皇后陛下のこと
上がりましてからのこと
戦中戦後のこと
父母のこと
入院のこと
賢所の四季
インタビューを終えて
付録

▲貴重な記録
 内掌典(ないしょうてん)とは、宮中の賢所(かしこどころ)にお仕(つか)えする女官(にょかん;別の言葉でいえば特別な巫女 みこ)のことで、古くから独身の女性が、世俗を絶ち心身を清め、平安時代からの厳しいしきたりを守って奉仕しておられます。
 人数は常時五人ていどらしいです。
 賢所とは、伊勢内宮(ないくう)のご神体〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の別御霊(わけみたま)である「神鏡」を奉斎する、宮中で最も重要な場所です。
(つまり伊勢神宮と並んで日本でもっとも重要な場所です)

 高谷朝子さんは、昭和18年19歳で内掌典になり、以後戦後の混乱期を乗り切って、平成13年まで57年もの間、内掌典の長として奉仕してきた方です。
 専門家ではなかったが、前に内掌典をしていた方と知り合いで、推薦されたそうです。

 この方の前に内掌典の長として奉仕なさったのは三上下枝さんで、大正の末から昭和60年まで60年間にわたって勤められました。
 その前の長は高木勝子さんで、明治22年に15歳で上がって50年以上奉仕され、引退後も別の役目で奉仕なさっていたそうです。
 別の内掌典も、古い時代には、短くても10年、長い人は数十年を宮中で世俗を絶って過ごし、〈天照大神〉への奉仕を続けていたそうです。

 しかし戦後になって労働基準法が出来て内掌典も例外ではなくなり、さらに最近では、生涯を捧げる人を見つけることが困難になり、四年交代を原則とするようになったそうです。
 神道系の大学などを出た女性が選ばれて、四年交代でおつとめするそうですが、そのため平安時代からの伝統的なしきたりが崩れるのではないか――と心配されています。

 この本は、新たに内掌典を希望する人の入門書にもなるでしょうが、高谷さんは、さらに膨大な資料を書き残しておられるそうなので、なんとかノウハウは残るだろうと思います。

 日本の伝統文化を愛する人にとっては必読の書です!
 

『卑弥呼と日本書紀116』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月19日(水)12時40分32秒
  [承前]

 そのひとつは、

「日本人が昔のシナ人と話をはじめた時代に、日本人は自分たちのことを《われわれ》または《われ》または簡単に《わ》といい、自分たちの国のことを、《われわれのくに》または《われのくに》または《わのくに》などといったので、シナ人は日本を「ワ」と呼ぶようになり、それを漢字で書きあらわすときに、差別意識によって低い姿勢とか従うとかいう意味を持つ「倭」を当てはめ、日本のことを《倭国》、日本人のことを「倭人」と記すようになった」

 ――という説である。

 南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』にも似た意見が紹介されているが、これはおそらく『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』が出典で、とても古くからの説である。

『日本書紀(やまとのふみ)』の研究は奈良時代から平安時代にかけて、かなり行われたが、鎌倉中期か末期に、大学者の卜部兼方(うらべ-かねかた)が、過去の研究を集大成して『釈日本紀』を著した。
 この『釈日本紀』に、「倭」や金印を贈られたことで知られる「倭奴国」についての解釈が記されている。

 簡単に言えば――

 シナに派遣された日本人が、「お前の国は何というのか」と質問されて、(東の方を指して)「我の国は・・・」とか「我々の国は・・・」といった返事をしたので、その冒頭の「わ」という発音を「倭」であらわして、日本の名としたのであろう。

 ――というものである。

 古代の我は「われ」だけでなく「わ」ともいった。
(印象的な発音を選んで一字で表現するのは、古代シナの役人がよくやることだが、日本人の発音にも「わ」があった。それは現在でも使われている。たとえば「我が国」とか「我が家」という時の「我」は「わ」と発音している)

 南朝の忠臣北畠親房は、当時の最高の学者で、天皇に歴史をご進講するために『神皇正統記』を著した。一三三九年成立とされている。
 この中で親房は、以下のように述べている。

「昔此(こ)の国の人、初めて彼(か)の土に至れりしに、汝(なんじ)が国の名をばいかゞ(いかが)云ふと問ひければ、我が国はと云ふを聞きて、即(すなわ)ち倭と名付けたりと見ゆ。」

 これは『釈日本紀』の意見とほとんど同じで、おそらくそのまま引用したのであろう。

 ちなみに後漢から金印を贈られたとされる倭奴国や伊都国の次ぎの奴国の奴とは、召使(めしつか)いとか虜(とりこ)とかいう意味で、これまた倭に負けずに下品な漢字である。

[つづく]
 

戦争行為  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月19日(水)11時47分26秒
   昭和27年4月28日までは、国際法的には日本と連合国との間に「戦争状態」が継続しており、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判とBC級裁判とは、連合国が軍事行動(戦争行為)として遂行したものであることを、よく理解する必要があります。

 以上は、国際法の権威で大学学長の佐藤和男先生の言葉です。
 つまり元A級戦犯は、戦死なのです。
 だからこそ、日本の法律で犯罪者ではない――とされているわけです。
 平成17年10月25日の民主党野田議員への答弁で、日本政府は、「国内法上は戦犯は存在しない」事を明言しています。
 

昭和二十七年(講和条約発効後)  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月19日(水)01時58分17秒
  「戦争受刑者の助命・減刑内地送還嘆願の署名運動」やら、12月の自由党・改進党・社会党などの共同提案による第5回衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」(圧倒的多数で可決)とかは、何やったん?

昭和二十八年には、戦犯の遺族にも遺族年金・弔慰金支給、二十九年の恩給法改正で、拘禁中獄死または刑死したものの遺族にも扶助料が支給されることになった。

昭和二十六年十一月、大橋武雄法務総裁、参議院法務委員会で、「戦犯は国内法においては犯罪者ではない。国内法の適用においてこれを犯罪者と扱うことは、いかなる意味でも適当でない」と明言。

いま、かの先人たちに向かって戦犯と申すものたちを、私は「日本人」だとは認めない。

(参考)WiLL 2006年2月号 ■小野田寛郎VS中條高徳「靖国神社と日本人の品格」
http://web-will.jp/backnum/index.html
 

江戸人さんへII  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 4月19日(水)00時44分48秒
  >黄東洋さん
>しかし日本はA級戦犯を認めているし

私は認めていません。日本では私以外にも認めていない人は多い。「日本は…」って具体的に誰が認めているわけ? 認めるかどうかは日本でなく日本人一人一人が判断する。
「日本」には頭も口もありません。

>そんなこと言ったて誰も納得いきませんよ。

納得いく人が1人もいないということを統計資料で見せてください。
具体的にどこの誰が納得いかないのか実名と人数をあげてください。
自分ひとりの主観を「日本」や「皆」に置き換えているのは卑怯。

>どう考えても戦死じゃありませんよあれは

どう考えれば戦死じゃないのか言ってみなさい。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

オロモルフ様、有難う御座います。  投稿者:  投稿日: 4月19日(水)00時31分39秒
  オロモルフ様、非常に詳細で親切なレスを有難う御座います。
明治16年という時代に、海底ケーブルが既に存在していたのですね。
オロモルフ様のレスを拝読させて頂きまして、目から鱗(うろこ)が落ちる思いです。
 

江戸人さんへ  投稿者:のりとー  投稿日: 4月18日(火)20時41分28秒
  (1) まず、「A級戦犯」のA級, B級とは何かを調べましょう。刑の重さによってアルファベットによってランク付けされたものではありません。
(2) いわゆる「A級戦犯」の名誉回復が事実上行われています。また、「戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないため、名誉回復の必要性自体が存在しない(名誉が損(そこ)なわれていないので、回復する必要がない)」という意見もあることに注意してください。

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だいたい、「分祀(ぶんし)」というのは、ある社(やしろ)で祀(まつ)られている英霊を他の社でも祀るということ(つまり、コピー&ペースト)で、「分祀」しても靖国神社でそれらの英霊を祀らなくなることではないんですが、その辺を「分祀々々」って言っている人たちはわかっているんでしょうか。
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江戸人さん、「安政の大獄」で亡くなった人は靖国にまつられていませんし(戊辰戦争と間違えた?)「分祀」を「分子」と書くなど、幼稚なミスが目立ちます。このようなミスの入った文は、それぐらいのこともわからない人間が書いた文と見られて、低く扱われてしまいます。せっかく意見を述べるのですから、書いた文を何度も読み返し、推敲(すいこう)してから投稿しましょう。
 

(無題)  投稿者:江戸人  投稿日: 4月18日(火)18時01分28秒
  黄東洋さん
しかし日本はA級戦犯を認めているしそんなこと言ったて誰も納得いきませんよ。
どう考えても戦死じゃありませんよあれは
 

Re:百年前の電信柱  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月18日(火)14時20分20秒
  護さま
 百年前の1906年といいますと、日露戦争が終わった翌年ですね。
 日本は、併合前から朝鮮半島の近代化に貢献していましたが、電信の建設は日露戦争のずっと前からやっていました。
 以下にわたしが知っている事を記します。

 日本が半島との通信に神経を使うようになったのは、明治15年(1882年)の壬午(じんご)事件で日本人が殺され、その騒乱を好機として清国が軍隊を朝鮮に送り込もうとしましたが、その報告が日本になかなか届かなかった事によります。

 当時は清国の朝鮮支配が進行中でしたから、日本は特に神経を使い、翌明治16年に朝鮮政府と条約を結び、九州北端の呼子から壱岐・対馬経由で釜山(プサン)までの海底ケーブルを布設しました。

 そして明治17年(1884年)には釜山に日本人が常駐する電信局を作り、朝鮮語と日本語の両方の電信が開通しました。
 その翌年の明治18年に清国が条約を破って京城(ソウル)〜仁川(インチョン)・義州(ウィジュ)までの陸上電信線を勝手にひいてしまいました(ただし技術はヨーロッパ)。

 怒った日本は、釜山から京城までの電信線を引きました。
 しかし朝鮮政府には、電信への理解や運用への熱意がなく、故障だらけでほとんど使えなかったそうです。

(この時代の日本はすでに、電信線の架設も傳信機の製造も電信局の運用もすべて自力でできるだけの技術力を確立していました。これらが自力で出来る国はアジアでは日本だけでしたが、ヨーロッパを含めても、そう多くはありませんでした。ロシアも外国技術に頼っていました。朝鮮の人たちが自力でなんとか出来るようになったのは、戦後しばらくしてからだろうと思います)

 やがて清国の横暴が酷くなって明治27、8年(1894、95年)の日清戦争が起こりますと、日本側は電信隊という特別な部隊を創設して、故障だらけだった朝鮮縦断の電信ルートを補修し、さらに新たに多くの電信線を増設しました。

 これらは戦後は民間に利用しましたが、その後の三国干渉で臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ののち、明治37、8年(1904、05年)の日露戦争が起こりますと、電信隊が活躍して、海底ケーブルの大増設とともに、陸上にも無数の電信線を網の目のようにひき、さらに電話線までひいて、部隊間の連絡に利用しました。

 日露戦争終結後は、これを民間に利用しましたが、結局は日韓併合となり、日本人が電信の運営にまで乗り出して、ようやく、朝鮮半島の通信網の近代化がなりました。
(電信は他の技術分野と同じく、単に装置や電信柱を作るだけではダメで、運用し維持するための高い能力が必要ですが、それは当時の朝鮮政府には無理だったのです)

 ・・・というわけで、ご提示の写真の真の年代がどうかは別問題としまして、百年前の1906年のさらに20年も前に、日本人が建設した通信網がすでに朝鮮半島に出来ていて、人々の利便に役立っていたのです。

 このような半島の通信(および交通)の近代化は、朝鮮人や日本人の利益だっただけではなく、欧米諸国が朝鮮半島で営業活動をするために必要だったので、日本に対して強く要望していたことだそうです。
(イザベラ・バード『朝鮮紀行』など参照)
 

『卑弥呼と日本書紀115』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月18日(火)14時15分35秒
  ■■■■■ 五・二 《倭》と《大和》の語源 甲類・乙類の違い ■■■■■


 この節では、古代にいわれていたらしい「ワ」という日本の呼称や《大和(やまと)》の語源について、ざっと調べてみることにしよう。
 そして同時に、《邪馬台国》と《大和》の類似性についても、検討してみよう。


◆◆◆ 「倭」と「和」の問題 ◆◆◆

『魏志倭人伝』は正式には『三国志』のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。
 つまり当時のシナでは、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。
 なぜそう呼んでいたのだろうか?
 これについては、いくつかの説があるが、大きく分けて、

[ア] 漢や魏の役人が勝手に作ったという説。
[イ] 日本人が質問されてそう答えたという説。

 ――の二つになる。

 前者の[ア]は、「倭」という漢字の意味が低いとか曲がっているとか遠いとかいうものなので、遠路はるばる日本を訪れた使者が日本人の醜い姿を見て、そう名づけたのだろう――というものである。
 しかしそれはあまり説得力がない。
 日本人がシナ人や朝鮮人に比べて醜いなどあり得ない事だが、文献学的に言っても説得力がない。
 なぜなら、『魏志倭人伝』のなかの多くの国名は、みな日本での呼び方を漢字に当てはめて、日本人の発音に似た呼称で呼んでいるからである。
 ただそのとき当てはめる漢字に、蔑称的なものが多いということなのだ。

 一方後者の[イ]は、質問された日本人が「ワ」と答えたので、それに差別的な「倭」という漢字をあてはめたのだろう――というものである。
 これは前者よりずっと得心がゆく。
 この後者の説にもいろいろあるわけだが、著者が読んだ説を二つほど挙げておく。

[つづく]
 

中央日報が報じる、百年前の韓国の写真展。  投稿者:  投稿日: 4月18日(火)05時33分46秒
  「百年前の韓国の姿を撮った写真展がソウルで開催される」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=74758&servcode=400&sectcode=400

中央日報の百年前の韓国の姿を撮った写真展が、ソウルで開かれるという記事が目に留まったのですが、
その写真(向って左)に電信柱が沢山立っていることに気づいて、目が点になりました・・・・・・。
何故(なぜ)、百年も昔に電信柱が・・・・・。
これは日本に統治され、インフラ整備を受けた時代の写真ではないでしょうか?
 

江戸人さんへ  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 4月17日(月)23時11分0秒
  分子じゃなくて分祀(ぶんし)だと思う。

「A級戰犯」は虚構だし、そう呼ばれている指導者は戰死者です。
東京裁判は戰爭の繼續で、GHQによって處刑された戰爭指導者は戰爭で戰死したわけです。

戰爭とは戰闘を手段とした政治的な意見の調整であり、1945年8月15日は戰闘行爲の終了であって、其の後も戰爭は續いていました。

東京裁判を戰爭の繼續を理解していたのは東條だけだったでしょう。

假に分祀しても私は國に參拜します。分祀したら國~社が分裂するだけで、分裂したらしたで兩方に參拜したいと想います。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

(無題)  投稿者:江戸人  投稿日: 4月17日(月)17時17分31秒
  靖国神社には戦没者が祭られていますが、A級戦犯は戦死したわけじゃないし安政の大獄で亡くなった人も戦争で亡くなった人ではないのに何故靖国神社に祭られているんですか?
分子は可能なんでしょうか?僕は分子すべきと思います
 

『卑弥呼と日本書紀114』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月17日(月)11時58分33秒
  [承前]

◆◆◆ 「御子(みこ)」とは? ◆◆◆

〈卑彌呼〉の候補リストの中に出てくる、巫女・御子・神子・皇女・靈女など「ミコ」と読む漢字は、現在の感覚では書かれた文字によって意味が違ってくるが、祭政一致の古代にあっては、ほとんど同じ意味だったとされる。
 神につかえる貴人の子――主に姫――または女性である。
 そして漢字が使われるようになってから、皇女(みこ)が尊敬されて御子(みこ)と書かれ、神につかえる役目を与えられて巫女(みこ)や神子(みこ)と書かれ、別格の女性が「靈女(みこ)」と書かれるようになったのである。


◆◆◆ 無数にいる〈卑彌呼〉の候補 ◆◆◆

 このように見てくると、〈卑彌呼〉を連想させる『記紀』のなかの多くの名前は、最初から最後まで「尊称」であることがわかる。

 さて、前掲の表の名は、それ自体ですでに〈卑彌呼〉と同じと思える読みのものが多くあり、それ以外も、わずかに変形しただけでみな〈卑彌呼〉になる。
 だから、高貴な女性と分かる名前で「ヒミコ」または「ヒメコ」と読めそうなものを探してみようと『日本書紀(やまとのふみ)』を繰(く)ると、ほとんど数頁に一人は出てきてしまうのだ。
 まさしく〈卑彌呼〉のオンパレードなのだ。

 高貴な女性のほとんどは「・・・姫命」あるいは「・・・姫尊」などとされているが、この最後の二文字の読みは、「ヒメノミコト」または「ヒメミコト」だから、要するに貴い女性名の末尾はみな〈卑彌呼〉になってしまうのである!
 姫(ひめ)のかわりに媛(ひめ)や日女(ひめ)を使っていても同じである。

 そして、先の皇后陛下や会社社長のたとえで述べたように、その時日本のどこかに「xxx姫」という名の偉大な女性がいたとしたら、人々は、最後の姫に尊敬の尊や神子をつけてたんに姫尊(ひめみこと)あるいは姫神子(ひめみこ)と呼んでいたであろう。
 つまり「・・・ヒメミコト」「・・・ヒメミコ」といった尊称つきの固有名詞を、「・・・」を略して「ヒメミコト」「ヒメミコ」という普通名詞で呼んでいた可能性が高いのだ。

****

 以上のようなわけで、「ヒミコ」や「ヒメコ」といった読みの名前のみで〈卑彌呼〉を日本の古典から探して特定しようというのは、まったく不可能である。
 いすぎるほどいるのだ。
 そして同時に、

「〈卑彌呼〉は「・・・姫命」または「・・・姫神子」の音写ではないか」

 ――との推理もまた、かなりの確実性をもっていえるのである。

[次ぎは「第五・二節 《倭》と《大和》の語源 甲類・乙類の違い」]
 

訪米での儀式  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月17日(月)11時35分13秒
  ◎某国家主席の訪米が話題になっています。
 何が話題かと言うと、会談の中身ではなく、米国側がどういう儀式をするかという事が・・・。

 彼らの儀式好き(格式好き)について、小さな経験があります。
 昔勤務していた技術系の研究所に、中国のXX分野の研究所の要人たちが見学に来ました。
 そこで驚いたのは、ディスカッションの時間に、やたらと大きなテーブルの真ん中に巨大な花を活(い)けて、大げさな儀式をしないと気が済まないという事でした。
 さらに驚いたのは、そのXX分野は地味でして、日本全体でも研究者数は、大学院生まで入れても50人程度なのに、中国ではその研究所だけで5000人もいるとか!
 もっと驚いたのは、日本の研究者と対等に話せる専門知識を持った人などおらず、かろうじて専門用語の分かる人が、一人だけいるらしい――という事でした。
(あとの大勢の人は何をしているのやら? いまでは改善されている事を祈ります)

 儀式好きといえば、私の上司が技術の問題で招かれて北京に行ったとき、友好の言葉を紙に書いてくれと言われて、不思議に思いながらも、便せんに書いたところ、それを会議の壇上に大げさに張り出したので、肝(きも)を潰(つぶ)したそうです。

 これに対して――
 アメリカの技術分野の要人(中国の人よりずっと格の上の人たち)が見学に来たときも案内したのですが、じつにフランクで、学生と同じような質素な部屋での討議でも大満足してくれました。

 アメリカに行く中国の要人は、日本の天皇陛下の訪米より格が上でないと満足しないらしいですね。
 

これも「金」だぞw  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月17日(月)01時23分26秒
  『金田勝年・外務副大臣』

【日中】対日理解促進へ「プロジェクトX」など人気番組を中国のTV局に無償提供〔04/13〕
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1144857637/l50

それにしても、腹立たしいことだ。

(オマケ)
■NHK15年ぶりの大作:北朝鮮「個人崇拝への道」2006/4/16(日)
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1386161
 

>はにぃ殿  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月17日(月)00時11分30秒
  >週刊実話に、実家は縫製品メーカーのオーナーって書いてあった
>保土ヶ谷だって
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/life/1024529912/547

>http://www.kimpara.co.jp/
>ここか。
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/life/1024529912/553

>代表取締役 金原正和
>父親だね。
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/life/1024529912/555

>3000マンx2をもったいないと思うかどうかは、その人の経済事情によるでしょう。そして不可解なのは、それだけ経済的に恵まれた家庭にそだったお嬢ちゃんがなんでスパイなんぞやって小銭稼ごうとしたかということでしょうな。
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/life/1024529912/452-557

米FBI、産業スパイ容疑で邦人女性逮捕
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/life/1024529912/l50
 

REアカ日  投稿者:はにぃ  投稿日: 4月16日(日)21時53分39秒
  >ハーバード大産業スパイ事件

原加代子被告(36)
 

シナ男と、チョソ女? 移植臓器ビジネス組織の一端?  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月16日(日)20時04分12秒
  ■ハーバード大産業スパイ事件 日本人被告ら司法取引 罪状認め公訴停止へ (産経新聞) - 4月15日16時37分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060415-00000024-san-int

【日米中】産業スパイ事件、司法取引で決着へ[04/15]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1145076496/l50
>中国人と臓器移植!
>スパイ事件は防諜組織員を公開裁判にさらさないために、司法取引を好むのだとか。

米FBI、産業スパイ容疑で邦人女性逮捕
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/life/1024529912/l50

■中国:5月1日前に生体臓器の大量供給、24時間体制で移植手術【大紀元日本4月15日】
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/04/html/d85634.html
■【特集】蘇家屯・臓器売買事件
http://www.epochtimes.jp/jp/spcl_sjt.html

■中国が臓器売買禁止 移植の透明性確保へ規定(共同通信) - 3月27日19時32分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060327-00000233-kyodo-int
■邦人2人、上海で心臓移植 台湾の会社仲介(共同通信) - 3月23日19時37分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060323-00000212-kyodo-int

■453人が海外で臓器移植 厚労省研究班が調査(共同通信) - 3月9日23時16分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060309-00000241-kyodo-soci
>内訳は心臓が103人(うち18人は死亡)、肝臓は199人、腎臓は151人。心臓は1988年以降の全例だが、肝臓と腎臓は現在、国内の医療施設で免疫抑制剤投与などの治療を受けている患者のみ。
 

『卑弥呼と日本書紀113』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月16日(日)12時46分25秒
  [承前]

◆◆◆ 「命(みこと)」とは? ◆◆◆

 つぎに「命」に移る。
 一般に「命」の訓は「みこと」で、これは「御言」だとされている。
 つまり、

「命(みこと)」=「御言(みこと)」=「御(み)」+「言(こと)

 ――である。

 天皇陛下のお言葉である「みことのり」の「みこと」はこの「御言」で、「御言宣(の)り」である。

 また、「言」と「事」は通じており、名前の最後につく「みこと」は、「御事」だとされている。
 すなわち、

「命(みこと)」=「御事(みこと)」=「御(み)」+「事(こと)

 ――である。
 当然ながら、貴人の尊称で、男女ともにつく。

「尊(みこと)」と書くときは、神代(かみよ/じんだい)における特別重要な身分が多い。
 姫と媛(ひめ)に似ていて、意識して使い分けされているが、こちらの命と尊の方が明確らしい。
(このことも、姫/媛と同じく本居宣長(もとおり-のりなが)が有名な『古事記伝』で指摘している)

 前記したように『魏志倭人伝』に出てくる卑弥弓呼は、卑弓弥呼の写し間違いで、「彦命(ひこみこと/ひこのみこと)」または「彦御子(ひこみこ)」だろうとされている。

 以上の「姫」と「命」とをまとめると、古代における、

「姫命」=「ひめみこと/ひめのみこと」

 ――という言葉は、

「神につかえる霊的で高貴な女性――大和(やまと)朝廷の皇女(ひめみこ)で太陽祭祀(さいし)を担当したり巫女/神子(みこ)であったりすることが多い――を意味する最大限の、そして重大な尊称」

 であった。

 つまり、現在の我々とはまったく感じ方が違っていたと考えられる。
『記紀』ができた奈良時代でも、〈卑弥呼〉の時代とは、かなり違ってきていたのではないかと想像している。

[つづく]
 

Re:中国大使館員、出頭要請  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月15日(土)12時53分55秒
  日本人よ、しっかりせよ!
――と言いたい。
カネを貰って偽装結婚してみたり、騙(だま)されて結婚して殺されたり・・・いったい何をやっているんだか。
 

『卑弥呼と日本書紀112』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月15日(土)12時52分20秒
  [承前]

 後の時代になると、「め」だけを単独で取り出して、軽い意味でも使っている(たとえば「奴め」と怒るとき)が、古代(*)における「ひ」+「め」は、「日女(ひめ)」すなわち「太陽の妻」といった、太陽祭祀(さいし)の意味があり、神に認められた高貴な女性であったり、神に仕(つか)える巫女(みこ)であったりする。
 古代における皇族の女性は、多くの場合、神に仕える巫女でもあった。
 要するに「ひめ」とは、高貴な女性に付けられる霊的な意味をもつ尊称である。
 またとくに「日女」と表記するのは、「太陽祭祀/太陽の妻」を強く意識したときらしい(この事はのちに〈卑彌呼〉の正体を探る上で重要になる)。
〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の尊称は〈大日霊女貴(おおひるめのむち)〉だが、単に〈日女命(ひめのみこと/ひめみこと)〉と書くこともある。

 すなわち、

「姫(ひめ)」=「日女(ひめ)」=「日(ひ)」+「女(め)

 で、神聖な言葉である。

*****

 これに対して、男性の尊称である「彦」は、

「彦(ひこ)」=「日子(ひこ)」=「日(ひ)」+「子(こ)

 で、やはり太陽を語源とする、貴い男性という意味である。
 XX彦はいまでは大衆的な名前だが、古代においては太陽の息子という尊称であり、前述のように、『魏志倭人伝』にある官名の「卑狗」は「彦」だとされている。
 長い名前の末尾だけを採ったのかもしれないし、日本人が役人のトップを「ひこ」という尊称だけで呼んでいたのかもしれない。

 ちなみに、

 息子は「産(む)す日子(ひこ)
 娘は「産(む)す日女(ひめ)

 ――である。

(*注 「古代」の用法は戦前と戦後とでずいぶん違っているようですが、ここでは、古い用法で飛鳥(あすか)時代より前の大和(やまと)朝廷の時代を言っています。この用法では、古代の前は神代(かみよ/じんだい)です。ただし厳密な使い方ではありません)

[つづく]
 

中国大使館員、出頭要請。  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月15日(土)01時23分19秒
  4月14日(金)23:30〜
日テレ NNNきょうの出来事
http://www.ntv.co.jp/kyodeki/
▽中国女性とお見合い…結婚式密着急増のワケ

中国女性とお見合い…結婚式密着急増のワケ
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/liventv/1145025210/l50

「偽装結婚」ビジネスに、中共の影?

■中国大使館員に出頭要請=使途不明資金解明へ−不法在留ほう助事件・警視庁(時事通信) - 4月14日11時1分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060414-00000026-jij-soci

中国大使館員に出頭要請=使途不明資金解明へ−不法在留ほう助事件・警視庁

 在日中国大使館とのパイプを強調してコンサルタント会社「中国事業顧問」(東京都中央区)社長、章健容疑者(51)=中国籍、同区湊=が中国人の不法在留をほう助していた事件で、警視庁公安部が同大使館員2人の事情聴取に向け、出頭要請の手続きを始めたことが14日、分かった。

 章容疑者は同大使館との関係を背景に中国人らから多額の資金を集めていた疑いがあり、公安部は資金の使途解明などには大使館員の聴取が不可欠と判断した。中国の外交官に警察当局が事件に絡んで出頭要請するのは初めて。

 公安部が聴取を予定しているのは、同大使館領事部参事官と商務処の幹部。13日夜、警察庁を通じ外務省に手続き開始を依頼した。しかし、外交官には受け入れ国の捜査権が及ばない特権があり、事情聴取を拒否する可能性がある。

(時事通信) - 4月14日11時1分更新


http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%C3%E6%B9%F1%A1%A1%C2%E7%BB%C8%B4%DB&st=n

 

「男女の違い」と「年齢の上下」  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月14日(金)13時26分29秒
   連載で「姫」や「彦」を調べたついでに・・・

 現在の日本語は、男女と年齢の組み合わせに、
「あに・あね・おとうと・いもうと」
 があり、それに漢字の
「兄姉弟妹」
 が当てはめられています。

 しかし上代ではそうではありませんでした。

 まず男女によらず年齢の上下によって
「え・おと」
 ――が使われ、
 ついで年齢によらず男女に対して
「せ・いも」
 ――が使われるようになりました。
(これは『記紀』を読むと気づきます)

 これはこれでバランスがとれていますが、そこに
「あね」=「女でかつ年上」
 という新しい言葉が出現したので、このバランスが崩れたのです。
 平安以後になると「あに」が出来てバランスが回復しますが、どうやら上代では「あね」は有っても「あに」は無かったらしい。
(兄という漢字を「あに」と読むのは後の読み方で本来は性別無しの「え」らしい)

 それがどうやって現在の表現になってきたか――の究明は、謎解きの面白さ!

(以上は犬飼隆『上代文字言語の研究――増補版――』笠間書院(200512)を素人なりに解釈)

(現在でも兄弟姉妹の日本語表現は不完全だと思います。それは「実の」「義理の」という言葉が頭についた時の定義が不明確だから・・・と思います。上代の言葉では「いろ」と「まま」でしょうか? 今の日本語では「実兄」「実弟」といった表現の意味が辞書によってまちまちなのです)
 

『卑弥呼と日本書紀111』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月14日(金)13時10分59秒
  [承前]

◆◆◆ 「姫」とは? ◆◆◆

「姫」は「媛」とも書くが、本居宣長(もとおり-のりなが)によれば、「姫」は皇族の女性、「媛」はそれ以外の出身の女性に付けられている。
 これは「日女」とも書くが、この「日女(ひめ)」がもっとも元の大和言葉の意味に忠実な漢字らしい。
 ところで、
「ひめ」=「ひ」+「め」
 ――のように分けられる。

 そのうちの「ひ」は太陽の意味で、「日」である。
 また太陽のもつ優れた力から、「活力の源泉となる超自然的な力」をも意味するようになり、それには「霊(ひ)」の漢字が当てはめられた。

 昼の「ひ」
 東の「ひ」
 人の「ひ」
 左の「ひ」

 ・・・なども同源とされている。
 古代では右より左が神聖だったらしく、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉は、左目を洗ったとき、または左手に神鏡を持ったときに生まれたし、注連縄(しめなわ)は左撚りである。
 なおこの「ひ」は甲類で、「火」は乙類だが、同源という意見もある。
(甲類乙類については後述)

 つぎに「め」だが、これは「女」とか「妻」とかいった意味を持つとされる。
 愛でるの「め」と同じという話もある。

[つづく]
 

■「反日」の超克  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月13日(木)23時11分43秒
  「朝日」ともあろうものが。 烏賀陽 弘道 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198618844
■「『朝日』ともあろうものが」について■
http://ugaya.com/column/051028asahi.html
■烏賀陽の朝日新聞社退社関連記事■
http://ugaya.com/column/taisha_index.html
http://ugaya.com/

「反日」の超克 中国、韓国、北朝鮮とどう対峙するか 西村 幸祐 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569643663
http://nishimura-voice.seesaa.net/
◇荒川静香選手のこと
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/16449995.html

『無抵抗な子供達を『人質』にした、悪質極まりない「狂師たち」を放任していては、この国は長くは持たない.神奈川県民のみならず、日本国民はこの際真剣に考えるべきである.』
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060413/1144889987

しかし、「偽装結婚」ビジネスにからむ、組織的犯行サークルの根は深い。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/32318.html
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20060323/mng_____kok_____002.shtml
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_04/t2006041021.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060410-00000038-jij-soci

■偽装結婚:100件仲介、外国人女性から手数料稼ぐ 10容疑者逮捕−−神奈川県警(毎日新聞 2006年4月13日 東京夕刊)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060413dde041040016000c.html

これもまた、なりすまし朝鮮族の似非童話街宣ウヨ。

フジモリ大統領の結婚相手の日本人女性て何者だよ?
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/news/1144574032/l50
【法則】フジモリ氏の“日本人”結婚相手報道に、韓国人社会からブーイング
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/news/1144578250/l50

『日中平和友好条約』の前と後では、「朝日」の持つ意味合いもまた、非常に異なるものとなっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
いまや「朝日」は、北京コミンテルンの走狗なのだから。
 

『卑弥呼と日本書紀110』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月13日(木)12時18分45秒
  [承前]

 この一覧のほとんどは、天皇の皇女の名につけられる尊称である。
 たんに尊称として使われるものもあるし、「XXX姫命(ひめのみこと)」のように、長い名前の末尾につく場合も多い。
 また「姫」は「媛」としても同じ読みだし、また「女」に変えても通じる。カナ表記では「比賣」もある。
「ヒメ」はもともとが神につかえる神子(巫女 みこ)的な女性に与えられた称号だが、祭政一致の時代においては、天皇の皇女など身分の高い女性が重要な神の神子となったので、高貴な出の女性を「ヒメ」と呼ぶようになったらしい。
 語源をたどると、姫の「ヒ」は彦の「ヒ」と同じで貴い人物の名の接頭語であり、「ヒ」のうしろが「コ」なら男性、「メ」なら女性になったとされている。
 さらにこの「ヒ」は、火と同じく日(太陽)と同源であるらしい。
 要するに一覧表の名の頭にある「ヒ」は、すべて太陽から来た音で、畏敬すべき物や身分の高い人物につけられたのである。
 これは、日神祭祀が重要だった古代の人々にとっては、とうぜんの表記だったであろう。

 上のリストから直感できることだが、「姫命(ひめみこと)」が〈卑彌呼(ひみこ)〉である可能性が高いし、さらには「姫御子(ひめみこ)」という説もあるので、「姫」と「命」と「御子」の語源について、もう少し補っておく。
(これまで述べてきたことと重複するが、重要なので記しておく)

[つづく]
 

昔から変わっていない  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月13日(木)12時13分28秒
  ◎野依秀市『国民の敵・容共朝日新聞を衝く』実業之世界社(昭和34年9月)

 最近、朝日批判のサイトや著作が増えていますが、朝日批判は戦前からありました。
 朝日批判を表紙に大きく掲げた本として私が持っている一番古いのがこれです。
 目次の一部を記します。
 現在の朝日批判にそっくりです!

▽総評と社会党の代弁者「朝日」
▽根本悪は大新聞の態度
▽原子力発電にカミつく学者のお先棒をかつぐ
▽ぬらりくらりとイヤミいう
▽勤評中止に味方の「朝日」
▽「朝日」の巧妙な弁明ぶり
▽反皇室思想をあおる
▽バカ気た投書の掲載
▽スネの古傷かくす卑劣記事
▽中共幹部に手放しの賛辞
▽「朝日」告訴されて大野伴睦氏に泣きを入れる
▽台風災害で天皇と首相へ当てコスリの「天声人語」
 

Re:excellent  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 4月13日(木)06時22分53秒
  >Jenniferさん

 初めまして、私は久保田泰啓(Kubota Yasuhiro)といいます。 ようこそ帝国電網省webにお越しくださいました。  こちらの管理人・竹下義朗さん(Takeshita Yoshiro-san)に代わりご挨拶を申し上げますm(--)m


>I come from Taiwan

 さて、あなたは台湾という国にてお住まいとされながらも英語のみならず日本語が判るのですね、語学に励まれたのですか? 頼もしい限りです(笑)


>It's so wonderful to see lots of our country's information

 それは良かった(笑) だけどもっともっと情報を集める必要がありますが、そろそろ私も本腰を入れて帝国電網省webにて「台湾をテーマ」として参加しないとヤヴァイかな?と(汗)。とはいえ、私は天皇陛下の国で、その日本人である故にどうしても「日本からみた台湾」という視点で話すことになります。

そこで Jenniferさん、もしよければ台湾人であるあなたの視点であなたの国・台湾についてこちらの掲示板・喫茶室で教えて下さいよ?そして一緒に参加しましょう。


>I will go here frequently.

 もちろん今回のような英文(名前・地名などは漢字入力でOK)で書き込まれても大丈夫なのでお気楽にどうぞ。


>The web is so great that I could find kinds of information.

 そうですか、そう言って戴けると管理人・竹下義朗さんも喜ばれると思います。実は私も Jenniferさんと同じ感想だったことをコッソリと教えます(笑)

という事で、今後とも宜しくです。
 

野依秀市の「天声人語」批判  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月12日(水)23時40分24秒
  『・・・「天声人語」の筆がいかに無責任な極まるものであるかがわかろう。・・・「朝日」の皇室軽視、国体軽侮の思想は昨今に生じたものではない。大正七年「白虹、日を貫けり」と祖国を冷笑したのに始まって、不敬罪でも三件ある。・・・いわば皇室軽視は「朝日」の伝統ともいうべきものであって、類は類を呼ぶというか、「朝日」の記者は大なり小なりいずれもこの悪思想にかぶれているのである。・・・(昭和33年8月27日)』

 これは、野依が昭和33年に帝都日々新聞に書いた『台風災害で天皇と首相へ当てコスリの「天声人語」』という記事の一部です。
 

>片岡氏は在日韓国人で韓国籍  投稿者:黄東洋  投稿日: 4月12日(水)23時24分6秒
  在日韓国人というのは見方によっては韓国系日本人です。
韓国人は中国籍の朝鮮族を「韓国人」と呼ぶので、当の朝鮮族は「私たちは中国人です」と言って怒るらしい。
 

woo  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月12日(水)19時57分38秒
  楊丞琳 said it in Gusse Guess Guess.  

excuse me  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月12日(水)19時54分23秒
  I still remenber ムゥチユ said " why @@@@ only 8 years, why not longer?" which really makes me feel disappointed, you know.  

The guy downstairs  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月12日(水)19時52分42秒
  hi, so you feel moved, huh?
But would you mind my asking you something about Nanjing Slaughter? I still remenber 剋悸奏 said " why @@@@ only 8 years, why not longer?" which really makes me feel disappointed, you know.
I just wanna communicate with about something really happened in the history, we should not forget it, right?
 

excellent  投稿者:Jennifer  投稿日: 4月12日(水)17時33分35秒
  woo,well, I come from Taiwan
It's so wonderful to see lots of our country's information
I really feel so moved
I will go here frequently.
:-)
The web is so great that I could find kinds of information.
 

『卑弥呼と日本書紀109』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月12日(水)12時41分35秒
  [承前]

◆◆◆ 『記紀』にある〈卑彌呼〉の候補 ◆◆◆

 では、日本の『古事記(ふることふみ)』や『日本書紀(やまとのふみ)』に、そういう〈卑彌呼〉を連想させる尊称が出てくるのかというと、これが、無数に出てくるのである。
 多くの学者や研究者が述べている〈卑彌呼〉の候補をあげてみよう。
( )内は代表的な読みである。

   《日子》    (ヒコ)
   《日御子》   (ヒミコ)
   《日神子》   (ヒミコ)
   《日皇女》   (ヒミコ)
   《日巫女》   (ヒミコ)
   《日靈女》   (ヒミコ)
   《姫子》    (ヒメコ)
   《皇女》    (ヒメミコ)
   《女》     (ヒメミコ)
   《姫御子》   (ヒメミコ)
   《姫神子》   (ヒメミコ)
   《姫皇女》   (ヒメミコ)
   《姫巫女》   (ヒメミコ)
   《姫命》    (ヒメミコト)
   《姫尊》    (ヒメミコト)
   《比賣命》   (ヒメミコト)
   《日女命》   (ヒメミコト)
   《稚日女尊》  (ワカヒルメノミコト)
   《大日靈女尊》 (オオヒルメノミコト)

 さいごから二番目の《稚日女尊》は〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の妹であり、最後の《大日靈女尊》は〈天照大神〉の本名で、靈女は合わせて一つの文字である。
 これは白川静の『字通』によると靈と同じ字だそうであるが、古い神社の書き物などでは分けて靈女と書かれていることもある。
 このおわりの二つは別格の尊称だが、その一つ前の《日女命》も、それに準じる丁寧な文字――太陽の妻を意味する――を当てた尊称である。
「ヒミコ」または「ヒメコ」を連想させる名前は、まだまだあるだろうが、これくらいでやめておこう。

[つづく]
 

(無題)  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月12日(水)11時31分39秒
  face the real history, I think you should learn something from the German, or you can't get the respect in this world!!!!  

(無題)  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月12日(水)11時29分38秒
  don't  

(無題)  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月12日(水)11時26分18秒
  You  

『卑弥呼と日本書紀108』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月11日(火)12時46分47秒
  [承前]

 一般に日本人はなるべく原文に忠実に表現しようと心がけるが、シナの役人はそうではない。
 彼らにとって都合のよいように――言いやすいように――創作してしまうのである。
 だから倭の五王のような愛想の無い名も生じてくるのであろう。

 このような例からも、『魏志倭人伝』に書かれた名前を日本の古典のなかに見つける作業は、推理力が必要だし、かつあまり深く考えすぎてもいけないことがわかる。

 したがって〈卑彌呼〉の読み方については、深入りは避けて、教科書や多くの学者の説にあるように、
「おおまかにヒミコまたはヒメコみたいな発音だった」――としておかねばならない。
 前述のように元来がそのていどの話なのだから・・・・・。

 では、日本の古い文献に、これに似た読みの人物がいるのだろうか?
 これについては、
「いすぎるほどいる」
 ――というのが結論である。
 昔の日本の文献に書かれている貴人の名は、つねにかなり長いものなので、単に「ヒミコ」とか「ヒメコ」とかいう人物がいた可能性はほとんど無く、日本の役人が述べた名前のなかから覚えやすい部分を魏の使者が記録したか、あるいは日本の役人が自分の仕える上司を固有名ではない尊称で呼び、それが記録されたものだろうと、多くの人が考えている。

 現在の美智子皇后陛下を、ただたんに皇后と記すのと同じである。
 社長秘書が来客に社長のことを告げるときも、「社長はいま会議中です」などと述べるだけで、その姓名を全部いうことはめったにない。
 したがって古代においても、特に身分の高い人物については、日本側の役人は、尊称のみで話した可能性がたかい。
 フルネームを告げたこともあったかもしれないが、会話のほとんどは、尊称だけであっただろう。
(とくに埋葬された後の貴人を生前の長い実名で呼ぶことは少なかったであろう)

 また魏や帯方郡の役人も、フルネームでは発音が難しくて記憶も記録も困難で、簡単な尊称のみのほうがずっと親しみやすかったであろう。

(男性の場合、「・・・彦」を『魏志倭人伝』では末尾の「彦(ヒコ)」だけを取り出して単に「卑狗(ヒク)」と書いたらしいことは、すでに記した)

[つづく]
 

聖徳太子もイエスも虚構かもしれんでえ。w  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月10日(月)22時35分43秒
  ■1万円札の夢殿:「聖徳太子」の神話が崩れ去るとき 2006/4/10(月)
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1381358

■ユダの福音書 2006.04.08
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/04/post_c2d9.html

〜よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとゞまりたるためしなし〜

竹内 薫『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334033415
http://kaoru.to/hypothesis.htm

ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794214642
 

日本の超古代文明  投稿者:三保 平清  投稿日: 4月10日(月)19時51分17秒
  日本に超古代文明は存在したのか。あの巨大な「縄文文明」の存在は、それ以前の原日本の文明を暗示してはいないでしょうか。「縄文文明」はるか以前の旧石器時代の日本と当時のシベリアの細石刃には交流があるらしい。それにあの「黒又山」の学術調査の結果は?

『主要現地調査地リスト』(超歴史研究会)
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/report.htm#

『葦嶽山ピラミッド』(泰山の古代遺跡探訪記)
http://www.gainendesign.com/taizan/ashitake/ashitake.html

 

唯一の被爆国として、 イランへの限定核攻撃空爆の検討をしているブッシュ政権やイスラエルに、非難と警戒と警告の声を上げよ!  投稿者:救国の草莽の志士  投稿日: 4月10日(月)15時12分47秒
  イランへの限定空爆検討 ブッシュ政権、米紙報道(共同通信)との報道に対して、

唯一の被爆国として、我が国は、イランへの限定核攻撃空爆の検討をしているブッシュ政権やイスラエルに対して、非難と警戒と警告の声を上げねばならない。左右・保守革新の立場の別を超えて、二度とヒロシマとナガサキのあの人類と生きとし生ける者の全全てを一瞬の内に焼き尽くした、地獄絵図をこの地球上に再度、起こしてはならない。この大悪魔の所業に異を唱えずに、容認する者には、やがて己が身にも同じ運命が降りかかって来るであろう。かつてヒロシマで、14歳の1945年8月6日朝、米軍機エノラゲイの投下したウラニウム原爆に、爆心地から1.5キロの近距離にあった逓信省貯金支局のビルの中で、勤労動員中に被爆した橋爪文氏の貴重な証言に耳を傾けよ。奇跡的に生き残り被爆直後の市内の様子を目撃し、克明に記録したドキュメンタリー「少女・14歳の原爆体験記」(高文研)で、「女学校3年生の時、勤労動員先で被爆し、奇跡的に生きのびた少女は、猛火の下で一夜を過ごした翌朝、死の街を縦断してひとりわが家へ向かった…。」詩人の感性をもつ少女の目を通して、被爆の実相と、廃墟に生きた人々の姿を描いたノンフィクションを著して、原爆後遺症に悩みながらも元気に詩人や作家として 活躍されている。!

以下のサイトから転載する。

                  http://www.worldforum.jp


        ワールドフォーラム4月例会のご案内


テーマ:「 反核平和海外一人行脚と国際連帯 −今改めて反核平和を訴える!− 」

講師:   日本ペンクラブ&詩人クラブ会員  橋爪 文 氏


日時 : 2006年4月28日(金) 18:30 - 21:30

場所 : 北とぴあ 7階 701会議室  北区王子1-11-1 TEL.03(5390)1100

交通 : 営団地下鉄南北線 王子駅 下車 1分・ JR京浜東北線 王子駅 下車 2分

地図 : 北とぴあへの地図 王子駅駅前

参加費 : 3,000円(会員&予約申込振込*の場合)・4,000円(当日支払いの場合)
*振込先 :東京三菱UFJ銀行田無駅前支店/普/3826681/口座名義 佐宗邦夫

参加申込先:ワールド・フォーラム代表幹事 佐宗 E-mail: asokunio@hotmail.com

桜花の咲き誇る季節の到来が待たれる昨今ですが、皆様にはお元気にご活躍のことと存じます。ワールド・フォーラム4月例会では、イランの核問題にかかわる国際的な制裁措置が緊迫した国際情勢の危機を生み出しつつある昨今、イランの核施設をイスラエル・米英が急襲するという先制攻撃の意図が公然と語られており、核戦争脅威が現実的な脅威の入り口に世界は立たされてている緊迫した国際情勢になり、先の大戦で史上初めて広島に投下された原爆で爆心地から1.5キロの距離で被爆された経験者の、日本ペンクラブ &詩人クラブ会員  橋爪 文 氏 をお招きして、「 反核平和海外ひとり行脚 と 国際連帯 ー今、改めて反核平和を訴える!ー 」というテーマでお話戴きます。

橋爪氏は、14歳の少女時代に爆心地近くで被爆されたにもかかわらず、奇跡的に助かり長年その後遺症に苦しみながらも、自らの被爆体験を書籍や詩などで語り継いで、2度とそのような悲惨な体験を人類が繰り返すことのないように、反核・平和海外ひとり行脚してこられました。こうした視点からは、現在進行しているイランの核問題にかかわる国際的な制裁措置が生み出している緊迫した国際情勢の危機と核戦争の脅威が現実的になっている世界をどのように見ておられるか被爆者の生の「反核の訴えと叫び」を伺いたいと思います。

イスラエルのシャロン首相がイスラエル軍に対して、3月末までにイランに対して先制攻撃をかける準備をせよとの命令を下したとの報が流れており、イランの核施設に対する先制核攻撃の懸念が広がっています。こうした国際情勢下で、歴史上唯一の被爆国として、我が国にはなすべき使命が存在しています。そこで、これまで反核の一人行脚の国際活動を長年に亘って続けてこられた 橋爪 文 氏に再度ご登場戴いて、こうした重大な時節に世界の核使用の禁止の訴えについて、被爆者の立場から語って戴きたいと思います。

皆様方にはご多忙のところ、大変恐縮致しますが、お誘い合わせの上で、お越し下さいますようお願い申し上げます。

プロフィール
橋爪 文 氏

1931年1月広島市生まれ。14歳の1945年8月6日朝、米軍機エノラゲイの投下したウラニウムがた原爆に、爆心地から1.5キロの近距離にあった逓信省貯金支局のビルの中で、勤労動員中に被爆した。が、奇跡的に生き残り被爆直後の市内の様子を目撃し、克明に記録したドキュメンタリー「少女・14歳の原爆体験記」(高文研)で、「女学校3年生の時、勤労動員先で被爆し、奇跡的に生きのびた少女は、猛火の下で一夜を過ごした翌朝、死の街を縦断してひとりわが家へ向かった…。」詩人の感性をもつ少女の目を通して、被爆の実相と、廃墟に生きた人々の姿を描いたノンフィクションを著して、原爆後遺症に悩みながらも元気に詩人や作家として 活躍されている。1994年からニュージーランドやスウェーデン・デンマーク等訪欧して反核の国際連帯を通じて、ニュージーランドの反核/平和運動家の元英国海軍大佐ロバート・グリーン氏や妻のケイト・デュース氏や反核運動家だったエルシー・ロック氏と交友して、執筆・作詞・講演活動等を行ない、現在に到る。多彩な市民・環境・反核団体との交流を深めている。
主な著書には前記のドキュメンタリー「少女・14歳の原爆体験記」(高文研)「昆虫になった少年 詩集」(高文研)合唱組曲「星の生まれる夜」「組曲ひろしま」 「早春」等があり歌曲/合唱曲の作詞が多

http://www.worldforum.jp

 

これもデムパやろか?  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月10日(月)13時18分51秒
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5 七つの海の名無しさん 2006/03/13(月) 09:27:23 ID:agv7NpmN
あのK岡って、陰の部分が大きいよね。

  1. 在日出身で、父親は名古屋でホテルとパチンコの経営者。
  2. 叔父は名古屋の在日系信用組合の不正融資で逮捕。
  3. 現在社長を務める目黒のプリンセスガーデンホテルは、旧華族の三条公爵家から在日特有の悪辣な手段で騙し取ったもの。
  4. 暴力団等と付合いが深く、在日朝鮮人でありながら、右翼で、特攻隊を賛美する本を出している。
  5. 自称3×歳。今の顔は、度重なる整形で作られたもの。

以上。フジモリ前大統領もヘンなのに引っ掛ったよなw。
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俗に言う、街宣右翼の類やないやろか?

《K岡都美(さとみ)さんという方にははじめて会った。ペルーのフジモリ元大統領が恋をして、求婚したという方らしい。番組でその紹介はもちろんなく、靖国護持など民族運動をしている方だと報告された。》
http://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/kkk12.html

フジモリ大統領の結婚相手の日本人女性て何者だよ?
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/news/1144574032/l50
【法則】フジモリ氏の“日本人”結婚相手報道に、韓国人社会からブーイング
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/news/1144578250/l50

マンガ嫌韓流2
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883805166
マンガ嫌韓流の真実!
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4796649735
 

『卑弥呼と日本書紀107』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月10日(月)11時56分41秒
  [承前]

 前述のように著者の読んだ古い教科書では、〈卑彌呼〉の左右に二種類のルビをふり、「ヒミコ」および「ヒメコ」としていた。
 いろいろな意見があるわけだが、現在の日本の著名な学者のあいだでは、この教科書の二つの読みが定着しているようである。
 おそらく、いまの日本では「ヒミコ」や「ヒメコ」と書ける言葉の古い音韻だったのであろう。
 もともと古代の発音は、日本のそれもシナのそれも定かでないし、同じ日本でも地域によって異なっていただろうから、あまりこまかな議論は意味がない。
 現在の日本人の発音で考える類似は、ごくごくおおまかなものだと考えねばならない。
「ヒミコ」とも「ヒメコ」ともちがうが、それに似たものだったかもしれないのだ。

《邪馬台国》と抗争した狗奴国とは九州の熊襲(くまそ)かそれとも関東の毛野(けぬ)かあるいは熊野か岐阜か愛知か、といった議論にしても、三世紀の日本の役人が熊襲や毛野をどう発音していたか、および、三世紀の魏の国または魏の植民都市帯方郡の役人が狗奴をどう発音していたか――がよくは分からないのだから「ひょっとしたら対応しているかもしれない」というていどのことしかいえない筈なのだが、それにしては、多くの『魏志倭人伝』の研究書に、もっともらしい対応が頻出している。

 第三章で、『魏志倭人伝』の難升米と『日本書紀』の田道間守(たじまもり)が、似ても似つかぬように見えてもローマ字で表示すると「似ているともいえる」ことを記した。
 ここでもう一つ、似ていないようで似ている例として、遣隋使として有名な小野妹子(おののいもこ)と、その隋での名・蘇因高とを比較してみよう。
 この両者は同一人物であることが明確なので、比較は参考になる。

 シナの発音を音でおおまかに記すと、小野の小も野もSHOと読める。また妹子の日本での発音はIMOKOなので、これはIMKOまたはINKOに近い。SHOをSOとすれば、そのままSOINKO――すなわち蘇因高――となる。
 蘇因高が隋によってつけられた小野妹子の呼び名であることは『日本書紀(やまとのふみ)』の推古天皇紀に明示されているので、疑う余地はないのだが、漢字だけを見てこれを同一人物だと見破ることは困難である。

 予備知識無しに「小野妹子」と「蘇因高」という二つの名を見て、即座にこれを同一人物だと見破ったとしたら、その人は名探偵である。

[つづく]
 

アカ日のお里様へ  投稿者:ウイング  投稿日: 4月10日(月)10時03分40秒
  優勝な日本人は在日認定されてしまいます。  

ちょんBSは報道機関か?  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月 9日(日)21時14分48秒
  テロBS「報道特集」独占密着!フジモリ元大統領の花嫁は日本人(2006.4.9)
http://www.tbs.co.jp/houtoku/

>片岡氏は在日韓国人で韓国籍
>「なぜ、日本のマスコミは嘘を報じるのか」
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2006/03/post_d6df.html
 

『卑弥呼と日本書紀106』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 9日(日)18時14分5秒
  ■□■□■ 第五章 〈卑彌呼〉という名の探索――併せて册封体制からの独立と国名および天皇という尊称―― ■□■□■


いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋いぬらむ
〔山上憶良(万葉集63)〕
「さあみんな、早く日本へ帰ろうではないか。出航のとき航海の安全を祈ったあの大伴の御津の浜の松も、われわれの帰りを待ちこがれているだろう。
(御津は大阪難波の港。遣唐使の一員として唐に派遣された山上憶良(やまのうえのおくら)の望郷の歌)」

大和路(やまとじ)は 雲隠りたり しかれども わが振る袖(そで)を 無礼しと思ふな
〔遊女兒島(万葉集966)〕
「大和への道は雲の彼方に隠れていますが、私が振る袖を無礼だと思わないで下さい。
(太宰府から都に帰る貴人との別れを惜しんで地元の遊女が謡(うた)ったとされる。天皇の歌と遊女の歌とが同じ歌集に並んでいるところが『万葉集』の凄さである)」


■■■■■ 五・一 『記紀』のどこを切っても出てくる〈卑彌呼〉 ■■■■■


 この節では、〈卑彌呼〉の読み方と、それに対応する名前が『記紀』にあるかどうかを検討してみよう。


◆◆◆ 〈卑彌呼〉の読み ◆◆◆

 ここでは〈卑彌呼〉を「ヒミコ」と読んでいるが、それはそう読むのが今では一般的だからである。
 しかし昔の人がそう読んでいたかどうか、また元の日本語の発音がどうだったかについては、諸説がある。
 作家の井沢元彦が調査したところでは、この漢字は、昔のシナの発音では、日本人には「ピメハ」とか「ピメコ」とか聞こえるらしい。
 だからまずヒとピの違いがあるが、古代の日本語では日はヒともピともいったようだし、いまでも「月日」を「ガッピ」というようにピということもあるので、この読みは「ヒメコ」と同じだといえるのかもしれない。
 最近の研究には、「ヒムカ」だろうという説もある。

[つづく]
 

南京大虐殺 really exists in the history  投稿者:Ur Fucking God  投稿日: 4月 9日(日)00時42分59秒 Remote Host: 211.95.166.57, Time: 1144510979
  (「南京大虐殺」は無かった=支那による歴史の捏造であるものと考えている観点から、当該投稿は管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀105』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 8日(土)12時13分48秒
  [承前]

『魏志倭人伝』そのものに戻って、そのあやふやさは、『明史日本伝』を読まなくても、それ自体だけからでもわかる。
 たとえば、樋口清之が指摘していることだが、〈卑彌呼〉の墓をつくったとき、奴婢(ぬひ)百余人が殉葬されたとあるが、三世紀の墓の発掘調査からはそういう殉葬がなされた証拠は見つかっていない。
 また死者を葬(ほうむ)るのに棺はつくるが、それを入れる施設(槨)はつくらず直接地中に埋める――とあるが、地位の高い人の墓には、弥生時代であってもちゃんと槨があった事も、遺跡からわかっている。
 しかもシナ大陸や朝鮮半島にも例のない、石と木の二重の槨さえ発見されているのだ。
 牛や馬がいなかったという話も、骨の発掘からきわめて疑問であるし、百まで生きるというのも信じがたい。衣服などについても、南方でしかありえないような、いいかげんな話である。

 もうひとつ信じにくい数字に、戸数がある。
 投馬国が五万余戸、《邪馬台国》が七万余戸などとなっており、数値のあるすべての国を合わせると十五万戸ほどである。
 一戸あたりの人数は、奈良時代について概算されており、平均二十二人ほどだったといわれている。
〈卑彌呼〉の時代はもっと多かったと推理されるが、かりにこの二十二を戸数にかけると、『魏志倭人伝』に数字のある国々の人口の合計は、三百万以上ということになる。
 国名が書かれていなかったり数字が書かれていなかったりする国は他にも多数あるので、『魏志倭人伝』から推理される当時の日本の人口は相当な数――たぶん一千万以上――になるであろう。

 しかし、奈良時代になっても、『魏志倭人伝』に書かれた地域の人口は、――沢田吾一らの研究から――たかだか数百万であろうと推理される。
 奈良時代より五百年ほど前の〈卑彌呼〉の時代には、これよりはるかに少なかったであろう。
 つまり、計算があわないのだ。
 このように、シナがつくる日本についての記事は、間違いが多く、あいまいで、かつ下品なのだ。


◆◆◆ 第四・三節の結論 ◆◆◆

 以上のようなわけで、『魏志倭人伝』とは、江戸時代に書かれたシナ正史の凄い中身から推察しても、また倭人伝そのものを考古学で検証してみても、

「周辺国については伝統的に侮蔑的で間違いの多い正史を書くシナの古い史書中のごく短い文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

 ――という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。

[次ぎは「第五章 〈卑彌呼〉という名の探索」]
 

『卑弥呼と日本書紀104』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 7日(金)12時05分0秒
  [承前]

◆◆◆ 対日蔑視と誇大数字 ◆◆◆

 明智光秀の本能寺の事件をデタラメに書いた興味ぶかい『明史日本伝』は、くりかえすが、江戸時代に書かれたシナの「正史」である。
 要するに、シナの伝統的な正史とは、江戸時代になってもこの程度のものにすぎなかったのだ。
 秀吉の時代には、日本と明国との交流は有りすぎるほど有ったのだから、もし正史の編者が本気になって調べようとしたら、もっとずっと正確な記述になっていたであろう。
 しかし本気にはなっていなかった。シナの役人の周辺国への態度は、大昔からこんなものであった。
 だから『魏志倭人伝』の信憑性も――明史より千五百年も前のものだから――良くてこのレベルだ、と考えなければならない。

 また、『魏志倭人伝』が『東夷(とうい)伝』のなかにあることからも分かるように、昔からシナでは、周囲の国々を、「東夷」「西戎(せいじゅう)」「南蛮」「北狄(ほくてき)」と呼んでいた。
 すべて野蛮な国という侮蔑した意味である。
 つまり人間なみには考えておらず、良くて貢(みつ)ぎ物を持ってくる蛮族といった扱いでしかなかった。
 ODAという名の大金を貢ぐ現在の日本も、北京政府から見ればその程度のものにすぎないが、昔はなおのことそうだったのだ。
《邪馬台国》の「邪」にしても〈卑彌呼〉の「卑」にしても、また倭国、倭人の「倭」にしても、当てはめられている漢字は下品な意味のものばかりである。
 差別意識を持っていなかったら、もっと上品な文字をあてはめていたであろう。

 そういうわけなので、『魏志倭人伝』の信憑性を客観的に論証するためには、「東夷」のなかの日本以外の国々や、「東夷」以外の外国についてどう書かれているかを見て、それらが事実とどのていど違っているかを検証する必要がある。
 それは著者の力の及ばないところであるが、歴史資料として批判に耐えるようなものであるかどうかは疑わしい。

 ざっと読んでみても、「女人国」や「顔が二つある人間の国」が東の海(つまり日本の本州の方角)にある――などという記述がいきなり出てくるのだ。

[つづく]
 

韓国武装すり団?  投稿者:yf  投稿日: 4月 7日(金)06時27分26秒
  こいつら掏(す)りかね 武装して複数で取囲み包丁突きつけ金品を奪う輩(やから)
これは掏りとはいわない 韓国武装強盗団だ!二度目みたいだから今度はキンタマ切り落として返せ、、面(つら)が見たい 新聞の一面にバカ面(づら)を晒(さら)せ!

管理人様 怒りに任せて書きましたが 差障(さしさわ)りがありましたら削除方、、
 

元のNHKでした・・・  投稿者:yf  投稿日: 4月 7日(金)05時44分13秒
  4月7日AM0500NHK教育TV放送再開 但し「日の丸・君が代」無し、、、熱りが冷めたら即中止ですか まぁ 局内外のヒダリマキやチョンから抗議があったであろう事は予想していたが これでは視聴料納めるのを躊躇しますな・・・  

『卑弥呼と日本書紀103』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 6日(木)11時55分59秒
  [承前]

 もし信長、秀吉や本能寺についてまったく知らない人がこれを読んだら、当時の日本の歴史についてどう理解するだろうか?
 秀吉の本拠地は九州の薩摩なのか、それとも大阪城のある近畿なのか――と、議論するかもしれない。
 それから、阿奇支はシナの発音でアケチで、明智は日本の発音でアケチだから、ひょっとすると阿奇支と明智は同族だったのではないか、まさか兄弟ではないだろうが親戚かもしれない――などと議論するかもしれない。

 こういう実例を見てしまうと、たとえば《邪馬臺國》ではなく《邪馬壹國》だといった議論はほとんどナンセンスであるように思えてくる。
 邪馬がヤマと読めれば、その次が臺だろうが壹だろうが、おなじていどの重みでそれは大和(やまと)だろうといえるし、同時にまた大和ではないだろう――ともいえてしまう。
 末廬国にせよ伊都国にせよ最初の読みのマツとかイトとかが現在に残る地名と合っていることが北九州地方とするひとつの根拠だし、奴国にいたっては、ナが一致しているだけである。「狗奴国=九州熊襲(くまそ)説」にしても、クが合っているだけである。
 だから、〈卑彌呼〉にしても、ヒやミコが合っていれば、それは『日本書紀(やまとのふみ)』のだれそれだろう――といえるし、またそうではない――ともいえるであろう。

 ここでくどいようだが、このていどのレベルの史書を元に詳細な議論をするナンセンスさを、もう一つのたとえで書いてみよう。
 もしローマ字での史料の断片しか分からず、真面目(まじめ)に検討しようという意欲のない未来の歴史家が、明治維新前後の日本の首都の名前について書いたとすると、次のようになるかもしれないのだ。

「・・・TOKYOという都市名は昔はKYOTOといっていたらしい。それを明治維新という革命があったので名前を変える必要が生じ、KYOとTOを逆転させてTOKYOとしたのだろう。しかしそれに異議を唱えて、後々までしつこくKYOTOと呼ぶ人間がいたらしい・・・」

 これは笑い話だが、『魏志倭人伝』にはそういう側面があることを承知していなければならない。
 だから、樋口清之、渡部昇一、西尾幹二、岡田英弘といった論客たちが、「B級資料にすぎない」と喝破して、一字一句を問題にする愚を指摘しているのだ。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀102』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 5日(水)12時16分10秒
  ■■■■■ 四・三 シナ正史自体の信憑性 ■■■■■


 さて次に、そもそもシナの正史における周辺国の記述がどれほど信憑性のあるものなのか、それを探ってみることにしよう。
 現代の中国の教科書にある自国以外の国についての記述――とくに日本や台湾についての記述――が強く偏向していることは、多くの人が指摘している。
 中国の指導者たちには、隣国の歴史や社会を正確に調べて記述しようという意欲がほとんどなく、あるのは自国中心の中華思想とプロパガンダである。
 そしてそれは今にはじまったことではなく、シナの歴史的伝統なのだ。

 もちろんほとんどの国の歴史の教科書は、自国に有利なことを中心にして書かれており、それは当然のことである。
 自虐的なことを書いて生徒の気持ちを傷つけている日本の教科書は世界でも珍しいのだが、それはともかくとして、自国の誇りを中心に書くのがあたりまえの歴史教科書のなかでも、中国のそれは際だっているといわれる。
 多くの識者(たとえば古森氏など)が、現代中国の教科書を精密に研究して、それが徹底して一方的なプロパガンダで埋められ、真実を隠蔽していることを明らかにしている。


◆◆◆ 奇々怪々な『明史日本伝』 ◆◆◆

 そういうシナの歴代権力者たちの習性からみて、古典だけ、あるいは『魏志倭人伝』だけが正確で良心的に記されているとはとても思えない。
 西尾幹二の『国民の歴史』では、『魏志倭人伝』の信憑性についての節で、岡田英弘『日本史の誕生』から次のシナ正史の一文を引用して、シナ王権の特質を抉っている。
 この引用文は有名で、たとえば渡部昇一も著書のなかで言及している。

 それは、光秀が信長を討ち、その光秀を秀吉が討った、「敵は本能寺にあり」という例の事件についての記述である。
 江戸時代になって著された『明史日本伝』というシナの「正史」のなかに、それがあるのだ。

「日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。当時、関白だったのは山城守(やましろのかみ)の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉(たいらのひでよし)といって、薩摩の国の下男(げなん)だという。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下(きのした)という名をつけてもらった。
 ・・・信長の参謀の阿奇支(あきし=あけち)というのが落ち度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて武将の行長(ゆきなが)らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて帰り、明智をほろぼした」

[つづく]
 

Re:技術ノウハウの流出  投稿者:はる  投稿日: 4月 4日(火)23時13分12秒
  団塊の世代が大量退職するに伴い、彼らが大量に中国に雇用されるとか…。  

相談役  投稿者:はにぃ  投稿日: 4月 4日(火)23時12分3秒
  陛下は
御本気で相談なさらないでしょう

それか、相談役があっけなく逝くかもしれまへんなw
 

技術ノウハウの流出  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 4日(火)16時06分15秒
  日本が百年かかって築いてきた貴重な技術ノウハウの流出が止まらないようです。
バブル崩壊から始まったと言われる流出ですが、何とかしてほしいです。
つい先日も、明治の偉人が作った技術系の企業の会長社長役員が、いつのまにか中国人が過半数になっているのを見ました。
資本と同時に、技術がどんどん流れてゆくようです。
 

たしかに  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 4日(火)15時53分58秒
  たしかに野村は、モスクワで小和田恒氏と一緒に勤務していた経験があるそうですね。
子供のころの皇太子妃を知っているらしい。
ますますおかしな人事です。
皇使混同です!
 

(無題)  投稿者:はにぃ  投稿日: 4月 4日(火)13時39分53秒
  小和田さんがらみでしょw  

野村ロシア大使  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 4日(火)12時34分48秒
  皇太子ご一家のお世話をする東宮大夫(とうぐうだいぶ)に野村一成駐ロシア大使が決まったのですね。
なんだかとても心配。
宮内庁はいつのまにか外務省出身者の就職先に?
 

『卑弥呼と日本書紀101』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 4日(火)12時22分47秒
  [承前]

 つまり、どこにあるのかが明確になっているこの三国間の位置関係が、じっさいと記述とでちょうど九十度だけ違っているのだ。
 これは否定しようのない完全な事実なので、その後の不弥国以降も、九十度違っているだろうと、かなりの妥当性をもって推理できるのである。

 ちなみに奴国→不弥国は『魏志倭人伝』では東なので、九十度変更して北とすると、いくつかの候補地のうち図3・1の楕円の北側に小円で示した津屋岬(および福間)が最有力となる。これも興味ぶかいことである。

 このようなことから、陳壽らが見ていた地図は真実とは大きく異なり、仮に「《邪馬台国》=《大和》」とすれば東と南の書き換えでなんとか説明がつくが、「九州説」ではとても苦しい――ということになる。
 したがって地図の問題は「大和説」の人たちの大きな支えとなっている。
 著者も、この地図の問題は重要だと考えている。


◆◆◆ 第四・二節の結論 ◆◆◆

 しかしここで言いたいのは、「《邪馬台国》大和説」の推奨ではない。
 そうではなくて、要するに、『魏志倭人伝』の編者の地理的知識はごくあいまいなものだったのではないかと疑う必要がある――ということを主張したいのである。

 つまり『魏志倭人伝』とは、日本列島が九十度も違っていて、しかもはるか南方にあるシナの古い地図からみても、

「不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

 ――という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。

[次ぎは「第四・三節 シナ正史自体の信憑性」]
 

栗山某  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 4日(火)12時16分34秒
  なるほど、確かに天皇陛下の相談役になったのですね。
じつに末期的な人事ですね。
もっとも、もうずいぶん前から皇室会議は乗っ取られているようだし、皇居内にも工作員がたくさんいるという噂ですし・・・。
 

栗山某  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月 4日(火)01時01分6秒
  WiLL 5月号
http://web-will.jp/latest/index.html

■山際澄夫 小泉靖国参拝を批判した栗山尚一外務省顧問の卑屈(P38〜48.)
『要するに自尊心を捨てて何でも中国のいうことを聞けというのだろう。(中略)
 湾岸戦争に見事に対応できなかった栗山氏は、その反省を明確にすることもなく、いままた自己合理化を図る必要からか、卑屈にも中国と「靖国参拝反対」を唱和しているのである。嗤(わら)うしかない。』(P48.)
 

Re:相談役  投稿者:yf  投稿日: 4月 4日(火)00時42分24秒
  2006年3月31日 東奥日報
栗山元駐米大使ら参与に 陛下の相談役、宮内庁
http://www.toonippo.co.jp/news_kyo/news/20060330010050081.asp

栗山元駐米大使ら参与に 陛下の相談役、宮内庁

2006年3月31日(金)

 皇室の重要事項について天皇陛下の相談役となる宮内庁の参与に、元駐米大使の栗山尚一(くりやま・たかかず)氏(74)と東大名誉教授の三谷太一郎(みたに・たいちろう)氏(69)の2人が4月1日付で就任することが決まった。現参与の中島敏次郎氏(80)と大西勝也氏(77)は3月31日付で退任する。

 新参与の栗山氏は1954年に外務省入省。外務事務次官、外務省顧問、駐米大使などを歴任した。三谷氏は日本近代史が専門で、2005年に報告書をまとめた日韓両国による「日韓歴史共同研究委員会」の日本側座長などを務めた。

 ともに最高裁判事だった中島氏と大西氏はともに2000年4月から参与を務めた。

(共同通信社)


この方「日韓歴史共同研究委員会」の日本側座長を勤めた方だそうです
日韓戯史の進講でもするのでしょうか、、

 

笑ってよもう倒狂珍文。  投稿者:アカ日のお里  投稿日: 4月 3日(月)23時59分57秒
  【WBC】差別はなかったか…WBCがまとう暗いナショナリズム[04/03]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1144068204/1-2
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1144068204/l50

中日新聞・東京新聞こそ電波!! その27
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/mass/1142060250/l50

こういうお見事な作文、大手マスコミに載るなんて、なかなかありません。です。(笑)
これをマジメに必死に書いているかと思うと、思わず笑いながら読めてしまうのはなぜ?w
本当にホンモノの記事なのか?
 

相談役  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 3日(月)22時51分56秒
  数日前に記しましたが、栗山尚一が天皇陛下の相談役に就任したという話、本当なのでしょうか?
本当だとしたら、いったい何を相談なさるんでしょうか?
まさか、靖国神社問題では!?
 

『卑弥呼と日本書紀100』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 3日(月)12時57分53秒
  [承前]

 一方(b)の地図で前記[A]の「《邪馬台国》九州説」をとることは、ほとんど不可能である。
「九州説」の場合には、陳壽らは地理は現在と同じ正確なものを知っており、ただ距離について間違えていたり現在の常識とはかけ離れた表示をしていたのだ、と――たぶんありえない――推理をしなければならない。
 しかも距離は長さの単位の「里」だけではなく陸行何日、水行何日という時間を単位とした記述がたくさんあるので、これをうまく九州に当てはめて解釈するのは大変である。
 そのため、水行二十日とは二十日に一度船が出たのだ――といった苦しい解釈まで飛び出している。

 ところでこの古地図で面白いのは、朝鮮半島や大陸から見るとほぼ九十度のちがい――つまり東と南のちがい――があるが、対馬と壱岐を基準にして日本本土を見ると、けっこう正確なことである。
 つまり朝鮮半島から見た対馬と壱岐の位置関係が違っているのであって、対馬から先の相対的位置関係はそれほど違ってはいないのだ。
 図4・3(b)の対馬を正しい地図の対馬と一致させた上で壱岐を一致させようとすると、(b)全体を九十度ほど回転しなければならない。
 そうすると、日本列島に関しては――大きさはまったく違っているが――列島の角度そのものは真実に近いものとなる。
 したがって、朝鮮半島から見た壱岐の位置を間違えたために、日本列島の角度が九十度ずれてしまったようにもみえる。


◆◆◆ さらに強力な論拠 ◆◆◆

 もうひとつ、方角の九十度違いについての強力な論拠がある。

 それは、

<北九州に到着してからの末廬国→伊都国→奴国の現実の方位は、図3・1でわかるようにほぼ「北東」を向いている>

 ――にもかかわらず、

<『魏志倭人伝』では末廬国→伊都国も伊都国→奴国も「南東」と記されている>

 ――ことである。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm
(図3・1は下左)


[つづく]
 

始球式  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 2日(日)22時07分10秒
   プロ野球が開幕。
 で、始球式をいくつか見ましたが、フィギュアスケートで話題の選手が印象的でした。

(1)荒川静香選手
 控え室から出てファウルラインをまたぐ前に立ち止まって、グランドに対して帽子をとって丁寧に一礼していました。
 それから帰るまでに何度か礼をしていました。

(2)浅田舞・真央選手
 この姉妹は、愛嬌はあるのですが、グランドに出てから帰るまで、一度も帽子を取らずお辞儀もしていませんでした。
 笑っているだけでした。
 教育がおかしいです。そばにいる人が事前に注意するべきです。
 

『卑弥呼と日本書紀99』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 2日(日)12時12分45秒
  (修正・前に日本の位置は「会稽(かいけい)東冶(とうや)の東方海上」という記述を、奄美大島と沖縄本島の間くらい――と記したが、もっと南まで、奄美大島から沖縄南端部の尖閣諸島あたりまでを含む南北に長い海域のようである。会稽とは現在の浙江(せっこう)省から江蘇省にかけての郡名、東冶とは現在の福建省福州のあたりの県名とされる。これは、この節で問題にしている、当時のシナ知識人が考えていた日本列島の位置と方位を知る上で重要な一行。つまり、ほぼ南北に長い南方の島々だと考えていたらしいことが、『魏志倭人伝』だけからでも推理できるのだ)

[承前]

◆◆◆ 九十度ちがう地図の波紋 ◆◆◆

「大和(やまと)説」を有利にみちびくひとつの仮説は、次のようなものである。
 まず、《邪馬台国》が《大和》だったと仮定する。
 すると、伊都国で魏の使者と会談した難升米ら日本の役人は、とうぜんながら《大和》と伊都国との間を何度も往復していただろうから、その間の距離や方角はかなり正確に把握しており、東に何十日もいかねばならない――と述べたであろう。
 それが魏の使者や記録者にどれほど正確に伝わったかはまったく不明だが、仮にあるていどは正しく伝わり、それがそれほどの変形を受けずに陳壽や魚豢に伝わったとしよう。

 そうすると、その伝聞を元に史書を書こうとするとき、図4・3(b)しか知らない書き手は、頭を悩ますであろう。
 図(b)で東へ船や徒歩で何十日も行くと、海へ出てしまい、さらに《邪馬台国》の近くにある何十もの国も、ぜんぶ海の中になってしまうからだ。
 そこで、伝聞と書写で残されたその資料は方角を間違えたに違いないと考え、不弥国から先は、東ではなく南だろうと考え、南に変更して書いてしまうかもしれない。
 これは、前記の[B]の「《邪馬台国》大和説」をとても合理的に説明するものである。

 昔は大和から伊都国あたりまで――早飛脚は別にして一般の人は――三十日ほどかかったらしく、そういう記述が日本の古い書物(延喜式(えんぎしき)など)に出ているそうである。
 気象条件を見たり船頭の都合を見たり旅の疲れを癒(いや)したりしながら、進んだからであろう。
 だから、北九州〜投馬国〜《邪馬台国》が水上三十日陸上一日という記述は、北九州から《大和》への日程とよく一致していることになるのだ。

 また地図(b)の《邪馬台国》は沖縄よりずっと南方にあることになってしまうが、これは『魏志倭人伝』のなかの倭人の記述や位置の記述が妙に南方的であることと矛盾していない。
 倭国の中心はかなり南方だからたぶんこうだろう――と陳壽らが考えたと推理できる。
 さらにこの地図にもとづくと、狗奴国は九州南部の熊襲(くまそ)ではなく大和よりかなり東の三重県や愛知県から関東の群馬県・栃木県にかけてのどこかの豪族だろうということになり、これも『日本書紀(やまとのふみ)』の四道将軍の伝説などと矛盾しない。
 前述したように、狗奴国とは群馬県(上毛野)から栃木県(下毛野)にかけての「毛野」と呼ばれた地方の豪族ではなかったかとの説が唱えられている。
「狗奴」の魏国読みと「毛野」の大和読みがきわめて似ているというわけである。
 また遺跡などからは、愛知県を中心とした東海地方ではないかとの説も有力になってきている。

[つづく]
 

栗山某  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 1日(土)21時19分16秒
  元外務事務次官で駐米大使の栗山某は、総理の靖国神社参拝反対の論文を発表したそうですが、その栗山某が今度、天皇陛下の相談役になったとか、新聞にありました。
どういう相談をするんでしょうか?
 

レス  投稿者:yf  投稿日: 4月 1日(土)20時02分52秒
  久保田さん、
遅くなりましたが、フォロー有難うございます。
この方にも困ったものですね。鬼籍が近ずくとヒダリマキ文化人に憧れるのでしょうか、、

 さて、書くほどの事でもないが、、
私の思いです。時を刻まず、静かに悠久の眠りを乱さずお守りすることが務め、、、

 開戦時の政治家、特に将軍(?)達は相当にお粗末、明治の元勲達に比べるべくも無い。
彼ら特殊な軍人達が靖国神社に祭られていることに依存は無い。日本はそういう文化であり、そう言う霊的な一見不合理とも思える行為を尊ぶ文化を私は好ましく思っている。近隣2国が吠えるのは、想像も出来ない精神世界故(ゆえ)是非も無いが、、、。
 個人的な思いではあるが、高名な政治家軍人の遺族が、無念な気持ちは分かるが、手記やメディヤに登場したりするのは如何(いかが)なものか。声無き多くの遺族がまだ存命しているおり、次の世代に託したほうが宜しかったのではと思います。

 さて話は変わりますが、、

 石原慎太郎製作総指揮 特別攻撃隊の青春群像を描いた作品(タイトル?)
クランクイン、、だそうです。どのような映画になるのでしょうか 興味があります。

『徳重&窪塚W主演…石原都知事製作総指揮の映画がクランクイン』
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200603/gt2006032701.html
 

『卑弥呼と日本書紀98』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 1日(土)10時32分29秒
  [承前]

 ちなみに、シナの都からみて日本は『魏志倭人伝』の記述どおり会稽(かいけい)の東方海上にあるという考えは、古くから日本にも知られていて、大学の名前や歌の文句になっている。東海大学の東海や「見よ東海の空あけて」という行進曲の東海がそれである。
 朝鮮半島の南端から日本への行路は、対馬→壱岐→北九州とすべて南へすすむので、その先さらに南へ行けば日本の中心部に達すると思ったのであろう。
 また五世紀前半のシナ史書『後漢書倭伝』には、日本列島は北西から南東にかけて長いと感じていたらしい文章があるが、だとすると(b)図が彼らの常識だった可能性がさらにたかまる。

(注・図4・1と図4・3(b)がたまたま並んでいるので、比べてみていただきたい。実際の日本と先方の人間の描いた日本とでは、その向きがほぼ九十度違っている事がわかる)

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm


◆◆◆ 「籌海図編(ちゅうかいずへん)」(図4・3c)について ◆◆◆

 これは一例として挙げたものにすぎないが、十六世紀ごろになっても、つまり信長や秀吉の時代になってもなお、このていどのレベルの地図がまじめに描かれていたのである。
 この図(c)を見ると、図(b)のような日本列島への理解は、十七世紀――シナでは明から清の初期、日本では江戸前期――まで続いていたらしいことがわかる。

 一部に室賀信夫の意見への反論も出されているが、国際日本文化研究センター教授で古代の歴史地図について研究している千田稔は、室賀説やそれへの反論をさまざまな角度から検討して、室賀説が正しい可能性がたかいことを、ごくさいきんも『卑弥呼は大和に眠るか』のなかで述べている。

 いずれにせよ、陳壽や魚豢が『魏志倭人伝』を書いたとき念頭に浮かんでいたのは、げんざいのような日本地図ではなく、図4・3(b)のような地図の原形だった可能性がきわめて高いのである。

 だとすると、
「《邪馬台国》大和(やまと)説」
 ――ががぜん有利になってくる。

[つづく]
 


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