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喫茶室 過去ログ89(2006.10.1〜10.31)

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日本国籍を取得しない「在日」記者が言うべき事では無い  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月31日(火)21時56分8秒
  既に皆さんもご存じの事と思いますが、去る29日に開催された「第26回全国豊かな海づくり大会」に天皇皇后両陛下を招待する事を発表した佐賀県知事の臨時記者会見の席上、毎日新聞の「朴鐘珠」なる記者が、事もあろうに、斯(か)くの如(ごと)き発言を繰り返し、知事に噛(か)み付きました。

「今回の行事に、天皇と皇后が佐賀に来ることの意味って何ですか。」

「海を大切に守るためとさっきおっしゃっていましたけど、非常にそれは大事なことだと思うんですね。それに必ずしもこうやって、非常にいろいろとお金も人もかかりそうなんですけれども、このお二人が佐賀に来るということで。そこまでする価値があるんですかね。」

「ちなみに、この行事は天皇と皇后がここに来ることと来ないことと両方のパターンで、つまり、来ることによって幾らだけ予算が余計にかかるんですか。」

「つまり、私が言うのは、天皇皇后二人の関係で幾ら経費が余計にかかっているのかということです。」

だから、税金のチェック機能ですよ、いわゆる。私が言いたいのは、税金が適切に使われているのかチェックしたいので。

「別に海づくりのためだけじゃなくて、天皇皇后がここに来なくても、海の大切さ以外にも伝えなきゃいけない、例えば、教育でも福祉でも困っている人がいっぱいいるわけですよ、世の中の弱者というのは。そういった人たちにどうして目を向けられないのかなと私、疑問に思うんですね。

・・・「在日」の分際(ぶんざい)で身の程(ほど)も弁(わきま)えぬ物言いの数々。

先ず、「天皇皇后」と敬称も付けずに呼び捨てしているが、天皇・皇后には「陛下」、親王・内親王・王・女王には「殿下」の敬称を付ける事。これ、常識。そんな当たり前の事すら弁えていないのなら、記者等すべきでは無い。

次に、「税金が適切に使われているのかチェックしたい」。確かに「在日」も納税してはいるが、それを「チェックする」云々等と言うご大層な事を「在日」がしゃしゃり出て言う事も如何(いかが)なものか? 頑(かたく)なに帰化を拒(こば)み「日本国民」になろうとしないのに、やれ参政権をよこせだの、税金の適正使用をチェックする等とは烏滸(おこ)がましいにも程がある。

最後に、「世の中の弱者」云々。まさかとは思うが、此処(ここ)で言う「世の中の弱者」とは、「在日」=「外国人」であるが故に様々な障壁が存在する自分達を指しているのでは無いだろうな? 帰化したくは無い。然(しか)し、正規の日本国民と同等の「権利」だけは獲得したい、と言う思いも込めて斯くの如き発言をしたのならば、とんでも無い事である。

因みに、今回と同じ発言を石原東京都知事の記者会見でしたならば、先(ま)ず間違い無く、会見の場から退場させられただろうし、毎日新聞には「出入り禁止」が申し渡されただろう。その意味では、佐賀県知事は相当我慢したと思いますね。

『「天皇が来る意味って?」 毎日記者発言ネットで騒動』(J-CAST)
http://www.j-cast.com/2006/10/31003629.html

「天皇が来る意味って?」 毎日記者発言ネットで騒動

2006/10/31

 毎日新聞の記者が記者会見の場で佐賀県知事に「かみついた」ことが、インターネット上の掲示板2ちゃんねるを中心に、話題になっている。天皇皇后両陛下の「来県」の出費について、知事を批判する内容だったが、佐賀県で配信している記者会見の動画が、この記者の発言に絞って加工・編集され、動画投稿サイトYouTube(ユーチューブ)にもアップされた。

 2006年10月29日に佐賀県で開かれた水産振興と海の環境保全について考える「第26回全国豊かな海づくり大会」に天皇皇后両陛下を招待することを発表する佐賀県知事の臨時記者会見での出来事だ。知事のパワーポイントを使った説明のあと、毎日新聞記者は、

「今回の行事にですよ、天皇と皇后が佐賀に来ることの意味って何ですか」
「非常にこうなんかいろいろとお金も人もかかりそうなんですけれども、このお2人は、このお2人が佐賀に来るということで、そこまでする価値があるんですかね」

 などと発言し、知事に「かみついた」。

知事も、度重なる追及に苛立つ

毎日記者の「かみつき」シリーズはYouTubeにもアップされる  さらに、記者は天皇皇后両陛下の「来県」の出費について追及。「私が言いたいのは、天皇皇后、2人の関係でいくら経費がかかっているのかということです」などと発言。

「普通に県民の感覚として、(経費が)仮に1,000万円だとしましょう、天皇皇后に対して係る経費負担が。今の県の財政状況を考えたら、それすらもったいない気がするんです、僕。もっと有効な成果が出ると思うんです、海づくりよりも。別に海づくりのためだけじゃなくて、天皇皇后がここに来なくても、海の大切さ以外にも伝えなきゃいけない、教育でも福祉でも困っている人がいっぱいいるわけですよ。世の中の弱者というのは。そういった人たちに目を向けられないのかなと私、疑問に思うんですね」

 最初は冷静に応対していた知事も、度重なる追及に苛立った様子さえ見せた。

 これらの発言が2ちゃんねるで話題を呼び、確認できるだけでもスレッドが11本も作られるという、異例の騒動に発展している。

「公の場で天皇皇后両陛下に対して敬称もつけず敬語も使わず、随分と無礼な物言いだな」
「単なる噛み付き屋じゃん!」
「礼儀を知らない社会人は叩かれる。特にマスゴミは」

 2ちゃんねるではこんな具合に記者を批判するカキコミが並ぶ。

プライバシー情報までもが書き込まれる

 佐賀県の広報に「この記者はいったいどんな人なのか」と聞くと、

「個人の評価になるので、それについてはお答えできない」

 と答えるにとどまった。

 さらに、どこからの流出なのかは不明だが、2ちゃんねるには、この記者の名刺のコピーと思われる画像(へのリンク)まで貼り付けられ、プライバシー情報までもが書き込まれている。さらには記者の写真と思われる画像までもが貼り付けられている。まさに、ネット上で「さらし者」になっている有様だ。同社佐賀支局によれば、カキコミの実態については認識しているが、名刺や写真といった個人情報までもが晒されていることは知らなかったようだ。

 また、YouTube(ユーチューブ)では、佐賀県が配信している記者会見の動画を、この記者の発言に絞って編集したものがアップされ、さらには、記者のこれまでの知事への「かみつき」シーンの動画までもがアップされた。その数は確認できるだけで6本に上る。いずれも、佐賀県が配信している動画だが、思わぬかたちでこの「騒動」の火種になってしまった。


『質疑応答:天皇皇后両陛下におかれましては第26回全国豊かな海づくり大会に御臨席、併せて地方事情御視察のため御来県になります』(佐賀県:こちら知事室)
http://www.saga-chiji.jp/kaiken/06-9-28/shitsumon1.html

記者会見

質疑応答:天皇皇后両陛下におかれましては第26回全国豊かな海づくり大会に御臨席、併せて地方事情御視察のため御来県になります


平成18年9月28日

○毎日新聞

 今回の行事に、天皇と皇后が佐賀に来ることの意味って何ですか。

○知事

 この大会には毎回、天皇皇后両陛下にお越しになっていただいておりまして、今回もまた来ていただけるということであります。

○毎日新聞

 だから、そういった慣例化されているから呼んだということですか。

○知事

 もちろん、なかなか慣例化されていない特別の行事にお越しいただくことは難しく、またなおかつ、ほかにもたくさんご公務がおありになりますので、そういう中で、ぜひともこの、豊かな海をつくっていく、育てていくということが、これまで以上に私は大事になってきていると思っておりまして、その意味で、ぜひとも国民の象徴である天皇皇后両陛下のご来県をお願いしたということでございます。

○毎日新聞

 海を大切に守るためとさっきおっしゃっていましたけど、非常にそれは大事なことだと思うんですね。それに必ずしもこうやって、非常にいろいろとお金も人もかかりそうなんですけれども、このお二人が佐賀に来るということで。そこまでする価値があるんですかね。

○知事

 もちろん、私どもとしては価値があると考えております。
 そもそもこの大会自身は、天皇皇后両陛下、天皇陛下が皇太子殿下の時から豊かな海をつくっていくということに対しては大変関心をお持ちで、それでこの大会が始まったということもございます。特にこの大会については、私どもからお願いしたということもございますし、天皇皇后両陛下もぜひ参加したいというお気持ちをもって臨まれるのではないかとご期待申し上げております。

○毎日新聞

 ちなみに、この行事は天皇と皇后がここに来ることと来ないことと両方のパターンで、つまり、来ることによって幾らだけ予算が余計にかかるんですか。

○知事

 もともとお越しになっていただけないという前提での予算を組んでおりません。来ていただけるということで予算を組んでおりますので、その予算が幾らかということについては、今手元に準備をしておりませんけれども、それは大会でございますので、例えば、もっと小さくする、コンパクトにする、またはやらないと、いろんな選択があろうかと思いますけれども、私どもとしては、こうして海の大切さをこの機会にわかっていただくためにも、天皇皇后両陛下にお越しいただいて、この機運を盛り上げていきたいと、そういうふうに思っているところでございます。数字は出しておりません。

○毎日新聞

 その数字を出したものを後でお願いしてよかですか。

○知事

 数字を出すつもりはございません。

○毎日新聞

 いや、だからお願いしますと言っているんです。

○知事

 いや、それは私どもとしては、今回、これだけの額がかかっているということはもちろん、今も予算審議を通じて公表させていただいておりますし、そのことについては、別途公表させていただく、数字をお届けすることはもちろん可能でございます。それはさせていただきます。数字を出すつもりはございません。

○毎日新聞

 じゃ、今拒否されたのは何を拒否されたんですか。

○知事

 来られなかったら幾らなのかということです。

○毎日新聞

 つまり、私が言うのは、天皇皇后二人の関係で幾ら経費が余計にかかっているのかということです。

○知事

 関係でということはございません。来られなかったからこれをしません、来られたらこれをしますということではなく、全体の経費としてやっておりますので、そこを出すのは難しいということです。

○毎日新聞

 だから、出せますよね。

○知事

 いや、だから、それは出せないということです。トータルで幾らかかっているかはもちろんお出しができます。

○毎日新聞

 どうして出せないって言い切れるんですか。だって、これだけ人手を何人配置して、ここにこういうふうな警備をするとか、全部計画されているわけですね、事細かに。それを数値換算してくださいと言っているだけなんですよ。

○知事

 それが天皇皇后両陛下が来られなかったときに全く警備が必要ないのかということでありますとか、どの程度まで準備をするかということは、私どもそれを計算する考えはないということであります。

○毎日新聞

 出したら都合が悪いんですかね。

○知事

 別に都合は悪くございません。

○毎日新聞

 じゃ、出しましょうよ。

○知事

 いやいや、それは私どもではいたしません。

○毎日新聞

 だから、税金のチェック機能ですよ、いわゆる。私が言いたいのは、税金が適切に使われているのかチェックしたいので。

○知事

 もちろん、税金が適切に使われているかどうかは、全体の予算をご覧いただいて、その上で県民の方々にチェックしていただくということはもちろんそれはお願いしたいですし、ぜひそれは見ていただければと思います。

○西日本新聞

 今の関連なんですけど、今回の海づくり大会によってかかる県費の費用負担としてお幾らかかるのか、全体の額はわかりますか。

○知事

 全体の額については、ちょっと今手元にございませんが、ちょっとそれは今(確認して)申し上げます。
 準備を含めた3カ年の額の合計でございますが、5億5,001万5,000円でございます。

○西日本新聞

 知事がさっきおっしゃった天皇皇后が今回いらっしゃるというのは、今回(の会見)が発表ということになるわけですかね。

○知事

 正式には、本日の午後3時に宮内庁から発表になっておりまして、これで正式に決まったということになります。

○西日本新聞

 いらっしゃるのはいつ以来になりますか。

○知事

 平成4年だったと思いますが、平成4年の5月に地方事情御視察ということでご来県されておりまして、吉野ヶ里遺跡をご覧になった後に、佐賀市、そして多久市、佐賀県畜産試験場のある山内町、こちらを見ていただいております。

○毎日新聞

 5億5,000万幾らとおっしゃったんですけど、この額がこれだけ財政がひっ迫している中で、本当に豊かな海づくりを後世に伝えていくために大事なことですけどね、適切な、一番効果的なお金の使われ方なんですかね。

○知事

 機運を盛り上げていくためにいろんなやり方はあると思うんです。これが唯一無二のやり方かと言えば、それはそうではないかもしれませんが、これは極めて有効なやり方だというふうに私たちは考えております。

○毎日新聞

 しかし、先ほどおっしゃったのは、私どもがお願いしてというふうにおっしゃいましたよね、天皇皇后両陛下を招へいすると。だから、お願いしたわけですよね、来てくださいと。

○知事

 ええ、そうです。

○毎日新聞

 だから、来ない場合と来る場合で、両方とも試算って出ないんですか。来ない場合も想定されていたわけですよね。

○知事

 私どもは来ていただくかどうかというのは、最終的に今日の時点で宮内庁から発表になったわけでありますけれども、お越しいただくという前提でずっと作業自体を進めてきております。

○毎日新聞

 何か私の言っていることがあんまり通じていないような気がするんですけど。
 今日来ないという発表があっていたらどうなっていたんですか。

○知事

 だから、今日来ないという発表にはなりません、それは。これはずっとちゃんと積み上げをしておりますので。

○毎日新聞

 最初から来るとわかっていたんですよね。

○知事

 いやいや、だから、来られるかどうかということの判断は、それはいろんなプロセスを経て判断があるわけでありますから、最初からお越しになることがわかっていたということではございません。

○毎日新聞

 普通に県民の感覚として、例えば、5億5,000万円の金がここに費やされると。このうち、仮に1,000万円だとしましょう、天皇皇后に対して係る経費負担が。それだけじゃないと思うんですけれども。仮に1,000万円だとしても、今の県の財政状況を考えたら、それすらもったいない気がするんです、僕。もっと有効な成果が出ると思うんです、海づくりよりも。別に海づくりのためだけじゃなくて、天皇皇后がここに来なくても、海の大切さ以外にも伝えなきゃいけない、例えば、教育でも福祉でも困っている人がいっぱいいるわけですよ、世の中の弱者というのは。そういった人たちにどうして目を向けられないのかなと私、疑問に思うんですね。

○知事

 いや、それは違います。弱者の方に目を向けるのはもちろん必要なことで、それをやらなくちゃいけないから、こういう大会をやってはいけないとか、こういう大会をやるときに、天皇皇后両陛下のご来県を仰ぐというのがおかしいということにはならないと思うんです。
 例えば、福祉だとか、弱者に対する施策は施策としてきちんとやっていかなくてはいけません。また、天皇皇后両陛下は、必ずこうしてご来県になった折には、弱者と言われるところに必ずお寄りいただいて、お励ましをいただいたり、また私どもとしても、そうやって改めてそういった施策を充実しなければいけないということを考えるわけです。
 私は、そのこと自体はもちろん賛成、反対いろいろあると思いますけれども、そうした中で、今回やることについても、また予算を組むことについても公表をし、ご審議をお願いし、実行をしているということであります。
 今、お話のあったようなご意見があることは、あることとして承知をしておりますけれども、こうやって来られるということでありますので、私どもは歓迎をしたいと考えております。

○NBC佐賀

 4日間の行程の中で同行される予定というのは、何日かおありなんでしょうか。

○知事

 基本的に、最初から最後までずっと同行させていただきます。

○佐賀新聞

 即位後2回目の来県ということで、皇太子時代を含めた佐賀への来県は何回になるかわかりますか。

○知事

 平成になってからは1回であります。そして、皇太子時代には、昭和51年の11月に全国身障者スポーツ大会、これで1回、同じ年の9月に国民体育大会の夏期大会にご来県、これで1回、そして、昭和44年の11月にご視察をいただいておりまして、これが1回ということで、昭和の時代には合計3回ご来県いただいております。

○毎日新聞

 今回もやっぱり沿道にいっぱい子供たちとか、大人たちも含めて、小旗を振るような動員はされるわけですかね。

○知事

 動員ということではございませんが、そういったことをしたいという方は沿道に出られると思います。

○毎日新聞

 じゃ、県庁側からそういう催促はしないということですね。

○知事

 県庁の方からぜひ出てくれというようなことはございません。

○毎日新聞

 動員はされないということですね。

○知事

 動員はいたしませんが、ご案内はいたします。

○毎日新聞

 どういう意味ですか。

○知事

 つまり、何時ごろここをお通りになるとか、そういったことは情報提供の上、申し上げます。

○毎日新聞

 よくある日の丸の旗は誰がどこから持ってくるんですかね。県庁は用意されないということですか。

○知事

 県庁は準備をしません。

○毎日新聞

 市町村ですか。

○知事

 いや、ちょっとそこははっきりしないといけないですが、市町村が準備している可能性もありますが、少なくとも県庁は準備をしません。

○毎日新聞

 後でちょっと確認をとらせてください。

○知事

 はい。

○読売新聞

 来年の大会が滋賀県であるらしいんですけど、滋賀県の知事さんがおっしゃっていたんですけど、やっぱり厳しい財政状況の折、この海づくり大会にかける支出をちょっと抑えたいということで、3億円程度でやるという方向で進めているらしいんですよね。それについては、佐賀県でそういう支出を抑えるような方向での検討というのはなさったことはありますか。

○知事

 それはいたしました。例えば、典型的な例で申し上げれば、今、JR佐賀駅に「豊かな海づくり大会まで何日」という掲示板がありますけれども、あれ自体がそもそもよその県で使っていたものの使い回しで手に入れております。そういったことを初めとして、できるだけ経費を節減していこうということで私どもとしてもやらせていただいております。
 ただ、ほかの県と違いますのは、今回、玄界灘と有明海という二つの海を舞台にしてやるという、これが初めての試みになっています。ほかの県ではすべて1 カ所でやっておりますので、佐賀県は2カ所でやる分、ややお金がかかっているという部分がございますけれども、かなり経費節減は図っているつもりであります。

○佐賀新聞

 28日の歓迎レセプションで、「佐賀県スタイルメニューにより歓迎」と書いてあるんですが、これは具体的にどういったイメージなんでしょうか。

○知事

 佐賀県スタイルというのは、今県庁で進めております、材料の3分の2以上を必ず佐賀県産のものを使った料理や、やり方でおもてなしをするということでありまして、もちろん、有明海の特産品ということもございますし、それだけではなくて、佐賀県内の農産物や水産物、そういったものにあふれる料理にしたいということであります。


『毎日新聞の在日記者「朴鐘珠」が天皇皇后を佐賀に呼ぶなと知事にかみつく』(YouTube)
http://www.youtube.com/watch?v=xBvWHz5oYX0

 

『卑弥呼と日本書紀308』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月31日(火)13時06分48秒
   これから第八章に入ります。
 これまで『魏志倭人伝』の概要や論争の歴史について記し、そして、「《邪馬台国》大和(やまと)説」における〈卑彌呼〉の主要な候補として、
〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉説
〈神功(じんぐう)皇后〉説
 ――について記してきました。
 本連載は冒頭に目次を記しましたように、第十章までですが、あとの章が長いので、ここまでで約半分です。
 つまりこれから後半戦に入ります。
 後半のほとんどは、第三の説である〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉説に関連しています。
 わたしは、「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」に傾いておりますが、それは、平成に入ってからの考古学の発展が、それを支持しているように思うからです。
 九州説か大和説かについてですが、現在、専門の考古学者のなかに九州説はほとんどいなくなったと言われています。
 しかし、断言してしまうのは非科学的だと考えています。
 現時点で知られている文献史料と考古学史料を総動員しても、言えるのはせいぜい「可能性が高い」というところまでだと思います。


■□■□■ 第八章 〈倭迹迹日百襲姫命〉が活躍する崇神(すじん)天皇の時代 ■□■□■


味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積るまでに・・・
〔額田王(ぬかだのおおきみ)/天智(てんじ)天皇(万葉集17)〕
「奈良の山の端に隠れてしまうまで、道の曲がり角が重なるまで、三輪山を見ていたいのに・・・。(味酒は三輪にかかる枕詞(まくらことば))」

三輪山の 山辺真麻木綿(やまべまそゆふ) 短木綿(みじかゆふ) かくのみゆゑに 長しと思ひき
〔高市皇子尊(たけちのみこのみこと 万葉集(まんにょうしゅう)157)〕
「三輪山の山辺にかけた麻や木綿、その短い神事の幣帛のように、かくも短い命であったのに、私は長いものだと思っていたことだ。(大友皇子(おおとものみこ)の妃(きさき)十市皇女(といちのひめみこ)を想っての歌ともいわれる)」

いにしへに ありけむ人も わが如か 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ
〔柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)歌集(万葉集1118)〕
「むかしの人たちも、いまのわれわれがしているように、三輪の檜原で檜の枝葉を髪にかざしていただろうか」


[次ぎは「第八・一節 大和朝廷の実質的な創始者? 第十代 崇神天皇の即位」]
 

待望の『日本後紀』現代語訳  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月31日(火)12時30分58秒
  森田悌(現代語訳)『日本後紀 上』講談社学術文庫(200610)

 上巻には序文および巻第一から巻第十三までの現代語訳を収録。
 全三巻の予定です。
 中・下もはやく出てほしい。
 わかりやすい現代語訳と原文があります(ただし注や解説はありません)。
 また特筆すべきは、逸文がすべて収録され現代語訳されていることです。

『日本後紀(にほんこうき)』は『日本書紀(やまとのふみ)』、『続日本紀(しょくにほんぎ)』につづく、我が国三番目の正史ですが、全40巻のうち全文が残っているのは10巻のみ。
 したがって、紛失した巻の逸文による推理がきわめて重要です。
 訳者の森田悌は、古代史の本を多く出しています。
 前に集英社から『訳注日本史料日本後紀』を出しておられるとのこと。

 今回この文庫の刊行は、オロモルフのような素人の歴史好きにとっては、じつに有り難(がた)いことです。
 奈良時代末期から平安初期にかけての日本の中枢の動きが、とてもよくわかります。
 ざっとみた感想では、『続日本紀』とよく似ています。

 これまでは、吉川弘文館の原文のみしか家に無かったので、『女性天皇の歴史』や『皇統の危機に思う』を書きますときの引用には苦労しまして、まるで判じ物を見るような思いでしたが、この訳書によって、断然わかりやすくなりました。
 しかも現在までに発見されている逸文がすべて収録されておりますので、全貌がわかります。
 HPで訳者の思想を見ますと微妙なのですが、類書がありませんから、お薦めいたします。

 訳者略歴――
 1941年埼玉県生まれ。
 東京大学文学部国史学科、同法学部公法課程卒。
 文学博士。
 金沢大学教授を経て群馬大学教授。
 著書多数。
 

キリスト教の お盆  投稿者:えこね  投稿日:10月31日(火)08時26分47秒
  神の国に召(め)された信者を記念した冥福礼拝の日
11月1日(天に一つ太陽数11)

11月1日 全聖徒の日
(萬霊節・亡くなった全てのキリスト教徒の祭日)

10月31日 メイフラワー号ほか飢えた白人が、インディアンから冬越しの食料を貰った日。
 

>西公主……  投稿者:黄東洋  投稿日:10月31日(火)03時24分24秒
  >西公主(しークンちゅ・セークース・アメリカ兵相手の韓国のお嬢、アガシ[ねーちゃん])

これも怪しいですね。

「西公主」はシナ語で xigongzhu,朝鮮語で文字轉寫 seo-kong-cu(慣用表記 seogongju)ですから。
「西」の日本語音 sei と sai はシナ語の方言にあるでしょう。例えば廣東語【くわんとんご】で sai です。
しかし、「公」を[ku:]と發音する(語末 ng 消滅)のはシナと朝鮮では起こりにくい現象です。

↓ユーラシア言語研究

http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

年末の社会奉仕など  投稿者:えこね  投稿日:10月30日(月)18時08分53秒
  うたごえ運動(音楽によって社会を変える活動?)

セツルメント(保隣区?・貧民救済活動?・上野サンヤ[山谷]のハレルヤおばさん?)

社会鍋(慈善献金の活動?・救世軍−銀座−神保町)
 

テロ警戒?(ニュース)  投稿者:えこね  投稿日:10月30日(月)17時56分0秒
  東京大学
29日未明〜30日未明にかけて、24時間東京・文京区の東京大学の赤門前に所用でいたのですが、そこで、東京消防庁の「化学機動隊」なる消防車が24時間張り付いているのを見ました。もしかして、北朝鮮の化学テロを想定して、予防でいたのでしょうかね?

>東京駅から長い歩道をとおってJR京葉線に乗れば

京葉線は首都圏のJRでは一番新しい路線で、平成2年に全線開業した路線です。

沿線の新浦安駅付近では最近超高層マンションが多く建っています。
ほかに、幕張の超高層ビルやマリンスタジアムがある海浜幕張駅などがあります。

京葉線東京駅ホームのある場所って、成田行き新幹線が計画頓挫してできた場所です。
 

Re:『推薦する本(その二)』  投稿者:利亜  投稿日:10月29日(日)22時30分28秒
  >1980年代の青春時代には、中国の反日感情はそれほどではなかったそうです。

黄文雄氏の著作(題名は忘れました)で「日本は米帝国で走狗で開放してあげなければならない」との趣旨を著作で書かれていました。
政策としての反日が本格的に行われるのはオロモルフさんの云う通り1990年代の後半・・・

それも江沢民時代のことですから建国当初の一貫して反日を国是として行っている韓国から見てみれば反日に関しては中国は韓国の後輩になるのですね(苦笑)

毛沢東時代は「日本のお陰で共産党は中国の覇権を握った」と言う考え方だったから反日と言う要素が少ないのは当然なのでしょう。



>李朝太祖・李成桂の父は名を「李子春」と言いますが、元の名は「吾魯思不花(ウルス=ブハ)」、曾祖父・李安社の官名は高麗宜州「達魯花赤(ダルガチ)」。
(中略)
>李王家が生粋(きっすい)の朝鮮人で無かった事は明白であり、言い換えれば、李氏「朝鮮」は、満州族出身の李王家とその取り巻きであった貴族(両班 ヤンバン)によって支配された「征服王朝」だった共言えますね。

これは中華を支配した隋・唐王朝。

そして(北)インドを支配したムガル帝国にも共通していることと言えますね。

李成桂の父が名がウルス・ブカと言うのは知っていましたが曾祖父がダルガチだったと言うのは初耳でした。
李氏が高麗(こうらい)人のコロニーを管轄していたのは知っていましたが。

管理人さん

挨拶が遅れてすみません。
現在、仕事で色々ゴタゴタしていて精神的に凹んでいますので前回の書き込み時に挨拶をしなかった非礼をここでお詫びします。
 

2番手(キツネ[和]・よう[韓])のほかに  投稿者:えこね  投稿日:10月29日(日)22時05分41秒
  羅閤(らハブ・百済の蛇女[羅州(なジュ)の、しつこいオンナ])

西公主(しークンちゅ・セークース・アメリカ兵相手の韓国のお嬢、アガシ[ねーちゃん])

この言葉は、日本語の語感では考えられないと思います。
 

両鬼子(りゃんくいず)以外の侮蔑語  投稿者:えこね  投稿日:10月29日(日)21時57分44秒
  石韃子(シーだーつ・日本人)→東洋鬼(とんヤンキー[ぶたアメリカ])・
               日本鬼子(リーぺんクイず・鬼=亡霊・幽霊・不気味な者)
平=兵[ピン・ぼんくら]

韃子(韃靼)→蒙古(もうこ/モンゴル)

満韃子(マンだーツ・満洲)→東胡・烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ/セルベ)・渤海靺鞨(ぼっかいまっかつ)・契丹(きったん/キタイ)・女直・女真・ジュルチン

韃虜(満人・清朝の旗人・満洲八旗)

北虜(北元国・蒙古王朝の北帰した蒙古人)

魏虜(北魏の鮮卑族の事、北魏を後魏ともいう、皇室は拓跋(たくばつ)氏)
 

コピペですがドウでしょうか?怪しい説か?  投稿者:えこね  投稿日:10月29日(日)21時48分54秒
  このことは事実だと思います。
証拠を挙げます。
  1. 檀君神話です。(私は鮮卑(せんぴ)の檀石槐のパクリと考えます。)
    そこで熊と虎が出てきますが神話の中と、漢城(ソウル)オリンピックでのマスコットの虎では扱いを見ますと民族が違うとしか考えられません。
  2. 魏志東夷伝です。(当時三韓で、150ぐらいの国、倭は30の国)
    倭人の項で、倭の北岸との記述で、倭の領土が半島にありました。また、対海(半島から見て海へ)という表示で、対馬(日本から見て馬韓へ)が表現されています。記紀の島引きは出雲風土記(いずものくにふどき)に原型があるといいます。松島、竹島を経由して、半島への道があったと考えられます。また、佐賀県には渡馬島との名前の島があり対馬と同じ役割を果たしていたと思われます。それらの倭の国々の半島の領土が拡大の後が任那(みまな)日本府です。
  3. 唐・元のとき強制的に風俗を変えました。支配層が変わったことがわからない様にです。高句麗(こうくり)・百済(くだら)は夫餘の流れとなっていますが、新羅(しらぎ)は異民族です。また、高麗(こうらい)、李氏朝鮮は一軍人の反乱が、建国ですから、素性(すじょう)がわかりません。そのための事大です。
  4. 文字を捨てました。昔の文献、歴史書を一般の人は読めませんので、前の時代と断絶しています。
以上が私の意見です。

『どうして韓国は「大韓民国」なんて名をつけたのか』(2ch)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1161264530/163-263
 

『推薦する本(その二)』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月29日(日)13時19分29秒
  ◎石平『私は「毛沢東の小戦士」だった――ある中国人哲学者の告白――』飛鳥新社(200610)

第一章 われら「天安門世代」の精神的履歴書
第二章 私が「反日中国」に叛旗を翻した理由
第三章 「中華」という呪縛から脱すべき時
第四章 日本で学んだ論語と儒教の心
第五章 私は見惚れたこの「美しい国」日本

 石平(セキ・ヘイ)さんは、多くの著書や論文で、親日的発言をしている中国人として知られています。

 本の帯にある惹句は――
「共産党政権に洗脳され、騙され続けた知識人の慟哭と、祖国への決別の手記」

 カバーに書かれている略歴は――
「1962年、中国四川省に生まれる。1984年、北京大学哲学部を卒業。四川大学哲学部講師を経て1988年に来日。神戸大学文化学研究科博士課程を修了後、民間研究機関に勤務。2002年に『なぜ中国人は日本人を憎むのか』(PHP研究所)を著して中国における反日感情の高まりについて先見的な警告を発して以来、評論活動に入る。著書に『中国「愛国攘夷」の病理』(小学館文庫)、『「日中友好」は日本を滅ぼす――歴史が教える「脱・中国」の法則』(講談社+α文庫)、『日中の宿命』(扶桑社)などがある」

 親日的な発言を多くしてきましたが、自分がなぜそうなったのかを、自伝的に告白した本で、とても参考になります。
 子供のころは、「毛沢東を神のように敬い、中国人は世界でもっとも幸福で、他の資本主義国の人民は哀れだ」と洗脳されて、「毛沢東の小戦士」たらんとしたのですが、大学に入ってから民主化に目覚めました。
 そして来日して、知らなかった日本の現実を知って、自分が受けてきた教育がいかに間違っていたかを痛感。
 しかしそれでも、1980年代の青春時代には、中国の反日感情はそれほどではなかったそうです。
 それが酷くなったは、1990年代の後半からで、これは明らかに北京政府による強力な洗脳工作のため――と断言しています。

 石平さんは北京大学を出た非常な秀才です。
 同じ在日中国人でも、頭の良い人ほど早く洗脳が解けて日本の保守派が好きになるようですね。
 一昨日の金文学さんも同様です。
 

>(上古音では……  投稿者:黄東洋  投稿日:10月28日(土)12時54分14秒
  >(上古音では「中山[ちゅんサン・ちゅサン]」と「朝鮮[ちゃおシェン・ちゃセン]」で発音が同じ)

これは疑問ですね。
朝鮮語では「中山」は cung-san [t∫uŋsan],「朝鮮」は co-seon [t∫osΛn]です。
(c はいわゆる平音=無気音の破擦音[t∫],慣用では ch または j で書かれる)

北京語では「中山」は Zhongshan [ts.uəŋs.an],「朝鮮」は Chaoxian [ts.'ausiεn]です。
([ts.]は舌先を後ろ向きにした[t∫].zh [ts.]は無気音で ch [ts.']は有気音)

いずれも古代シナ語からですが、「中」はシナ語上古音 tiong,中古音 tiung で、假に朝鮮語に tyung[tjuŋ]として入って初声が破擦化したと假定しても、朝鮮古音で「朝」と同音とは思えません。
「中」の最後の ng が古代朝鮮で一時的に脱落して、また元通り復活したのでしょうか?

「中」を日本語で「ちゅう」[t∫u:]と読むのはシナ語音の ng を u にしたからです。
「中」はヴェトナム語で trung,インドネシア語で tiong です。
朝鮮語で[t∫uŋ]が[t∫u]になるとは思えません。

「朝」は朝鮮語で co [t∫o]で日本語音「ちょう」[t∫o:]と似ています。
しかし、日本語古音は「てう」[teu]であり、古代シナ語音は teu か tieu のような発音だったと推定されています。
「朝」を音符とする「潮」の場合、「潮州」がシンガポール当たりの英語で Teochew になるところを見ると、「潮」teu がシナ語のどこかの方言で teo になったのでしょう。
「朝」の朝鮮語音も古い時代は *tyo [tjo]のようなものだった可能性がありますが、上記のように「ちゃ」[t∫a]というのはいつの時代でしょうか。

「山」はシナ語で 上古音 san>s.Λn(s.は巻舌)>s.an(shan)という変遷で、朝鮮語で san.
「鮮」はシナ語で 上古音 sian>siεn(xian)という変遷で、朝鮮語で seon [sΛn].
朝鮮語の「鮮」が sen に近くなることはありえます。
だから Seoul [sΛul]は[seul]に近くなり、佛語と露語では[seul]です。

「金策」という地名は朝鮮語で kim-chaik [kim-t∫hεk]のようです。
これは「英雄の名前」ですか。
なるほど、「金」が kim になっている理由がわかりました。
朝鮮語で人名の「金」は kim ですが、金属の「金」は keum(平唇の kum)です。
ですから「金剛山」は朝鮮語で keum-kang-san(Keumgangsan)で、「金曜日」は keum-yo-il になります。

「金」は日本語の呉音で「コン」kon,漢音で「キン」kin ですが、朝鮮ではこれが意味の違いに発展したのでしょう。

日本で「金正日」を「きんしょうにち」と呼ぶ人がいますが、呉音なら「こんしょうにち(<こんしやうにち)」、漢音なら「きんせいじつ」です。
もっとも日本語では呉音と漢音を混ぜるのは昔から多く、別に変ではありません。
「京城」を「けいじょう」と読むのも怪しいですね。音の体系を揃えると「けいせい」か「きょうじょう(きやうじやう)」でしょう。

語源論というのは類推の域を出ないのであって、音声表記からして疑ってかかるべきです。
また、梵語など外語の古音をカタカナで書くと、もう原音がわからなくなります。

渡部昇一さんまで『日本とシナ』で「蜜」の印欧祖語音をカタカナで書いていますが、あれはやめてほしいです。

↓ユーラシア言語研究

http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

『卑弥呼と日本書紀307』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月28日(土)12時24分58秒
  [承前]

◎『日本書紀(やまとのふみ)』にある「金策」も重要。

 北の船名の「金策(キムチェク)」は英雄の名前だが、日本の「金策」には、経済がらみの意味のほかに、もっと重要な意味がある。
 日本の古代文献では「金策」は「キンサク」または「こがねのふだ」と読む。

『日本書紀』の孝徳天皇の即位前紀に、

「辛亥(645年6月15日)に、金策を以(も)ちて阿倍庫梯麻呂大臣(あへのくらはしまろのおほおみ)と蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだのいしかはまろのおほおみ)とに賜(たま)ふ」

 ――とある。

 この金策は、黄金製の札(ふだ)に詔(みことのり)を書いて臣下に賜うもので、勲章に近いものであろう。古くは『文選(もんぜん)』にあるらしい。

 とくに天智(てんじ)天皇元年(662年)五月の次の記事は重要である。

「大将軍大錦中阿曇比邏夫連(だいきむちうあづみのひらぶのむらじ)等、船師一百七十艘を率て、豊璋(ほうしやう)等を百済(くだら)国に送り、勅(みことのり)を宣(の)りて、豊璋等を以ちて其(そ)の位を継(つ)がしむ。又、金策を福信(ふくしん)に予ひて、其の背を撫で、褒めて爵録賜ふ。時に豊璋等と福信と、稽首(をろが)みて勅を受け、衆、為に涕を流す」

 百済滅亡時の悲劇の主人公たちだが、ここで注目されるのは、大和(やまと)朝廷が百済に対して完全に宗主国としての立場で行動していることである。
 だから天皇は豊璋を百済の王に任命し、福信将軍に「金策」を授け、それを受けた百済王や将軍は平伏して天皇を拝んだのである。

 豊璋のことは第八章の《大神(おおみわ)神社》の話のところで述べるが、いずれにせよ大和朝廷にとって百済は係属国であったことが、この「金策」のエピソードからでもわかる。

[これで第七章を終了する。次は第八章『〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が活躍する崇神(すじん)天皇の時代』である]
 

極めて不快です  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月27日(金)22時51分12秒
  関東軍の二等兵 もとい 江戸人さん

>自分の意見と違う人間に対してまったく聞く耳を持たないところ

「聞く耳を持たない」のであれば、私自身、即刻削除していますし、過去ログへの収録もしません。因(ちな)みに、私は今迄(いままで)貴方(あなた)の投稿を、私の考え方と違うからと言って、一度でも削除(排除)した事がありましたか?

>まぁここはそういう一般社会から隔離されている人たちがぼやく所だから仕方ありませんが。

この発言、当掲示板の管理者として聞き捨てなりませんね。此処(ここ)は、「teacup」の掲示板システムを利用していますが、管理者である私が料金を支払ってスペースを借りている有料掲示板です。その掲示板に於いて、斯様(かよう)な発言を看過出来る程、私は生憎(あいにく)と了見が広くはありません。

>しかし、こういった偏った意見を待った人たちの発言を聞くのも面白いから
>ここにきているし、学校では左のことしか教わりませんからたまには右思想も知りたくな るわけです。

単に「面白い」と言った理由で来て欲しくはありませんし、貴方の様な人物に「右思想」を知ってもらいたい共思いません。

「右思想」を小馬鹿にし、嘲笑するのなら、愛知県人さんが仰有(おっしゃ)った通り、どうぞ、

>反日掲示板にでも書き込んで溜飲(りゅういん)を下げて

下さい。
 

『卑弥呼と日本書紀306』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月27日(金)17時14分34秒
  [承前]

◆◆◆ 天皇を慕(した)った百済(くだら)の王族 ◆◆◆

◎『金策号』の奇妙な行動。

 平成十四年、小泉総理が北朝鮮訪問を発表した八月三十日の直後から、能登半島沖合に北朝鮮の船団が現れ、日本の警備船に船体を見せびらかせるようにして航行してから去ってゆくという奇妙な事件が起こった。
 その中に、日本側にはっきりと船腹を撮影させた船があり、その船腹には『金策(キムチェク)号』と記されていた。
「金がほしい、なんとかしてくれ」というブラックジョークのように思った日本人も多かったが、防衛庁は、『金策』とは北朝鮮の地名であると発表した。
 しかしそれが北の英雄の名だとは言わなかった。

◎人名としての金策。

 これについて、月刊日本の論説委員である山浦嘉久は、つぎのように記している。
 金日成(キム-イルソン)はコミンテルンの捏造に乗って平壌(ビョンヤン)に凱旋したが、その後粛清によってソ連派を壊滅させて独裁権力を確立したと言われている。
 このとき金日成にソ連派粛清を助言したのが金策だとされている。
 金策は、併合時代に朝鮮にいて諜報活動をした明石元二郎(日露戦争時の諜報活動の責任者で後に台湾総督)とも密接なつながりがあったとされ、息子には「国泰(国家安泰)」というじつに日本人的な名をつけている。
 おそらく、明石から学んだ諜報活動の要諦を実行したのだろうが、ソ連派粛清の功績によって、出身地の「城津(ソンジン)」は「金策」と改称され、また「金策工科大学」という大学が出来た。
「城津」とは、北緯40度40分のあたりの東海岸にある町。
 当然ながら『金策号』はこの日本にゆかりの金策氏から来た船名で、日本のマスコミはそこまで考察すべきであったが、同時に、『日本書紀(やまとのふみ)』にある「金策」もまた重要である。
 それを次に述べる。

[つづく]
 

朝鮮の語源の薀蓄(コラム)  投稿者:えこね  投稿日:10月27日(金)08時56分59秒
  > セ+マウル(新しい+村)運動
> ハング+マウル(大+村)
> ハング+ウル(大きい+字)
> 百済(ぺくちぇ・くだら)が
> なぜ偉大な村という意味と解説する辞典があるんだ???
> 意味不明。。。

「百済(くだら)」の語源を、現代韓国語をもってきて「クン・ナラ(大きい国)」なんていうのはコジツケ電波。

「百家済海」(百家族が海を渡ってきて建国したから)の略、ってのは三国史記の説だが、これも金富軾が漢字の字づらだけでこじつけた妄想で12世紀の電波説。

【「朝鮮」の語源・5類11種の説】
1)朝=潮、鮮=汕と同音であり、平壌付近を流れる川の名「濕水」「洌水」「汕水」(他に音の説明を借りて「潮水」というのもあったかと推定されるのように示唆されている)から。(「史記」「通典」の注にある最も古典的な説。前四世紀頃には明らかに現在の平壌を中心とする北朝鮮をさして使われている。)
2)漢語で、その意味のままだとする説(細かくは以下の三説があるがすべてコジツケの類)
2−1)中国人が「朝光鮮麗」の地とよんだため(「東國輿地勝覧」の説)
2−2)「東表日出の地」
2−3)「静かな朝の国」(英語圏に広まっているが由来不明)
3)元になる朝鮮語もしくは概念があってそれを漢字に訳したり音写したりしたという説(細かくは以下の三説があるが学問的には信憑性が極めて薄いかもしくはすでに否定されている)
3−1)「朝の鮮やかな国(コヨハン アチメ ナラ)」
3−2)檀君説話に出てくる古地名「阿斯達」を漢文に意訳した(李炳涛の説)
3−3)「チョッ」(初めて)「センダ」(夜明け)を漢字に意訳(崔南善の説)
4)戦国時代に斉(山東省にあった国)で書かれた管子という書物があり、この書は春秋時代に仮託して書かかれたため、本文の中では「鮮虞(せんぐ)=中山」の古雅な呼び方として「朝鮮」という表現を創作した。(中山は河北省石家荘市付近で、その古地名が鮮虞という。上古音では「中山=朝鮮」で同音。)この朝鮮という語は本来は河北省あたりを漠然とさした(井上秀雄ほかの説。しかし河北省にあった「燕国」では自国を朝鮮とは思わず、自国の東(今の北朝鮮方面)を朝鮮と呼んだ)
5)2ちゃん嫌韓厨で人気のヨタ話
(以下の三説あるが漢文の読み方がでたらめ。まじめな嫌韓派は恥ずかしいので真似(まね)してはいけません)
5−1)朝は「朝貢」、鮮は「少ない」で「貢ぎ物少なし」の意味
(『諸君!』2002年4月号所載の「阿片としての中華意識」という駄文の中で高木桂蔵(静岡県立大学教授、ただし編集者、ジャーナリストあがりで専門は国際関係とか現代政治の方らしい) というドキュン学者が流したデマ。)
5−2)朝は「朝貢」もしくは「天朝(中国)」、鮮は「鮮卑」で「朝貢する鮮卑」または「天朝(中国)の属国である鮮卑」の意味(2chの一部の嫌韓厨の妄想。鮮卑(遊牧民族の一種)の出現より朝鮮という言葉の方がはるかに時代が古い。)
5−3)他に「朝(まつりごと)鮮(つきたる)」とかいってる奴もみたことがあるなぁ。
 

うんちく  投稿者:えこね  投稿日:10月26日(木)23時11分29秒
  「朝鮮」という単語は前四世紀くらい。「管子」という書物に「燕」と敵対し「斉」と交易する勢力として出てくる。これは実は今の河北省石家荘市あたりにあった「鮮虞(せんぐ)」という国名からとったもので河北省あたりを漠然とさした言葉。「管子」は春秋時代に書かれたという設定で実は戦国時代に作られた偽書。なので、この時代は鮮虞はすでに「中山」と改名されていた。中山を、古雅な表現に当て字し直したのが「朝鮮」。(上古音では「中山[ちゅんサン・ちゅサン]」と「朝鮮[ちゃおシェン・ちゃセン]」で発音が同じ)

しかし燕(ペキンを中心とした国)は自国の東側(今の北朝鮮)を朝鮮とよんだ。この用法は「戦国策」という書物の中で BC334年に蘇秦が燕王に合従(がっしょう)策を説くくだりにあらわれるのが最初。今の平壌には列水(今の大同江)が流れ、その支流の潮水・汕水のほとりを朝鮮とよんだ。(潮・汕=朝鮮と同音)

BC194年にできた衛氏朝鮮は司馬遷がそうよんだだけで本来の国名は不明。衛氏朝鮮には「朝鮮相」という役職があった。またBC108年に楽浪郡が設置されてからは、衛氏朝鮮の「王険城」は「朝鮮県」と改名された。以後、数百年に渡って、朝鮮といえば事実上楽浪郡をさす用法が定着。(箕子朝鮮というのは説話上の存在であり、実在しなかった)
李氏朝鮮は、箕子朝鮮伝説に基づいて、その復興という意味。
 

『推薦する本』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月26日(木)13時23分48秒
  井沢元彦・金文学『逆検定 中国国定教科書――中国人に教えてあげたい本当の中国史』祥伝社(平成17年9月)

1章 中国における「歴史教育」とは何か
2章 国定教科書の「歴史記述」を検証する
3章 教科書以外に見る中国歴史教育の実態
4章 中国人の取り扱い方マニュアル
巻末年表「これが中国史の真実だ」

 井沢さんは逆説の日本史シリーズで有名。
 金文学さんは中国で生まれ、1991年に来日し、日・中・韓の三カ国語で40冊以上の本を刊行している人。中国で多くの文学賞を受賞。

 井沢さんのまえがきから――
「・・・世界の大国の中で、中国ほど歴史を歪曲し、それで国民を洗脳している国家はないからです。歴史をメチャクチャに歪曲しておきながら、他国に対しては「歪曲するな」と非難する。それが中国です。
 中国が、自国の歴史教科書において、いかにインチキ・デタラメを教えているかを、中国で実際にこうした教育を受けてきた金文学氏とともに、克明に分析したのが、この本です。・・・」
 

ふーん  投稿者:広東軍の屯田兵  投稿日:10月26日(木)13時03分34秒
  華のお江戸に住む支那人でしゅか。ふむふむ。
支那人だったら、とっとと水も空気も汚い大陸へ帰ってくれましぇんか?
日本には、ちみのような支那人はいらないから。
ばいばい(ぷ)
 

『卑弥呼と日本書紀305』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月26日(木)12時18分54秒
  [承前]

◆◆◆ 冗談ではない喩(たと)え話 ◆◆◆

 渡部昇一先生の前記した説〔一〕と〔二〕に関連して、次のようなたとえ話も出来ると思う。

『南樺太(からふと)には、明治時代から、日本から渡った人たちがたくさん暮らしており、したがって日本の文化圏になっていた。
 ところが、昭和二十年、ロシアが北から押し寄せてきた。日本人は命からがら、北海道などに逃げ、樺太はロシアが占有してしまった。
 何百年かたってロシアの歴史家がこのことを自分たちに都合良く解釈して、
「いま日本に住んでいるのはロシア領の樺太から渡った人たちの子孫である。つまり日本人の先祖はロシア人であり、日本の文化はロシアがつくった」
 ――のように主張した』

 反日家たちが盛んに言っている「日本人の先祖は韓国人で、日本の古代文化は韓国人がつくった」という話は、これに近いレベルのナンセンスさではないだろうか。

[つづく]
 

冷静ですが?  投稿者:愛知県人  投稿日:10月25日(水)23時52分7秒
  相手しなければいいんですが・・・・・(苦笑)

>我是日本人。
↑あ、支那の方でしたか。これは失礼致しました。でも折角(せっかく)だからアイアムザパニーズの方がよかったかも知れませんよ。(爆)
あ、私ですか? ええ、ひねくれてますとも。しかし少なくとも貴殿のような暗〜いひねこび方よりはよっぽどマシだと思ってますがね。高校生で既にそんなことでは将来大した人間になると思いますよ。←褒めてます(笑)
それから「説得力がないし、客観性に掛けている」点を、私のような莫迦(ばか)にもわかるよう具体的に説明してくださいね。抽象的な言葉を並べただけでは誰も納得してくれませんよ。貴殿がそういうことを言うのであれば、貴殿がまず此処(ここ)の常連の方たちがぐうの音(ね)も出ないくらいに完璧に、自分の考えを理知的に整合性をもって説明してみてくださいませ。「掛けている」なんて打ち込んでるようじゃとても無理でしょうがね。(爆)

>自分の意見と違う人間に対してまったく聞く耳を持たないところすぐ誹謗中傷するとこと自分の考え正しいと勘違いしているところ直したほうがいいですよ。

大きなお世話ですね。この言葉、熨斗(のし)を付けてそっくり貴殿にお返ししますよ。私はお互いに得るところのない書き込みなど無用だといってるんですよ。既に検証されて嘘だと判っている事や、極度に左のバイアスがかかっている書き込みを読まされたって何の役にも立ちませんから。「間違っている意見」は「意見が違う」こととは別問題ですから勘違いなさらぬように。勿論私は貴殿のように頑迷ではありませんからそれが事実であると証明されればたとえ自説と真逆だったとしても信用しますよ。貴殿が何を信じようと勝手ですが、押し売りはやめてくださいね。それともそういうことを書き込んで楽しんでいる愉快犯ですか?

>まぁここはそういう一般社会から隔離されている人たちがぼやく所だから仕方ありませんが。

一般社会に出たこともない高校生が、餓鬼(がき)の分際(ぶんざい)で「どの口がそれを言う」って感じですね。此処の掲示板の方たちは私と違って理性があって道理を弁(わきま)えている方たちばかり(皮肉ではありません)なので、今までの貴殿のワケのわからない書き込みに対しても優しく接していてくれたんですよ。それがわかりませんか? そういう方たちに対して言うに事欠(ことか)いてなんたる無礼(ぶれい)。(怒) 貴殿はとうとう此処の方たちを敵に回してしまったようですね。こういうのを「語るに落ちる」といいます。ご愁傷様(しゅうしょうさま)でしたネ。(笑)

>しかし、こういった偏(かたよ)った意見を待った人たちの発言を聞くのも面白(おもしろ)いからここにきているし、学校では左のことしか教わりませんからたまには右思想も知りたくなるわけです。

フ〜ン、随分お偉いんですね、貴殿は。何だか世の中の全てをお見通しのような不遜な態度には反吐(へど)が出ますな。そんな生半可(まなはんか)な態度だったら此処に書き込むのはやめた方が宜(よろ)しいです。ここはサヨクが暇(ひま)をつぶすような場所ではないですから。空気読めってことです。前にもレスした通り、反日掲示板にでも書き込んで溜飲(りゅういん)を下げて「同類相哀(あいあわ)れんで」いればそれでいいと思いますよ。貴殿にはその方がお似合いです。

>愛媛さんあっ!間違えたw愛知県さんもっと冷静にね!

私は極めて冷静ですが何か? それよりいつも2〜3行しか書き込まないのに今回は随分饒舌(じょうぜつ)ですね。一所懸命に貧しいボキャブラリーを駆使しながらキーボードを打っている微笑(ほほえ)ましい姿が目に浮かびます。(爆笑) それではごきげんよう。

再度掲示板を汚してしまって申し訳ありません。お詫(わ)び致します。
 

冷静に冷静に  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日:10月25日(水)20時22分55秒
  >>愛知県人 殿
 ひねくれた文章がすばらしいですね。
 私は日本人です。我 是 日本人。
 HN 江戸人→関東軍ですよ。
 あなたは本当に困った人ですね。

 まったくあなたたちは説得力がないし、客観性に掛けている。
 相手にされないのは当然ですね。
 一般人から避けられる思想がなんともいえません。
 自分の意見と違う人間に対してまったく聞く耳を持たないところ
 すぐ誹謗中傷するとこと自分の考えが正しいと勘違いしているところ
 直したほうがいいですよ。まぁここはそういう一般社会から隔離されている人たちが
 ぼやく所だから仕方ありませんが。
 しかし、こういった偏った意見を待った人たちの発言を聞くのも面白いから
 ここにきているし、学校では左のことしか教わりませんからたまには右思想も知りたくな るわけです。
  愛媛さんあっ!間違えたw愛知県さんもっと冷静にね!
 

『卑弥呼と日本書紀304』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月25日(水)12時31分12秒
  [承前]

◆◆◆ 作家・荒山徹の見解 ◆◆◆

 荒山徹という作家がいる。
 新聞社や出版社勤務を経て韓国の大学に留学して朝鮮半島の歴史や文化を研究し、平成十一年に作家としてデビューした。
 史実を丹念に調べた上で、奇想天外な空想を展開する人で、剣豪小説においては山田風太郎の衣鉢(いはつ)をつぐとさえ思える手練れである。
 この荒山徹が、著作『十兵衛両断』(新潮社)の中で、作家の独白として、つぎのような意見を述べている。

**********

 ・・・また、東洋史学者の岡田英弘氏は、
「朝鮮の民族文化と呼び得るものが成立するのは、新羅(しらぎ)王国が半島の南部を統一した七世紀後半よりもあとの話である」
 ――と指摘されている。なるほど、史書を繙(ひもと)き、史跡を踏査すれば、朝鮮文化の成立以前に滅んだ百済(くだら)なる国は、韓国よりも寧(むし)ろ日本に包摂されたと見るのが妥当である。領土を除けば、その人材、文化の殆(ほとん)どは日本が受容、継承したからである。したがって百済とは、日本の一構成要素として日本史で扱うのが妥当であって、これを後世の朝鮮、韓国に直結させるのは粗忽な歴史認識ということになろう。とまれ、一族の祖の百済なるを以(もっ)て宇喜多氏(*)を韓人と決めつけることの、厳(げん)として慎(つつし)まれねばならない所以(ゆえん)がここにある。
(以上の見解は、鶏林大学校の黄算哲(ホアン-サンチョル)教授の研究にも教示を得た。黄教授は『中国史としての高句麗(こうくり)、日本史としての百済』〈同大学紀要八十七号〉と題する論文で、韓国史の祖型を新羅一国に限定し、高句麗史および百済史は韓民族史から切り離すべきと提唱しておられる)

(著者による注)この一節は宇喜多一族を扱った五味康祐や山岡荘八の小説への反論として書かれている。

**********

 小説の一部にある文章ではあるが、傾聴すべき論旨である。
 余談ながらこの本には、現在反日韓国人がプロパガンダに励んでいる「剣道韓国発祥説」への痛烈かつ論理的な反論も書かれている。

 荒山徹は最近も長編伝奇小説『処刑御使』で、若き日の伊藤博文を暗殺しようとする朝鮮人集団を描いて、自虐史観の多い小説家としては珍しい史観を披瀝している。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀303』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月24日(火)12時12分49秒
  [承前]

◆◆◆ 渡部昇一の見解 ◆◆◆

 これまでの話から、同祖論なども出てくるのだが、著者は思想家の渡部昇一の説が妥当性が高いと感じている。
 氏は、『かくて昭和史は甦る』や『渡部昇一の昭和史』の日韓併合の箇所で、古代の日本と南朝鮮の関係の密接性について、大要つぎのように述べている。

**********

〔一〕九州と朝鮮南部
『三国志』の『魏志東夷伝』では、九州と朝鮮南部をともに倭国・倭人としている。つまり同じ文化に属する同一種族と見ていた。

〔二〕百済(くだら)は旧外地
 日本と(任那(みまな)と)百済は協力して戦ったが、日本軍は白村江(はくすきのえ)の会戦で敗れたのち、多くの百済難民を引きつれて帰国した。
 これは終戦のときに外地に進出していた多くの日本人が引き揚げてきたことに似ている。
(つまり帰化人ではなく外地からの帰国人!)

〔三〕言語の類似
 日本の言語と百済など南朝鮮の言語はよく似ていた可能性がある。
 日本と違って『記紀』、『万葉集(まんにょうしゅう)』のような古い書物が韓国には残されていないので比較はできないが、帰化した人たちがすぐに活躍しているのは、言葉が通じたからであろう。そうとしか考えられないような記録がいくつもある。
(つまり百済の言語は日本語の方言の一種だった、または日本人が大勢いたので自然に日本語を修得していた・・・といった事なのであろう)

〔四〕言葉は通じていた
 百済から帰化した王仁(わに)が、じつに日本的感性豊かな和歌、

「難波津(なにわつ)に咲くや木の花冬ごもり 今は春べと咲くや木の花」

 ――を詠(よ)んでいるのは、言葉が通じていたから、としか考えられない。

〔五〕信仰の同一性
 信仰の面でも、日本と南朝鮮は同一だったようだ。
 仏教や儒教が伝来するまでの南朝鮮の宗教は日本と同じ神道であったとしか、考えられない。
 日本の正史にも、帰化人が来日してすぐに日本式の神社をつくって宮司になったと書いてあるのだ。宗教が同じでなければそれは考えられない。

 渡部昇一が〔五〕について韓国人に質問すると、多くは絶句してしまうそうである。
 つまり、「儒教や仏教が伝来するまでのあなたの国の宗教は何でしたか?」と質問すると、たいてい答えられないらしい。
 桓武(かんむ)天皇が今木大神を祭った話なども、共通した神道の伝統があったという仮定なしでは、考えにくいことである。

[つづく]
 

新発見  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月24日(火)10時28分12秒
  オロモルフ先生は日本語が上手(じょうず)ですね。
ロシア人として、日本語の能力はそうなれば、すごいですね!
 

ご感謝致します。  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月24日(火)10時22分1秒
  オロモルフ先生
いろいろ勉強になりましたが、どうも ありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。
私はシナで生まれましたが、しかし、シナの社会環境が嫌います。シナ人の浅ましい根性からだろうと思います。
先生方は、もうシナに来たことがありませんか。来たら、分かった。
 

Re:出生地について  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月23日(月)17時50分11秒
  先に資料を転写しましたように、出生時の本籍地は三重県です。
それ以上のことはわたしには分かりません。
 

出生地について  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月23日(月)17時40分42秒
  鷹森孝の出生地がどこかお知りになりますか。これは、シナでの鷹森家族の人々にとって、非常に重要な問題です。
オロモルフ先生、竹下義朗先生、お願い致します。
 

安倍という苗字  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月23日(月)13時00分58秒
   わたしも間違いが多いのが気になって、苗字の辞典でちょっと調べてみました。

<「あべ」と読む苗字>
安辺
安倍
安陪
安部
安閉
安閑
阿辺
阿拝
阿倍
阿陪
阿部
阿閉
阿閇
阿渡
阿閑


<「安倍」の読みかた>
あべ
あんばい
あんべ
 私がよく知っている安倍さんは「あんべ」と読みますので、よく間違えます。

<歴史>
阿部は20万人
安部は4万5千人
安倍は8000人
 主に東北関東に多い。饗(あえ)は神をもてなす、アイヌ語では日祭を意味するなどあるが、地名発祥説がふつう。・・・という事です。
 阿倍臣(あべのおみ)は第八代孝元天皇の皇子で四道(しどう)将軍として有名な大彦命(おおひこのみこと)の後裔とされますから、とても古くからあります。
 

『卑弥呼と日本書紀302』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月23日(月)11時33分5秒
  [承前]

◎著者なりの常識による感想

 三十パーセントを日本全国にあてはめると、七世紀の帰化人は一五〇万人、畿内近辺では推定六〇万人になるが、その三分の二が白村江(はくすきのえ)事変のときに来たとすると、四〇万〜一〇〇万人となる。
 しかし、派遣された日本軍はほぼ三万人で、それすらも帰還は大変だったのだから、七世紀の木造の船で四〇万人以上など、とうてい運べるはずがない。
 そもそも百済(くだら)の軍勢だって総数でたかだか数万人だった。
 動力を持つ大型船がたくさんある今だって、一気に何十万人など送れない。
 終戦時の外地からの帰国がいかに困難だったかを考えてみてほしい。

 たかだか一万人という著者の大胆な推理は、日本全体の人口に比べれば少ないようだが、朝廷に仕(つか)える上層階級の中に、とつぜん、この数の帰化人が入ってきたら、大変な騒ぎになったであろう。
 仮に一氏族の平均が五十人とすると、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』にある帰化人系以外の氏族の合計人口は四万人強になるから、急に二割以上も増えた事になる。

 だからこそ、『記紀』にもいろいろな事が記され、官位を新設したり、二千人を東国(とうごく)に住まわせた――といった記述が天智(てんぢ)紀にあるのだと思う。

 こう考えてくると、三十パーセントを鵜呑(うの)みにした六〇万人とか一五〇万人とかいった数字が、いかに現実離れしているかが、わかる。
 もし本当にその数字だったとしたら、「二千人を東国に」どころか、数十万人を移住させなければならない。
 というよりも、日本列島の中に「新百済国」という国ができていたであろう。

 それに、百済は面積が日本の四国程度の国であり、したがって全人口だってそんなにあったとは考えられない。
 ちょっと試算してみよう。
 四国の場合、明治初期の人口は推定一八〇万人、現在はほぼ四〇〇万人。
 七世紀の日本の全人口推定値は、現在の全人口に比べて四パーセントくらいだから、その比で計算すると、七世紀の四国の人口は一六万人ていどになる。

 韓国の同地方の人口は、たぶん四国と同等だろうから、七世紀の百済の全人口は、農民漁民最下層女性まですべて含めても、二〇万人にはなっていなかった――と推理できる。
 奴隷のような階層まで含めて二〇万人以下の国から、文書などの仕事のできるインテリが四〇万人またはそれ以上来るなど、ありえないことである。

 以上はまことに乱暴な話であり、桁の推理にすらなっていないが、七世紀の帰化人の比率が『新撰姓氏録』に準拠した三十パーセントより桁外(けたはず)れに少なかったのは確実だと思う。

(著者の以上の推理は、前記したように「つくる会」の古代史担当理事も認めてくださったが、神功(じんぐう)皇后問題や新王朝問題で何度か言及した南原次男先生も「人口の三十パーセントが帰化人だなど想像もできない不思議な意見だ。あなたの推理する一万人でも多すぎるだろう」と述べておられた)

 つぎに、この問題に関する渡部昇一先生のご意見を引用する。

[つづく]
 

ご感謝しました。  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月23日(月)09時10分58秒
  竹下義朗先生、オロモルフ先生
どうも ありがとうございました。
私は日本語が下手(へた)ですが、すみません。
うちの家族は、今「残留邦人」になってしまいましたが、標準的な日本語が習得できません。
 

RE:安部総理→安倍總理  投稿者:黄東洋  投稿日:10月23日(月)00時38分48秒
  總理大臣・安倍晋三さんの名前は「安」でなくて「安」です。
安倍氏が總裁となった自民黨でも、某議員が國會(こくくわい)の總理指名選擧で同じように書き間違えたようです。

日本人名のシナ語讀みを使うと、「阿部」は A-bu,「安部」は An-bu,「安倍」は An-bei になり、シナ語音とセットでおぼえるとわかりやすくなります。

日本語を母語とする人にとって一番いいのは、日本語音を使って、「安部」を「アンブと書いてアベ」、「安倍」を「アンバイと書いてアベ」とおぼえることです。

シナ語では「渡邊」は Du-bian で、「渡部」は Du-bu になります。

また、私としては「」でなく「」を使いたいものです。
 

安部総理が帰国後に体の『異常』を訴える !!  投稿者:えこね  投稿日:10月22日(日)14時08分13秒
  安部総理が帰国後に体の『異常』を訴える !!

安部総理は帰国後に目に『異常』を訴え専門医師の診断を受けたが・・。
先の凶産中国、軍国韓国への訪問中、凶産中国に『毒』を盛られた可能性が高い !!

『毒』が韓国でない理由は、安部総理婦人が韓国タレントのフアンでもあり、安部総理の訪問に韓国は好意的だったからだが。

元々、政治家や国家指導者が『毒』を盛られる可能性が極めて高い。
これは歴史的事実であり、国家間で問題を無理押しし訪問した場合は非常に危険。

小泉前総理大臣が訪中も訪韓もしようとしなかった理由が正にここにある。
国家間の政治世界の恐ろしさを身に沁みて知っているからである。

小泉前総理大臣の名言『 政治家は物事の本質を見抜いているかどうかだ 』に尽きる。
まだまだ安部総理は戦略的に未熟である。
周囲が厳重にフォローする必要がある。

安部総理婦人が拉致朝鮮と同族の韓国タレントに憧れるような派手気分では不安だ。

国家の一大事に森永製菓の一族は何を考えているのか !!
 

『卑弥呼と日本書紀301』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月22日(日)11時49分42秒
  [承前]

D 帰化したのは要人が中心だろう
 古代においても船便はあったが、それに乗って百済(くだら)から来日できるのは、とうぜん要人のみであり、一般の農民などが自らやってくるとは考えにくい。
 指導層は新羅(しらぎ)にやられて逃げたが、一般庶民がわざわざ危険な海を渡って見知らぬ土地に移動はしないであろう。生活ができなくなるのだから・・・。
(農民一万人が――たぶん奴隷として――唐に拉致されたという話はあるが、日本側が拉致したという記録はない)

 とくに一度に多数が帰化したとされる白村江(はくすきのえ)会戦の直後は、日本軍と百済の王族とが一緒に戦ったわけだから、その帰化人の大部分は、百済の王族や軍首脳や高級官吏といった男性の要人だったであろう。
 だから当然、彼らは朝廷の周辺に集まり、トップクラスとは言えないものの比較的高い地位を与えられ、文書作りなど重要な仕事をし、また前述のように日本の女性と結婚したであろう。
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』や『日本書紀(やまとのふみ)』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』からもそれは読みとれるが、そのような要人やそれに準ずる人たちが七世紀の四国程度の面積の百済にそんなに多数いたとは、とても考えられない。

E 日本全土に拡散するだろうか
 帰化人が多く居住したのは畿内とその近辺であり、日本のあらゆる地域に急に拡散したとは思われない。
(*さほど重要ではない人たちを特定の地方に集団移住させたことは『日本書紀』にも出ているが、日本の人口を変えるような数ではない)

F 大胆な推理
 数字を出したのは項目Aだけだが、これはかなり乱暴で、大きく違っているかもしれない。
 しかし、Aを無視して、仮に日本列島に居住する全員が『新撰姓氏録』に記載されていたとしても、そのあとの項目BからEを考えれば、三十パーセントという数字は、あまりにも過大である。
 著者としては、白村江大会戦の時代に帰化して姓氏録に記された百済の要人たちの絶対数は、多めに見積もっても一万人ていどではなかったか、と大胆に推理している。
 その前の四、五世紀ごろの帰化人の多くは部民に入ったといわれるが、それも日本の全人口の何十パーセントにもなったとはとても思えない。

[つづく]
 

1982年以降こそ偏向教科書  投稿者:えこね  投稿日:10月21日(土)17時50分46秒
  (さむらい)の外国人との付き合いの歴史が抜けています。

日本独特の木曾の漆(うるし)塗りや由比(ゆい)の梅干(うめぼし)や関東の醤油や浅草焼き海苔の伝統工芸の歴史が抜けています。

宗教反乱で、法華(ほっけ)一揆・法華弾圧(日親[朝鮮が攻めてくると日蓮のように騒ぐ]への室町幕府の拷問・江戸幕府の本池問題と対馬に日蓮僧を埋める事件・不受不施派日蓮宗への虐殺[岡山・千葉山田]など)・一向宗弾圧(薩摩のカヤカベ教弾圧)の歴史が抜けています。

線香の精製法の伝授や儒学や禅宗の師匠を中国(東南アジア経由・オランダ東インド会社)から呼んで講釈した江戸時代や、平清盛(たいらのきよもり)に関する禅宗坊主(ぼうず)による交易の平安後期時代や、シナゴロや大陸浪人や大本教による大正時代や昭和初期の中国人師匠の歴史が抜けています。
 

ユダヤ教について(うんちく)  投稿者:えこね  投稿日:10月21日(土)17時34分22秒
  > ユダヤ人のアイデンティティーは、ユダヤ教にあると思います。
> どういう言語でそのユダヤ教を伝えていったのでしょうか。

イディシュ語とラディノ語ですが、聖書ヘブライ語も使います。
ラビというユダヤ教の教師とか聖職者が、契約書を作成し、タルムードなどを用い、シナゴーグ(ユダヤ人の会堂)で集会し、説教し導いていきます。
結婚契約書を作成し、離婚(解約条件)を前提として、2つの家の取り決めをします。
ユダヤ人の血筋ではなく、ユダヤ教の宗教戒律を守れる事を制約した改宗者でほぼ構成されています。母親がユダヤ人で子供は自動的にユダヤ教徒になるという説がありますが、キリスト教の聖職者など異教徒の場合は、ユダヤ人として認められません。
613か条の宗教規律を厳守する誓約書をラビに提出し、ユダヤ教に改宗するにふさわしいと認められ改宗に合格後にユダヤ教徒として生きていく人生が始まります。

「タナハ」(モーセ五書・諸書・預言書つまり旧約聖書)のほかに、口伝(くでん)によるユダヤ教の教えがありタルムードなど、その一部で、ほかにコシャーという清浄食品という基準があり、乳製品と肉類を同時に食べない、ヒレのない魚類や豚肉を食べない、瞬殺した牛肉を食べる。手を洗って食べるなどの細かい規定があります。

ノアの七戒というユダヤ教徒以外の人もユダヤ人と付き合う上で守っても良い宗教戒律があり、法律などの社会正義の厳守(詭弁の詐欺・窃盗の正当化・民族差別による虐待行為などの禁止)、生きている動物の生きている状態での肉類を切り取り食べる残虐の禁止(小魚の踊り食い・うなぎの生きたままの切り刻みも禁止)などがあります。
 

天皇と満州開拓団は、抹殺。禅宗や真言宗と六朝や明朝にチベットの交渉歴史も抹殺  投稿者:えこね  投稿日:10月21日(土)17時33分16秒
  >私は、日本語と皇室だと思っています。

皇室が無くても日本人は生きています。
皇室が無くても日本人として生きてきた歴史(日系人・倭寇(わこう)の侍(さむらい)・東南アジアでのスペイン傭兵の侍・松前とアイヌとの交渉・琉球と薩摩の交渉)が抜けています。

現代の日本語のほか、古代から続く当て字読みやアイヌや琉球の読み各地方の方言と、幻の4〜6世紀の倭王の中国との付き合い、蒙古襲来と戦国時代の間の14〜16世紀の室町時代の中国との付き合い伝承、アイヌや沖縄や東南アジアとの付き合いの歴史などの昔話や伝承ですね。
GHQに消された歴史や日本人のアイデンティティ(帰属意識)ですね。
基本的に朝鮮は侵略し日本文化を破壊し消し去ることしかないので、日本の文化や侵略以外の歴史は特に関係ないです。

文化は中国や東南アジアやヨーロッパからの直輸入で対馬以外に朝鮮は関係ないです。

遣唐使の改ざんや遣明使(勘合貿易・雪舟の水墨画と明朝の官職授受)や、アイヌ(クスリ[クシロ・会所]交易・サハリンの大泊や久春内コタンと秋田や津軽の侍の越冬所)や沖縄や東南アジア(朱印状貿易・山田長政のシャムでの活躍・ヤジロウと日本人スペイン傭兵)との交渉や、対馬の宗氏と朝鮮の3浦(三浦の乱)や熊川(日本人虐殺による鎖国)の独占公益(対馬侵略と倭寇退治に失敗し、日本とは対馬としか交易してはいけない約束を明治まで続けた)や、大宰府襲撃をする朝鮮人の日本人への残虐話(新羅(しらぎ)や女真の侵入者の犯罪)の抹殺があり、朝鮮人と仲良く付き合ってきた物語とか昔話とか歴史の話がありません。

日本の古代と中世で、中国人と仲良く付き合っていた歴史がアメリカ軍の教科書墨塗り抹殺以降にまったく伝えられていません。

ロシア人のアイヌ人虐殺でアムール川流域やサハリンやウルップ島やエトロフ島での虐殺とロシア人の占拠の話も、きれいサッパリ無くなっています。

皇室とは関係ない、日本人を抹殺した外国人の侵略の話がスッポ抜けているのです。
一番つたえられていないのは、朝鮮人による終戦直後暴動と日本占領定住、アメリカ兵が朝鮮人に手を汚させた憲兵に関する全員虐殺の仕方(全国行脚の戦前教科書削除・農地解放ほか)、ソ連兵による満州朝鮮人(北満州朝鮮人同盟)による満州開拓団の虐殺の仕方、北朝鮮や韓国での終戦直後暴動での帰国できないようにした日本人への虐殺の仕方(日本人収容所と拷問虐殺)は、まったく教えられていないし、教えようとした者を日本国内で抹殺しています。
教科書は全然、触れていません。
 

『卑弥呼と日本書紀300』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月21日(土)12時21分0秒
  [承前]

A 姓氏をもつ上層階級と一般庶民の違い
 七世紀ごろの上層部と一般庶民の人数比は教科書には見つからなかったが、江戸時代の武士・商人の比率は数値が残されており、
 武士 約五パーセント
 商人 約五パーセント
 農民他 約九十パーセント
 ――とされている。
 もし仮に、姓氏録(しょうじろく)に入っている七世紀の上層部の人口比率が江戸時代の武士+商人と同様だったとし、帰化人がすべて姓氏録に入っていたとすると、帰化人の比率は三十パーセントの十パーセントで、三パーセントというわずかな数字になる。

B 諸蕃と皇・神別の歴史の違い
 帰化人を元にしてできた氏族と、皇統に連なったり、天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)に連なったりした氏族とでは、家系の歴史がまったく違う。
 したがって、一つの氏族を構成したりその氏族に従ったりする人数は、帰化人系の方がずっと少なかったであろう。
(前記近藤安太郎氏は、一氏族の構成員数を、十人から百人強と推理している)

C 遺伝子の希薄化
 帰化人の氏族といっても、ずっと帰化人どうしが結婚をつづけている筈はない。帰化人中の女性は男性に比して少なかっただろうから、なおさらである。
 周囲の大部分は昔からの日本人なのだから、活発な男性帰化人ほど、日本女性と結婚しようとしたであろう。
 現在の韓国系の在日の人たちも、最近では、日本人と結婚する人の方がずっと多いらしい。つまり、どんどん希薄化しているのだ。
 戦後わずか数十年でそうなったのだから、七世紀はもっとその傾向が強かったであろう。氏の名もどんどん日本的なものに変化している。
 前記近藤安太郎の書にも、
「帰化系で後世にまで系図が残されている氏族はほとんどなく、本来の和人の系統に埋没してしまったのだろう」
 ――とある。
 だから、帰化人系の氏族として『新撰姓氏録』(九世紀に編纂)に名が載っていても、朝鮮半島の遺伝子の比率はそう多くはなく、実質的には日本人と変わらない氏族が多かったと考えられる。
(日本人と百済(くだら)人の遺伝子がもともと区別できない可能性については、あとで触れる)

[つづく]

(朗報?:講談社学術文庫から『日本後紀』の現代語訳が出始めましたね。卑彌呼問題にも関係が深いので、早速注文しました。現代語訳はたぶん日本初だと思います。信頼できる訳文であることを祈ります)
 

よくわからんのだが  投稿者:えこね  投稿日:10月21日(土)00時25分4秒
  李朝中期 ___730万(1700年代)
李朝末期 ___780万(1800年代)

韓国__ __ 4600万(平成3年・1991年)
北朝鮮_ __ 2100万(平成15年)

日本__ 1億2千万9千(平成17年)
在日朝鮮 ___ 68万(平成17年)
創価学会 __ 1700万(560万A票B票学会員、残りF(フレンドあるいは投票協力者))
帰化人_ 推定_500万(200万戦時徴用者で180万人帰国、残り20万と朝鮮戦争流入)
 

RE:歴史は怖い  投稿者:愛知県人  投稿日:10月20日(金)22時59分7秒
  まあ、こういうのはスルーしてしまえばいいんでしょうが・・・・・
相も変わらずレスするにも値しない、絶望的なまでの妄想を、インターバルをおきつつポツリポツリと垂れ流しているようですね。新しいハンドルネームまで使ってご苦労様です。ねえ、関東軍の二等兵=江戸人=江戸にすむ人=成りすましさん。なんだか舐(な)めくさったハンドルですけど、一般の日本人高校生とは思えない程(ほど)日本語が不自由なだけでなく、文に頭の悪さが滲(にじ)み出ていますのでもうバレバレです。どうせやるならもっと上手(うま)く偽装しなきゃいけませんよ。(笑) ところで貴殿の通(かよ)っている学校ってどこの朝鮮学校ですか? 本当に良い歴史の先生をお持ちのようで羨(うらや)ましい限りです。おいらも一度その大先生の授業を受けてみたいですねえ、いや、本当に。(爆)

(かつ)ての投稿に於いても、常連の皆さんに事実誤認を指摘されても一向に考えを改める気配なしの、既に結論ありきの主張だったら、わざわざ此処(ここ)に書き込む必要はないでしょうね。お互いに得るものが何もなければ、時間と掲示板レンタル容量の無駄ですから。まあ、自分でホームページでも掲示板でも何でも立ち上げて、「中国の歴史の中で一番ひどいことをやったのは日本人」であることや、「日本人は韓国のえらい(皇帝とか言ってたかな?)をレイプして殺した」ことを、死ぬまで糾弾していれば宜(よろ)しかろうと存じます。「良心的高校生の主張する歴史の真実」、なんとステキな模範的高校生でしょうか。貴殿の恩師である日教組大先生語録として無限の価値もあることでしょう。(核爆)
そういった貴殿には此処よりもむしろプロ市民やサヨク系、そして反日媚中(びちゅう)、侮日媚朝韓系の掲示板に書き込まれることを強くお勧(すす)めします。その方が間違いなく賛同を得られましょうし、貴殿も鼻高々(はなたかだか)で気持ちよく日々を過ごせることと思われます。

また貴殿が「日本人がやったことは極悪(ごくあく)非道だ」と本気で思っているなら、アルバイトをしてお金を貯め、稼(かせ)いだ全額を中国や半島の人のために送金するとか、大陸に渡って無償で労働奉仕、或(ある)いは臓器提供するとか、貴方が率先(そっせん)して全国の高校生を束(たば)ねて各国へ行き謝罪して廻(まわ)ってくださいね。日本のサヨクは口先だけ威勢のいいことを言って責任を全くとりませんが、賢明なる貴殿はその轍(てつ)を踏むことなく是非徹底的に真実を明らかにしていただいて「極悪日本人」の全責任を背負う意気込みで頑張ってください。口先だけでは誰にも信用してもらえませんよ。中朝韓は特に疑(うたぐ)り深い国ばかりですからこの点だけは注意が必要だということを強調しておきたいと思います。(笑)

>と先生が言ってましたが一番ひどいことをしたのはわかるが、韓国にそんなことをやったのは本当ですか?

お偉い先生が宣(のたま)ったことですから多分本当でしょう。先生も聖職という立場上、愛する教え子に対して極めて重い責任を自覚されての尊いご発言でしょうから、嘘を吐く道理はありません。あ、それから「先生が言ってました」などというような上下関係も弁(わきま)えない物言いをしてはいけません。正しい日本語は「先生が仰(おっしゃ)った」です。特に歴史の真実を追究しているような、博識で人間的にも非の打ち所のない大先生に対しては尚更(なおさら)失礼があってはなりませんよ。(大爆笑)

くだらない長文にて掲示板を汚してしまい大変失礼致しました。
 

『卑弥呼と日本書紀299』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月20日(金)12時00分33秒
  [承前]

◆◆◆ 帰化人の数の大胆な推理 ◆◆◆

◎日本の人口と帰化人の数

 日本の全人口の中の帰化人の比率という問題を考えるには、飛鳥(あすか)時代から奈良時代にかけての日本の人口そのものとその中身を推理する必要がある。
 板倉聖宣(きよのぶ)『歴史の見方考え方』によると、明治時代に数学者の澤田吾一が研究した結果では、奈良時代の人口は六〇〇万から七〇〇万だとされる。
 インターネットで教えられた結果では、この推理は、平成になっても変わっていないようである。
(日本の人口の変遷や澤田の研究については、關山直太郎『日本人口史(四海書房/昭和17年)』がよくまとまっている)

 だから、百済(くだら)帰化人が多く流入した白村江(はくすきのえ)の大会戦の直後(七世紀後半)の人口は、たぶん五〇〇万前後だったであろう。

 したがって、もし三十パーセントという比率が、日本の全人口に対するものだったとすると、帰化人の人口は一五〇万人というとてつもない数になり、昔からの日本人はわずか三五〇万にすぎないということになってしまう。
(畿内近辺だけの人口が二〇〇万とすると帰化人六〇万、日本人一四〇万となる!)

 戦前から戦後にかけての長い間に流入して、いま在日と言われる朝鮮半島系の人口でさえ、帰化した人を含めても一〇〇万人強とされるし、そもそも百済全体でもそんなにはいなかったと思われる。
 百済の面積は、やっと四国くらいのものだったのだから・・・。
 では、姓氏数からの三十パーセントと、本当の帰化人のパーセントとは、どのくらい違うのだろうか?

 ここから先は素人の横議になってしまうが、ごく簡単にチェックしてみる。

[つづく]
 

中朝国境地帯にトラを放し飼い  投稿者:KGB  投稿日:10月19日(木)23時51分17秒
  [社会] 中国、東北虎 620頭を中朝国境地帯で放し飼い準備

絶滅危機の東北虎個体数保護のため

中国は現在、絶滅の危機に瀕している '東北虎'の個体数保護のため、人工飼育している 620頭余りを野生の状態で生存するように訓練を経て放し飼いにする計画だ。 ・・・

中国政府がトラに何を食べさせようとしているか、誰でも判ることですよね。

『[社会] 中国、東北虎 620頭を中朝国境地帯で放し飼い準備 』(朝鮮族ネット)
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/news3/060926-9.htm

[社会] 中国、東北虎 620頭を中朝国境地帯で放し飼い準備

絶滅危機の東北虎個体数保護のため

中国は現在、絶滅の危機に瀕している '東北虎'の個体数保護のため、人工飼育している 620頭余りを野生の状態で生存するように訓練を経て放し飼いにする計画だ。

東北虎人工飼育団地の関係者は “黒龍江省ハルピン市で飼育されている東北虎は、野生生存訓練を受けた後、 中国と北朝鮮の国境地帯 15haの森林に放し飼いにする計画だ” とし “これに先立ち、 4年前から生存訓練を行った東北虎 12頭が試験的に放し飼いにされ、そのうち 10頭は再び飼育場に帰って来た状況だ”と述べた。

黒龍江省野生動物研究所・孫海義 所長など東北虎の専門家たちは “野生資源の無分別な開発によって虎が棲息できる環境が破壊され、大っぴらに密猟が行われているなど、生息環境が整わない状況で放し飼いにする場合、 現在の計画は水泡に帰すことになりかねない"と警告した。

また "放し飼いにされた東北虎は、棲息地での孤立によって個体数の急減はもちろん、絶滅する可能性もあり、虎の繁殖に相応しい環境構築のために政府次元で支援が行われなければならない”と指摘した。

現在、世界全体的に虎の個体数は去る 1990年代の 10万頭に比べて大きく減少した最小 5〜7千頭と推定されている。

東北虎は中国東北、ロシア南部、 北朝鮮などで棲息しており、環境破壊と密猟などで現在、絶滅危機の動物に分類されて保護されている。

(オンバオ ハン・ソンフン記者 2006年9月26日)

 

歴史は怖い  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日:10月19日(木)22時42分36秒
  今日日本史の授業中に中国の歴史の中で一番ひどいことをやったのは日本人といっていた

日本人は韓国のえらい(皇帝とか言ってたかな?)をレイプして殺した

と先生が言ってましたが一番ひどいことをしたのはわかるが、韓国にそんなことをやったのは本当ですか?
 

『卑弥呼と日本書紀298』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月19日(木)12時38分20秒
  [承前]

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に戻って、いくつか検討してみよう。

(甲)においては、畿内に住む人たちは身分を問わずすべて姓氏録に記載されていると仮定し、かつ帰化人の大部分が百済(くだら)からだと仮定し、さらに帰化系氏族の構成員数が、古くからの日本の氏族と同じだと仮定している。

(乙)は、百済からの帰化人以外にも、新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)・大陸など古くからの帰化人も含めるとし、かつ、姓氏録にあるのは上層部のみと考えての日本全体での数値である。

 しかし、これらの考え方――というよりも数字――は釈然としない。
(甲)よりは(乙)の方がずっと真相に近いとは思うが、それでも首をひねる。
 なぜなら、

(一)姓氏を持つ人間の比率とは?
『新撰姓氏録』に記載されているのは、朝廷の近くにいて朝廷に認められた上層階級のみであり、一般庶民(農民・漁民・樵(きこり)・労務者・雑役(ぞうえき)・・・など上流階級に使われていたり地方で独自に働いていたりした人たち)は含まれていないと思われるが、それら日本各地の一般人の中に上層部と同じ比率で帰化人がいたのだろうか?
(*上層部に帰化人がいたといっても、一般にその階級はあまり高くはなかったらしい)

(二)畿内以外の帰化人の比率とは?
『新撰姓氏録』は畿内・左右京を中心にしたものだが、北海道から九州まで日本中にそれと同じ比率で帰化人が一様に分布していたのだろうか?

(三)氏族の構成員数や支配下領民数はみな同じなのだろうか?
 古くからの日本固有の氏族の構成員数や支配下領民数の方が、帰化系のそれよりはるかに多かったのではないだろうか?
(*初期の部民(べのたみ)の一部が帰化人だったのは事実らしいが)

 ――という疑問が浮かぶからである。

 本章でも記したが、四世紀以降、朝廷を囲む古来からの伝統的な氏では、再三にわたって、何万という大軍を朝鮮半島に派遣している。
 しかし帰化人系にそんな事ができたとはとても考えられない。

 三十パーセントという数字は、『新撰姓氏録』の拡大解釈ではないだろうか?

 なお、たとえば近藤安太郎も、『新撰姓氏録』の氏族の数の比率は人口の比率ではない――としている。
 さらに氏は次のように述べている(『系図研究の基礎知識』第一巻)。

「・・・このように見てくると、大化前代の社会は、多くの著名な氏族が知られているとはいえ、全国的視点からすれば、氏族が全体に占める比率はきわめて少いといわざるを得ないし、これらの圏外には多数の人民がいたであろうと推測される。したがって古系図をいかに詮索してみたところでこれら多数の人民の系図など永遠に見付かるはずもない。逆に言えば、先祖が、奴婢(ぬひ)・部曲(かきべ)・部民であったというケースもあり得るわけで、そこまで考えては、系図研究は成り立たなくなってしまう。・・・」

 これは著者の常識に一致する。

(297の補足:「自謂太伯之後」は『晋書』四夷伝に有って『魏志倭人伝』には無いと記したが、『魏略』逸文にはある)

[つづく]
 

胡散臭い議員どもの存在  投稿者:暗黒の政治屋  投稿日:10月18日(水)18時31分5秒
  小生が 時々 訪問する 下記の URL サイト に纏(まつ)わる件ですが

特に 下記の文章は さりげなく 記述されて居(お)りますが 今後の日本の行く末へ
子々孫々にも 波及し 並びに アベ政権の行く末へをも 確定する重要な
事象であるものと 思われます。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

>それにしても、自国の平和維持に日本が本腰を入れようとすると、必ず日本国憲法が障壁になって現れますね。



最早(もは)や 普通の まともな日本人であれば この問題を忌避することは 己の居住する
国の 在(あ)るべき姿を思考せぬ 無責任/無関心な ノ―天気な お花畑 人間であり
枯れ葉剤を散布して 消滅せしめるべき/唾棄(だき)すべきものである。
しかし ことは それほど簡単では無い。
依然として その反対勢力は 未(いま)だ存在する。
(かか)る事実を 認識した上で昂然(こうぜん)として 対峙せざるを得ない。

今後 野党(民主/社民/共産/野党もどき公明) 等々 うぞうむぞうどもが
しゃかりきに テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮の
暴走説/ひらきなおり説を喧伝し/煽り
普通の まともな日本人を騙す所業 即ち 恫喝/恐喝もどきを駆使して
来ること自明である。
既に 例に依って 例の如くに 与党の国会議員とは思われぬ輩(やから)
エロタク, カトウ 辺りが 周辺事態法 適用 反対 ほざき初めている。

それにしても 未だに 罹る 憲法改正の為の 手続き法さへ 成立していない
現状に 今更(いまさら)ら乍(なが)ら 愕然とする。

話が突然 変わりますが

北鮮と共産党一党独裁国とは 一衣帯水 切っても切れぬ ずぶずぶの関係であり
過去に措ける 朝鮮戦争 以来 軍事同盟を締結している ご関係に在り
この 一党独裁国が 実行する確率としては 0% であるが 若(も)し その気になり
テロリスト/ならずもの を潰す気が有れば 極めて簡単である。

一党独裁国が援助している 石油パイプラインの Stop Valve を
ひとひねり するのみにて テロリスト/ならずもの 北鮮は 長くて数ヶ月後に
醜悪なる独裁先軍政権は お陀仏となること明白である。

(ちな)みに 北鮮は 共産党一党独裁国より 食料の80% 石油の90%を依存していると
言われている。

より早く より確実に テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮の核爆弾
及び 弾道ミサイルを 取り除く手段は 下記の 日本が保有するカ―ドを
ちらつかせて 共産党一党独裁国を おどす以外に 具体的 方策は有り得ない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

中国さん 北鮮への 石油パイプラインを止めて下さい。
若し 実行されない場合は 誠に 不本意では有りますが
下記の カ―ドを順時 切らせて戴(いただ)きます。

1) ODA 即時停止 カ―ド
2) 北京オリンピック ボイコット カ―ド
3) 上海万博 ボイコット カ―ド
4) 核開発 カ−ド
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(ただ)し 戦後60有余年に亘る経緯を経て 蓄積された ふぬけ/腰抜け振りを
地で行く 自虐史観外交に架けては 世界に冠たる 日本外交に
是を要求することは 夢物語で有る事 十分 承知しておりますが

少なくとも エロタク、カトウ & ミズポタン 等々が ほざく
お花畑 話し合い平和外交では 日本は未来永劫(えいごう) 子々孫々に亘(わた)
核弾頭を搭載した 弾道ミサイルの標的に なり続け 恫喝/恐喝され
朝貢国/土下座国に凋落(ちょうらく)した状態となることは 必定(ひつじょう)であり
無残な/悲惨な/惨(みじ)めな 三流国に 成り果てること明白である。

前記の お三方 並びに 周辺事態法 適用 反対の政治屋さんに お伺(うかが)いします。

本当に あなたがたの お考えの 北鮮 暴発論に基ずく 日本外交で
日本国は 前記の 惨憺(さんたん)たる状況を 回避 可能ですか?

本当に テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮は 原子爆弾 並びに
それを搭載し日本を標的にした 弾道弾を あなたがたの お考えでの方策で
素直に破棄/放棄すると思いますか?

具体的に ご説明を願います。

所で 前記の お三方 等々の議員さんに対しても 別(わ)け隔(へだ)て無く 年間 総計
約 一億数千万円/人の 日本国民 有権者/納税者の血税を お支払いして
おりますが ....... コストパフォ−マンス(費用対効果比)に見合う お仕事を
日本国民は要求しております。

http://blog.goo.ne.jp/sinji_ss
 

『卑弥呼と日本書紀297』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月18日(水)12時56分14秒
  [承前]

(引用文の解説)

 わかりにくい箇所があるので以下に注を記す。

(注1)『晋書』の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とある。太伯とは春秋時代の呉の国の先祖。『晋書』は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけてのシナ王朝の記録である。この倭人の条は、『魏志倭人伝』の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言があるが、これだけが『魏志倭人伝』には無い。日本からの使者の誰かが自分を誇示するために、呉の偉人の子孫だ――と言ったのではないかと思う。
(注2)素戔嗚尊(すさのおのみこと)が朝鮮に行った話は、『日本書紀(やまとのふみ)』の一書とされる部分にあるごく短い記録だが、そこに、「(高天原(たかまのはら)から)新羅(しらぎ)に行ったが、この地には居(い)たくない、と言って船を造って出雲(いずも)の国に着いた」とある。
(注3)日本神話の神々。天神地祇(あまつかみくにつかみ/てんじんちぎ)
(注4)どうして
(注5)三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済(くだら)、任那(みまな)、新羅にほぼ相当)。震旦(しんたん)はシナの異称。
(注6)日本神話の神々や皇族。
(注7)『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』のこと。

**********

 さて、注目されるのは、この引用文の中に、

「桓武(かんむ)天皇が三韓と日本人の先祖をごちゃごちゃにしてしまった本を焼き捨てた」

 ――という意味の、看過できない文言があることである。
 おそらく散逸した『日本後紀』の中に記されていたのであろう。

 だとすると、上層階級ではなかった母親を格上げするために百済を重んじた桓武天皇も、先祖を百済の王様だと捏造する役人たちが数多く出たことに危機感を持って、それを抑える措置をとったのかもしれない。

 話が少し逸れるが、自虐史家たちに翻弄されてはいけない。
 素戔嗚尊が新羅に行ったという記録は、神話の中の本文ではなく「一書の四番目」という一種の異説を述べた箇所のさらにほんの一部にあるだけだし、しかも行ってすぐに戻ってきた話にすぎないのだが、それだけを取り出して大きく話を拡げて「だから大和朝廷の先祖は朝鮮から来た」とする人が、保守派論客の中にさえいる。

 また、北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)の引用文の中の「昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが・・・」――という箇所だけを取り出して、その前後から来る文意を意図的に無視し、さらに『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』全体に流れる親房の歴史観もまったく無視して、「親房のような勤王(きんのう)派に属する人までが古代の日韓の支配層が同種であると記している」と言い切っている人(韓国の文学博士)がいる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀296』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月17日(火)12時14分51秒
  [承前]

 検討に入る前に、桓武(かんむ)天皇と『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の関係について触れておく。
 桓武天皇にはゴマスリ役人が創作したとされる生母伝説があり、それにあやかって先祖を百済(くだら)の王族だと詐称する役人が多く出たため、それを是正する必要が生じ、こういう資料が作成されたとも言われている。

◎『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』にある引用文

 先に記したように、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の最後は桓武天皇の前半の事績となっており、そのあとは『日本後紀(にほんこうき)』にある。
 桓武天皇の在位期間は西暦七八一年〜八〇六年だが、このうち、前半のほぼ十年が『続日本紀』に記され、その後のほぼ十五年が『日本後紀』に記載されている。

『日本後紀』の桓武天皇の部分は、全部で十三巻からなっているが、残念なことに散逸が多く、現在残されているのは、巻第五、八、十二、十三の四つの巻のみである。
 したがって不明の事が多いのだが、断片的な引用文から推理できる事もある。
 本章に関係の深いその一つが、『神皇正統記』における引用(らしい記述)である。

『神皇正統記』は、南朝の忠臣で大学者でもあった北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)が、天皇にご進講するために執筆したとされる史書で、西暦一三三九年に初版がなったとされている。
 この本には、前にも記した「やまと」の語源、「倭」の語源などについての考察などもあって当時の考え方が分かり、とても興味深いのだが、『新撰姓氏録』に関係するのは、巻二の應神天皇の箇所にある、次の文章である。

**********

異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後(のち)なりといふ(う)といへ(え)り(注1)。かへ(え)すがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼(か)の書を桓武の御代(みよ)に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊(すさのおのみこと)(から)の地に到り給ひ(たまい)きなど云ふ事(注2)あれば、かれらの國々も神の苗裔(びょうえい)ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐ(もちい)ざる事なり。天地神(注3)の御末なれば、なにしか(注4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(注5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(注6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(注7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩(やから)の云ひ出せる事か。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀295』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月16日(月)12時51分56秒
  [承前]

◎『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の拡大解釈はおかしいのでは?

 こういう数値の根拠とされるのは、一般に、『新撰姓氏録』と呼ばれる平安初期の書物である。
 どのような書物か、日本歴史大辞典(河出書房新社)の説明を引用する。

**********

 平安時代初期に朝廷で諸氏の系譜を集成した古代史研究の重要資料。
 西暦七九九(延暦十八)年に桓武(かんむ)天皇が勘本系使(かんほんけいし)をおき、諸氏に本系帳の提出を命じたが、これが嵯峨朝に継承され、万多(まんた)親王、藤原園人(そのひと)、藤原緒嗣(おつぐ)以下が勅命により編纂に従事し、西暦八一四(弘仁五)年六月一日に序文を付してこの書を完成し、さらに臣籍に降下した源・良岑(よしみね)・長岡・広根の諸氏の条項をこれに追加して、翌年七月二〇日に上表文とともに奏進した。
 内容は三〇巻と目録一巻から成り、左右京と畿内(きない)五国(大和(やまと)・山城(やましろ)・河内(かわち)・摂津(せっつ)・和泉(いずみ)の五国)に住む一一八二(現存本では一一七七)氏の系譜を、皇別(三三五)・神別(四〇四)・諸蕃(三二六/帰化人を元にする氏族)の三部に大別して収め、最後に未定雑姓(系譜不確実のもの一一七)をまとめてある。
 はじめから京畿の諸氏だけに限ったものらしく、それも完全に網羅されてはいない。
 現存本は抄録本で、原本の逸文は諸書に散見するが、鴨脚(いちょう)家本によって伝えられる巻一七の賀茂朝臣(かものあそみ)と鴨県主(かものあがたぬし)の二条項のほかは、原本の全容を知ることはできない。

**********

 古代日本の様相を知る上での貴重な文献である。
『新撰姓氏録』そのものについては、いくつか資料があるが、『田中卓著作集9 新撰姓氏録の研究』(国書刊行会)をおすすめする。

 上の引用で『新撰姓氏録』の概要はお分かりと思うが、ここにあるように、帰化人系の諸蕃の氏族の数は三二六、全体数は一一八二だから、諸蕃数を全体数で割ると、

「二七・六パーセント」

 ――という数値が得られる。
 これは純日本人と帰化人の割合がほぼ10:4である事を意味する。
 じつに大きな割合である。

 これが、前記(甲)と(乙)の数値的な根拠である。

[つづく]
 

幻の4世紀・12世紀・15世紀はGHQの歴史抹殺  投稿者:えこね  投稿日:10月16日(月)11時54分59秒
  7世紀(600年代・隋の南北朝の統一と六朝の終焉・隋の大運河と遣隋使・唐の外征と遣唐使)

6世紀(500年代・510年に千字文を周興嗣が作詞(書道の習字の手本となる)
          520年に達磨大師の梁武帝との頓知問答と北魏の洛陽崇山少林寺の開山)

5世紀(400年代・後燕国(遼西)の鮮卑族の慕容氏に養子になった高麗王族・
          慕容氏を滅ぼした、北燕国の王となった高麗人・
          高麗王を鮮卑に殺させ、北燕国の後継の王に推挙された漢人馮氏・
          436年に北燕国(遼西)の龍城(黄龍国・柳城・現在の遼寧省票市)が
               鮮卑族拓跋氏の北魏国(均田制の孝文帝の母)の遠征で滅亡
          475年・百済に北魏が遠征し襲来【南斉書(蕭氏の南朝)】)

4世紀(300年代・313年・楽浪太守の張統が前燕国(遼西)へ亡命し、楽浪郡が滅亡
          六朝時代の始まり、倭の五王【宋書(南朝の劉裕の宋王朝・倭王武ら)】)

3世紀(200年代・206年に楽浪郡の南半分を帯方郡として分設し、遼東北部の扶余族を移住
          244〜246年の三国志魏国の討伐(母丘倹将軍・楽浪太守劉茂・
                 帯方太守弓遵の討伐)で、高麗が新羅に逃げ、韓が滅亡
          280年ごろに【三国志(魏志倭人伝など)】を西晋王朝の陳寿が編纂)

楽浪郡楽都県【続漢書(後漢書)】 → 弁辰(馬韓東界・辰と弁別した地区)に、弁楽奴国

紀元前2世紀(BC100年代・108年に前漢の武帝が楽浪郡を置く)
 

シナの一部である出張所長官の支配地(朝鮮)  投稿者:えこね  投稿日:10月16日(月)11時26分38秒
  19世紀(1800年代・満州王朝(清朝)支配下の朝鮮の李氏(李朝)を『朝鮮国王』とし朝鮮の反乱
            (軍乱)に『朝鮮総理通商事宜(朝鮮総督)』袁世凱を赴任させる)

15世紀(1400年代・明朝(漢人王朝)支配下で、高麗の李氏(李朝)を『権署朝鮮国事』とする)

13世紀(1200年代・鎌倉時代・日蓮や浄土真宗など蒙古襲来)

            蒙古王朝(元国)は高麗地方(朝鮮半島)に蓋州路を置き東京支郡に
            格下げで蒙古直轄領に属させ、建安県へ熊岳県・湯池県(崇山・崇州)を
            吸収合併する。高麗の反乱に『権知高麗国事(高麗総督)』を置く。

12世紀(1100年代・平清盛の金つかませ書状の日宋貿易から
            宋の国(中国)から禅宗和尚の豆腐と味噌と喫茶の招来
            1192年に平泉征伐・鎌倉幕府の成立)

            高麗の半島の女真族(金国)による支配
            南女直湯河司の支配地に、松山県・静封県などを置く
            建安県・熊岳県・湯池県(崇山・崇州)など存続させる
            高麗の反乱を鎮圧勝利し、『高麗生日使(高麗勝利使・高麗総督)』
            蕭氏を赴任させる。

11世紀(1000年代・前九年〜後三年の役で源義家[八幡太郎義家])

10世紀(900年代・940年に、天慶(てんぎょう)の乱で平将門の関東独立事件)
           新羅が渤海人により滅亡(渤海国が、もと新羅に蓋州を置く)

           渤海人の東丹国(新羅国)を契丹が滅亡させる(もと新羅に辰州を置く)

           契丹人は南女直湯河司(南満州湯河司・南扶余湯河司)を
               全羅道〜忠清道・京畿道(南楽浪郡・帯方郡・旧百済)を置き
               東京統軍司留守(東京路の所属で軍政による出張長官)を
               江原道〜慶尚道を置いて、旧新羅を支配。

               契丹人(マッカツ人・満州人[女真]を服属させている)の配下で
               新羅の金城(蓋牟羅城=健牟羅城)の住民を南満州の祖州
               (扶余の地?遼東北部から吉林平原南の山岳?)へ強制移住させ
               遼西の慶州の漢人(北燕国のような感じの中国人)や
               遼西の奚族(檀君を祖とする北魏や隋の鮮卑族のような遊牧民)を、
               辰州(倭と燕の間の蓋・もと辰韓・蓋州・旧新羅)に入れ替わりに
               移住させた。

               高麗に建安県・熊岳県・湯池県(崇山・崇州)などを置く。
 

帰化人が多いという説は疑問  投稿者:えこね  投稿日:10月16日(月)10時51分58秒
  帰化人が30人程度、数百人程度と、諸説があるようですが。

9世紀(800年代、804年ごろに遣唐使から渡来の天台宗・真言宗の平安仏教がはじまる)

8世紀(700年代、794年に京都が出来る。
          既にアテルイ(水沢・胆沢)・モレ(一関・千厩)の俘囚(ふしゅう)らと
          坂上田村麻呂の国府軍(桓武天皇の朝廷軍)らが
          38年間あまりの合戦。
          伊治公アザ麻呂(栗原市築館の有力者)が
          陸奥国府の按察使(多賀城市に赴任)を暗殺し
          桃生柵(ものうサク・石巻市の城)などが俘囚の大挙襲来で落城し
          蝦夷と大和の合戦が始まる)

7世紀(600年代、645年に、蘇我氏を暗殺で大化の改新
          663年に、白村江[はくすきのえ]の戦いで百済を再興できず百済滅亡。
          665年に、唐(天朝)の帯方州刺史(熊津都督)の劉仁軌が
               海路(浮海)で長安(京師)に戻る途中に
               新羅・百済[マッカツ(女真)の扶余隆]・耽羅[済州島]・和国の
               4カ国の使者を伴って
               山東半島の泰山の祠の祭りに会合をさせ(会祠)
               和平させる。
          668年に、唐の遠征により、高麗国(高句麗)が滅亡。
               北宋[960-1127]の司馬光の編年体歴史書の『資治通鑑』より。)
 

『卑弥呼と日本書紀294』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月15日(日)11時57分51秒
  (以下の節は、『女性天皇の歴史』の第二章に記した帰化人問題についての採録です)

■■■■■ 七・S 朝鮮半島からの帰化人についての二、三の考察 ■■■■■


◆◆◆ 七世紀の帰化人は三割もいた? ◆◆◆

「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長で正論派の著名な論客が、ある雑誌に、ちょっと気になる事を書いておられた。

「七世紀の畿内では、人口の約三十パーセントが百済(くだら)からの帰化人」(甲)

 ――という一節である。

 これがふと気になったのは、前に読んだ歴史書に、

「当時の上層部の十〜三十パーセントが帰化人」(乙)

 ――と書いてあったのを記憶していたからだ。

 反日家の中には、飛鳥(あすか)時代の日本に住んでいたのは大部分が朝鮮人だと言い張る人がいるが、それは別として、著者なりに検討してみたところ、(甲)がおかしいのは勿論として、(乙)もまた真実とは少し違うと考えるようになった。

 そこで「つくる会」に著者の意見を送ったところ、歴史教科書の古代史部門を担当なさっている理事の方から、「あなたの意見の方が正しい」というご返事をいただいた。

 著者の意見の概要を以下に記す。

[つづく]
 

鷹森孝の件  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月14日(土)23時29分25秒
  日本陸軍将官辞典(芙蓉書房出版)につぎのようにあります。

鷹森(黒川)孝(歩兵・三重)
 明治21年1月9日〜昭和43年4月27日〈昭和16年10月15日陸軍中将〉
 昭和15年3月9日琿春駐屯隊長、16年10月15日第11師団長、20年4月7日第12軍司令官。
 シナ事変に歩兵第六八連隊長(第三師団、歩兵第五旅団)として出動、大場鎮、蘇州河と堅陣を突破、南京攻略、徐州会戦でも武功をたてた。終戦時には第12軍司令官(北支方面軍)で鄭州にあった。[陸士20]

 なお東條英機の三女は東條幸枝(昭和6年生)で、映画監督の鷹森立一と結婚したと、東條英機の年表にあります。

 これ以上のことは私には分かりません。
(この掲示板では、日本人とは思えない日本語を書く人が多いように思え、頭が混乱します)
 

RE:解答が欲しい  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月14日(土)20時16分53秒
  鷹森賢一様

生憎(あいにく)と当方には「鷹森孝」さんに関する資料がありません。
折角、ご質問頂いたのにお力になれず、誠に以て恐縮です。
 

解答が欲しい  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月14日(土)16時30分12秒
  竹下先生
うちの曽祖父、「鷹森孝」についての資料がおいでになりませんか。
中国でのが欲しいです。お願いします!
 

『卑弥呼と日本書紀293』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月14日(土)13時16分51秒
  [承前]

 ただ、〈卑彌呼〉についての古い記憶が、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の神話のほかに〈神功(じんぐう)皇后〉の物語にもいくぶんか投影した可能性はあるだろう。
 また、神功皇后紀にある『魏志倭人伝』の引用も、きわめて古い時代のものなので、史料として貴重である。
 そういう意味で、〈卑彌呼〉を語るとき、〈神功皇后〉の検討は欠かせないのである。

**********

 奈良時代から長く信じられてきた「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」にはじめて異を唱えたのは、江戸時代の国学者・本居宣長(もとおり-のりなが)とされている。
 宣長の学問的態度の立派さがわかる。

 当時の歴史家がわざと〈卑彌呼〉を思わせる事績を集めた可能性もあるが、『日本書紀(やまとのふみ)』編纂者の理解には、つぎの二種類があり得るであろう。

(1)「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」を信じていた。
(2)疑問を持ちながらも、「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」に合うように記述を工夫した。

 著者は(2)の可能性が高いと考えている。

**********

 もちろん、〈神功皇后〉を〈卑彌呼〉に比定し、「《邪馬台国》九州説」を展開するSF的な創作なら、ロマンにあふれていて魅力的であり、今後も書かれ続けることを期待している。

[次回からは第七章の付録で「七・S 朝鮮半島からの帰化人についての二、三の考察」]
 

日本偏向放送協会(NHK)には“ひだりまき”の頭目が棲息していた  投稿者:暗黒の政治屋/  投稿日:10月13日(金)16時12分48秒
  突然の投稿 恐縮に存知ます。

テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮が 過日 原子爆弾の爆発実験を実行した事は 既に 各位に措かれましては ご承知のことと存知ますが

先ず 下記の URL( Home Page ) を ご照覧下さい。
又 その 記載内容の一部を 下記にて ご覧下さい。

当該 人物の経歴を見ますと 元 NHK記者 ジュネ―ブ支局長 …………
北朝鮮人道支援の会 代表 …………

下記の 記載内容を見ますと 恰(あたか)も テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮よりの プロパガンダ報道と うりふたつ 即(すなわ)ち 単に 事前の予備知識 無しに この記載内容を読みますと 正に テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮よりの報道ではと 誤解しても不思議では無い。

しかも 幾許(いくばく)であれど 北鮮に依る 「拉致事件」に関心を享有されておられる普通の まともな日本人でありますれば 当該 人物の名を見るのみで過去に措いて 拉致被害者に対して数多の 誹謗/中傷/侮辱/妨害工作 ……… 等々 不埒(ふらち)(きわ)まる ありとあらゆる悪行(あくぎょう)を実行し 現在も実行しつつある輩(やから)であることを 最早や常識として 享有/認識している。

今や テロリスト/ならずもの/ごろつき 北鮮に依る 原子爆弾を搭載した弾道ミサイルが 日本へ飛来/着弾し 最悪 数百万人が犠牲になる可能性が現出しつつある現在に措いて 堂々と 公然と 己の Home Page に下記の如くの文面を 記載し 勝ち誇るが如くの輩が 日本偏向放送協会(NHK)に どぶねずみの如く棲息/存在していた事実がある。

現時点に措いても 日本偏向放送協会(NHK)には前記の「ひだりまき」と同類である どぶねずみは 絶えること無く棲息/生存している。

普通の まともな日本人であれば 今や 無関心/無責任より 脱脚し行動を起こすべきではないでしょうか。

NET 参集者 各位に措かれましては ご存知の様に 日本のマスゴミに期待することは出来ません。
そこで 下記の 具体的 行動を 各位/諸兄/諸姉に 希求致します。

(かか)る 「ひだりまき」 を代表する輩が 過去のこととは言へ 棲息していた事実に鑑(かんが)み 日本偏向放送協会(NHK)に対して“真っすぐ真剣”なる絵空事(えそらごと)を指弾し 相反することを 未(いま)だに行っている事実を 有力なる根拠として 視聴料/受信料は 是が 改善されぬ限り 支払を拒否する行動を 祈念致します。

所で 数ヶ月 前より“NHK を民営化(スクランブル化)を考える” ........なる URL サイト BBS が撃沈すること無く 続行されていますが(下記 URL)
その 膨大な数量の 書き込み内容の 99% は 反 NHK 一色である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

>これで北朝鮮が名実ともに「核兵器保有国」になったことは疑いのないところです。

>最大の理由は、ブッシュ米政権が強硬路線一点張りで、米朝直接交渉に応じず、金融制裁も解除せず、北朝鮮「封じ込め」を変えなかった点にあります。

>、中国も韓国も金正日体制崩壊を望んでおらず、支援を中止することはあり得ません。

>かといって、武力制裁も不可能です。

>北東アジアに核を拡散させ、核保有国を増やしたのは、強気一点張りで北朝鮮の真意を測りかねたブッシュ政権の失政です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


http://www3.ocn.ne.jp/~yy-dprk/

   http://www16.plala.or.jp/nhk/
 

『卑弥呼と日本書紀292』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月13日(金)12時31分51秒
  [承前]

◆◆◆ 「〈卑彌呼〉=〈神功(じんぐう)皇后〉説」の可能性 ◆◆◆

 これらのさまざまな方角からの推定をまとめると、〈神功皇后〉とその前後の天皇が活躍された実紀年は、

 仲哀天皇 西暦三〇〇年代半ば
 神功皇后 西暦三〇〇年代半ばから後半
 應神天皇 西暦三〇〇年代後半から四〇〇年前後
 仁徳(にんとく)天皇 西暦四〇〇年前後から四〇〇年代前半

 ――といったことになるだろう。

〈神功皇后〉の活躍のなかでも白眉とされる三韓征伐は、『日本書紀(やまとのふみ)』の記述どおりとすれば、仲哀天皇崩御(ほうぎょ)の直後だから、実紀年は三六二年ごろということになる。
 またのちの進出を神話化したのみだとすれば、晩年の三七〇年ごろの任那(みまな)七カ国の事件と、次の代の四〇〇年前後の『好太王碑』にある事変とを主な材料にしている――ということになるが、南原次男が主張するように、三六二年ごろになされたその前哨戦と考える方が当たっているであろう。

 したがって、どう幅広く解釈してみても、〈神功皇后〉の活躍した時代は、西暦二〇〇年代の〈卑彌呼〉の時代とは合わない。
 百年も違っている。

 というわけで、多くの照応点があるにもかかわらず、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――が成立する可能性はほとんど無い。

 また、

「《邪馬台国》九州説」

 ――への援用も、神武(じんむ)東征と似た話があるので誘惑にはかられるが、考古学的にはかなり苦しいといえる。

[つづく]
 

九日  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月12日(木)23時40分9秒
  九日は晴天で国旗が青空に映(は)えました。
ただ、九日にしてしまった事には疑問があります。
 

國旗・國歌  投稿者:黄東洋  投稿日:10月12日(木)22時30分55秒
  だから、日の丸と君が代が嫌だったら何がいいのか代案を出してください。  

RE:国旗  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月12日(木)21時54分16秒
  関東軍の二等兵さん

>中国人は動でもいいのです。今は日本の話ですよ。

「中国人は動でもいい」のであれば、これ程、楽な話はありません。実際、日本国内の「反日メディア」も悪いのですが、靖国参拝問題・歴史認識問題等は、支那・韓国が必ず絡んでおり、これらの「問題」を語る時については、「動でもいい」支那人を引き合いに出すのが常道と言うものです。

もしも、本当に「中国人は動でもいい」のであれば、日本政府や日本国民は、支那人が靖国参拝や歴史教育に対して色々と言ってきても、「無視」していれば良い訳ですし、同問題を口実に拒絶し続けた首脳会談を無理にセットする必要もなくなります。詰まり、支那人が色々と日本に対して言っている以上、日本人も支那人に対する反発や苦言を主張する権利はありますし、一方的に言われる必要はありません。国旗云々ししても、支那人は日章旗に対して、×印を墨書したり、燃やしたりと言った無礼を働いている訳で、それに絡めて五星紅旗を引き合いに出した迄の事です。

>日本人の私でも君が代は今の日本にふさわしくない

日本人の私から見れば、「君が代」こそ日本に相応しい。その一言です。

(そもそ)も、戦争と国旗をリンクし、国旗が血塗られているが如き主張をされるのであれば、支那は言うに及ばず、米・英・独・仏・露(と旧ソ連)と言った欧米諸国も皆、血塗られています。だからと言って、それらの国が国旗を自発的に変更しましたか? 答えは否です。又、軍隊の統帥(とうすい)権を国旗が持っていた訳ではありませんし、国旗が兵隊に敵兵殺害を命令した訳でもありません。

自らは「意志を持たない」国旗に色々と理由をつけて忌(い)み嫌う事に対しては、ナンセンスだと私は思いますね。
 

『卑弥呼と日本書紀291』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月12日(木)12時21分38秒
  [承前]

〔5〕「七支刀(ななつさやのたち)」の銘文による推定

 第七・十一節に記したように、この刀ができたのは三六九年、日本に朝献されたのが三七二年と推定されている。
 すなわち日本が任那(みまな)における権益を確立した直後である。
『日本書紀(やまとのふみ)』によれば崩年の十七年前のできごとなので、〈神功(じんぐう)皇后〉の活躍期間は「〜三八〇年ごろ」と推定できる。


〔6〕御陵(ごりょう)の考古学的研究による推定

 天皇陵は発掘がなされないため、厳密な調査は困難とされいるが、おおまかに造営年代を推定することはできる。
 ここでは、国立歴史民族博物館教授の白石太一郎作成の表から判読してみる。
 ただしどれがどの天皇の御陵なのか、については異説もあるので、参考にとどめなければならない。
 たとえば仲哀天皇陵とされている御陵は実際は第二十一代雄略天皇のものではないか――という説があるし、十五代と十七代についても、入れ違っているのではないか――との考えもある。
 また推定年代も「年輪年代法」などによって今後古い方向に修正される可能性がきわめてたかい。

 第十三代成務天皇陵  三八〇年前後
 第十四代仲哀天皇陵  四九〇年前後
 〈神功皇后〉陵    三五〇年前後
 第十五代應神天皇陵  四三〇年前後
 第十六代仁徳(にんとく)天皇陵  四四〇年前後
 第十七代履中天皇陵  四一〇年前後

〈神功皇后〉の摂政在位が三〇年間とすると、活躍期間は「三二〇〜五〇年ごろ」と推定できる。

[つづく]
 

国旗  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日:10月11日(水)16時31分57秒
  竹下先生

中国人は動でもいいのです。今は日本の話ですよ。
日本人の私でも君が代は今の日本にふさわしくない
 

In English OK?  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月11日(水)15時24分14秒
  My father was bore in Manchuria,but my grandpa is Japanese.I want to know Japan more,although my family cannot go back to Japan.
When I watched the movie named "Pearl Harbor",I felt proud of being Japanese.
Japan is the first country which dare attack the US all over the world!
As posterity of Lieutenant General in Old Japanese Army,and the kin of Sir Hideki Tojyo, I have gotten ready to show the Japanese power from China to Peru!
 

お尋ねしたいことが  投稿者:鷹森賢一  投稿日:10月11日(水)14時50分16秒
  私の曽祖父、「鷹森孝」と言いますが、元関東軍の中将だそうです。でも、一つの問題が出て、後でなぜ上海派遣軍の大佐になったのですか。本当に知りたいの。
祖父の話によりますと、東条英機殿の第三人の娘さんは私の祖父の兄の妻だそうです。本当でしょうか。名前は「東条幸枝」と「鷹森幸枝」で、祖父の兄の名前は「鷹森立一」です。
私は青二才で、歴史的な問題ならば、あまり知らないのですが、どうぞ よろしく。
 

『卑弥呼と日本書紀290』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月11日(水)12時15分38秒
  [承前]

 この対応を元に、各天皇の干支による崩年と、シナ史書による推定崩年とを比較してみると、次のようになる。上が干支、下がシナ史書の数字である。

 第十六代 仁徳(にんとく)天皇  四二七年/四三八年
 第十七代 履中天皇  四三二年/ ? 年
 第十八代 反正(はんぜい)天皇  四三八年/四四三年
 第十九代 允恭(いんぎょう)天皇  四五四年/四六〇年
 第二十代 安康天皇   ? 年/四七七年
 第二十一代雄略天皇  四八九年/ ? 年

 日本とシナの両史書できわめて近い数字になっていることがわかる。せいぜい十年しか違わない。しかも宋書の数字は次の天皇の使者が来た年だから、実際の崩年はこれより数年は減ずる可能性があり、だとすると一致度はもっと高い。
 千六百年も前の、国の違う二つの資料がこれだけ一致するのは興味ぶかいが、このことから、崩年干支推定の〔1〕を活かすことができると考えられる。
 すなわち〈神功(じんぐう)皇后〉の活躍期間は「三六〇〜八〇年ごろ」と推定できる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀289』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月10日(火)11時53分19秒
  [承前]

 シナ王朝が日本にゴマをするような必要はまったく無いので、これらのやり取りからいえるのは、四世紀〜五世紀にかけての神功(じんぐう)〜應神〜仁徳(にんとく)の朝鮮出兵とその結果として南朝鮮で権益を得た伝承が史実であることが、宋の正史から証明できる――ということである。

 当時の大和(やまと)朝廷がじつに強大な勢力を誇っていて、日本列島の北方を除く大部分と半島南部の多くを支配下に置いていたことが推理できるのである。

**********

 さて、この「倭の五王(実際にはたぶん六王)」が、『記紀』のどの天皇にあたるのかについてであるが、なにしろ名前が一字にされてしまっているので、確定は難しい。
 日本の使者によるそのとき使われていた天皇名つまり諱(いみな)の読みを、漢字一字で勝手に表現してしまっているのだ。

 ここでは、田中卓の推理する対応を記しておく。
 括弧内は使者が派遣された年である。

 讃(さん) → 第十六代 仁徳天皇(四一三#、四二一、四二五)
 王(おう) → 第十七代 履中天皇(四三〇*)
 珍(ちん) → 第十八代 反正天皇(四三八)
 濟(さい) → 第十九代 允恭天皇(四四三,四五一)
 興(こう) → 第二十代 安康天皇(四六〇、四六二)
 武(ぶ)  → 第二十一代 雄略天皇(四七七、四七八)

(#は讃かどうかはっきりしない年。*はシナ史書に「倭国王」とだけ書かれていて名が欠けている年)

 このうち後の三天皇についてはかなり確実だとされているし、珍についても異論は少ない。
 第一の讃については、仁徳天皇説と履中天皇説とがあって結論は出ていない。ただ履中天皇は在位期間が短かったらしいので、仁徳天皇説の方が有力である。
 仁徳天皇の諱は国風謚号(しごう)と同じ大鷦鷯(おおさざき;大きなミソサザイ)なので、日本の使者は「サザキ・・・」と発音したであろう。シナの役人はその発音の「サ」を讃の一時で表現したのだろう――というわけである。
 他の一字名についても、似たような対応が考えられている。
 このような、役人が勝手に略称をつくって記述する方法は、『魏志倭人伝』の昔からシナ王朝の常套(じょうとう)である。
 シナでは姓は一字が多いので、日本の天皇を一字で表すのは、あちらの役人としては自然なことである。
 前に記したが、遣隋使・小野妹子(いもこ)のシナでの名前は明確になっていて、姓は一字名は二字の蘇因高である。しかも、とても素人には類推できないほど変形されている。

 四一三年の遣使については、史書に名が出ていないので、在位年代から推定するほかはない。晩年の應神天皇の可能性もあるが、仁徳天皇説が有力である。
 四三〇年の使者については、シナ史書には王とだけあって名前が欠けているが、これを履中天皇と仮定すると辻褄が合う。
 これが正しいとすると、倭の五王ではなく六王である。

 この場合、シナ史書による系図を推理した田中卓の説によると、

    ┌――某王
    │
 讃――│――珍
    │     ┌興
    └――濟――│
          └武

 ――のようになるが、これは、『日本書紀』による系図、

    ┌――履中
    │
 仁徳―│――反正
    │     ┌安康
    └――允恭―│
          └雄略

 ――に一致する。

 著者としては、この田中卓の六王説に妥当性を感じるが、断言はできない。

(なお古田武彦のように倭の五王を九州王朝とする説もあるが、左右を問わず学界の最大公約数にはなっていない)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀288』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 9日(月)12時43分43秒
  [承前]

 つまり日本列島の支配権および高句麗(こうくり)を除く朝鮮半島(三韓/百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな))の支配権が日本の天皇にあることを、シナ王朝の宋に主張したのだ。六国(りっこく)とは三韓とその後継国とを重複させて大げさにした国数である。
 しかしすでに百済の王を使持節都督に認めていた宋では、この主張を認めるわけにゆかず、とりあえず、

「安東将軍・倭国王」

 ――にした。
 そのあと宋は、三番目の濟が四四三年に使者を送ったとき、同様な、

「安東将軍・倭国王」

 ――を与えたが、これに日本の天皇は不満を持って厳しく要求したらしく、そのあと同じ濟が四五一年にも送ったとき、宋王朝は、

「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国軍事」

 ――という称号を加えた。
 つまり二番目の珍が要求した六国のうち、すでに称号を与えていた百済を除く国々の支配者が日本の天皇であることを認めたのだ。
 加羅は任那の前身にあたる国だが、百済を除いたかわりに、数合わせで付加したものである。

 当時のシナ王朝が、隣接する朝鮮半島の情勢を知らなかった筈はないし、使者の話が虚偽であれば認める筈はないので、この珍や濟の要求に宋が応じたことは、実際に朝鮮半島南部のほとんどを日本が支配下に置いていたことの証明になっている。
 なお高句麗は百済と同様な称号を独自に与えられていた。
 また五王の最後の武も、東の五十五国、西の六十六国、海の北(朝鮮半島)の九十五国を平(たい)らげた――と述べ、それを認められて濟と同じ称号を得ている。

[つづく]
 

日中関係の明治と戦中・戦後のつなぎ役割  投稿者:えこね  投稿日:10月 9日(月)07時33分25秒
  孫文博士は、ハワイで医学を勉強し プロテスタント洗礼を受けました。

北洋軍閥時代は
ラストエンペラーを1924年(大正末年)のクリスマスに紫禁城から追い出した馮玉祥将軍が、孫文博士の2人の遣いから渡された小冊子によって国民党の影響を受け、プロテスタント信者になりました。
広東政府と北京政府の中国統一の南北の平和会議を開催し、孫文博士を馮将軍は、北京に呼びますが、翌年、革命いまだならず。と言い残し亡くなりました。
日清戦争から張作霖爆殺の4年前の活動時期で、激動の時代でした。

馮将軍とは、おり悪く日本とは、抗日戦争の敵将(戦区司令官)となりましたが、共産党と国民党の内戦が収束する中、中華人民共和国の建国宣言の前の年内の1949年に、帰国中の船の火災でなくなりました。
 

双十節(台湾系・もと広東の国民党)  投稿者:えこね  投稿日:10月 9日(月)06時52分7秒
  明日は、辛亥革命の記念日(双十節)です。中華民国(台湾)の。国民党のですね。

韓国は1910年に併合ですが、1911年に中国は秦の始皇帝以来からの君主制を捨てました。
 

RE:朝鮮戦争で半島が分断されたのはある意味幸福だった?  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月 8日(日)21時02分54秒
  利亜さん、お久しぶりです。

>この原因は元々、李朝太祖李成桂が高麗(こうらい)王朝の人脈を排除(一例、
>高麗の王一族は皆殺しされ遺体は海に捨てられました)、そして李朝建国の功臣たちの
>排出した地域であることと、太祖が女真(ジュシェン)族出身であることを隠すために
>南人と手を組んで自分の同郷である北人を迫害したのが切欠(きっかけ)らしいですね。

李朝太祖・李成桂の父は名を「李子春」と言いますが、元の名は「吾魯思不花(ウルス=ブハ)」、曾祖父・李安社の官名は高麗宜州「達魯花赤(ダルガチ)」。そして、「達魯花赤」に就く事が出来たのは殆どが蒙古人で、その他は蒙古人と血縁関係にあった満州人、色目人(西域人)であり、漢人、ましてや「朝鮮人」が就く事等出来ませんでした。詰まり、李王家が生粋(きっすい)の朝鮮人で無かった事は明白であり、言い換えれば、李氏「朝鮮」は、満州族出身の李王家とその取り巻きであった貴族(両班 ヤンバン)によって支配された「征服王朝」だった共言えますね。
 

五星紅旗  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月 8日(日)20時48分30秒
  「日章旗」(日の丸)や「君が代」が悪(あ)しきイメージを伴っていると言うのであれば・・・

支那国旗「五星紅旗」は、1959年の「チベット動乱」に於いて人民解放軍が虐殺した8万余にも及ぶチベット人の血の紅を吸った忌(い)まわしい国旗。その忌まわしい悪しき国旗を振りかざして反日デモを行った北京の学生共は、一体・・・

ここから先は言わず共良いでしょう。
 

中国24正史[中華書局など]ほか、から推定  投稿者:えこね  投稿日:10月 8日(日)16時53分19秒
  秦韓(辰韓): 新羅城は、高麗(高句麗)がヨクソからワイを経て
        古辰国(秦からの亡命人である趙・斉・燕人の地)へ逃げた結果
        出来た国という。
        同じ地域の高句麗(新羅城・辰韓サロ国を滅ぼした高句麗)とは別の
        古辰国人(辰韓人・辰韓サロ国から逃げた辰韓人[秦韓人])を示すと思われる。

慕韓(馬韓): 後燕国(王が鮮卑族の国だが、漢人馮氏の北燕国に滅ぼされる)で
        遼西の鮮卑族(伝説は壇君)の慕容氏の養子に高麗(高句麗)の太子(王子)。

任那(ニムな): 長老[ニム]は奴[ナ](和人が酋長、村長、ムラジ、倭の奴國)、
        弁樂奴國・奴國[ナぐっく]・羅州[ナじゅ] → 樂浪郡樂都縣 と思われる。
 

朝鮮戦争で半島が分断されたのはある意味幸福だった?  投稿者:利亜  投稿日:10月 8日(日)15時52分1秒
  韓国では地域差別があることで有名なようですがそれ以前に南朝鮮は北朝鮮(特に西北、東北地方)の人間を差別していたらしいですね。

東北、西北の被差別民は婚姻は当然として付き合うことも避けていたそうで政争に負けた者を配流するという忌まわしい地域ともイメージされていた様です。

この原因は元々、李朝太祖李成桂が高麗(こうらい)王朝の人脈を排除(一例、高麗の王一族は皆殺しされ遺体は海に捨てられました)、そして李朝建国の功臣たちの排出した地域であることと、太祖が女真(ジュシェン)族出身であることを隠すために南人と手を組んで自分の同郷である北人を迫害したのが切欠(きっかけ)らしいですね。

開城(ケソン)人は官僚として起用されることは無かったそうですね。

このような迫害を数百年かけて受け続けたのなら朝鮮民衆(特に北の地域)は日本を『解放軍』と受け取るのも止(や)むを得ないところありますね。

豊臣秀吉の朝鮮征伐の時も迫害を受けてきた民衆による朝鮮王宮での金品略奪、奴隷帳簿を焼却、放火が起きるのは当然と言えば当然ですね・・・

国王、自ら率先して逃げ出すのですから民衆も王を尊敬するわけありませんね。

民衆は国王に対して石を投げつけて歓迎(?)しましたが・・・・

南北朝鮮が統一すればこの問題をどう解決するのでしょうか?

数百年もの歴史がある差別意識ですから統一すれば伝統意識(元々、朝鮮半島は差別を愛する地域ですから)に従って再熱することはほぼ間違いないでしょう。

北から、命がけで南に亡命した人がまた、北朝鮮に帰りたいと思うくらいらしいですから。

朝鮮戦争が切欠で南北分断によって住み分けができたのはある意味では幸運だったかもしれません。

「1000万人家族離散」の悲劇は無論否定しませんが。

参考文献、黄文雄『韓国は日本が作った 朝鮮総督府の隠された真実』(徳間書店 2002年)

久しぶりの投稿なので舌足らずの面があると思います(苦笑)
 

追伸  投稿者:高志  投稿日:10月 8日(日)15時26分29秒
  挨拶もせず失礼しました。
いろいろな掲示板を巡っていたらこちらにたどり着きました。
宜しくお願いいたします。
 

関東軍の二等兵 殿  投稿者:高志  投稿日:10月 8日(日)15時19分9秒
  誇れる歴史のみを有する国家なんて無いでしょう。
誇れることもそうでないことも国の歴史であることに間違いはありません。
都合が悪くなったら看板を架け替えるなんてオーム的発想ではありませんか?
大切なのは、現在、信頼される誇れる国家であるか否(いな)かではないでしょうか。

お隣の共産主義国家は、現在の国旗の下(もと)でどれだけ多くの同胞を殺害し、そして近隣諸国に脅威を与えてきているか。たとえ国旗を変えたところで何の変化も期待できないでしょう。
 

『卑弥呼と日本書紀287』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 8日(日)12時29分23秒
  [承前]

〔4〕宋書にある「倭の五王」の記録による推理

『魏志倭人伝』以後、しばらくはシナ王朝の記録に日本の記事は見えないが、五世紀の初めになって、「倭の五王」と通称される記録が『宋書倭国伝』にあらわれる。
(倭の五王の記述は、『宋書』の他に『南斉書』『梁書』『晋書』『南史』にあらわれるが、ここでは『宋書』を基準にする)

 宋とは東晋の武将劉(武帝)が四二〇年に建国した王朝である。
 その宋に使者を送ったのは、つぎの五人の王(日本の天皇/六王説は後述)とされる。
 一般に言われている系図を記しておく。

  ┌讃
  │
  └珍・・・濟―┌興
         │
         └武

(この系図については、シナ史書に(書写時にできた)欠落があるために『日本書紀』と合っていないという説がある)

 最初の讃が宋王朝へ使者を派遣したのは、四二一年と四二五年とされている。なお王の名は不明だがその前の王朝・東晋に四一三年に使者がきたことが、『晋書』に記されている。

 これらの使者が携えた文書では、日本が朝鮮半島のかなりの地域で権益を確保していると強調していること、またシナ王朝(晋〜宋)でもその権益確保を認めていたこと――が、宋書の記事から判明する。
 具体的には、次のような文言がある。
 五王のうち二番目の珍が、四三八年に使者を派遣したとき自分のことを、

「使持節都督(軍政の官職)倭・百済・新羅・任那・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国軍事、安東大将軍、倭国王」

 ――と述べた。

[つづく]
 

(無題)  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日:10月 8日(日)11時33分28秒
  しかし日本が戦時中に使っており
イメージの悪い日の丸
天皇を賛美した君が代
今の日本には不適切不似合いではないでしょうか?

しかし学校の先生が反対するのはおかしいですね。
彼らは公務員ですから
 

日章旗・君が代を拒否する反日日本人の憲法違反と朝日新聞の國粹主義  投稿者:黄東洋  投稿日:10月 7日(土)15時45分57秒
  日章旗と君が代を嫌がる人たちは、では國旗・國歌として何が相應(ふさわ)しいか全く代案がない。
それに卒業式であればどう行うか學校の委員會で事前に決めるはずで、議決した決定に從えない人間は議會制民主主義を知らない未熟者。
本來、革新政黨が新しい「國旗・國歌法案」を作成して議會で採決すべきもので、代案も出さず運動や訴訟だけに頼る「市民運動」など憲政も社會のルールもわきまえない不届きものといえる。

また、「軍國主義」は言葉だけで實態は存在しない。假にあっても「軍國主義」の何がどう惡いのか理由がない。

朝日も何が安心なのか。政府が村山談話を否定したら朝日の賣り上げが落ちるのだろう。
政府が前の總理の歴史認識を否定しても誰も何も困らないと思う。

朝日が社説で安倍總理「河野村山談話踏襲」について「少し安心した」と書いている。

村山富市は社民黨の傳統的な「自衛隊は違憲」という見解に反して「自衛隊合憲」、「日米同盟必要」、「日韓併合合法」を言っていた。

政治家が總理になって國會でやる答辯などリップサービスも入っている。

ただ、國會で考えを曲げた背景には野黨による執拗な質問の踏み繪があった。
そこを理解せず、總理の上邊(うわべ)の言葉に一喜一憂し、總理の思想や歴史認識を捻(ね)じ曲げようとする周圍は何もわかっていない。

朝日は日ごろ「國より個人が大事」といいながら、小泉純一郎が「個人として」靖國~社に參拜するのを批判し、なんと朝日が社説で「國uを考えて靖國參拜を中止すべきだ」と書いている。

朝日はお國のために個人の思想や思想を統率しようとしているわけだ。
朝日の國粹主義もすさまじい。

ユーラシア言語研究

http://6008.teacup.com/hwangdongyang2002/bbs

 

『ああ日本人!』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 7日(土)12時24分55秒
  ◎エドワード・モースの記録(明治10年来日して大森貝塚を発見)

 亭主に、私が帰るまで、時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快(こころよ)く承知した。召使(めしつか)いが一人、蓋(ふた)の無い、浅い塗盆(ぬりぼん)を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。(中略)いまだかつて、日本中のいかなる襖(ふすま)にも、錠も鍵もかんぬきも見たことがない事実からして、この国民がいかに正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰ってみると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至るまで、私がそれ等(ら)を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。

◎オリファントの記録(幕末に来日)

 宿舎の部屋は錠も鍵もなく開放され誰でも侵入でき、
「我々は誰でも欲しくなるようなイギリスの珍奇な品々をいつも並べておく。それでもいまだかつて、全くとるにたらないような品物でさえも、何かがなくなったとこぼしたためしがない」
(モースはこのような例を数多く列挙)

◎『魏志倭人伝』

(日本人は)盗窃せず訴訟少なし

◎『隋書倭国伝』

(日本人は)争訟まれに盗賊少なし

◎ザビエル(16世紀に来日)

 キリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほどまでに節操のある人々を見た事がありません。

(以上は『日本の息吹(いぶき)』からの引用ですが、他にも似た話は無数にあります。たとえば――)

◎ツュンベリー(江戸中期に来日)

 この国ほど盗みの少ない国はほとんどない。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にもほとんど注意を払わない。

(九州から江戸までの旅の途中で旅館に貴重品を置き忘れたので諦(あきら)めていたところ、帰途に旅館の主人が呼び止めて渡してくれた話など、枚挙にいとまがありません)

 江戸時代から明治初期にかけての日本人のモラルの高さを外国人が記録した資料につきましては、和辻哲郎賞を受賞した『逝きし世の面影』(渡辺京二)が有名です。
 このような古き良き時代の雰囲気は、私が小学生の時代までは東京にも残っておりました。
 国旗を掲揚する家庭が減った頃から、日本人のモラルも低下してゆきました。
 両者の関係は知りませんけど・・・。
 

『卑弥呼と日本書紀286』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 7日(土)12時08分4秒
  [承前]

〔3〕『三国史記』および『好太王碑』による推定

 第七・二節に記した倭国との関係事項の数を、『三国史記』と『好太王碑』碑文を合わせて、数えてみる。ただし古い時代の『三国史記』の年代はあてにならない。
( )内は、前記の『日本書紀(やまとのふみ)』にある日本側の朝鮮半島関係の記事数である。

  一〇〇年以前     三件
  一〇一〜一五〇年   二件
  一五一〜二〇〇年   二件
  二〇一〜二五〇年   四件
  二五一〜三〇〇年   六件
  三〇一〜三五〇年   四件( 二件)
  三五一〜四〇〇年   七件(一四件)
  四〇一〜四五〇年  一五件(一三件)
  四五一〜五〇〇年   六件( 三件)
  五〇一〜五五〇年   〇件
  五五一〜六〇〇年   〇件
  六〇一年以降     三件

 四世紀から五世紀にかけて――つまり推定される神功(じんぐう)皇后から仁徳(にんとく)天皇にかけての時代――に記事数のピークが来ている。

〈神功皇后〉の三二〇年の三韓征伐が史実だとすると、これは大和(やまと)朝廷による朝鮮進出政策の初期段階と思われるので、〔2〕と〔3〕を総合して、活躍期間が「三二〇〜八〇年ごろ」との推定に無理は感じられない。

[つづく]
 

怖い  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日:10月 7日(土)11時56分39秒
  普通に考えて日本の国旗国歌は軍国主義の象徴だと思います。
と学校で教わりました。
大抵の人が賛同していましたね。
先生の影響力は凄いよw
 

『卑弥呼と日本書紀285』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 6日(金)11時30分2秒
  [承前]

〔2〕一二〇年加算による推定

『日本書紀(やまとのふみ)』にある降誕〜即位〜崩御(ほうぎょ)の三つの紀年を一二〇年加算してみると、

  成務天皇 二〇四〜二五一〜三一〇年
  仲哀天皇 二二九〜三一二〜三二〇年
  神功(じんぐう)皇后 二九〇〜三二一〜三八九年
  應神天皇 三二〇〜三九〇〜四三〇年
  仁徳(にんとく)天皇 三七七〜四三三〜五一九年

 ――のようになる。

 つぎに、神功皇后紀〜仁徳天皇紀にある朝鮮半島関係の記事の紀年を、一二〇年加算で並べておく。

 神功皇后紀――
  三二〇、三二五、三六六、三六七、三六九、
  三七〇、三七一、三七二、三七五、三七六、
  三八二、三八四、三八五

 應神天皇紀――
  三九二、三九六、三九七、四〇三、四〇四、
  四〇五、四〇九、四一四、四一七、四二〇、
  四二六、四二八

 仁徳天皇紀――
  四三〇、四四三、四四四、四四九、四七三、
  四八五、四九〇

 神功皇后紀の後半については一二〇年加算がかなり合うとの意見が多いので、これらの数字から、活躍期間は「三二〇〜八〇年ごろ」と推定できる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀284』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 5日(木)12時41分53秒
  [承前]

◆◆◆ 〈神功(じんぐう)皇后〉実紀年の多面的推理 ◆◆◆

〈神功皇后〉と〈卑彌呼〉の関係を論ずるとき、また〈神功皇后〉の実在性や朝鮮進出の史実性を検討するとき、その実紀年の推定が大きな問題となる。
 そこで、いくつかの面からの実紀年推理について、記しておく。
 これらは著者の新説ではなく、従来からある資料の整理である。
 以下の紀年数字はすべて西暦である。


〔1〕崩年干支による推定

 干支の記述によって実崩年を推定すると、

  成務天皇 三五五年
  仲哀天皇 三六二年
  神功皇后 三七〇年代?
  應神天皇 三九四年
  仁徳(にんとく)天皇 四二七年

 ――となる。

〈神功皇后〉の崩年干支は伝えられていないが、仲哀と應神の間にあることは確かなので、その活躍期間(摂政(せっしょう)在位期間)は「三六〇〜八〇年ごろ」と推定できる。
 仲哀天皇の崩年干支がもし正しいとすれば、〈神功皇后〉の新羅(しらぎ)遠征は三六二年ということになる。
 前述したように南原次男は、(戦史学からいって)これは後の本格遠征の前哨戦と考えられ、三六二年という年代に矛盾は無い――としている。

[つづく]
 

国連半島終了  投稿者:えこね  投稿日:10月 5日(木)10時35分10秒
  総長の韓国バン氏
次長(軍縮局長)に北朝鮮を喜んで受ける
次長(広報部長)に台湾経済文化代表を受け入れる
   北朝鮮が 在日朝鮮総連に委託しシン・スゴ(辛淑玉)を任命。

北朝鮮が 核実験
アメリカが 平壌へ ミサイルの核実験で 水爆を投下
中国が ソウルに ミサイルの核実験で 水爆を投下
ロシアが 台南に ミサイルの核実験で 水爆を投下


どの核実験があったか 何がドサクサだったか 判らないカモ?
どの国の ミサイルとか放射能かも 判らないシ?!と
ミサイルが3カ国とも1本ずつ実際に減っているシ、軍縮になったシ。
3常任国は バッくれる。


放射能除去装置のほか 事態が 落ち着いてから。。。6ヶ国協議
(韓国臨時代表 総長バン氏 北朝鮮臨時代表 次長シン氏)


北朝鮮を 中国領に
韓国を グアム所属アメリカ直轄領土に
台湾を 中国領に( 交換条件 )
ウイグル北部・吉林黒龍江の朝鮮人地区をロシア領に( 交換条件 )

 あるいは

北朝鮮韓国の黄海側と台湾北部を 中国領(BC108楽浪帯方郡の回復)
北朝鮮の日本海側を      ロシア領(交換条件)
韓国の日本海側と台湾南部を グアム所属アメリカ領に(交換条件)

日本と中国が無傷で 戦後復興景気で 国際経済も元気で平和。

在日が朝鮮民族として 日本という場所を地球と呼んで残っているから
核実験が朝鮮や韓国であっても 地球市民として民族消滅はなく安心。
 

アメリカが北朝鮮と戦争なのに軍縮局長だと  投稿者:えこね  投稿日:10月 5日(木)03時57分7秒
  アメリカが北朝鮮と戦争なのに軍縮局長だと、なら、海外派兵するな。アホ

日刊雑想録『秋霜烈日』も人権擁護法案反対です:

2006年2月小生の勉強不足で見いだせないだけであれば不明を恥るだけでなく、国連がしっかりと機能しているとうれしくなるが、安保理決議第1540号ぐらいしか見いだせない。
その国連の事務次長(国連軍縮局長)の後任に日本人というニュース
 

10月の議長国は日本だと。最低だな、だが自虐はしたくない。  投稿者:えこね  投稿日:10月 5日(木)03時54分46秒
  国連(AP) 北朝鮮が核実験を実施するとの声明を出したことを受け、国連安全保障理事会は3日、協議を始めた。国連としての素早い声明発表を期待する声も出るなか、米国やフランス、中国などの理事国で意見が食い違い、安保理としての態度表明は4日に持ち越しとなった。

 この日の安保理では、米国のボルトン国連大使が、北朝鮮の声明を議題に提案した。同大使は、「反射的な対応ではなく、核実験は利益にならないことを北朝鮮に理解させるため、一貫性のある戦略を考え出す」ことが大事だとし、様々な意見を出し合いながら協議を進めるよう主張。「(国連として)紙一枚の声明を出すことは戦略をもつことにはならないし、一貫性があり熟慮された予防外交にもならない」として、早期の声明発表に反対した。

 一方、フランスのサブリエール国連大使は、「安保理が迅速に反応し、強いメッセージを出す」ことが重要だとの考えを表明。「戦略や安保理の対応について話し合うことも必要だが、まず声明の発表が不可欠だ」と主張した。

 中国の王光亜・国連大使は、ボルトン大使の考えに理解を示しながら、「この問題を扱う最善の場は6者協議だ。安保理で話し合うことではないと思うが、明日は協議しなくてはならないだろう」と述べ、声明発表については明確な立場をとらなかった。

 安保理議長国・日本の大島賢三・国連大使は、安保理が「早急に検討し」「迅速で的確で断固とした対応」を示すことを求めると述べたが、具体的な対応について話すのは時期尚早だとした。
 

推薦します  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 4日(水)23時21分58秒
  ◎石田則明『日本は礼の国だった――『続日本紀』は語る――』栄光出版社(1800円)

 ――が刊行されました。
 大手書店にも出ておりますが、直接注文の場合、栄光出版社は、
電話 03-3471-1235
FAX  03-3471-1237

 小生の掲示板に長く連載されたものです。
『日本書紀(やまとのふみ)』についての訳書などはたくさんありますが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』のエピソードを、現在の日本と対比させながら綴(つづ)った本は珍しいと思います。
 奈良時代の日本人の活き活きとした姿が眼前に浮かんでくるような内容です。
 奈良時代といっても、その多くが、まるで現在の社会を描写しているような錯覚を起こすほどで、多くの教訓を含んでもいます。
『続日本紀』についてまったく知らない人にも、とても読みやすい本です。
 みなさまにお薦めいたします。
 著者は健全な歴史観のもとに、多くのエッセイを発表している方で、もと早稲田大学の教授です。
 靖国神社にもきちんと参拝なさる方です。
 

例の投票  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 4日(水)23時18分59秒
  例の投票ですが、最初見たとき賛成99パーセントで次に見たとき賛成98パーセントだったので、次第に賛成が減るかと思って今見たら、99パーセントになっておりました。
このあたりで終結したら?
 

『卑弥呼と日本書紀283』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 4日(水)11時39分24秒
  [承前]

 実紀年の推理については節のおわりに再度記すことにして、ここで第七代孝靈天皇以後の御陵(ごりょう/みささぎ)の大きさについて記しておく。
 ただどの御陵がどの天皇のものか――については、明治初めに強引に決めてしまった面もあるらしいので、研究者によって様々な意見があり、百パーセント正しいとはいえないことを注意しておく。
 つぎの数字は現存する墳丘長のみで、周囲の濠(ほり)や堤防は含まれていない。
 それらを含めると、もっとずっと大きくなるし、いまは消えていても発掘によって大きな周濠が推理されているものもある。
 幕末の大修理によって墳丘形自体が違ってきたものもあるらしい。

 第二章にある〈卑彌呼〉候補の一人〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の父親とされる孝靈天皇の御陵は山形で、それ以後はすべて前方後円墳だが、形状がはっきりしかつ巨大になるのは〈百襲姫命〉の御墓以後である。
 また孝靈天皇以前になると、さらにあいまいになる。


 第七代 ・孝靈天皇陵 一〇〇メートル
(これは山形、このあとはすべて前方後円墳)
 第八代 ・孝元天皇陵 一四〇メートル
 第九代 ・開化天皇陵 一〇〇メートル
        (これ以後超巨大となる)
 倭迹迹日百襲姫命陵  二八〇メートル
 第十代 ・崇神(すじん)天皇陵 二四二メートル
 第十一代・垂仁(すいにん)天皇陵 二二七メートル
 第十二代・景行(けいこう)天皇陵 三一〇メートル
  同皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)陵 一九〇メートル
 第十三代・成務天皇陵 二二〇メートル
 第十四代・仲哀天皇陵 二三八メートル
  同皇后・神功(じんぐう)皇后陵 二七六メートル
 第十五代・應神天皇陵 四二〇メートル
 第十六代・仁徳(にんとく)天皇陵 四八六メートル
 第十七代・履中天皇陵 三六五メートル
(天皇や皇族の墓の名称にはいろいろな定義があるようだが、ここではすべて陵という言葉を使用した)


 表中日本武尊は崩御後白鳥になって飛び遷ったので合計四基もの御陵が知られているが、ここでは羽曳野(はびきの)市にある最大の御陵の寸法を採用した。

 この表を見ると、〈倭迹迹日百襲姫命〉からとつぜん二百〜三百メートルという大規模な前方後円墳となり、日本武尊は早世したので別としても、巨大な墳墓がつづき、そして應神・仁徳・履中にいたってとてつもない規模になったことが分かる(*)。
 この御陵の大きさの変移は、大和(やまと)朝廷の進展を考えるさいにとても参考になる。
 ここで着目している〈神功皇后〉の御陵は、夫の仲哀天皇や先代の成務天皇の御陵よりずっと大きいことに注意されたい。

(*百襲姫命の巨大な御陵の墳丘長を天皇陵が上回るのは、三代あとの景行天皇になってからである。つまり、百襲姫命の直後の天皇である有名な崇神天皇や垂仁天皇の御陵も巨大ではあるが百襲姫命にはおよばないのだ。また神功皇后御陵がほぼ百襲姫命御陵に匹敵していることも注目される。つまり〈倭迹迹日百襲姫命〉の存在感は尋常のものではないのである)

[つづく]
 

アメリカンぼけ2、ミサイル拉致を解決する気なし  投稿者:えこね  投稿日:10月 3日(火)19時42分42秒
  アメリカンぼけ2、ミサイル拉致を解決する気なし

議長国: タンザニア
( 1800万ドル(教育プログラム 約21億600万円)
 1991−2003年にかけて 470万ドル(約5億4900万円) )
 2002年韓国で米兵への暴行サツ害事件が多発(地下鉄事件)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★ 非常任理事国
アフリカ諸国(韓国援助 1億ドル(約117億円)
 ガンビアで開かれたアフリカ連合首脳会談 数万ポンド)
 タンザニア 2006(教育プログラム援助金を貰う・韓国支持)
 コンゴ 2007(韓国支持・内戦が終結せず・国連黒人職員の援助物資の買春事件)
 ガーナ 2007(韓国支持・近隣国で宝石採掘を巡る手足切り落とし事件多発)

中南米
 アルゼンチン 2006( 保留?・ベネズエラの事件で南米一致で反アメリカに同調 )
 ペルー 2007( グランドピアノを送って貰い・韓国支持・フジモリし刑を推進 )

欧州
 デンマーク 2006( 保留?・EU憲法 批准拒否国 )
 ギリシャ 2006(韓国支持・ヨルダン候補を示唆・韓国からの援助金が増発)
 スロバキア 2007(アメリカに従う)

亜細亜
 日本 2006(アメリカに従う・アメリカ国債[アメリカの借金肩代わり])
 カタール 2007( 保留?・人権問題に疑問・イスラム放送局アルジャジーラ )

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★ 常任理事国
 米国( 北朝鮮を中国領と認め、韓国支持 )
 英国( ワイロ選出に疑問で、保留? )
 フランス( 人権問題で疑問で、反対? )
 中国(アメリカに従う・上海金持ちのアメリカ資本・アメリカ系会社役員・北朝鮮獲得)
 ロシア(アメリカに従う・新ロシア人のアメリカ資本・アメリカ系会社役員・アメリカ国債)
 

大島賢三 国連大使  投稿者:えこね  投稿日:10月 3日(火)19時00分15秒
  大島賢三 国連大使

> > 日本政府の動議により、北朝鮮非難の安保理決議1695号が可決しました。
 

> 「反対票」を投じるのでしょうな。でなければ、到底納得がいきませんね。  投稿者:えこね  投稿日:10月 3日(火)18時44分2秒
  【ニューヨーク】国連安全保障理事会の理事国15か国は2日、今年末で任期が切れるアナン国連事務総長の後任選出に向け、4回目の非公式投票を行い、韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商相(62)が4回連続でトップとなった。

潘氏は拒否権を持つ5常任理事国すべてを含む14か国の支持を集め当選を確実にした。安保理は9日に公式投票を行い、潘氏を正式に選出した上で国連総会に任命を勧告する。アジア出身の事務総長は1971年に退任したビルマ(現ミャンマー)のウ・タント氏以来2人目となる。

2日の投票は、常任理事国と非常任理事国の用紙の色を初めて変えて行い、常任理事国の投票内容が分かるようにした。この結果、タイのスラキアット前副首相、ラトビアのビケフレイベルガ大統領ら6候補のうち、常任理事国すべての支持を集めたのは潘氏だけで、他候補には常任理事国から1〜3票の不支持票が投じられた。

投票後、中国の王光亜国連大使は記者団に「潘氏が安保理の推薦する候補となることが極めて明確になった」と述べた。2位のタルール国連事務次長(インド)は「潘氏が次期事務総長となることは明白」とし立候補の辞退を表明した。

非常任理事国の日本も潘氏支持を表明している。大島賢三国連大使は「アジアの優れた候補から選出するという目的に沿った方向で事態は動いている。日本政府としての態度を最終決定した上で、正式投票に臨む」
 

『卑弥呼と日本書紀282』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 3日(火)12時21分55秒
  ■■■■■ 七・十三 〈卑彌呼〉=〈神功(じんぐう)皇后〉説の確からしさ ■■■■■


◆◆◆ 〈卑彌呼〉と〈神功皇后〉 ◆◆◆

 前節の〈1〉〜〈10〉項は、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――にとって魅力的な暗合であるが、そうかといって、これを鵜呑(うの)みにするわけにはいかない。
 もともと〈神功皇后〉の大きな事績である三韓征伐や任那(みまな)進出は、魏に朝貢した〈卑彌呼〉とは正反対だし、実際上の年代も干支二回りの違いを考えると、まったく時代が異なる。
 では、〈卑彌呼〉の話と後の朝鮮との抗争の話とを混ぜて〈神功皇后〉伝説を創作したのだろうか?
 つまり〈神功皇后〉は架空の存在なのだろうか?

 このように主張する学者も一部にいるけれども、それにしては〈神功皇后〉の事績についての史書や詩歌や神社の秘文や各地の伝承が多すぎる。
 やはり実在した皇后をモデルにして、史実を神秘化して記したのであろう。

 神功皇后紀と應神天皇紀とで年代関係が入り組んでいて矛盾があるのは、意図的に創作したからではなく、つぎの理由によるものであろう。


[一]
 神武(じんむ)天皇即位を紀元前六六〇年の革命の年に移動したものの、繼體天皇以後はほぼ完全に『記紀』の紀年と実紀年が一致するようにしたので、神武〜繼體の間で調整しなければならず、そのために紀年全体を移動しつつ、一天皇の在位期間を伸ばさなければならなかった。

[二]
〈卑彌呼〉と〈臺與〉を〈神功皇后〉に照応させるために、年代を調整しなければならなかった。

[三]
 西暦三六九年ごろや四〇〇年ごろの任那進出や朝鮮出兵の史実と神話的な三韓征伐を結合しなければならなかった。

[四]
『百済(くだら)記』など百済の史書との対応もとらねばならなかった。

[つづく]
 

日本が援助した製鉄施設は既に廃墟になっている  投稿者:えこね  投稿日:10月 3日(火)06時36分51秒
  私の知ってる合衆国諜報員からもたらされた中国の呆(あき)れた事実。

「大地の子」でも舞台になった上海の宝山製鉄所をご存知ですね。
これは新日鉄が木更津工場の持っていたノウハウをすべて中国側に注いで作り上げた世界最新鋭のレベルの製鉄所でありましたが、…、これがなんと今は廃墟になっているのだそうです。どうしてそうなったのかというと、中国が日本から生産施設や機材をねだるだけねだって獲得していながら、メインテナンス能力が丸でなっていないので、使用して10年ほど経過して急速にトラブルが増えて、とうとう高炉まで使用不能になったのだそうです。
しかし、宝山製鉄所の2001年度の粗鋼生産は1900万トンとしています。
日本の援助で作った製鉄所が廃墟となっているというなら、一体彼らはどこで製鉄をしているのでしょうか??

その謎を解きました!

彼らは実はまだ上海の宝山でまだ鉄を作っていたのです!しかも別の場所です。
日本の製鉄施設が中国側の無能と怠慢で廃墟と化する直前に、彼らは今度は韓国の製鉄企業に働きかけて製鉄所を作らせていたのです。しかし、それは数年も経(た)たずに同じく中国側のメインテナンス不足で同様に廃墟と化しました。次に、中国は旧東欧の製鉄企業(多分チェコかポーランド)に同じ広大な宝山の敷地のまったく別なところに製鉄所を作らせました。それも5年前に没しました。それで今ある宝山製鉄所の施設というのは実はインドの企業に作らせたものなのだそうです。こうして外国に製鉄所を作らせておいて次々と廃墟にしながら今に至っているのだそうです。これはかなり信憑性の高い情報ソースです。
私は宝山製鉄所の見取り図のあるホームページにアクセスを試みましたがブロックされました。

まあ、中国では、田舎では常に高級乗用車の盗難事件がありますが、彼らは高い車を買えるような人は盗まれてもまた買うであろうから問題は無いのだと考えており、そうすることによって貧乏人も平等に自動車を乗ることができるようになるのだという世界観を持っているのだそうです。そういう人たちを相手にするのは極めて危険なビジネスであるといえます。
 

推定記事からの推定ですが  投稿者:えこね  投稿日:10月 3日(火)06時35分41秒
  >日本は安保理常任理事国入りを韓国に明確に反対されたのですから、現在、非常任理事国である
>日本は、当然、「反対票」を投じるのでしょうな。でなければ、到底納得がいきませんね。

ざんねんですが、連立相手の意見である公明党と創価学会と統一協会が後援ですので、自民党は反対でも賛成票に入れています。
アメリカが積極的に韓国候補にするように仕向けています。

韓国人国連総長の問題が起こって、朝鮮半島で戦争なり、国連を解体・消滅。
新しく、韓国抜きの国際的な組織を作り直す。

国連が消滅して朝鮮半島で戦争になったのは韓国人のせい。

アメリカ人が戦争で悪いわけでない。とする、共同謀議のようです。



フランス(不支持?・韓国人の人権侵害を指摘)とイギリス(保留?・選挙のワイロ工作疑惑を報道)が、韓国候補に絶対反対しています。
 

Re:『卑弥呼と日本書紀280/281』  投稿者:はる  投稿日:10月 3日(火)01時38分12秒
  井沢元彦氏の、「《邪馬台国》九州説」では、卑弥呼=日賣大神(ひめおおかみ)=天照大神(あまてらすおおみかみ)とも言っていたように思います。
出雲(いずも)大社と宇佐八幡宮が、四(死)拍手なのは、非業(ひごう)の死を遂(と)げた者を弔(とむら)う為であるとも。
また、称徳天皇(孝謙天皇)が弓削(ゆげ)の道鏡に皇位を継がせようとした時の神託を、伊勢ではなく宇佐で奏上したことも根拠の一つに挙げています。
 

RE:CNNがアンケート  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月 2日(月)20時18分19秒
  オロモルフさん

私も、YESに一票を投じました。
それにしても・・・この調査は何なのでしょう?
まあ、結果が良いので、由(よし)としますが。
 

RE:国連の総長選挙  投稿者:竹下義朗  投稿日:10月 2日(月)20時12分32秒
  >韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商相が
>支持13、不支持1、留保1で、3回連続で1位となった。

日本は安保理常任理事国入りを韓国に明確に反対されたのですから、現在、非常任理事国である日本は、当然、「反対票」を投じるのでしょうな。でなければ、到底納得がいきませんね。
 

Re.CNNアンケート  投稿者:yf  投稿日:10月 2日(月)18時46分54秒
  Yes  98% 1,014,823票
驚きました 逆かと思った、、
 

国連の総長選挙  投稿者:えこね  投稿日:10月 2日(月)18時16分7秒
  【ニューヨーク】
国連安全保障理事会の
理事国15か国は
28日、年末で任期が切れる
アナン国連事務総長の後任選びに
ついて3回目の非公式投票を行った。

7人の候補のうち
韓国の潘基文(パン・ギムン)
外交通商相が
支持13、不支持1、留保1で、
3回連続で1位となった。

安保理は10月2日
常任理事国と非常任理事国の投票用紙の色を初めて変えて
4回目の非公式投票を行う。

2位は
インドのタルール国連事務次長で
支持8、不支持3、留保4。
3位以下は
ラトビアのビケフレイベルガ大統領
タイのスラキアット前副首相
スリランカのダナパラ前事務次長
ヨルダンのザイド国連大使
アフガニスタンのガニ元財務相
の順だった。

http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=133&pointer=1&log=present&cnt_flag=true
 

『卑弥呼と日本書紀281』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 2日(月)12時07分26秒
  [承前]

 こういうことから井沢元彦は、日賣大神(ひめおおかみ)はじつは〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉そのものであり、東征して《大和(やまと)》の地に本拠を遷したのは〈天照大神〉に関係の深い〈神功(じんぐう)皇后〉の系列の豪族で、彼らがその前にいた古い大和一族に取って代わったのだ――としている。
 そして、〈天照大神〉を祀った《伊勢神宮》があるのになぜ宇佐にも祀(まつ)るのか――という疑問に対しては、田舎から都会に出て成功した人が、現住所に仏壇を飾り、また実家にも飾ってあるのと同じようなことだ、と答えている。

 じつにユニークな――というよりも不思議な――仮説で、「《邪馬台国》九州説」をよく説明しているようにもみえる。

**********

〈神功皇后〉と〈卑彌呼〉がこれだけの一致点を持っているにもかかわらず、
「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」
 が主流になっていないのは、紀年の違いがあるからである。
 たしかに『記紀』の皇紀を基準にすれば紀年も一致するが、それは明治以来の学問的研究によって皇紀の引き延ばしが確実視されている以上、そのまま信じるのは科学的ではない。
 暗合する事績が多いといっても、故意に似た事績を集めたという可能性もあるだろう。

 そこで次節で、紀年問題を中心にした検討を加えてみよう。

[次ぎは「第七・十三節 〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説の確からしさ」]
 

CNNがアンケート  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 2日(月)01時15分6秒
     CNNが下記の調査をしています。

「安倍が靖国参拝するのは適切だと思うか?」
http://edition.cnn.com/SPECIALS/2006/japan.decides/

 私もYESと投票しました。
 みなさんも投票してください。
 それにしても、英語で不思議な調査をしますね。
 

エッセイの保存  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 1日(日)11時46分8秒
   一部本掲示板に掲載しましたエッセイを保存いたしました。

■□■□■ 皇統の危機(オロモルフ)■□■□■
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koutou_kiki.htm


■□■□■ 新親王殿下の御名と御印(オロモルフ)■□■□■
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kouya-maki.htm

 まだ不十分な内容ですが、よろしければどうぞ。
 

『卑弥呼と日本書紀280』  投稿者:オロモルフ  投稿日:10月 1日(日)11時44分38秒
  [承前]

〈10〉狗奴国と熊襲(くまそ)の対応

『魏志倭人伝』では〈卑彌呼〉は狗奴国との闘いに苦戦するわけだが、神功(じんぐう)皇后紀や仲哀天皇紀では熊襲征伐が大きな難問題となっている。
 狗奴国が熊襲だったとすると、これもまた記述の一致だといえる。


 まだまだ対応は有ると思うが、このくらいにしておく。
 以上の照合をまともに考えると、〈神功皇后〉は〈卑彌呼〉そのものではないか――と考えられる。
 なにしろ『記紀』の編者自身が

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

――をとっているらしいのだから・・・!


◆◆◆ 井沢元彦のユニークな説 ◆◆◆

 なお井沢元彦は、「《邪馬台国》九州説」を補強するものとして、宇佐八幡宮の特異性を記している。
 宇佐八幡宮は前記したように應神天皇を祀(まつ)る八幡宮(はちまんぐう)の総本宮で、九州北部にあるひじょうに古い神社である。
 そこには
 〈神功皇后〉
  應神天皇
  日賣大神(ひめおおかみ/〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の姫たち)
 ――の三柱(みはしら)の神が祀られているが、應神天皇を主神とする神社でありながら一番上座にあるのが日賣大神なのだそうだ。
 そしてこの宇佐八幡宮の礼拝作法が出雲(いずも)大社とおなじ独特なもので「二礼・四拍手・一拝」なのだという。
 ふつうの神社は「二礼・二拍手・一拝」または「二拍手・一礼・二拍手」だから、たしかに独特である。
 それから、古くから皇室で別格の扱いを受けてきた《伊勢神宮》や出雲大社と同じく別格であり、歴史もきわめて古く、應神天皇の御心霊が六世紀に宇佐の地に御示顕になったといわれている。
 


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