Archives of the Salon's log
喫茶室 過去ログ92(2007.1.1〜1.31)

帝國電網省:[ トップページへ ]

喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2007年2月のログ] [2006年12月のログ]


『卑弥呼と日本書紀397』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月31日(水)12時49分2秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇二十五年〜二十七年(西暦九五年〜九七年)
 〔武内宿禰(たけのうちのすくね)の活躍のはじまり〕

 二十五年に、武内宿禰が活躍をはじめる。
 すなわち北陸や東国の巡視に出発し、二年後の二十七年に戻ってきて、地理や人民の様子を報告するが、その内容は、東北地方に蝦夷(えみし)という人たちがいて乱暴なので討(う)つべきだ――というものだった。
 武内宿禰はこれまで何度か出てきたが、景行天皇から成務天皇・仲哀天皇・神功(じんぐう)皇后をへて應神天皇まで、五代の天皇・皇后に仕(つか)えた大重臣である。
『記紀』紀年のままだと二百年も仕えたことになるが、推定実紀年でも五十年以上にわたって重臣であり続けたことになる。

▽景行天皇二十七年〜二十八年(西暦九七年〜九八年)
 〔日本武尊(やまとたけるのみこと)の九州遠征〕

 二十七年、景行天皇の遠征で平定したはずの九州南部がふたたび不穏となり、熊襲(くまそ)が天皇の土地を侵(おか)すという事件が起こった。
 そこで天皇は日本武尊を九州に派遣した。
 日本武尊はこのときまだ十六歳だったが、すでに強力な武将であり、部下をつれて九州に渡る。
 そして熊襲の首長の川上梟帥(かわかみたける)の宴席にまぎれこみ、梟帥を討つ。死ぬ間際(まぎわ)に梟帥は皇子を讃(たた)えて、日本武皇子と呼ぶべきだと述べる。
 これが日本武尊という尊称の語源だという。敵に尊称を与えられたのだ。
 日本武尊はそのご熊襲の残党を討ち、また瀬戸内海を通っての帰路に吉備(きび)や難波(なにわ)の賊を平(たい)らげて帰還する。

[つづく]
 

テスト  投稿者:テスト  投稿日: 1月31日(水)00時47分13秒
  神の本質(ウーシア)の人間理性からの超越性
神の働き(エネルゲイア)の被造世界への内在性、人間理性への自己開示

父は子を遣わす。  子は父を知らしめる。
子は霊を遣わす。  霊は父と子を知らしめる。

父は生まれざるもの。
子は父から生まれたもの。
霊は父(と子)から出たもの。

父は子におり、子は父のうちにいる。
父と子はひとつ。

子は造られたものではない。
霊は造られたものではない。

子は神の言、神の知恵、まことの光。
子は人となった。
子は、子を信じる者が死なぬため、十字架で死なれた。
子は、子を愛する者が生きるため、三日目に死からよみがえられた。
子は、子を愛する者たちに聖霊を注ぐため、弟子たちの面前で天に昇った。
子は、一人でも多くの者が主に立ち返るため、栄光を帯びて再臨する時まで、父の右の座につく。
子は、子を愛す者たちへの報いを与え、子を否む者たちを否むために、再臨される。
 

テスト  投稿者:テスト  投稿日: 1月31日(水)00時13分7秒
  > 李氏朝鮮−徴税許可地域: 漢江流域以南、
>              ただし太白山脈以東と済州島は不可。

>    太白山脈は風水地として人跡未踏や処女地を残し、立ち入り禁止。
>              とうぜん、竹島(松島)周辺は、
>              米子の漁師の漁場で、朝鮮領でなかった。
>
> 李氏朝鮮−漢江流域以北、
>      漢城明洞(ハンソンみょんどん)は、中国人居住地。
>      ソ連軍が侵攻前まで、北朝鮮には多くの中国人集落があった。


 大同江以北は、ほとんど中国人集落か、朝鮮人の流刑者とその監視人
 大同法(てドンぽぷ)

 平壌(ぴょんやん)の宣化堂(そんファだん)の監司(カムさ)

 漢江流域以北、汶山(むんサン)への河。

 漢城(はんそん)の景福宮(きょんぽっくん)
  赴任する王の道(一級国道は4人幅の道で、馬・車が無く許可者以外通れない道)

 東莱城の府の富山浦(プサン港)の鎮の沖合い3,4kmにある
  草梁島(ちょんちゃんど)の倭館(うぇかん)での開市(交易)に限る鎖国

−−−−−−−−−−−−−−−
 

『卑弥呼と日本書紀396』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月30日(火)12時26分44秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇十三年〜二十年(西暦八三年〜九〇年)
 〔九州を巡って熊襲(くまそ)らを討伐〕

 十三年には熊襲の襲(そ)の国の平定に成功し、以後六年間は高屋宮を拠点として九州平定に力を入れ、またそこで一人の妃(きさき)を得て皇子が生まれる。
 十七年に、《大和(やまと)》を偲(しの)んで、

  やまとは 国のまほらま たたなづく
  青垣(あおがき) 山こもれる やまとし 麗(うるわ)

 ――という有名な歌を詠(よ)まれる。
『古事記(ふることふみ)』ではほぼ同じ歌が日本武尊(やまとたけるのみこと)の作といわれており、第一章のトビラ裏に載せてある。
 十八年に、九州の各地の平定のほか兄夷守(えひなもり)と弟夷守(おとひなもり)を派遣して視察させた話がある。
 これは鄙(ひな/辺境)を守る役人といった意味で『魏志倭人伝』にある九州の奴国や不弥国の卑奴母離(ひなもり)という役職名と同じだと考えられている。

 また、いまの筑後(ちくご)市や八女(やめ)市周辺とされる八女県(やめのあがた)で、八女津媛(やめつひめ)という女神が山に棲んでいることを見つける。
 これも勢力のある巫女(みこ)の一種と考えられるが、岩倉使節団の記録「米欧回覧実記」の執筆で有名な古文書学の創始者・久米邦武は、この八女津媛こそ〈卑彌呼〉ではないか――と推理している。

 こうして九州の平定に一応の区切りをつけた景行天皇は、十九年に《大和》に帰還された。
 足かけ八年におよぶ大遠征であった。
 帰還の翌年、娘の五百野皇女(いほのひめみこ)に〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の祭祀(さいし)を命じられた。
〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉が没したとはされていないので、老齢になった〈倭姫命〉の補佐をしたのかもしれない。

[つづく]
 

地理歴史ウンチク  投稿者:○投稿  投稿日: 1月30日(火)09時05分16秒
 
 シベリアのツングース系少数民族の墓の
 埋葬品から「日本の銅銭(寛永通宝?)」が発見される。

 カムチャダール(カムチャッカ半島の民族)が
 鉄(釣り針)を使っているのを発見
 シュムシュ・ホロムシルのアイヌがカムチャダールと
 毛皮や内陸食料と物々交換で入手していたと判明。
 釣り針は、クスリ(釧路・在所−番所に港町のある会所)で
 アッケシのアイヌと交換しているものと同一といわれる。

 黒竜江=サハリャン・樺太=クヴェイ[満語]・千島=クリール
 北海道
 本州
 対馬・九州
 沖縄・小笠原
 台湾・マリアナ
 パラウ・ミクロネシア(トラック・ビキニ・グリニッジ等)
 パプア−ニューギニア

 オーストラリアのアボリジナルの墓の
 埋葬品から「日本の銅銭(寛永通宝?)」が発見される。


戦前に人の住む千島
 シュムシュ・ホロムシル(色丹に強制移住・守備日本軍)
 シムシル(守備日本軍)
 ウプッル(日本人)
 エトロフ(アイヌ・日本人)
 クナシリ(アイヌ・日本人)・シコタン(アイヌ人)

北海道アイヌ(厚岸・阿寒・日高・胆振・余市[ニセコ〜留萌])
樺太アイヌ(シュミット線のタイガ冷帯森林にあるコタン)
黒竜江アイヌ(尼港=ニコライエフスクから黒竜江河口の間)
 

『卑弥呼と日本書紀395』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月29日(月)12時43分4秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇十二年(西暦八二年)
 〔熊襲(くまそ)の叛乱と出征〕

 この年の七月、九州の熊襲が背(そむ)いて朝献がなかったので、八月に熊襲討伐に出発する。
 九州北部から山陰・山陽までは崇神(すじん)・垂仁(すいにん)両天皇の御代(みよ)になんとか平定できたが、その先の九州南部はなかなか大和(やまと)朝廷に服さなかったことがわかる。
 景行天皇の九州遠征の経路は図8.15に示してある。

図8.15
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 九月には神夏磯媛(かむなつそひめ)という祭祀(さいし)を司(つかさど)る巫女(みこ)の知らせで四人の賊を討つ。

 この媛は大きな鏡を吊り、白い旗をかかげて帰順の意を示して天皇を出迎えたとされる。
 九州に〈卑彌呼〉的な強力な女性がいたことを示すエピソードの一つである。
 またこのときの白旗が、日本の文献に「旗」が記された最初である。降伏の白旗が最初というのも面白い。
 どうよう形状の旗だったのだろうか。

 さらに十月には速津媛(はやつひめ)という土地の首長の知らせで五人の賊を討った。
 この媛の存在も、女性が一族の長となる例があったことを示しており、興味ぶかい。やはり巫女的な女性だったのであろう。

 十一月には日向に仮の皇宮である高屋宮(たかやのみや/図8.15)を造営し、そこで熊襲征伐の作戦を練り、二人の熊襲首長を、その娘を利用して策略で討伐する。
 大和朝廷はつねに策をもって反抗者を処罰し、帰順すれば厚遇し、真正面からはあまり戦わずに成果を挙げていたことがわかってこれも興味ぶかい。

[つづく]
 

返還か、戦争による割譲か?  投稿者:○投稿  投稿日: 1月28日(日)17時55分58秒
  李氏朝鮮−徴税許可地域: 漢江流域以南、
             ただし太白山脈以東と済州島は不可。
   太白山脈は風水地として人跡未踏や処女地を残し、立ち入り禁止。
             とうぜん、竹島(松島)周辺は、
             米子の漁師の漁場で、朝鮮領でなかった。

李氏朝鮮−漢江流域以北、
     漢城明洞(ハンソンみょんどん)は、中国人居住地。
     ソ連軍が侵攻前まで、北朝鮮には多くの中国人集落があった。

李氏朝鮮−巨済島は、李朝前の呼称が、済州島だった。

     巨済島は、加羅任那(から、みまな)
     時代の呼称が、沙都の島(そとのしま→さどのしま)だった。

     済州島は、加羅任那
     時代の呼称が、耽羅(とむら)だった。

     錦江は、百済時代の呼称が、白村江(はくすきのえ)だった。

     忠清道の公州は、百済時代の呼称が、熊津(くまなり)だった。

ロシア−ニコライエフスク(尼港・黒竜江河口と樺太島の対岸の間)は、
     1803年ごろの間宮林蔵の探検時期は、
     アイヌ式家屋のコタン(集落)があった。

ロシア−サハリン: 大泊に松前藩の陣屋在所と港町があった。
          久春内に越冬所の番所・会所があり
          松前藩のみでなく、津軽・南部・佐竹・伊達の
          諸藩の数千人のロシアの南下防ぎの宿営があった。
          ソノ当時は、まだ
          ロシア人の町はサハリン北部にもなく、
          アイヌと日本人しか住まず、
          日本人港に強制寄港したロシア人が
          強奪殺人を繰り返した。

ロシア−クリール: ウルップ・マカルのアイヌは虐殺され
          エトロフに避難したが、
          エトロフでもロシア人に暴行虐殺され
          たまらず反撃に出て、
          エトロフのロシア人11人を全員虐殺し、
          ウルップに逆襲してロシア人を26人殺害した。
          エトロフのアイヌはロシア人に返り討ちに遭い
          エトロフにロシア人が日本人より先に定住する事になる。

          マカル・ウルップよりさきの
          シムシルのアイヌの歴史は不明。
          ロシア人側にアイヌ虐殺定住で港新設の話を聞かない。

          ホロムシル・シュムシュのアイヌは生存し
          サンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)に
          より色丹島に強制移住させられる数百名なり。
          ソビエト軍の虐殺を恐れ、北海道に移住し
          ホロムシル・シュムシュや色丹に帰れない。

沖縄(鹿児島県、南緯30度以北の奄美除く)、アメリカ軍が返還。
小笠原、アメリカ軍が返還。

マリアナ、グアムを残し、独立。
パラウ(南洋庁の所在地の島)、独立。
ミクロネシア(トラック・ビキニ・グリニッジ・ポナペ)、独立。

ハワイ、日清戦争以来、まだ独立は許されず。
台湾の高砂族(蕃族)は、地方自治や独立が許されず。
 

『卑弥呼と日本書紀394』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月28日(日)12時21分52秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇四年(西暦七四年)
 〔成務天皇の誕生と《纒向(まきむく)京》の建設〕

 崇神(すじん)天皇の孫にあたり、かつ〈倭大國魂神(やまとおおくにたまのかみ)〉を《大和(おおやまと)神社》に祀(まつ)った渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)の姪にもあたる、美濃国(みののくに)の八坂入媛(やさかのいりひめ)を妃(きさき)とされ、七男六女が生まれたが、その長男稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)がのちの成務天皇である。
 景行天皇にはこの他にも多くの妃がおられ、皇子・皇女の数は八十人に達した。
 このうち、日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚足彦尊、五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)の三人を除いては、諸国に向かわせられた。
 これらが別王(わけのみこ)で、諸国にいて「別(わけ)」という名のつく首長たちはこれらの皇子・皇女の子孫である――と記されている。
 ワケの語源譚である。

《大和》に残った三人のうち、日本武尊は悲運の最期を遂げるが、稚足彦尊は次代の成務天皇になり、五百城入彦皇子は應神天皇妃の祖父となった。
 またこの年、美濃国の美人姉妹の容姿を大碓皇子(おおうすのみこ)に確かめに行かせたところ、この皇子は姉妹と密通してしまい、復命しなかった。

 さらにこの年、纏向に都を造り、同時に皇宮の日代宮(ひしろのみや)を造営された。この日代とは、檜(ひのき)を植林した場所という意味で、《檜原(ひばら)神社》の檜原に隣接している。先代の垂仁(すいにん)天皇の皇宮とも隣接した場所である。
 図8.1の12である。
 纏向の都とは、やはり図8.1で《纒向京》と記してある部分で、崇神天皇の時代からあった都を、点線の方形面積にまで拡大したものと想像される。

図8.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀393』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月27日(土)13時06分53秒
  [承前]

 垂仁(すいにん)天皇の御代(みよ)に本人の希望によって二十一歳で皇太子になった三男の大足彦命(おおたらしひこのみこと)が、即位して景行(けいこう)天皇となった。
 景行天皇は、崇神(すじん)天皇時代の四道(しどう)将軍派遣よりもさらに遠方まで軍勢を派遣して、大和(やまと)朝廷の勢力範囲を九州や東国にまで拡大したことで知られるし、またその勢力拡大に尽力した日本武尊(やまとたけるのみこと)の父親としても知られる。
 名前の「足(たらし)」は、満ち足りたという意味で、つぎの成務から神功(じんぐう)まで三代の天皇・皇后にもついている名前である。
「忍代(おしろ)」は圧し領治するという意味らしい。
「別(わけ)」は五世紀中葉以前の貴族・豪族が用いた称号で、高貴な血統から分かれ出た――との意味である。
 第八・九節の稲荷山(いなりやま)刀銘の系図でも、景行天皇の時代以後に連続して「ワケ」のつく人物名が出てきている。
 景行天皇以後に使われた名だと『日本書紀(やまとのふみ)』に記述されているが、それと考古学的発見とが一致しているのだ。

▽景行天皇二年(西暦七二年)
 〔日本武尊と武内宿禰(たけのうちのすくね)の誕生譚(たん)

 播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とされた。
 この皇后は双子をお生みになった。第一子を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二子を小碓尊(おうすのみこと)といった。
 この小碓尊はまたの名を日本武尊といい、雄々しい気性(きしょう)で身の丈(たけ)一丈もあった。一丈は三メートルだが、ここでは大男という意味である。
 皇子と尊の使い分けは、尊のほうが皇位継承予定者であることを示している。
 翌年の項で、武内宿禰の誕生譚が語られている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀392』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月26日(金)12時18分17秒
  ■■■■■ 八・十一 悲劇の王 日本武尊(やまとたけるのみこと)が活躍する第十二代 景行(けいこう)天皇紀 ■■■■■


 景行天皇と『魏志倭人伝』との関係は、それほどつよくはないので、ごくおおまかな記述にとどめることにする。
 この天皇の物語は、天皇自身よりも日本武尊の活躍で有名であるが、それはじつに多くの解説書や文学やドラマで語られているので、日本武尊その人に興味のある読者は、それらを見ていただきたい。
 ここでは、『魏志倭人伝』の記述と『記紀』を関連づける参考のために、要点を記述することにする。
 地図については、垂仁(すいにん)天皇紀と同様、図8.1や8.13を見ておいていただきたい。

図8.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

図8.13
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm


◆◆◆ 第十二代 景行天皇の物語 ◆◆◆

 国風謚号(しごう) 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
 漢風謚号 景行天皇
〔在位・西暦七一年〜一三〇年〕
〔降誕・西暦前一三年/崩御・西暦後一三〇年〕*
〔皇宮・纏向日代宮(まきむくひしろのみや)他(桜井市三輪山麓北西部)
〔御陵・山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ/奈良県天理市渋谷町――三輪山麓北部)
  *崩年干支は不明だが前後関係から西暦三三〇年代か
  (崩御(ほうぎょ)時数えで百四十三歳/本文では百六歳)

[つづく]
 

鷹森?桜森?  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月26日(金)11時37分59秒
  へ〜、残留孤児の件には、いつまでも複雑ですね。三重県と言うのは、祖父の養父が言ったのと同じですけど、苗字の点には問題があります。祖父の養父は、当時に中国語で「yingsen」と言って、書きませんでしたが、日本語の発音は分かりません。ですから、「鷹森」か「桜森」か分かりません。中国語の発音は「鷹」と「桜」が同じですから。
天下の事は簡単なのがないのです。
 

『卑弥呼と日本書紀391』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月25日(木)12時21分26秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇九十九年(西暦七〇年)

 この年の七月、垂仁天皇は纏向宮(まきむくのみや)で崩御(ほうぎょ)された。御年百四十歳であった。
 崩年干支による崩御実紀年の推定は、西暦三一一年とされている。
 崩年干支推定がほぼ正しいとすると、在位期間は五三年ということになり、現実的な数字となる。
 また、『魏志倭人伝』にある〈臺與(とよ)〉の時代の後半だと仮定しても矛盾はない。
 そして十二月に菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬(ほうむ)り祀(まつ)った。

 これは崇神(すじん)天皇陵とはちょっと離れていて、現在の奈良市尼辻西町にある。
 奈良市の西部で、近鉄京都線の尼ケ辻駅のすぐそばである。また唐招提寺の北西すぐ近くでもある。
 やはり巨大な前方後円墳で、墳丘長だけで二百三十メートルある。周濠まで含めるとおそらく三百メートルに達するであろう。
 御陵(ごりょう/みささぎ)の写真を図8.14にしめした。

図8.14
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 崇神天皇陵のところでも述べたように、雄大な御陵の造営は次の天皇の力をあらわしている。
 崇神天皇は在位中に《箸墓(はしはか)》を造営したが、垂仁天皇も崇神天皇の巨大御陵をつくった。
 そして垂仁天皇自身のこの奈良市の巨大御陵は、つぎの有名な景行(けいこう)天皇の事績である。

 垂仁天皇崩御の翌年に、田道間守(たじまもり)は無事、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を得て帰国した。しかしすでに垂仁天皇は崩御しておられ、田道間守は墓前で嘆(なげ)き悲しんで死んだ。
 人々はみな涙を流した。
 この田道間守はのちの三宅連(みやけのむらじ)の始祖とされている。
 図8.14に見える、周濠のなかの丸い小島は、田道間守の霊(みたま)を慰(なぐさ)めるために後の人が濠の中につくった墓である。

**********

 垂仁天皇紀はざっとこんなところであるが、崇神天皇紀と合わせて『魏志倭人伝』との関係がいくらでも推理できる内容となっている。
 検討は別の章でなすことにして、次代の景行天皇紀についても、ざっとおさらいしておくことにしよう。

[次ぎは「第八・十一節 悲劇の王 日本武尊(やまとたけるのみこと)が活躍する第十二代 景行天皇紀」]
 

怒り  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月24日(水)13時34分38秒
  もしも、ロシア人は日本の土地を帰さないので、両国間の交流、特に経済と貿易の関係を抑制し、ロシアを圧制しましょう。日本の土地は先輩賢哲の汗と血で得たものなので、気軽に他人に譲ることができますか。これは無理で、不孝行な遣り方だと思います。ロシアに譲れないのですが、ロシア人の野心は枠がないのですから。ロシア人はいつも我利我利亡者な奴だよ。気をつけて、油断するな!  

『卑弥呼と日本書紀390』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月24日(水)13時30分42秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇八十八年(西暦五九年)

 天皇は新羅(しらぎ)王子の天日槍(あめのひほこ)の宝物が但馬国(たじまのくに)の神宝になっているが、見たいものだ――といわれた。
 見たいというのは献上せよ――と同義なので、天日槍の曾孫(ひまご)の清彦が献上に来た。
 玉や鏡、小刀などであるが、清彦は小刀だけは渡したくないと思って衣に隠していた。
 しかし酒席で見つかってしまったので、他の神宝とともに《石上(いそのかみ)神宮》の神庫に奉納した。
 ところがしばらくしてその小刀が消えてしまい、夜にになって自然に清彦のところに戻り、またさらに朝には姿を消してしまった。

 天皇は畏(おそ)れて、それ以上小刀を求めようとはされなかった。
 のちにその小刀は淡路島に自然に到着し、島の人が神として祀(まつ)った。その場所は前に天日槍に与えた土地だったらしい。
 この伝承の解釈はいろいろとできるが、明治になって《石上神宮》の禁足地から出土して重要文化財になっている玉類のなかに、この新羅王子の神宝が含まれている可能性がある。
 残念ながら判別は不可能だが・・・。

△垂仁天皇九十年(西暦六一年)

 天皇は天日槍の子孫で清彦の兄ともいわれる田道間守(たじまもり)に常世(とこよ)の国に行って「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めて帰れ――と命じられた。
 この人物は名前の読みで分かるように、新羅王子の子孫であることを誇りにする但馬地方の豪族であり、主として大陸や半島との外交を専門とした一族だったのだろうと考えられている。
 また一説によれば、『魏志倭人伝』にある難升米(なしめ)と同一族でもある。
(第三章に記したように、田道間→但馬と難升米は、ローマ字で書けばよく似ている)

 常世の国とは不老長寿の国のことで、具体的にはシナの神仙境である。
 また求めた非時香菓とは、常に輝いている香の良い果実という意味で、橘(たちばな)または橙(だいだい)のことだとされている。
 昔は不老長寿の妙薬とされたのである。

[つづく]
 

北方四島  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月24日(水)13時15分48秒
  さっき、北方四島について文章を読んで、感想があります。一つのセンテンスです。
日本の土地を全部で回収しろ!
 

お手伝いがほしい  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月24日(水)12時24分45秒
  皆様のおかげで、実な日本や残留邦人のことがますます分かりました。現在は、日本人の親戚を探していますが、読売新聞に寄って。但し、曽祖父の故郷は三重県と言う事情が知っていますけど、どの町か知りません。これは困ります。うちの家族は中国に70年間ぐらい住んでいますから、充分な資料がないのです。
そして、皆様に頼りますが、お願い申し上げます。
曽祖父の名前は鷹森孝で、三重県出身で、軍人上がりです。
 

デムパ  投稿者:○投稿  投稿日: 1月24日(水)08時47分18秒
  ★★★ 清朝(満州王朝)の中国 ★★★

シベリア−ツングース(ロシア=赤蝦夷・おそろしや、おロシア)松前藩、余市アイヌ
 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑____________________↓
ブリヤート・チタ・外興安嶺(サハリャン[満語]=アムール)・庫葉島(クヴェイ[満語])
蒙古八旗・沿海州(五国部[女真時代])
承徳ラマ宮(熱河・遼西)・東3省(満州)・建州女真(満州先祖地:延辺地区・咸鏡道)
アムド(青海)・陝甘総督・皇帝直轄(山西・直隷[河北]・山東・河南・安徽[南直隷])
ダライ−ラマ(ンドク・プータン)・カム(康)・四川総督・両江総督(江西・江蘇)
両湖総督・閩浙総督(浙江・福建・福州移民[台湾])・福州朝貢(琉球←薩摩藩)
雲貴総督・両広総督・広州朝貢(安南・西洋[香港=イギリス・マカオ=ポルトガル])
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
安南(京族黎氏=北ベトナム・阮(グエン)氏=ユエ)・呂宋(ルソン・フィリップ)
真(カンボジア西部)・占(チャンパー族=南ベトナム・ラオス南部・カンボジア東部)
緬(ビルマ族・カレン族)・進(タイ・ラオス北部)
マラッカ・ブルネイ(東南アジア華僑&インド商人=ポルトガル→オランダ→イギリス)
スマトラ・ジャワ(オランダ←出島貿易・長崎のオランダ東インド会社カピタン)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー−−−−−−−−−−−−−−−
★★★ 日本にデムパした経路 ★★★

方程式:?→南インド→福建・広東→西日本(九州・岡山・京都)→東日本(鎌倉・東京)

達磨大師、南印度人→泉州(福建・越)→南京(呉・建業・集慶)→洛陽崇山少林寺
六祖慧能、広東人→天台山(浙江・越、温州蜜柑・宇治茶・天童)→臨済栄西→曹洞道元
 南宗禅:雲母皿の香木薄板切り石焼き・抹香・線香・味噌・豆腐→梅干・醤油・高野豆腐
ザビエル、南インド→広東→鹿児島。東南アジアで倭寇のヤジロウの情報を得る。
ヘボン博士、インド→香港→六本木・南麻布→東神奈川・生麦→横浜・築地・明治学院
 ヘボン博士、初の英和辞典・原語からの日本語訳旧約新約聖書・外科・検死・眼科
 

アイヌなど北方の歴史  投稿者:えこね  投稿日: 1月23日(火)21時54分29秒
                                      占守・幌筵アイヌ
                                      新知?
黒龍江アイヌ                           マカル・得撫アイヌ
尼港 樺太のアイヌ(植生分布シュミット線)               択捉アイヌ
  留萌のアイヌ                 ウェンベツのアイヌ・国後アイヌ
 小樽 胆振のアイヌ            阿寒のアイヌ・ノッカマップ(メナシ・根室)
松前    日高のアイヌ@平取  釧路(クスリ)・厚岸アイヌ
       日高のアイヌA襟裳
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

奈良時代
 700年代、阿倍比羅夫による津軽津(松前)の寄港と日本海ルートの津軽半島までの開拓

平安初期
 800−900年代、小野春風らによる北秋田のエミシの日本人帰化

平安中期
 1000年代、前九年・後三年の役の頃に、蝦夷が分け島の戦いと閉伊七村山徒の戦いで
        八戸・下北半島と三陸北部(上閉伊郡・上閉伊郡)までの開拓
平安末期
 1100年代、奥州藤原氏による陸奥経営。本州にアイヌ居なくエミシとマタギが日本人に帰化

鎌倉末期〜室町初期(南北朝)
 1300年代、松前・函館(武田氏→蛎崎氏)に対する、渡島アイヌのコシャマインの叛乱

江戸初期(オランダ調査船の漂流と、日本海ルートの北前船による開拓)
 1600年代、小樽港を居城とする余市との交易による、余市アイヌ(樺太・黒龍江)の発見

 1800年代、間宮林蔵の樺太が半島ではなく島であるとした海峡の確認(間宮海峡)
        カムチャッカから来るロシア船による樺太日本人港での武器を発砲させながらの
        日本人強制徴発(レイプや倉庫略奪や船積み込み強制酷使殺人)に対応し
     樺太大泊・樺太久春内に、松前・津軽・佐竹・南部・伊達の武士を4千人あまり配備。
        アイヌ人を日本人の一種と見なし、
        アイヌのロシア人への不始末の賠償を日本人相手に強制徴発。
     1945年9月には、樺太アイヌ・千島アイヌを日本人として北海道に追放や殺害。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
小樽〜尼港のアイヌとの接触
 1.与市アイヌの交易 2.竹○の記録 3.間宮林蔵の探検

国後、越前屋が北前船に武器を積んで逃げた先(松前や幕府と事を構える)

厚岸、飛騨屋が交易で不平等に扱いアイヌを抑圧(メナシ地方での国後の総酋長ツキノエの叛乱)
 

第4回『竹下歴史再考塾』開催のお知らせ  投稿者:竹下義朗  投稿日: 1月23日(火)21時40分0秒
  来る25日(木)、静岡県清水町の清水町公民館 第3会議室を会場に、第4回『竹下歴史再考塾』を開催致します。

主 催:特定非営利活動法人 ウォーター・ビジョン
講 師:竹下義朗
開催日:第4回開催日:1月25日(木) 19:30〜22:00(終了予定)
会 場:清水町公民館 第3会議室
    〒411-0903 静岡県駿東郡清水町堂庭6-1 電話:055-972-6678(地図はこちら
会 費:1回 1,500円 (教材費は含みません)

今回は、「日本の戦争」をテーマに取り上げます。尚、肩肘張ず、ざっくばらんに運営していく積もりですので、どなたでもお気軽にご参加頂けるものと思います。

問い合わせ・申込先:特定非営利活動法人 ウォーター・ビジョン(TEL:055-972-6112)
 

『卑弥呼と日本書紀389』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月23日(火)12時11分57秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇三十四年(西暦五年)

 皇后没後に二人の妃(きさき)を召(め)された。

△垂仁天皇三十五年(西暦六年)

 河内国(かわちのくに)や大和国(やまとのくに)に池をつくり、諸国に八百もの農業用の水路をつくった。これらによって百姓(ひゃくしょう)は富み、天下は太平になった。

△垂仁天皇三十七年(西暦八年)

 大足彦命(おおたらしひこのみこと)を正式に皇太子にされた。

△垂仁天皇三十九年(西暦一〇年)

 皇太子の兄の五十瓊敷命(いにしきのみこと)が剣一千振(ふり)を作り、《石上(いそのかみ)神宮》に納められた。そこで五十瓊敷命は《石上神宮》の神宝を司る役目を命じられた。

△垂仁天皇八十七年(西暦五八年)

 半世紀近くとんでしまうが、《石上神宮》の神庫管理の話が記されている(第七章参照)。
 五十瓊敷命は年老いたのでもはや《石上神宮》の神宝を司ることがむずかしくなり、妹の大中姫(おおなかつひめ)に依頼した。
 姫は女の身で高い神庫に登ることは出来ない――と断ったので、兄は梯子を作るといったが、やはり駄目で、結局、垂仁天皇の重臣の物部十千根大連(とおちねのおおむらじ)に神庫の管理をさせることになった。
《石上神宮》が物部一族の総氏神(うじがみ)になった因縁譚(たん)である。
 またある人の犬がムジナの腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)を取り出したので、これを《石上神宮》に納めた。

[つづく]
 

<コラム>騎馬の威力  投稿者:利亜  投稿日: 1月22日(月)23時39分12秒
  (中略)



 前近代の世界にあって、騎馬はたとえ単騎であっても、その威力は甚大である。それが百騎、千騎、万騎で動員・展開するとなると、これはすさまじいこととなる。歩兵の部隊では、とても歯がたたない。

 宋代中国が馬の購入に必死にならざるをえなかったことをメインテーマに(中略)米国人東洋史家ポール・スミスは、その大著『天府に課税して』(ハーヴァード大学出版局、一九九二年)のなかで、十二世紀はじめに起きた小事件を例にひいている。



北宋が、宿敵のキタイ遼帝国を、新興の女真族の金朝とむすんで打倒した直後のことある。金朝側の講和使節団は、一七騎で本国との連絡のため、河北を北へといそぎつつあった。それを途中で、北宋側の在地軍事指揮官が、二〇〇〇歩兵をもって襲撃した。(中略)



 ところが、武装していた一七騎は、ただちに左・中・右の三隊にみずからを小分けした。中央に七騎、左・右に五騎ずつである。(中略)三隊は、駆けめぐり、射たて、敵陣を攪乱し、縦横に馬を走らせた。二〇〇〇人は(中略)潰走した。一七騎は一騎も損なわれなかった。これは北宋側の記録にあり実話である。



『遊牧民から見た世界史 民族も国境も越えて』

(杉山正明著 2003年 日経ビジネス人文庫よりp30〜31より引用)




このエピソードで思い出したのが漢と楚最終決戦である『垓下の戦い』での史記『項羽本紀』の記述、『乃分其騎以為四隊,四向。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:“吾為公取彼一將。”令四面騎馳下,期山東為三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,赤泉侯為騎將,追項王,項王瞋目而叱之,赤泉侯人馬俱驚,辟易數里與其騎會為三處。漢軍不知項王所在,乃分軍為三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人,復聚其騎,亡其兩騎耳。』を思い出してしまいました。

このように人数は少数でも騎馬でならその編成できる最低限の人数さえいれば機動力を駆使して大多数の歩兵に匹敵するのですね。

この原理と言うか法則があるからこそ遊牧民は古代から近代まで大帝国を容易に築くことができたのですね。

戦国時代、趙の武霊王が『胡服騎射』を採用し、それが瞬(またた)く間(ま)に中華に浸透したのも競争の為実利を重んじた時代背景があったのですね。

年賀メールありがとうございました。
遅くなりましたが今年も宜しくお願い致します。
 

朝鮮歴史の統治地位名・発祥文化の疑わしさ  投稿者:えこね  投稿日: 1月22日(月)21時53分14秒
  後漢__遼東郡から帯方郡へ夫余王尉仇台
六朝宋_海北95国の加羅任那(倭王武、倭の五王)
南斎__百済王余牟大・邁羅王沙法名・加羅国王荷智
隋王朝_楽浪郡侯(健牟羅城=金城)
唐王朝_楽浪郡王(金法敏)・帯方郡王(渤海マッカツ夫余敬)・渤海郡王(大震国の乞乞仲象)
大震国_杉盧郡漢陽県來遠城(ソウル北漢山城)・東丹王
遼契丹_辰州(蓋牟羅城)・盧州來遠県(杉盧郡)・東京統軍司留守・南女直湯河司
金女真_開州熊岳県(豊海道→黄海道)・高州→全州静封県(全羅道)・全州湯池県・高麗生日使
元蒙古_蓋州路東京支郡建安県・権知高麗国事
明朝__漢城・権署朝鮮国事
清満州_漢城・朝鮮国王
日帝__京城・李太王
アメリカ_ソウル・大韓民国大統領

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
明朝の時に李氏朝鮮成立、1392年。
(1401年、足利義満が遣明船により遣明使を送る勘合貿易の始まり。)
1419年、己亥東征(李朝世宗の時代に、父王の太宗の命による対馬島征伐)
1419−1510年、三浦(斎浦[馬山]・富山浦[釜山]・塩浦[蔚山])と対馬の間で独占貿易
(1501年、モスクワの修道院クレムリンで消毒用にウオッカ(40度蒸留酒)の製造が始まる)
1510−1512年、鎖国(交易禁止)
1512−1592年、熊川浦[鎮海]と対馬の間で独占貿易
(1543年、種子島にポルトガル人が火縄銃をもたらし南蛮貿易が始まる。)
(1549年、ザビエルが鹿児島に上陸しカトリック教会の布教が始まる。
      大内船(小京都といわれた萩の大内氏)による勘合貿易の終了。)
(1580年、秀吉の日本統一とマカオ貿易により倭寇が終焉し勘合貿易が終わる。)
1592−1607年、朝鮮出兵と明朝の朝鮮占領による鎖国
(1600−1638年、島原の乱まで朱印状貿易で東南アジア諸国と華僑相手の堺商人の貿易)
(1638−1798年、ナポレオン戦争までオランダ東インド会社の華僑仲介とした出島貿易)
1607−1873年、釜山沖の草梁島と対馬の間で独占貿易
(1700年代の大同法から漢江以北と立ち入り禁止の太白山脈と済州島は李朝は徴税不可)
(1844年、スコッチのホワイト&マッカイ(40度蒸留酒)が製造開始、
 184?年、黒舟来航、日本開国)
1873年、富山浦(釜山)を開市(開港)
1883年、済物浦(仁川)を開市(開港)

1894年、東学党の乱
1900年、義和団の乱、満州をロシア軍が占領、満州鉄道を敷設
1903年、朝鮮YMCAの設立
(1904−05年、日露戦争時に日本軍営へブランデー(40度蒸留酒)を袁世凱から送られる)
1910年、日韓併合
1920−1925年、北樺太を日本軍が占領、樺太全島を日本領に。
1926年、昭和時代に。
 

訂正  投稿者:○投稿  投稿日: 1月22日(月)19時36分1秒
  × ______、(イタリア松岡・ドイツ石原莞爾を排除を排除)
○ ______、(イタリア松岡・ドイツ石原莞爾を排除)
 

江戸時代・大正時代は日本領だった  投稿者:○投稿  投稿日: 1月22日(月)19時34分44秒
  アイヌの領土について
投稿者 : 江戸時代、樺太は日本領だった 投稿日 : 2007/01/22 07:31 PM
占守・幌筵(アイヌ人の北限、カムチャダールは住まない。)
新知
得撫(ロシア人によるアイヌ人虐サツ消滅)
択捉(アイヌ原住地・ロシア人が先に定住、アイヌ人虐サツ消滅)

国後(アイヌ原住地・日本人が先に定住、越前屋が立てこもる)
色丹(北千島(占守・幌筵)のアイヌ人を移住させる)
根室(ノッカマップのアイヌの酋長の領地)
厚岸(アッケシのアイヌの酋長の領地)
釧路(クスリという名の松前藩の会所・港町)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

樺太の北限の先端、53度(1920-1925年、日本領)
大陸との海峡、52度(尼港(ニコラエエフスク)アイヌ原住地)

敷香・タライカ湾、50度(松前藩の検地)
久春内、48度(アイヌ集落(アイヌコタン)・日本人町・番所)
大泊(日本人港町・松前藩陣屋)

------------------------------------------------------------------

1939年8月22日、ノモンハン事件の終結、日ソ停戦。
1939年9月1日、ポーランド侵攻、独ソ分割協定実施。

1940年6月14日、パリ陥落。

______、日本軍、ベトナム進駐。
______、アメリカのハル−ノート拒否(ABCD包囲網)。
______、日独伊軍事同盟の北進策・ソ連攻撃を排除。
______、(イタリア松岡・ドイツ石原莞爾を排除を排除)

1943年、カイロ宣言。南洋諸島の放棄と「軍隊の無条件」降伏。

1944年6月、サイパンの民間日本人をアメリカ兵が虐サツし陥落。

1944年8月25日、パリ解放。

1944年11月、沖縄の民間日本人をアメリカ兵が虐サツを開始する。

1945年9月2日、シナ天津、東京湾上のミズーリ号で降伏調印。

_____、ABCD包囲網のオランダ軍にインド軍(イギリス軍)が
_____、海水をかけた壊れた武器を渡す。

1946年4月、日ソ中立条約の期限。ソビエト条約を守らず。

1948年3月、ソビエト軍が北満州を撤退。
     北満州の朝鮮人同盟による中国人虐サツ支配が終わる。
 

ありがとう  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月22日(月)16時54分42秒
  皆様、ご熱心 ありがとうございます。
先週、読売新聞社上海支局長ーー加藤隆則氏は四川省へ行って、うちの祖父をインタービューしました。日本中に報道の可能性がありますが、肉親の探しに役立つだろうと思います。皆様のお手伝いに,ありがとうございます。祖国に皆様が会いたいです。:−)
 

『卑弥呼と日本書紀388』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月22日(月)11時47分46秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇二十八年(西暦前二年)

 十月に天皇の同母弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が没し、翌月御墓をつくったのだが、側近を殉死させたために悲惨な状態になった。そこで天皇は、殉死をやめさせるよう議論せよと命じた。

△垂仁天皇三十年(西暦元年)

 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)皇后が生んだ有力な兄弟の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と大足彦命(おおたらしひこのみこと)に希望を訊(たず)ねたところ、前者は弓矢をほしいと述べ、後者は皇位がほしいと述べた。そこで天皇は弟の大足彦命を次の天皇に定めた。
 これが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父親として知られる景行(けいこう)天皇である。

△垂仁天皇三十二年(西暦三年)

 七月に皇后の日葉酢媛命が亡くなられた。
 このとき天皇が殉死の習慣を無くすためにはどうしたら良いかと諮問した。
 野見宿禰(のみのすくね)が考えて、出雲(いずも)から祭祀(さいし)に使う土器を作る職人である土部(はにべ)を集めて土で人や馬などを作らせ、それで殉死の代わりをなすようにと、お答えした。
 これが埴輪(はにわ)の起源であるが、天皇は喜ばれて、今後はすべてそうするように――と仰(おお)せられ、野見宿禰の姓(かばね)を土部臣(はにべのおみ)とし、天皇の喪の係にした。

 これも有名な話であるが、考古学的な研究からは、殉死の証拠の骨は発掘されておらず、ほんとうに垂仁以前に殉死があったのかどうか、疑問とされている。
『魏志倭人伝』を『記紀』編纂者がすでに読んでいたことは明かなので、そこにある〈卑彌呼〉の墓の殉死の話(*)との整合性をとるために、こういうエピソードを考えたのかもしれない。

(*:古代中国には悪霊(あくりょう)を除くための人の生贄(いけにえ)や要人の死にあたっての殉死の習慣があったので、それが『魏志倭人伝』の記述になったのであろう。これは、現代中国の反日プロパガンダに似ている。彼らの残酷な習慣を日本人に当てはめて宣伝している。それはタウンゼントの『暗黒大陸中国』を読むとよくわかる)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀387』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月21日(日)11時51分15秒
  [承前]

 命を奉じた〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉は、大和国(やまとのくに)、近江国(おうみのくに)、美濃国(みののくに)など二十ちかい場所をめぐった末、伊勢国(いせのくに)に達し、ここで永遠に〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を奉斎(ほうさい)することにした。
 これが伊勢神宮(皇大神宮)の起源であるが、この伝承にしたがって伊勢では代々未婚の皇女が祭祀(さいし)の最高位につく伝統ができ、その皇女が斎王(いつきのみこ)と呼ばれることになった。
 つまり〈倭姫命〉は伊勢における最初の斎王となられたわけである。

 このときの〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉の退陣も暗示的で重要である。
 なぜなら『魏志倭人伝』の〈臺與(とよ)〉がこの〈豐鍬入姫命〉だろうという説が有力なので、垂仁(すいにん)天皇二十五年が三世紀末に近いという年代の推理ができるからである。

△垂仁天皇二十六年(西暦前四年)

 崇神(すじん)天皇の御代(みよ)にも出雲(いずも)の宝物を調査する話があったが、垂仁天皇もしばしば出雲に使者を出して神宝を調べさせた。
 しかし出雲一族はなかなか正直にいわない。
 そこで物部(もののべ)一族の重臣に命じて、徹底した調査をさせたところ、今度はすべて分かった。
 そこで天皇は、物部にその神宝を管理させた。
《石上(いそのかみ)神宮》に納めたのかもしれない。
 物部氏の勢力の強さが分かるとともに、この時代になっても出雲一族を帰服させることに苦労していたことがうかがえる。
 出雲と物部の対立関係も興味深い。
 豪族物部が出雲の制圧に成功したと読める伝承だが、出雲の領土内に物部系の神社が出来ている。

△垂仁天皇二十七年(西暦前三年)

 占いの結果によって、弓矢や刀を神々に奉納した。
 また神社を維持するための田や家を定めた。
 これによって広大な社領をもつ神社ができるようになった。
 またこの年、倉庫をつくった。

[つづく]
 

残念。。。  投稿者:えこね  投稿日: 1月20日(土)21時12分12秒
  > お年賀ありがとう御座います。
> 文章が読みにくく、こなれてなく、すみません。

元旦、三が日は、神道のヤシロの神体にも、寺院の本堂の本尊にも
キリスト教の御御堂に聖所へも、初詣の挨拶をせずでした。

しめ縄を掛け、仙台ではドント祭りと言う14日の夕刻から夜の
炊き上げで焼いて処分です。隠れキリシタンな気分です。

戦時中にキリスト教徒は全て迫害や拷問にあったわけでなく
インマヌエル教会の牧師の父の兄弟は、
クリスチャンでもシナの進駐の時に、鉄道連隊(近衛師団)という
保線区の工兵で、英米と戦争前の占領地のシナの線路を武装して守り
シナのキリスト教信者と共に礼拝をしていたと言います。

日本キリスト教団の者が、
捕まえた八路(パールー・中国共産党のゲリラ)を
上官の命令である見せしめ銃剣刺しを拒んだが為に
リンチ後に前線から後方に教育兵(講義の教練指導官)として廻され
従軍していたと言う、変則的な徴用がありました。

東北学院も戦時中にドイツ系ユダヤのアメリカ人の院長であったため
キリスト教を個人礼拝に切り替え、学校としては航空学校に改変し
日章旗と校旗を両方掲げる事にして、礼拝堂の解体を阻止しました。
戦後もアメリカ人院長は仙台人として生きて、今は駐車場となった
元の中学高等学校の礼拝堂で礼拝を復活させる事が出来ました。

その礼拝堂で、私(えこね)は高校時代は
ホームルームや朝礼代わりの礼拝していました。
時に校長が後の院長になった方で、その方は
そのアメリカ人先生と学生時代に礼拝を同じくしていた方であります。
その高校の時の校長(今は退任された元院長)と同席で
学内YMCAの火曜の早朝祈祷会に参加させていただいていました。

日本キリスト教団は、一部、責任者が神社参拝をしたために
戦後に、朝鮮人に反省文を書かされ殺されたり、
牧師夫人がアメリカ兵にレイプされるなどありましたが
ほとんどの信者は、隠れ礼拝と、牧師が牢獄で礼拝と言う形で
クーデター計画や、叛乱計画とか
朝鮮人の終戦直後暴動に加わる事をしませんでした。

戦時中に父が牧師で、憲兵署で竹刀で拷問で叩かれ血みどろで
街中を家に帰される見せしめに合いましたが
共産党でありながら
日本人であるがため朝鮮人の暴動に参加せず、その方は
私の高校時代に通った教会の教会員(洗礼者・クリスチャン)で、
私の大学に在籍中は、
私の受講しなかった別のキリスト教学の講義の教授でした。
キリスト教音楽の先生でもあります。

共産党に組した者で、日本赤軍の全身である暴動者が
アメリカ兵に牢屋から出されてから、侮日し始めた事です。

終戦直後で進駐軍の来た頃に、仙台から来た朝鮮人が、
養父である祖父の居た仙台より北の町で
朝鮮人の経営していた呉服屋に結集し
警棒も拳銃も何も武器を持たない日本人警察官(たぶん憲兵)を
なぶり殺しにした時に、日本刀狩りもあり
自前で買った日本刀を取り上げられまいと隠し
畳やフスマを引き剥がされる家捜しをアメリカ兵にされて
隠し守り抜いたのですが、養子(オジ)が売ってしまいました。

アメリカ兵から貰ったカン詰めは祖父も祖母も仏壇に供え、
養女である娘の私の母や叔母に食べさせず、うちの母は憎んでいました。
アメリカの売春婦(パンパン)ではないのだから。といっても
子供である私の母は理解できなかったようです。
その町の神社の境内で朝鮮人に憲兵家族が裸で殺された事への
供養だったのでしょう。
祖父はアメリカでいうファイヤーマンで消防車の運転手なので
アメリカ式であるはずですが魂は大和魂・
日本人で和魂洋才というわけです。

うちの母は未だに盗んでアメリカ人に渡す民族の敵を演じています。
つくずくバカハハと思って苦々しいです。

モルモン教徒は反省心が無いですね。教えられないから反省しない。
教えても嘘だと思って反省しない。といった感じの受け答えでした。
モルモン教に話に行く気が無いです。反省があれば別ですが。
アメリカ人というより白人ながら朝鮮人に近い存在です。
朝鮮には日本の支配の前は酒も茶もなく、モルモンの酒なし茶なしに
ピッタリ似合うと言った感じです。
 

『卑弥呼と日本書紀386』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月20日(土)11時46分59秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇七年(西暦前二三年)

 七月に、大和(やまと)の当麻蹶速(たぎまのくえはや)と出雲(いずも)の野見宿禰(のみのすくね)が力比べをし、野見宿禰が圧勝し、朝廷に仕(つか)えるようになった。
 相撲(すもう)の起源譚(たん)である。
 これを記念して相撲神社がつくられている(図8.13)。

△垂仁天皇十五年(西暦前一五年)

 二月に前皇后の遺言にあった丹波(たんば/たには)の国の五人の乙女(おとめ)を召(め)して、そのうちの日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を、八月に皇后に立てた。
 この皇后は三男二女をもうけられたが、そのなかには著名な貴人がおおい。
 第二子の大足彦命(おおたらしひこのみこと)はのちの景行(けいこう)天皇だし、第四子の倭姫命(やまとひめのみこと)は〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を伊勢の地に祀(まつ)った斎王(いつきのみこ)である。

△垂仁天皇二十三年(西暦前七年)

 事件の衝撃によって三十歳になっても言葉を話さなかった前皇后の皇子の誉津別王(ほむつわけのみこ)が口をきくようになる話がある。
 大変なトラウマだったのであろう。

△垂仁天皇二十五年(西暦前五年)

 この年の二月に天皇は、阿倍(あへ)・和珥(わに)・中臣(なかとみ)・物部(もののべ)・大伴(おおとも)のそれぞれ先祖にあたる重臣を集めて、

「先帝は聡明で謙虚で神々を祀り、人民は富み天下は太平だった。私も神々の祭祀(さいし)を怠(おこた)ることはできない」

 ――と言われた。

 そして三月になって、〈天照大神〉を祀る役を、それまでの先代皇女の〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉から、新たに自分の皇女の〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉に託された。
 これは権力の移行というよりも年齢によるもので、〈豐鍬入姫命〉の希望でもあったと伝えられている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀385』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月19日(金)11時53分38秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇三年(西暦前二七年)

 この年の三月に新羅(しらぎ)の王子の天日槍(あめのひほこ)が帰化し、そのときの天皇への献上品を但馬国(たじまのくに)に納めて神宝とした。
 天日槍は諸国をめぐったのち但馬に落ち着いて日本の娘を娶(めと)ったが、その子孫の一人が、のちに「非時の香菓(ときじくのかぐのこのみ;「橘」の事)」を探して大陸に渡った田道間守(たじまもり)である。
『魏志倭人伝』にある難升米(なしめ)と同系説のある人物である。
 また五代目の女性が〈神功(じんぐう)皇后〉の母親だとされている。
 帰化の際の話し合いには、三輪氏の祖の一人の大伴主(おおともぬし)と倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおいち)という崇神(すじん)天皇紀で述べた人物が代表になっている。
 これも史実に近いらしく、いまの兵庫県日本海側にあたる但馬地方からは、朝鮮半島との交流を偲(しの)ばせる古代遺跡――船団の絵など――が多く発掘されている。

△垂仁天皇四年(西暦前二六年)

 ここから激しい権力闘争の様子が語られる。
 九月に皇后狹穗姫(さほひめ)の同母兄の狹穗彦(さほひこ)が、懐剣を皇后に渡して、これで天皇を殺せ――と強要するのだ。
 皇后は困ってそれを衣のなかに入れておいた。

△垂仁天皇五年(西暦前二五年)

 十月に垂仁天皇がいまの橿原(かしはら)市に行幸されたとき、皇后の膝(ひざ)を枕にして昼寝をしていると、皇后は兄の謀反(むほん)を思って涙を流した。その涙が天皇の顔にかかったとき、天皇は、蛇が首に巻きつき大雨が降る夢を見た。
 その夢の話を聞いた皇后は、兄の謀反のことを告白した。
 怒った天皇は、皇后の罪ではないと、狹穗彦を征伐しようとしたが、強固な城に籠(こ)もってなかなか落ちない。
 皇后は、自分が皇子とともに城に入れば兄が許されるかもしれないと考えて、城に入ったが、結局皇子だけを城の外に出し、自分は兄とともに死んでしまった。
 死ぬとき皇后は、自分の後継者には丹波(たには)の国の優れた婦人がよい――と遺言した。
 悲痛な物語である。

[つづく]
 

朝鮮半島と日本列島の関係歴史  投稿者:ぞう組  投稿日: 1月18日(木)13時36分47秒
  BC108年、前漢の武帝が朝鮮半島全域を遠征支配し楽浪郡を置く。

楽浪郡は、戦前に日本統治時代に関係遺物が大量に発掘・研究されていたが、楽浪郡の住民は王氏が多く、韓氏これに次ぎ、この二氏でかなりの率を占めていたことがわかっている。
王氏というのは当時の山東省に多い姓で、つまり韓氏は河北省からの移民、王氏は山東省からの移民が主であろうと推測される。
このことから楽浪郡と同時に設置された真番郡(現在の慶尚道)の住民にも韓氏が大量にいたのではないかと推測される。

BC82年、真番郡が廃止され、住民は放置されて自治に委ねられた。
この時、住民の首長となった者が韓氏を名乗る中国系だったのであろう。
(架空混じりの説話伝承としては北から逃げてきた箕子朝鮮最後の王・箕準が半島南部に君臨して姓を韓氏と改めたというが、これは楽浪郡からきた中国人の韓氏がこの地の首長になったことを反映している)

(不確かな説話記事としては、AD21±1年頃にすでに辰韓・弁韓が表われる)
確実な歴史事実としては、AD44年に、はじめて半島南部に「韓」という勢力のあることが確認される。
AD121年。(馬韓が出現するのはずっと遅く)

AD204年、三国志、赤壁の戦い。
AD206年、公孫度の子の公孫康が楽浪郡を分割し南半分を帯方郡とする
     公孫度の宗女(令嬢・娘)の婿に夫余王尉仇台(百済王祖)
AD246年、東夷の韓が楽浪郡の太守の劉茂により滅ぼされる。
     卑弥呼が三国志魏の帯方郡に朝貢する。
AD313年、司馬炎統一の西晋で楽浪郡の太守の張統が
     遼西の鮮卑族慕容氏の前燕国に亡命し、楽浪郡が滅びる。
AD300−400年代、海北95国(加羅任那)の倭の五王の古墳時代。
AD436年、遼西の北燕国(前燕→前秦→後燕→黄龍国・
     馮氏の龍城[票市])が
     後魏(魏虜・北魏・鮮卑族拓跋氏)により滅ぶ
     高麗国の丸都(高句麗の国内城)が北魏に焼かれ廃墟になる
AD475年、均田制孝文帝の母(皇太后の太氏)の命令で北魏(魏虜)が
     百済(百家済海[民族大移動の意味])の国境に侵攻するも、
     百済王の余牟大の任命した沙法名など4将軍が撃退する。
AD512年、隋が新羅の朝貢を受け、国号を認め国王を冊封(任命)する
AD500年代、新羅と百済が任那を攻める。
AD655年、渤海マッカツ族の夫余氏(渤海郡王の大震国・渤海国)が
     新羅の北部の30余城を占領する。
AD663年、白村江(白江口)の戦いで
     唐の水軍の渤海マッカツ(女真・満州の先祖)の夫余隆が、
     倭の水軍を4戦とも撃退する。
AD665年、山東半島の泰山で
     倭国・耽羅(済州島)・百済(渤海国)・新羅の4カ国が
     唐の劉仁顔により和平の条約的な先祖供養や法要儀式を行う
AD600-700年代、大化の改新の藤原鎌足や藤原不比等より遣唐使始まる
 

インド人もビックリ  投稿者:ぞう組  投稿日: 1月18日(木)12時54分9秒
  No. : インド人もビックリ
投稿者 : ぞう組

ナポレオン
 母の不倫で就職する
(コルシカ総督とセックル取引で息子をフランス本土に就職させる)
 奥さん(最初の)はSM嬢
(ジョセフィーヌ・変態サド伯爵のSMプレー相手を身請け)
それゆえ、人には言われたであろう・・・ことか、
 ボナパルト君、君は恥ずかしくないかね。
 ママに就職させてもらって、嫁さんSM嬢だし、サイテーだ。とか
浮かない顔の肖像画が多い。
カトリック的ママミアな
母に逆らえない地中海性ウマシカで小柄であるため
北部フランスの大柄な人々にはチビコロ呼ばわりだったとか。。。

意味不明さは、インド人もびっくり。

激しくインド人、言語明瞭で意味不明、
明確に意味不明。言語曖昧だが意味明瞭。

華僑
 マラッカ海峡
インド商人(10ルピー的な先に受注をとり追加式で料金請求
、結果的に高くつく、売春とピザの注文の例)
 カシミール地方
シーク教徒(頭はターバンで神様はイスラムで、下半身がインド人
、同じ神でないと契約を守ってくれそうにないから)
 イラン・ペルシャ地方
イスラム商人(神とか宗教法律が同じでないと約束を守りそうにない、
騙されるかも)
 ヨルダン川ゴラン高原
ユダヤ商人(神とか宗教法が同じでも母が違うから約束を守ってくれそ
うにない、
 ボクは正夫人(本妻)で自由の女から生まれた子供だが、
 キミは第一夫人以下、妾(遊び女)の子で
            奴隷の女から生まれた子供だから、差別待遇
 とか、約束の履行が、危ない)

10ルピーの例(買春の場合)
 セックルはいかが?というので買ってみた。
 オパーイもむの10ルピー。
 お尻触った10ルピー
 す股でアレにナニが触った10ルピー
 アレにナニを入れたから10ルピー
 入れたからには抜くが、抜くのにも10ルピー、
 体を離さないとセックルは終了できない。腹情シでないから。
セックルALLが10ルピーではなく、先にセックルと注文をとり
トッピング追加的にドンドン金を取る。

10ルピーの例(ピザの場合)
 ピザはいかが?というので、注文してみた。
 パンが出てきた。10ルピー。
 ピザを頼んだハズだが。。。
 いえ、ピザです。お客様はトマトソースか
             クリームソ−スかペペロンチーノか
  言ってなかった。どっちに転ぶか判らない所までしたですね。
 トマトソースじゃないの?
 トマトね。10ルピー。トマトソースしか塗らない。
 具がないじゃないか?
 チーズのトリ肉の
 ブタ肉サラミのウシ肉角切れのがあるね。宗教は多い。難しい。
 はいはいチーズだね。10ルピー。
 トリ肉で。10ルピー。
 野菜もつけるのあるか?
 じゃあコーンとピーマンにピクルスだな。10ルピーの10ルピーの
10ルピーの。
 30ルピーね。
すでにパンとトマトソースが冷め切っている。。。
日本人金持ちの商売になるの有難いね。インド儲かる嬉しいの事。
 

『卑弥呼と日本書紀384』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月18日(木)12時22分24秒
  [承前]

△垂仁(すいにん)天皇元年(西暦前二九年)

 崇神(すじん)天皇崩御(ほうぎょ)の翌年正月に即位。十月に崇神天皇を御陵に葬った。

△垂仁天皇二年(西暦前二八年)

 二月、第九代開化天皇の孫にあたる狹穗姫(さほひめ)を皇后とした。
 そして十月に纏向(まきむく)に皇宮をつくった。これを珠城宮(たまきのみや)という。場所は図8.1の11をごらんいただきたい。

 この年、任那(みまな)と新羅(しらぎ)と日本との間で複雑な関係ができたことが記されている。
 すなわち、崇神天皇の御代(みよ)に日本に来た蘇那曷知(そなかしち)が帰国するというので土産(みやげ)を与えたところ、任那に帰る途中でそれを新羅が奪ってしまった。
 これが任那と新羅の抗争のはじまりである――と記されている。

 また別の一説が書かれている。
 加羅(から)の王子で額(ひたい)に角の生えた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が崇神天皇を慕(した)って日本に来たが、崩御されたので仕(つか)えることができなかった。
 角というのは朝鮮南部で大臣のことを角干と記すことからきた錯覚らしいのだが、この王子が垂仁天皇の御代になって帰国することになったとき、天皇は、

「先代の御間城天皇(みまきのすめらみこと)にあやかって国名を変えたらどうか」

 ――と提案し、それで加羅を「ミマキ」に似た任那(みまな)という名で呼ぶようになった。

 加羅が弁韓(べんかん)のなかの一国で任那地方の主たる旧名であることは確かだが、これは『記紀』に数多くある語源譚のひとつである。
 またこの王子が漂着した敦賀(つるが)の地名は、王子の名の「ツヌガ」からつけられたという語源譚もある。
 この一説でも、帰国途中で新羅が土産を奪ったので、任那と新羅の憎しみ合いが始まった――とある。

 さらにもう一説として、前記の人物が日本に来たのは、乙女の姿をした神を追って東の方に進んだからだ――という話が伝えられている。この神を祀(まつ)った神社は今も大阪市にある。
 朝鮮半島に高句麗(こうくり)、新羅、百済(くだら)、任那という四つの国が明確な国名のもとに並立するようになるのは四世紀の〈神功(じんぐう)皇后〉以後と考えられるので、崇神〜垂仁の時代の呼称は公孫氏、帯方郡、辰韓、馬韓、弁韓、加羅といったものだったろうが、『記紀』では多くの場合、五世紀以降の呼称で記しているようである。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀383』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月17日(水)11時49分8秒
  ■■■■■ 八・十 「非時香菓」を求めた第十一代 垂仁(すいにん)天皇の物語 ■■■■■


 本節と次節は、崇神(すじん)天皇紀の参考なので、記述は簡単にする。詳細は『日本書紀(やまとのふみ)』の翻訳・解説書で見ていただきたい。
 土地勘をやしなうために、図8.1、図8.13などをざっと見ておいていただきたい。


◆◆◆ 第十一代 垂仁天皇の物語 ◆◆◆

 国風謚号(しごう) 活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
 漢風謚号 垂仁天皇
〔在位・西暦前二九年〜後七〇年〕
〔降誕・西暦前六九年/崩御・西暦後七〇年〕*
〔皇宮・纏向珠城宮(まきむくたまきのみや/奈良県桜井市三輪山麓北西部)
〔御陵・菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ/奈良市西部の尼辻西町)
  *崩年干支推定は西暦三一一年

 垂仁天皇は、崇神天皇の御代(みよ)に夢を元に皇太子に推された弟の方の活目尊(いくめのみこと)が即位された天皇であり、崇神天皇のめがねにかなっただけあって、きわめて英明な指導者だったと考えられる。
 母親は崇神皇后の御間城姫(みまきひめ)で、前節の稲荷山(いなりやま)刀銘にあった四道(しどう)将軍のひとり大彦命(おおひこのみこと)の娘である。
 崇神天皇二十九歳のとき、皇宮磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)で降誕された。
 生まれつきぬきんでており、成人してはすぐれた才能や度量が備わり、父の崇神天皇に愛され、夢のお告げによって皇太子となられた。
 この天皇も先代と同じで、国風謚号に「入彦五十(いりひこい)」がついている。
 やはり婿入り婚や彦姫制を連想させるが、その実態は男性側の垂仁天皇のほうがはるかに強力だったと考えられる。

[つづく]
 

第11条問題追加  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月16日(火)21時11分45秒
  先のサンフランシスコ講和条約第11条問題ですが、毎日新聞社の資料に解説がありましたので、写真に追加しました。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/s_kowa.htm

 まっとうな解説だと思います。
 

ネタ  投稿者:ねこえ  投稿日: 1月16日(火)20時42分25秒
  努力目標は盗み器物破損詐欺仕返しや罰なし   2007/01/16 20:39
[New]
約束(神からアブラハムへの約束)、違約があっても罰則なし、努力目標
 戒律
  戒め(いましめ)罰則の定めなく罰の事前告知なし[告知義務なし]、努力目標
  律(規則)団体の枠組みから外れた場合の罰則付きのルール(取り決め事)
 契約(旧約モーセの契約、第二旧約正典トビトの契約概念)
  商業契約:2社間の利益の交換、労働やサービスや財物と金銭を交換。
       法人という個人が存在する。
       個人→←個人(2者間)
       個人→←個人だが法人に属する
             (2者間、会社[商業登記]に属するの意味)
       個人→←法人(労働契約:使用者なる個人→←労働者なる個人[2社])
 お恵み(譲渡:豊かな者[上位者・収入多い]から貧しい者[下位者・収入少ない]へ)
 犯罪(上記のいずれでもない)
 

『卑弥呼と日本書紀382』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月16日(火)12時41分27秒
  [承前]

**********

 崇神(すじん)天皇陵について、興味深い考古学的史料があるので、記しておく。
『日本古代遺跡事典(吉川弘文館)』の崇神天皇陵の項目に、つぎのように出土品が記されている。
「このほか渋谷出土(崇神陵?)と伝える石枕や長方形銅板の拓本が知られている」
(渋谷とは景行天皇陵)
 この長方形銅板について、《大和(やまと)》の遺跡調査で知られる樋口清之が、井沢元彦との対談でつぎのように述べている(『神道からみたこの国の心(徳間書店)』より)。

「(樋口)崇神陵については興味深い話がありましてね。戸田大和守(とだ-やまとのかみ)という人が幕末の文久三年に、あのあたりの陵墓を修築するんです。戸田大和守はいまの栃木県の宇都宮の殿様の弟で、陵墓監に任命されて大和守を名乗ったことになります。幕府に命じられて天皇の陵墓を修繕するのですが、堀を作るのに土が足りないものだから、古墳を削ってしまってそれに当てたわけです。ひどいもんですね。
 その時に、厚さが〇・七ミリぐらい、大きさが襖(ふすま)一枚ぐらいの青銅の板が出てきた。ちょっとカーブしていて、ちょうど盾のように構えるために使ったものだと思います。それが出た時、近くの農家の井戸端で洗ったらしいのですが、その際にどこかにぶつけて縁を割ったのです。青銅板は行方不明ですが、割られた縁だけがまだ残っています。その裏表を拓本にとって、考古学雑誌に発表したんですけどね。崇神天皇陵と言われているものから、銅鐸につながるような青銅板を作る技術を示す鋳造品が出てきたことは、非常に興味深い、と。そんな例は他にないです」

「(井沢)そんな大きな青銅板が出土していたというのは私も初めて聞きました。すごいものですね。模様はどのようなものなのですか」

「(樋口)直弧絞曲行紋を描いてあったり、円や線、装飾古墳にあるような模様で、壁画みたいな凹凸があります。私はやはり盾の一種だと思いますね。角のところに蝶番(ちょうつがい)のようなものを彫った跡があって、あれが蝶番だったら、木製板をとりつけて開け閉めの調節ができる。よく考えて作られたものであることも確かです。
 もしあの青銅板の本体の行方(ゆくえ)が分かったら、大発見だし、日本の青銅器文化の系譜が変わると思いますよ。五世紀以前に、あんなに厚くて大きい青銅板を鋳造できたということは、銅鐸を作るのとは桁違いの技術ですからね」

 この青銅板が見つかったのは幕末なので、そんなに古いことではない。どこかに秘匿されている可能性もある。だとしたら、発見が待たれる。
 それにしても、残された断片からだけでも、驚くべき技術がすでに崇神天皇の時代に有ったことがわかる。
 ひょっとしたら、本体から文字が見つかるかもしれない。
 なお、図8.12の(b)を見ていただくと分かるが、崇神天皇陵は形が歪んでいる。これは、樋口博士の言葉にあるように、幕末の修繕時に一部を削ってしまったからなのだろうか・・・(*)。

 いずれにせよ、〈卑彌呼〉の時代と重なるとされる崇神天皇の時代に、巨大な天皇陵やこのような青銅器があった事は、当時の大和朝廷のレベルの高さをうかがわせるに充分である。

(*:削られた面積が大きかったとすると、崇神天皇陵は〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の御陵(ごりょう/みささぎ)とほぼ同じ大きさという事になるだろう)

**********

 これで重要な第十代崇神天皇紀の概要はおわりであるが、これに続く第十一代垂仁天(すいにん)皇紀と第十二代景行(けいこう)天皇紀もかなり重要なので、次節以降で要点のみ記しておくことにしよう。

[次ぎは「第八・十節 「非時香菓」を求めた第十一代 垂仁天皇の物語」]
 

▲サンフランシスコ講和条約の第11条  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月15日(月)12時56分23秒
   サンフランシスコ講和条約の第11条に英文で、
“Japan accepts the judgments.....”
 ――とあるのを、外務省は
「日本国は・・・裁判を受諾し・・・」
 ――と訳しました。
 つまり judgments を「裁判」と訳していました。
 これは東京裁判そのものを認めたという大きな誤解を招く翻訳であるとか、誤訳であるとか、あるいはこのままでいいのだとか、いろんな意見があるようですが、大勢としては judgments は「判決」が適切で、
「裁判を受諾」
 ではなく
「判決を受諾」
 と訳すべきだという意見が強いようです。
 これは、啓蒙家の渡部昇一先生や国際法学者の佐藤和男先生が前々から強調しておられたことです。
 私は当時の外務省の訳文の他に訳はなかったのかと思っておりましたが、この条約が発効する直前に「判決を受諾」という訳文を主張した新聞社がありましたので、それをお目にかけます。
 毎日新聞社から昭和26年7月に出された訳文です。
 下記の真ん中の写真の右から二行目です。

 ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/s_kowa.htm

 私も、渡部先生や佐藤先生のご意見に妥当性があると感じていますが、当時の毎日新聞社もそう訳していたのです。
 

『卑弥呼と日本書紀381』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月15日(月)12時49分58秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇六十八年(西暦前三〇年)
 〔崇神天皇崩御と前方後円墳の築造〕

 十二月五日――
 崇神天皇が崩御(ほうぎょ)された。
 御年百二十歳と記されている。一年合わないようにも思うが、たいした問題ではない。
 翌年、山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に埋葬された。
 これは現在の天理市の桜井市に近い場所だが、やはり《三輪山》の近くでもある。
 図8.1や8.13を参照されたい。

図8.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


図8.13
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm


 写真を図8.12に示した。墳丘長だけで二百四十メートルを超え、周濠をふくめると三百メートルと想定され、《箸墓(はしはか)》に匹敵する巨大な前方後円墳である。

図8・12
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H89-812.htm


 この時代の大和(やまと)朝廷の勢力の強さがわかる。
〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の眠る《箸墓》の巨大さは崇神天皇の力をあらわしているし、崇神天皇の御陵の巨大さは次ぎの垂仁(すいにん)天皇の力をあらわしているのだ。

(ただし、前述したように、有名な崇神天皇の崩御とはいえ、その記述は簡明で一行か二行であり、〈倭迹迹日百襲姫命〉のような詳細な記述はない。この事からも百襲姫命の容易ならざる存在感が浮かび上がってくる。天皇に仕(つか)えた皇女の没時の記述の方が、天皇よりずっと詳細で、しかも御陵はより巨大なのであ る!)

 なお崩御の実紀年については、『古事記(ふることふみ)』に記された干支である戊寅(つちのえ-とら)から推定すると、西暦二五八年となる。
 また『日本書紀(やまとのふみ)』の崩年を干支に換算すると辛卯(かのと-う)であるが、これから推定される崩年は西暦二七一年になる。
 これらの推定崩年は、こまかな数字は別として、考古学的知見と矛盾しないので、さいきんでは多くの学者が支持しているようである。

 じっさいの宝算(御寿命)を百二十年の半分の六十年としても、その御生涯は二世紀末または三世紀初頭から三世紀後半ということになり、『魏志倭人伝』の時代とほぼ一致している。
 つまり、崇神天皇の御代とは、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の時代の後半と〈臺與〉の時代の前半とにまたがっていると想定できるのだ。
 また、〈卑彌呼〉と〈臺與〉に照応できる高貴な女性も存在していて、じつに興味ぶかい天皇紀である。

(崇神天皇陵からは驚くべき出土品が発見されているので、次回にそれを記す)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀380』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月14日(日)11時59分13秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇六十二年(西暦前三六年)
 〔潅漑用の池をつくる〕

 七月二日――
 天皇は農業は国の基だとして、河内の田には水が少ないのでそこで池をつくるべきだ――と述べて、潅漑用の池や溝を掘ることを命じた。

 十月――
 一つの池をつくった。

 十一月――
 二つの池をつくった。
(大規模な潅漑用の池を朝廷主導のもとにつくる制度と技術が確立してきたことをあらわしている)

▽崇神天皇六十五年(西暦前三三年)
 〔朝鮮任那(みまな)からの使者〕

 七月――
 朝鮮半島の任那の使者蘇那曷知(そなかしち)が朝貢に来たとの記述がある。
 これは、対外折衝を具体的に述べた『日本書紀(やまとのふみ)』の最初の記録とされている。
 こういう記録からも、崇神天皇の御代(みよ)が、事実上の日本国のはじまりであることが推理できる。
 ここで任那は筑紫(ちくし)の国から二千里余で、北の海をへだてて新羅(しらぎ)の西南にある――と記されており、地理は正確である。
 任那は後に日本府がおかれる土地だが、このころの任那は弁韓の加羅国または『魏志倭人伝』の狗邪韓国であったのだろう。
 すでに任那という日本式の名で呼んでいたのかもしれないが・・・。

 この時代に朝鮮との使者の行き来がどの程度あったのか、よくはわからないが、交通手段的には、すでに朝鮮半島やそこを経由して大陸との往来が可能だったことは間違いない。
 そしてそれが水路のみで可能だったことも、すでに述べたとおりである。
 天候さえ船便に都合よければ、《大和(やまと)》から朝鮮南端まで十日もかからずに行けたであろう。
 崇神天皇の御代と『魏志倭人伝』の時代とはほぼ一致するとされているので、《邪馬台国》が魏の国に使者を送ったとすれば、《大和》と魏も往来できたことは当然である。
《邪馬台国》が《大和》でなかったとしても、《大和》と《邪馬台国》との往来はもちろん出来たからである。

[つづく]
 

大正時代の大本教的な満州殲滅  投稿者:○投稿  投稿日: 1月14日(日)11時32分6秒
  語呂合わせとマンガチックな
マヒカリのような新興宗教の
ピノキオ的な作り話(神話とか正当性を語る)
 

編纂時代の民族強弱の背景  投稿者:○投稿  投稿日: 1月14日(日)11時28分15秒
  「山海経」前漢に各地方の地理志の編纂
「史記」前漢の武帝の司馬遷
「戦国策」「春秋左伝」後漢の儒学者による編集「校訂」
「続漢書(後漢書)」
「三国志(魏書・呉書・蜀書、280年ごろ西晋の陳寿)」
「晋書(劉宋の時代・古墳ハニワの任那の倭の五王の頃)」
「宋書(蕭梁の時代・達磨太子の座禅の渡来・周興嗣の千字文「習字手本」)」
隋唐の時代
趙宋の時代
蒙古の時代(十八史略を編集)
明朝の時代(契丹・女真・蒙古)を編集
 

自分を紹介できない相手の由緒を盗んで改ざんしピノキオ  投稿者:○投稿  投稿日: 1月14日(日)11時19分21秒
  山海経___: 蓋の国(北に燕[河北−遼東]と南に倭[日本]がある間の国)
前漢の武帝_: 楽浪郡(BC108年)
後漢の赤壁戦: 楽浪郡・帯方郡(AD206年)、東夷韓国(AD246年に滅)
三国呉_西晋: 楽浪郡(AD313年に滅)・帯方郡(AD314年に滅)
六朝(東晋_劉宋_蕭梁_陳): 海北95国(任那加羅 AD375年)
六朝(蕭斎): 百家済海(百姓が海を渡る民族大移動の意味、百済・AD475年)
隋: 百済(余氏)−熊津都督・高麗国(福氏)・新羅(金氏、高麗の民と百済の王)
唐: 安東都護府−帯方州(渤海マッカツ族)・渤海郡王の大震国(渤海国)
渤海: 杉盧郡漢陽県・蓋州(もと新羅)
契丹: 盧州來遠県(もと杉盧郡)・辰州(もと蓋州)・高州(もと高麗)
女真: 全州(高州)静封県・松山県・熊岳県・慶州(辰州)・高麗生日使(蕭子斎)
蒙古: 蓋州路−東京支郡−熊岳県・建安県・湯池県
明朝: 権知高麗国事(李成桂)・権署朝鮮国事(王弟・李朝太宗)
満州: 朝鮮国王(仁祖王)
大韓: 李太王(李朝高宗・初のプロテスタント朝鮮人はユンチホ・慶應義塾留学)
日帝: 李王
アメリカ軍政府: 李承晩(李承薫は北京で初のフランス−カトリック朝鮮人)
朝鮮戦争後: 韓国大統領・ソビエト軍88部隊正路(キムイルソンと、その子孫)
________________人民解放軍(八路)に征服される予定
 

朝鮮人の歴史観  投稿者:解法者  投稿日: 1月14日(日)08時04分40秒
   朝鮮人は自国中心に世界が回っているという歴史観がある。
そのために他国の歴史を学ぼうとする意欲はない。
 隣国、日本の歴史さえ学ぶ気はない。
 粕谷真人さん紹介のHPを見たが、案の定でここでまともに朝鮮人と歴史論争をするだけ無駄というものだ。
 議論が全くかみ合っていない。
 無知な者と議論など成り立つはずもない。
 ここに参加している日本人も心すべきであろう。
 

『卑弥呼と日本書紀379』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月13日(土)13時03分10秒
  [承前]

 これが原因で出雲臣(いずものおみ)たちはしばらく出雲大社の祭祀(さいし)をしなかった。
 出雲大社の神は〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉または〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉であり、これを祀(まつ)るのが出雲臣一族であることは神代からの決まりなので、これは大きな事件である。
 しかし今の兵庫県に住むある人が、

「子どもが出雲の鏡を祭るべきだという意味の不思議な歌を歌っている。神が憑依(ひょうい)しての言葉でしょう」

 ――と述べ、これを活目尊(いくめのみこと)が天皇に告げたため、天皇もその鏡を祭らせたということである。
 ここで天皇が欲した神宝(かむたから)が鏡であることがわかるが、この話は、取り上げた宝物を返却したことの表現かもしれない――といわれている。
 子どもや一般の人が不思議な歌を歌い、それによって天皇が動く話は、『記紀』に何カ所もでてくるが、一般国民の気持を政策に反映していた伝承なのであろう。

 いずれにせよこの事件は、出雲と大和(やまと)の軋轢(あつれき)がずっと続いていたことを意味している。
 これに関係する話は後の天皇紀にも出てくるが、物部(もののべ)一族・三輪一族や大和の土地の豪族たちが、それぞれ豪壮な神社を持たせられたり婚姻したりして大和朝廷の一員となったのに対し、遠方の出雲の地に神社を得た出雲一族だけは、なかなか承伏せず、朝廷を悩ませたことを物語っているようにも思われる。

[つづく]
 

江戸時代の教育  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月13日(土)12時50分1秒
  ■江戸時代の教育とは

 知人の石川英輔さんは、『原子力文化』に江戸時代の話を長期連載していますが、最近では教育問題を取り上げています。
 たとえば次のような文章があります。
「現在の小学校と江戸時代の寺子屋や手習いの最大の違いは、画一的かどうかという点である。
 今の小学校は、文部科学省を頂点とする大きな官僚組織の一部になっている。
 これに対して、徳川幕府には子供の教育を専門に担当する役人が一人もいなかった。放任状態といっていいだろう。もちろん、教育に関する法令などあるはずもないし、手習師匠(てならいししょう)になるための教員免許も教科書検定もなければ、教育委員会も学区制度もない。上を見ても自分を任命する者も命令する者もいないから、師匠たちは自己流に生徒を教えるほかなかった。画一的になりようがないのである。
 江戸時代といえば、一つ覚えのように「がんじがらめの封建制度」という人がいるが、少なくとも教育に関しては、現代の方が一〇〇倍も一〇〇〇倍もがんじがらめだ。上からの規制がないに等しい状態だった江戸時代は、現代では想像もできないほど多様性に富んだ教育ができたのである。
(江戸時代に刊行された教科書は現存するだけで7000種)
(先生も、僧侶(そうりょ)から武士から町人までさまざま。武士が武士の子供だけを教えるわけでもなかった。女性の先生もたくさんいた)」

■江戸時代の教育の成果

 このような放任主義教育の成果が世界一の識字率!
 石川英輔さんはじめいろんな人の研究で、江戸時代の日本人の識字率は世界一だったらしい。
 また、多くの愛国の人材を生みました。
 明治になって欧米列強の植民地政策に対抗して独立を守った人材は、全員が江戸時代の教育を受けていました。
 このことは『発明特許の日本史』を執筆してみて痛感します。
 貧しい農村から東京に出て世界的な発明発見をした人が数多くいますが、どの人も十歳前から農村の寺子屋で読み書き算盤(そろばん)を習っていて、直(ただ)ちに文明開化に適応できました。
 また、ツュンベリーが言っているように、江戸時代の庶民たちは国史をじつによく勉強していたようです。
 歴代天皇を縦糸とした歴史書は大ロングセラー。

■放任

 日本人って、放任されると素晴らしい業績をあげるんですね。
 小林正さんによると、それをがんじがらめにして洗脳してしまったのが日教組。
 

切腹法(7)  投稿者:解法者  投稿日: 1月13日(土)08時16分30秒
   浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)が斬罪ではなく切腹が許されたのは、大名であったからだと思われる。殿中(でんちゅう)を汚したのだからそれまでの法慣習からいって「斬罪」が妥当であったであろう。
 赤穂(あこう)浪士らの討(う)ち入(い)り直後の幕府の彼らに対する処分方針について、老中阿部豊後守(あべ-ぶんごのかみ)、土屋相模守(つちや-さがみのかみ)、小笠原佐渡守(おがさわら-さどのかみ)、稲葉丹後守(いなば-たんごのかみ)の評定(ひょうじょう)が行われたが、そこでも「すべて夜盗(やとう)の輩(やから)の致し方につき、全員に討首(うちくび)が妥当」との結論に達していた(『柳沢家秘蔵実記』〔巻上七〕)。
 ところが、思いの外(ほか)、大名、庶民からも無罪放免という声が強くなり、老中は前評定を覆(くつがえ)し、赤穂浪士らの処分を大目付(おおめつけ)、各奉行(ぶぎょう)などに諮問(しもん)した。彼ら14名の連名評定所の意見書(『評定所一座存寄書』)は、赤穂浪士らの処分の保留だった。その内容は、『武家諸法度(ぶけしょはっと)』(天和3年〔1683年〕の第1条「文武忠孝を励まし、礼儀を正しくすべき事」に該当するというものであった。なお、第5条に「徒党を結び、誓約を成すを禁止する」とあるが、全員一致団結し統制の下(もと)に行動しており<徒党>ではないとしている。
 幕閣の見解は、討首(斬罪)か、保留(放免)かで揺れていた。切腹という見解はなかった。
 

切腹法(8)  投稿者:解法者  投稿日: 1月13日(土)08時09分43秒
   赤穂(あこう)浪士らが<大量殺人>というなら、「斬罪」でなければならない。これが「切腹」とは<大変有(あ)り難(がた)き仕合(しあわ)せ>だったのである。「切腹」となったのは、世論が<喧嘩両成敗法>に反した綱吉(つなよし)を非難したからであるとされている。当時は、赤穂浪士らの「仇討(あだうち)」を<大量殺人>と考えたものは、綱吉、柳沢吉保(よしやす)も含めて極めて少なかった。
 しかし、柳沢吉保は頑(かたく)なに<処分>を望んだ。処分しなければ、吉良上野介(きら-こうずけのすけ)に「お構(かま)いなし」にした<片手落ち>を問われるからである。これを助けたのが、柳沢吉保に仕えていた「荻生徂徠(おぎゅう-そらい)」であった。彼は「赤穂浪士らの討入(うちいり)は私恨に基づいた不義の行(おこな)いである」と主張し、その旨(むね)を柳沢吉保に進言した(『論四十七士之論』宝永2年〔1705年〕)。
 これに意を強くした柳沢吉保は、赤穂浪士らを斬罪ではなく「切腹」にした。それは、妥協だったのであろう。
 浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)の切腹は即日、赤穂浪士らの切腹は事件より1ヶ月あまりもかかり、幕府を悩まし続けた。江戸町民は無罪放免を願っていたので、それでも庶民の非難は収まらなかった。多くの大名も不満だった
 

切腹法(9)  投稿者:解法者  投稿日: 1月13日(土)08時08分38秒
   刑罰としての切腹は様式も含めて赤穂(あこう)浪士事件以降確立していったといわれている。しかし、死罪の第1は斬罪、第2が切腹だったことは江戸時代終わりまでの法慣習であったことは間違いない。<切腹>は名誉刑だったのである。吉田松陰(しょういん)も斬首(安政5年〔1858年〕)となっている。
 なお、武士以外には切腹は認められていなかった。
 明治時代には「切腹」は刑罰として認められなかったが、自死方法としては残っていた。
                                                                            (完)

※ 参考資料
  『江戸時代とはなにか』尾藤正英 岩波書店 1992年
  『大江戸残酷物語』氏家幹人 洋泉社 2002年
    『切腹』山本博文 光文社新書 2003年
    『切腹』中康弘道 久保書店 1976年
  『切腹の歴史』大隈三好 雄山閣 1995年
  『忠臣蔵100問勝負』杉並良太郎 出窓社 1998年
  『忠臣蔵』野口武彦 ちくま新書 1994年
  『日本法制史』牧英正・藤原明久 青林書院 1993年
  『日本法制史』瀧川政次郎 角川書店 1959年
  『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年
  『近世武家思想』石井紫郎 岩波書店 1974年
  『武田信玄』小和田哲男 講談社 1988年
  『物語 大江戸牢屋敷』中嶋繁雄 文春新書 2001年
 

日本にまとわりつく韓国人  投稿者:粕谷真人  投稿日: 1月13日(土)04時28分46秒
  このホームページで、日本人のDNAが話題になっているですが、韓国人と同じ部分が発見されたと記事になれば、すぐ韓国人が「日本人は我々の子孫であることがわかったそうですが」と騒ぎになると書かれている。もちろん、発表した研究者は、「今はまだそんなことが言える段階ではない」と答えてるんですが、韓国人は聞く耳を持たないし、米国在住の見知らぬ韓国人の方から、「研究のご成功おめでとうございます」との手紙が来るそうで。

これが、文太さんが言っていた、中国人や朝鮮人親近感なんだろうか?

『日本人の祖先は韓国人?』(enjoy Korea)
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=4&nid=74847

 

RE:鷹森さ  投稿者:解法者  投稿日: 1月12日(金)22時22分28秒
  『中国残留孤児 肉親捜しのページ』
http://www.kikokusha-center.or.jp/joho/mihanmei/new_kojisagashi.htm
 

鷹森さま  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月12日(金)17時22分40秒
  前にあなたの先祖を軍人の名簿で調べて郷里を推定してお知らせしましたが、その後その件はどうなりました?  

脱北者ではない  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月12日(金)13時52分29秒
  解法さん、どうも ありがとう
でも、うちの祖父は脱北者ではありませんが、旧満州地区の残留邦人です。今、中国の四川省に住んでいます。帰国は可能性がないだろうと思いますが、日本人の親戚を探し出したがっています。祖父は年を取っていました。家族は心配しています。
 

『卑弥呼と日本書紀378』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月12日(金)13時08分11秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇六十年(西暦前三八年)
 〔大和(やまと)朝廷と出雲(いずも)一族との確執〕

 七月十四日――
 この年、出雲と大和の間で激しい確執が有ったらしい記述がなされている。
 有名な話だが簡単に述べる。
 崇神天皇が、

「出雲大神の宮(出雲大社)に収めてある、出雲臣(いずものおみ)の祖(おやがみ)神武日照命(たけひなてりのみこと)が天から持ってきた神宝(かむだから)を見たいものだ」

 ――と希望して使者を派遣する。
 当時の天皇が「見たい」と仰(おお)せになるのは「献上せよ」に等しい一種の命令であり、地方の豪族を帰順させるための方策だったから、事は重大だった。
 武日照命とは、出雲大社を管理している出雲国造(いずもこくそう)または出雲臣の先祖の一人で、国譲(くにゆずり)折衝のために高天原(たかまのはら)から下(くだ)されたが〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉ら出雲の神の味方になってしまった天穗日命(あまのほひのみこと)の子とされている。第六章の国譲りの箇所を参照されたい。

 ところがちょうどそのとき神宝の管理責任者出雲振根(いずものふるね)が九州の筑紫(ちくし)に行っていたため、弟の飯入根(いいいりね)がその神宝を天皇の使者に渡す。
 管理責任をおう出雲振根は帰ってからそのことを知って怒り、何年か恨(うら)みが続いてついに弟を斬(き)り殺してしまう。
 その話を聞いた崇神天皇は怒って、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の弟の吉備津彦(きびつひこ)と、大彦命(おおひこのみこと)の子の武渟河別(たけぬなかわわけ)に命じて出雲振根を征伐させる。
 いずれもかつての四道(しどう)将軍である。

[つづく]
 

日本に帰国した北送日本人(残留邦人)  投稿者:解法者  投稿日: 1月12日(金)02時48分6秒
   先ほど、100名といったが、これは北送朝鮮人を含む数である。
北送朝鮮人が日本に来る(帰国ではない、帰国というなら韓国である)場合には、日本にいる家族の身元保証・生活支援保証書が必要のようである。
 帰国した北送日本人(残留邦人)およびその子女の多くは東京・大阪などの大都会に住む。仕事が得やすいことと故郷では人の目がうるさいことによる。日本人妻の場合は朝鮮人と結婚したために家族と縁が切られた者が多く、家族の支援がなかなか受けられないのが実情である。したがって、故郷に帰る人は少ない。

 帰国した北送日本人(残留邦人)およびその子女に対しては、東京の場合は都営住宅を斡旋(あっせん)してくれる。仕事はボランティア団体が紹介してくれる場合が多い。大阪などでの同じであると思う。
 韓国系の民団も支援を行っている。

 残念ながら、彼らは信用できない。「平島筆子」さんという北送日本人が帰国したことがあるが、再び北朝鮮に帰っていった。
 これは朝鮮人工作員の暗躍によるものであろう。つまり、彼女の居住先を朝鮮人が知り、北朝鮮に残した家族の身の安全について彼女を脅迫したものと思う。
 民団は朝鮮総連と裏でつがっていると確信している。つまり、間諜(かんちょう)の巣ということだ。昨今の韓国政府の南北宥和(ゆうわ)政策のおかげで民団は朝鮮総連の上層部の間では交流が盛んである。民団は韓国政府の意向には逆らえない。支援を受けているからである。

 帰国した北送日本人(残留邦人)には朝鮮人と接触させないことが肝要だと考える。支援を行っている民団や朝鮮人にも真面目(まじめ)な人もいるだろうが、<転(ころ)ばぬ先の杖(つえ)>である。
 なお、先の民団と朝鮮総連の和解で、民団の帰国した北送日本人(残留邦人─子女も含む)・朝鮮人の支援は打ち切られたようである。したがって、北送朝鮮人(元在日朝鮮人)の日本への受入れ運動もしてないと聞く。
 北送日本人は日本へ、北送朝鮮人(元在日朝鮮人)は韓国へ、というのが原則だと思う。
 北送日本人に限らず北送朝鮮人にも日本政府の「生活保護」の保証が必要な場合には、されている。都営住宅の斡旋も同じであると聞く。
 

山拓訪朝  投稿者:はる  投稿日: 1月12日(金)02時22分24秒
  中国の兵法書『六韜(りくとう)』に次の様な内容があるそうです。
「隣国から外交使節として、優秀な人物が交渉に来たら話をまとめず、愚鈍(ぐどん)な者が来た時に話をまとめよ。そうすれば、愚鈍な者が重用(ちょうよう)され、優秀な人物は失脚して、隣国は弱体化するだろう。」

関ヶ原の後、豊臣方(とよとみがた)は使者として、対徳川穏健派の片桐且元(かたぎり-かつもと)を送ったが、家康はいつまでも会おうとはしなかった。且元がいつまでも戻らないので、次に強硬派の大野治長(おおの-はるなが)の母を使者に送ると、家康は即座に歓待した。大阪に戻った大野治長の母は、「家康はあくまでも豊臣の臣下である」と報告をするが、やっと会見した上に厳しく諌(いさ)められて、後から戻った且元は、「徳川は豊臣を滅ぼそうとしている」と報告をした。しかし、先に好印象の報告を受けていた大阪方では且元の報告を信用せずに、失脚させてしまった。且元ら穏健派が失脚すると、家康は次々に大阪へ無理難題を突きつけるが、強硬派しかいなくなった大阪方はついに恭順することなく滅ぼされてしまった。

中国が、小泉首相との会談を拒否しつつ、媚中(びちゅう)派とは会ったのも、自分達に不都合な人間を失脚させる為の策でしょう。
北朝鮮から御招待された山拓さん、あなたはどっち?
仮に、山拓さんが金正日(キム=ジョンイル)に会い歓待されたとしても、それは対北強硬派の安倍首相の失脚を図り、国交正常化を進める為のものと知るべし。

話は変わりますが、盛岡商業、高校サッカー日本一おめでとう!!(岩手県民なもので)
 

日本人の残留邦人  投稿者:解法者  投稿日: 1月12日(金)02時01分52秒
  >日本人の残留邦人について
日本政府は残留邦人の帰国についての政策がありますか。何ですか。
何か証明書とか、証拠は要りますか<

 北朝鮮に北送された日本人(主として日本人妻)に関しては、政府の政策はない?
 彼らが日本に帰還するには、北朝鮮から中国などに脱出(脱北)しなければならない。
 北朝鮮から無事に脱出した日本人(残留邦人)は、日本にいる家族に電話したり、手紙を書いたりして連絡する。そうでない者は中国などの領事館に連絡する。中国の満州地区には脱出者を救援する韓国人・日本人などの団体もあり、そこに連絡が行く場合もある。最終的には日本領事館に連絡が行く。
 領事館は北送事業を主宰した日本赤十字社に連絡する。法務省にも連絡する(領事館には法務省からの出向者がいる)。中国に脱出した日本人(残留邦人)から連絡を受けた日本の家族が法務省に連絡する場合もある。
 日本赤十字社は昭和35年ころからの北送者の名簿(日本人・朝鮮人)を持っていると確信している。ただし、公表はしない。
 日本赤十字社は日本にいる家族のもとを訪ねて来る。法務省の職員も来ることがある。縦割りで双方が連絡しあうことはないようだ。
 家族に事実を知らせ、身元の確認をする。身元保証書を求める場合もある。かってはそれがないと残留邦人は日本に帰国できなかったが、現在ではそうではない。日本人であれば帰国が政府の費用で可能である。
 これが政策といえば政策である。
 こうして日本に帰国した日本人(残留邦人)─その子女も含む、は100名を越えている。現在も帰国している。

 中国に残されたいわゆる残留孤児、残留婦人については関与したことがないので知らない。
 フィリピンの残留邦人はいないと思われる。ただ、その子女はいる。彼らは帰国というより日本人の証明を得る(日本旅券の取得)ことが目的で日本に帰国したという話は聞かない。
 

『シャープの創業者早川コ次の人生』3  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月11日(木)22時03分24秒
  [承前]

▽関東大地震からの復活

 好事魔多しというが、大正十二年の九月に関東大震災が起こり、工場は壊滅し、妻子は煙に巻かれて死んでしまった。
 そこで大阪で再起をはかることにし、技術を持った部下たちと大阪に移動した。
 最初は「シャープ・ペンシル」製造の指導などをしていたが、大正末から昭和の初めにかけて「ラジオ」の時代がやってきたので、それに眼をつけ、見よう見まねで、家庭用のラジオを製造し、「シャープ・ラジオ」と命名して売り出すことにした。
 大正十四年のことで、これは日本で最初の家庭用量産ラジオだったと言われる。

 株式会社組織の工場を初めてつくったのは昭和十年のことで、何度か名前が変わって『早川電機工業株式会社』として有名になり、昭和四十五年に『シャープ株式会社』となった。
 戦後はテレビの開発で成功し、「一家に一台」をモットーに普及につとめ、さらにその後、世界初のIC電卓で名をあげ、シャープは電卓の代名詞にもなった。
 NHKの『電子立国日本の自叙伝』でも大きく取り上げられた。

 功なり名とげた早川コ次は、大阪府公安委員など行政にも貢献していたが、昭和五十五年(一九八〇年)六月二十四日、八十七歳という天寿をまっとうした。


▽褒賞

 褒賞としては――

 大正十一年  平和記念東京博覧会金銀両盃受賞
 昭和三十五年 藍綬褒章。
        アメリカン協会よりアカデミー賞
               およびザンデ勲章
 昭和四十年  勲三等瑞宝章。
 昭和四十四年 経営者賞
 昭和五十二年 放送文化賞

 ・・・などがある。

 早川コ次は抜け目のない発明家・起業家であるが、同時に大変な苦労人かつ人情家でもあり、八歳から自分を雇ってくれた主人が晩年逼塞(ひっそく)しているのを見て、自宅に引き取って亡くなるまで面倒をみた。
 また父違いの有名人の姉が、夫を亡くして困っているのを見て、やはり自宅に引き取って、死ぬまで面倒をみた。
 幼時に両親と別れて苦労を重ねた末に自立した姉の生涯が、自分の人生と重なっていたのであろう。

 晩年のコ次は、保育園をつくって百人ほどの気の毒な家庭環境の園児を集め、自ら手をつないで遊んでいたそうである。


(以上は『発明特許の日本史』の一節です。教育基本法の事を考えながら掲示しました)
 

『シャープの創業者早川コ次の人生』2  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月11日(木)22時00分39秒
  [承前]

 さらに後に、実母には実父と結婚する前に前夫がおり、そのとき生まれた父違いの姉がいることもわかった。
 この姉は里子に出されたあと転々とし、芸者になって苦労したあげく、東大教授の法学博士に望まれて結婚し、それから猛勉して、松井須磨子を後援するような社交界の有名夫人となっていた。
 姉も立志伝中の人物だったのだ。


▽発明に目覚めシャープペンシルで成功する

 さて、コ次は明治四十五年(一九一二年)、十九歳のときに金属加工の職人として独立したのだが、その直前に、はじめて成功した発明をなし、特許を得た。
 これは、洋服のズボン用のベルトをとめるバックルで、それまではベルトに孔(あな)をたくさんあけるタイプだったのだが、それでは面倒なので、締め付けて止める方法を案出したのだ。
 これは現在も多く使われているが、その最初は早川コ次の十九歳の発明だったのだ。
 あちこちに宣伝したところ、とつぜん五千もの注文があり、面食(めんく)らうと同時に、自信がついた。

 独立してから、数々の新案を世に出したが、注文品のなかに、削らなくてすむように芯を繰り出す鉛筆の部品があった。
 しかしこれは、とても幼稚なもので、一種の玩具であった。
 削らなくてすむ鉛筆は、多くの人が考えていたが、とうじは外国でも、実用性に乏しい玩具のようなレベルだったらしい。

 根が発明家で凝り性のコ次は、この繰り出し鉛筆を、もっと高級な万年筆なみに出来ないかと、必死で研究し、鉛筆と同じような細さを達成した。
 そしてこれに「早川式繰出鉛筆」と命名して売り出した。
 特許はアメリカでも成立しているので、決して外国の真似(まね)ではなかったことが分かる。

 気の合う兄と『早川兄弟商会』をつくって、この「早川式繰出鉛筆」を国内で売ろうとしたが、まったく売れなかった。
 ところが、たまたま輸出業者に宣伝しておいたものが外国に知られ、とつぜん、大量の注文が来た。
 製造が間に合わないほどの注文だった。

 あとで分かったのだが、それは、大正三年にはじまる第一次世界大戦によって、「繰り出し式鉛筆」を独占していたドイツが生産できなくなり、世界中が困っていたからであった。
 もちろんコ次の製品が売れたのは、その性能がドイツに劣らず、また、海外の特許に触れない独創性があったからである。

 それから国内でも売れ始め、コ次はさらに改良を重ねて、きわめて細い芯でも可能にした。
 そしてそれに「シャープ・ペンシル」という商品名をつけて売り出し、大成功をおさめた。
 このとき綺麗な模様をつけたのも、新しい試みだった。
 この「シャープ・ペンシル」は、四十八件もの外国特許を得た。
 この時点ではすでに、早川コ次の「シャープ・ペンシル」は、性能においても諸外国を圧倒していた。

[つづく]
 

『シャープの創業者早川コ次の人生』1  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月11日(木)21時58分1秒
  ▽立志伝の典型といえる少年時代の刻苦

 早川コ次は、現在の『シャープ株式会社』の創業者であるが、苦難の人生を乗り越えて発明家としてまた起業家として成功した、文字通り立志伝中の人物である。

 生まれたのは東京の下町で、明治二十六年(一八九三年)十一月三日である。
 父親は新機軸のちゃぶ台を発明製造した人で、明治二十三年の内国博覧会で銀賞を得ている。
 コ次の発明家としての資質はこの父親ゆずりだったのだろう。

 しかしコ次は、実の両親の顔を知らない。
 母の病気などがあって、末子だったコ次は、生まれてすぐに、知り合いに養子に出されたのだ。
 最初の養母は親切だったが、すぐに死んでしまい、後妻が来てから、不幸がはじまる。
 ひどい虐(いじ)めにあい、便所の孔(あな)に落とされて糞尿(ふんにょう)だらけになるなど、近所の人たちにも同情されていた。
 コ次は自分が養子であることを知らなかったが、うすうす「変だ」とは感じていたらしい。
 小学校にあがってからは、家計を助けるためにマッチのラベル貼りの内職などをやらされていたが、そのために便利な机を考案したのが、発明の最初であった。

 そのころの小学校は四年までだったが、コ次はそれすら卒業させてもらえなかった。
 二年生八歳のとき中退させられ、商家に丁稚奉公(でっちぼうこう)に行くことになったのだ。
 その家は、伝統的な金属加工を生業(せいぎょう/なりわい)としており、コ次はそれを身につけるべく努力した。
 奉公は厳しく、食事は先輩の残り物で休暇は年に二回しかない生活だったが、自宅で養母に虐められるよりはまだましだったらしい。
 主人は悪い人ではなかったようで、貧しいコ次をかばってくれ、コ次はここで人間として成長した。

 明治四十一年(一九〇八年)、十五歳のとき、主人が鉛筆製造に乗り出したが、技術が未熟で倒産してしまった。
 そこでコ次は、在庫の鉛筆を縁日で売ったり、また自分が考案した小物を売ったりした。
 これは縁日で安い鉛筆を売る商売(?)の草分けだったらしい。
 しかしテキヤの親分から「お前はもっとまともな人生を送れ」と励(はげ)まされて奮起し、やめにした。

 主人は逼塞(ひっそく)しながらも何とかやりくりしていたが、最後に残った丁稚はコ次一人になっていた。
 コ次は約束どおりの年季を終え、御礼奉公もきちんとすまして、長い間にためたわずかな金子(きんす)を、主人の借金返済のために差し出した。
 主人夫婦は大泣きに泣いた。
 本当はもっと貯まっている筈だったが、丁稚奉公の間ずっと養母が金をせびりにきていて、せっかくの貯金を失っていたのだ。
 じつに大変な苦労を、十歳前後の年齢でしていたことになる。

 奉公の終わりごろ、養家の箪笥(たんす)から偶然に、実母らしい人の日記を見つけ、自分が養子だった事を知り、必死で探して、ついに実の姉や兄を見つけた。
 そして、自分の本当の生家の姓は「早川」だという事を知った。
 実父母はすでに没していたが、兄の一人とは気が合い、共同で仕事をするようになった。

[つづく]
 

遅ればせながら  投稿者:えこね  投稿日: 1月11日(木)20時51分45秒
  あけまして、おめでとうございます。今年もデムパに、ご寛容を。
(鏡開きの日にて、1.11[いち、いち・いち]一が三つ)
 

『卑弥呼と日本書紀377』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月11日(木)12時43分41秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇十七年(西暦前八一年)
 〔はじめての計画造船〕

 七月一日――
「船は国にとって重要なものであるが、海辺(うみべ)の民は船がなくて困っている。そこで諸国に命じて造船させよ」
 との詔勅(しょうちょく/みことのり)を出された。

 十月――
 この詔勅によって、はじめて船を建造した。
 これは、大和(やまと)朝廷が計画的な造船をはじめたことを示すとともに、出雲(いずも)族、海部(あまべ)族など海に強い豪族を配下においたことを示す記述である。

▽崇神天皇四十八年(西暦前五〇年)
 〔夢による皇太子の決定〕

 一月十日――
 いきなり三十年も飛んでしまうが、これは実紀年を延長して天皇をきわめて長寿として記述していることによるやむをえない飛躍である。
 天皇はこの年、二人の皇子に夢を見るように命じた。
 すると兄の豐城命(とよきのみこと)は《三輪山》に登って東方に向かって槍(やり)を突(つ)き出し刀を振るった夢をみた。
 また弟の活目尊(いくめのみこと)はやはり《三輪山》に登って縄を四方に張って粟(あわ)をたべる雀(すずめ)を追い払った夢をみた。

 四月十九日――
 天皇はその夢を根拠にして、弟の活目尊は四方に気を配っているので皇太子に定め、兄の豐城命は東方を向いているので東国の支配者に命じた。
 この東国を治めた豐城命が上毛野(かみつけの/群馬県)と下毛野(しもつけの/栃木県)の始祖になった。
 東国とは関東周辺のことだと分かるし、また『魏志倭人伝』の狗奴(くな)国の有力候補である毛野(けの)国が平定された説話として読むこともできる。

[つづく]
 

質問  投稿者:鷹森賢一  投稿日: 1月10日(水)13時25分5秒
  皆様、あけまして おめでとうございます。
日本人の残留邦人について
日本政府は残留邦人の帰国についての政策がありますか。何ですか。
何か証明書とか、証拠は要りますか。
お教えください。
 

『卑弥呼と日本書紀376』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月10日(水)00時56分18秒
  [承前]

◆◆◆ 第十代 崇神(すじん)天皇の物語(5)――出雲(いずも)との確執と崩御(ほうぎょ)―― ◆◆◆
   (前節の続き)

▽崇神天皇十二年(西暦前八六年)
 〔『日本書紀(やまとのふみ)』編纂者による最大限の賛辞〕

 月十一日――
 この日に詔勅(みことのり/しょうちょく)を出して、これまでの苦労を偲(しの)び、今後の戸籍調査と課税についての方針を述べた。
 そのおおまかな意味は、

「皇位を継承してから苦難が多く、昼夜は混乱し、天候不順となり、疫病は蔓延し、百姓(おおみたから/宝のように大切な国民という意味)は災害をうけた。しかし過ちを改めて神々を敬い、乱暴者を教え諭(さと)し、帰服しない者は討伐した。こうして国の秩序が良くなり、国民は生活を楽しむようになった。異俗の人たちも訪れ、海外の人たちも帰属している。この時にあたって国民の戸籍を調べ、長幼や課役の順を知らしめよう」

 ――といったことだった。

 これまた従来の天皇紀にはない、自信にあふれた施政方針演説である。
 ここで面白いのは、「昼夜は混乱し(原文は陰陽謬錯)」で、西暦二四八年の日蝕(〈卑彌呼〉の死の原因になったという説がある)の生起と推理できないでもない。

 九月十六日――
 前記施政方針にもとづいて、史上はじめて戸籍を調べ課役を科した。男は狩猟、女は織物である。
 これによって神々は穏和になり、天候も良くなり、百穀豊饒(ひゃっこくほうじょう)となり、家々は豊かになり、人々は満足し、天下は平穏となった。
 そこで人々はこの天皇を讃(たた)えて、
  御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
 ――と申し上げた。

 御は治という意味を持っており、初めての国を治(おさ)めた、または初めて国を治めた――といった意味である。
 この特別な尊称が、百二十五代にわたる全天皇のなかでも、初代の神武(じんむ)天皇とこの第十代の崇神天皇の二天皇にしかつけられていないことに注意されたい。
 この特別な称号といい、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉ほかの神々の奉斎(ほうさい)といい、《箸墓(はしはか)》の特別な説明といい、『日本書紀』編纂者たちが、この時代をどのように考えていたか、この時代についてどのような元史料を見ていたかが推理できてじつに興味ぶかい。

[つづく]
 

無料エロ動画です。  投稿者:エロの味方  投稿日: 1月 9日(火)19時49分27秒 Remote Host: 221.212.213.33, Time: 1168339767
  (本投稿は、当掲示板に相応しからざる内容に付き、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀375』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 9日(火)12時46分26秒
  [承前]

 つぎに、この刀銘の系譜における系図と歴代天皇との照合をしてみる。
 一代をほぼ三十年とし、天皇の紀年を崩年干支で推定して、田中卓は次ぎの対比を有力としている。

  オホヒコ       崇神(すじん)天皇
   ↓          ↓
  タカリのスクネ    垂仁(すいにん)天皇
   ↓          ↓
             景行(けいこう)天皇・日本武尊(やまとたけるのみこと)
  テヨカリワケ      ↓
   ↓         成務天皇
  タカハシワケ      ↓
   ↓         仲哀天皇・神功(じんぐう)皇后
              ↓
  タサキワケ      應神天皇
   ↓          ↓
  ハテヒ        仁徳(にんとく)天皇
   ↓          ↓
  カサハヤ       履中・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)天皇
   ↓          ↓
  ヲワケの臣      安康・雄略天皇

 はじめの崇神天皇の在位がほぼ三世紀半ば、さいごの雄略天皇の在位が五世紀半ばなので、古代の二百年の系譜が記されていることになる。
 天皇は政治的理由によって交替が早いことがあるが、一般豪族ではそういうことは少ないので、右の表では天皇のほうが代数が多くなっている。

 このような系譜の照合からも、オホヒコが崇神天皇の御代(みよ)の大彦命(おおひこのみこと)である可能性がきわめて高いと推理されるのである。
 この銘文は、紙に書かれたものとしては日本最古とされる海部(あまべ)氏の系図よりもはるかに古い。
 そして四道(しどう)将軍の名前までが記されており、これによって『日本書紀(やまとのふみ)』の記述の信憑性が、部分的ではあるが、第十代の崇神天皇にまで遡(さかのぼ)って確認することができるのだ。
 だから、同じ崇神天皇紀に記された〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の活躍や《三輪山》の祭祀(さいし)の問題も、単なる伝説とは考えられないのである。
 このような系図が出土したことは、戦後の考古学の大きな成果である。

 この奇跡の刀銘系図によって『日本書紀』の記述の信憑性を確認したところで、崇神天皇紀にもどろう。

[つづく]
 

切腹法(4)  投稿者:解法者  投稿日: 1月 9日(火)10時26分59秒
   切腹が刑罰として始められたのは、江戸時代の初期からであろう。まず、切腹は喧嘩両成敗法の刑罰として行われた。慶長9年(1604年)旗本(はたもと)柘植正勝(つげ-まさかつ)が喧嘩の相手である花井小源太(はない-こげんた)を斬殺した件において家康が切腹を命じたのが最初である(『大日本史料』第12編の2)。切腹が一般的な犯罪の刑罰として行われたのは次の秀忠(ひでただ 第2代)の時代からである。美濃国(みののくに)代官栗原盛清(くりはら-もりきよ)が部下の年貢(ねんぐ)の横領に関する監督不行届きを理由に切腹を命じたのが最初である(元和7年〔1621年〕『大日本史料』第12編の38)。ただ、悪口を言ったり、袴(はかま)を捲(めく)り上げただけで切腹が明示されており、秩序化が始まったとされているが、これは家光(いえみつ 第3代)のヒステリックな性癖によると考えた方がよいと思われる。しかし、これも例外で死罪は斬罪が一般的であった。さらに切腹は殉死という意味を有しており、江戸時代の始まりから寛文8年(1668年―第4代家綱(いえつな)の時代)までで205名にも達している。  

切腹法(5)  投稿者:解法者  投稿日: 1月 9日(火)07時59分27秒
   切腹として有名なのが、浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)の吉良上野介(きら-こうずけのすけ)への刃傷(にんじょう)事件(「松の廊下事件」―元禄14年〔1701年〕)、赤穂(あこう)浪士の吉良上野介の仇討(あだうち 翌年)である(第5代綱吉(つなよし)の時代)。
 ただ、この「切腹」も例外的なものであった。切腹を命じられた赤穂浪士の「富森助右衛門(とみのもり-すけえもん)」も預けられ先の熊本藩の堀内傳右衛門(ほりうち-でんえもん)に「拙者(せっしゃ)はこの度(たび)のことで斬罪を命じられると思っておりましたが、皆様のお世話や世上の批判を聞き、切腹などの結構な御沙汰(おさた)があるのではないかと期待するようになりました」と述べている(『堀内傳右衛門覚書』)。大石内蔵助(おおいし-くらのすけ)も切腹に際し有(あ)り難(がた)き仕合(しあわ)せと述べている。このように彼らも「切腹」と「斬罪」との区別を認識していた。つまり、幕府の法・習慣は周知徹底されていたのである。
 したがって、>南條氏続けていわく赤穗浪士が切腹させられたのも「当然」であり、」(南條範夫氏)<、>赤穗浪士の吉良邸「討ち入り」は間違いなのです。浅野や大石が切腹させられたのは当時の法・習慣で妥当ですし、(黄東洋さん)<は、いずれも誤りである。<殺人>であるというなら、「斬罪」が妥当で、切腹などは許されるものではなく、そういう法・習慣などなかったのである。
 

切腹法(6)  投稿者:解法者  投稿日: 1月 9日(火)07時57分42秒
   武士の死罪は「斬罪」が原則で、「切腹」は例外であったものを示す史料としては多くのものがあるが、ここでは加賀藩のものを挙げる。例えば、延宝2年(1677年)、江戸詰めの藩士柴田孫之丞(まごのじょう)が銀屋長右衛門(しろがねや-ちょうえもん)という者を衆道(同性愛)のもつれから殺害した件では切腹ではなく、斬罪が言い渡され、父親のみ切腹が許されている(『五公譜略』)。また享保16年(1731年)、藩士毛利太兵衛(もり-たひょうえ)が弟の助右衛門(すけえもん)を殺害した件では、助右衛門にも行状が悪かった点があるとして、罪1等を減じて切腹としている(『凌新秘策』)。会津(あいづ)藩でも重罪は成敗(斬罪)で切腹は許されなかった(『会津藩家世実記』)。
 江戸時代でも身内に不心得者(ふこころえもの)がでると親戚にも類が及んだので、本人はもちろん親戚一同も成敗(斬罪)ではなく切腹を願い出ることが多かった。藩主側も親戚一同に「扇子腹」といって本人に扇子を持たせて腹を切る真似(まね)をさせて首を落として切腹したということとし、親戚に類が及ぶことを防いだということ(方法)が江戸時代初期から広く流布していた(『大江戸残酷物語』氏家幹人 洋泉社 2002年)。また、親戚が本人を殺害(絞殺)し、腹に刀を突(つ)き立てて切腹(自死)させたように偽装することまで行われたようである(薩摩藩 文化5年〔1808年〕)「文化朋党崩れ」事件)。これらは切腹を自死の手段ではなく、親戚一同の成敗(斬罪)の手段として利用したもので、切腹の形骸化が広がっていたという証佐を示している。
 

『考古学の衝撃』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 8日(月)23時36分54秒
  『卑弥呼と日本書紀』の連載は、このあと考古学的な話が多くなり、いよいよ邪馬台国の核心に迫ります。
 痛感するのですが、平成に入ってからの考古学の進展は驚異です。
 歴史というのは、私の専門である工学とは違って、学説の真偽を実験で確認することが困難です。
 まあ多少はそういう面もありますが、ごく一部に過ぎません。
 歴史――とくに古代史において、工学の実験に相当するのは、なんといっても考古学の進展でしょう。
 高名な学者の何十年にもわたる文献を中心とした古代史研究の成果が、考古学の新しい知見によって一夜にして覆る――という光景を、平成になってから何回も見てきました。
 邪馬台国問題におきましても、平成になってからの考古学の成果はじつに強力で、昭和期の学者の無数の研究が覆され、大正時代の無名の研究家の意見が復活する、という現象も見られます。
 この十年、大和(やまと)説が優勢になってきた理由も、考古学の進展にあります。

 今の連載は、もう六割に達しており、あと四割で終わります。
 それでも、これまでの連載で一番長くなるかもしれません。
 この前に(別の掲示板で)やっていた『発明特許の日本史』が573回でしたから、それより長くなりそうです。
 

wow  投稿者:関東軍の上等兵  投稿日: 1月 8日(月)14時21分47秒 Remote Host: softbank219049170022.bbtec.net, Time: 1168233707
  (出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀374』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 8日(月)12時16分47秒
  [承前]

 衝撃的な銘文だが、とくに注目すべきが、これを作ったヲワケの臣(おみ)なる人物の先祖が、オホヒコだと記していることと、ワカタケル大王(おおきみ)がシキの宮にいたときに仕(つか)えたと記していることである。
 オホヒコとは北陸に派遣された四道(しどう)将軍の一人である大彦命(おおひこのみこと)と考えられ、この命(みこと)を先祖とする人物が自分の家系と自分の働きを記した記念の刀を作ったというのだ。
 出土は埼玉だが刀の製造場所は《大和(やまと)》だっただろうとされている。
 またワカタケル大王とは、初瀬(はつせ)川岸つまり磯城(しき)に皇宮をつくった第二十一代雄略天皇に違いない。

 シキの宮という場所(図8.1の21)も一致しているし、ワカタケルは『日本書紀(やまとのふみ)』にある雄略天皇の国風謚号(しごう)の大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)とピタリと一致している。
 このワカタケルという呼び名は、熊本県から出土した同時代の江田船山大刀(たち)の銘文にも見られる。
 辛亥(かのと-ゐ)は西暦四七一年を示す干支だが、雄略天皇の崩年干支による推定崩年は四七九年または四八九年とされるので、四七一年は在位中であり、年代的にも矛盾がない。

 この銘文の前半は家系だが、後半の解釈は田中卓によれば次ぎのごとくである。

「その児(こ)のヲワケの臣にいたるまで、世々、杖刀人(刀を帯びた警護の人)の首長としてお仕えして今に至りました。幼武大王(わかたけるのおおきみ/雄略天皇)の皇宮は磯城(しき)にありますが、この時私は、大王が天下を統治されるのをお助けし、この練(ね)りに練り鍛(きた)えた鋭利な刀を作らせまして、その刀に自分の先祖以来、お仕えしてまいりました根源を書き記しておくものであります」

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀373』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 7日(日)12時08分56秒
  ■■■■■ 八・九 稲荷山(いなりやま)刀銘による四道(しどう)将軍派遣の史実性の検討、ならびに出雲(いずも)・任那(みまな)との関係 ■■■■■


◆◆◆ 四道将軍を証明する奇跡の稲荷山刀銘 ◆◆◆

 さて、〈卑彌呼〉の死の直後らしい時代に大和(やまと)朝廷の力を畿外にまで広めた四道将軍の実在性であるが、それは考古学上の発見によって見事に実証されている。
 すなわち、昭和五十三年九月に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から、一一五文字の銘文が刻まれた刀が発掘され、その銘文によって、四道将軍の派遣が史実であることがわかったのだ。
 もちろん古代の神話的な事件を推理するのだから、一部に異論もあるのだが、他の考古学的知見と合わせて、さいきんでは四道将軍が実在したとの見解がきわめて有力となってきている。

 図8.11にこの稲荷山刀銘を示した。

図8.11
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H89-812.htm

 文字は《石上(いそのかみ)神宮》の「七支刀(ななつさやのたち)」と同じ手法で、彫った線に金を埋め込んだ金象嵌(ぞうがん)である。
 読み方にはいくつかの説があるが、ここでは田中卓のものを記しておく。多くの学者がほぼ同じ読み方をしている。

「辛亥(かのと-ゐ)の年の七月中、記す。ヲワケの臣(おみ)の上祖(かみつおや)、名はオホヒコ、其(そ)の児(こ)、タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヤ、其の児、名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首として、奉事し来たりて今に至る。ワカタケル大王の寺、シキの宮に在(あ)り。時に、吾(われ)、天下(あめがした)を左治し、此(こ)の百練の利刀を作らしめ、吾(わ)が奉事の根原を記す也」

[つづく]
 

総理の初詣  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 6日(土)23時30分48秒
  安倍総理が、伊勢神宮に続いて明治神宮にも参拝なさったそうですね。
で、靖国神社だけは?????
 

RE:初詣  投稿者:竹下義朗  投稿日: 1月 6日(土)21時55分17秒
  私は、4日に、山梨県富士吉田市の北口本宮冨士浅間(せんげん)神社へ初詣(はつもうで)に行って参りました。  

『卑弥呼と日本書紀372』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 6日(土)12時48分41秒
  [承前]

**********

 この前後の崇神(すじん)天皇の周辺平定の苦心譚(たん)を読むと、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の死後のつぎの記述(第三・八節)が頭に浮かぶ。

「・・・更に男王を立てしも、国中服せず。更々(さらさら)相誅殺(あいちゅうさつ)し、当時千人余を殺す。またまた卑彌呼の宗女臺與十三なるを立てて王となし国中遂に定まる・・・」

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉説」

 ――においては、男王に服せず、という箇所が、崇神天皇の苦労に暗合すると考え、〈臺與(とよ)〉を後継者とした記述が、〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉が〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を祀(まつ)る役を担(にな)ったことに暗合すると考えることが多い。

 年代の順がすこし混乱するが、なにしろ各豪族の古い伝承をまとめているので、前後するのはやむをえない。
 前記したが、〈倭迹迹日百襲姫命〉の死がもうすこし前か、または〈豐鍬入姫命〉の祭祀(さいし)担当がやや後だとすれば、年代の矛盾はなくなり、『魏志倭人伝』と『日本書紀(やまとのふみ)』の一致度はきわめて高くなる。

 そしてこの説では、
〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉
 から
〈臺與〉=〈豐鍬入姫命〉
 ――への移行は、大和(やまと)朝廷や豪族たちの祭祀の中心が《三輪山》の〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉から先祖神の〈天照大神〉に移ったか、もしくは大和朝廷が土地の豪族たちに〈天照大神〉を認めさせることに成功した――と解釈し、さらに、男王=崇神天皇の事績が『魏志倭人伝』では過小評価されている――と解釈するのである。

(この説において、〈卑彌呼〉を補佐した「男弟」なる存在もまた若いころの崇神天皇である可能性が高いと考えるのは当然である。すなわち男弟=男王の可能性があるとするのだ。本当の弟だったらしい吉備津彦(きびつひこ)なのかも知れないが、のちに記すように、崇神天皇も義理の弟――またはそれに近い立場――だった可能性があるのである)

[次ぎは「第八・九節 稲荷山(いなりやま)刀銘による四道(しどう)将軍派遣の史実性の検討、ならびに出雲(いずも)・任那(みまな)との関係」]
 

ワールドフォーラム 新春特別歴史シンポジウムのご案内 -- 「  第二次世界大戦とはどのような歴史だったのか ? 」  投稿者:救国の草莽の志士  投稿日: 1月 6日(土)00時39分44秒
     ワールドフォーラム 新春特別歴史シンポジウムのご案内

     http://www.worldforum.jp/information/2007/01.html


     「第二次世界大戦とはどのような歴史だったのか?」

平成19年の新しい年に張り切る毎日の今日この頃ですが、皆様にはお元気にご活躍のことと存じます。ワールド・フォーラムでは、久しぶりに近代史を取り上げて、新春1月の歴史シンポジウムとして昭和史を取り上げて、「 世界史の真相追究 」を行ない「 第二次世界大戦史の検証 」を歴史の見直しの観点から行ないます。欧州ナチスドイツ・ヒトラーの台頭とその正体、これに対抗勢力としての英米アングロサクソンのチャーチル・ルーズベルトの果たした役割、中国大陸に進出した昭和日本の真意と実態、世界の近代史に果たした日本の国家的役割といった広い観点から、本当は, 「第二次世界大戦とはどのような歴史だったのか?」という、『歴史の検証』を行なってみたいと思います。

講師には、英・米アングロサクソンのチャーチル・ルーズベルトの役割について、国際情報誌「真相の深層」編集長・発行人 木村愛二氏、欧州のナチスドイツ・ヒトラーの台頭とその正体 をネット・ジャーナリスト リチャード・コシミズ氏、中国大陸に進出したという昭和日本の真意と実態 について亜細亜大学教授 東中野修道氏、戦前戦中戦後日本の歴史の変遷とあるべき歴史の見直し を弁護士 南出喜久治氏をお招きし、第二次世界大戦史の真相追究と歴史検証を行なって戴きます。司会役は当会ではお馴染の国際ディベイト学会会長 松本道弘氏と 判定役に前駐日インド大使・慶應義塾大学グローバルセキュリテイ研究所教授 アフターブ・セット氏にお願いし「歴史の真相」に迫って戴きます。


プロフィール
アフターブ・セット 氏

1943年インド生まれ。駐日前インド大使・慶應義塾大学グローバルセキュリテイ研究所教授。西欧詩壇に於いて詩朗読マイスターの称号を併せ持つ詩人。著書には、危機を乗り越える日本の知恵と技術を「象は痩せても象である―インドから見た巨象・日本の底力」がある。日・印両国は " 国連 " と " 核問題と平和 " という2つの領域で、ともに活躍していく必要をとく。



プロフィール
木村 愛二 氏

1937年生まれ。東京大学文学部英文科卒業。 1961年日本テレビ入社。編成極編成部・広報部・調査部勤務で労組活動で活躍。日本レビ社長小林与三次と労使紛争で対決、解雇され16年半法廷闘争になり、 1988年和解後に退職。その間、ジャーナリストとして雑誌、著書多数。特に「アウシュビッツの争点」「湾岸報道に偽りあり」「ガス室検証」「ホロコースト神話の嘘」の真相に迫る名著を出版。国際情報誌「真相の深層」を発行・編集。


プロフィール
東中野 修道 氏

昭和22年鹿児島生れ。46年鹿児島大学法文学部卒。52年大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。60年西ワシントン大学客員教授(日本思想史)、ハンブルク大学客員研究員を経て、亜細亜大学教授文学博士、日本「南京」学会会長。主な著書に、『東ドイツ社会主義体制の研究』『南京事件 (証拠写真)を検証する』、(共著)『「南京事件国民党極秘文書から読み解く」、『「南京虐殺」の徹底検証』、『南京「百人斬り競争」の真実』(ワック)、他多数。


プロフィール
松本 道弘 氏

1940年大阪生まれ。関西学院大学卒業。日商岩井。西山千氏の推挙でアメリカ大使館の同時通訳,NHKテレビ上級英語講座 講師。ディベートを広めディベート教育暦約40年、国際ディベート学会会長。私塾「紘道館」館長。日本文化に関して130冊著作。


プロフィール
南出 喜久治 氏

昭和25年生れ。昭和59年弁護士登録、京都弁護士会所属。謝罪決議違憲訴訟、NHK訂正放送等請 求訴訟等の原告代理人。日本国憲法無効論で有名。憲法学会会員。著書に日本国家構造論 −自立再生への道―(政界出版社)「現行憲法無効宣言」等。


プロフィール
リチャード・コシミズ 氏

昭和30年生まれ。1978年青山学院大学経済学部卒業。商社勤務を経て、2000年独立。ネット・ジャーナリスト」。ヒトラーの正体とユダヤ問題や朝鮮問題に詳しく、独自の情報網で日本語と英語のサイトで、現代政治社会の支配構造を暴露。



日時・場所・詳細
日時 : 2007年1月20日(土) 13:00 - 17:00
場所 : 主婦会館  地下2階会議室 「クラルテ」
千代田区六番町15番地    TEL(03)3265-8111
交通 : JR四谷駅  麹町口前
地図 : http://www.plaza-f.or.jp/information/otoiawase/otoiawase.html
参加費 : 5,000円(予約前払い 4,000円)
振込先 : 三菱東京UFJ銀行 田無駅前支店/普/3826681/口座名義 さそう くにお

連絡先
ワールド・フォーラム例会にご出席いただける方は、下記宛にご連絡下さい。
ワールド・フォーラム代表幹事 : 佐宗邦皇

http://www.worldforum.jp

 

切腹法(1)  投稿者:解法者  投稿日: 1月 5日(金)21時09分32秒
   切腹がいつから始まったかについて、記録から明らかなものは、藤原保輔(ふじわらのやすすけ、袴垂 はかまだれ)だとされている。平安時代の大盗賊として有名であった袴垂は検非違使(けびいし)庁の追及を受けていたが、逃げられぬと知り腹をかっさばいて自死した。永延2年(988年)のことであった。『続古事談(ぞくこじだん)』(承久2年〔1219年〕)に記録があり、袴垂のことは『今昔(こんじゃく)物語』(承久3年〔1220年〕ころ─正確な年代は不明)にも記述がある。ただ、この『続古事談』については記録としての価値に疑問を抱く者がおり、切腹の最初であるとすることに異議がある。そこで、
最初の切腹は源為朝(みなもとのためとも)だとする者もいる。これは保元(ほうげん)の乱で敗れて伊豆大島に流されてなお朝廷方の追捕(ついぶ)を受け、腹を切って自死した(嘉応元年〔1156年〕)というもので、『保元物語』(延応元年〔1239年〕ころ─正確な年代は不明)に記録がある。
 切腹は武士の自死手段として武士道が確立した鎌倉時代に整備されていったとされる。
 

切腹法(2)  投稿者:解法者  投稿日: 1月 5日(金)21時08分24秒
   このように切腹は自死する手段としてのものであって刑罰ではなかった。日本最古の刑法集といえる『養老律令(りつりょう)』(養老2年〔718年〕─天平勝宝9年〔757年〕施行)は1部しか残っていないが、その後の研究で大部分が判明している)。これによると、刑罰のうち死罪は斬絞であり切腹はなかった。これは切腹が整備された鎌倉時代でも同じだった。主君が家来に死罪を行うには斬殺、抵抗する場合は、謀殺しかなかった。この頃の武士の主従関係はそう強固なものではなく、切腹などの自死をさせようとしてもおいそれと従う者はいなかった。さらに武士の主君の移動は自由で切腹をさせようとしても、主君の元を去って別な主君に仕(つか)えればよかった。つまりこの時代の武士には就職難などなかったのである。
 自死する手段としての切腹は、室町時代になって頻繁に行われたが、刑罰としては行なわれることはなかった。
 

切腹法(3)  投稿者:解法者  投稿日: 1月 5日(金)21時07分0秒
   切腹が刑罰として行われた最初のものは、戦国時代の越後(えちご)上杉謙信の時代からであるとされる。上杉謙信の臣下だった長尾右衛門佐(ながお-うえもんのすけ)は不都合を働いたかどで士籍を剥奪された(帯刀の禁止、所領の没収)。彼の親戚一同はこれを恥じて、切腹を願い出て許されたという。越後上杉家の掟(おきて)では、武士の刑罰は1に士籍剥奪、2に切腹だったのである。このように戦国時代になって切腹が刑罰の死罪として次第に定着していったが、成文法として制定されているものはこれ以外になく慣習法としても定着していたかについては疑問がある。
 羽柴秀吉(はしば-ひでよし)によって水攻めにされた備中(びっちゅう)高松城主清水宗治(むねはる)の切腹は有名であるが、これは切腹と引き換えに家臣を救うという戦国時代の慣習によるもので、死罪というものではない。秀吉の養子であった秀次(秀吉の甥)の切腹は、秀吉の家臣であった尾藤知宣(讃岐城主)も秀吉によって手討(斬罪)にされている(『武辺咄聞書』)ことからみれば、例外であったと見るべきである。
 関が原の戦いで破れた石田三成、小西行長も切腹ではなく、斬罪されている。
 

boaアイコラ  投稿者:boaアイコラ  投稿日: 1月 5日(金)18時02分59秒 Remote Host: ntoska047142.oska.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp, Time: 1167987779
  (本投稿は、当掲示板に相応しくない内容と判断し、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀371』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 5日(金)12時17分49秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇十年(西暦前八八年)5
 〔四道(しどう)将軍の出発〕

 十月一日――
 混乱がようやくおさまると、崇神天皇はあらためて詔勅(しょうちょく)を発して、

「いまや反逆者はすべて伏して畿内は平穏になった。しかし畿外にはまだ騒動があるので、四道将軍はただちに出発せよ」

 ――と命じ、二十二日に改めて四人の将軍は《大和(やまと)》を出て、それぞれの目的地に向かった。

 この年の『日本書紀(やまとのふみ)』の紀年は西暦前八八年であるが、考古学を加味した実紀年研究では、三世紀半ばから後半にかけてだろうと推理されている。
 すなわち〈卑彌呼〉が没したすぐあとである。

▽崇神天皇十一年(西暦前八七年年)
 〔四道将軍の凱旋〕

 四月――
 翌年のこの月、四道将軍が凱旋して、四方を平定したことを天皇に報告する。
 そして異俗の人が多く《大和》にやってきて、朝廷に帰順し、国内が安泰になった――と記されている。
 ここの異俗とは大陸の外国人のことではなく、日本国内の遠方の各地方の人たちが天皇を慕(した)ってやってきた――という意味であるらしい。

[つづく]
 

カーセックス  投稿者:カーセックス  投稿日: 1月 5日(金)01時21分22秒 Remote Host: ntoska142173.oska.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp, Time: 1167927682
  (本投稿は、当掲示板に相応しくない内容と判断し、管理者権限に於いて削除)  

初詣  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 4日(木)12時41分12秒
   一日、家族四人で初詣(はつもうで)に行ってきました。
 次男も帰省していたのですが、疲れて寝ていたのでお留守番。
 昨年一昨年は曾屋神社、白笹稲荷(いなり)、出雲(いずも)大社の三社に行ったのですが、出雲大社はあまりにも混んで拝殿に近づくことが出来ませんので、今年は諦(あきら)めました。
 そのかわり、少し遠方(といっても同じ市内)の三島神社に行こうとしたのですが、孫が車に弱いのでやめました。
 前に行った寒川(さむかわ)神社や大山は殺人的なのでやめ。
 で、近所の曾屋神社と白笹稲荷の二社に。

◆曾屋神社
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/h19_soya.htm

 昔の村の神社を集めた素朴な神社らしい。同様な神社はあちこちにあるのですが、なぜかこの曾屋神社は賑わいます。近傍の人がたくさん参拝します。
 鳥居前の道から拝殿までずっと人が並んでいまして、拝殿に行き着くのに20分くらいかかりますが、皆落ち着いていて、じっくりと拝んでいるので感心します。
 悠仁(ひさひと)親王殿下御誕生を祝う垂れ幕とか、平成の大典を記念する灯籠(とうろう)とかがあります。国旗は勿論掲揚されています。
 ついでに、ここで入手した今年の干支の写真も・・・。

◆白笹稲荷神社
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/h19_shirasasa.htm

 つぎが白笹稲荷です。
 ここは関東三大稲荷の一つで、祭日には関東一円から人が集まり、物凄く賑やからしい。
 関東三大稲荷とは――
◎笠間稲荷(茨城)
◎白笹稲荷(神奈川)
◎穴守稲荷(東京)
 ちなみに日本三大稲荷は――
◎伏見稲荷(京都)
◎祐徳稲荷(佐賀)
◎笠間稲荷(茨城)

 最初の写真の右側のポールの先端は国旗です。
 境内は広大で、神社関係者らしい何軒もの家も中にあります。
 キャンプ場まであります。
 拝殿はとても素朴で、あぶらげがぶら下がっています。

 帰りに出雲大社(相模分祠 さがみぶんし)の前を通ったら、参道を溢(あふ)れた参拝客がエンエンと道に並んでいました。
 この神社は、名古屋以北では最大の出雲大社だそうです。
 立派な結婚式場などもあります。
 ただ、明治以来ここまで来るのには大変な苦労があったらしいです。

(今年の初詣で、神社以外の民家で国旗を見たのは一軒だけ!)
 

『卑弥呼と日本書紀370』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 4日(木)12時35分3秒
  [承前]

 図8.10は、古代の巨大墳墓の工事の想像図である。
 よほど高度な土木技術を駆使しなければ、このような巨大な墳墓を構築することはできない。
 崇神(すじん)天皇時代の大和(やまと)朝廷が、きわめて高度な技術と大きな動員力を有していたことをあらわしている。

図8.10
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H89-812.htm

『日本書紀(やまとのふみ)』中の〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉は「崇神天皇を指導する女性」として記述されているが、この時代の女性の地位は一般家庭でもかなり高かったらしい。
 稲を植える田植という重要な仕事は女性が独占していた。
 近世〜近代の日本女性の地位の高さは、幕末から明治初期に来日した欧米人が近隣国と比較して驚いているが、〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代や推古天皇を生んだ飛鳥時代にあっては、とくに高かったらしい。
 だから最高の神社の祭神が女神の〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉であっても、最初の超巨大な前方後円墳の主が女性であっても、そのこと自体は不思議ではない。

 不思議なのは、天皇とされていないのに当時の歴代天皇よりはるかに詳しく、その死や墳墓造営の話が書かれていることである。
 いや、死や墳墓だけでなくその業績についても、初代神武(じんむ)天皇と第十代崇神天皇の間のどの天皇よりも詳しく記されているのだ。
 しかもその御陵(ごりょう/みささぎ)は、それまでのどの天皇陵よりも遙かに大きい。
 隔絶した巨大さである。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が崇神天皇の直前に事実上の天皇――しかも最初に大和を平定した天皇――だったという仮説が唱えられる所以(ゆえん)である。

[つづく]
 

RE:「天野貞祐の国民実践要領」  投稿者:竹下義朗  投稿日: 1月 3日(水)22時20分19秒
  オロモルフさん

「天野貞祐の国民実践要領」を拝読致しました。

読めば読む程、「当たり前」の事しか書かれて居らず、この何処(どこ)がけしからんのか大いに理解に苦しみます。当時(今もそうですが)の左翼で余程(よほど)の莫迦(ばか)であったとしか言いようがありませんね。

先般の教育基本法改正(「愛国心」云々と騒がれているが、条文には唯(ただ)の一言も「愛国心」と言う文言は出てこない)と言い、防衛庁の省昇格と言い、左舷に傾き過ぎて転覆しかけていた日本丸が、右舷側への復元で真(ま)っ直(す)ぐになりつつある昨今。『幻の天野勅語』等と言わず、廃棄された『教育勅語』の復活が為(な)される事を強く望みます。
 

おやじハリファックスさん  投稿者:竹下義朗  投稿日: 1月 3日(水)22時06分52秒
  おやじハリファクスさんがお住まいのハリファクス市は、カナダ北東部・ノバスコシア州の州都なんですね。
ゴミ焼却場と廃棄物処分場の全廃と言う思い切った政策を官民挙げて推進している世界トップクラスの環境問題先進地域・・・確かそうでしたよね。

私の住む山梨県では、清里高原のある北杜市明野町浅尾地区 ── 水源涵養(かんよう)地帯 ── に最終処分場の建設が県によって強行されていますが・・・出たゴミを焼却し埋め立てるだけと言う能も無い施策しか出来ない知事を含めた山梨県に、ノバスコシア州の爪(つめ)の垢(あか)でも飲ませてやりたい気分です。
 

恭賀新寿  投稿者:竹下義朗  投稿日: 1月 3日(水)21時57分12秒
  年末年始は仕事で自宅を空(あ)け、四日ぶりに帰宅しました。
と言う訳で、遅ればせ乍(なが)ら、

れんだいこ様
オロモルフ様
KABAREN様
おやじハリファックス様
そして、皆様

明けまして御目出度(おめでと)う御座(ござ)います。
本年も宜敷(よろしく)お願い致します。
(写真は、今年の元日に撮影した初日の出です)
 

『卑弥呼と日本書紀369』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 3日(水)12時42分13秒
  [承前]

 これが、古墳時代の到来を告げる御墓として有名な、日本で最初の超巨大前方後円墳《箸墓(はしはか)》である。
 墳丘長だけで二百八十メートルもある。
 現在は埋められているが、発掘調査の結果周濠跡が発見されており、それまで入れるとはるかに大きい。
 それまでのすべての天皇陵をはるかに上回っている(直前の開化天皇陵や父君である孝靈天皇陵の十倍に近い!)ばかりではなく、直後の著名な崇神(すじん)天皇や垂仁(すいにん)天皇の御陵(ごりょう/みささぎ)をも上回っているのである。

 また、このように墳墓がつくられたときの様子や歌までが書かれているのは、『記紀』としては異例中の異例で、最初で最後といってよい。
 古代の天皇紀では、天皇の墓でも御陵名が一行で書かれているだけ(崇神天皇についても同様)がふつうだし、場所すら書かれていない天皇もあるくらいなのに、ここでは天皇ではない一皇族なのに異常なまでに詳細なのだ。
 しかも女性である。

 一人の皇女にすぎないにもかかわらず、その前後の天皇陵より巨大な御陵ができ、『日本書紀(やまとのふみ)』の編纂者が天皇以上の詳細な造営譚(たん)の記述をあえて行ったのには、そこになにか特別な事情があった――と考えざるをえない。
 三輪一族の主張があったとしても、ここまで詳細に書くのは不思議だし、事実その御陵は天皇陵を上回る規模なのである。

 図8.8に、『日本書紀』における〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の死から御墓築造までの部分を示した。

図8.8
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H86-88.htm

 また図8.9に、北西の池の側からみた雄大な《箸墓》を示した。写真の右が前方部、左が後円部である。

図8.9
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H89-812.htm

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀368』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 2日(火)12時40分34秒
  [承前]

▽崇神(すじん)天皇十年(西暦前八八年)4
 〔〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の《箸墓(はしはか)》造営譚(たん)

 さて、本文に戻って、没した〈倭迹迹日百襲姫命〉は大市の里に埋葬され、その墓は《箸墓(はしのみはか)》または《箸墓(はしはか)》と名づけられた――とある。
 現在でもそのように呼ばれており、図8.1、8.5などにその位置がある。

図8.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

図8.5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

『日本書紀(やまとのふみ)』ではその次に、

「是墓者日也人作、夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓、人民相踵以手逓伝而運焉。」
(この御墓は、昼は人がつくり夜は神がつくった。使用した石は、大坂山から御墓まで人民が並んで手渡しして運んだ)

 ――と記し、その様子を歌った歌までが書かれている。

  大坂ニ繼ギ登レル
  石群(いしむら)
  手遞傳(たごし)ニ越(こ)サバ
  越シカテムカモ

  ――という歌である。

 大坂山とは大和(やまと)と河内(かわち)の間にある山で、現在二上(ふたかみ)山と呼ばれているあたり(図5.2または8.1の左端中央)らしい。この山の石を大勢で手渡ししつつ運んでいる有様を歌っているのだ。

[つづく]
 

謹賀新年  投稿者:おやじハリファックス  投稿日: 1月 1日(月)21時35分38秒
  竹下師
明けましておめでとうございます。本年もご指導ご鞭撻(べんたつ)のほどよろしくお願い致します。
益々のご活躍期待致しております。
いつの日にか、師の講義に参加出来ることを夢見ております。
さきほど、ハリファックスの五稜郭の上からご来光を拝み、君が代を唱(うた)い、日本と己の今年をお守り下さる様おねがいいたしました。

当たり前の事なのですが、暗い夜が、しらじらと明るくなって行き、美しい朝焼けが、そしてお日様が顔を出す、、、ひとが作り出した灯りなど誠に取るに足らずと、、、思いました。
(あかつき)をさとると読ませる意味が少しわかったような気がいたしました。

諸先輩の皆様にとりましても、実のりある一年となりますように、地球の裏側よりお祈り申し上げます。

           元旦      おやじハリファックス
 

「天野貞祐の国民実践要領」  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 1日(月)19時35分37秒
  「天野貞祐の国民実践要領」を入力・保存しておきました。
 教育勅語(ちょくご)が廃止されたあと、それに替わるものとして文部大臣の天野貞祐がつくった国民の指針で、俗に『幻の天野勅語』と呼ばれているものです。
 よろしければどうぞ。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/amano_chokugo.htm
 

謹賀新年  投稿者:KABAREN  投稿日: 1月 1日(月)19時20分49秒
  管理人様、掲示板に集う皆様、あけましておめでとうございます。
書き込みはほとんどしていませんが、毎日拝見しております。
本年も皆様の貴重なご意見を拝見し、勉強させていただきます。
よろしくお願いいたします。
 

謹賀新年  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 1日(月)10時51分54秒
  あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
 

『卑弥呼と日本書紀367』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 1月 1日(月)10時48分51秒
  [承前]

《大神(おおみわ)神社》で蛇が尊重されるのはこのためだが、《三輪山》には白い蛇が多くいたので「〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉=白蛇」という伝説ができたのだろう。
 この説話は、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の話と大田田根子(おおたたねこ)の母親の伝承とが混乱した結果だとの説もある。
 しかし大田田根子の母の方は死んではいないから、〈百襲姫命〉の唐突の死は独特であり、重大な事件である。

〈大物主神〉との結婚自体は、元来が神につかえる神子(巫女 みこ)とは神と結婚した女性なのだという思想があるので、不思議ではない。
〈百襲姫命〉が〈大物主神〉の神託を告げる《三輪山》の神子――もちろん神秘的な霊力をもった高度な巫女――であったことをあらわしているにすぎないであろう。
 だが、箸(はし)で下腹部をつかれて死ぬ伝承はいささか異常である。
 崇神(すじん)天皇を指導するほど身分と学識の高い皇女にしては、奇妙な死に方である。

 推測を重ね過ぎてもいけないが、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の唐突な死は自殺または他殺ではないのか――という松本清張たちの説を連想する。
 またそれが〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の岩屋隠れと暗合するという井沢元彦の説を連想する。
 さらに、古墳の中で下腹部だけを矢で突(つ)かれて死んでいる老女が発掘されているという樋口清之の話や、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴で梭(ひ)で陰部をついて死んだ姫の話も想起される。
〈卑彌呼〉の唐突な死とこの〈倭迹迹日百襲姫命〉の突然の死とのあいだに、奇妙な暗合があるのだ。

「尖(とが)ったもので下腹部を突かれて突然死する」

 ――という、古代の重大事件である。

[つづく]
 

謹賀新年おめでとうございます。  投稿者:れんだいこ  投稿日: 1月 1日(月)02時07分58秒
   謹賀新年おめでとうございます。今年は多難が予想されますが、さてどうなるのでせう。今年も宜しくお願い申し上げます。  


帝國電網省:[ トップページへ ]

喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2007年2月のログ] [2006年12月のログ]

inserted by FC2 system