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喫茶室 過去ログ86(2006.7.1〜7.31)

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日經は親中か  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月31日(月)22時49分40秒
  日本經濟新聞が中国とのビジネスのために國參拜中止や分祀(ぶんし)での參拜を主張するなら、ガセメールと同じで「お金で魂を賣っている」という事になりますね。

日經は親中かつ新米で、お金のために外國に媚(こ)びる危險性があります。

日本は、アメリカに對しては金を出して魂も賣っている事になります。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

石川英輔さんの御本紹介  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月31日(月)14時39分1秒
  ■石川英輔さんの新刊文庫

◎石川英輔『大江戸開府四百年事情』講談社文庫(200607)

第一章 徳川幕府の政治
第二章 盛んになる農工商業
第三章 江戸の暮らし
第四章 江戸時代の多様性
第五章 江戸時代は二百六十五年続いた!
(2003年に出た本の文庫化)

■石川英輔さん

 技術系の感覚でユニークなSFを書いて作家としてデビューした方ですが、私は昔からの知り合いでして、いつもご本を戴いています。
 上掲書は最近贈呈して下さったものです。
 SF小説は今でも書いておられますが、最近では、江戸時代の研究家・啓蒙家として有名で、NHKテレビのお江戸ドラマ(お江戸でござる/道中でござる)の解説でも、毎週のように温顔を拝見します。
 おそらくは、過去への時間旅行SF執筆のために江戸時代の研究を始められたのでしょうが、大変な資料収集と分析の能力で、いまでは、歴史の専門家を超えてしまったと思います。
 そして、その歴史観は、きわめて健全です。

■たとえば、次のような言葉が記されています。

「・・・身売りの証文が10点あったとしても、それが全体の中でどの程度の割合を占めるかがわからなければ、個人的な問題と考えるべきなのか社会的な問題と考えるべきかも判断できない。仮に人口10万人の町でのことなら、その人以外の99990人は身売りしなかったことになるが、いちいち「私は身売りをしなかった」と書き残す人はいないから、その記録は残らない。
 ・・・酒を飲めない人が日記に毎日「今日も酒を飲まなかった」と書かないように、普通の人は当たり前のことを記録に残さないから、10万人の町で99990件の「私は身売りをしなかった」という記録が残っているはずがない。史料至上主義の立場に立って、史料のない部分を無視すれば、残るのは身売り した人の記録だけになる。
 母集団の大きさを無視したこういう記述を読むと、まるで全員が身売りしたとまではいわなくても、身売りする方が当たり前の社会だったような印象を受けるのだ」

 飢饉や一揆の問題でも同じですが、石川英輔さんは、江戸時代暗黒説に対して数量的な検討を加えて、きわめて論理的な反論をしておられます。

■石川英輔さんが講談社から出している文庫本

 石川英輔さんの著作は人気が高いので、四六版などで出たあと、みな文庫になっています。
 したがって入手は容易です。
 以下に記します。

◎大江戸神仙伝
◎大江戸仙境録
◎大江戸遊仙記
◎大江戸仙界紀
◎大江戸仙女暦
◎大江戸仙花暦
(以上はSF小説)

◎大江戸えねるぎー事情
◎大江戸テクノロジー事情
◎大江戸生活事情
◎大江戸リサイクル事情
◎大江戸えころじー事情
◎雑学「大江戸庶民事情」
◎大江戸番付事情
◎大江戸庶民いろいろ事情
◎大江戸開府四百年事情
(以上が江戸時代の解説書の主体)

◎大江戸生活体験事情(共著)
◎2050年は江戸時代
◎数学は嫌いです!

 一般の方々には、(江戸時代解説書の主体)と記した九冊をお薦めします。

■エネルギー物質とエントロピー

 石川英輔さんは、エネルギーや物質に着目して江戸時代を現代と比較していますが、同時に、エントロピー概念による比較もなしておられます。
 こういうところも、いかにも技術者らしい発想で、好感がもてます。

■もう一つのたとえ話

 昨日の本の「身売り史料」への反論の次に笑話が記されていますので、引用しておきます。
「(江戸時代暗黒説の)著者は「事実を述べただけ」というかもしれないが、事実は必ずしも真実ではないのである。こういう笑い話がある。
 たまたまある貨物船に乗り合わせた船長と一等航海士はとても仲が悪かった。その船会社では、航海日誌は、船長と一等航海士が当直の日に交代でつけることになっていたが、船長は毎回「今日の非番の時、一等航海士はずっと酒を飲んでいた」と書いた。腹を立てた一等航海士が、「非番の日に酒を飲むのは私の勝手で、当直の時には一滴も飲まないのに、なぜわざわざそんなことを書くのか」と抗議すると、船長は、「私は事実を書いただけだ」と答えた。
 一計を案じた一等航海士は、次の当直の日誌から「昨日の船長は、当直中酒を飲まなかった」と書いた。毎回同じことを書くので、今度は船長が腹を立てて、「こういう書き方をされると、日誌を読んだ重役たちに誤解されるから書かないでほしい」と抗議すると、一等航海士は「貴方と同じように、私は事実を書いているだけだ」と答えた。

 つまり、二人とも、事実の一部だけを書く、つまりウソではないが真実ではないことを書くことで相手を攻撃したのである。私たちが江戸時代に対して抱いている暗い印象も、似たような方法で作り上げられた部分が多い。
 具体的にいうなら「量としては圧倒的に多い普通の生活は、記録にないため無視し、記録に残っている異常な社会現象だけをくわしく説明する」方針で、事実ではあるが真実ではない江戸時代の姿を教えられたのだ。しかも、それが〈異常現象史〉なのだという説明がないから、大部分の日本人は、江戸時代は人権無視の暗い封建社会だと思いこむようになったのである」

■これはいろんな憂国の士が

 ――前々から言っている考えですが、石川英輔さんは、技術者的な感覚でじつに詳細に数値的分析を加えておられるので、同じ言葉でも、迫真力が違ってくるのです。
(石川英輔さんは、もともとは印刷技術の専門家で、学会から賞を受けているような有能な技術者です。専門方面の立派な著作もあります)

■とくに飢饉の話は

 ――すでに有名になっています。
 偏ったイデオロギーで江戸時代を暗黒とする論に対して、石川英輔さんはじめ多くの憂国の士が、上のたとえ話と似た筆法で反論しておられるようです。
 たしかに住民が餓死するような飢饉はありましたが、そういう悲惨な史料が残っていない年や場所では、人々は普通に暮らしていたわけでして、そういう普通に暮らせた年や場所の方が、圧倒的に多いのです。
(江戸時代の日本は、たいていの場所に文字の書ける人がいました)

■江戸時代暗黒説は戦前から

 ――ありました。
 戦後の暗黒史観は左翼的イデオロギーによるのでしょうが、戦前のものは、明治維新を賞賛するために、その前をことさら悪く言う人がいたためのようです。
 オロモルフが戦前戦中の小学生時代に習ったのはそういう暗い江戸史観でした。

■江戸の飢饉について面白いのは

 ――同じ理系でも技術畑の石川英輔さんとは対極にある理学者の板倉聖宣(理学博士)さんの原子論的考察で、「物質不滅の原理」に基づいて暗黒説を論破しておられます。
 これは渡部昇一さんが称揚しておられる考え方です。

■板倉聖宣さんの「物質不滅の原理」によるお米の研究

 話が板倉さんに移ってしまいますが、江戸暗黒史観を論破する有名な説なので記しておきます。
 といっても私もうろ覚えですので雑談にすぎず、興味をお持ちの方は、板倉さんの著作をお読みください。

◎江戸時代の農民は気の毒で、稗(ひえ)や粟(あわ)などの雑穀をやっと食べる程度でいつも飢えていた、と言う人が多いらしい。

◎江戸時代は史料が豊富に残されていて、それらから、農民が作っていた穀類は石高(こくだか)にして、米が七割、残りが麦と雑穀半々だった。
 しかし暗黒史観では、米は年貢米として武士階級に搾取されてしまい、農民は食べられなかった――とされるらしい。

◎板倉さんの原子論的「物質不滅の原理」によりますと、

A 武士階級の人数は農民に比べてほんのわずか(多くて5パーセント?)で、どう計算しても、そんなに多くの米を食べられる筈がない。

B それに、ありあまる量の米を奪っても、それだけで生きてはいけない。
 おかずもいるし、衣服や刀も買う必要がある。家もいる。それに、もし米だけ大量に貰っても、煮炊きする釜も薪も無かったら、食べることが出来ず、お米の山を前にして飢え死にしてしまう。

C だから、年貢として取り立てた米を売ってお金や他の物資に換える必要がある。そのためには商人に売ることになる。

D その商人は、買った米を自分たちで食べたのだろうか?
 商人の人数は、武士と同程度であり、そんな多くの米を食べられるわけがない。それに、儲けるために買うのだから、買った米はどうなるのだろう?

E 日本は江戸時代でも海外との貿易をしていたが、米を輸出したという話は、国内にも外国にも残されていない。
・・・・・・・・

 板倉さんは、こういう論法で、様々な史料を駆使して、米の行方を追って、日本の農民が米を食べられずに飢えていたのはおかしい――という結論に達します。

 板倉さんは、この話を聞いた反日教師から、「お前は江戸時代の農民が可哀想だとは思わないのか」と詰問されたそうです。
 可哀想とかそうでないとかいう話ではないのですけどね・・・。

 オロモルフは、別の意味で、暗黒史観に疑問を抱いています。
「日本全国の農民がそんなに飢えていたら、身体が弱って病気になり、次の年に農作物を作る人がいなくなるのでは? だとすると武士階級も共倒れになるのでは?」

■江戸時代の農民と女性の地位

 この後は本当の雑談です。
 石川英輔さんのご本には、江戸の女性の地位についても、いろんな話が書かれています。
 江戸幕府ができたころは、女性の人口が少なかったため、相当な女性上位だったらしい。
 それが時間とともに女性が増えてきて、そうでもなくなったようですが、幕末になっても、日本の女性の地位は相当高いものだったらしい。

 これは、来日した多くの欧米人の記録に、驚きとともに記されています。
 とくに同じアジアの近隣国と比較して驚いたようです。

 私は戦前戦中に小学校で江戸時代暗黒説を習ったので、江戸の女性の地位や身分制度について誤解がありましたが、聞いてみますと、我が家でも女性は相当上位だったとか。

 私の曾祖父は江戸開府の時に家康に従って江戸入りしたと伝えられる家系の旗本でしたが、その妻、つまり曾祖母は、近在の農村の出でした。
 どういう農家かは分かりませんが、特別な家ではなかったようです。
 テレビでお馴染みの江戸城大奥に勤務してハクを付けた(?)のち、旗本と結婚したのです。

 父の記憶によりますと、この曾祖父母の家庭は徹底した女性上位で、農家出身の妻の方が酒飲みで数段威張っており、旗本の夫は、妻の荷物を持ってトコトコとあとをついてゆくような有様だったらしいです。
 ですから、女性の地位についても、学校で習ったことと我が家の言い伝えとは、かなり違うのです。

 私の自宅の書庫はSFが充満しておりますが、書庫として使っている五つの部屋に「SF擁書楼1〜5」という名をつけております。
 これは江戸時代の学者・小山田與清(おやまだ-ともきよ)の真似(まね)です。
 小山田は、農村の生まれですが学問が好きで、江戸に出てお金を貯めて「擁書楼」という図書館をつくりました。
 これは、日本における私立図書館の最初だそうです。
 このほかにもいろんな例があり、地方の農村から江戸に出て成功した人は結構いるようです。私の曾祖母もそのうちの一人?(笑)

 女性の旅行についても、田上菊舎(たがみ-きくしゃ)、荒木田麗(あらきだ-れい)など多くの江戸時代の女流作家が、日本各地を歩いて文学修行をし、その道中日記を残しているそうです。

 もちろん旅行の容易さとか人数とかは今とは違います。
 なにしろどこに行くにも歩くわけですから、女性はとくに大変だったでしょう。

 いずれにせよ江戸時代には、数多くの女性の日記が残されているのです。
 これは、アジアの他の国ではほとんど無いことだろうと思いますし、欧米でも少なかったでしょう。
 

『卑弥呼と日本書紀218』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月31日(月)14時17分41秒
  [承前]

 こうして神の助けで功なった〈神功(じんぐう)皇后〉は、宝物や人質などとともに凱旋する。
『日本書紀(やまとのふみ)』には別説が二つほど記されていて、もっと生々しい戦いの話もあるが、最終的には相手に頭を下げさせただけで、どこかの国のように王一族を皆殺しにして征服するといった残虐なことはしていない。

 十二月――
 そして帰国してすぐの十二月に、石で抑(おさ)えていたお腹(なか)の子ども、つまり應神天皇を――伊都県(いとのあがた)または儺県(なのあがた)で――出産する。
 またそのすぐあとで住吉三神が皇后に教えて、わが荒魂(あらみたま)を穴門(あなと)の山田邑(むら)に祭るようにといわれたので、皇后は神主(かんぬし)を決めてその地に神社を建立した。
 いまの下関市内である。

 これが有名な男装の女帝〈神功皇后〉による三韓征伐と應神天皇誕生の伝説である。

**********

 この物語は、日本にとってとても都合よくできている。
 だから戦後の史学界には、単なる空想譚(たん)だとする意見もある。

 しかし最近のさまざまな研究によって、四世紀から五世紀にかけて、日本による朝鮮出兵と任那(みまな)拡大があったことはどうやら確からしいので、その初期の出兵の記憶を美化して描いたのが〈神功皇后〉の三韓征伐なのであろう。
 具体的な話の多くは、今は失われている百済(くだら)の古代史書を参考にしているらしい。

 年代的には、『記紀』では単なる一二〇年加算で西暦三二〇年ということになるが、その内容は、内外の史料によってほぼ確実とされる西暦三七〇年前後や四〇〇年前後の大規模な出兵とよく似ている。

 しかし南原次男の戦史学的な研究では、大規模出兵には前哨戦があった筈で、それが〈神功皇后〉の遠征だった可能性が高いという。
 もしそうだとすると、『三国史記』とも一致する、仲哀天皇の崩年干支である三六二年の直後の可能性が高いと考えられる。

[つづく]
 

yfさん、久保田様  投稿者:国際人  投稿日: 7月31日(月)08時17分44秒
  早速のコメントありがとうございます。
出会い系、詐欺業者とは関係ありませんのでご安心ください。
私は30年外国に住んで現在日本とヨ〜ロッパ、アラブとの文化交流をめざし活躍している人と知り合いになり共鳴しているものです。
これからもよろしく。

http://www.oooooouch.com/

 

Re.有益情報提供  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月31日(月)00時12分19秒
  >yfさん

 私がウイルスチェックを装備しながら「人柱」してみますた(笑)。中にはワンクリックでネットユーザー情報を抜きとって「有料メンバーになったから早く支払え」という悪質な詐欺業者が蔓延してるから気をつけたいところです。ぽっと出てきた投稿者が「ご紹介のリンク」を張ったのを・・・安易に飛ぶのは考え物ですから、yfさんの仰(おっしゃ)るとおりでしょう。

■1つ目のリンク・・・『宣伝...情報公開』というティーカップ掲示板ですが、「アダルト出会い系リンク集」のホムペ設定しているのは?です。はっきりいえば誤解されますね、最近はなくなったようだけど「出会い系ビジネスの投稿者」がやたらとリンクを書き込んでました。

■2つ目のリンク・・・英語・ポルトガル語版「フラッシュゲーム」で遊ぶホムペ。俗な言い方をしますが、ブロンドビキニギャルがピアノの鍵盤のようにドレミファソ・・・と横たわり、その彼女たちをクリックすれば「Hi!」の音程が流れます。ジュークボックスのようにあらかじめプリセットされた曲(ハレルヤなど)を流す事ができますし、自分で操作して曲を作ることもできます、何しろ「ブロンドビキニギャルが鍵盤のミュージックプレイヤー」なので・・・思わず遊んでしまった(爆)。



>国際人さん

2つ目のリンクの「フラッシュゲーム」は楽しませてもらいましたが、ただ感心出来ないのは具体的にいうと・・・紹介された掲示板の最下段にある「ホームページへ」の設定されているのが出会い系サイトリンク集なるHPだったりします。このせいでアダルト出会い系のビジネスに加担してる?ともとれてしまう。

以下、興味あるコメント

>これからの日本は米だけに頼るのでなくヨ〜ロッパにも目をむける必要があると思われる。

 そこから日本側が欧州側に関して、どのような持論を以って展開していくのか政治・経済・軍事・社会的傾向・ビジネスの実態・生活の現状・現地人の趣向性・在日外国人の趣向性など、そのうちのひとつでも具体的に書き込んで貰えれば、よかったと思う。例えば在日外国人を雇う風俗の実態性・問題性を問くアンダーグラウンド的なテーマで詳しく書きこむならば、私は敬意に値するけど。
 

Re.有益情報提供  投稿者:yf  投稿日: 7月30日(日)21時07分57秒
  下のURL大丈夫かいなぁ〜 (笑い
私は開ける勇気が無いのだが、、、

国際人殿 間違っていたら御免なさい
過去に痛い目に遭っているものですから、、
 

有益情報提供  投稿者:国際人  投稿日: 7月30日(日)13時26分17秒
  これからの日本は米だけに頼るのでなくヨ〜ロッパにも目をむける必要があると思われる。
そのためにも以下のサイト一度みてほしい。なを国際人はこのサイトで紹介している青年実業家と面識ある友人がいる。URLは下記 http://8008.teacup.com/supermagic/bbs
管理人さま 国際交流の意味もあると思われるのでよろしく

http://www.oooooouch.com/

 

『卑弥呼と日本書紀217』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月30日(日)12時48分19秒
  [承前]

 新羅(しらぎ)王は国が海になってしまうのかと怖れていると、軍船が海に満ち、軍旗が日に輝いているのが見えた。
 新羅王は、

「東方の神の国である日本の天皇の神兵なのだろう。防ぐことなどできない」

 ――といって、白い絹の旗を掲げ自分を後ろ手に縛って皇后の御船に降伏した。
 そして、毎年日本に朝貢(ちょうこう)することを堅く誓った。
〈神功(じんぐう)皇后〉は新羅王を許して配下にし、その国の宝庫を封じ、地図・戸籍・文書を収めた。そして矛を新羅王の門に立てて証拠とした。

(降伏のしるしの白旗はこの時代から有ったらしいが、旗についての日本最古の文書は、この〈神功皇后〉の話と景行天皇の九州討伐の話で、いずれも降伏・帰順の白旗である。古代においても白旗が降伏を意味していたようである)

 新羅王は微叱己(みしこ/『三国史記』の新羅史の未斯欣(みしきん)に対応*)を人質ときめ、八十艘(そう)の船に日本に贈る財宝を積んで、皇后の軍船にしたがわせた。これ以後、つねに新羅から八十艘の朝献がくるようになった。

 この八十艘の朝献というのは、後の天皇の記録にも見え、〈神功皇后〉の遠征がその由縁らしいが、しかし新羅が大和(やまと)朝廷にとってじつに厄介(やっかい)な国であったことも、『記紀』の随所にあらわれている。

 新羅が降伏したので、半島のあと二つの大国、高句麗(こうくり)と百済(くだら)も、とてもかなわないと見て、

「今後は自分たちを西蕃(西の未開の国)と謙遜の言葉で自称して朝貢を絶やしません」

 ――と約束する。

(* 『三国史記』のこの話はもっと後の時代となっているが、〈神功皇后〉の遠征譚(たん)にあるエピソードは、『魏志倭人伝』から應神天皇にかけての物語を含んでいるらしい)

[つづく]
 

媚中化  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月30日(日)12時45分18秒
  この十年、日経の媚中(びちゅう)化傾向って、酷(ひど)いものがありますね。  

なので  投稿者:大神 正念  投稿日: 7月30日(日)12時02分38秒
  >更に日経などは支那に投資すれば儲かりますよとイケイケドンドンですからね。「支那の犬」といわれても仕方がない。大体、経済(しかもミスリードですが)だけ扱ってりゃいいのにどうして

↑この部分は買うなぁ。そう、「何故(なにゆえ)に日経が書くのか」なんですがね。
自分は、結構単純に考えているんですがね。
つまり・・・支那に進出する大企業にとって、小泉さんの存在は、煙(けむ)たかった。さて、次は安倍さんか。。。 て、いう時期でしょ。
大企業の圧力。つまり、経団連か同友会か分らんけれども、日経新聞に圧力かけるなんざ、屁(へ)でもないわけで。

・・・案の定(じょう)、安倍さんは立候補の条件から靖国の臭いを消した。世論は参拝反対に傾く。

そう考えるとですよ、陛下のお言葉は、余計、真実でなければ困る事になりますね。
 

う〜ん  投稿者:通りすがり  投稿日: 7月30日(日)06時04分37秒
  >日経くらいの大新聞なら、その根拠に確信があるんだと思いますよ。

さて、果たしてそれはどうですか。まあ、確かに「確信」はあるんでしょうけどね。
朝日や毎日などを見ても解る通り、日本の「大メディア」はあることないことを書き散らし、挙げ句の果てにわざわざ自国が不利になるように敵国様にご注進するくらいですからね。今までにも散々捏造報道している癖にそのことを指摘されても知らぬ存ぜぬ。某局の731部隊の特集ではわざわざ安倍官房長官の写真をサブリミナルみたいに映しておいてそれを指摘されても単なるミスでしたと。ガス器具のパロマのことは執拗に報道するクセに自らのこととなれば極めて甘い。厚顔無恥とはマスコミのためにある言葉でしょうね。まあ、受容者である国民が本気で文句を言わないからどうしようもないですけどね(最近少しは改善されているようですが)。

更に日経などは支那に投資すれば儲かりますよとイケイケドンドンですからね。「支那の犬」といわれても仕方がない。大体、経済(しかもミスリードですが)だけ扱ってりゃいいのにどうして先帝陛下のお気持ちとしてこの時期に「一大スクープ」する必要があったのか。本当に裏を取っているのでしょうか? その根拠として出しているのが結局「女帝容認論者」の静岡福祉大の高橋教授がそう言っているからだと・・・。全くお話になりません。これが間違った報道だったとして糾弾されても奴らにとっては蛙(かえる)の面(つら)に小便ですよ。訂正すらせずそのまま有耶無耶(うやむや)にするでしょうね。「下世話(げせわ)なスポーツ紙」はそれに徹しているだけまだマシです。所謂(いわゆる)一流紙(爆笑)は真実と嘘を巧(たく)みに混ぜてくるので質が悪い。

自分としては、仮にあのメモが本当に先帝陛下のお気持ちだったとしたらそれはそれとして受け容(い)れます。その後の判断は各々がすればよいことです。ただ、死人に口なしと言っては大変失礼ではありますが、最早(もはや)検証も覚束ないことを、さも事実のようなフリをして公に出してくるところが怖ろしいのです。たとえそれが嘘であっても一旦脳にインプットされてしまえばかなりの洗脳効果がありますからね。そのことを憂いているわけです。
 

いや、でもね。  投稿者:大神 正念  投稿日: 7月30日(日)02時15分24秒
  あのメモが偽りだとしたら・・・。

公表した日経新聞社は、確かにとんでもない事になりますよ。
あれを一面に公開するだけのウラは、日経ぐらいの大新聞なら、その根拠に確信があるんだと思いますよ。
下世話なスポーツ紙とはちゃうんだから。

・・・臭いのはね、“なぜにこの時期に?”ってとこでしょ。
そこを考えてみないと。
 

私は行きます  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月30日(日)01時56分53秒
  假に本物だとしても。裕仁氏は御自分が参拝したくないと述べただけで、總理以下、他の国民が参拝するかどうかについては命じていません。

裕仁氏を尊敬する人も、彼のコピー人間ではないのですから、好き嫌いの感情まで真似する必要はありません。

私は昨日(土曜日)、國~社に賽銭を投げて参拝いたしました。
みたままつり(御魂祭りまたは御霊祭り)のときほどではないですが、参拝者はいました。

廣東(カントン)語(よく聴き取れなかったが越南語にも聴こえる)らしき言葉を話すアジア系のお客さんのグループも國~社の自動販賣機近くの休憩場で雑談していました。

隅田川の花火と重なって浴衣姿の人も近くで見かけました。

天皇中心に統制されるのは嫌だと日頃はいいながら、こういう時は天皇のお気持ちを錦の御旗(みはた)にして異論を封じる。朝日新聞もいつから昭和天皇にそんなに忠誠を示すようになったのやら。

繰り返しますが、國参拝を禁止したがる人の方が全体主義的で、参拝をしようとする人や支持しようとする人の方が民主的で、「個人」を大切にしています。

ねじれ現象が凄い。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

江戸人へ  投稿者:通りすがり  投稿日: 7月30日(日)01時03分3秒
  あの怪しげなメモ、本当に昭和天皇のお気持ちだと思ってるのか?
先帝陛下はそんな個人的な感情、まして政治利用されかねないようなことを他人に漏らされるような迂闊なお方ではないよ。

自民党総裁選と、8月15日の首相の靖国参拝に絡んだ中共からの妨害工作プラス日経のインサイダー取引の隠蔽説が、今やかなり濃厚なのにねえw

おめでたいというかもう少し頭使えよ、バカ。
それに昭和天皇さんだぁ? 言葉遣いに気をつけろよ、この成りすまし野郎が
 

昭和天皇さん  投稿者:江戸人  投稿日: 7月29日(土)22時51分37秒
  昭和天皇が参拝をしないといったら俺は行かない。
総理も行かないでほしいな
天皇が言ったことなんだからさ
 

ぷっ  投稿者:大神 正念  投稿日: 7月29日(土)22時43分15秒
  金正日 第四婦人

      ・・・・ 金玉 って。

いや、失敬。人の名前を笑っちゃイカンですな。

      ・・・・ 金玉 って。

もう、金ちゃんたら、いつもおちゃめなんだから〜。

しかも、天下のNHKで、“金玉”というスーパー掲げながら
キャスターが・・・
「金正日4番目の奥さんはオクさんです」なんてダジャレまで
語る始末。

そっかー、北挑戦の今度の外交手段は・・・お笑い友好作戦か!
 

『卑弥呼と日本書紀216』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月29日(土)13時12分20秒
  [承前]

▽仲哀天皇九年4(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔いよいよ出発!〕

 図7.1に、〈神功(じんぐう)皇后〉の実紀年あるいはその少し後の朝鮮半島のおおまかな勢力分布を示す。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H62-71.htm

 図のなかでも新羅(しらぎ)はのちに半島南部を統一する国で、したがって国力も強く、古代の日本にとってもっとも厄介な存在だったらしいことが、『記紀』の記述から知られるが、〈神功皇后〉が向かう主な相手が新羅であることも、『記紀』に記されている。

〈神功皇后〉の遠征は三韓征伐という言葉でも知られるが、三韓とは図3.2に描いた馬韓・辰韓・弁韓の三地域のことである。
〈神功皇后〉のころには各地域内の統一が進んで、馬韓は百済(くだら)になり辰韓は新羅になっていた。
 さらに三韓のはるか北方から、騎馬民族国家とされる高句麗(こうくり)が南下してきていた。
 三韓の残る一つは南部の弁韓だが、この一部は任那(みまな)といわれる日本領として〈卑彌呼〉の時代から続いていたらしい。
 三韓征伐の実態は、弁韓を狙う新羅を押し返して任那を弁韓全体に広げ、さらに拡大することにあったらしい。
(三韓の消長については第三章にくわしく記してある)

 図7.1は、〈神功皇后〉から應神天皇の御代(みよ)にかけてその領域を拡大した任那を描いている。

 十月――
 冬十月に対馬を出発して(*)朝鮮半島の新羅に向かうと、天佑神助によって風は順風となり魚は浮かび上がって軍船を助け、櫂を使わなくとも船は進んだ。そして船に沿った波が新羅の陸上にまで達した。

(* このような『日本書紀』の記述からも、対馬が古代から日本領だったことが知られる。もしそうでなければ、対馬で戦いがなされたであろう。昨今の近隣反日国の意見はまったくおかしい)


[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀215』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月28日(金)12時35分41秒
  [承前]

▽仲哀天皇九年3(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔遠征準備ととのう〕

 九月――
 九月になると船や兵を集めるが、最初は兵がなかなか集まらなかったので、大三輪社を建てて刀や矛を奉納すると、自然に集まるようになった。
 これは《大和(やまと)》の三輪山麓にある《大神(おおみわ)神社》の分祀(ぶんし)ともされており、福岡県朝倉郡三輪町の大己貴(おおなむち)神社がそれといわれている。
 古くから《大神神社》に祀(まつ)られているのは〈大物主神〉だが、これは〈大己貴神〉や〈大國主神〉と密接に関係した神である。

 それから皇后は偵察隊を派遣するが、最初はその国を発見できず、二度目に行った人物が「西北に国があるらしい」と復命する。
 そこで〈神功(じんぐう)皇后〉は、出兵にあたっての大演説をおこなう。
 その大意は、

「軍規を乱してはいけない。財物をむさぼり私心をいだくと敵に捕らえられるだろう。敵が少数でもあなどるな。敵が強力でもひるむな。婦女を暴行するな。降伏する者を殺すな。戦勝を得たら褒賞がある。逃亡すれば罪になる」

 ――といった残虐を戒めた内容で、古代の演説とは思えないほど理性的である。

 ここでまた航海神である住吉三神の次の神託がある。

「和魂(にぎみたま)は皇后につきそって命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となって軍船を導くだろう」

 そこで皇后は拝礼し、神主を定め、荒魂を招請して軍の先鋒とし、和魂を招請して旗艦の鎮守とされた。
 このとき、〈神功皇后〉は臨月になっていたが、石を取って腰にはさんで抑え、

「事を成就して帰還したらこの地で生ませてください」

 ――と祈った。
 そのときの石はいま、伊都県(いとのあがた)の道のほとりにある――と記されている。
 この県は『魏志倭人伝』の伊都国(いとこく)であり、このときお腹にいたのが、巨大な前方後円墳で知られる、次代の應神天皇である。

[つづく]
 

「分祀參拜贊成」に轉向した朝日新聞の御都合主義  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月27日(木)15時50分56秒
  たとえ、不幸にして分祀(ぶんし)されたとして、もし、新しい總理や閣僚が所謂「A級戰犯」の方にも參拜したら、朝日新聞その他はどうするつもりでしょう。
朝日新聞などは、最初、國~社そのものには干渉せず、政治家の參拜を批判していました。
今では分祀した上での參拜が必要と言う意見に轉向したらしく、國~社叩きをしています。
こういうのを朝日新聞の二枚舌と言うのです。

「分祀」の意味はよくわかりませんが、私は今の靖國~社にも時折、參拜しており、假に末端兵士と指導者の慰靈が2箇所に分かれたら、氣にせず、兩方に參拜するつもりでいます。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

こんなサイトだけどいいかな?  投稿者:自称エッチOLあさみ  投稿日: 7月27日(木)12時35分13秒 Remote Host: 221.212.25.78, Time: 1153971313
  (本投稿は、当掲示板の趣旨に相応しくないものと判断し、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀214』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月27日(木)12時25分42秒
  [承前]

▽仲哀天皇九年2(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔神意をはかる皇后の奇跡〕

 四月三日――
 周辺の安定が得られたので、つぎに『魏志倭人伝』の末廬国(まつろこく)に相当する松浦県(まつらのあがた)に進み、ここで朝鮮に遠征すべきかどうか、神意をうかがうために、縫い針で釣り針を作り飯粒を餌にして川中の岩に登って、

「事が成就するなら川の魚よ、釣り針を呑め」

 ――と仰(おお)せて竿を投げると、たちまち鮎(あゆ)が釣れた。
 これがこの地方で女たちだけが釣り針で鮎をとる習慣のはじまりで、この事績を踏まえたのが、第四章や本章のトビラ裏の歌など『万葉集(まんにょうしゅう)』のいくつかの歌である。

 なお、この鮎を見たとき皇后は「メズラシキ物」と仰せられたが、そこから「メズラの国」と呼ばれるようになり、それが訛(なま)ったのが松浦(まつら)の語源だと記されている。
 このような一種の語呂(ごろ)合わせ的な地名語源説は『日本書紀(やまとのふみ)』の随所にあるが、本書では割愛している。

 つぎに〈神功皇后〉は、遠征を神に助けてもらうための神の田を儺県(なのあがた/『魏志倭人伝』の奴国(なこく))につくるが、岩で塞(ふさ)がれて儺河(なのかわ/いまの那珂川)からの水路が作れない。
 そこで武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて神々に祈ると、落雷があってその岩が裂けて水が通るという奇跡がおこった。

 ますます自信をつけた皇后は、橿日宮(かしひのみや)にもどり、海辺に出て髪を解き、

「わたしは神祇(じんぎ)の教えをうけ、先祖の霊を頼って、海を渡って遠征しようと思う。もし霊験があるなら髪よ、分かれて二つになれ」

 ――と仰せて髪を海中に入れると、髪は自然に二つに分かれた。
 この奇跡を皆に見せた皇后は、髪をまとめて、群臣に向かって、

「自分は女であるが男子の姿となって雄大な計画をたてよう。神々の霊力と群臣の助けによって海を渡り、財宝の国を求めよう。もし成就したらそれは群臣の功績であり、成就しなかったら私一人の罪である」

 ――と告げた。
 これに元気づけられた部下たちはみな協力を誓った。

[つづく]
 

分からない投書  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月27日(木)12時18分41秒
  七月二十五日の産経新聞(神奈川)に、「筋が通らない靖国の分祀論」という投書が載りました。
この方はA級戦犯がどうであろうと参拝すべきだというご意見なので、立派な方なのですが、その論旨が私には分かりませんでした。
どなたか、お読みになったでしょうか?
 

『卑弥呼と日本書紀213』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月26日(水)11時57分49秒
  [承前]

 またその他にも神があるのかと問い、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の妹または姫の稚日女尊(わかひるめのみこと)や、〈大國主神〉の子どもの事代主神(ことしろぬしのかみ)など、いろいろ答があったのち最後に、日向(ひうが/ひむか)の国の水底(みなぞこ)にいる、

「表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのお)

 ――の名がでて終わる。

 この三柱の神は住吉三神といわれ、航海の安全を守る神であり、住吉神社に〈神功(じんぐう)皇后〉とともに祀(まつ)られている。
 住吉神社は大阪など各地にあるが、福岡市住吉にある住吉神社が大元で、この三神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がそこに来たときに産んだ神である。
 章のトビラ裏の後鳥羽(ごとば)上皇の御製(ぎょせい)は、もっとも大規模な大阪の住吉大社に御拝されたときのものである。

 ・・・というわけで皇后は、神託に出た神々を鄭重(ていちょう)に祀(まつ)り、そののち熊襲(くまそ)を討ちに行くと、熊襲は自然に服従してしまった。

 三月十七〜二十日――
 身体に翼が生えていて空を飛ぶ羽白熊鷲(はしろくまわし)という賊が悪さをするので、橿日宮から出てこれを滅ぼした。
(飛行機人間?)

 三月二十五日――
 つづいて山門(やまと)――福岡県山門郡で《邪馬台国》の候補地のひとつ――に進み、土蜘蛛(つちぐも)の田油津媛(たぶらつひめ)を討伐した。
 土蜘蛛とは大和(やまと)朝廷に服従しない土着の住民のことであるが、首領が女性であることが面白い。
 東大の前身の教授で史学会会長をつとめた明治の歴史家・星野恒(ひさし)は、この田油津媛の先代が〈卑彌呼〉であろうと推理している。

[つづく]
 

Re: Re:好太王碑碑文  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月26日(水)11時50分24秒
  よく考えておられるので感心します。
下の創作は笑えますね。
しかし世界中に主張するとなると、騙(だま)される外国人も多いでしょうから、心配です。
なにしろ高天原(たかまのはら)が韓国にあったとして記念公園?をつくってしまったそうですから・・・。
 

Re: Re:好太王碑碑文  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月26日(水)11時03分45秒
  オロモルフさん
遅くなりましたが、お返事有難うございます。私は海外なので集められる資料が限られてるのが辛いところですが、それでも特に第一面に関してはネット上で5種類の拓本の写真を見る事が出来るので(2〜4面は2種類)、自分の目で確認出来ました。

一番信頼のおけるのは本来原石碑なのですが、近年特に改竄説が出て以降は、現地で観光客に公開されてる石碑がどれだけダメージを受けてることかとは思います。

確かに漢文は論理的でないのと、主語が省かれたりしていて、どこで文章を切るかで正反対の意味になることもありますね。それに、好太王碑上の漢熟語が漢和辞典に殆(ほとん)ど載っていないことから、これが果たして正統的な漢文であるかも疑問です。当時の高句麗言語の影響があるのかもしれません。

これらの論争の原因はやはり得体の知れない異体字や欠字が多い事も大きいですね。韓国人が認めたくないのは、まず倭が強かったこと、任那加羅(みまな-から)が倭の勢力下にあったこと、百済(くだら)が倭の兵力に依存していたこと、それから新羅(しらぎ)が弱く高句麗の奴属だったこと辺りなんでしょうね。

例えば、第2面の終りの欠字が多い箇所で、「高句麗軍が囮(おとり)の倭軍を追って任那加羅に行ってる間に、倭が新羅城を潰滅、新羅城の防御をしていた安羅人戍兵の9割方が尽き、そして降伏を拒んで、最終的に高句麗軍が来て倭軍を倒したが、安羅人戍兵は城と共に全滅した」と、脈絡を考えて素直に読めばそうなるのですが、「9割方が尽き降伏を拒んだ」のが誰であるかの部分が失われているので、どこに句読点を置くかで全然意味が違ってしまいます。韓国では「倭軍が降伏を拒み、高句麗軍は安羅人戍兵と共に倭を潰滅した」と解釈しているようです。それなら新羅に高句麗の援軍は必要ないことになるので、話としてはつじつまが合わなくなります。

あと、石碑上で「百残王」を「残王」、「百残」を「残」と2文字目を略称として使う習慣があります。で、欠字の中に「残倭」と読み取れる箇所があるようなのですが、韓国人はそれを「倭の残兵」と解釈して、新羅の大勝利に解釈してるのを見かけましたが、碑文全体の言葉の使い方から見れば「残倭」は「百済と倭」と解釈出来ます。

以下のサイトなどは大笑いです。これは本来字がない部分を韓国人が勝手に創作してます。まあ韓国人によくある「歴史は創作するもの」ですね。淡路島とか武蔵とか出て来ます。

遣歩騎五萬往救、新羅從男居城至新羅城倭口其中官(兵)方至倭賊、退〓官兵、跡而越來攻來背、急追至任那、加羅從拔城、城即歸服安、羅人戍兵、新羅城口城、倭滿倭潰城六、〓被我攻口滅、無遺倭遂擧、國降死者十、之八九盡臣、率來安羅人、戌兵滿假口、口倭欲敢戰與喙己呑卓淳〓諸賊謀口口、官兵制先直、取卓淳而佐、軍由淡路島、到但馬右軍經難波至武藏王直到竺、斯諸賊悉自潰〓遂分爲郡安、羅人戌兵
http://www.megapass.co.kr/~hsg1000/a190d.htm

そもそも英訳が目的で始めたので、最初は信頼出来るソース、良い解釈や良い日本語訳があればそれを基に訳をやろうかと思っていたのですが、結局納得出来るものがなく、見れば見るほど疑問が出て来るので自分でやることになってしまいました。
 

Re:「竹下歴史再考塾」開講のお知らせ(再掲)  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月25日(火)15時55分35秒
  >竹下さん


 今度も楽しみにして参加しようと前々から職場に休みを申請していましたが、かなり忙しい時期のため当日は泣く泣く仕事に従事せざる得なくなりました(ガーン)。次回にはぜひとも休みを取って参加したいものです。


>ポスタルサロン長沢に通える距離圏で時間の都合ができるみなさんへ


 長年にわたるマスコミや学校が云っている「歴史の常識」について少しでも「どうして?」と疑問がおありなら、『竹下歴史再考塾』に参加されると良いと思います。2ヶ月前、竹下さんの初講演の感触からくるもので、それは単なる一参加者としての声なんですよね。今回から「塾」というスタイルでいくので堅苦(かたぐる)しさはないでしょうし、やたら難しそうだという先入観は要(い)りませんよ。いろんな意味で「拍子(ひょうし)抜け」すること請(う)け合いです。それが「生」竹下さんの魅力だったりしますしね。
 

『卑弥呼と日本書紀212』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月25日(火)13時04分3秒
  [承前]

▽仲哀天皇九年1(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔神託を告げた神々が明らかになる〕

 二月――
 前々節の繰り返しになるが、この月に天皇が崩御した原因は神託に従わなかったためだとして、群臣に命じて過ちを改めさせ、福岡県宗像(むなかた)の近辺に斎宮(いつきのみや)を造営した。
 斎宮とは、身を清め神に仕(つか)えて神託を受けるための御殿で、一般には任意の場所に設けるが、これを特定の場所に常設したはじまりは、天皇家の皇女が派遣される伊勢神宮の斎宮である。

 三月一日――
〈神功(じんぐう)皇后〉は、斎宮に入って自ら神主(かんぬし)となり、大臣(おおおみ/おとど)・武内宿禰(たけうちのすくね)に琴を弾じさせ、審神者(さにわ)――神託をわかりやすく解く人――も決めて、

「先に天皇に新羅(しらぎ)征伐を命じた神の名をお教え下さい」

 ――と懇請(こんじょう)すると、七日七夜たって、

「伊勢国の五十鈴(いすず)宮にいます神・・・・・・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまざかるむかつひめ)

 ――という答が得られる。

 この神は〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の荒魂(あらみたま)である。
 荒御魂とは、荒く猛々(たけだけ)しい神霊で、柔和な徳を備えた神霊の和魂(にぎみたま)と対(つい)をなしている。
 神々の霊はこの二つからなるというのが、古代の信仰らしい。

[つづく]
 

北朝鮮による侵略に備えましょう。  投稿者:防犯・防諜普及会  投稿日: 7月24日(月)20時44分10秒
  防犯・防諜普及会

北朝鮮による侵略に備えましょう。

日本政府の動議により、北朝鮮非難の安保理決議1695号が可決しました。これに対し北朝鮮は強く受け入れを拒否しています。国際社会から孤立した北朝鮮にとって今後の進展は厳しいものとなり、局面の打開を目指して一気に軍事的行動に出てくる可能性が高くなります。国民の皆さんは、進んで国防に協力しましょう。特に開戦に備えてスパイ活動やテロ活動を強化しますので、周囲に工作員や、北朝鮮に協力しそうな人物がいないか気をつけましょう。また反政府的な言動をするグループなどが防衛行動を妨害するかもしれませんので積極的に情報を政府機関に通報しましょう。
(以下、あて先明記のこと。)
内閣情報調査室
http://www.iijnet.or.jp/cao/cas/jp/goiken.html
公安調査庁
psia@moj.go.jp
自衛隊情報本部
kouhou1@joint.info-jda.go.jp
自衛隊中央情報保全隊
gsopao@jgsdf.info-jda.go.jp
警察庁警備部公安課
http://www.npa.go.jp/goiken/index.htm
入国管理局
http://www.immi-moj.go.jp/cgi-bin/datainput.cgi
政府機関への総合窓口
http://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose
 

「竹下歴史再考塾」開講のお知らせ(再掲)  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月24日(月)19時53分5秒
  7月27日(木)より、静岡県清水町のポスタルサロン長沢(長沢郵便局2階)を会場に、隔月で『竹下歴史再考塾』を開講致します。この機会に是非、ご参加下さい。

NPO法人ウォーター・ビジョン教室
<竹下歴史再考塾>

主 催:特定非営利活動法人 ウォーター・ビジョン
塾 長:竹下義朗
開催日:隔月(奇数月)の第4木曜日 19:30〜22:00(終了予定)
    第1回開催日:7月27日(木)
会 場:ポスタルサロン長沢 (長沢郵便局2階)
    〒411-0905 静岡県駿東郡清水町長沢306-6 (地図はこちら
受講料:1回 1,500円 (教材費は含みません)

 当塾では古代から現代に至る世界の歴史を紐解きながら、現在の歴史教育では決して取り上げられる事の無い「歴史」及び時事国際問題について、様々な角度 から独自の見解を提示して行きます。尚、塾長としましては、肩肘張らず、ざっくばらんな塾を念頭に運営していく積もりですので、どなたでもお気軽にご参加 頂けるものと思います。

問い合わせ・申込先:特定非営利活動法人 ウォーター・ビジョン (TEL:055-972-6112)
 

Re:『米英東亜侵略史』  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月24日(月)13時00分49秒
  >オロモルフさん


 佐藤 優氏は、岩波書店『世界』の連載コラム「民族の罠(2005年07月号〜2006年04月号)」で・・・なにやら『実用主義的護憲派』に「目覚めた」らしいですよ。


参考『2006年06月30日佐藤優さんの護憲論』 by 喜八ログ
http://kihachin.net/klog/archives/2006/06/satougoken_1.html
 

『卑弥呼と日本書紀211』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月24日(月)12時22分41秒
  ■■■■■ 七・三 男装の〈神功(じんぐう)皇后〉疾風怒濤(しっぷうどとう)の海外遠征 ■■■■■


〈神功皇后〉は應神天皇の摂政(せっしょう)だが、実質的には天皇と考えられるので、ここでは仮に「第十四・五代」と記すことにする。
 以下、その〈神功皇后〉の物語である。


◆◆◆ 第十四・五代〈神功皇后〉の物語(1) ◆◆◆
   ――三韓征伐の成功
      應神天皇の誕生――

 国風謚号(しごう) 氣長足姫尊(おきながたらしひめ/諱(いみな)でもある)
 漢風謚号 神功皇后
〔摂政在位・西暦二〇一年〜二六九年〕
〔降誕・西暦一七〇年/崩御・西暦二六九年〕*
〔皇宮・磐余若桜宮他(いわれわかさくらのみや/奈良県桜井市池之内・他)
〔御陵・狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ/奈良市山陵町)
  *崩年干支は不明だが推定西暦三七五年前後

〈神功皇后〉の父親は、第九代開化天皇の曾孫にあたる氣長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)で、母親は葛城高顙媛(かつらぎのたかぬかひめ)である。
 父親の名の氣長は近江(おうみ)地方の地名で、開化記によれば開化天皇の玄孫(やしゃご)だが、たいした違いではない。
 第二章でも述べたが、氣長は息長とも書き、息が長い――つまり海に長くもぐっていられるという意味だと考えられており、海洋に関係のふかい一族を暗示している。

 母親の名の顙は額に似た意味の漢字で、葛城も高顙も地名である。図5.2でいうと左方の山地に沿った部分である。
 注目すべきはこの母親で、『古事記(ふることふみ)』では垂仁(すいにん)天皇の御代(みよ)に朝鮮から渡来した新羅(しらぎ)王子・天日槍(あめのひほこ)の五代めの子孫とされている。むろん、そうだとしても代々の妃(きさき)は日本人だろうから、新羅の遺伝子はごく僅(わず)かでしかない。
 このような高貴でかつ数奇な生まれの〈神功皇后〉は、幼児から美貌で利発で父親が怪しんだほどだったと記されている。

[つづく]
 

『米英東亜侵略史』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月24日(月)12時13分38秒
  ◎大川周明『米英東亜侵略史』第一書房(昭和十七年一月)

米国東亜侵略史
(第一日〜第六日)
英国東亜侵略史
(第一日〜第六日)

◎佐藤優『日米開戦の真実――大川周明の『米英東亜侵略史』を読み解く』小学館(200607)

第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)

▲珍しい復刻本

 昭和十七年一月に出た大川周明の本は、日米英開戦の理由を解説したラジオ講演の速記録です。
 講演がなされたのは、昭和十六年十二月八日の開戦直後の十二月十四日から二十五日にかけてで、すなわち開戦の直後のことです。
 最近出た佐藤優の本は、この大川周明の本の採録と解説ですが、解説が非常に長く、力がこもっています。
 大川周明の本は、昭和17年版と18年版を、だいぶ前に買っておいたのですが、これを読みますと、「日本人は軍部に騙(だま)されていた」という戦後の話が、いかにおかしいかが分かります。

 読み比べてみますと、復刻では、一部の漢字をひらがなに、改行を増やす、小見出しをつける、用語の脚注をつける・・・など、読みやすくする工夫を凝らしていますが、内容はそのままのようです。

▲大川周明の原著の序文

(・・・前略・・・)
 この小冊子は、対米英戦開始の第七日、即(すなわ)ち昭和十六年十二月十四日より同二十五日に至るまで、四方の戦線より勝報刻々に到り、国民みな皇天の垂恵に恐懼(きょうく)感激しつつありし間に行へ(おこなえ)るラジオ放送の速記に、極めて僅少(きんしょう)の補訂を加へ(くわえ)たるものである。そは『米英東亜侵略史』と題するも、与へ(あたえ)られたる時間は短く、志(こころざ)すところは主として米英両国の決して日本及び東亜と並び存すべからざる理由を闡明(せんめい)するに在(あ)りしが故(ゆえ)に、史実の叙述は唯(た)だ此(こ)の目的に役立つ範囲に限らざるを得なかった。若(も)し此の小冊子が、聊(いささ)かにても大東亜戦の深甚(しんじん)なる世界史的意義、並びに日本の荘厳なる世界史的使命を彷彿(ほうふつ)せしめ、之(これ)によって国民が既に抱ける聖戦完遂の覚悟を一層凛烈(りんれつ)にし、献己(けんこ)奉公の熱腸を一層温(あたた)め得るならば、予の欣幸(きんこう)は筆紙に尽(つく)し難(がた)いであろう。
昭和十七年一月 大川周明

▲佐藤優の序文の一部

 個人に運不運があるように、国家や民族にも運不運がある。太平洋の向こう側にアメリカという、急速に発展を遂げる帝国主義国をもった日本は地政学的に運が悪かったのである。そしてアメリカの本質は現在も変化していない。しかも中国が急速に国力をつけ日本の潜在的脅威となりつつある。21世紀、日本を取り巻く環境が冷戦時代はもとより、太平洋戦争前よりも悪くなっていく可能性は十分ある。
 地政学的な運の悪さをインテリジェンスによって克服した例が世界にいくつかある。冷戦下に東西を手玉に取ったユーゴスラビアや現在ではイスラエルがその例だろう。『米英東亜侵略史』で展開した大川の言説を振り返り、少し工夫すれば、「理論的に正しかったが、戦争に敗れた」という結末ではなく、「理論的に正しかったので、戦争に至らぬかたちで日本国家と日本人を生き残らせることができた」という結果を将来導き出すことができるかもしれない。
 こんな問題意識をもちながら、大川の言説を読み解いていきたい。

▲佐藤優という人物

 最初のうちは、新聞やテレビの報道でしか、この人のことを知りませんでしたから、何だか胡散臭(うさんくさ)いという印象でしたが、出所して出した何冊かの本を読みまして、端倪(たんげい)すべからざる、と思うようになりました。

▲佐藤優の第二部の最後の言葉

「あなたを痛みから解放するために、あなたに一時的に痛みを加えます」というのは外科手術が前提としている論理であるが、これを国際政治に適用した場合、痛みを追加的に加えられた民族にその理屈は理解されないのである。イギリスのような老獪(ろうかい)な帝国主義国は、植民地住民の人権などはじめから考えておらず、また植民地は帝国を維持するために不可欠と考えていた。そのために植民地住民に対する圧迫をほどほどにしていた。相手にどの程度の痛みがあれば、どの程度の反発があるかということを冷徹に計算していたのである。植民地支配の打破を真剣に考えていたからこそ日本はアジア諸国に痛みを与えていることに気づかなかった。ここに大川のみならず・・・思想家が落ちていった罠があるのだ。
(イギリスの老獪さについてはその通りと思いますが、日本の立場については、私はちょっと違う意見です・・・)

▲大川周明の病気

 佐藤優さんは、500日以上も収監されて新聞も読めない日々と送ったので、その体験から、東京裁判当時の大川周明が精神的な病に冒(おか)されたのは本当だろう――と推理しています。
 大川周明が法廷で東條英機の頭を叩いたなど、いろんなエピソードが残されており、一種の謎になっていますね。
 仮病説だの、いや本当だったなど、いろんな説がありますね。

▲道会と大川周明

 明治初期から昭和初期にかけて活躍した松村介石は、キリスト教から出発して、独自の思想をもって宗教団体を創設し、熱烈な愛国的宗教活動をした人です。
 この活動の一環として『道』という雑誌を刊行しました。
 この雑誌は現在も出ていますが、宗教団体の雑誌なので外部には出ず、国会図書館にも収蔵されていません(*)。
 しかし、私が興味を持つような戦前の貴重な資料が掲載されています。
 この事を、国会図書館に勤務する書誌の専門家から教えてもらいまして、ノコノコと、渋谷にある『道会』の本部に行ってきました。
(戦後は幼稚園の経営が主体になっているように思えましたが、宗教活動もなさっておられるようでした。行ったのは10年前のことですが・・・)
 会長室で自由に見てよい――というご厚意に甘えて、貴重な資料を多く複写して帰りましたが、応対してくださったご老人が、
「当会には有名な方も時々お見えになります」
 と言われるので興味を持って、
「たとえばどういう御方ですか?」
 と聞きますと、
「大川周明さんなど・・・」
 とのお答えだったので、絶句してしまいました。
 元A級戦犯で、昭和32年に死去した人が?
 幽霊ではあるまいか?
 で、調べてみますと、大川周明は戦前に『道』の編集に携わったことがあるのですね。
 SFでいう時間の止まった空間を訪問したような気持ちになりました。

(* この貴重な雑誌は、側聞するところでは、仙台にある大学――名前は忘れました――の先生が全巻をマイクロフィルム化なさったそうです。ですから現在では、大学などでマイクロフィルムの装置で閲覧可能かもしれません)
 

美国へ・・・?  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月24日(月)10時46分6秒
   私が昨日ぶらりと立ち寄った県内の本屋で目に留まりやすい場所に、

『美しい国へ』安倍 晋三著(文藝春秋/新書)  2006年7月発売
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?isbn_cd=4166605240

 これが売っておりました、安倍官房長官のです。私は思わず『美国へ』と読み間違えて噴き出してしまいましたw


「うーん、そうかぁ、日本もついに・・・正式に合衆国に吸収されて52番目の州になることでパックス・アメリカーナの庇護(ひご)の下に入ることが、世界に君臨する警察国家の一部だという誇りをもつことなんだな・・・」と脳内想像出まくり。


 おっといけない、我に返って少しばかり試し読みをしましたが、


■戦略らしい国家ビジョンが見えてこないし、靖国参拝の件が見当たらない。更に如何(いか)に米国という後ろ盾があったればこそを説くような雰囲気etc・・・。


 で、買いませんでした。だって安倍氏の3代に繋がる統一教会の件もあるし、奥方(おくがた)の宗教問題もあるし・・・彼は親米派であり親南鮮派でもあるので。ついでにいうと福田フフン♪氏は親支那派とともに親米派でもある、これはあまり知られてないかも。


 で、最終的に購入したのはコレね。

『プリンシプルのない日本』白洲 次郎著(新潮社/文庫) 2006年6月1日発売
https://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9980819553

 彼の関連書以外に実際の言葉で語られたシンプルな「白洲 次郎氏のエッセイ集」です。

 その五刷版にはオレンジ色の表紙帯が・・・オモテ「この男の肉声を聴け。」「戦後史の隠された巨人」唯一の直言集。/ウラ「原文に天皇は国家のシンボルと書いてあった。翻訳官の一人に〜<中略します、久保田拝>〜と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以(ゆえん)である。(本文より)」「日本人の本質をズバリと突く痛快な叱責の数々。」

 もともとはメディア総合研究所より2001年5月に発売されたもの(B6判)が文庫化となったようですね。 中身が追加されたのは・・・今日出海(1903-1984)氏がかつての関連本記事を本書の前文にした「野人・白洲次郎」、それと青柳恵介(1950-)氏による「解説」がありました。

 本書はかつての文芸春秋にて連載していたのをまとめたものですが、


■白洲 次郎氏の視点には確かに曇ったものがないので「戦後の時代背景」がたいへんおもしろい、偉くなっても周りを気遣(きづか)う人、自分を律することの出来る人、どこの小集団にも小さくまとまらない人etc・・・。


 ・・・となんだか手ごたえを感じる読書中な感想でした。
 

千鳥が淵の戦没者慰霊  投稿者:えこね  投稿日: 7月23日(日)18時06分41秒
  千鳥が淵の意味が、わかりません。教えて下されれば恐縮です。  

隠すテレビ  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月23日(日)12時41分13秒
   靖国神社関係のメモが話題になっています。
 その真偽について語る資格は私にはありませんが、テレビではメモの一部を隠して映していた――という意見がたくさん出されています。
 もしそうだとしても、これはテレビの常道ですね。
 前にもNHKの歴史番組で、吉田松陰が獄中で記した有名な歌――
「身はたとひ武蔵(むさし)の野邊(のべ)に朽(く)ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂(やまとだましい)
 ――が映されましたが、「大和魂」という言葉の部分だけが、別の本か何かで隠されていました。
 NHKは「大和魂」という言葉が嫌いなので映さないのでしょうが、それだと見た人は何の歌だか分かりませんよね。
 こんな事はしょっちゅうです。
 

『卑弥呼と日本書紀210』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月23日(日)11時50分48秒
  [承前]

 またもうひとつ注目されるのは、新羅(しらぎ)本紀にある西暦二〇〇年前後の記述で、若いころの〈卑彌呼〉の時代にすでに日本人の集団や日本からの使者が新羅(辰韓)のあたりにまで進出していたことがわかる。
〈卑彌呼〉の使者が来たという記述も注目される。

 九州の国々(豪族たち)が《邪馬台国》の支配下にあったという『魏志倭人伝』の記録と照らし合わせると、この時代の使者や軍勢は〈卑彌呼/邪馬台国〉が諸国に命じて派遣した可能性がじゅうぶんにある。

 また于老なる将軍が登場する事変は、〈卑彌呼〉没年前後――西暦二五〇年前後――に起こっているが、話がとても具体的で迫真力があって興味ぶかい。

 二五〇年から三〇〇年にかけての記述も、崇神(すじん)・垂仁(すいにん)・景行(けいこう)三天皇の時代に照応しているようである。

 一方〈卑彌呼〉よりずっと古い時代の倭人の記録は、倭奴国が後漢から金印をもらったり、倭王帥升が後漢に使者を派遣したりしたころのものなので、九州の奴国や伊都国、あるいは出雲(いずも)・但馬(たじま)・大和などの勢力が独自に進出していた史実の反映だろうと推測できる。

 大和朝廷の指示による正規の出兵がどのていどだったかは別にして、海を渡った日本人の勢力が朝鮮半島南部で――〈卑彌呼〉の時代よりずっと古くから任那(みまな)周辺で――活躍していたことを十分にうかがわせる新羅本紀である。

 なお、新羅第四代の王が日本人だという件については、下記を参照されたい。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tabana=tango.htm

**********

 こういった『三国史記』や『好太王碑』を参考にしつつ、『日本書紀(やまとのふみ)』の〈神功(じんぐう)皇后〉の物語に入ることにしよう。

[次ぎは「第七・三節 男装の〈神功皇后〉疾風怒濤(しっぷうどとう)の海外遠征」]
 

Re:好太王碑碑文  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月23日(日)11時39分59秒
  とりあえずは、韓国学者の意見が参考にならないこと、漢文で書かれた文章は論理的に不備であること、はまったく同感です。
好太王碑碑文についての韓国学者の意見は知らないのですが、他の問題で時々ウンザリする事がありますので・・・。
また、漢文の非論理性については、『魏志倭人伝』で痛感しています。
 

Re:好太王碑碑文  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月23日(日)11時31分35秒
  >岩谷文太さま
ずいぶん本格的に研究しておられるのですね。
ビックリしています。
参考にさせていただきます。
 

好太王碑碑文  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月23日(日)04時52分15秒
  今回の訳の元にしたのは、基本的には京都大学人文科学研究所のウェブサイトに掲示されている、石灰拓本を元に文字の判別を行ない、更に東京国立博物館の酒匂拓本も参考にしたものです。ウェブサイト上で原石拓本の第1ページ目のみ閲覧出来るのですが、読解は非常に困難です。

◆石灰拓本の写真(京都大学人文科学研究所)
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_b/menu/21.html
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_b/menu/22.html

◆東京国立博物館に展示されている酒匂(さこう)拓本の写真(チャンネル桜応援ページ)
http://chsakura.dw.land.to/koukaido/index.html

以下のページには、原石拓本と酒匂拓本を含めた4種類の写真が第一面のみ掲載されています。

◆好太王碑拓本(古代について)
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/takuhon.html

◆好太王碑の最古の拓本発見、旧日本陸軍入手のものと一致(読売新聞 2006/4/14)
http://www.tokyodoshuppan.com/bookss/koutaiouhi.htm

これらを見て分かったのは、酒匂拓本は原石から直接のものではなく、原石を読み取って作られた(石灰)版型であり、また、先日中国で発見された最古と言われる拓本も余りにも綺麗に出来過ぎている点で、同様の石灰版型のように見えます。これらの双方とも、内容自体は一致しているようなのですが、字の形などが微妙に異なり、つまり双方とも二次的資料ということになります。在日の李教授による「改竄説」はこれも理由の一つでしょう。

それに対してネットで2種類確認出来る拓本(京大研究所とチャンネル桜ページにある2つ)は、恐らく原石から石膏か何かで型を取ったもので、字の形も岩を引っ掻(か)いて刻まれた原石の文字と非常に似ています。


ここで問題は、京大の石灰拓本と酒匂拓本で文字の不一致が数カ所ある点です。つまり、酒匂拓本などの版型拓本が原石を読み取って作られたものであれば、既に第三者の解釈が入っているもので、直接の資料ではないということになります。と言う点に於いて私は版型拓本よりも石灰拓本に信頼性があるという推定で、原文の解釈をしました。

拓本上で確認出来る文字に関しても、学者によって若干の違いがあるのは、異体字の解釈、文法上おかしい、又は誤字の可能性などからであると思われます。明らかに誤用の文字に関しては、恐らく原石をノミと金づちで削って刻印した事情を考えると、多少の間違いや誤字もあるのかもしれません。

◆濱田耕策『4世紀の日韓關係』(日韓文化交流基金)
http://www.jkcf.or.jp/history/1/1-01-hamada_j.pdf
*石碑の図面と解釈訳文掲載。完訳ではない。

拓本上で確認出来ない文字に関しては、恐らく現地調査が行なわれ解読されたものと思われますが、資料によって内容の違いが大きいのは、殆ど読み取れないものを無理矢理解読したような次元だと思われます。ただ中には複数の研究者の間で一致を見る文字もあり、それらはやや信頼度が高いと解釈しました。

ここで問題なのは韓国人の研究なのですが、全体的には実直な解釈が多いのですが、特に倭が絡む部分、高句麗(こうくり)と百済(くだら)の関係辺りになると冷静でない強引な解釈が目立ちます。と言うことで、倭が絡む部分に関しては韓国人の研究は参考に出来ないと結論付けました。

◆盧泰敦『訳註 韓国古代金石文』(韓国国立文化遺産研究所)
http://gsm.nricp.go.kr/_third/user/search/KBD007.jsp?ksmno=2512
*韓国の学者数人の解釈の違いの比較表。

碑文全体の内容そのものを見てみると、いくら韓国側が否定しようとも、如何(いか)に高句麗が百済を見下していたか、百済は高句麗よりも倭の側にいたこと、倭の本拠地の一つが任那にあること、軍事的力は倭が圧倒的に強く、百済が倭に依存していた様子は、いくら操作しようとも動かすことが出来ない程、現存する文字の部分にはっきりと書かれています。


碑文はもともと句読点がなく隙間なくびっしりと文字が書かれているので、文法解釈によっても意味が相当異なる可能性があるもので、特に欠字を含む部分は文法解釈そのものが不可能に近いものです。そこで上記の濱田氏、東京国立博物館の展示に採用されてる武田幸男氏の意訳、韓国人による文法解釈、そして中国人によるものを比較してみたのですが、それぞれが現代の日本語、韓国語、北京語の語彙(ごい)の影響を受けているようで、例え中国人であっても現代北京語の語彙の先入観を全て取り払って純粋に漢文として読むのは難しいものであるようです。


その他参考サイト

◆広開土王碑文釈文、武田幸男『高句麗史と東アジア』より  (東京国立博物館の展示)
http://chsakura.dw.land.to/koukaido/9/DSC00120.JPG

◆李芳遠:好太王碑解文(年代學)(簡体中文)
http://www.niandaixue.com/bbs/lofi.php?t1031.html

◆広開土王碑(古代について)
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/koukaido0.html

◆高句麗広開土王碑(抄)(倭国の相貌)
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/shiryo/kotaiohi.html

◆國岡上広開土境好太王碑(てーま別研究)(韓国さいと)
http://wondreams.hihome.com/temasogo_gwangetodewang%20bimun.htm

◆広開土境平安好太王碑文(古代史獺祭)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/koutaiou/koutaiou_gen.htm

◆陽伯馨の遺稿
廣開土王碑・改竄説のあらまし(古代について)

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/kaizan1.html
 

好太王碑碑文 完訳  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月23日(日)04時45分38秒
  オロモルフさん
とりあえず、英訳のプロセスで作成した現代日本語訳を紹介します。欠落箇所の多い漢文の読解は私にとっても大冒険でした。現代日本語の語彙(ごい)の先入観に捕われないために、全て辞書でひいて本来の意味を確認しましたが、難しいですね。一旦英訳したものを日本語に訳したため、表現がやや英語っぽいかもしれません。(笑)


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好太王碑 碑文 (414)
全文訳



・[ ]は、異体字・不明瞭な字、又は文法上の問題等で、別な文字も提唱されている。また拓本によって内容の不一致がある。ここで採用しているのは京都大学人文科学研究所所蔵の石灰拓本上で確認したもの。

・星印の字は異体字、又は不完全な字で、慣習より判別出来る文字。

・下線字は不完全な文字(半分消えているなど)。

・[( )]は、拓本上では確認出来ないが、恐らく石碑自体の調査により推定された文字。これらの信頼性は低いが、ここで採用しているのは複数の資料で一致を見る文字。

・□は風化や崩落などにより完全に判別不可能な文字。

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【第一面】

惟昔、始祖・鄒牟王之創基也。出自北夫餘。天帝之子、母河伯女郎。剖卵降[出]、生[子]有聖[]□□□□。□命駕、巡[車]南下、路由夫餘・奄利大水。王臨津言曰『我是皇天之子、母河伯女郎、鄒牟王。爲我連葭浮龜!』應聲即爲連葭浮龜、然後造渡。於沸流谷。忽本西、城山上而建都焉。

遠い昔、最初の王の鄒牟王が国を築いた。彼は北夫餘に生まれた。彼の父は天の帝王で母の名は河伯である。彼は卵の殻を割って[この世に降り出た]。生来天子の[()]を持ち□□□。□は[馬車に]乗り、夫餘と奄利大水を経由して国中を巡り、南に向った。仏流谷の川岸で「私は鄒牟王である。父は天の帝王、母は河伯。亀よ、浮かんで列を作れ!」と言うと、彼の声に応じて大量の亀が一列に浮かび上がり、彼を渡らせた。彼は忽本の西の城山の上に都を築いた。


[永]樂世*位[因]遣黄龍來下迎*王。王於忽本東岡、[黄]龍[頁]昇天。顧命世子儒留王、以道興治。大朱留王紹承基業。

国が[長い間安定し泰平]であった[ので]、(神の) 遣いの黄龍が王を迎えに降りて来た。王は忽本の東岡で[黄]龍の[首にまたがって]昇天した。鄒牟王の遺志により、儒留王が国の統治を行ない、そして大朱留王がそれを引継いだ。



〓至十七世孫・國岡上廣開土境平安好太王。二九登祚、號爲永樂太王。恩澤[]于*皇天、威武[振]被四海。掃除[不]□庶寧其業。國富民殷、五[穀*]豐熟、昊天不弔。

そして17代目の王、國岡上廣開土境平安好太王(戒名)に至る。彼は18歳で即位し、王号は永楽大王である。その慈(いつく)しみの心は天の帝王[の如く]であり、彼の威厳と武勇は四海を[揺るがした]。彼は[(不)]□を払い去り、安定した統治を行なった。国は富み、人々は栄え、作物は実り、そして空は晴れ渡り災いはなかった。



卅有九、[晏]駕棄國。以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵、於[是]立碑、銘記勲績、以[永]後世焉。其[(詞)]曰:

彼は39歳で[その崩御]によって[退位]した。甲寅年 (干支の51年; 西暦411) 9月29日乙酉 (干支の22日) 現在、山稜のためにここに石碑を建立、以下にその勲績を銘記し、後世に[永遠に]伝える:



永樂五年、歳在乙未:
王以[碑*]麗不[息]□、[又]躬率往討。過*富山・[沓]山、至鹽水上、破其[兵]部[絡*]六七百。當牛馬[羣*]羊不可稱數。於是旋駕、因過[咢*]平道・東來[城]・力城・北豐・[五備*海*]、遊觀土境、田[獵*]而還。

永楽五年 (西暦395年) 乙未年:
稗麗(喫丹(きったん)人と言われている)が□[を止めない]ので、王は[また] (軍)を率い討伐に出向いた。富山と[沓]山を越えて、鹽水川の畔に至り、そこで稗麗の600-700の陣営の[兵]部絡を破った。その牛馬と羊は数え切れないほど。[咢]平道、東來候城、力城、北豊、[五備海]を通って国を視察し、狩りをしてから凱旋帰還をした。



百殘新羅、舊是屬民、由來朝貢。而倭以*辛卯年、來渡海*破百殘、([更])□[]羅、以爲臣民。

百残 (高句麗(こうくり)の百済(くだら)に対する蔑視名) と新羅(しらぎ)はもともと(高句麗の)属民であったため、彼等(かれら)は年貢(ねんぐ)を納めた。辛卯年 (干支28, 391年) 以来、倭が海を越えて来て、百残を打負かし、[(更に)]羅を□して、彼等を臣下にした。



以六年丙申、王躬率[水]軍、討[科]殘國。軍□□[首]攻取:壹八城・臼模盧城・[各]模盧*城・幹弖利[(城)]・□□城・閣弥城・牟盧*[(城)]・弥沙城・[(古)舎]蔦城・阿旦城・古利城、□利城・雜[珍]城・奥利城・勾牟城・古[模]耶羅城・[莫(鄒城)]・□□[城]・[分]而耶*羅[(城)]・[掾]城・[於利城]・[(農賣城)]・豆奴城・沸[(八比)]

永楽6年丙申 (干支33、西暦396年) に、王は[水]軍を率いて百残軍を[処罰]した。軍はその国城の壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利城、□□城、閣弥城、牟盧[(城)]、弥沙城、[(古)舎]蔦城、阿旦城、古利城、□利城、雜[珍]城、奥利城、勾牟城、古[模]耶羅城、[莫(鄒城)]、□□城、[分]而耶羅[(城)]、[掾]城、[於利城)]、[(農売城)]、豆奴城、仏[(八比)]



【第二面】

利*城・弥鄒城・也利城・[大]山韓城・掃加城・敦抜[城]、□□□[(城)]・[嬰*賣]城・[散(那)]城・[(那)婁]城・細城・牟婁城・于*婁城・蘇灰*城・燕婁城・[析]支利城・巖門[至]城・林城・□□[(城)]・□□[(城)]・□[利]城・就鄒城・□拔城・古牟婁城・閏奴城・奴城・彡穰*城・[普拔城)]・[宗古)]羅城・仇天城、□□□□、[(逼)]其國城。

利城、弥鄒城、也利城、[大]山韓城、掃加城、敦抜[城]、□□□[(城)]、[嬰売]城、[散(那)]那城、[(那)婁]城、細城、牟婁城、于婁城、蘇灰城、燕婁城、[析]支利城、厳門[至]城、林城、□□[(城)]、□□[(城)]、□[利]城、就鄒城、□抜城、古牟婁城、閏奴城、貫奴城、豊穰城、[(普拔城)]、[(宗古)]羅城、仇天城、□□□を攻略した。




賊不服*[氣]敢出[百]戰。王威赫怒、渡阿利水、遣刺*迫城。[横(攻侵穴、就)]便[圍]城。[而]殘[王]困逼、獻[出]男女生[口]一千人、細布千匝*、[歸]王自誓、從令以後、永爲奴客。太王恩赦[先]迷之愆*、録其「後順之誠」。於是[(得)]五十八城、村七百、將殘[王]吊*[并]大臣十人、旋師還都。

賊はなお服従せず、そして敢えて[全面戦争]を挑んで来た。それは王を激怒させた。彼は軍を率いて阿利水 (の掘)を渡り、[横から(攻め、城壁を破壊し)]、すばやく城を[包囲]した。[そして](百)残[王]は追い詰められ、千人[の人質]と千匹(1匹は約20m) の反物を差し出し、服従と (高句麗の) 臣下に永遠になることを自ら誓った。広開土王は (百済王の)これまでの血迷った過ちを恩赦し、その誓いを「後順之誠」として記録した。従って王は58城と村700を獲得、(百)残[主]の弟と貴族10人を連れて都に凱還した。



八年戊戌:
教遣偏師、觀帛愼土谷。因便抄得莫新羅城・加太羅谷男女三百餘人、自此*以*來朝貢論事。

永楽八年戊戌 (干支35、398年):
帛慎土谷の部族を偵察するために一隊を送った。莫新羅城の攻略と300人の加太羅谷人の人質という小さな成果を上げた。それ以来、彼等は(高句麗に)貢(みつ)ぎ物をするようになった。



九年己亥:
百殘違誓與*倭和通。王巡下平穰。而新羅遣使白王云『倭人滿其國境、潰破城池。以*奴客爲民、歸王請命』太王恩[後稱*]其忠[(誠)]。[(時)]遣使、還告以*[(密)]。

永楽九年己亥 (干支36、西暦399年):
百残は誓約を破り倭と和通した。王は平壌に出向いた。そして新羅の使者が「国境は倭軍に満ち城の掘が埋められた。我らは下僕(げぼく)であるゆえ、王に帰して助けを請う」と王に言った。太王はいたわりもって彼等の忠誠を称(たた)え、[(秘密の)計略の]メッセージを託しその使者を行かせた。



十年庚子:
教遣歩騎五萬、[住]救新羅。從男居城、至新羅城、倭[滿]其中。官[兵]方至、倭賊退。□□□□□□□□[來]背、[急]追、至任那加羅。從拔城、城即歸服。安羅人[戎]兵[拔]新羅[城]、[盡]城倭[滿]。倭潰城、大□□□□□□□□□□□□□□、[(城内)十]九盡、[拒尖]安羅人[戎]兵、[(捕羅城)]□□其[(村殊)]□□□□□

永楽十年己亥 (干支37、西暦400年):
王は新羅[を救うため]五万の歩騎隊を送った。男居城より新羅城 (新羅の首都)まで[倭の軍勢に満ちていた]。高句麗[兵]が着いたその時、倭は退いた。□□□□□□□□背後から襲撃し、倭軍を[急ぎ]追って任那加羅(みまな-から)に至る。城を攻めると、城は直ちに降伏した。(一方) 安羅人[戦士]は、[ことごとく]倭の兵[に満ちている]新羅[城を防衛していた]。倭は城を潰滅させ、大□□□□□□□□□□□□□□、[(城内では)]9[割方が]尽きたが、[降伏を拒んだ]安羅人戦士は[(新羅城に)]□、□□その[(城下町は殊更(ことさら)に)]□□□□□



【第三面】

[(信)]□□[(旦)]□[倭]□[(稚)]□□□□□□□□[興]□□□□□□□□□辭□□[(殘倭)]□□□□□□□□□潰[(亦)以隨(城)]安羅人[戎]兵。

[(信)]□□[(明け方)]□[倭]□[(稚)]□□□□□□□□[興]□□□□□□□□□辞□□[(百残と倭)]□□□□□を潰滅□□[(城に)仕える]安羅人[戦士]と共に□□。



昔、新羅 [(寐)]錦、未有身來[論(事)]。□[國岡上廣]開土境好太[王]□□[(新羅、寐錦)]□[(家)]僕勾、[(請千)]□□朝貢。

それまで、新羅の王子は (高句麗に) 自ら出向いて[(事を)論じた]ことはなかったが、[(國岡上廣)]開土境好太[(王が新羅を)]□□[(したので、新羅□家)]の僕勾[(王子は)] (高句麗への) [(大量の)]□□[(の)]朝貢[(を申し出た)]。



十四年甲辰:
而倭不軌、侵入帶方界。[(和通殘兵至)]石城。□連船□□□。[(王躬)率(往討從)]平穰、□□□[(鋒)]相遇。王幢要截盪刺、倭寇潰敗、斬殺無數。

永楽十四年甲辰 (干支41、西暦404年):
倭が予期せず帯方郡に侵入。[(倭と百残兵の連合軍は)]石城[(に到達した)]。彼等の□船団は□□□。[(王は)]平壌[(より軍勢を率いて討伐に出向いた)]。□□□両軍が出合い頭(がしら)に[(衝突)]した。王の旗をつけた斬込隊が敵を斬り付け、倭冦は惨敗、死者多数。



十七年丁未:
教遣歩騎五萬□□□□□□□□[(王)師(四方)]合戦斬殺湯盡。所[稚*]鎧甲*一萬餘、領軍資器械不可[歸]數。還破沙溝*城・婁城・[還(住城)]・□[(城)]・□□□・□[(那)]□城。

永楽十七年丁未 (干支44、西暦407年):
『王は□□を□□するために5万人の軍勢を送った。□□□□、[(王の)軍は(四方)]合戦、ことごとく斬り殺した。勝利の軍は1万余りの鎧甲(よろしかぶと)と[数え切れない]軍事器機を[獲得]し、沙溝城、婁城、[還(住城)]、□[(城)]、□□城、□[(那)]□城の六城を奪還した。



廿年庚戌:
東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢。王躬率往討。軍到餘城、而餘城國[駭、(皆歸)]□□□□那。□□王恩晉[覆]於是旋還。又其慕化隨官來者:味仇婁鴨盧・卑斯麻鴨盧・[端立]婁鴨盧・粛斯舎[(鴨盧)]・□□[鴨]盧。凡所攻破城六十四、村一千四百。

永楽二十年庚戌 (干支47、西暦410年):
鄒牟王の時代よりの属国中、東夫餘だけは不従順で(高句麗に)貢がなかった。王は彼等を討伐するため軍勢を率いた。軍が餘城 (東夫餘の首都)に着くと、餘城国は[驚き、(皆服従し)]□□□□。□□、王は恩情で[彼等を滅ぼすのは]思い留まり、そして帰途についた。王の優しさの威厳に慕化した味仇婁、卑斯麻、[端立]婁、粛斯舎、□□の五人の貴族が付き従った。攻略した城の数は約64、村は約1400。



守墓人烟戸:
賣勾余・民:國烟二・看烟三、東海賈:國烟三・看烟五、敦城:[(民)]四家盡爲看烟、干城:一家爲看烟、碑利城:二家爲國烟、平穰城・民:國烟一・看烟十、[呰]連:二家爲看烟、[俳]婁・人:國烟一・看烟卅|[二]、[溪]谷:二家爲看烟、[溪]城:二家爲看烟、安[夫]連:廿二家爲看烟、[改]谷:三家爲看烟、新城:三家爲看烟、南蘇城:一家爲國烟。

新來韓穢:
沙水城:國烟一・看烟一、牟婁城:二家爲看烟、[豆]比鴨岑韓:五家爲看烟、[句]牟客頭:二家爲看烟、[求底]韓:一家爲看烟、舎蔦城・韓穢:國烟三・看烟廿一、古[模耶]羅城:一家爲看烟、[莫]古城:國烟一・看烟三、客賢韓:一家爲看烟、阿旦城・雜珍城:合十家爲看烟、巴奴城・韓:九家爲看烟、[臼]模廬城:四家爲看烟、各模盧城:二家爲看烟、牟水城:三家爲看烟、幹弖利城:國烟一・看烟三、[弥耶]城:[國烟六]、看烟


墓守人烟家のリスト:
売勾余の民:国煙2&看煙3、東海売:国煙3&看煙5、敦城の[民]:看煙4家、[干]城:看烟1家、碑利城:国煙2家、平壌城の民:国煙1&看煙10、[呰]連:看煙2家、[俳]婁・人:国煙1&看煙43、[梁]谷:看煙2家、[溪]城:看煙2家、安[夫]連:看煙22家、[改]谷:看煙3家、新城:看煙3家、南蘇城:国煙1家。

新来の韓と穢:
沙水城:國煙1&看煙1、牟婁城:看煙2家、[豆]比鴨岑韓:看煙5家、[句]牟客頭:看煙2家、[求底]韓:看煙1家、舎蔦城の韓と穢:国煙3&看煙21、古[模耶]羅城:看煙1家、[莫]古城:国煙1&看煙3、客賢韓:看煙1家、阿旦城・雜珍城:合わせて看煙10家、巴奴城の韓:看煙9家、[臼]模廬城:看煙4家、各模盧城:看煙2家、牟水城:看煙3家、幹弖利城:國烟1&看煙2、弥[耶]城:[国煙1]、看煙



【第四面】

□□、□□[(七、也利城)]:[三]家爲看烟、豆奴城:國烟一・看烟二、奥利城:國烟二・看烟八、[須耶]城:國烟二・看烟五、百殘・南居韓:國烟一、看烟五、[大]山韓城:六家爲看烟、農賣城:國姻一、看烟[一]、閏奴城:國烟二・[都]烟廿二、古牟婁城:國烟二・看烟八、[掾*]城:國烟一・看烟八、味城:六家爲看烟、就咨城:五家爲看烟、彡穰*城:廿四家爲看烟、散那城:一家爲國烟、那旦城:一家爲看烟、勾牟城:一家爲看烟、於利城:八家爲看烟、比利城:三家爲看烟、細城:[(三)]家爲看烟。

□□、□□[7、也利城]:看煙[3]家、豆奴城:国煙1&看煙2、奥利城:国煙2&看烟8、[須耶]城:国煙2&看煙5、百残・南居韓:国煙1&看烟5、[大]山韓城:看煙6家、農売城:国煙1&看煙[1]、閏奴城:国煙2&[看]煙22、古牟婁城:国煙2&看煙8、掾城:国煙1&看煙8、味城:看煙6家、就咨城:看煙5家、豊穣城:看煙24家、散那城:国煙1家、那旦城:看煙1家、勾牟城:看煙1家、於利城:看煙8家、比利城:看煙3家。細城:看煙3家。




國岡上廣開土境好太王、存時教言『祖王先王、但教取遠近舊民、守墓洒掃。吾慮舊民轉當贏劣若吾萬年之後。安守墓者、但取吾躬[率]所略來韓穢、令備洒掃』言教如此、是以如教令、取韓穢二百廿家。慮其不知法則、復取舊民一百十家。合新舊守墓[戸]、國烟卅、看烟三百、都合三百卅家。自上祖先王以來、墓上不安石碑、致使守墓人烟戸羌*錯。[惟]國岡上廣開土境好太王、盡爲祖先王、墓上立碑銘其烟戸、不令羌*錯。又制^、守墓人、自今以後、不得更相轉賣。雖有富足之者、亦不得[檀]買。其有違令、賣者刑之、買人制令守墓之。

國岡上廣開土境好太王が存命の時、「祖王と先王は、高句麗内の民に歴代王の墓を護(まも)り手入れをさせて来た。私は五万年の後に民が怠慢になる事を心配している。墓守人は、私が自ら[遠征し]平定した属国の韓と穢(わい)から取るように。彼等に準備をさせよ。」と教言していた。王の言葉がそのようであったので、それを教令とする。そして韓と穢から220家が任命された。彼等が(高句麗の)法令をさほど知らないであろうことを考慮し、高句麗から110家が任命された。新 羅と合わせて国煙30、看煙300の合計330家となる。

昔の祖先王以来、王の墓には石碑が設けられていなかったため、墓守り人の煙戸を混乱させるに至った。祖先の王のために陵に碑銘を建て、もはや煙戸が混乱しないようにした[その人は]、國岡上廣開土境好太王である。また、(この墓碑銘は)墓守人が今後重ねて転売することを制するものであり、裕福な者といえども又、勝手に買うことは出来ない。すなわち、法令に背き売るものは刑に処し、買う者には墓守を義務付ける。
 

Yahoo!掲示板にも書き込み、ここを紹介しました  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月23日(日)00時51分6秒
 
勝手ですみませんが、Yahoo!掲示板でこの「帝國喫茶室掲示板」を紹介し、私の上記の文を書き込みました。


トップ > 生活と文化 > ニュース、時事問題 >  海外ニュース > 天皇も靖国参拝に反対95 假に本物でも參拜に影響なし 2006/ 7/23

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

Re: 『卑弥呼と日本書紀209』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月22日(土)16時44分43秒
  岩谷 文太さま
 ご意見をありがとうございます。
「好太王碑」を英訳なさったとは驚きました。
 私のは、何人かの意訳を元にして書いているだけですので、参考になります。
 

Re: 『卑弥呼と日本書紀209』  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月22日(土)15時03分38秒
  オロモルフさん

最近「好太王碑」を英訳したので、丁度かなり細かく読んだところでした。

>三九九年 倭人が新羅(しらぎ)の国境に満ち、城と池を破壊したので新羅が助けを求めてきた。

「池」を漢和辞典でひくと「掘」の意味もあるので、「城池」は「城の掘」で、「潰破城池」つまり「掘を潰して破る」ということは、恐らく「掘が埋められ突破された」ということなのではないかと思います。

>四〇〇年 高句麗(こうくり)軍が新羅の城に至ると、倭兵がその中に満ちていた。一度は退けたがまた占領されたので再度追い払った。

これは恐らく、「高句麗軍が新羅城に来たため、倭軍が任那加羅(みまな-から)まで囮(おとり)になって敵を引き付け、その間に倭が新羅城を潰滅させ、最終的に高句麗軍が引き返して、新羅城を防衛していた安羅人戎兵を助け、倭と百済軍を倒した。」と、文脈から推測すればそのように読めるのですが、誰が何をしたかの手掛りの部分の文字がかなり失われているので実際よく分かりません。実際日本書紀(やまとのふみ)などではどのようになっているのでしょうか?

>四〇七年 高句麗軍が倭軍を破って戦果をあげた。

実際好太王碑では、「どの」軍を破ったかの部分が崩れ落ちて読めなくなっているので、逆に日本書紀や新羅本紀と照合することで推測出来るということなのでしょうか。

折角なので、「好太王碑」に関して私が調べた内容を日を改めてもう少し書いてみます。
 

『卑弥呼と日本書紀209』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月22日(土)12時47分18秒
  [承前]

◆◆◆ 『好太王碑』(高句麗(こうくり)の好太王の事績*) ◆◆◆

 高句麗本紀には、シナ王朝や北方の国々、および百済(くだら)や新羅(しらぎ)との抗争の記録はあるが倭国や倭人は――たぶん――出てこない。
 好太王の治世の西暦三九二〜四一三年にも、百済を攻めた話はあり、その百済は日本との連合軍だった可能性が高いが、倭人の明確な記録はない。

 そこで、好太王(こうたいおう)碑文の記録を元に大体の様子を記す。

 三九一年 倭が海を渡って、高句麗に朝献していた百済や新羅を破って配下にした。
 三九六年 好太王が倭とむすんだ百済を討った。
 三九九年 倭人が新羅の国境に満ち、城と池を破壊したので新羅が助けを求めてきた。
 四〇〇年 高句麗軍が新羅の城に至ると、倭兵がその中に満ちていた。一度は退けたがまた占領されたので再度追い払った。
 四〇四年 倭が高句麗支配下の帯方にまで侵入したが好太王自ら倭兵を壊滅させた。
 四〇七年 高句麗軍が倭軍を破って戦果をあげた。

(これも『日本書紀(やまとのふみ)』とよく暗合している。すくなくとも大きな矛盾はない)

**********

 以上の各紀年のうち、『好太王碑』のものはきわめて正確だとされている。また『三国史記』もシナ正史をひとつの基準にしていて、事件の内容はともかくとして、時代は比較的正確らしい。とくに四世紀以降は信憑性が高い。

 ざっと見て、新羅は日本や高句麗・百済とのいざこざが絶えず、百済はつねに新羅と高句麗に攻められるので日本を頼って味方につけようとし、また高句麗は日本の配下になった百済や配下になりそうな新羅を攻めて日本軍を追い返しながら領土拡張をはかり、日本は半島南端の任那を死守し拡大しようとはかる――といった複雑な国際情勢がわかってくる。

(* 『好太王碑』の原史料については、東京国立博物館が一九九六年に出した『高句麗 広開土王碑拓本』が有益である。明治時代の碑の写真や明治初期から昭和初期にかけてとられた拓本四種類の大型の写真(80センチ×60センチ)があり、事実のみを淡々と記した簡潔な解説がある)

[つづく]
 

朝日新聞は天皇中心の絶對主義  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月22日(土)12時03分51秒
  ここで面白い(興味深い)のは、
朝日新聞が先代天皇の言葉を錦(にしき)の御旗(みはた)にして、小泉總理以下日本國民全體の思想・言動を統制しようとしている
のに對し、
小泉總理ら國參拜をする(支持する)側が「個人の心情(或(ある)いは信條)の自由」という戰後民主主義の原則を守ろうとしている
という點(てん)です。

朝日は「アメリカ追從はよくない」といいつつ、一部のアメリカの文化人の反國的言論を大袈裟(おおげさ)に取り上げており、今度は朝日新聞が昭和天皇の御威光を持ち出して「控えおろう」と言ってきたわけです。

朝日は「天皇と一般庶民(末端兵士)は善良」としておいて、東條ら中間の幹部に全責任をかぶせ、そういう讀者の輿論に迎合して商賣しているようです。
これは「水戸黄門」や「暴れん坊將軍」のような世俗の時代劇に近い發想で、「仁コ(にんとく)天皇」の傳説にも遡(さかのぼ)るものです。朝日新聞こそ皇民化ヘ育の權化(ごんげ)でしょう。

國~社の「みたままつり(御靈祭)」に行ってみると、一般市民が澤山(たくさん)參拜して、賽錢箱の前では何列も長い列ができていました。
あそこにいると「分祀(ぶんし)」だの「A級戰犯」だの馬鹿らしいと想いますし、假に「分祀」されても英靈が二箇所になるなら兩方に參拜しようと想うだけで、結局分けるのは無駄です。
朝日の記者も國の參拜客にインタビューしたようですが、あそこに行っても何もわからないのでしょう。

國に行く參拜客の皆さんは、昭和天皇を尊敬しながらも、自分たちが參拜するかどうかは裕仁氏とは別に各自の判斷で決めるしょうし、それが民主國家の成熟した姿です。

朝日は裕仁氏個人の心情を理由に日本人全員がそれに「右へ倣(なら)え」すべきだと想っているようです。

朝日などが盛んに主張する「東アジア共通の歴史認識」なども、簡單に言えば「思想統制」です。
つまり、朝日新聞がいまや皇室の威光を利用して國民を操ろうと企み、總理大臣や國會議員を初めとする一般國民がそれに縛られない「民主主義」を守ろうとしているわけです。
確かに「自由、平等、個人主義」というのは劣惡なものですが、それを宣傳していたのは他ならぬ朝日です。

朝日などの本音(ほんね)は「反日歴史觀」で日本を統制し、自由な歴史觀を許さず、「日本は東京裁判を受け入れた」と決めたら國民全員にそれを受け入れさせ異論を許さない事です。
日本國民の中で「私個人は東京裁判を受け入れません」と言う人がいても、朝日などはそれを許さないのでしょう。
朝日新聞にとって「個人の自由」など眼中になく、すべて「日本」として思想を一色に染めようとしているわけです。

(かり)にメモが本物であったとしても、總理以下日本國民は國參拜をする(支持する)か否(いな)か「自分で判斷する」という立場の方がいいし、現時點で産經がその立場なのはいいことで、寧(むし)ろ安心しました。

單なる「メモ」が信用できないなら、尚更、「2ちゃんねる」のような低俗落書き版など持って來たら、それこそ根據としての信憑性がなく、報道機關として疑われるでしょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
結果として負けた戰爭だからといって「なぜ始める前にやめなかったのか」というのは無責任です。

そもそも、朝日新聞もテレビ朝日も御他聞にもれず、五輪や世界杯では開會前から「頑張れ日本」の大騒ぎで愛國心を煽り、ほとんど敗退で終わってから投書欄で「W杯報道に違和感」という意見を載せたり、「素粒子」で「これでアナウンサーの絶叫を聞かされずにすむ」と他人事【ひとごと】扱い。

この朝日新聞では、戰爭をさんざん煽(あお)って、負けたら戰爭を人のせいにして責任逃れをしたのも「さもありなん」と想えました。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

Re:富田メモの3ページ目  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月22日(土)09時22分34秒
  『平成18(2006)年7月22日[土]産経抄』
http://www.sankei.co.jp/news/column.htm

>メモが書かれたという昭和63年4月には記者会見もされている。

うほっ、先の2chの件で早速反映してるのか?!・・・と思いきや結局『昭和天皇の率直な歴史観がにじみ出ているようだ。』と昭和天皇の言葉だと信用して記載しているし。「貼り付け」について検証はどうしたの? で、そのままの勢いで『分祀や首相の参拝を論じることこそ昭和天皇のお心にそむくことになる。』ってあーた・・・オモシロ過ぎます。やっぱ電波芸人のレベルです(笑)

マスコミはどこも似たようなものですね・・・。
 

富田メモ  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月22日(土)08時51分42秒
  引用始め

 >前にあったね どうしたのだろう
 >中曽根の靖国参拝もあったか
 >藤尾(文相)の発言。
 >=奥野は藤尾と違うと思うが
 >バランス感覚のことと思う
 >単純な復古ではないとも。

 >私は 或(あ)る時に、A級が
 >合祀(ごうし)され その上 松岡、白取
 >までもが、
 >筑波は慎重に対処して
 >くれたと聞いたが
 >松平の子の今の宮司がどう考
 >えたのか 易々と
 >松平は平和に強い考えが
 >あったと思うのに 親の心子知
 >らずと思っている
 >だから 私あれ以来参拝
 >していない。 それが私の心だ

引用終わり

何の先入観も無く、何の予備知識も無い儘(まま)に、文章を読んだ場合、

「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない。 それが私の心だ」

の「発言者」は、その前段に「藤尾(文相)の発言」と書かれている事から、藤尾正之文相(在任 1988年7月22日〜9月9日)と解釈する事も出来ます。

昨日、私はある会合に出掛け、その席で「富田メモ」が話題に上った際、さる方がこの様な事を申しました。(以下要約)

「先帝陛下が昭和50(1975)年以降、靖國神社へ「行幸」されなかった事について、徳川侍従長が日記で「A級戦犯」合祀が原因との主旨を書かれていたが、今回、別人(富田)も「A級戦犯」合祀が原因と書き残していたとしたら、先帝陛下の大御心(おおみこころ)となる。尤(もっと)も、現段階では、「資料」が出てきただけなので、これから検証すれば良いだけの話」

詰まり、徳川侍従長だけでなく、富田宮内庁長官迄もが、同じ内容を書き残していたとしたら、「物証」が一つ増えた事になる訳です。然(しか)し、もしも、既に書籍化されている日記だけで無く、今回、「富田メモ」として報道されたものも、徳川侍従長によるとなると、「物証」=補強材料としてはなり得ません。単に、同一人物が日記とメモと言う二つのソースに同内容を残しただけになる訳ですから。

このメモに関しては、今後、精査されていくとは思いますが、一つだけ感じた事を最後に述べます。

先帝陛下が最後に靖國神社へ「行幸」(決して「参拝」では無い)されたのは、昭和50年。所謂(いわゆる)「A級戦犯」が合祀されたのは、昭和53(1978)年。もしも、「合祀」が先に為(な)され、その後、先帝陛下が行幸を止(や)められたと言うのならば、因果関係も類推出来ますが、「最後の行幸」(実際には、大東亜戦争終結30周年を記念しての行幸であった訳だが)が行われた後に「合祀」が為された訳で、「合祀」=行幸中止と言う数式は必ずしも成立し得ません。メディアが総理による参拝を「私的か、公的か」と騒ぎ立てる様になった事が原因(行幸は「私的か、公的か」と言った騒ぎに陛下が巻き込まれる事を宮中側が忌避)だったかも知れません。
繰り返しますが、「結果」(昭和50年以降行幸なし)が先にあり、「原因」(昭和53年合祀)は後です。
そして、「結果」と「原因」の因果関係は必ずしもイコールでは無いと言う事です。
 

富田メモの3ページ目  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月22日(土)01時10分55秒
  3ページ目の写真を解読して産経新聞に送った人がいるそうです。

------------------------------

86 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2006/07/21(金) 15:11:29 ID:+1F+FDUl

先程、以下の意見書を産経新聞に送りました。もし明日の朝刊で産経が同様の記事を書いていたら、2ちゃんがマスコミを動かした事になります。みんな明日を楽しみにしていてくれ。


Sub:富田メモが昭和天皇発言ではない事が解明できました。

産経新聞様

「2ちゅんねる」で富田メモの3ページ目を解読した者がいます。テレビのキャプチャー画面から3ページ目の裏に写った文字を反転と画像補正で鮮明にし読み取る事に成功しています。
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060721082842.jpg


              63.4.28 �               4.28 �
☆Pressの会見                 前にあったね どうしたのだろう
�   昨年は                 中曽根の靖国参拝もあったか
  � 高松薨去(こうきょ)間もないときで    藤尾(文相)の発言.
   心も重かった               =奧野は藤尾と違うと思うが
  � メモで返答したのでつく         バランス感覚のことと思う
   していたと思う              単純な復古ではないとも.
  � 4:29に吐瀉(としゃ)したが その前で
   やはり体調が充分でなかった        私は 或(あ)る時に.A級が
  それで長官に今年はの記者          合祀(ごうし)され その上松岡.白取
  印象があったのであろう           までもが、
  =(2)については記者も申して       筑波は慎重に対処して
  おりました                 くれたと聞いたが
                     ○  松平の子の今の宮司がどう考
�  戦争の感想を問われ         余そ えたのか 易々(やすやす)
  嫌な気持を表現したが         りう 松平は平和に強い考が
  それは後で云いたい          閣で あったと思うのに 親の心子知
   そして戦後国民が努力して      僚す らずと思っている
  平和の確立につとめてくれた      もが だから 私あれ以来参拝
  ことを云いたかった          知か していない.それが私の心だ
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長   ら多
  の靖国発言中国への言及にひっかけて  ずい ・関連質問 関係者もおり批判になるの意
  云(い)った積(つも)りである


97 : 86:2006/07/21(金) 15:12:56 ID:+1F+FDUl

続き
※3ページ目と4ページ目を続けて読むと次の事が判ります。

1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対るす答えは率直な感想を述べているように読み取れる。
発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく仕(つか)える立場の人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。


以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である事は明白です。
理由は以下の通りです。

a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1〜9の指摘事項に全てあてはまる。


では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。

イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
ハ.発言者は自身を「私」と言っている。天皇陛下であれば公式な場は「朕(ちん)」と言う筈である。


私がこの意見を貴社に送ったのは、他のマスコミが信じられないからです。
日経は3ページ目をわざと隠しています。3ページ目を公表すると捏造(ねつぞう)がばれるからです。
しかし私達の仲間が3ページ目を解読することに成功しました。
この新事実をネット掲示板だけに留めている訳にはいきません。
ぜひとも昭和63(1988)年4月28日に徳川侍従長の会見があったかどうか裏を取って下さい。
そして会見内容を精査して下さい。もし同じ内容ならば徳川侍従長発言の裏付けになります。
他社には寄稿していません。又、この意見は私1人の意見ではありません。
「2ちゃんねる」靖国肯定派の総意と思って頂いていいと思います。

『【靖国参拝問題】昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀★9 [07/20]』(2ちゃんねる)
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1153461672/86
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1153461672/97

------------------------------
元の写真
http://icepack.hp.infoseek.co.jp/kon/pics/vip295965.jpg
 

御英霊  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月21日(金)21時48分31秒
  250万柱の靖国御英霊を弄(もてあそ)ぶかのような報道が昨日からなされています。
御英霊の慟哭(どうこく)がきこえます。
 

「富田メモ」は「昭和天皇メモ」と印象操作してるマスコミ  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月21日(金)16時09分50秒
   富田メモを取り上げているほとんどのメディアは確証をとらないまま「昭和天皇メモ」と断定しているような・・・紙質やインクは日本製かそれ以外なのか?それらの劣化状態、筆跡の鑑定・・・で、昭和帝が倒れるその前日に「その日付」なのは何故? 支那・人民日報と提携している媚小泉官邸の「日経」が連載始めてまでこうも熱心なのは何故? ちなみに「朝日」も「毎日」も他いろいろと騒いでいるが・・・何故この時期に騒いでる? 靖国シーズンだからかな(笑)

 少し前に「靖國紳士協定の提唱者」があって生前、後藤田正晴元副総理がそれを否定しているにも関わらず、故人となれば、支那・王毅駐日大使というボケナスが彼が言った事にしているそのやり方・・・死人に口無しという手口がある。それで今回は・・・昭和天皇も冨田氏も故人であるのが気になりますね。更に策謀元があるなら、それは西洋であり、特定アジアはその下請けという可能性を探っています。

 ちなみに今回の件で私には動揺はありません、不思議と・・・。でもとうとう逆鱗(げきりん)に触れることをやっちゃったので是非とも徹底的にオシオキしておきたいですね。
 

『卑弥呼と日本書紀208』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月21日(金)11時54分52秒
  [承前]

◆◆◆ 百済本紀(百済(くだら)の編年史) ◆◆◆

 三九二年 高句麗(こうくり)の好太王に攻められて多くの城が落城した。
 三九七年 阿花(あか)王が倭国と修好し、太子の直支(とき)を人質に出した。
 四〇三年 倭国の使者が来たので厚遇した。
 四〇五年 阿花王が死んだので直支は帰国を希望し、倭国は兵士百名で護送してくれた。
 四一八年 使者を倭国に派遣して朝献した。
 四二八年 倭国から随行五十人もの使者が来た。
 六〇八年 倭国へ行く隋の使者が百済を通過した。
 六五三年 倭国と修好した。
 六六二年 唐・新羅(しらぎ)連合軍と戦うため倭国と高句麗に援軍を請うた。
 六六三年 滅亡した。
(百済本紀には古い記録は無いが『日本書紀(やまとのふみ)』や『好太王碑』との対応は良好である)


◆◆◆ 列伝(人物伝) ◆◆◆

 二五三年 新羅の于老(うろう)は第十代の王の王子だが、倭の使者の接待役になったとき、「倭の王を奴隷にし王妃を炊事婦にする」といったので倭の王(大和朝廷軍?)が怒って攻めてきて、于老は殺された。

 その後第十三代の王(西暦二六二〜二八四年)のときに、于老の妻が倭の使者を酒に酔わせて焼き殺した。怒った倭人が攻めてきたが、勝てずに引き返した。
(新羅史の二三三、二四九年に対応している)

 四一二年 人質の未斯欣(みしきん)を取り戻すために倭に使者を送り、倭人を騙(だま)して帰国させたが、使者は追ってきた倭兵に捕まって処刑された。
 このとき次の話を新羅は知った。

 百済の使者が倭に来て「新羅と高句麗が共謀して倭国を侵(おか)そうとしている」と述べたので、倭は兵を出して新羅の国境外に巡回させたが、これを高句麗の軍勢が捕らえて殺した。

(新羅本紀の四一八年に対応するとともに、『好太王碑』とも『日本書紀』とも対応している)

[つづく]
 

おもわずこちらにやってきました  投稿者:metas  投稿日: 7月21日(金)07時12分18秒
  どうも、はじめまして。
昭和天皇のメモと言われているものに関して、思わずこちらにもやってきました。
実はメモの内容は、以前から聞いたことがあったのですが、
先帝陛下が「松岡」「白鳥」を名指ししているのは、彼らが服役中の病死のため、
(「服務死」扱いの東条などとは違い)本来靖国に祀られる要件を満たさないためなのです。

それと、メモの真偽に関してなら、
天皇陛下は靖国に「参拝」など一度もなされていないと云うことが挙げられます。
「行幸」なら幾度もなされておりますが・・・。
靖国神社のホームページにもありますので、ご確認ください。
 

とりあえず  投稿者:KABAREN  投稿日: 7月20日(木)21時20分16秒
  なにやら怪しいメモが絶妙のタイミングで発見されましたね。
遺族会会長の古賀氏が支那でA級戦犯分祀論を一席ぶった直後、黄ばんだ手帳に真新しい紙を張り付けてA級うんぬん…。
記載された内容の真偽はもはや確認できませんが、張り付けたメモ自体の真偽はいくらでも検証できるのではないでしょうか。
今やらなければ、既成事実として一人歩きしてしまいます。
(マスコミは既に事実として報道してしまった)
仮に、メモが工作だったとすると、後へ行くほど世論を元へ戻すのに苦労します。南京や慰安婦のように。
まあそれが工作員の常套(じょうとう)手段なのですが。
 

『卑弥呼と日本書紀207』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月20日(木)12時23分4秒
  [承前]

 三六四年 倭人が大挙して攻撃してきたので、草人形数千をつくって騙(だま)し、伏兵が待ち伏せして皆殺しにした。
 三九三年 倭人が城を包囲したが、堅守し、追撃した。
 四〇二年 倭国と修好し王子の未斯欣(みしきん)を人質として倭国に出した。
 四〇五年 倭人が攻めてきたが、王が破った。
 四〇七年 倭人が東辺と南辺を侵した。
 四〇八年 倭人の基地のある対馬を攻撃しようと計画したが、海を渡るのは無理で挫折した。
 四一八年 人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
 四三一年 倭人が東辺の城を包囲したが退いた。
 四四〇年 倭人が東辺と南辺に侵入した。
 四四四年 倭人が城を包囲して食糧が尽きて退いたとき、王が追撃したが逆襲され、山に逃げて濃霧で助かった。
 四五九年 倭人が兵船百余隻で東辺に来たが破った。
 四六二年 倭人が城を破り、一千余名が捕虜になった。
 四六三年 倭人が侵入したが退いた。
 四七六年 倭人が東辺を侵したが破った。
 四七七年 倭人が侵入したが破った。
 五〇〇年 倭人が城を攻め落とした。
 六七〇年 倭国が国名を日本と改めた。日の出る所に近いからだ――と自ら述べた。
(新羅(しらぎ)本紀には弥生時代から天智天皇のころまでの対日関係が継続的に記されているので興味ぶかい。人質の名前なども『日本書紀(やまとのふみ)』と共通している)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀206』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月19日(水)12時25分8秒
  [承前]

◆◆◆ 新羅本紀(新羅(しらぎ)の編年史) ◆◆◆

 前五〇年 倭人が辺境を侵(おか)したが、すぐ帰った。
  一四年 倭の兵船百余隻が海辺に来たが防いだ。
  五七年 日本の丹後地方から渡ってきたらしい日本人が第四代の王・脱解尼師今(トヘニサコム)になった。
 一二二年 暴風のとき倭人が攻めてきたとの噂。
 一二三年 三月に倭国と講和した。
 一五八年 倭人が贈り物を持って修好を求めてきた。
 一七三年 倭の女王〈卑彌乎〉が修好を求めてきた。
(このあたりの紀年には疑問もあるが注目すべき記述である。
 若いころの〈卑彌呼〉だったとしても矛盾はないからである)
 二〇八年 倭人が侵入したので防いだ。
 二三二年 倭人が城を包囲したが将軍の于老(うろう)がうち破った。
 二三三年 倭人が東辺を侵した。また于老が倭人の船に火をつけて破った。
 二四九年 倭人が反撃にきて于老を殺した。
 二八七年 倭人が一千名の百姓を捕虜にした。
 二九二年 倭人が城を奪ったが、取り戻した。
 二九四年 倭人が城を攻め、新羅は勝てなかった。
 二九五年 百済(くだら)とともに倭国を攻めようとしたが、海戦に不慣れで実現しなかった。
 三〇〇年 倭国と使者を派遣しあって修好した。
 三一二年 倭国の王から、皇子の妃(きさき)を求めてきたので、急利という人物の娘を倭に送った。
 三四四年 倭国がまた妃を求めてきたが、断った。
 三四五年 倭国の王が国交断絶を宣言してきた。
 三四六年 倭人が城を包囲したが、食糧が尽きて退くのを待って追撃した。

[つづく]
 

イラク自衛隊撤収完了  投稿者:えこね  投稿日: 7月18日(火)15時46分3秒
  2006-7-18 11:18  No.42782:
祝!イラク自衛隊撤収完了

日本時間の昨夜、イラク駐留自衛隊の撤収が完了しました。

現地イラクの住民をひとりも傷つけることなく、
平和裏に任務を完遂した隊員たちの忍耐と勇気を思うとき、
感動に堪えません。

任務の内容に違いがあるとはいえ、
疑心暗鬼で誤射誤爆を繰り返し、
挙句の果てにはレイプ虐サツ事件まで起こした米軍将兵と比べて、
自衛隊の沈着さは誇りとすべきではないでしょうか。

今月中には全員帰国の予定だそうです。
感謝と労いの気持ちで、迎えたいものです。
 

『海の日と明治丸』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月18日(火)12時44分46秒
  ▼明治丸史編集部会(編)『明治丸史』東京商船大学(昭和五十七年七月)

口絵
第一章 明治丸の誕生
第二章 明治丸の航跡
第三章 明治丸と教育
第四章 明治丸の安息
文献資料
図表
年表

▼「海の日」

 昨日は「海の日」でした。国民の祝日です。
 昭和16年の5月の定例次官会議において七月二十日を「海の記念日」にする事が決定され、平成になって「海の日」として国民の祝日に加えられました。
 現在この日は、七月二十日に近い第三月曜日となっていて、何だか観光業者にゴマをすったようなきまりですが、やむを得ません。

 さて、本来の「海の日」が七月二十日なのは、明治天皇が、明治九年の東北・北海道ご巡幸の帰路、函館で明治丸にお乗りになって、この日に無事横浜にお着きになられたからです。
 天皇陛下が内海以外で船で長距離をご旅行なさるのは、じつに画期的なことでありました。
 明治丸とは、明治政府が灯台巡回用に入手した当時最新鋭の鉄船ですが、船舶の安全が確保されていない時代にあって天皇陛下が船で行幸なさるというのは、前代未聞で、同船した明治の要人たちは、天皇陛下をお守りするために死を覚悟していたそうです。

▼記録の一部

 前記の書にある記録の一部を抜粋します。
「(十八日に函館を出港して)・・・十九日晴、艦動揺昨の如し、群臣或(あるい)は食を絶ち嘔気(おうき)を発す、上(かみ 明治天皇)、神色自若たり、然(しか)れども盆器已(すで)に覆り銅■亦傾くを以(もっ)て、侍臣強(しい)て横臥(おうが)を請ひ(こい)、側(そば)に在(あ)りて奉承す・・・(二十日晴れ)・・・明日風浪の悪(あ)しきを知るべし、因(よ)って再び前議を変じ、即夜横浜に着御(ちゃくぎょ)あるべきの命(めい)を伝ふ(つたう)・・・八時十分横浜着御、内外停泊諸艦楽(がく)を奏し祝燈を点じ、行在所(あんざいしょ)等を整理す、大久保内務卿、黒田参議、・・・奉迎、天機を候す、侍臣或は上陸し或は留侍す、九時御上陸、神奈川県権令野村靖奉迎す・・・」

 いかに大変だったかが分かります。
「海の日」というからには、本来テレビなどでは、こういう明治天皇および重臣たちのご苦心を特集すべきだろうと思います。

 なお、明治初期の対外関係においては、外国の商船が安全に日本の港に着くために燈台の整備が最重要課題であり、したがって大枚(たいまい)をはたいて明治丸を建造したのです。
 オロモルフの専門関係では、初期の役目を終えた明治丸は、明治二十三年に津軽海峡横断海底ケーブルの、日本人による初の布設に成功しています。
 臨時にケーブル装置を付けたのです。
 明治丸は現在国の重要文化財になって保存されているそうですが、その数奇な運命については、前記の書籍でどうぞ・・・。
 

『卑弥呼と日本書紀205』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月18日(火)12時36分50秒
  [承前]

 さて、話を〈神功(じんぐう)皇后〉にもどそう。

『日本書紀(やまとのふみ)』における〈神功皇后〉とその皇子・應神天皇や孫の仁徳(にんとく)天皇についての記述の多くは、朝鮮との軋轢(あつれき)や出兵に費やされている。
 その信憑性については、昔からいろいろな議論があるが、それを考えるには、朝鮮三国の正史である『三国史記』や、高句麗(こうくり)の王・好太王の事績を刻んだ『好太王碑(こうたいおうひ)』の碑文との比較が重要となる。
 そこで『日本書紀』の本文に入る前に、この二つの史料で日本に触れている箇所を、抜粋しておこう。

『三国史記』は十二世紀に編纂された、高句麗・新羅(しらぎ)・百済(くだら)三国の史書である。

『好太王碑』とは、西暦四〇〇年前後に活躍した高句麗の王の業績を巨大な石に刻んだ碑文のことで、明治時代に日本人が発見して、古代史界に衝撃をあたえた超A級の史料である。

『三国史記』は十二世紀の編纂で『記紀』よりずっと遅いから疑問も多いし、また『好太王碑』は死の直後の顕彰のための碑文だから、美化もされているし、文章も短い。
 しかしそれでも、『日本書紀』の記述の信憑性を判断するうえで、重要な史料となっている。
 とくに、実紀年推理には欠かせない。

 以下の抜粋の紀年はすべて西暦である。

[つづく]
 

世界経済の劇変 & わが国はいかに対応すべきか?  国際エコノミスト・富士常葉大学学長・水野塾塾長    投稿者:救国の草莽の志士  投稿日: 7月18日(火)04時58分34秒
   ワールドフォーラム7月例会のご案内


             http://worldforum.jp


  テーマ :  世界経済の劇変 & わが国はいかに対応すべきか?
               −イラン核危機 と 世界経済の動向−

  講師  :  国際エコノミスト・富士常葉大学学長・水野塾塾長   水野 隆徳 氏


日時 : 2006年7月28日(金) 18:00 - 21:00

場所 : 宮崎県会館 東京ビル 1階 会議室
          千代田区九段南4-8-2   TEL.03(3263)5756

交通 : JR市ヶ谷駅又は、都営新宿線市ヶ谷駅A3出口より徒歩

地図 : 宮崎県会館 東京ビルへの地図

参加費 : 4,000円(予約前払い 3,000円 会員・オブザーバー共)

振込先 : 三菱東京UFJ銀行 田無駅前支店  普/3826681/口座名義 佐宗邦夫

参加申込先 : ワールド・フォーラム例会にご出席いただける方は、下記宛にご連絡下さい。
ワールド・フォーラム代表幹事 : 佐宗邦皇

            E-mail : aikokusha-daiasiarengo@hotmail.co.jp

            FAX : 03(3353)6499

            携帯 : 090(7234)9792


鬱陶しい梅雨の日々が続き本格的な夏の到来が待たれ今日この頃ですが、皆様にはお元気にご活躍のことと存じます。ワールド・フォーラム7月例会では、 国際エコノミスト・富士常葉大学学長・水野塾塾長 水野隆徳 氏  をお招きして、「 世界経済の劇変 & わが国はいかに対応すべきか? −イラン核危機 と 世界経済の動向− 」 というテーマでお話戴きます。

米国では、今年1月末に19年間、世界経済の舵取りを行なってきた、米国連邦制度理事会(FRB)議長のグリーンスパンが退任して、ベン・バナーキという新議長にとってかわられたましたが、この人と政策の変化が世界経済に及ぼす影響が如何なるものになるか、また、イランの核危機がもたらす世界経済に与える巨大な影響が如何なるもので、その変化が日本に及ぼす変化と影響が如何なるものとなるのか、大変なものと危惧されます。具体的には、石油価格の高騰、食糧資源の高騰、石油代金決済通貨としての米国ドルの下落、消費者物価・卸売り物価の高騰による世界的なインフレーションの時代に突入し、対イラン戦争の拡大と第5次中東戦争の勃発から、第三次世界大戦への突入などが危惧され、イランの対抗措置としてのホルムズ海峡閉鎖やマラッカ海峡等での物資輸送の困難さも予想されます。そこで、こうした世界的な危機の時代における世界経済の大変動を、国際エコノミストとして著名な水野隆徳氏はどのようにお考えか、お話戴きます。皆様方におかれましても大変お忙しいとは存じますが、お誘い合せの上お越し下さいますようお願い申し上げます。

 ( 水野 隆徳 氏 の プロフィール  )

昭和15年静岡県、臨済宗の寺の僧侶の長男として生まれる。1965年東京大学教養部卒業。企画部勤務、通産省石油石油開発公団への出向の後、調査部シニア・エコノミストとしてニューヨーク駐在「ウォール・ストリート・ジャーナル」「ビジネス・ウィーク」「ニューヨーク・タイムズ」等に、日本経済や産業、金融問題への見解がされた。1984年独立、国際問題研究開発センター主任研究員。1985年静岡県沼津市で「TIME」(タイム)の会を主宰して活躍、現白隠宗総本山松陰寺の中島玄奘老師に弟子入り。沼津市と天竜市で「THE WORLD」(ザ・ワールド)の会を主宰し、現在に到る。1989年(社)金融財政事情研究会のニューヨーク事務所長(初代)に就任。2001年(社)郷学研究所・安岡記念館にて安岡哲学の本格的研究を始め、臨済宗大本山向嶽寺の瑞松軒宮本大峰老大師の下で禅の本格的修業を始める。2002年東京で「水野塾」を主宰。万燈照隅の運動に乗り出す。沼津、三島、大阪、名古屋にも「水野塾」を設立。「マスコミから盗作をなくす会」の設立を準備中、支援者を募集している。2004年東京に「第2水野塾」を設立。(社)郷学研修所・安岡記念館評議委員、富士常葉大学副学長を経て、現在、学長。

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『卑弥呼と日本書紀204』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月17日(月)11時01分32秒
  (前回の注:もし仮に仲哀天皇も孝明天皇も暗殺だったとすれば、これは対外政策についての意見が政界の実力者と異なる天皇が排除された事件であり、排除の理由も似通(にかよ)っている)


■■■■■ 七・二 朝鮮の史書『三国史記』と『好太王碑』にのこる〈神功(じんぐう)皇后〉の事績 ■■■■■


◆◆◆ 百年の空白と朝鮮史書の中の日本 ◆◆◆

〈卑彌呼〉の後継者〈臺與〉が使者をシナ王朝に派遣した西暦二六〇年代から、三六〇年代の〈神功皇后〉による百済(くだら)との交渉や派兵まで、ほぼ百年のあいだ、筋のとおった大陸・半島との交渉記録は、内外のどの史書にも記されていない。
 あるのは伝説的なものだけである。

 しかしこの百年――垂仁(すいにん)・景行(けいこう)・成務各天皇の御代(みよ)――の大和(やまと)朝廷は、シナ王朝の権威を借りずに日本列島の九州から東北までの地方豪族を帰順させることに腐心しており、また制度・境界・神社などによる列島統一の安定化に懸命になっていた時代なので、列島外との交渉が途切れていたのは、無理もないことである。

 じつは朝鮮半島でも同じ時期に内部での再編が進み、楽浪郡・帯方郡などシナ王朝の植民都市が亡び、三韓も姿を変えて、半島を牛耳るのは北の高句麗(こうくり)、南東の新羅(しらぎ)、南西の百済、および日本人が多くいた任那(みまな)の四つの強国になっていった。
 大陸でも三国時代の魏・蜀・呉がつぎつぎに滅びて西晋・東晋などが興っては消えた混乱期であった。
(大和朝廷としても、大陸のどの王朝と外交してよいのか分からない状態だったかもしれない)

 したがって、空白の百年の終わりに近い西暦三五〇年ごろには、日本列島を統一した大和朝廷と、朝鮮半島を分割支配した高句麗・新羅・百済三国とが、半島南端部の任那を間にして複雑な利害関係を持ち、あるいは激突する要因ができあがっていた――ということになる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀203』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月16日(日)11時53分4秒
  [承前]

 この異様な急死事件については、武内宿禰(たけうちのすくね)が天皇を暗殺したのではないか――という説が古くから唱えられている。
 明治天皇の先代の孝明天皇がヒ素中毒に似た症状で不審な急死をとげた事件が、明治の重臣岩倉具視(いわくら-ともみ)の謀略による暗殺と推理されているのと似た、奇怪な事件なのである。
 緊急事態を処理するため〈神功(じんぐう)皇后〉と武内宿禰は相談して、武内がご遺体を船で穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)に運び、燈火も用いずに極秘裏に仮葬し、人民には喪を秘した。

 また万一の事態に備えて、中臣(なかとみ)・大三輪(おおみわ)・物部(もののべ)・大伴(おおとも)という《大和(やまと)》の豪族の首領である四重臣に命じて宮中の警備を厳重にした。
 物部・大伴は神武(じんむ)以来の重臣だし、中臣は藤原鎌足(かまたり)ら藤原一族の祖でもあり、大三輪は日本最古の神社とされ卑彌呼に関係するとも想像される《三輪山》に関係する一族である。
 つまり朝廷に協力する古代《大和》の代表的豪族が九州に集まっていたことになる。

 これで仲哀天皇紀は終わりだが、仲哀天皇が〈神功皇后〉を介しての神託に背(そむ)いて死んでしまうくだりが印象的である。
 完全な女性上位なのだ。
 また皇后がこの段階ではやくも再三にわたって霊感を発揮していることも印象に残る。
 さらには、皇后と武内宿禰の仲が、天皇との仲よりも親密であることも、何やら暗示的である。

**********

 仲哀天皇が崩御(ほうぎょ)されたこの年は、一二〇年加算では三二〇年になるが、崩年干支である壬戌(じんじゅつ)をとると、前記のように三六二年になる。
 かなりの開きがあるが、この時代ではまだ加算は一二〇年より大きいとも考えられるし、また崩年干支推定に無理があるとも考えられる。
 しかし、前後の関係から、南原次男は実際の崩年は干支推定三六二年に近いのではないかと、推理している。
 たしかに、三二〇年崩御では、〈神功皇后〉の治世が長すぎるように思われる。

**********

 このあと、『日本書紀(やまとのふみ)』の記述は、〈神功皇后〉による疾風怒濤(しっぷうどとう)の三韓征伐となる。

[次ぎは「第七・二節 朝鮮の史書『三国史記』と『好太王碑』にのこる〈神功皇后〉の事績」]
 

『卑弥呼と日本書紀202』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月15日(土)12時38分18秒
  [承前]

▽仲哀天皇九年0(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔天皇の不審な急死〕

 二月――
 この月の五日に、仲哀天皇は突然身体が弱り、翌日崩御(ほうぎょ)されてしまった。また、熊襲(くまそ)の矢に当たったのが原因だという別説が併記されている。

 ただし『古事記(ふることふみ)』には、もっと不思議な話が記されている。
 皇后と重臣武内宿禰(たけうちのすくね)の二人の立ち会いで天皇が神託を得るための琴を暗がりで弾くと、皇后に憑依(ひょうい)した神が西へ行け――と託宣する。
 しかし天皇は西は海ばかりだ、として熊襲征伐にこだわる。
 神は怒って、

「この国はお前が統治すべきではない。お前は黄泉(よみ)の国へ行け」

 ――と述べたので、武内宿禰は再度琴を弾くように天皇にすすめ、天皇はしぶしぶ燈火を消して琴を弾いたが、しばらくして音が聞こえなくなった。
 心配して明かりをつけると、天皇はその場で崩御されていた・・・という話である。

 武内宿禰とは、第八代孝元天皇の孫または曾孫(ひまご)にあたるので先祖は〈神功(じんぐう)皇后〉と同じであり、第十二代景行(けいこう)天皇の時代から活躍を開始し、第十三代成務天皇と同じ日に生まれたため同天皇に寵愛(ちょうあい)されて大臣(おおおみ)になり、仲哀天皇の時代になってからもそれ以後も、百年以上にもわたって歴代天皇の大臣として朝廷で権力を振るった謎の重臣である。

 厳密にいうと、景行・成務・仲哀・神功・應神・仁徳(にんとく)と六代にもわたって天皇の寵臣であり続けた。
『記紀』の年代のままだと二百年も働き続けたことになるが、崩年干支を元に実働を推定すると七十年ほどになるので、ありえない話ではない。
 もちろん政治上手な一族が単一名で記されている可能性もある。
 葛城(かつらぎ)・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・蘇我などの豪族たち(図7.7参照)が、武内宿禰の子孫を名乗っている。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀201』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月14日(金)12時32分59秒
  [承前]

 九月――
 熊襲(くまそ)を討とうと群臣に相談するが、神が皇后に乗り移って、

「不毛の地の熊襲など討ってもしかたがない。それより宝がたくさんある新羅(しらぎ)国に向かうべきだ。私を祀(まつ)れば戦わずして帰服するだろう。そうすれば熊襲も自然になびく」

 ――と神託を述べる。
 この時点ですでに〈神功(じんぐう)皇后〉が物語の主人公になっているのだが、仲哀天皇は山に登って遠くを見て、

「海が見えるだけでそんな国は見えない。それに、先祖の天皇たちは多くの神々を祀ってきたのに、さらに別の神がいるのはおかしい」

 ――といって神託を信じようとしない。
 皇后はまた神憑(かみがか)りになって、

「神を信じないのであればお前は国を保つことはできない。しかし皇后はいま身ごもっているので、その御子がその国を得るだろう」

 ――と神託を告げる。
 仲哀天皇はそれでも信ぜず、熊襲を討ちに行くが、失敗してしまう。

 ここで〈神功皇后〉の神託にあった「宝」とは何か、であるが、玉や鏡の類ではなく、日本ではなかなか採取できない「鉄」であったろうという説が有力である。

 じじつ〈神功皇后〉五十二年――一二〇年加算で西暦三七二年――に、百済(くだら)王が大和(やまと)朝廷に朝鮮の鉄の献上を誓う話がある。
 また前にも述べたが、『三国志・東夷伝』にも、倭人が鉄を求めて朝鮮半島に来ている――という記述がある。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀200』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月13日(木)11時59分7秒
  [承前]

 三月――
 南海道(図4.1参照)を巡幸したとき、九州の熊襲(くまそ)が背(そむ)いて朝貢しなかったので、征伐するために九州方面に居を移すことにし、皇后と穴門(あなと)で落ち合うことにした。穴門とは山口県の下関市のあたりである。

 六月――
 皇后が敦賀(つるが)を出発して船上で食事をしていたとき、鯛(たい)がたくさん集まってきたので、その上にお酒を注ぐと、鯛が酔って浮かび上がり、漁師が大喜びした。
〈神功(じんぐう)皇后〉の奇跡譚(たん)の始まりである。

 九月――
 落ち合った天皇と皇后は、宮殿を穴門に建てた。これが仲哀天皇の第一の皇宮、穴門豊浦宮(とゆらのみや)である。


▽仲哀天皇八年(西暦一九九年/三一九年)
〔皇后による神託と熊襲征伐の失敗〕

 正月――
 いよいよ九州北部、いまの福岡県に移動する。
 ここで、北九州市の西方の岡県主(おかのあがたぬし)の祖の熊鰐(わに)や、伊都(いと)――すなわち『魏志倭人伝』の伊都国――の県主の祖の五十迹手(いとて)の迎えを受けたりして、儺県(なのあがた)――すなわち博多湾岸で『魏志倭人伝』にある奴国(なこく)――の橿日宮(かしひのみや)に落ち着く。
 これが仲哀天皇の第二の皇宮で、いまの福岡市東区にあったらしい。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀199』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月12日(水)12時37分36秒
  [承前]

(以下の各紀年は、上が皇紀を西暦になおした数字であり、下がそれに一二〇年加算した数字である。この数字は単なる加算であって、それが実紀年だと主張するものではない。ただ、実紀年推定の手がかりにはなると考えている)


▽仲哀天皇元年(西暦一九二年/三一二年)
〔白鳥も焼けば黒鳥!〕

 先代の成務天皇崩御の翌年に即位。
 この年の冬、白鳥になって虚空に消えた父の日本武尊(やまとたけるのみこと)を偲(しの)んで、人々に白鳥を献上させたが、北陸道(図4.1参照)の人が献上するつもりで持ってきた白鳥を、異母弟にあたる蒲見別王(かまみわけのみこ)が、「白鳥も焼けば黒鳥だ」と凄いことをいって奪ったので、怒った仲哀天皇は兵をやってこの異母弟を誅殺(ちゅうさつ)する。

 皇位をめぐって異母兄弟どうしの軋轢(あつれき)があったことをうかがわせるが、『日本書紀(やまとのふみ)』にはこういった皇室の汚点ともなるような事件が、じつに率直に書かれている。


▽仲哀天皇二年(西暦一九三年/三一三年)
〔〈神功(じんぐう)皇后〉の奇跡が始まる〕

 正月――
 第九代開化天皇の玄孫(やしゃご)にあたる氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を娶(めと)って皇后とする。
 これがすなわち後の〈神功皇后〉である。皇后の母親は新羅(しらぎ)の王子の子孫ともいわれている。
 なおその前にお妃(きさき)が産んだ皇子が何人かいて、そのうちの二人が、仲哀天皇の死後に皇后に背(そむ)いて事件を起こす。

 二月――
 福井県若狭湾岸の敦賀に行幸して仮宮を建てて滞在する。
 敦賀から丹後半島にかけては、日本海を渡って朝鮮と交通するときの要地で、大和(やまと)朝廷としてはぜひ支配しておきたい土地であった(*)。

 それまでは先代の成務天皇の皇宮のあった滋賀県大津市に宮をかまえていたのだが、朝鮮半島と連絡しやすい場所に遷ったことになる。
 なお成務天皇より前の都はほとんどが《大和》の地である。

(* 前に記したことがあるが、この敦賀から丹後半島にかけての若狭湾一帯の地域から奈良県の《大和》まで――遺跡発掘時の新聞報道だが――烽火(のろし)通信の施設が古墳時代にすでに出来ていたという話もある。いずれにせよこの仮宮は大和朝廷にとっての重要拠点に建てられたのだから、その行幸は決して不思議なことではない。
 これより前、崇神(すじん)天皇の時代に、「三種の神器(さんしゅのじんぎ,みくさのかんだから)」の「八咫鏡(やたのかがみ 天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊(みたま))」を《大和》の地から丹後の天橋立(あまのはしだて)にお遷ししたのも、これと似た理由があったと想像される。
 日本海への玄関口を抑えていた丹後の豪族海部(あまべ)氏らを配下に置くためである。
 ここの海洋豪族は、のちに、〈神功皇后〉に従って新羅遠征に従軍し、軍功をあげて恩賞を与えられている。現在の元伊勢《籠(この)神社》の宮司・海部氏の先祖は、この時に〈神功皇后〉から海部直(あまべのあたい)なる姓(かばね)を恩賞として与えられたのである。
 さらに第二十一代雄略天皇の御代(みよ)に、丹後の地の大氏神である〈豊受(とようけ)大神〉を伊勢の外宮(げくう)にお祀(まつ)りしたことも、朝廷にとっていかに若狭湾周辺とその地の海洋豪族が重要だったかを表しているのであろう。**)

(** 上の注で述べたことは、「《邪馬台国》大和説」においての九州から《邪馬台国》への経路が、瀬戸内海ではなく、日本海の沿岸を通って若狭湾に上陸して《大和》に向かうものだった――という笠井新也らの説を補強しているが、この問題はまた後に詳述する)

[つづく]
 

『史実を英語で伝える運動』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月11日(火)21時30分33秒
  (1)このほど加瀬英明先生を会長として「史実を世界に発信する会」が発足し、『世界出版社』の茂木弘道様が事務局長になって活動を開始されました。

(2)日本語のホームページ:http://hassin.sejp.net

(3)英文サイト:http://www.sdh-fact.com

(4)目的は、正しい歴史事実を英文で発信することにより、歪曲された歴史事実・イメージを正すことです。

(5)英語サイトの英訳記事
 東中野教授の南京事件研究の決定版「南京虐殺の徹底研究」の全英訳版。
 鄭大均教授の「強制連行は作られた物語」
 永江太郎先生の「日支事変(いわゆる日中戦争)の真実を求めて」

 以下予定――
 田中正明先生のWhat Really Happened in Nanking,
 加瀬英明様「靖国問題について」(外国人特派員協会での講演)
 黄文雄先生の「満州国は日本の植民地ではなかった」
 上杉千年先生の「猶太(ユダヤ)難民と八紘一宇(はっこういちう)
 パル博士の判決書も掲載したいと考えているそうです。

*****

 茂木弘道様は、東中野先生の大力作「南京虐殺の徹底研究」を英訳し、昨年出版。
 じつは、英語の達人で憂国の士である茂木様とは、ちょっとした御縁があって、何度かメールで話し合ったことがあります。
 ご本を贈って下さったこともあります。
 今の日本にありましては、じつに貴重な人材だと思います。
 寄付を募っていますが、何らかの形で応援したいと思います。

(小生も貧者の一灯で、少額の寄付をしたところ、それに対して丁寧なお礼状をくださいました。その文面から、「日本の名誉を守ろう」という茂木弘道様の並々ならぬ御決意が伝わってまいりました)
 

生活困りごと相談解決一式  投稿者:えこね  投稿日: 7月11日(火)15時00分57秒
  医者(あついは医学生・看護士・薬剤師)・
弁護士(あるいは法学生・司法書士)・
哲学・神学・僧侶養成の宗教思想の専門家・
翻訳家・外国外交営業・外国駐在員、
ドア窓壁床天井を含む建築・水道ガスなどの施工・カギ作り、
警備業関連、
政治家(市議会・県議会・国会議員・国連職員など)の
一式取り揃えの政治団体や宗教団体はないものでしょうか。
また、それらを抱える団体との連携の約束のある交流会などは?!
 

『卑弥呼と日本書紀198』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月11日(火)12時54分25秒
  [承前]

◆◆◆ 第十四代 仲哀天皇の物語 ◆◆◆

 国風謚号 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
 漢風謚号 仲哀天皇
〔在位・西暦一九二年〜二〇〇年〕+
〔降誕・西暦一〇九年/崩御・西暦二〇〇年〕+*
〔皇宮・穴門豊浦宮(あなととゆらのみや/山口県突端の関門海峡近く)
    橿日宮(かしひのみや/九州の福岡市)〕
〔御陵・長野陵(大阪府南河内郡)〕
    +皇紀は西暦に六六〇を加えればよい。
    *崩年干支推定は西暦三六二年

 第十四代の仲哀天皇は、その前の成務天皇とともに、わずかな記述しかない天皇である。むしろ〈神功(じんぐう)皇后〉の夫として知られるといったほうがよい。

 第十代  崇神(すじん)天皇
 第十一代 垂仁(すいにん)天皇
 第十二代 景行(けいこう)天皇

 ――この三代の天皇紀は記述も豊富だし考古学的にもいろいろと話題がある。
 しかし第十三代成務天皇になると、国(くに)・県(あがた)・郡(こおり)・邑(むら)などの境界をきちんとしてその長(おさ)となる者を定めて諸国を安定させた――という功績が無造作に書かれているていどである。
 おそらく、前三代によって大和(やまと)朝廷の権威が確立し、制度を充実させる時期に入ったからであろう。

 成務天皇は景行天皇の皇子で、同じ皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)とは異母兄弟にあたる。
 日本武尊は景行天皇より先に薨去(こうきょ)したので、別の皇子が即位したのだ。
 日本武尊は実質的には天皇だったのではないか――との推理もあり、『風土記(ふどき)』には倭武天皇(やまとたけのすめらみこと)または倭健天皇(やまとたけのすめらみこと)として記されてもいる。

 つぎの第十四代には、本来なら成務天皇の皇子が即位するのだろうが、男子がいなかったので、甥にあたる日本武尊の第二子が即位したとされている。
 不運の英雄だった日本武尊の御子の顔を立てたらしいのだが、これが仲哀天皇である。
 母親は第十一代垂仁天皇の姫で兩道入姫命(ふたじのいりびめ)である。
 以下編年的に主要な事項を記す。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀197』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月10日(月)11時34分49秒
  [承前]

 そういう神功(じんぐう)皇后紀であるが、前後の仲哀天皇紀や應神天皇紀とのつながりについて多くの議論がなされているので、この三つを、『日本書紀(やまとのふみ)』をもとに、おおまかに記してみよう

 なお、紀年について注記しておく。
 本章では推定紀年を各所に記すが、その一つは「一二〇年加算」で、これは『日本書紀』などの日本の史書に記された紀年を、干支(えと)二回り違(たが)えてあるとして一二〇年加えると実際と一致するという考えである。
 干支による表現は六〇年で一巡――つまり還暦――するが、これを二巡した一二〇年だけ、実際の紀年と違えて古く見せているので、それを補正しようということである。

 この方法は、どの時代でも通用するわけではなく、古い時代はもっと違っているだろうし、新しい時代になると『日本書紀』の紀年と実際とが一致してくるので零年加算となる。
 しかし〈神功皇后〉から應神天皇にかけての時代では、一二〇年を加算すると近隣国の史料と矛盾しないことが多いので、かなりの信憑性があるようである。

 もう一つの推定法は、伝えられている崩年干支からその実紀年を推定する「崩年干支推定」である。
 たとえば、應神天皇の崩御年の干支は甲午(きのえうま)で、これは西暦にすると二七四年、三三四年、三九四年、四五四年・・・などだが、各種の史料や考古学的知識などから、もし干支が正しいとすると、西暦三九四年の可能性が高い――と推定するのである。

 もちろん「一二〇年加算」も「崩年干支推定」もごくごく大まかな話なので、これらを元に数年単位のこまかな議論をすることは避けねばならない。
 第五十四代天皇までの、崩御(ほうぎょ)の実質紀年の推定数字は、のちに付録に記す。

**********

 西暦年と干支の対応の一覧表は、下記にある。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kanshi.htm

[つづく]
 

疑問ばかり(自民党全体が悪いわけでないと思いたいんだが)  投稿者:えこね  投稿日: 7月 9日(日)22時57分40秒
  長崎県の「対馬特区」条例を、廃止させる方法や、博多で「韓国ウォンで支払い(決済)する特別」条例を、成立させず、日本国内の商売でウォン売買などといった議員を、処罰する法律を作れんでしょうか?

鳥取の人権法案は、施行を無期延期にして、根負けの時に発行と言う危険な状態なはずで、大阪の岸和田市の在日朝鮮人の参政権を可決も、廃止へと覆せないですし、大阪市の小中学校の教員を在日朝鮮人が出来る教員採用も、廃止へと出来ませんし。

実際問題なんで、議員が売国賛成をするのか、選挙民はドウなっているのか。とか気分悪いです。

しぶしぶ公明党と野合で、仙台の社会党当選体質を破って自民党の初当選をしたんですが、創価学会主導の経済や仙台の各私学校の運営となってしまい、さらに気分悪しです。
自民党側にコツコツ投票なんですが、公明党野合でなく自民党右派が完全優勢になる日は来るのだろうか?
民主党が下手すると当選と言う、逆転現象を恐れています。
 

『対馬問題等の国民決起集会』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月 9日(日)22時13分59秒
   下記の国民決起集会の事務局から小生にも対馬問題についての講演の依頼がありましたが、老人性の脚痛で遠出が苦しいので辞退しました。
 どうのような集会か、お知らせいたします。

「守れ! わが領土」国民決起集会
−対馬・竹島・尖閣 最新報告−

【日 時】平成18年7月11日(火曜)午後6時半開会(開場6時15分)
【会 場】牛込箪笥(うしごめたんす)区民ホール
    (東京都新宿区箪笥町15番地、電話03-3260-3421)
     大江戸線「牛込神楽坂」駅A1出口徒歩0分。東西線「神楽坂」駅2番出口徒歩10分。
【登壇者】加瀬英明(外交評論家)            領土問題と国家主権
(順不同)下條正男(拓殖大学教授)           「竹島の日」制定から今日まで
     高井三郎(元陸自教官)            尖閣諸島防衛構想
     木村三浩(民族派活動家・日本の領土を守る会) 対馬防衛に向けて(現地最新リポート)
     平田文昭(評論家・日本の領土を守る会)    地方自治から見た対馬問題
     宮崎正弘(評論家)              シナ・朝鮮から見た領土問題
     松原 仁(衆議院議員・領土議連事務局長)   領土議連は主張する
     西村眞悟(衆議院議員)            国防こそ日本再生の起点
     伊藤哲夫(日本政策研究センター所長)     総括−守れ!わが領土
【参加費】1000円(予約不要)

【開催趣旨】
 「寸土といえども隣国の略奪侵害に反撃せざる国は、やがてすべての領土を失い、国家としての存立をやめざるを得なくなろう」とは、先賢の喝破する国際社会の冷厳なる実相である。わが国の領土政策が現状で推移するならば、我々は遠からずこの警告が現実のものとなる日を迎えるであろう。
 北方領土、竹島、尖閣諸島がわが国固有の領土であることは言うまでもない。問題は、ロシア・韓国・中国など近隣諸国によるこれら領土の不法な占拠、不当な侵害に対し、わが政府が関係悪化を懸念して断乎たる措置を採らないところに、あるいは採り得ないところにある。
 断乎たる措置の究極は軍事力の行使である。軍事抜きの外交に限界があることは論をまたない。ただ、そうした毅然とした対応も、我々国民の確乎たる領土意識、主権意識の支えなくしては極めて難しい。
 最近注目すべきは、韓国の存在感が急速に強まっている対馬である。確かに現段階では領土問題は生じていない。しかし、官民共に、対馬が国境の島であることへの認識が深まることなく拱手傍観の状況が続くならば、悔いを千載に残すことになろう。禍根は未然に断つべきである。
 我々はいつまでも敗戦後遺症の中にまどろんでいるわけにはゆかない。領土の略奪侵害に沈黙するのは、亡国の民の何よりの証拠である。今こそ有志国民が決起して、わが国固有の領土を守り抜くための断乎たる国権の発動を満天下に強く訴える秋である。国民集会を催すゆえんである。

【主 催】日本の領土を守る会(代表 加瀬英明)
東京都千代田区平河町二丁目16-5-302 高池法律事務所気付
電話03-3263-6041 FAX03-3263-6042
当日連絡先080-5086-2965(藤本)
 

RE:コラム  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月 9日(日)21時09分22秒
  文太さん

>英語版は中立の立場から書いていますが、どこをどう取り繕(つくろ)っても
>韓国の主張の方が無理があることが見て取れます。

百済(くだら)王から倭王旨に献上された「七支刀(ななつさやのたち)」の銘文解釈にも言える事ですが、素直に解釈すれば良いものを、あれやこれやと難しく解釈し、結果、日本に不利な結果を導き出すのが、コリアの常道ですね。

>あと何百年かしたら「1910年に朝鮮が日本を併合したニダ」とか言ってるのかもしれませんw。

いや、それ以前に、来日し帝都東京に於いてデリヘル等で働く韓国人風俗嬢が、後々(のちのち)、「日本人バイヤーに騙されて日本に連れてこられ、やりたくもない風俗で無理矢理働かされたニダ〜」とまあ、「従軍慰安婦」さながらに補償を求めたりしないかと(笑)

>今度日本が海洋調査を実行したらまた警備艇20隻出して来るんでしょうかね?

日本の調査を中止させておき乍(なが)ら、自分達は日本の調査要求を拒絶して、調査を強行したのですから、日本とて二度も同じ轍は踏まないでしょう。今度は、韓国が何を言ってこようと調査するでしょう。そうでなければ、(日本)国民に対する「シメシ」がつきません。ま、韓国が調査船の護衛に警備艦を随行させたのですから、日本も大型巡視船を随行させるのでは? そうなれば、竹島周辺海域を舞台に日韓双方の警備艦艇が対峙する事となり、韓国が「望む」『日本海海戦』が現実のものになり、それも一興と言うものです(笑)

>更に日本の大和(やまと)王朝が近畿地方を平定した当時、百済と新羅(しらぎ)
>高句麗(こうくり)は全て、熟練した軍隊を持つ中央集権的な国家であり、
>それは371年の百済が高句麗軍を破ったことからも例証される、など。

・・・
私は「倭」=大和朝廷とは考えていない人間(九州王朝説)ですが、そうであっても、対馬海峡を挟んで、九州と朝鮮半島南部に跨(またが)っていた海峡国家である倭の軍隊が、371年に高句麗軍を破ったと言う百済や、新羅を屈服させたと言う『好太王碑』の記述は整合性があり、信ずるに値すると考えています。支那王朝(南朝)も、倭王が自称した称号「使持節都督倭〜」の内、百済を除く国名については追認していますし、除外された百済にしても、日本に人質を送ったり、七支刀を献上したりしている訳ですから、倭が半島で高句麗と渡り合えるだけの国力を有していたと解釈するのが自然では無いかと思いますね。
 

和魂漢才の流れ(私的) その1  投稿者:えこね  投稿日: 7月 9日(日)18時13分23秒
  道昭(法相宗・唯識など論蔵・遣唐使による文化輸入・興福寺・檀山神社(風水))
空海(真言宗・金剛般若理趣経・書道)
円仁(天台宗・妙見尊・赤山法華院・中国五台山・長安(天台宗−中国荊州玉泉山の関聖帝君))
栄西(天台宗葉上派・臨済宗・大豆料理(味噌・豆腐)・緑茶(宇治茶・茶道)・焼香(香道))
道元(臨済宗・曹洞宗)
源信(天台宗・浄土宗)
増上寺(浄土宗・黒本尊(家康を暗殺から救った夢お告げの))
徳川家康(儒学振興(朱印状貿易から朱子学中の最新、陽明学へ)・日光東照宮(風水))
 

和魂漢才・和魂洋才  投稿者:えこね  投稿日: 7月 9日(日)17時55分57秒
  はじめまして。ハンドルネーム「えこね」です。

私の縁故の日本文化も大切にしたいと思います。今まで係わった宗教文化では、和魂漢才・和魂洋才を旨に、地元の神社関係も大切にしたいと思っています。

首都圏在住時の地元系神社(将門(まさかど)首塚(元神田明神)・妙見尊(千葉神社)・藤原家祭神など)
祖父母の菩提寺の禅宗(曹洞宗)
新興宗教在籍中の縁で真言宗や山伏関係(目黒不動尊・西新井大師・川崎大師・成田山など)
(般若心経・金剛般若理趣経・金剛界−胎蔵界・九條錫杖(しゃくじょう)・円頓止観・本覚讃などの教学)
(外国神社(関帝廟・関帝は天台宗(禅宗)の由緒につながる)など)は、特に伝統文化を守る上で、由緒の保存で必要な事と思います。

キリスト教系は、
日本キリスト教団(ヘボン博士・プロテスタント系私学校)・
カトリック中央評議会(宣教師ザビエル・イエズス会・上智大学・ドンボスコなど)・
日本ハリストス正教会教団(ニコライ大主教と函館戦争と日露戦争関連など)です。
個人的に、
宝殿イエス教会(ペンテコステ派)、
インマヌエル教会(メソジスト・英国国教会系・インターネット上)・
日本ルーテル福音教会(インターネット上)です。
外国宗教と言えど、日本に定着する上で、日本人信者の努力というのがあり、日本人聖職者や日本人信者の由緒や努力は、日本人仲間として語り継ぐべきだと思います。

儒学ですと、
出島の朱印状貿易で長崎奉行となった朱舜水(近思録、伝習録)や幕末勤皇志士へ影響を与えた佐藤一斉(言志録)あたりなどです。
 

『卑弥呼と日本書紀196』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月 9日(日)12時27分34秒
  ■■■■■ 七・一 第十四代 仲哀天皇の悲劇 ■■■■■


◆◆◆ 〈神功(じんぐう)皇后〉の不思議と干支による紀年推定 ◆◆◆

 この章では、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――を検討するが、これはとても面白い説である。
 なにが面白いかというと、この説を最初に主張したのが『日本書紀(やまとのふみ)』の編纂者そのもの――あるいは少しあとで注釈を加えた人たち――だからである。
 つまり千何百年も前からある、じつに古い説なのだ。

 以下に『日本書紀』の神功皇后紀(紀は『日本書紀』に書かれていることを示す)の概要を記すが、その内容はじつに興味ぶかいものがある。

 一般に皇后についての記述は各天皇紀の一部としてあるだけで、一行か二行ですませている場合が多い。
 しかし〈神功皇后〉にかぎっては、皇后だけで大きな一つの章となっており、しかもその長さが皇后のご主人にあたる仲哀天皇紀の三・七倍、また皇后の皇子の應神天皇紀の一・六倍もあり、その長さだけでも異常なのだ。
 女性の天皇について多くの事柄を書いてある章は、のちの推古天皇などにも有るが、「皇后のみ」についてこんなにも多くの頁を費やしている例は、他には見られない。

 それから、神という文字が謚号(しごう)の頭についている点も興味ぶかい。
 漢風謚号は『記紀』が編纂された直後につけられたと考えられるので、そのころの人々の考え方がその名前によって分かるのだが、天皇の謚号ですら神がついているのは神武・崇神・應神の三天皇のみなのに、皇后をたたえてこんな名前で尊称しているのだ。

 しかも「頭」につけられている。
 天皇でも「神」が「頭」についているのは神武天皇のみなのに――である。

 また『魏志倭人伝』や『百済(くだら)記』の引用を再三おこなっている点も、興味津々(しんしん)である。
(『日本書紀』の中に「倭の女王」などという言葉が出てくるので驚くのである)

[つづく]

**********

竹下さん久保田さん、ありがとうございます。
 

モンゴル語と滿洲語  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月 9日(日)11時48分22秒
  確かに、モンゴル語では「金【きん】」が alt で、「国」は uls のようです。
滿洲語では「金【きん】」が aisin で、「国」は gurun です。

小沢重男『モンゴール語四週間』大学書林
алт(ан) 金,金の
алтлаг 金の多い
улс 国

戸部実之『満州語入門』泰流社
aisin 金,黄金
gioro 覚羅(清朝六祖の子孫)
gurun 国,国家

「清」は北京語で qing [ts'iŋ]で、これは元々[ts]〜[dz]のような音で始まり ng[ŋ]で終わっていたようです。
([ŋ]は ng の記号)

「金」は北京語で jin [tsin]ですが、これは kiəm>kin>tsin というように変わってきたもので、初めから tsin のようだったわけではないようです。

ただ、清朝のころのシナ語では「金」はすでに jin [tsin]でした。

廣東(カントン)語では「清」は ching で、「金」は gam,「國」は gwok です。
客家(ハッカ)語では「清」は tsin(ng が n に)で、「金」は gim,「國」は guok です。

「秦」Qin [ts'in ]と「清」Qing [ts'iŋ]は n と ng の違いです。
藤堂明保(とうどう-あきやす)氏の『学研漢和大字典』によると「秦」は古代シナ語で dzien のような単語でした。

ヒンディー語ではシナを Cin(a)[t∫i:n(a)]と呼ぶようです。
厳密に書くと Cīn(a)で、 [t∫i:n]または[t∫i:na]という発音です。

「シナ人」を指す名詞は Cini [t∫i:ni:]のようです。
Cin,Cini の i が長い記号で、i の上の点を横棒にします。
(teacup 掲示板では字上符の羅馬(ローマ)字を表示できますが、多用しすぎると漢字が化けるようです。)

ヒンディー語の場合、子音には「潛在母音(ぼいん)」があって、曖昧(あいまい)母音 a がつくようです。

例えば「達磨(信仰、法)」dharm(a) は dharma でも dharm でも同じです。

ロシア語ではシナを Китай [kitaj]と呼びますが、「契丹」Qidan に基づく名前は余り正確ではありません。
これは北欧から Kina などを採用して言い換えるべきでしょう。

モンゴルではシナを Хятад [xjatad]と呼びます。
この Khyatad はおそらく Kitai からでしょう。

問題は「朝鮮」で、
ロシア語では Корея [koreja](高麗)であるのに、
モンゴル語では Солонгос [sOlOŋGOs]という珍しい単語を使います。
([O]は[c]の180度反轉記号の代わり)

高麗を支配した元の大元の言葉が「高麗」を採用していないのが不思議です。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

中国史料を定本に捏造  投稿者:えこね  投稿日: 7月 9日(日)09時16分15秒
  檀君(タングン):鮮卑(せんぴ,セルベ)族(遼西慶州の遊牧民)を統一した祖

慶州(キョンジュ):契丹(きったん,キタイ)族の遼国が渤海(ぼっかい)と新羅(しらぎ,シルラ)
         攻めた時に、辰韓を遼国辰州と名付け、遼西慶州の遊牧民と中国人を強制移住させ
         入れ替わりに三韓の民を祖州に追い出し強制移住させて統治した。

---------------------------------------------------------------------
平安道(ピョンアンド):中国人(楽浪郡)
黄海道(ファンヘド):中国人(楽浪郡)
京畿道(キョンギド):夫余(ふよ,プヨ)人、別名が百済(くだら,ベグジェ)人(帯方郡)のちに
         渤海靺鞨(まっかつ)人(南女直湯河司)
忠清道(チュンチョンド):夫余人、別名が百済人(帯方郡)のちに渤海マッカツ人(南女直湯河司)
全羅道(チョルラド):弁辰人(弁楽奴国)・馬韓人(馬韓伯済国[百済国]・馬韓古蒲国[任那己文県])
慶尚道(キョンサンド):弁辰人(弁辰涜盧国・弁辰狗邪国[迦羅国])・倭人(任那[大伴・金村・佐伯])・
         高麗人(新羅城(辰韓斯盧国)・沃沮(よくそ 渤海国=大震国)・
         濊(わい)侯フジ(太白山脈)・バク弓(高句麗 こうくり,コグリョ)・
         シンシュク(延辺自治区))

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

全羅道: 渤海靺鞨人(南女直湯河司: 建安県・湯池県・熊嶽県)
慶尚道: 遼西慶州の遊牧民・奚兵・安禄山系統と
     遼西諸県の中国人・漢兵
    (東京統軍司留守: 来遠県・辰州・保州・定州)
その他: 東契丹・旧渤海国の杉盧郡漢陽県(東丹国の南京・漢山・漢城・ソウル)
 

失礼しました。また別ネタです。  投稿者:えこね  投稿日: 7月 9日(日)01時08分55秒
  俗説、珍説、仮説を出してしまいました。

この説はドウでしょうか?

鮮卑(せんぴ,セルベ)の祖が檀君であること。

北魏が北燕龍城と高麗(こうらい 高句麗)丸都(がんと)を陥落させ、百済(くだら)を攻めた事件。

唐の渤海(ぼっかい)マッカツ夫余氏は、
後漢(東漢)の時の夫余王尉仇台や余氏百済と違う民族と氏であること。

渤海は、ソウルを漢陽県として支配していた事。

契丹(きったん,キタイ)は、慶州を辰州や来遠県として、漢陽県近辺を建安県に、全羅道あたりを
    湯池県とし、三韓人を祖州に強制移住させ、遼西の遊牧民と漢人を三韓に移住させて
    南女真湯河司(玄徳軍)と東京統軍司留守(奉国軍)によって支配していた事。

女真(ジュルチン)は、高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督)を置き、
    開州に松山県・熊嶽県、全州に静封県を置いて支配していた事。

蒙古(もうこ,モンゴル)は、斉国大長公主の領地としていた事。

明は、経略使(高麗)と都司(女直)によって国境と隣接国と折衝し支配していた事。

清は、迎恩門を立てさせ、三田渡受降壇での三跪九叩頭拝(さんききゅうこうとうはい)によって、
   塩の使用禁止、鋳造を禁止し中国銅銭のみ使用(金や銀を流通させず、朝貢で使い果て
   させる)を行っていたこと。
   結果、大同法のように、材木や雑穀や布による収税をし、貨幣も銅銭による収税で
   金や銀の使用が中国への支払い以外は国内流通を認められなかった。
   また、塩の禁止のために唐辛子と人尿の使用が起こり、健康に害があった。
 

RE:揚げ足とりみたいになりますが  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月 8日(土)23時49分34秒
  利亜さん、ご指摘に感謝します。

>アルタン-グルン

利亜さんのおっしゃった通り、「アルタン(Altan)」はモンゴル語です。
女真語では「アイシン(Aisin)」であり、「金国」は「アイシン-グルン(Aisin Gurun)」が正しいです。
私とした事が、「アイシン」と「アルタン」をミスってしまいました。

失礼しました。
 

揚げ足取りみたいになりますが  投稿者:利亜  投稿日: 7月 8日(土)22時09分41秒
  >女真語で、「金」(アルタン)の「国」(グルン)で、「アルタン-グルン」が正しく

女真(ジュシェン)語で「金」を意味する言葉は愛新(アイシン)は正しい筈です。

後に女真から満洲へと民族名を変更し、中華を支配した清朝の愛新覚羅(アイシンギョロ、直訳すると金の一族?)氏はその典型でと思いますが


そして、金を表す「アルタン」はモンゴル語ではないかと・・・・

ダヤン・カンの孫の一人であるアルタンという人物も実在してましたし。

『アルタン=ハン』
http://www.tabiken.com/history/doc/A/A252R200.HTM
 

チンコ(金国)  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月 8日(土)21時18分41秒
  女真(ジュルチン)族完顔(ワンヤン)部の族長=完顔部節度使が帝位に就いて建国した「金国」を、当の女真族は「チンコ」とは呼ばなかったと思いますよ。(漢語を解する者が「チンクォ」(qing-guo)と呼んだ事迄は否定しませんが)

女真語で、「金」(アルタン)の「国」(グルン)で、「アルタン-グルン」が正しく、清朝の前身である「後金国」も、冠詞である「後」は、後世の人間が完顔氏の「金国」と便宜上区別する為に付しただけで、本来は単なる「金国」であり、矢張り、呼び方は「アルタン-グルン」でした。
 

RE:まあ落ち着いて読んで下さいませ  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月 8日(土)20時59分44秒
  >朝鮮と言うのは満州に対抗した時に出てきた言葉です。
>秀吉の頃も高麗と言ってました。朝鮮の称号は満州王朝が高麗王(李朝の王)を
>降伏させた後に発生したものです。日本側の幕末明治時代の歴史捏造です。

李氏「朝鮮」(李朝)は確かに建国時、「高麗(こうらい)」を称していました。それは、高麗最後の国王・恭譲王(コンヤンワン)から王位を簒奪(さんだつ)した李朝の太祖(テジョ)・李成桂(イ-ソンゲ)が自らを「権署高麗国事」と称した事からも分かります。然(しか)し、王位簒奪の翌年、李成桂は明の太祖(朱元璋)に遣使し、自らが高麗の新主である事、又、高麗に代わる新たな国号を決めて欲しいと述べ、国号の候補として「朝鮮」と「和寧」を上表。明帝の決裁によって「朝鮮」と決定し、同年、「権署高麗国事」から「権署朝鮮国事」に改称しています。因(ちな)みに、朝鮮が王号(朝鮮国王)を明によって認められたのは、第三代の太宗恭定王(テジョン・コンジョンワン)の時代で、初代・二代は共に正式の国王とは認められず、臨時執政としての「権署朝鮮国事」です。尚、李成桂が満人の流れを汲むとの指摘は妥当だと思います。

>いえ、清国はチンコです。チンダ(清的[千田ではない]、「中国の」の意味)を
>チャイナと、西欧人には聞こえたんです。

「シナ」(支那)は、始皇帝の「秦」(チン,チーナ)ご語源であり、「チンダ」では無いでしょう。

>マルコポーロの頃はジュルチン(女真・ジョシン)の王都の燕京(元の大都で、今の北京)ですから

当時の支那は、周囲からは「キタイ」あるいは「カタイ」と呼ばれており、決して民族名の「ジュルチン」を以て呼ばれてはいなかった筈です。
「キタイ」は遼、詰まり、「契丹(きったん,キタイ)」の事であり、大契丹国(イェケ-キタイ-オルン 大遼国)が女真族の金国(アルタン-グルン)に滅ぼされた後も、王族の一人、耶律大石が西域に逃れ、中央アジアに西遼国、詰まり、「黒契丹国」(カラ-キタイ)を建国し、地域大国として覇を唱えました。支那本土が金国に取って代わった後も、イスラム世界では自分達の国と金国の間にある西遼国の名を取って、支那を引き続き「キタイ」と称し、金国、そして、西遼国が滅んだ後は、フビライの「大元大蒙古国(ダヤン-イェケ-モンゴルン-ウルス)」をも「カタイ」(「キタイ」が訛(なま)った語)と呼びました。実際、マルコ=ポーロは、フビライの国をして「カタイ」と呼んでいますし、現在もロシア語・モンゴル語では、支那の事を「キタイ」と呼んでいます。(香港の航空会社「キャセイ-パシフィック」の「キャセイ」は「カタイ」の事)

>前秦は中国北朝の王朝で、新羅の祖先が始めて朝貢(ちょうこう)した王朝です。
>チンチンと読みます。前をチン(正確にはジィェン)と現代中国語で読みま
す。

歴史用語として、「前秦」と呼んでいますが、当の前秦では自らの国を単に「秦」としか呼んではいませんでした。当時、五胡十六国時代には、「秦」を名乗った国が三つもあった為、後世の人間が区別する為に便宜上、「前秦」・「後秦」・「西秦」と呼んでいるだけです。その他にも、「趙」(前趙・後趙)・「燕」(前燕・後燕・西燕・南燕・北燕)・「涼」(前涼・後涼・北涼・西涼・南涼)等があります。
 

RE:『卑弥呼と日本書紀195』  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日: 7月 8日(土)20時05分26秒
  オロモルフさん

『喫茶室』への復帰、お待ち致しておりました。
今後共、連載を含め、有益なご意見を御投稿下さい。
 

オロモルフさん、おかえりなさい!  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月 8日(土)17時45分50秒
  お久しぶりで御座いますm(--)m

(あえて触れない件もあります)常にこちらをアクセス解析できる方なら判ることなのですが、こちらの掲示板でのあなたの連載を楽しみにしている者は少なからずいます。閲覧のみに徹しているネットユーザーもかなりいるし、数年来の常連さん方もその高尚な内容だけに「黙して拝読」するケースが多かったと思います。まあ、常にタイムリーな反応があれば「理想的な反響」なのですが実際は「静かな反響」がこの掲示板にある、ということで。私の場合は時間的な制約から投稿できる機会は少なくなったけど、それでもオロモルフさんの連載を他の方の投稿と同様に熟読かつ思案に勤めています、それは自らの糧(かて)とする為に。

何はともあれ、またこちらであなたの連載を読めることは嬉(うれ)しい限りですね。
 

コラム  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月 8日(土)15時40分27秒
  竹下さん、最新コラム拝見しました。
好太王碑拓本の捏造説から解釈まで、英語版の Wikipedia の方が日本語版より詳しく書いてあります。英語版は中立の立場から書いていますが、どこをどう取り繕(つくろ)っても韓国の主張の方が無理があることが見て取れます。特に文字を置き換えてまで主張する辺りが韓国人らしい。訳の解釈の「高句麗(こうくり)遠征説」もかなり無理があります。順当に考えて倭遠征説が無理な変更や解釈をせずに一番自然な訳に見えます。

彼等(かれら)にとって「歴史研究」とは事実探求ではなく「理想の追求」の世界なのでしょう。後から撃退したならいいんじゃないかと思いますが、一度でもあったとすらも認めたくないようです。あと何百年かしたら「1910年に朝鮮が日本を併合したニダ」とか言ってるのかもしれませんw。

結局韓国は先月海底地形の登録はやらなかったようですが、内心怖(お)じ気(け)(づ)いていたのかもしれません。「そもそもIHOが紛争地域に関する提案を受け付けるはずがない」と書いた英文記事もありました。今度日本が海洋調査を実行したらまた警備艇20隻出して来るんでしょうかね?

参考までに Wikipedia の『広開土大王石碑』英語版の一部を訳しました。

=======================================

『広開土大王石碑』
http://en.wikipedia.org/wiki/Gwanggaeto_Stele

◆古代のメッセージへの論争

この石碑は391年から413年に即位した広開土大王に捧げられたものであること、又それは大王の空の墓の側にある記念碑であることは間もなくはっきりと分かった。大部分が読解された文面の一部は、今なおもって歴史学者や金石学者が解釈を試みている。一面は高句麗の伝説の基本的な部分、もう一面は大王の墓が永続するものであることが書かれている。碑文の残りが最も議論が盛んである大王統治の概要と彼の業績についてである。

日本の学者は間もなく391年の辛卯(しんぼう)年の王の出征の記述に最も熱心になった。最も論争を生んだのは「辛卯パッセージ」として知られる部分である。日本の学者はその文面が最初に訳された時、8世紀に書かれた日本書紀で最初に登場する「4世紀における朝鮮半島での日本の存在」という、これまでは根拠のない伝説であった記録が、ここで確認されたことに興奮した。この「辛卯パッセージ」で完全に読める文字は以下である:

「而倭以耒卯年來渡海破百殘XX[x斤]羅以爲臣民」


◆陰謀説

酒匂(さこう)氏の拓本の正統性は、在日朝鮮人の学者李進煕(イ-シンヒ)氏によって疑問視され、酒匂氏が4世紀の朝鮮半島での日本の存在が書かれた日本の古い記録の証拠を作るために、石灰を塗布することにより意図的に石碑を損傷したという証拠を、韓国側に拓本が存在しないまま、1970年代に示した(石灰塗布作戦説)。

1981年に日本と韓国(イ・ヒュング氏)の双方で、学術研究が行なわれ論争を更に深めた。韓国側は漢文の字体と文法の不規則性から、酒匂氏が石灰を用いて「」「不貢因破來渡海破 」 と変更したと主張。従って、もしそのように改竄(かいざん)されたのなら、辛卯パッセージの内容は高句麗の勝利記念のモニュメントとなる。また韓国側は、酒匂氏が大王碑の拓本を作る以前に、粘土製の偽判を石碑の一部として使ったことを見つけたと主張し、彼等の「歴史の繰り返し」と「歴史の挽回」に対して日本の学者を奮起させた。その新たな暴露に対する日本側の反応は:一部の学者はその説を採用し、その他多くは日本の歴史研究の正統性を更に否定する動きを非難した。

研究が続けられ、酒匂氏の拓本以前に中国人によって作られた拓本が幾つか発見された。中国社会科学院の徐建新教授は、酒匂氏の拓本よりも古い一つを含む50以上の拓本を調べ、日本の将校が意図的な改竄をした証拠はどこにもないと結論付けた(そうであろうとなかろうと、そもそも碑文の文章字体の表現が不明瞭で誰が誰に勝ったかなどを正確に読み取ることは出来ない)。今日、中国と日本の殆(ほとん)どの学者は、酒匂氏の拓本より古い拓本と、碑本体の検査により、改竄説は否定している。

共同の歴史研究プロジェクトで、弘益大学のキム・テシク氏と九州大学の浜田耕策氏は大王碑の解釈に触れているが、誰も李氏の「改竄説」は採用していない。


◆解釈

殆どの日本の学者はこのパッセージを以下に解釈している(鍵括弧(かぎかっこ)は判読不可能な字の部分):

「そして辛卯年に、倭が[海]を越えてやって来て、百済[判読不能]と[新]羅に打ち勝ち、彼等を従属させた」

多くの韓国の学者は、日本が百済(くだら)と新羅(しらぎ)を打ち負かしたというこの解釈を拒絶している。文字は隙間なく書かれているため、文章の切れ目がどこであるかを見つけるのは難しく、脈略によって判断するしかない。更に、パッセージ中の「百済」と「新羅」の表記は完全な形ではない:「百済」の「百」は書かれているが、「新羅」の「新」は右半分のみで完全ではない。更に高句麗の「百済」の侮蔑表現として「済」の代わりに「残」が用いられている(別な国が百済を征服したと高句麗の一部の願望を表示しているとも考えられる)。従って、このパッセージを、欠字や脈絡を考えながら見る時以下になる:

「そして辛卯年、倭が海を渡り(誰かの名前の略号)(?) を (?) に従属させた」

しかし、日本でなく高句麗が海を渡り百済に勝った、又は高句麗が海を渡り倭に勝ったと見るとの説もある。これは韓国にある歴史書と一致する。この解釈で広開土大王の略称とする場合(日本の学者には無視されている):

「そして辛卯年、倭が海を渡った。広開土大王(の略称)は新羅と百済を (?) に従属させた」

(韓国の)学者達は日本の従来の解釈の幾つかの点に疑問を呈している。まず「倭」とは石碑の当時、日本人のみを指(さ)すのではなく、特に加羅連邦など朝鮮半島南部の人達も指した。更に日本の大和(やまと)王朝が近畿地方を平定した当時、百済と新羅、高句麗は全て、熟練した軍隊を持つ中央集権的な国家であり、それは371年の百済が高句麗軍を破ったことからも例証される、など。


関連リンク:

広開土王碑(日本語版 Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91

広開土王碑全文(繁体中文版 Wikipedia、句読点の解釈入り)
http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91%E6%96%87
 

中国史書や朝鮮史書から見ての話(補足)  投稿者:えこね  投稿日: 7月 8日(土)15時02分46秒
  >朝鮮人の由緒は4パターンです。

>満州人と同じ先祖だ。と言う奴は「朝鮮」を使います。
>全州系統の昔話は、そう頑張って主張します。

『李朝実録(イチョシルロク)』という朝鮮王朝の記録で、秀吉侵攻の前の歴史書は「全州」の王朝書庫以外は焼かれて存在し無いという所から、この解説をしました。

>今ひとつは、檀君です。慶尚道(キョンサンド)の昔話で、
>契丹(きったん,キタイ)が鮮卑(せんぴ,セルベ)族系統を、先祖の土地から強制移住させて「シラギ」に住まわせたので

『遼史(契丹)』『金史(女真)』などにあり、日本は遣唐使以外は中国の歴史をあまり知らない傾向にあり、初めて聞いたとして驚くのです。

>高句麗から分派した夫余族の説で、百済の名称の由来の
>百家済海(百の家が[全人民が]、海を済って[渡って]きた(移住して来たの意味))で

後漢の時の遼東の有力者、公孫度(こうそん-たく)・公孫康、父子のときに楽浪郡を分割し、帯方郡を設置した際に、分割した楽浪郡の南側に、南満州の夫余王の尉仇台(いきゅうだい)の民族を強制移住させて、帯方のさらに南の韓や倭の守りにさせたようです。

>この説は、中国人と混血のあった高麗族(高句麗 こうくり)が、中国の討伐を逃げて
>シラギの先祖となった。というものです。

三国志魏の明帝の時に、楽浪太守劉茂(りゅう-も)・帯方太守弓遵(きゅう-じゅん)が、三韓を討ち滅ぼします。
古代の韓は滅んで、このとき以降は、倭人しか半島南部の有力者はいません。

しかし、同じく
三国志魏の明帝の時に、遠征軍の魏の将軍カンキュウケンは高麗(高句麗)を討ち、逃げた高句麗の民の一部は、新羅(しらぎ)にたどり着き、王に百済人(帯方郡の夫余族)を向かえ、新羅の祖になったというのです。

この新羅の城にこもる民は、まだ倭人に対抗するだけの力を備えてませんでした。
 

『卑弥呼と日本書紀195』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 7月 8日(土)12時27分54秒
  ■□■□■ 第七章 〈神功皇后〉説の検討 ■□■□■


帯姫(たらしひめ) 神の命の 魚釣らすと 御立たしせりし 石を誰見き
〔山上憶良(やまのうえのやくら 万葉集869)〕
「神功(じんぐう)皇后さまが魚釣りのためにお立ちになった石を誰が見たのだろうか」

乙女らが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずがき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは
〔柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 万葉集501)〕
「乙女たちが袖を振るのではないが、布留の石上(いそのかみ)神宮の瑞垣のように、長年思い続けていました。(石上神宮に歌碑が立つ著名歌)」

かくてなほ かはらずまもれ よゝをへて このみちてらす 住吉の神
〔後鳥羽上皇御製(ぎょせい)
「(神功皇后を助けた住吉大神が祀(まつ)られている住吉大社に後鳥羽上皇が参詣(さんけい)されたときの御製。住吉大社は神功皇后が感謝して住吉大神三柱を祀り、のちに神功皇后自身も祀られた神社)」

[次ぎは「第七・一節 第十四代 仲哀天皇の悲劇」]


**********

 思うところありまして、しばらくの間この掲示板を見ておらず、したがって本連載も中断しておりましたが、過日、管理人の竹下義朗様から丁寧なお勧めがありましたので、再開することにいたしました。
 中断期間の連載に興味をお持ちの方がおられましたら、小生の掲示板『日本の伝統文化を大切にしよう』に残されておりますので、御覧になって下さい。
 下記から入れます。

 ↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/

 なお、私の連載は長期にわたることが多いのですが、その場合には必ず事前に、管理人様の許諾を得るようにしております。
 本稿も勝手に書いているものではなく、昨年の12月に大まかな内容を提示し、竹下義朗様のお許しが出てから連載を開始しております。
 

朝鮮半島は、卑弥呼の時代と違う種族が住む  投稿者:えこね  投稿日: 7月 8日(土)06時52分8秒
  朝鮮人の由緒は4パターンです。

満州人と同じ先祖だ。と言う奴は「朝鮮」を使います。
李氏朝鮮の李成桂(イ-ソンゲ)を満州人とする説です。
李氏朝鮮は「箕子(きし)の朝鮮」、満州人は「衛満の朝鮮」と区別したり差別します。
イソンゲが全羅道(チョルラド)で旧百済(くだら 夫余も元はと言えば満州)なので、全州系統の昔話は、そう頑張って主張します。

今ひとつは、檀君です。慶尚道(キョンサンド)の昔話で、自分たちの先祖は、シラギの土地の人でないが、中国を支配した鮮卑(せんぴ,セルベ)族と同じ血筋だと言うものです。
契丹(きったん,キタイ)が鮮卑族系統を、先祖の土地から強制移住させてシラギに住まわせたので、この昔話がシラギ地域にあります。

そして3番目は、百済の更に古い形で、高句麗から分派した夫余族の説で、百済の名称の由来の百家済海(百の家が[全人民が]、海を済って[渡って]きた(移住して来たの意味))で百済と略称した事です。
中国史書の説明では、鮮卑族(北魏)と高麗族(高句麗 こうくり)の間にあって、挟まれた弱い夫余族(南満州族・百済族)が、遼東の中国人のおかげでいわゆる三韓の百済地域(馬韓)に引越して来て生き残る事ができたと言うものです。

4番目ですが、高麗分派の本流のようですが、この説は、中国人と混血のあった高麗族(高句麗)が、中国の討伐を逃げてヨクソ(咸鏡道 ハムギョンド)・ワイ(江原道 カンウォンド)を超えてカラ(シラギ)へ逃げて来て中国の討伐軍が去ったあとも高句麗の故地に帰還せず留まったのがシラギの先祖となった。というものです。
 

まあ落ち着いて読んで下さいませ  投稿者:えこね  投稿日: 7月 8日(土)06時37分33秒
  あまり食って掛かっていると見られるのは嫌なんだけど。。。

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咸鏡道(ハムギョンド): ヨクソ・渤海・南女真(もともと韓族や中国人など住んでいない「満州」地域)
平安道(ピョンアンド): 楽浪北部(朝鮮総督府時代に、実際、中国人が多数住んでいた。
          植民地時代に日本人が追い出し、
          大戦後、朝鮮人が中国人を殺して追い出した。)
京畿道(キョンギド): 帯方郡・ワイ・夫余・渤海・南女真
全羅道(チョルラド): 楽奴国・弁辰・夫余・渤海・南女真
慶尚道(キョンサンド): 遼西の中国人と
     遼西の遊牧民(安禄山の系統の異民族・契丹と違う鮮卑族(祖先が檀君))

コレアンは高麗(こうらい)から来ています。朝鮮と言うのは満州に対抗した時に出てきた言葉です。
秀吉の頃も高麗と言ってました。朝鮮の称号は満州王朝が高麗王(李朝の王)を降伏させた後に発生したものです。日本側の幕末明治時代の歴史捏造です。

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「秦(>支那)」が狭義では陝西(せんせい)省を表わし、

いえ、清国はチンコです。チンダ(清的[千田ではない]、「中国の」の意味)を
チャイナと、西欧人には聞こえたんです。
マルコポーロの頃は
ジュルチン(女真・ジョシン)の王都の燕京(元の大都で、今の北京)ですから
チンコ(金国)の都です。清も先祖が女真で北京は、元々満州の都なんです。
金国、これはチンコ読みです。チンが国(コあるいは正確にはクオ)の名前だと思ったんです。

前秦は中国北朝の王朝で、新羅の祖先が始めて朝貢(ちょうこう)した王朝です。
チンチンと読みます。前をチン(正確にはジィェン)と現代中国語で読みます。

日本人は馬鹿にしてまじめに勉強しないんです。だから
チャンコロとかチンとか馬鹿にするんです。
シラギは、チンチンに朝貢したんです。
タタール(モンゴル)を、タルタルとロシア人が呼ぶ感じです。

シラギの城は、チンムラチャンコ(「建牟羅」城子)。です。
「建」は読みがチンで「金」も読みがチンです。
牟羅はムラですから「村」です。日本語の読みのケンはチンと読む場合が多いです。
重慶はチョンチンです。北京はぺイチン。昔のケイ読みは今はチン読みに変化しています。

日本は大伴金村と言う事にしています。金村(きむら)なんです。
だからシラギは金氏、金家を名乗る事になったのです。

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国号や王朝の名前は問題ではありません。
漢字(外国のは字ではないのです)・
漢民族(夏華に対し東夷とか北虜と言います)・
漢人(満人に対抗)

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「大和(やまと)」が狭義では奈良県であるような物です。
ヤマトのほうが当て字ですね。奈良より九州や阿蘇としているようですが。
高千穂の描写はヤマトですね。ジャマタイ国もそうですが。
私は奈良のイメージがありません。帰化人で無いから。
九州の宮崎や熊本をヤマトだと思っていますね。
 

>朝鮮(黄海道)と韓(慶尚道)  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月 8日(土)02時53分45秒
  >朝鮮(黄海道 ファンヘド)と韓(慶尚道 キョンサンド

これは一番狭い意味でしょう。
その場合、咸鏡道(ハムギョンド)や平安道(ピョンアンド)、全羅道(チョルラド)、京畿道(キョンギド)は「朝鮮」でも「韓」でもなくなります。

中間の狭い意味では、「朝鮮」は朝鮮半島北部で、「韓國」は南部(及び濟州島(チェジュド)等)。
現在、中国大陸でそう呼んでおり、「南北朝鮮」を「朝韓」Chao-Han と称しています。

この場合、文字通り解釋すると、38度線に接する北側が「朝鮮」の南部で、南側が「韓國」の北部になるので、平壤(ピョンヤン)は「北朝鮮と南朝鮮」の中間附近にあることになり、ソウルは「北韓」にあるという妙なことになります。

しかし、シナ語圏でも「北」Bei や「南」Nan をつければ「北朝鮮」=「北韓」、「南朝鮮」=「南韓」であり、この場合は「朝鮮」=「韓國」です。
一番廣い意味では「朝鮮」も「韓國」も朝鮮半島全体(及び濟州島等)を指します。

「秦(>支那)」が狭義では陝西(せんせい)省を表わし、「大和(やまと)」が狭義では奈良県であるような物です。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

ご紹介  投稿者:えこね  投稿日: 7月 7日(金)21時18分40秒
  第二章 日常生活 ニ 家庭人として 1キリスト者の家庭
(2)家庭礼拝・・・順序を一例を左にかかげる。
一 讃美歌
一 聖書(時としては短い感話)
○ 聖書日課
○ 説教
○ 礼拝メッセージ
一 祈祷
一 主の祈り
一 頌栄
-------------------------------------------------------------------------------
 【 キリスト教由緒 】

カトリックの日曜の礼拝方式(一部省略)

ニカイア信条を学ぶ(日本基督教団改革長老教会)
アウグスブルグ信仰告白
英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)アングリカン教会
ウェストミンスター信仰基準(日本基督改革派教会)
Q 39
バプテスト教会の特徴 1.聖書の権威
フリーメソジスト
旧約、新約聖書の口語訳、新共同訳、新改訳の検索

儒学と禅宗@印度の敬神と瞑想
 

朝鮮(黄海道)と韓(慶尚道)は違う  投稿者:えこね  投稿日: 7月 7日(金)14時55分21秒
  ●朝鮮(北朝鮮の西半分、半島黄海側で北部に限る。黄海北道(ファンヘプクド)に限定した地域)
 地域: 楽浪郡−朝鮮県(現在の平壌(ピョンヤン)〜沙里院(サリウォン)周辺)
 意味: 朝貢(朝が)あさし(鮮し・「少ない」の意味)

●カラ(狭意義に、慶尚北道(キョンサンプクド)に限定した地域)
韓・加羅(現在の慶尚道の南北両道・
     帯水(漢江(ハンガン)・もと帯方郡)上流の
     秋風嶺を越えた南で、洛東江(ナクトンガン)流域の東夷の地域、
     別名は弁辰地域で、馬韓の東界(東側)と説明し
     いにしえの辰国(辰韓・新羅(しらぎ)・小柄民族)と
     弁別した弁人(大柄民族)が住んでいる地域を示した)

東夷の韓より夏殷周王朝の方が古い。
      秦漢晋王朝の頃でも、東夷の韓に統一国は無かった。

西晋の陳寿の編纂した三国志魏書には、
      50余国の馬韓の集落国、24の弁辰と辰韓の集落国があり

六朝の梁あたりの編纂の南朝の宋書には、
      倭の武王が海北に95国(95か集落の国・任那(みまな))を
      有すると主張していた。

北魏の百済(くだら)攻撃の際に、半島には
   百済国・任那・加羅国(この国の中に新羅城という一つの集落国がある)
があった。

>もと百済地域は、南満州の夫余(南女真)民族が住んでいて

箕子(きし)朝鮮は、太白山脈のワイ族の説話だが、
 夫余人(満州人)の全羅道(チョルラド)(南女真)が中国人である由緒を説明する。

>もと新羅地域は、遼西の遊牧民(鮮卑(せんぴ)族の分派、鮮卑の祖始は檀君)民族が住んでいた。

檀君は、中国の遼西地方の鮮卑族の説話だが
 契丹(きったん)により新羅に移住させられ住みだした慶尚道(遼西の鮮卑族系の慶州)の由緒。

>もと高麗(高句麗(こうくり)・遼東半島)には、渤海人(ヨクソの女真族)が

衛満朝鮮は、燕の亡命人の衛満がヨクソ(渤海)に逃げた話だが
 契丹により渤海人が遼東半島に移住させられた移動元の地の咸鏡道(ハムギュンド)の由緒。

女真族は遼東(中国)でヨクソ(高麗の逃げた地)で
 「衛満朝鮮(燕人は中国人だろう。。。)」だから
東夷だ

新羅族は高麗(東夷)でワイ(三国志に服属した東夷)で
 「箕子朝鮮(箕子の八条の教えを受け入れた東夷だろう)」だから
中華だ。
 とか
真反対の事を言う。
 

「韓國」は名実共に「南朝鮮」  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月 7日(金)14時09分45秒
  今後は「韓國」を「南朝鮮」と呼びましょう。
本当にそう呼ぶのが相応(ふさわ)しい気がしてきました。

總聯と民團の和解は破綻しましたが、南朝鮮人が北との統一を望んで、拉致されても「助けられた」と北への気遣(きづか)いで物を言う以上、もはや北に呑まれて南北合わせて「金正日同志萬歳【Kim Jeong-il tongji manse】を叫び、主體思想【Juche-sasang】で団結するつもりでしょう。

「韓國語」も「南朝鮮語」ですから、そう言い換えましょう。

日本から見て、拉致事件において、南朝鮮は「日本と同じ被害者」でなく、「北朝鮮と同じ加害者」に与【くみ】することになったわけです。
今後は田めぐみさん拉致の罪と返還の責任は、南朝鮮が北と同様に背負っていくことになります。
今後は拉致事件解決も南朝鮮の責任として追及すべきです。
今度は朝鮮民族全体が拉致事件の加害者。

政府に頼んでも限界があれば、民間で、我々が朝鮮人に会うたびに、責任追及を可能な限りすればいでしょう。
國參拜にしても總理や官房長官の公式參拜を臨む以前に、我々が參拜するという行動が必要です。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

南北朝時代  投稿者:大神 正念  投稿日: 7月 7日(金)00時41分50秒
  南も北も・・・はぁ〜もううんざりですよね。
懲りないねぇ。だから「懲りあん」つーのかなぁ?

とりあえず、アホのノムヒョンには早く辞めてもらって
糖尿病のブタには早く死んで頂きたい。
 

鮮人による工作の具体例  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 7月 6日(木)08時22分9秒
  『<北朝鮮ミサイル>7発発射、日本海に落下 テポドン2号も』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060705-00000118-mai-pol

<北朝鮮ミサイル>7発発射、日本海に落下 テポドン2号も

 政府に入った情報によると、北朝鮮が5日未明から同日夕にかけて7発のミサイルを発射、いずれも日本の国土から500〜700キロ離れた日本海に落下した。政府は3発目は米国の一部も射程に入る長距離弾道ミサイル「テポドン2号」とみている。被害は確認されていない。政府は小泉純一郎首相を議長とする安全保障会議を開き、北朝鮮への経済制裁を決定。同日午前記者会見した安倍晋三官房長官は「北朝鮮に対して厳重に抗議し、遺憾の意を表明する」との官房長官声明を発表した。

 政府によると発射時間は午前3時32分、4時4分、4時59分、7時13分、7時半、8時17分、午後5時22分の7回。飛翔(ひしょう)時間はいずれも約6分、距離は300〜450キロと推定される。

 テポドン2号とみられる3発目は北朝鮮北東部の舞水端里(ムスタンリ)から発射された模様。額賀福志郎防衛庁長官は午前10時すぎの会見で「失敗した可能性がある」と述べた。残りの6発は比較的射程の短い弾道ミサイル「スカッド」や「ノドン」とみられ、南東部沿岸から発射されたという。安倍氏は同日午後の記者会見で「(新たな)発射の懸念がなくなったとの認識はない」と述べ、警戒を強めていく考えを示した。

 政府は午前4時に首相官邸の危機管理センターに官邸対策室を設置。安倍、額賀両氏、麻生太郎外相らが集まった。午前6時半過ぎには米国のシーファー駐日大使が官邸を訪れ、安倍氏らと会談。会談後、シーファー氏は記者団に「米国は世界中の同盟国とともに、国連での話し合いを進めていく」と語った。

 北朝鮮は02年9月の日朝平壌宣言で「ミサイル発射のモラトリアム(凍結)の継続」を表明しており、政府は今回の発射が同宣言に違反し、日本の平和と安全を侵す恐れがあると判断している。

 北朝鮮の弾道ミサイル発射は98年8月31日の「テポドン1号」以来。北朝鮮は5月からミサイル発射の準備を進めており、政府は外交ルートを通じ自制を求めてきた。

(毎日新聞) - 7月5日20時25分更新


>いずれも日本の国土から500〜700キロ離れた日本海に落下した。

・なんで着弾地点がどんどん離れてくのよ? そうか・・・情報操作がかかる前に漏れてしまった、7月5日朝5時過ぎ時点の稚内より西南西110km地点ほかの海域に着弾した報道が、実は本当の着弾地点だったりして(笑)

http://up.nm78.com/data/up089300.jpg

これを参考にすると・・・この時点で4発のミサイルが着弾したとされる距離ではそれぞれ

■北海道の南部にある奥尻島・西海域約80km地点

■同じく、稚内というより約100km南方の町である苫前町・西海域約20km(天売島・焼尻島南海域約10km)地点、

■同じく、航空自衛隊のある日高方面で襟裳岬・東海域約100km地点

■秋田県、能代市・西海域約140km地点


 ・・・ということになります。で、発射地点〜着弾地点の角度をチョイと変えりゃ・・・見事、東京に当たる算段になりますね。しかもわずかその1時間後にはロシアの海域に着弾ということに変更してるし、それはそれで新たな火種の予感が(笑)



・ちなみに・・・「二階堂」などのヒロイモノからですが、国内マスコミの住所が(一等地の地価にも関わらず)彼の国の日本支部との距離が極めて近接しているというとてもありえない可能性がある、ということです。

韓国文化放送(MBC)   135-0091 港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン    137-8088 港区台場2-4-8

韓国聯合TVNEWS(YTN) 105-0000 港区赤坂5-3-6
(株)TBSテレビ     107-8006  東京都港区赤坂5-3-6

大韓毎日       108-0075  港区港南2-3-13 4F
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京郷新聞            100-0004 千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社    100-8077 千代田区大手町1-7-2(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)

朝鮮日報            100-0003 千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社    100-8051 千代田区一ツ橋1-1-1

韓国日報            100-0004 千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社    100-8055 千代田区大手町1-7-1

東亜日報            104-0045 中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社    104-8011 中央区築地5-3-2(AFP、NYT)

韓国放送公社(KBS)           渋谷区神南2丁目2-1-701
NHK 代表          渋谷区神南2丁目2-1



                   更にとどめだったりする?(笑)


・今月あたりから、『漫画・アニメ・ゲーム表現規制法』を建前にして(政治的分野の方面でも)日本のコンテンツを検閲してプロバイダに削除を促すというネット監視協会が作られてるらしい。 それでは・・・その加盟している外国団体にはこんなのも。(ソース元 http://www.iajapan.org/hotline/about/group.html)


(社)韓国サイバー監視団
http://www.iajapan.org/hotline/dantai/1-049.html

・「反民族的、反国家的なサイトを削除しても表現の自由には抵触せず」と彼の国の幹部はほざいてるし。それって日本に向けて言っているに等しいし。
(参考HP http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2005/03/24/6981.html)


ガーディアン・エンジェルス(Guardian Angels)
http://www.guardianangels.or.jp/

・これは統一協会の下部団体とされてますしね。


<以下箇条書き>

○恣意的な判断をする恐れがある団体が堂々と審査に加わっている。

○『ホットラインセンター』のガイドラインには、インターネット利用者からの苦情・異議申し立てを受ける制度がない。

○一方的に削除して、あとは無視という事が出来る。

○『ホットラインセンター』は建前上、民間団体なのでその運用実態を国民に対し、公開する義務を持たない。

○運営費は税金で賄われ、警察庁と総務省が彼の国とも深く関与(癒着?)しているという。


<久保田的結論>

・それでは「先生」、一言お願いしますm(--)m

こんなふざけた組織など決して存続させるわけにはいかない。
http://pride.arrow.jp/klingon/img/img12_20060618115061347135178700.jpg

 

私・試案  投稿者:はる  投稿日: 7月 6日(木)02時45分29秒
  北朝鮮は、もはや制裁を受けるか、謝って許してもらうしか外交的に打つ手が無いわけで、軍事力を発動させるにしても単独行動では滅亡の道しか有りません。
しかし、日韓が竹島を巡って小競(こぜ)り合いでも起こせば、北朝鮮は韓国側に立って参戦し、本格的な戦争に拡大させて問題をうやむやにすることも考えられます。韓国から自動的に金や食糧も援助されるでしょうし、どんな結果になろうと、韓国と運命を共にする(韓国を同じ立場に引きずり込む)ことができるので、北朝鮮にとっては気が楽でしょう。うまく行けば、半島を北主導で統一できるかもしれません。その為に、廬溝橋事件の様に謀略を用いることは大いに考えられます。御用心有れ。

この際、面子(めんつ)を潰(つぶ)された?中共軍が、北朝鮮に対して懲罰戦争でも起こせば、世界中が中共を支持するし、周辺国を軍事的に威圧できるし、貧富の格差が広がる国内のガス抜きになるし、台湾併合の為の軍事演習にもなる?
メリットとデメリットでメリットが多ければ、やるかな?(悪魔のささやき)
 

日米地位協定を解消・不平等条約撤廃  投稿者:えこね  投稿日: 7月 5日(水)23時03分44秒
  日本人(大和(やまと)民族・琉球民族・アイヌ民族の3民族の日本国籍者)は在日朝鮮人を韓国に帰国させる(済州島・巨済島・うつ陵島・江原道へ移住させる)外交さえし続ければいいのです。  

たぶん(個人的予測で)  投稿者:えこね  投稿日: 7月 5日(水)22時59分28秒
  >日本による制裁発動・安保理への付託

ロシアが制裁反対。
中国が態度保留、制裁発動投票を棄権。
他が制裁賛成。

人民中国が、人民解放軍を北朝鮮に進駐させる。
アメリカ軍が、在韓米軍をプサンなど南部に移動させる。
38度線は、韓国軍だけ。

@北朝鮮軍が血迷って南進すれば、韓国軍が苦戦する。
 本来38度線のアメリカ軍は南部に駐留し動かない。
 消耗して停戦。現状維持。

A韓国軍がアメリカ軍を襲う。北朝鮮軍が人民解放軍と戦争しだす。
 アメリカと中国が仕返し、米中の完全な支配下になる。
 北は中国領。南はグアムと同じアメリカ領。

B北朝鮮軍が南進して勝ち、韓国軍が壊滅。南部に移動したアメリカ軍が押し返す。
 人民解放軍が突如、逃げ戻って来る北朝鮮軍を攻撃し、半島の武力が消滅。
 北は中国領。南はグアムと同じアメリカ領。
 

RE:次のコラムは  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月 5日(水)22時08分9秒
  >北朝鮮でしょうか?

一番「旬(しゅん)の話題」と言えば、7発も高価な花火を打ち上げた北鮮と言う事になりますが、何しろ、今日の事ですし、情報が錯綜している部分もありますし。ましてや、明日以降、様々な展開があるでしょうから、そうそう書けるものでもありません(苦笑) まあ、一つだけ言える事があるとすれば・・・折角(せっかく)、米国を二者直接協議の席に着かせ様として、大浦洞(テポドン)2号を試射した迄は良かったが、何の事は無い。失敗してしまった・・・労働(ノドン)・スカッド合わせて計7発(韓国・ロシアは10発以上と言っているが)も日本海に向けて試射して、結果が米朝協議どころか、日本による制裁発動・安保理への付託では、余りにも割が合わない。結果から見れば、大浦洞2号の試射失敗だけで無く、外交的にも失敗だったと言えるのでは無いでしょうか? 尤(もっと)も、日本にとっては経済制裁発動と防衛体制強化の口実が出来た訳で、好都合ですが。

>韓国も海洋調査を強行していますし

はい、今回は韓国がテーマです。先程、コラムを掲載しましたが、奇(く)しくも、今日、韓国の海洋調査船が日本のEEZ・領海に「侵入」しましたし、その辺りを若干絡(から)めてあります。お時間がある時にでもご覧下さい。
 

★リンク紹介(思想)★  投稿者:えこね  投稿日: 7月 5日(水)19時30分35秒
  儒学と禅宗@印度の敬神と瞑想
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/598/1120820561/733-736
 

次のコラムは  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月 5日(水)15時20分33秒
  北朝鮮でしょうか? 韓国も海洋調査を強行していますし、中国はEEZ侵犯を相変わらずやってます。同じ時期にわざわざぶつけてるんでしょうかね、特亜は。  

専守防衛でよい  投稿者:江戸人  投稿日: 7月 5日(水)15時13分9秒
  北朝鮮のミサイルを正確に見極めれない日本の自衛隊 米軍

これでは国を守れません
 

題名  投稿者:投稿者  投稿日: 7月 5日(水)13時59分27秒
  北朝鮮からとうとうテポドンが6発発射されました  

Re: これ以上の我慢は  投稿者:岩谷文太  投稿日: 7月 4日(火)21時43分47秒
  >早々にこの島の領有権を放棄し、この小島一つを貧乏人コリアにあっさりとくれてやれ・・

小島ひとつと言っても、それで失う排他的経済水域の面積はちっぽけなものではありません。そもそも日本側のEEZで韓国漁船が不法操業をやっている現状で、竹島を放棄したらどうなるんですか? 日本の漁業が受ける痛手は小島ひとつと言って済むものではないでしょう。

>日本巡視艇ほうほうの態(てい)で遁走(とんそう)新たなる世界の爆笑をかうことになるぞよ・・もう恥かきはこのあたりでやめてほしい。

軍備の劣る韓国が本当に実戦に出て来たらそれこそ狂気の沙汰と言うもの。この問題はある意味先に手を出した方が国際世論を敵に廻すでしょう。
 

RE:これ以上の我慢は  投稿者:竹下義朗  投稿日: 7月 4日(火)20時39分47秒
  >韓国の哨戒艇より実弾の威嚇射撃により、日本巡視艇ほうほうの態(てい)で遁走(とんそう)

「這々(ほうほう)の体(てい)で遁走」するにしろ、しないにしろ、日本側EEZに「侵入」してきた韓国船に対して、海保巡視船が退去警告を出し、それに随わず、逆に韓国側警備艦が発砲してくれれば、寧(むし)ろ、その方が好都合ですよ。

国際的に、沿岸警備隊艦艇に「攻撃」が加えられれば、海軍の出動と相場が決まっている以上、海自が海上警備行動を発令し、護衛艦の現場出動を可能とする口実が出来ますから。いや、それ以前、『海猿』人気は元より、今の海保には韓国にしろ支那にしろ、領海・EEZを他国艦艇に好き勝手にのさばらせるのを由(よし)としない、寧ろ、毅然とした態度で臨まんとする空気がありますから、大型巡視船で「一戦交える」かも知れません。まあ、海保が独断専行したら、海自も政府も黙ってはいられなくなりますし、散々韓国に愚弄(ぐろう)された事で、日本の国民感情も韓国に対して厳しくなりつつある昨今、日本が譲歩する事は絶対にあり得ません。

現に、先の海洋調査問題の際、ソウルに乗り込んで外交決着を図った当事者である谷内正太郎(やち-しょうたろう)外務事務次官は、今回の韓国側の行動ですっかり面子(めんつ)を潰(つぶ)されてしまい怒り心頭、海保長官で無いにも関わらず、韓国に対して、「(韓国側が調査を強行するなら)日本も同様の調査を実行する」と明言しましたからね。

(いず)れにしろ、日本国内の「征韓論」が勢いを増す事は確かでしょうし、自民党総裁選の争点の一つである対韓外交については、強硬派に有利に働く事でしょう。
 

これ以上の我慢は  投稿者:藤村一茶  投稿日: 7月 4日(火)14時30分30秒
  「日本の巡視船が出動しても引き返さない」
空砲の威嚇射撃でも宜しい、これすら出来ぬ以上は何を言っても無駄である。
いくら国民が憤慨しても政府がこれをせずして竹島の領有権を主張することは無駄なるエネルギーの消耗である。早々にこの島の領有権を放棄し、この小島一つを貧乏人コリアにあっさりとくれてやれ・・さすれば日本人のプライド傷も多少は薄まるわ。
それとも世界のモノ笑いのタネをふりまきコリアの紳士的撤退をお願いするもやそのうちに韓国の哨戒艇より実弾の威嚇射撃により、日本巡視艇ほうほうの態(てい)で遁走(とんそう)
新たなる世界の爆笑をかうことになるぞよ・・もう恥かきはこのあたりでやめてほしい。
 

海上保安庁巡視船に発砲(島根県隠岐郡五箇村)  投稿者:えこね  投稿日: 7月 4日(火)11時41分44秒
  1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約 署名
(日本は済州島・巨文島・欝陵島を放棄と明記。竹島は含まれおらず放棄していない。)

1952年1月18日 韓国が竹島を含む領海の線引き「李承晩ライン」を一方的に宣言

1952年4月28日 サンフランシスコ平和条約 発効

1953年1月12日 韓国が李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示
(これ以降、拿捕された日本船の数328隻・抑留者数3929人・死傷者数44人。)

1953年6月26日 やむを得ず日本が竹島に「日本島根県隠岐郡五箇村」の標識を立てる

1953年7月12日 竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲
(これ以降、韓国は竹島を占領し日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進める。)

1954年7月1日 日本にようやく海上自衛隊が設置される
 

号外  投稿者:通りすがり  投稿日: 7月 4日(火)03時11分54秒
  ■独島(日本名・竹島):「日本の巡視船が出動しても引き返さない」【毎日新聞】
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/korea/news/20060703org00m030042000c.html

独島(日本名・竹島):「日本の巡視船が出動しても引き返さない」

 韓国政府の海洋調査船・海洋2000号(2,500トン)は3日、独島(日本名・竹島)周辺海域で海流調査を行うため出航する。海洋2000号は2日午後10時30分現在、釜山海洋警察庁の埠頭(ふとう)を出航、海上で待機中とのことだ。

 複数の政府関係者によると、海洋2000号は蔚山近海の東海岸南端から海流調査を始め、東海岸に沿って北上、今月中旬に独島周辺海域に入る予定だ。海洋 2000号が独島に近づけば近づくほど、韓日間の緊張は高まると思われる。日本は独島が自国の排他的経済水域(EEZ)内にあると主張、巡視船を出動させると公にしている。

 韓国政府は今回の調査を単なる「海流調査」と説明している。主に東海(日本海)の海水に含まれる塩分・海流・水温を測定するための調査だとのことだ。これに関し、国立海洋調査院はホームページで「経済航路開拓、航海の安全、海洋汚染物質拡散・移動予測、海難救助・軍作戦支援、海流循環モデル開発などを研究するため、定期的に韓国南海(韓国南部および済州島周辺海域)および東海で海流調査を実施している」と述べている。海流調査は領有権にかかわる特殊任務ではなく、海洋観察のための通常業務だという主張だ。

 今回のように独島周辺で韓国が海流調査を行うと発表し、日本が妨害した例は過去にもあった。1996年8月と97年5月に海洋2000号が独島周辺海域で調査活動を行おうとした際も、日本は巡視船を派遣し調査活動を妨害した。2004年7月も同様だった。韓国地質研究所所属の探海2号は独島の北西海域で調査活動を行っている際、日本の巡視船が近づいたため引き返した。外交紛争を懸念してのことだ。

 ある政府当局者は「今回は以前と違うだろう」という。「日本の巡視船が出動しても引き返さない」方針だといわれる。「独島について“静かな外交”を放棄した以上、韓国の領有権を守るという意志が反映されたもの」と政府関係者は説明する。よって日本が強硬対応に出れば、両国間の深刻な外交問題となる可能性がある。日本側は「巡視船を体当たりさせて韓国調査船を押し出すことはないだろうが、強く退去を命じる」としており、韓国側が調査を強行すれば予想外の結果をもたらすものとみられる。(朝鮮日報)

2006年7月3日


>>独島(日本名・竹島)>>独島(日本名・竹島)>>独島(日本名・竹島)

毎日新聞は完全に韓国の視線ですな。本当に日本の新聞なのかと疑ってしまいます。
在日朝鮮人が記事を書いているのだから仕方ないのかも?

 

突然、キリスト教うんちく  投稿者:えこね  投稿日: 7月 2日(日)20時30分46秒
  三位一体は難しいです。えーっと。キリスト教ウンチクはあります。

ヤハウェ(ヤふ)
イエス(ヤそ)も「存在する。ある。居る。BE動詞(ヤー)」の変化形です。

霊(プニューマ・スピリット[英]・風・良心・理性判断力(高次元霊)・善解釈)
魂(プシュケ・ソウル[英]・息・感情・傷ついた霊(欠陥霊・低次元霊)・魂魄)
肉体(ソーマ・ボディー[英])肉(サルクス・ミート[英])
神(テウーあるいはテオス)
人(アントロポス・マン[英])人性(ヒューマン[英])
言葉(ロゴス)語録(ロギア)

父なる神: 霊(神性)・魂(神性)・肉体(神性)
神の霊:_ 霊(神性)
神の子:_ 霊(神のロゴス)・魂(神のロゴス)・肉体(神のロゴス)
人間:__ 霊(人性)・魂(人性)・肉体(人性)
狂人けもの 霊(なし)・魂(人性)・肉体(人性)

いうのがギリシアの人間観です。

異端説1(アポリナリオス): 霊(神性)・魂(人性)・肉体(人性)
異端説2(サベリウス)__: 父なる神→へんげ→キリスト→へんげ→神の霊

キリスト教(カトリック・正教)としては、正統解釈になりませんです。
 

英語も文字言語  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月 1日(土)16時09分11秒
  英語圏では the Beatles [δə bi:tlz](楽隊名)と the beetles [δə bi:tlz](甲虫、複数)のように音は同じでも綴(つづ)りで辧別しており、英佛語圏の人も文字で考えています。
もっとも ea と ee の区別は中英語の[ε:]と[e:]にさかのぼります。

[ə]→[e]の逆さ、曖昧(あいまい)母音(ぼいん)の記号、化けていませんか?

所謂(いわゆる)「旧假名(かな)」も本当は表音主義で、ただ「くわん」は kwan という音を表わしていたのが kan になり、假名遣(づか)いも「かん」に同化したわけです。

むしろ、普通と反対に、「旧假名」は表音主義と考え、「現代假名使い」の方を表意主義と考えれば理解できます。例えば和語の「大【おほ>おお】」と漢語の「王【わう>おう】」など。

アジアの一部の英語では Wednesday [wenzdei]を[wed-nes-dei]というように綴り字通り発音するようで、これも本来の音の復活です。
標準英語で dn が n になり e が省(はぶ)かれただけの話です。

むしろ、綴りが発音に影響される例が多く、baseball(野球),football(蹴球)がスペイン語で beisbol,futbol になります。
パプアニューギニアでは one の綴りが wan になりますし、paper(紙)と pepper(胡椒 こしょう)が両方とも pepa と書かれ、同音になります。

nga 行鼻濁音は後になって ga が訛(なま)った結果でしょう。
「かきくけこ(カキクケコ)」は「加幾久計(または介)己」の草書で、これらの漢字は本来、無声破裂音 k で始まる ka,ki,ku,ke,ko でした。
「がぎぐげご」は「加"幾"久"計"(または介")己"」と書いているようなものです。

nga ngi ngu nge ngo を日本語の音素として護るなら、「が」ga 行の假名で代用しない方がいいでしょう。
万葉(まんにょう)假名の要領で「我義禺藝五」を草書にして、新しい假名をもう5つ増やすのが合理的です。

また、今の東日本の方言(東京辯、東北辯など)の nga 行は ga 行の異音であって、意味の辧別とは余り関(かか)わりがなく、残す意義は少ないと言えます。
g と ng で「方角」と「邦楽」、「学期」と「楽器」を区別できれば、残す価値はあります。
NHKの「語楽紀行」は当初、「語ラク紀行」か「語ガク紀行」か不明でしたが、どうも「語ガク紀行」のようです。
それなら、「語楽【ごがく】」と「語学」は今の日本語では発音し分けることができるでしょうか。
その辺を考える必要があると思います。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

突発的な投稿ですが  投稿者:利亜  投稿日: 7月 1日(土)16時01分40秒
  私がいた営業所の同僚が在日韓国人なのだそうです。


年も大学(入社してから同じ大学だと知った。学部は違いますが)も入社時期も全く同じなので在日(にありがな通名を使っている)だと言われても特に嫌悪(けんお)感はありません(人柄が大きい)



仕事もできるし(会社から賞を貰(もら)いハワイ旅行に行った)、自分の目標にしている人なので彼が在日なのは枝葉(しよう)の問題としていますがそういうふうに簡単に受け流せるのは彼の人格が大きいですね。


在日韓国人というと負のイメージが強いですが・・・

在日に関してはこれまで実体験での関(かか)わりがほとんど無いので人事のように捉(とら)えてました。
 

反日主義幼児の常套句。  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 7月 1日(土)15時53分24秒
  「>民族感です(訂正箇所あり) 」を訂正しました。

反日主義の常套(じょうとう)句。
どんな理由があろうと日本が中国を攻めたのは悪いといい、なぜ日本がシナを攻めねばなからかったか考えない。
そこを持ち出されると、今度はシナ人が日本人を襲撃したことについて理由を持ち出して正当化する。

逆に応用すれば、「理由」があれば日本人はシナ人居留民を襲撃していいことになる。

そこに気づかない点、相変わらず頭が軽い。

中国人は物を盗んだりしても、「中国は貧乏です」など、人のせいにする傾向があるようで、極端な例がなんでも「日本帝国主義」のせいにする幼稚な詭辯(きべん)

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

あいも変わらずですね・・。  投稿者:深谷T  投稿日: 7月 1日(土)15時11分11秒 Remote Host: p3188-ipbf1006marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp, Time: 1151734271
  (当該投稿者「深谷T」は出入禁止(投稿禁止)対象者につき、投稿内容の如何に関わらず、管理者権限に於いて投稿は削除)  

勉強ねた  投稿者:えこね  投稿日: 7月 1日(土)14時46分9秒
  新版 中国正統 五術占い全書
明澄派十三代 張耀文 東洋五術運命学協会 佐藤六龍
文研出版 定価5000円

序章 正しい運命学 p25
第一章 五術の基本思想 p57
第二章 命による人間の理解(紫薇−斗数推命術) p99
第三章 命による人間の理解(子平・四柱推命) p225
第四章 卜による事態の予測と処置(六壬−神課) p287
第五章 卜による事態の予測と処置(八門・奇門−遁甲) p355
第六章 卜による事態の予測と処置(断易・五行易) p387
第七章 相による物体観察 p441
 第一節 印相(一事の運命:使った時だけの運)
 第二節 名相(一期の運命:姓名判断・改名するまでの間の運)
 第三節 金面玉掌(一生の運命:人相手相・生きている間中の運)
 第四節 陽宅(一代の運命:家相・
        家に住む間中の運・世代をまたぐ期間の運)
第八章 医による病気の治療 p555
 第二節 方剤(薬物治療:漢方医薬・煎じ薬)
 第三節 鍼灸(刺激治療:はりきゅう・経絡・気孔)
第九章 山による人間の完成 p577
 第一節 山(仙道)について
 第二節 天丹法(築基法:座禅・呼吸法・体操・体力増強)
 第三節 地丹法(食餌法:食べて健康・強壮剤)
 第四節 符呪法(修密法:手法=手品で信用を得る・
     薬法=薬品など化学反応で驚かせる・
     念法=御札と念力で威圧する)
第十章 五術占例集 p629
五術の総合的活用−−−「あとがき」にかえて
    『五術大法透貫』 p647

『愛国者』(BBS)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1104987249/120n-142
 


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