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喫茶室 過去ログ95(2007.4.1〜4.30)

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(無題)  投稿者:ウイング  投稿日:2007年 4月30日(月)08時21分55秒
  日本を嫌うくせして有名な日本人が出てくれば、どうして在日認定するのか。

『【WBC】李炳圭「イチローは李(イ)チロ」』(朝鮮日報 Chosun Online)
http://www.chosunonline.com/article/20060224000037

【WBC】李炳圭「イチローは李(イ)チロ」

記事入力 : 2006/02/24 11:43:04

 22日の福岡ドーム。外野でランニングをして戻ってきた李炳圭、イ・ボムホ、李晋暎(イ・ジンヨン)が仲良くダックアウトに座る。「戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という思いになるほどの勝ち方をしたい」と言ったイチローの言葉が話題になった。

李炳圭「野球はあんなに上手いのにマナーは守らないとねえ。あいつら(日本代表チーム)どこに泊まってる?」

イ・ボムホ「(同調するかのように息巻きまがら)俺たちと同じホテル(シーホークホテル)の14階に泊まってますよ」

李炳圭 「(ひざをポンと叩いて)よし、今度会ったらビシッと一言言ってやる」

李晋暎「(ニヤリと笑いながら)でも兄貴、日本語ができないじゃないですか」

李炳圭 「(肩をいからせながら)何てことは無い。ただ、怒った顔で話せばいいことさ。野球をやる人間なら勘がいいから、話すことが全部わかるはずさ。俺たちと同じ宿所だと?でも、どうして一度も会えないんだ?どうして俺のところにあいさつに来ないんだ?」

イ・ボムホ「(あきれたように)イチローのほうが兄貴より年が上ですよ。今年33歳ですよ。むしろ兄貴のほうから行かなくちゃ」

 イチローは1973年生まれ、李炳圭は74年生まれだ。

李炳圭 「(ちょっと考えあぐんだ末に)イチロー、あいつはどこの李(イ)氏だ?イ・チロ(イチローを韓国語風の読みに変えたもの)だろ。族譜(一族の系図)持って来い。俺のほうが(族譜上)上に決まってる。すぐ来るように言え!」

 李炳圭のこじつけにイ・ボムホと李晋暎は言葉を失う。

福岡=キム・テヨン特派員


何だかんだ言って、日本を下にみたいのでしょう。

 

米国における慰安婦問題に際して・・・  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 4月29日(日)21時05分30秒
  アカかったアイツ「酒場談議」掲示板より転載)

<転載のすすめ>米国における慰安婦問題に際して・・・  投稿者:ちゃーりー  投稿日:2007年 4月28日(土)21時20分23秒

久しぶりにテキスト起こしした・・・疲れた。

COMFORT WOMAN ISSUE(Fareed Zakaria)
http://www.youtube.com/watch?v=Z9VFiNPe4do&eurl=

【Zakaria】安倍首相による最近の従軍慰安婦に対する発言が物議をかもし出しています。
安倍首相の発言によれば大戦中慰安所で日本軍が女性たちを強制的に働かせた証拠は無いと言うのです。いわゆる慰安婦に付いての認定と謝罪の問題が日本の隣国である中国・韓国との友好関係において大きな障害になっています。今日は、この問題に詳しい産経新聞の古森義久氏をお招きしました。古森さん安倍首相はどうしてこのような発言をしなければならなかったのでしょうか?


【古森】彼は一貫して主張し続けて来ているのです。日本軍の方針としてアジアで若い女性を強制して集めた事は決して無かったと。確かに軍の規範に反して現場の兵士が勝手に関与したケースはある。中国やインドネシアにおいて強制的に連行された不幸な女性たちも居る。しかしながら日本軍がそれらを政策として主体的にやったという証拠は無いのです。

【Zakaria】しかしながらこれだけ多数の女性たちが慰安婦として存在していた。なんだかの組織的な働きかけがあったと思った方が自然だし、彼女たち自身もそう主張している。彼女等は強制させられた。軍によってそうした組織的制度的働きかけがあったというように見えるのです。

【古森】はい、日本の首脳人も人々も認めています。
慰安所の経営や手法に組織的な関与があったことは認めているのです。しかしながらそれらは個人の自発的なものがベースであって・・・

【Zakaria】・・・軍幹部の自発的な行いだという意味ですか?女性たちの自発的なという意味では無くて・・・

【古森】いや、女性たちによる自発性です。
これを聴いて驚くでしょうが、女性たちを募集するに当たって沢山の新聞広告とか、商業広告があったのです。ご存知のとおり当時は悲しいかな日本だけじゃなく、売春は合法だったのですね。それが女性たちと日本軍の間にも存在した。軍隊向けに慰安所を経営する商売人たちが無数にいたのですよ。軍からそれらの商売人たちへの要請があったかも知れません。そのような意味では軍の関与はあったかも知れませんが、軍の政策方針としては、彼女らを強制はしなかった。そしてそこには複雑な事情があります。

【Zakaria】しかし、確かに強制されたとする女性たちが居るじゃありませんか?

【古森】だから売春業に携わる商売人たちによって強制された。
ある場合は家族が借金を抱えていたとか、または彼女等の両親が娘を売ったとか。いわば人身売買ですね、もっとも悲しむべき話だろうけれど、幾(いく)ばくかのお金で売春婦として売られた娘たちが存在したという意味です。だから女性たちの個人的なベースにおいては強制はあったのだと・・・。

【Zakaria】しかしその金を軍が支払ったわけでそれが性の売買の強制的制度化にあたるのではありませんか? わたしの理解では兵士たちは売春婦にお金を払わず軍隊が制度として支払っていたし、軍が仲介業者と契約するにあたって、軍がこれらの女性たちの奉仕を一括して購入し兵士たちにそれを与えたのではないですか?

【古森】いえいえ、おのおのの兵士たちが支払っていましたよ個人的に。
個人で、です。記録もある。わたしがあきらかに悪い事を肯定しているように思われたくは無いのだが、一方では次のような事実もあります。彼女たちの中には大金を稼(かせ)いでいた人たちも多数居たという記録もある。彼女等は両親に仕送りをしていた。なかには当時の日本の首相以上に稼ぐ女性たちも居たのです。

【Zakaria】軍組織が彼女たちの奉仕に対して報酬を払った事はまったく無かったと?

【古森】いいえ多分慰安所を経営しているものたちには払ったのだろうと、そして、しかし性行為そのものにでは無いと・・・

【Zakaria】だが慰安所の施設・・・性行為が行われた場所は軍のキャンプの内側にありました、軍は彼女等のために建物を建てなければ無かった・・・。

【古森】そのとおりです、軍隊はインフラを提供した。そして日本政府や歴代の首相たちはそれが悪い事だったと認め謝罪して来た。

【Zakaria】では、何故それらの謝罪が受け入れられなかったように見えるのでしょうか? 韓国や中国からは真の謝罪としては受け入れられていないように思いますが?

【古森】日本の周辺には謝罪を快く受け入れられないような事情が有る事を察してください。
過去14〜15年の間、歴代の首相たちは公式にも個人的にも謝罪してきた、しかしそれでも不十分でそして今また中国や韓国は、アメリカ下院の決議案に対して謝罪しなければならないと言っています。ハードルは常に高くなって来ています。

しかし思い起こしてください、これは戦争という結果でありすでに罰せられています。死刑になっている。私たちは賠償金を支払い戦争犯罪人は裁判にかけられ死刑となった。国民全体が戦勝国に対して屈服させられた。第2次大戦の勝者に屈服するしかなかった。死刑、賠償金、サンフランシスコ講和条約・・・。それはあなたがご存知のはずだ。

それで私たちにこれ以上何が出来ると言うのでしょうか? それが私たち日本人のいつわらざる心境です。彼等(かれら)はネチネチとひとのアラ探しをやっているのです。私が日本人たちの慰安婦問題に付いての見解の要約を代弁するならば、これは二重訴追であり、二重基準であり、人種的偏見なんです。

何故われわれは大戦中の出来事に対して永久に責任を負い続けなければならないのか? 2〜3世代前の人たちがやった事に対して今の人々が責任を負わなければならないのか? われわれはこれが悪い事だったと認めているんです。われわれはこれに対して再び謝罪しまだ充分でないと言われる。金を払ったら払ったでそれがまた不十分だと言われる。それが何度も何度も繰り返される。今の日本を見てください、ほんとうに民主的な国、民主主義を重んじ、人権を重んじる。われわれは国際援助やその他のかたちですばらしい人道的な国際貢献をやって来ています。なぜわれわれが攻撃されなければならないのか?道徳的に劣ると貶(おとし)められなければならないのか?

【Zakaria】あなたは人種差別と言うがそれらの攻撃は韓国や中国からのものなんです。アメリカは公式的にはこの問題に付いて静観してきたじゃありませんか。

【古森】あなたね、良く見てください。アメリカの下院で何が起こっているかを。

【Zakaria】いえいえ、ホワイトハウスでは日本を責めたりしていませんよ。それは中国と韓国です。あなたが指摘している激しい非難は中国・韓国からのものです。

【古森】今、その非難はアメリカからのものです。ニューヨークタイムス、ロサンゼルスタイムス、ボストングローブ。彼等は日本を叩き、日本の首脳陣を叩いています。まるで日本人の遺伝子の中に生来ながら邪悪なものでもあるかのように。それらの事件が起きた当時の人間は誰も居ないのですよ。日本とドイツの比較においてナチスドイツはある一定の民族を滅ぼそうと国家の中枢が計画を決定したわけで、それもある特定の民族をですよ。しかもなんだ戦争とは関係の無い・・・。それに対して日本はなんだそのような事はやっていません。戦場で戦闘当事者が行った事はそのあらゆる事が糾弾され罪を着せられた。

【Zakaria】東アジアの事は特に中国人と韓国人によって引き起こされているでしょう。
この問題の利点が何にあるのかにかかわらず、何故今、安倍首相はこの問題についてこのような発言をせざるをえなかったのですか? 彼の支持基盤からの支持率低下を懸念する人も居て、彼は自分の支持率を引き上げる必要があった。右翼的な支持基盤からとか・・・。


【古森】いえいえ、それは明確に違うと言っておかなければなりません。
安倍首相は単に日本人の記者の質問に答えただけなんです。その質問とはアメリカ下院での慰安婦決議案に関してだったわけです。

われわれの疑問というのは何故いまアメリカがこの問題を取り上げなければならないのか?という事です。われわれはこの問題になんだ発言をしてこなかった。われわれはこの問題に否定も肯定もしなかった。ただそれがアメリカ下院の決議案に付いてだったがゆえに安倍首相は発言せざるを得なかった。なぜならこの決議案は極めて不公平であり、なにがしかの国家の謝罪まで求めている。そして安倍首相が言った事は自分は以前に謝罪しているんだと、だからもうこれ以上謝罪する必要は無いんだと。

【Zakaria】しかしながら彼は軍の関与は無かったと発言しましたよね。

【古森】軍の機関としても軍の政策としても、甚大な調査を踏まえた上で無いと発言しているわけで沢山の確固たる裏づけがあるのだから、もし軍の関与があったと言うのならばその証拠を示さなければならないでしょう。軍の中枢において彼等が女性たちを強制したとか命令したとか言う証拠を。若い女性たちを強制して集めたという証拠を。

【Zakaria】日本はどうやってこの状況から抜け出すのですか?
日本が常任理事国のイスを獲得しようとしたとき、日本の支持の少なさには唖然(あぜん)としました。支持を表明したのはアジアの中でたった一ヶ国シンガポールだけでしたね。日本が何百億ドルもの援助をこれらの国に供与して来たにもかかわらずでですよ。中国だけでも三百億ドル三兆六千億円もの援助をしてきた・・・。日本は大戦中に起きた出来事に縛られているかのようなイメージがあります。そうした呪縛からどうやって抜け出すのですか?そして過去についての問題をどう取り扱うのですか?


【古森】過去50年間日本人の態度というのは政府と同様非難に対して何も反論してこなかった。
非難に対してただわれわれの民主的な性質や人道的な政策を見せる事によってのみ消極的に反論して・・・しかし確かに何も役に立たなかった。だから今からあなた方は見るでしょう、日本人や日本の首脳たちがはっきりと発言する事を。例えば軍によって慰安婦に関して軍の決定や政策は一切無かったと。例え彼女等が強制があったと言っても、日本は強制していないと。

【Zakaria】しかしわたしが思うに人々はもっともっと堂々と発言する必要があるのだと思います。対話をやり議論をしディベートを戦わす。攻撃に対して静観するとか善行だけでは何もなさないと思う。

【古森】だから、今、日本人の間にはとてつもない失望感とか悲しみとか憤(いきどお)りとかが鬱積(うっせき)しているのです。あなたは新しい日本を見ているのかも知れない。なぜならすでに日米関係に由々(ゆゆ)しき亀裂が生じ始めているのだから。プライドを持つ人々がそのプライドを傷付けられたと感じるとき・・・。

絶え間ない日本に向けられる非難・・・。そして精力的に同盟関係を推進して来た人々・・・彼等はアメリカ的な民主主義に、より忠実なんですよ。インドが好きですか?オーストラリアですかそれともイギリス?フランス?

日本に対する現在の動きの中でさえ彼等は何かしらの利益を得るのでしょう。中国の動きがあります。マイク・ホンダ議員は中国人たちから莫大な政治献金を得て来た。中国人活動家たちは中国の国家と連動しています。非常に面白い事に、北朝鮮の多大な協賛もあります。だから私にはこれが、去勢弱体化された日本を維持していこうと意図する特定の国による外交的な操作と理解できるのです。日本をまるで何かしら遺伝学的に邪悪であり何かしら劣等な民族であるかのごとく国と民族を描こうとしている。そう私は強く感じています。

【Zakaria】古森さんいつもながらお時間ありがとうございました。

古森タン・・ほんと、GJ!! お疲れでした・・・

(転載終わり)
 

『卑弥呼と日本書紀476』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月29日(日)11時17分49秒
  [承前]

 元東大教授兼白山(はくさん)神社宮司で『少年日本史』で知られる碩学(せきがく)平泉澄(ひらいずみ-きよし)の名とともによく語られる「皇国史観」という言葉がある。
 これは、

「日本とは「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」を継承した万世(ばんせい)一系の天皇を中心とする「神々の国」である」

 ――という考え方で、その内容は、前述のように、正直・慈悲・智慧の象徴である「三種の神器」を守って、蒼生(国民)の安寧を祈り続ける天皇を中心(象徴)として、先祖や自然や芸術(これらのすべてが神々)を大切にする国だ――という史観のことである。

「皇国史観」という言葉そのものは、戦前や戦中にはほとんど使われなかった。
 平泉澄にしても、「皇国史観」という言葉を使った論文を書いたことは一度もない。あたりまえの考え方だからである。
 これは戦後に左翼組織が天皇への不当な指弾のためにプロパガンダ用語として使ったために、有名になると同時に誤解が拡がってしまった。
 しかしその実質は以上のようなことであって、本来的に悪い意味はまったくないのである。

 なお「天皇制」という言葉も、ソ連共産党が指導するコミンテルンが創作し、大正十二年に日本に輸出してきたプロパガンダ用語である。
 目的はもちろん日本崩壊で、日露戦争に破れて日本・朝鮮・滿洲などを植民地にできなかったことへの報復であった。
 だから戦前にはほとんど使用されず、戦後になって左翼勢力がさかんに悪用したのである。

(この節の頭にも記したが、以上の「三種の神器」の話はかなりはしょっているので、できれば拙著『皇統の危機に思う(栄光出版社)』を参照されたい)

**********

 以上、この第九章で述べたのは、主として文献史料による、

「《邪馬台国》大和(やまと)説」
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉説」

 ――の検討だった。
 つぎの章では、地形や考古学的な立場から、これらの説の信憑(しんぴょう)性について検討してみよう。


[次ぎは第十章『〈倭迹迹日百襲姫命〉が眠る日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓(はしはか)》の謎――併せて《大和》に展開する雄大な《纒向(まきむく)京》――』]
 

『卑弥呼と日本書紀475』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月28日(土)12時34分45秒
  [承前]

◆◆◆「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」の精神的な意味 ◆◆◆

 さいごに、国史家・田中卓(たなか-たかし)や哲学者・長谷川三千子(はせがわ-みちこ)の論説をもとにして、「三種の神器」の精神的な意味に触れておく。

 南北朝時代の南朝の支柱となった忠臣・北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著(あらわ)したが、そのなかで、『記紀』の記述をもとにして、

  「神鏡」・・・正直の本源(日の體)
  「神璽(しんじ)」・・・慈悲の本源(月の精)
  「神剣」・・・智慧の本源(星の氣)

 ――としている。
 つまり天皇は「三種の神器」によって、正直と慈悲と智慧の心を承継するのである。

 江戸時代になると、水戸学の泰斗である藤田東湖は、やはり『記紀』の記述をもとに、天皇の役割を、

  「蒼生安寧」

 ――としている。
 蒼生とは四書五経にある言葉で、人民とか百姓とかいった意味である。
 人民も百姓も『記紀』に出てくる言葉で、今でいえば国民であるが、『記紀』ではこれを「オオミタカラ」つまり「大御宝」と称し、宝物であると認識していた。

 つまり、

「天皇とは「三種の神器」を先祖から受け継ぐことによって、宝物である国民の安寧を成就するように正直と慈悲と智慧をもって政治(祭祀(さいし)や行政)を行うことを義務とする存在」

 ――なのである。

 権力者が自分の支配下の人々を「至高の宝」としてその安寧を願うというこの考えは、世界の古代史においてきわめて珍しい。
 日本の大和(やまと)朝廷独自の平和思想である。
 近世以降は祭政がほぼ分離したので、天皇皇后両陛下の主要な役割は行政から離れて「祈り」となった。
 ふだんほとんど報道されないが、今上天皇皇后も連日祈っておられ、また全国の神社や陵墓をめぐって祈りを捧げつづけておられる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀474』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月27日(金)11時24分16秒
  [承前]

〈三〉
 この事件で「神剣」が失われてしまったので、仮の宝刀で一時をしのぎ、しばらくして《伊勢神宮》が新たに剣をつくって朝廷に献上した。
 朝廷ではこれを新たな「神剣」とした。これが現在の皇居に奉安されている「神剣」である。
 したがって皇居内に現存する「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」のうち「神剣」がいちばん製作の年代が新しいのだ。
 なお、熱田(あつた)神宮の「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の大きさは前述したが、皇居にある「神剣」も、これとほぼ同じ大きさらしい。
 今上(きんじょう)天皇即位のおりの「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)」のお写真にある、捧(ささ)げ持たれた「神剣」の袋の大きさから、そのように推量されるのである。

〈四〉
 南北朝時代には北朝が偽神器(にせじんぎ)をつくったと伝えられるなど、いろいろと危機がつづいたが、結局は北朝が受け継いで危機を脱した。

〈五〉
 南北朝が合一してから三代目にあたる北朝系の後花園(ごはなぞの)天皇の西暦一四四三年に、南朝の後裔たちが京都の御所に乱入し、宮殿を焼いて「神剣」「神璽(しんじ)」を奪って延暦寺(えんりゃくじ)に立てこもったことがあった。
 しかしすぐに一党は討伐されて、神器はぶじ皇居に戻った。

〈六〉
 それ以後も危機はしばしばあったが、なんとかもちこたえ、大東亜戦争末期の空爆にも耐え、終戦のおりの危機も忠臣たちの涙ぐましい努力によってくい止めた。
 そして神器も皇統も主要な神社も絶えることなく、平成の御代(みよ)につづいている。
 いまも今上天皇・皇后両陛下は、「三種の神器」への祈りを欠かさない。
 また神々や皇霊への祈りも欠かさない。
 さらには主要な神社や御陵(ごりょう/みささぎ)への御拝もなされておられる。
 政府の信じがたい無情な判断によって靖国神社への御拝が中断しているだけである。

**********

 以上概説した「三種の神器」は、もちろん考古学的な研究対象ではないので、注意していただきたい。
 そうではなくて、『古事記(ふることふみ)』『日本書紀(やまとのふみ)』『万葉集(まんにょうしゅう)』などを共有するわれわれ日本民族の心の歴史なのである。

[つづく]
 

かすが大王の子アプカ  投稿者:モロゲダ・カザフ  投稿日:2007年 4月26日(木)13時20分46秒
  権署−通信−地区事様

裁判所条例 第5条? イ項目 平和を侵した犯罪?
           ロ   交戦放棄の違反・捕虜虐待?
           ハ   差別による無差別殺戮?
                 (ジェノサイド)

ハ項目(C級)は
ナチスのユダヤ人絶滅収容の迫害を取り締まる項目で、日本ではなかったという。
BC級戦犯というが、実はCに当てはまる軍人がいない。

イ項目犯罪者(ハル_ノート(最後通牒・シナから撤兵せよ、の平和を破った))というのが、A級戦犯(永久戦犯と文字らせる)の日本語訳名だと思うが?

イ項犯罪の呼び名ではイケナイのか?

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1176450187&rs=115&re=160&fi=no
高麗王朝などない。

渤海は「東丹王」に支配させた。
契丹は「東京統軍司留守」「南女直湯河司」に支配させた。
女真は「高麗生日使」「知府」に支配させた。
蒙古は「巡撫」「経略使」に支配させた。
明朝は「経略使」「権知高麗国事」に支配させた。
清朝は「権署朝鮮国事」「朝鮮王」に支配させた。


渤海は「杉盧郡漢陽県・来遠県・蓋州」を置いた。
契丹は「盧州来遠城・蒲盧毛朶部・曷蘇館・辰州・熊岳県・建安県・湯池県」を置いた。
女真は「合頼路・婆達府路・曷蘇館路・全州静封県」を置いた。
蒙古は「遼東行省(高麗・婆娑府)」を置いた。
明朝は「高麗国」を置いた。
清朝は「朝鮮国」を置いた。

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激しい仮説・学説を立てた。
モロゲダ理論による、新しい半島の歴史観。
 

『卑弥呼と日本書紀473』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月26日(木)12時28分21秒
  [承前]

◆◆◆ 皇居内の「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」の苦難 ◆◆◆

 一方皇居内の神器は、政争や戦乱にも巻き込まれて、神宮の神器にくらべて、はるかに大きな苦難の連続だった。
 ざっと列記してみよう。

〈一〉
 「神鏡」は、村上天皇の西暦九五七年や一條天皇の西暦一〇〇五年など平安中期から何度となく火災にあって、そのつど修復したが、灰燼(かいじん)とはならず、かろうじて形を保った。

〈二〉
 安徳天皇の西暦一一八五年、長門(ながと)壇ノ浦の源平合戦(げんぺいがっせん)に巻き込まれた形で、わずか七歳の安徳天皇が海に沈んだが、このとき「三種の神器」も動座して船上にあった。
 幼年の安徳天皇を抱いて身を投げたのは、平清盛の妻で天皇の祖母にあたる二位尼(にいのあま)だが、そのとき彼女は「神剣」を腰につけ「神璽(しんじ)」の御箱をかかえていた。
「神璽」は軽くて箱に入っていたので入水(じゅすい)ののち浮き上がり、源氏によって拾われたが、「神剣」は重くしかも腰につけていたため浮かばず、のちに源氏兵士が必死に捜索したが見つからず、行方不明のままとなった。
 一方「神鏡」は御乳母(めのと)の大納言佐殿(だいなごんのすけどの)が櫃(ひつ)ごとかかえて海に入ろうとしたが、源氏の矢で衣が船に縫(ぬ)いつけられて果たさず船上に残った。
 源義経はこれを丁重(ていちょう)に扱って、後に「神璽」とともに宮中に戻した。
 このとき、「神璽」の箱を見た女官がおり、それによると二段の箱に八つの宝玉が見えたという。
 これは今も宮中に奉安されている。

[つづく]
 

『日本国憲法無効宣言』について(ご紹介)  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 4月24日(火)18時55分52秒
  昨年12月、京都にてお会いした弁護士にして憲法学会会員の南出喜久治氏より、過日、新著を上梓(じょうし)する旨の連絡を頂きました。題名は『日本国憲法無効宣言』。渡部昇一氏との共著で、南出・渡部両氏の対談と言う形式を取り、兎角(とかく)、難しく敷居(しきい)が高いと思われている現行憲法無効論について、話し言葉を用いて誰にでも読み易く分かり易い内容に纏(まと)められています。

戦後60年。「制定」から一度も書き換えられる事無く、不磨の大典として神聖にして何人(なんぴと)にも侵(おか)される事無かった『日本国憲法』について、安倍晋三首相が改正に対する強い意志を示し、先般、それに付随する国民投票法案が衆議院を通過した事は、記憶に新しい所です。安倍首相が唱える「戦後レジームからの脱却」とは、言い換えれば「サンフランシスコ体制」からの日本の解放であり、『日本国憲法』の名で戦後日本を律してきた占領憲法の呪縛からの解放でもあります。

今般、その第一歩となる国民投票法制定に向けて政治が動き出す中、南出・渡部両氏共著の『日本国憲法無効宣言』が4月20日を以て出版されました事は、誠に喜ばしい限りです。これを機に、一人でも多くの方が憲法問題に身近に触れ、この国のこれからの「ありよう」を真剣に考えられる事を、南出氏の憲法論を支持する者の一人として望みます。
 

『卑弥呼と日本書紀472』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月23日(月)11時25分12秒
  [承前]

◆◆◆「八咫鏡(やたのかがみ)」と「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の実体 ◆◆◆

 つぎに「八咫鏡」と「草薙剣」の実体であるが、これは眼で見てはいけないことになっているので、公式的には分からない。
 しかし、いろいろなことから、おおまかな推定はついている。
 伊勢内宮の「八咫鏡」は、厳重な器に入れられて、内宮(ないくう)本殿の中に、人間が夜寝るのに近い形で奉安されている。
 この器(うつわ)を御樋代(みひしろ)といい、さらにそれは御船代(みふなしろ)という器に奉安されている。

 式年遷宮の際にその器を交換する儀式があるのだが、江戸時代のある神職が、その儀式のとき、眼をつぶったままで入念に触り、それを記録に書き残した。
 それによると、直径が二十センチほどの凸(とつ)面鏡で、中心に紐(ひも)を通す輪がついており、裏には同心状の唐草(からくさ)模様のような模様があったらしい。
 この大きさは、《籠(この)神社》に伝世されている息津鏡(おきつかがみ)の大きさに似ている。

「草薙剣」についても、江戸時代にひそかに見てしまった人の記録があり、それによると鉾(ほこ)のような形(諸刃(もろは)の直刀)だとされている。
 大きさや昔の容器は、先に述べた鎌倉時代の女性の貴重な日記で判断できるが、さらに終戦時に岐阜県に疎開したときに神職が袋の上から捧げ持った感触では、長さ六十センチほどの諸刃の銅剣らしいという。

 もちろん「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」の科学的な意味での本当のことはわからないが、弥生〜古墳時代の遺跡から多数出土する鏡、剣、勾玉(まがたま)を代表する宝であることはまちがいない。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀471』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月22日(日)11時19分41秒
  [承前]

〔五〕
 大東亜戦争の末期になった昭和二十年の三月と五月、東京大空襲と同じ時期に、焼夷弾で神宮に大被害が出、本殿の主部だけかろうじて残った。
 このころから神社をねらい打ちに爆撃するという蛮行がなされだしたので、本殿を解体して隠した。
 それから岐阜県の神社の境内(けいだい)に地下の熱田(あつた)神宮をつくるという計画ができたが、これは実行しないうちに終戦となった。
 米軍の進駐にさいしては、万一を考えて、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を飛騨(ひだ)の水無(みなし)神社に隠し、のちに仮殿をたてて奉斎(ほうさい)した。

〔六〕
 昭和三十年になって、信者の寄付と《伊勢神宮》の古殿の用材によって、本殿の再建がなり、正式に遷宮して、現在にいたった。

 戦後の混乱期には、米軍の神社への無理解によって、ほとんどの神社の鎮守の森が失われ、パリなど欧米の大都市に劣らなかった東京など大都市の緑地比率が、大幅に縮小してしまった。
 もともと神道は諸宗教を超越した日本独自の習俗なので、神社の境内は、信教とは無関係に誰でも入れる場所であり、公園と同じ役目を果たしていたのだが、それが米軍によって潰(つぶ)されたのだ。

 一方《伊勢神宮》のほうは、さいわい熱田神宮ほどの混乱はなかったようだが、それでも皇室の力が弱まった時期には、遷宮もままならず、正殿も古びてしまって危機に瀕した時期もあったらしい。むろん火災もあった。
 またもちろん、終戦前後には、一宗教法人になってしまったために、やはり遷宮もままならない時代があり、熱心な人たちの協力で、やっと今日の姿に復旧した。
(なお例外的な事件として、雄略天皇の御代(みよ)に、皇女(ひめみこ)で斎王(さいおう)の稚足姫(わかたらしひめ)が男関係を讒言(ざんげん)されて悲嘆し、「八咫鏡(やたのかがみ)」を地面に埋めて自害した。これは『日本書紀(やまとのふみ)』にも記されている重大事件だったが、幸いにもまもなく発見されている)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀470』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月21日(土)11時02分11秒
  [承前]

◆◆◆ 神宮における「八咫鏡(やたのかがみ)」と「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の危機 ◆◆◆

 祭政一致の古代においては、神器(じんぎ/かんだから)は政争の的(まと)でもあって、その継続には困難があったが、神社に奉斎(ほうさい)されてからのそれは、昔の木造建築なので火事は当然あったけれども、人為的な問題では、皇居内の神器ほどの苦難には遭っていない。
 しかしそれでも、危機は何度かあった。
 とくに熱田(あつた)神宮の「草薙剣」は、つぎのようなきわどい被害にあっている。

〔一〕
 天智(てんぢ)天皇七年(西暦六六八年)、日本に来ていた新羅(しらぎ)の沙門道行が、「草薙剣」を神宮から盗んで帰ろうとした。しかし海が荒れて帰れず、大阪湾で降参した。このとき道行が盗んで通った清雪門という神社内の門は、不吉だというのでずっと開かずの門とされている。

〔二〕
 この事件は朝廷でも問題となり、事故再発を防ぐために皇居に置くことになった。しかし天武(てんむ)天皇のご病気の原因がこのことだとの説が出て、さらに神宮側の懇望もあって、天武十三年(西暦六八六年)に返却がきまり、その年の十二月に熱田神宮に戻った。

〔三〕
 神宮の火事は何度もあったらしいが、鎌倉時代の西暦一二九〇年に社殿が焼けたとき、火のなかから「草薙剣」を助け出す様子を、ここで奉仕していた貴人の娘が日記に書き残している。
 それによると、幅一尺長さ四尺の漆(うるし)の箱のなかに、赤地の錦(にしき)の袋があり、「神剣」そのものは見えなかったが、その袋の中にあったという。
 見ることは絶対に許されない神器なので、これはじつに貴重な記録である。

〔四〕
 江戸も幕末になった西暦一八三九年に、賊が神社に入って「草薙剣」を奪って逃げた。賊は即日捕らえられ、剣は無事だったが、これに懲(こ)りて神殿を改造した。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀469』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月20日(金)12時17分26秒
  [承前]

◆◆◆ 剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ) ◆◆◆

 皇居内の「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」は、天皇の代がかわれば、とうぜん新しい天皇がそれをひきつぐ。皇位の継承にともなって神器も相承されるのだ。
 ただ、その方法は時代によって変化してきた。
 豪族が割拠していた大化改新の前までは、践祚(せんそ)時に有力氏族の代表が「神鏡」と「神剣」をいったん預かって、あらためて新天皇に献上する儀式があった。
 これは、新天皇を豪族たちが認めたことを証明する重要な儀式だった。
 ただし「神璽(しんじ)」は内侍が皇居内に奉斎(ほうさい)したままだったらしい。
「神鏡」→「神剣」→「神璽」の順に格付けされていたことがわかる。

 大化改新以後は、祭祀(さいし)職の忌部(齋部 いんべ)氏が鏡剣献上を役職としておこなうようになった。忌部氏はのちに、同じ祭祀職の中臣(なかとみ)氏に圧せられたことを無念に思って、有名な『古語拾遺(こごしゅうい)』を編纂したといわれる一族である。

 この鏡剣献上の行事は平安時代になって、践祚時ではなく大嘗祭(だいじょうさい/おおにえのまつり) ── 新天皇の最初の新嘗祭(にいなめさい/にいなめのまつり) ―― における行事にかわったが、平安初期に踐祚と即位が分離してからは「剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)」が成立する。
 これは践祚にさいして、「神鏡」は別扱いにして「神剣」と「神璽」を新天皇が承継する儀式で、ここではすでに豪族による献上の儀式は影がなくなっている。
 そして、もっとも重要な「神鏡」は、温明殿(うんめいでん)などの別殿に奉安したままで動かさないことになった。

 この「神剣」「神璽」継承の儀式は、いまでは「剣璽等承継の儀」とされ、今上(きんじょう)天皇が即位されたときも、憲法に定める国事行為としておこなわれた。
 このとき今上天皇が承継されたのは、「神剣」「神璽」のほかに天皇の印章である「御璽(ぎょじ)」と日本国の印章である「国璽(こくじ)」であった。
 そして同時に今上天皇は、「神鏡」が奉安されている賢所(かしこどころ)へ、このことを奉告する儀式をなされた。
〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の御霊(みたま)である「神鏡」は、まったくの別格扱いなのである。

 以上が、古代から連綿として実質二千年もつづく「三種の神器」の継承である。
 もちろんこの長さは、世界に類例がない。
 あるイギリスの貴族が、かつてこの連綿たる長さを知って感激して、百二十四代すべての天皇名を暗記して朗詠(ろうえい)したというエピソードがある。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀468』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月19日(木)11時49分48秒
  [承前]

 さて、崇神(すじん)天皇の御代(みよ)に「神鏡」と「神剣」が神社に遷されたわけだが、このとき、似た鏡と剣をつくって御霊代(みたましろ)とし、それを皇宮に置くことになった。
 したがってそれ以後、皇宮には、新たにつくられた「神鏡」と「神剣」と、そして元来の「神璽(しんじ)」とが、奉安されることになった。
 これもやはり「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」と呼ばれており、天皇の代がかわるときに引き継がれるのは、こちらのほうの神器である。
 以後、説明の便宜上、皇宮に残された「三種の神器」を「神鏡」「神剣」「神璽」と記し、伊勢神宮と熱田(あつた)神宮に奉斎されたほうを「八咫鏡(やたのかがみ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ぶことにする。


◆◆◆「三種の神器」の皇居における奉安の場所 ◆◆◆

「神鏡」は新造とはいってもやはり別格であるため、平安時代からは温明殿(うんめいでん)などの別殿を造営して奉安し、みだりには動かさないことになった。これは内侍(女官 にょかん)がつかさどるので内侍所と呼ばれた。明治以後は賢所(かしこどころ)と呼ばれるようになった。
 この「神鏡」を祀(まつ)る賢所と、神々を祀る神殿と、歴代天皇の霊を祀る皇霊殿が、いわゆる宮中(きゅうちゅう)三殿であり、天皇皇后はこの三殿への拝礼を毎日欠かさない。

 一方「神剣」と「神璽」は、はじめは「神鏡」のそばにあったが、近世以降は天皇皇后が日常お暮らしになる場所のそばに「剣璽の間(けんじのま)」をもうけて、そこに奉安しお守りなさることになり、それは今に続いている。
 そして、つねに天皇とともにある――という大原則によって、行幸のさいには、「剣璽」も同行(ご動座)されるのがきまりになっている。
 ただし賢所の「神鏡」は別格なので不動である。

[つづく]
 

ホロコースト生き残りに絡んで  投稿者:同時多発テロか?  投稿日:2007年 4月18日(水)18時52分28秒
  報道を総合すると、リブレスク教授はルーマニア生まれ。
 ナチス−ドイツの占領下で、ユダヤ人迫害を逃れた。
 ブカレストで流体力学の博士号を取った後、78年にイスラエルに移住。
 航空工学の権威で、85年に研究休暇を過ごしたバージニアが気に入り、工科大の教授に就任した。
 16日はくしくも、ワルシャワ・ゲットー蜂起を記念して、イスラエルが定めた「ホロコースト追憶の日」だった。
埼玉の韓国−国籍の予備校−講師が、ひき逃げする事件が発生
船橋−馬込で、日本で輸入[×市販されていない、]韓国製の迷彩帽子と作業着が散乱する
 死亡した日本人作業員のワゴン車が発見される
東京−赤坂の国会議員宿舎で 不審者の異常行動が確認される

千葉−栄町・荒川・赤坂・麻布十番・東京−大田区[蒲田周辺]・神奈川−川崎・大阪−鶴橋・大阪−桃谷などは、総連や民団の所属が多い朝鮮人町(国籍は韓国にはなっているが、民団でも総連でもない無所属の韓国人というのも居る)

伊藤一長・長崎市長が17日夕刻に銃撃を受け、18日未明に亡くなった事件で、報じられた犯人の指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の本名は「白正哲(ペク=ジョンチョル)」であることが判明。読者より情報をいただき、通信社筋に確認したところ、確認が得られたので小稿に報告する。
 一方、米国・バージニア工科大で、米犯罪史上最も多い32名(米時間17日現在)の犠牲者を出した銃撃事件が報じられたが、凶行に及び、現場で自殺した犯人は、韓国人で同大学の寮に住むチョ・スンフィ容疑者(23)であった。
 

韓国−朝鮮のテロ  投稿者:暴力団など  投稿日:2007年 4月18日(水)15時10分39秒
  長崎市長現職が、暴力団の銃撃により死亡

バージニア工科大学で、韓国人学生による機関銃乱射で学生数十人が死亡

イラクのモスル大学で学部長と教授が銃撃で死亡

韓国が北朝鮮から板門店を通って帰国する核開発視察のアメリカ使節団を記者会見。
北朝鮮のアメリカ軍艦を見学した時に不快感。
 

『卑弥呼と日本書紀467』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月18日(水)11時07分4秒
  [承前]

◆◆◆「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」の神社への奉斎 ◆◆◆

「三種の神器」は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から神武(じんむ)天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀(まつ)られてきた。
 しかし第八章に記したように、第十代崇神(すじん)天皇の御代(みよ)に、大和(やまと)朝廷に大きな変化がおこり、「神鏡」と「神剣」を〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉が斎王(さいおう)としてあずかって、皇宮外の神社に奉斎することになった。
 この神社は〈豐鍬入姫命〉から〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉にかけて何カ所も遷ったが、第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代に《伊勢神宮》の内宮(ないくう) ―― 皇大神宮(こうたいじんぐう) ―― におちついた。

 このうち「神剣」は、つぎの第十二代景行(けいこう)天皇の御代になって皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国遠征の途についたとき、〈倭姫命〉から授けられ、火攻めにあったときに草を薙(な)いで一行を助けたため、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と命名された。
 日本武尊は《大和(やまと)》に帰ることができずに悲運の死をとげるが、そのとき剣がおかれていた近くに熱田(あつた)神宮ができ、剣はそこに祀られた。
 熱田神宮の場所は、昔尾張国(おわりのくに)だった名古屋市内であるが、そういう関係でこの「神剣」の管理は尾張一族がおこなうことになった。
 尾張氏は〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の子孫だが、天皇の先祖と争った一族の子孫が責任者になったのはおもしろい。

《伊勢神宮》は二十年ごとにすべてを作り直す式年遷宮――前回は平成五年でつぎが平成二十五年――がなされるが、そのときは、本殿だけではなく鳥居や橋や古代から伝わる神宝類や装束(しょうぞく)類も、同じ形のものをつくりなおす。その数は数万点にもおよぶと言われる。
 このときにトキの羽が必要なのでトキの絶滅が大問題になっているのだ。
 ただし「八咫鏡(やたのかがみ)」だけは ―― 当然のことではあるが ―― 絶対に直視することなく、新しく造られた御樋代(みひしろ)に奉安され、それがさらに御船代(みふなしろ)と呼ばれる容器に奉安されて、厳粛な儀式によって新殿に遷される。

 熱田神宮の話をくわしくするゆとりはないが、境内(けいだい)二十万平米、摂末社四十四、年間一千万の参拝者で賑(にぎ)わう巨大な神社で、「神剣」のほかにも数々の神宝をもち、国宝二十七、重要文化財七十六、県指定文化財五十三を数えるという、文化財の宝庫でもある。
 図9.8に、熱田神宮の写真を示した。

図9.8
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H98-102.htm

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀466』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月17日(火)12時09分30秒
  [承前]

◆◆◆「三種の神器」の由緒 ◆◆◆

 第六章に記したが、高天原(たかまのはら)において、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に悩んだ〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉が天(あめ)の岩屋にお隠れになったとき、困った神々が岩屋の前に天香具山(あまのかぐやま)の聖木・榊(さかき)を立てて、上部に「神璽(しんじ)」をかけ、中ほどに「神鏡」をかけたのが、この二つが歴史に出てくる最初である。

「神鏡」である「八咫鏡(やたのかがみ)」の咫は手指をひろげた長さとされるが、ここでの意味は大きな立派な神鏡ということであり、伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)がつくったとされる。鏡をつくる職人集団・鏡作部(かがみつくりべ)の祖神(おやがみ)である。

「神璽」と呼ばれる「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は、翡翠(ひすい)などの石を磨いてつくった勾玉(,のような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(たまのおやのみこと)と呼ばれる職人集団の祖神である。
 家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊(まさかき)は、この天の岩屋の前に神々が立てた、鏡と勾玉をかけた神木を模したものである。

「神剣」は、やはり第六章で述べたとおり、高天原から追放された素戔嗚尊が出雲(いずも)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾のなかから出てきた霊剣で、それを和解した〈天照大神〉に献上したものである。
 これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和(やまと)朝廷に献上したのだという解釈もある。
 神棚の向かって左の眞榊にこの「神剣」を模した剣がかけられている。

〈天照大神〉は、天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から日向(ひゅうが/ひむか)の地に降臨するにさいしてこの「三種の神器(みくさのかんだから)」を授(さず)け、とくに「神鏡」については、

「これを自分(御霊代/みたましろ)だと思って祀(まつ)るように」

 ――と教えた。
 このため「三種の神器」のなかでも「八咫鏡」は別格の存在として扱われてきている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀465』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月16日(月)12時06分46秒
  ■■■■■ 九・十 「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」の謎について ■■■■■


 これまで数回にわたって「三種の神器」の話がでてきた。
 これは名前はとても有名だが、その歴史や意味については、あまり知られていない。戦後の歴史教育が軽視したからである。
 そこで、いくつかの資料をもとに、
「「三種の神器」とは何か」
「その歴史はどうなのか」
「それは現在どうなっているのか」
 ――について、簡単にまとめてみたい。

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(以下の解説は簡略化してあるので、より厳密で詳しいことは、拙著『皇統の危機に思う(栄光出版社)1600円』を参照されたい)
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「三種の神器」とは、つぎの三種の神宝である。

「三種の神器」(または、「みくさのかんだから」)
 「神鏡」=「八咫鏡(やたのかがみ)
 「神剣」=「草薙剣(くさなぎのつるぎ)
 (はじめは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」といわれた)
 「神璽(しんじ)」=「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)
 (「八坂瓊の五百箇御統(いおつみすまる)」ともいわれる)

 鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、とくに天皇家に永く継承されている「三種の神器」は、太陽神で日本全体の祖神というべき〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の時代に端を発し、それが現在まで――精神としても物としても――伝えられているものであって、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀464』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月15日(日)12時18分7秒
  [承前]

〈六〉〈卑彌呼〉なる名の由来

〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめみこと)〉がたんに〈日女命(ひめみこと)〉と呼ばれていたとすれば、それは末尾の尊称だけで話が通じるほど偉大で人々の記憶にのこる別格の存在だったからである。
 そして、〈日女命〉は〈卑彌呼〉(ひみこ、または、ひめこ)とほとんど同じ発音であり、『魏志倭人伝』の記述は、当時の《大和(やまと)》の人たちの言葉をほとんどそのまま音写していたことになる。

〈七〉『勘注(かんちゅう)系図』の信憑性

 神社にのこされた古文書には偽書も多いといわれる。
 しかし前述のように『勘注系図』は、科学的鑑定法が高度化した戦後の専門家によって厳格な審査をうけ、その結果が認められて国宝に認定された文書である。
 したがってその信憑性はきわめて高い。
 また、〈卑彌呼〉とは誰なのか、《邪馬台国》とはどこなのか――といった議論は明治中期以降に盛んになったものだから、この『勘注系図』の編者や書写の主はそのような議論が後世になされるだろうなどとはまったく考えておらず、したがって特定の意図をもって〈日女命〉や〈日神(ひのかみ)〉を創作したとは、とうてい考えられない。
 だからこれは、『記紀』より古くから饒速日(にぎはやひ)系の氏族に伝えられ、信じられてきた史話そのものなのであろう。

**********

 おおまかにいって、『勘注系図』について以上のようなことが考えられるが、これらはあくまでも一つの「推理」であり、そういう可能性もあるだろう――ということである。

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 については、このあとさらに第十章でその傍証を記すことにしたい。

[次ぎは『九・十 「三種の神器」の謎について』]
 

『卑弥呼と日本書紀463』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月14日(土)10時58分12秒
  [承前]

〈三〉『記紀』編者の立場

『記紀』の編者は崇神(すじん)天皇の業績と〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉による〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉奉斎(ほうさい)を物語の中心にすえる必要上、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉についての〈日神(ひのかみ)〉などの尊称を記さず、日神祭祀(さいし)を連想させない別名のみを記し、予言や神託は記しても、日神祭祀に関することは記さなかった。
(これは有名な原田大六の考え方に近い)

〈四〉『勘注(かんちゅう)系図』の編者の立場

〈倭迹迹日百襲姫命〉を崇敬する〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉系の海部(あまべ)氏は、この『記紀』の内容に不満をもって『勘注系図』を編纂し、〈日神〉〈日女命(ひめのみこと)〉〈神大市姫命(かみおおいちひめのみこと)〉といった別格の尊称を明記した。
 しかし大和(やまと)朝廷に提出する『海部氏系図』ではその時代の前後を隠して記さず、かつ、明記した『勘注系図』は秘匿するよう子孫に厳命した。
 似た立場の物部(もののべ)氏も『記紀』に不満をもって『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』を編纂してそれを記したが、公開の書だったために、〈倭迹迹日百襲姫命〉の箇所に単に〈日女命〉とのみ記し、あいまいな形にした。

〈五〉〈天照大神〉との関係

 人々が〈倭迹迹日百襲姫命〉を〈日神〉と尊称したのだとしたら、それは〈天照大神〉とおなじくらい偉大だと考えていたからだと推理できる。
 これとは逆に、〈天照大神〉を〈日神〉としたのは、〈倭迹迹日百襲姫命〉への崇敬を大和朝廷の先祖神に移行させる意図によるものかもしれない。
 この考え方からすると、西暦二四七年や二四八年に日本列島上で生起した日蝕による騒乱が、〈倭迹迹日百襲姫命〉=〈卑彌呼〉の死をもたらし、そのことが神代(かみよ/じんだい)における〈天照大神〉の岩屋隠れの伝説を生んだとも推理できないことはない。

[つづく]
 

アメリカ人のレイプ等を閣議決定  投稿者:犯罪を法律にし正当化する  投稿日:2007年 4月14日(土)07時54分28秒
  http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1175161815/-100
1945年8月21日の閣議で、近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、 1945年8月28日、「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1174135717/-100
マッカーサーの進駐軍は日本政府に命じて、「特殊慰安施設協会(RAA)」を開設させ、ひもじさから身体を売った日本女性に米兵の性処理をさせており、昭和二十七年には米兵相手の娼婦は八万人を越えていたと記録されています。
 

『卑弥呼と日本書紀462』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月13日(金)11時50分51秒
  [承前]

 つまり、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の別名は、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の別名とそっくりなのである。
〈天照大神〉が日神祭祀(さいし)の対象であり、日神すなわち太陽神そのものだったことは明かだが、それと同じ名をつけられた〈倭迹迹日百襲姫命〉も、『勘注(かんちゅう)系図』の編者にとっては、太陽の妻(日女命 ひめのみこと)であるとともに、日神であり、したがって太陽神でもあり、たぶん日神祭祀を司った貴人として記憶されていたのであろう。
 これは重要な対照関係である。

〈二〉史実の推理

〈倭迹迹日百襲姫命〉は《三輪山》の〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉の神託をのべただけではなく、日神祭祀もつかさどって大和(やまと)朝廷を指導し、〈日神(ひのかみ)〉〈日女命〉〈神大市姫命(かみおおいちひめのみこと)〉などと尊称されていたが、崇神(すじん)天皇の力が強まってからは、大和朝廷の祖神で太陽神の〈天照大神〉を、〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉に奉斎(ほうさい)させ、日神祭祀の中心を《三輪山》の〈大物主神〉から神殿の〈天照大神〉に移した。
『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の死後の混乱や〈臺與(とよ)〉の後継による終息は、そのときの、

「《三輪山》〈大物主神〉派」
   対
「朝廷祖神〈天照大神〉派」

 ――の軋轢と解決を物語っている。
 そしてこの軋轢(あつれき)は、大和朝廷と〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉系との勢力争いでもあった。
〈臺與〉という後継者名は、〈豐鍬入姫命〉の略である。
 シナ史書では、日本名が極端に縮めて記載されることは、倭の五王の所でも記したとおりである。

 もうひとつ面白い対応がある。
 それは、『魏志倭人伝』の卑彌呼には夫がいないが、『記紀』や『勘注系図』の〈倭迹迹日百襲姫命〉にも夫がいない事である。

[つづく]
 

御無沙汰しております。  投稿者:南海太郎  投稿日:2007年 4月12日(木)21時03分56秒
  御無沙汰(ごぶさた)しております。

山梨でも、「たかじんのそこまで言って委員会」の放送が始まりましたね。


で、今日の日本の国会での支那首相の反日演説に憤(いきどお)りました。
何故(なにゆえ)、あのような者に日本の国会で発言させるのか・・・・

安部首相では、もう駄目なのか・・・・
とも思える所業でした。


後は、夏の参議院選挙での維新政党・新風の議席獲得を祈るのみです。


では、失礼します。

『憂国・正論・国防ブログ』
http://ameblo.jp/youkoku-seiron-kokubou/

 

『卑弥呼と日本書紀461』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 4月12日(木)13時15分57秒
  [承前]

〈日女命(ひめのみこと)〉の別名については、『勘注(かんちゅう)系図』のようなくわしい説明がないが、それは朝廷にも見せる史料だったからであろう。
 とにかく、「ヒメミコト」のみで通じる偉大な女性が崇神(すじん)天皇の時代前後に活躍していたという記憶が、『勘注系図』の編者だけではなく、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の編纂者にもあったことは間違いない。
 そしてその〈日女命〉が〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉である可能性はきわめて高く、さらに当時のシナの使者によって〈卑彌呼〉と記録された可能性もまたきわめて高い。
『勘注系図』も『先代旧事本紀』も〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉を祖と考える人たちが編纂したことから、〈倭迹迹日百襲姫命〉への崇拝は〈饒速日命〉と関係しており、その系列の氏族に伝承されていたと推理できる。

 さて本題にはいって、『勘注系図』と『記紀』を比較したときすぐに脳裏にうかぶいくつかのことを、記してみよう。


◆◆◆『勘注系図』と『記紀』の比較から推理できること ◆◆◆

〈一〉〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の尊称との類似

『勘注系図』にある〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名を見たとき、最初に頭に浮かぶのは、もちろん、〈天照大神〉である。
〈天照大神〉は『古事記(ふることふみ)』では〈天照大御神〉または〈天照大神〉として出てくるが、『日本書紀(やまとのふみ)』の神代紀では、

「(伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が)是に共に日神を生む。大日靈女貴(おおひるめのむち)と号す。一書に天照大神という」

 ――とある。
 つまり伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだのが日神で、その正式名が大日靈女貴、別名が〈天照大神〉だというわけである。
 一般名を除いて、〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名と対照してならべると、

〈大日靈女貴〉→〈日女命〉
〈日神〉   →〈日神〉
〈日女命〉  →〈日女命〉

 ――となる。

[つづく]
 

朝鮮族の職名・行政区名・歴史地名ごまかしは問題  投稿者:○投稿(中国24正史)  投稿日:2007年 4月12日(木)09時59分32秒
  粟末靺鞨族(渤海郡王を長に頂く)
 663年ごろの別名が、渤海靺鞨族(渤海人)
 熊津都尉の夫余隆(白村江[はくすきのえ]の戦い=白江口の戦い=現在の錦江の河口で海戦)
 帯方郡王の夫余敬(夫余隆の孫)
  渤海靺鞨が得た地域: 旧百済の帯方(京畿道〜忠清道で漢江流域・夫余敬は帯方郡王)・
                 馬韓(慶尚道で洛東江の西側)
  新羅が得た地域__: 旧百済の不而(江原道・ワイ・フジ・太白山脈)・
                 多島海(南岸。ここより、唐の江南の節度使を介し長安へ)

大震国(渤海国)−杉盧郡−漢陽県(百済−漢山−慰礼城)・蓋州(新羅−建牟羅城=金城)

遼−蓋州路−東京支郡−建安県・湯池県・熊岳県・開州・盧州・高州・辰州(蓋州)・塩州・穆州
  蒲盧毛朶部
  曷蘇館大王曷里喜(かりき)・阿不曷(あぷか=あすか?)
  南女直湯河司・東京統軍司留守
  辰州遼海軍節度使【遼史 表 部族】【金史 表 交聘】【元史 志 地理 [出版社]註】

金−婆達府路(カザフ路・盧州?=杉盧郡?=蒲盧毛朶部・婆娑府)・
  曷蘇館路(かすが路・辰州・慶尚道・江原道=太白山脈=ワイ=フジ=不而)・
  合獺路(こうらい路・蓋馬・玄菟州都督=高麗国−権知国事−王建・咸鏡道)・
  全州−静封県(高麗・高州−静封県、この全羅道に住む 金国の女真族の船を
         平安〜鎌倉時代の日本では国籍不明の 異国船と呼ぶ)
  高麗生日使【金史 志 地理】【遼史 志 地理】【遼史 記 聖宗】

元−遼東行省(婆娑府・曷蘇館・高麗[全州−李成桂・鴻山−崔瑩])
  経略使・権知高麗国事(高麗−権知国事 ← 高麗国−権知国事−王建=玄菟州都督)
  宣化堂−監司(平壌)・朝鮮総理−通商事【元史 伝 軍制 屯田】【金史 表 交聘】

明−かうらい(「高麗」と秀吉の頃や関が原の戦い頃の
        朝鮮出兵の日本人足軽は、半島をソウ呼んでいた。1592−1607年ごろ)

清−島原の乱の頃(1636−38年ごろ)の当時に「かうらい(高麗)」と呼ばれていた
 朝鮮(箕子40余世−ワイ侯の準)が
 満州(燕亡人−衛満−朝鮮王)に攻め込まれて負けたのを、日本の庶民に伝わってない。
 

『卑弥呼と日本書紀460』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月11日(水)10時12分39秒
  ■■■■■ 九・九 『勘注(かんちゅう)系図』と〈卑彌呼〉についての二、三の推理 ■■■■■


 本節では、ここまでの数節で述べた《籠(この)神社》や『勘注系図』をもとにして何が考えられるかを、とりあえずまとめてみたいが、その前に『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』において〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の時代に何が記されているかについて触れておく。
 そこにもまた、じつに興味ぶかい系図があるのだ。


◆◆◆『先代旧事本紀』に記された〈倭迹迹日百襲姫命〉◆◆◆

『先代旧事本紀』は『記紀』よりすこしあとの時代に海部(あまべ)氏とおなじく〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉を祖とする物部(もののべ)系の人たちが、大和(やまと)朝廷の正史『記紀』に不満をもって編纂したと伝えられている。
 この史書には『勘注系図』によく似た場面が多いのだが、最初から公開を目的として書かれているため、崇神(すじん)天皇の時代の話は『勘注系図』ほど露骨ではない。
 しかしじつは、同じ〈日女命(ひめのみこと)〉がちゃんと記されているのだ。図9.7にその部分を掲載した。

図9.7
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H95+97.htm

 これは、『先代旧事本紀』の古い研究書『國造本紀考』の尾張氏系図の部分で、〈饒速日命〉から数えて十三世くらいまでは『勘注系図』とよく対応しており、海部氏は物部とは遠い親戚、尾張(おわり)とは近い親戚であることがわかる。〈日女命〉の部分もそうで、

 弟彦命     → 乙彦命
 日女命     → 日女命
 玉勝山代根古命 → 玉勝山背根子命
 若都保命    → 若津保命
 置部與曽命   → 置津世襲命?
 彦與曽命    → 意富那比命?
 否井命     → ?

 ――のように対応している。

[つづく]
 

中国が支配した行政区名−高麗王朝など無い  投稿者:中国24正史  投稿日: 4月11日(水)05時10分20秒
  渤海国−杉盧郡・玄菟州・蓋州
遼−蓋州路・辰州
金−婆達府路・曷蘇館路
元−遼東行省
明−高麗
清−朝鮮国

『(哲学倫理宗教)独り言ver4』
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1174202805&rs=280&re=286&fi=no
 

『卑弥呼と日本書紀459』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月10日(火)00時32分28秒
  [承前]

 だから、〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉と〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉の両者が『魏志倭人伝』の〈臺與〉の候補になりうることになる。
 ただし年代的には〈豐鍬入姫命〉のほうが矛盾がすくないように思える。
 もちろん『勘注(かんちゅう)系図』の記法にはあいまいなところがあるので、これ以上議論をすすめるのは危険である。

**********

 前節の〔九〕に記したように海部(あまべ)+尾張(おわり)氏の系統は〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉系といっても物部(もののべ)氏とは別であるし、大和(やまと)朝廷を別の角度から見たものでもない。
 したがって系図をまともに解釈すれば、『勘注系図』の〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉や〈豐鍬入姫命〉や〈倭姫命〉は『日本書紀(やまとのふみ)』のそれとは別の人物である。

 しかし崇神(すじん)天皇の前後に偉大な女性が存在したという記憶が天皇家と海部氏の双方にあり、それが同一人物なのに天皇家では神託を述べる直系の皇女とし、海部一族では日神と尊称すべき自分たちの先祖であると信じていたことは十分にありうる。

 海部+尾張氏系も大和朝廷と婚姻関係を結んでいるので、〈倭迹迹日百襲姫命〉が双方の血縁であっても、すこしも不思議ではない。
 しかし、『日本書紀』と『勘注系図』とでは違いも多いので、もし正否を争ったら海部氏は朝廷に滅ぼされるかもしれない。
 だから海部氏の先祖は『勘注系図』を秘匿したのだろう――とも考えられるのである。

 次節のいくつかの推理は、この両方の〈倭迹迹日百襲姫命〉が同一の女性であると仮定したうえでのものである。

[次ぎは『九・九 『勘注系図』と〈卑彌呼〉についての二、三の推理』]
 

『卑弥呼と日本書紀458』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 9日(月)12時06分33秒
  [承前]

 さて、最後にならんでいるのが、問題の日女命(ひめのみこと)である。
 きわめて高貴な女性であることは間違いないのだが、『日本書紀(やまとのふみ)』で誰に相当するのだろうか?
 第九世の日女命は〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉であることが明瞭に記されていて『日本書紀』との対応がとれるのだが、ここの日女命はどうなのだろう。
 この命(みこと)には、数多くの別名が注記されていて、やっかいなのだが、わかりやすい名のみを書き出してみよう。

〈日女命〉(これが主要名)
〈稚日女命(わかひめのみこと)
〈小豐姫命(ことよひめのみこと)
〈豐受姫命(とようけひめのみこと)
〈倭姫命(やまとひめのみこと)

 このうち〈稚日女命〉は、〈倭迹迹日百襲姫命〉である〈日女命〉の後継者であることが、かなり明確な名である。そして、たんに若い日女命で通じたということは、別格の著名人であったことを意味している。
 つぎの〈小豐姫命〉と〈豐受姫命〉は、『魏志倭人伝』における〈臺與(とよ)〉を連想させる名である。
 またさいごの〈倭姫命〉は、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を《伊勢神宮》に祀(まつ)った初代斎王(さいおう)の名そのものであり、『記紀』と比較して世代的にも矛盾はない。
 このいくつかの別名でおもしろいのは、第九世の〈日女命〉の後継者である〈稚日女命〉が「トヨ」という別名をもち、そして『記紀』における名が〈倭姫命〉だということである。
 つまり、〈天照大神〉の祭祀(さいし)を途中で降板した〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉と同じように、〈倭姫命〉も「トヨ」とも呼ばれていた可能性がある――ということである。
(ちなみに〈稚日女命〉は〈天照大神〉の娘または妹とされる〈稚日女尊(わかひめのみこと)〉と同名である)

[つづく]
 

案内  投稿者:BlueSky  投稿日: 4月 9日(月)10時57分22秒
  以下の掲示板に世界の事故、災害情報だ質問すれば答えてくれます。非常に助かります。
電網省の皆さんもよろしければどうぞ。管理人様 趣旨が少し違うかも知りませんが
公益とも思うのでよろしく。

『なんでも相談室』
http://8916.teacup.com/master/bbs

 

『卑弥呼と日本書紀457』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 8日(日)11時56分59秒
  [承前]

◆◆◆ 第十一世小登與命(おとよのみこと)の代にいる〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉◆◆◆

 この代には、第九世についで注目される名がある。

 阿多根命(長男)
 建稻種命(二男)
 小登與命(三男/第十一世)
 日女命(長女)

 このなかで建稻種命(たけいなだねのみこと)は第十二世の名であるが、これは意見が複数あって混乱したのかもしれないし、じっさいに兄弟が後継者になったのかもしれない。兄弟の継承は古代の天皇家でもありふれたことであった。
 第十一世となった小登與命もほとんど同じ名が第十世の兄弟にあるが、この小登與命は、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を祀(まつ)って熱田(あつた)神宮を創建した尾張(おわり)一族の第十一世の当主・乎止與命(おとよのみこと)または小豊命(おとよのみこと)と同一と考えられる。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にも第十一世として記されている。
 つまり尾張一族と海部(あまべ)一族とが同一の系譜上にあることになる。
 熱田神宮の伝承では、この乎止與命の子の建稻種命が日本武尊(やまとたけるのみこと)を助けて奮戦したとある。

 小登與命は第十一世であるが、その別名に御間木入彦(みまきいりひこ)とあるのが注目される。
 これは崇神(すじん)天皇の国風謚号(しごう)――または諱(いみな)/実名――である〈御間城入彦〉と同一である。
 したがってこの小登與命が崇神天皇その人である可能性も無いではないが、不明確である。
 第八章に記したように、《三輪山》の語源譚(たん)に糸巻に三巻残ったので三輪と名づけたという話があるので、三輪はミマキとも発音したと想像でき、したがって「ミマキイリヒコ」とは、入り婿(いりむこ)婚を示す以外に、《三輪山》の麓(ふもと)に入ってきた高貴な男性をあらわすとも解釈できる。

 そして海部氏の第十一世にもこの名がつけられているということは、「ミマキイリヒコ」が普通名詞に近い使われ方をしていて、外部から《三輪山》近くにやってきた何人もの貴人がそう名乗っていた可能性を示している。
 そう仮定すると、『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の副官・彌馬升(みましょう)や彌馬獲支(みまかくき)(第三章参照)の「ミマ」が「ミマキイリヒコ」に近い名前だった可能性が強まる。
 外部から三輪山麓に来た要人たちのおおくが「ミマキイリヒコ」を名乗り、そのあとにつく言葉で区別したのかもしれない。
 崇神天皇の場合は「ミマキイリヒコ」の次に五十瓊殖天皇(いにえのすめらみこと)という典雅な尊称をつけて、天皇であることを明確にしている。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀456』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 7日(土)12時19分36秒
  [承前]

◆◆◆ 第十世乎縫命(おぬいのみこと)の代にいる〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉◆◆◆

 ここには次の兄弟姉妹がならんでいる。

 安波夜別命(長男)
 伊岐志饒穗命(二男)
 宇麻志饒田命(三男)
 小止與命(四男)
 大原足尼(五男)
 乎縫命(六男/第十世)
 大倭姫命(長女)

 ここで注目すべきは大倭姫命(おおやまとひめのみこと)で、別名としては〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の姪として何度か記した孝元天皇の皇女〈倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)〉があげられている。
 このほか崇神(すじん)天皇の皇女の〈豐鍬入姫命〉も別名として記されている。
 そしてすこし前の部分に、この大倭姫が崇神天皇の御代(みよ)に〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉の祭祀(さいし)を司り、亦名(またのな)倭迹迹日女命千々姫(やまとととひめのみことちちひめ)、亦云(またいう)豐鍬入姫である――と記されている。
 皇女名の混乱があるのかもしれないが、これが『記紀』の〈豐鍬入姫命〉を示している可能性はきわめて高く、だとすれば〈百襲姫命〉の姪ということになる。
 まさに『魏志倭人伝』の「宗女臺與(とよ)」そのものである!

[つづく]
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日: 4月 7日(土)08時37分57秒
  『3/16 リヴィングストン市長、またも問題発言――日本大使館の渋滞税不払いに対し、「日本人は戦争犯罪者」!』(UK Today/Internet Journey)
http://www.japanjournals.com/dailynews/070316/news070316_2.html

これは問題発言です。
 

『卑弥呼と日本書紀455』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 6日(金)13時04分57秒
  [承前]

(六)〈千々速日女命(ちちはやひめのみこと)

 この名も高貴な印象を与えるが、『古事記(ふることふみ)』において、孝靈天皇の皇女で〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉とは母違いの姉妹として出てくる千々速比賣命(ちちはやひめのみこと)と同名である。
 だから錯覚があったのかもしれないが、逆に『古事記』のほうが違っていて〈倭迹迹日百襲姫命〉と同一人物なのかもしれない。
 文字で注意をひくのは、姫(ひめ)や比賣(ひめ)ではなく日女(ひめ)という特別な文字をあてていることである。
 また、「千々速」が〈百襲姫命〉の『日本書紀(やまとのふみ)』の別名にある「迹速」を連想させることも注意をひく。

 いずれにせよ、『日本書紀』とこの『勘注(かんちゅう)系図』を合わせた〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名は、
「一皇女にしては、偉大すぎる」
 ――のである。

(七)他の兄弟姉妹

『勘注系図』にある〈百襲姫命〉の妹は葛木高千名姫(かつらぎたかちなひめ)であるが、これは『日本書紀』にある妹の倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)や『古事記』にある妹の倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)とはかなり違っているので、別の伝承なのであろう。
 男の兄弟も『記紀』と一致していないことから、〈倭迹迹日百襲姫命〉の兄弟姉妹について、『記紀』とはかなり違った饒速日(にぎはやひ)系独自の伝承があったことが推定できる。
 ところで葛木高千名姫という名は『古事記』の第八代孝元天皇のところに出ている。すなわち孝元天皇の皇子のひとりの比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)が尾張連(おわりのむらじ)の祖の意富那毘(おおなひ)の妹の葛城之高千那毘賣(かつらぎのたかちなひめ)を娶(めと)った――とあるのだ。
 これが同一女性とすると、〈倭迹迹日百襲姫命〉の妹が天皇の皇子と結婚したことになる。
 また『勘注系図』でも『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』でもこの姫の別名は大海姫(おおあまひめ)とされ、だとすると前出の崇神天皇の妃で、日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の祭祀(さいし)を命じられた渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)を生んだ尾張大海姫(おわりのおおあまひめ)ということになる。
(『先代旧事本紀』での名は葛木高名姫命)
 もしそうだとすると、崇神天皇は〈倭迹迹日百襲姫命〉の義理の弟ということになる。
 ズバリ『魏志倭人伝』の「男弟」そのものになるのだ!

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀454』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 5日(木)12時18分56秒
  [承前]

(二)〈日女命(ひめのみこと)

 この『勘注(かんちゅう)系図』で主要名として記されているが、もちろんこれは姫命(ひめのみこと)という神子(みこ)的な敬称をより高貴な――太陽の妻の意味をもつ――文字であらわしたものであり、本来は〈XXX日女命〉と書くべき尊称である。
 それがたんに〈日女命〉となっているのは、この女性が尊称だけで誰にでもわかるほど著名だったということを意味している。
 いま天皇といえば今上(きんじょう)天皇をあらわしているのと同じである。

(三)〈日神(ひのかみ)

 これは〈日女命〉にもまして容易ならぬ別名である。
 とうぜんながら日神祭祀(さいし)・太陽祭祀を連想する名で、「太陽神」という意味である。
 すでに記したが、歴代天皇名ですら、「神」なる文字が使用されているのは神武(じんむ)天皇、崇神(すじん)天皇、應神(おうじん)天皇の三天皇のみであり、また皇后では〈神功(じんぐう)皇后〉のみである。
 それが、天皇でも皇后でもない女性に対して、太陽の神という〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉なみの別格の尊称を与えているのだ。

(四)〈神大市姫命(かみおおいちひめのみこと)

〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の《箸墓(はしはか)》の場所の古代の名が大市(おおいち)であることが『日本書紀(やまとのふみ)』に記されており、宮内庁の正式の名も《大市墓》なので、この名は謚号(しごう)として理解できる別名だが、頭に「神」がつけられている点が印象的である。
 神代(かみよ/じんだい)を除くと、こういう種類の名はほとんど見られない。神代では素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲(いずも)で娶(めと)った姫の名として神大市比賣(かみおおいちひめ)がでてくるが、これは神の娘である。つまりこの〈神大市姫命〉も、じつに神代的な名なのである。

(五)〈中津姫命(なかつひめのみこと)

 この名は『記紀』には探せなかったが、水流や港を連想させる名で、水郷だったと想像されている《大和(やまと)》の貴人にふさわしい。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀453』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 4日(水)12時01分53秒
  [承前]

◆◆◆ 第九世意富那比命の代にいる〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉◆◆◆

 第九世の箇所にはつぎの兄弟姉妹がならんでいる。

  乙彦命(おとひこのみこと/長男/亦名(またのな)彦國玖琉命(ひこくにくるのみこと)で孝元天皇と同名)
  日女命(ひめのみこと/長女)
  玉勝山背根子命(たまかつやませねこのみこと/二男)
  若津保命(わかつほのみこと/三男)
  置津世襲命(おきつよそのみこと/四男/尾張の祖とされる孝昭天皇皇后世襲足媛(よそたらしひめ)の兄と同名)
  意富那比命(おおなひこのみこと/五男/第九世/古事記(ふることふみ)で尾張の祖)
  葛木高千名姫命(かつらぎたかちなひめのみこと/二女/亦名大海姫/古事記で孝元天皇皇子の妃)
  (括弧のなかは系図の右ほど年長と仮定)

 この兄弟姉妹の名は聞き慣れないようだが、『日本書紀(やまとのふみ)』と比較すると、似た名が似た年代にいくつも見つかる。
 これらの御子(みこ)たちにはほかにも別名があるが、とくに驚くのは長女・日女命の別名である。
 一云、亦名といった書き方で記されている名前を列挙してみると、

〈倭迹迹日百襲姫命〉
〈日女命〉(これを主要名としている)
〈日神(ひのかみ)
〈神大市姫命(かみおおいちひめのみこと)
〈中津姫命(なかつひめのみこと)
〈千々速日女命(ちちはやひめのみこと)

 ――の六つである。
 興味津々(しんしん)たる名前がならんでいるので、この各別名について『記紀』との関係を調べてみよう。

(一)〈倭迹迹日百襲姫命〉

 いうまでもなく、第八〜十章で話題にしている、崇神(すじん)天皇を助けた神子(みこ/巫女)で、〈卑彌呼(ひみこ)〉の有力候補である。世代的にも崇神天皇紀と矛盾していない。
 また長男・乙彦命の別名が孝元天皇と同じなので、これを孝元天皇とすると、日本書紀の孝靈天皇の御子たちの記録と同じになる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀452』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 3日(火)12時12分22秒
  [承前]

(以下のリストでは読みがなは略します。見にくくなりますので)

 始祖   彦火明命(饒速日命)   −03瓊瓊杵尊
 兒    天香語山命       −02彦火火出見尊
 孫    天村雲命        −01鵜草葺不合尊
 第三世  倭宿禰命(神宝を献上)   01神武天皇
 第四世  笠水彦命         02綏靖天皇
 第五世  笠津彦命
 第六世  建田勢命         03安寧天皇
                   04懿徳天皇
                   05孝昭天皇
                   06孝安天皇
 第七世  建諸隅命         07孝靈天皇
                   08孝元天皇
 第八世  日本得魂命(天照を奉斎)  09開化天皇
 第九世  意富那比命(姉が百襲姫命) 10崇神天皇
 第十世  乎縫命(妹が豐鍬入姫命?)
 第十一世 小登與命(御間木入彦)   11垂仁天皇
 第十二世 建稻種命         12景行天皇
 第十三世 志理都彦命
 第十四世 川上眞稚命(大縣主)    13成務天皇
 第十五世 丹波大矢田彦命
 第十六世 丹波國造大倉岐命
 第十七世 丹波國造明國彦命     14仲哀天皇
 第十八世 丹波國造建振熊宿禰    15神功皇后
 第十九世 丹波國造海部直都比    16應神天皇
 第二十世 丹波國造海部直縣     17仁徳天皇

 この対応はおおまかなものにすぎず、とくに『勘注(かんちゅう)系図』においては、同じ名が数カ所にあるなど多少混乱するが、何代も違っていることはないであろう。

 さて、『海部氏(あまべのうじ)系図』で隠されていた第四世〜第十七世のなかでとくに興味ぶかいのが、第九世、第十世、第十一世の三代なので、ここにどのような人物が記されているかを書き出してみよう。

[つづく]
 

【 玄菟州(咸鏡道)都督,権知国事,経略使 】  投稿者:○投稿  投稿日: 4月 2日(月)23時12分42秒
  【 玄菟州(咸鏡道)都督,権知国事,経略使 】

新五代史 三 考 世家 附録 巻七十四 四夷附録 第三
・・・

高麗 本扶余人之別種也・・・・・・其王姓高氏・・・
・・・権知国事王建,
玄菟州都督,大義軍使,封高麗国王。王建→王武→王昭の3世が朝貢。

新羅 金氏と朴氏が2大族 金朴英が朝貢。
・・・権知国事金溥。金溥と金朴英 代次卒子。伝を失い知らず。

・・・

元史 巻一百 志第四十八 兵三 屯田
 枢密院 所轄
 大農司 所轄
 宣徽院 所轄
(腹裏 所轄軍民屯田)福琉等処行中書省所轄屯田:福建台湾琉球?
 嶺北行省 屯田
 遼陽等処行中書省 所轄屯田
 河南行省 所轄軍民屯田
 陝西等処行中書省 所轄軍民屯田
 甘粛等処行中書省 所轄軍民屯田
 江浙等処行中書省 所轄屯田
 遼東行省 経略司 所轄軍民屯田? 十一処 ( 高麗 国立屯 )
 四川行省 所轄軍民屯田 二十九処
 雲南行省 所轄軍民屯田 一十二処
 湖広等処行中書省 所轄屯田 三処

遼東行省 経略司 所轄軍民屯田? 十一処 ( 高麗 国立屯 )
 高麗(蒲盧毛朶部全州静封県−曷蘇館路辰州東京支郡湯池県・
           全羅道−慶尚道)2千・
 中衛軍(遼東行省−経略司−平壌城−東京支郡熊岳県・
              平安道−黄海道)2千・
 婆娑府(婆達府路−東京支郡建安県・
        京畿道−忠清道−江原道)1千・
 咸平府(鹵平路−合瀬路玄菟州・
                咸鏡道)1千
 

『卑弥呼と日本書紀451』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 2日(月)12時05分47秒
  ■■■■■ 九・八 『勘注系図』にある驚くべき〈倭迹迹日百襲姫命〉の尊称 ■■■■■


◆◆◆ 朝廷に秘匿した『勘注(かんちゅう)系図』の部分 ◆◆◆

 朝廷(丹後国の役所)に提出された『海部氏(あまべのうじ)系図』には、大和(やまと)朝廷確立期にあたる崇神(すじん)天皇前後からしばらくの家系が抜けており、第三世からいきなり第十八世にとんでいることはすでに述べた。
 そして興味ぶかいことに、この提出用系図に記されなかった第四世から第十七世にいたる部分が『勘注系図』には詳しく記されており、そこに〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉がいくつかの重要な別名とともに記載されているのである。

 この年代は『記紀』でいえば初代神武(じんむ)天皇のすぐあとから第十四代の仲哀天皇あたりまでとなるなので、そのころの天皇名がいくつも記されている。
 初代神武天皇、第二代綏靖(すいぜい)天皇、第七代孝霊天皇(〈百襲姫命〉の父)、第十代崇神天皇、〈神功(じんぐう)皇后〉、第十二代景行(けいこう)天皇、その兄で物部(もののべ)一族の神社《石上(いそのかみ)神宮》の初代責任者だった五十瓊敷命(いにしきのみこと)・・・などが、国風謚号(しごう)または諱(いみな)によって記されているのだ。
 海部一族は、大和朝廷と遠祖神を同一とし、かつ〈饒速日命(にぎはやひのみこと)〉系として仕(つか)えて婚姻関係もあるので、成立期の天皇名が系図上に記されるのは自然なことである。

 さて『勘注系図』は、一代一人の提出用『海部氏系図』とはちがって、ある代に何人もの人名がならび、それに注や解説がこまかく付属していて輻輳(ふくそう)しており、読みとるのが困難なのだが、しばらく睨(にら)んでいるとおおまかなことは分かってくる。
〈倭迹迹日百襲姫命〉に関連する重要な部分を図9.6に示しておいたので眺めていただきたい。

図9.6
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H96.htm

 まず最初に、第二十世までの歴代海部氏と、同時代と推理される大和朝廷の各代の名を、ならべて書き出してみる。
 上が『勘注系図』にある中心的人物であり、下がその時代の『記紀』による大和朝廷の代表名――主に天皇名――である。
 朝廷提出用の『海部氏系図』のほうで隠されていた代を太字で表示してある。
 なおこの一覧にいたるまでの神代系図は両者同じである。また読みの一部に著者の推定がある。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀450』  投稿者:オロモルフ  投稿日: 4月 1日(日)11時26分35秒
  [承前]

 したがって、現在の《丹後地方》は、弥生時代には「たばの国」と呼ばれていた可能性が高く、それをローマ字で書くと、
『TABANO国』
 ――となる。

 ところで『三国史記』の《多婆那国》は、音で読んで「タバナ国」、ローマ字にすると、
『TABANA国』
 ――である。
 つまり、ほとんど同じ発音なのだ。

 だから、古代の新羅(しらぎ)の人たちが、現丹後地方に対する日本人の呼び方をそのまま音写して、《多婆那国》と記した可能性はきわめて高いと思われる。

 以上のことから、新羅の第四代の王・脱解尼師今が現丹後地方出身の日本人だった可能性が考えられるのである。

(あまり言いたくはないのですが、僞史をふりまわして古代日本が半島の属国だったように言う韓国人はたくさんいるようですが、上のような史料性の高い逆の話をする日本人は見かけません)

**********

 本節では〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉について記してある箇所は後回しにしたが、次節ではいよいよその部分について解説しよう。

[次ぎは『九・八 『勘注(かんちゅう)系図』にある驚くべき〈倭迹迹日百襲姫命〉の尊称』]
 

入れ込み情報  投稿者:えこね  投稿日: 4月 1日(日)09時20分33秒
  “従軍慰安婦”について論じる際には、まず基礎知識が必要です。
それなしには、まともな論議になりません。その点で、最近、読売新聞が“基礎からわかる「慰安婦問題」”を特集したことは知っていましたが、ネットには載っていませんので、詳細がわかりませんでした。

 この記事が、2007-03-27付のブログ『新・柏原日記』にテキスト化して掲載されましたので、ご存じない方のために、この掲示板でも紹介します。よくまとめてあります。

新・柏原日記
  kashiwara.exblog.jp/5300553/

 ここにも書いておられますが、米国人に対して、(1)慰安婦を集めるに当たって、日本軍や警察組織による“強制”はなく、むしろ不法行為を取り締まっていたこと、(2)実態が“奴隷”ではなく“労働者”であったこと、(3)米軍も慰安所を利用していたことを、繰り返し訴えることが必要だと思いました。
 


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