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喫茶室 過去ログ93(2007.2.1〜2.28)

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喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2007年3月のログ] [2007年1月のログ]


繰り返しウンチク  投稿者:  投稿日: 2月28日(水)22時25分12秒
  漢__楽浪太守・東夷の韓の臣智(韓の酋長)
魏晋_楽浪太守・扶余王(百済王)・帯方太守、韓はAD264年に滅ぶ。
六朝宋_扶余・海北95国(任那)
六朝斎_百済・加羅国王・健牟羅城
隋__百済・新羅金城(加羅の一部の健牟羅城)
唐__新羅が滅ぶ。
渤海_蓋州(契丹が、辰韓(旧新羅)を、辰州と改める)
契丹_辰州(渤海を、東丹国とし、辰韓に州を置く,南女直湯河司・東京統軍司留守)
女真_開州(熊岳県など)と全州(高州(高麗)を全州に改名,高麗生日使)
金国_合瀬路と曷蘇館路(辰州など旧高麗(元高句麗)を高州に。路知府=路知事)
蒙古_蓋州路(東京支郡、建安県 権知高麗国事)
明朝_三営、経略司、権署,朝鮮国事
満州_宣化堂、監司、朝鮮国王
日帝_大韓皇帝

yy31.kakiko.com/test/read.cgi/siranami/1106357070/148n-153
 

『卑弥呼と日本書紀418』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月28日(水)11時57分5秒
  [承前]

〈八〉倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と崇神(すじん)天皇

 女王は日本ではオオキミで、天皇とは限定されない。沖縄のキコエオオキミも、国王の姉妹で最高の司祭であり、結婚せず神の妻として神託で国王を助けたとされている。
 三輪山は大和(やまと)の山門(やまと)であり、この三輪山を祭る巫女(みこ)は国家最高の女性である。
 鬼道は侮蔑語でじっさいは神道である。
 時代が大きく変化するとき、古代においては宗教的な女性が出現している。神功(じんぐう)皇后、推古天皇など。
 男弟は崇神天皇のことで、倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇の関係は、推古天皇と聖徳太子、齊明天皇と中大兄皇子(なかのおおえのみこ/天智天皇)、飯豐青皇女(いいどよのあおのひめみこ)と弘計王(おけのみこ/顯宗天皇)、キコエオオキミと琉球国王・・・とのペアと類似している。

〈九〉国内統一の進展

 記紀では、四道(しどう)将軍の話はあるが、北九州がいつ大和に関係づけられたかの記述がない。風土記(ふどき)などから、崇神天皇の御代(みよ)にはすでに大和の勢力に入っていたのだろう。だから特別な記述はないので、九州説の主張はおかしい。
 豪族たちが協力して洛陽や楽浪郡に行ったのだろう。使者が自ら大夫と称していたのは、シナの制度に通じていた証拠である。
 崇神天皇のハツクニシラスとされる具体的内容は、
  1. 神社制度の確立
  2. 四道将軍の派遣
  3. 出雲問題の処理
  4. 財政機構の確立
 ――であった。

〈十〉出雲(いずも)との関係

 日本を最初に統一したのは出雲ではなく、大和朝廷であり、併合された諸国の表徴が大國主神(おおくにぬしのかみ)だったのだろう。
 出雲神話も大和において農耕神話として構想されたのではないか。
 垂仁(すいにん)天皇紀に物部(もののべ)氏が出雲に行くのは、物部勢力がすでに出雲を圧していたことを示す。出雲を通りこした石見(いわみ)に物部神社がある。

〈十一〉筑紫(ちくし)と毛野(けの)

 北九州の筑紫を征服した話がないのは、記憶に無い時代から大和と一体だったためだろう。大和は北九州の植民地として発展したのかもしれない。
 魏志倭人伝を読むと、北九州と大和が一体だったことは明かである。倭人伝の邪馬台国以北(以西)の斯馬、伊邪、弥奴、為吾は、それぞれ、志摩、伊勢、美濃(みの)、伊賀であろう。また邪馬台国と争っていた狗奴(くな)は、関東の毛野だろう。崇神天皇紀に上毛野(かみつけぬ)と下毛野(しもつけぬ)を支配下においた話がある。

[つづく]
 

謝辞  投稿者:竹下義朗  投稿日: 2月27日(火)21時50分25秒
  オロモルフさん
KABARENさん
えこねさん

祝辞を賜り、有り難う御座います。
今後共、宜しくお願い致します。
 

『卑弥呼と日本書紀417』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月27日(火)13時22分54秒
  [承前]

 このうち1について、室賀信夫氏の見解を求めたところ、氏は精密な論証によって、シナの地図は日本の行基図を九十度回転して当てはめているため、日本が南北になっていることが明らかになった。この地理的知識は魏の時代にまでさかのぼれる。不弥から邪馬台国までの水行三十日は、三宅米吉の指摘で延喜式(えんぎしき)に大和(やまと)〜太宰府(だざいふ)が海路三十日とあるのに相当している。上陸してからの一月は一日の間違いであろう。
(著者注――倭人伝の九十度違いの指摘は笠井新也が有名だが、古代地図を詳しく研究して方角の違いを指摘したのは室賀信夫が最初であり、その室賀に研究を依頼したのが、肥後和男である)
 2については、記紀の編者が神功(じんぐう)皇后を卑彌呼に擬してしまったため、女王についての伝承が記紀から消えてしまったのだろう。

〈六〉崇神(すじん)天皇の家族関係

 崇神天皇の母親は物部(もののべ)系。武内宿禰(たけのうちのすくね)の祖でもある。
 和風謚号(しごう)のミマキイリヒコのミマは御孫という説が古くからある。また任那(みまな)を連想させる。当時の任那は弁韓のなかの加羅の別名で、魏志倭人伝で倭の一部ととれる半島南部の狗邪(くや)韓国がそれらしい。魏志倭人伝の官職名としては、伊支馬、弥馬升や弥馬獲支がミマキを連想させる。

〈七〉神々を祭った話

 大和朝廷の勢力が大きくなって三輪山の祭祀(さいし)権を奪取して三輪山麓に王朝を築いた。そのとき媒介となったのが倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)である。
 二世紀の半ばに日本が乱れて女王が立ったのだろう。その乱れは武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱、四道(しどう)将軍の派遣、出雲振根(いずものふるね)の事件などで日本書紀(やまとのふみ)にある。
 大物主神(おおものぬしのかみ)のモノとは威力ある精霊の意味で、物の怪(け)のモノである。沖縄ではこのことをムヌーといっている。
 三輪の大物主神の巫女(みこ)である百襲姫命(ももそひめのみこと)を崇神天皇が助ける時代から、崇神天皇の全盛期に移った時点で、大物主神は大和一族の先祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)に主人公の座を譲り、その巫女は豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)となった。これが倭人伝の臺與であろう。
 崇神天皇が八十万(やそよろづ)の神々を集め、祭ったのは、周辺の豪族たちを組織したことを意味し、それを可能にしたのが倭迹迹日百襲姫命という偉大な巫女の出現だったのだろう。

[つづく]
 

祝賀挨拶と薀蓄  投稿者:えこね  投稿日: 2月27日(火)00時12分16秒
  遅ればせながら、喫茶室開設拾周年、おめでとう御座います。

続漢書(後漢書)の劉秀(光武帝?)の倭奴國(倭のナ國)の朝貢の記事を歴史教科書から削除は
李承晩(イすんマン)一味ら子孫たる高麗(コレア)従属の『米帝』の陰謀。

六朝宋書にある倭の武王は継体天皇であるの説が流布されていないのは
李承晩(イすんマン)一味ら子孫たる高麗(コレア)従属の『米帝』の陰謀。

六朝宋書にある司馬曹達ら倭に居た漢人13人の宋国への上表の記事を歴史教科書から削除は
李承晩(イすんマン)一味ら子孫たる高麗(コレア)従属の『米帝』の陰謀。

自白事件ら一連の光復後(降伏後)の事件は
南韓米帝傀儡政権に同心する偽衛満、朝鮮在日の陰謀。
 

『卑弥呼と日本書紀416』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月26日(月)12時25分39秒
  [承前]

エ 魏志倭人伝について
 ながく卑彌呼=神功(じんぐう)皇后だったのに対して本居宣長(もとおり-のりなが)が九州の女酋(じょしゅう)としたのは画期的だった。白鳥庫吉(しらとり-くらきち)が本居説を発展させた。橋本増吉(ますきち)も九州説で多くの論文を書いた。一方内藤湖南が明治四十三年に邪馬台国は大和(やまと)であり卑彌呼は倭姫命(やまとひめのみこと)であるとした。三宅米吉(みやけ-よねきち)も大和説だった。大正になって笠井新也が『卑彌呼即(すなわ)ち倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)』を発表した。

〈四〉どんな史料があるか

ア 記紀の前
 古代は系図がものをいう時代だったので、各氏族に伝えられていただろう。また應神天皇の御代(みよ)に史部をつくったらしいし、聖徳太子が天皇記(すめらみことのふみ)をつくったとされる。したがって多少の史料はあっただろう。

イ 魏志倭人伝と記紀
 那珂通世(なか-みちよ)の研究では崇神(すじん)天皇時代は卑彌呼の時代。戦後になって記紀を否定し魏志倭人伝を中心としているのはおかしい。両者を照合して上代史を再編成すべきである。

〈五〉崇神天皇はいつ頃の人か

ア 朝鮮の史書から
 朝鮮の史書との照合で、應神・仁徳(にんとく)の御代が西暦四〇〇年前後なので、逆算すると崇神天皇の時代は西暦二〇〇年前後になる。

イ 崇神天皇崩御の干支
 古事記(ふることふみ)の最古の写本眞福寺本や住吉神社神代記に戊寅(つちのえ-とら/ぼいん)とあり、これは西暦二五八年である。両史料とも奈良時代のもの。海外との交流によって、崇神天皇の時代から干支が記憶されたのだろう。
 日本書紀(やまとのふみ)の崩年は西暦前三〇年で、これは干支で辛卯(かのと-う/しんぼう)であり、三世紀でおなじ干支を探すと、二七一年となる。
 自分としては三世紀前半が活躍期と考える。一方九州説ではこういった検討が無い。

ウ 九州説を批判する理由
 九州説には、つぎの二つの論拠がある。

1 方位が南なので九州内である。
2 三世紀の大和には女王国の歴史がない。

 この二つともに批判する。

[つづく]
 

邪馬台国論争は近いうちに解明?  投稿者:ゆう  投稿日: 2月25日(日)13時51分35秒
  やはり、魏志倭人伝の話は、日本書紀(やまとのふみ)や古事記(ふることふみ)の孝霊天皇〜崇神天皇の話なんでしょうね。
だとしたら、狗奴国というのは河内国(かわちのくに 大阪南部)であり、卑弥呼(百襲媛命?)と仲が悪い男王・卑弥弓呼は武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)かも。
もし、これが分かれば、崇神10年は、246年前後になり、日本の記紀にある実年代を割り出すのに、大きな前進になる。
また、魏志には、奴国が2回出てきますが、最初の戸数2万戸の奴国は博多湾沿岸として、後の奴国は、難波(なにわ 摂津 せっつ)国であり、その南にあるのが狗奴国=河内国(かわちのくに)だと思う。
狗奴国の官は、魏志にでてくる「狗古智卑狗」は誤写で、魏略に出てくる「拘右智卑狗(コウチヒコ)」=河内彦なんでしょう?
武埴安彦命は、生母が河内の出身だし。

『邪馬台国総論』
http://yamatonokuni.seesaa.net/

 

『卑弥呼と日本書紀415』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月25日(日)12時08分12秒
  ■■■■■ 九・三 笠井新也説を学問的に深めた肥後和男 ■■■■■


 学生時代に前節の笠井新也の説を知って刺激をうけ、「大和(やまと)説」を学問的に深めて展開したのが、肥後和男である。
 肥後は明治三十二年生まれの古代史家で、京都帝国大学の史学科を卒業して文学博士となり、東京教育大学教授などをつとめた碩学で、日本古代史についての多くの著述をもつ。
 戦後GHQやコミンテルンに影響された左傾史観が全盛になったときも自分の信念を貫き、時流におもねないことで知られた学者である。
 常陸宮(ひたちのみや)妃殿下に四年間にわたる日本史のご進講をされたことでも知られる。
 肥後の「大和説」は、笠井説を基礎としながらも、はるかに洗練され、学問的に高度なものとなっている。
 したがってその全貌を記すのは困難だが、つぎの著作によって略記してみよう。


◆◆◆『崇神(すじん)天皇と卑彌呼』弘文堂(昭和二十九年)◆◆◆

〈一〉序

 戦後になっていっさいの古伝を否定する風潮となったが、それは科学的ではない。いまは九州説が大勢だが、自分の大和説に耳を傾ける人も多少はいるだろう。地理の問題では室賀信夫氏の助言を得た。

〈二〉開かれた歴史のとびら

 卑彌呼の研究にさいして、崇神天皇を無視すべきではない。

〈三〉これまでの研究

ア 江戸時代まで
 議論されたのは神代(じんだい/かみよ)の話のみ。

イ 明治期以後
 那珂通世(なか-みちよ)や津田左右吉(つだ-そうきち)が神代以後について批判的研究をした。

ウ 疑古派と釋古派
 自分は釋古派である。すなわち古典の記述がそのまま史実ではないとしても、いかなる理由と事情があってそのような記述になったのかを研究すべきだと思う。

[つづく]
 

満10年おめでとうございます  投稿者:KABAREN  投稿日: 2月24日(土)13時24分6秒
  私がこのサイトを初めて訪れたのが平成11年頃だったと思います。
パソコンを始めて間もない頃で、どうやってここに辿(たど)り着いたのか覚えていませんが、歴史再考に衝撃を受け、それからは毎日訪れています。
管理人様、お忙しいとは存じますが、これからも頑張ってください。
 

『卑弥呼と日本書紀414』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月24日(土)12時13分40秒
  [承前]

エ「男弟ありたすけて国を治(おさ)む」
 弟とは崇神(すじん)天皇のこと。甥(おい)と弟の違いのみだが、じっさいに弟だった可能性もある。なぜなら崇神天皇までの歴代天皇はシナ式の親→子継承となっているが、史実が明確になってからは兄→弟継承が一般である。兄弟継承を親子として記述してしまった可能性がある。
 祭政一致の古代にあっては、百襲姫命(ももそひめのみこと)と崇神は一体であり、畏敬されていた百襲姫命が主として考えられていたことはとうぜんであり、墓からもわかる。

オ「王となりしより以来見る者少なく」
 日本書紀(やまとのふみ)に直接の話はないが、神女(みこ)として力をもっていればとうぜんのこと。

カ「婢(はしため)千人を以(もっ)て・・・兵を持して守衛す」
 日本書紀に直接の話はないが、墓を見ても天皇を凌ぐのだから、その宮殿もとうぜん大規模だっただろう。

**********

 このほかにも笠井新也は、
『卑彌呼の冢墓(ちょうぼ)と箸墓』(昭和十七年)
 ――において、箸墓の寸法が倭人伝の冢墓の記述と一致することを述べている。
 すなわち――
 卑彌呼の墓は径百余歩とあるが、とうじの魏の定義では一歩は六尺、一尺は二四・一二センチだったので、百余歩はほぼ百五十メートルになる。
 これは箸墓の後円部の直径にほぼ一致する。
 したがって卑彌呼の墓は箸墓であり、箸墓に埋葬された倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)こそ卑彌呼である。

**********

 以上が笠井新也説の概要である。
 この説は、発表された当時はむしろ異端に近かったらしいが、いまになって考えてみると、とても合理的であり、別の説を唱えていた博士号をもつ碩学(せきがく)たちの意見よりもむしろ納得しやすいものがある。
 ただし、やはり笠井説にも限界がある。
 それは、『魏志倭人伝』の記述を、方角以外は絶対的に正しいと信じて国史や地理との対応を論じている点である。

[次ぎは『九・三 笠井新也説を学問的に深めた肥後和男』]
 

『卑弥呼と日本書紀413』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月23日(金)11時39分59秒
  [承前]

〔四〕日本書紀(やまとのふみ)に現れている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)

ア 確信
 日本書紀を読むたびに、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命であると感じる。

イ 陵墓(ミササギ)
 陵墓から見ても天皇を上回り、卑彌呼と考えられる。

ウ 孝元天皇の皇女
 記紀では孝靈天皇の皇女となっているが、ほんとうは次の孝元天皇の皇女であろう。孝元天皇の皇女の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)がそれである。崇神(すじん)天皇紀においても、倭迹迹日百襲姫命のことを倭迹迹姫命と記している箇所がある。またその方が年齢的にも合う。つまり開化天皇の同母妹であり崇神天皇にとっては叔母(おば)である。逆に百襲姫命にとって崇神天皇は甥(おい)である。
(著者注――最近では孝元天皇が後で挿入されたという説が有力らしい)

〔五〕人物・事績の一致
  (『魏志倭人伝』と『日本書紀』の関連)

ア 卑彌呼という名
 卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命の末尾の「姫命(ひめみこと)」である。

イ「鬼道につかえ能(よ)く衆を惑わす」
 宗教的奇跡をおこない民衆を畏服(いふく)させたことは日本書紀にも明かである。

ウ「年すでに長大なるも夫婿(ふせい)なく」
 百襲姫命も未婚で、結婚や子孫についての記述はない。神人婚の説話は巫女(みこ)という意味である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀412』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月22日(木)11時51分53秒
  [承前]

◆◆◆『卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)』(大正十三年)◆◆◆

(笠井新也の第二論文)

〔一〕緒言

 邪馬台国が大和(やまと)だとすると、卑彌呼は大和朝廷に関係する女性でなければならない。昔からの神功(じんぐう)皇后説は明治になって年代の研究がすすんでから否定された。
 内藤湖南は倭姫命(やまとひめのみこと)説を唱えたが、自分は違うと思う。
 卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命である。

〔二〕魏志倭人伝にあらわれている卑彌呼

 日本の古代の祭政一致時代の宗教的女王であって、祭祀(さいし)を事とし神意を奉じて民衆を信服させていたのであろう。

〔三〕国史における卑彌呼の年代

 魏志倭人伝にある卑彌呼の年代は、国史における崇神(すじん)天皇の御代(みよ)と確信する。記紀にある年代は信じられない。菅政友(かん-まさとも)や那珂通世(なか-みちよ)などの研究によって成務天皇以下歴代の崩御(ほうぎょ)紀年があきらかになったので、それから崇神天皇の崩御年を推理できる。
 成務天皇の崩御年は乙卯(きのと-う/おつぼう)の年で西暦三五五年であり、崇神天皇の崩年干支は戊寅(つちのえ-とら/ぼいん)で西暦一九八年または二五八年または三一八年である。崇神崩御から成務崩御までは垂仁(すいにん)・景行(けいこう)・成務三代の御代があるが、崇神崩御を二五八年とすれば、この三代の合計が九七年となり、妥当な長さとなる。この数字は那珂道世も白鳥庫吉(しらとり-くらきち)も認めている。
 したがって崇神崩御は西暦二五八年と考えられ、これは倭人伝にある卑彌呼の死のほぼ十年のちである。
 したがって倭人伝の卑彌呼の時代は、国史における崇神天皇の御代である。

(著者注――『日本書紀(やまとのふみ)』の崩年である西暦前三〇年を五巡――六〇×五――ずらして西暦二七一年とする説がこれとは別にある。この干支は辛卯(かのと-う/しんぼう)にあたる。これは次節の肥後和男の説でもある)

[つづく]
 

Re:『帝國電網省』開設満十年  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月22日(木)11時50分45秒
  満十年おめでとうございます。  

『帝國電網省』開設満十年  投稿者:竹下義朗  投稿日: 2月21日(水)21時50分44秒
  弊ウェブ『帝國電網省』は、平成9年2月21日の開設から、今日で満十年を迎えました。これも偏(ひとえ)に、今迄(まで)様々な形で御支援頂いた多くの方々のお力添えの賜物(たまもの)と思っております。つきましては、今後もより一層の御支援を賜ります様、宜しくお願い申し上げます。  

『卑弥呼と日本書紀411』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月21日(水)12時12分19秒
  [承前]

〈三〉邪馬台国の比定

ア 不弥(ふみ)国の位置
 従来の諸先生の説とは異なり、「津屋崎」と推定する。その理由は方角の問題とともに、水路の出発点だからである。またすぐそばに福間(ふくま)があり、発音が不弥(ふみ)に似ている。
(津屋崎は福岡市から二十キロほど北の海岸で、図3.1の奴国を示す楕円の上部にある小円。かつて北前船の寄港で賑わった港町)

図3.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm

イ 方角が九十度ちがっている
 末廬(まつろ)→伊都→奴国の向きはじっさいは北東なのに、『魏志倭人伝』では南東としており、九十度ちがっている。
 朝鮮半島から末廬までは南なので、そのあとも南と思ったのだろう。そうすると奴国の東方と書かれている不弥は北方とすべきであり、津屋崎と考えられる。

ウ 投馬(ずま)について
 不弥から南へ行くと投馬があるとされるが、九十度変えれば東なので、それは中国地方にあることになる。ただし多くの意見のように瀬戸内側ではなく、山陰地方の出雲(いずも)か但馬(たじま)であろう。つまり津屋崎から日本海側の沿岸を航海したのであろう。

エ 邪馬台国への上陸地点
 敦賀(つるが/昔の名は角鹿(つぬが))に上陸し、越前・近江(おうみ)・山城(および伊勢)を経て大和(やまと)に入ったのであろう。

オ 山陰行路
 神功(じんぐう)皇后、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと/任那(みまな)からの帰化人)など、関門〜出雲〜敦賀〜大和という行路をたどった話は『記紀』に記されている。また朝鮮から畿内への経路は敦賀港経由が有力だった。これに対して瀬戸内は賊がたくさんいて危険だったことは、四道(しどう)将軍や日本武尊の伝承で知られる。

カ 投馬は但馬か出雲か
 出雲は古くからの中心地だし、不弥から二十日、敦賀まで十日もよくあう。名前もトウマとは読まずズマと読めば、イヅモ→ヅモ→ヅマ(投馬)として一致する。
 さらに垂仁(すいにん)天皇紀の都怒我阿羅斯等が関門から敦賀に向かう途中で出雲に寄泊したのは明か。
(著者注――『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の北側の二十一ヶ国は、使者は通過しなかったが一応大和朝廷に服していた《大和》周辺の主要集落だとすれば、理解できる。名前だけを日本人から聞いた可能性が高い)

キ 卑奴母離(ひなもり)と夷守(ひなもり)
 卑奴母離という役職が九州の対馬国、一支国、奴国、不弥国にいることになっているが、これは日本書紀(やまとのふみ)にある夷守と一致しており、都から遠方の鄙(ひな)を監督する役人である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀410』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月20日(火)11時28分31秒
  ■■■■■ 九・二 〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉説を初めてとなえた笠井新也 ■■■■■


 本節と次節では、

「《邪馬台国》大和説」
 かつ、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――をとなえた学者の代表的存在である、笠井新也と肥後和男の論述をおさらいしてみよう。

 笠井新也は明治十七年に四国徳島で生まれた古代史家で、一般的な意味では著名な学者というわけではないが、現代の評価にも耐えうる近代的な「大和(やまと)説」と「〈百襲姫命〉説」をはじめて発表した先駆者として知られている。
 専門は中学教師で出発点はアマチュアだが、おなじ徳島出身の人類学者・考古学者として有名な東京帝大教授鳥居龍藏の講義を聴講して勉強し、大正から昭和初期にわたって学術雑誌にいくつもの論文を発表した学究である。
 ここでは、考古學雑誌に掲載された二篇の論文の概要を記そう。


◆◆◆『邪馬臺國は大和である』(大正十一年)◆◆◆

〈一〉緒言

 多くの学者は「九州説」を唱えている(当時)が、内藤湖南先生と高橋健自先生が「畿内説」を唱えられたので、それに元気づけられて、かねがね考えていた「大和説」を発表したい。

〈二〉邪馬台国推定の標準

 考えるべきは、つぎの三点である。
  1. 地名の一致
  2. 遺跡の一致
  3. 行路・行程の一致
「大和説」は1と2は満足している。問題は3である。

[つづく]
 

国際貿易  投稿者:  投稿日: 2月20日(火)09時12分39秒
  国際貿易
 中国−上海の財閥: 宋家(蒋介石夫人宋美齢)・
           胡家(フーチンタオ主席)
そのた商人
 中国−広東・江西・福建の境に住む連絡網:
           客家(はっか(ケ小平))

http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=584&pointer=1&log=present&cnt_flag=true
 

台湾の中国人について  投稿者:  投稿日: 2月19日(月)18時58分41秒
  漢人明朝: 福州を開港・琉球国(福州朝貢)・台湾省(福州移民)
満洲王朝: 漳州を開港・琉球国(章州朝貢)・台湾省(漳州移民)
中華民国: 台北政府・沖縄県は日本内国・台湾省(共産中国を逃れた大陸人=外省人)

台湾の中国人の住民の時代層
▼古い層
_↓_福州人(閩南語?、福建の南部の言葉)
_↓_漳州人(清南語?、華南の言葉?)
_↓_外省人(北京語、現代中国標準語)
▲新しい層
 

『卑弥呼と日本書紀409』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月19日(月)12時04分15秒
  [承前]

(もし樋口清之の説のように孝元天皇が非実在か、あるいは本居宣長(もとおり-のりなが)がいうように倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)が本人そのものだったとすると、甥(おい)→兄弟、曾孫(ひまご)→孫というように一代ずつ関係が近くなり、崇神(すじん)天皇との関係も大叔母(おおおば)ではなく叔母となる。前章に記したように『日本書紀(やまとのふみ)』の本文でも〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉のことを崇神天皇の姑(しゅうとめ)と記しており、この説を肯定する人も多い。もしこれが正しいとすると、〈倭迹迹日百襲姫命〉の朝廷での比重はさらに高まる。さらに、前に少し触れたが、義理の親戚まで考えると、もっと崇神天皇に近いかもしれないのだが、これについては後に述べる)

 以上二十九人を見返していただきたい。
 まことにもって絢爛(けんらん)豪華、綺羅星(きらぼし)のごとき著名な親族群である。
 本人が天皇の実の娘なので、親族に要人がいるのはあたりまえの話ではあるが、それにしても豪華である。
「倭」の文字のつく親族群とともに、この系図は圧巻である。
 さらに、実父孝靈天皇までの歴代の天皇の皇后は、みな三輪や磯城(しき)の一族であることも、注意を要する。
 つまり〈倭迹迹日百襲姫命〉には、大和朝廷一族の血とともに、《三輪山》周辺の豪族の血が濃厚に入っているのだ。
 その豪族のなかには物部(もののべ)の祖とされる〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の系列も含まれていたであろうし、出雲(いずも)系もあったかもしれない。
 だから〈百襲姫命〉は、崇神天皇の大叔母(または叔母)という大和(やまと)朝廷の有力メンバーであるとともに〈饒速日命〉の血統でもあり、かつ、《三輪山》を囲んで〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉を祭る一族の代表でもあった可能性が高い。

 もうひとつ注目すべきは、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉をはじめて神社に奉斎した神子(みこ)で、名の類似から『魏志倭人伝』にある〈臺與〉ではないかと言われている〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉が、本人の甥の孫――または兄の孫――という近い血縁にあることである。
『魏志倭人伝』では〈臺與〉は〈卑彌呼〉の宗女つまり世継とされているが、〈豐鍬入姫命〉は〈倭迹迹日百襲姫命〉の近い血縁なので、神子としてだけではなく血のつながりからみても「世継=宗女」であり、とうてい無視できない対応関係があるのだ!

 こういう濃厚な血縁関係の要人群のなかで、超常的な能力をもつ神子(巫女)として崇神天皇に重要視され、《三輪山》の神〈大物主神〉の神託を告げ、数々の予言や忠告をなし、死後は『記紀』の記述のなかで初の、そして別格の、陵墓造営譚(たん)が記された・・・それが〈倭迹迹日百襲姫命〉なのである。
 したがって、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――が出るのはとうぜんのことである。

**********

 ではつぎに、この説を初期に本格的に唱えた学者たちの論文を解説してみよう。

[次ぎは『九・二 〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説を初めてとなえた笠井新也』]
 

うんちく  投稿者:  投稿日: 2月19日(月)08時05分15秒
  女真−蒙古−明朝−満州_−国民党
燕京−大都−北京−北京_−北平
__−建康−集慶−南京_−南京
__−__−__−雲台山−連雲港
__−__−元慶−寧波_−寧波


東京路−中尚行省−北直隷省(北京省)−河北省
___−中尚行台(西台・南台)
江南東路−___−南直隷省(南京省)−安徽省・江蘇省
____−___−浙江省
江南西路−___−江西省
____−福州_−漳州−台湾省(福州移民・漳州移民)

琉球国(南洋王国)→沖縄県:福州朝貢(明朝、1年1貢)→漳州移民

西洋人の朝貢(貿易)は、4港から1港へ1780年(乾隆帝の時代)
雲台山・寧波・章州・広州(4港)→広州(1港:香港・マカオから)
 

西風  投稿者:本性  投稿日: 2月19日(月)01時38分17秒
  【産経スポーツ 男女関係のもつれが原因か…銀座ホステス死体遺棄事件 荻野亜利沙さん】
 東京・銀座のクラブホステス、荻野亜利沙さん(20)=埼玉県草加市=が遺体で見つかった事件で、一緒に暮らしていた右翼団体会長、鈴木一範容疑者(39)=死体遺棄容疑で逮捕=が、男女関係のもつれから荻野さんを殺害したとみられることが17日、警視庁竹の塚署捜査本部の調べで分かった。
 

『卑弥呼と日本書紀408』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月18日(日)12時59分35秒
  [承前]

◆◆◆〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の絢爛(けんらん)たる血族 ◆◆◆

 つぎに、何代か前から後にかけての著名な親族を並べてみよう。
  1. 初代神武(じんむ)天皇
        本人の直系の曾祖父の曾祖父の父(七代前)
  2. 第二代綏靖(すいぜい)天皇(神武天皇の皇子)
        本人の直系の曾祖父の曾祖父(六代前)
  3. 第三代安寧天皇(綏靖天皇の皇子)
        本人の直系の曾祖父の祖父(五代前)
  4. 第四代懿徳(いとく)天皇(安寧天皇の皇子)
        本人の直系の曾祖父の父(四代前)
  5. 第五代孝昭天皇(懿徳天皇の皇子)
        本人の直系の曾祖父
  6. 第六代孝安天皇(孝昭天皇の皇子)
        本人の直系の祖父
  7. 第七代孝靈天皇(孝安天皇の皇子)
        本人の実父
  8. 倭國香媛(やまとくにかひめ)または意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと 安寧天皇の曾孫)
        本人の実母
  9. 第八代孝元天皇(孝靈天皇の皇子)
        本人の母違いの兄
  10. 吉備津彦命(きびつひこのみこと 西道に派遣された四道(しどう)将軍の一人)
        本人と父母が同じ実弟/別名彦五十狭芹彦命(ひこいさちせりひこのみこと)
  11. 倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)
        本人と父母が同じ実妹
  12. 稚武彦命(わかたけひこのみこと 吉備津彦の協力者)
        本人の従兄弟(いとこ)
  13. 第九代開化天皇(孝元天皇の皇子)
        本人の甥
  14. 大彦命(おおひこのみこと 北陸に派遣された四道将軍の一人)
        本人の甥
  15. 倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと 孝元天皇の皇女)
        本人の姪(本人そのものとの説もある)
  16. 武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと 謀反(むほん)して百襲姫命に見破られた)
        本人の甥
  17. (すじん)天皇(開化天皇の皇子)
        本人の甥の実子(本人の甥との説あり)
  18. 御間城姫(みまきひめのみこと 崇神天皇の皇后)
        本人の甥の大彦命の娘
  19. 武渟川別命(たけぬかわわけのみこと 東海に派遣された四道将軍の一人)
        本人の甥の大彦命の子
  20. 武内宿禰(たけのうちのすくね 歴代天皇の重臣)
        本人の甥の子または孫
  21. 第十一代垂仁(すいにん)天皇(崇神天皇の皇子)
        本人の甥の孫
  22. 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと 丹波に派遣された四道将軍の一人)
        本人の甥の孫
  23. 豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと 天照大神(あまてらすおおみかみ)の初代祭祀(さいし)責任者)
        本人の甥の孫/宗女〈臺與〉の有力候補
  24. 渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと 倭大國魂神(やまとおおくにたまのかみ)の初代祭祀責任者)
        本人の甥の孫
  25. 豐城入彦命(とよすきいりひこのみこと 東国(上毛野 かみつけぬ 下毛野 しもつけぬ)の経営責任者)
        本人の甥の孫
  26. 第十二代景行(けいこう)天皇(垂仁天皇の皇子)
        本人の甥の曾孫(ひまご)
  27. 倭姫命(やまとひめのみこと 伊勢神宮の初代祭祀責任者/斎王)
        本人の甥の曾孫/〈臺與〉の二番目の候補
  28. 播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ 景行天皇の皇后)
        本人の従兄弟の娘
  29. 日本武尊(やまとたけるのみこと 東西平定で有名な英雄)
        本人の甥の玄孫(やしゃご)であり同時に従兄弟の孫
[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀407』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月17日(土)12時23分19秒
  [承前]

◆◆◆ 頭に「倭」という文字のつく女性 ◆◆◆

 くりかえすことになるが、大きな秘密をもっているらしい〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が、崇神(すじん)天皇の時代にいかに重要な地位にいたかについて、記しておこう。
 はじめは、頭に「倭」という文字のつく女性の一覧を、第二章から再掲する。
  1. 〈倭迹迹日百襲姫命〉・・・・本人。
    (『古事記(ふることふみ)』では〈夜麻登々母々曽毘賣命(やまとととももそひめのみこと)〉)
  2. 〈倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらめまぐわしひめ)〉・・本人の別名。
  3. 〈倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)〉・・・・崇神天皇紀七年にある本人の略名。
  4. 〈倭國香媛(やまとくにかひめ)〉・・・・・本人の母で第七代孝靈天皇の妃で安寧天皇の曾孫(ひまご)
    (『古事記』では〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おほやまとくにあれひめのみこと)〉)
    (『日本書紀(やまとのふみ)』風に書けば〈大倭國在姫(おほやまとくにあれひめのみこと)〉)
  5. 〈倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)〉・・本人の妹。
  6. 〈倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)〉・・・・第八代孝元天皇の娘で本人の姪または本人の略名。
  7. 〈倭國豐秋狹太媛(やまとくにとよあきさだひめ)〉・・本人の曾祖父にあたる第五代孝昭天皇の皇后の母、つまり曾祖母の母。
  8. 〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉・・・・・・第十一代垂仁(すいにん)天皇の娘で《伊勢神宮》の初代斎王(御杖代 みつえしろ)。本人の甥の曾孫にあたる。
    **********
  9. 〈倭媛(やまとひめ)〉・・・・・・第二十六代繼體天皇の妃(きさき)。(六世紀)
  10. 〈倭姫王(やまとひめのおおきみ)〉・・・・第三十八代天智(てんぢ)天皇(中大兄皇子 なかのおおえのみこ)の皇后。(七世紀)
『日本書紀』において頭に「倭」という「日本」または「大和(やまと)」を意味する重要な文字のつく女性は、ぜんぶで十名しかいないのだが、そのうちのずっとのちの時代――崇神天皇時代より何百年ものち――の二人を除けば、すべてが本人または本人の血縁であり、さらになかの三人はとくに近い親族なのである。
 また後の時代の二名にしても、時代の変革期における著名な天皇のお妃や皇后である。
 さいごの倭姫王は、天智天皇崩御(ほうぎょ)後に実質上天皇の位についたとの説もあるほどの重要な女性である。

 もうお一人、国風謚号(しごう)の頭ではない場所に「倭」のつく特筆すべき女帝がおられる。
 それは七世紀末の第四十一代持統天皇である。
 持統天皇の御名(おんな)は〈大倭根子天之廣野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)〉で、ここでは「倭」の上にさらに「大」がつき、その次の「根子(ねこ)」も基礎をつくったという尊称であり、それ以下も別格の尊称である。
『魏志倭人伝』にある「爾支(にき?)」はこの「根子」だろうとされている。
 持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后でかつ夫をついで次代の天皇になり、さらに次の文武天皇を補佐する太上天皇ともなり、そしてわが国初の本格都市《藤原京》の造営に力を尽くし、律令国家の建設に功績をあげた女傑中の女傑として知られる。

 こういう後の世の超別格の女性天皇につけられた国風謚号に準ずる尊称が、古代においては、〈倭迹迹日百襲姫命〉とその係累だけにずらりとつけられているのだ。
 これだけでも古代史における〈百襲姫命〉の地位の特異性がわかるが、それは特異なだけではなく、おどろくほど高い地位でもあるのだ。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀406』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月16日(金)11時51分16秒
  [承前]

 もうひとつ注目されるのは、この三つの山の天皇の御追号(謚号 しごう/おくりな)に、いずれも「神」という文字が使用されていることである。

第一の山・・・神武(じんむ)天皇
第二の山・・・崇神(すじん)天皇
第三の山・・・應神天皇(および神功(じんぐう)皇后)

 図9.1にある漢風謚号は、いずれも奈良時代に淡海三船(おうみのみふね)らによって考案されたものであるが、そこに「神」の文字を用いたのは、その御追号を定めた人たちが、この三天皇を「とくべつな天皇」として記憶していたことのなによりの証拠である。
 そして、この三天皇と〈神功皇后〉以外に、「神」のつく天皇や皇后は、存在しないのだ。

 というわけで、前章で述べた、神話的な時代と歴史記述の時代とのはざまにある崇神天皇こそ、大和(やまと)朝廷成立の鍵をにぎっていると考えられる。
 したがって、その崇神天皇の時代に活躍して、天皇に数々の助言をなしたと伝えられ、現実的な記述と神話的な記述との双方に彩られている〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉もまた、大和朝廷成立の秘密にふかくかかわっていると考えられるのである。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀405』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月15日(木)20時36分55秒
  ■■■■■ 九・一 絢爛(けんらん)たる〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の親族 ■■■■■


◆◆◆ 古代天皇紀の三つの高峰 ◆◆◆

 この節では、問題の神子(みこ)〈倭迹迹日百襲姫命〉の親戚関係についてざっと調べることにするが、その前に図9.1をごらんいただきたい。

図9.1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H91-94.htm

 この図は、『日本書紀(やまとのふみ)』における初代神武(じんむ)天皇から第十八代反正(はんぜい)天皇(五世紀前半の天皇)までの記述の長さがどのように変化しているかを、岩波版の行数によって表示したグラフである。
 ただちにわかるのは、三つのきわだった山が存在することである。

 第一の山は神武天皇で、これは初代の天皇の神秘的な事績をのべているので、当然の山である。
 うしろにある第三の山は、〈神功(じんぐう)皇后〉〜應神天皇〜仁徳(にんとく)天皇という三韓征伐や世界一の巨大古墳で有名な天皇の事績なので、これもまた当然といえるであろう。
 しかしその間にある第二の山――崇神(すじん)・垂仁(すいにん)・景行(けいこう)という三天皇の山――は、神話と史話が混在している時代の記述なので、とくべつな吟味が必要である。
 しかも、それまでの八代の天皇紀がごくわずかしか記されていないのに、崇神天皇からとつぜん詳細な記述になっている。
 さらに同じ神話的な部分であっても、神代紀とはちがってとても具体的なのだ。

 したがって、この第二の山――とくに第九代開化天皇にくらべていきなり増大する第十代崇神天皇紀の記述――は、たとえ神話的な部分であっても、なにか強烈な史実を反映しているように感じられる。
 もしそうでなく後世の想像だったのだとすれば、それまでの八代の天皇紀から漸増させればよいであろう。時代が下がるとともに記述量がすこしずつ増えるのが自然だからだ。
 しかし、『記紀』はそうなっていない。
 いや『記紀』だけではなく、古い神社にも、崇神天皇の時代に祀(まつ)られた――という伝承がとても多いのだ。

[つづく]
 

宗門改め・廃仏毀釈・廃てんのう毀やまと  投稿者:日本に珍しいキリスト教系ウヨク  投稿日: 2月15日(木)10時55分22秒
   訂正
○ 投稿者:日本に珍しいキリスト教系ウヨク
× 投稿者:にほんにめZurasii キリ
 

地元信仰対象命日・仏教教祖命日  投稿者:にほんにめZurasii キリ  投稿日: 2月15日(木)10時53分6秒
  AD940年・・・2月14日、平将門が戦死。

BC56?年・・・2月15日、釈迦牟尼仏陀が入滅。
 

(無題)  投稿者:オモロナイ  投稿日: 2月15日(木)06時41分25秒 Remote Host: 210-194-133-226.rev.home.ne.jp, Time: 1171489285
  (本投稿は、出入禁止対象者によるものに付き、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀404』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月14日(水)12時45分12秒
  (おまたせしました。第九章にはいります)

 このあと、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉と〈卑彌呼〉の関係について、また《大和(やまと)》と《邪馬台国》の関係について、文献と考古学の両面から検討する。
 この第九章では、文献について論ずる。
 またその次ぎの第十章では地理や考古学的観点で論ずる。


■□■□■ 第九章 〈倭迹迹日百襲姫命〉と《籠(この)神社》の秘密――文献史料でみる《邪馬台国》大和説――■□■□■


朝日さす みもすそ川の 春の空 のどかなるべき 世のけしきかな
〔後鳥羽(ごとば)天皇御製(ぎょせい)
「(みもすそ川/御裳濯川とは、五十鈴川の上流で《伊勢神宮》内宮(ないくう)境内(けいだい)を流れる部分をいう。初代斎王〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉が裳を清めた伝承から名づけられた)」

巻向(纏向 まきむく)の 檜原(ひはら)に立てる 春霞(はるがすみ) おほにし思はば なづみ来めやも
〔柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)歌集(万葉集1813)〕
「纏向の檜原にたちこめる春霞のようにぼんやりとあなたを思うだけなのなら、どうしてこんなに苦しみながら来ることだろうか」

味酒(うまさけ) 三輪の社(やしろ)の 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも
〔長屋王(万葉集1517)〕
「三輪山の大神(おおみわ)神社の山を照らしている秋の紅葉の散ってしまうのは惜しいことだ。(味酒は三輪の枕詞(まくらことば))」

[次ぎは『九・一 絢爛(けんらん)たる〈倭迹迹日百襲姫命〉の親族』]
 

『少子化と環境危機』  投稿者:はる  投稿日: 2月14日(水)02時03分18秒
  素朴な疑問ですが、日本列島に暮らす人口は何人ぐらいが適当なのでしょう?
年金制度は、人口が増え続けなければ成り立たない制度だったと思うのですが(今でもそう?)、そもそもの前提が誤りだったのでしょう。
少子化の原因は、年金制度の不備を含む経済的な不安もあるでしょうが、もっと深い問題も有るように思います。
私は今夏、齢(よわい)四十になりますが、幼い頃から、公害・人口爆発・石油枯渇・省エネ…エイズ…などと聞き育ちました。バブルに浮かれた学生時代には、その様な問題は忘れ去られたかに思われました。しかし就職後は、地下鉄サリン・阪神大震災・オゾン層破壊・BSE・環境破壊・鳥インフルエンザ・地球温暖化・東南海地震不安・軍拡に走る近隣諸国…人心の荒廃…と、問題は更に深刻化していることに気付かされました。そして最近の報告では、2040年頃には夏季に北極の氷が無くなるとか、2010年迄に1990年の水準に戻さないと、2020年迄気温が上がり続けてもはや手遅れ、などと(あるあるではない)あるドキュメント番組で放送されていました。
中国やインドのような人口大国が経済的に発展し、動物性タンパク質を多く摂(と)るようになれば世界の穀物が不足するし、トイレットペーパーを使用するようになるだけで、十年足らずで森林が消える(大げさ?)などとも言われています。
つまりは、自分の子供の世代や孫の世代に、地球に今まで通り住めるのか?という漠然とした不安が深層に有って、子供をもうけない人達も少なからずいるのではないかと思うのです。
通常、植物なら環境の激変時には種子を作っても発芽を遅らせて何年でも時期を待つ、などの対応策があるのですが、動物はそうはいきません。むしろ動物は繁殖行動に出て多くの子孫を残そうとするのだそうですが、人間の場合は少なく産んで強く(教育を施し、多くの財産を残してやるなど)育てるという方法をとってしまうのかもしれません。高学歴者ほどその傾向が強いと思います。
環境問題や天災、感染症に国境は無いのですから、ガミラスの侵略に結束したように、これを契機に世界が一つにまとまるチャンスと捉えるべきなのですが、現実にはエゴ剥(む)き出しで、かなり痛い目を見ることを覚悟しなければならないようです。
人類は、旧約聖書の中で“ノアの大洪水”という教訓を得ていながら、同じ過ちを繰り返そうとしています。
蛇足ですが、旧約聖書によれば(記憶では)、ノアが創造主の啓示を受けてから、実際に大雨が降り出すまで40年もの歳月が流れたそうな。そんなに時間がかかれば、初めノアの言葉を信じた人々でさえ、次第に離れていったとしても無理はないでしょう。しかし、残酷な現実は必ずやって来るという事なのでしょう。
石油も枯渇が叫ばれて数十年経ちますが、中国によっていよいよ現実味が帯びてきました。今後、資源も環境も加速度的に減少・悪化していくと思われます。
もしかしたら、この環境危機の結果がどうあれ、短期的には保護主義に走ろうとも、長期的には宗教やイデオロギー上の大変革をもたらし、人類がまとまるきっかけとなるのではないでしょうか。
一神教徒ではないが、救世主にはなりたいものです(古代進やケンシロウの様に)。
長駄文、失礼。
 

鎖国朝鮮の開国歴史の改ざん  投稿者:○投稿  投稿日: 2月13日(火)03時41分45秒
  マカオ貿易(1580-1592):
 秀吉の日本天下統一・倭寇の取り締まりが厳しく
 元慶(寧波)での勘合貿易が不可能となった段階で
 ポルトガルを通して中国明朝と貿易

朝鮮の役(1592-1607)

朱印状貿易(1600-1638):
 徳川家康による東南アジア諸国への貿易・大阪の堺・

出島貿易ほか(1600-1850-1873):
 対馬宗氏と富山浦(釜山港)沖4km先の草梁島倭館での鎖国貿易
 幕府長崎出島でのオランダ東インド会社による広州で西洋人朝貢交易・華僑貿易
 薩摩藩による琉球王国名義での福州で琉球朝貢交易・華僑貿易
 松前藩による奥蝦夷(樺太)大泊陣屋、
          久春内コタン陣屋、尼港周辺アイヌで赤蝦夷(ロシア)や
  クスリ(釧路、番所=在所つき会所=交易場)で蝦夷(アイヌ)との交易

ペリーの来寇と幕府の開国(下田・長崎・函館 → 神戸・横浜)
 

1419年の己亥東征  投稿者:○投稿  投稿日: 2月13日(火)03時37分21秒
  1419年の己亥東征(李朝の対馬島征伐失敗と対馬宗氏と鎖国貿易)
 対馬宗氏と李朝三浦(3港)の間で鎖国貿易(1419-1510)
 鎖国(1510[三浦の乱(斎浦・富山浦・塩浦)]−1512)
 対馬宗氏と熊川浦=鎮海港の間での鎖国貿易(1512-1592)
 太閤秀吉による朝鮮の役(1592-1599秀吉卒-1607)
 対馬宗氏と富山浦(釜山港)沖4km先の草梁島倭館での鎖国貿易
済浦_→馬山港(1419年〜1510年、三浦の乱で禁止)
富山浦→釜山港(1419年〜1510年、三浦の乱で禁止)
        富山浦、沖合い4kmの
草梁島の倭館(1607年頃〜1871年、釜山開港で廃止)
塩浦_→蔚山港(1419年〜1510年、三浦の乱で禁止)
熊川浦→鎮海港(1512年〜1592年、朝鮮の役で禁止)
済物浦→仁川港(1883年〜現在)

http://www.tokyo-jimin.jp/bbs/forum.php?proc=ThreadView&thread_no=601&pointer=1&log=present&cnt_flag=true
 

教科書問題(工作船ほか)  投稿者:名無しさん@民族派総合掲示板  投稿日: 2月12日(月)11時34分5秒
  はぁ
?!動乱後な明日はメリケンさま???
東学党の頃の今日はロシア様

中国様とかいうチョンでなく
日本様とか言うチョン!!!

1895年の前は満州様(燕亡人衛満朝鮮王)とかいうチョン。

満州、朝鮮国王(三田渡受降壇、三跪九叩頭礼の李朝仁祖王)
明朝、権署朝鮮国事(李朝王弟=李朝太宗)
蒙古、権知高麗国事(南女直湯河司の全州=高州出身の李成桂)
女真、高麗生日使(蕭子斎=六朝の蕭氏王朝南斎国に百済記載)
契丹A南女直湯河司・東京統軍司留守の辰韓だった辰州
マッカツ=満州、渤海郡王大震国、渤海マッカツ帯方郡王夫余敬
百家済海=百済、夫余王尉仇台が祖、熊津都尉。加羅国王荷智。
高麗国=百済、ヨクソ=衛満=満州→フジ=ワイ=太白山→韓=加羅=新羅
高句麗=高麗
前漢武帝の設置した、玄菟郡高句麗県・楽浪郡華麗県
燕(河北−遼東−楽浪・北京)と倭(日本)の間に蓋の国(韓)
 

MD  投稿者:はる  投稿日: 2月11日(日)00時58分54秒
  素朴な疑問ですが、弾道ミサイルの“ステルス化”って可能でしょうか?
もし可能なら、MD計画は無力なものになりますが…。
 

無責任な発言  投稿者:関東軍の二等兵  投稿日: 2月 7日(水)17時54分10秒 Remote Host: softbank219049170022.bbtec.net, Time: 1170838450
  (本投稿は、出入禁止対象者による投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

『卑弥呼と日本書紀403』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月 6日(火)13時31分42秒
  [承前]

 現在は周濠の形も墳丘の形もかなりゆがんでしまっているように見えるが、現状でも墳丘長は三百十メートルもあり、崇神(すじん)・垂仁(すいにん)・神功(じんぐう)各御陵(ごりょう)より大きく、前期古墳では最大である。
 造営当時の周濠まで含めると、おそらく、四百メートルに達するであろう。

 成務天皇は景行(けいこう)天皇が崩御(ほうぎょ)された滋賀県大津の高穴穂宮(たかあなほのみや)を皇宮とされたので、《三輪山》北西山麓の《纒向(まきむく)京》の朝廷は崇神・垂仁・景行の三代で終わることになる。
 景行天皇陵は、その纏向三代の天皇の掉尾(ちょうび)を飾る雄大な御陵なのである。
 またこのことは、それを造営した次の成務天皇も、地味ではあってもきわめて強力な天皇であったことを物語っている。
 崇神〜景行三代で国内の平定がすすみ、それを成務天皇が仕上げたのであろう。

**********

 以上で、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が活躍する崇神天皇紀と《三輪山》の謎、またそのあと二代の興味ぶかい天皇の物語は終わって、ついで、〈卑彌呼〉と〈倭迹迹日百襲姫命〉の関係についての考察にはいることにしよう。

 つぎの章では、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」
 ――に関連するいくつかの文献史料を検討する。

[次ぎは第九章『〈倭迹迹日百襲姫命〉と《籠(この)神社》の秘密――文献史料でみる《邪馬台国》大和説』]

(第九章に入るためにいろいろと作業がありますので、すこし時間をいただきます)
 

『卑弥呼と日本書紀402』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月 5日(月)12時49分17秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇五十三年〜五十四年(西暦一二三年〜一二四年)
 〔日本武尊(やまとたけるのみこと)を偲(しの)ぶ御巡幸〕

 景行天皇は日本武尊を偲んで尊が平定した国々を巡幸なさることとし、伊勢を通って東海に入り、上総国(かずさのくに)から東国をまわって戻り、翌年に伊勢から大和(やまと)へ戻った。
 晩年の巡幸は、各地がかなり平穏になっていたことを物語っているが、蝦夷(えみし)だけは一筋縄ではいかなかったらしい。

▽景行天皇六十年(西暦一三〇年)
 〔蝦夷の再叛乱と崩御(ほうぎょ)

 五十五年以後、東国の蝦夷がまた騒動を起こした話がある。
 また五十七年には池を造ったり直轄領の屯倉(みやけ)をもうけたりした。
 そして五十八年に纏向(まきむく)の宮から近江(おうみ)の高穴穂宮(たかあなほのみや/滋賀県大津)に三年ほど滞在され、六十年の十一月に崩御された。宝算百六であった。
 崩年干支は不明だが、前後関係から、崩御の実紀年は四世紀前半と推定される。

 御陵(ごりょう/みささぎ)である山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)は次代の成務天皇の二年に完成した。場所は崇神(すじん)天皇陵のすぐそばであり、より《三輪山》に近い。
 図8.13でわかるように、むしろ《纒向京》の北端に入っているといってもよい。
 御陵の写真を図8.18に示した。

図8.13、18

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm


[つづく]
 

西南の役では、薩軍を熊本田原坂で会津魂を振るったとか?!  投稿者:ウヨの最弱者  投稿日: 2月 5日(月)04時43分28秒
  題名:あんた日本国籍大和民族なんだろう?!
同じ民を案じ考えろ?!

謝罪させなくて良いの?

 戦前の日本女性の慰安婦への連合軍兵士によるレイープへは?
 戦前の日本女性の居留民への
朝鮮ロシア支那などによるレイープへは?

 戦後の沖縄アイヌ女性への連合軍兵士によるレイープへは?
 戦後の日本女性の牧師夫人への
連合軍兵士によるレイープへは?
 戦後の日本女性の職業女性(商売女)への
連合軍兵士によるレイープへは?
 戦後の日本女性の従軍看護婦への
連合軍兵士によるレイープへは?

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題名:大和魂って帰化の条件でないって?!
投稿者: 日本歴史改ざん抹サツをされた者

帰化の条件を厳しくしろ。

戦前に朝鮮戸籍の人物は、韓国政府に交渉し帰国させろ。

韓国領土内に、朝鮮が尊ぶ儒教的な先祖を敬う為に
帰化人と在日をシオニズム的に帰国させろ。

順天・露梁・麗水あたりから南原のショウ川?流域や
東洛江流域など、支那の六朝のいう加羅任那に
帰化人と在日朝鮮人を帰国させろ。

韓国領内だが、日本の租借地のように
日本語生活を許可し、日本の円で決済し
日本の法律で、日本風生活ができる保障で
アメリカ軍に守ってもらう憲法9条な生活で。

南ベトナム米帝傀儡政府の生活のように
戦略村のような生活で。
 

『卑弥呼と日本書紀401』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月 4日(日)12時53分37秒
  [承前]

 これが悲劇の英雄として小説や劇や絵画になっている日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語であるが、この皇子の実体は、すでに天皇に即位していたが、政争に破れて《大和(やまと)》に帰郷できなくなっていたのではないか――という説がある。
 亡くなったとき『日本書紀(やまとのふみ)』では「崩」という文字が使用されているが、天皇以外でこの文字が使われるのは〈神功(じんぐう)皇后〉と日本武尊のみなのである。
 また妻に「后(こう/きさき)」、御墓に「陵(りょう/みささぎ)」という、天皇のための文字が使われている。

 さらに常陸風土記(ひたちのくにふどき)では、倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)と記され、その皇后として、弟橘媛(おとたちばなひめ)に似た名が記されている。『風土記』で天皇とされているのも、〈神功皇后〉と同じである。
 もし『魏志倭人伝』の〈臺與(とよ)〉が〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉であるとすれば、その後継者の〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉に剣を貰(もら)った日本武尊は、〈卑彌呼〉没後の混乱とも関係の深い英雄ということになる。
 伊勢神宮にかわって「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を祀(まつ)った尾張(おわり)一族は〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫とされているが、同じ子孫の物部(もののべ)とは違って皇室との関係は微妙であり、そういう尾張を頼っていた日本武尊の行動はなにやら暗示的である。

 もともと伊勢神宮に祀られていた「草薙剣」が伊勢に返されず、地方の豪族によって熱田(あつた)神宮に祀られたという歴史も、大和朝廷と尾張一族・日本武尊の確執を物語っているようである。

▽景行(けいこう)天皇五十一年(西暦一二一年)
 〔日本武尊没後の話〕

 日本武尊が没し、その双子の兄も《大和》を離れてしまっていたので、異母弟で第四子にあたる稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)を皇太子にたてた。
 これが次代の成務天皇だが、この天皇は知名度は低いものの、景行天皇が拡大した勢力圏を整備し、行政的手腕をふるって国々を安定させた。
 地味ではあるが凡庸ではなかったらしい。
 武内宿禰(たけうちのすくね)はこのころから目立つ活躍をはじめるが、とくに誕生日が同じだというので成務天皇に可愛がられて要職についた。

 日本武尊が捕虜にして《伊勢神宮》に預けた蝦夷(えみし)たちは、騒いで困ったので《大和》に移され、一時は《三輪山》の麓に置いた。しかし山の神木を伐(き)ったり人々を脅かしたりしたので、遠方の国々に分散させた。
 東国の蝦夷対策がとても大変だったことを窺(うかが)わせるエピソードである。

 日本武尊の子孫であるが、遠征の前に前代の垂仁(すいにん)天皇の皇女である兩道入姫皇女(ふたじいりひめのひめみこ)をめとっており、その第二子足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)が成務天皇の次の仲哀天皇――つまり〈神功皇后〉の夫――である。
 成務天皇の皇子ではなく日本武尊の御子が成務天皇を継いだことは、日本武尊が実質的な天皇であったことの傍証でもある。
 また尊のために入水(じゅすい)した弟橘媛も死の前に稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んでいる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀400』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月 3日(土)12時44分20秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇四十年〜四十三年2(西暦一一〇年〜一一三年)
 〔日本武尊(やまとたけるのみこと)の無念の死と白鳥への変身〕

 信濃国(しなののくに)を平定してから、尾張(おわり)一族が支配する尾張国(おわりのくに/愛知県西部)まで戻り、なぜかそこにしばらく滞在した。
 それから近江(おうみ/滋賀県)の一部にいる賊を討つために「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を置いたまま出かけたところ、身体が弱ってしまった。
 そして能褒野(のぼの/三重県亀山市のあたり)に着いたとき、病が篤くなった。
 そこで日本武尊は捕虜にした蝦夷(えみし)たちを《伊勢神宮》に献上し、景行天皇に使者を派遣して遺言を述べた。
 そしてついに能褒野で崩御(ほうぎょ)された。御年(おんとし)三十歳であった。
 足が三重に折れるほど疲れきって崩御されたので、その地に三重という名がつけられた。いまの三重県である。

 景行天皇は悲しんで能褒野に御陵(ごりょう/みささぎ)をつくって葬った。
 ところが日本武尊の遺体は白鳥となって、故郷の《大和(やまと)》へと飛んだ。
 そして琴弾原(ことひきはら/奈良県御所市)に留まったので、そこに改めて御陵をつくったが、白鳥はまた飛んで、河内(かわち)の古市邑(ふるいちむら/大阪府羽曳野市)に舞い降りた。そこでまた、その土地に御陵をつくった。
 しかしその御陵からも白鳥は舞い上がり、ついに天に向かって消えてしまった。
 景行天皇四十三年のことであった。

 残された「草薙剣」は、日本武尊の御妃(おきさき)となっていた尾張国造(くにのみやっこ)の娘・宮簀媛命(みやずひめのみこと)の家に安置されていたが、尾張一族によって、置かれた場所の近くの熱田(あつた)神宮(名古屋市)に大切に祀(まつ)られた。
 その熱田神宮のすぐそばに、白鳥が最終的に落ち着いたとされる白鳥陵(しらとりのみささぎ)がある。ただしこれは少し後の顕彰の意味の造営らしい。
 羽曳野(はびきの)市には、日本武尊の御陵とされ、白鳥陵と名づけられた、墳丘長百九十メートルに達する巨大な前方後円墳がある。
 その前の墓所である御所(ごせ)市にも日本武尊陵とされる九十メートルの前方後円墳が残されているし、最初の亀山市にも全長九十メートルのノボノ古墳がある。
 さらに熱田の白鳥陵も約七十五メートルの前方後円墳であり、古墳時代の造営であることがわかっている。
 四つもの巨大な前方後円墳が残されている英雄は、長い日本の歴史のなかでも、日本武尊のみである。

[つづく]
 

歴史  投稿者:テスト  投稿日: 2月 3日(土)08時00分55秒
  六朝南斎国(漢人)___百済王:___熊津
渤海マッカツ(渤海女真)東丹王:開州______來遠城_高州=高麗国_杉盧郡漢陽縣__穆州____蓋州=蓋馬_慶州_塩州
契丹キタイ遼(遼西慶陵)遼聖宗:開州_定州_保州來遠縣________盧州_____南女直湯河司_辰州=辰韓_東京統軍司留守
ジュルチン金(女真)高麗生日使:開州熊嶽縣_高州建安縣_全州静封県__________高州湯池縣_辰州=蓋州
モンゴル元(蒙古)権知高麗国事:________建安縣_全州________漢陽_________蓋州路___東京支郡
明朝(漢民族)__権署朝鮮国事:開城__________全州_順天_____漢城__衛満王の朝鮮=沃阻
清朝(建州女直_満州)朝鮮国王:開城______広州__全州_____揚州_漢城___箕子の朝鮮=太白山脈
日帝_大韓(民国)___李太王:開城_公州_______全州_麗水_____京城=ソウル_南原__慶州盆地__慶州_蔚山
 

イラン空爆準備  投稿者:テスト  投稿日: 2月 2日(金)19時34分27秒
  米国にとって、 - Name: 国家の耳目 MAIL - HOME

米国にとって、北朝鮮は、イランの次だろう。

空母3隻がペルシャ湾に集結している。イラン空爆準備完了だ。

No.2165 - 2007/01/30(Tue) 10:48:50
 

在日韓国・北朝鮮人によるマスコミ情報操作を撃退せよ!  投稿者:テスト  投稿日: 2月 2日(金)19時32分26秒
  在日韓国・北朝鮮人によるマスコミ情報操作を撃退せよ!

崔泰英(本多勝一)
朴三寿(筑紫哲也)
李高順(土井たかこ)
趙春花(福島 瑞穂)等々。 この在日韓国・北朝鮮人によるマスコミ情報操作を撃退せよ!

崔泰英(本多勝一)
朴三寿(筑紫哲也)
李高順(土井たかこ)
趙春花(福島 瑞穂)
等々。 この恐るべき現実を見よ!
 

『卑弥呼と日本書紀399』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月 2日(金)12時22分52秒
  [承前]

 日本武尊(やまとたけるのみこと)の最初の苦難は駿河国(するがのくに/静岡県)の野原で賊に火をつけられたときだが、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」で草を薙(な)いで助かった。このことから、この剣を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と尊称するようになった。
 このときの有様を描いた昔の教科書の図を図8.17に示した。歴史画の定番である。

図8.17
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 つぎの苦難は、船で相模(さがみ/神奈川県)から上総(かずさ/千葉県)に向かう途中の嵐だった。
 この嵐で船が沈みそうになったとき、従ってきた妃(きさき)の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、駿河で火のなかから「草薙剣」で助けてくれた日本武尊の優しさにむくいるために命を捧げる決意をし、祈りながら船から身を投げた。
 媛の祈りは通じて、嵐はたちまち静まった。
 妃の純情をあらわす古来有名なエピソードで、多くの名画の画題にもなっている。

 弟橘媛に助けられた日本武尊は無事に東北地方にまで遠征し、そこの蝦夷(えみし)などの賊をことごとく平らげた。
 このとき関東の御獄(みたけ)神社やその他の地で武運を祈ったり、危機から救われたりしたので、御獄神社など多くの関東の神社が日本武尊を祀(まつ)るようになった。
 それから信濃国(しなののくに/長野県)に行ったが、その途中の峠で東南の地を望み、死んだ弟橘媛を偲(しの)んで嘆息(たんそく)して、

「吾嬬(あづま)はや(わたしの妻よ)

 ――といわれた。
 それ以来「東」のことをアヅマというようになった。
 これもまた有名な語源譚(たん)である。
 この語源譚は語呂合(ごろあ)わせ的なものではなく、真実に近いのではないかとされている。
「東」の訓読みは「ヒムガシ」と「アヅマ」と二つあるが、前者は日向(ひむか/太陽を向く方角)が語源だとなっとくできるのに対し、後者については、この弟橘姫の伝承以外に理屈がつかないのだ。

[つづく]
 

モルモンの日本認識、北海道と九州は韓国領土  投稿者:えこね  投稿日: 2月 1日(木)23時00分20秒
  北朝鮮に韓国を攻撃させ、博多で韓国人暴動

統一協会が、ほとんどの韓国在住日本人2万人・韓国から来年にアメリカ軍が全面撤退
 ↓
博多にモルモン神殿を造営・韓国人が大量来日(1か国に1神殿、1州に1神殿なのだが)
南麻布にモルモン神殿が既にある。
 ↓
モルモン創価のホームステー交流・英会話教室利権・モルモン州アイダホ・ポテトチップス
 ↓
モルモン白人72人委員会に韓国人の高氏
 ↓
ソルト−レイク−シティー発・南京虐殺ニュースを流す・なぜ反中国の韓国人がコノ時期に反日?

新潟にオレゴン州兵

シアトルワシントン・オレゴン・モンタナ・
アイダホ・ユタ(南部・北部)・ネバダ・アリゾナはモルモン州

モルモンHP日本での人口11万人(アメリカ軍人と家族を含むのか?)

日本の宗教年鑑平成13年にモルモン人口2万人(日本人・帰化人・在日の信者数か?)

11万−2万=9万はアメリカ人モルモンの日本在住者?

アメリカ兵力8万、4人家族に宣教師1人の5人のうちで軍人一人含むとして

9万人%5人割り=1万8千人はモルモン教か?
8万→1万8千人は、アメリカ軍内の24%か?兵隊4人に1人はモルモン教徒か?

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

韓国ソウル神殿が、北朝鮮により破壊されると想定
 ↓
博多神殿(九州神殿)を韓国神殿と見立てて予備造営

南麻布神殿(日本神殿・本州−四国のみ、か?)

札幌神殿の計画
 ↓
ロシアの極東の朝鮮人モルモン信者の亡命先神殿(北海道神殿)として計画か?
 

きな臭い  投稿者:えこね  投稿日: 2月 1日(木)22時33分22秒
  イラクへアメリカ軍を増派
 ↓ ↓ ↓
イラン向けにアメリカ海軍空母3隻がインド洋に ← ウズベクにアメリカ空軍の滑走路租借
 ↑ ↑ ↑
アフガン軍にアメリカ軍の武器を供与
 ↑ ↑ ↑
チベットの再蜂起準備
ウイグル−イスラム亡命政府(東トルキスタン政府)をカルフォルニア・トルコ・サウジに樹立
 

『卑弥呼と日本書紀398』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 2月 1日(木)12時33分58秒
  [承前]

▽景行(けいこう)天皇四十年〜四十三年1(西暦一一〇年〜一一三年)
 〔日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国大遠征〕

 いよいよ有名な日本武尊の東国大遠征がはじまる。
 東方の辺境が叛乱し、とくに武内宿禰(たけのうちのすくね)が警告していた蝦夷(えみし)が謀反(むほん)をおこしたとの知らせが《大和(やまと)》に届いた。
 日本武尊は先に九州に遠征しているので、今度は双子の兄の大碓皇子(おおうすのみこ)の番であるが、この皇子は怖(おそ)れて、草むらのなかに逃げてしまった。
 そこで大碓皇子は《大和》から追放されて美濃国(みののくに;岐阜県)を治(おさ)めることになり、困難な東国遠征は日本武尊がつとめることになった。
 天皇は、

「そなたは形はわが子だが実体は神人である。この天下はそなたの天下である」

 ――と述べて励まし、送り出した。
 この遠征の想像される経路を、図8.16に示した。これは著者の習った昔の教科書にあったものである。

図8.16
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 日本武尊は東国に向かう前に《伊勢神宮》に立ち寄って参拝し、叔母(おば)にあたる斎王(いつきのみこ)の〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉に挨拶した。
〈倭姫命〉は日本武尊に神宝の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」を授けて励ました。
 これは「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかむたから)」の一つで、ながく皇宮に安置されていたのだが、崇神(すじん)天皇の御代(みよ)に〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を皇宮から神社に遷(うつ)し祀(まつ)って以来、神鏡「八咫鏡(やたのかがみ)」とともに神宮のご神体として奉安されていたのだ。

[つづく]
 


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