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喫茶室 過去ログ94(2007.3.1〜3.31)

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喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2007年4月のログ] [2007年2月のログ]


『卑弥呼と日本書紀449』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月31日(土)11時58分14秒
  [承前]

 国語辞書に書かれている事だが、昔の「庭」の発音は(には)で、それが省略されて「場(ば)」という言葉が出来た。
 日本語における「には」や「ば」は、仕事をする場所や家の近くの場所を意味するが、漢字の「庭」の元々の意味は祭祀(さいし)の場所である。
 日本においても、神聖な場所、汚してはいけない場所をも意味していたらしい。家の近くは汚してはいけないし、仕事場は神聖だから、当然である。
 だから、こういう漢字を当てはめたのであろう。

 ところで、「には」から「ば」が出来てから、「庭」という漢字は「ば」とも読むようになった。
「大庭」「古庭」といった苗字があるが、これは「おおば」「こば」と読むことが多い。
 だから、田の庭(田庭)の意味の「たには」が省略されて「たば」になり、それが「たんば」と読まれて《丹波》という漢字で書かれるようになったといわれる。
 つまり、現《丹後国》の弥生時代の呼び名は、《田庭(たば)国》であった可能性が高いのである。

(以上は語呂合わせ的に考えた話ではない。国語の専門家によって編纂された多くの辞書類に記されていることである。この先はすこし著者の推理が入る)

 以上から、現在の丹後地方は、もと《丹波(たんば)国》であり、それはさらに前には《田庭(たば)国》と呼ばれていた――ということになる。
 さて、日本語では、多くの場合、《出雲国》は「いずもの国」、《尾張国》は「おわりの国」・・・というように、国の前に「の」をつけて発音するのが普通である。
 だから発音をきちんと書けば、《田庭国》は、「たにはの国」から庭(には)→場(ば)の変形がなされて「たばの国」(田畑のある場所)と呼ばれるようになり、さらにそれが「たんばの国」になって《丹波国》と書かれるようになったと推理できる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀448』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月30日(金)12時08分44秒
  [承前]

 北九州から見た東北の方角で、王様のいそうな場所というと、日本列島の日本海側だけである。
 で、千里とはどのくらいかというと、仮に昔のシナの里を使っていたとすると、魏の時代の里は、
「一里=435メートル」
 ――なので、
「千里=435キロメートル」
 ――となる。
 これを地図上で計ると、「鳥取から丹後のあたり」になる。
 もちろん、単に遠方という意味で千里といった可能性もあるが、概略の距離を示しているとすれば、こうなる。

 そういうわけで、丹後半島付け根の《籠(この)神社》の伝説と合わせて、《多婆那国》=《丹後国》が暗示されて興味深い。
 もともと丹後地方は、海洋族の勢力圏で、朝鮮半島との交流があったと考えられているので、丹後の王権の王子の誰か(またはその一族)が新羅(しらぎ)に渡った可能性は大きい。
 渡っていないほうがむしろ不思議なくらいである。

 さてつぎに、「多婆那国とは現在の丹後ではないか」という推理の根拠を、読みで示すが、その前に丹後と丹波の関係を記しておく。

 前にも記したが、現在の丹後は、かつての《丹後国》で、さらに昔は《丹波国》の一部であった。
 西暦713年に《丹波国》の(都から見て)後ろの方が独立して《丹後国》になったので、新羅云々の時代には《丹波国》と呼ばれていた。
 つまり、《籠神社》の一帯は、古代においては《丹波国》であった。

 現丹後の《丹波国》は、《伊勢神宮》の外宮(げくう)の神〈豊受大神(とようけおおかみ)〉で知られるように、田畑に恵まれて食べ物の生産に適した地方だった。
 で、《丹波》の語源だが、もともとは田畑の豊富な場所という意味の《田庭(たにわ)》だったらしいと言われている。
 これも既述したことだが、以下にもう少し詳しく記す。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀447』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月29日(木)11時22分28秒
  [承前]

〔十〕海外との関係

 本書でしばしば引用した朝鮮最古の史書『三国史記』に、丹後と新羅(しらぎ)の関係についておもしろいエピソードがあるので、記しておく。

**********

『三国史記』の新羅本紀に、第四代の王について、つぎのように書かれている。

「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」

「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」

「脱解尼師今が即位した〈吐解ともいう〉。王はこの時(A.D五七)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思Y訳)」

(このあと、朝鮮によくある伝説として、多婆那国の王の妃が卵を産んで海に流されて生まれ、海岸に漂着した――という話がある。脱解尼師今は「とへにさこむ」で、尼師今(にさこむ)は首長といった意味。箱(船)を解いて脱出してきたので脱解という名がついたという話も書かれている。多婆那国は「たばな国」と読める)

 一方《籠(この)神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているらしい。
 そこで、丹後と多婆那国の関係について、少し考察してみる。

 まず地理についてだが、『三国史記』には「倭国の東北千里」とある。
 倭国とは日本のことだが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようである。
 それは、『三国志』の東夷伝を読めばわかる。
 だとすると、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになる。

[つづく]
 

訂正  投稿者:民族主義者  投稿日: 3月28日(水)18時56分59秒
  千島(クリール[ウルップ〜エトロフ]・サハリン州)
_____________↓
千島(クリール[シュムシュ・ホロムシル・シムシル〜ウルップ〜エトロフ]・サハリン州)
 

話の基点として  投稿者:民族主義者  投稿日: 3月28日(水)10時06分23秒
  日本固有の領土(朝鮮族を含まない)
 アイヌ:
  沿海州北部にアムール州ハバロフスク地方で黒龍江(サハリャン)下流域から間宮海峡の間
   樺太(クベイ・サハリン州)・千島(クリール[ウルップ〜エトロフ]・サハリン州)
   阿寒〜知床〜国後〜厚岸(阿寒〜厚岸アイヌ)・日高支庁・胆振支庁・ニセコ周辺
 大和民族:
   樺太48度−久春内〜大泊・国後〜色丹【現在ロシア占領】
   松前−函館の渡島支庁〜釧路〜紋別〜稚内の宗谷支庁ふくむ北海道全域
   上北半島−津軽海峡〜鹿児島の種子島や屋久島に長崎の五島列島から対馬まで
   伊豆七島から小笠原諸島
   竹島(松島)【現在韓国占領】
   巨済島や済州島【現在韓国占領】
 琉球人
   奄美諸島【現在:鹿児島県】
   沖縄本島
   宮古・石垣・久米ほか台湾に近い諸島
   尖閣諸島
 蕃族−高砂族−高山族:
   台湾の台東地域
日本の影響圏
 ロシア極東のシベリアで副葬品に寛永通宝が出土し、日本の江戸期の釣り針の出土する地域
 ハワイ王国・カルフォルニア〜オレゴン〜アラスカの日本の難破船の漂流物のあった地域
 東南アジアの日本人町の会った地域
 ミクロネシア[パラウ〜トラックなど]の大正から昭和初期の南洋信託統治領だった地域
 オーストラリアでアボリジナルの副葬品に日本の江戸期の文物の出土する地域

日本の生活圏と生活権は、基準に基本[ベース]が、こんな感じでしょうか。
 

『卑弥呼と日本書紀446』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月28日(水)00時24分5秒
  [承前]

〔九〕姻戚(いんせき)関係

 海部(あまべ)家はとうぜんながら古代からの諸豪族と関係が深く、天皇家に嫁(とつ)いだ姫もいるし、江戸時代には徳川家に嫁いだ姫もいる。
 系図上でつながっている天皇家や物部(もののべ)氏以外の古代豪族としては、尾張(おわり)・安曇(あずみ)・伊福部(いほきべ)・和珥(わに)・葛城(かつらぎ)氏などがある。
 安曇氏は同一祖先を主張する海洋系豪族だし、和珥氏は前述の建振熊宿禰(たけふるくまのすくね)を祖とすると伝えられる。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の天孫本紀の系譜によると、〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫は大きく「物部氏系」と「海部+尾張+その他系」に分けられており、後者がさらに分かれて尾張氏系や海部氏系が生まれている。

 物部氏系は天皇家とさかんに婚姻関係をむすんでいてほとんど一体化しているが、分かれる前の海部氏+尾張氏系も何人かの皇后やお妃(きさき)を出している。
 第五代幸昭天皇の皇后で奥津余曽(おきつよそ)の妹の世襲足媛命(よそたらしひめのみこと)や、第十代崇神(すじん)天皇の妃となって渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)を生んだ大海姫命(おおあまひめ;別名 葛木高名姫命(かつらぎのたかなひめのみこと))などがそれである。
『古事記(ふることふみ)』『日本書紀(やまとのふみ)』『先代旧事本紀』『勘注(かんちゅう)系図』を比較すると、同一名が代のちがう所にいたり、別の人物に同じ名がついていたりして整理しにくいが、何百年間もの口伝(くでん)を別個の豪族たちがそれぞれ主張し記録しているのだから、あまり神経質になるのも意味がないであろう。

[つづく]
 

ウイングさんへ  投稿者:中月氏  投稿日: 3月28日(水)00時21分35秒
  リンク先の記事読んでみました。これは多分にこうあってほしいという願望というか、あちらの人特有の(自分達に都合のよい)妄想に過ぎないのではないかと思います。韓国人(朝鮮人)は何かあるとストーカーのようにすぐに日本を引き合いに出してきます。「我々は日本人より優れているのだ」という何の根拠もない自信(自惚(うぬぼ)れ)で悦に入っていないと生きていけない種族なのです。この記事を読んでも、「どうだ我々は中国と米国に優先的に相談されているんだぞ。それにひきかえ孤立している日本人共よ、どうだ、羨(うらや)ましいだろう」という極めて幼稚なウリナラマンセー的思考が見えてきます。

実際にアメリカは現在韓国に対する関与から手を引いている段階です。アメリカは戦時統帥(とうすい)権を、遅くとも2012年までに韓国に返還することが決まっています(実はアメリカはもっと早く(実際は2009年?)返還したいのが本音(ほんね)です)。つまり、再び朝鮮戦争が始まった場合にもアメリカは積極的に韓国に関(かか)わらない(関わりたくない)ということなのです。統帥権を返還しろと強気に出ていた韓国は、アメリカがすんなり返還する意思を示したところ、逆にビビってしまって、返還反対!などと世論が巻き起こる始末。どうしようもない国ですよね。6ヶ国協議の場に於いても韓国は実は殆(ほとん)ど相手にされていません。言うことはコロコロ変わるし、北に情報が筒抜けであることを他の参加国はよく理解しています。マスコミは「日本が孤立する」などと喚(わめ)き立てていますが、そんなことは決してありません。日本はもうあの半島に関わるべきではないのです。北も南も、はっきり言ってしまうと強請(ゆす)りたかりを繰り返す最低の民族です。これからあの半島は北主導で最低の民族同士で統一に向かって進んでいくことでしょう。韓国は、北朝鮮の工作活動が功を奏して充分に赤化されていますし、とにかく彼らには盲目的な「民族の悲願」が最優先ですから。その過程でおそらく再び戦争或(ある)いはそこまでいかなくても動乱が起こると思います。その際アメリカは最早(もはや)韓国のために本気で手をさしのべることはないと思います。現在韓国の経済状況は悪化の一途を辿(たど)っており、もとより最貧国である北と統一したら自分たちだけではとてもやっていけない状況です。その点からも経済力のある日本とは全く違うのです。そんな国をアメリカが本気で相手にするはずはありません。全くメリットがありませんし、既に、過去のように南半分を共産勢力から死守するという切羽(せっぱ)詰まった大義名分もないからです。取り敢えず、半島最南端に幾ばくかの緩衝(かんしょう)地帯ができればそれでいいのです。

(ひるがえ)って中国はどうでしょうか。中国と韓国(朝鮮)は東北行程で対立しています。しかし、現在は取り敢えず反日ということで利害は一致しています。中国は少なくとも半島北半分を自国の領土だと考えています。北朝鮮では鉄鉱石が出ますし、もしかしたらレアメタルがあるかも知れないと虎視眈々(こしたんたん)と狙っています。白頭(ペクトゥ)山という朝鮮名を使用禁止にして長白山を正式名称としている点にも中国の野心が見え隠れしています。彼らは唐、新羅(しらぎ)から清の時代まで宗主国、属国という伝統的な関係があって、これは現在に於いても尚(なお)消え去ってはいません。特に中国側からすれば半島は明らかに格下の存在です。対等に話などするわけがありません。

確かにアメリカはコウモリみたいなところがあって、民主党が力をつけてくると以前のように北朝鮮や中国に甘く対応してしまうという失策を繰り返す可能性が大いにありますから信用などできません。現にアメリカの立ち位置が微妙にブレ始めているようにも感じています。しかし、それでも日本は現在の立場を変えるべきではありません。孤立する? 大いに結構なことだと思います。あの半島に関わって無駄金を捨てて、尚且つかの民族を増長させるくらいなら、孤立する方が何倍もマシです。今後に備えるためにも、そしてアメリカから真に独立するためにも、成(な)る可(べ)く早く憲法を改正し、自衛隊を国軍に昇格し、更に核武装まで検討する必要があるのです。色々と批判はあるにせよ、安倍首相はなかなかよくやっているのではないでしょうか。この記事のように、特に半島発の情報は殆ど信用できません。情報の誤りは勿論のこと、恣意(しい)的な情報操作や悪(あ)しき世論誘導が潜(ひそ)んでいることも考慮しなければならないと思います。徒に不安がる必要はありませんし、情報の取捨選択はよくよく吟味(ぎんみ)して下さい。折角(せっかく)のインターネットですから、是非色々な情報に接してみて下さい。私が此処(ここ)でこのように書き込んでいる内容も正しいとは限りませんので。長文失礼しました。
 

中月氏 様へ  投稿者:ウイング  投稿日: 3月27日(火)20時15分24秒
  『対北制裁:韓米日から韓米中の「新三角連帯」時代へ(上)』(朝鮮日報)
http://news.livedoor.com/article/detail/3095023/

対北制裁:韓米日から韓米中の「新三角連帯」時代へ(上)

 北朝鮮の核問題を話し合う6カ国協議は、回を重ねるごとに韓半島(朝鮮半島)をめぐる各国の力関係に変化をもたらしている。本来の韓米日「三角同盟」体制が崩れ、韓米中の「新三角連帯」の様相を呈している。

◆韓米中の電話会談が頻繁に

 最近、韓米中3カ国の間で電話会談の回数が著しく増えている。ライス米国務長官は25日、中国の李肇星外相と電話で会談した。これに先立ち、宋旻淳(ソン・ミンスン)外交通商部長官も16日と22日にライス長官と電話で会談している。さらに宋長官は23日に中国の李外相と電話で話し合った。マカオの銀行「バンコ・デルタ・アジア(BDA)」問題の最終的な解決策や、2月の6カ国協議合意履行案などについて話し合ったのだ。ようやく宋長官が日本の麻生太郎外相と電話で話したのは、米国・中国との電話会談を終えた後の23日夕だった。

 先月も同様だった。宋長官は14日にライス国務長官・李外相とそれぞれ電話会談を行ったが、麻生外相と電話で話したのは翌日の15日だった。

 6カ国協議において韓米中3カ国の「緊密な協力」は今や当たり前の光景となった。19日から開催された6カ国協議でも、議長国を務める中国の武大偉外務次官が真っ先に協議した相手は米国のヒル国務次官補と韓国の千英宇(チョン・ヨンウ)韓半島(朝鮮半島)平和交渉本部長だった。

 しかし、韓米日による協議は現在、なかなか接することができないでいる。韓米日3カ国が対北朝鮮政策で心を1つにしたのは、米国の対北朝鮮政策が変わる前の昨年11月が最後だった。

李河遠(イ・ハウォン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS

2007年03月27日19時01分


『対北制裁:韓米日から韓米中の「新三角連帯」時代へ(下)』(朝鮮日報)
http://news.livedoor.com/article/detail/3095024/

対北制裁:韓米日から韓米中の「新三角連帯」時代へ(下)

◆拉致にこだわる日本とは協力困難

 こうした変化が起きた原因は大きく分けて3つある。米国の対北朝鮮政策の変化、2月の6カ国協議合意、そして安倍晋三首相の日本軍「従軍慰安婦」発言だ。国民大学の李元徳(イ・ウォンドク)教授は「米国が対北政策を 180度転換したため、拉致問題の解決が先と要求する日本は韓米と歩調を合わせるのが難しくなった」と話す。

 一方、韓米日の西側「三角同盟」崩壊は、昨年7月に北朝鮮がミサイルを発射してから顕著になったとの見方もある。北朝鮮がミサイルを発射した後、日本から「北朝鮮に対し先制攻撃も可能」という発言が飛び出し、韓国政府がこれを批判したため、「引き返せない橋を渡った」(韓国側国策研究機関の研究員)という声が上がった。

 また安倍首相の「従軍慰安婦」発言が争点となり、米国が日本を負担に感じているという指摘もある。米日関係に精通する韓国外交消息筋は「米国は慰安婦発言後、来月末の日本との首脳会談さえ負担に感じている」と語った。さらに靖国神社参拝問題などで誠心誠意の謝罪をしていない日本をけん制するため、韓国と中国が協調を始めてからかなり経つ。

◆当分は韓米中で協力体制

 韓米日同盟のきっかけとなった韓半島の周辺事情が変わり、韓米中協力体制がクローズアップされている現在の状況は、今後しばらく続くだろうとの見方が有力だ。世宗研究所の陳昌洙(チン・チャンス)日本研究センター長は「北朝鮮強硬策で支持率を上げた安倍内閣が、今すぐ政策を変えるのは難しい。少なくとも7月22日の参議院選が終わる前までは、韓米中の協力体制が続くだろう」と話す。よって北朝鮮の核問題解決と、北東アジアの安定という面で、韓国と米中の戦略的利害関係が一致する限り、こうした状態が続く可能性があるということだ。

 だが「長期的には韓米中協力体制が韓米日協力体制に取って代わるのは難しい」という見方も多い。「韓米中未来フォーラム」を主管している翰林国際大学院大学のキム・テホ教授は「韓米中協力体制が続けば、結局は韓中の利害関係の行き違いから韓国政府の影響力が小さくなり、同盟水準の協力関係に発展するのは難しいだろう」とみている。

李河遠(イ・ハウォン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS

2007年03月27日19時02分


本当に、こうなるのでしょうか。

 

『卑弥呼と日本書紀445』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月27日(火)12時27分35秒
  [承前]

〔六〕大化改新と初代国司

 第二十四世になったとき、大化改新によって世襲の国造(くにのみやつこ/こくそう)制度が廃止され、各国の統治者は朝廷が任命して派遣する「国司(くにのつかさ/こくし)」という地方官になった。
 そしてそれまで首長だった「国造」の一族は、主として、その地方の中心的な神社の宮司として祭祀(さいし)をつかさどるようになった。
 祭政が分離されて、各地方の行政官は中央が任命するようになり、世襲の豪族は祭りのみを役職とするようになったのだ。
 ただし海部(あまべ)氏のような力のある豪族は、祭祀とともにそのまま国司にも任命されて、政治行政もまかされた。

 海部一族は祭祀者としての祝(はふり)が名前につけられ、大化四年(西暦六四八年)に〈豐受大神(とようけおおかみ)〉を祭る神社が、眞名井原(まないはら)に籠宮(このみや)としてできた。
 朝廷に正式に認められた《籠神社》の原型の誕生である。
 和銅六年(西暦七一三年)に丹後国が分離独立したが、このとき第二十五世が丹後国の初代国司となった。政治力が認められたのであろう。

〔七〕《籠(この)神社》の正式の創建

 ついで第二十六世の海部直千嶋祝(あまべのあたい-ちしまのはふり)は養老三年(西暦七一九年)から三十一年間宮司の職にあったが、このとき《籠神社》に始祖神の〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉を祀(まつ)るようになったとされている。
〈豐受大神〉も〈饒速日命〉もずっと前から奉斎(ほうさい)されていたのだが、この時期に神社の制度が朝廷によって明確なものとなったので、これをもって《籠神社》の正式の発足としているのである。

〔八〕『勘注(かんちゅう)系図』の編纂

 第三十三世の海部直稻雄(あまべのあたい-いなお)はこの『勘注系図』の編纂者であるが、系図は第三十四世にあたる子の諸茂(もろしげ)で終わっている。
 海部家はそのあとも《籠神社》の宮司として延々とつづき、現在は第八十二世の海部光彦氏がつとめておられる。
 これは驚異的な長寿家系で、一代の平均が天皇家より長いので、今上(きんじょう)天皇の第百二十五代にはおよばないが、古さは同じであり、天皇家以外でこの代数にくらべられるのは出雲(いずも)大社宮司の千家(せんげ)氏の第八十三代くらいなものである。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀444』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月26日(月)12時06分57秒
  [承前]

〔四〕朝廷提出系図では隠されていた部分

 このあといよいよ、縦系図の『海部氏系図(あまべのうじけいず)』には隠されていた、崇神(すじん)天皇前後のことが記される。
 とりあえず〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉以外の件について記すと、第八世の日本得魂命(やまとえたまのみこと)のときに、〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉が〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を奉じて、〈豐受大神(とようけおおかみ)〉のおられる吉佐宮(よさのみや)に遷(うつ)ってこられた。
(これは朝廷側の記録とおなじである)
 このあと記述は次第に具体的になり、第十四世は丹波国の大県主(おおあがたぬし)になり、第十六世のときに丹波国の国造(くにのみやつこ)に任じられた。広い丹波全体の統治者として、大和(やまと)朝廷に認められたのだ。
 天皇の代でいうと、国々を整備されたとされる第十三代成務天皇の御代(みよ)である。

 その孫が第十八世の建振熊宿禰(たけふるくまのすくね)だが、ここからは縦系図の『海部氏系図』でも隠してはおらず、各代一人ずつ正確に記入されている。
 つまり、第四世(笠水彦命(かさみずひこのみこと))から第十七世(明國彦命(あきくにひこのみこと))までが、朝廷に提出した『海部氏系図』では省略されており、それが、朝廷には見せずに「厳秘」「門外不出」とされた『勘注系図(かんちゅうけいず)』には記されているのである。
 天皇の代でいうと、推定だが、神武(じんむ)天皇の直後から仲哀天皇または〈神功(じんぐう)皇后〉の時代まで――つまり大和朝廷確立期――である。

〔五〕〈神功皇后〉の遠征に従軍

 第十八世の建振熊宿禰が注目されるのは、その時代がちょうど〈神功皇后〉の新羅(しらぎ)遠征時にあたっていて、勅命(ちょくめい)を奉じて丹波・但馬(たじま)・若狭(わかさ)の海人(あま)三百人をひきいて従軍し、功績をあげたと記されていることである。
 有力な海洋族であったことを明白に示す記事だといえるし、〈神功皇后〉の実在性についての強力な証拠にもなりうるであろう。
 もし〈神功皇后〉が架空の存在で大和朝廷が無理に正史に記入したものだとすると、この『勘注系図』のような、朝廷に抵抗して秘匿した史書にまで記されるはずはない。
 この建振熊宿禰は『古事記(ふることふみ)』にも出ており、〈神功皇后〉が忍熊王(おしくまのみこ)と戦ったとき、皇后側の武将として知略を用いて功績をあげたことが記されている。すなわち実在性はきわめてたかいといえる。
 そしてこれらの功績への褒賞として、〈神功皇后〉から「海部直(あまべのあたい)」なる姓(かばね)を賜(たまわ)ったとされている。
 つまり、いまの県知事に相当する国造の姓(かばね)の直(あたい)は〈神功皇后〉を助けた恩賞であると、誇らしげに書かれているのだ。
 そしてつぎの應神天皇のときに「丹波直(たにはのあたい)」や「但馬直(たじまのあたい)」にもなったと記されている。

[つづく]
 

入れ込み情報  投稿者:○投稿  投稿日: 3月26日(月)07時18分29秒
  シナの序列2位の温家宝と天皇陛下がお会いしなければならないのか?
中川氏も言っているが、本来胡錦濤こそがくるべきでは?

安倍総理とだけと言うなら同等の温家宝で十分だろうが、国家元首である陛下とまで会見する必要は無い!
これをセッティングしたのは誰だ!外務省か?
官邸か?まさか宮内庁か??

対等な関係実現へ、胡主席早期来日を…中川政調会長
3月25日1時29分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070324-00000314-yom-pol

 自民党の中川政調会長は24日、金沢市内での講演で、4月に予定されている中国の温家宝首相の来日に関連して、「まずは(中国の)ナンバー1の胡錦濤国家主席が日本に来て、安倍首相や皇室ときちんと交流して欲しい。それによって初めて、日中の対等の関係がスタートラインにつく」と述べ、胡主席の早期来日が必要との考えを示した。
 

中月氏  投稿者:ウイングです  投稿日: 3月25日(日)16時01分22秒
  御返事有難(ありがと)うございます。

よく考えればそうですね、それと中国は分裂するでしょう。
 

『卑弥呼と日本書紀443』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月25日(日)11時37分5秒
  [承前]

 そのあと〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉は天磐船(あまのいわふね)にのって天空をかけて河内国(かわちのくに)に降(くだ)り、さらに生駒(いこま)山地を磐船で越えて《大和(やまと)》の鳥見白辻山(とみのしらつじやま)に移り、そこで可美眞手命(うましまでのみこと)を生んだ。
(この部分は、丹波降臨を除けば『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』とほとんど同じである。先代旧事では〈饒速日命〉は最初河内に天下(あまくだ)り、そのあと《大和》に入る。また子ども可美眞手の名は『記紀』とも同じである。この部分はどの史書も物部(もののべ)系の伝承を元にしていることがわかる)
 そののち〈饒速日命〉は《大和》を神武(じんむ)天皇にゆずって丹後にもどり、《籠(この)神社》の祭神となった。
《大和》を去った後の〈饒速日命〉の行方については、『記紀』など他の史書ではあいまいにされており、理屈にあう説明のあるのは、この『勘注(かんちゅう)系図』くらいであろう。

〔三〕神器の献上

 そのあと第三世つまり〈饒速日命〉の曾孫(ひまご)である倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)の代になって、《大和》に進出した神武天皇に大切な神器である息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつのかがみ)を献上して恭順し、重んじられた。
『記紀』や『先代旧事本紀』とよく対応し、かつ微妙に違う物語だが、代数的にはこちらのほうが合理的だといえる。
 すなわち倭宿禰命は〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉から数えると第五世ということになるが、神武天皇もまた〈天照大神〉の五世の孫であり、同じ代の血縁なのである。
 何代も代が違う〈饒速日命〉と神武天皇とが直接交渉したように読める『記紀』よりも得心がゆく。
 この倭宿禰命は神武天皇その人と一致させる伝承もあるのだが、丹後から《大和》への道筋にはこの命に関係の深い神社がたくさんあり、古代においては、大きな存在感の一族だったことがわかる。

[つづく]
 

ウイングさんへ  投稿者:中月氏  投稿日: 3月25日(日)00時18分13秒
  随分前に何度かこちらに書き込みさせていただいた者です。宜しくお願いします。

URLの記事読みましたがすごいデムパですね。こんな幼稚な内容を信じる人がいるのかと思います。日本がダメダメで支那マンセーの典型、酷すぎます。

笑ってしまったのが、

>何と言っても日本は、行政のトップが「一罰百戒」と胸を張って公言するお国柄。法治国家ではありえない別件捜査も大っぴらに白昼堂々と行われている。

↑まあ支那は、日本が汚染食品の輸入に待ったをかけたりすると、報復として化粧品に重金属が入っているとかなんとか根も葉もない言いがかりをつけて輸入禁止にする国ですから。この記事書いてる人って法治国家の意味が全然わかっていないと思います。というか、ただ「法治国家」という言葉を使ってみたかっただけかと・・・。

>特に日本では「お金もうけは悪いこと」だから、お金をもうけるとたたかれるが、中国では「お金もうけは良いこと」という哲学が浸透しているため、日本よりも分かりやすい。だから、ビジネスに優しい国とみられているのだ。

↑さっぱり意味がわかりません。この記者、こんなことを本当にそう思って書いているのであれば単なるバカでしょう。ミスリードしようという意図で書いているならペテン師です。

>そういう中、海外のビジネスマンの間では、「日本は社会主義だが、中国は資本主義」という認識が広がりつつある。だから、「日本は人口減少で市場は先細りだが、中国は先行き超有望」という話になりがち。「日本は、中国と違って法治国家だ」という評価など聞いたことがない。

↑海外ビジネスマン? 支那人ビジネスマンってはっきり書けばいいのに。中国は決して先行き有望などではありません。経済成長の数字にしても粉飾ですし、貧富の差が増大して常に内乱の危険を孕んでおり、しかも民度が低く金儲けしか考えないので、工場の廃液垂れ流しで環境汚染が酷くガンや奇形などが増え続けています。日本のマスゴミはこういう負の部分については全然報道しませんが。聡(さと)い企業はドンドン支那から引き上げています。あとは誰がババを引くかという事です。何(いず)れこの国は分裂します。

それにしてもこんな糞(くそ)記事、読む価値もありません。
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日: 3月24日(土)22時52分37秒
  『日本は中国に抜かれた!? /有志創路』(日本海新聞)
http://www.nnn.co.jp/rondan/souro/070324.html

本当にこうなるのでしょうか。
 

『卑弥呼と日本書紀442』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月24日(土)12時51分16秒
  [承前]

◆◆◆『勘注(かんちゅう)系図』の内容 ◆◆◆

 以下、この注目すべき史書『勘注系図』の内容について、略述する。

〔一〕主祭神の系図

《籠(この)神社》の主祭神で始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)は、またの名を天火明命(あまのほあかりのみこと)、さらにまたの名をお馴染(なじ)みの〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉といい、その家系はつぎのとおりである。

    (あまのおしほみみ)
 天照大神―天押穗耳命――長男・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと *1)
           ――二男・杵火火置瀬命(きほほおきせのみこと)
           ――三男・彦火明命(ひこほあかりのみこと *2)
           ――四男・彦火耳命(ひこほみみのみこと *3)
(*1)『記紀』では日向(ひゅうが/ひむか)に天孫降臨し、神武(じんむ)天皇の曾祖父になった神。
   『日本書紀(やまとのふみ)』ではこの兄弟の長男ではなく父としている。
(*2)『古事記(ふることふみ)』と『日本書紀』の一書では長男になっている。
   『古事記』では天火明命、『日本書紀』では火明命と記述。
    別名は〈饒速日命〉で物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏の祖神とされ、この別名のほうが有名。
(*3)『日本書紀』では彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と記述。

 この系図は、『古事記』や『日本書紀』や『日本書紀』の一書や『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』と大まかには一致し、こまかな点では違っている。

〔二〕〈饒速日命〉の天孫降臨

 さて、ここから興味深い神話が展開される。
 瓊瓊杵尊が「三種の神器(みくさのかむたから/さんしゅのじんぎ)」を〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉から授けられて日向の高千穂に降臨したとき、同じ天孫の〈饒速日命〉はやはり天祖神(あめのみおやのかみ)から息津(おきつ)鏡・辺津(へつ)鏡に弓矢を添えた神器を授(さず)かって丹波国――のちに丹後国になった地域――に降臨し、農業の神で〈天照大神〉の姪にあたる〈豐受大神(とようけおおかみ)〉を祀(まつ)った。
 降臨した地点――瓊瓊杵尊の高千穂峰に相当する地点――は、《籠神社》から二十キロほど先にある息津島で、いまの名は冠(かんむり)島と沓(くつ)島である。
 この二島は有名な雪舟の国宝「天橋立(あまのはしだて)図」の手前部分に描かれている。実際には遠方なのだが、位置を大きくずらして描いているのだ。重要な伝説の島であることを知っていたからであろう。
 またこのとき授かった神器の鏡が、本殿に伝世された図9.5の二面の「神鏡」である。

図9.5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H95+97.htm


[つづく]
 

沖縄サイパン日本女性裸殺し事件(アメリカ兵謝罪賠償しない事件)  投稿者:えこね  投稿日: 3月24日(土)11時22分30秒
  >2
・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部 は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。
>18-19
白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。
「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。一部略
終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた>149
s24
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/421/23/1/11694665681579697.png
s29
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/421/23/1/11694666851579625.png

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1161474464&rs=1&re=100

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1174202805&rs=152&re=156&fi=no
 

『卑弥呼と日本書紀441』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月23日(金)11時42分56秒
  [承前]

 この第四世から第十七世にかけての時代は、大和(やまと)朝廷でいえば〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉や崇神(すじん)天皇の時代前後に相当しているし、『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当している。

 つまり、
「大和朝廷の確立期と考えられる〈卑彌呼〉や〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代の前後数代だけが抜けている」
 ――のだ。

(これらの系図では、「X世孫」という記法が用いられている。初代の子を兒、その子を孫、曾孫(そうそん/ひまご)を三世孫、その子を四世孫・・・という表現法である。これは昔からの一般的な用法だが本書ではいちいち孫をつけるのはわずらわしいので「第X世」とする)

 そこで第三十三世の海部直稻雄(あまべのあたい-いなお)という人物が、仁和(にんな)年中(西暦八八五〜八九年)に、それまでの史料をもとにして『丹波国造海部直等氏之本記(たにはのくにのみやつこあまべのあたいたちうじのほんき)』なる詳しい説明つきの系図をつくった。
 正確にはこの前に『籠名神宮祝部(このなじんぐうはふりべ)』がつく。

 これが略称『勘注系図(かんちゅうけいず)』で、そこには縦系図で抜けていた大和朝廷成立期の海部氏の先祖のこともくわしく記されている。
 また天孫降臨についても独特の物語がある。
 その内容は、『古事記(ふることふみ)』『日本書紀(やまとのふみ)』などとはかなり違っていて、どちらかというと、海部氏と遠い親戚の物部(もののべ)一族が編纂したとされる『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』に似ている。
 大和朝廷の神武(じんむ)天皇と張り合った〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉を重要視しているのだ。
 つまりこの『勘注系図』の内容は、朝廷の正史に抵触するおそれがあったため、朝廷から危険視されることを避けるために、
「秘記として他見を許さず。海神(わだつみ)の胎内に鎮(しず)め」
 ――と子孫に命じ、神社の奥に秘匿したのである。

 この指示はじつに厳密に守られてきたらしく、著名な古文書学者もその内容を知らないできた。
 たとえば、水戸黄門で知られる徳川光圀(みつくに)が有名な『大日本史』の編纂を計画したとき、この『勘注系図』の存在を知って見たいと申し入れたが、《籠(この)神社》では丁重(ていちょう)に断ったといわれている。
 とうじの日本では将軍につぐ権力者だった光圀の依頼を断るほど、厳重に秘密を守ったのである。

 これは代々書写されて保存され、現在国宝になっているものは、江戸時代初期の写本である。この写本の残りかたや古さも、『記紀』に匹敵している。
『記紀』の写本も、現存する完全なものはやはり江戸初期に写されている。

[つづく]
 

アメリカの態度に問題があるのでは?  投稿者:アジアン文化(漢字文明)  投稿日: 3月23日(金)01時23分34秒
  唐王朝から離脱した渤海国(渤海マッカツ、渤海郡王、南部のマッカツの一部族)
 ↓
契丹の遼国の衛星国としての東丹国(南女直で、マッカツの末裔で、満州人の先祖)
 ↓
「蒲盧毛朶部(帯方郡・盧州)」「曷蘇館(新羅・辰州)」「高麗(百済・全州)」
 ↓
女真(満州の先祖)の金国の末期に、遼東行省(遼東省に併合、国名としては高麗は消滅)
 ↓
明朝で「全州」李成桂の時に、権知,高麗国事(準知事の治める高麗国)
 ↓
明朝「燕王」太宗で李朝の王弟(太宗)の時に、権署,朝鮮国事(準署長の治める朝鮮国)
 ↓
清朝「太宗(燕亡人衛満朝鮮)」に降伏した李朝の仁祖王の時に、朝鮮国王
 ↓
東学党が、李朝の発生地の「全州」を占領し、日清戦争の原因となる。
 ↓
日本がアメリカに負け
イギリスとアメリカが「満州」らしき物のパージをする
満州くさい物は、歴史教科書や学問研究で禁止し、資料の抹殺やスリ替えを進め
満州国自体の歴史抹殺にヤッキとなったために、史実は消えかかり
今日の「韓国人の歴史捏造」を増やした。

共産中国政府も台湾の中国人学者達も
文化的な危機に気づき「東北工程」研究を始める。
 

『卑弥呼と日本書紀440』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月22日(木)13時58分21秒
  **********
《籠(この)神社》関連の解説は、前述しましたように、金久与市『古代海部(あまべ)氏の系図』を参考にしていますが、金久先生は昨年亡くなられました。
 衷心(ちゅうしん)よりお悔やみ申し上げます。
 金久先生には、この問題につきまして、大変親切にいろいろと教えていただき、また《籠神社》第八十二代宮司・海部光彦様を紹介していただきました。
 生前のご厚誼に深く感謝いたします。
**********

■■■■■ 九・七 《籠神社》が千年以上秘匿した秘宝『勘注(かんちゅう)系図』の謎 ■■■■■


◆◆◆『勘注系図』の由来 ◆◆◆

《籠神社》の神宝のなかでもっとも重要な『勘注系図』の由来は、以下のとおりである。

 七世紀の初め、推古天皇の御代(みよ)に、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがあった。
 その貴重な史書類は大化改新における蘇我家滅亡のおりに焼失してしまったのだが、この推古天皇の国史蒐集(かいしゅう)時に〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫で丹波国(たんばのくに)の豪族かつ国造(くにのみやつこ)だった海部(あまべ)家の海部直止羅宿禰(あまべのあたい-とらのすくね)が『丹波国造本記(たにはのくにのみやつこほんき)』なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存した。
 奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前のことである。
 なお国造とは朝廷の許可を得てその地方を統治する古代の世襲の地方官で、もともとその地を支配していた豪族がなっていた。

 止羅宿禰の三代あとの養老五年(西暦七二一年)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記(このなじんじゃはふりべうじのほんき)』とした。
 養老五年といえば、『古事記(ふることふみ)』が完成した和銅五年(西暦七一二年)のわずか九年後、『日本書紀(やまとのふみ)』が編纂された翌年である。
 これは、皇室の求めに応じて『記紀』編纂用の史料を再提出した機会に、自分たち一族の史書を整備する意図だったのかもしれないし、また『記紀』の内容に異論があって、編纂したのかもしれない。
 おそらくこういう史料編纂は、多くの豪族が皇室の求めに応じてなしたり、また『記紀』に不満をもって独自になしたりしたであろう。
 有名なものに物部系の『先代旧事本紀』や齋部廣成(いんべのひろなり)の『古語拾遺(こごしゅうい)』があるが、《籠神社》ほどの古さは珍しい。

 それから平安前期、西暦八五九〜八七六年の貞観(じょうかん)年中になって、第三十二世の海部直田雄祝(あまべのあたい-たおのはふり)が勅命をうけ、過去の史料をもとに朝廷に差し出すための自家の系図を作成し、『籠名神社祝部氏(このなじんじゃはふりべうじ)系図』と名づけて丹後の役所に提出、同時に同じ内容の副本をつくってこれにも役所の丹後國印をうけて神社に保存した。
 これが、現在まで伝世されて『海部氏系図(あまべのうじけいず)』と呼ばれている国宝である。
 しかしこの系図は各代に一人ずつの代表者だけを縦に並べた縦系図で、詳細はわからない。
 しかも、ある意図があったらしく、第四世から第十七世までが抜けている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀439』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月21日(水)12時23分50秒
  [承前]

(二)国宝『海部(あまべ)氏系図』

 つぎの国宝の『海部氏系図』は、滋賀県三井寺に伝えられた和気(わけ)氏系図(国宝)とともに、紙に記された日本最古の系図とされ、伝承によれば平安前期の貞観(じょうかん)年中(西暦八五九〜八七六年)に、その前からあった史料を参照して書かれたのだという。
 系図のわかる最古の家系はもちろん天皇家である。
 天皇家の系図自体は『日本書紀(やまとのふみ)』編纂時に同時に編纂されたものの今では消失しているが、その内容は『記紀』本文の記述でわかっている。
『海部氏系図』は、この『記紀』によって構成される天皇家系図を別にすれば、日本最古なのである。
 平安時代には古い神社などの宮司家の系図を定期的に提出させており、これはそのために書かれたものの副本で、役所で確認したという意味の「丹後國印」が押印(おういん)されている。したがってきわめて信憑性が高い。
 これは昭和五十一年に国宝に指定され、翌年に公開され、平成四年に神道大系ではじめて活字化され、評判となった。

(三)国宝『勘注(かんちゅう)系図』

 つぎの『勘注系図』は、《籠(この)神社》の神宝のなかでもっとも重要で、秘宝中の秘宝とされ、長く秘匿されてきたが戦後にやっと公開され、厳格な審査によってその信憑性が認められて、やはり昭和五十一年に国宝に指定された。
 そして、平成四年に神道大系によってついに全文が公開され、古代史の研究者たちに大きな衝撃を与えた。
 その由来や内容については次節に記す。

(四)『丹後国一宮深秘』

 これは、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉のご神体が《大和(やまと)》の笠縫(かさぬい)からこの地にご巡幸されたことを記した文書で、十四世紀の書写である。

(五)『倭姫命世記(やまとひめせいき)

《伊勢神宮》などに伝わる写本より古い、日本最古の写本ではないかといわれている。

**********

 次節で、もっとも重要な秘宝『勘注系図』について詳しく記すことにする。

[次ぎは『九・七 《籠神社》が千年以上秘匿した秘宝『勘注系図』の謎』]
 

『卑弥呼と日本書紀438』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月20日(火)12時29分40秒
  [承前]

◆◆◆《籠(この)神社》の神宝 ◆◆◆

 以上のように、驚くほど古い伝承をもつ神社であり、戦乱や空襲にも遭わず宮司も世襲で続いたので、多くの神宝が秘蔵されている。
 代表的なものに、

(一)「辺津鏡(へつのかがみ)」と「息津鏡(おきつのかがみ)」(図9.5参照)
(二)『籠名神社祝部氏系図(このなじんじゃはふりべうじけいず)』(国宝/略称『海部(あまべ)氏系図』)
(三)『籠名神社祝部丹波国造海部直氏之本記(このなじんじゃはふりべたにはのくにのみやつこあまべのあたいたちうじのほんき)』(国宝/略称『勘注(かんちゅう)系図』)
(四)『丹後国一宮(たんごのくにいちのみや)深秘』
(五)『倭姫命世記(やまとひめせいき)』(最古の写本といわれる)
(六)『御正体等経塚遺物』(重要文化財)
(七)『藤原佐理(ふじわらのすけさま)卿筆神額』(重要文化財)
(八)『経筒一対(きょうづついっつい)』(重要文化財)
(九)神前狛犬(こまいぬ)二基(重要文化財)

 ――などがある。
 以下に説明を加えよう。

(一)「辺津鏡」と「息津鏡」

図9.5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H95+97.htm


 まず二つの鏡だが、この名称は九州北端(福岡県)の有名な古社・宗像(むなかた)大社の辺津宮(へつのみや)と沖津宮(おきつのみや 沖ノ島)と同じであり、名前そのものも海に関係がふかく、海洋民を連想させる。
 考古学的には「辺津鏡」は「連孤文昭明鏡」と呼ばれる前漢鏡(西紀前/日本の弥生中期)で、北九州からは出土例があるが、畿内や但波(たんば/たには)では出土したことのない貴重な逸品である。
 また「息津鏡」は「内行花文鏡」と呼ばれる後漢鏡(西暦一〜二世紀/日本の弥生後期)で、畿内では《箸墓(はしはか)》のすぐそばの、〈卑彌呼〉生存中の造営とされる大塚古墳から一面、ホケノ山古墳から二面出土している。うち一面は平成十二年というごく最近の出土である。

 考古学上での分類では、この二面の鏡は同じ系統に属しており、時代も西暦紀元をはさんで前漢・後漢と連続している。
 神話との関連では、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にある「十種の神宝(とくさのかむたから)」の筆頭の二面の神鏡(瀛都鏡 おきつのかがみ、邊都鏡 へつのかがみ)と同名である。したがって通常の〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉伝承とよく照応している。
 また『日本書紀(やまとのふみ)』に「三種の神器(みくさのかむたから/さんしゅのじんぎ)」としての「八咫鏡(やたのかがみ)」のことを「経津鏡(へつのかがみ)」と記しているので、類似名である。
 大きさや形式では、後漢鏡の「息津鏡」のほうが「三種の神器」に似ているだろうといわれている。
 そしてこの二鏡とも、天の祖神(あめのおやがみ;天津神 あまつかみ)から下されたものと伝えられている。
 つまり「三種の神器」に匹敵し、「十種の神宝」そのものともいえる神宝なのだ。
 くわしい由来は後述するが、こういう、
「二千年以上も前の鏡が、遺跡からの出土ではなく、神社の本殿に伝世され、かつその由来を記した古文書が同時に神社に存在し、さらにその古文書の内容が『先代旧事本紀』の神話と多くの共通点をもつ」
 ――というのは、まったく稀有(けう)なことである。
 遺跡の土中に埋もれていたわけではないので、図9.5でわかるように、じつに綺麗で模様も鮮明である。
 公開は昭和六十二年で、それまで二千年間も秘されていたので、公開時には大きな反響をよんだ。

[つづく]
 

お騒がせしました  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月19日(月)22時26分14秒
  竹下義朗さま
どうやら復旧したようです。
なにかちょっとした障害だったのだと思います。
お騒がせしました。
自分のteacupでもはじかれるので、クビをひねっておりましたが・・・。
 

『卑弥呼と日本書紀437』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月19日(月)22時17分27秒
  [承前]

〈三〉奥宮の祭神2〈豐受大神(とようけおおかみ)

 奥宮のもうひとつに奉斎されている〈豐受大神〉は、元来がこの丹後――もと丹波(たんば)――の地を五穀豊饒(ごこくほうじょう)にした農業の神で、きわめて古くから祀(まつ)られ、信仰されてきたらしい。
 系図的には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の孫娘であり、したがって〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の姪(めい)にあたる女神(めがみ)である。
〈天照大神〉は四年で別の宮に遷られたが、〈豐受大神〉はそのまましばらく鎮座されて、第二十一代雄略天皇の御代(みよ)になって、《伊勢神宮》の外宮(げくう)に遷(うつ)られた。
 内宮(ないくう)の正式名が皇大神宮であるのに対し、こちらの正式名は豐受大神宮である。
 この遷宮は〈天照大神〉のご意向によるとされているが、おそらくそれは、豪族への支配と融和政策の一環だったのであろう。
 この雄略朝以後、〈天照大神〉の祀られている内宮と〈豐受大神〉の外宮を併(あわ)せて、《伊勢神宮》と通称するようになって現在に至っている。
 このような経緯から、いまでも《籠神(この)社》には、本宮の〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉のほかに、二つの奥宮に、〈天照大神〉と〈豐受大神〉の二女神の御分霊が祀られているのだ。

〈四〉〈天照大神〉と〈豐受大神〉の関係

 こういった祭神関係を見てみると、日神である〈天照大神〉が、その姪で大地の農業神である〈豐受大神〉の神社に巡幸するのは、祭祀(さいし)のバランスをとる上でとうぜんと思えるし、またそこが〈饒速日命〉一族の重要拠点だったことを考えると、大和(やまと)朝廷が競争相手だった〈饒速日命〉を先祖神とする豪族を支配下において海への窓口を確保するための、とうぜんの戦略だったともいえるだろう。

 のちの〈豐受大神〉の伊勢への遷宮であるが、裏の意味は前記のような豪族への融和・帰順策であったとしても、神事としては、天の最高神である〈天照大神〉に大地の農業の神〈豐受大神〉が五穀を献上するという役割を果たすためであった。
 そのため伊勢の外宮では、朝夕天神への食事をつくる儀式を遷宮以来毎日続けており、じつに千五百年ものあいだ一日として絶やしたことがない。
 これは高野山の仏前の火を千二百年間絶やしていない行事を上まわる、世界に類例のない歴史の「継続性」である。

 内宮と外宮の関係については、星座による面白い説明もある。
 十月十七日は神嘗祭(かんなめさい)で、天皇がその年の新穀を《伊勢神宮》に捧げる日であるが、この日の星座をみると、内宮をあらわす北極星に、外宮をあらわす北斗七星が、柄杓(ひしゃく)で新穀を献上しているように見える、というのである。
 内宮の二十年ごとの式年遷宮は有名で、神殿だけでなく鳥居や神宝まで作り替えられるのだが、それは外宮も同じである。

 なお《籠神社》という名称は、七世紀の大化改新時に吉佐宮(よさのみや)を変更してつけたもので、その際社殿をいまの奥宮の地から現在の本宮に移し、それまでの社殿を奥宮として残して元伊勢の眞名井(まない)神社と呼ぶようになったらしい。

[つづく]
 

RE:御連絡  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日: 3月19日(月)21時58分55秒
  オロモルフさん

>連載中の『卑弥呼と日本書紀』が、teacupではじかれるようになりました

掲示板の機能制限を設定した訳では無いですし、オロモルフさんの利用リモートホストをブロックする様にした訳でもありませんし、管理者の私にも理由が分かりません。おそらく、teacup自身の何らかの障害では無いかと思うのですが・・・。

一日二日お待ち頂いた上で、改めて投稿を試して頂けませんでしょうか? 尚、掲示板上で直接投稿文章を打ってエラーでは恐縮ですので、メモ帳等のエディタ上で編集した内容のコピーを、掲示板に貼り付ける形でお試し下さい。
 

御連絡  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月19日(月)13時54分24秒
    連載中の『卑弥呼と日本書紀』が、teacupではじかれるようになりましたので、私の日記の方に当面掲示いたします。
はじかれる理由が解らないのですが、もし解る方がおられたらお教えください。

↓↓↓↓↓
『オロモルフ号の航宙日誌』
http://www4.diary.ne.jp/user/402594/
 

まいど、複数HNで済みません。  投稿者:えこね  投稿日: 3月19日(月)12時46分7秒
  『三国志−魏書』の韓の条(魏志韓人伝)
『明史』の外国一の朝鮮

明史は『満州王朝(清朝)』の手になるもの
『衛満』朝鮮王
『箕子』朝鮮
『童蒙先習(トンもんソンすぷ)』


権(権僧正は、準僧正の意味)

『両鬼子(リャンくいヅ)』は『2番手』の意味

中国の威を借る朝鮮人
虎の威を借る狐

『独り言ver4』
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1174202805&res=8&fi=no

 

ウイングさん  投稿者:竹下義朗  投稿日: 3月18日(日)22時14分0秒
  >2月21日の誤りでした。

諒解しました。どうぞお使い下さい。
 

まだある地名すり替え  投稿者:地名すり替え得意のサギ民族と争  投稿日: 3月18日(日)17時16分49秒
  蓋州(渤海国蓋馬高原→新羅金城[渤海国の頃は渤海国が新羅を蓋州と呼んで支配])
辰州(辰韓新羅→渤海国[契丹(遼王朝)の頃は契丹の聖宗が新羅を辰州と呼んで支配])
城平・平城→平壌
列水([シ文]山から流れる川→大同江)
、[シ文]山=ムンさん、という江原道と黄海道の境の山

ほとんど、お笑い説
プサンは釜山と書くのが植民地時代、李朝は富山浦と書いた。読みが同じ「プサンぽ」。
日本の富山県を朝鮮が支配していた証拠と、
終戦直後に進駐軍のアメリカ軍に言いかねない状態だった。
アジアンは区別できないから、みな同じと考えるアメリカ兵の知識の時代の事。

中国東北(満州)を日本の東北地方の人間がいたので、
日本の東北を「満州」と日本の古地図にスリ替え表記する様な感じの大ウソが通る世の中

紀伊半島の南海を、広東の南海からスリ替え、大阪の在日あたりか?アメリカ人に説明し
紀伊半島は、秦の始皇帝の徐福が来て、徐福は朝鮮人だったから領有権がある
秦の始皇帝から逃れた中国人が半島に逃れ新羅を辰韓を作って、古の辰国は、秦国だの。
辰韓は秦韓だの説明したり
とか
日本の東の海、
つまり太平洋を、小東洋(洋は大きい海の意味)と中国の古地図で表記なのを東海とし、
日本海を、コレアン海と古地図に見せかけた地図に表記して広めるような感じの
歴史捏造がコレアン社会にある。
 

鉄州(満州鉄嶺→江原道鉄原)、慶州(契丹慶陵→新羅金城)高州(遼東高句麗→金国全州)  投稿者:地名すり替え得意のサギ民族と争  投稿日: 3月18日(日)17時02分7秒
  sports2.2ch.net/test/read.cgi/iraq/1122469964/-100

> 「竹島は日本の領土だ!」と叫ぶ嫌韓厨。しかし
> やはり「竹島放棄」については一言も触れず。
> 明治政府は1877年に竹島(鬱陵島)および
>          松島(竹島=独島)を放棄した。


1877年当時は  日本は現在の竹島を
           松島(竹島)と呼んでいたんだよ。よって
1877年の通達にある竹島(鬱陵島)は
        現在の竹島(独島)ではない

竹島
及び属島一島だよ、放棄したのは。90km離れた小島を
「属する」との表現は日本語にはない。

放棄が正規の物なら
1905年の編入に文句がない。鬱陵島(竹島)を
日本に編入しなかったのは何でだろー?
 

竹島資料  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月18日(日)12時38分0秒
   戦後韓国に占領されてしまった竹島が日本の領土であることは当たり前ですが、島根県が同県所属を告示した明治38年2月は、日露戦争のただ中でした。
 ですからその告示と日露戦争は密接な関係があると思います。
 以下は、防衛省研究所の図書室で発見した日露戦時の竹島資料を整理したものです。
 竹島問題を論じた本はたくさんありますが、この資料に触れた本は見ていませんので、保存頁に保存いたしました。

 もしよろしければどうぞ。
↓↓↓↓↓
■■■ 竹島と日露戦争 ■■■
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tksm-nr.htm
 

『卑弥呼と日本書紀436』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月18日(日)12時34分6秒
  [承前]

◆◆◆《籠(この)神社》の祭神 ◆◆◆

〈一〉本宮(もとみや)の祭神〈饒速日命(にぎはやひのみこと)

《籠神社》は本宮と二つの奥宮とに分かれている。
 本宮の主祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)で、これは天火明命(あまのほあかりのみこと)と同神で著名な〈饒速日命〉の別名であることが、のちに記す系図に明記されている。
 つまり物部(もののべ)・尾張(おわり)・海部(あまべ 本神社宮司家)などの一族の先祖神である〈饒速日命〉を祀(まつ)る神社なのだ。
 そして古代から高い地位を得ており、十世紀はじめの延喜式(えんぎしき)に記載された式内社であり、丹後の一の宮(最高位の神社)であり、また官幣(かんぺい)中社であった。

 第六章にも記したが、『記紀』および物部系の史書とされる『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、天火明命こと〈饒速日命〉は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と兄弟であり、瓊瓊杵尊が日向(ひゅうが;ひむか)に天降(あまくだ)ったときに同時に河内(かわち)に降臨し、そこから天磐船(あまのいわふね)で《大和》に入り、義兄の長髄彦(ながすねひこ)と神武(じんむ)天皇が戦ったときに御子(みこ)の可美眞手命(うましまでのみこと)とともに神武天皇に帰順し、降臨時に天津神(あまつかみ)――〈天照大神〉など高天原(たかまのはら)の神々――から授(さず)かった神宝も献上して隠棲した。
 これは有名な話だが、その〈饒速日命〉その人が、この本宮の主祭神なのである。
 大和朝廷と争った大豪族〈饒速日命〉一族の先祖を祀(まつ)る神社が、〈天照大神〉の《大和》以外での最初の鎮座地に選ばれたのは、意味深長である。

〈二〉奥宮の祭神1〈天照大神〉

 さて、本宮からすこし離れたところに二つの奥宮があり、そこにいまも〈天照大神〉と〈豐受大神(とようけおおかみ)〉の御分霊が祀られている。
 この奥宮は別名眞名井(まない)神社というが、そのうちの一つこそ、かつては吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた神社――つまり〈天照大神〉が《大和》をはなれて最初に祀られた神社――なのである。
〈豐受大神〉は昔から祀られていたらしいので、〈天照大神〉は第十代崇神天皇の御代に、〈豐受大神〉と〈饒速日命〉の鎮座するこの神社に《大和》から遷られ、四年間を過ごされたことになる。
 そのため、この奥宮は「元伊勢」と呼ばれている。
 伊勢に落ち着かれるまでの鎮座地にのこる神社はすべて元伊勢だが、ここは《大和》の《檜原(ひばら)神社》とならんでその筆頭なのだ。

[つづく]
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日: 3月18日(日)08時27分0秒
  2月21日の誤りでした。

「日本と米国」 ── 詰まり、「国と国」と見る事自体に、抑(そもそ)もの「間違い」があった訳ですから、米国民にとって、米国は「国家」であると同時に「ワールド」=「一つの世界」でもある訳です。

ここまでです。
 

RE:竹下義朗 様  投稿者:竹下義朗  投稿日: 3月17日(土)22時00分44秒
  ウイングさん

>3/1の内容を、友人に書く手紙のに利用しても宜しいでしょうか?

ウェブの新着情報「3月1日」分の事でしょうか? それでしたら、一向に構いませんが。
 

竹下義朗 様  投稿者:ウイング  投稿日: 3月17日(土)16時21分26秒
  3/1の内容を、友人に書く手紙のに利用しても宜しいでしょうか?

メールのほうも宜しくお願いします。
 

オロモルフ様  投稿者:ウイング  投稿日: 3月17日(土)16時16分24秒
  村山総理の時に、サリン事件がありましたね。
まさか共謀していたとは、考えすぎでしょうか。

台湾に行きたいです。
日本が統治していたとはいえ、どうして差がでるのか。
 

契約では無い決め事  投稿者:えこね  投稿日: 3月17日(土)14時17分0秒
  〈 契約外 [契約と呼ば無い、契約と呼ぶに含まない] 〉

○[お恵み←→カツ上げ]とか
 慈悲[お情け←→泣き寝入りさせる口約束、とか]は
 上位者で余裕の有る者が、下位者で貧しい[乏しい]人に
 [財物など]与える行為[で、]詐欺やタカリは赦され無い。
( [与えられた側が]与えた者に[財物など]戻す要求が有り得る)
○残りは、ほぼ[殆ど]犯罪扱いで、法律を創り犯罪だが
 許容スル条項を創ったり
 取り締まりを決めたりスル。アホな場合、犯罪を正義とし
 正しきを罪として罰則[ペナルティー]を設ける事態は発生し得る。
 法律創りはツミ創りに成る場合も有る。
○良心が痛むとか恥ずかしい気持ちとかは宗教的な罪[・原罪]で
 此れ[コレ]は宗教儀式が赦しを与えるなり[、
 キリスト教で言う懺悔告白なり]償い擬似行為[、
 仏教で言う滅罪善行を積む]で緩和するが
 宗教が違う為、[損害を受けた]相手が
 納得しない[了承し無い]場合が起こり得る。
(「20歳も年下とスルなんて[、犯罪。」とか、
 後ろ指サす場合など]犯罪のタグイ)
○個人の努力目標はフツー罰を創ら無い[し
 与え無い]決め事で「戒(いましめ)」と呼ぶが
 集団に属する為[に、逸脱し無い様に、]集団を律[し
 統制スル]為の決め事には
 罰が有り「律(りつ・掟=おきて)」と呼ぶ[のが有る]
○罰[ペナルティー]は、[色々有るが、]
 集団[からの]追放が最大の罰で「所属して居る」と名[乗らせ、
 団体の名前]を使わせ無い[様にスル]のは
「破門」とか「辞めました」[「脱会しました」とか、
 人様から言わサセられ、人様に言われる物]で
 土地からの追放[処分]は
「流刑」
 此の世(生きて居る世界)から[の]追放[処分]は
「シ刑」と[か]なる。
 

契約  投稿者:えこね  投稿日: 3月17日(土)14時05分3秒
  〈 契約 〉

○取り戻しの効か無い約束[(取り決め)]は[契約の条項に]出来ない。
○証明が出来無い事も約束[の条項]に盛り込[め]ない。
○弁償を[約束時点の]相手が現状の持ち得る力で出来無い事は
 約束に盛り込[め]ない。(黄犬契約の禁止)
( [譬えば、例は悪いが、] 処女を返して、とか
 青春を返して、とか 私の体を自由にしながら悪者[扱いした、]とか
 [約束相手から]言われ無い様にする[決め事をスル]事。)
○基本的に法人[(団体を一個人と見なす単語)]を含め2者間[で]
 双方納得[(2者の本人同士の了承)]の上で、利益の交換で有る事で
 等価値の交換で有る事で、不利益の交換で無い事。
( [当事者の一方のドチラにせよ]損が増え無い事。)
○損をさせる目的で無い為に
 不利益([当事者同士の御互いの]悪い現状)や
 罰則([罰を与え過ぎと言われ無い様]納得を創る事)は
 [約束を決める前の交渉中に]事前告知で有る事
 つまり告知義務違反に成ら無い事。
○交換が成され無かった時に、
  原状回復(約束する前の状態に戻す)の為に
 先に[利益を]与えられた側が、[与えた側に]利益を返還する事。
○其れが出来無い[、
  或いは出来無かった]場合、罰則[を実行する]として
 同じ[価]値の金銭を2者間[が]相対して[支払い行為をする]か
 等価値・[同]性質・[同等]能力の物納[或いは労働奉仕]をして
  弁償スル事。
○今、現状で持ち得る力で[能力で]し[行い]
 自分[が]現在所有する持ち物やサービス(労働)[能力]や
 金銭など財産・能力と交換スル。
○自分の将来は交換のネタ[対象]に出来無い[、対象にスル物で無い]
(時間は取り戻[せ無いから。
  時間を]弁償出来ないから。[付け替えは別])
 他人の将来や財産・能力を交換のネタ[対象]に出来ない。
(盗みに成るから)
 

『卑弥呼と日本書紀435』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月17日(土)12時26分8秒
  [承前]

 丹後半島とその周辺一帯が丹後国(たんごのくに)であり、その西が但馬国(たじまのくに)、南にひろがるのが丹波国(たにはのくわ/たんばのくに)だが、これら三つはもとすべて丹波国(または但波国)だった。つまり但馬も丹後ももとは丹波だったので、古代史の文献を読むときには注意を要する。
 なお丹波はいまはタンバと読むが、かつてはタニハまたはタニワであり、但波とおなじである。
 この国は、いま伊勢の外宮(げくう)に祀(まつ)られている〈豐受大神(とようけおおかみ)〉が田畑をつくり農業を起こした国とされ、丹波の語源は田庭(たにわ)だとされている。
 庭はまたバとも読むので、田庭をタバと読めばそのまま丹波(たんば)につながる。
 とても広い地域なので西暦六八四年に但馬国が独立、ついで七一三年に丹後国が独立した。
 そして《籠(この)神社》は丹後で最高の位をもつ著名社である。

 丹後や但馬の地は縄文・弥生・古墳各時代の遺跡が豊富にあり、貴重な品が数多く出土している。
 さいきん、丹後半島の赤坂今井墳丘墓から、三世紀前半――つまり〈卑彌呼〉の時代――の豪華な頭飾が出土して人々を驚かせた。
 また『魏志倭人伝』にある正始元年に魏でつくられたらしい鏡などが発掘されているし、《大和》と共通する出土品も多い。
 したがって同じ日本海側の出雲(いずも)よりもむしろ大和朝廷との交流が盛んだったと推理されている。

 また、伝承や遺跡から、日本海で活躍した海洋氏族の拠点だったとも推定されている。
 但馬の丹後寄りにある、古墳時代前期の袴狭(はかざ)遺跡からは、十五隻の船団を描いた二メートルもの長さの板が発見されて評判となった。
 このあたりは、新羅(しらぎ)王子の天日槍(あめのひぼこ)が渡来して朝廷に神宝を献上したという伝説がのこっている地点だし、また加羅国(任那)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が半島から長門(ながと)や出雲を経て漂着した地点・敦賀(つるが/つぬが)のすぐ近くでもある。

[つづく]
 

「  盧溝橋事件勃発の真相 −日中戦争の歴史の真相− 」 「史実を世界に発信する会」事務局長  茂木 弘道 氏  投稿者:救国の草莽の志士  投稿日: 3月16日(金)21時51分36秒
  「盧溝橋事件勃発の真相−日中戦争の歴史の真相−」 講演会 (Res:1) All First100 Last50 SubjectList ReLoad ▲1▼

1 名前:救国の草莽の志士 投稿日: 2007/03/16(金) 21:21:14
「 盧溝橋事件勃発の真相 −日中戦争の歴史の真相−」       講演会のご案内


        ワールドフォーラム 3月例会のご案内


      http://www.worldforum.jp/information/2007/02.html


   「  盧溝橋事件勃発の真相 −日中戦争の歴史の真相− 」

          「史実を世界に発信する会」事務局長
                             茂木 弘道 氏


日時 : 2007年3月30日(金) 18:30 - 21:30

場所 : 北とぴあ  北区王子1-11-1 7階 第一研修室

                    TEL.03(5390)-1105

交通 :  JR&東京メトロ南北線「王子駅」前 徒歩2分

地図 : 北とぴあへの地図

     http://www.worldforum.jp/information/images/map_03.gif

参加費 : 5,000円(予約前払い 4,000円)

振込先 : 三菱東京UFJ銀行 田無駅前支店/普/3826681/口座名義 さそう くにお

参加申込み先 :  ワールド・フォーラム代表幹事 佐宗邦皇



    E-mail : aikokusha-daiasiarengo@hotmail.co.jp

    FAX : 03(3353)6499

    携帯 : 090(7234)9792

http://www.worldforum.jp

 

『卑弥呼と日本書紀434』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月16日(金)12時37分19秒
  [承前]

◆◆◆《籠(この)神社》の場所 ◆◆◆

 場所は、京都府の北端・日本海側の宮津市で、日本海に突き出た丹後半島の若狭湾寄り――東側――の付け根にある。

図9.4
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H91-94.htm

 図9.4を参照していただきたいが、日本三景として有名な天橋立(あまのはしだて)のすぐそばといえばわかりやすいかもしれない。
 じつは天橋立とは、《籠神社》の元々の参道なのだ。
 有名な雪舟の名画に国宝「天橋立図」があるが、これにも《籠神社》の鳥居のすぐそばから天橋立が海上に延びている有様がはっきりと描かれている。
 昔から面白い話が伝わっていて、天の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が地の伊弉冉尊(いざなみのみこと)を訪ねるときに天から地へ渡した梯子(はしご;SFでいう軌道エレベータの元祖である!)を使っていたが、その梯子が倒れてできたのが天橋立だという。
 この二柱(ふたはしら)の神も《籠神社》に配祀(はいし)神として祀(まつ)られている。

 若狭湾は紀元前の弥生時代から、日本海をわたって九州・朝鮮半島・大陸などと往来する玄関口のひとつであり、日本海へ出る経路を確保したい大和朝廷がこの地を勢力下におこうとしたのはとうぜんのことである。
 崇神天皇の御代(みよ)に四道(しどう)将軍の一人で〈倭迹迹日百襲姫命〉の親戚にあたる人物がこの地に派遣されて丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)と呼ばれていたこと(第九・一節)でも、それはわかる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀433』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月15日(木)12時20分2秒
  ■■■■■ 九・六 《大和(やまと)》を離れた最初の元伊勢《籠(この)神社》に伝わる奇跡の神宝 ■■■■■


◆◆◆ 最初の大和外元伊勢《籠神社》◆◆◆

〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉のご神体が皇宮を離れて三輪山麓笠縫(かさぬい)の《檜原(ひばら)神社》に遷ったその次の巡幸先は、前節に記したように但波(たには)の吉佐宮(よさのにわ)である。
 このときの御杖代(みつえしろ)はまだ〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉になっておらず、『魏志倭人伝』にある〈臺與(とよ)〉の候補の〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉である。
 吉佐宮は《大和》から地方に遷った最初の神宮とされているので、その史実性は別問題として、大和朝廷にとってきわめて重要な地域にあったことはまちがいない。
 注目されるのは、第九代開化天皇の妃や第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇后と妃(きさき)が、丹波の出身だったことで、成立期の大和朝廷が丹波地方と密接な婚姻関係をむすんでいたことがわかる。
 但波とはのちの丹波・丹後・但馬(たじま)をあわせた国名で、いまの京都府と兵庫県北部である(図4.2参照)。

図4.2
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

 吉佐宮の現在の姿は、日本海に突き出た丹後半島に鎮座する《籠神社》である。
 そしてそこに、日本最古の系図が神宝として秘蔵されており、その系図に〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉とその驚くべき別名が記されているのだ。
 以下、多くの歴史家に衝撃を与えた《籠神社》の神宝について、金久与市の『古代海部氏(あまべのうじ)の系図』にしたがって概説する。

[つづく]
 

RE:河野洋平  投稿者:竹下義朗  投稿日: 3月14日(水)20時49分20秒
  オロモルフさん

盧溝橋くんだり迄わざわざ出掛けて行って「往時を(しの)んで反省」したり、「従軍慰安婦」の為の基金を設立したり、「戦争責任」に対する公式な謝罪を「日本国総理」の肩書きで行い、日本の総理であり乍(なが)ら、日本に不利な言動を数々行った村山富市を東の売国横綱とすれば、天候の関係で台北空港に寄航した際も、「台湾の土は踏まず」として機内に留まり、後(のち)にこの時の事を誇らしげに支那要人に語って見せた「媚中(びちゅう)ポチ」河野洋平は西の売国横綱と言えます。

(いず)れにせよ、早く世の中から消え去って欲しい人物の二人である事は確かです。
(それが(日本の)世の為、人の為になる、と私は信じて疑いません。)
 

RE:慰安婦決議と拉致問題はリンクしている  投稿者:竹下義朗  投稿日: 3月14日(水)20時35分50秒
  はるさん

米国議会が慰安婦決議の採決を強行する様なら、例えば、被爆者団体が米国に乗り込み、広島・長崎に対して無差別殺傷兵器である原爆を投下し、多くの非戦闘員を殺戮した米軍の行為は「人道に対する罪」であるとして、米国政府に対する公式の謝罪と被害者に対する充分且つ納得のいく補償を行う様求める訴訟を起こす、と言うのも手ですよ。何せ、米国(国家と同時に国民)にとって、「原爆」は最も後ろめたく、触れられたくないナーバスな問題ですからね。これ以上のカウンターパンチは無いでしょう。
(勿論、河野売国奴親子を、政界から追放す可(べ)き事は言う迄もありません。)
 

RE:竹下義朗様へ  投稿者:竹下義朗  投稿日: 3月14日(水)20時15分50秒
  ウイングさん

>他所の国のことに口を出すべきじゃないと思いますよ、やはり同盟国だからといって安心できませんね。
>破棄するのも一手ですね。

余りにも理不尽な事や、無理難題を吹っ掛けてくるのなら、米国との同盟関係を破棄す可きです。

「孤立」するのは、日本よりも寧(むし)ろ、京都議定書やイラク戦争等で独善且つ強圧的(我が儘(わがまま))と見られた米国の方でしょうから。
 

『卑弥呼と日本書紀432』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月14日(水)12時56分45秒
  [承前]

《伊勢神宮》を詠(よ)んだ歌のいくつかは第二、六、九章のトビラに記しておいたが、ここで三首ほど追加しておこう。

とこしへに 民安(たみやす)かれと 祈るなる
わがよを守れ 伊勢のおほかみ
(明治天皇御製(ぎょせい)/明治二十四年)

天照(あまてら)す 神の御馬(みうま)の いななける
清き夜明けの 杉木立(こだち)かな
(與謝野晶子(よさの-あきこ)/大正四年)

ここはこころの ふるさとか
そぞろまいれば 旅ごころ
うたたわらべに かへるかな
(吉川英治/昭和二十五年)

 文豪・吉川英治の歌は、「伊勢神宮は心の故郷(ふるさと)」という言葉の始まりとも言われ、昭和二十五年十二月に参拝したおりの即興だが、この時代は占領軍の抑圧によって、境内(けいだい)は閑散としていたとされる。

 なお《伊勢神宮》は通称であって、本来は単に神宮または皇大(こうたい)神宮(あるいは天照皇大神宮)という。また伊勢の内宮(ないくう)ともいう。
 このほかに〈豐受大神(とようけおおかみ)〉を祀(まつ)った外宮(げくう)――豐受大神宮――があり、内宮と外宮を合わせた通称が《伊勢神宮》である。

**********

 さて、この〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉の御巡幸をここに特に記したのは、前述のように、

「この御巡幸と〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の別名とが深く関係している」

 ――からである。
 次節でそのことを記そう。

[次ぎは『九・六 《大和(やまと)》を離れた最初の元伊勢《籠(この)神社》に伝わる奇跡の神宝』]
 

あるがままの歌  投稿者:ゾルブびと  投稿日: 3月13日(火)17時41分20秒
  あるがままの歌(神の歌・バガバッド_ギータ)
大牟マリ

> 大牟マリ

セブン−イレブン
(7.11 流通革命: コンビニエンス−ストア)

セプティンバー_イレブン
(9月11日、ハイジャック燃料満タン航空機のミサイル特攻)

7月10日(ユダヤ暦7月
 ヨム・キプール[ヨム・キップル・大贖罪の[キプール]日[ヨム] ])

-------------------------------------------------------------
「ユダヤ(ジュー)」と偏見をもって呼ぶ
ゾルブ


ユダヤ人とは

 @ユダヤ教徒
   ユダヤ教のラビと結婚契約書を書く事も含め
   613か条の宗教規律を守る契約を結んだ人をさす。

 Aユダヤ教徒でない(偽ユダヤ:
            ケルト[アイリッシュ・スコッチ]・
            スラブ[ハザール・ゾルブ・白ロスア]・
            ニダヤ[韓流キリスト教風]など)
   キリスト教やイスラムと判断がつかないので
   見てくれ不気味だし母が意味不明だし白人混血だし
、差別対象として罵る場合。

わたしは、マルクスなどを
Aの意味で「ユダヤ(ジュー)」と偏見をもって呼ぶように
世間の多くは、そう論じていると思う。
 

目には目を?歯にはU鹿  投稿者:3月20日  投稿日: 3月13日(火)16時55分22秒
  重慶爆撃は、蒋介石が居たから
シドニー空襲は、フィリピン軍のマック_アーサーが居たから。

東京大空襲は、東条英機が居たから。

なのか?
 

マッチ−ポンプ(自作自演)  投稿者:3月20日  投稿日: 3月13日(火)16時46分17秒
  産経新聞は
「米下院聴聞会で証言した
  オ・ヘルンさんが慰安所に連行されたのは
  末端将兵の仕業だっただけ」
と報道した。

当時、インドネシア
ジャワ島に駐屯中だった日本軍
下位将校たち(朝鮮人たち?)が
上部(日本人?)の
命令を聞かずに
これらを(朝鮮人を)強制連行したという主張だ。

同新聞は
「日本敗戦後1948年、オランダ政府が
  インドネシアで軍法会議を開き、
  オ・ヘルンさんの証言などを土台に該当の
  日本軍将校ら11人に有罪を宣告し、
  死刑と懲役20年刑を下すなど
関連処罰はすべて終わっている」と強調、
「オ・ヘルンさんが
  米国下院聴聞会で日本政府の責任を促したが、責任者は
  すでに処罰されている」と反論した。それとともに
「最近
  慰安婦問題に関連し、日本に対して
  非難が殺到していることは、すべて終わったことを
  また問題視していること」
と主張した。
 

『卑弥呼と日本書紀431』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月13日(火)13時08分0秒
  [承前]

 もちろん、伊勢に落ち着いた意味は、そのような――いまの考えでの――現実的なものだけではなく、海に近い五十鈴川(いすずがわ)のほとりが、神の座にふさわしい神秘的な景観にあったことも大きいであろう。
 また、地図を見ればすぐに分かるとおり、伊勢は《大和(やまと)》の地の真東にあたっており、古代大和朝廷にとっては太陽の昇る方角である。
 そのような方角の清涼(せいりょう)な地に太陽の化身(けしん)である〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を祀(まつ)るのは、とうぜんのことかもしれない。

 参考までに、〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉と〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉の推定ご巡幸経路を、図9.2に示しておく。

図9.2
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H91-94.htm

 日本海へ出る地点と、問題の多かったらしい岐阜県と、伊勢湾や三河湾を横断して東国(とうごく)へ進出する地点とに向かって、試行錯誤しながら巡幸したことが読みとれる。
 最終的に落ち着いた《伊勢神宮》の内宮(ないくう)の写真を図9.3に掲載する。

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を日本武尊(やまとたけるのみこと)に授(さず)けてからは、〈天照大神〉の最高のご神体「八咫鏡(やたのかがみ)」を奉斎(ほうさい)して、今日に至っている。
 そして現在も、日本の神社の最高峰として、二十年に一度の式年遷宮が国民的な行事としてなされている。

 江戸時代には「お伊勢参(まい)り」が国民的行事であり、日本全体の七割の家庭にこの《伊勢神宮》の御神札(神宮大麻)が祀られていた。
 現在でも、毎年一千万に近い御神札が全国の家庭の神棚に祀られているし、毎年正月には総理以下閣僚が参拝している。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀430』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月12日(月)13時12分19秒
  [承前]

◆◆◆ ご巡幸の深い意味 ◆◆◆

 時代的には、第十代崇神(すじん)天皇の六年に皇宮を出発して次の第十一代垂仁(すいにん)天皇の二十六年に落ち着いたのだが、その実紀年は三世紀と四世紀の境くらいだろうと推定されている。
『日本書紀(やまとのふみ)』の垂仁紀や『倭姫命世記(やまとひめのみことのせいき)』の干支で求めると西暦二九七年になるが、この年は『魏志倭人伝』における〈臺與(とよ)〉の時代のすぐ後であり、これもまた興味ぶかい。

 このご巡幸には、大和(やまと)朝廷の勢力を周辺に定着させ、同時に鉄や玉や稲の産地を確保し、そして東海方面への出口にあたる伊勢に新しい根拠地をもうける・・・といったさまざまな意図があったと推理されている。
《大和》の地の背後(東側)は今の三重県であるが、そこを《大和》の勢力圏にすることに成功したとしても、その地域をさらに北や東から囲う形の滋賀・岐阜・愛知・静岡県の豪族たちを抑える必要がある。
 岐阜や愛知や静岡は、さいきんの考古学の知見では、《大和》とはかなり違った文化圏であり、同時に《大和》と交流した形跡があり、したがって『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》に反抗した狗奴国かもしれない――とされている。

 したがって、陸を介して岐阜を抑え、海を渡って愛知や静岡へ進出できる伊勢の地は、当時の大和朝廷にとってきわめて重要な土地であったといえる。
 落ち着くまでの経路を見ても、わざわざ滋賀や岐阜を通っているのだ。
 だから、皇女(こうじょ/ひめみこ)が神子(巫女 みこ)となっての御巡幸ではあるが、その実体は多くの武人をしたがえ、各地方の豪族たちを威圧する堂々たる大和朝廷軍の行軍だったろうと考えられている。
 だからこそ日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国に遠征したとき、最初にこの《伊勢神宮》に寄って、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣 くさなぎのつるぎ)」を〈倭姫命〉から借り受けたのであろう。
 つまり権威を借り、武具を調達したのである。
(この剣が伊勢へは戻らず熱田(あつた)神宮に奉斎(ほうさい)されたことは既述のとおりである)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀429』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月11日(日)12時15分25秒
  [承前]

◆◆◆〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉のご巡幸 ◆◆◆

 以下、遷宮の地を時間の順に個条書きにしてゆく。

皇宮に奉斎(瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から崇神(すじん)天皇六年まで数百年間)
  〔崇神天皇六年に崇神皇女の豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を御杖代(みつえしろ)
  (祭祀(さいし)責任者)として皇宮の外に祀(まつ)ることにした〕

倭国(やまとのくに)の笠縫邑(かさぬいむら)・三輪山麓の檜原(ひはら)神社(三十三年間)
但波国(たにわのくに)の吉佐宮(よさのみや)・丹後半島のつけね(四年間)
倭国の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)・檜原神社の近く(八年間)
木乃国(きのくに)の奈久佐浜宮(なぐさのはまのみや)・和歌山市(三年間)
吉備国(きびのくに)の名方浜宮・岡山市の近傍(四年間)
倭国の弥和乃御室嶺上宮(みわのみむろのみねのうえのみや)・(二年間)
〔この終わりに豐鍬入姫命は、すでに奉斎の日数を重ねたとして、姪にあたる垂仁(すいにん)天皇の皇女・倭姫命に御杖代を委任された〕

倭国の宇太乃秋宮(うだのあきのみや)・奈良県宇陀郡(次と合わせて四年間)
倭国の佐佐波多宮(ささはたのみや)・奈良県宇陀郡
伊賀国(いがのくに)の隠市守宮(なばりいちきのみや)・三重県名張市近傍(二年間)
伊賀国の穴穂宮(あなほのみや)・名張市の近傍(四年間)
伊賀国の敢都美恵宮(あえとみえのみや)・三重県上野市近傍(二年間)
淡海国(おうみのくに)の甲可日雲宮(こうかひぐものみや)・滋賀県甲賀郡(四年間)
淡海国の坂田宮・滋賀県坂田郡(二年間)
美濃国(みののくに)の伊久良河宮(いぐらかわのみや)・岐阜県本巣郡(四年間)
尾張国(おわりのくに)の中島宮・愛知県西部(前者に含まれる)
伊勢国の桑名野代宮(くわなののしろのみや)・三重県桑名市付近(四年間)
伊勢国の奈具波志忍山宮(なぐはしおしほやまのみや)・三重県鈴鹿市付近(前者に含まれる)
伊勢国の阿佐加藤方片樋宮(あさかのふじかたのかたひのみや)・三重県松阪市付近(四年間)
伊勢国の飯野高宮(いいののたかみや)・三重県松阪市付近(四年間)
伊勢国の佐々牟江宮(ささむえのみや)・三重県伊勢市付近(一時的)
伊勢国の伊蘓宮(いそのみや)・三重県伊勢市磯町(一時的)
伊勢国の瀧原宮(たきはらのみや)・三重県度会郡大宮町滝原(一時的)
伊勢国の矢田宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の家田田上宮(やたのたのうえのみや)・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の奈尾之根宮(なおしねのみや)・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の宇遅五十鈴河上(うぢのいすずのかわかみ)・三重県伊勢市の五十鈴川のほとりの皇大神宮、すなわち《伊勢神宮》の内宮(ないくう)
(垂仁天皇二十六年十月に鎮座し平成の現在まで継続。実紀年で推定一千七百年以上続いている)

 以上、〈天照大神〉のご神体が崇神天皇の皇宮から現在地に遷されるまでに計二十五の宮をへたことになるが、これが倭姫命御巡幸といわれる昔からの物語である。
 この二十五の宮の信憑性については、なんともいえず、実際はもっと少なかっただろうともいわれているが、どの土地にも現在まで神社が残されている。
 おそらく、重要な史実を投影した物語なのであろう。

[つづく]
 

河野洋平  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月11日(日)11時57分27秒
  この人、インターネットではずいぶん批判されているようですが、選挙民の支持は強いようですね。
選挙運動などほとんどしていないようなのに、いつも悠々と当選してしまいます。
なぜ?
 

清朝[満州王朝]の科挙のこと  投稿者:  投稿日: 3月11日(日)08時58分35秒
  文科(清朝[満州王朝]の科挙のこと)

 御史台(監察室、蒙古王朝のとき)
 貢院(人事院 → 大院[大きい屋敷]・書院・国務院)
 科場(試験場)
 貢生(試験官)
 挙人(科挙合格者・公務員採用合格、ポスト[現場・所属官庁]は後日決定)
 及第(科挙合格、合格しました。の意味)
試験の一、四書の論語・中庸・孟子のうち[で、大学は試験で使わないで]
        一つから小論文を書く試験(儒の心得を書く、
           李氏朝鮮は科挙がなく儒学の教材は、孝経・小学のみ)
試験のニ、五経(易経(予測術)・詩経(春秋戦国時代の各地方の民謡など)・
        春秋左伝という史記な歴史・書経という風土記のような歴史・
        周礼という礼記)毎に論述
        占いの正しい使い方[誤った判断をしないカケの説明]・
        詩経の歌と自分の作詞の詩を歌う[文才を見る]・
        歴史故事から政策を時事放談する[論策]・
        [昔の行儀は今はコウするといった]昨今の風紀について・
        [昔の制度と今の制度について]礼儀[道徳など]について論評する。
身言書判(試験官や皇帝との面接で、
     身なり(身分相応の着こなし、地位の詐欺がない事)・
     官話(北京語)の言葉使い[訛りがない事]・
     書道の筆使い[丁寧な書きや文の内容]・
     裁判の公平さの寸評[礼儀・道徳に関する説明が出来る]などが
あるか人物評を見立て合格させる。

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喬家大院
japanese.cri.cn/134/2006/04/13/1@60964.htm
 

慰安婦決議と拉致問題はリンクしている  投稿者:はる  投稿日: 3月11日(日)00時20分20秒
  「従軍慰安婦問題で安倍総理訪米の訪問先々でデモを仕掛ける。
 朝日新聞や中国や北朝鮮の情報宣伝戦の日米分断作戦だ。」
 (http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/e340cdf6a2e079af8bdebc64598e336e

まず、“河野談話”を河野洋平本人が撤回してくれればいいのですが、無理そうなので息子に撤回してもらう。それも無理?
安倍首相訪米時に、日米の結束を損なわず、日本の名誉も傷つけないような演説でもしてもらいたいものですが…。
ここで、河野談話を踏襲してしまえば、拉致被害者の帰還は絶望的になると思う。
いざとなれば、孤立も怖れない覚悟が必要。
 

竹下義朗様へ  投稿者:ウイング  投稿日: 3月10日(土)17時30分9秒
  第二次大戦中の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に謝罪を求める決議案についてです。

他所の国のことに口を出すべきじゃないと思いますよ、やはり同盟国だからといって安心できませんね。
破棄するのも一手ですね。
 

『卑弥呼と日本書紀428』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月10日(土)12時35分59秒
  ■■■■■ 九・五 『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』に記された《伊勢神宮》への遷宮経路 ■■■■■


 ここまでの〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の本名や別の尊称は、頭に「倭」の文字がつく重要な名前だった。
 これだけでもこの「姫命」の存在の大きさが想像できるのだが、じつは、『記紀』とは別の、ほぼ同時代の古典のなかに、「倭」はつかないが、もっと意味深長(しんちょう)な別名が記されているのだ。

 そのことを述べる前提として、崇神(すじん)天皇の御代(みよ)に皇宮に祀(まつ)られていた〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉のご神体、

   「八咫鏡(やたのかがみ)
   「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣 くさなぎのつるぎ)

 ――を外部の神社に移してから、げんざいの伊勢の皇大神宮に落ち着くまでの経路を、記しておこう。
 このことと〈倭迹迹日百襲姫命〉の別称とが密接に関係するからである。
 典拠は《伊勢神宮》などに古くから伝わる神道古典のひとつ『倭姫命世記』である。

 御杖代(みつえしろ)、すなわち祭祀(さいし)責任者である斎王(いつきのみこ)は、最初は『魏志倭人伝』にある〈臺與(とよ)〉の有力候補とされる崇神天皇の皇女(こうじょ/ひめみこ)の〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉だったが、途中で〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉に交替した。
〈倭姫命〉は崇神のつぎの垂仁(すいにん)天皇の皇女だが、かつては〈卑彌呼〉の有力候補だった。内藤湖南の説は有名である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀427』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 9日(金)12時58分32秒
  [承前]

〔十〕「クニアレヒメ」の謎

 この時代の天皇である崇神(すじん)天皇の国風謚号(しごう または実名)の御間城入彦(みまきいりひこ)が、
「三輪(三巻)の地域に入った高貴な男性」
 ――という意味を持つ可能性があることは前に述べたが、これは〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が神子(巫女 みこ)をつとめる《三輪山》の神の地に崇神天皇が入って国を創(つく)ったということであり、したがって建国を意味する〈百襲姫命〉の母の名とむすびついている。
 さらに崇神天皇の尊称が初代の神武(じんむ)天皇とおなじ御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)――すなわち「はじめて国を創った天皇」――とされている事ともむすびついている。

 これは不思議な結びつきである。
 名目的な建国を果たしたのが初代の神武天皇で、実質的な建国を成功させたのが第十代の崇神天皇であるという説は一般的なものとなっているが、もしそうなら、神武天皇や崇神天皇の母親にこそ「オオヤマト・クニアレヒメ」という名を奉(たてまつ)るべきであろう。
 しかしそうではなく、天皇の助言者として登場する〈倭迹迹日百襲姫命〉の母親のほうを、「オオヤマト・クニアレヒメ」と尊称しているのである。
「國在(生)」も意味深長だが「大倭(おおやまと)」だけでも別格の尊称である。
 前にも記したが、古代において頭に「倭」がつく女性は〈倭迹迹日百襲姫命〉を含めて六人だが、その上にさらに「大」がつく女性はこの母親のみなのである。
 この奇妙なくいちがいが発生したのは、大和(やまと)朝廷の確立に関して〈倭迹迹日百襲姫命〉の存在が重大な意味をもっていることを、『記紀』の編者たちがよく知っていたからではないだろうか。


**********

『記紀』の記述は、この謎の〈倭迹迹日百襲姫命〉を天皇の助言者の地位につけているが、それは、古代の正史は男性の天皇を中心にしなければならなかったこ とと、《三輪山》の〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉より先祖神の〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を物語の中心に据えなければならなかったことによるのであろう。
 ――というのが、ひとつの推理である。

(なお第九・一節に記したように、百襲姫命の母親は安寧天皇の曾孫(ひまご/そうそん)だが、もう一つの別名に、『古事記(ふることふみ)』では蠅伊呂泥(はえいろね)、『日本書紀(やまとのふみ)』では絙某姉(はえいろね)がある。これはたぶん幼名または実名であろう)

[次ぎは『九・五 『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』に記された《伊勢神宮》への遷宮経路』]
 

『卑弥呼と日本書紀426』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 8日(木)13時02分31秒
  [承前]

〔七〕別名〈倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)

 これはあまり問題はないであろう。
 崇神(すじん)天皇紀には〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の略称として記され、孝元天皇紀には〈百襲姫命〉の姪として出てくる。この姪は『古事記(ふることふみ)』には出てこないし、孝元天皇の実在性には疑わしい点が多いので、同一人物を姪として記してしまったのだろうとの説があることは、前述のとおりである。

〔八〕別名〈倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまぐわしひめ)

 この名は崇神天皇紀にあるが、天皇が神淺茅原(かむあさじはら)で占ったときに神が〈百襲姫命〉に憑依(ひょうい)して語ったことからつけられた名称とされている。
 その前の迹速については、小学館の『日本書紀(やまとのふみ)』では速を迹の誤りとするか、または音速で神の声(音)を速く聞く――の意味か、としている。
 迹速と迹迹の関係については、逆に迹迹が迹速の写し間違いではないか、という意見もある。
 尾部の目妙は見て美しいといった敬称である。

 以上が『記紀』における〈百襲姫命〉の本名と別名であり、いずれも特異な形で別格の意味をもっている。
 なお『勘注(かんちゅう)系図』には〈倭迹迹日百襲姫命〉のさらに重要な別名が記されており、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にも似た表現があるが、それは後に述べる。

〔九〕母親の尊称〈倭國香媛(やまとくにかひめ)〉および〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)

 本人の名や別名のほかに、母親の名前も重要である。
〈百襲姫命〉の母親は孝靈天皇の妃で、その名は、『日本書紀』では前者、『古事記』では後者となっている。
『日本書紀』の名も国を香らせたという高貴な意味を感じさせるが、『古事記』の名はさらに意味深長である。
 それは『日本書紀』的に書き直せば、〈大倭國在(生)姫命〉となる。
 偉大なる大和(やまと)の国に霊性をもって生まれ出た――という解釈が一般らしいが、偉大な《大和》の国を建国した姫命、あるいは《大和》の建国を念じた姫命という意味にもとれる。
 いずれにせよ、おどろくほど別格の尊称である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀425』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 7日(水)13時13分52秒
  [承前]

〔六〕苅谷俊介の意見

 俳優で《大和(やまと)》の発掘にも携わってきた苅谷俊介も、つぎのユニークな意見をだしている。
「迹迹日の迹迹(トト)は鳥のこと。いまでも幼児言葉で鳥や鶏をトトと呼ぶ。日は霊力・太陽だろう。百襲(ももそ)は百十(ももそ)で、これは『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の墓が「径百余歩」とあることを連想させる」

 これもまた、いわれてみるともっともに思う意見である。
 鳥は接頭語にしたとき「と」とも読む。鳥座(とぐら)、鳥屋(とや)などがある。
 したがって「迹迹」は「鳥」だろうという意見は、苅谷だけでなく多くの人が唱えているらしい。
 もっとも鳥は当然空を飛ぶので、「鳥」も「飛」も同じことかもしれない。
 このほか「とと→ちち→千々→縮み→縮織の布→立派な衣服」という説もあるらしいが、著者には読みとれない。
 ちなみに、「襲」は「押す」と「覆う」の複合語で「そ」とも言うが、衣をつくる繊維を「麻(そ)」といい、「衣」も「そ」というので、覆い被さるという漢字の意味だけではなく衣という意味にもなる。

 著者も、自分なりに解釈してみた。
「美しい大和(倭)において、飛ぶ鳥(迹迹)のごとくに、霊力(日)が、数多く(百)、覆いかぶさってきている(襲)、太陽の妻(姫)であるところの、高貴な人(命)」
(これは著者の想像であって学問的な見解ではない)

 どの意見が正しいにしても、大きな力を連想させる特異な名であることにかわりはない。
 つぎに別名を検討してみよう。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀424』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 6日(火)15時04分37秒
  [承前]

〔三〕岩波書店『日本書紀(やまとのふみ)』にある注

 一方岩波の『日本書紀』の訳注においては、
「トトヒ(迹迹日)は鳥飛び、モモ(百)は百、ソ(襲)は十の意であろうか。トトヒは魂の飛ぶことの比喩となることがある」
 ――としている。
 これは飛鳥(あすか)を連想させる見解である。
 飛鳥と書いて「アスカ」と読ませるのは明日香(あすか)地方にかかる枕詞(まくらことば)を飛鳥(とぶとり)といっていたためらしい。それが明日香の代わりをするようになったのだ。
 ――ということは、《大和(やまと)》は飛鳥を愛(め)でる地でもあったということになり、その《大和》の神子(みこ)である〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉に飛鳥を意味する迹迹日がつくのは不思議ではない。

〔四〕「倭(やまと)」「姫(ひめ)」「命(みこと)

 この三つの尊称については、すでに何カ所かで述べているが、再記すると――
 頭につく「倭」は、もちろん大和朝廷の重要人物であることを意味している。
 うしろにつく「姫」は太陽の妻(日女/ひめ)から来たとされ、高貴な女性=巫女(みこ)的な女性への敬称である。
 巫女は御子(みこ)・神子・皇子(みこ)・皇女(ひめみこ/みこ)などと同じ読みであるだけではなく、語源も同じである。ミコのミは海神(わだつみ)のミと同じで、神霊の意味である。
 最後の「命」はもちろん高貴な人物への尊称で、語源的には御事(みこと)だとされる。このミも神霊につうじるのであろう。

 小学館も岩波も高名な学者が『日本書紀』を編纂しているが、それでも同じ名について解釈がまったく違うのは、専門家のあいだでも決定打がでていないことを意味している。
 したがって、つぎのように、多くの人が様々な意見を発表している。

〔五〕原田大六の意見

 たとえば、《邪馬台国》の議論で有名で考古学の実践家でもある原田大六は、つぎのように述べている。
「迹迹日は飛速から出た言葉で、天に飛び国に飛び帰るの意味であろう。また百襲は百衣で多くの衣裳という意味だろう。すなわち〈倭迹迹日百襲姫命〉とは、日本の都である倭国の天界と地界を結ぶ有翼の、たくさんの衣裳をもつ姫ということである」
 この解釈は、〈百襲姫命〉の別名に〈倭迹速・・・〉とあることや、妹の〈倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)〉が『古事記(ふることふみ)』では〈倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)〉とされていることからも、導かれている。
 なお原田は、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」
 ――をとっている。
 そして、〈百襲姫命〉が持っていた日神祭祀(さいし)の主導権を、『記紀』の編者が無視したのだと主張している。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀423』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 5日(月)13時33分37秒
  ■■■■■ 九・四 〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉という奇妙な名の意味と別名 ■■■■■


『記紀』はじめ古代の伝承における人物(神)の名は、人々がその人物(神)についてどのように考えていたかをあらわしているので、それ自体が史料として重要である。
 そこで、問題の人〈倭迹迹日百襲姫命〉の名前の由来や別名について、知るかぎりのことを記しておこう。

〔一〕主要名〈倭迹迹日百襲姫命〉および〈夜麻登登母母曽毘賣命(やまととももそひめのみこと)

 前者は『日本書紀(やまとのふみ)』における主要な表記であり、後者は『古事記(ふることふみ)』における表記である。
 この二つは読みが微妙に違い、トとヒが少なくなっていたり、古代の発音で百(もも)は甲類なのに母母(もも)は乙類だという違いがあるなどしているが、両親も同じであり、明かに同一人物である。
 ただし『古事記』においては、『日本書紀』のようなこの姫命の活躍は記されていない。
『古事記』は皇室と男性天皇中心の色彩の強い短い物語なので、略されたのであろう。
 現在では『古事記』のほうが普及しているようだが、ごくさいきんまでは『日本書紀』が古代史書の中心だった。
 たとえば、大正時代の『古事記』の解説書に、『日本書紀』ばかりを重要視することへの批判が記されていたりする。
 そして昭和初期の『古事記』中心の時代を経て、さいきんになってふたたび『日本書紀』を重視する意見が多く見られるようになったのは興味ぶかい。

 最初にこの主要名を分解しておく。
「倭迹迹日百襲姫命」
 =「倭」+「迹迹日百襲」+「姫」+「命」
 =「倭」+「迹迹」+「日」+「百」+「襲」+「姫」+「命」

 問題は「迹迹日百襲」の解釈である。

〔二〕小学館『日本書紀』にある注

 さて、この〈ヤマトトトヒモモソヒメミコト〉という奇妙な名前の意味についてだが、本書が主に参考にしている小学館の『日本書紀』の訳注においては、
「迹迹日(ととひ)は十十靈(ととひ)で、十×十=百となる霊的な――といった意味で、百襲姫にかかる枕詞(まくらことば)的なものであろう。また百襲は数多く神異がその姫を襲うという意味かもしれない」
 ――としている。

[つづく]
 

東遷の仮定(現在の知識での私的に)  投稿者:メタトロン○  投稿日: 3月 4日(日)16時24分7秒
  熊本−菊池郡(卑弥呼、壱都(伊都)の倭の2女王の使いが、帯方郡役所へ(劉夏・弓遵)
      江南−呉の水軍、魏晋の吏訳所=使役所=領事館−交易事務所、漢人翻訳員)
 阿蘇(蘇我・曽我)
筑紫−大宰府(倭の武王(継体天皇?)、倭の5王の時代、
       呉の司馬(芝)曹達ら漢人13名、六朝の宋時代か千字文と達磨の梁時代)
大分−日田 → 岐阜県の飛騨へ
大分−宇佐(八幡大菩薩(応神天皇?))
伊予(海を経て、東遷を始める。半島で勢力が連年大敗し、九州が危ないため。)
讃岐→←吉備津(岡山)と瀬戸内海を挟んで戦争
 淡路
大阪−和泉・河内(ニニギ)
大和−奈良(聖徳太子、斑鳩から大宰府へ出向き、隋の使者に会い、
      当時隋に滅ぼされるような、琉球が滅ぶような奇襲を避け、
      王都−宮廷を大宰府と偽り隠す)
 

この説はイカなるものか詳細を知らない  投稿者:  投稿日: 3月 4日(日)15時32分33秒
  ある説では、
魏の頃から
遣隋使の頃に、阿蘇の見える熊本菊池郡から大分宇佐にかけてヤマトがあり
 その後に、ニニギのように河内を通過し、東遷があり
遣唐使の頃に、奈良盆地の斑鳩あたりに移動ではと。
 

相変わらず、品を落としてですが  投稿者:メタトロンなHNで  投稿日: 3月 4日(日)13時34分22秒
  天皇家の姓名は、阿昧=アメ=天だとは、隋書の記載のようです。

ヒミコは、お姉さん(阿妹)で、実の妹のイトが後継した事を
倭が
半島にあった、漢人太守(劉夏)やワイかフヨ族の太守(弓遵)の
帯方郡へ朝貢の際に、使者が説明した為に、
ソーユー記述になったのでは?

阿父(あふ、おやじ、おとうちゃん)項羽と劉邦でコウ門の会のハンカイ。
阿妹(あめい、おねーちゃん)香港妹だと。。。風俗HPで香港女ほどの意味では。
という事でしょうか。
 

『卑弥呼と日本書紀422』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 4日(日)12時05分32秒
  [承前]

F
 昔は巫女(みこ)が神託を間違えると死を迎えた。
 下腹部に多くの矢を射込(いこ)まれた老女が出土(*)しており、卑彌呼の死を連想する。
(著者注:*は下腹部を箸でついて死んだとされる〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉を連想する)

G
「《邪馬台国》大和説」
 ――が有力なのは、鏡の出土状況による。
 景初四年の鏡は日本製であろうし、日本人はすでに漢字がわかっていた。

H
 孝元天皇は架空だろう。
 したがって孝靈天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命は崇神(すじん)天皇の大叔母(おおおば)ではなく叔母になる。

**********

 以上、三人の代表的な、
「《邪馬台国》大和(やまと)説」
 の学者の説を略述した。
 とくに前の二人は、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」
 でもあり、参考になる。

 ごく最近まで、笠井説や肥後説は軽視されていたが、この数年の考古学の進展によって、見直されてきた。
 ここで記したのは大和説の代表的論文であるが、どれも考古学的な知見が論文の背後にあるように思われる。
《邪馬台国》問題を『魏志倭人伝』の解釈のみによって論じると、その議論は主観的なものになりがちなので、考古学の成果を加味する必要がある。

《邪馬台国》問題における考古学の重要性は大正時代から指摘されるようになったが、その口火を切ったのは考古学者の高橋健自と言われている(第一・二節の一覧表参照)。
 これに対して史学者の橋本増吉が異議を唱えた(同前一覧参照)が、平成に入ってからの考古学の成果は、高橋健自〜笠井新也〜肥後和男らの説をますます補強していると考えられる。

 ただし現在の史料ではまだ断言はできない。
 さまざまな説を唱えて断言するアマチュア史家が多いが、現時点での断言は非科学的ではないだろうか。
 ただ、可能性としては大和説が高まっていることは間違いない。

 くわしくはまた後に述べる。
 次節では〈倭迹迹日百襲姫命〉の名前の問題を記してみる。

[次ぎは『九・四 〈倭迹迹日百襲姫命〉という奇妙な名の意味と別名』]
 

『卑弥呼と日本書紀421』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 3日(土)13時59分20秒
  [承前]

◆◆◆ 樋口清之による大和(やまと)有利説 ◆◆◆

 つぎに、樋口清之の議論を記しておく。
 弥生時代に稲作があったことを例証するなど著名な考古学者であり、多くの歴史書・啓蒙書を書き、また國學院短大学長や博物館学会会長などを務めた樋口清之は、大和の出身で大和の遺跡にきわめてくわしい。
 はじめは九州有利と考えていたが、のちに考古学的な考究から、邪馬台国=大和である可能性が大であるという見解を発表するようになった。
 いくつかの著作から、要点を抜粋してみる。

A
 奈良盆地の中央には大和湖があったらしく、縄文時代の遺跡は標高六十メートルまででそれ以下にはない。弥生時代の遺跡は五十メートルまでである。
『記紀』の神武(じんむ)天皇に関係する数十の地名はすべて標高六十メートル以上のところにある。神武即位の橿原(かしはら)の遺跡も発見されている。

B
 稲作は斜面の方がやりやすい。平地だと水面の設計が難しい。
 その点で《三輪山》の周辺は稲作に絶好の土地である。
 また《三輪山》は斑糲岩(はんれいがん)であり、その周辺には砂鉄があり、製鉄遺跡が多い。玉(ぎょく)の原料も出る。

C
 九州に文化圏があって、それが東に伝播して中国地方の文化圏や大和の文化圏ができ、しだいに地の利の良い大和に統一されたのだろう。中国の出雲(いずも)や吉備(きび)にも政権があり、それが大和に吸収されたのだろう。

D
『魏志倭人伝』は伝聞を元にした三級史料である。

E
〈卑彌呼〉は〈姫巫女(ひめみこ)〉であろう。とうじはどの集落にも神託を伝える巫女がいて力をもっていた。その最高位が〈卑彌呼〉だったのだろう。
 年が長大といっても昔は三十歳すぎると老女だった。
 卑彌呼に仕(つか)える男とはたぶん夫で、臺與は娘だろう。

[つづく]
 

名前の変遷  投稿者:  投稿日: 3月 2日(金)19時58分31秒
  漢山 → 漢陽県[渤海国の命名] → 漢城 → 京城 → ソウル
富山浦(ぷさんぽ) → 釜山港
 

高麗王朝などない。李朝は満州時に発生  投稿者:  投稿日: 3月 2日(金)19時55分45秒
  健牟羅城(新羅)は、
高麗(高句麗)が、魏のカンキュウケン(母丘倹)将軍の遠征の時に
沃沮(ヨクソ 咸鏡道・衛満朝鮮=女真=満州)や
フジ(濊 ワイ・江原道)や
カン(韓[辰韓]・慶尚道)に逃げ、魏の漢人が引き上げた後も、なお
カン(韓[辰韓]・慶尚道)に留まって、その地の民となり
百済の王を頂いた事から始まったという。

渤海靺鞨(マッカツ 渤海郡王に従う女真族=満州の先祖、帯方郡王は夫余氏)が
百済を新羅と二分し、新羅の北部30城あまりを領土とし
渤海国=大震国となった時に、新羅を蓋州と改名した(新羅を滅ぼした)

靺鞨(渤海郡王[天津の海岸地方の郡王])は、
百済の帯方(漢江地方)に、漢陽県を置き
南海岸を「夫余」とした後、湯池県を置いて、
南女直湯河司を置き統治した。

契丹(キタイ・遼)が
渤海国を東丹国と改名。
蓋州を辰州と改名。
また
南女直を高州(高麗)と呼び、曷蘇館路(忠清道・全羅道・慶尚道)を置いた。
開州(熊岳県)に達婆府路(開城・京畿道・黄海道・平安道)
沃沮(ヨクソ)だった地に合瀬路(咸鏡道・江原道)を置いた。
後に
女真族の金国は、高州を全州と改名し、静封県を置いて統治した。

蒙古は「省」の前の「路」を行政単位とした時期に
蓋州路を置き、東京支郡、建安県として統治した。

明朝となり
全州から出た李成桂が、高麗国事として権知(準知、準知事)に就任
李朝の王弟が、李氏朝鮮の太宗として朝鮮国事(権署、準署長)に就任

満州が降伏したので、明朝を裏切ったので
ほうびに李朝の仁祖王に、朝鮮国王を授けた。

日清戦争で、朝鮮王の称号は、終了した。
 

古代史  投稿者:  投稿日: 3月 2日(金)19時29分53秒
  204年、赤壁の戦い
206年、楽浪郡の南半分を、帯方郡として分設
246年、東夷の韓が、楽浪太守劉茂ら帯方楽浪2郡の漢人により滅びる。

313年、楽浪太守張統が遼西の鮮卑族による燕国(前燕)へ亡命する。
333年、帯方太守王誕が人事異動し、帯方太守が空席となる。
380年、合肥の戦い?(東晋と前秦(皇帝が氐(テイ)族、宮廷は燕国など鮮卑族が多数派))

436年、燕国(前燕→後燕→北燕)が、城は北魏に王は高麗に滅ぼされる
475年、百済(百家済海)が北魏の侵攻を受ける

512年、健牟羅城(新羅城)が隋王朝に国として認められる(開府許可し、王号で冊封)

663年、白村江の戦い
665年、倭国・耽羅・百済・新羅が唐劉仁顏に泰山に呼ばれ和睦、倭国が日本として遣唐使を再開。
 

『卑弥呼と日本書紀420』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 2日(金)12時10分15秒
  [承前]

◆◆◆『崇神(すじん)天皇』秋田書店(昭和四十九年)◆◆◆

(1)自分は九州をはじめあらゆる場所を見てまわったが、大和(やまと)がもっとも適切である。
(2)九州には箸墓(はしはか)のような巨大な墓はない。
(3)西暦五七年に奴国が漢に行っていることから考えて、卑彌呼のいた三世紀に瀬戸内海を通って大和と九州を往復するのはとても簡単なことであり、大和は辺地ではない。四道(しどう)将軍が吉備(きび)までしか行っていないことが大和説への反論となっているがそれは成り立たない。
(4)神(かみ)と上(かみ)は発音が違うが元は同じだろう。
(5)大物主神(おおものぬしのかみ)に対する大和(おおやまと)神社の倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、総合的地靈である。
(6)自分の説は少数派だが、発言する権利はある。

 以上が肥後和男の説の概要である。

 本人は「自分は少数派ではあるが自説を述べる」――と記しているが、さいきんの考古学的知見をもとに判断すると、きわめて納得しやすい論であり、笠井説を大きく発展させている。
 この十年、賛同者が急速に増えている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀419』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 3月 1日(木)12時15分13秒
  [承前]

〈十二〉海外との関係

ア 朝鮮半島の日本人
 日本書紀(やまとのふみ)からも倭人伝からも、狗邪韓国(くやかんこく)――つまり加羅または任那(みまな)――のあたりに日本人がたくさん住んでいた可能性がある。対馬、壱岐、北九州の日本人が渡っていたであろう。大和(やまと)の勢力は北九州まで及んでいただろうし、また九州を経ないで任那へ行くことも簡単だった。

イ 崇神(すじん)天皇と任那
 名前の類似からいっても、崇神天皇の時代に任那との関係が築かれたという伝承は肯定できる。任那は鉄源の確保からいっても重要だった。
 倭人伝の末廬は北九州の唐津付近でありそれは加羅の津という意味であるので、ここと朝鮮南端の加羅(任那=狗邪韓国)とで往来していたのだろう。

ウ 卑彌呼の位
 魏からみて、卑彌呼は親魏倭王であり、これは博多湾で発見された金印の漢委奴國王より上位である。魏の使者は伊都国でとどまり、大和からの返事を待って帰国したのだろう。都まで来たにしては邪馬台国の記述が簡単すぎる。

エ 崇神天皇は行政家
 崇神天皇は、大物主神(おおものぬしのかみ)の巫女(みこ)である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)=卑彌呼から、天照大神(あまてらすおおみかみ)の巫女である豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)=臺與に主役が交替する前後に生きて、神託を巧みに実行した優れた行政家だったのだろう。

〈十三〉経済の発達

 崇神天皇が晩年に池をつくった伝承は、畿内の新田開発を意味しているし、税制を整備したのは、産業が発達したからだろう。箸墓(はしはか)の規模からみても、技術・産業の発展がわかる。

〈十四〉結び

 邪馬台国は大和であり、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命であり、時代は第一次大和統一期である。

 以上の肥後説は、弘文堂の本によっているが、つぎの本によって少しだけ補っておく。

[つづく]
 


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