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喫茶室 過去ログ91(2006.12.1〜12.31)

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喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2007年1月のログ] [2006年11月のログ]


文字化け  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月31日(日)13時05分47秒
  来年の漢字を書きましたが、文字化けしたので消しました。  

『卑弥呼と日本書紀366』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月31日(日)12時36分13秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇十年(西暦前八八年)3
 〔〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の神人婚と怪死〕

 この戦いの模様はいかにも古代らしい面白いものなのだが、その後、とつぜん、奇妙な説話が語られる。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が《三輪山》の神の〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉と結婚してしまうのだ。
 しかし〈大物主神〉は夜しか姿を見せないのでお顔をはっきりと見ることができない。
 そこで、

「もうすこし留(とど)まってください。朝になればお顔が見えるでしょう」

 ――と懇願する。
〈大物主神〉は、
「それもそうだ。では朝になったら櫛箱(くしばこ)に入っていよう。だが私の姿を見て驚かないように」

 ――と述べる。
〈百襲姫命〉は変に思ったが、朝になって櫛箱をあけてみると、そこにはとても綺麗な小さな蛇が入っていた。
〈百襲姫命〉は驚いて思わず叫んでしまう。すると蛇は人の形になって、

「お前は私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせてやる」

 ――といって、空を飛んで《三輪山》に去る。
〈倭迹迹日百襲姫命〉は後悔して急に座り込むが、その弾(はず)みに箸(はし)で陰部を突(つ)いて死んでしまうのである。

[つづく]
 

サダム=フセイン処刑  投稿者:竹下義朗  投稿日:12月30日(土)22時26分17秒
  旧フセイン政権を裁く為に設置されたイラク高等法廷(旧特別法廷)の判決により、嘗ての独裁者、サダム=フセインは絞首台の露と消えました。イラク国内のシーア派住民は歓喜し、ブッシュ米国大統領も満足した事でしょう。然し、私は、この米軍占領下に於いて設置された「イラク高等法廷」が、ドイツのニュルンベルク裁判、日本の東京裁判同様、後世に汚点を残した裁判として記録されるであろう、と思いますね。

「サダム=フセイン」と言う独裁者を作り上げたのは何を隠そう米国です。パーレヴィ王政を打倒したイランのイスラム革命に衝撃を受けた米国が、周辺諸国にイスラム革命が波及するのを阻止すると共に、イランの大国化を牽制する為に、サダム=フセインを支援した事は公然の秘密です。詰まり、サダム=フセインが独裁者であり「犯罪者」であるのならば、彼を支援し、増長させた米国にも罪があると言う事です。

大体、シーア派住民を殺害したとか、クルド人を弾圧したとか、その様なものを罪状に「人道に対する罪」を問うのであるならば、イラク戦争で民間人の家屋を「誤爆」し、降伏した敵兵=無抵抗な捕虜をその場で銃殺し、アルグレイブ刑務所での捕虜虐待・拷問を行った「解放軍」米軍の、最高司令官たるブッシュ大統領も、その管理監督・指揮責任から、「人道に対する罪」を問えるだけの罪状はある筈です。何せ、誤爆し死傷したイラクの民間人に対する補償すらろくに行っていないのですから。

「勝てば官軍」。確かにそうかも知れません。然し、軍事的に勝利したからと言って、米国の戦争が全て「正義の戦い」だとは到底思えませんし、イラクはおろかベトナムを取っても、米国は戦争責任を何ら精算等してはいません。その様な国の事実上の占領下にあるイラクに於いて、米国の強い意向が作用した裁判(死刑執行前、フセイン被告の弁護人が彼に会おうとしたが、米国の意向で阻止された)等、茶番でしかありませんし、私はこんなものを「裁判」とは絶対に認めません。

彼、サダム=フセインが希代の悪人だとしても、裁くなら裁くで、米軍が完全に撤退し、イラクの国家主権が全面回復した後に為されるべきでした。彼の死は、単に彼の処刑に歓喜するシーア派住民と、彼を支持するスンニ派住民の確執を大きくするだけで、得るものは何もありませんでした。今後、イラクは収拾の付かない内戦に突入し、中東地域の政情も不安定化する事でしょう。

イラクを手始めに中東の民主安定化を目論んだブッシュ大統領の「浅はかさ」。サダム=フセインの処刑は、今後、ボディーブローの如く徐々に顕在化してくる事でしょう。
 

『卑弥呼と日本書紀365』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月30日(土)12時28分7秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇十年(西暦前八八年)2
 〔〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の未来予知〕

 さてここでまたも〈倭迹迹日百襲姫命〉が活躍する。
 甥の大彦命が出発して今の天理市のあたりを通ったとき、童女が、天皇が殺される――という奇妙な歌を歌っているのを聞いて、驚いて天皇に知らせる。
 すると〈倭迹迹日百襲姫命〉が霊力を使って禍(わざわい)を予見し、

「それは武埴安彦(たけはにやすひこ/先々代の孝元天皇の皇子の一人)が謀反(むほん)を起こす兆(きざ)しである。武埴安彦の妻が密(ひそ)かにこの近くに来て神聖な香具山(かぐやま)の土を盗(と)り呪(のろ)い言(ごと)をして『これ大和(やまと)の国の物実』と言って帰った。早く備えなければいけない」

 ――と忠告するのだ。
 香具山の土は神武(じんむ)天皇のころから神々を祭るのに使っているので、その土を盗むというのは、大和政権を奪うことを意味している。
 この描写のところで『日本書紀(やまとのふみ)』は〈倭迹迹日百襲姫命〉のことを、

「於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命聡明叡智、能識未然。」
(〈倭迹迹日百襲姫命〉は崇神天皇の伯母(おば)できわめて聡明で未来のことを予知する能力があった)

 ――と重要な記述をしている。
 この予言を聞いた崇神天皇は将軍たちと相談して、出発予定の四人の将軍を留めてこれに備え、激戦のすえ武埴安彦夫婦を討ち取り、政権の維持に成功する。

[つづく]
 

日本食認証制度  投稿者:はる  投稿日:12月30日(土)06時18分36秒
  カレーの本場インドのヒンズー教徒にとって、“牛”は神の使いであるらしいが、日本に“ビーフカレー”があることを知ったらどう思うだろうか? 知っていたとしてもとやかく言う了見の狭さは無いかもしれません。
確かに、海外における日本食レストランが、日本人から見て和食とは程遠いものも多いらしいことは耳にするが、徐々に淘汰されて本場に肩を並べるようになってくるのではないだろうか。
先日、ショッキングなニュースが有りました。剣道のW杯が行われ、日本が初めて王者の座から転落したとのこと。準決勝で日本に勝利したアメリカは決勝で韓国に敗れたと言うから、尚更(なおさら)ショック。柔道にしても相撲にしても外国勢の台頭は顕著です。その逆もまた野球においては起こっています。
料理の世界においても同様で、最初は本家の模倣から始まり、やがて肩を並べ、時に追い越すこともある。また、全く新たなものができることもあるでしょう。
日本食レストランについて農水省が認証を与えるのではなく、スポーツのルールのように、「日本食とはこういうものですよ」というような“最低限”の共通定義の広報に留めてはどうだろうか。例えば、茶碗に味噌汁はもらないとか、食器の並べ方など等。
日本産農産物の普及という趣旨には、異論は無い。
 

『卑弥呼と日本書紀364』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月29日(金)11時36分1秒
  [承前]

 この四つの方角は、もちろん《大和(やまと)》から見たもので、図4.1に矢印によって示しておいた。

図4.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

 左から時計回りに、西道・丹波・北陸・東海である。
 四人の将軍はいずれも崇神(すじん)天皇を囲む有力者で、

 吉備津彦(きびつひこ)・・・第七代孝靈天皇の皇子で〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
              の弟。
 丹波道主(たにはのみちぬし)・・・第九代開化天皇の曾孫(ひまご)で第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇后の父。
              〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥の孫。
 大彦命(おおひこのみこと)・・・・第八代孝元天皇の長子で開化天皇の兄でしかも崇神天皇の皇后御間城姫
              (みまきいりひめ)の父親。〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥。
 武渟川別(たけぬなかわわけ)・・・その大彦命の子、つまり皇后の兄弟。
              〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥の子。

 ――とされている。
 すべて〈倭迹迹日百襲姫命〉の近い血縁であることを覚えておいていただきたい。また、百襲姫命の男弟の吉備津彦が有力者であった事も注目される。
(『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の男弟?に対応可能だからである)

[つづく]
 

私的復讐法(1)  投稿者:解法者  投稿日:12月28日(木)16時55分0秒
   復讐(仇討 あだうち)は、古来から行われ、国家・社会は関与しなかった。つまり、私刑主義が容認されていたのである。
 記録に残された復讐(仇討)第1号は、『日本書紀(やまとのふみ)』、『古事記(ふることふみ)』にある第20代安康天皇が叔父(おじ)の大日下王(おおくさかのみこ)を殺し、その妃(きさき)長田大郎女(ながたのおおいらつめ)を皇后としたことから、
大日下王の皇子目弱王(まよわのみこ)(7歳)が安康天皇(56歳)の首を討ったというものである。目弱王が非難されずに『日本書紀』、『古事記』に載っていることは、その時代から仇討が容認されていたと考えられよう。第2号は、平将門(たいらのまさかど)に父を殺害された平貞盛(たいらのさだもり)が軍勢を率いて平将門を討った(天慶2年〔940年〕)というもので、平貞盛はその行為を賞賛され、従五位下(じゅごいげ)に叙せられ、右馬助(うまのすけ)、鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任ぜられた。その後も仇討は度々(たびたび)記録されており、賞賛こそされ、非難されることはなかった。
 

私的復讐法(2)  投稿者:解法者  投稿日:12月28日(木)16時53分41秒
   復讐(仇討 あだうち)は、江戸時代になっても続き、遠州掛川藩士であった三宅玄蕃(みやけ-げんば 後に脱藩)に兄染川銀右衛門(そめかわ-ぎんえもん)を殺された銀之助が仇討を果たした事件(寛永7年〔1630年〕)、備前岡山藩士河合又次郎(かわい-またじろう)に弟を殺害された渡辺数馬(かずま)が仇討を果たした事件(寛永11年〔1634年〕―三大仇討の一つ)など赤穂(あこう)浪士事件の前にも数多くある。
 これらの仇討にしても前者は藩主自らが仇討を命じ、後者は目下の者に対する仇討である。同様な例はたくさんある。
 これが国家・社会が関与したのは江戸時代の公事方御定書(くじかたおさだめがき)制定以後からであるとされる。公刑主義が導入されたのである。ただ、それまでと異なるのは、幕府が関与したことと復讐(仇討)の概念を明確にしたことである。公事方御定書(寛保2年〔1742年―徳川吉宗時代〕)の附録に「内緒にて仇を討つことは処罰する」とあり、領主の許可を得れば処罰を免(まぬが)れることになっていた。さらに実際の運用では、事前の許可を得ずに仇を討ってもその後の吟味で仇討と判明すれば処罰を免れた。これは武士町民を問わなかった。したがって、町民などにも刑の減免が認められていた(同上百箇条〔公事方御定書 下巻〕第72条、第74条)。これは戦国大名の分国法での仇討を整文化したものとされるが、見出(みいだ)すことができかった。慣習法を成文化したのではなかろうか。
 

私的復讐法(3)  投稿者:解法者  投稿日:12月28日(木)16時52分27秒
   公事方御定書(くじかたおさだめがき)制定以前は、それまでの仇討(あだうち)法(仇討慣習法)が成立していたのであって、仇討には届出・許可が必要なかったのである。さらに、仇討の意義は広義に採らえられていた。例えば、妻が密通した場合に夫が密夫および妻を殺害するのも仇討と認められていたし、子・弟など目下の者を殺された場合も仇討が認められていた。
 このように仇討を規制したのは、それ以前の「浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)の吉良上野介(きら-こうずけのすけ)への刃傷(にんじょう)事件(「松の廊下事件」)」後の仇討に関する混乱を収めるためだったと考えられよう。
 公事方御定書では、仇討は目上の者を殺された場合に限って許されることになった。これは儒教の影響によるものである。
 浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件の時代は、先の公事方御定書の制定以前である。したがって、浅野内匠頭の家臣が吉良上野介への<仇討>は認められるかどうかなどと考えること自体誤りである。幕府自体が許可権など持っていなかった。つまり勝手に<仇討>が可能だったのである。
 >南條氏続けていわく「敵討(かたきう)ちの前提である公けの許可など貰えなかったのは当然であり」(南條範夫氏)<というが、彼は江戸時代の法制史の知識がない。
 同じく>赤穗浪士の討ち入りは「敵討ち」に値しません(黄東洋さん)<も誤り。彼らに対する処断の当否はともかく「敵討ち」には該当する。
 

私的復讐法(4)  投稿者:解法者  投稿日:12月28日(木)16時50分53秒
   仇討(あだうち)は明治時代になっても絶えることはなかった。明治時代の最初の刑法典である「仮刑律」(明治元年)には「尊属。目上の者を殺害した者を殺害しても無処罰とされた」。明治4年に公布された「新律綱領」でも、事前に届出(許可は不要)した者、その場で復讐を遂げた者は無処罰とされ、届出をしなかった者は笞(むち)五十とされた。これが有罪とされたのは、明治6年(1873年)の「太政官(だじょうかん)布告」であった。そこでは復讐による殺害は「謀殺」と定義された。しかし、その後も仇討は明治37、8年ころまで続いていた。その刑は明治元年から明治37、8年ころまでの「仇討による殺害」の20件のうち、死刑(斬罪)は1件、無罪・免罪が6件、有期刑は6件、自死が1件、その他は不明である(『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年)。なかなか仇討を罰することが難しかったことがわかる。

 ※ 参考資料
  『江戸時代とはなにか』尾藤正英 岩波書店 1992年
  『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年
  『切腹』山本博文 光文社新書 2003年
  『日本法制史』瀧川政次郎 角川書店 1959年
  『日本仇討100選』稲垣史生 秋田書店 1946年
  『近世武家思想』石井紫郎 岩波書店 1974年
  『武田信玄』小和田哲男 講談社 1988年
 

『卑弥呼と日本書紀363』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月28日(木)12時00分47秒
  ■■■■■ 八・八 〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の未来予知と奇怪な急死、そして四道(しどう)将軍の派遣 ■■■■■


◆◆◆ 第十代 崇神(すじん)天皇の物語(4) ――〈百襲姫命〉の活躍と急死―― ◆◆◆
   (第八・三節の続き)

▽崇神天皇十年(西暦前八八年)1
 〔大和(やまと)朝廷の発展と四道将軍の派遣〕

 七月二十四日――
 周囲が安定したので自信をもった崇神天皇は、この年、野心的な詔勅(しょうちょく)を発した。
 それは、

「神々を敬(うやま)ったので災害は除かれた。しかし遠方にはまだまだ教化の及ばない人たちがいる。そこで重臣たちを四方に派遣して私の教えを知らせたい」

 ――というものであった。

 神社や婚姻によって諸豪族と融和し《大和》を平定した大和朝廷が、いよいよ周辺(奈良県の外(はず)れや外部)の平定に向かおうという、有名な宣言である。

 九月九日――
 吉備津彦(きびつひこ)を西道(山陽)に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を丹波(京都北部から山陰)に、大彦命(おおひこのみこと)を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、それぞれ派遣する。
 これが有名な四道将軍である。
 四人の将軍が四つの道に進んだので、四道将軍と呼んだのだ。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀362』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月27日(水)11時39分8秒
  [承前]

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 神話で馴染(なじ)みの神々が祀(まつ)られた神社はまだまだあるが割愛し、社宝について記しておく。
《大神(おおみわ)神社》は《石上(いそのかみ)神宮》と違って、古代においては物としての宝を保持する宝庫を持たず、したがって『記紀』に伝承されているような神宝はない。
《三輪山》自体が神宝なのだ。
 しかしそれでも、かなり古い史料類はいくつかある。

  境内(けいだい)全体(国史跡指定)
  拝殿(国の重要文化財)
  三ツ鳥居(国の重要文化財)
  大直禰(おおたたねこ)神社の本殿(国の重要文化財)
  乾漆(かんしつ)十一面観音立像(りゅうぞう)(国宝/現在は聖林(しょうりん)寺に)
  周書断簡一巻(国宝/大直禰神社で発見された唐時代の文書)
  木楯(国の重要文化財)
  高坏(たかつき)(奈良県重要文化財)
  湖州鏡(奈良県重要文化財)
  近代になって発掘された土器・玉(ぎょく)・勾玉(まがたま)など
  樋口清之が奉納した、付近のホケノ山古墳から出土した鏡など

**********

 かなり長くなったが、以上が《三輪山》すなわち《大神神社》の概要である。
 日本の古代史を語るうえでいかに重要な神社か、またいかに古い信仰形態を持続している神社か、理解していただけたと思う。

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 次節は、《大神神社》はじめ諸神社を奉斎(ほうさい)して禍(わざわい)を切り抜けた崇神(すじん)天皇が、どのような国土経営に乗り出したか、また〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉がどのような運命をたどったか――を物語る、崇神天皇紀の続きである。

[次ぎは「第八・八節 〈倭迹迹日百襲姫命〉の未来予知と奇怪な急死、そして四道(しどう)将軍の派遣」]
 

『卑弥呼と日本書紀361』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月26日(火)11時21分17秒
  [承前]

キ 摂社・大直禰(おおたたねこ)神社(若宮)
   大直禰命(大田田根子 おおたたねこ)
   少彦名神(すくなひこなのかみ)
   活玉依姫命(いくたまよりひめのみこと 記で大田田根子の祖/紀で大田田根子の母)
  第十三代成務天皇が靈夢によって創祀(そうし)されたと伝えられる。本殿は国の重要文化財。
  国宝乾漆(かんしつ)十一面観音立像は神仏混淆(しんぶつこんこう)の時代にこの社(やしろ)に奉安され明治になって聖林寺に遷された。

ク 摂社・率川(いざがわ)神社
   媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと 神武皇后)
   事代主神(ことしろぬしのかみ 紀で神武皇后の父)
   玉櫛媛命(たまくしひめのみこと 紀で神武皇后の母)
  第三十三代推古天皇の御代(みよ)に三輪一族が勅命(ちょくめい)によって創建した。

ケ 末社・豐鍬入姫(とよすきいりひめ)
   豐鍬入姫命(はじめて天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)った斎宮(いつきのみや/さいぐう)。臺與の有力候補)

コ 末社・冨士社
   木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと 天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃)

サ 末社・天皇社
   御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと 崇神天皇)

シ 摂社・磐座(いわくら)神社
   少彦名神

ス 摂社・綱越(つなこし)神社
   祓戸大神(はらえどのおおかみ お祓(はら)いを司る神)
  三輪山全体のお祓いをおこなう神。延喜式(えんぎしき)にもある。一の鳥居のそば。

セ 末社・八阪社
   素戔嗚尊(すさのおのみこと)

[つづく]
 

おんどりゃ  投稿者:わい  投稿日:12月26日(火)06時23分9秒
  現代口語訳
 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。
我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。
これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。
私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。
 

熊岳が松岳で開城というのが変  投稿者:中国史と朝鮮氏がリンクしない中  投稿日:12月25日(月)19時33分39秒
  > 700年代 唐の帯方州(新羅)を渤海マッカツ(大震国・東丹王)が滅ぼす

渤海国−杉盧郡−漢陽県
(マッカツ族の渤海郡王の国(大震国・東丹国)漢陽県→盧州→漢城→京城→ソウル)

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> 900年代 遼(契丹)が南女直−湯河司と東京統軍司−留守を置く

開州・高州−湯池県(盧州・全州: 南女直−湯河司)
__・慶州−___(辰州・__: 東京−統軍司−留守)新羅の金城・健牟羅城・蓋牟羅城

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> 1100年代 女真が、高麗に全州−静封県・熊岳県・松山県を置く

遼国契丹族の東丹王の所で、金国女真族の東真国としての『静封県』は、
新羅の末期の後三国の、泰村王の『泰封国』と、歴史捏造か?
 

中国に0DAの金が無く仕方なく戦争か?  投稿者:2008年  投稿日:12月25日(月)16時42分44秒
  BC108年 楽浪郡を設置(前漢の武帝)

_204年、三国志、赤壁の戦い

_206年 帯方郡として楽浪郡の南半部(屯有県以南)を分設
     (遼東の公孫度、子の公孫康、宗女の婿の夫余王−尉仇台)

_313年 楽浪太守張統が鮮卑族慕容氏のもとに亡命、翌年帯方滅亡

600年代 7部族のマッカツは女真族の先祖【金史】

700年代 唐の帯方州(新羅)を渤海マッカツ(大震国)が滅ぼす

_927年 渤海の蓋州(旧新羅・東丹国)を契丹が占領し辰州と改名

900年代 遼(契丹)が南女直−湯河司と東京統軍司−留守を置く

1119年 高麗−生日使に蕭子斉(金国・女真族[満州人の先祖])

1100年代 女真が、高麗に全州−静封県・熊岳県・松山県を置く

1200年代 蒙古が、高麗を蓋州路−東京支郡−建安県を置く

1393年 権知高麗−国事に李成桂(李朝−太祖)

1419年 権署朝鮮−国事に王弟(李朝−太宗)が、対馬を攻撃

1638年 朝鮮国王に仁祖王(李朝)、清朝太宗ホンタイジへ降伏

1884年 李朝に袁世凱(朝鮮総理[朝鮮総督]−通商事[通商大臣])

2007年 国連事務総長に韓国人のバン・ギムン氏(もと通商大臣)

2008年 ODA中止・アメリカ軍が韓国から引き上げ完了(予告)
  〜
2011年 中国が台湾を攻撃(予告)
 

『天皇陛下と発明(下)』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月25日(月)11時52分5秒
  [承前]

◎ただちに実行に移された昭和天皇
 昭和天皇はこのようなお言葉を述べられただけではありませんでした。
 特許局の長官を宮中にお呼びになって、最近の特許問題についての御進講を聴し召(め)されました。
 そして、発明協会に毎年一万円を下賜(かし)され、発明協会ではそれを恩賜発明賞の運営にあて、毎年受賞者が出、発明家たちは大きな刺激を受けました。
 また十大発明家を選んで宮中に招(まね)かれ励(はげ)まされました。選ばれた発明家たちは賜餐(しさん)の栄に浴して涙しました。
 この十大発明家の行事は二回催され、その後は新設の文化勲章に吸収されました。

◎なぜ昭和天皇は踐祚(せんそ)に際して「史上初の発明奨励」をなさったのか
 この「朝見ノ儀」における勅語(ちょくご)は、時代と歴史をきっちりと踏まえた素晴らしい内容なのですが、私が拝読しましたところでは、神武(じんむ)以来の無数の勅語にまったく見られない斬新なお言葉は、唯一上の「模擬ヲ戒(いまし)メ創造ヲ勗(つと)メ」であろうと拝察いたします。
 では、なぜ昭和天皇はこのような前例の無いお言葉を述べられたのでしょうか?
 私は杉浦重剛先生の御進講記録を読みまして、その謎が解けたような気がいたしました。
 大正時代、十代の昭和天皇に対する御進講が、何人かの大学者によってなされたのですが、教育勅語を中心にした倫理は、教育者として知られた杉浦重剛が担当でした。
 その内容が記録されていますが、杉浦先生は、教育勅語の「以(もっ)テ智能ヲ啓發シ」の所で、次のように御進講していたのです。

◎杉浦重剛の御進講
「三 以テ智能ヲ啓發シ」(漢字は常用化)
 学を修(おさ)め業を習ふ所以(ゆえん)は、智能を啓発するにあり。方今(ほうこん)、世界各国は科学の発達を競(きそ)ひ、百般学術の研究により民心に科学的精神を与へんとす。我が邦(くに)の科学的文明は日なほ浅きも、半世紀にしてよく西欧の数世紀に亘(わた)りて成れる学術をことごとく消化せり。これ智的鋭敏の国民性にあらずんば、能(あた)はざる所なり。しかるに、酔欧家は謂(い)ふ、「日本人は模倣的国民にして創造の才なし」と。この論は時代と社会状態とを顧(かえり)みざるものなり。
 日本が諸外国と交通せしは最近に属す。それ以前は知識は国内に限られたり。世界の知識を知らざる時代において、関新助(関孝和)のごとき、微分・積分を発明せし大数学家ありしにあらずや。また伊能忠敬(いのう-ただたか)は、測量術を発明せしにあらずや。
 大和(やまと)民族は決して模倣を以て甘んずる国民にあらず。昔時(せきじ)において学術の進歩の遅かりしは、世界との競争なかりしに基(もと)づく。
 大和民族が智的鋭敏なるの証拠には、支那の儒学は、今や日本の学となれるにあらずや。印度の仏教も、日本においてひとり栄え、日本仏教となれるにあらずや。今や西洋の学術も日本において栄ゆる、遠きにあらざるべし。

◎十代の教育の重要性
 多感な十代の昭和天皇の御胸に、この重剛の誇り高い熱い言葉が刻み込まれたのではないでしょうか。
 そしてその御記憶が、朝見の儀の勅語に結実し、苦戦続きだった日本の発明家たちを奮い立たせたのではないでしょうか。

 昭和天皇は、まさに名君であられたと思います。

◎戦後の日本人が忘れ去ったこと
 以上の天智(てんじ)天皇から昭和天皇までの発明特許や技術者への思(おぼ)し召(め)しは、じつは、私が新たに調べた事ではありません。
 戦前の発明家伝や特許解説書には、よく書かれていた事柄なのです。
 いわば定番だったのです。
 しかし戦後は、ほとんど見ることがありません。消されてしまったのです。
 わたしは今『発明特許の日本史』という本を書いておりますが、その本の内容において、上の昭和天皇はじめ歴代天皇のお気持ちを具体的に書き入れたいと試みております。
 十代の少年少女達に、日本人としての誇りを持ってもらわなければ、日本は滅びます。
 

『天皇陛下と発明(上)』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月25日(月)11時48分49秒
  ◆天智天皇

◎齊明天皇六年(660年)――
「又皇太子初造漏剋、使民知時。」
〈又、皇太子、初めて漏剋(ろうこく)を造り、民に時を知らしむ。〉

◎天智天皇十年(671年)――
「夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新台、始打候時。動鐘鼓、始用漏剋。此漏剋者天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
〈夏四月の丁卯(ひのと-う)の朔(ついたち)にして辛卯(かのと-う)に、漏剋を新台に置き、始めて候時を打つ。鐘鼓を動し、始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲(な)しましし時に、始めて親(みずか)ら製造(つく)れる所なり、云々。〉
(四月二十五日に、漏剋を新しい台に置くと、時をきざみはじめた。鐘や鼓をうち鳴らして、はじめて漏剋を用いた。この漏剋は、天智(てんじ)天皇が中大兄皇子(なかのおおえのみこ)であられたとき、はじめてご自分でお作りになったものである。)

 漏剋とは水の流れ落ちる量で時を計(はか)る装置で、そのもの自体は古くからシナにあったのですが、これに新たな工夫を加えて天智天皇が皇太子時代に自分でお造りになり、時間の基準を定めたという記録です。
 天皇が自ら技術開発をなさったという記録は、たぶんこれが初めてだと思います。天智天皇の凄さが分かります。
 なお長さや容積の基準は、文武(もんむ)天皇の大宝二年(702年)に初めて基準をつくって諸国にこれを頒布(はんぷ)したと、『続日本紀(しょくにほんぎ)』にあります。

◆元明天皇

◎元明天皇和銅六年(713年)――
「詔。正七位上鞍作磨心。能工異才。獨越衆侶。織成錦綾。實稱妙麗。宜磨心子孫免雜戸。賜姓栢原村主。」(鞍は手偏)
(正七位上(しょうしちいじょう)の鞍作磨心は、飛び抜けて優れた技術と独特の才能を持っている。磨心の織る錦(にしき)や綾(あや)はじつに妙麗である。そこでその子孫は雑戸(ざっこ)の身分を免じ、栢原村主(かしはらのすぐり)という氏姓を賜(たまわ)った)

◎元明天皇和銅七年(714年)――
「授正七位上栢原村主磨心從五位下。」
(正七位上の栢原村主磨心に從五位下(じゅごいげ)の位階を授(さず)けた。)

 元明天皇が無名の技術者の卓越した技術を高く評価して、貴族にまで引き上げた記録です。
 奈良時代の朝廷が、いかに技術者を大切にしていたかが分かります。

(『続日本紀』についてはハチマキおじさんの『日本は礼の国だった』参照)

◆昭和天皇

◎名君
 昭和天皇はじつに名君であられました。
 昭和天皇が踐祚(せんそ)なさったときの朝見の儀における勅語(ちょくご)は、当時の発明家たちを奮い立たせた事で知られています。
 以下にそれを記します。

◎昭和元年十二月二十八日
 踐祚後朝見ノ儀ニ於テ賜リタル勅語

(ちん)皇祖皇宗(こうそう)ノ威靈ニョ(たよ)リ萬世(ばんせい)一系ノ皇位ヲ繼承シ帝國統治ノ大權ヲ總攬(そうらん)シ以(もっ)テ踐祚ノ式を行(おこな)ヘリ舊章ニ率由(そつゆ)シ先コヲ聿修(いっしゅう)シ祖宗ノ遺緒ヲ墜(おと)ス無カランコトヲ庶幾(こいねが)
・・・・・(中略)・・・・・
今ヤ世局ハ正(まさ)ニ會通ノ運ニ際シ人文ハ恰(あたか)モ更張ノ期ニ膺(あた)ル則(すなわ)チ我國(わがくに)ノ國是ハ日ニ進ムニ在(あ)リ日ニ新(あらた)ニスルニ在リ而(しか)シテ博(ひろ)ク中外ノ史ニ徴(しる)シ審(つまびらか)ニ得失ノ迹(あと)ニ鑒(かんが)ミ進ムヤ其(そ)ノ序(ついで)ニ循ヒ新ニスルヤ其ノ中ヲ執(と)ル是レ深ク心ヲ用(もち)フヘキ所ナリ夫(そ)レ浮華ヲ斥(しりぞ)ケ質實ヲ尚ヒ模擬ヲ戒(いまし)メ創造ヲ勗(つと)メ日進以テ會通ノ運ニ乘シ日新以テ更張ノ期ヲ啓(ひら)キ人心惟(こ)レ同シク民風惟レ和シ汎(ひろ)ク一視同仁ノ化ヲ宣(の)ヘ永ク四海同胞ノ誼(よしみ)ヲ敦(あつ)クセンコト是(こ)レ朕カ軫念(しんねん)最モ切ナル所ニシテ丕顯(ひけん)ナル皇祖考ノ遺訓ヲ明徴(めいちょう)ニシ丕承(ひしょう)ナル皇考ノ遺志ヲ繼述スル所以(ゆえん)ノモノ實ニ此(ここ)ニ存ス有司其(そ)レ克(よ)ク朕カ意ヲ體シ皇祖考曁ヒ皇考ニ效セシ所ヲ以テ朕カ躬(み)ヲ匡弼(きょうひつ)シ朕カ事ヲ奨順シ億兆臣民ト倶(とも)ニ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ寶祚(ほうそ)ヲ扶翼セヨ

(直後の昭和二年一月十日に、若槻(わかつき)内閣総理大臣はラジオでこの勅語の解説謹話を放送しています)

◎史上初の「創造性」への言及
 この勅語を拝聴した日本の発明家たちが奮起した理由は、
「模擬ヲ戒(いまし)メ創造ヲ勗(つと)メ」
 ――という一句にあります。
 模倣をやめて創造に力を入れよ――というお言葉は、発明発見の重要性を国民に教えた「史上初の勅語」だったからです。
 当時の日本はまだまだ発明特許の面では厳しく、欧米との戦いに苦戦していました。
 そういう中で、先駆者たちは身を削って発明に励んでいましたから、この勅語によって勇気百倍したのです。
 そしてそれ以後、日本の発明特許出願数は驚くべき上昇を見せ、昭和11年にはついにアメリカを抜いてドイツに次ぐ世界第二位を記録したのです。
 戦後はこの時代に生を受けた技術者たちが頑張り、圧倒的な世界一になりました。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀360』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月25日(月)11時39分22秒
  [承前]

◆◆◆ 数多い摂末社と社宝 ◆◆◆

《大神(おおみわ)神社》の摂社は、奈良市内のものも含めて十二社ある。また末社は二十九社ある。合計四十一社だが、神木や祠(ほこら)の類(たぐい)を入れればはるかに多いであろう。
 また全国にある御分霊と考えられる関係社は数百社を数える。
〈神功(じんぐう)皇后〉が招聘(しょうへい)した社などもその一つである。
 現在名と所が明確な関連神社は十八社である。
 以下、大和(やまと)にある主要な摂末社を、本社を含めて列記しておく。
(フリガナは部分にとどめる)

ア 本社・大神神社
   大物主神(おおものぬしのかみ 主神)
   大己貴神(おおなむちのかみ)
   少彦名神(すくなひこなのかみ)

イ 摂社・高宮(こうのみや)神社
   日向御子神(ひむかいのみこがみ 大物主神の御子)
   山頂にある特別な神社であり、雨乞(あまご)いでも有名。

ウ 摂社・活日(いくひ)神社
   高橋活日命(日本初の御神酒(おみき)職で杜氏(とうじ)の先祖神)

エ 摂社・狭井(さい)神社
   大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ 大物主神の荒魂)
   大物主神(記で神武(じんむ)皇后の父)
   媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと 神武皇后)
   勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと 記で神武皇后の母/紀で神武皇后の祖母)
   事代主神(ことしろぬしのかみ 紀で神武皇后の父)
  第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代(みよ)に勅命で創建。御山に登る信者のための入口。

オ 摂社・檜原(ひはら)神社
   天照大神(あまてらすおおみかみ)の若御魂(わかみたま)の神
   伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)
  参道から鳥居から拝殿まで本社《大神神社》とそっくりな形式をもつ。最初の元伊勢  として著名。

カ 摂社・神御前(かみのごぜん)神社
   倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと 卑彌呼の有力候補)
  茅原(ちはら)の南入口付近で三輪山の正面を背景にしている。

[つづく]
 

日本人虐サツを伝承させない  投稿者:パイわん  投稿日:12月25日(月)10時11分19秒
  終戦直後に、奪った
日本人資産(土地・家屋・家財・商品・預金証券など)や
軍隊の軍需品や武器や軍票に、軍人や
民間人虐サツ(日本女性の
       従軍看護婦をレイプ虐サツ[特に印度人による]・
    日本女性の居留民をレイプ虐サツ[特に朝鮮人による])や
    日本人収容所(強制収容所・教化所・完全統制区域)での虐サツや
帰国途上の非人道の謝罪や賠償(虐サツや虐待の写真を取り上げる・
    日本刀(七支刀・藻草刀などの返還のように)や文化物の
    略奪を返還させる、ロシアやアメリカからも)を
させ
現在のレートにシフト換算で算出した相当金額

ODAや貸付金額を割り出し、条約などで
明文化し
賠償金云々、戦争を清算として
ソウサイし
戦後云々の揉め事は完全に終了させる。

----------------------------------------------------
◇戦前−◆戦後(日本人が住める所が際限なく無くなる)

○日本−○朝鮮:千島(占守−幌筵〜国後−色丹)
○日本−○朝鮮:樺太(南・アイヌを日本人に含める)
○朝鮮−○朝鮮:沿海州
○朝鮮−○朝鮮:シベリア
○日鮮−○朝鮮:満州(関東州[大連]−瀋陽[奉天]−長春[新京])
○日鮮−○朝鮮:朝鮮(北[平壌・元山・羅南])
○日鮮−○朝鮮:朝鮮(南[京城・大田・釜山])
○日鮮−○朝鮮:中国(北[北平−天津・大同・鄭州・済南−徐州])
○日鮮−○朝鮮:中国(中[寧波・蘇州・上海・南京・長沙・漢口])
○日鮮−○朝鮮:中国(南[広東−香港・アモイ・福州])
○日鮮−○朝鮮:台湾
○日本−○日鮮:沖縄(琉球人を日本人に含める)
○日本−○日鮮:日本
○日本−○日鮮:北海道(アイヌを日本人に含める)
 

喧嘩両成敗  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月25日(月)00時58分57秒
  ◎喧嘩両成敗
 当時の儒学者の浅見絅斎(あさみ-けいさい)も赤穂(あこう)浪士討ち入り事件を「喧嘩両成敗」の観点で論じていますね。
「・・・然(しか)らば大法を以(もって)(い)へば、自分同士の喧嘩両成敗の法なり。若又内匠頭(たくみのかみ)大礼の場を乱りたるを科とせば、只乱りたるに非ず、皆上野介(こうずけのすけ)私意にてかやうになることなれば、内匠頭成敗にあづかれば上野介も成敗にあづかるべき筈也。・・・」
 

喧嘩両成敗法(1)  投稿者:解法者  投稿日:12月24日(日)23時57分59秒
   「喧嘩両成敗法」とは、闘論の理非を問わず喧嘩の当事者を同等に処分するというものをいう。その起源は、室町時代の応永22年(1441年―足利義教(あしかが-よしのり)の時代)の五島某浦住人等一揆契状の「喧嘩・闘諍が出来た場合は両方二人を失い申す」とされる。文安2年(1445年―足利義勝の時代)の藤原伊勢守の高札(こうさつ)にも「喧嘩・口論硬く禁ずる。これに違背した者は理の如何(いかん)を問わず双方とも斬罪と成す」とある。
 これは何も武士だけに限られたものではなく、一般庶民にまで適用された。広く全国で制定されていることから、法として確立していたと考えられている。
 私的な実力行使を禁じる法制は律令(りつりょう)時代から認められていた。西洋のように決闘ということは認められていなかった。これは西洋では「喧嘩・闘諍は当事者間において決着すべきである」という法慣習・意識があったのに対し、日本では「喧嘩・闘諍は国家・社会が統制する」という法慣習・意識が存立していたことによる。
 そこで、喧嘩・闘諍から始まる私的な実力行使をどう評価・統制するかという問題が生じる。
 そもそも、喧嘩・口論の処断に当たっては、その理非を判断し、非とされる者のみを処断すれば済むはずである。「喧嘩両成敗」はこれに反することになる。
 しかし、この法制が確立していった。これ理由についは争いがある。1つは、権力が脆弱(ぜいじゃく)であるため、その理非の判断を避けたとするもの、2つは、理非の判断そのものが難しく、それを避けたとするものである。3つは、喧嘩の双方を処断することによって刑の均衡を図ろうとした。つまりその理非の判断を放棄したとするもの、などがある。
 

喧嘩両成敗法(2)  投稿者:解法者  投稿日:12月24日(日)23時56分7秒
   いずれにせよ、「喧嘩両成敗法」は、戦国時代も受け継がれた(「信玄家法」)。しかし、これが江戸時代(江戸幕府)にも適用されたかについては、明文法そのものはなかったが確立していたと考えるのが正しい。慶長12年(1607年)に駿府(すんぷ)城改修の折の島津藩士の姫路(ひめじ)藩士への刃傷(にんじょう)事件についても、幕府は喧嘩の相手方の姫路藩士にも、「喧嘩両成敗は天下の御法」であるとして切腹を命じている。
 浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)の吉良上野介(きら-こうずけのすけ)への刃傷事件(「松の廊下事件」)での幕府の処断(吉良上野介を処断しないこと)は「喧嘩両成敗法」からみて特異な例だったといえる。
 なお、これが喧嘩ではないという論は通らない。「喧嘩両成敗法」では相争えば<見に覚えがなく>とも喧嘩と看做(みな)されていた。つまり<理非を問わず>ということだったのである。
 また浅野内匠頭が<乱心>だったかについても、そもそも刃傷事件に及ぶことは乱心そのものであって、喧嘩の相手方を正当化する理由とはならなかったし、加害者を免罪する理由ともならなかった。
 

喧嘩両成敗法(3)  投稿者:解法者  投稿日:12月24日(日)23時54分57秒
   吉良上野介(きら-こうずけのすけ)は処分されなかった。その理由は明らかではなく諸説あるが、吉良上野介が儀式典礼の指南役という重職にあったということと、浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)を命じた権力者柳沢吉保(やなぎさわ-よしやす)との関係が深かったということにあったと考える。
 なお、吉良上野介後、当主義周(よしちか)は信州高島藩に身柄預かりとなり、吉良家は断絶した。喧嘩両成敗が実現したともいえよう。
 世論(武士、町民など)は圧倒的に「喧嘩両成敗」を主張し、吉良上野介への幕府の処分は非難の的(まと)となった。幕府もそれに押されて以後は「喧嘩両成敗法」の適用を厳格にした。
 ※ 参考資料
  『江戸時代とはなにか』尾藤正英 岩波書店 1992年
  『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年
    『切腹』山本博文 光文社新書 2003年
 

天長節  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月24日(日)21時39分8秒
  ひさしぶりのような好天で、国旗が映えました。
お祝いの記帳者は平成に入って最高だったとか・・・。
 

天長節を一日過ぎましたが  投稿者:竹下義朗  投稿日:12月24日(日)20時33分36秒
  今上(きんじょう)陛下が幾久(いくひさ)しく健康であらせられます様、衷心(ちゅうしん)よりお祈り申し上げます。  

(無題)  投稿者:関東軍の上等兵  投稿日:12月24日(日)18時09分39秒 Remote Host: softbank219049170007.bbtec.net, Time: 1166951379
  (出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀359』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月24日(日)12時45分44秒
  [承前]

E――
 古代史家として著名な田中卓は次ぎのような仮説を述べている。
〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉の本拠は(現在の出雲(いずも)ではなく)元来が《大和(やまと)の三輪山》で、元々三輪一族の神だった。そして(別の一族だった)出雲一族が三輪一族と婚姻関係に入って〈大己貴神〉を奉じるようになったが、やがて朝廷に追われて出雲に移ったのであろう。
(これはAやBに近い推理である)

F――
 出雲一族ははじめから海に近い中国地方――とくに日本海がわ――が本拠で、九州から畿内への道を塞いでおり、さらに《大和》周辺にも勢力を伸ばしていた。
 したがって瀬戸内海航路や日本海沿岸航路を確保して《大和》に王権を築きたい大和一族との間ではげしい軋轢があり、大和一族としては武力だけでは抑えきれないので、融和策として出雲に巨大な神殿をつくる一方、出雲一族の先祖神と〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉や〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉が関係するという神話をつくりだした。
 一方大和朝廷と兄弟関係の〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉/物部(もののべ)一族は、大和朝廷より先に《大和》に進出して出雲一族を圧しており、神武(じんむ)東征時の奈良盆地での覇権争いは大和朝廷と〈饒速日命〉系の間のみとなっていた。

**********

 いずれの説であっても、三輪山麓に都を築いた初期大和朝廷が、祖神である〈天照大神〉を祀(まつ)ると同時に《三輪山》の神である〈大物主神〉、および土地の神である〈倭大國魂神(やまとおおくにたまのかみ)〉を奉斎(ほうさい)して信仰の面で地元民と融和し、同時に対抗豪族である物部一族や出雲一族が親戚筋であるという伝承を持つ巨大な神社をつくって反抗を抑え、さらに各方面の豪族の娘を妃(きさき)に娶(めと)って実際上も血縁化する――という政策によって《大和》の地に地歩をきずいたと考える点では、同じである。

 だから大和朝廷発展時の構成員は、天津神(あまつかみ)の子孫を自認する人たちであるとともに、もとから《大和》にいた人たちの子孫であることを誇りにする人たちでもあったのだ。

 これらの由来譚(たん)とはべつに、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説の影響をうけた三輪流神道においては、三輪の神〈大物主神〉と〈天照大神〉を同一視する考え方がある。
 しかしこれは鎌倉時代にできた一種の新宗教であるらしい。

[つづく]
 

ウンチク 疑問が多く・反対があって進まぬの理由  投稿者:かも?だし。。。  投稿日:12月24日(日)09時46分47秒
  日本国(国籍・日本人)
 大和民族(日本人[対馬人・薩摩人・松前人・津軽人・南部人ほか])
  ◎神社氏子(鎮守の森の維持係)
  ◎仏教檀家(菩提寺の維持係)
  ○神仏の儀式(挙式・葬式)の年間行事・通過儀礼
  ●キリスト教(共産[学者連中]・社会[土井たかこ]・自民[大平首相])
  □無神論(共産など)
  ■新興宗教(自民[霊友会ほか]・民主[立正佼成会]・公明[創価学会])
 琉球民族(沖縄人・奄美人)
 アイヌ人(胆振・余市[小樽〜旭川〜礼文〜樺太〜尼港]・日高・厚岸〜根室・千島)
 漢民族(中国系の帰化人)
 朝鮮族(韓国系の帰化人)

戦後に台湾籍
 高砂族(蕃族・高山人・パイワン?・タイアル?)
 漢民族(福建人[内省人:福州移民・章州移民]・
     外省人[広東香港系・そのた大陸]・
     留日の華僑・東南アジア系・アメリカ系ほか)
 朝鮮族(殖民地時代に慰安婦で定住とか由来を言う)

戦後に韓国籍
 朝鮮族(在日の韓国人・アメリカ系)

戦後に中国籍
 朝鮮族(中国にいる朝鮮族)

戦後にロシア籍(ソビエト籍)
 朝鮮族(ロシア沿海州やシベリア〜樺太〜千島にいる朝鮮族)
 

◎神社を守れ!  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月23日(土)12時23分51秒
  ↓↓↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/43229385.html


↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/
(下の方に何編かあります)

 神社を守ることが危機管理でもあることは、東京大空襲の経験でもわかります。
 

『卑弥呼と日本書紀358』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月23日(土)12時06分53秒
  [承前]

◆◆◆ 〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉の由来のまとめ ◆◆◆

 これまで各章節で述べたことがらから、〈大物主神〉の由来については、いくつもの説が書物に記されている。よく言われる説を列挙してみよう。

A――
《三輪山》への素朴な信仰は縄文・弥生時代からあったが、弥生中期と想定される神武(じんむ)東征の前に出雲(いずも)一族が大和(やまと)東部まで支配するようになり、そのころに〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉の魂が《三輪山》に宿っているという信仰ができた。その後に出雲一族は大和朝廷に国を譲った。大和朝廷は彼らの誇りを守るために出雲の地に巨大な社(やしろ)を立てることを許した。
 このとき《三輪山》に残ったのが〈大己貴神〉の和魂(にぎみたま)でそれが〈大物主神〉となり、出雲に遷(うつ)ったのが荒魂(あらみたま)でそれが〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉になった――ともいわれる。

B――
 出雲一族はもともと大和の地の豪族で《三輪山》を〈大己貴神〉の霊として信仰しており、後に大和朝廷にゆずって出雲に移ったが、信仰は残り、新たに〈大物主神〉という神名ができた。
 出雲の巨大な社や和魂荒魂の件についてはAと同じ。

C――
《三輪山》の祭神〈大物主神〉(山そのもの)は、古く縄文時代から山麓に住んでいた人たちの信仰の対象だったが、その山麓に進出した大和朝廷の首脳たちは、地元住民との融和をはかりつつ祭祀(さいし)権を得て《大和》全体を支配するために、朝廷として公式に〈大物主神〉を祀(まつ)ることにした。
 さらに《大和》周辺を領有して抗争相手だった出雲一族との融和もはかるために、〈大物主神〉が、出雲一族の祖神(おやがみ)である〈大己貴神〉や〈大國主神〉と関係する――という神話をつくった。
 ただし〈大物主神〉という名称そのものは、崇神(すじん)天皇の時代に〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が神託によってつくったものかも知れない。

D――
 出雲一族とは別に、神武東征より前に東征して《大和》を支配していた〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の一族も《三輪山》の神を崇拝していた。
 だから〈大物主神〉は〈饒速日命〉かもしれない。
 しかし物部(もののべ)として朝廷に仕(つか)えるようになり総氏神(そううじがみ)の《石上(いそのかみ)神宮》もでき、また〈饒速日命〉を祀る神社も数多く出来たので、〈饒速日命〉は《大神神社》の表面からは姿を消した。

[つづく]
 

↓あいかわらず  投稿者:ヨンタクロース  投稿日:12月23日(土)08時04分9秒
  お宅も懲りん人やね。
いろんな名前でカキコしてるけど、お宅、えこねはんやろ?
ええ加減、思いつき言うか、書き殴り言うか、そないなカキコはせえへんでくれる?
ちっとは読まされる方の身にもなってみい。
もうウンザリやわ。
 

うんちく  投稿者:植民地インド軍とは自衛隊なみ  投稿日:12月22日(金)23時38分2秒
  ●契約(民法)国籍・戸籍・住民票の附表・
       住民票(世帯で税金をかける)など国民を国家記録
 親族−ケツ族・婚姻・相続
  ●『不動産登記』土地建物の所有の国家記録
   (本来は戸籍と先祖代々の土地が対応)
   借人の転貸の禁止など(借地借家法)
   宅建主任証を見せて
   重要事項説明をするのは必須など(宅建取引法)
●継続した商行為の契約(商法)
 『商業登記』会社約款など商行為の国家記録
 他人との利益交換・利潤追求
  ●労働契約(労働3法)就業規則−罰則・労働組合−36協定
   黄犬契約・労使関係・不当労働行為など
●犯罪は商売にしない(刑法)告発−被害届・
                   司法警察・裁判所・刑務所
 いちいち裁判所で裁かない司法警察が現場で罰金などで裁く
   道路交通法(公有地の道路での取締りと罰金など)
   売春防止法(新風営法などで無力化しシ文化)
    ○道徳的に恥ずかしい事をした・
     良心の痛みや人間的に悪気を感じた(宗教的な罪)
    ○行き過ぎの失敗で法律条文に抵触した罪(犯罪・刑法犯罪)

民事−裁判:
 社会や家庭の揉め事で「返せ・支払え・引き渡せ」の裁判をする。
刑事−裁判:
 社会から犯罪を無くす為に「犯人を捕まえ罰しろ」の裁判をする。

警察署−生活安全課:
 家庭的な揉め事や犯罪の対応や相談に取り締まり(親族・同居人)
警察署−刑事課__:
 他人事な揉め事や犯罪の対応や相談に取り締まり(他人・商売的)

励ます会と選挙(選出)→議員(法律作成)→
警察(法で取り締り捜査)→裁判(書類送検で裁く)→刑務所(罰を与える役割)

軍隊(国民を自衛)→外国に居る自国の貿易商など居留民などを保護
  (現地警察も・出兵の理由)
警察(市民を自衛・警察が無力となると、
   自警団を作り身体財産を守る羽目になる)

契約
 2者間の利益の交換を文書化
 利益の交換がなされない場合は自然解約。
 先に与えた側が取り戻しをする違約に対する罰則。
 会社という法人は1個人とみなす。
 会社と個人の2者。国家と会社の2者なども。

賃貸契約
 家賃と土地建物(部屋など)
 ・場所を貸す←→金銭を与える、という利益交換。
労働契約
 賃金と労働(サービスなど)
 ・仕事を与える←→金銭を与える、という利益交換。
貸金の契約
 借金と利息返済
  金融機関(貸金という資本が減る)←→借人(元本という
                      借金の資本が増える)
  返金での利息という利益が発生←→借金で儲けて利益が発生、
  という利益の交換。
 

あなどれない  投稿者:まじ?!  投稿日:12月22日(金)22時18分50秒
  チョンあなどれない
コレアンはコレや

アメリカ: モルモン最高会議に韓国人が72人委員、韓国人が国連総長。
ロシア_: チェチェン・オウムなど対立あるもロシア主要機関は朝鮮人や混血
中国__: 中国語を生活語にする朝鮮人や混血が共産党の中枢を占める。
日本__: 満州鉄道沿線が日本人であったように、駅前や新興地は朝鮮人が占領
 

RE:旧宮家について  投稿者:竹下義朗  投稿日:12月22日(金)19時20分55秒
  >伏見宮系の俗に言う旧宮家は戦前(大正時代)から臣籍降下が内定していて単に既得権の問題から戦後まで留保されていたと聞きました。これは戦前から伏見系は皇位継承者としては事実上認知されていなかったという事ではないでしょうか?

その情報はどこから得たものでしょうか?
「既得権の問題から戦後まで留保されていた」との事ですが、「戦後」と言う以上、大東亜戦争終結後と言う事なのでしょう。我々の知る「歴史」に於いては日本は敗北した「戦後」を起点にその後の歴史が編(あ)まれた訳で、その過程に於いてGHQの圧力により旧宮家の「皇籍剥奪(はくだつ)」が為(な)された訳です。然(しか)し、若(も)しも日本が勝利した「戦後」を起点にその後の歴史が編まれたとしたら、一体どうなっていたでしょうか? 「歴史」にifは御法度(ごはっと)と言われますが、戦勝した日本の「戦後」に於いて ── 『大日本帝国憲法』も、旧『皇室典範』も改正される事無く、天皇主権の国体が存続していたとしたら、一体「誰」が天皇の藩塀(はんぺい)たる十一宮家の臣籍降下を決定し、実行に移したのでしょうか? 少なく共、昭和天皇はその様な事を勅裁(ちょくさい)しなかったでしょう。

又、縦(よ)しんば、「臣籍降下が内定していたから為された」としても、皇位継承権を有する男子皇族が不足する現況にあっては、その様な話を持ち出す事自体が、抑(そもそ)もナンセンスです。周囲を見渡せば、男系男子の子孫がいるにも関わらず、敢えてそう言った方々を迎える事無く、無理矢理「女系」に持っていこうとするのは、正に皇統の廃絶を願っているとしか思えません。

>旧宮家に関しては男系子孫ではあるが国民感情からしても難しそうです。降下した時点で皇族では無いのですし・・・・婿(むこ)養子という手もありますが愛子天皇以上に受け入れられないでしょう。

もう一つ。皇室の祖法はあくまでも「男系による皇位継承」です。この祖法を守ろうとする限り、愛子内親王の即位は許容されても、愛子「天皇」が御出産されたお子様は「女系」である以上、皇位継承権は発生しません。それを強引に即位させようとする事は、皇室の祖法をねじ曲げる事に他なりません。又、一般家庭でも、赤の他人がその家の跡取り決定に関するルールを勝手に変えたり、更には跡取りを決めたりする事等出来ません。それを畏(おそ)れ多くも、皇室の跡取り決定に関するルール(男系継承の祖法)を変えたり、ルールを曲げて跡取り(この場合、愛子内親王)を決める等、以(もっ)ての外(ほか)としか言いようがありません。

「天皇」は上野動物園のパンダや、千葉動物園のレッサーパンダじゃありません。国民の人気云々(うんぬん)をバロメータに皇位継承者を決める等、言語(ごんご)道断です。

更に言えば・・・愛子内親王が即位すると言う事は、即(すなわ)ち「天皇」であると共に、女性として出産=「皇后」の役割も一身に担(にな)う事になります。多忙な「天皇業」に加え、「皇后業」もこなせと言う様なもので、本当に愛子内親王を想う気持ちがあるのならば、即位を勧(すす)めたり求めたり等しないと私は思います。
 

『卑弥呼と日本書紀357』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月22日(金)11時44分29秒
  [承前]

〔三〕『日本書紀(やまとのふみ)』の一書

〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉の御子(みこ)の事代主神(ことしろぬしのかみ)の姫が神武(じんむ)天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)であるとする。

〔四〕『古事記(ふることふみ)

〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉は大穴牟遅神(おおなむちのかみ)とも呼ばれていて、度重(たびかさ)なる危機を切り抜けて国土を造り、多くの神を生んだ。
 また出雲(いずも)に流れ着いた少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して国造(くにづく)りに励んだ。
 のちに少彦名神は常世国(とこよのくに)に渡った――つまり没した――ので、〈大國主神〉は嘆(なげ)いて、

「自分一人でこの国をうまく造ることはできない。どの神が一緒にやってくれるだろうか」

 ――といったところ、海面を光らせながら近づいてくる神があった。
 その神は、

「自分をよく祭るなら協力してあげよう」

 ――と述べる。
 その祭り方を〈大國主神〉が質問すると、答えて、
「大和(やまと)の青々と垣のようにめぐる東の山の上に祭るように」

 ――と述べた。
 この神が御諸山(みもろやま)の神――つまり《三輪山》の神――である。
(この『古事記』の神話には幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の話はない)

[つづく]
 

黄東洋さん江  投稿者:はる  投稿日:12月22日(金)02時42分39秒
  歴史の見方は様々有って然(しか)るべきと思います。私は愛読している井沢元彦氏の主張を書いたに過ぎません。
説得したとか、されたとかにこだわらず、以前のように博識を展開してくだされ。
ちなみに私は、「外国人参政権」、「A級戦犯分祀(ぶんし)」、「女系天皇」などで説得されましたが、頻度は少ないものの未(いま)だに居座(いすわ)る厚顔無恥でござる。
 

『卑弥呼と日本書紀356』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月21日(木)12時39分33秒
  [承前]

〔二〕『日本書紀(やまとのふみ)

〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉が国土を開発しつつ出雲(いずも)に到着して、

「この国を平定したのは自分一人だろう」

 ――といったところ、あやしい光で海を照らして到来する者があり、

「私がいたから平定できたのだ」

 ――と語った。

 これはおそらく蜃気楼現象を神話化したのだろうが、〈大己貴神〉が質問すると、
「私はあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)で、大和(やまと)の三諸山(みもろやま)に住みたい」
 ――と答える。

 幸魂とは狩猟漁猟の幸をもたらす魂で、奇魂とは健康をもたらす魂だとされ、また人の穏やかな魂である和魂(にぎみたま)の二つの機能のことだという本居宣長(もとおり-のりなが)らの説もある。

 自分の魂と会話する話も神話として興味ぶかいが、この答をきいて〈大己貴神〉は自分の和魂を祀(まつ)る宮殿を三諸山につくった。
 これが《三輪山》の神の〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉で、この話が《大神(おおみわ)神社》の源であるとされる(*)。

 神社は一般に祭神を崇敬する人たちが創建するのだが、この伝承では祭神そのもが神社をつくる。
 神が神社をつくるのはきわめて珍しく、これが唯一の例だとされている。
 そしてこの神の子が神武(じんむ)天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)であり、子孫が大三輪君(おおみわのきみ)らの一族である。
 なお《大和神社》の祭神とされる〈大己貴神〉の荒魂は、和魂と対になる概念で、神霊は和魂と荒魂とよりなるとされる。

(*:大己貴神の子ともされる事代主神(ことしろぬしのかみ)とともに帰順して天に昇った〈大物主神〉に対して高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)が勅(みことのり)して「吾(あ)が女(むすめ)三穂津姫(みほつひめ)を以(も)ちて汝(なんじ)に配(めとら)せ妻とせむ。八十万神(やおよろづのかみ)を領(ひき)いて、永(ながく)に皇孫(すめみま)の為に護(まも)り奉(たてまつ)るべし」として地上に降(くだ)らせた――とされる。大和朝廷の守護役としての役割を与えて味方につけた伝承である)

[つづく]
 

 投稿者:ヨンタクロース  投稿日:12月21日(木)08時03分22秒
  いろんな名前でカキコんでるけど、ええ加減、意味不明な書き込みは、せんでくれる。

内容が支離滅裂で、書いてる本人には理解できても、他人には訳分からんYO
 

シベリア出兵失敗  投稿者:成功前の基礎  投稿日:12月21日(木)04時59分44秒
  成功前の基礎は違う(日露・第一次大戦参戦・不平等条約撤廃まで)
国家神道は、成功後の作り物(シベリア出兵失敗・玉砕で滅亡)

和魂漢才(菅原道真)・和魂洋才(福沢諭吉)
漢籍(仏教)・蘭学−ラテン語(医学・バテレン)があって
近代中国語・英語−フランス語−ドイツ語習得があり。

禅(緑茶喫茶・豆腐味噌製造・線香位牌・ニョウハチ・詠歌)・
真言(外国語・書道・作法・梵鐘・声明)
 

『卑弥呼と日本書紀355』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月20日(水)11時58分56秒
  [承前]

◆◆◆ 〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉の謎 ◆◆◆

〔一〕〈大物主神〉と〈大國主神(おおくにぬしのかみ)

 さて次ぎに、主神である〈大物主神〉について、その由来を整理しておこう。
 前述のように大物主の物とは「モノノケ」の「モノ」であり、直訳すれば「偉大なる土地の精霊の王」といったことになる。
『記紀』におけるこの神は、〈大國主神〉すなわち〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉と関係が深いので、まずこの出雲(いずも)の両神についておさらいしておく。

〈大己貴神〉は『日本書紀(やまとのふみ)』本文では素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子(みこ)で他では子孫とされており、地上を治めていたが、高天原(たかまのはら)からたびたび下(くだ)された使者との厳しい折衝によってついに地上の権利を高天原の神々に譲り、そのかわり出雲に巨大な宮殿(出雲大社)を建ててもらう。
 この神社を奉祀(ほうし)する責任者の出雲国造(こくそう)の先祖は〈大己貴神〉説得に高天原から初期に下されたが〈大己貴神〉の側についてしまったとされる天穗日命(あめのほひのみこと)である。
〈大國主神〉は素戔嗚尊の子孫で、『古事記(ふることふみ)』にしか出てこないのだが、その物語が寓話としてとても面白いので、著名な神である。
 少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して国土を経営し、大和(やまと)朝廷の祖に国を譲ってからは幽界に隠れ、出雲大社の祭神になった。すなわち〈大己貴神〉と重複する神であり、同一神と考えられている。
 のちには大黒様として庶民の人気者にもなった。

 この〈大國主神〉または〈大己貴神〉は、神話は別にして、推定される史実としては、大和朝廷の先祖とは別に日本列島の主要部――とくに畿内から日本海沿岸にかけて――を支配していた豪族であり、朝廷の祖との争いに破れて《大和》やその近隣の支配権を大和朝廷に譲り、《大和》から遠い出雲地方に居着いたのだろうという説がある。
 大和朝廷としては、この出雲一族に叛乱されないようあれこれ気を使って、一族の顔を立てる措置をいろいろと講じてきた様子が『記紀』からうかがえる。
《三輪山》の〈大物主神〉との関係もその一つで、つぎのような物語が記されている。

[つづく]
 

馬と称し鹿を指す(黒を白と言え) かも?!だし。。。  投稿者:おい、こらぁ?!  投稿日:12月19日(火)20時18分16秒
  違うだろうネタの発生源・責任追及先
おい、こらぁ?!

中国人成りすまし朝鮮人→新華社
アメリカ華僑_____→新華社
東南アジアの華僑−英系→新華社

東南アジアの華僑−他_→新華社
台湾の外省人_____→新華社
日本の華僑______→新華社

満州・北朝鮮・樺太千島のアイヌ日本女性を強姦殺人
露助(ルースキー)は嫌い
 

冨士に立つ影  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月19日(火)12時37分15秒
  仇討(あだう)ち→報復→再報復→とくると、白井喬二の大長編「冨士に立つ影」を連想します。
強者が弱者を殲滅(せんめつ)して王位についてしまう国では、たぶん書かれない小説ですね。
 

『卑弥呼と日本書紀354』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月19日(火)12時07分39秒
  [承前]

〈二〉三柱(みはしら)の神と磐座(いわくら)

 さて、《大神(おおみわ)神社》の祭神の主神は当然〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉であるが、その他に二柱(ふたはしら)の神――〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉と少彦名神(すくなひこなのかみ)――が祭神になっており、合わせて三柱の神が祀(まつ)られている。これは《三輪山》の三という数に合わせたものかもしれない。
 社伝によれば、〈大物主神〉は神代から奉祀(ほうし)されており、〈大己貴神〉は第五代孝昭天皇の勅(みことのり)によって祀られ、少彦名神は第二十二代清寧天皇が神のお告げによって祀ったと記されている。
 前後関係や国津神(くにつかみ)の定義など、ここまでの説明と矛盾する面もあるが、〈大物主神〉以外は後の世の政策や権威付けではないかと思われる。
〈大己貴神〉はこれまで何度も出てきており〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉の別名といってもよい神である。
 少彦名神ははじめてだが、この神は、『日本書紀(やまとのふみ)』では高皇産靈神(たかみむすひのかみ)の指の間からこぼれ落ちた小さな神で、海上から現れ、〈大己貴神〉に協力して農耕や医療を始めたとされる。
 したがって出雲(いずも)系の〈大己貴神〉を〈大物主神〉に関係づけるとすれば、とうぜんこの神も関係することになる。

 この三柱の神の山中の斎場(いみば)である磐座だが、昔はつぎのように分けられていたらしい。

  大物主神・・・奥津磐座(おきついわくら/山頂)
  大己貴神・・・中津磐座(なかついわくら/中腹)
  少彦名神・・・辺津磐座(へついわくら/山麓)

 禁足地は中腹から山麓にかけてだが、無数の磐座があるとともに、〈大物主神〉への祭具を奉納した場所でもあるらしい。
 もし仮に発掘したとしたら、無数の古代祭具が発見されるであろう。

[つづく]
 

旧宮家について  投稿者:無識者  投稿日:12月19日(火)10時53分14秒
   最近の皇室典範問題は成(な)りを潜(ひそ)めた感がありますが、伏見宮系の俗に言う旧宮家は戦前(大正時代)から臣籍降下が内定していて単に既得権の問題から戦後まで留保されていたと聞きました。これは戦前から伏見系は皇位継承者としては事実上認知されていなかったという事ではないでしょうか?
 女系、男系に囚(とら)われず皇統が重大な危機に晒(さら)されているのは事実ですが旧宮家に関しては男系子孫ではあるが国民感情からしても難しそうです。降下した時点で皇族では無いのですし・・・・婿(むこ)養子という手もありますが愛子天皇以上に受け入れられないでしょう。
 

「社会」の被害者  投稿者:解法者  投稿日:12月19日(火)00時14分49秒
   確かに「仇討ち」はそういう面があるようですね。

 テレビで見ましたが、越後(えちご)の新発田(しばた)藩の侍(さむらい)は仇討(あだう)ちに数十年も確か江戸時代末期まで江戸の長屋で過ごし、老いさらばえたといいいます。
 仇討ちをしないと家督を継げなかったようですが、それにしても過酷だったようです。
 親戚縁者などからの圧力も相当のものだったようです。親戚も援助しなければなりませんから、経済的負担は相当のものだったでしょう。
 彼もそのうちに仇討ちの意味がわからなくなったと思います。何しろ、江戸の片隅の長屋で数十年ですから、仇討ちとは名ばかりで惰性のうちに過ごしていたのではないでしょうか。
 仇討ちは形骸化していったのでしょう。
 

『卑弥呼と日本書紀353』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月18日(月)11時51分50秒
  ■■■■■ 八・七 《三輪山》と《大神(おおみわ)神社》4 ――磐座(いわくら)と祭神の謎―― ■■■■■


◆◆◆ 神社の原型としての磐座 ◆◆◆

〈一〉国津神(くにつかみ)と磐座

 神社に祭られる神々には、大別して天津神(あまつかみ)と国津神がある。
 天津神とは高天原(たかまのはら)の神々や高天原に生まれてこの国に降り立たれた神々のことである。
 国津神とは地上で生まれた神々や天孫降臨の前から地上におられた神々のことである。
(國學院大學『神道事典』より)
 一般に天津神を祀(まつ)るには、古代から神鏡や神玉などの御霊代(みたましろ)を斎場(いみば)におくのがしきたりであり、このしきたりは神社本殿を斎場としていまに続いている。
 一方国津神の祀り方は、縄文弥生以来――第八・五節で詳述したように――山中の磐座に神が宿るとするのがしきたりであった。
 磐座とは本来的には「神が鎮座する堅固な場所」であるが、多くの場合それは山にある「巨岩」であった。
 この伝統は今も続いている。

 どちらもはじめは場所は一定せず、のちに神社の社殿として固定されるようになった。
《大神神社》の祭神は国津神であり、したがって原初にあっては《三輪山》山頂や山腹の巨岩がその斎場であったと考えられている。
 そして、国津神であっても多くの神社がしだいに本殿をつくって神鏡を持つようになったのに対し、《大神神社》においては伝統を守り、いまもなお本殿をもうけず、《三輪山》自体に神が宿るとして、拝殿と三ツ鳥居を介して山容を拝んでいることは、先に述べたとおりである。

(注:ある祭神が天津神と国津神のどちらに属すかについては、古来かなりの混乱があり、研究対象でもあるらしいが、ここでは深入りしない)

[つづく]
 

ソビエトを攻撃しても勝てないのにアメリカと対戦  投稿者:漢和・日英  投稿日:12月18日(月)09時13分33秒
  気違い
○遣唐使−禅宗−日英

AD_25以降  倭奴国・後漢光武帝に遣い
AD266前後   倭の邪馬台国(卑弥呼)・吏訳−使役所・三国志の魏国帯方郡に遣い
AD375前後  中国へ司馬曹達・倭国の五王(倭王武など)・六朝(南朝)の宋に遣い
AD645の前   聖徳太子−小野妹子・遣隋使(隋の煬帝・使いのハイセイセイ)
奈良南都六宗:中国から鑑真和尚(唐招提寺)・中大兄皇子−藤原鎌足_不比等・遣唐使
天台宗・真言宗:空海(長安)−最澄(天台山)−円仁(五台山・長安)・遣唐使
臨済宗:栄西(天台宗葉上派・天台山)・金つかませ交易書状(日宋貿易・平清盛・神戸)
曹洞宗:道元(臨済宗・天台山)・日宋貿易(平清盛・神戸)
    雪舟(水墨画)・遣明使・勘合貿易(遣明船・日明貿易[1401-1549])
                         南蛮貿易[1543-1636]
黄檗宗:福建から隠元禅師(明朝の中国から禅宗和尚を代々招来・
                東南アジア華僑の朱印状貿易[1600-1636]・
              オランダ東インド会社の出島貿易[1600-1849])

1845年 アメリカ(黒舟・キリスト教・下田−神奈川[生麦]−横浜・東京・神戸)・
      ロシア(赤蝦夷・正教−函館・東京)・
      イギリス(神戸・横浜)・
      フランス(カトリック−長崎・横浜)に開国。
1868年 文明開化(幕末維新[徳川大君]・明治新政府[日本国]−大日本帝国)
1873年 対馬とプサン沖4kmの草梁島をやめ、富山浦(プサン港)の開港
1883年 済物浦(仁川港)の開港
1884年 郵征局(ソウル中央郵便局)を朝鮮人が襲撃し破壊・
      開設パーティーの郵征局アメリカ人は脱出・
      日本人居留民・郵征局員を強姦虐殺し貿易品略奪、死体を晒し者にする・
      清朝(中国)が、明洞(みょんドン・ソウルの銀座)に中華街・
      朝鮮総理−通商事(朝鮮総督で通商大臣)に漢人の軍指令の袁世凱が就任。
フィリピン−キューバがスペインでなくなる。アメリカの太平洋・カリブ海支配の始まり。
1894年 東学党の乱・日清の戦役が始まる(牙山から中国軍、成歓駅郊外の戦い)。
      平壌城の戦い・牛荘の戦い・旅順の戦い・山東半島に上陸
ハワイ王国をアメリカにする。日系人虐殺の開始。
1900年 義和団の乱(北清事変)・キリスト教徒−居留民−日独書記官殺害・
      八カ国のインド軍など北京を占領・ロシアが北京より北、満州まで占領。
1902年 南アフリカでオランダ混血アフリカーンス語ボーア人を強制収容所に入れ虐殺
1904年 日露の戦役。江戸時代の樺太北緯50度を回復。

1920−25年 江戸時代以来の樺太、全島を回復。
1922年 シベリア出兵が失敗。ウラジオ派遣軍撤退。沿海州(極東)共和国が滅亡。
1924年 大本教の教祖が、蒙古ウランバートルを、内蒙古人と一緒に襲撃し失敗
      ソビエトに逮捕される、日本送還。
1925年 ソビエト政権を承認。
      江戸時代以来の北樺太領有を、また喪失。
      満州で中国人の鉄道に並行鉄道で満鉄の利益を喪失。
1920年代 アボリジナル狩り(ジープで白人が人間を追い回し猟銃で狩る。
                猟銃狩りの人数を何匹と、かぞえて新聞に毎日載せる)
1939年8月22日 ノモンハン事変で、ソ連軍に負ける。
     9月1日 ポーランド侵攻。第二次世界大戦が始まる。

1940年 フランスが降伏。
1941年 ソビエトを挟み撃ちで攻めるように
      イギリスのシンガポールは攻撃しないように、
      同盟のイタリア・ドイツが言う。
      東条英機と憲兵が血迷い、ロシアは仲良し日本を攻めて来ないと気違い発言
      アメリカとイギリスが悪いと攻撃し、戦争を始める。

1945年 アメリカ軍−県軍政部[アメリカ軍の県庁](GHQ・進駐軍)
 7年間 1950年 日本憲兵を殺して替わりに置いた、朝鮮人の交番を日本で止める。
           北朝鮮国旗の掲揚禁止。朝鮮人の生活保護の禁止。
1952年 日本国(新憲法・日米地位協定[アメリカの植民地]・駐留軍)
 

英語情報と歴史認識  投稿者:bingo  投稿日:12月18日(月)03時19分40秒
  黄東洋さんの英語教育と歴史認識に関連付ける意見には、多少異論があります。

「小学校から英語」論も結局、日本人が英語経由で世界を知ることになり、アメリカと他国の戦争でもホワイトハウスの大本営発表を真に受ける人間を量産する結果になります。

とありますが、国際情報の大多数は英語を介して流れます。国連でも英語で討論されます。私はむしろ英語を直接原文で読めない、理解できない方が危険だと考えます。なぜなら、翻訳文だけですと、言語特性も異なりますし、翻訳者の主観や不正確な意味表現が混ざるからです。歴史認識だけでなく、あらゆる情報の客観的認識は、まず原文を直接見た上でその信憑性の確認作業を必要とするものです。理想を言えば、他の言語も含めて照らし、確認作業ができればと思うのですが、英語情報だからダメとか、その教育が不要と言うような次元のものではないと思います。

『よろずBLOG』
http://ameblo.jp/bingo777banana

 

やっぱり「霊」は無視できない。  投稿者:はる  投稿日:12月18日(月)00時37分47秒
  >では、靖国参拝を批判する人たちは「霊」でも怖(こわ)がっているのかという疑問が出てきます。

意味がよく分からないのですが、靖国参拝が軍国主義を復活させることに繋(つな)がることを怖れるから批判者は反対する、という意味でしょうか?
そういう人ならいるかもしれませんが、むしろ「霊」を無視できる人達が批判をするのだと思います。単なる外交カードとして、またはイデオロギーとして等など。
「霊」と言っても怖(おそ)れるべきものばかりでもありませんし。
また、本当に「霊」が存在するかどうかは問題ではなくて、生きている人々が「霊」的なものを感じるかどうかの問題と考えます。

それにしても、「歴史については「霊」など考えません…」とはどういうことなのでしょうか?
特に日本史においては必要なことだと思いますが。
繰り返しになりますが、打ち続く天変地異や疫病(えきびょう)を、菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊(おんりょう)の仕業(しわざ)と怖れた人々が、その霊を鎮(しず)める為に大宰府天満宮(だざいふ-てんまんぐう)を作ったのでない、と考えるのならば、他にどんな理由であるのでしょうか?
それとも、「」私の指摘が的を外しているのでしょうか?
かつて、出雲(いずも)大社が皇居や東大寺を凌(しの)ぐ日本最大の建造物だったのも、支那事変で日本軍が撤兵できなかったのも、多かれ少なかれ「霊」が関係していると作家の井沢元彦氏は言っています。
全て受け売りなのがバレましたが…。(霊)
 

私見・忠臣蔵考  投稿者:竹下義朗  投稿日:12月17日(日)21時40分54秒
  話題を蒸し返してしまう様で何ですが、毎年この時期になるとテレビでも放送されますし、簡単に私見を述べたいと思います。

私は、毎回、テレビの予告等を視る度に、大石内蔵助(おおいし-くらのすけ)率いる赤穂(あこう)浪士が吉良邸に討ち入る場面で、何かしっくりこないものがあります。

刃傷沙汰(にんじょうざた)等以(もっ)ての外(ほか)の殿中で、吉良上野介(きら-こうずけのすけ)に斬り付けた浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)。吉良が浅野に一体どの様ないじめや嫌がらせをしたのかは、二人がいない以上、今となってしまっては正真正銘の真実を知る事は無理な話です。然し、吉良の所領であった三河国幡豆郡吉良荘(現・愛知県吉良町)の領民からの評判は悪くなかった(正確には寧(むし)ろ逆に、名君ぶりや人柄から非常に慕(した)われていた)事や、幕府の儀典の責任者である高家(こうけ)筆頭と言う高い地位にあった事を考えると、(噂や憶測として)言われる様な事は無かったのでは無いか?と考えます。

寧ろ、私は浅野が「心の病」── 現代風に言えば、重度の躁鬱(そううつ)状態や、精神分裂病(統合失調症)等によって極度の被害妄想に陥り、一方的且(か)つ何の意味も無い儘(まま)、吉良に恨(うら)みを抱き、斬り付けたのでは無いかと思います。まあ、現代であれば、「心神喪失」として無罪になる可能性のある事でも、当時はその様な事は勘案されないでしょうし、ましてや、殿中での事件ですから、何の落ち度も無い吉良にはお咎(とが)め無し、浅野には切腹、と言う裁定が下っても不思議は無いでしょう。

さて、問題は残された赤穂藩士達です。私は、吉良邸に討ち入った大石以下浪士達もある意味、「被害者」だったと思います。当時の社会では、家臣が主君の仇(あだ)を討つのがある種の「義務」の様に考えられていた部分もありますし、ましてや、江戸市民が半ば吉良邸討ち入りを「期待」していた風潮を勘案すると、言い方は悪いかも知れませんが、不甲斐(ふがい)ない主君(浅野)の為に、お家は断絶し自分達も浪人の身分に落とされた、にも関わらず、江戸市民は自分達に吉良邸討ち入りを期待している・・・本当は、主君とは言え責任があったのは明らかな訳ですし、何も今更(いまさら)討ち入りたくも無いが、世間の風潮がそれを許さない。結局、主君への忠義と、世間の期待の板挟みとなり、やらざるを得なくなってしまった・・・と言うのが、案外、真実に近いのでは無いか、とさえ思えます。

浅野が悪かっただの、吉良が悪かっただの、ましてや、赤穂浪士が悪かっただの、と色々見方は出るのでしょうが、少なく共、これだけは言えると言う事があるとすれば、三者三様に「歴史」=「社会」の被害者だったと言う事です。
(吉良も後世、悪役とされてしまいましたし・・・ある意味、最も可哀想な人です)
 

『卑弥呼と日本書紀352』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月17日(日)13時51分50秒
  [承前]

▽第四十一代持統天皇の御代
 大三輪朝臣安麻呂(おおみわのあそみ-やすまろ)なる人物が、持統天皇三年に九人の判事のなかの一人に登用されている。
 判事とは現在のそれと似ており、訴訟の審理などにあたる役職で、浄御原令(きよみはらりょう)制によるものだろうといわれている。
 またこの天皇の時代に、諸氏族に命じて先祖の墓記を出させた――との記述があり、その氏族のなかに大三輪も入っている。墓記とは先祖の業績をまとめたものであろう。
 これが『記紀』編纂の基礎資料になったことは十分に考えられる。

▽やがて奈良時代へ
 このあと、藤原一族の勢力が強まるが、そうなってからは、物部(もののべ)や蘇我と同じように三輪一族も国の中枢から次第に遠ざかったらしい。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』を見ても、国政を左右するような重要な役職にはついていない。
 また『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では「三輪」ではなく「神」が使われ、大神朝臣(おおみわのあそみ)とされている。『続日本紀』でも同様である。

▽ユニークな存在
 以上のほか、三輪一族らしいといわれる特別ユニークな人物に、役小角(えんのおずぬ)がいる。
 七世紀前半に《大和(やまと)》に生まれ、生駒(いこま)、熊野、葛城(かつらぎ)などの山に籠(こ)もって修業し、孔雀明王(くじゃくみょうおう)の神呪(しんじゅ)を唱えて奇跡を現出したといわれる伝説的な人物であるが、実在したことは確かであり、八世紀初頭に没したらしい。
 足跡は日本全国に至り、冨士山に初めて登ったのもこの役小角だとされている。
 坪内逍遙(つぼうち-しょうよう)作「役の行者(えんのぎょうじゃ)」でも知られている。

▽著名人の参拝
 関連事項としてであるが、歴代の朝廷はじめ著名人の信仰は数え切れず、昭和天皇や今上(きんじょう)天皇皇后も御拝しておられることはすでに述べたが、戦後の著名人としては、三島由紀夫が「豊饒(ほうじょう)の海」第二部執筆にあたって三日三晩の参籠をしている。
 海外からも、ローマ法王代理のマレラ枢機卿(すうききょう)、ジュネーブ大学のエルベール教授、エール大学のダッドナフ教授、フランス文化使節のマルセル博士など多くの学者や宗教家が訪れている。

[次ぎは「第八・七節 《三輪山》と《大神(おおみわ)神社》4 ――磐座(いわくら)と祭神の謎――」]
 

靖国参拝を批判する人たちは「霊」を嫌がってるのかどうか  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月17日(日)02時21分56秒
  「はる」さんへ

結局、説得されませんでした。やはり、私の考えは変わりません。

内藤陽介氏は母方が吉良(きら)系だそうで、私は非情に同情します。

「はる」さんの喩(たと)えは東京裁判信望者への反駁(はんばく)に使えそうですが、では、靖国参拝を批判する人たちは「霊」でも怖がっているのかという疑問が出てきます。

自作時代劇掲示板

http://8001.teacup.com/hissatsu_jidaigeki/bbs


歴史と文学、虚実年表

http://6302.teacup.com/hwangdongyang/bbs

 

霊は無視できない。  投稿者:はる  投稿日:12月17日(日)01時53分21秒
  >私は原則として歴史については「霊」など考えませんし、世間一般の「忠臣藏」賛美には「法、論理」の観点が缺落していると思います。

歴史について考察する時に、当時の人々の宗教的な考え方を無視するわけにはいきません。
菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊(おんりょう)を恐れたからこそ、大宰府天満宮(だざいふ-てんまんぐう)が作られたわけですし、キリスト教の神を信仰したからこそ十字軍遠征が行われたのです。現代でも、靖国神社に行けば英霊達に会えると思う人は多いでしょう。
仮に将来、科学的に神や霊の存在が否定されたとしても、過去の人々の信仰に基づく行動を無視して歴史は語れません。
確かに、浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)は辛抱が足りなかったと思いますが、見ず知らずの人々を無差別に虐殺したわけではないので、麻原彰晃と同じに扱うべきではないと思います。
浅野が吉良を恨(うら)んで刃傷沙汰(にんじょうざた)を起こしたのは確かなのですから、赤穂(あこう)浪士らが幕府の沙汰に不公平感を抱き、主君の霊を慰(なぐさ)める為に敵討(かたきう)ちを決行したとするならば、理解できることと思います。
オウムに例えるよりは、吉良=アメリカ、浅野=日本、松の廊下=真珠湾奇襲、幕府の沙汰=東京裁判、赤穂浪士討入=戦前史見直しと自主独立?かな。
忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は別にしても、公正なる法に基づき国家が復讐を遂(と)げてくれなければ、被害者の遺族が自ら復讐することになり世は乱れるという事。死刑執行にサインしない法務大臣など言語道断(ごんごどうだん)
 

享保から寛政を経て天保までの虚実歴史  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)15時41分51秒
  |||
|江|・1716年
|戸|【日】8代将軍吉宗(よしむね)就任(在職〜45年)、享保の改革
|中|・1717年
|期|【日】大岡忠相(おほをか-ただすけ)が江戸町奉行(まちぶぎょう)
|||【劇】吉宗が偽名を名乗り、自ら江戸の市井(しせい)を視察
|||→不正が多發し、吉宗と忠相、男女2名の忍者だけで処理(「暴れん坊将軍」)
|享|→吉宗が出歩いて事件になり大岡が苦言(TBS「大岡越前=おほをかえちぜん」)
|保|→誤認逮捕など不正が多く、奉行自ら忍びで捜査(TV朝日「大岡越前」)
|の|
|改|→日本の時代劇で描かれる享保年間では、
|革|吉宗と大岡による人事に缺陷があるのか、
|||幕府も江戸町奉行所もろくな人材が揃っていなかったらしい
|||
|||【劇】「吉宗」(大河ドラマ、アニメ等)
|||・1719年
|||【日】吉宗が天文学者・西川如見を招聘
|||(・吉宗の時代)
|||【劇】吉宗が彗星を發見し西川如見を招聘(しょうへい)
|||→関東に彗星が落下(「暴れん坊将軍」)
|||
|||・1728年
|||【日】平賀源内誕生
|||
|||・1729年
|||【世・欧亜】後(のち)の Eketarina2世誕生
|||
|||・1745年
|||【日】吉宗退位。後任は政治能力が缺落した家重(いへしげ)
|||
|||・1751年
|||【日】徳川吉宗、大岡忠相没
|||将軍・家重の貢献役は大岡忠光(おほをか-ただみつ)
|||大黒屋光太夫(だいこくや-くわうだいふ)誕生
|||→幸太夫(かうだいふ)とも呼ばれる
|||
|平|・1760年
|賀|【日】大岡忠光没、家重も退位(翌年死去)。後任は家治(いへはる)
|源|【劇】平賀源内が伊賀忍者軍団に協力
|内|→軍団の頭領が忠光を斬殺、忠光の首を家重に届ける(「影の軍団II」)
|||【劇】紀州と尾張の徳川家の藩主が忍びで旅をし、各地で人を斬り、刺しまくる
|||→藩主2名は平賀源内とも接触(「殿さま風来坊隠れ旅」)
|||
|||・1762年
|||【世・欧亜】Eketerina2世の夫・Pёtr [pjo:tr] 3世が即位するが執政能力がなく廃せられ、
|||Eketerina 自身がロシア女帝として即位
|||→日本で言えば家重の正室が将軍になるか、今の雅子妃、紀子妃が天皇になるようなもの
|||→欧洲と日本の傳統の違いか
|||【劇】(「女帝エカテリーナ」)
|||
|||・1765年
|||【日】十返舎一九(じふ…>じっぺんしゃいっく)誕生(1831年没)
|||
|田|・1767年
|沼|【日】田沼意次(たぬま-おきつぐ)が将軍家治の側用人(そばようにん)
|時|
|代|・18世紀後半
|||【世・欧】英国で産業革命
|||
|||・1776年
|||【日】平賀源内エレキテル發表
|||→昨今の石綿問題は平賀源内に責任があるのか?
|||【世】アメリカ合衆国独立
|||【劇】20世紀から来た「悪の組織」が源内誘拐を謀るが未遂(「キカイダーO1」)
|||
|||・1782年(陽暦83年)
|||【日】大黒屋光太夫一行の船が遭難しロシアに漂着
|||→映画では Kamchatka 半島、「史実」では Aleut(Aleutian)列島の島に漂着
|||(「おろしや国酔夢譚」)
|||
|||・1786年
|||【日】10代将軍家治没。11代は家斉(いへなり)。田沼は失脚
|||
|||・1787年
|||【日】松平定信が寛政(くわんせい)の改革を開始
|||
|寛|・定信の時代
|政|【日】定信の命令で隠密同心が活躍(「大江戸捜査網」)
|の|
|改|・1789年
|革|【世・欧】フランス革命。オスカル(Oskar)戦死(「ベルサイユのばら」)
|||
|||・1791年
|エ|【劇】光太夫が Sankt-Peterburg で女帝 Eketarina に謁見、帰国を嘆願
|カ|(「おろしや国酔夢譚」)
|テ|
|リ|・1792年
|||【劇】Laksman 親子が同行し、光太夫一行、蝦夷に到着(「おろしや国酔夢譚」)
|ナ|
|||・1793年
|||【劇】日露会談(「おろしや国酔夢譚」)。寛政の改革終了
|||【世・欧】王妃 Marie Antoinette が処刑される
|||【劇】不動明と飛鳥了が王妃の精神内に悪魔を發見し、処分(「新デビルマン=Devilman」)
|||→しかし、王妃は処刑される
|||王妃の異母妹が王妃の子供たちを連れてパリ(Paris)を去る(「ラ・セーヌ=La Seine の星」)
|||
|||・1794年
|||【劇】Georges Jacques Danton 処刑される(「ダントン」)
|||
|||・1796年
|||【世・欧亜】Ekaterina2世没
|||
|||・1798年
|||【劇】仕掛人・藤枝梅安(ふぢ…>ふじえだばいあん)の仲間・小杉十五郎が
|||松平定信の護衛役に就任(「梅安荒梅雨」)
|||
|||・1802〜22年
|||【日】「東海道中膝栗毛(とうかいだうちゅうひざくりげ)」刊行
|||
|||・1828年
|||【日】Siebold 事件。大黒屋光太夫没
|||
|||・1829年
|||【日】高橋景安獄死。松平定信没
|||【劇】中村主水と千葉周作らが景安の敵討ちをする
|||(「必殺スペシャル春 勢ぞろい仕事人! 春雨じゃ、悪人退治」)
|||
|||・1831年
|||【日】十返舎一九没
|||
|天|・1832年
|保|【日】鼠小僧次郎吉処刑
|||【劇】北町奉行・榊原忠之(だかきばら-ただゆき)が次郎吉を自分の密偵に採用
|||(「八百八町夢日記」)
|||次郎吉は直前に救出される→処刑されたのは替え玉か(「必殺からくり人」)
|||次郎吉は無実の罪で投獄され、山田朝右衛門(やまだ-あさえもん)が斬首(「「必殺仕事人・激突!」」)
|||

モンゴル帝国擴大による元寇を防ぎながら鎌倉幕府は滅亡。続く「大航海時代」を迎えた欧洲からの布教等による植民地擴大に対抗し、秀吉が東アジアの防衛強化を目指して大陸に出兵したものの頓挫。
モンゴルを受け継いだ満洲民族の清がシナを支配した段階で徳川幕府は警戒を強めた。
吉宗後の田沼時代にアメリカ合衆国が独立し、吉宗の孫・松平定信の改革の際にフランスで革命が置き、ロシアは領土を擴大しながら不凍港を求めて日本に接近。
アメリカ独立や欧洲の産業革命の時代に日本でも平賀源内のエレキテルが現れた。平賀源内の發明はささやかな日本版産業革命であろうが、昨今の石綿問題など予想もしなかっただろう。
「影の軍団II」でも忍者2名が石綿のお陰で焼死を免れる描写があった。
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オロモルフさんへ

やはり見解の相違は埋まりませんね。これ以上の議論は不毛でしょう。

私は内藤陽介氏や南條範夫氏、及び朝日の投稿者某氏の赤穗浪士批判が論理的に正しいと思います。
詳しくは今、發賣中の『SAPIO』と12月14日付け朝日新聞を御覧下さい。

私は原則として歴史については「霊」など考えませんし、世間一般の「忠臣藏」賛美には「法、論理」の観点が缺落していると思います。

ここの皆さんはともかく、「戦後」思想で大東亜戦争を断罪し「歴史を直視すべし」と言う人たちまでが、なぜ江戸時代のことになると当時でも違法だった大量殺戮や今から観れば異常な斬首を賛美するのかわかりません。

このように、歴史観はいくら議論しても違うものは違うわけで、それが健全な状態です。
「東アジア共通の歴史観」など妄想です。言いたかったのはそれです。
 

『卑弥呼と日本書紀351』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月16日(土)11時55分9秒
  [承前]

▽第三十八代天智(てんぢ)天皇の御代(みよ)
 三輪君根麻呂(みわのきみのねまろ)は白村江(はくすきのえ)の戦いの直前、二万七千の大軍を率いて半島に渡り新羅(しらぎ)を討ったとされる。
 二万七千とは大変な大部隊であり、輸送だけで膨大な費用がかかるし、普段からこれだけの大軍を養っていなければならない。したがってこの時代の三輪も大豪族だったことがわかる。

▽第四十代天武天皇の御代
 三輪君高市麻呂(みわのきみのたけちまろ)は壬申の乱のとき、大海人(おおあま)皇子(天武天皇)のもとで武将として活躍し、《三輪山》の麓の《箸墓(はしはか)》のあたりで近江(おうみ)軍と戦ってこれを撃破した。
 この功績で重臣として朝廷に仕え、理官という内務省的な要職についている。
 また高市麻呂は、次ぎの持統天皇の御代に、天皇が農繁期に伊勢行幸を計画するのを、農民を苦しめるからと諫めたが、天皇は聞かなかった――と伝えられている。
 おなじく壬申の乱のとき、三輪君子首(みわのきみのこびと)も大海人皇子にしたがって奮戦したが、天武天皇五年に病没した。
 天皇は悲しんで、内小紫位(従三位(じゅさんみ)相当)を追贈し、また謚号(しごう)として大三輪眞上田迎君(おおみわのまかみたのむかえのきみ)という名を贈った。迎君とは壬申の乱で天皇を鈴鹿(すずか)に迎えたことからきている。

 天武天皇の十三年に、三輪引田君難波麻呂(みわのひけたのきみなにわまろ)が大使として高句麗(こうくり)に派遣された。
 この時期、新羅は高句麗の併合を図っており、帰国したのは併合された後だったとされている。白村江の事件のあとの複雑な国際問題で揺れる朝鮮半島に派遣されたのは、きわめて有能な外交手腕をもっていたからであろう。
 同じ十三年に、姓(かばね)の制度が改革され、「朝臣(あそみ)」という姓が新設された。そして五十二の氏族が朝臣となったが、三輪一族もその一つだった。したがって三輪氏を呼ぶとき、名に朝臣をつけることが多い。
 また先の謚号・大三輪眞上田迎君で分かるように、この時代に三輪は大三輪(おおみわ)と改められたらしい。
 したがってこの少しあとで出来た『日本書紀(やまとのふみ)』では、古い時代の三輪一族でも大三輪と表記されることが多い。

[つづく]
 

Re:これはとんでもない間違いだ  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月16日(土)11時44分45秒
  解法者さんの説は論理的に正しいと思います。
また、この種の議論には「霊」の観点が欠落していると思います。
 

日本のフィクションでは60年代に日本核使用論と防衛「省」昇格  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)07時39分11秒
  1909|安重根(アン-ジュングン)が伊藤博文を暗殺
――|【劇】安重根が伊藤博文暗殺に失敗(「Lost Memories」)
1910|日韓併合
1920|【劇】大正9年、梨本宮方子(なしもとのみや-まさこ)妃が19歳で日本の皇族から
――|韓国皇太子妃へ嫁ぐ(「虹を架ける王妃」)
――|→日韓併合後も「韓国皇太子」は存続していたらしい
1936|【劇】日米同盟。Berlin に原爆投下、日本が戦勝国に(「Lost Memories」)
1945|アメリカが廣島(8/6)と長崎(8/9)に原爆投下
――|【劇】「はだしのゲン」、「黒い雨」など
――|→生き残った市民や被爆地を訪れた兵隊たちも原子病で死亡(「ゲン」)
1949|ソ連、原爆開発成功を公式発表
――|12/15 廣島カープ設立
1950頃 【劇】近藤隆太がカープを応援(「はだしのゲン」戦後編)
1950|6/25 朝鮮戦争
――|8/10 警察予備隊成立
――|→【劇】中岡元の恩師・太田がこれに激怒(「ゲン」戦後編)
1954|3/1 Bikini水爆実験で第五福龍丸が被曝
――|6月 自衛隊法制定
――|11月 【劇】ゴジラ(Godzilla)、東京に上陸。防衛隊が応戦
――|→ゴジラは水中酸素破壊剤(oxygen destroyer)で葬られる
1955|Albert Einstein死去
――|【劇】防衛隊がゴジラ氷づめに成功
1958|長嶋茂雄G入団。原辰徳誕生
――|【劇】「ALWAYS 三丁目の夕日(夕焼けの詩)」
1959|王貞治G入団。皇太子御成婚
――|【劇】「ALWAYS 続・三丁目の夕日」
1962|東映フライヤーズ(現日本ハム)日本一
――|Cuba 危機
1964|東京五輪
――|【劇】キングギドラ襲来
――|→防衛大臣「キングギドラに核兵器を使えというのか」
――|(映画「ゴジラ」シリーズ)
1969|Apollo 11号月面着陸
――|【劇】星飛雄馬が「消える魔球」で活躍(「巨人の星」)
1970|【劇】オズマが越南戦争の負傷がもとで死亡(アニメ版「巨人の星」)
1973|少年ジャンプで「はだしのゲン」連載(〜74)
――|→その後オピニオン誌、評論誌で85年まで連載
1974|インドが核実験
1976|\
1977|― 実写映画「はだしのゲン」3作公開
1980|/
1983|映画「The Day After」
――|→核戦争後を描いたが余りにも被害の程度が低い
――|アニメ版「はだしのゲン」第1部公開
1986|旧ソ連 Ukraina,Chernobyl'原發事故
1987|アニメ版「はだしのゲン」第2部公開
1989|8月、アニメ版「はだしのゲン」TV放送
1991|湾岸戦争
1993|12月に憲法改正論についての發言が批判され、
――|細川内閣の中西啓介防衛庁長官が辞任
1994|Schwarzenegger 主演映画「True Lies」
――|→核の爆風を食らった人がすぐに立ち上がって走る
1995|フランスが核実験
――|武村正義官房長官「クレージーとしか言いようがない」
――|「核不擴散と核軍縮の原則と目標」
1996|中国核実験
――|CTBT(=Comprehensive Test Ban Treaty 包括的核実験禁止条約)締結
1996|廣島原爆ドーム世界遺産登録
――|→アメリカは反対、中国は棄権
――|兵頭二十八(ひゃうどう>ひょうどうにそはち)氏朝生で「日本核武装論」
1997|兵頭二十八氏「日本核武装論」書籍で出版
――|→『ヤーボー丼――いかにして私たちはくよくよするのを止め、
――|核ミサイルを持つか』(銀河出版)
1998|インド、パキスタンが核実験
――|【劇】Hollywood版映画「GODZILLA」
――|→佛核実験から誕生した怪獣が Manhattan に上陸
1999|9/30,11/9 アメリカが臨海前核実験
――|西村眞悟(第二次小渕内閣防衛政務次官)が週刊誌で
――|「核抑止力」の効果を論じ「核武装論」と見なされる
――|→辻元清美が大騒ぎしたらしい
2001|9/11テロ
――|↓これを舞台にした映画、ドラマ
――|【劇】「華氏(くわし、ファし)911(Fahrenheit 9/11)」(2004年公開)
――|【劇】「911への道(The path to 911)」(2006年9/10,11放送)
――|【劇】「World Trade Center」(2006年10/7公開)
2003|イラク戦争勃発
2004|並木書房から兵頭氏『ニッポン核武装再論』
――|「華氏(くわし、ふぁし)911(Fahrenheit 9/11)」公開
2005|アニメ版「はだしのゲン」DVD化→アメリカでも發賣
2006|7月 北朝鮮ミサイル発射
――|8/25 イランのMohammad Khatami大統領が核開発正当性訴える
――|8/31 アメリカが臨界前核実験。長崎市長が抗議声明
――|9/10,11 ドラマ「911への道(The path to 911)」放送
――|10/7 映画「World Trade Center」公開
――|10/9 北朝鮮が核実験
――|10/15 中川昭一自民党政調会長が日本核保有について「議論は大いに」
――|10/18 麻生太郎外相が衆院外務委員会で
――|「隣国が(核を)持つことになった時に議論しておくのも大事」
――|10/20 米英の研究チームが「透明になるマント」の素材開発
――|→レーダーをくぐる兵器に使えるらしい
――|10/27 防衛省法案衆院本会議で審議入り
2009|【劇】朝鮮半島は未だに日本領(「Lost Memories」)

「はだしのゲン」公開日などはWikipediaから。

「はだしのゲン」で評価できるは戦後編の初めまでですね。
舞台が1950年になる辺りで、前にも書きましたように「三光(さんくわう)作戦」という中共の反日宣傳思想や君が代と天皇への反感などが前面に出ており、これでは原爆投下を辯護または擁護する漫画になってしまっています。
しかし、もし日本への原爆投下が正当化されるなら、当然、日本も核武装しようという意見が出てきますし、世界のどこかで某国が周辺国を「侵略」したと看做(みな)した日本がその「某国」を核攻撃してもいいという理屈に發展します。

韓国映画「Lost Memories」では安重根が伊藤博文暗殺に失敗した假説の歴史を描き、そうなっていたら21世紀まで日韓併合が続いていただろうという不思議な話です。伊藤博文は韓国併合に反対だったという説もあります。
それで、映画では2009年になっても朝鮮人は「坂本」という名前で、国全体は「日本」のままです。
例えば、1世紀の間に旧韓国系日本人が政権を奪って首都をソウルに移し、自分たちの名前を朝鮮式に「創氏改名」するといった藝当はできていないようです。
少なくとも今の韓国人は、自分たち朝鮮民族が日本に併合されてから実際の2倍以上の1世紀の月日が経過しても、自分たちで政権を奪って国を朝鮮主導に切り替えることができないと自ら思っているようです。
 

大航海時代と秀吉朝鮮出兵〜家光の時代  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)07時22分26秒
  【劇】の項目で書いた事項の中にも史実と一致する物があります。
書籍名を『』で圍(かこ)もうかとも思いましたが、架空の歴史の原典と同様、「」で括(くく)ることにしました。

|||
|鎌|・1274,1281年
|倉|【日】文永・弘安の役(蒙古襲来)
|時|→モンゴル、シナ、高麗(かうらい、Koryeo)が日本に出兵
|代|→日本ではこれについて、
|||「支那と朝鮮の連合軍が日本を侵略した事件」
|||という解釋もある
|||【劇】「北条時宗」、「マルコ・ポーロ」
|||
|室|・1368年
|町|【世】明(Ming)建国(〜1644年)
|時|→元(ぐゑん、げん、Yuan)が多倫諾爾(ドロンノール、Dolonnur)に遷都
|代|(→1636年清と合流)
|||
|||・1375年
|||【劇】明で高麗使節団が捉えられる(「MUSA/武士」)
|||
|||・1392年
|||【世・朝】 高麗が滅んで朝鮮王國成立(〜1897年)
|||
|室|・1412〜88年
|町|【日】里見義実(さとみ-よしざね)生没年
|時|・1434(または38)〜97年
|代|【日】足利成氏(あしかが-しげうじ)生没年
|||【劇】仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌(てい)の玉を持つ八犬士が登場
|||(「南總里見八犬傳」)
|||→作品自体は1814〜42年(江戸時代)、曲亭(瀧澤)馬琴作
|||
|戦|・1567年
|国|【日】応仁の乱
|時|
|代|
|||
|大|・15〜17世紀
|航|【世】大航海時代
|海|http://www.yamada-kj.com/
|時|→欧洲各国、地球規模の勢力擴大開始
|代|
|||
|朝|・1482年
|鮮|(【劇】「チャングムの誓い」第1話前半)
|王|
|朝|
|||
|大|・1492〜3年、1493〜5年
|航|【世・欧】コロンブス(Columbus)大西洋2回横断
|海|(欧洲人は西暦1000年頃、北米に到着した前例あり)
|||
|朝|・1494〜1506年
|鮮|【世】燕山君(Yeonsan-gun)在位
|||【劇】「王の男」
|||
|大|・1498〜1500年、1502〜04年
|航|【世・欧】コロンブス航海3,4回目
|海|→中南米に植民
|||
|朝|・1506〜44年
|鮮|【世・朝】朝鮮王・中宗(Jungjong)在位
|王|【劇】中宗に女医・長今(Janggeum)が仕える
|朝|(「宮廷女官=きゅうていにょくわん・チャングムの誓い/大長今=Dae-Janggeum」)
|朝|→【朝】「針灸治療は韓国産」という設定(中国側は同意せず反撥)
|||
|||
|宗|・1517年
|教|【世・欧】マルティン・ルター(Martin Luther)「95ヶ条の論題」
|改|・1536年
|革|【世・欧】ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)「キリスト教綱要(〜けうかうえう)
|||→原題はラテン語で《Institutio Christianae Religionis》
|||
|戦|・1543年
|国|【日】ポルトガルから種子島に鉄砲傳来
|||【世・欧】コペルニクス(Copernicus)没と同時に太陽中心(地動)説發表
|||
|||・1549年
|||【日】フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier)来日、基督教傳来
|||【劇】「戦国自衛隊1549」(敵は信長)
|||
|||・1560年
|||【日】桶狭間の戦い
|||【劇】「信長 KING OF ZIPANGU」等多数
|||
|||・1561年
|||【日】川中島の戦い
|||【劇】「風林火山」、「武田信玄」、「戦国自衛隊」([主]千葉真一)等多数
|||
|||・1570年代
|||【劇】木下藤吉郎を通した信長の命令で赤影が活動(「仮面の忍者・赤影」)
|||
|||・1571年
|||【日】信長が比叡山延暦寺焼き討ち
|||
|||・1575年
|||【日】長篠(ながしの)の戦い
|||【劇】「風林火山」等多数
|||
|安|・1582年 本能寺の変
|土|【劇】「信長の棺」、「明智光秀」等多数
|桃|
|山|・豐臣太平の時代
|||【劇】「新・影の軍団」
|||
|||・1592, 1597年
|||【日】文禄(ぶんろく)・慶長(けいちゃう)の役(えき)
|||【朝】朝鮮では「壬辰倭亂(Imjin-waeran)」
|||→豐臣秀吉が朝鮮に出兵
|||→朝鮮では「日本による侵略」
|||→日本では西尾幹二氏が「国民の歴史」で
|||「西洋に対抗した日本版大航海時代の試み」
|||との説を採用
|||【劇】「太閤記(たいかふき)」等
|||
|||・1600年
|||【日】オランダ船が日本に漂着
|||【劇】William Adams が漂着、三浦按針(みうら-あんじん)になる(「SHOGUN」)
|||【日】関ヶ原の戦い
|||【劇】「戦国自衛隊・関ヶ原の戦い」他多数
|||
|江|・1603年
|戸|【日】徳川幕府成立。「日葡辭書」刊行開始
|時|→原題は《Vocabvlario da Lingoa de Iapam》
|代|
|||・1615年
|||【日】大阪夏の陣(【劇】多数)
|||
|||・1616年
|||【世】後金(こうきん、Hou Jin)成立
|||
|||・1616〜33年
|||【世・欧】ガリレオ(Galileo)裁判
|||
|17|
|世|【世・欧】欧洲の魔女狩り(13〜18世紀)が頂点
|紀|
|||・1618〜48年
|||【世・欧】30年戦争
|||
|江|・1623〜51年
|戸|【日】将軍家光
|時|
|代|・1634年
|初|【劇】家光([演]三田村邦彦)が影武者を駕籠(かご)に乗せ、
|期|自らは浪人に扮して歩き、江戸と京都を往復
|||→旧豐臣派が復讐を謀る
|||→家光いわく「戦とはつまらぬものだ、戦などなき世の中にしたい」
|||(「将軍家光忍び旅」)
|||
|||・1636年
|||【世】後金が清(Qing)に改称し、元(Yuan)が合流
|||・1637〜8年
|||【日】島原の乱
|||【劇】「柳生十兵衛七番勝負・島原の乱」
|||・1644年
|||【世・支】明滅亡
|||
|||・家光の時代
|||【劇】キリシタン関係者が家光殺害を謀るが、
|||家光([演]西島秀俊)の「異国が布教を口実に我国を狙っているから」
|||との言葉を受け、断念(「大奥〜第1章〜」)
|||
|||・1651年
|||【日】家光没、後任は家綱(いへつな)
|||【劇】家光([演]京本政樹)が世継ぎ・竹千代を殺害しようとするが、
|||浪人の集団に食い止められ、自身は死亡
|||(「激突! 将軍家光の乱心」)
|||
|||【日】慶安の変
|||→由比(ゆひ)または由井(ゆゐ)正雪(しゃうせつ)の乱
|||
|||・1657年
|||【日】明暦の大火
|||【劇】家光の正室だった千愁尼が伊賀忍者の頭(かしら)と接触(「影の軍団III」)
|||徳川光圀「大日本史」編纂開始
|||
|||・1680〜1709年
|||【日】将軍綱吉
|||・1690年
|||【日】水戸・徳川光圀が藩士の座を退き、翌年西山荘に隠居
|||【劇】光圀が全国行脚(「水戸黄門」)
|||→実際の最大の遠出は鎌倉まで
|||
|||・1701年
|||【日】光圀没
|||【劇】殿中松の廊下で刃傷(にんじゃう)事件。浅野長矩(あさの-ながより)切腹(「忠臣蔵」)
|||
|||・1702〜03年
|||陰暦1702年(元禄15年)12/4,陽暦1703年1/30
|||【劇】大石良雄(おほいし-よしを)等赤穗の浪人47人が吉良邸に討ち入り、
|||吉良義央(きら-よしなか)等を殺害
|||→赤穗浪士・毛利小平太は直前で脱退
|||【劇】毛利小平太([演]西郷輝彦)が毛利源左衛門に止められて討ち入りに参加せず、
|||→事件後、大石から「強く生きよ」と言われる(1985年日本TV版)
|||→討ち入り寸前、毛利小平太([演]石原良純)がまゆ([演]大西結花)をかばって死亡?(1989年「大忠臣蔵」)
|||→大石等は切腹(1703年)
|||
|||・1709年
|||【日】綱吉没。後任の6代将軍は家宣(いへのぶ>いえのぶ)
|||【劇】1709年にガリヴァー(Gulliver)来日、踏み絵を拒否
|||(「ガリヴァー旅行記/Gulliver's Travels」)
|||→ガリヴァーは江戸で「皇帝」に謁見したらしいが、
|||無論、史実では当時の江戸には「将軍」がおり、おそらくは綱吉か家宣
|||日本の「皇帝」=天皇は京都にいて、1868年に江戸(→東京)に移った
|||→作品刊行は1726年で、日本では吉宗(よしむね)の時代
|||
 

Re:神道を軽視する傾向  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)04時37分56秒
  國~社には地元の一般庶民も参拝しています。
國参拝を批判する人も、一般的な神社への初詣(はつもうで)や祭りを全く批判しないのは妙ですね。
クリスマスの押し付けも信仰の自由の侵害です。
 

壇ノ浦、元寇を中心にした虚実歴史年表  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)03時20分3秒
  |||
|飛|・700年頃
|鳥|【劇】遣唐使、来栖(くるす? シナ語名 Laiqi,-xi)らが佛塔を守る旅をする
|時|(「WARRIORS OF HEAVEN AND EARTH/天地英雄=Tiandi Yingxiong」)
|代|
|末|・飛鳥時代末〜奈良時代初期
|期|(大宝期 701〜703年前後または天武・持統天皇の時代)
|||【劇】かぐや姫が月に帰還(「竹取物語」)
|||→中井貴一はこの辺の時代と縁があるようだ
|||
|奈|・710年
|良|日本で都が平城京に(奈良時代始まり)
|時|
|代|・730年
|||光明皇后(くわうみゃうくわうごう)の發願(ほつぐわん)で医療施設・施薬院(せやくゐん)創設
|||【傳説】光明皇后が病人の膿(うみ)をみずから吸ったところ、
|||その病人が「阿閦如来(あしゅくにょらい)」であった
|||http://butuzou.co.jp/nyorai/asyukunyorai.html
|||
|||・743年
|||聖武天皇(しゃうむてんわう)が大佛造顕の詔(だいぶつざうけんのみことのり)を公布
|||
|||・749年
|||天平勝宝元年(てんぴゃうしょうほうぐわんねん)
|||聖武天皇の發願により東大寺大佛創建
|||
|||【劇】隻眼隻腕の盗賊・我王(がわう>がおう)が彫刻家として活躍
|||佛師・茜丸(あかねまる)が東大寺大佛〔建立(こんりふ)〕の担当者の一人に
|||(「火の鳥・鳳凰編」)
|||
|||・752年
|||東大寺大佛開眼
|||
|||・753年
|||【劇】鑑真来日(「天平の甍=いらか」)
|||
|||・784年
|||日本で長岡京に遷都
|||
|平|・794年
|安|日本で平安京に遷都(平安時代始まり)
|時|
|代|
|||
|唐|・859年(唐大中十三)
|代|【劇】唐の朝廷が反乱軍最大の『飛刀門』撲滅を画策
|末|→官史の金と瀏に指導者を10日以内に捕らえるよう命ずる
|期|(「LOVERS/十面埋伏=Shimian Maifu」)
|||
|||・907年
|||唐が滅亡、五代十国時代に突入
|||
|||・907年(または916年)〜1125年
|||契丹(きったん、Qidan)族の遼(れう、Liao)
|||
|新|・918年
|羅|高麗(かうらい、Koryeo)建国(〜1392年)
|/|
|高|・926年
|麗|渤海滅亡
|||
|||・935年
|||新羅滅亡
|||
|高|・936年
|麗|高麗、朝鮮を統一
|||
|||
|平|【劇】「陰陽師(*おむやうじ>おんみゃうじ>おんみょうじ)」
|安|↓主な登場人物の生没年
|時|源博雅(みなもとのひろまさ、918〜980年)
|代|安倍晴明(あべのせいめい、921〜1005年)
|||
|北|・960
|宋|北宋(ほくそう、Bei-Song)建国(1127年に南へ移動)
|||
|||・1004年
|||遼と宋が和睦
|||
|||・1032〜1227年
|||西夏(せいか、Sihia,Xixia)
|||
|平|・1049年
|安|【劇】ドラえもん一行が浦島太郎を追って海底数千米の海底キ市へ
|||(「竜宮城の八日間」)
|||→ドラえもんたちの「元の時代」は1982年
|||→ただし、ドラえもんとセワシが野比家に初めて来た1970年新春から既に12年経過
|||
|||・1115〜1234年
|||金(きん、Jin)成立
|||
|||・1125年
|||遼滅ぶ→1132年に一族が中央アジアに逃れて西遼を設立
|||
|南|・1127年
|宋|宋が南に逃れて南宋(なんそう、Nan-Song)に(〜1279年)
|||
|||・1132年
|||遼の王族・耶律大石(やりつ-たいせき)がに中央アジアに
|||西遼(せいれう)=Qara Khitai 設立
|||
|平|・平安末〜鎌倉
|安|・1157〜1225年
|時|北條政子生没年
|代|【劇】「草燃える」
|末|
|期|・1176 武藏坊弁慶(辨慶)、五條の橋で義経と闘い敗れる
|||【劇】NHK「武蔵坊弁慶」、大河「義経」など
|||【劇】タイムボカンとガイコツメカの戦い(「牛若丸と弁慶の大決闘だペッチャ」)
|||【劇】諸星あたるが烏天狗に扮して牛若と京都見物に行き、
|||ラムが弁慶をけしかけて義経と勝負させる(「うる星やつら・父よあなたは強かった」)
|||
|壇|・1185年
|ノ|壇ノ浦合戦
|浦|幼い安徳天皇が二位の尼に抱かれて入水(じゅすい)
|合|【劇】海に沈んだ安徳帝は身代わり(大河「義経」)
|戦|義経が異父妹・能子(よしこ)こと廊の御方(らうのおんかた)と対面(大河「義経」)
|||
|||【傳説】敗れた武士たちの魂が蟹(かに)となって海を放浪
|||→【学説】現地の漁師たちが平家の霊を偲(しの)んで
|||武士の顔のような模様のあるの蟹を海に逃がし、
|||これが人為選擇となって平家蟹の甲羅(かふら)の模様が武士の顔のようになった
|||(Carl Sagan [kα:l seigan] 博士が『COSMOS』で述べた解釋→これには異論もある)
|||
|平|(・同じく1185年)
|安|源頼朝が守護・地頭を設置
|/|→この時を鎌倉時代の最初とする説もある
|鎌|
|倉|
|||
|義|・1189年
|経|義経、藤原泰衡(やすひら)に襲われ(衣川の戦い)、自害。弁慶の立ち往生
|の|
|最|【劇】義経が倒れ、弁慶が小屋から飛ぶ白馬を見る
|期|→知り合いの少女・うつぼが静御前に報告(大河「義経」)
|||
|||【劇】藤原泰衡が義経を逃がし、義経死亡説を流す(大河「炎=ほむら 立つ」)
|||
|||【劇】義経は助けられ、命の恩人はクラマの母(「うる星〜・父よ〜」)
|||
|||【傳説】義経は生き延びてモンゴル王に(「義経ヂンギスカン説」)
|||
|鎌|・1192年
|倉|頼朝が征夷大将軍に
|時|→私が義務教育を受けた当時、これが「鎌倉時代の始まり」と教わった
|代|
|||
|激|・1206年
|動|成吉思汗(ヂンギス・カン、チンギス・ハーン)が蒙古の各部族を統一
|の|→Genghis Khan,Chingis Khaan(Чингис Хаан)
|ユ|
|||・1211年
|ラ|西遼滅亡
|シ|
|ア|・1259年
|||高麗が蒙古に服從
|||→中国人は当時の高麗が元の属国だったと主張
|||→南北朝鮮人は反撥
|||→しかし、元代のシナ自体もモンゴルの植民地のようなもの
|||
|||・1264年
|||第5代の皇帝・忽必烈(フビライ)が首都を今の北京に遷都
|||→Kublai Khan,Khubilai Khaan(Хубилай Хаан)
|||
|元|・1271年
|||忽必烈が(シナにおける)国号を「元(ぐゑん、Yuan)」に改称
|||首都は大都(Dadu,Daidu)、モンゴル語で Khan Baliq (Khan の都)
|||http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/124100.htm
|||http://www3.plala.or.jp/red/04world/0432.htm
|||
|||・1274,1281年
|||蒙古襲来(文永・弘安の役)
|||【劇】大河「北条時宗」、アニメ「マルコ・ポーロ」
|||→日本では「支那と朝鮮による対日侵略」との見方もある
|||→「義経ヂンギス・カン説」はこれを「義経の末裔による
|||鎌倉幕府への復讐」と解釋したものか
|||
|||・1279
|||宋(そう、Song)滅亡
|||
|||南北朝〜室町時代
|||・1305年〜58年
|||足利尊氏生没年
|||【劇】「太平記」
|||
|||・1317年
|||浦島太郎が帰還(「ドラえもん・竜宮城の八日間」)
|||
|室|・1336
|町|室町幕府成立(〜1573年)
|時|
|代|・1338年
|||【劇】ドラえもん一行が「鬼が島」に渡り、オランダ人漂流者1名を「どこでもドア」で帰国させる
|||(「ぼく、桃太郎のなんなのさ」)
|||
|||・1368年
|||明(みん、Ming)建国(〜1644年)
|||元がシナを去って多倫諾爾(ドロンノール、Dolonnur)に遷都、北元となる
|||(→元は蒙古高原に存続し、明の滅亡後に清と合流)
|||
|||・1368〜94年
|||足利義滿将軍在職(1358年生〜1408年没)
|||
|||・1375年
|||【劇】明で高麗使節団が捉えられる(「MUSA/武士」)
|||
|朝|・1392年
|鮮|高麗が滅んで朝鮮王国成立(〜1897年)
|王|
|国|
|||
|室|・1394年〜1481年
|町|一休宗純生没年
|時|【劇】小僧の一休が頓智で活躍、義滿とも会う(「一休さん」)
|代|
|||
|フ|・1425年
|ラ|Jeanne d'Arc が初めて「声」を聞く→「天の声」か?
|ン|
|ス|・1425〜31年
|中|【劇】Jeanne d'Arc が魔界でデーモンによる裁判を受ける
|世|→デビルマンが現れてデーモンを退治し、Jeanne d'Arc を助ける
|終|(「新デビルマン・魔界のジャンヌ・ダルク」)
|期|
|||・1431年
|||Jeanne d'Arc 処刑される
|||

↓歴史・文学綜合年表

http://6302.teacup.com/hwangdongyang/bbs

 

忠臣藏については本当にここで一旦休憩にします  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)03時03分58秒
  Re:これはとんでもない間違いだ

いえ、間違いではありません。

>オウムの麻原と旧オウム信者は加害者と被害者の関係に立たない。

そうです。確かに両方とも加害者ですね。私は旧オウム信者を「被害者」だとは言っていません。

>加害者と被害者の関係に立つのは、オウムの麻原と彼によって殺された者などの被害者である。

そうです。だから「吉良(きら)邸討ち入り」は、現代に喩(たと)えて言えば、オウムの麻原が処刑されたあと、判決に不満を持つ旧オウム信者が原告のサリン被害者を夜中に襲撃して殺すようなものです。

オウムの麻原=加害者=浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)
旧オウム信者=加害者=赤穗(あこう)浪士
サリン被害者=被害者=吉良上野介(きら-こうずけのすけ)

>そして復讐が始まる。これを果たして非難できようか。

これには驚きました。
許可なき復讐は違法なので非難されて当然です。

>とにかく、過去のこと(江戸時代の世情、習慣など)を現在の基準で考えることはオカシイということだと思う。

私もそう思います。だからこそ、赤穗浪士の吉良邸「討ち入り」は間違いなのです。浅野や大石が切腹させられたのは当時の法・習慣で妥当ですし、また、敵討(かたきう)ちは江戸時代に認められていましたが、赤穗浪士の討ち入りは「敵討ち」に値しません。

もし、大石らが切腹する前に、吉良の縁者が「敵討ち」として大石を討っていたら、それは当時としては正当性があるので私も認めます。

また、反論は朝日新聞の投稿者か、『SAPIO』の内藤陽介氏に送るのが妥当かと存じます。

「これについての議論はひとまず打ち止めにします」と書いたつもりですので、今度こそ、これで休止にします。
 

これはとんでもない間違いだ  投稿者:解法者  投稿日:12月16日(土)01時33分5秒
  >赤穗(あこう)浪士が浅野の仇討(あだう)ちをするなら、浅野に切腹を命じた幕府を倒すべきでしょう。それが無理なら我慢すべきです。

三菱ふそう缺陷車の被害者も、会社関係者が無罪になったからといって、犯罪覚悟で自分たちで恨みを晴らそうとは考えません。
また、赤穗浪士の場合、缺陷自動車の事件のような被害者としての正当性もありません。
「吉良(きら)邸討ち入り」は、現代に喩(たと)えて言えば、オウムの麻原が処刑されたあと、判決に不満を持つ旧オウム信者が原告のサリン被害者を夜中に襲撃して殺すようなものです。<

 まず、オウムの麻原と旧オウム信者は加害者と被害者の関係に立たない。
 加害者と被害者の関係に立つのは、オウムの麻原と彼によって殺された者などの被害者である。
 次に、判決が間違っているとして国家を倒すと考える者はいない。その対象は加害者か
裁判官となろう。ただ、怒りは直接の加害者となろう。つまり、刑の均衡を失すると我慢できない者が現れる。そして復讐が始まる。これを果たして非難できようか。
 >赤穗浪士の場合、缺陷自動車の事件のような被害者としての正当性もありません<
 これは見解の相違だろう。

 とにかく、過去のこと(江戸時代の世情、習慣など)を現在の基準で考えることはオカシイということだと思う。
 

Re:忠臣蔵  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月16日(土)00時06分24秒
  SAPIO』2006年12/27・1/4合併号「脱『日本沈没』」で、郵便学者・内藤陽介氏の「世界の『英雄/テロリスト』裏切手大図鑑」という連載の「第4回 大石〔内蔵助(くらのすけ)〕」があります。

〔…〕は(…)内の假名(かな)が振り假名としてかかる漢字の範圍です。

非常にわかりやすいので、御一読をお勧めします。
 

忠臣蔵  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月15日(金)21時53分40秒
   この事件にはあまり詳しくないのですが、事件から300年を超えてもなお毎年毎年ドラマが作られ続けるのですから、凄いことですね。
 日本人の心をピタリととらえた古典であり事件だったのでしょう。
 今もテレビで毎年やっております。
 今年もテレビ東京で10時間ドラマでやるそうですが、どうやら新解釈らしい。
 こういうものは、新解釈とか史実はこうだったとかやられると、どうも面白くありません。
 講談や浪曲調が良いです。
 昨年テレ朝でやった忠臣蔵(ちゅうしんぐら)はなかなか良かったと思います。石原慎太郎も褒めていましたね。とくに隣の殿様が良かった! 涙が出ました。
 私は前に、大石内蔵助(おおいし-くらのすけ)の妻・大石リクの墓を拝みに行ったことがあります。
 ひっそりとしておりました。
 日本婦人の鑑(かがみ)だなあ・・・。
 物凄い長身の女性で、夫の内蔵助よりはるかに背が高かったらしい。
 

由緒(中国24正史などより)  投稿者:○投稿  投稿日:12月15日(金)17時57分11秒
  卑弥呼の邪馬台国が、三国魏の帯方太守劉夏の帯方郡役所に朝貢。

244年 三国魏の母丘倹(かんきゅうけん)将軍の遠征で、高句麗滅ぶ。
246年 三国魏の楽浪太守劉茂・帯方太守弓遵により、東夷の韓が滅ぶ。

266年 伊都(壱都)の邪馬台国が、三国魏の帯方郡役所に朝貢。

313年 楽浪太守張統が、前燕国(遼西龍城の鮮卑族−慕容氏)へ亡命し滅ぶ。
高句麗あらため高麗国の王子を代々に慕容氏の養子とし従属(慕韓・慕容氏の韓国)。

436年 北魏(鮮卑族−拓跋氏)の孝文帝の母、皇太后太氏の遠征で北燕国(遼西龍城)滅ぶ。
      高麗国丸都(高句麗の国内城)を焼き払い引き上げる。
475年 北魏の孝文帝の母、皇太后太氏の遠征軍が、百済(平壌〜沙里院・漢山〜熊津?)に侵攻する。

655年 渤海マッカツ族(渤海人と女真族と満州人の先祖)と百済と高麗が、新羅の北部30余城を占領。
663年 渤海マッカツ族が唐に寝返り、白村江で倭軍を破り、百済が滅ぶ。

> 白村江の戦い(倭国●−○渤海マッカツ族で帯方郡王の扶余隆・
>                       唐将の劉仁顔の水軍・陸軍)

927年 渤海マッカツ族が占領した蓋州(滅んだ新羅)を契丹(遼)が占領し辰州とする。
遼の聖宗が蓋州などの三韓族を強制移住させて除き、遼西の遊牧民や漢人を流入移住させる。

1119年 女真族(先祖がマッカツで、満州人の先祖)が高麗を制圧し全州静封県とする。高麗生日使−蕭子斉(金国・女真)。

蒙古族(元)が、全州を、蓋州路東京支郡建安県とし 権知高麗国事−李成桂を置く。

> 応永の外冦(対馬○−●権知高麗国事(太宗[王弟]=院政を敷く世宗王の父)が派兵、
>            三つの浦(3港)に制限公易・倭寇取り締まり約束で撤退)

明(明朝)が、権署朝鮮国事を置く。

清(満州王朝)が、朝鮮国王を置き、大同法(漢江流域以南徴税 (済州島は徴税できない))を施行する。朝鮮総理通商事−袁世凱(清朝)

日本が、日清戦争後に大韓皇帝を置く。朝鮮総督府の前身を置く。

アメリカが、太平洋戦争後に大韓民国大統領を置き、IMF指導下に置く。
 

南條範夫「実説・かたきうち考」  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月15日(金)16時48分31秒
  作家の南條範夫(なんでうのりを>なんじょうのりお)氏が平凡社「太陽コレクションかわら版新聞・江戸・明治三百事件I」(1978)巻末で「実説・かたきうち考」として赤穗(あこう)浪士の討ち入りを「敵討(かたきう)ちとして例外」としています。

南條氏によれば「第一に吉良上野助(きら-こうずけのすけ)は浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)を殺してはいない」、「逆に上野介の方が切りつけられて負傷している」ということです。

つまり「イジメ」はどうあれ、「刃傷(にんじょう)」に関しては浅野が加害者で吉良が被害者。

「討ち入り」は同じ被害者を赤穗の主が傷つけ、家臣が殺した二重犯罪で、当時の法で考えても「例外」どころか「敵討ち」そのものに値しません。

南條氏続けていわく「敵討ちの前提である公けの許可など貰えなかったのは当然であり」、そして赤穗浪士が切腹させられたのも「当然」であり、「忠義だから許してやれというのは単なる感情論にすぎず、そんな感情論に動かされていては法の秩序は保てないのであろう」(南條範夫氏)。

赤穗浪士が浅野の仇討(あだう)ちをするなら、浅野に切腹を命じた幕府を倒すべきでしょう。それが無理なら我慢すべきです。
三菱ふそう缺陷車の被害者も、会社関係者が無罪になったからといって、犯罪覚悟で自分たちで恨みを晴らそうとは考えません。
また、赤穗浪士の場合、缺陷自動車の事件のような被害者としての正当性もありません。
「吉良邸討ち入り」は、現代に喩えて言えば、オウムの麻原が処刑されたあと、判決に不満を持つ旧オウム信者が原告のサリン被害者を夜中に襲撃して殺すようなものです。辯解の余地のない逆恨みの大犯罪です、

これについての議論はひとまず打ち止めにします。

私の論旨は始皇帝、赤穗浪士などを例に挙げて、歴史の多様な見方を考えることです。

歴史、文学一般、空想歴史

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主旨は歴史観の多様性の尊重です  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月15日(金)16時14分41秒
  忠臣藏(ちゅうしんぐら)は論議の論旨でなく単なる例です。
大石擁護論を何度見聞きしてもやはり吉良(きら)が被害者で赤穗(あこう)が犯罪者ですね。

朝日新聞に投稿した翻譯業の人は、「武士をとして耐え難(がた)いイジメがあったとはいえ」と書いて「理由」を考慮に入れても浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)は卑怯で吉良上野介(きら-かうづけのすけ)は武士の鑑(かがみ)だと断じています。

「赤穂藩の『喧嘩(けんか<*くゑんくわ)両成敗』の要求はお門違(かどちが)いと言わなくてはならない」というのがその人の意見です。

その人は今75歳で、幼時からアメリカに住む経験が多く、外国人と話す中で、少年期はいい話と思っていた忠臣藏に疑問を持つようになったとのこと。

この意見への反論は朝日の投書欄にするといいでしょうし、賛否どうあれ反響が載るかも知れません。
最近、某週刊誌でも似た意見を見かけました。

赤穗浪士の行動は、今、いじめられて自殺した子供の親がイジメの加害者を殺すようなものです。
呉智英(くれ-ともふさ)氏は死刑を廃止して敵討ちを復活させろと主張しています。

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『卑弥呼と日本書紀350』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月15日(金)13時00分45秒
  [承前]

◆◆◆ 敏達(びたつ)天皇から持統天皇まで ◆◆◆

▽第三十代敏達天皇の御代(みよ)
 敏達天皇や蘇我系の炊屋姫(かしきやひめ)皇后(のちの推古天皇)の寵臣(ちょうしん)として大三輪逆君(おおみよのさかうのきみ)が活躍した。

▽第三十一代用明天皇の御代
 敏達天皇が崩御(ほうぎょ)されて次ぎの用明天皇が即位された直後、敏達天皇の皇后だった炊屋姫を穴穗部皇子(あなほべのみこ)がおかそうとしたが、敏達天皇の寵臣だった大三輪逆君が守った。
 逆君はその後皇子と物部守屋(もののべのもりや)らに追われて《三輪山》に一度は隠れたが、戻って殺された。この事件によって推古天皇は物部守屋を恨むようになったとされる。
 聖徳太子の時代の直前の混乱期におこった有名な事件である。

▽第三十五代皇極(こうぎょく)天皇の御代
 蘇我入鹿(そがのいるか)が斑鳩(いかるが)の山背大兄王(やましろのおおえのみこ/聖徳太子の御子)を不意打ちしたとき、三輪文屋君(みわのふみやのきみ)は大兄王にしたがって奮闘し、東国を拠点にして再起する作戦を授けたが、大兄王はきかずに斑鳩寺に戻って自決した。
 文屋君は自決にあたっての大兄王の言葉を、囲む武将たちに告げた。
 この天皇の御代に、百済(くだら)の人質の余豐(よほう)が《三輪山》でミツバチを飼おうとしたが成功しなかった――とある。
(余豐は、第七章の文末で言及した百済の王族である)
 また《三輪山》で猿が昼寝をしているのを見つけた人が腕を掴(つか)まえると、その猿が眠ったままで歌を詠(よ)んだという話が記されている。
《三輪山》の存在感が大きかったとこがわかる。

▽第三十六代孝徳天皇の御代
 孝徳天皇が百済の使者に述べた言葉として、かつて、任那(みまな)を百済の属領として与えたのち、三輪栗隈君東人(みわのくるくまのきみあずまひと)が任那国の境界を視察した――とある。時代は不明。
 三輪君甕穗(みわのきみ-みかほ)が改元の儀式に輿(こし)を持つ役目についた――とある。
 三輪君色夫(みわのきみ-しこぶ)が新羅(しらぎ)に派遣され、その折衝の結果として新羅王は人質を寄こしたとされる。有能な外交官だったことがわかる。またこの色夫は、法頭という仏教を統制する役職にもついている。

[つづく]
 

RE:赤穗浪士への批判  投稿者:解法者  投稿日:12月15日(金)11時43分31秒
   吉良上野介(きら-こうずけのすけ)は江戸城の秩序を乱した点では浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)と同罪で切腹が妥当。
 吉良上野介の切腹があれば、大石内藏助(おおいし-くらのすけ)らの行動はなかった。

 つまり、浅野内匠頭が吉良上野介に打ちかかったのは何からの理由があったはずであり、吉良上野介にのみお咎めなしというのは幕府の重大な手落ち。
 これに対して大石内藏助らの家臣が憤激するのは当然。
 むしろ、大石内藏助らが吉良上野介を放置することは当時の武士社会の仕来(しきた)りからして批判を免れなかったと考えらよう。

 さればこそ、武士の鑑(かがみ)として現在まで讃(たた)えられているのである。
 大石内藏助らの行動は「徒党を組んでの大量殺人」ではあるが、そう非難されるべきではない。
 大石内藏助らの処分(切腹)は過重である。

 現代でも、刑罰は均衡を失したら復讐を生む。
 誰が復讐を非難できようか。
 

「虚実歴史」でわかること  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月15日(金)05時13分57秒
  映画「英雄」を観て思ったのは、秦王が趙(てう、Zhao)を滅ぼしたのは趙から見れば侵略ですが秦から見れば「天下統一」という「大儀」で正当だという見方の違いがあるということです。

「侵略」を成功させて既成事実化すれば、その結果は「国家統一」として歴史に残ります。

今となっては「侵略」など、特定の国を批判するためか、賠償金をもらうための政治的宣傳用語に思えてきます。

假に日本が周辺の国を強引に併合しても、それを「日本による統一」と解釋し後世に傳えることも可能です。
今の日本が東アジアを「統一」すれば南北朝鮮と中台両岸の「非核化」も「和平統一」も実現します。

また、「西遊記」で釋迦が悟空を五行山に封じ込めていた500年間、猿に代わって人間たちが世を乱していたという話でしたが、実際の歴史や他の作品を合わせると、この「乱れた500年」とは漢滅亡から三国時代を経て、晋や南北朝、隋から唐へ王朝の盛衰が繰り返された時代でした。日本で言えば弥生時代から大和(やまと)時代にかけて、大和朝廷が日本を「統一」していた時期です。

そうなると今の我々が「三国志」としてなじんでいる時代は、「西遊記」の「取教の旅」を必要とする原因を作った戦乱と混迷の世に当たるわけです。

硫黄島の映画だけでなく、シナ戦国時代や三国時代も映画で描けば戦争映画であり、人々が多数殺され、悪逆非道が繰り返された時代なわけです。

歴史というものは、その過程が非道であっても、まるで英雄の活躍のように錯覚させてしまうもので、ある意味、「侵略」も「戦争」も「国家統一への道」などという理由で正当化してしまう非情な面があるわけです。

すると、歴史については多様な見方がどうしても必要で、「歴史認識の共有」などとんでもない全体主義です。

また、戦争に負けた国の「反省」は、「次にやるとき、勝つにはどうするか」というのが普通です。

玄奘が経を取る旅をした16年間(629〜645年)は、日本でいえば第1回遣唐使が派遣された西暦630年の前年(629年)から大化の改新(645年)までに当たります。

日本で真の佛教を学びなおそうとシナに使者を出していた時期、シナでも真の佛の教えがわからない人が多くなり、玄奘が天竺(てんじく)を目指していたのでしょう。

歴史、文学一般、空想歴史

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赤穗浪士への批判  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月15日(金)04時55分8秒
  昨日の朝日新聞(2006年12月14日付け)の読者投書欄で、アメリカに住んだことのある翻譯業の人が「忠臣藏(ちゅうしんぐら)」を批判しています。

この人の見方では浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は無抵抗な老人を追いかけて傷つけた「卑怯者」であり、対する吉良上野介(きらかうづけのすけ)は城内で規則を守って抵抗を控えた「武士の鑑(かがみ)」。

大石内藏助(おほいしくらのすけ)らの行動は「徒党を組んでの大量殺人」で、赤穗浪士(あかほらうし>あこうろうし)の討(う)ち入(い)りは「逆恨(さかうら)みの暴挙」だという解釋です。
私はこの人の意見に賛成です。
 

Re:由緒 増補ほか  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月15日(金)04時16分19秒
  「名無しさん」などと書いてあるから「2ちゃんねる」辺りのどうでもいい暇人(ひまじん)の落書きかと思ったら、この掲示板でした。

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1161474464&res=147

掲示板のタイプが「2ちゃん」と同じなのか、投稿者がその常連でこういう匿名を使うのか。
私はあの系統の「落書き」は無視します。
 

日・米・韓の戦争結果?  投稿者:○投稿  投稿日:12月14日(木)17時24分16秒
  白村江の戦い(倭国●−○渤海マッカツ族で帯方郡王の扶余隆・
                      唐将の劉仁顔の水軍・陸軍)

応永の外冦(対馬○−●権知高麗国事(太宗[王弟]=院政を敷く世宗王の父)が派兵、
           三つの浦(3港)に制限公易・倭寇取り締まり約束で撤退)

壬辰倭乱(日本−倭城を築き南部占領○−●明朝−漢城の北、碧蹄館の戦い)

丁酉倭乱(日本、撤退●−○明朝−1599〜1602年まで朝鮮全土を占領)

太平洋戦争(大日本帝国・
 皇軍朝鮮兵[韓国軍]●−○アメリカ軍・インド軍[イギリス東洋軍]・
             八路軍[中国共産党]・ソ連軍[88部隊−金日成])

---------------------------------------------------------------------------

国共内戦(中国共産党[八路軍]○−●国民党[蒋介石軍]・アメリカ・光復軍[韓国軍])

朝鮮戦争(中国[戦後撤退]・北朝鮮、
   韓国領の開城を領有○−●アメリカ[戦後駐留]・韓国ほか、戦争前より領土が微減)

ベトナム戦(ベトナム_ゲリラ○−●アメリカ・韓国)

イラク戦(イスラム_ゲリラ、戦闘継続○−●アメリカ・韓国、ほか撤退)
 

由緒 増補ほか  投稿者:○投稿  投稿日:12月14日(木)16時32分21秒
  ローマ教皇(バチカン・カトリック教会=西方教会)
 +
カイザー(ドイツ人の王で、神聖ローマ皇帝)
  西ローマ皇帝(神聖ローマ帝国の皇帝
         [ボヘミア(チェコ)を含む])
   +
  東フランク王国の王(ドイツの王[フランケン→オーストリア])
       +
      スペイン王(ハプスブルク継承時)
       +
      ハンガリー王(ハプスブルク継承時)ほか。
--------------------------------------------------------------------------------

147  名無しさん   2006/12/13(Wed) 21:05

朝鮮事情シャルル・ダレ神父
1850年ごろ対馬〜草梁島だけで交易の鎖国だった朝鮮

> 日本と朝鮮の行き来は許されず 朝鮮国王と
> 太閤サマの後に居る日本のクニのヌシ(対馬が従う日本の王)の
> 通行証のある者のみ富山浦(釜山港)沖の草梁島と対馬のワニ津を

中国(酋長[明朝]→帝[清朝]):
 明朝・清朝は、北京の南郊にある天壇で奉る
(満州は万里の長城入関以前は瀋陽で奉天する)
(大唐の玄宗は、山東半島の付け根の泰山で戴冠・
 春秋の周王朝は洛陽の南郊の天壇で祀る)
  +
 満州皇帝(元玉璽(蒙古の汗・熱河−承徳と
          西蔵−ラサのポタラ宮で奉天)163八年 ・
      明玉璽(中国天子・北京の紫禁城・
          南郊の天壇で奉天)1644年。)
--------------------------------------------------------------------------------

148  名無しさん   2006/12/14(Thu) 16:15

朝鮮(国事[明朝]→王[清朝]):
 朝鮮国王(李朝−仁祖王)
(三田渡の受降陣(受降壇)で、満州族の清朝太宗ホンタイジから三跪九叩頭礼で
 王位を受ける・それまでは
 権署朝鮮国事(明朝・王弟(李朝−太宗)・王世子(李朝−世宗))。その前は
 権知高麗国事(元−蒙古・李成桂(李朝−太祖)・蓋州路東京支郡建安県)。
 高麗生日使(金−女真・蕭子斉・全州・静封県・熊岳県)・
 南女真湯河司(遼−契丹・盧州・湯池県)・東京統軍司留守(遼・聖宗の頃・辰州)・
 渤海郡王(大震国−渤海・杉盧郡漢陽県・蓋州)・帯方州刺史(唐)・
 帯方郡王(隋・唐、渤海マッカツ族−扶余敬)・
 加羅国王(南斉・名を「荷智」と呼ぶ・百済王−余牟大)
 帯方太守(後漢・三国魏・西晋、臣智=東夷韓の酋長・扶余王−尉仇台)。)

日本(国王[足利・豊臣] → 国主[徳川])
 日本の最高位は「王」ですらなく「ヌシ」と呼び捨て。
ただし。中国は皇帝を「主」呼びなので、「別の天朝」を戴いているとも
解釈できる。明朝は「明主」と呼び、
北魏の頃は「魏主」、女真の金の場合は「金主」と
中国「(北朝)皇帝」に対するものを「主」と称している。
臣下の礼の国は「従」と呼ぶ。金主・南宋従(宋と金の主従関係)。
 

『卑弥呼と日本書紀349』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月14日(木)14時25分6秒
  [承前]

◆◆◆ 崇神(すじん)天皇から雄略天皇まで ◆◆◆

▽第十代崇神天皇の御代
 大和(やまと)朝廷の意向をうけての初代《大神(おおみわ)神社》宮司である大田田根子(おおたたねこ)は、三輪君(みやのきみ)の祖であると記されている。

▽第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代(みよ)
 新羅(しらぎ)の王子である天日槍(あめのひほこ)が帰化したとき、三輪君の先祖の一人である大伴主(おおともぬし)が天皇の使いとして話し合いを持ったとされる。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると大伴主は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の第十一世の孫で、崇神天皇から大神君(おおみわのきみ)という名を賜(たまわ)ったとある。

▽第十四代仲哀天皇(神功(じんぐう)皇后)の御代
 仲哀天皇崩御(ほうぎょ)のとき、〈神功皇后〉の命令をうけて大三輪大伴主君が四大重臣の一人として宮中を守った。
 他の重臣は中臣(なかとみ)、物部(もののべ)、大伴(おおとも)だから、三輪は大伴や物部と同列の重臣として〈神功皇后〉に従っていたことになる。

▽第二十一代雄略天皇の御代
 即位前紀に、御馬皇子(みまのみこ)が三輪君身狹(みむさ)と親しかったので相談しようと出かけたが途中で伏兵にあい、《三輪山》の近くで処刑されたとある。
 雄略天皇七年に、
「《三輪山》の神の姿を見たい、捕(と)らえてまいれ」
 ――と力自慢の使者を派遣した。
 使者は大蛇(おろち)をとらえて来たが、その大蛇は雷鳴をとどろかせ、目を爛々(らんらん)と輝かせたので、天皇は怖(おそ)れて、その大蛇を逃がし、名を雷(いかづち)とした、とある。
 勇猛をもって知られる雄略天皇でさえ、《三輪山》の信仰には勝てなかったことを暗示する伝説であるが、同時に、天皇が「神を捕らえよ」という命令を出していることも興味深い。崇神天皇の施政方針でわかるように、天皇は人と神の両方を治めていたのだ(*)。
 そのような経緯があったためか、十四年には、呉の国から到来した衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)が《大神神社》に奉(たてまつ)られたとある。
 高度な技術を持った帰化人が三輪一族に与えられた――と考えられる。

(*:神に対する古代日本人の姿勢を示す面白い話が『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』にある。夜刀という神と住人との軋轢(あつれき)の物語である)

[つづく]
 

訂正(「西遊記」と佛教に関する歴史・傳説・物語)  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月13日(水)21時45分9秒
  失礼しました。訂正です。

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【劇】花果山(くわくわざん、Huoguoshan)で孫悟空誕生

【劇】花果山(くわくわざん、Huaguoshan)で孫悟空誕生


拘束されていた悟空は土地神から食べ物として鉄球、「飲み物として銅の煮汁を与えられた

拘束されていた悟空は土地神から食べ物として鉄球、飲み物として銅の煮汁を与えられた

“飲み物”の前の“「”は不要です。


>→【世・支】中国の一部の辞書で「高句驪(Gaogouli)」はただの「古国名(Gu guomig)」となっており、

>→【世・支】中国の一部の辞書で「高句驪(Gaogouli)」はただの「古国名(Gu guoming)」となっており、


「西遊記」自体はもちろん、明(みん、Ming)の呉承恩(Wu Cheng'en)の作品と言われています。
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「西遊記(さいゆうき、Xiyouji)」を中心にした虚実歴史年表

|||
|紀|・紀元前5世紀前後
|元|【世】釋迦如来在世
|前|→入滅後、「西遊記」などで紀元後に復活、または佛か
|||
|||・紀元前3世紀頃
|||【世】印度の Asoka(「アショカ」)王が佛教を保護
|||→Asoka は厳密には Aśoka(s の上に符号)と綴る
|||
|||・紀元前221年
|||【世・支】秦(しん、Qin)がシナを統一
|||
|||・紀元前108年
|||【世・朝】古朝鮮滅亡(韓国の歴史教科書より)
|||
|||・紀元前27年
|||【世・欧】ローマ、帝政始まる
|||
|紀|・25年
|元|【世・支】後漢(東漢=Dong Han)建国
|後|→後漢(ごかん)と別に五代十国時代の後漢(こうかん、Hou Han)もある
|||
|後|・1〜2世紀
|漢|【世・支】漢に佛教傳来
|‖|
|東|・105年
|漢|【世・支】蔡倫(さいりん、Cai Lun)が製紙法を完成
|||
|||
|弥|・115年頃?
|生|【日・神話、劇】日本に八岐大蛇(やまたのをろち)出現
|中|【日・神話】日本武尊(やまとたけるのみこと)が窮地で草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を使用
|期|
|||
|?|・太古〜130年頃まで
|||「【劇】花果山(くわくわざん、Huaguoshan)で孫悟空誕生
|||→悟空は天界で不老長寿となる桃を食べ(家来の猿たちにも与えたか?)、大暴れ(「西遊記」)
|||【劇】天帝に仕(つか)える捲簾大将(くゑんれんたいしゃう)と天蓬元帥(てんぽうぐゑんすい)が悟空と対立
|||→両者は悟空が起こした騒ぎの中で天界から地上へ追放され、
|||これが後(のち)の沙悟浄と猪八戒(日本TV1978年放送、堺正章主演版「西遊記」)
|||
|後|・130年頃(129年かその前後)
|漢|【劇】佛陀(Buddha)・釋迦(Sakya)が孫悟空を五行山(ごぎゃうざん)に拘束
|||→孫悟空は500年の拘禁刑
|||
|||→悟空が三蔵と逢った西暦629年から500年さかのぼると拘束開始は西暦129年だが、
|||最初の年を勘定に入れた場合は西暦130年から
|||→拘束されていた悟空は土地神から食べ物として鉄球、飲み物として銅の煮汁を与えられた
|||→日テレ堺版では土地神は3年おきに来ていたようで、
|||悟空が三蔵と逢った西暦629年が最後なので、
|||逆算するとこの「食事」の初回は西暦131年、
|||あるいは拘束時間が501年だったとすれば西暦128年が最初になる
|||
|||→そしてこの約500年間、悟空に代わって人間たちが世を乱す(「西遊記」)
|||
|||・後漢(東漢)末期
|||【世・支、劇】張飛(ちゃうひ、Zhang Fei)、関羽(くわんう、Guan Yu)、
|||劉備(りうび、Liubei)が出逢い、
|||桃園で義兄弟の契りを結ぶ(「三国志」)
|||
|||・2〜3世紀
|||【世】インドで般若心経(はんにゃしんぎゃう)成立?
|||
|||→現存する最古のサンスクリット本は法隆寺所蔵の8世紀後半、
|||傳承では609年請来の写本とされる貝葉本(ばいえふぼん)らしい(Wikipediaより)
|||→貝葉=貝多羅葉(ばいたらえふ)とは梵語 pattra=「木の葉」
|||→上古のインドで、針で彫りつけて経文を書き、
|||紙の代わりに用いた多羅樹(タラジュ、椰子=ヤシ科の常緑高木)の葉
|||
|||→般若心経の最初の漢譯は3世紀に中央アジア出身の
|||支謙(しけん、現代北京語音Zhi Jian)がおこなったとされているが、現存しない(Wikipediaより)
|||
|シ|・220年
|ナ|【世・支】後漢滅亡、魏(ぐゐ、現代音Wei)が成立(〜265年)
|三|・221年
|国|【世・支】蜀(しょく、現代音Shu)が成立(〜263年)
|時|・222年
|代|【世・支】呉(ご、現代音Wu)が成立(〜280年)
|||【劇】「三国志」
|晋|・228年
|||【世・支】晋(しん、Jin)の建国
|||
|朝|・372年
|鮮|【世・朝】高句麗(かうくり、Koguryeo)に佛教傳来
|三|→高句麗は南滿洲と北朝鮮を支配した
|国|→【世・支】中国の一部の辞書で「高句驪(Gaogouli)」はただの「古国名(Gu guoming)」となっており、
|時|「朝鮮の王朝」とは看做(みな)されていない(という解釋がある)
|代|
|||・384年
|||【世・朝】百濟(くだら、Paekche)に佛教傳来
|||(韓国の歴史教科書より)
|||
|||・402〜413年
|||【世】鳩摩羅什(くまらじふ、くもらじふ、Kumaara-Jiiva)が
|||『摩訶般若波羅蜜大明咒經(まかはんにゃはらみつだいみゃうしゅきゃう)』を漢譯
|||→般若心経の漢譯で現存する物ではこれが最古(Wikipediaより)
|||→玄奘がインドに赴く際に携帯した般若心経は、これではないかという説もある(Wikipediaより)
|||
|||・527年
|||【世・朝】新羅(しらぎ、Shilla)が佛教を公認(韓国の教科書より)
|||
|シ|・538年
|ナ|または 552年
|南|【日】宣化(せんくわ)天皇3年または欽明天皇13年、
|北|百濟の聖王(せいわう、Seong-Wang)から
|朝|釋迦佛金銅像などが献上される(「日本書紀」)
|||Wikipedia「飛鳥時代」
|||
|隋|・581年
|||【世・支】隋(ずい、Sui)建国(〜619年)
|||→589年にシナを統一
|||
|||・587年
|||【日】蘇我・物部の戦い
|||
|飛|・593年
|鳥|【日】推古天皇即位
|時|→厩戸皇子(うまやどのわうじ)=聖コ太子が攝政
|代|【劇】「日出処の天子」(太子が攝政になるまで)
|||
|||・607〜8年
|||【日】小野妹子が遣隋使として隋に渡る
|||→「日出處天子致書日沒處天子無恙云云
|||(日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙(つつが)なきや)」
|||という国書で煬帝(やうだい、Yangdi)激怒
|||
|隋|・618年
|/|【世・支】唐(たう、Tang)建国(〜907年)
|唐|→都は長安(ちゃうあん、Chang'an)
|||
|唐|・619年
|代|【世・支】唐が隋を滅ぼす
|||
|玄|・629年
|奘|【世・支】太宗(たいそう、Taizong)皇帝3年
|取|
|経|【劇】人間・釋迦が没してから約1000年経過
|の|天竺(てんぢく)の佛陀・釋迦が「人々が争い、世は乱れている」と嘆き、
|旅|三蔵真経(さんざうしんぎゃう)を取りに来る僧を探すため、
|||天竺から観世音菩薩(くわんぜおんぼさつ)を派遣
|||→天竺とは黄泉(よみ)の国、極楽のことか?
|||
|||→菩薩と惠岸(ゑがん)は後の沙悟浄と猪八戒、龍、悟空と遭遇、
|||長安で玄奘(ぐゑんじゃう、げん〜、Xuanzhuang)と遭遇(「西遊記」)
|||
|||【世・支、劇】玄奘が長安を出發
|||→玄奘がインドに赴(おもむ)く際に携帯した般若心経は上記『摩訶般若波羅蜜大明咒經』か(Wikipediaより)
|||【劇】孫悟空、龍(白馬)、猪悟能(八戒)、沙悟浄が玄奘の弟子になる
|||→フジTV、香取慎吾主演版では順序が逆で白馬なし
|||
|||→玄奘が烏巣禅師(うさうぜんじ)から般若心経(はんにゃしんぎゃう)を受け取る(「西遊記」)
|||
|||→猪八戒と沙悟浄も500年以上生きていたらしい(日本TV1978年放送「西遊記」)
|||→日テレ版では一時破門された悟空が花果山に帰ると、
|||家来だった猿たちも悟空を覚えており、彼等も500年生きた?
|||
|||菩薩の旅程
|||天竺→流沙河→八戒のいた岩場か山中?→龍がいた谷川の上空?→五行山→長安
|||
|||玄奘の旅程
|||天竺←(火焔山等←女人国等)←流沙河←高老庄←龍がいた谷川←五行山←長安
|||
|||・630年
|||【日】第1回遣唐使派遣
|||【劇】玄奘一行、火焔山(くわえんざん、Huoyanshan)附近に到達(「のび太のパラレル西遊記」)
|||
|玄|・645年
|奘|【世・支、劇】玄奘帰国(「西遊記」)
|帰|【劇】釋迦がさらわれ、三蔵の持ち帰った経が失効(フジTV版「西遊記」)
|国|【日】大化の改新
|||
|||・646年
|||【世・支】「大唐西域記(だいたうさいゐきき、Da Tang Xiyuji)」完成
|||【日】改新の詔(みことのり)
|||
|||・649年
|||【世・支】この年、玄奘が「般若心経」を漢譯したと言われる
|||
|||・660年
|||【朝】百濟滅亡
|||
|||・663年
|||【日・世】白村江(はくすきのえ、はくそんかう)の戦い
|||→白村江は朝鮮半島の錦江(Keumgang)河口附近とされる
|||日本・百濟連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる
|||→唐と新羅は交戦状態になり日本の軍事援助を求め度々来訪
|||(遠山美都男『白村江』)
|||【劇】百濟王一族の兵士・ハリマが日本で狗族と逢う(手塚治虫「火の鳥・太陽編」)
|||
|||・668年
|||【朝】高句麗滅亡
|||
|||・676年
|||【朝】新羅が三国を統一
|||→韓国の教科書ではこの年に新羅が三国を統一したことになっている
|||→百濟と高句麗が滅んだ後も色々あったらしい
|||
|||・698年
|||【世】渤海(ぼっかい、Bohai,Pal-hae)建国(〜926年)
|||→【朝】韓国ではこれを「韓国史」に入れている(高句麗人が作った国だという根据か)
|||→中国人は渤海を「中国史」に入れるであろう
|||→滿洲史はトゥングース史、モンゴル史、トルコ史など、ユーラシア史
|||の中で扱うのが妥当
|||
|奈|・710年
|良|【日】平城京に遷都
|||
|||・753年
|||【日】鑑真(がんじん、現代音 Jianzhen)来日
|||【劇】「天平の甍(てんぴゃう>てんぴょうのいらか)
|||
 

『卑弥呼と日本書紀348』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月13日(水)12時28分53秒
  [承前]

 前にもすこし触れたが、この《三輪山》周辺の人たちとの融和策は、崇神(すじん)天皇の前から見られる。
 すなわち初代の神武(じんむ)天皇の皇后も三輪山麓の狭井(さい)川で生まれた姫だし、以後第二代から第七代まで、いずれも磯城(しき)地方の姫を皇后にしている。
 八代・九代は〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫を皇后にしたが、第十代の崇神天皇になってまた磯城の系列の姫を皇后にしている。
 崇神天皇の皇后は孝元天皇の孫にあたるので、〈饒速日命〉の子孫の物部系の血をひくと同時に《三輪山》を中心とする磯城地方の豪族の血をもひいている。
 これは大和(やまと)朝廷が、〈饒速日命〉一族と三輪一族の両方を自分たちの血縁に入れ込んで融和し、《大和》の盟主としての座を安泰にしようとした婚姻政策の明瞭なあらわれである。

 問題の〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉も、こういう婚姻政策のなかから誕生した貴人であり、したがって大和朝廷や饒速日系の一員であると同時に、三輪一族の血縁でもあったのだ。
 一方出雲(いずも)一族については、こういう種類の婚姻政策はとれず、その本拠である出雲地方とのいざこざが続いて苦労したらしいが、出雲に巨大神社を建立(こんりゅう)する以外にも、《三輪山》の神が出雲と関係しているという神話をつくりだしたり、《大和(おおやまと)神社》の神を出雲の神の荒魂(あらみたま)としたりして、融和をはかった形跡が明白である。
 これについては後述する。

 三輪周辺の皇宮は、どこまでを三輪周辺とするかによって数が違ってくるが、歩いてすぐの場所のみをとっても、第十〜十二代の崇神・垂仁(すいにん)・景行(けいこう)をはじめとして、十二もある。
 図8.1を参照して、10、11、12、17、21、22、25、26、29、31、32および第十四代皇后〈神功(じんぐう)皇后〉である。

図8.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

 第十五代應神天皇の初期もたぶん〈神功皇后〉と同じであった。
 これら以外でも、たとえば初代の神武天皇の橿原(かしはら)の宮などもハイキング・コース程度の距離であり、周辺といえなくもない。

 つぎに、大和朝廷に従って功績をあげた三輪一族の著名人を、『日本書紀(やまとのふみ)』に従ってあげておこう。
 ただし、以下の人々が太古から《三輪山》の山麓に住んでいた人々とどのような関係にあったかは分からない。
 とりあえず三輪と呼ばれた要人たちをピックアップしたものである。

[つづく]
 

「西遊記」と佛教に関する歴史・傳説・物語  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月12日(火)18時56分38秒
  「西遊記(さいゆうき、Xiyouji)」を中心にした虚実歴史年表

【世】;世界史
【世・支】;支那の歴史、支那における歴史観
【世・朝】;朝鮮の歴史、朝鮮における歴史観
【日】;日本史
【劇】;架空の文学作品などで描く歴史(史実と一致する物も一部あり)
漢字の音読みは「終戦」前の傳統的な表記の方が同音語の辧別やシナ語音、朝鮮語音との関係を見る上で便利です。

「玄奘(Xuanzhuang)」の日本語音の傳統的表記は、国語辞典で「げんじやう」ですが藤堂明保(とうだう>とうどうあきやす)氏の漢和字典では「玄」を「ぐゑん」と解釋しています。北京語音 xuan が圓唇(ゑんしん)で始まるので納得できます。
前の投稿では「げんじゃう」を書きましたが、ここでは「ぐゑんじゃう」も併記します。もちろん、現代慣用表記では「げんじょう」です。
拗音の「や」、「ゆ」、「よ」は小さくした方が「宗(しゅう)」と「雌雄(しゆう)」の区別ができます。

「隋(Sui)」や「瑞(rui)」などについて藤堂氏は「ずゐ」のように「ウ段+い」を「+ゐ」と解釋していますが、ここでは慣用に從い「ずい」にしました。
この辺は統一性に欠けますので、今後、検討するつもりです。

前の投稿で「發展」と「発明」で繁簡混在になりました。
勿論、「發」と「発」で違いはありません。
「摩訶般若波羅蜜大明咒經(まかはんにゃはらみつだいみゃうしゅきゃう)」は Wikipedia で「經」なのでそのまま写しましたが、「般若心経(はんにゃしんぎゃう)」の「経」と同じです。

|||
|紀|・紀元前5世紀前後
|元|【世】釋迦如来在世
|前|→入滅後、「西遊記」などで紀元後に復活、または佛か
|||
|||・紀元前3世紀頃
|||【世】印度の Asoka(「アショカ」)王が佛教を保護
|||→Asoka は厳密には Aśoka(s の上に符号)と綴る
|||
|||・紀元前221年
|||【世・支】秦(しん、Qin)がシナを統一
|||
|||・紀元前108年
|||【世・朝】古朝鮮滅亡(韓国の歴史教科書より)
|||
|||・紀元前27年
|||【世・欧】ローマ、帝政始まる
|||
|紀|・25年
|元|【世・支】後漢(東漢=Dong Han)建国
|後|→後漢(ごかん)と別に五代十国時代の後漢(こうかん、Hou Han)もある
|||
|後|・1〜2世紀
|漢|【世・支】漢に佛教傳来
|‖|
|東|・105年
|漢|【世・支】蔡倫(さいりん、Cai Lun)が製紙法を完成
|||
|||
|弥|・115年頃?
|生|【日・神話、劇】日本に八岐大蛇(やまたのをろち)出現
|中|【日・神話】日本武尊(やまとたけるのみこと)が窮地で草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を使用
|期|
|||
|?|・太古〜130年頃まで
|||【劇】花果山(くわくわざん、Huoguoshan)で孫悟空誕生
|||→悟空は天界で不老長寿となる桃を食べ(家来の猿たちにも与えたか?)、大暴れ(「西遊記」)
|||【劇】天帝に仕える捲簾大将(くゑんれんたいしゃう)と天蓬元帥(てんぽうぐゑんすい)が悟空と対立
|||→両者は悟空が起こした騒ぎの中で天界から地上へ追放され、
|||これが後(のち)の沙悟浄と猪八戒(日本TV1978年放送、堺正章主演版「西遊記」)
|||
|後|・130年頃(129年かその前後)
|漢|【劇】佛陀(Buddha)・釋迦(Sakya)が孫悟空を五行山(ごぎゃうざん)に拘束
|||→孫悟空は500年の拘禁刑
|||
|||→悟空が三蔵と逢った西暦629年から500年さかのぼると拘束開始は西暦129年だが、
|||最初の年を勘定に入れた場合は西暦130年から
|||→拘束されていた悟空は土地神から食べ物として鉄球、「飲み物として銅の煮汁を与えられた
|||→日テレ堺版では土地神は3年おきに来ていたようで、
|||悟空が三蔵と逢った西暦629年が最後なので、
|||逆算するとこの「食事」の初回は西暦131年、
|||あるいは拘束時間が501年だったとすれば西暦128年が最初になる
|||
|||→そしてこの約500年間、悟空に代わって人間たちが世を乱す(「西遊記」)
|||
|||・後漢(東漢)末期
|||【世・支、劇】張飛(ちゃうひ、Zhang Fei)、関羽(くわんう、Guan Yu)、
|||劉備(りうび、Liubei)が出逢い、
|||桃園で義兄弟の契りを結ぶ(「三国志」)
|||
|||・2〜3世紀
|||【世】インドで般若心経成立?
|||
|||→現存する最古のサンスクリット本は法隆寺所蔵の8世紀後半、
|||傳承では609年請来の写本とされる貝葉本(ばいえふぼん)らしい(Wikipediaより)
|||→貝葉=貝多羅葉(ばいたらえふ)とは梵語 pattra=「木の葉」
|||→上古のインドで、針で彫りつけて経文を書き、
|||紙の代わりに用いた多羅樹(タラジュ、椰子=ヤシ科の常緑高木)の葉
|||
|||→般若心経の最初の漢譯は3世紀に中央アジア出身の
|||支謙(しけん、現代北京語音Zhi Jian)がおこなったとされているが、現存しない(Wikipediaより)
|||
|シ|・220年
|ナ|【世・支】後漢滅亡、魏(ぐゐ、現代音Wei)が成立(〜265年)
|三|・221年
|国|【世・支】蜀(しょく、現代音Shu)が成立(〜263年)
|時|・222年
|代|【世・支】呉(ご、現代音Wu)が成立(〜280年)
|||【劇】「三国志」
|晋|・228年
|||【世・支】晋(しん、Jin)の建国
|||
|朝|・372年
|鮮|【世・朝】高句麗(かうくり、Koguryeo)に佛教傳来
|三|→高句麗は南滿洲と北朝鮮を支配した
|国|→【世・支】中国の一部の辞書で「高句驪(Gaogouli)」はただの「古国名(Gu guomig)」となっており、
|時|「朝鮮の王朝」とは看做(みな)されていない(という解釋がある)
|代|
|||・384年
|||【世・朝】百濟(くだら、Paekche)に佛教傳来
|||(韓国の歴史教科書より)
|||
|||・402〜413年
|||【世】鳩摩羅什(くまらじふ、くもらじふ、Kumaara-Jiiva)が
|||『摩訶般若波羅蜜大明咒經』を漢譯
|||→般若心経の漢譯で現存する物ではこれが最古(Wikipediaより)
|||→玄奘がインドに赴く際に携帯した般若心経は、これではないかという説もある(Wikipediaより)
|||
|||・527年
|||【世・朝】新羅(しらぎ、Shilla)が佛教を公認(韓国の教科書より)
|||
|シ|・538年
|ナ|または 552年
|南|【日】宣化(せんくわ)天皇3年または欽明天皇13年、
|北|百濟の聖王(せいわう、Seong-Wang)から
|朝|釋迦佛金銅像などが献上される(「日本書紀」)
|||Wikipedia「飛鳥時代」
|||
|隋|・581年
|||【世・支】隋(ずい、Sui)建国(〜619年)
|||→589年にシナを統一
|||
|||・587年
|||【日】蘇我・物部の戦い
|||
|飛|・593年
|鳥|【日】推古天皇即位
|時|→厩戸皇子(うまやどのわうじ)=聖コ太子が攝政
|代|【劇】「日出処の天子」(太子が攝政になるまで)
|||
|||・607〜8年
|||【日】小野妹子が遣隋使として隋に渡る
|||→「日出處天子致書日沒處天子無恙云云
|||(日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙(つつが)なきや)」
|||という国書で煬帝(やうだい、Yangdi)激怒
|||
|隋|・618年
|/|【世・支】唐(たう、Tang)建国(〜907年)
|唐|→都は長安(ちゃうあん、Chang'an)
|||
|唐|・619年
|代|【世・支】唐が隋を滅ぼす
|||
|玄|・629年
|奘|【世・支】太宗(たいそう、Taizong)皇帝3年
|取|
|経|【劇】人間・釋迦が没してから約1000年経過
|の|天竺(てんぢく)の佛陀・釋迦が「人々が争い、世は乱れている」と嘆き、
|旅|三蔵真経(さんざうしんぎゃう)を取りに来る僧を探すため、
|||天竺から観世音菩薩(くわんぜおんぼさつ)を派遣
|||→天竺とは黄泉(よみ)の国、極楽のことか?
|||
|||→菩薩と惠岸(ゑがん)は後の沙悟浄と猪八戒、龍、悟空と遭遇、
|||長安で玄奘(ぐゑんじゃう、げん〜、Xuanzhuang)と遭遇(「西遊記」)
|||
|||【世・支、劇】玄奘が長安を出發
|||→玄奘がインドに赴(おもむ)く際に携帯した般若心経は上記『摩訶般若波羅蜜大明咒經』か(Wikipediaより)
|||【劇】孫悟空、龍(白馬)、猪悟能(八戒)、沙悟浄が玄奘の弟子になる
|||→フジTV、香取慎吾主演版では順序が逆で白馬なし
|||
|||→玄奘が烏巣禅師(うさうぜんじ)から般若心経を受け取る(「西遊記」)
|||
|||→猪八戒と沙悟浄も500年以上生きていたらしい(日本TV1978年放送「西遊記」)
|||→日テレ版では一時破門された悟空が花果山に帰ると、
|||家来だった猿たちも悟空を覚えており、彼等も500年生きた?
|||
|||菩薩の旅程
|||天竺→流沙河→八戒のいた岩場か山中?→龍がいた谷川の上空?→五行山→長安
|||
|||玄奘の旅程
|||天竺←(火焔山等←女人国等)←流沙河←高老庄←龍がいた谷川←五行山←長安
|||
|||・630年
|||【日】第1回遣唐使派遣
|||【劇】玄奘一行、火焔山(くわえんざん、Huoyanshan)附近に到達(「のび太のパラレル西遊記」)
|||
|玄|・645年
|奘|【世・支、劇】玄奘帰国(「西遊記」)
|帰|【劇】釋迦がさらわれ、三蔵の持ち帰った経が失効(フジTV版「西遊記」)
|国|【日】大化の改新
|||
|||・646年
|||【世・支】「大唐西域記(だいたうさいゐきき、Da Tang Xiyuji)」完成
|||【日】改新の詔(みことのり)
|||
|||・649年
|||【世・支】この年、玄奘が「般若心経」を漢譯したと言われる
|||
|||・660年
|||【朝】百濟滅亡
|||
|||・663年
|||【日・世】白村江(はくすきのえ、はくそんかう)の戦い
|||→白村江は朝鮮半島の錦江(Keumgang)河口附近とされる
|||日本・百濟連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる
|||→唐と新羅は交戦状態になり日本の軍事援助を求め度々来訪
|||(遠山美都男『白村江』)
|||【劇】百濟王一族の兵士・ハリマが日本で狗族と逢う(手塚治虫「火の鳥・太陽編」)
|||
|||・668年
|||【朝】高句麗滅亡
|||
|||・676年
|||【朝】新羅が三国を統一
|||→韓国の教科書ではこの年に新羅が三国を統一したことになっている
|||→百濟と高句麗が滅んだ後も色々あったらしい
|||
|||・698年
|||【世】渤海(ぼっかい、Bohai,Pal-hae)建国(〜926年)
|||→【朝】韓国ではこれを「韓国史」に入れている(高句麗人が作った国だという根据か)
|||→中国人は渤海を「中国史」に入れるであろう
|||→滿洲史はトゥングース史、モンゴル史、トルコ史など、ユーラシア史
|||の中で扱うのが妥当
|||
|奈|・710年
|良|【日】平城京に遷都
|||
|||・753年
|||【日】鑑真(がんじん、現代音 Jianzhen)来日
|||【劇】「天平の甍(てんぴゃう>てんぴょうのいらか)
|||

歴史、文学一般、空想歴史

http://6302.teacup.com/hwangdongyang/bbs

 

由緒  投稿者:ロシアとドイツ  投稿日:12月12日(火)17時43分32秒
  > 題名: 『歴史にIF・選択肢』
> [天皇家は]存続すれば言いは男子家系の存続に於いてです
>

存続すれば言いは、男子家系に於いて、神道によって、です。
仏教に改宗とか、キリスト教に改宗というのが
[天皇家に]基本的に無かった。

仏教の
法要に参加する。[聖徳太子・後醍醐天皇が自ら密教加持祈祷を修するとか]
キリスト教の
ヘボン[英和翻訳・医学博士]やニコライ[大主教]を表彰する。は、
あるのです。

--------------------------------------------------------------------------------
天皇家に政治責任を負わせない。

天皇家の存続と、政治的な責任を負う為に
[天皇家の]一族皆殺しでは洒落にならないのです。

天皇家の政治不介入は
日本国(国籍という[警察や自衛軍隊で防護する]政治)が
どんな罰や被害を受けるであれ
大和民族(地縁血縁の同じ風習の生活集団)という
種[族]にあっては
[どの階層であっても]男子家系が、消えて
もらっては困るのです。

モスクワ総主教(コンスタンチノープル総主教
        =ビザンツ第二ローマ総主教・東方正教会)
 +
ツアー(ロシア皇帝)
  東ローマ皇帝(ビザンツ王冠・
    キエフ公−ウラジミール・モスクワ大公−イワン3世)
   +
  モンゴルの領主(遊牧民の首領さま・
  キプチャク−ハン[オゴタイ−ハンの首領継承])

ローマ教皇(バチカン・カトリック教会=西方教会)
 +
カイザー(ドイツ人の王で、神聖ローマ皇帝)
  西ローマ皇帝(神聖ローマ帝国の皇帝)
   +
  東フランク王国の王(ドイツの王[フランケン])
       +
      スペイン王(ハプスブルク継承時)

朝鮮事情シャルル・ダレ神父1850年ごろ
草梁島だけ交易の鎖国だった

> 日本と朝鮮の行き来は許されず 朝鮮国王と
> 対馬が従う日本の王
(太閤さま の後に居る日本のクニのヌシ)の

中国(酋長→帝):
 満州皇帝(元玉璽(蒙古の汗)163八年 ・
      明玉璽(中国天子)1644年)

朝鮮(国事→王):
 朝鮮国王(三田渡の受降陣(受降壇)での
 三跪九叩頭礼で王位を受ける・
それまでは
 権知朝鮮国事。)

日本(王[足利] → 国主[徳川])
 日本の最高位は「王」ですらなく「ヌシ」と呼び捨て。
 

『卑弥呼と日本書紀347』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月12日(火)11時56分5秒
  ■■■■■ 八・六 《三輪山》と《大神(おおみわ)神社》3 ――『記紀』にみる三輪一族の人々―― ■■■■■


◆◆◆ 三輪山麓の人々 ◆◆◆

 三輪山麓に住み着いて《三輪山》を守り、《大神神社》を祭祀(さいし)してきた人たちの多くは、『古事記(ふることふみ)』や『日本書紀(やまとのふみ)』で三輪を名乗っており、三輪一族と呼ばれている。
《三輪山》は古代の地名では磯城(しき)地方の一角をなしているので、磯城の豪族の一つでもある。
 かれらの先祖は、どこからか移ってきたのではなく、おそらくは縄文から弥生にかけて、この山麓に棲んでいた一群ではないか――といわれている。
 この土地の人々である三輪一族に、さらに、神武(じんむ)天皇より前に高天原(たかまのはら)から天降(あまくだ)ったとされる――たぶん九州から東征したと想像される――〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫や出雲(いずも)一族が加わって《三輪山》の信仰を形成していた可能性もあるが、詳細はわからない。

 三輪一族の由来については、多くの伝承があり、今となっては何が本当かの詮索は困難であろう。
 しかし、生物学的な血統よりも大切なことがある。
 それは、当時の三輪の人たちが何を誇りにしていたか――である。
 これについては、古代史料にかなり記されている。

 桓武(かんむ)天皇〜嵯峨天皇のご意向で編纂されたと言われる『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では「三輪」には「神(みわ)」の字が当てられているが、その解説によると、三輪一族は出雲神族で、大國主神(おおくにぬしのかみ)の五世孫の大田田根子(おおたたねこ)を祖とするとされる。
 出雲の国譲(くにゆず)りののち、その子孫の中でもっとも栄えた一族として知られた。
《三輪山》の〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉を信仰するが、〈大物主神〉は大國主神の和魂(にぎみたま)ともされるので矛盾は無い。
 のち、朝廷に仕えた功績で大三輪と呼ばれるようになり、奈良時代になると《大神神社》と同じ大神という表記になったらしい。
 読みは同じである。

〈饒速日命〉の子孫と信じる物部(もののべ)一族は《石上(いそのかみ)神宮》という豪壮な総氏神(うじがみ)を、朝廷の許可のもとに、近くに持つにいたったし、現出雲の地の出雲一族は先祖神である〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉――すなわち〈大國主神〉――を奉祀(ほうし)する巨大な出雲大社を出雲の地に建立(こんりゅう)してもらったし、奈良盆地の先住者たちは土地の神を祀(まつ)る《大和(やまと)神社》を得た。

 だから、それでも不満で《三輪山》の神〈大物主神〉の奉斎を主張した崇神(すじん)天皇時代の三輪一族の中心は、やはり〈饒速日命〉以前から《三輪山》山麓に住み《三輪山》を敬っていた人たちであったのだろう。
 この三輪一族と出雲との関係については、学者の間でも多くの意見がある。
 これらは第八・七節でまとめてみる。

 神武天皇の子孫で大和朝廷の実質的な創始者とされる崇神天皇がこの山麓に進出して都をきずいたとき、天皇が信仰する〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉に対して、彼ら三輪一族が《三輪山》の信仰によって対抗し、それに対する融和政策が、『日本書紀』に記されている、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の神託による〈大物主神〉祭祀の朝廷による実現だったのかもしれない。

 この《三輪山》の神の名である〈大物主神〉は、縄文弥生時代からのものではなく、〈倭迹迹日百襲姫命〉が名づけたのだという説もある。
 たしかに『日本書紀』の記述はそのようにも読める。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀346』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月11日(月)11時13分30秒
  [承前]

 最後の危機は、大東亜戦争の終結時に来た。歴代の危機のうちで、これがもっとも深刻だったといわれている。
 なにしろ相手は、神道の意味が理解できないキリスト教国の軍隊で、日本人が勇敢なのは神社のためだと思っていたのだ。
 進駐軍の方針で、神社の力を弱めるための方策がつぎつぎに打ち出され、《三輪山》全体が国有地になってしまった。
 またこの時代には、付近の貴重な古墳が進駐軍のブルドーザーで壊されて倉庫やトイレなどに改造され、出てきた土器や鏡の類がゴミとして捨てられるという事態も頻出した。
 しかしこのときも《三輪山》は、神社関係者の命を賭(と)した運動によって、結局は神社に戻り、かろうじてことなきをえた。

 終戦時には、たとえば熱田(あつた)神宮などでも、門外不出の「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」――「三種の神器(みくさのかむたから/さんしゅのじんぎ)」の一つ――をあえて極秘の場所(岐阜県)に遷すなど、必死の努力がなされている。

**********

 こういう危機の記録を読んでいると、ずいぶんおかしくされたとはいえ、占領軍がアメリカだったからまだ良かった――という気持ちにもなる。
 もし大陸・半島などほかの近隣国に占領されていたとしたら、とてもこんな事ではすまず、日本の文化遺産は根こそぎ壊されていたであろう。
 自国であっても前の時代の王の遺物を徹底的に壊す国――シナ王朝など前王の墳墓まであばいて捨てるという話がある――が多かったのだから・・・。

**********

 話は横道にそれるが、靖国神社についての議論をテレビなどで見ていると、神社や神道への崇敬の念がおそろしいまでに欠落したコメンテイターやキャスターがほとんどであることがわかる。
 日本の神社(神道)はあらあゆる宗教を超越して縄文弥生時代から連綿としてつづく日本人の習俗であり文化的伝統であって、憲法二十条などとは本来無縁のものである。
 二万年の歴史をもつ日本独自の心とあやしげな新宗教とを同じ法律で扱っていったいどうしようというのだろう・・・。

 終戦時につぐ神社の危機――つまりは日本の伝統文化の危機――が、いままさに迫っているのかもしれない。
 文化国家の名が泣いている。

[次ぎは「第八・六節 《三輪山》と《大神神社》3 ――『記紀』にみる三輪一族の人々――」]
 

日本誕生に関する歴史・傳説・物語  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月10日(日)15時41分31秒
  日本史→【日】
世界史→【世】
支那独自の歴史観→【支】
朝鮮独自の歴史観→【朝】
(→あくまで彼等が主張する歴史観で、神話、傳説、俗説も含む)
フィクション(架空の物語)の中の歴史→【劇】
(→漫画や時代劇、SFまで含む)

|||
|旧|・7万年前
|石|【劇】シナ大陸のヒカリ族が
|器|日本列島に渡って日本人の祖先になる
|時|(藤子・F・不二雄「ドラえもん、のび太の日本誕生」)
|代|・6〜7万年前?
|||【日】「明石原人」
|||(化石の附近にこの時代の木器があったらしい)
|||http://www.edi.akashi.hyogo.jp/bunpaku/standing_ex/01_akebono.html
|||
|夏|【支】三皇五帝(さんくわうごてい)時代
|王|→五帝最初の王は黄帝(くわうてい、Huangdi)
|朝|→蒼頡(倉頡、さうけつ、さうきつ、Cang Jie)が漢字を發明
|以|【朝】韓国で「漢字は韓国人の發明」との意見あり
|前|→中国人は反撥
|||【朝】檀君の古朝鮮が朝鮮全土と南滿洲を支配(紀元前2333年)
|||→中国では恐らく採用せず
|||
|夏|・紀元前2070年頃〜紀元前1600年頃)
|||【世】夏(か、*ha>Xia)
|||
|神|・紀元前660年〜紀元前585年
|武|【日】神武天皇在位
|||
|春|・紀元前5世紀前後
|秋|・前552〜前479
|時|【世】孔子(こうし、Kongzi,Confucius)生存
|代|→生地は魯(ろ、Lu)の陬邑(すういふ、Zouyi)
|||=山東省(Shandong-sheng)曲阜(きょくふ、Qufu)
|||【朝】→「曲阜は古代韓国領」という根据で「孔子は韓国人」との説
|||→中国人は反撥
|||
|紀|・前560年〜前480年
|元|または前463年〜前383年等異説あり
|前|【世】釋迦牟尼(Śākya-muni)=Gautama Siddhārtha 在世
|五|(前560年または前463年? 4/8 釋迦誕生、灌佛会=くわんぶつゑ)
|世|(前480年または前383年? 2/15 釋迦没、80歳)
|紀|(→遅くとも後漢=東漢時代までに復活し、孫悟空を封じ込める)
|前|
|後|
|||
|シ|・前222年
|ナ|【世】秦が趙(てう、Zhao)を滅ぼす
|戦|【劇】書道の学校にも大量の矢が襲う
|国|→国を奪われた者たちが秦王へ復讐を謀るが「天下統一」の大儀に前に断念
|時|→「劔(劍、劒、剱、剣、釼)」の字体19種に1つ加わって20種になる
|代|→秦王「余が六国(りっこく)を滅ぼして外に打って出るときは、
|末|無駄な字体を廃止して天下の言語を統一してみせる」
|期|→最後に刺客「無名(現代音Wuming)」が秦王暗殺を試みるが、
|↓|やはり断念し、処刑される(「HERO/英雄・Yingxiong」)
|秦|・前221年
|||【世】秦王がシナを統一し、始皇帝(しくわうてい、Shi Huangdi)を名乗る
|||
|後|・105年
|漢|【世】後漢(東漢)時代。蔡倫(さいりん、Cai Lun)が製紙法を完成
|‖|(→【支】6世紀の隋・唐で木版と墨らしきものによる印刷が發展)
|東|(→【支】11世紀宋代に畢昇=ひつしょう・Bisheng が陶製=たうせい活字を発明)
|漢|(→【朝】高麗=かうらい・Koryeo で12世紀末〜13世紀初めに金属活字)
|||(→中国人と韓国人はどちらも「世界の活字の発明国は我が国」と主張)
|||(→【支】16世紀に明=みん・Ming で金属活字)
|||
|弥|・115年頃?
|生|【日】八岐大蛇(やまたのをろち)出現
|時|→神話では須佐之男命(すさのをのみこと)が退治、
|代|→尾から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出る
|半|【劇】ドラえもんと野比のび太が八岐大蛇を回収(「タイムマシンがなくなった!!」)
|ば|【劇】映画「日本誕生」
|||→主役は三船敏郎扮する日本武尊(やまとたけるのみこと)
|||【日】日本武尊が窮地で草薙の剣を使用
|||
|?|(・太古、時代不詳)
|||【劇】孫悟空が天界を荒らしまわる(「西遊記」)
|||↓
|||・130年頃まで
|||【劇】天帝が釋迦(Śākya)に救援を依頼(道教と佛教の世界が混合)
|||→人間・釋迦が没してから500〜600年経過
|||→釋迦はすでに佛陀(Buddha)となっている
|||
|後|・130年頃
|漢|【劇】孫悟空が佛陀・釋迦の掌(手の平)から出られず、
|‖|五行山(ごぎゃうざん)に拘束される
|東|(→孫悟空は500年の拘禁刑)
|漢|(→その間、人間界は漢滅亡→三国→晋→南北朝→隋→唐という乱世)
|||(→悟空は西暦629年に唐の僧侶・玄奘=げんじゃう・Xuanzhuang によって
|||救出され、弟子となる)
|||
|||(・181年)
|||(【日・八木壮司の説】神武天皇即位)
|||

「釋迦」の梵語名 Śākya,及び本名の後半 Siddhārtha の字上符つきローマ字は、編輯(へんしふ)メニューでは面倒な記号になるので、今後は Sakya,Siddhartha にします。

↓歴史・文学一般・空想歴史

http://6302.teacup.com/hwangdongyang/bbs

 

『卑弥呼と日本書紀345』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月10日(日)13時05分52秒
  [承前]

〔六〕終戦時にあった《三輪山》最大の危機

 以上述べてきたように、《三輪山》はそのすべてが立ち入りを許さない絶対的な聖域であり、それは古来厳重に守られてきたが、もちろん危機もあった。
 日本の神社史や寺院史で有名な危機は、信長〜秀吉〜家康にいたる略奪と検地である。
 略奪はとくに信長において顕著で、《石上(いそのかみ)神宮》がその被害にあって、古代史の謎を解くであろう神宝を多く失ったことは第七章に記したが、多くの社寺が同様な被害にあった。

 朝廷の宝物を保存した正倉院(しょうそういん)なども、信長らによって過半が失われ、現在残されいるのはかつての三分の一にすぎないともいわれている。
 信長が光秀に討たれたのは危機感をつのらせた寺社関係者たちによる計画だったとの説もある。
 秀吉の代になってからは、有名な検地がなされ、社寺も例外ではなく、多くの社領が失われた。この検地は徳川になっても続けられ、《石上神宮》の社領のほとんどが失われた話はすでに述べた。

 しかし幸いなことに、この《大神(おおみわ)神社》には、さすがの信長も秀吉も家康も手出しができず、被害はほとんど無かった。
 他の神社のような宝庫がなく物としての宝物がなかったことも幸いしたのかもしれない。
 豐臣の検地帳にも徳川の検地帳にも、「除地三輪明神山」と記録されているそうである。
 秀吉などは逆に、神社を維持するための所領を寄贈したほどである。
 このような、検地における例外的な処置は、《伊勢神宮》も同じであった。つまり《大神神社》は、《伊勢神宮》と同格の扱いを受けていたことになる。

 その次ぎの危機は明治四年の上地令だったが、嘆願につとめた結果、除地となって助かっている。
 ただし神職の長である大宮司などは明治政府の命令で国から派遣されたため伝統がくずれたし、また社寺分離の嵐で、国宝級の社殿が崩壊したりはした。国宝十一面観音像の移動などもこのときに起きた。

[つづく]
 

京・青蓮院門跡にて  投稿者:竹下義朗  投稿日:12月 9日(土)17時22分37秒
  小鳥遊(たかなし)の 松を愛(め)でつゝ 涌き出(い)ずる

     池の水音(みずね)に 時暫(しば)し忘るゝ

            京都東山 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)にて詠(よ)
 

日本に未来はあるのか  投稿者:山猿  投稿日:12月 9日(土)16時09分58秒
   私は大いに反省する。
日本民族の未来がない事を 天皇陛下をはじめ
先祖にも 謝らねばなるまい
現在の日本に 未来は見えない 一部の
財界 経営人に またもや日本を危険な道筋に
誘い込まれそうな 今の若者のような 礼節を
持ち得ない 若者が今後 経営や ましてや国政に
携わるならば ライブドアのような結末に
なってしまう 安倍にしてもまったく貫禄負けで
そんな輩を 選んでしまう財界や 自民党は
もはや 日本を破滅の道に追いやるような気がしてならない。
 

>アメリカって、ああいうものまで売り買いするのですね。  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 9日(土)12時16分16秒
  John Lennon(ジョン=レノン)や  Hepburn(ヘップバーン)の遺品など、賣買に出さず公共の博物館で保管した方がいいと思います。
製紙会社の偉い人が Renoir(ルノワール)や Gogh(ゴッホ)の絵を買いあさり、「私が死んだら絵も焼いて欲しい」と言ったとか。

しかし、地方の役所が預かった絵を捨てた例もあり、結局、保管する人の倫理次第ですね。

歴史・文学綜合年表

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訂正  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 9日(土)12時09分56秒
  東條英機(とうでうひせき)(とうでうひでき)は長崎に原爆が落ちた1945年8月9日に死を決意した。

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書き直し

東條英機の選擇肢

東條英機(とうでうひでき)は長崎に原爆が落ちた1945年8月9日に死を決意した。
「終戰」の8/15にむすめ婿(むこ)がピストルで心臟を撃(う)ち拔いている。
しかし、東條は敗戰と共に自決しなかったので批判を浴びた。

戰爭を大喜びで煽(あお)った日本人のほとんどが8/15を機に「もう戰爭は終わった、天皇や東條ら軍部のせいだ」などと責任を人に押し付けてやり直しに邁進(まいしん)していたとき、東京裁判が戰爭の繼讀であることを知っていたのは東條だけだった。

東條は、むすめ婿と同じ銃、方法で自決を圖(はか)った。
頭を撃てば確實に死ねたが、無樣(ぶざま)な死に樣(ざま)を家族に見せたくなかったのだろう。
左利(き)きだったため僅(わず)かにそれて失敗。
むすめ婿の銃が舊式で反動が大きかった。
また、東條の心臟の位置がずれていた。
アメリカの醫師團(いしだん)が高度な醫療(いれう)技術で助けてしまい、東條に輸血するためのアメリカ兵がトラックで運ばれ列をなしていた。

東條は思いもよらず自決に失敗して「狂言自殺」だと罵倒された。

東條の美意識としても、敗戰の責任者が無罪を主張するのは恥さらしだと思っただろう。

しかし、辯護士の清瀬一郎は「貴方(東條英機)は日本人に對しては有罪です。しかし、聯合國(れんがふこく)に對して日本國は無罪です。だから貴方だけは有罪と認めてもらいたくない。法廷で闘うためには無罪と言ってもらわなくてはならない」と説得。東條はここで始めてこの裁判の意味に氣づく。

東條は少し手も日本に有利になるように、自國の戰いの正當性を後世に傳えるように、敵國檢事側との論戰をやり拔いた。

朝日新聞は社説で日本の開戰に觸れ、「狂氣が國を滅ぼした」と言う。日頃、「國より個人」と言っておきながら、朝日がこれほど「國」を大事にする新聞だったのだろうか。朝日新聞の國粹主義が見え隠れする。商賣で讀者にこびているので、どの時點でもあらゆる問題で讀者の最大公約數的な意見にこびる朝日新聞は、以前の「フジ三太カ」と似ているかも知れない。
 

『卑弥呼と日本書紀344』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 9日(土)11時53分58秒
  [承前]

〔五〕他の聖山との類似性

《三輪山》のような円錐形の山容が縄文以来の古代人に崇敬されてきたことは前記したが、その好例として、神奈川県の大山をあげることができる。
 この山の山頂および山腹には、《三輪山》と同じく山そのものをご神体とする大山阿夫利(あふり)神社があって、古くから関東一円の信仰を集めてきた。
 相模国(さがみのくに/神奈川県)の一ノ宮は寒川(さむかわ)神社、二ノ宮は川勾神社でともに祭りで有名だが、阿夫利神社はそういった神社系列には属さない独自性をもっていて、関東総鎮守ともされ、規模も参拝者数も一ノ宮を凌駕している。

 江戸時代の「大山講」をつくっての「大山詣」は、「お伊勢参り」につぐ江戸庶民の楽しみで、多くの記録が残されている。
 この大山が大和(やまと)朝廷に正式に認められたのはやはり崇神(すじん)天皇の御代(みよ)らしく、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻になった木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)の父親である大山祇神(おおやまつみのかみ/伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子)とされているが、山そのものへの信仰は崇神朝よりずっと古いことがわかっている。
 江戸時代の調査で山頂に祭祀(さいし)用の磐座(いわくら)が発見され、さらに戦後の発掘調査によって縄文土器が見つかり、その磐座での祭祀が遠く縄文後期にまでさかのぼることがわかったのだ!

 このように、緑豊かで秀麗な山容そのものを「神」として崇める日本の習俗は、古く縄文時代からつづいている神社(神道)の源流なのである。
 だから《三輪山》の場合も、もし発掘調査をすれば、その信仰の発祥が縄文にあるとわかる可能性がつよい。
 崇神天皇七年の記述は、あくまでも、大和朝廷としての祭祀であり、社殿の建築様式の確立であったと考えられる。

 なお大山も《三輪山》と同じく山頂での雨乞(あまご)いが古くからなされている。
 麓(ふもと)に豊富な水を恵んでくれる山への感謝の気持が、円錐形の山容への崇敬理由だったのであろう。
 阿夫利神社の阿夫利とは雨降(あめふ)りのことだと言われている。

[つづく]
 

Re:東條英機の選擇肢  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 9日(土)11時46分33秒
  私の知人は、東條さんが自決を図ったときのピストルを、GHQの将校から買い取って持っています。保証書つきだそうです。
アメリカって、ああいうものまで売り買いするのですね。
 

「真実」を名乗る「歴史」こそ疑わしい  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 9日(土)11時39分38秒
  歴史について語る人は「これが歴史の真実だ」という宣傳文句を使うが、そういう歴史がもっとも疑わしい。まず、特定の国や思想を批判する尺度で語っているのが見え見えだったりする。

朝鮮人の歴史観など「孔子は韓国人」、「漢字と針灸治療は韓国の発明」などと、從来の常識からいってデタラメなものが多く、しかもそういうデタラメを言う人に限って「他者が歴史を捻(ね)じ曲げた」と言う。

歴史というものはどう真実を追求しても限界があるし、政治宣傳に利用され偏(かたよ)ってしまう。歴史資料の信憑性も絶対ではないから百家争鳴、諸説紛紛は避けられない。そこで、開き直って、明らかに虚構と分かる文学作品、つまり、小説、映画、ドラマ、はては漫画に至るまで、人間が作り上げた虚実の歴史を全て合わせて考える方がいいと思う。

今後、いくらか例を挙げて見る。

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英語圏の人間は歴史でも国際情勢でも英譯されたものしか理解できないのでしょうか。自分で外語を学んで資料の原文に当たる人は少ないのでしょうか。アングロサクソンが時々、世界戦略を間違うのは、英語経由で情報を仕入れているせいもあるでしょう。

「小学校から英語」論も結局、日本人が英語経由で世界を知ることになり、アメリカと他国の戦争でもホワイトハウスの大本営発表を真(ま)に受ける人間を量産する結果になります。

それに日本の英語宣傳は、英語以外の外語学習を意図的に避けており、また、例えば逆にイギリス人に日本語を勉強してもらうような、多元化や公平さを妨害する傾向があるので、問題があります。

そもそもイギリス人は世界で一番語学ができない人たちかも知れません。英国でも日本でも、語学下手(べた)、つまり外語ができない人たちがいるから翻譯という商賣が成立しているわけです。
 

東條英機の選擇肢  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 9日(土)11時18分51秒
  東條英機(とうでうひでき)は長崎に原爆が落ちた1945年8月9日に死を決意した。
「終戰」の8/15にむすめ婿(むこ)がピストルで心臟を撃(う)ち拔いている。
しかし、東條は敗戰と共に自決しなかったので批判を浴びた。

戰爭を大喜びで煽(あお)った日本人のほとんどが8/15を機に「もう戰爭は終わった、天皇や東條ら軍部のせいだ」などと責任を人に押し付けてやり直しに邁進(まいしん)していたとき、東京裁判が戰爭の繼讀であることを知っていたのは東條だけだった。

東條は、むすめ婿と同じ銃、方法で自決を圖(はか)った。
頭を撃てば確實に死ねたが、無樣(ぶざま)な死に樣(ざま)を家族に見せたくなかったのだろう。
左利(き)きだったため僅(わず)かにそれて失敗。
むすめ婿の銃が舊式で反動が大きかった。
また、東條の心臟の位置がずれていた。
アメリカの醫師團(いしだん)が高度な醫療(いれう)技術で助けてしまい、東條に輸血するためのアメリカ兵がトラックで運ばれ列をなしていた。

東條は思いもよらず自決に失敗して「狂言自殺」だと罵倒された。

東條の美意識としても、敗戰の責任者が無罪を主張するのは恥さらしだと思っただろう。

しかし、辯護士の清瀬一郎は「貴方(東條英機)は日本人に對しては有罪です。しかし、聯合國(れんがふこく)に對して日本國は無罪です。だから貴方だけは有罪と認めてもらいたくない。法廷で闘うためには無罪と言ってもらわなくてはならない」と説得。東條はここで始めてこの裁判の意味に氣づく。

東條は少し手も日本に有利になるように、自國の戰いの正當性を後世に傳えるように、敵國檢事側との論戰をやり拔いた。

朝日新聞は社説で日本の開戰に觸(ふ)れ、「狂氣が國を滅ぼした」と言う。日頃、「國より個人」と言っておきながら、朝日がこれほど「國」を大事にする新聞だったのだろうか。朝日新聞の國粹主義が見え隠れする。商賣で讀者にこびているので、どの時點でもあらゆる問題で讀者の最大公約數的な意見にこびる朝日新聞は、以前の「フジ三太カ」と似ているかも知れない。
 

それと。。。  投稿者:○投稿  投稿日:12月 9日(土)11時17分35秒
  1636−三8年(満州が朝鮮を降伏させる・ 島原の乱)
1600−16三8年 朱印状貿易
16三8−1798?年 出島で東南アジア華僑が
 オランダ東インド会社経由で 貿易を独占
1798?−1868年 オランダ領インド
(インドネシア)と華僑が 琉球へアメリカが開港要求
 薩摩へイギリスが開港要求 松前へロシアがアイヌ領土要求
 対馬へ朝鮮が鏡言いがかり事件
ナポレオンによる 民法・商法・刑法と フランス革命の民主議会を広める
大陸封鎖[イギリス攻撃]・大陸遠征[ロシア攻撃]の騒動

朝鮮出兵の後に 日本では朝鮮人を 皆ゴロしにしています。
朝鮮で 日本人を皆ゴロしにした情報が 中国の明朝から入ったから。
寺請け制度の宗門改め・ 隣組五人組の制度で
朝鮮人の生きる余地は ありませんでした。
日蓮宗 (正統:天台宗葉上派→禅宗)・千葉山田・岡山美作の不受不施派・池上本門騒動
浄土真宗 (正統:天台宗横川派→浄土宗)・カヤカベ教(薩摩の真宗の事)の弾圧
キリシタン (正統:仏教−真言宗)・島原の乱としたために
 国外追放か 対馬に朝鮮防ぎで人柱(日蓮僧侶の遺体を対馬に
蒙古襲来防ぎと称して法華経とともに埋める)か といった、既存宗派による
和尚や僧侶による住民管理で 明治新政府の鎮守の神社と役所を
兼ね備えた幕藩制度が できていたから。
朝鮮の血筋を日本国内で 絶やすために、
七代の子孫まで村八分の集落(村娘を拉致し集団レイプするカッパ村)で
日本人習慣[に従う事]と 儒教を捨て肉食禁止の仏教の儀式に染め
[それに]従わない日本に帰化しない 朝鮮女性を水に沈め(大名が連れ帰った朝鮮女の事)
朝鮮男性は皆シ刑で
大名の従軍慰安婦の朝鮮女性 ようは大奥の妾に朝鮮女性(大名・有馬の朝鮮妾の死刑)は
腹に朝鮮のチの日本男子を なさないよう
中国からの[要求たる]日本と朝鮮は 徳川と明朝(戦犯小西の処刑と大阪の陣)で
隔絶の極東で 中華秩序の 恒久平和の条約に、したがい
朝鮮人を殲滅(せんめつ)し ました。

富山浦(釜山)沖の 草梁島の倭館と 対馬のワニ港?の間しか
日本と朝鮮の行き来は許されず 朝鮮国王と
対馬が従う日本の王(太閤さま
の後に居る日本のクニのヌシ)の
手形(許可状)のない者を
日本と朝鮮の双方で、有無なく シ刑にしていました。【朝鮮事情 シャルル・ダレ神父】

そういう条約による鎖国体制が 明治新政府の
1973年 富山浦開市 (釜山開港)まで していた のです。【朝鮮国東莱城の開市】

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1161474464&rm=100
 

歴史にIF・選択肢  投稿者:○投稿  投稿日:12月 8日(金)19時05分28秒
  [天皇家は]存続すれば言いは男子家系の存続に於いてです

存続すれば言いは、男子家系に於いて、神道によって、です。
仏教に改宗とか、キリスト教に改宗というのが
[天皇家に]基本的に無かった。

仏教の法要に参加する。
キリスト教のヘボンやニコライを表彰する。は
あるのです。

--------------------------------------------------------------------------------
天皇家に政治責任を負わせない。

天皇家の存続と、政治的な責任を負う為に
[天皇家の]一族皆殺しでは洒落にならないのです。

天皇家の政治不介入は
日本国(国籍という政治)がどんな罰や被害を受けるであれ
大和民族(地縁血縁の同じ風習の生活集団)という種にあっては
男子家系が消えてもらっては困るのです。

東条英機は、統制派
軍閥をして天皇に責任をなすりつけ
死にたくなく逃げ回り、責任を押し付け
天皇は死んでも
東条英機は生き残りたい。

だから
連盟脱退した松岡や石原莞爾の言う
満州・樺太[アイヌ]・千島[アイヌ]・北朝鮮を攻めた
「ソ連」をドイツと挟み撃ちで、ではなく
東條が、アメリカと戦争をしたくて
東條の自分の決定であるが、英米派の昭和天皇の許可とか言って
天皇のせいにし
僕のせいでない。という、あーゆー奴が出ると
天皇家の存続が危ないのです。


中国の孔子の家系が存続し
満州のアイシンギョロの家系が
存続するように
存続すればいいのであって
孔子でなくとも
劉(漢)や李(唐)や趙(宋)や朱(明)が皇帝で[あっても]
[その時期の]大臣達が『政治的責任』を負うのであって
孔家[や皇帝家]は[血統として]存続して言いのです。

それと同じように
天家(天皇家、「隋書」でいう姓阿毎
姓名は天(あめ)で)存続があればということ。

日本は、朝鮮を併合するのではなく
独立国として修好遣米使節を勤めた[のであり]
西学禁止や排除の朝鮮で
英語を勉強した
李完用伯爵に朝鮮王とか大韓皇帝に
日本としては即位して欲しく
連邦でありたかったのに
朝鮮側(大韓側)が拒否したのです。

男子系(傍系)であればいいのではなく
朝鮮儒教的に男子直系以外認めない。で
あったのです。
 

『卑弥呼と日本書紀343』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 8日(金)11時51分36秒
  [承前]

〔四〕神の宿る山名の由来

《三輪山》という山名の由来であるが、これは糸が三巻(三輪)残ったといった前記の伝承などのほかに、美和からきたなど、いろいろな説があって定かではない。
『記紀』でも万葉集(まんにょうしゅう)でも、いろいろな呼び方がされていて、「神奈備(かんなび)の三諸山(みもろやま)」とも「御諸山(みもろやま)」ともいわれる。
 神奈備(神名備)とは神が鎮座する山や森という意味で、主に円錐形の山につかわれ、神が鎮座する場所という意味の御室(みむろ)にも通じる。
 御室はまた三室とも書かれ、転じて御諸、三諸になったとされる。

「神奈備の三諸山」とは、だから、貴い神の宿る山――といった意味だが、《三輪山》は最古の神奈備であり三諸なので、この言葉が《三輪山》を指すようにもなった。
 だから三輪は、三室や三諸に関係して書かれるようになった文字なのかもしれない。輪は大和(やまと)や倭にも通じている。
 一方神酒(みき)や神酒を入れる甕(みか)も「みわ」と読むが、《三輪山》は御神酒の本家でもある。

 山腹には、禁足地を中心にして数多くの巨石があり、そこで弥生〜古墳時代に祭祀(さいし)がなされた痕跡がある。つまり多数の巨石を次々に斎場としていたのだ。
 これは神武(じんむ)天皇紀に記されているのと同様な山腹での古代祭祀の遺跡と考えられているが、神社ではそれを神座の具体的な形として三つに分けている。
 山裾の辺津磐座(へついわくら)、中腹の中津磐座(なかついわくら)、山頂の奥津磐座(おきついわくら)の三座である。これらについてはまた後述する。

[つづく]
 

兵頭氏朝生核武装論・訂正  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 7日(木)23時39分47秒
  http://323.teacup.com/yoshiro/bbs?OF=40&BD=5&CH=5(前5頁)
http://ojhec.web.fc2.com/bbs/log_200611.html(過去ログ2006年11月)
戦争放棄は条約か国際法でないと無意味  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:11月30日(木)23時18分30秒

>97年に朝生で兵頭二十八(ひょうどう-にそはち)氏が日本核武装案を言っていました。

こう書きましたが、兵頭(ひゃうどう>ひょうどう)氏が朝生で「核武装」を提案したのは1996年の8月でした。

1996年8月23日深夜放送
「激論!沖縄の怒りと日米安保 第2弾」
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/video/9608/panels9608.html
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/video/9608/pro9608.html

この時期、兵頭氏は『SAPIO』などで核武装論を発表。
Wikipediaで調べたところ、氏は97年に銀河出版から『ヤーボー丼――いかにして私たちはくよくよするのを止(や)め、核ミサイルを持つか』を出版。
2004年に並木書房から『ニッポン核武装再論――日本が国家としてサバイバルする唯一の道』を出しています。
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RE:週刊金曜日

>主権回復の会などの抗議に対して週刊金曜日が詫びた

それは初耳です。示談(じだん)で済ませるつもりでしょうか? 本多勝一が簡単に折れるとは思えません。
 

『卑弥呼と日本書紀342』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 7日(木)12時31分27秒
  [承前]

〔三〕大和(やまと)湖を囲む皇宮と祭祀(さいし)遺物

 その一つの証拠が、図8.1の皇宮跡の配置である。

図8.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

 図の上半分の中央部分が空白になっており、それを囲む形で歴代の天皇の皇宮があったのだ。
 空白部分はいまでは肥沃(ひよく)で穏やかな土地なのだが、ここに皇宮跡がまったくなく、さらに他の遺跡も少ないのは、大和湖が干上がってまもなかったため、湿地帯で居住に適さなかったからではないか――と考えられているのだ。
 比較的古い天皇宮ほど山に近く、また標高七十メートル以上の土地にしか古い出土品が無いことも、この説を補強している。
 大和湖の位置については、図8.1と図5.3を比べて、推理してみたいただきたい。
 いずれにせよ《三輪山》は、ひじょうに古く旧石器・縄文時代からその山麓に人々が棲み、見上げながら暮らしていた山だったのだ。

 考古学的な発掘調査は、前述のように許されていないが、偶然の結果としてごく一部が発掘されたことはある。
 たとえば、山裾の一部が、かつて農地として開墾されかかったことがあり、そこから数多くの出土品があった。ほとんどは失われたが、一部が保存され、古代の祭祀用の品々であることが分かっている。
 また三ツ鳥居の防火工事や補修工事がなされたとき、やむをえず掘った地面から、やはり祭祀用の土器や子持ち勾玉(まがたま)という独特の勾玉が出土している。

 子持ち勾玉は、江戸時代にも出土したという記録があり、これまでに合計十五箇の出土が確認されている。
 この勾玉は《石上(いそのかみ)神宮》の禁足地から出土したものと同種らしい。勾玉の中央部に内向きに突起のある独特の形状である。
 こういう偶然の発掘から、この《三輪山》への祭祀が、すくなくとも弥生時代からなされていたことが知られるのである。
 崇神(すじん)天皇と〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の伝承は、だから、大昔からこの土地の人たちがおこなってきた祭祀を、この地に進出した大和朝廷としても本格的におこなって、人心を掌握しようとした経緯を、物語っているのであろう。

[つづく]
 

週刊金曜日  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 6日(水)23時37分20秒
  主権回復の会などの抗議に対して週刊金曜日が詫びたという話が出ていますが、具体的にはどうなるんでしょうか?  

一部の人たちの矛盾・追加  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 6日(水)19時27分8秒
  既に書いた分

矛盾(1)・日頃、「国旗・国歌」、「愛国心」について「もっと議論を」などと言っている側が、「核論議」については議論そのものに反対。
矛盾(2)・日頃、「国境なき地球市民」を唱っている幻想家が、「アメリカ産牛肉」、「基地」、「原子力空母」の問題では「日本国境内に入れるな」と騒ぐ。
矛盾(3)・「東アジア共同体」や「世界共和国」を支持するかのような人たちが「大東亜共栄圏」を批判し、日本と韓国の「国家」の違いを護(まも)ろうとする。
矛盾(4)・「改憲論」に対して「アメリカの言いなり」といって批判、嘲笑していた側が、日本の「核武装論」に触れると「アメリカ様が許さないぞ」と言い出す。あるいはアメリカ人監督の「映画」やアメリカの一部文化人の対日批判を大はしゃぎで取り上げる。

追加
矛盾(5)・「政教分離」を根据に「政治家の國神社参拝」に反対していた人たちが、参拝をとめられないとわかると「政府から國に分祀(ぶんし)を働きかけるべき」というような「政教分離」に反する干渉を提案したり、「遊就館(いうしうくわん)」の内容を非難するような思想弾圧を行う。
矛盾(6)・日頃、「国家より個人が大事」と言っている人が、一方で國神社参拝を批判する場合には「個人の思想信条より国益が重要」という話を前面に出してくる。
矛盾(7)・日頃、「教科書検定は違憲だ」と言って批判していた側が、扶桑社の教科書については「検定を強化すべきだ」と親方日の丸になる。

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中国の政治宣傳映画について

虚構の「南京大虐殺」の映画は、以前観たもの(「〜大屠殺」)も史実とは思えませんでした。

早乙女愛出演の「南京大屠殺」とほぼ同時期に、シナでは「紅河谷(Honghegu)」という映画も上映され、英国軍がチベットを攻撃する「侵略」を描いた映画で、在中アメリカ人(アフリカ系)の一人が「こんな事実はない」と不満そうでした。しかし第三者として観ればあくまで映画ですから、フィクションが多く入っているということは観ていて察しがつきますし、これを理由にアングロサクソンを嫌いになるほうがおかしいと思います。

対抗策として津川雅彦主演の「プライド」を世界で再上映する手もあるでしょう。
また、映画の内容や反響次第では日本側から「あれは事実無根だ」と抗議や訴訟などできないでしょうか。石原真理子の会見の記事を見てそう思いました。
→それにしても「家庭内暴力」を「DV」などと視聴覚機器のような名前で呼ぶとは、今の日本語も情けない限りです。
Yahoo!Topicsで石原真理子関連の見出しの上に「初のPC内蔵型HD DVDドライブ」というのが出ているくらいですから。

それより拉致事件を描いた映画がどれだけ観てもらえるか気になります。

「はだしのゲン」の漫画など反米の極地でしょうが、あれが世界で各言語(各“国語”とは限らない)に翻譯されても、納得できない人は批判するでしょうし、世界でどれほど効果があったか疑わしいものです。

あれで描かれた原子病のような核兵器の二次的恐怖がアメリカ社会に知れ渡っているとは思えません。
1983年の映画「The Day After」はもちろん、Schwarzenegger 主演の1994年の映画「True Lies」を観ると、アメリカ人が一番原爆の被害を知らないことがわかります。きっとアメリカの映画関係者は「はだしのゲン」も「黒い雨」も読んでいないのでしょう。

「はだしのゲン」は「ガラスのうさぎ」と同様、「終戦」当時子供だった著者が見た「戦時下の悲惨」だけを肥大化させており、彼等(かれら)が生まれた直後や生まれる前になぜ戦争が始まったかというプロセスが缺落(けつらく)しています。

また、「はだしのゲン」では Einstein [ain∫tain] が原爆開発に直接関与していたかのような場面があり、戦後編になると著者自信の経験による迫力も薄れ、反日平和主義に気をつかってか「三光(さんくわう)作戦」という中共の作り話をそのまま引用するなど、結局誰が責任者なのかわからない展開になっています。

「100人斬り」の濡れ衣(ぎぬ)の疑いの裁判はどうなるでしょう。最高裁に冷静な判断を願いたいものです。
 

『卑弥呼と日本書紀341』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 6日(水)11時34分41秒
  [承前]

〔二〕《三輪山》の数値と遺跡

 この神山の高さであるが、標高は四六七メートル、そばを流れる初瀬(はつせ)川の川底からの高さはほぼ四百メートルである。《大和(やまと)》地方を囲む山並みのなかでも、そう高い方ではない。
 周囲は、凹凸をいれるとほぼ十六キロ、面積はほぼ三百五十ヘクタールである。ほぼ――というのは、立ち入り禁止なので、正確な測量は許されていないからだ。
 土地にかんする法令をも超越した存在なのだ。
 山としては面積的にも大きい部類ではないが、この山全体が境内(けいだい)でありご神体だと考えると、とてつもなく広い。
 現在の東京の皇居の四倍に近い。

 山腹から山頂にかけては、神域のため当然ながら発掘調査が禁じられているが、周辺からは、多くの出土があり遺構が発見されている。
 それらから、この山の周辺には、数万年前の旧石器時代から人々が生活していたことがわかっている。旧石器から縄文、弥生時代にかけての石器・土器などが多く出土しているのだ。
 もちろん古墳時代の遺跡は無数にある。
 また特徴的なのは、その遺跡が、古い時代のものほど山に近く、古墳時代に近づくと平地に広がってきていることである。
 これはどうやら、大和湖と仮称される湖(または水郷(すいごう)地帯)が縄文時代まではかなり拡がっており、それが時代が下がるとともに干上(ひあ)がって平地への居住が可能になってきたことと関係しているらしい(*)。

(*:次回にその証拠の一つを示す)

[つづく]
 

妄想(3)  投稿者:解法者  投稿日:12月 5日(火)21時25分50秒
  >時の道路工事や鉄道建設の作業員になる朝鮮人は少なく、日本からの応援であり<

 これは誤り。勉強不足だろう。
 朝鮮人が作業員になったのは、日清戦争、日露戦争の時代から。軍事物資の輸送に当たった。道路工事や鉄道建設の作業員も同じ。

>朝鮮人作業員が多くなるのは1930年代(満州事変)以降である<

 これは<朝鮮熟練工>と置き替えるのが正しい。
 つまり、一般の朝鮮人は教育程度も低く、両班(ヤンバン)意識が蔓延していたため、労働に従事することを極端に嫌った。
 朝鮮総督府は、まず朝鮮人の就労意識を上げるため、実業教育に力を入れたが、教育の効果が現れるには時間がかかる。熟練工が養成されたのは1920年代後半からであろう。
 それまでは、朝鮮人の労働は主として道路工事、鉄道建設の作業員などの単純作業員であった。
 

妄想(2)  投稿者:解法者  投稿日:12月 5日(火)21時11分45秒
  >鉄の使用や廟の建立(こんりゅう)を、日本がしてくれる。鉄の廟を建ててくれる。と喜んだのだが、実は境界柱や水準点や標識を打ち込むのを協力させただました宣伝であった<

 これも<妄想>
 日本が境界柱や水準点や標識を打ち込んだのは事実だが、朝鮮人は無関心だったと見えて抵抗した形跡(歴史的事実)がない。
 

妄想(1)  投稿者:解法者  投稿日:12月 5日(火)21時06分28秒
  >鉄の杭(鉄の大きい鋲)を打ち込んで「迷信を破壊する」として朝鮮各地を嫌がらせて回った日帝の悪事というが、実はこれは水準点や境界のコンクリート杭を打ち込んで歩いた事を悪意で広められた作り話である<

 これは、日本が朝鮮の<気を絶つ>ということで行われたものだという朝鮮人の妄想が今でもある。韓国の新聞も誤りだと言っているが反日の呪縛を解くことができない朝鮮人が少なくない。
 だいたいから、日本はこんなことをするほど暇じゃなかった。さらに、日韓併合前後にはすでに朝鮮王朝は血脈を絶たれ、<気を絶つ>必要もなかった。
 

幕末・明治初期雑誌目次集覧  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 5日(火)12時34分48秒
  ◎藤元直樹『幕末・明治初期雑誌目次集覧』国立国会図書館〈参考書誌研究〉第65号(200610)

 研究誌掲載論文ですが、154頁もあります。
 著者は国会図書館に勤務する方で、資料調査では定評のある研究者です。
 オロモルフはこれまで、『発明特許の日本史』『国際通信の日本史』『無線技術の日本史』などの執筆で何度もお世話になりました。
 おそらく、現在の日本図書館界で最高の資料調査のプロといえるでしょう。

 この論文は、幕末から明治九年にかけて創刊され、明治九年までに終刊となった雑誌(逐次刊行物)を、目次まで調べて一覧にした書誌で、この著者にしてはじめてなしえた貴重な明治研究の基本史料です。
 収録された雑誌は70種類以上。
 明治九年までに終わった雑誌だけで、これだけあるんですね。
 幕末から明治にかけての日本人が、いかに猛烈に勉強していたかが分かります。
 

『卑弥呼と日本書紀340』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 5日(火)12時24分34秒
  [承前]

◆◆◆ 《三輪山》の話 ◆◆◆

〔一〕《三輪山》の地質と山容

 つぎに、ご神体そのものである《三輪山》のデータを少し並べておく。
 まず地質であるが、このあたりの山のほとんどが花崗岩でできているのに対し、三輪山は斑糲岩(はんれいがん)が主体である。
 斑糲岩は鉄を含むことで知られており、そのためかこの山から流れ出る川からは砂鉄が採れた。山麓の金屋(かなや)の製鉄所との関連が注目される。
 また斑糲岩の山は硬質であるため風雨による侵食が少なく、円錐形になりやすい。
 じじつ《三輪山》はじつになだらかな円錐形をなしている。
 その山容の写真を図8.7に示す。

図8.7
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H86-88.htm

 写真の(a)は西方からの遠景で、大鳥居の向こうになだらかな円錐のスロープが見える。(b)は大鳥居のそばからの写真で、人家の向こうに参道が続いている。(c)は北にある景行(けいこう)天皇陵からの遠景である。
 どの向きから眺めても、ゆったりとした穏やかな円錐状の山容が印象的で、大和(やまと)朝廷の故郷といわれる日向高千穂(ひむかたかちほ/ひゅうがたかちほ)の峰に似た面もある。古代の人たちが神山として崇(あが)めた気持ちがわかる。

 円錐形の山を尊び、それへの眺望に適した土地に集落をつくる風習は、古く縄文時代から日本全国にあったという研究が、縄文遺跡の研究者らから出されているが、《三輪山》の山容はその代表であり、じっさい奈良盆地で最大の弥生遺跡である「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡*」からも、この《三輪山》を遠望できるのだ。
 つまりこの周辺は、まさに、「神聖な山への入り口」→「山門(やまと)」→「大和」と呼ぶにふさわしい土地なのである。

(*:この遺跡については後に述べるが、大和朝廷が確立される直前の都だったといわれる巨大な環濠集落跡である。計り方にもよるが、有名な北九州の吉野ヶ里遺跡を上回ると言われる)

[つづく]
 

RE:抗日義起の実際  投稿者:解法者  投稿日:12月 5日(火)00時31分58秒
  あなたの言いたいことがよくわかりません。
簡潔にお願いします。
 

國神社誌  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 4日(月)13時21分39秒
  ◎賀茂百樹(國神社宮司)(編)『國神社誌』國神社(明治四十四年十二月発行)
[復刊:平成十四年八月/神社本廳教學研究所発行/近代神社行政史研究叢書IV]

 この本は、備中處士様の資料に基づいて、神社本庁にお願いして入手したものです。
 したがいまして、その内容につきましては、備中處士様の論考をお読みください。
 靖国神社についてのもっとも古い公式の記録で、じつに貴重な資料です。
 もとは和装の活版印刷ですが、それを写真に撮ってオフセット印刷したもののようです。
 近代神社行政史研究叢書というシリーズの第IV巻として発行されました。
 私も、もっと早くに本書を見ていれば、もっと良い本が書けたのに――と思っています。
 

『卑弥呼と日本書紀339』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 4日(月)12時29分57秒
  [承前]

〈三〉古代祭祀(さいし)の跡――磐座(いわくら)

 三ツ鳥居の背後の山腹は、絶対に人の入れない禁足地であり、厳重に管理されている。弥生時代においてはここの巨石群――磐座――を用いて祭祀がなされ、祭具が奉納されたらしい。
 山頂には高宮(こうのみや)神社があるが、ここは〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉の御子(みこ)が祭られていて、昔は雨乞(あまご)いなどがなされた。
 またその周囲には古代に〈大物主神〉を祭祀した巨石群がある。
 この山頂に登ることは一般には禁じられているが、本社の左にある狭井(さい)神社で住所氏名を明記して申請して許可が出れば、お祓(はら)いをうけ特別な襷(たすき)をして、登ることができる。
 ただしその場合も、定められた一本道以外に足を踏み入れることは許されない。
 それ以外でこの御山に登ることのできるのは、下草苅りなどの不可欠な作業をするときの神社職員と氏子信者のみである。

〈四〉奇跡の継続性

《三輪山》はそれ自体がご神体であるため、何千年もの間、厳重に守られてきた。
 もちろん考古学的な発掘などは絶対に許されないし、開発など論外である。植林もなされないから、樹相は太古のままである。
 崇神(すじん)天皇のはるか前から連綿として守り続けられてきたこの《三輪山》の継続性は、驚くべきことである。
 なにしろ、何千年も前の弥生時代の人々――ひょっとしたら縄文時代の人たち――が祈り、推定二千年近くも前の崇神天皇や〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉や大田田根子(おおたたねこ)たちが祈ったその同じご神体を、その百代以上も後の天皇・皇族方や国民が同じ方法で祈っているのだ。
 これは渡部昇一の主張にあるように「継続」という日本文化の一大特色であり、他国では絶対に見られない奇跡的な伝統なのである。

[つづく]
 

固有名詞の發音についてまじめに論じます  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 3日(日)17時33分35秒
  Re:ハズかしい名前

余り下世話(げせわ)な話はちょっと……。

アテネ夏季五輪のあとビートたけしが当時の『SAPIO』連載コラム(今は終了→『週刊ポスト』では継続?)で「大笑いだった」と言っています。「キンタナ選手が金メダル」とか「イザベラ・オチチ」が可笑(おか)しかったそうで、冬の五輪であれば「ヤンネ・アホネン」など。

排球のマスコット、「バボちゃん」も朝鮮語で pa-po[pabo](=馬鹿)になるので、韓国で人気らしい。
もちろん、volley ball [vαli bO:l](O は c 左右反轉の代用)を日本で[bare:bo:ru]にしたせいでしょう。

ahho という服飾関係の会社のようなのが韓国にあるらしい。
http://www.ahhouniform.co.kr/main.htm

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カタカナ表記は原音を区別できない

韓国の音楽家「鄭」(文字轉写 ceong)の三人組が日本で「チョン・トリオ」らしい。
シナ語圏の女性歌手「鄭秀文」Zheng Xiuwen =Sammi Cheng が日本で「サミー・チェン」になり、「チェン」になっているのは何なのか。

「鄭州(ていしう>ていしゅう)」など英語ではシナ語の音と綴りを採用して Zhengzhou ですが、これをカタカナで書くなど無謀というものです。

弦楽器奏者の「チェン・ミン」は「陳敏」Chen Min ですが、カタカナだと音がわかりません。

「全斗煥(ぜん・とくわん)」は朝鮮文字轉写で ceon tu-hoan,カタカナで「チョン・ドゥファン」ですが、これでは「鄭」と「全」が両方「チョン」になって区別できない。
それなら「てい」と「ぜん」の方がいいというのが呉智英(くれ-ともふさ)氏の見解です。

日本語で「成功」と同音になる単語は、本来全く發音が違います。
↓同音異義語への異議
http://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/homophone.html

日本語音でも本来、「交」と「巧」は「かう」ですし、時計などを作っている「セイコー(精光)」の「光」は「くわう」です。

だから「膠州」Jiaozhou と「杭州」Hangzhou は「かうしう」で、「廣州」Guangzhou と「光州」Kwangju(文字轉写 koang-cu)は「くわうしう」になります。

「甲州」は「かふしう」、「口臭」は「こうしう」、「講習」は「かうしふ」です。

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日本人名が他の「漢字文化圏」でどうなるか

朝鮮人が漢字を捨てていることに対する批判も日本でありますが、日本も五十歩百歩。
シナ語では「沢尻エリカ」など漢字を当てて「澤尻繪理香」Zekao Huilixiang のようにしないと書けず、「みのもんた」など、シナ語にしようがない。

それに人名の意味がわからなくなるといっても、Kim Ok(金・玉)さんなど漢字で書いてどうするのでしょう。
歴史上でも19世紀末に来日し、福澤諭吉の支援を受けた Kim Ok Kyun(金・玉均)という人がいました。

「宮崎あおい」の「崎」の異體字(右は立と可の組み合わせのような)を日本で特別扱いしていますが、シナ語圏では「宮崎葵」Gongqi Kui であり、関係ありません。
 

鄭成功は実はハズかしい名前  投稿者:陳麻呂  投稿日:12月 3日(日)16時33分31秒
  馬と称して、鹿を指す(十八史略 秦の始皇帝の葬儀の宰相・趙高の2世皇帝への献上)
ウマとしょうして
シカとなす。2世皇帝を見くびって 黒を白と欺(あざむ)く悪宰相(ウマしか)を指した言葉。

指桑罵塊(しそうばかい)、桑(くわ)を指して 塊(まめ)を罵(ののし)る。当てつけの事。

珍竹林の変竹林とかは
ウド(デカぶつ)だと武大(ぶだい)
金連の本当の旦那(武大)だが、その当の奥さん(金連)に消され
怪しい薬屋だと慶(チン)です。

姓名は西門で名が慶ですが
彼は金蓮という妾(めかけ)・愛人・ジョウ婦を持ち、やりすぎで昇天しました。
自分の男セイ機能を回復する薬の使いすぎで、
金連に尺をしてもらった時に
出しすぎ抜き過ぎで果てて亡くなったのです。

教訓は、やりすぎに注意です。

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鄭成功は実はハズかしい名前

おまけ。鄭成功。
 鄭声は、ヨガリ声・色声であり(四書五経の解説に出てきます)
 成功は、セイ交・セックルです(日本語の語感だと
                中国側で気づかれないのです)。
 ハーフ(台日混血)にも、こんな嫌味な名前がついているのに
 日本の歌舞伎だか浄瑠璃(じょうるり)本だか琵琶法師の語りだか
 知りませんが「国セン爺(や)合戦」で彼は英雄扱いだったはずです。
 しかし、母が日本人でコウあまり聞き従うのに従順すぎると
 自分の息子にハズずかしい名前を付けている。と
 シナじょセイの失笑を買うような、こんな結果になります。
 

品のないシナ語を誤解  投稿者:陳麻呂  投稿日:12月 3日(日)16時19分43秒
  品のないシナ語を誤解して有難(ありがた)がる日本人(古今東西)

誤解って、チン!マール〜。(クソ野郎が。)の事である。

唐の時代に、倭は自国の名称が、雅(みやび)でないのを憎しみ
日本と名乗る事にしたが、まだまだ、ソノ当時も
日本人はセイ格が甘かったようだ。

シナ人は言葉や漢字で侮辱するのが得意で
権謀術数の総本家のような感じだが
性格の悪さはチョンよりは劣るのである。

さて、誤解とは。。。
チンを、ミカド(天皇・おおきみ・すめらみこと)の事、
マールは、マロ(麻呂)で貴族の事と、誤解した。
天皇はクソで
藤原は野郎だというのである。

誤解ではないが意味をわからないで
シナ人に ばカにされた当の日本人が一緒に笑う

小D阿Q斗(聖徳太子と北斗、別の我孫子(あびこ・阿ひと))

なる。(隋書 倭国伝 小徳阿輩台=聖徳阿仁=聖徳太子)

自分の事を悪く言っているのに、悪く言った相手と一緒に
実は自分で自分を ばカにしていると気がつかず、
相手の笑いは本気笑いで、自分の笑いは意味不明の笑いである。
笑っている状態が同じなので、
はたから見ていると、よそ目の野次馬たちの笑いは、
失笑の笑いとなるのである。

小Dはシャオディー(小さい弟、チビすけ)であり
阿Qはアァクゥ(愚かな兄、ばカたれ)です。
北斗は、北辰(紫薇・北極星・天帝)の召使です。(魯迅の阿Q正伝や狂人日誌の解説など)

チビは、リトルボーイで原爆の爆撃機?だか爆弾の名前であるし
バかタレは朕と麻呂であるし
斗は、チョコットとかパシリで、スカポンタンです。
珍竹林の変竹林とか頓珍漢の事です。(紅楼夢・石頭記に出てきます。)
日本人をチビと ばカにしていたのです。(倭は矮のワでチビの事)
 

テツのビョウの勘違いに漬け込んだ悪意  投稿者:抗日義起の実際  投稿日:12月 3日(日)16時12分18秒
  抗日義起の実際
テツのビョウの勘違いに漬け込んだ悪意
朝鮮総督の統治の誤解

鉄の廟(テツのビョウ):
  鉄の鋲は画鋲(がビョウ)の「ビョウ」の発音の翻訳間違いで
  翻訳間違いで、朝鮮の龍脈・風水の点穴地を
  鉄の杭(鉄の大きい鋲)を打ち込んで「迷信を破壊する」として
  朝鮮各地を嫌がらせて回った日帝の悪事というが、実は
  これは水準点や境界のコンクリート杭を打ち込んで歩いた事を
  悪意で広められた作り話である。

  中国に禁止されていた、朝鮮で自前で作ってはいけない
  鉄の使用や廟の建立を、日本がしてくれる。
  鉄の廟を建ててくれる。と  喜んだのだが、実は
  境界柱や水準点や標識を打ち込むのを協力させた
  だました宣伝であった。

  鉄の廟を建ててもらう所を
  鉄の鋲を立てた。日帝は だました。
  朝鮮を風水で滅ぼそうとしている。
  鉄道や道路は、風水を分断し破壊するからといって
  西部劇のインディアンよろしく鉄道や道路作業員を襲撃した。

  当時の道路工事や鉄道建設の作業員になる朝鮮人は少なく、
  日本からの応援であり、反日運動や抗日義起の実際というのは
  インディアン並の事をしていたのが実態である。

  朝鮮人作業員が多くなるのは
  1930年代(満州事変)以降である。
 

Wikipediaでは「徳川」と「聖德太子」  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 3日(日)15時36分51秒
  今の日本では固有名詞の字體を尊重するという異常な慣習がいつのまにか出來上がっており、繁簡混ざった紊亂(びんらん)状態になっています。勿論、これも日本だけです。

例えば、「眞鍋かをり」と「浅田真央」、「岡田眞澄」と「桑田真澄」、「浅井愼平」と「石原慎太郎」または「香取慎吾」、某小説のヒロイン「廣瀬亜紀」と歌手の「広瀬香美(ひろせこうみ<かうみ)」のように。

では「瀧澤馬琴(たきざわ-ばきん)」、「安藤廣重(あんどう-ひろしげ)」、「圓山應擧(まるやま-おうきょ)」は江戸時代から「滝沢」や「広重」、「円山」だったのでしょうか。
先日、朝日一面に東京五輪のマラソン選手、円谷(つぶらや)幸七の記事がありましたが、寫眞で墓碑銘を見ると「圓谷」でした。

「真」と「眞」は「井真成(ゐのまなり)」の時代から異體字として共存していたので、臺灣の網頁でも「真」を使っているようで、從って「淺田真央」、「淺井慎平」、「石原慎太郎」、「香取慎吾」、「廣瀬亞紀」、「廣瀬香美」になるでしょうし、「眞鍋」さんは臺灣と大陸では義務的に「真鍋」Zhenguo に書き換えられます。

支那大陸では「廣」は「广」guang ですから小説のヒロインも女性歌手も姓は「广瀬」Guanglai で同じになります。

一方、韓國の Yahoo!では「眞」だけですから「眞鍋」は勿論、「淺田眞央」、「淺井愼平」、「石原愼太カ」、さらに「香取愼吾」でないと受け付けません。「真田広之」は「眞田廣之」になります。

「戰後」の日本では「瀧澤」、「瀧沢」、「滝澤」、「滝沢」は別々の4つの名前のようです。臺灣や日本のシナ語の新聞ではタッキー何とかいう若いタレントだろうが「八犬傳」の作者だろうが「瀧澤」と印刷します。

シナ語圏では日本人名をそれぞれの文化圏の字體に直してシナ語讀みしますから、字體の違いなど眼中にありません。「萬田久子」は支那大陸で「万田久子」Wantian Jiuzi です。

「松たか子」と「河村隆一」はシナ語圏で「松隆子」Song Longzi と「河村隆一」Hechuan Longyi になり、「隆子」と「隆一」の「隆」の畫數(くわくすう)が日本の「隆」より1つ增えます。

日本の「戰後」國語改革は漢字を增やし、負擔(ふたん)を大きくしただけのようです。

ちなみに Wikipedia では、「徳川家康」など江戸幕府の徳川家は「徳」のままで、飛鳥時代の「聖德太子」については「德が正しい」と規定しており、「澁澤龍彦」の「彦」も特別扱いして「偐の右側」だとしており、「落合信彦」についてはそういう説明をしていません。
では、徳川家は「德川家」ではなかったのか。一體、江戸時代やそれ以前の日本人が「徳川」と「聖德太子」で字を使い分けていたのかどうか、それは意味がどう違うのか、誰も説明していないようです。是非、知りたいものです。

シナ語の媒體(メディア)では「德川」と印刷する以外に方法がありません。

シナ語圏で落合信彦がインタビューを受けた際、記事では「彦」はやはり「偐の右側」でしたが、Wikipedia では落合信彦の彦は「偐の右側ではない」と解釋しているのでしょうか?
 

RE:「犬」を「大」にした戦後教育  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 3日(日)15時13分20秒
  手書きでも讀み取りでも「黑>黒」、「都>都」、「隆>隆」、「從>従」のような1點1畫(くわく)の違いは取るに足りません。從って少ない方を活字に採用する意味がなかったわけです。

むしろ、この無駄と弊害はコンピュータで漢字を處理するようになった昨今では明確になっています。
鍵盤をたたいて字を打つ場合、「戻」と「[戸+犬]」の違いはおろか、「礼」と「禮」でも打つ効率は同じです。
また、そのコンピュータは「隆」と「隆」のような一見、違いがわかりにくい漢字同士も全て「全く別」と看做(みな)してしまうため、身分證明書や戸籍、旅券などが電子化するにともなって、活字に略字と正字が混在していることが大混亂と時間の無駄を招いています。

「終戰」直後の「隆」を「隆」にする慣習に從い、略字で數十年過ごした人が、最近になって役所で身分證明書の漢字を一畫多い方に「戻す」よう強要されているという投書がありました。それでは「隆」と「隆」でどう意味が違うのかその役員は説明できるのでしょうか。

人間の常識では「隆」と「隆」は同じ字であり、それがわからないコンピュータの方がガラクタなのに、なぜそんな効率の惡い道具に頼るのか。そもそも、「戰後」の國語「改革」で「隆」を活字に採用したのはなぜか、市役所や郵便局などの役員はそういう綜合的なことを考えないのでしょうか。

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「充填」>「充てん」、「補填」>「補てん」

これらについては混ぜ書きが不評なせいか漢字で書く例も見受けますが、今の出版業界では「充[土眞]」、「補[土眞]」と印刷するのが慣用のようです。

つまり、「常用漢字枠」の外にある漢字を敢えて書籍で印刷する場合、略字(擴張新字體)ではなく非略字で印刷するのが慣例だそうです。

傳統を重んじて結構なのですが、そういう慣例を持っている出版業界は、簡略化そのものには一切反對していないので、「常用漢字枠」の中の「真」のような漢字は逆に略字で印刷するという「鐵則」を守っているようです。

從って、校正者は「真」、「眞」、「填」、「[土眞]」、「前」、「揃」、「飯」、「餃子」といった漢字を最初の試しの印刷で見た場合、一つ一つが常用枠内か枠外か逐一調べ、
常用内なら「眞」は×で「真」が○とし、
常用外なら逆に「[土眞]」が○で「填」が×とする……
というように赤字を入れるのだそうです。

そうなるとそもそも「常用漢字枠」そのものが却(かえ)って邪魔だとしか思えません。
常用漢字の枠の内にも外にも「略字」と「非略字」があり、この枠は「略字で印刷するグループ」と「非略字で印刷するグループ」を線引きにすぎません。

こんな面倒な規則が作家や出版社、校正者にとって何の得になるのか、ただ、面倒なだけです。

日本の外では「常用漢字枠」そのものが存在せず、漢字を略した支那大陸では「飯」や「飲」の食編の簡略化を「饂」や「餃」にもいきわたらせており、「真」を使うなら「填」も使います。
その代わり、非略字を使うなら全て非略字にします。
 

ナイチンゲールを、アメ公は金玉を切り取る仕打ち。と誤解  投稿者:玉音放送の誤解  投稿日:12月 3日(日)15時04分29秒
  従軍−慰安婦というのは「造語(作り話)」で
従軍−看護婦(ナース)を「売春婦」として扱っていたのは
「クリミア戦争」頃からの「英語圏の習慣」で、電車やバスの車掌や
官公庁の女性職員や婦人警官までも、職業婦人を「商売女」と侮蔑し
高級ホステス(高級娼婦)のような「風俗業の女性」とした扱いで
売春と称しては米兵はレイプを ごまかしていた為に
日本では、アメリカ兵による従軍慰安婦問題が 持ち上がらなかった。

カン詰めを与えて食糧難の時の売春の駄賃として与え
慈善やボランティアであるかのように装った。
コンゴの黒人の国連職員の無償で与えるべき救援食料で
売春で釣るような与え方をしていた。

1945年(昭和20年)に小学1年・小学5年とすると
1952年(昭和27年)に中学2年・高校3年となる。
この時期は、進駐軍(アメリカ軍)が日本を占領していた時期で
アメリカの食料の
脱脂粉乳(牛乳がわり)・カン詰め(保存食)・
小麦製品(パン・コロッケ・テンプラのコロモ・シナそば・
つめり−すいとん[小麦粉(メリケン粉)を練って作った小麦餅]
等)などを、貰ったメリケン粉(小麦粉)を使って作って食べていた
女性が多かったはずで
この時代に この年齢の この長さの期間なら 記憶に残らない
ハズはなく 語られないのは よほどの嫌な記憶が多く
日本人の悪い特徴で
悪い事件や嫌な記憶を 改善するために語る 事はない。ことである。

http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=301&pointer=1&log=present&cnt_flag=true

http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=300&pointer=1&log=present&cnt_flag=true

http://8227.teacup.com/merkatz/bbs
 

『卑弥呼と日本書紀338』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 3日(日)12時37分28秒
  [承前]

〈二〉拝殿から三ツ鳥居まで

 この注連柱(しめばしら)の間から拝殿を拝んだ写真を図8.6(a)に示した。

図8.6
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H86-88.htm

 写真では背後の神山や拝殿の雰囲気が伝わりにくいが、注連柱をすぎると、雄大かつ荘重(そうちょう)な神域が眼前に広がるのである。
 拝殿もふつうの神社とはまったくスケールが違い、じつに豪壮である。
 写真の(b)は、右側からこの拝殿前を写したもので、やはり注連柱がある。
 この(b)の左奥に見えているのが、有名な神木で、神聖な蛇が棲む杉の老木である。この杉自体も信仰の対象になっているが、それは〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が蛇の形をした〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉と結婚したという伝説からきている。
 図8.5では「巳の神杉」と書かれている。いまも実際に蛇が棲んでいるとされ、卵を供えて拝む人が絶えない。
 荘厳な拝殿は国の重要文化財だが、その背後には直接山が迫っていて、本殿はない。

 一般の神社では、拝殿の後ろには本殿があり――あるいは拝殿と本殿が一体となっていて――その本殿の中央に神座があり、そこにご神体が奉安されている。
 神鏡、神剣、神玉、御幣(ごへい)などである。
 しかしこの《大神(おおみわ)神社》においては、背後の《三輪山》そのものが本殿でありかつ〈大物主神〉が宿るご神体でもあるので、建造物としての本殿はない。
 いや本殿どころか社宝を安置する宝庫すら置かれなかったのだ。
 そのかわり――というわけではないが、拝殿と御山との間に「三ツ鳥居」と呼ばれる独特な鳥居がある。
 これもまた重要文化財で、日本に数多い神社のなかでも他では見られない特殊な鳥居である。

 注連柱を三の鳥居とすれば、これは四の鳥居ということになるが、その形は、ふつうの鳥居を三つ重ねたよう(*)であり、拝殿に隠れて見えないので図8.6には写っていないが、図8.2の《檜原(ひばら)神社》の写真に同種の鳥居が見えている。
《檜原神社》は本社と同じ形式を小型化した神社だからである。

 なぜ三つの鳥居を組み合わせたのかは分からないが、《三輪山》の三という数に関係するのであろう。
 結局、参詣(さんけい)者は、拝殿からこの三ツ鳥居を介して《三輪山》――すなわち〈大物主神〉――を拝むのである。
 なお社務所でとくべつに許可を貰えば、お祓(はら)いをうけてから拝殿背後の三ツ鳥居を直接拝むこともできる。

(*:《大神神社》の解説書はいろいろとあるが、大抵の解説書に三ツ鳥居の写真が掲載されているので、写真を介して拝むことができる)

[つづく]
 

「犬」を「大」にした戦後教育  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 2日(土)23時59分32秒
   白川静先生の本を読みますと、漢字についての知識が増えて楽しいです。
 たとえば、戦後「犬」を「大」にしてしまったために、漢字が意味をなさなくなった問題。

◎「犬」は犬の形を略した文字ですし、「大」は両手を拡げて立つ人の形。両者は意味も源もまったく違います。
 それを戦後教育ではごっちゃにしてしまったのです!
 例をあげます。

◎「臭」
 この漢字は本来は「自」と「犬」からなっています。「自」は鼻を正面から見た形。これと「犬」が合わさって「臭いを嗅(か)ぐ」という意味になりました。
 ところが戦後「犬」を「大」にしてしまったので、全く意味が通らなくなりました。「嗅」は「犬」のままですから、なお混乱します。

◎「戻」
 この漢字は本来は「戸」の下に「犬」です。
 古代のシナ社会では、悪霊が家に入らないように戸の下に生け贄(にえ)の犬を埋める風習があったことから出来た漢字。
 これを「大」にしてしまったのでは意味が通りません。

◎「器」
 これは祝詞(のりと)を入れる四つの容器の中央に生け贄の犬を置いた形から来た漢字。したがって大元の意味は祭祀(さいし)・葬儀に用いる入れ物。
 これもまた、「大」では意味が通りません。

◎「類」
 これはちょっとややこしいのですが、生け贄の犬を焼いてその煙を天に昇らせて上帝を祀(まつ)ることから来たらしい。
 これも「大」では無意味です。

◎そうかといって――
 そうかといって、同じ「犬」から来た漢字でも、「伏」「就」「献」「嗅」などは「犬」のままです。
 もうメチャクチャ。!

◎古代シナのワンちゃん
「伏」「就」「献」も犬(および人)を生け贄にする儀式が語源。たとえば「伏」は人と犬を一緒にして生け贄にした儀式が由来とされる。
 こういう漢字を見ますと、古代シナのワンちゃんって災難ですね。
 家を建てたり祈ったりするたびに生け贄!
(今でも災難?)
 

半島歴史+α その1  投稿者:えこね  投稿日:12月 2日(土)21時57分5秒
  【 山海経 】

__矩(おお)いなる燕の国(河北・遼寧(鮮卑・高麗)・朝鮮(平壌))
北に↑
__蓋の国(韓(百済・新羅))
南に↓
__倭(朝鮮南沿岸部・対馬・五島列島・日本)


BC109-108
前漢武帝

_遼東郡_バク
_楽浪郡_玄菟郡(BC109 西蓋馬県・蓋馬大山・東ヨクソ)
_楽浪郡_ワイ(単単大山)
_楽浪郡_楽浪郡(BC108 楽は洛で都の意味・浪は狼で狼林山脈[平壌から妙香山])

AD00
新の王奔

_遼東郡_バク
_楽鮮郡_玄菟郡(楽鮮郡 朝鮮県・平壌)
_楽鮮郡_ワイ(単単大山・フジ)
_楽鮮郡_楽鮮郡(楽鮮郡 楽都県・羅州・
            弁楽奴国(弁韓[三国志魏書=魏志]・
                 弁辰[続漢書=後漢書]) )

AD206
三国志(AD204年 赤壁の戦い・
      246年 東夷の韓が楽浪太守により滅亡・
      266年 倭が帯方郡役所に朝貢しに来る)

_遼東国_高句麗県・小水バク・バク弓
_楽浪郡_ヨクソ(高麗)
_帯方郡_ワイ(高麗)
_馬韓__東界(弁辰・弁韓)_東浜(古の辰国・辰韓・高麗の韓)

倭の邪馬台国

※ 韓(加羅・から)も高麗人が逃げ込んで住んでいる

AD313-314
西晋の司馬炎(武帝)・西晋の恵帝・
東晋(313年に楽浪太守張統が慕容氏に亡命)

_遼西・鮮卑族慕容氏前燕国_高句麗
_高句麗_ヨクソ
_扶余__ワイ(フジ・太白山脈)
_南扶余_任那(海北95国=倭)_亡命高麗の新羅城(高句麗(高麗)が亡命した先の韓)

倭国
 

半島歴史+α その2  投稿者:えこね  投稿日:12月 2日(土)21時55分57秒
  AD436-475
北魏と六朝の宋・南斉(加羅国(任那)は百済の属国の一つ・
           436年に北魏が遼西の北燕国龍城(後燕国)を滅亡させる。
                北魏が続けて襲来し鴨緑江中流の高麗国丸都を焼く
           475年に北魏が百済に襲来・沙里院〜平壌あたりか?
                沙法名など4人将軍が防戦、百済王が余牟太。
               北魏は均田制の孝文帝の幼少時期で皇太后の太氏)

_後燕国・北燕国_高麗国
_高麗国_____高麗国
_百済国_____高麗国
_百済国_海北95国(倭)で加羅国_加羅国の新羅城

倭の五王の時代

※ 下句麗侯(高句麗王)−位宮、夫余王−尉仇台・尉サン・尉ケイ、百済王−余賛?−余典?

AD600年代
隋・初唐(663年に百済滅亡・新羅の人質を帰す記述で最後)

_隋・唐_渤海マッカツ国(マッカツ=女真=満州族)
_高麗国_渤海マッカツ国
_百済国_渤海マッカツ国
_百済国_新羅国_新羅国
(655年   高麗とマッカツと百済の3国が新羅の北部30城を占領し唐に泣きつく)
(660年   百済を唐に裏切ったマッカツが占領し王子と王を拉致・
      唐が入城し百済が反乱・沙相如・沙井等[さいとう]・黒歯常之・福信・余豊など)
(663年   ハクスキノエ(白村江・白江口)の戦い・
      唐将の劉仁顔・劉仁軌・蘇定方・マッカツ水軍の夫余隆
      戦後に夫余王尉仇台の廟を復興し唐式の建物を建造
(665年   三東の泰山で、新羅・百済・耽羅・倭国が唐に従い和平の祀りをする)
(668年   高麗国(高句麗)が唐将の劉仁軌の遠征軍により滅亡
      遠征軍だった新羅の兵が帰国途上で
      復興した百済の唐式の建物と石碑を破壊し廃墟にする)

聖徳太子(遣隋使)から中大兄皇子に藤原鎌足−不比等(遣唐使)へ

余章・余昌・叔父の文度済海と余豊、金国(女真)で高麗の最後の王は「昌(余昌に当てはめ)」

AD700-800年代
盛唐・中唐

_安禄山の国_____大震国(渤海郡王の国・渤海国)
_大震国_______大震国
_開州(帯方郡王)__大震国
_高州(帯方州刺史)_蓋州(大震国・東丹国(泰封国)・東真国)

壬申の乱に桓武天皇(天台宗・真言宗)の時代

※ 扶余敬の国(帯方郡王・帯方州刺史・マッカツ=女真=満州族なのに夫余氏の姓名を名乗る)
  扶余隆の孫である「扶余敬」
 

半島歴史+α その3  投稿者:えこね  投稿日:12月 2日(土)21時47分0秒
  AD900年代
晩唐・契丹(遼(南女直−湯河司・東京−統軍司−留守))

_燕雲16州(遼)__東京路(遼)
_杉盧郡(遼)___東京路(遼)
_南女直(遼)___遠来県(遼)
_南女直(遼)___辰州・東京路留守(東丹国・遼・
                  遼西の慶州人を移住させる)

平将門(武士の発生 903-940)の時代

AD1000-1100年代
宋・金初(対馬や博多へ刀伊の入寇・異国船の北九州への襲撃)

_婆達府路(金)_合獺路(金)
_熊岳県(金)__盧州(金)
_建安県(金)__静封県(金)
_全州(金)___湯河県・祟山県(金)

八幡太郎源義家の前九年・後三年(津軽・下北・三陸を制圧)の時代
平泉と平清盛(金色堂と金つかませ書状の日宋貿易の神戸港と豆腐作り)に
頼朝と北条政子(臨済宗栄西の緑茶栽培で喫茶と味噌作り)の時代

AD1200-1300年代
金末(高麗−生日使[蕭子斉])・元初−元末(権知高麗−国事)

_蓋州路(元)___東京路(元)
_蓋州路(元)___東京支郡(元)
_建安県(元)___高麗国事(太白)
_高麗国事(全州)_高麗国事(慶州)

鎌倉仏教と女真刀伊来寇に蒙古襲来の時代

AD1400-1500年代
明(権署朝鮮−国事・経略使(平壌)・
          三衛−土司(満州[建州・海西(ヘソ)・?]))

高麗国(朝鮮国)

高利貸しの土蔵に白拍子から芸者に内容が変化・
庶民層に唐物の大量輸入・倭寇とマカオ・
足利義満からザビエルの時までの遣明使に勘合貿易(1401-1549)で水墨画の雪舟の明朝文化・
秀吉と南蛮貿易と朝鮮出兵

AD1600-1800年代
清(朝鮮国王・宣化堂−監司(平壌)・朝鮮総理−通商事[袁世凱])

朝鮮国

徳川家康の堺商人による朱印状貿易(1600-1638)と東南アジアの日本人街・
徳川家光以降の出島でのオランダ東インド会社の独占貿易(1636-1798)・
漢籍の輸入と西遊記(1636)が広まる元禄−化政文化・
武士の仁儀礼忠孝の陽明学の儒教と士農分離の封建制度の定着
 

ウイグルでの通婚  投稿者:解法者  投稿日:12月 2日(土)19時46分17秒
   ウイグルでのウイグル人などと漢民族などとの通婚は極めて稀(まれ)のようだ。日本にいる留学生50人ほどに聞いたが、ウイグル全体で100組あるかどうかということだった。
 『新疆(しんきょう)統計年鑑 2006年版』新疆ウイグル自治区統計局 2006年6月によれば、ウイグル地区における2005年の人口は、20,103,500人となっている。このうち、漢民族は7,956,600人、回族(イスラム化した漢民族)が893,500人、残りの11,253,400人が少数民族、このなかで最大な民族がウイグル族で9,235,000人、最小な民族がタタール族(韃靼(だったん)人)で4,700人、蒙古(もうこ/モンゴル)族は171,100人、満州族が24,600人、タジク族(イラン系)が44,000人、いる。
 ウイグル人に聞くと、実際には漢民族は70%くらいだというからこの資料は正確性に欠けるかもしれない。
 この資料には、通婚に関するものがないから、想像で判断するほかはないが、先のウイグル留学生の話での「漢民族などとの通婚は極めて稀」とは正しいと考える。
 ウイグルで経験したが、イスラム系の民族と漢民族の私的な交流はない。お互いに家を訪れることは皆無という。2004年夏にウイグルを訪れたが、タタール族(韃靼人)の友人の父君が亡くなって7日目に法事があった。「初七日」というもので、これがイスラムの慣習なのか、かっての佛教からきたものかはわからなかったが、興味深かった。やり方は日本と同じ。
 亡くなってから初七日までは、家でも弔問を受ける。近くの新疆医科大学の会館を借りて法事も行われた。参列者は出たり入ったりだが、約500人、ところが漢民族は一人も来ない。喪主は大学の教員で漢民族の同僚もいる。
 われわれも法事に出席したが、法事を取り仕切るイスラム導師から喪主があれは誰だと聞かれたそうだが、日本人だということで問題はなかった。その後で、なぜ、漢民族が出席しないのかと聞いた(ウイグルでは日本に留学した者が多くいる)。なかなか答えが返って来ない。一人が彼らは異教徒だという。ならば我々も漢民族と同じ仏教徒だ。しつこく聞いたが、帰ってきたのは沈黙か遠来のお客ということだった。
 ウイグルに滞在中の半月でウイグルのほぼ半分(ウイグルの面積は日本の4.3倍)をそのタタール人とカザフ族と回ったが、漢民族と交流する機会は各地域の旅行案内人以外ほとんどなかった。
 食堂もウイグル人専用の食堂、ウイグル人などは漢民族の食堂(中華食堂)に行かない。
食事が全く違うからだ。
 通婚はないと思うが、ウイグル人などが漢民族に圧迫されていることはよく聞いた。学校は漢民族とウイグル人などに分れている(大学は漢語で教育)。漢語ができなければ仕事がないが、出来てもない。日本人には信じがたいが、新疆医科大学を出ても、ウイグル人には仕事がない。
 モスク、公務員は学校の先生も含めて行けない。親方日の丸で公務員だらけだから、モスクに行く人は老人だけということになる。
 ウイグル人独特の文化も認められるわけがない。
 

『卑弥呼と日本書紀337』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 2日(土)15時36分12秒
  ■■■■■ 八・五 《三輪山》と《大神神社》2 ――千古の謎を秘めた三ツ鳥居の奥―― ■■■■■


◆◆◆ 鳥瞰図による説明――参道から《三輪山》へ ◆◆◆

〈一〉大鳥居から注連柱まで

 図8.5の鳥瞰図の続きである。

図8.5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

 中央の参道を見ていただきたい。
 図の左下に大鳥居がある。その高さは靖国神社の大鳥居を上回り、日本最大であるが、これは近年の建造である。
 昔からの鳥居は一の鳥居と二の鳥居で、一の鳥居からはじまるのが旧参道、大鳥居からが新参道となっている。参道の長さはほぼ一キロで、とてつもなく長い。
 一の鳥居のそばにある綱越(つなこし)神社は、祓戸(はらえど)大神を祭る神社で、《大神(おおみわ)神社》全体のお祓(はら)いを司(つかさど)っている。
 二の鳥居の左にある若宮は有名。神仏混淆(こんこう)時代には大御輪寺といわれたところで、大田田根子(おおたたねこ)を祀(まつ)った神社である。
 かつて国宝の十一面観音像があった社で、神殿自体も重要文化財となっている。
 二の鳥居を過ぎると、やがて三の鳥居のかわりに注連柱(しめばしら)が見えてくる。
 これは二本の柱の間に注連縄(しめなわ)をはった古式ゆかしい一種の鳥居である。

[つづく]
 

言論統制  投稿者:関東軍の一等兵  投稿日:12月 2日(土)14時04分25秒 Remote Host: softbank219049170022.bbtec.net(219.49.170.22)
  (出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

日本歴史再考(其の参)  投稿者:関羽 雲長(上海市民)  投稿日:12月 2日(土)10時54分58秒 Remote Host: 66.160.142.7
  (出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

韓国に日本の核武装を批判する資格なし  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 2日(土)09時08分0秒
  日本が核を持つとしたらそれは韓国のせいでもある。

もし、今、日本が核武装するとしたら、「北朝鮮」の核に対抗して日本が核を持つのだから、「南朝鮮」も核を持つというのは予想できることで、別に脅しにも何にもならない。
やはり北も南も同類だったかと納得するだけで、やはり日韓併合は正しかったと想うしかない。

そもそも「韓国」を名乗る南朝鮮が北の「同胞」による日本人拉致も核保有も防げず、南北統一もしないで今に至ったのが根本的な原因。
つまり、日本が核武装するとしたら、それは韓国の自業自得(じごふじとく)であり因果応報(いんぐわおうほう)というわけ。

韓国が日本の核武装論を嫌がるなら、自分の足元でその原因を取り除いたらどうか。最大の当事者である「南朝鮮人」の責任である。

それに南朝鮮が北の核に甘い原因は、南が「北韓(Puk-Han)の核は南北統一後、我々のものになる」と考えているからという噂もある。南朝鮮が核を持ったらそれが立証されるわけで、続いて他の国々も核を持ったらそれも南北朝鮮のせい。

韓国にとって日本が「脅威」らしいが、具体的に何を怖がっているのか。日本が軍事大国になったら、韓国にとって何がどう怖いのか。理由が何もない。冷静に考える必要あり。
それより今、日韓併合した方が日本も朝鮮半島も核抜きのまま共存できるのだから、その方が歓迎すべきことであろう。

---------------------------------------------------------------------------
良くも悪くも始皇帝やヂンギス・カン、秀吉や大日本帝国幹部のように、防衛のために外に打って出て、世界地図を変える(変えようとする)人間が朝鮮からは全く出てこない。せいぜい、半島の中とその周辺で国を変える程度。朝鮮主体で「滿洲国」を作ることもできないし、60年前に日本から滿洲を継承することもできなかった。

朝鮮の歴史はいつも内輪もめをして、それが外に波及して自分で処理できず、めぐりめぐって周辺の事情に振り回され、自分で何もできず右往左往し、怖がっているだけ。そして何でも最後は自分のことを棚にあげ、自分で歴史を勝手に解釋して、不安を他国の「歴史観」のせいにして、「日本が悪い」、「中国が悪い」と繰り返し自己防衛する。

潘基文(パン・ギムン、Ban Ki-moon)が国際連合=連合国(=聯合国)の事務總長になったのを喜ぶのが関の山だろうが、潘氏がどういう仕事をするかお手並み拝見といこう。
 

日本の核論議、反対論者の自己矛盾  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 2日(土)08時52分35秒
  矛盾(1)・日頃、「国旗・国歌」、「愛国心」について「もっと議論を」などと言っている側が、「核論議」については議論そのものに反対。
矛盾(2)・日頃、「国境なき地球市民」を唱っている幻想家が、「アメリカ産牛肉」、「基地」、「原子力空母」の問題では「日本国境内に入れるな」と騒ぐ。
矛盾(3)・「東アジア共同体」や「世界共和国」を支持するかのような人たちが「大東亜共栄圏」を批判し、日本と韓国の「国家」の違いを護ろうとする。

さらにもう一つ。

矛盾(4)・「改憲論」に対して「アメリカの言いなり」といって批判、嘲笑していた側が、日本の「核武装論」に触れると「アメリカ様が許さないぞ」と言い出す。あるいはアメリカ人監督の「映画」やアメリカの一部文化人の対日批判を大はしゃぎで取り上げる。

日本の核武装は日本が決めることで、その原因である核を開発したアングロサクソンや朝鮮民族がどう反対しようが日本は拒否すればいい。
「関東軍の×等兵」のような「アメリカのポチ」兼「韓国のポチ」なら別だが。

その「二等兵」または「一等兵」の書いた「おしま」が意味不明。
「おしま」ならわかるが。
 

真実な日本の歴史(三)  投稿者:関羽 雲長  投稿日:12月 1日(金)22時32分27秒 Remote Host: 220.205.17.18, Time: 1164979947
  (出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

関東軍の一等兵君  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:12月 1日(金)22時19分26秒
  >竹下さま
>伝家の宝刀とは?

「伝家の宝刀」と書いて察する事が出来ないのですか? では、はっきり書きましょう。

出入り禁止

これを私の口から言わせない内に、謹慎すれば良かったものを、最早(もはや)手遅れですよ。

私は、先月19日の投稿の中で、貴方(あなた)に対してこう書きましたが、お忘れですか?

>兎(と)に角(かく)、私の貴方に対する見方(心証)が非常に悪い、その事だけは後々の誤解を避ける為にもはっきりと申し述べておきます。

「色眼鏡」とか「不公平」だとか、そう言った反論は無しですよ。「管理者」を管理者共思わない発言をしたのが、抑(そもそ)もの切(き)っ掛けですし、此処(喫茶室)に「民主主義」のルールを持ち込む事も認めません。

(かつ)ての日本では、選挙権は一定額以上の税金を納めていた者にしか与えられていませんでした。それと比べる訳では無いが、此処(ここ)は使用料を払って運営している有料掲示板であり、その使用料は管理者である私が払っています。貴方は、単に「利用させてもらっている」立場に過ぎない訳で、生殺与奪(しょうさつよだつ)の主導権を握っているのは、あくまでもこの私です。その私が此処の秩序を乱す懼(おそ)れのある者や、実際に乱している者を排除する事は正当であり、管理者権限の範疇(はんちゅう)です。

文句があろうが、あるまいが、最初に管理者の心証を著しく害した貴方に責任があるのですから、先に述べた通り、反論も抗議も一切受け付けませんので、そこの所をヨロシク。
 

真実な日本の歴史(三)  投稿者:関羽 雲長(上海市民)  投稿日:12月 1日(金)22時16分59秒 Remote Host: 220.207.238.108, Time: 1164979019
  (出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

上海市民だろうが、どうだろうが  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:12月 1日(金)21時58分17秒
  そんな事はもうどうでも良い。
私が、「中華愛国某氏へ」を投稿してから(00時04分10秒)、ものの15分(00時20分25秒)で投稿してくるとは、私も随分と嘗(な)められたものですね。然(しか)も、真実でも何でも無い「真実な日本の歴史」等と言うステレオタイプの日本史を披瀝頂くとは・・・

そんな他国の歴史を云々するより、越南(ベトナム)を侵略、一千年間も植民地支配した帝国主義の歴史や、満州族の故地である満州を「中国東北部」の名の下(もと)に侵略併合した歴史や、強引に『十七箇条協定』を締結させたにも関わらず、その協定すら破棄し、軍隊の力を背景に凄まじい人数のチベット人を大虐殺したチベット動乱の歴史に対する、総括も反省(自己批判)も謝罪も補償も、何故(なぜ)、支那はしないのでしょうね? あれ程、事ある事に日本に対して「正しい歴史認識」を強要し、反省と謝罪を求めているにも関わらず。

日本の歴史を論ずる前に、先(ま)ずは生国(しょうこく)たる支那の歴史と向き合ってから、出直して来なさい。それ迄、『喫茶室』の敷居(しきい)を跨(また)ぐ事罷(まか)り成らぬ。
 

残留孤児判決  投稿者:解法者  投稿日:12月 1日(金)19時16分38秒
   「中国残留孤児に損害賠償認容判決」に異議がある。
 <弱者権力認容判決>の典型的例だと考える。

 戦争の犠牲については国の内外を問わず等しく国民が受忍しなれればならない。
 「中国残留孤児」だけが犠牲者ではない。
 心ならずも戦死・戦病死あるいは戦災死などを余儀なくされた者たちに比べて<生きている>だけ幸せだ。

 「中国残留孤児」今や特権階級と化している。
 残留孤児なにも中国だけではない。フリッピンもいる。
 彼らには家族を日本に呼ぶ権利もある。これをいいことに偽家族を呼び寄せている「中国残留孤児」も多い。
 こうした<偽家族>は犯罪の温床となっている。

 これまで「残留孤児判決」はなされているが、こうした<弱者権利>を認めたものは今回が初めてだ。
 <偏向判決>である。
 国は直(ただ)ちに控訴し、破棄を求めるべきである。
 

将来のことなど誰にもわからない  投稿者:解法者  投稿日:12月 1日(金)16時24分35秒
   「核武装」、「徴兵制」だって、アメリカが衰退して東アジアの安全を守れなかったり、方針転換して中共と野合したり、朝鮮が中共の属国になったり、そういう時には、そういう選択肢も十二分に有り得る。

 黄東洋(東京都民)さんの言われるとおり、<一寸先は闇>
 

日本の徴兵制の可能性  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 1日(金)14時47分57秒
  「徴兵制!無理…!無理」は餓鬼の落書き。

「防衛庁の昇格は実現しそうですが徴兵制はありえないと思う」というようにちゃんとした文を勉強した方がいい。少し前ならこの人も「防衛省!無理」と書いてただろうな。
10年ほど前は閣僚が改憲を口にしただけで解雇されましたが、今では改憲が主流になっています。
そもそも「革新」を旗印にしていた共産党、社民党一派が改憲案を出さないのが最大の弱点です。

從って、徴兵制もどうなるかわかりません。

所謂(いわゆる)「ニート(不就労、不就学青年)」をなくすには徴兵制を復活させるのが一番いい。

またもう一度日韓併合をして、かつての滿洲開拓のように失業者などをそこに送り込む手もあります。

現実的には、防衛庁が職のない人たちから自衛隊の海外復興支援を補佐する人たちを募集したり、イジメをやった連中に慈善事業(ボランティア)を義務化する形で徐々に進む可能性もあります。軍隊に入ると車の免許も取れますし、色々な職業訓練ができます。

各種職業訓練は刑務所でもやっているようですから、所謂「ニート(不就労、不就学青年)」を全員逮捕する手もあります。出所したらどこで雇いましょうか。

これらは当然、不就労者やイジメをやる連中がいるせいで、日本再軍備が「警察予備隊」から始まったように、日本内外で不安定要因があるとそういう結果になります。それはそういう要因を作っている大衆のせいでもあります。

そもそも戦争や領土擴大は雇用確保と市場擴大の意味もあったわけです。
実を言えば、今、日本企業が滿洲(今の中国東北部)で現地企業などと協力して市場を擴大したり、日本と韓国がアメリカも加えて経済や防衛で協力したりしているのは、かつての「滿洲国建国」や「日韓併合」の目的を達成しているわけです。ですから日本が外に打って出る必要はありません。あるとすれば日本が攻撃される場合、または在外日本人が危ない場合だけです。

支那では切符賣り場などで軍人が相当、優遇されています。我々日本人も自衛官のみなさんを尊敬しましょう。
 

RE:日本の奴隷制  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 1日(金)14時20分5秒
  秦の始皇帝も「侵略」をたくさん重ねてたくさんの奴隷を抱えていただろうし、兵馬俑(へいばよう)も埴輪(はにわ)の大掛かりなものに見える。

まあ、当時はそれが常識だったわけで、支那戦国時代や日本の大和(やまと)時代の話をしても「昔話」。またはアカデミック(学術的)な論議として距離を置いて眺めるべきでしょう。私としては「月の海はどうしてできたか」、「恐竜はなぜ滅んだか」という問題と同じ感覚で見ることにしています。

紀元前の始皇帝の時代も紀元後の三国志の時代も、どうして国家統一に国際会議でなく戦争を選んだのか。大和朝廷と同じです。

映画『英雄』でも秦王自ら鎧(よろい)に身を包んだ将軍のような姿で、「国とは城と軍隊である」という「中華軍国主義」の価値観が鮮明。今の支那を見てもそこは大して変わっていません。

長寿(?)につながる健康食品か何かのCMで吉永小百合と競演していた始皇帝(に扮した現代人)は「真讓人羨慕阿(Zhen rang ren xianmu a)」(=誠にうらやましい)とか言っていました。

始皇帝は漢字の統一を目指した人ですが、今の漢字文化圏が漢字“分化”圏と化している有様(ありさま)を始皇帝はどう思っていることやら。それはまた後(のち)ほど改めて書きます。

昔の支那の王様は貨幣や文字を統一する目的でも戦争をしたのでしょうか。
 

関東軍の一等兵  投稿者:広東軍の屯田兵  投稿日:12月 1日(金)12時28分57秒
  >伝家の宝刀

おやおや。管理人さんの口から直接それが何か聞き出すつもりかい?

相当、神経が鈍いのか、はたまた太いのか、どっちかだね。

普通は管理人さんに警告されたら、おとなしくなるもんだけど。一等兵君は二等兵から昇進したわりには、常識ってものを持ち合わせてないみたいだね。
 

覚醒剤の値段  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 1日(金)11時59分45秒
  (西村眞悟通信より引用)
 今、大阪においては、覚醒剤の末端価格は、十倍になっているという。この価格が、上がり始めたと聞いたのは本年の夏であったから、それから急上昇してきたのであろう。
 もっとも、覚醒剤は禁制品で、所持はもちろん使用や販売も、重い刑罰が科される。従って、この価格が上昇したからと言って、一般の生活に影響が出るということはない。違法な覚醒剤常用者と覚醒剤販売によって巨額の金を集めている闇のアウトローの組織に影響が出るだけである。そして、北朝鮮の国家収入にも!

 西村眞悟さんはこの問題をもう少し詳しく述べていますが、とにかく、今年の夏に北船の入港を厳しくしてから、覚醒剤の値段が急上昇したのです。
 いったい、なぜ、これまで放置していたのでしょうか?
 

『卑弥呼と日本書紀336』  投稿者:オロモルフ  投稿日:12月 1日(金)11時54分24秒
  [承前]

〔四〕皇宮跡と日本を代表する巨大前方後円墳の群

 巻向(まきむく)川をすぎると、そこはすでに広大な纒向(まきむく)遺跡の東端であり、野見宿彌(のみのすくね)らの伝承による相撲(すもう)神社がある。
 そしてその相撲神社のあたりが、第十一代垂仁(すいにん)天皇および第十二代景行(けいこう)天皇の皇宮があったとされる場所である。
 有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)もここで生まれたのだ。
 この由緒ある皇宮跡をすぎてしばらく北へ行くと、そこに景行天皇陵や崇神(すじん)天皇陵があり、超巨大な前方後円墳が偉容を誇っている。

 さらにそれらを過ぎると、山の辺の道は天理市に入り、先に述べた《石上(いそのかみ)神宮》の境内(けいだい)を通って北上し、最後は奈良市東部の春日山あたりに到達する。
 この「山の辺(べ)の道」とその両側の地名――初瀬(はつせ)・三輪・巻向・大神・海石榴市(つばきいち)など――は、万葉集(まんにょうしゅう)に頻出するので、万葉の里とも呼ばれ、行楽(こうらく)期には古代を想って訪れる人たちで賑わっている。

 一方JRの下を――つまり山麓から少し離れた平地を左に行くと、有名な《箸墓(はしはか)》または《箸墓(はしのみはか)》がある。
〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の御墓といわれている最古の超巨大前方後円墳だが、これについては後に詳述する。
 この《箸墓》を含んでさらに左やその下部が、広大な纒向遺跡である。巻向川と初瀬川もこの遺跡のなかを流れて、やがては大和(やまと)川本流に合流している。

 ということは、大阪湾から大和川を遡航して海石榴市に達する途中に、船便がこの纒向遺跡を通ったということで、これはすなわち、この遺跡が、瀬戸内海や大阪湾を介して西日本や海外と水利の便をもっていたことを意味している。
 九州・四国・山陽はもちろん、シナや朝鮮からでさえ、船便のみでここ《大和》の地まで来ることができたのだ。

**********

 この遺跡については別の章で述べるが、崇神〜垂仁〜景行三代の皇宮が周辺または内部にあることから、そこがこの三代の天皇の都であったことは確実であり、本書では《纒向京》と呼ぶことにしている。

[次ぎは「第八・五節 《三輪山》と《大神(おおみわ)神社》2 ――千古の謎を秘めた三ツ鳥居の奥――」]
 

9条  投稿者:関東軍の一等兵  投稿日:12月 1日(金)11時14分10秒 Remote Host: softbank219049170022.bbtec.net, Time: 1164939250
  >日本が核を持つ?  投稿者:解法者  投稿日:11月30日(木)17時41分57秒
>憲法の改正の必要がないので、当否はともかく可能性は十分に
>ある。

日本の核武装はアメリカが許さないので不可能に近いですね。
日本が核を持つと、次は韓国が持ちますよ!なぜなら韓国にとって日本の核武装は脅威です。韓国以外の国も競って核を持ち始めてしまう。そうなったらおしましです。

日本のヴェトナム戦争不参戦は9条と無関係  投稿者:黄東洋(東京都民
>日本がヴェトナム戦争に参加しなかったのは「9条」のせいではありません
理由になっていません。

>アメリカが世界各地でやる戦争が日本の国益にとって意味がないと判断すれば派兵を断ることも可能です。

 そうです。中級の裏側までついていく必要はありません。
しかし、現実はどうか?イラクに派兵していますよ!!
九条のおかげで自衛隊は戦闘に参加することなく、国際貢献だけですんだ。
湾岸戦争の時だって日本人が死ななかったのは、九条があったからではないでしょうか??

>日本は以前、ドイツと同盟関係だったとき、戦争はしたものの、ドイツのユダヤ人虐待には断固反対し、ユダヤ人を滿洲や日本本土に入れて救っております。

 3国同盟と日米同盟とでは違いますからね。
今の日本はアメリカなしでは何も出来ません。
ダカラ日本はアメリカに物申すことが出来ないのです。
ドイツとアメリカを一緒にするのは無理がありますね。

>実際、ユーゴスラヴィアやイラクへの対応で、明らかに独自の軍隊を持っているロシアやフランスや中国がアメリカに同調しなかった例を見れば歴然です。

日本とアメリカの関係を見ればわかりますが、他の国が断ることが出来ても日本は出来ません。そんなに強い権限がこの国にはないですし・・・

竹下さま
伝家の宝刀とは?
 

日本の奴隷制  投稿者:解法者  投稿日:12月 1日(金)08時27分46秒
   日本の奴隷制の整備は、中国の「律令制」を模倣したのが嚆矢(こうし)
 8世紀初頭には律令制の崩壊とともに姿を消した。
 中国・朝鮮では近代まで存在した。
 この差は何か。これは日本が奴隷の存在がなくとも社会が機能したということだ。
 氏族制と奴隷制は対立するものではなく、並存する。
 氏族制から奴隷制に移行したのではない。

 それと天皇制度と奴隷制度は何の関係もない。中国の「律令制」を採用したために「奴隷制」が出現しただけの話であって、両者には必然性はない。
 だから、「奴隷制」がなくなっても天皇制度は存続した。
 ここが中国・朝鮮との大きな違いだ。この国は「奴隷制」がなくなったら存続できなかったのである。

 関羽 雲長(上海市民)君 勉強が足りない。というか未(いま)だにマルクス史観から一歩も脱していない。
 君が中国人かどうかはわからんが、そういう立論は中国でも通用してるか疑問だ。
 <マルクス史観>など既に破綻(はたん)し、崩壊している。
 

「レイプ・オブ・南京」とは笑わせてくれますね  投稿者:愛知県人  投稿日:12月 1日(金)04時42分27秒
  実際はこういうことなんでしょう


米で反日捏造史観映畫 「レイプ・オブ・南京」下敷き 年明け發表  投稿者:*****  投稿日:**月**日(*)**時**分**秒

 米國の大手インターネット企業「アメリカ・オンライン」(AOL)のテッド・レオンシス副會長(50)は支那人から支拂われる巨額の報酬に目が眩(くら)み、南京事件(1937年)に取材した映画「南京」(假題)を制作し、年明け以降、發表する。ドキュメンタリー作品の體裁だが、レオンシス副會長には歴史を眞摯に學んだ形跡が全く見られず、また制作資金が支那から支拂われる關係上、史實の認定は反日的な捏造歪曲歴史観で知られ、最終的に精神疾患を患(わずら)い「狂って」自殺した中國系米國人作家で日本人の敵である、故アイリス・チャンという外道(げどう)の「レイプ・オブ・南京」を踏まえているとされる。されば、この映画が完全なるフィクション(虚構)であり決して歴史的眞實を映像化するものでもなく、單なる卑怯なプロパガンダ媒體に過ぎないであろうことは言を俟(ま)たない。公開されれば來年70周年を迎えるとされる、存在自體が極めて疑わしい同事件や歴史問題にかこつけて、日本の國際的立場を貶(おとし)め、自國に有利な國際與論を惹起したくて仕方のない支那と、自らの侵掠や虐殺の歴史を全て日本に押し付けて逃げ切りたい米國(及び歐洲)の外道共との利害が一致し、日本に深刻な影響を與える可能性もある。資本主義に則り、金さえ得られれば道義さえ斟酌(しんしゃく)せずに飛びつく歐米人の卑(いや)しさ故(ゆえ)でもあるが、それなら尚一層の事我々は是を潰(つぶ)す必要があるといえよう。さて、本當に國を愛する「愛國支那人」ならば、このような不毛な事をしている暇(ひま)を有効活用し、自國民を大量虐殺した凶惡なる獨裁者に因(ちなん)んで「レイプ・オブ・毛澤東」或(ある)いは衆目の前で堂々と行われた市民虐殺を告發すべく「レイプ・オブ・天安門」という映畫でも作るべきであるが、チベットや東トルキスタン、更には内モンゴルにて如何(いか)に残忍な事が行われているかを知ってか知らずか、すっかり共産黨に洗脳されて仕舞い、眞っ當(まっとう)な判斷力を喪失した知能の低い支那人に、このような高尚な行動を期待するのは殘念乍(なが)ら無理というものであろう。日本人を非難する前に、自國政府や自民族が現在に於いても尚、如何に罪のない周辺諸民族を武力に依って彈壓しているかを認識するのが先というものだ。その認識すら持たぬ白痴支那人の書く文章に説得力など全く無いのである。
 

ヴェトナム不参戰は9条と無関係  投稿者:黄東洋(東京都民)  投稿日:12月 1日(金)00時41分37秒
  日本がヴェトナム戦争に参加しなかったのは「9条」のせいではありません。假に日本が早々に「9条」を破棄し、徴兵制と軍隊を持って、独断で参戦できる国になったとしても、アメリカが世界各地でやる戦争が日本の国益にとって意味がないと判断すれば派兵を断ることも可能です。

日本は以前、ドイツと同盟関係だったとき、戦争はしたものの、ドイツのユダヤ人虐待には断固反対し、ユダヤ人を滿洲や日本本土に入れて救っております。
9条真理ヘ信者はそういう頭が回らず、戦争をするかしないかが「9条」の有無だけで決まると思い込んでいる石頭なのです。

実際、ユーゴスラヴィアやイラクへの対応で、明らかに独自の軍隊を持っているロシアやフランスや支那がアメリカに同調しなかった例を見れば歴然です。

日本語がおかしい。「真実な」だの「ふんどし」だの「厳密に包む」だの。
 

真実な日本の歴史(二)  投稿者:関羽 雲長(上海市民)  投稿日:12月 1日(金)00時20分25秒 Remote Host: 222.64.114.197, Time: 1164900025
  筆者は中国の第2次世界大戦史研究会の会員で、日本の侵略と拡張の歴史を研究してきた。僕は、「日本は大化改新で封建主義国になって、明治維新で帝国主義国になった。」という歴史の定説は決して歴史の事実ではないと思います。つまり、大化改新と明治維新を経歴してきた大和民族の道徳観や宗教観は、まだ氏族社会や奴隷制社会の特徴を持ているということである。この特徴はそういう定説で釈明されることができないだろう。

紀元前2、3世紀から大化改新まで、原始氏族社会の日本は奴隷制社会に進化し始めた。この時期の日本はただ、氏族社会を主として、統一していない初級の奴隷制社会の発展途上国しかではなかった。この時、本物の国家ではない、何百の奴隷制部落はまだ創り上げたばかりで、いくつかの奴隷制の小国は中国から先進的な封建主義を導入した。そのなか、畿内の大和族は大陸から移住者が持ってきた鉄器、農耕の技術、蚕糸の生産技術を生かして速くて強くなった。大和族は戦争で日本を統一し、天皇制という奴隷制度の国を創った。

西暦紀元593年(中国の隋朝の時期)、奴隷主貴族の蘇我馬子は崇峻天皇を殺し、推古天皇(女性)を擁立した。聖徳太子は摂政して、実権を掌握した。奴隷主天皇制はついに確立し始めた。しかし、聖徳太子が死んた後、朝政の権力はまた奴隷主貴族に奪い取られた。西暦紀元645年、中大兄皇子は政変で実権を奪い取った奴隷主貴族の蘇我入鹿を殺し、皇極天皇を退位するように強制した。孝コ天皇を擁立し、大化という年号を作って、皇太子の名義で政権を握った。そして中国の唐朝の制度を見習う大化改新を行った。

大化改新で皇権を奪回し、そして中国の唐朝の封建制度に似た革新を行ったが、しかし、この時の日本はまだ氏族社会から奴隷制社会に進化したばかりで、大化改新で完全に氏族制と奴隷制の社会基礎と本質を捨てることができなかった。実は、大化改新の目的は、氏族部落や奴隷制小国を統一したばかりの日本で、奴隷主が統治できる奴隷制度の国家を創ることだけである。この時の日本は、中央集権の統一した奴隷制度の国家がまだ創ったばかりで、まだ強化していなかった。大和部族を主体にした全国の各部族も、まだ統一の大和民族になり始めたのである。ですから、大化改新の本質はただ奴隷主義的な革新で、目的は統一した奴隷制度の国家を創って、国力を発展して、そして対外拡張することである。この社会発展段階の日本は、中国の中央集権の統一した奴隷制度の国家を創ったばかりの夏朝に似ると言われる。

つまり、この時の日本は、ついに奴隷制社会に入ったのである。この過程について、日本とその他の国家との区別は、大化改新で先進的な中国の封建主義文明を、奴隷主階級の要求に応じて改造し、そしてこの改造したものを奴隷制度のふんどしとして、氏族制と奴隷制の社会制度や民族特性を厳密に包んだのである。実は、大化改新の後の日本は、「表から見ると封建主義で、裏は氏族制と奴隷制である。」という変異の形態、変異の人種と変異の文化に過ぎない。
 

関東軍の二等兵氏へ  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:12月 1日(金)00時09分24秒
  貴方も中華愛国某氏と同様です。
これ以上は不毛ですし、『喫茶室』の空気が乱れる、いや実際に乱れている以上、看過する訳にはいきません。従って、「伝家の宝刀」を抜く前に、自らの身を処される事を強く求めます。
 

中華愛国某氏へ  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:12月 1日(金)00時04分10秒
  中華愛国某氏、今度は「関 雲長」名義での投稿ですか?

 関 雲長
  11月30日(木)19時04分41秒 Remote Host: 210.13.104.43

 中華愛国掲示板氏
  11月30日(木)16時51分20秒 Remote Host: 210.13.104.43
  11月20日(月)16時22分42秒 Remote Host: 210.22.134.187
  11月20日(月)15時07分25秒 Remote Host: 210.22.134.187
  11月20日(月)01時36分27秒 Remote Host: 221.221.184.29
  11月20日(月)01時02分26秒 Remote Host: 222.64.115.64

日本大使館襲撃事件にしろ、通州事件にしろ、義和団事変にしろ、自国(支那)が犯した犯罪に対しては、何のコメントも無く無視されている様ですが、我々はあなた方の反日的言動、然も色褪(いろあ)せた様な「世迷(よま)い言(ごと)」── 例えば「南京大虐殺」や「三光作戦」等に代表される「与太話」(作り話)に、付き合う積もりは毛頭ありません。いい加減うんざりです。又、これ以上、『喫茶室』の空気が乱れる事を管理者としても望みません。
従って、自主的退去を勧告します。どうぞ、お引き取り下さい。
 


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