Archives of the Salon's log
喫茶室 過去ログ88(2006.9.1〜9.30)

帝國電網省:[ トップページへ ]

喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2006年10月のログ] [2006年8月のログ]


『卑弥呼と日本書紀279』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月30日(土)13時01分34秒
  [承前]

〈6〉靈力の一致

『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉は鬼道をよくするとあるが、〈神功(じんぐう)皇后〉も盛んに霊力を発揮し、神託をうけて政治を決定するとともに、数々の奇跡を起こしている。
 まさに鬼道である。


〈7〉北九州の地名の一致

『魏志倭人伝』に出てくる末廬(まつろ)国、伊都国、奴国が、〈神功皇后〉紀――および仲哀天皇紀――にも、次々に出てくる。
 また仲哀天皇の在位時に皇宮を九州と至近距離にある山口県にかまえ、そのあと〈神功皇后〉のみの時代に拠点を北九州に移している点、また《邪馬台国》の候補地の一つである九州の山門(やまと)が神功皇后紀に出てくる点も、なにやら暗示的である。


〈8〉東征伝説

《邪馬台国》が東征して大和(やまと)に移ったという神武(じんむ)天皇紀と結びつけられている説に対応する移動が、〈神功皇后〉紀にもちゃんと見られ、北九州に拠点を持った〈神功皇后〉が戦いながら近畿に移動する。
 さらに面白いのは、瀬戸内海からまともに大阪湾に向かったのではうまくいかず、紀州方面に迂回して上陸して成功する話があることで、これもまた神武天皇紀の東征神話と酷似している。
 したがって「《邪馬台国》九州説」ともうまく結びついている。


〈9〉皆既日食の記録

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」のひとつの根拠は西暦二四八年の皆既日食だったが、〈神功皇后〉紀にも皆既日食を思わせる記述がある。
 昼も夜のように暗くなったという事件である。

[つづく]
 

ついにアメリカも先願主義に!  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月29日(金)12時09分11秒
   9月27日の新聞に、注目すべき記事が載りました。
 日本の国益に密接に関連する記事です。
 それは、特許関連の国際会議で決まる条約で、アメリカが建国以来の伝統であった特許などの「先発明主義」をやめ、「先願主義」というアメリカ以外の世界の流れに従うことで合意したという件です。
 アメリカの「先発明主義」によって、日本の工業界がいかに泣かされてきたかは、本掲示板でも一部掲載しました『発明特許の日本史』で詳しく述べたとおりです。
 裁判にかかる費用も大変なものでした。
 これは日本だけでなく、アメリカ自身の企業も同様だったと思います。
 メートル法への統一が難渋するのと同じく、欧米諸国(とくにアメリカ)が伝統を変えるのは大変なことです。
 これについては、長期にわたる日本の外交努力もあったと思います。
 

『卑弥呼と日本書紀278』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月29日(金)12時03分3秒
  [承前]

〈2〉『魏志倭人伝』の引用

『日本書紀(やまとのふみ)』の神功(じんぐう)皇后紀には、『魏志倭人伝』にある魏との使者交換の引用が三箇所にも出ていて、西暦換算の年も完全に一致している。
 また、〈臺與〉に対比したと思われる西暦二六六年の『起居注』の引用まである。


〈3〉国の乱れ

『魏志倭人伝』には倭国が乱れたとき、男王が立ったが治まらず、女王を擁立してやっと平穏になった――とある。
 これを『日本書紀』に見つけることは容易である。
 すなわち、少し前の景行(けいこう)天皇紀では、国々が乱れて困り、そこで日本武尊(やまとたけるのみこと)が九州や東国に遠征して諸国を平定したが、途中で病没したことになっており、国の乱れに苦労した話が多い。
 景行天皇は第十二代だが、次の第十三代の成務天皇や〈神功皇后〉の夫の第十四代仲哀天皇は、『記紀』ではじつに影が薄く、ほとんど無視されている。
 したがって男王では駄目で女王を共立した――との『魏志倭人伝』の記述に一致するといえる。


〈4〉名前の一致

〈神功皇后〉の謚号(しごう/おくりな)でかつ諱(いみな)と思われる氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の末尾の「ヒメミコト」は〈卑彌呼〉「ヒミコ」そのものであり、名前の点でも類似している。


〈5〉夫が無く男弟が補佐している事

 夫がいないという『魏志倭人伝』の記述に合わせるのは簡単で、夫の仲哀天皇は早世し、その後で〈神功皇后〉の活躍が始まるのだから、活躍期間のほとんどにおいて夫は無いことになる。
 また大臣(おおおみ)の武内宿禰(たけのうちのすくね)が夫がわりのような感じで終始補佐しているが、これは「男弟が補佐している」――という『魏志倭人伝』の記述に通じる。
 また〈卑彌呼〉の身の回りの世話はただ一人の男がしているという話も、武内宿禰に比定することが可能である。
 さらに、女王の言葉を外に伝える役割をしている男の件は、仲哀天皇九年1の審神者(さにわ)が暗示的である。

[つづく]
 

SAPIO  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月28日(木)17時53分58秒
   ある方が教えてくださいましたが、現在発売中の雑誌「SAPIO」に高森明勅先生のエッセイがあり、そこに小生の男系問題の計算が引用されております。
 この計算は、前にこの掲示板に連載したものです。
 現在では下記の書に収録されています。

『皇統の危機に思う』(1600円)
 版元は栄光出版社(Tel 03-3471-1235/Fax 03-3471-1237)
 ↓↓↓↓↓
http://www.eiko-books.co.jp/

 高森明勅先生と私とでは意見は違うのですが、どのような危機にあるかという認識では一致していますので、引用なさったのだと思います。
 

『卑弥呼と日本書紀277』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月28日(木)11時11分15秒
  ■■■■■ 七・十二 『魏志倭人伝』との奇妙な一致 ■■■■■


◆◆◆ 数多い〈卑彌呼〉との暗合 ◆◆◆

 神功(じんぐう)皇后紀と『魏志倭人伝』の対応は、じつに多くある。
 多すぎるくらいだといえる。
 それを以下に列挙してみよう。
 簡単に結論が出るわけではないが、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」
 ――は、
「《邪馬台国》九州説」
とも結びつくし、また、
「《邪馬台国》大和説」
とも結びつくのである。

〈神功皇后〉や應神天皇が九州を本拠とする豪族の出だったと仮定すれば前者になるし、『記紀』の記述にそっているとすれば後者である。
 ここでは一応、前者もありうるとして箇条書きにしてみる。


〈1〉暦年の一致

『魏志倭人伝』で年代入りで記されているのは西暦換算で二三〇年くらいから二五〇年くらいの事件だが、この〈神功皇后〉紀の後半の年代も、修正をまったくしないで西暦に換算すると、同様になる。
 また〈卑彌呼〉の活躍はその前、つまり三世紀初頭からあった筈なので、それは〈神功皇后〉紀の前半とほぼ一致する。
 すなわち、〈神功皇后〉が朝鮮へ遠征するのは、『記紀』のとおりの紀年を一二〇年加算しないで西暦に直すと二〇〇年である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀276』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月27日(水)15時13分14秒
  [承前]

 したがって、高句麗(こうくり)対策の一環としても、元来友邦だった日本に宝物を贈ってさらに味方につけようとしていたことは、十二分に考えられる。
 また、『日本書紀(やまとのふみ)』には明示されていないが、対新羅(しらぎ)戦だけでなく対高句麗戦にも日本の大軍が参加していたことは、『好太王碑』から確実である。

 このようなことから、この国宝「七支刀(ななつさやのたち)」は、〈神功(じんぐう)皇后〉から應神天皇の前記の実年代を推理する、日本で最古の、かつきわめて有力な史料なのである。
 なにしろ、いまから千六百三十年も前の古墳時代の伝承を記した『日本書紀』にある外国からの献上品そのものが、遺跡からの出土ではなく、神社宝殿の伝世品として、いまに伝わっているのだ。

 まさに奇跡である!

 なおもう一つの宝物である「七子鏡(ななこのかがみ)」は紛失してしまっているが、それを連想させるような古鏡があるので、図7.8(c)に示しておいた。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 伊勢神宮の徴古館に収蔵されている六鈴鏡で、古墳時代――つまり〈神功皇后〉のころ――に作られたと考えられるものである。
 百済(くだら)から届いた「七子鏡」も――そのものズバリではないかもしれないが――これに似た形状ではなかったか、と想像される。
 この形状の鏡は、すこし後の時代の遺跡からも、いくつか出土しているらしい。
 真似(まね)て作ったのであろうか?


[次ぎは「第七・十二節 『魏志倭人伝』との奇妙な一致」]
 

『卑弥呼と日本書紀275』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月26日(火)12時00分36秒
  [承前]

 これが特A級の史料である最大の理由は、冒頭に「泰和四年」という紀年が記されていることである。
 朝鮮半島の各国はずっとシナ王朝の年号を使用していたので、これは東晋の年号である「太和(たいわ)」の音を仮借したものとみるのが通説である。
 そしてこれへの反対意見は少ない。
 だとすると、この「七支刀(ななつさやのたち)」は、

「任那(みまな)地方の七国が日本に帰順した西暦三六九年に、それを記念して製作された」

 ――ことになる。
 第七・七節に記したように、日本に献上されたのが、〈神功(じんぐう)皇后〉五十二年で、これは西暦表示で二五二年だが、一二〇年加算をすると三七二年になる。
 すなわち、この刀の銘文と『日本書紀(やまとのふみ)』の記述とはピタリと一致する。

 おどろくべきことだが、この一致によって、干支二回りの一二〇年加算が信憑性を持つといえるのである。
 そしてそのことは、〈神功皇后〉摂政(せっしょう)から應神天皇への交替の時期が、どうやら三七〇年代ではないか――という実紀年推理にも結びつくのである。

 西暦三六九年というのは、一二〇年加算した『日本書紀』の事項を見ると、日本軍が百済(くだら)と協力して新羅(しらぎ)を押さえ、弁韓の七国を帰順させて任那を拡大し、済州島を支配して百済に譲渡した年である。
 したがって、日本との修好を願う百済王が、七国帰順を祝ってこのような七つの枝をもつ特殊な刀に銘文をきざんで朝献してくる必然性は、きわめて高い。

 この時代の百済王は近肖古王といわれ、『三国史記』によると、王と太子の近仇首王(銘文中の奇生)とが高句麗(こうくり)と激しく戦っていること、および新羅となんとか和解して国境を確定しようとしていること、などがわかる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀274』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月25日(月)12時08分11秒
  [承前]

**********

(表面)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鐵
    七支刀 以辟百兵宜供侯王
                □□□□作
               (□は判読不能)
(裏面)先世以來未有此刀 百済王 世子奇生
    聖音故 爲倭王旨造 傳示後世

 推定されるおおまかな意味を、八木荘司の訳で記すと、

(表面)泰和四年(西紀三六九年)の五月十六
    日丙午の日の日中、百練した鉄で七
    支刀を造る。もって百兵(多くの敵)
    のわざわいを避くべく、侯王(帝また
    は諸侯)に供するにふさわしい霊刀で
    ある。
                 □□□□が作る。
(裏面)古来いまだ、このような刀はなく、百
    済王と世子(太子)の寄生(『日本書紀』
    の貴須、『三国史記』の仇首)が、聖な
    るお言葉ゆえに、倭王のおんために造る。
    後世に伝示されたい。

 ――といったことになる。

**********

[つづく]
 

ピョンヤンの軍も666と自ら名乗った  投稿者:えこね  投稿日: 9月25日(月)03時51分45秒
  ちなみに、北朝鮮の平壌の軍隊は、第666部隊とか第666師団だか666軍管区とか名づけられているのですよね。

ロックフェラーと北朝鮮のピョンヤンの価値観や思考回路は同じという事でしょうか。
道理で日本人として両方とも嫌いか判ります。
 

意味は反キリスト  投稿者:えこね  投稿日: 9月25日(月)03時48分22秒
  三菱が以前に買って手放したロックフェラービルでしょうか?

新約聖書はキリスト教の書物ですが、そこに666が書かれています。
ユダヤ教の書物では有りません。ユダヤ教の書物に666を書いた物が有るかは判りません。

ロックフェラーと666は単なる別々の組み合わせに思えます。
ロックフェラーは反キリスト(キリスト教に対抗)する意味でも有るという事でしょうか?
すると
聖書に手を載せて大統領就任宣誓する国にしては、キリストに対抗する記号を放置する国なので、おかしな道徳心とか倫理基準の国家に思えます。
キリストの言葉の書物に宣誓しながら、資金は反キリストから貰って支援してもらっている。とアメリカの大統領は、と言われるような感じの気まずさです。
 

666  投稿者:はる  投稿日: 9月24日(日)23時06分13秒
  えこねさん、色々と御解説有難うございます。
NYのロックフェラービルの外壁面には“666”の数字が掲げられているらしいのですが、どういう意味があると思われますか?
 

あと。。。  投稿者:えこね  投稿日: 9月24日(日)12時24分52秒
  現在でもバビロンの縁起担(かつ)ぎが使われています。

7は、7曜(日曜・月曜・・・・金曜・土曜)です。
12は、12時間(24時間)・12支(12星座)・12ヶ月(1年の区切りの月)などです。

12×2=24節(中国で1年の4季節を更に細かく等分)
12×5=60分(1時間)

7×4=28日(インドの宿曜・月の周期・月齢的な1ヶ月)

12と7を基数としています。
 

『卑弥呼と日本書紀273』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月24日(日)12時21分47秒
  [承前]

◆◆◆ 《石上(いそのかみ)神宮》の奇跡の至宝「七支刀(ななつさやのたち)」 ◆◆◆

 さて、問題の「七支刀」である。
 これは禁足地に埋められていたのではなく、高句麗(こうくり)からの献上品かもしれない鉄盾など他のいくつかの重要文化財とともに神庫に保管されて伝世されたもので、尾張(おわり)勢の乱入によって神庫自体が破壊されたときにも、略奪を免れて、現在に至った。
 これは奇跡的なことであるが、いくつかの最重要な社宝とともに、山中に隠すなどして難を逃れたのかもしれない。

 また菅政友(かん-まさとも)の論文によれば、尾張勢の略奪物のいくつかは翌年に返却されたとあるので、「七支刀」も略奪されたのちに戻された可能性がある。
 神社関係者や朝廷などによる必死の働きかけがあったのであろうが、何と何が戻ったのか、戻らなかったのは何か、など、詳細は菅も記していない。
 伝承があるだけで、文献資料は残っていなかったのであろう。
「七支刀」以外の多くの社宝・古文書などが行方不明になったのは確かであるが・・・。
(*)

「七支刀」の写真を図7.8(b)に示す。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 じつに珍しい形状の刀で、たしかに六つの枝と先端とで合わせて「七支」である。
 鍛鉄(たんてつ)製で全長が約七十五センチある。
 錆(さび)におおわれてはいるが、校倉(あぜくら)造りの神庫の環境が良好だったのであろう、いまだ原形を保っており、そこに金象嵌(ぞうがん)で記された六十余文字の銘文があって判読可能である。
 百済(くだら)王がきざんだこの銘文は、次のようなものである。

(*注:この時代の織田(おだ)勢などが略奪した宝物類の多くは、武将の手から次第に流出し、現在でも時々その方面の市場に出てくるといわれる。一説によれば、正倉院(しょうそういん)の御物(ぎょぶつ)の三分の二は織田勢が強奪し、その一部が時々市場に出るそうである。それが本当なら、現在の正倉院御物は本来の三分の一にすぎないことになる)

[つづく]
 

ちなみに  投稿者:えこね  投稿日: 9月24日(日)12時19分2秒
  アルファベットの文字を数字に置き換えて読み解くという方法がゲマトリアやカバラの一つにあり、ローマ皇帝のネロ・カエサルを666に当てはめるのが一般的な解釈です。

こういうのもあります。魔方陣の数というのもあります。
111は太陽数といわれています。
7は完全数で、完全さに1つ欠くので6を不完全数で出来損ないとか悪魔という意味に当てはめています。
太陽は世界に輝くものです。
その輝きに欠けた出来損ない、つまり世界に輝ける悪魔を111×6で666とした。
という解釈もあります。

しかしコジツケというのは何にでも出来ますから、あまり、この手のコダワリは持たない方が良いと思われます。

余談。7が完全というのは、7は世界を意味するからで、この世の世界は3方向(上中下、あるいは過去・現在・未来)と4方向(前後左右、あるいは東西南北)で出来ており、3+4=7と3×4=12を完全数として、良い数字・縁起担ぎな数字としています。
バビロニアの考え方(カバラ)だそうです。
ようは昔の世界観を数字で語った物語という事です。
 

知識と信心は別だと思うのですが  投稿者:えこね  投稿日: 9月24日(日)12時09分24秒
  > はるサン

お久しぶりです。

無神論というのは、ゲマトリア数秘術だか カバラ密義の類でしょう。
有神論な、信心深いとか、教会の奉仕に熱心。というのと違うという事です。

金持ちクラブというのは、多かれ少なかれ、ユダヤの神よりマモン(財神・異国の偶像神、拝金主義)を選んだ生き方なのであって、金勘定で、従業員や工場の設備など、またお客や取引先を選んで商売の算段するわけですから、そうしたマモンを中心とした考え方を、無神論と言ってみたのです。
 

『卑弥呼と日本書紀272』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月23日(土)12時26分46秒
  [承前]

 霊剣・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)のほかに、明治十一年になって同じ禁足地から、神話にある十握剣(とつかのつるぎ)=布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)かもしれない宝刀が出土したといわれる。
 図7.8(a)のような剣だったのであろう。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

(菅政友(かん-まさとも)が布都御魂として記録した霊剣はご神体そのものなので、写真等には撮られていないが、発掘時の手書き図が残されていて、神道大系で見ることができる。日本という国は凄い国で、神話に出てくる大國主神(おおくにぬしのかみ)に国譲りを説得した際の剣が現実に発掘されて神社に祭られているのである。ただし考古学的研究対象ではない)

 禁足地からの出土品のほとんどが重要文化財だが、もちろん出土品以外にも国宝や重文などがある。
 それを一覧にしておく。

 拝殿(国宝)
 摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)
〔出雲建雄は三種の神器・草薙剣の荒魂〕
 七支刀(国宝)
 楼門(重要文化財)
 鉄盾(重要文化財)
 色々威腹巻(重要文化財)
 境内二十四万平方米(奈良県天然記念物)
 鏡池とワカタ(魚)(奈良県天然記念物)
 太刀・小狐丸(奈良県指定文化財)
 厳甕(奈良県指定文化財)
 繪額二面(奈良県指定有形民族文化財)

 要するに神社全体が国宝のような社(やしろ)なのだが、このなかでも近隣国との交流の史料としてとくに重要とされるのが、「七支刀(ななつさやのたち)」である。

[つづく]
 

Re:脈絡なく、うんちく  投稿者:はる  投稿日: 9月23日(土)03時41分11秒
  フリーメーソン(とイルミナティ)は“無神論”とのことですが、ロスチャイルドやロックフェラーのようなユダヤ人がメンバーになっているのはナゼなんでしょう?
ちなみに、ユダヤ人にとって“666”という数字は、特に意味を持たないのでしょうか?
もし、御存知なら。
 

脈絡なく、うんちく  投稿者:えこね  投稿日: 9月22日(金)20時48分3秒
  失礼、致しました。「ゴ」と「こ」

ゴルゴとゴノレゴの違いでしたね。

別件。

アメリカ(プロテスタント)
 フリーメーソン
(金持ちクラブ・無神論・迷信儀式)
 イルミナティ
(創作哲学・無神論・迷信儀式)

フランス−パリで設立(カトリック)
 イエズス会(バスク人で創設)

ユダヤ人
 アシュケナージ(イディシュ語)
(ゾルブ人[西ポーランド人])
(ドイツ系・金髪)
 セファラード(ラディーノ語)
(ディアスポラ−ユダヤ人[アラブ])
(スペイン系・黒髪)
 

『卑弥呼と日本書紀271』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月22日(金)12時59分40秒
  [承前]

 その真偽は長く不明だったのだが、明治になって古くからの神社が重んじられるようになり、第一・一節で記した歴史学者の菅政友(かん-まさとも)が《石上(いそのかみ)神宮》の大宮司になったとき、官許を得て禁足地を発掘(明治七年)したところ、口伝(くでん)どおり、多くの神宝が出土した。
 そしてそのさい、主祭神・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)とおぼしき霊剣が、鋭端を東に向けて、地中に鎮座していたのが見つかったのである。

 元来この神宮には拝殿はあっても本殿は無く、禁足地に向かって参拝する形をとっていた。そして神庫は禁足地の外側にあったのだが、菅政友の後任者はこれら出土品を奉祀するために、禁足地内に本殿をつくった。
 また後に、神庫は禁足地内に遷され、これとは別に耐火施設の宝物収蔵庫を建造して、現在は社宝はここに奉安されている。
 さて、菅政友が発掘した霊剣以外の出土社宝だが、それは次のようなものである。

 硬玉勾玉(まがたま)十一箇・碧玉管玉(くだだま)二九三箇・琴柱形
 石製品・弧状管玉・硬玉棗玉(なつめだま)・角形管玉・環
 頭大刀柄頭・銅鏃(ぞく/やじり)・金銅垂飾品・金銅空玉・
 草花文鏡・萩菊双雀鏡・鏡形銅製品二面・瑞
 花文八稜鏡・草花文五稜鏡

 これらの多くは古墳時代前期の製造と思われ、ひじょうに古いものである。
〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉が天津神(あまつかみ)から授けられた「十種の神宝(とくさのかむたから)」を連想させる玉や鏡が多いことに注意されたい。
 以上の出土品はすべて、国の重要文化財に指定されている。
 ただし次の品は、鉄製品であるため錆(さび)がひどく、指定はない。

 籠手(かごて)残欠
 大刀
 いくつかに折れた鉾(ほこ)状物や槍状物

[つづく]
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日: 9月22日(金)11時21分49秒
  NYでセレブもよく利用する日本料理屋で、日本人女性がセクハラされたというが、果たしてどこまで事実かどうか分からない。

女だからといって何でもかんでも許されるとおもったら大間違いだ。
 

キリスト教の正統  投稿者:えこね  投稿日: 9月22日(金)05時32分1秒
  聖書・旧約第二正典・使徒教父文書・グノーシス文書・教会こよみ年間行事解説・聖人天使解説およびカトリック要理・正教要理・アウグスブルク信仰告白・ウエストミンスター信仰基準等に出会う前で、それらが手に入らず知りえないが為に励ましに使う聖書的な創作物語(作り話)としてモルモン書などの類を正教やカトリックに導くために過渡的に認めるが、キリスト教は、堅信の塗油ほか機密・ニカイア信条・主の祈り・キリエ−エレイソンなどを最低限とする東方正教会とローマのパパを頂点とする7つの秘蹟を継続するカトリック教会のみである。
(正教とカトリックと2つあるから唯一の教会は存在しない)
他は賛美歌や祈りによる聖書勉強会で生活互助的なキリスト教風の慰安会に過ぎない。
 

『卑弥呼と日本書紀270』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月21日(木)12時31分30秒
  [承前]

◆◆◆ 《石上(いそのかみ)神宮》の苦難と神宝発掘 ◆◆◆

 さて次が、この神宮の苦難の歴史である。
 最初の苦難は八世紀末の桓武(かんむ)天皇の時代で、平城京から長岡京に遷都したとき、ご神体がその新都に召(め)し上げられてしまった。

 都から遠くなった《石上神宮》に武器を保管させるのは危険である――という朝廷の考えによる措置だったらしい。
 しかし天皇の身に祟(たた)りが生じたので、すぐに返還された、といわれている。
 おそらく物部(もののべ)系有力者の尽力があったのであろう。

 これは《石上神宮》ならではの例外的な事件であるが、日本の社寺はどこでも、乱世に土地や神宝を失うという苦難に遭遇している。
 たとえば、十二世紀の源平の争い、十五世紀の応仁の乱にはじまる戦国時代、十六世紀の信長勢の《大和(やまと)》侵攻、豐臣・徳川時代になされた検地による領地没収、そして大東亜戦争による空襲被害と終戦後の占領軍による神社への弾圧・・・などである。

 この《石上神宮》も例外ではなく、とくに永禄十一年に信長に援助された尾張(おわり)勢が神宮境内(けいだい)に乱入して、拝殿や神庫を打ち壊し、中のものを強奪したため、多くの神宝や古文書が失われた。
 また豐臣秀長の命令によって社領も何十分の一かに減らされ、すっかり衰微してしまった。
 この時代には、勅命がなければ開けることを許されない有名な東大寺の正倉院ですら、織田勢などによって多くが失われたといわれているので、やむを得ないことであった。
(このような織田勢の乱暴狼藉(ろうぜき)が、明智光秀に謀反された原因だとする話もある)

 おそらく、このような被害を少しでも避けようとした関係者の苦心の策が、禁足地だったのであろう。
 いつのころからか、拝殿の背後に絶対に人の入ることを許さない禁足地ができ、そこに霊剣・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)などの御祭神や神宝が埋斎されているという話が密かに口伝(くでん)されてきたのだ。

[つづく]
 

満州侵略のような財産取得・生存主張の在日韓国人  投稿者:えこね  投稿日: 9月21日(木)12時00分52秒
  満州開拓団や北朝鮮全土や韓国の地方の
日本人が
日本人収容所や敷地内で殺され、強奪されたよう

日本の朝鮮人の在日韓国人の生存権は
満州の日本人の満州開拓団が生存権を認められなかったように
侵略者であるがゆえに日本国内で認められない。


満州・関東軍という外国軍を背景とした・満州開拓団の侵略財産取得
 → 日本・進駐アメリカ軍という外国軍を背景とした・在日の火事場泥棒な日本不動産取得

終戦直後の暴動・日本女性や男性に対する調子に乗った暴行殺害と
日本に居座り帰国の拒否。

日本に対する大和民族への差別待遇や発言の数々、
沖縄人をアメリカ兵と一緒に差別する在日朝鮮人
アイヌ人を樺太や千島からロシア人と一緒に北海道に追い出した在露朝鮮人。

日本が謝罪や賠償した話はありますが
韓国が謝罪や賠償をした話を聞きません。ベトナム戦争で、朝鮮戦争で。

ベトナムは韓国ではないです。戦争で韓国は負けました。賠償してません。
中国韓国は日本ではないです。戦争で日本は負けました。賠償しました。

韓国人の拉致でも日本人の拉致でも、在日朝鮮人や北朝鮮人に謝罪と賠償を求めませんよね。
韓国大統領を狙撃した拳銃は、大阪の警察官[から盗んだ]拳銃で
在日朝鮮人がパクチョンヒ大統領を撃ったものでした。

カトリックの正平協(正義と平和の協議会?)はいったい何者ですか。

侵略者は、今では、韓国人・朝鮮人。
 

皇室典範義解現代語訳の連載  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月20日(水)12時17分17秒
  HISASHIさまによります、皇室典範義解(こうしつてんぱんぎげ 伊藤博文)の現代語訳の改版と註釈が開始されましたので、もしよろしければどうぞ。

↓↓↓↓↓
http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs
 

『卑弥呼と日本書紀269』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月20日(水)12時14分34秒
  [承前]

エ 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)

〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の御子(みこ)の可美眞手命(うましまでのみこと)のことである。


オ 五十瓊敷命(いにしきのみこと)

 第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇子で、第十二代景行(けいこう)天皇の兄にあたる名門である。
 武具の製造を担当して、剣一千口をつくって《石上(いそのかみ)神宮》に納め、社宝を収める天神庫の管理を司った。
 晩年には妹の大中姫命(おおなかつひめのみこと)にその役職を譲ろうとしたが、姫命は女性の身で倉に登るのは困難だとして辞退し、物部(もののべ)氏に譲ったとされている。
 この五十瓊敷命を祭神とした神社が岐阜市などにある。
 一千口もの剣を収納した神社は珍しいが、武器庫としての性格がわかる伝承である。


カ 白河天皇

 第七十二代、平安後期の天皇で、《石上神宮》を深く崇敬されて拝殿を寄進されたりしたので、祀(まつ)られている。


キ 市川臣命(いちかわおみのみこと)

 第五代孝昭天皇の皇子の子孫で、春日臣(かすがのおみ)の一族。
 第十一代垂仁天皇の時代から《石上神宮》に仕えた。その子孫は布留宿禰(ふるのすくね)と称し、物部氏を補佐して長く祭祀(さいし)をつとめた。

 以上の祭神でもわかるように、宮中に関係する宝剣の類はほとんどこの神宮の神庫に奉祀(ほうし)されてきたし、また実際に使用するための一千口もの剣も神庫に保管されてきた。
 また〈饒速日命〉の「十種の神宝(とくさのかむたから)」のように武具以外の神宝も奉祀されてきた。
 この他、帰化王子の天日槍(あめのひほこ)が運んできた朝鮮の宝物もここで保管したと伝えられている。

 そういうことなので、当然のことながら、〈神功(じんぐう)皇后〉の五十二年に百済(くだら)国の王から貢献された有名な「七枝刀(ななさやのたち)」や「七子鏡(ななこのかがみ)」もここで保管したであろう。
「七子鏡」とはたぶん、周囲に小さな六つの鏡が付属した特殊な形状の鏡であろうが、これは残念ながら不明となっている。

 しかし「七枝刀」は奇跡的に伝世されて、現存している。
 神宮では「六叉鉾(ろくさのほこ)」と呼び伝えてきたが、刀に刻まれた銘文には、「七支刀(しちしとう)」とあるので、現在ではこれが正式の名称となっている。

[つづく]
 

フルベの祓い(トクサのオオ払い)  投稿者:えこね  投稿日: 9月20日(水)09時04分9秒
  参考に。。。

 布留倍之祓(十種大祓)
高天原ニ神留座ス皇神等鑄顕給フ十種瑞津ノ寶ヲ以テ
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊ニ授給事誨テ曰
汝此瑞津寶ヲ以テ中津國ニ天降リ蒼生ヲ鎮納ヨ
蒼生及萬物ノ病疾辭阿羅婆
神寶ヲ以テ御倉板ニ鎮置テ魂魄鎮祭ヲ為テ
瑞津寶ヲ布留部其ノ神祝ノ詞ニ曰
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸一ニ三四五六七八九十
瓊音布留部由良由良如此祈所為婆
死共更ニ蘇生ナント誨給フ天神祖御詔ヲ禀給テ
天磐船ニ乗リテ河内國河上ノ哮峯ニ天降座テ
大和國排尾ノ山ノ麓白庭ノ高庭ニ遷座テ鎮齋奉リ給
號テ石神大神ト申奉リ
代々神寶ヲ以テ萬物ノ為ニ布留部ノ神辭ヲ以テ司ト為給フ
故ニ布留御魂神ト尊敬奉皇子大連大臣其神武ヲ以テ
齋ニ仕奉給フ物部ノ神社天下萬物聚類化出大元ノ神寶ハ所謂
瀛都鏡邊都邊八握生劍生玉死反玉足道反玉
蛇比禮蜂比禮品品物比禮 更ニ十種神
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸一ニ三四五六七八九十
瓊音布留部由良ト由良加之奉ル事ノ由縁ヲ以テ
平ケク所聞食ト命壽遠子孫繁栄ト常磐堅磐ニ護給ヒ幸シ給イ
加持奉神通神妙神力楫
 伏見区深草藪之内 風祥堂
 

時事・芸能ニュース  投稿者:えこね  投稿日: 9月19日(火)18時17分18秒
  北朝鮮へ制裁発動(日米)
  http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=104&pointer=1&log=present&cnt_flag=true

教祖の死刑が確定(オウム真理教)
  http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=105&pointer=1&log=present&cnt_flag=true

女優が自サツ未遂!(野球選手とモツれ)
  http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=106&pointer=1&log=present&cnt_flag=true
 

『卑弥呼と日本書紀268』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月19日(火)11時26分24秒
  [承前]

イ 布留御魂(ふるのみたま)大神

 神武(じんむ)東征の前に河内(かわち)に降臨して《大和(やまと)》の地に進出した〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉は、第六章で記したように高天原(たかまのはら)の天津神(あまつかみ)から「十種の神宝(とくさのかむたから)」を授(さず)けられた。
 二面の鏡、剣、四種の玉、邪悪なものを打ち払う三種の布帛(ふはく)からなる神宝である。
 このとき天津神(あまつかみ)は、

「もし痛むところあれば、この十宝を、一二三四五六七八九十(ひふみよいつむななやこのとお)と言いて振るえ。ゆらゆらと振るえ。かくなさば、死りし人も生き返らん」

 ――と教え諭(さと)した。

 これは物部(もののべ)一族の祭祀(さいし)の一つの形らしいが、「振るえ」は原文では「布瑠部」で、これが地名・川名・社名にある布留の語源である。
 この「十種の神宝」が布留御魂で、〈饒速日命〉が帰順してから、その御子(みこ)の可美眞手命(うましまでのみこと)が神武天皇に献上し、神武即位元年に天皇皇后の長寿祈願に用いられた。
 これは鎮魂祭の始まりとされている。

 この十宝は歴代天皇の宮中にあり、先の布都御魂(ふつのみたま)の御前に奉祀(ほうし)されていたが、崇神(すじん)天皇七年に、布都御魂と同時に《石上(いそのかみ)神宮》に遷され、祭神となった。
 なお本章トビラ裏(前掲)の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌にある「袖布留山(そでふるやま)」は、袖を振るの「振る」とこの「布留」をかけた有名な歌で、歌碑が建てられている。


ウ 布都斯魂(ふつしみたま)大神

 この大神も神剣の霊である。
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国(いずものくに)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに使った剣は十握剣(とつかつるぎ)といわれる大振りの剣だが、この剣は「三種の神器(みくさのかむたから/さんしゅのじんぎ)」の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を大蛇から取り出すのに役立った霊剣でもあるので、その御霊威を讃えて、布都斯魂大神として奉祀され、祭神となった。

 つまり、古代神話に出てくる著名な神剣のうち、「三種の神器」となった草薙剣以外はすべてこの《石上神宮》に奉祀されたわけである。
 武器庫としての役割をもつ神社にふさわしい祭神であるし、また大和朝廷が対抗者〈饒速日命〉の後裔を名乗る物部一族の帰順に腐心していた実情を読み取ることもできる。

[つづく]
 

何処  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日: 9月18日(月)17時59分38秒
  >極東「某国」の軍関係者が、東南アジア「某国」に出向(表向きは休職又は退職扱い。帰>国後、軍籍復帰)し、自国式の軍事教練を現地軍兵士に対して行っています。(電子機器>は極東「某国」製を導入。軍服も極東「某国」のデザインに類似) 又、インドネシアに>対して「某国」の巡視船が3隻供与される等、水面下の軍事交流は意外と活発です。その>様に考えると、我々が考える以上に、日台両国の軍事交流も進捗してい るのかも知れませ>んが・・・

極東某国って何処ですか?日本ですか?
軍服について私は詳しいですが日本に類にするところはありませんし
 何を根拠に言っている恩かがわかりm線ね
 

『卑弥呼と日本書紀267』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月18日(月)12時25分21秒
  [承前]

◆◆◆ 《石上(いそのかみ)神宮》の祭神 ◆◆◆

 さて、その『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』と『日本書紀(やまとのふみ)』、および神宮の解説書(引用文献参照)を元に、御祭神について記してみる。
 三柱(みはしら)の主祭神はすべて剣と神宝の霊である。

主祭神
  布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
  布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
  布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
配祀神
  宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
  五十瓊敷命(いにしきのみこと)
  白河天皇(第七十二代の天皇)
  市川臣命(いちかわおみのみこと)


ア 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)

 この神宮の最高位の主神である。
 第六章で記したように、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉らが〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉または〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉に国譲りを説得したとき、高天原(たかまのはら)から派遣された神が剣の切っ先にあぐらをかいて談判したのだが、その時の剣の名がフツノミタマとされている。
『日本書紀』や『先代旧事本紀』では韴靈という文字をあてている。
 その別字が布都御魂であり、その霊威を讃(たた)えて布都御魂大神と称している。
 この霊剣はそののち高天原に帰ったが、やはり第六章にあるように、神武(じんむ)東征の際の危機を救うために〈天照大神〉から神武天皇に与えられた。

 神武天皇は即位後、これを〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の御子(みこ)である可美眞手命(うましまでのみこと)に命じて宮中に奉斎させた。
〈饒速日命〉一族が帰順したことへの一種の恩賞である。
 第十代崇神天皇の六年に「三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)」のうちの「神鏡」と「神剣」が宮中から移されて檜原(ひばら)神社(元伊勢)に奉斎されたが、その翌年の七年になって勅命がおりて、こちらの剣・布都御魂も宮中外に祀(まつ)ることになり、物部(もののべ)氏の先祖の一人の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が拝命して、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)という地――つまり現在の《石上神宮》の地――に主神として奉祀(ほうし)した。
 これが《石上神宮》の創建伝承である。

[つづく]
 

意味不明  投稿者:  投稿日: 9月17日(日)14時52分43秒
  ニセ仙台人 と ニダヤじん

『独り言 ver2.0 by 江古根』
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1156734070&rs=140&re=151&fi=no

ねぇ、ねぇ、知ってる?知ってる?

虜乱(華夷思想による事大主義の衛正斥邪(えいせいせきじゃ))と斥明派(北学・老論→実学・星湖学派・開化党)
邪獄や教獄(天主教を焚書坑儒(ふんじょこうじゅ)する迫害と弾圧)・斥倭洋昌義と東学(とんはく)

門中の祀壇(そだん)や生家の祀宇(さう)で童蒙先習(とんもんそんすぷ)
性理説の儒学と
匙作法の茶礼(タレ)やトンチミ(漬物)とチョンゴル(鍋物)
補身湯(ぽしんたん)や参鶏湯(さんげたん)や人参茶で匙(さじ)を使う
チョッカラ(箸で銅製しかない)は使わない

香徒契(ひゃんどげ)と棺担ぎチゲと風水埋葬
秋夕(ちゅそく)の祭祀(ちぇさ)と族譜(じょくぷ)
弥勒と真人(ちにん)・巫壇(むーだん)とクッ(祀)・オオギと恨サラムの違い
チェリル将軍の忠義と仁祖王や、
イムギョンオプ将軍と草の生えない赤い墳墓に李桂成(太祖)とか

王弟(太宗)の己亥東征(対馬島征伐)と
王世子(世宗)の崇儒尊文(儒教国教)
掌奴院(ちゃんれうぉん)と宣化堂(そんふぁだん)とか大監(てかん)とか
良人(両班[やんばん]・任[にむ・長老])
常奴(さんのむ・奴婢[のび]・チゲ)
妓生(キーセン)と三田渡(さんじょんど)受降壇と三跪九叩頭礼
官庭発悪罪とか、偽将の首で功を挙げるとか。

日本と確実に違う所の説明。韓国人が朝鮮文化を説明紹介できる部分。
 

『卑弥呼と日本書紀266』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月17日(日)12時47分8秒
  [承前]

 西側の河内(かわち)方面から《大和(やまと)》に入り込んだ〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉一族らと南東の吉野山地から入り込んだ大和朝廷との軋轢(あつれき)を連想するが、〈饒速日命〉の子孫を自負する物部(もののべ)一族の勢力範囲は、いまの天理市にある《石上(いそのかみ)神宮》の周辺であったらしい。
〈饒速日命〉が河内に降臨してそこから《大和》に進出したことや、争いの末、神武(じんむ)天皇に帰順したことは、すでに述べたとおりである。

 さて次に、《石上神宮》の御祭神について記すことにするが、その由緒が記されているのは、『日本書紀(やまとのふみ)』よりもむしろ『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』である。
 この史書は、序文に聖徳太子や蘇我馬子の撰と読める記述があるために、昔は『記紀』よりも古いと信じられてきたが、江戸時代からの研究によってそれは誤りであり、平安初期の成立であることが分かった。

 しかし内容的には、『記紀』にはない古い伝承が含まれており、かつ物部一族の先祖についての記述に詳しいことから、物部一族の誰かが、『記紀』における物部関係の記述の少なさに不満をもち、『記紀』編纂の前からあった家伝を元に著したのであろう――とされている。

 もちろん朝廷への遠慮もあったろうから、『記紀』を攻撃するようなところは無いが、《石上神宮》や丹後の籠(この)神社など〈饒速日命〉系の古い神社に残る言い伝えとも矛盾しないようである。
 自分たち一族が軽視されたことへの不満を史書の形にした点では『古語拾遺(こごしゅうい)』と似た意思によって書かれたように考えられる。

[つづく]
 

旧宮家  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 9月16日(土)15時55分9秒
   やっと・・・メジャー政治家の発言として表面に浮いてきたか♪ 旧宮家の皇籍復帰は本当の意味で「日本が占領され続けている戦後」の終焉(しゅうえん)が実現するんよ。

『安倍氏、旧宮家の皇籍復帰検討示唆』 by ニッカンスポーツ
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060915-90434.html

安倍氏、旧宮家の皇籍復帰検討示唆

 安倍晋三官房長官は15日午後、女性、女系天皇を容認する政府の有識者会議最終報告に基づく皇室典範改正作業の見直しもあり得るとの考えを表明した。その上で男系男子皇族による安定的な皇位継承の実現に向け、旧宮家の皇籍復帰や旧皇族の男子による現宮家の継承を検討課題として挙げた。次期首相最有力の安倍氏の発言だけに、今後の論議に大きな影響を与えるのは確実だ。

 フジテレビ番組の収録で語った。ただ、旧宮家の復活などをめぐっては、戦後皇室から離脱した旧皇族には国民の親近感が乏しいなどの指摘があり、有識者会議が退けた案。実現を疑問視する声が強いが、次期政権による有識者会議報告書の事実上の“棚上げ”につながり、「朝令暮改」との批判を受けそうだ。

 安倍氏は父方に天皇を持つ男系の女性天皇については「今までも(皇位の継承は)あった」と容認する姿勢を示した。一方、女性天皇の子供である女系天皇に関しては「ずっと男系できた伝統をすぐに変えるのかどうか慎重になるのは当然だ」と、男系維持が望ましいとの考えを強調。「皇位の安定的継承の基盤をどうするか慎重に議論するべきだ」と述べた。

 さらに「旧宮家が復活したり、今の宮家を継ぐ形での皇室典範改正ができるのではないか」と指摘した。宮家の継承については、旧皇族男子の養子などを念頭に置いているとみられる。

 皇室典範に関する有識者会議は昨年11月、皇位継承資格を女性とその子供である女系皇族に拡大するとともに、継承順位は男女を問わず天皇直系の長子(第1子)を優先するとの報告書を小泉純一郎首相に提出。しかし、秋篠宮妃紀子さまの懐妊で皇室典範改正案の国会提出は見送られ、先の男子出産で自民党内では慎重論が大勢となっている。

[2006年9月15日19時20分]

 

『卑弥呼と日本書紀265』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月16日(土)11時34分1秒
  [承前]

 この《石上(いそのかみ)神宮》は大和(やまと)朝廷の成立と密接に関係するといわれ、日本最古の神社の一つであり、図5.3でわかるように、大和朝廷発祥の地《三輪山》山麓に隣接し、山麓とは日本最古の公道「山の辺(べ)の道」で結ばれている。
 創建は第十代崇神(すじん)天皇七年、天皇の勅令によるとされ、実紀年研究によれば三世紀半ばと推定されている。
 すなわち〈卑彌呼〉晩年の時代である。

 この古さは、崇神天皇六年とされる《檜原(ひばら)神社》(伊勢神宮の元となった神社)や《大和(おおやまと)神社》、崇神天皇が初めて祭祀(さいし)をなされた《大神(おおみわ)神社》の社殿(信仰そのものはずっと古い)など《大和》の著名古社とほぼ同じであり、大和朝廷が正式に認めた神社としては名実ともに日本最古のひとつである。
《石上神宮》を含めたこの四社のうち檜原神社を除く三社までが最高格式の官幣(かんぺい)大社である。
 檜原神社も《大神神社》の摂社となっているから、官幣大社に準じている。

 この《石上神宮》に勅命によって初めて祭神を奉祀したのは伊香色雄命(いかがしこおのみこと)だが、この命はかの〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫であり、したがってまた物部(もののべ)一族の祖の一人である。
 このことから、《石上神宮》の祭祀は代々物部氏が預かることになり、物部一族の総氏神(うじがみ)となったが、元来物部一族は軍事を担当しており、したがって《石上神宮》は自然に武器庫の役割を果たすようになったといわれている。

 図7.7は、古代の《大和》の豪族の勢力範囲のおおまかな地図で、桜井市編『わがまち桜井』所載の岸俊男作成の図を参考にしている。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm


[つづく]
 

『悠』という文字  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月15日(金)12時53分17秒
   悠仁(ひさひと)親王殿下の『悠』の字の由来について、白川静先生の『字統』で調べてみました。
『悠』の音は「心」から上の部分の「攸」からきているそうです。
 この「攸」とは、
「人の背後に水をかけてあらう意味で、身を清めること、みそぎをすることをいう」
 ――そうです。
 で、それに「心」がついたのが『悠』ですが、これは、
「みそぎをおえて心が伸びやか安らかになった状態」
 ――だそうです。
 そこで、
「心が伸びやか安らかになればその想念もはるかだから、悠久、悠遠のような時空の表現になった」
 ――ということらしいです。
 なるほど、新親王殿下にふさわしい、素晴らしい文字ですね。
 

『卑弥呼と日本書紀264』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月15日(金)11時53分46秒
  ■■■■■ 七・十一 《石上(いそのかみ)神宮》の七支刀――〈神功(じんぐう)皇后〉実紀年の推理―― ■■■■■

(注意――
 本連載の写真や図面類は、すべて引用もとの許可を得て掲載している。
 たとえば、本節の「七支刀」はじめ《石上神宮》関連の写真も、石上神宮の社務所の許諾を得た上での掲載である。
 石上神宮社務所のお話しでは、写真を反日活動に使用する左翼史家がいて困るそうである。
 伊勢神宮、大神(おおみわ)神社などについても同じである。
 なお本節では写真だけでなく解説の文章についても石上神宮社務所にあらかじめお送りして校閲を受けている)


◆◆◆ 《石上神宮》の場所と歴史 ◆◆◆

《大和(やまと)》の地理をいくつかの方法で図示した図5.1〜3、とくに図5.2をごらんいただきたい。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 大和川の支流のひとつに、笠置(かさぎ)山地から流れ出る布留(ふる)川がある。
 奈良盆地の中央東寄りを流れているが、この布留川を遡ると、天理の市街を斜めによぎって山地に入るあたりの南岸に幽玄な地があり、そこに古式ゆかしい神社が鎮座している。
 百済(くだら)王が〈神功皇后〉に献上したと『日本書紀(やまとのふみ)』に記されている「七枝刀(なささやのたち)」そのものが奇跡的に宝殿に伝世されてきた《石上神宮》である。

 図7.6に境内(けいだい)と拝殿の写真を示すが、境内には神鶏が遊び、荘厳な拝殿はそれ自体が国宝であって、神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる趣(おもむき)がある。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 この神社は石上振(いそのかみふる)神宮と呼ばれたり、石上布都御魂(いそのかみふつのみたま)神社と呼ばれたり、また布留社(ふるのやしろ)と呼ばれたりしていたが、現在では《石上神宮》が正式名称になっている。
 昔の神社の最高の格式である正一位(しょういちい)官幣(かんぺい)大社である。
 石上も布留も神社名であるとともに鎮座地の名にもなっており、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)が伝承されるその土地の名前だが、「布留(ふる)」という奇妙な名は、後述するように「振る」から来ているらしい。

[つづく]
 

^^  投稿者:^^  投稿日: 9月15日(金)11時52分1秒
  test  

Re:『素晴らしい御印』  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 9月14日(木)16時10分20秒
   高野槇・・・英名では「Japanese Umbrella-pine」

そのUmbrella=傘・・・は庇護という意味合いがあります。



したがって日本の、庇護する巨木ととも受け取れますね♪


高野の伝統を守り伝える人々A
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren11/2_special2.html
 

『素晴らしい御印』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月14日(木)13時39分29秒
  (前に似たことを書きましたが、あわてて書いたので内容が不十分でした。改訂して再掲いたします)

 私も命名の儀の報道に接しまして、感激いたしました。
 なんという素晴らしい御名(おんな)『悠仁(ひさひと)』様と御印(おしるし)『高野槇(こうやまき)』でしょうか!
 じつに考え抜かれた御名であり御印であると拝察いたします。
 私は植物についても考古学についても素人(しろうと)ですが、知るところを少し記します。

 現在の考古学において、遺跡の年代を確定する最善の方法は「年輪年代法」だと言われています。
 日本では考古学者の光谷拓実氏(奈良国立文化財研究所)が開発したのですが、これは、遺跡から発掘される木材の年輪のパターンから、その木材が伐採された年を知る方法です。
 古代までの年を知るためには、古代から数多く使われてきた樹木を選ばねばなりませんが、光谷氏が選んだのは、
「杉、檜(ひのき)そして高野槇」
 ――でありました。
 つまり、高野槇とは、杉や檜とともに、古代から数多く使われてきた優れた樹木なのです。
 古代の遺跡から多数出土しているそうです。
 樹高は数十メートルにも達し、幹も太く、直立する巨木ですから広い用途を持ちますし、湿気に強いという特徴もあります。
 光谷氏の研究を読んだのは、もう七年も前のことですので、今では格段に進歩いるでしょうが、この高野槇の年輪パターンは、その時すでに神武(じんむ)天皇の時代にまで溯(さかのぼ)って判明していたようです。
 すなわち高野槇とは、杉や檜とともに、古代大和(やまと)朝廷や古代の日本を支えてきた巨木なのです。

 付記しますと、光谷氏による高野槇などの研究から、日本の古代史は刷新されており、従来言われてきたよりも遙かに古いことが分かってきたそうですし、日本書紀(やまとのふみ)の史実性も次々に判明しているそうです。

 この御印『高野槇』からだけでも、秋篠宮殿下妃殿下のお気持ちが伝わってまいります。
 

『卑弥呼と日本書紀263』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月14日(木)13時04分58秒
  [承前]

 古代の皇統にかんしては、第十代崇神(すじん)天皇、第十五代應神天皇、第二十六代繼體天皇という王朝がその前と交替したのだ――という水野祐らによる三王朝交替説があるが、これに反対する良心的な学者も多い。
 たとえば南原次男は、この説の矛盾点を例示して、水野祐に何度も質(ただ)したが、ついに何の返事も無かったそうである。
 また南原が水野の早大における講義を連続して聴講したところ、王朝交替説の話は一度もしなかったそうである。
 その後水野は、王朝交代説は夢が元だった、と学生達に語ったといわれる。

 著者の常識でも、皇統が完全に断絶して入れ替わったとは、とても考えられない。
 遠縁の人物が入り婿(むこ)の形で大和(やまと)朝廷直系の妃(きさき)を娶(めと)って後継になったという考え方ならまだ分からないでもないが、断絶して新しい王朝をきずいたのだとしたら、日本中が騒然としただろうから、その証拠が豪族の家伝や神社の古文書や歌集などにたくさん残っている筈だし、自身の先祖を美化するとともに大和朝廷を歴史から消そうとしたであろう。
 しかしそのような史料はなにも残されていない。

 だから、『記紀』のとおり應神天皇自身も血のつながりが有り、〈神功(じんぐう)皇后〉も実在して夫の天皇の代わりに大活躍した可能性が強いのではないだろうか。

 このように考えてくると、最近の左翼系の学者による三つの主張、

(一)〈神功皇后〉はまったくの虚構である。
(二)任那(みまな)はまったくの虚構である。
(三)皇統の継続性はまったくの虚構である。

 ――は、牽強付会のように思える。
 常識を捨ててイデオロギー的結論を先行させているように思えてならない。

 とにかく以上が〈神功皇后〉を中心とした三代紀の概要である。

**********

 さて、これで〈神功皇后〉とその前後の『日本書紀(やまとのふみ)』の記事の説明を終わり、つぎに〈卑彌呼〉との対応を考えることになるが、その前に、〈神功皇后〉や應神天皇の時代の実年代を推定する強力な根拠となる《石上(いそのかみ)神宮》の国宝「七支刀(ななつさやのたち)」について、すこし詳しく触れておくことにしよう。

[次ぎは「第七・十一節 《石上神宮》の七支刀――〈神功皇后〉実紀年の推理――」]
 

半島の生活会話言語の変化(入れ替わり時系列)  投稿者:えこね  投稿日: 9月14日(木)05時33分51秒
  最初の原住で
 韓の言葉・ワイ・ヨクソ・高句麗・バク・夫余・鮮卑などの言葉が個別にある

AD246年(韓の滅亡)
 夫余(高麗)の言葉

AD665年(白村江の戦いの後、泰山の5か国の盟約)
 渤海(マッカツ・女真・満州)の言葉

AD900年(新羅から分離した泰封国の成立)
 契丹(安禄山のカツ族(蒙古の別種)・奚族・鮮卑族壇君)の言葉

AD930年(朴氏新羅(渤海国)滅ぶ・契丹(遼国)の東丹国の時代)
 女真の言葉
 

脈絡なく大化の改新・白村江の頃の  投稿者:えこね  投稿日: 9月14日(木)05時23分51秒
  AD246年 韓の言葉
AD665年 夫余(高麗)の言葉
AD900年 渤海(マッカツ・女真・満州)の言葉
AD930年 契丹(安禄山のカツ族(蒙古の別種)・奚族・鮮卑族壇君)の言葉

ようは、現代韓国語は、満州と鮮卑と遼西の漢人の言葉の入り混じり。
三韓や夫余(高句麗)の言語と全然違う。


辰韓斯盧国(辰韓サロ国)→斯盧城(シろキ)→シラギ(新羅)呼びに変化
新しい加羅国(新しい任那・ようは新羅のこと)
新羅の言葉は、辰韓である辰語ではなく、高麗(高句麗)の言葉です。

AD244〜246年、楽浪太守劉茂により辰韓が滅ぶ(辰語は使わなくなる)
       三国志魏明帝(曹叡)の時のカン丘倹将軍の高麗討伐で
       高句麗族(高麗人)が辰韓の地へ逃げ辰韓改め新羅となり
       辰韓の地では高麗の言葉をしゃべる。


帯方郡役所へ、倭人の邪馬台国の卑弥呼・壱都が朝貢。
帯方太守劉夏
帯方太守弓遵・楽浪太守劉茂(AD244〜246年)三韓の支配者が滅び民は高麗の言葉に切り替え。
帯方太守??・楽浪太守張統(AD313年)が遼西の鮮卑族慕容氏の前燕国に亡命し楽浪滅亡
辰韓は無く新羅が高麗(高句麗)の言葉を喋る。
百済と加羅任那の時代に突入。(伽耶という地域名や国など無く、歴史の後知恵の作り話)


支配者が替わり、入れ替わった支配者の言語を支配された地の民が喋る。
民族の下層民の血筋・身体特徴が変わらなくても、
下層民は言語を替え、異文化に生活を変えて生き残る。


>新しい加羅国(新しい任那・ようは新羅のこと)
蓋の国(山海経) → 韓の地域(三国志) → 加羅の地域(南斉書)
 → 加羅の地域のうち新しい城が一つ有る(隋書の新羅の説明・高麗人達の亡命事件)
加羅の土地に亡命移住した高麗人(高句麗族)が建てた新しい城が出来た(新羅城・シロキ)


西暦665年の8月に
マッカツ(女真の祖先)の夫余隆と新羅王の金法敏は
(十年前の)655年に百済王都を治める熊津都尉でマッカツの夫余隆が
新羅の北部30余城を占領した事件である古い怨みを赦し去るように
唐の皇帝(上様)に言われた(命令があった)。
それは百済王都であった熊津城で同盟した時の事である。

この時に百済を征伐した唐の遠征司令官の
劉仁軌が新羅・百濟・耽羅・倭國の使者を伴(とも)なって
海路を(海に浮かびて)長安の都である
西に向かって帰還する途上で
山東半島の泰山という中国古来の霊場での
祀り(祠し)に参加させ 和平の会合を[使者たちに]させた。

これから高句麗(高麗)を討伐する遠征[が予定]で
4か国の使者に祭りさせ平和同盟させた[い]から会集させたのに
[なぜか]どっから嗅ぎ付けた[の]か
呼びもせぬ高麗が 様子を見に([偵察に])
次期王様の王子(太子)の福男を派遣して
祭りの様子を見に参観し(侍り)にきた。

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1157210732/985
 

『卑弥呼と日本書紀262』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月13日(水)12時53分59秒
  [承前]

◆◆◆ 虚構説・皇統断絶説への反論 ◆◆◆

 應神・仁徳(にんとく)天皇の系列は、〈神功(じんぐう)皇后〉の夫――つまり應神天皇の父親――である仲哀天皇の影が薄いために、いろいろな説があり、皇統がいったん断絶したのだという説さえある。
 しかし、旧家に嫁いだ女性が才能豊かで、真面目(まじめ)だが戦略眼の無い亭主の代わりに活躍してその旧家を隆盛に導く――といった話は、いまでもありふれている。
 したがって『記紀』の物語は、べつだん不思議な事でもなんでもないであろう。

 事績はとうぜん美化されているし、神話的な表現も多用されていて超人的ではあるが、〈神功皇后〉の物語は『記紀』にあるだけではない。
『風土記(ふどき)』にも『万葉集(まんにょうしゅう)』にもたくさんあるし、朝廷に異論を持つ人たちが書いたらしい『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』や『古語拾遺(こごしゅうい)』にもある。
 また住吉大社や籠(この)神社などの極秘古文書にも記されている。

 籠神社の古文書(国宝『勘注系図』)などは、『記紀』に反する内容――饒速日命(にぎはやひのみこと)系重視の内容――をもっているため、朝廷に見つかるのは拙(まず)いとして、じつに昭和五十一年になるまで公開されなかったのだが、それにすら〈神功皇后〉に従って半島に遠征し恩賞を得た話が記されているのだ。

『記紀』などの史書が編纂されはじめた奈良時代初期の朝廷はかなりの権限を持ってはいたが、まだまだ日本中に簡単にはいいなりにならない豪族がたくさんいたし、朝廷に従属しない独立心旺盛な神社もたくさんあった。
 内戦すら珍しくはなかった。

 そのような時代にあって、あらゆる史料に架空の女帝の業績を書き入れよとか、架空の女帝を讃(たた)える和歌をつくれ――といった命令を下して、それを日本中が忠実に守るといったことがあり得るだろうか?
『万葉集』の多くの歌など、じつに自然に地方に残る〈神功皇后〉伝説を詠み込んでいるのだ。

 藤原道長や平清盛や源頼朝が全盛だった時代でも、そんなことはできなかった。
 中央集権が徹底した江戸時代・大東亜戦争中・占領下でさえ、そんなことはできなかった。

[つづく]
 

旧宮家のこと  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月13日(水)00時37分43秒
  竹下義朗さま
資料をありがとうございます。
ご提示された竹田家の資料は、たしか前にこの掲示板でも教えていただきまして、私のノートにも記録されているのですが、それ以外のことが、なかなか分からないのです。
 つまり、現在まで男系が続いておられる旧宮家の、
「今後お子様が誕生になる可能性の高いご夫婦」
および
「若い独身の男性の方」
 が、どなたとどなたなのか――という事なのです。
 また、11の旧宮家――
伏見宮
閑院宮
山階宮
梨本宮
北白川宮
久邇宮
賀陽宮
東伏見宮
竹田宮
朝香宮
東久邇宮
 の中で、どの旧宮家が、上記のような可能性のある男系を継続しておられるのでしょうか?
 

萬歳!萬歳!萬萬歳!!!  投稿者:えこね  投稿日: 9月12日(火)23時53分44秒
  御皇室・旧皇族・宮家方の御繁栄を願い新親王殿下の命名を奉賛いたします。恐々縮々。  

でたらめな返事かも  投稿者:えこね  投稿日: 9月12日(火)23時50分5秒
  > ウイング様へ

そうですね。 9月 9日(土)以来でした。

スマップのフェミ二ズム振りの記事が判らないので何とも言えません。

ただ、記事が無いのに思いつきで言えば、メンバーから言って女性的なのは否めません。ジャニーズ系は女性的です。で。ジャニーズ系は湘南あたりのホスト宣伝・男性顔写真ポスターの少年の顔同様、ショータロー・コンプレックス(ロリコンの女性版・オバハンの美少年マニア)の事だと思っているので、まあ彼らが逆に客受け的にフェミであるのでしょう。
 ↓
中居正広(なかい まさひろ、1972年8月18日- A型)イメージカラーは青。
木村拓哉(きむら たくや、1972年11月13日- O型)イメージカラーは赤。
稲垣吾郎(いながき ごろう、1973年12月8日- O型)イメージカラーはピンク。
草g剛(くさなぎ つよし、1974年7月9日- A型)イメージカラーは黄。
香取慎吾(かとり しんご、1977年1月31日- A型)イメージカラーは緑。
脱退
森且行(もり かつゆき、1974年2月19日- B型)イメージカラーは白。

グループ名は「Sports Music Assemble People」の頭文字から取られた。
意味は「運動と音楽を融合する人々」。
 

補足  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月12日(火)22時11分33秒
   さきほどはちょっと不十分でした。
「光谷拓実氏などの研究によって」
↓↓↓↓↓
「考古学者・光谷拓実氏などの高野槙(こうやまき)などについての研究によって」

 つまり、「高野槙」という御印(おしるし)だけでも、秋篠宮殿下妃殿下のお気持ちがいたいほど伝わってきます。
 

RE:旧宮家の件  投稿者:竹下義朗  投稿日: 9月12日(火)21時47分58秒
  オロモルフさん

>たしか本をお書きになった竹田恒泰様は竹田家の分家のご子息だったと思います。

竹田恒泰氏は竹田宮二代恒徳(つねよし)王の三男、恒和氏の御長男です。

北白川宮能久親王────竹田宮恒久王──恒徳王───┬恒正──恒貴
(輪王寺宮・東武皇帝)         (皇籍離脱)│
                          ├恒治─┬恒昭
                          │   │
                          │   └恒智
                          │
                          ├恒和─┬恒泰
                          │   │
                          ├素子 └恒俊
                          │
                          └紀子
 

RE:親王殿下御生誕を心よりお祝い申し上げます  投稿者:竹下義朗  投稿日: 9月12日(火)21時30分43秒
  八神邦建様

こちらこそ、お久し振りです。
お元気そうで何よりです。

>国民の中の心ない一部のマスコミや学者や政治家たちが、どんなに日本の国体(国柄)を
>傷つけようとしても、皇室は不滅の大粒ダイヤモンドであり、ほかのいかなるものによっても、
>傷つけたりこわしたりはできません。こわそうとすれば、逆にダイヤモンドの硬さによって、
>ぶつかっていった者どもの方が砕(くだ)けて自壊します。

正にそうですね。
女性・女系による皇位継承を認める、小泉総理による国会への皇室典範改正法案上程の直前に、紀子妃殿下の御懐妊が発表され、お生まれになった新宮様が、父君(ちちぎみ)である秋篠宮殿下御降誕以来、実に41年ぶりの親王殿下であり、更には皇太子殿下、秋篠宮殿下に次ぐ皇位継承第三位とは、何かしらの運命を感じずにはおれません。これも矢張り、皇室の持つ「天命」なのでしょう。

この様な皇室を戴(いただ)く国の臣民に生まれた事を、心から誇りに思います。
 

RE:新親王殿下のお名前とお印は素晴らしい!  投稿者:竹下義朗  投稿日: 9月12日(火)21時22分43秒
  まだ気の早い話ではありますが・・・天壌無窮(てんじょうむきゅう)にも繋(つな)がる「悠久」の「悠」と、皇族男子の御名に必ず用いられる「仁」からなる「悠仁(ひさひと)」の二字は、将来、陛下となられる御方の御名としては、これ以上無い程、相応しく思います。

これから先、悠仁親王殿下がお健やかに御成長なされると共に、皇室の弥栄(いやさか)を切に願って居(お)ります。
 

新親王殿下のお名前とお印は素晴らしい!  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月12日(火)17時07分50秒
   命名の儀が執(と)り行われたとの報道。
 お名前の「悠仁(ひさひと)」は皇室の悠久の栄えを願う秋篠宮殿下妃殿下のお気持ちがこもっていて素晴らしいと思います。
 またお印の「高野槙(こうやまき)」は、日本に古来からある大木で、古代天皇の皇宮や古代の神社の社殿に、この高野槙が使われていた可能性が高いと思います。
 杉、檜(ひのき)と並んで、もっとも古くから数多く使われてきた日本古来の直立の大木。
 考古学の最先端の技術といわれている「年輪年代法」によれば、遺跡から出土する高野槙は、年輪が判読できれば、その伐採された時代が、神武天皇の時代にまで溯(さかのぼ)って判明するといわれています。しかも年単位、あるいは季節単位でわかるそうです。
(光谷拓実氏などの研究によって、日本の古代史は大幅に改訂されつつあります。つまり、これまで言われてきたよりも遙かに古いことが分かりつつあり、かつ、日本書紀(やまとのふみ)に書かれている古代の姿が史実である事が、つぎつぎに証明されております)
 ということで、じつに考え抜かれた御名(おんな)であり御印(おしるし)であると拝察いたします。
 

『卑弥呼と日本書紀261』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月12日(火)13時15分52秒
  [承前]

 高さこそピラミッドや始皇帝陵より下だし地下施設は不明だが、地表の面積では圧倒している。だんぜんたる世界一なのだ。
 しかもこの天皇陵の周辺に群臣たちの墳墓群があり、それらを含めると、仁徳(にんとく)天皇陵の場合、幅五キロ、長さ十キロにも及ぶとされている。
 現在の皇居のほぼ十倍である。

 古代の古墳群は荒廃と修復を繰り返しているので、造営時の姿がどうだったかについては、個々に発掘調査しなければいえないが、世界一の規模を持っていたことは間違いない。
 ついでながら仁徳天皇を継いだ履中天皇の御陵(ごりょう)もすぐそばにあり、墳丘長三七〇メートルに近く、仁徳・應神についで世界第三位である。

 これらの巨大前方後円墳の造営は、高度な技術が必要だったことはもちろんだが、財政的にも動員力的にも絶大な力を持っていなければ不可能である。
〈神功(じんぐう)皇后〉陵は應神天皇が、應神天皇陵は仁徳天皇が、それぞれ造営したものだし、仁徳天皇陵は生前から準備されていたとはいうものの履中天皇が造営したものである。

 だから次代の天皇の強力さを物語ってもいるのだが、それにしてもその威力が死後まで続いていなければ、このような巨大な墳墓をつくることは出来ないであろう。
 この世界一の前方後円墳だけでも、神功→應神→仁徳→履中→・・・の力がいかに強大だったかが分かるし、万単位での朝鮮出兵が可能だったこともうなずける。

 さらにその守護神の住吉神社は、大阪・九州など国内各地だけではなく、朝鮮やシナにまでつくられたという伝承がある。
 また、應神天皇を祀(まつ)った八幡宮(はちまんぐう)が数万というおびただしい数存在(*)することも、この天皇のよういならざる威力を証明している。

(* 前に記したと思うが、神道事典では八幡宮の数は稲荷(いなり)神社についで多いことになっている(約二万五千社)。しかし最近では、八幡宮の方が多いという資料もあるらしい。数え方にもよるのだろうが、應神天皇は今でも日本中いたるところに祭られている。稲荷神社の祭神は歴史上の人物ではないので、歴史上存在が明かな人物を祭神とする神社としては、八幡宮が最多である)

[つづく]
 

えこね様へ  投稿者:ウイング  投稿日: 9月12日(火)07時57分21秒
  御返事有難うございます。

話は変わりますがスマップってフェミ二ズムを気取っているアホですな。
 

宮家の話からハズレ済みません(別のネタ)  投稿者:えこね  投稿日: 9月11日(月)20時33分45秒
  > 帯方郡(ソウル・駒の国(コマの国))

帯水(漢江)流域を帯方と呼び、最初は「楽浪郡の」帯方県を置いた(BC108年)。
楽浪郡の屯有県より南側の楽浪郡を分割し「帯方郡(AD206年・300年後)」として漢人が夫余族(小水バク・バク弓で狩猟の部族・弓氏など)に与えた。
(馬韓だったし。と、中国人に自己紹介)

駒=馬=馬韓(韓の中で特に地域を区切って馬韓地域(コマの国)とした)

韓の中で小柄の「辰人と弁別」して大柄の鬼神を祀(まつ)る「弁辰」を「弁韓」と改称

「古辰国」があったので「辰韓」とした。秦の始皇帝の頃の秦の亡命人なので古秦だと言い「秦韓」ともいった。
(辰韓は秦韓かも?と、中国人に自己紹介)

『漢文等と仮説や解説等』
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1150653692/100-120
 

旧宮家の件  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月11日(月)12時49分10秒
  戦後皇族では無くなった11の旧宮家のうち、その後男系が途絶えた家系が六家あり、現在まで男系が継続しているのは五家のみ――という話を、どこかで読んだ記憶があるのですが、それはどことどこなのでしょうか?
また、男系が継続しているお家では分家がいくつか出来ていると思いますが、具体的にどうなっているのでしょうか?
たしか本をお書きになった竹田恒泰様は竹田家の分家のご子息だったと思います。
 

『卑弥呼と日本書紀260』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月11日(月)11時31分45秒
  [承前]

◆◆◆ 驚くべき巨大な前方後円墳 ◆◆◆

 以上が〈神功(じんぐう)皇后〉の皇子、應神天皇の御生涯であるが、この天皇がとてつもなく強大な権力を手中にしていたことは、造営した母親〈神功皇后〉陵の大きさからも、また自身の御陵が次代の仁徳(にんとく)天皇陵と並んで世界一の巨大さを持つことからも、よく分かる。
 應神天皇陵は現在は誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳といわれて大阪府羽曳野(はびきの)市にある。写真を図7.4の(b)に示した。

 またつぎの仁徳天皇陵は大仙(だいせん)陵古墳といわれて大阪府堺市にある。同図(c)である。
 この二つはいずれも大和(やまと)西部の山地を越えた場所にある。
 昔から河内(かわち)、和泉(いずみ)と呼ばれてきた土地で、おおまかな地点を図5.1に示してある。
 この二つの巨大前方後円墳の大きさを、日本以外の墳墓で最大とされるクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の陵と比較して示したのが図7.5である。

 仁徳天皇陵は、墳丘長が約四九〇メートル、周濠を含めると全長八六〇メートルもある。
 ほとんど一キロであり、面積は東京ドーム外周のほぼ十倍である。
 應神天皇陵もこれに次ぐ大きさを持っている。


図5.1は下記の下部
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

図7.4および図7.5は下記
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H72-75.htm


[つづく]
 

ネタ 2  投稿者:えこね  投稿日: 9月10日(日)19時33分22秒
    BC202〜AD008年 前漢
BC108年 楽浪郡設置(前漢武帝)

  AD025〜220年 後漢
AD206年 遼東国の公孫康(父が公孫度)が帯方郡を分設
(高麗(こま)と鮮卑(せんぴ)の間に居た夫余王尉仇台が公孫度(たく)の娘を嫁に貰い帯方郡へ百家済海)

  AD220〜265年 三国志魏
AD246年 高麗討伐・高麗が辰韓へ亡命・ワイ族が服属・東夷の韓が滅亡
(三国志魏カンキュウケン将軍の漢人・楽浪太守劉茂の漢人)

  AD265〜317年 西晋(三国志魏書東夷伝倭人条AD280年ごろ)
AD313年 楽浪郡滅亡(楽浪太守張統が遼西の前燕国の鮮卑族慕容氏へ亡命)
AD314年 帯方郡滅亡(夫余王尉仇台の子孫(百済←百家済海)が独立か?)

  AD383年    肥水の戦い(南北朝の衝突)
  AD317〜420年 東晋・AD420〜479年 宋・AD479〜502年 南斉
  AD351〜394年 前秦・AD386〜534年 北魏
  AD400年ごろ  高麗(高句麗・遼東)の好太王の頃
  AD436年    北燕国(遼西)馮氏の龍城が北魏により陥落・
       高麗(高句麗)が南斉の使者を無視し亡命した北燕国馮氏を暗殺
AD475年 魏虜(均田制の孝文帝の母の太皇太后・
          鮮卑族拓跋氏・北魏)が百済(楽浪)へ襲来・百済の将の沙法名が防ぐ
AD512年 新羅が国号と王号を名乗る

  AD589〜618年 隋・AD618〜907年 唐
AD655年 新羅が、高麗・百済・マッカツ(南女真・渤海)の3国に攻められ北部30余城を奪われる。
AD660年 百済が唐の奇襲で滅亡・百済大姓八族の沙相如や黒歯常之など豪族が蜂起
AD663年 白村口(白江口)の戦いでマッカツの夫余族の水軍(唐軍)に倭水軍が敗戦
AD665年 泰山の祠の4カ国(倭国・耽羅・百済・新羅)の盟約・
     百済が未だに唐の傀儡のマッカツ(南女真・渤海)の占領下にある。
AD668年 唐の遠征で高麗(高句麗)滅亡
 

ネタ(韓・百済は民族として滅亡、現在とつながりなし)  投稿者:えこね  投稿日: 9月10日(日)15時09分23秒
  遂に韓を滅ぼすAD244-246・
百濟(くだら)は靺鞨(まっかつ/南満州人夫餘氏・渤海人)の所分 AD660-

『三国志 魏書』烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷傳−韓条 晋陳寿選
 吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。
 時太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵伐之 遵戰シ 二郡遂 滅韓。
『通典』邊防東夷上百濟新羅倭國 唐杜佑撰
 百濟 大姓有八族:沙氏 燕氏 〔力〕氏 解氏 真氏 國氏 木氏 〔白〕氏。
『舊唐書(くとうじょ)』東夷傳 (高麗(こま)・百濟・新羅(しらぎ)・倭國・日本) 後晋 劉昫 他 撰
 永徽二年(651年)、・
 ・・六年、新羅王の金春秋また表を称し(唐王朝に上表し、唐に助けを求めた文に)
 百済と高麗(高句麗)と靺鞨(満州=渤海)が、その北界(新羅の北部)を
侵かし(侵略し)すでに三十余城が没した(陥落した・渤海や高麗の手に落ちた)。
漸らく(しばらく)新羅の所據(所処)と爲(為)り 時に百濟(百済)の本地は荒毀(破壊)す
隆(夫余隆)は竟じて敢えて還ら不して、舊國(渤海マッカツ)にて而して率す。
その孫の敬(隆の孫の夫余敬)すなわち天朝(唐王朝)が襲封せし帯方郡の王なり 衛尉卿を授く。
  一時的に百済は新羅の土地となって破壊されたが
  唐王朝は百済を渤海人(満州=南女直=渤海靺鞨という部族で帯方郡王の夫余敬)の所領とさせていた。
その地(百済の地)は これより新羅および渤海靺鞨(渤海国)の所分となし百濟の種(民族)は ついに絶す。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/912/1150653692/82-112

『資治通鑑(じぢつがん)』巻第二百一 麟コ二年(乙丑、六六五)10.
 上命 熊津都尉 扶餘隆 與 新羅王 法敏 釋去 舊怨;
 八月,壬子,同盟于 熊津城。劉仁軌 以新羅、百濟、耽羅、倭國使者
 浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣 太子福男 來侍祠。
 

朝鮮半島との関係  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月10日(日)12時49分13秒
  『卑弥呼と日本書紀』の連載の途中で何度か書きましたが、朝鮮半島との困難な関係は、決して明治以後に始まったものではなく、古代からエンエンと続いているのですが、韓国批判のサイトの多くには、古代からの歴史という視点が欠けていると思います。
 朝鮮半島勢力による反日工作は古代からだという事を意識していないと、現在の難問題に対しても、利口な対策は浮かんでこないと思います。
 

『卑弥呼と日本書紀259』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月10日(日)12時21分3秒
  [承前]

▽應神天皇四十一年(西暦三一〇年/四三〇年)
〔崩御〕

 二月――
 應神天皇が豊明宮(とよあきらのみや)で崩御された。
 百十一歳だった筈だが『日本書紀(やまとのふみ)』には百十歳と記されている。
 もちろん、紀年の引き延ばしがあるので、実際の宝算は数十年は減るであろう。

 崩年干支からの崩御実紀年の推定は、西暦三九四年とされている。
 もし降誕年は一二〇年加算が正しく、崩御は干支が正しいとすると宝算は七十四ということになる。
 また崩年が一二〇年加算でよいとすると、実際の御降誕は数十年あとということになる。

 もし崩御年の干支推定が正しいとすると、『好太王碑』の碑文にある激戦は、仁徳(にんとく)天皇の御代(みよ)ということになるが、『記紀』からは應神天皇の時代との印象をうける。
 もっとも、晩年はどの天皇も皇太子に任せた可能性がつよいので、実質がどうだったかは、今となってはわからない。

 それから、『好太王碑』はきわめて重要な史料だが、それは三韓征伐についてのほとんど唯一の外国史料だからであって、争いそのものは『好太王碑』の前後かなり長期にわたってなされたことを認識しなければならない。

 この崩御の年、應神三十七年に江南に出発した使いが帰ってくるが、すでに應神天皇はおられず、縫工女(きぬぬいひめ)は間に合わなかった。
 そこで大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に献じられたが、その子孫はいまの呉衣縫(くれのきぬぬい)や蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)である――として帰化人の子孫を記している。

[つづく]
 

終わり無き反日を叫ぶ最近隣国の実態  投稿者:暗黒の政治屋/  投稿日: 9月 9日(土)15時55分38秒
  NET 徘徊中 偶然に下記の URL サイトに漂着しました。

是は 当該 テ―マに纏わる 膨大なる数多の URL 情報 並びに
写真画像情報に基ずき 作成されたものですが

正に 名も無き NET 人による 忌憚無き労作です。
どなたに依る サイト で有るかは 知る由も有りませんが NET界には
罹る 日本人が存在する事実を知るに及び 惨澹たる現状の日本に在りて
一縷の曙光を見る思いに至るは 小生のみで在ろうか?
是に比するに 日本の 所謂 「マスゴミ」 なるものの存在の
何たる胡散臭さよ ……
この種の情報は日本の 「マスゴミ」より報道される事は100% 確実に
有り得ない。

戦後60余年に至るも 未だ 飽く事無き反日を国是とする 最近隣反日国の
実体は 普通のまともな日本人には その認識が極めて希薄である。

その本質的な原因は  戦後60余年に亘り 日本国内に巣食う
ひだりまきどもに依る煽動/隠蔽工作 並びに 「マスゴミ」
(T.V & 新聞) 等々の情報操作に有ることは自明であるが
端的には 現状の日本に措いては NET よりの情報取得が不能な
状況/環境に在る 普通のまともな日本人が 残念乍ら未だ
圧倒的多数である事に在り。

尚 下記に追記しました URL 情報ですが
この “オオマエ”なる人物による 最近隣反日国への ご託宣ですが
この方は 確か コンサエルタント業を営む お方の筈ですが
果たして 当該 最近隣反日国の本質的 実体を お判りなのでしょうか?

この種の ご託宣を 素直に聞き入れる相手であれば この反日国の
見果てぬ 妄想である 「日本に追いつき 追い越す」 …… 言々なる
たわごと/ざれごとは実現済みの筈ですが ………… ????

『韓国は“なぜ”反日か?』
http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea.html

『大前氏「世界で最も寂しい韓国の経営者」〜大前研一氏が語る韓国経済(上)』(朝鮮日報)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/04/20060904000053.html

『大前氏「自らを小国とみなす敗北者の発想捨てよ」〜大前研一氏が語る韓国経済(下)』(朝鮮日報)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/04/20060904000054.html
 

『卑弥呼と日本書紀258』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 9日(土)11時15分16秒
  ■■■■■ 七・十 應神天皇の崩御 〈神功皇后〉の実在性 ■■■■■


 この節では、應神天皇の崩御前後の有様と、〈神功(じんぐう)皇后〉の実在性の問題や皇統の問題について、略説する。


◆◆◆ 第十五代 應神天皇の物語(3) ◆◆◆
   ――崩御と皇統の問題――


▽應神天皇四十年(西暦三〇九年/四二九年)
〔皇太子の決定〕

 正月――
 次の天皇の候補として、大山守皇子(おおやまもりのみこ)・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)・菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)という異母兄弟がいたが、天皇は面接試験のような問答をした結果、弟の菟道稚郎子を皇太子にし、兄――第四子だが皇后の子――の大鷦鷯尊をその補佐にするようにきめ、大山守皇子には山川林野を司る役目を与えた。

 現在のように長男が継ぐという定めはなかったし、神武天皇のころのような末子相続の習慣もなかったから、派閥・閨閥争いがどの天皇の後継決定時にも有ったようで、それが実におおらかに記されている。

 ただし應神天皇の崩御後いろいろなことがあり、不満を持った大山守皇子は争って死に、菟道稚郎子と大鷦鷯尊は互いに遠慮しあってなかなか決まらず、そのうちに菟道稚郎子が自殺して、結局正室の生まれである大鷦鷯尊が即位して有名な仁徳(にんとく)天皇になる。
 天皇の後継をめぐる争いの言い伝えである。

[つづく]
 

北朝鮮はロシアと連携し、日本を在日でカキ回している  投稿者:えこね  投稿日: 9月 9日(土)06時09分22秒
  > ウイングさま

どうも、はじめまして。

すでに終わりかかっています。日本海側の工作船の出入りの羅津(ラジン)の港は50年間、人民中国が租借しているし、採算の取れる北朝鮮の鉱山は、人民中国の中国人が経営権を全部持っているとの事。

主人が中国人で、使用者は、北朝鮮人という構造です。
既に現実として「主体(チュチェ)思想」は存在しません。クチ先だけの過去のスローガンとなりました。
 

親王殿下御生誕を心よりお祝い申し上げます  投稿者:八神邦建  投稿日: 9月 9日(土)02時10分30秒
   管理人さまはじめ、ご常連のみなさま。しばらくぶりでございます。

 このたび、秋篠宮親王殿下におかれましては、皇位継承第三位におなりあそばす皇子様がお生まれになったことは、日本国民として、まことに慶賀のいたりで欣喜しているところです。

 おりしも、妃殿下の御懐妊が伝えられたのも、皇室典範改正・女系天皇論争が激化せんとしていたころで、皇室の不思議な「お力」を感じずにはいられませんでした。まるで日本の国体をゆるがす問題に発展しかねない火災が発生しかけたのに、たちまちその出火を消し止められたとの印象が強くありました。

 そのため、下々(しもじも)の身ではありますが、小生も内心「もしや御懐妊は皇子さまではあるまいか」と、おそれながら期待をこめた予測を胸に抱いておりました。小生と気持ちを同じくする方々も多かったことと思われます。

 以前、解法者さんにもメールをさしあげましたが、小生は天皇陛下と皇室の行く末について、皇位継承問題もふくめて危惧を抱いておりません。したがって、皇室典範改正・女系天皇についての議論には、一切参加してきませんでしたし、これからもそのつもりです。

 国民の中の心ない一部のマスコミや学者や政治家たちが、どんなに日本の国体(国柄)を傷つけようとしても、皇室は不滅の大粒ダイヤモンドであり、ほかのいかなるものによっても、傷つけたりこわしたりはできません。こわそうとすれば、逆にダイヤモンドの硬さによって、ぶつかっていった者どもの方が砕(くだ)けて自壊します。ガラス玉の分際で、ダイヤモンドを傷つけようとする愚か者が、同じ国民の中にいることは、大変に残念なことだといわざるをえません。結果は、ガラス玉が粉々に砕けるだけです。ダイヤはダイヤのままで存続し続けます。

『日本書紀(やまとのふみ)』にかかれた「天壌無窮(てんじょうむきゅう;=天皇・皇室は永久に不滅)」は、神武帝以来2665年をすぎてご健在な皇室の現在によって、みごとに証明されています。皇室が一度として滅んだことがないという歴史的事実は、だれにもくつがえすことはできません。

皇祖皇宗の霊統・血統の永久不滅が、決して誇張や空想ではないことを、小生は信じておりますが、今回の皇子様御誕生によって、ますますその気持ちが強まりました。

 かくのごとく、小生は何も心配しておりません。ただ、自分自身が、昭和陛下をはじめ現代の皇族方のエピソードなどを勉強するにつけ、身の至らぬところが多く、つまらぬことを書いたり議論したりしては、かえってやんごとなき方々に失礼であろうと危惧する次第です。

 皇子様御誕生があまりにもうれしく、投稿をさせていただいた次第です。また、管理人さまはじめ、小生のことを忘れず、ご心配くださった方々や、メールをくださった方々に御礼とおわびを申し上げます。
 

『卑弥呼と日本書紀257』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 8日(金)11時57分9秒
  [承前]

▽應神天皇三十九年(西暦三〇八年/四二八年)
〔直支(とき)王の妹の帰化〕

 二月――
 百済(くだら)の直支王が妹を日本に派遣して、朝廷に仕(つか)えさせた。この妹は七人の婦女を従えていた。
 この年は一二〇年加算で西暦四二八年だが、『三国史記』によれば、この年の百済王は直支の二代後になっている。しかしシナ史書の記述では直支の死の直前がこの年となっていて、矛盾はない。

**********

『日本書紀(やまとのふみ)』を見ると、朝鮮問題は結局、日本を頼りにした百済とはうまくいったが、新羅(しらぎ)はいったん和睦したものの約束を違(たが)えることが多くて苦労し、高句麗(こうくり)については外交関係もおぼつかなく、激戦を演じた――と推量される。

 軍隊の面では、任那(みまな)を守るために、また高句麗に圧迫される百済を助けるために、さらには反抗的な新羅に懲罰を加えるために、しばしば派遣され、その派遣軍が新羅軍および高句麗軍と激戦する――といったことだったらしい。

 その抗争は、大和(やまと)朝廷でいえば〈神功(じんぐう)皇后〉から仁徳(にんとく)天皇の時代まで、高句麗の歴史でいえば好太王の即位前から死後まで、かなり長期にわたって続いたらしいことが、『日本書紀』や『三国史記』などの史書から読みとれる。

 とくに新羅関係の難問題はつぎの仁徳天皇の代にも記されていて、歴代の天皇が朝鮮問題に神経を使っていたことがわかる。
(このような新羅との軋轢(あつれき)は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』にも書かれており、討伐軍の編成などもなされている。さらに言えば、この軋轢は、じつに現在にまで続いていると言えるのである)

 一方百済との友好関係はずっとのちまで続いたが、六世紀に任那が滅び、七世紀の白村江(はくすきのえ)の大会戦で百済・日本連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れて百済が滅亡し、弥生時代以来の朝鮮権益に最後が来ることは、よく知られるとおりである。


[次ぎは「第七・十節 應神天皇の崩御 〈神功皇后〉の実在性」]
 

朝日新聞は皇民化ヘ育の優等生  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 9月 8日(金)00時37分45秒
  吃驚【びっくり】しました。

朝日新聞が一面トップでカラー。
社會面「待ちに待った」男子だそうだ。
何處(どこ)の誰が男子誕生を待ちに待っていたのでしょうか?朝日の記者が?

朝日新聞がこれほど天皇中心主義とは意外や意外。
よく考えれば朝日は昭和天皇の「御言葉」を金科玉條にして「國~社參拜反對」の思想で一億臣民の思想を統制しようとしている。
だから總裁候補の歴史觀を逐一檢閲したがるわけだ。

この朝日新聞が「終戰」前に戰爭を煽【あお】ったのもさもありなん。
しかし朝日新聞社の雜誌『AERA』では「女帝でもいいはず」という記事を載せていたと想うが。

要するに朝日の讀者の大半が「國參拜は嫌だが皇室は好き」という人達なので、商賣の爲に迎合しているのでしょう。

↓歐亞言語研究2

http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

えこね様へ  投稿者:ウイング  投稿日: 9月 7日(木)21時28分25秒
  >2008年、在韓米軍撤退の後に。。。(可能性)

もしそんなことになれば北朝鮮は終わりです。
 

『卑弥呼と日本書紀256』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 7日(木)12時07分4秒
  [承前]

▽應神天皇三十一年(西暦三〇〇年/四二〇年)
〔新羅(しらぎ)に焼かれた多くの新造船〕

 八月――
 この年また新羅がトラブルを起こす。
 即位五年に伊豆の国につくらせた巨大な官船「枯野(かれの)」が古くなって使えなくなったので、後世に名を残すためにそれを燃やして塩をつくった。
 なかにどうしても燃えない木材があったのでそれで琴を作ったところ、爽やかな音が遠方まで届いたので天皇が歌を詠(よ)んだ。
『記紀』にはこういうなんともいえず楽しい話がたくさんあり、古代日本人の芸術性を感じさせる。

 さて、天皇はこの塩を諸国に配って、替わりの船を五百隻も集め、これらを武庫(むこ)の港――いまの兵庫県尼崎(あまがさき)市――に係留しておいた。
 当然ながら、朝鮮半島に軍勢を送るための船である。

 ところが、その近くにいた新羅の使者(たぶん工作員)が火をつけて、多数の船を燃してしまった。
 天皇は怒って新羅に責任を取らせた。
 新羅王は謝って優れた技術者を献上した。
 これが猪名部ら木工技術を生業(なりわい)とする一族の先祖であると記されているが、あいかわらず新羅との軋轢(あつれき)が続いていることがわかる。


▽應神天皇三十七年(西暦三〇六年/四二六年)
〔シナで縫工女を募集〕

 使者を大陸江南の地――三国時代に呉のあったところ――に送って縫工女を募集する。
 道が分からないので高句麗(こうくり)王の部下に道案内してもらって、無事四人の縫工女を獲得し、天皇崩御(ほうぎょ)の年に帰国した。
 さかんに技術導入をはかっていたことがわかる。
(雄略天皇紀にもほとんど同じような話があるので、混同しているのかもしれない)

 なおこの年は一二〇年加算では西暦四二六年だが、シナ正史の『宋書』に、西暦四二一年と四二五年に、倭王讃(さん)の使者が来た――とある。
 いわゆる倭の五王の筆頭である。
 一二〇年加算どおりとすれば讃は應神天皇であるが、崩年干支からの推定ではこの年にはすでに應神天皇は崩御されており、したがって次代の仁徳(にんとく)天皇説が有力である。これは諱(いみな)からも推測できる。
 その次の履中天皇という別説もある。

[つづく]
 

女性天皇  投稿者:解法者  投稿日: 9月 6日(水)23時21分25秒
   これも排除したらよい。

 過去に「女性天皇」は存在したが、現国民の無知から言って、これを認めれば、次には「女系天皇」の容認となるのは必至である。
 それこそ、天皇廃止論者の思う壺であろう。

 今から、この芽を摘んでおくためにも「女性天皇」は認めるべきではない。
 そもそも「女性天皇」は例外中の例外であって、これを認めなくとも歴史(伝統)に泥を塗るものでではない。

 なお、「女性天皇」については、石原藤夫 『女性天皇の歴史』栄光出版社 平成16年3月1日 が優れているので購入いただきたいが、ここでも、「女性天皇」については次の問題があると指摘がなされている。
  1. 在任中の女性天皇の夫の問題
  2. 天皇としての激務と妊娠・出産・育児との両立
  3. 皇嗣が得られなくなる可能性
  4. 摂政(せっしょう)も女性となる可能性

 <女性天皇不容認>はこれを解決する。
 もちろん、旧宮家の復活が前提となる。
 

皇室典範の改正は必要  投稿者:解法者  投稿日: 9月 6日(水)22時52分47秒
   親王殿下の御降誕 誠にお目出度(めでた)い限りです。

 しかし、皇統の断絶を将来に向けて防ぐためには、皇室典範の改正は必要だと思う。
 これには旧宮家の復活を図るのが現実的である。
 皇室典範の改正を先送りすれば、ますます<旧宮家の復活>が実現困難となる。つまり、皇統教育が不可能になるからである。
 それこそ、皇統断絶推進論者に手を貸すことになる。

 <旧宮家の復活>を阻止する者は、復活には違和感を感じるなどと言うが、そんなことはない。
 歴史教育を説けば、違和感など払拭できる。
 皇室費 こんなの国益から考えれば小さい! 小さい!
 親王誕生で秋篠宮家への皇族費は305万円増額され、5490万円だという。これも<非常>に少ないが、この305万円増額、増額に値しない。
 岐阜県の腐敗役人ドモの裏金17億とは訳が違う。無駄な飲み食いでも17億円だ。

 女系天皇 こんなの考慮に値しない。
 

Re: 奉祝  投稿者:tall_i  投稿日: 9月 6日(水)19時06分16秒
  今帰宅したので書込みします。
親王さまご生誕、まことにおめでたい限りです。
ただ世間の論調は、皇室のお世継(よつ)ぎの問題はこれで解決した訳ではない、との事です。

皇室と日本の国民は別世界のものではありません。
日本国民が子をなすことがとても幸せな事だとの認識及び政策が必要でしょう。
 

RE:「慶祝」+国旗  投稿者:ym  投稿日: 9月 6日(水)18時03分30秒
  親王様ご誕生、おめでとうございます。
身が震えるくらい、嬉しいです。
 

Re;『慶祝』+国旗  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 9月 6日(水)16時03分41秒
   皇孫殿下のご誕生ということで誠に目出度(めでた)く思います。実は母子の安全のみを気にかけていたので、あまりお生まれになる性別のことは考えてなかったです。それも親王殿下なのですね・・・なるようになる、自然の恵みからくるはずだけどなんとなく神がかってるみたい・・・ by こうのとり+プリンセス・キコ

 今日はお赤飯で提灯行列で国旗掲揚といきたいですね。マジで・・・うれしいナ、おかげで今夜の仕事も一層がんばれそうですよ。

 それと皇室の問題は終わったわけではないけど、今日のところはやはり日本国民の一人として喜びたいものです。
 

『卑弥呼と日本書紀255』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 6日(水)12時39分49秒
  [承前]

▽應神天皇二十五年(西暦二九四年/四一四年)
〔百済(くだら)王直支(とき)の死〕

 百済の直支王が崩じたが、王子が若かったので政治を重臣の木滿到(もくまんち)がおこなった。しかし日本への無礼が多かったので呼びつけて叱った。
 また『百済記』には、木滿到が任那(みまな)を専横したので天皇に呼びつけられたことが記されている。
 これは、百済への日本の影響力の強さが続いていたことを示す記述である。
 なお一二〇年加算ではこの年は西暦四一四年だが、『三国史記』では直支の死は西暦四二〇年とされている。


▽應神天皇二十八年(西暦二九七年/四一七年)
〔高句麗(こうくり)の無礼と皇子の怒り〕

 九月――
 西暦四一七年と推定されるこの年の九月、高句麗の王――この紀年を信じれば好太王の次の長壽王である――が朝献してきたが、その上奏文に、

「高麗ノ王(こまのこにきし) 倭国ニ教ウ」

 ――とあったので、皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が激怒して文を破り捨てた。
「教ウ」とは配下に対して使う言葉である。

 日本と友好関係にある百済を北から侵犯しつづけ、新羅(しらぎ)を配下におこうとしている高句麗と、はげしくやりあっていたことが分かる。
 激しい戦争の結果、日本の力が上である事が分かって、高句麗も日本に朝献せざるをえなかったらしいが、相変わらずけんか腰である。

 高句麗からの使者がまともな交渉をするようになるのは、次の仁徳(にんとく)天皇になってからである。
 應神天皇の御代(みよ)の終わりまでに任那地方での日本の力が強まり、高句麗の軍事力でも威圧することが出来なくなったからであろう。
 この時代の朝鮮南部における日本の力は、シナ王朝も認めていた。
 それはシナ史書によって明かである。

 古代から現代まで、日本が朝鮮半島南部に強力な橋頭堡を築いたときのみ、日本の沿岸は安全を保っている。

[つづく]
 

国旗  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 6日(水)12時25分34秒
  今朝ニュースを見て、早速玄関に国旗を掲揚しましたが、通りを眺めてみますと、国旗は我が家だけ。
昭和30年代までは、東京でも祝日にはずらりと国旗が掲揚されていたものです。
戦前よりもむしろ戦後の方が、多くの国旗が出ていたような気がします。
それが、昭和40年代から激減してしまいました。
残念なことです。
 

『慶祝』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 6日(水)12時13分52秒
   秋篠宮家親王殿下御降誕を心からお祝い申し上げます。
 秋篠宮妃殿下および親王殿下のご健勝をお祈り申し上げます。

 これで皇室典範の拙速改変は回避されるでしょうが、皇統の危機が去ったわけではありません。
 きわめて危機的な状況にあります。

 この問題についての私の考えは、先にこの掲示板でも一部連載しましたが、それらを一冊の本に纏(まと)めてあります。

↓↓↓↓↓
『皇統の危機に思う(栄光出版社)』

 もしよろしければ御覧ください。
 

Re: 奉祝  投稿者:岩谷文太  投稿日: 9月 6日(水)11時52分11秒
  母子ともにご健康な様子、まずそれがなによりです。
女系論議が白熱していた10ヶ月前を思い出すと、奇跡のようですね。
 

奉祝  投稿者:竹下義朗  投稿日: 9月 6日(水)09時21分25秒
  秋篠宮家に無事、新宮様が御降誕。然(しか)も41年ぶりの親王殿下御降誕とは重ねて目出度(めでた)い限りです。
謹んでお慶び申し上げます。
 

2008年、在韓米軍撤退の後に。。。(可能性)  投稿者:えこね  投稿日: 9月 5日(火)23時16分49秒
  2008年
在韓米軍撤退
第2次、朝鮮戦争が始まる
テポドン日本着弾(原発原子炉放射能・皇居・大阪市内・在日米軍基地)
 

『卑弥呼と日本書紀254』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 5日(火)13時00分40秒
  [承前]

▽應神天皇十九年(西暦二八八年/四〇八年)
〔吉野山中からの献上品〕

 十月――
 吉野宮に臨幸されたとき、吉野の山の人が酒を献上した。そしてこれ以後しばしば土地の産物を献上するようになった。


▽應神天皇二十年(西暦二八九年/四〇九年)
〔倭漢直の祖の帰化〕

 九月――
 大和(やまと)南部の地を本拠として朝廷周辺でながく活躍した倭漢直(やまとのあやのあたい)の一族の祖とされる親子が、多くの郎党を引き連れて帰化した。
 この一族は弓月君(ゆづきのきみ)とおなじく、大陸→朝鮮→日本と渡ったとされ(たぶん自称)、文筆などで活躍した。
 のちに蘇我の手下となって第三十二代崇峻(すしゅん)天皇を暗殺したのは、この一族の一人とされている。


▽應神天皇二十二年(西暦二九一年/四一一年)
〔吉備国などへ行幸〕

 妃(きさき)の一人で吉備国(きびのくに)――現在の岡山県――出身の兄媛(えひめ)が両親のもとへ帰りたがっているのを認めたことや、天皇自身が吉備国や淡路島などに行幸したことが記されている。

[つづく]
 

何かと言うと「近隣」にこだわるメディアこそアジアを知らない  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 9月 5日(火)12時13分16秒
  日本の朝日新聞や姜尚中【Kang Sang Jung,カン・サンヂュン】氏などがいう「アジア」には「中國」と韓國しか眼中にないわけで、モンゴルやインド、インドシナ、イラクもアジアだということを忘れています。

特に朝日などは日本のトップが西アジアなど世界各国と會談するときも「近隣外交は、近隣外交は」と鸚鵡(おうむ)か九官鳥のように繰り返すだけ。
何處(どこ)の國の話でも「日本と近隣諸國」に話を持っていこうとする卑怯な魂胆(こんたん)が見え見えです。
小泉總理がモンゴルを訪問した際も朝日は「中國そっちのけでモンゴル訪問、中國の目は冷ややか」など、何かと言えば中韓の見方を持ち出さないと気がすまない。
日蒙會談でも朝日新聞はモンゴルそっちのけで中國の機嫌ばかり氣にしていました。

朝日新聞社はもはや日本の新聞社でなく、中國「人民日報」や韓國「中央日報」の東京支局と化しています。

モンゴルの場合、日本とは満蒙の境目でノモンハン(Nomon-Khān)・ハルハ(Khalkha)河戰爭がありましたが、モンゴル人は日本の首相の國~社參拜を批判していません。
それどころか、1991年、東京での「ノモンハン」關連のシンポジウムの際、モンゴルと當時の蘇聨(ソ連)の代表は國~社で正式に昇殿參拜、遊就館【いうしうくわん】を見學したそうです。

資料:『ノモンハン・ハルハ河戦争』ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会[編] 代表=田中克彦 1992年 原書房


小泉總理の訪問はヂンギスカンのモンゴル帝國を記念するものですが、日本は蒙古(もうこ)・支那・高麗(こうらい)の連合軍によって侵略された側です。
お互い、相手の「反省」が頼りなどと言う幼稚な外交はしません。

小泉總理が中央アジアを訪問しても、日本の反日マスコミ=「在日中韓メディア支局」は「近隣諸國」ばかり頭にあったのでしょう。
問題は「中韓以外のアジア」であって、日本の反日マスコミは中韓にこだわりすぎて、本當の意味でアジア情勢を見失っています。

また、シナの反日デモと加藤氏自宅放火事件を見ると、國參拜反對派がこういう言論封殺の加害者である場合も、逆に國參拜支持派が加害者である場合でも、朝日新聞などは「首相の國參拜が火種」だというように話を持っていきます。
こういう反日論者の詭辯に騙されてはいけません。

また、朝日その他、國參拜反對派は、「國~社を嫌がる人達の信仰・思想・信條の自由」だけを考えており、國に參拜する人や參拜を支持する人の「信仰・思想・信條の自由」を完全に無視し、特に潰そうとしています。

同樣に、「日の丸、君が代」を嫌がる人達も、自分たちの「信仰・思想・信條の自由」だけを主張し、日の丸・君が代を尊重する人達の「信仰・思想・信條の自由」を完全に無視しています。
そもそも朝[]新聞はワールドカップなどでさんざんナショナリズムと[]の丸譖美主義を煽(あお)っていたのですから、學校での國旗掲揚・國歌齊唱を批判する資格はありません。

外國人が參政權を持つための改憲案を社民黨【しゃみんたう】邊りが出したら、彼等は本當の革新政黨になるでしょう。

歐亞言語研究2

http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

Re:「特定アジア」は浮いた存在  投稿者:久保田泰啓  投稿日: 9月 5日(火)07時14分25秒
   えっと・・・そのYahoo!ニュースなんですが、発信元の読売新聞からの記事を一部しか転載していないのですね。本来なら「日本を信頼できる」や「日本は世界に良い影響を与えているか」とか、自衛隊海外派遣、日本の首相の靖国神社参拝を「構わない」についてなど・・・そんな具体例を示す全文が意図的に隠蔽してるように感じました。やっぱ成りすまし朝鮮系企業だナと言ってみるテスト。

『「対日関係良好」、東南ア・印で9割超…7か国調査』by 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6100/news/20060903it13.htm

「対日関係良好」、東南ア・印で9割超…7か国調査

 読売新聞社は、韓国日報社、ギャラップ・グループと共同で、「アジア7か国世論調査」を実施した。東南アジア諸国では、「日本との関係が良い」と見る人が9割以上に達した。

 「日本を信頼できる」人も7〜9割を占め、対日感情の良さが裏付けられた。一方、急速な経済発展を背景に、東南アジアでの中国の好感度も増しており、関係強化の進展が示された。

 調査は、インド、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、韓国および日本の7か国で、6月下旬から7月中旬にかけて面接方式により実施した。アジアの複数国で同時に世論調査を行ったのは1995年、96年に続き3回目。

 日本との関係が「良い」は、インドネシアとタイでは「非常に」と「どちらかといえば」を合わせてそれぞれ96%に達し、ベトナムで計92%、マレーシアでは計91%に上った。この4か国では、同じ質問をした95年調査でも「良い」が9割超だった。初めてこの質問をしたインドでも「良い」は計89%に上った。

 「日本を信頼できる」は「大いに」と「多少は」を合わせてタイが92%で最多。東南アジアで最も低いベトナムでも計75%だった。

 「日本は世界に良い影響を与えているか」では、「与えている」がインドネシアで計91%。東南アジア、インドでは8割を超えた。

 日本が国際社会で積極的な役割を果たすことへの期待も強かった。

 人道復興支援のための自衛隊海外派遣に「賛成」は、インド洋大津波の被災地支援で自衛隊が派遣されたインドネシアで計83%に上った。韓国以外の国で「賛成」が「反対」を上回った。

 日本の首相の靖国神社参拝を「構わない」という人は、タイで59%、マレーシアでは52%に上った。ベトナム、インドでも多数。韓国、インドネシアでは「そうは思わない」が各86%、41%で、「構わない」を上回った。

 「中国の経済発展が、自国経済に与える影響」では、「プラスの影響が大きい」がインドネシアとマレーシアで66%に上るなど「プラス」が5か国で多数を占めた。「マイナス」が多数だったのは、韓国(42%)と日本(36%)だった。

(2006年9月3日23時55分 読売新聞)


 それと、昔から日本って・・・その時々には好結果や悪影響はあれど、詐ではなく誠であるように、俗ではなく聖であるように、動ではなく静であるように、汚ではなく清であるように、そのように目指しているのか?と、ふと想うことがあります。

 

「特定アジア」は浮いた存在  投稿者:竹下義朗  投稿日: 9月 4日(月)21時17分35秒
  自民党総裁選に立候補した三者の内、谷垣財務相は殊更(ことさら)、支那・韓国との関係修復を唱えていますが、「アジア」諸国は支那・韓国、そして、北鮮の三ヶ国だけでは無い筈です。この三ヶ国との関係がぎくしゃくしている事を以て、恰(あたか)も日本の対アジア外交が上手(うま)くいっていないと言うに等しい論調には、非常に疑問を感じます。それを如実に物語る様なニュースがありましたので、ご紹介します。

『「対日関係良好」、東南ア・印で9割超…7か国調査』(Yahoo!ニュース)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060903-00000013-yom-pol

「対日関係良好」、東南ア・印で9割超…7か国調査

 読売新聞社は、韓国日報社、ギャラップ・グループと共同で、「アジア7か国世論調査」を実施した。東南アジア諸国では、「日本との関係が良い」と見る人が9割以上に達した。

 「日本を信頼できる」人も7〜9割を占め、対日感情の良さが裏付けられた。一方、急速な経済発展を背景に、東南アジアでの中国の好感度も増しており、関係強化の進展が示された。

 調査は、インド、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、韓国および日本の7か国で、6月下旬から7月中旬にかけて面接方式により実施した。アジアの複数国で同時に世論調査を行ったのは1995年、96年に続き3回目。

 日本との関係が「良い」は、インドネシアとタイでは「非常に」と「どちらかといえば」を合わせてそれぞれ96%に達し、ベトナムで計92%、マレーシアでは計91%に上った。この4か国では、同じ質問をした95年調査でも「良い」が9割超だった。初めてこの質問をしたインドでも「良い」は計89%に上った。

(読売新聞) - 9月4日2時35分更新


「特定アジア」諸国との関係がぎくしゃくしているとは言え、「特定アジア」以外の「アジア」諸国との関係が良好であると言う事は、日本の対アジア外交は概(おおむ)ね上手くいっていると見て間違いないでしょう。逆に言えば、「特定アジア」諸国が、アジア諸国の中で「浮いている」共言え、単に「隣国だから」と言う理由だけで、無理に日本が歩み寄らねばならない必然性は無いものと考えます。

 

『卑弥呼と日本書紀253』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 4日(月)14時06分12秒
  [承前]

 またこの年――一二〇年加算で西暦四〇五年――に百済(くだら)の阿花(あか)王が崩じたので、天皇は、人質にしていたその王子の直支(とき)に、

「国に帰って王位を継ぐように」

 ――と告げた。
『三国史記』の直支即位の項にも同じ記述があり、照応している。
 直支は長男だが、次男は王とならずに摂政として長男の帰りを待った。しかし不満を持つ末弟が次男を殺して王を自称した。
 このような血なまぐさい政変のさなか、日本は軍隊をつけて親日的な直支を送り、末弟を排除して直支を王とさせることに成功している。

『日本書紀(やまとのふみ)』は編纂時に『三国史記』の元になったらしい『百済記』などの史書を参考にしただろうから、同様な記事があることは当然でもあるが、しかし双方とも独自の伝承と矛盾していたら記さなかっただろうから、史実なのであろう。
 すなわち、日本の天皇の意向を無視して百済の王をきめる事はできなかったほど、應神〜仁徳(にんとく)天皇時代の日本の百済への影響力は強かった――という事である。
(これに対して新羅(しらぎ)とは、次のように戦いが続いている)

 八月――
 武内宿禰(たけのうちのすくね)の子である将軍・木菟宿禰(つくのすくね)に軍勢をつけて加羅国に派遣し、新羅の国境まで進んで、新羅にじゃまされて帰れなかった襲津彦(そつひこ)と弓月(ゆづき)の技術者たちを帰還させた。
 この事件もまた、『好太王碑』の碑文の終わりの方の戦いとよく照応している。
 またこの話は、十四年の項にある弓月の一件とともに、秦(はた)氏一族の渡来伝承とされている。

 高句麗(こうくり)の『好太王碑』にある強力な日本軍を『日本書紀』のがわから見ると、その統率(とうそつ)者としてもっとも有力な候補は、武内宿禰の四人の息子たちと、葛城(かつらぎ)襲津彦である。
 そこで、襲津彦について、すこし記しておく。

 高句麗軍と激戦したらしい襲津彦の出自は、『古事記(ふることふみ)』の第八代孝元天皇記では武内宿禰の息子で木菟宿禰らと兄弟とされているが、それはややあいまいである。
 名前から判断して、葛城地方(図7.7)と関係が深かったのであろう。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 剛勇だが戦略や戦術の面で疑問のあるこの襲津彦が重要な地位をしめていたのは、その娘の磐之媛命(いわのひめのみこと)が、のちに仁徳天皇となる皇太子の妃(即位後に皇后)だったからである。
 しかもこの磐之媛命は、履中・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)という仁徳に続く三天皇を生んでいるので、襲津彦は三代もの天皇の祖父になったのだ。

[つづく]
 

奇遇  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 3日(日)16時28分6秒
   前にこの掲示板に、台湾に住んで台湾の情勢を伝えてくださった方がおられましたが、その方と、小生が開設しているプロ野球ドラゴンズを応援する頁でお会いしまして、びっくりしました。
 なんでも名古屋のご出身のドラゴンズファンで、台湾でインターネットによって日本のプロ野球を楽しんでおられるそうです。
 こちらにもまた書き込んでくださると良いのですが。
 

お知らせ  投稿者:三保 平清  投稿日: 9月 3日(日)13時52分0秒
  随分こちらには、お世話になりながら、勝手な時にお邪魔します。「教育」に関係される方はこういうのはいかがでしょうか。第一回は福岡で「渡辺昇一先生」が講演されたそうです。
http://21edu-renaissance.jp/060910-vol4.htm
 

Re:高麗と日本は全然違う  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 9月 3日(日)13時50分59秒
  >広大(カンデ)

「廣大」は朝鮮語で kwangdae,私の考案した文字轉写【もじてんしゃ】では koang-tai です。
發音を片假名【カタカナ】で書くと「クワンデ」になります。

朝鮮語でも唇音退化が徐々に進んでいるのでしょうか。

>男寺党(ナムサダム)

「党(黨)」をダムと書いたのは朝鮮固有語ですか?

漢語借用語彙の「黨」は朝鮮語で tang だから、「男寺黨」は namsadang,無理に片假名で書けば「ナムサダン」(ムは子音だけで、ンは唇を開けたまま舌根が軟口蓋【なんこうがい】につく)です。

「朝鮮勞動黨【てうせんらうどうたう】」は朝鮮語で Cho-seon-ro-dong-dang(Ch は平音)ですが、n-r が同化して、Cho-seon-no-dong-dang 或いは Cho-seol-lo-dong-dang になります。

私の考案した文字轉寫では co-seon-l^o-tong-tang になります。

>宣化堂(ソンファダン・平壌の監司[カムサ]の執務処)

「堂」も朝鮮語で tang で、こっちでは「ダン」ですね。
日本語音では「せんくわだう」senkwadau です。

「黨」は日本語音讀みで「たう」tau,「堂」は「だう」dau です。
日本人が tang の ng を u にして採用した結果です。

↓歐亞(=ユーラシア)言語學などの掲示板

http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

お知らせ  投稿者:三保 平清  投稿日: 9月 3日(日)13時47分31秒
  『21世紀教育ルネッサンス|第四回講演会』
http://21edu-renaissance.jp/060910-vol4.htm
 

日韓は違う。古代に文化が共通と言いがたい。  投稿者:えこね  投稿日: 9月 3日(日)12時52分57秒
  ピョンシンチム(病身舞)
 身体障害者や病人の動きを真似(まね)て笑いをとる韓国の伝統芸能
 日帝が禁止したが、戦後また朝鮮人が復活させましたw
http://www.youtube.com/watch?v=i86fiRjvafk

タルロリ(仮面劇)
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1076414723&res=292&fi=no
 

『卑弥呼と日本書紀252』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 3日(日)12時11分14秒
  [承前]

▽應神天皇十五年(西暦二八四年/四〇四年)
〔王仁(わに)を招聘(しょうへい)するために使者を派遣〕

 八月――
 百済(くだら)王から良馬二匹が献上された。
 このとき同時に帰化した阿直岐(あちき)は学者だったので皇子が学問を習ったが、天皇が、お前より優れた学者がいるか――と訊(たず)ねると、

「王仁がいます」

 ――と答えた。
 そこで使者を百済に派遣して王仁を招聘した。


▽應神天皇十六年(西暦二八五年/四〇五年)
〔王仁来朝と新羅(しらぎ)との確執〕

 二月――
 百済から著名な学者の王仁が渡来し帰化した。
 王仁は漢の高祖の末裔とされ、論語を日本にもたらしたのも王仁だといわれている。
『古事記(ふることふみ)』には論語十巻をもたらしたとある。
 教科書にも出てくる人物である。
 この時代に多くの日本人が漢字を覚えてシナの学問を熱心に学びはじめたことがわかるエピソードである。

 またこの時期、さまざまな技術を持った人たちが来航して帰化したが、この百済からの帰化人(*)の増加は、百済が高句麗(こうくり)や新羅との戦いに苦戦し、日本が出兵してこれを助けて任那を守っていたことと関係があるらしい。

 これは日本側にとっても都合の良いことで、貴重な人材として尊重したことが分かる。
 大和(やまと)周辺の各地に、帰化人を先祖とする伝説を持つ氏族がいる。
 また十四年に派遣した使いが帰ってこないので、新羅がじゃまをしているのだろうと、軍勢を派遣し、取り返す。
 新羅や高句麗との軍事的な軋轢(あつれき)が何代にもわたって続いたことがわかるし、ひきつづいて『好太王碑』の記述とも対応している。

(* 帰化人といっても、その多くは、九州などの日本人と同じ先祖を持つ人たちではなかったか――という推理がある。この問題についてはまた後に記すが、いずれにせよ「日本に対する憧れ」がなければ、多くの人が半島から帰化するはずはない。レベルの高い学者や技術者でも同じである。それは、近現代における半島や大陸からの流入を見ればわかる。日本に不法入国して帰ろうとしない人が多いのは、日本が良い国だからである。その反対に日本を逃げ出して半島や大陸に帰化する人はほとんどいない。日本の悪口を言いながら日本に居座(いすわ)る人は多いが・・・)

(歴史に関係するあちこちの掲示板を覗いた印象だが、近隣国や欧米の歴史に強い人は、日本の正史をあまり勉強していない傾向があるように思う。日本人である以上、日本の史書を「時代順」におおまかにでも読み、その後に外国の史書を読むのが正しい順序だと思う。歴史教科書の改善運動をしている組織にも、意外なほど逆順の人が多い)

[つづく]
 

高麗と日本は全然違う  投稿者:えこね  投稿日: 9月 3日(日)11時19分34秒
  華厳経・成実・三論・弥勒仏・真人・風水・香徒契・華夷思想・東学党・天道教・斥倭洋倡義

巫壇・恨息・クッ・崔瑩・居士・広大(カンデ)・男寺党(ナムサダム)・林慶業・斥清派・仁祖王・三田渡受降壇・三跪九叩頭礼

祀宇・祀壇・童蒙先習・匙作法・茶礼・祭祀(チェサ)・秋夕(チュソク)・良人・任・下人・庶撃・常奴・官奴・卒居奴婢・チゲ・妓生・ノレ・洞・面

性理説・安向・畿湖学派・西人・老論・衛正斥邪・事大主義(サデチュイ)・嶺南学派・南人・少論・実学・朴桂寿・天主教・星湖学派・金玉均・開化党

茶礼(タレ)・トンチミ(漬物)・チョンゴル(鍋物)・参鶏湯(サンゲタン)・補身湯(ポシンタン)

田柴科・大同法(テドンポプ)・掌隷院(チャンレウォン)・大監(デカム)・ナリニム(?任・閣下)・ソンビ(両班・ヤンバン)・育英公院(男子校)・梨花学堂(女子校)・崇仏尊武(スンブルジョンム)・崇儒尊文(スンユジョンムン)
恩甚怨生(ウンシムウォンセン)・背恩妄徳(ペウンマントク)

処容舞(チョよんム・宮廷ノレ)・打鈴(タリョン・浪花節)・タルチュム(仮面劇)・サンデノリ(仮設舞台[サンデ]の仮面劇の唱[ノレ]・ムーダン(巫壇)のクッ(祭壇を飾っての祀[まつ]りの舞)

宣化堂(ソンファダン・平壌の監司[カムサ]の執務処)
倭奴(うえのむ・日本人を罵る語)・テノム(垢野郎・中国人を罵る語)
イルチョクうるみょるハンのむ(一族を滅ぼす奴)
ジョクブえそバジンのむ(族譜から抜かれた奴)

官災(カンジェ)有銭無罪(うじょんむちぇ)無銭有罪(むじょんうちぇ)
疑うだけでは罰しない。
告祀(コサ)が不十分だと動土(トント・突発の不幸)が起こる。
御使道(オサト)と将差(ジャンチャ)と婢将(ビジャン[女偏でなくノギ編])は濡れ衣で無実の人に罰を与え功績をあげ昇進する(偽倭の首と同じ)

官庭発悪罪(クワンジョンばるあくジェ)は餅代(トッカブひ)や薬債代(ヤクチェじょん)を払わず無実の罪だと正しく抗議した事自体が、罪とされた。
正しいのだが冥加銭を払わなかったので罪とされ罰を受けた。

酒幕(ちゅまく)?のヌナ(女)なのか、殺人契(さりんげ)のドン(洞)の話か?

チョソン(朝鮮)タル(娘)あるいは アガシ(娘・オネーサン)
オンニ(お姉さん)とか イップニ(小さい女の子)だとかは呼ばんのだろうか?

オンニは「梨花学堂」出身ニカ?アッシニム(お嬢様)なので下品な真似はしないなど
ヨウ(狐)とか、ハッブ(閤)ではないから、しない。
 

秀吉の足軽がコチュ(倭芥子・唐辛子)を伝来  投稿者:えこね  投稿日: 9月 3日(日)11時10分56秒
  ○ 晋州牧史城(ちんジュもくサそん)

もくさ→もくそ、と当時の日本人は呼ぶ。
 

平将門の武士の発生ごろ朝鮮は契丹により住民が入れ替わった  投稿者:えこね  投稿日: 9月 3日(日)11時08分9秒
  日本府は、後世の歴史の後智恵(あとぢえ)ではないのか?

六朝(りくちょう)や隋唐で蛮夷に対して、安東都護府のような府の使い方はしていない。

★朝鮮と長崎や西欧人の交易は無い。使節が送られた事は無い。
己亥東征・三浦の乱と対馬
燕山君(えんざんくん/ヨンサムグン)の熊川の一浦の交易再開と対馬
東莱城府−釜山鎮富山浦(釜山港)−草梁島倭館開市(釜山沖の島に対馬藩士の租界で交易)

★史という名の長官
秀吉の朝鮮の役での虐殺、晋州牧史城(ちんジュそくサそん)・・・本牧(ほんモク)
倭寇による戦死、長興府史(ちょカンぷシ)
 

飮酒運轉を生む戰後民主主義  投稿者:黄東洋hwangdongyang2002  投稿日: 9月 3日(日)11時05分19秒
  醉っ拂(よっぱら)い運轉で人殺しをした福岡市職員は22歳の餓鬼らしい。
「個人主義」「個人の自由」「個人のモラルに任せる」等と言う戰後民主主義が殺人運轉を獎励している。
一人一人が「自分がやりたいことを自由にすればいい」という「自由、人權」の思想が「飮みたい時は飮む、運轉したい時はする」という究極の個人主義を生んでいる。
結果、人が死のうとしったことではないというのが個人主義。

既に死んだ人間には守るべき「人權」もなくなってしまった。
戰後憲法が守るのは「生きている國民」の權利だけ。
守られるのは人殺しをした犯人の「人權」ばかり。

飮酒運轉を野放しにして人殺しの人權を守る「戰後民主主義」。
今後、悲劇は續くでしょう。

『ユーラシア言語研究2』
http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

『日本書紀』の一部は中国人によって書かれた!?  投稿者:白樺  投稿日: 9月 3日(日)07時51分26秒
  【新刊】森博達著(シム・ギョンホ訳)『日本書紀の秘密』(牡牛座)/原著『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書)

 まず第一に、これは「任那(みまな)日本府説」などを含む韓日古代史の謎を一挙に明らかにしてくれる本ではない。題名の「秘密」とは「日本書紀」の内容そのものではなく、それが記された過程、特に誰が書いたのかという謎を指している。

 韓中日3カ国の言語を研究した著者は、それら3カ国の言語上の歴史や習慣を比較し、「日本書紀」という森を探検する。

 著者はこの研究を通じて、「日本書紀」が2つの部分、すなわち完ぺきな中国式の漢文を駆使した「アルファ群」と、日本式の漢語や単語選択の誤りが目につく「ベータ群」が混在していることを明らかにした、そのため、背景が異なる複数の著者が執筆を行った可能性が高いという。

 著者は中国から渡ってきた学者が執筆したアルファ群(第14〜21巻、第24〜27巻)と新羅に留学した日本人僧侶が書いたベータ群(第1〜13巻、第22〜23巻、第28〜29巻)、そしてどちらにも属さない第30巻に分けられると結論づけている。

 これを手がかりに、著者は「日本書紀」が執筆された7世紀末の状況を推理している。同書は日本で第54回毎日出版文化賞を授賞した。

キム・ハンス記者

朝鮮日報 2006/09/03  00.01
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/03/20060903000001.html
 

『女性の教育』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 2日(土)14時40分42秒
  『続日本紀(しょくにほんぎ)』を読みますと、養老六年(西紀722年)に初めて女医博士を置いたことが記されています。
(女帝である元正(げんしょう)天皇の時代/拙著『女性天皇の歴史』栄光出版社)
 これは、女性に医学を教授する学者のことです。

 『令義解(りょうぎげ)』によりますと、『養老令(ようろうりょう)』では、官有賤民(せんみん)の女性(官戸婢)のなかから15歳以上25歳までの頭の良い娘を30人選んで、七年間、産科、外科などを厳しく教えることが決められています。
 722年といいますと、養老令の編纂途中ですから、『大宝令(たいほうりょう)』にも同様のきまりがあったのでしょう。
 国の要人のお姫様の教育ではなく、賤民のなかから優れた女性を選抜して高度な医学を教えるという、今でいえば女子医大に相当する組織(しかも無料!)をつくったことは、奈良時代の日本の政治の近代性を物語っていると思います。

 明治になっての、政府公認の女医の第一号は荻野吟子(おぎの-ぎんこ)と言われていますが、明治15年に医学校を卒業したものの、官側は前例が無いとして免許を与えませんでした。
 三年後にそれが覆(くつがえ)って免許が与えられたのは、『養老令』という前例(養老令医疾令女医条)が有るという主張が通ったたからでした。
 なんと、奈良時代・八世紀初頭の法律を元にして、明治の女性医師が誕生したのです。
(ハチマキおじさんの『続日本紀』解説より)

 ところで、八世紀ごろに、貴族ではない下層階級の女性に政府が医学など高度な学問を教える学校をつくった国って、アジアや欧州にあったのでしょうか?
 

『卑弥呼と日本書紀251』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 2日(土)12時22分34秒
  [承前]

 このあたりの婚姻譚(たん)からは、神功(じんぐう)〜應神〜仁徳(にんとく)の系列が、大和(やまと)朝廷周辺の有力者や豪族たちを味方につけるために、さかんに姻戚(いんせき)関係を結ぼうとした形跡がうかがえる。
 つまり、應神天皇は大和朝廷の開祖に直結する媛(ひめ)を皇后や妃(きさき)にしたし、つぎの仁徳天皇は大和朝廷以外の大和の豪族の媛を皇后にするとともに朝廷の先祖の地日向(ひゅうが/ひむか)の媛を妃にしたわけで、母違いの兄を征伐した應神天皇系列としては、日本を統率する大和朝廷の正統的な後継者として認知されるために、万全の婚姻政策をとったのである。


▽應神天皇十四年(西暦二八三年/四〇三年)
〔百済(くだら)からの渡来人〕

 二月――
 百済王が縫衣工女(きぬぬいのおみな)を献上してきた。着物をつくる技術を持った女性たちである。
 またこの年、弓月君(ゆづきのきみ)が百済から来訪し、自分の配下の多くの技術者とともに帰化しようとしたが、新羅(しらぎ)に妨げられて技術者たちは加羅国(任那(みまな)の中心的な国)に留まっている――と訴えた。
 弓月君は秦の始皇帝の子孫と伝えられる、機織(はたお)りの技術者集団の長で、日本にとってきわめて重要な人物であった。
 そこで天皇は葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を派遣したが、三年たっても帰ってこなかった。

 戦いに明け暮れたことを想像させるが、この話はまた〈神功皇后〉六十二年にある『百済記』の内容と一致しているようでもある。
 また『好太王碑』にある西暦四〇四年の戦いと、年代がよく対応している。
 この年は一二〇年加算で西暦四〇三年になるが、前述のように『三国史記』の阿花王のこの年の記録に、倭の使者が来たので大いに厚遇した――とある。

 推理すれば、これは翌四〇四年の高句麗(こうくり)との大激戦の原因である。

[つづく]
 

Re:七夕用の贈り物セット  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 1日(金)18時42分38秒
  凄いなあ  

七夕用の贈り物セット  投稿者:岩谷文太  投稿日: 9月 1日(金)16時43分38秒
  朝鮮日報、これ何かの間違いだと思うんですが、なかなかの保存板です。訂正される前に是非御覧になって下さい。
ページの中ほどにある「七夕用の贈り物セット」の写真です。

http://japanese.chosun.com/society/
 

『卑弥呼と日本書紀250』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 9月 1日(金)11時30分36秒
  ■■■■■ 七・九 論語の到来と船団の炎上 そして高句麗国書の破棄事件 ■■■■■


◆◆◆ 第十五代 應神天皇の物語(2) ◆◆◆
   ――学者王仁(わに)の来朝と高句麗(こうくり)の非礼――


▽應神天皇十一年(西暦二八〇年/四〇〇年)
〔大池の造営〕

 十月――
 剣池・軽池・鹿垣池(ししがきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)をつくった。
 進歩した土木技術によって、潅漑(かんがい)用の大きな池をつくったという記録なのであろう。
 なおこの年にある人が、日向(ひゅうが/ひむか)の国に髪長媛(かみながひめ)というたいへんな美人がいる――と報告し、天皇は喜ばれた。


▽應神天皇十三年(西暦二八二年/四〇二年)
〔日向から髪長媛を招く〕

 三月――
 天皇は特別な使者を日向に派遣して髪長媛を召(め)した。

 九月――
 髪長媛がやってきたので、桑津邑(くわつのむら)――いまの大阪市東住吉区らしい――に住まわせた。
 このとき、後に次代仁徳(にんとく)天皇となる第四皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)がこの媛と恋人どうしになってしまったため、天皇はこの媛を皇子の妃(きさき)にすることにした。
 このときの天皇と皇子の歌のやりとりが面白い。

 この髪長媛が仁徳天皇の妃となって生んだ皇女が、のちの雄略天皇の皇后である。
 また仁徳天皇が即位したのちに定めた皇后は、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の娘の磐之姫命(いわのひめのみこと)であった。

[つづく]
 


帝國電網省:[ トップページへ ]

喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2006年10月のログ] [2006年8月のログ]

inserted by FC2 system