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喫茶室 過去ログ97(2007.6.1〜6.30)

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『卑弥呼と日本書紀527』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月30日(土)12時16分57秒
  [承前]

◆◆◆ 勝山・矢塚・東田大塚古墳(祖型)について ◆◆◆

 この三基の古墳については、前二基ほどくわしいことはわかっていない。
 盗掘は当然されただろうし、現状も、農地がぎりぎりまで迫っているなど、調査はかなり困難らしい。
 以下分かることを簡単に記す。
 位置や向きについては、図10.6を参照されたい。

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


[甲]勝山古墳

 後円部の直径は約六十メートル、前方部の長さは約三十メートルで、全長九十メートルと推測される。
 前方部の形は細長く、手鏡の柄のような形状だったらしい。向きはほぼ北東である。
 やはり周濠があり、その大きさは石塚やホケノ山と同様らしいが、その跡地から平成十三年になって大量の木製品が出土した。
 とくに面白いのは鋸歯文が描かれた一メートル近いU字状の木製品で、埴輪(はにわ)の原形ではないかといわれている。
 これらの多くの木製品は、墳丘上で祭祀(さいし)がなされたときの建築物の廃品だろうと推理されている。

 平成十三年の五月になって、この出土木製品のひとつに外側までの年輪の残されていることがわかり、光谷拓実が「年輪年代法」で測定したところ、

「西暦一九九年に伐採されたもの」

 ――であることがわかった。
 すなわち、纏向(まきむく)石塚古墳の直後の造営である可能性が高まった。
 ただし同時に出土した土器は布留〇式といわれるもので、修正編年でもその数十年後とされているので、今後の研究が必要である。
 土器はのちの時代の祭祀遺物であると考えれば、矛盾はなくなるが、確言はできない。

[乙]矢塚古墳

 現状は方形に近いのだが、かつては直径六十四メートルの後円部を有していたと推定されている。
 前方部の推定寸法は、長さが三十二メートル、幅が四十メートルで、ほぼ南西を向いており、墳丘の全長は九十六メートルと推測される。
 周濠は幅二十メートルほどで、濠跡(ほりあと)からは壷、甕(かめ)、高坏(たかつき)、線刻土器などが発見されている。

[つづく]
 

訂正  投稿者:yf  投稿日:2007年 6月29日(金)22時50分33秒
  竹本忠雄先生でした、、。  

パリで「日本文化人宣言」  投稿者:yf  投稿日:2007年 6月29日(金)22時40分19秒
  BLOG巡りを始めて半年ほどになるが 最近は殆(ほとん)ど新聞を読まなくなった まぁTV欄位か、、洋の東西を問わず 学問の分野であるべき歴史が 政治の介入により固定化され歪んだ歴史となり一人歩きしている事実がある ホロコーストや南京大虐殺であり アメリカ下院による慰安婦問題決議案の上程などである、、

さて あるblogをめくっておりましたら 素晴しい記事がありましたので 転載させて頂きます 日本のメディアがニュースとして扱ったか分かりませんが、、

引用開始
 パリから素晴しいニュースが飛び込んできました。
日本会議国際広報委員会の座長で筑波大学名誉教授の武本忠雄先生らが中心となって、「日本の文化人宣言」を公表しました。この宣言は、6月12日にAFPよりその契約先のフランスの全主要メディア2百数社と2千ほどの諸組織あてに発信されました。
                            引用終了 以下URL、、
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-910.html
                  blog:PRIDE OF JAPAN
 

日経も中共批判?  投稿者:はる  投稿日:2007年 6月29日(金)13時02分15秒
  6月28日付、日経新聞社説に“スーダンの悲劇放置するな”(http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070627AS1K2700127062007.html

社説2 スーダンの悲劇放置するな(6/28)

 アフリカのスーダン西部、ダルフール地方の人道危機が放置されている。スーダン政府の支援を受けたアラブ系民兵組織が黒人系農民を中心にした反政府武装勢力と戦闘、これまでに20万人が死亡、200万人以上が家を追われた。

 国際社会は制裁強化も視野に入れスーダン政府、反政府勢力の双方に和平受け入れ圧力を強めるべきだ。スーダン政府に影響力を持ちながら紛争解決に無頓着だった中国は、とりわけ真剣な努力を問われる。

 パリで25日にフランス政府主催でダルフール紛争解決をめざし国際会議が開かれた。サルコジ仏大統領は「黙っていることは殺人行為と同じ」と強調した。その通りだ。

 ダルフール紛争が始まったのは2003年2月。それから4年以上もこの悲劇に終止符が打たれないできた。紛争当事者がいずれも好戦的な姿勢を続けたうえ、国際社会の努力も不十分だったからだ。国連安全保障理事会はスーダン政府に一定の制裁も科しているが、主要国が一致結束してダルフール紛争に対応してきたとは言えない。中国がスーダン政府への圧力強化に反対し、足並みをそろえられなかったのが実情だ。

 中国は日量約50万バレルの産油国スーダンへの最大の投資国であり、直近ではスーダン原油の6割を輸入し同国財政を支えている。中国は否定するが、政府側に禁輸対象の武器を供給しているとの指摘もある。

 このため欧米で08年北京五輪ボイコットを求める声もあがるほど、中国への批判が高まっている。中国は今春、ダルフール問題担当の特使を任命し、胡錦濤国家主席もバシル大統領に和平を働きかけるなど、ようやく対応を始めた。和平実現に向けた中国の影響力行使が必要だ。

 国連、アフリカ連合(AU)、スーダン政府の三者は今月、ダルフールの平和維持軍を増強することで合意した。だが、スーダン政府には、過去に国際的な合意を反故(ほご)にした経緯もある。国連、AUは増強部隊をできるだけ早く組織し、スーダンに受け入れを迫るべきだ。

 日本政府は26日、難民を対象にした約400万ドルの人道援助を決定した。日本も引き続き紛争解決、人道援助に貢献すべきである。


とありました。内容は中共政府の姿勢を批判したものですが、商売に差し障りが出ないのかな?と逆に心配してしまいます。
商売第一、政治は二の次ではなかったかと思うのですが、経済界のこの変化は何かを意味しているのでしょうか?

 

『卑弥呼と日本書紀526』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月29日(金)12時05分50秒
  [承前]

〈四〉その他の出土品

 鏡以外の出土品としては、棺内には、鉄剣や大量の水銀朱が残されていた。
 棺(ひつぎ)の外側には、鏃(やじり)、刀剣、埴輪(はにわ)状に並べられた壺などが見つかった。
 その他全体として、甕(かめ)、大型甕、壷、大型壷、高杯(たかつき)、その他の土器類、また祭祀(さいし)用の木製品などが多く出土している。
 また墳丘の構成には、土が崩れないように、葺石(ふきいし)が丁寧に積み上げられていた。

 このホケノ古墳は、とうぜんながら盗掘にあっているだろうし、また風雨で土が流れて自然に出土したものもあったであろう。
 近隣の農家には、ここから出土したと口伝(くでん)される品々がかなり伝わってきたらしい。
 第九章でその学説を取り上げた《大和(やまと)》出身の考古学者として著名な樋口清之は、その人脈によって、ホケノ山古墳から出土したという伝承のある鏡を、二面入手したそうである。
 ひとつは内行花文鏡で、最近の出土と同じ種類のものである。またもう一面は、縦列式神獣鏡と呼ばれる鏡である。
 このうち内行花文鏡は《大神(おおみわ)神社》に奉納され、また神獣鏡は國學院大学に寄贈された。
 この二面が本当にホケノ山古墳からの出土だったとすれば、花文鏡が二面、神獣鏡が三面出土したことになる。
 おそらく、最初はもっとたくさんの鏡が副葬されていたのであろう。

 さらに樋口清之の著作によれば、昔は周囲に埴輪円筒があり、頂上に家型埴輪があり、さらに勾玉(まがたま)も出土したらしい。
 この埴輪はのちに奉納されたものかもしれない。
 ホケノ山古墳や《箸墓(はしはか)》のあたりは、戦国〜江戸時代には織田一族の領地になっており、その領主が古墳を庭園としてかなり加工してしまったらしい。そういう折りにも、かなりの出土があったのであろう。
 これらの多彩な出土品は、いずれも後の古墳時代の先駆であり、また《大神神社》の祭祀遺跡とも密接に関係しているようである。

〈五〉造営年代の推定

 ホケノ山古墳の場合は「年輪年代法」を適用できる木材は出土していないので、精度のよい造営年代推定はできていないが、木棺に放射性炭素測定法を適用した結果、西暦三〇年から二四五年という数値が得られた。
 これでは精度が悪すぎるが、鏡など他の出土品からの推定を加えて、西暦二二〇年前後の可能性がたかいといわれている。
 つまりホケノ山古墳は纏向(まきむく)石塚古墳と《箸墓》の中間期に築造されたらしい――ということである。
 この時期は本格的古墳時代の黎明期であり、同時に大和朝廷の黎明期でもあって、じつに興味ぶかい。

[つづく]
 

対中非難決議の方こそ注目を  投稿者:はる  投稿日:2007年 6月29日(金)00時37分16秒
  御無沙汰(ごぶさた)してます。
対日慰安婦決議は、見事な日米離間策でしたね。
おかげで、アメリカは日本に厳しく北朝鮮に甘くなってしまいました。
皆さんの嫌いなNHKではありますが、“風林火山”でも見て、山本勘助を育てなければなりません。管理人さん在住の甲斐(かい)の国では、盛り上がってることでしょう。

さて、6月27日付産経新聞国際面の
【湯浅博の世界読解】対中非難決議の方こそ注目を
によれば、アメリカ連邦議会下院では、対中非難決議や法案の方が圧倒的に多く、中国が石油ほしさにアフリカ北東部のスーダンに武器を輸出、同国ダルフール地方での大量殺戮を見逃しているという非難の嵐とのこと。
以下、ほとんど引用。
慰安婦という戦時中の出来事を扱う対日非難決議と違って、今まさに進行中の人権問題が、来年開催の北京五輪と結びつけられるから、深刻さの度合いは日本の比ではない。厳しい対中非難をそらすため、中国系団体が下院議員らを慰安婦問題に誘導しているのではないかとのうがった見方もしたくなる。スーダンにからむ対中非難が出てきたのは4年前からである。日本に対する1本の非難決議に対して、あちらダルフール関連の決議案と法案は20本以上にもなる。米紙の扱いも、慰安婦問題は無視されることがあっても、ダルフールにからむ対中非難が掲載されない日はないほどだ。ここ1年あまりの中国たたきは、有名女優が先頭に立っているために注目度が極めて高い。特に、女優のミア・ファローさんが3月下旬、ウォールストリート・ジャーナル紙に寄稿したスピルバーグ監督に対する警告文は激烈だった。ファローさんはナチス支配下のベルリン五輪を引き合いに出し、虐殺されたユダヤ人の苦悩を知るべきだとして、北京五輪を「ジェノサイド・オリンピック」と非難した。さらに、5月上旬には米下院議員108人が北京五輪のボイコットに触れながら、影響力のある中国が虐殺をやめさせるよう書簡を胡主席に送った。すると中国は、間髪を入れずに劉貴今氏をアフリカ問題大使に任命したうえ、道路復興などに従事する工兵275人の派遣を決定している。ここで重要なのは、非難決議や書簡を受け取ったあとの、中国政府の素早い決定と実行である。ワシントンの在米大使館を中心とした議会へのロビー活動はもちろんだ。在京外交筋によると、世界に展開する大使館に対して北京五輪のボイコットを防止すべく働きかけるよう訓令を出したという。失敗した場合には、何らかの“制裁”も示唆(しさ)しているそうだ。中国は「内政干渉はしない」という原則を自ら破るわけで、米国発の圧力に対していかに危機感を持っているかが分かる。中国政府はダルフール問題が他の少数民族に対する人権問題に波及することを何よりも恐れていよう。チベット問題ではハリウッド俳優のリチャード・ギアさんらが、活発に独立運動を支援しているし、新彊(しんきょう)ウイグル自治区でも米欧の支援活動が活発だ。中国の対応はあくまで対中非難をかわすための見せかけにしかみえない。スーダンの石油輸出の7割を受け入れているままだし、武器輸出を停止したわけでもない。安倍政権は慰安婦決議1本に惑わされることなく、いまの民主主義、人権、法の支配に基づく「価値の外交」を貫けばよい。(東京特派員)
 

『卑弥呼と日本書紀525』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月28日(木)12時22分40秒
  [承前]

〈二〉出土した鏡

 平成十二年の出土品でとくに目をひくのは、鏡および棺(ひつぎ)を包む木槨(もっかく)である。
 鏡については、棺の部分から画文帯神獣鏡が一面発見され、棺の外側からは内行花文鏡が一面と画文帯神獣鏡の破片が発見された。
 内行花文鏡は、第九章の《籠(この)神社》の神宝のところでも触れたように一〜二世紀からの後漢鏡であり、また画文帯神獣鏡も、二〜三世紀の弥生時代からある鏡である。
 つまりのちの本格的前方後円墳の時代に多い三角縁神獣鏡よりも数十年から数百年古い時代の鏡が出土したのだ。
 これらが〈卑彌呼〉が魏王から得た鏡かどうかはまったく不明だが、こういう種類の鏡を、〈卑彌呼〉の時代の《纒向(まきむく)京》の有力者たちが大陸から輸入していたことは、確実である。
 なぜなら、このホケノ山古墳の構築時期は、〈卑彌呼〉の生存中だと考えられるからである。
 この推理は、《箸墓(はしはか)》が〈卑彌呼〉の墓でなかったとしても成立する。

〈三〉独特の木槨

 つぎの木槨であるが、これは、古墳の研究史に新しい頁(ページ)を加えたほどユニークなものであった。
 槨とは遺体の眠る棺を包み込むような施設のことで、石槨や木槨があり、とくにシナ大陸に多い。
 ホケノ古墳の内部は、まず土に大きな穴が掘られ、その内側に石が積まれて石室(一種の石槨)ができている。
 その大きさは、石の外側で、奥行き七メートル、幅二・七メートル、深さ一・五メートルである。
 かなりの大きさであるが、その内側にさらに木の囲いがあり、これが内部の棺を包み込むような施設になっていたのだ。つまり石と木の二重の槨(棺を包む施設)ができていたのだ。
 最内部の棺は、幅一メートル、長さ五メートルで、巨大な高野槇(こうやまき)をくりぬいて造られていた。

 古墳時代に入ってからの一般の前方後円墳では、石材で壁をつくる竪穴式石室の中に棺を入れているし、またその前の弥生墳墓では、槨をつくらないのがふつうで、造ったとしても木槨のみである。
 したがってホケノ山古墳の埋葬施設は、弥生時代とも古墳時代とも異なる、独特なものなのだ。
 まさに過渡期の巨大古墳である。
(倭人は槨をつくらないという『魏志倭人伝』の記述が間違いであることは、こういう発掘調査からもわかる)

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀524』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月27日(水)12時10分21秒
  [承前]

◆◆◆ ホケノ山古墳(祖型)について ◆◆◆

〈一〉形状と大きさ

 この古墳は、《纒向(まきむく)京》の祖型古墳のなかで、もっとも保存状態が良く、精密な発掘調査がなされている。
 もちろん古墳一般の例に漏れず、盗掘はかなりなされたらしいが、それでも貴重な収穫があったのだ。
 場所は、図10.6で見られるように、《箸墓(はしはか)》のすぐそばにあり、前方部は南東を向いている。

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

図10.19
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm


 図10.19は平成十二年の発掘調査時に明らかになった中身であり、全体の構造がよくわかる。
 三段になった円形部の直径は約六十メートルであり、それに長さ二十メートル、最大幅三十メートルほどの前方部が付属している。
 前方部は、石塚よりやや小ぶりな撥(ばち)に近い形で、同じ系列にあることがわかる。
 これと円形部を合わせると全長は八十メートルになるが、原形はもっと大きく、おそらく九十メートルはあっただろうとされている。
 纏向の五基の祖型前方後円墳の特色として、

「後円部の直径と前方部の長さの比が二対一」

 ――という規則があるらしく、その規則を当てはめても、全長は九十メートルになる。
 周濠の痕跡も一部にのこされており、やはり幅が二十メートル近くあったらしい。
 したがって周濠まで入れると、大きさは百メートルを超え、纏向石塚古墳とほぼ同じと考えられる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀523』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月26日(火)12時57分59秒
  [承前]

〔二〕形状と大きさ

 前方部は直径約六十四メートルの後円部にくらべて小型で、あきらかに祖型であるが、そうかといって決して突起物ていどのものではない。
 その形状は三味線(しゃみせん)の撥(ばち)に似ており、長さがほぼ三十二メートル、幅はくびれた狭い部分が十六メートル、先端の広い部分が三十二メートルである。この部分だけで野球の内野ほどの大きさである。
 この前方部と大きな後円部とを合わせた墳丘長は九十六メートルに達する。
 後円部の周囲には周濠のあとが認められるが、後年の前方後円墳の周濠とはちがって、円形に近い形をしている。
 濠の幅は約二十メートルで、その外に堤もあるので、全体の直径は百メートルをはるかに超える。
 まえに祖型古墳の大きさをサッカー・グラウンドにたとえたが、周濠まで入れれば、さらに一回り大きい。
 近くに「超巨大」古墳があるので大きさでは目立たないが、弥生時代の一般的な古墳に比較すれば「桁外(けたはず)れの大きさ」である。

〔三〕出土品

 出土品であるが、二世紀末〜の最古級の土師器(はじき)など各種の土器のほか、祭祀(さいし)に使用されたらしい木製品が多いのが特徴である。
 木製品としては、朱色に塗られていた鳥型、どくとくの円弧模様のある弧文円板、鋤(すき)、樹皮製の円座などが出土している。
 また周囲には、図10.18に描かれているような、柱を建てた跡が見つかっている。
 古墳時代を特徴づける埴輪(はにわ)は無いが、多くの木製品から、弥生時代とは異なった祭祀が行われたことはたしかであり、古墳時代の祭祀の祖型が推理されている。

図10.18(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm


〔四〕「年輪年代法」による造営年測定

 もうひとつこの纏向(まきむく)石塚古墳の調査で画期的なのは、周濠内から出土した檜(ひのき)の板に対して、前述の光谷拓実による「年輪年代法」の測定がなされたことである。
 その結果、この板は、

 「西暦一九五年に伐採された可能性が大きい」

 ――ことがわかった。樹皮近くまでの年輪は残っていなかったのだが、かなりの確度で推理できたのである。
 この板が造営のころに伐採されたとすると、この古墳は二世紀末――《纒向京》が勃興しはじめたころでかつ〈卑彌呼〉が共立されたころ――にできたということになる。
 すなわちこの祖型古墳は、『記紀』と『魏志倭人伝』と考古学とを結ぶ、じつに興味ぶかいモニュメントなのである。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀522』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月25日(月)12時30分42秒
  [承前]

◆◆◆ 纏向(まきむく)石塚古墳(祖型)について ◆◆◆

〔一〕その配置

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

図10.17(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 つぎに、前記の五基の祖型古墳のうち、発掘調査によってその実態がかなり分かっている二基について、時代順に概説してみよう。
 はじめは纏向石塚古墳である。
 まず、その配置を、図10.6によって確認していただきたい。
《纒向京》の勃興期の推定範囲の方形のなかに位置しているが、そこから太陽が昇る方角である真東に、図10.17にある神社(宮殿)の遺跡が正面を向いてある。
 またその背後には《三輪山》に隣接する初瀬(はつせ)山がある。

 つまりこの古墳に早朝立って真東を見ると、

「初瀬山および聖なる神殿の背後から朝日が昇ってくる」

 ――のである。
 とくに春分秋分でそれが顕著である。
 またもう一つ興味ぶかいのは、

「前方部がきっちりと聖山《三輪山》の山頂――ほぼ南東方向――を向いている」

 ――ことである。
 したがってこの古墳は、有力者の墳墓であったかもしれないが、それ以上に重要な祭祀(さいし)施設ではなかったか――との想像がはたらく。
 苅谷俊介はそのような想像をたくましくして、発掘資料をもとに図10.18の復元図を描いている。

図10.18
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm


[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀521』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月24日(日)11時35分5秒
  ■■■■■ 十・九《纒向京》にある「祖型」巨大前方後円墳の概要 ■■■■■


◆◆◆ 造営年代順の推理 ◆◆◆

《纒向(まきむく)京》にある前方後円墳の造営年代を定めるのはきわめて難しく、分かっているのは二、三にすぎないが、それもごくごく大まかであって、しかも異論のあるのがふつうである。
 ここでは、纒向遺跡の名付け親である石野博信の推理をもとにして、それに著者の推理を加えて、《纒向京》の前方後円墳群を、年代順に並べてみよう。
( )の中は、祖型か前期かの別、墳丘長、推定造営年である。とくに造営年はごくおおまかな推理である。
 天皇陵の推理は『記紀』や『住吉神代記(じんだいき)』の干支などによっている。

《纒向京》のはじまり(西暦一八〇年)
  ↓
 纒向石塚古墳(祖型/九六メートル/西暦一九五年)
  ↓
 勝山古墳(祖型/九〇メートル/西暦一九九年)
  ↓
 ホケノ山古墳(祖型/九〇メートル/西暦二二〇年)
  ↓
 矢塚古墳(祖型/九六メートル)
  ↓
 東田大塚古墳(祖型/九六メートル)
  ↓
《箸墓(はしはか)》(前期の最初期/二八〇メートル/西暦二五五年)
  ↓
 崇神(すじん)天皇陵(前期の初期/二四二メートル/西暦二七五年)
  ↓
{垂仁(すいにん)天皇陵(前期/二二七メートル/西暦三一五年/奈良市)}
  ↓
《纒向京》のおわり(西暦三四〇年)
  ↓
 景行(けいこう)天皇陵(前期/三一〇メートル/西暦三四五年)

 周辺までふくめると、《箸墓》と崇神天皇陵の間の年代に、「超巨大」前方後円墳を三基があげることができる。
 すなわち、

 西殿塚古墳(前期の初期/二三四メートル/朝和)
  ↓
 桜井茶臼山古墳(前期の初期/二〇八メートル/磐余)
  ↓
 メスリ山古墳(前期の初期/二五〇メートル/磐余)

 ――である。
 この三基はおそらく、大和朝廷の重要人物か、あるいは周囲の有力氏族の首長の墓であろう。
 西殿塚古墳は、宮内(くない)庁としては繼體天皇の皇后だった手白香皇女(たしらかのひめみこ)の御陵(ごりょう/みささぎ)ということになっているが、繼體天皇の在位は六世紀であって時代があわないし、また一皇后の墓にしては大きすぎる。
 そこで、すぐそばの東殿塚古墳が手白香皇后の墓であり、「超巨大」な西殿塚古墳はしかるべき権力者の墓だろうとされている。
 両古墳がすぐそばにあることから、明治初期に間違って登録してしまったのであろう。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀520』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月23日(土)12時37分33秒
  [承前]

◆◆◆ D『日本書紀(やまとのふみ)』と《纒向(まきむく)京》の対応 ◆◆◆

 以上、ABC三つの面から、《纒向京》の特色を調べてきたが、どの特色も、

『日本書紀』に記されている崇神(すじん)・垂仁(すいにん)・景行(けいこう)三代および〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の事績――に照応している。

 ――と同時に、

『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の描写――にも照応している。

**********

 この節のさいごに、《纒向京》の時代約百六十年間を五期に分けて、文献史料と考古学資料との対応を、もうすこし具体的に記しておこう。
 もちろん西暦の年代は、干支や考古学に基づく著者の推理である。

〔前期〕
   初代神武(じんむ)天皇より第六代くらいまで
      西暦一〇〇年前後?
      (大和(やまと)朝廷の先祖が九州から《大和》への
       東征を何度か試行したのち、ついに成功
       して大和南部の橿原(かしはら)などに拠点を作り、
      《三輪山》山麓への進出を計った時代)

〔第一期〕
   第七〜九代天皇および
  〈倭迹迹日百襲姫命〉の活躍期
      西暦一八〇〜二三〇年の初期《纒向京》
      (《三輪山》山麓の《纒向京》への進出を
       果たし紛争に勝利して祭祀(さいし)権を得た時代。
       西暦一八〇年は、『魏志倭人伝』にある
      〈卑彌呼〉が女王となって倭国の乱をおさ
       めた年と推定されている)

〔第二期〕
  〈倭迹迹日百襲姫命〉の晩年および
   第十代崇神天皇や〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)〉の活躍期
      西暦二三〇〜二七〇年の発展期《纒向京》
      (『魏志倭人伝』によれば狗奴国との抗争に
       悩んだ〈卑彌呼〉が没して〈臺與〉が後
       継した時期。『日本書紀』にも相応する
       記述がある)

〔第三期〕
   第十一代垂仁天皇や〈倭姫命〉の時代
      西暦二七〇〜三一〇年の最盛期《纒向京》

〔第四期〕
   第十二代景行天皇や日本武尊(やまとたけるのみこと)の時代
      西暦三一〇〜三四〇年の後期《纒向京》
      西暦三三〇年ごろ滋賀県大津へ遷都

〔第五期〕
   第十三代成務天皇の時代
      都は大津だが、西暦三四五年ごろ、
      《纒向京》に景行天皇の御陵(みささぎ/ごりょう)を造営
      (大津への遷都の理由として、豪族間
       の軋轢(あつれき)など政治的理由、人口集中に
       よる汚物堆積や不衛生化、土地の隆
       起による川幅の狭隘(きょうあい)化、などが考え
       られる)


[つぎは『十・九《纒向京》にある「祖型」巨大前方後円墳の概要』]
 

『卑弥呼と日本書紀519』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月22日(金)11時22分34秒
  [承前]

〈C7〉大規模な市場があったらしい

 図10.6でいえば《纒向(まきむく)京》推定範囲の下方――《箸墓(はしはか)》のあたり――に、大きな市場があったらしい。
 これは、古くから〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の別名に「大市(おおいち)」とついていたり、《箸墓》を「大市墓」と呼びならわしていることなどから想像できるし、すこし後の時代ではあるが、「市」という文字が墨書された土器が発見されたりもしている。
 そしてこのことが、『魏志倭人伝』にある、

「國國市アリ有無ヲ交易シ
(国々に市場があり交易している)」

 ――を思い出させる。

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


〈C8〉水洗トイレらしい遺跡がある

 導水施設が発掘されているが、その施設から寄生虫の卵がみつかり、したがって水洗トイレだったのだろう――との推理がなされている。
 しかしこれとは別の考えとして、「聖水を汚す儀式」がなされた跡ではないか――との説もある。
 清らかなものをわざと汚すことによって禍を避けるという儀式は、《纒向京》の時代にずっと続いていたらしく、その内容は〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の説話にそっくりだったらしい。
 またそれは、第六章に記した、奈良盆地西部の葛城(かつらぎ)地方にあった日蝕の際の「破壊する儀式」を連想させるものでもある。

〈C9〉三代の皇宮の伝承がある

 天皇や〈倭迹迹日百襲姫命〉の御陵のことはBですでに記したが、『日本書紀(やまとのふみ)』にある皇宮の場所もまた、この《纒向京》にある。
 すでに記したことでもあるが、第十代崇神(すじん)天皇の皇宮は、図10.6の右下の部分にあったと記されているし、第十一代垂仁(すいにん)天皇と第十二代景行(けいこう)天皇の皇宮は、右上の楕円の「推定宮殿地区」というあたりにあったと、記されている。
 つまり、古代の天皇紀と考古学的推定とが一致しているのだ。
 これもまた、何百年ものちの《飛鳥(あすか)京》や《藤原京》とならぶ、注目すべき《纒向京》の特色である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀518』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月21日(木)11時33分27秒
  [承前]

〈C5〉外来土器が突出して多い

 弥生時代の終末期から古墳時代の前期にかけては、それまでにくらべて日本列島の各地域間の交易や人の移動が盛んになった時代である。
 したがってこの時期から各地の集落遺跡に、他の地方の特色をもった土器が増加するのだが、その増加の率は《纒向(まきむく)京》が突出しているのである。
 一般に弥生集落にある外来土器の比率は数パーセントていどであるし、《纒向京》の直前に栄えた「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」でもほぼ三パーセントで、それがふつうだったのだが、それが《纒向京》では、じつに三十パーセントにもなるのだ。
 突如として十倍に増えたのである。
 このことも、《纒向京》がそれまでの大規模集落とちがって環濠がなく河川利用ができ、外部との往来に便利な構造になっていたことと関係している。

《纒向京》で見つかる外来系土器は、北九州製から新潟や東海製までさまざまだが、なかでも多いのが、伊勢から東の東海地方の形式である。
 これは、《纒向京》を中心とする《大和(やまと)》地方が、伊勢(三重)やその先の尾張(おわり 愛知)・美濃(みの 岐阜)などと密接な関係をもっていたことを示している。
 交流と軋轢の両方があったのだろう。
 一方瀬戸内海沿岸の文化の中心だった吉備(きび 岡山)だが、ここからの外来系土器は、最初期こそ多かったが、のちに減少し、《纒向京》の終末近くにはほとんど無くなっている。
 これは吉備勢力の消長を暗示しているようで興味ぶかい。

 もうひとつ土器についていえるのは、同じ大和(奈良県全体)でも、とくに《纒向京》とその周辺だけに新様式が多いということである。
 つまり、前期の巨大古墳が密集している図10.13の地域にのみ、新しいタイプの土器が多く出土し、それ以外の大和地方(奈良県全体)は伝統的な弥生土器が大半なのである。
《纒向京》が当時の日本列島のなかでいかに特別な場所だったかが分かるであろう。

〈C6〉出土品の品種の豊富さ

 ここからは、他の地方では見られない種類のさまざまな遺物の発掘が続いている。
 祭祀(さいし)用のほかに、農耕具、建築用具などで、なかには用途不明の金属製品などもある。

[つづく]
 

訂正  投稿者:三保 平清  投稿日:2007年 6月20日(水)16時46分49秒
  済みません。編集削除がうまくいきませんでした。下記URLは関係ありません。

http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1117&forum=8

 

内政干渉  投稿者:三保 平清  投稿日:2007年 6月20日(水)16時24分12秒
  ウイング様
まさに「内政干渉」以外の何物でもありませんね。「安部晋造」どうするか、どうせその決着は「参院選」が終わってからの事になるでしょうが。今回は無視するなどと言う訳にはいかない。「竹島」を見よ。「靖国参拝」を見よ。どう対応するかで、「安部内閣」と日本民族の将来が決まる。個人的には、「米国債の売却」が一番かと。その「米国債」は米国が保有している。えっえっえっ???

http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1117&forum=8

 

『卑弥呼と日本書紀517』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月20日(水)11時19分39秒
  [承前]

〈C2〉環濠がない

 第十・二節で述べたように、この《纒向(まきむく)京》には環濠がない。
 これは、それまでの弥生遺跡とも違うし、同時代の他の地域の集落跡ともまったく違う特色である。
 守るための環濠がなく、逆に外部との交通を便利にするための河川の利用や一種の運河までつくられていたのだ。
 都市――大規模な集落――の性格が、このとき大きく変化したことを意味している。
 これは、前述のように、外敵から攻められる恐れが減り、仮に攻められても簡単に追い返すほどの力を持つにいたった強力な首長がこの《纒向京》の支配者であったことの強力な証拠である。
 そしてそれは、第八章に記した『日本書紀(やまとのふみ)』三天皇の記述と、じつによく照応しているのだ。

〈C3〉人工の運河の遺跡がある

 これまでに見つかっている運河遺跡は図10.6にあるように一部分だけであるが、《纒向京》の全体像から判断して図の部分だけで終わった筈はなく、もっと長い運河が四方に走っていたであろう。
 そしてその工事はじつにしっかりしたもので、木材による護岸壁もきちんと造られており、高度な技術が使われていたことがわかっている。

〈C4〉竪穴(たてあな)住居が見つかっていない

 これは、《纒向京》の特異性をもっともよく表している事実である。
《纒向京》の時代である弥生時代から古墳時代前期にかけての日本列島の住居は、竪穴式が一般である。
 ところが《纒向京》には、この広い面積があるのに、竪穴式住居がひとつも見つかっていないのだ。
 見つかるのは、高床(たかゆか)式および平地式のみである。
 高床式は弥生から古墳前期にかけては豪族の住まいまたは収蔵庫とされた種類の高級建築物である。
 同時代の一般庶民用の竪穴住居が《纒向京》のどこにも見つかっていないという事実は、やはりこの都が時代を画する、そして他地域の集落とはまったく異なった性格を持っていたことを意味している。
(むろんこれまで見つかっていないから存在しなかったとは言えない。しかし、仮に存在したとしてもごく僅か、または周辺地域のみだったのであろう)

[つづく]
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日:2007年 6月20日(水)06時41分11秒
  『米下院、26日に慰安婦決議案採決…賛成多数で採択見通し』(Yahoo!ニュース)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070619-00000304-yom-int

米下院、26日に慰安婦決議案採決…賛成多数で採択見通し

6月19日12時44分配信 読売新聞

【ワシントン=五十嵐文】米下院のトム・ラントス外交委員長(民主党)は18日、本紙の取材に対し、旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で日本に公式謝罪を求める決議案を、26日に同委員会で採決すると明らかにした。

 決議案への支持は与野党に広がっており、賛成多数で採択されるのは確実な情勢。今後は下院本会議でも採択されるかどうかが焦点となる。

 決議案は1月にマイケル・ホンダ議員(民主党)が提出し、当時6人だった共同提案者は18日時点で、140人に上っている。当初は早期採決を目指していたが、安倍首相の4月の初訪米を受けて延期していた。

 日本政府は、決議案は事実に基づいていないとして反対する一方、首相が訪米時にペロシ下院議長やラントス委員長らと会談して元慰安婦へのおわびを表明するなどして沈静化を図ったが、議会の動きは止まらなかった。


内政干渉です、これは。

 

『卑弥呼と日本書紀516』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月19日(火)11時30分39秒
  ■■■■■ 十・八 国家の黎明(れいめい)を告げる古代の都《纒向(まきむく)京》2――その都市構造――■■■■■


◆◆◆ C 飛鳥(あすか)京・藤原京を先取りする都市構造 ◆◆◆

〈C1〉圧倒的な広さ

 前節の続きである。
《纒向京》より前の弥生集落にも、考古学者を驚かせるような巨大なものがある。
 たとえば、

  池上曽根遺跡  一二ヘクタール(中心部のみ)
  唐古・鍵遺跡  一六ヘクタール(中心部のみ)
  吉野ヶ里遺跡  四五ヘクタール
  妻木晩田遺跡 一六五ヘクタール

 ――などが知られている。
 とくに鳥取県の日本海よりで発見された妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、考古学者を絶句させたほどの大きさで、『魏志倭人伝』にある国の一つではないかともいわれている。

 しかし、全盛期の《纒向京》は、この妻木晩田をも大きく上まわる、隔絶した大きさをもっていたのだ。
 すなわち、推定だが、

  纒向遺跡(纒向京) 四〇〇ヘクタール

 ――もあるのだ。
 有名な吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の十倍である!
 この広さは、三百五十年ものちの《飛鳥京》の約二五〇ヘクタールを凌駕し、また日本で最初の都市計画による造都とされる《藤原京》の約六七〇ヘクタールにすら匹敵している。
 驚くほかはない。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀515』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月18日(月)12時59分16秒
  [承前]

〈B6〉新嘗(にいなめ)祭の遺跡が数カ所で見つかっている

 新嘗祭の原形と思われる祭の遺跡が何カ所かで見つかっている。
 新嘗祭とは天皇がその年に収穫された穀物を神前に供え、またこれを食して、神々に感謝する行事である。
 一般国民もこれに参加する。
 古くは陰暦十一月の卯の日に催されたが、いまでは十一月二十三日になされる。
 戦後はこれを「勤労感謝の日」という奇妙な名前で呼んで国民の祝日としているが、もともとは新嘗祭である。
 さらに天皇の即位後に初めておこなうものを大嘗祭(だいじょうさい/おおなえのまつり)といって、「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)」とからんで、きわめて重要な宮中の儀式である。
 この新嘗祭がいつからはじまったのかは、議論のあるところであるが、その原形らしい遺跡がここで見つかったということは、《纒向(まきむく)京》と天皇家とが不可分の関係にあることを暗示している。
 遺跡からの判断では、この祭の際に地方の豪族から農産物が供物として献上されたらしいとされる。
 これもまた興味ぶかい発見である。

〈B7〉新しい形式の祭祀(さいし)用具の出土

 それまでの弥生時代の集落から出土している土器をはじめとする祭祀用具にくらべて、新しい形状をもった祭祀用具が多く出土している。
 このことも、《纒向京》が時代を画した都であったことを示唆している。


[つぎは『十・八 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》2――その都市構造――』]
 

『卑弥呼と日本書紀514』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月17日(日)12時17分53秒
  [承前]

〈B5〉神社の祖と思われる建物の遺跡がある

 図10.6の解説(第十・二節)で記したように、初期《纒向(まきむく)京》と思われる地域の北東の隅に、宮殿と思われる古代建築の遺跡が発見された。
 これは専門家の手によって復元図が描かれており、それは図10.17のような形をなしている。

図10.17
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 柱の間隔はきちんと三十二センチになっていて、魏の国の魯般尺と呼ばれる縁起のよい単位の一尺に一致している。魯般尺は〈卑彌呼〉の時代に魏との交流の結果として伝わったと想像されている。
 またこの尺は出雲(いずも)大社や伊勢神宮の宝殿にも古くから使われてきた単位である。
 つまりこの遺跡は神社の原形とも考えられるのだ。

 図10.17が当時の面影を映しているとすると、これは神社建築様式のなかの神明造(しんめいづくり)と大社造(たいしゃづくり)を折衷(せっちゅう)したような形式である。
 神明造は切妻(きりつま)かつ平入(ひらいり)で屋根にそりがなく、その代表は《伊勢神宮》である(図9.3参照)。
 また大社造は同じく切妻だが妻入で屋根はそりをもっている。また入口が偏(かたよ)った位置にある。代表は出雲大社である。
 さらに南北二つの建物の配置は、伊勢神宮や熱田(あつた)神宮の宝殿を連想させる。
 このようないくつかの検討から、この遺跡が古代から続いている多くの神社の原形をなしていることは確からしく思われる。

(注・・・切妻は本を半ば開いた形の屋根、平入は屋根を横から見る部分に入口をもち、妻入は屋根が三角に見える部分に入口をもつ形式である)

 図10.17は場所からいうと宮殿(皇宮)と思われるが、祭政一致の古代においては首長の住居と行政の場所と祭祀(さいし)の場所とは一致するかあるいは同種の建築物であったと考えられるので、皇宮の原形はまた神社の原形でもある。
 元来が神社の本殿や拝殿は古代の貴人の住居の面影を残すとされており、したがってこの図10.17の遺跡は、宮殿であったと同時に、その後の全国の神社の原形となった可能性が、きわめてたかいのである。

 さらに図10.17の両側の建物は、高床(たかゆか)式の倉庫のようにもみえ、伊勢や熱田の宝殿配置にそっくりなのだが、これはまた、『魏志倭人伝』にある、

「租賦(そふ)ヲ収(おさ)ム邸閣アリ
(年貢を収納する倉庫がある)」

 ――という一文を連想させる。

 なお、この遺跡が皇宮や神社だったとして、そこの主が誰だったのかが問題になるが、初期の《纒向京》の主要建築物であるため、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉、若いころの崇神(すじん)天皇、あるいは崇神の前の開化天皇やその前の孝元天皇であった可能性もあるであろう。
 いまのところ、人物を特定する史料は発見されていない。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀513』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月16日(土)10時09分14秒
  [承前]

〈B4〉鏡の出土状況が他と異なる

 奈良県の古代研究で知られる石野博信は、〈卑彌呼〉が魏の王から鏡を受け、かつそれが有力者の墓に副葬された時期を西暦二四〇年から二七〇年ごろと仮定して、その時代の鏡の出土状況を調査している。
 それによると、合計六十面が発見されており、その分布は以下のとおりである。

  北九州(筑豊)   一七パーセント
  丹波・丹後・但馬  一三パーセント
  瀬戸内海周辺    二七パーセント
  大和・大阪湾周辺  三二パーセント
  関東・東北      八パーセント
  若狭・加賀      三パーセント

 つまり、大和(やまと)とその西側の大阪湾や瀬戸内周辺に、〈卑彌呼〉の時代の鏡の六割が出土しているのである。
 これに対して九州は一七パーセントでしかなく、古代《大和》勢力圏との差は歴然としている。

 さらに鏡の形式を調べると、この《大和》と北九州の差はもっと明確になる。
〈卑彌呼〉の鏡が威力を発揮したと考えられる前記の西暦二四〇年〜二七〇年の六十面の鏡は、大きく後漢式鏡と神獣鏡にわけられる。
 後漢式鏡は『魏志倭人伝』の時代の少し前の形式で、《籠(この)神社》のところでも述べた内行花文鏡がその代表である。
 また神獣鏡は四獣鏡、獣帯鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡などからなり、瑞祥(ずいしょう)のある獣の像が特徴である。そして、後漢式鏡よりもあとの四世紀まで使用されている。
 この二種類の鏡の分布を、各地方ごとに見ると、以下のようになる。

            後漢式鏡  神獣鏡
  北九州(筑豊)   六面    二面
  丹波・丹後・但馬  四面    なし
  芸備        四面    なし
  大阪湾岸      九面    なし
  近畿内陸      二面    五面
  四国北部      四面    五面
  上総        なし    二面
  会津        二面    なし

 これを見ると、《大和》地方や四国北部に、当時としては新しい形式だった神獣鏡が多く、瀬戸内海から九州にかけては、古い後漢鏡が多いことがわかる。
〈卑彌呼〉が魏の王からもらった鏡がどのような形式であったかについては、神獣鏡だろうという説、そうではないとする説、および混在説に分かれており、決着がついていない。
 ただ、新しい形式の神獣鏡が〈卑彌呼〉の時代に《大和》で流行しはじめ、輸入だけでなく国内でも数多くつくられはじめたことは、確かだと感じられる。
(以上の石野博信の資料に、「年輪年代法」の成果がどのくらい入っているかは不明で、新しい出土とあわせて変更される可能性もあるだろう)

[つづく]
 

No! Koreaのお知らせ  投稿者:在特会  投稿日:2007年 6月16日(土)08時22分44秒
  イベント告知いたします。皆様お誘い合わせの上、是非ご参加下さい。
No! Korea 〜韓国への反論がここからはじまる〜
主催:在日特権を許さない市民の会 / 東亜細亜問題研究会(共同主催)
日時:平成19年6月24日(日)14:00開場 14:30開始 18:00終了予定
場所:代々木八幡区民会館 (最寄駅:地下鉄千代田線代々木公園駅、小田急線代々木八幡駅)
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_yoyogi8man.html
入場料:無料
スケジュール:
14:00 〜    開場
14:25 〜 14:30 来場者への注意事項 / 講演者紹介
14:30 〜 15:00 基調講演 西村幸祐氏「反日プロパガンダに日本はどう対抗するべきか?」
15:00 〜 15:50 第一部 米田隆司氏「映画『かん天な人』と在日問題」
15:50 〜 16:00 休憩
16:00 〜 16:50 第二部 村田春樹氏「外国人参政権のもたらす危険性」
16:50 〜 17:00 休憩
17:00 〜 17:50 第三部 秦郁彦氏「虚構と真実の挟間に揺れる従軍慰安婦問題」
17:50 〜 18:00 閉会のあいさつ
在日特権を許さない市民の会公式サイト http://www.zaitokukai.com/

http://www.zaitokukai.com/

 

「TOKKO」という名の反日映画  投稿者:yf  投稿日:2007年 6月15日(金)19時40分6秒
  夕方のTBSの情報番組を見ていたら「TOKKO」という反日ドキュメンタリ映画の宣伝映像が流れてきた 記録映像を使っただけに迫力のあるシーンの連続だが これを創ったのが日系女流監督だそうな、、 また新手のプロパガンダ映画が7月に登場する、、。
http://www.cqn.co.jp/tokko/
レイプオブ南京 TOKKO 下院の日本批判決議案(慰安婦)と 金魚のウンコみたいに繋がっているが 特亜のバカ国家の息が係っているのはは間違いない、、。
 

『卑弥呼と日本書紀512』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月15日(金)11時57分43秒
  [承前]

◆◆◆ B 革命的な祭祀(さいし)遺跡 ◆◆◆

〈B1〉日本初の祖型(帆立貝(ほたてがい)型/手鏡型)前方後円墳が多い

 本格的な前方後円墳が出現する直前の墳墓形式である祖型(帆立貝型または手鏡型/図10.15参照)の古墳が、はっきりしているだけで五つもある。
 また周辺にもあるし、さらに現在では消滅してしまって「・・・塚」などの土地の名のみで推察される古墳も多い。
 帆立貝型は弥生時代から古墳時代への過渡期につくられた巨大古墳だが、その造営年代が、きわめて古いと推定されている。
 したがって日本列島でもっとも古い時代に、巨大な前方後円墳の原型が「発明」された地域であると考えられる。

〈B2〉日本で最初の「超巨大」古墳がある

 おなじみの《箸墓(はしはか)》は、日本列島で最初の「超巨大」な前方後円墳であり、神につかえる一皇女の墓であるにもかかわらず、その大きさはのちの時代の著名な天皇陵に負けていない。
 しかも、それまでの日本列島のどこにも無かった、まったく新しい前方後円墳という形状をなしている。
 つまり、「超巨大」という点でも、「前方後円墳というユニークな形状」という点でも、日本で最初の墳墓が造営された場所である。

〈B3〉前期前半の「超巨大」古墳はここのみ

《箸墓》のほかに同じ《纒向(まきむく)京》内には景行(けいこう)天皇陵があるし、そのすぐそばには崇神(すじん)天皇陵があるが、それらも前期前半の古い「超巨大」前方後円墳である。
 前期の前半の超巨大前方後円墳のあるのは《大和(やまと)》のみだが、そのうちの代表的な三墓がこの《纒向京》とその隣接地にあることになる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀511』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月14日(木)12時39分23秒
  ■■■■■ 十・七 国家の黎明(れいめい)を告げる古代の都《纒向(まきむく)京》1――その自然と祭祀(さいし)――■■■■■


 石野博信、苅谷俊介はじめ多くの考古学者が述べている《纒向京》の特徴を整理して箇条書(かじょうがき)にすると、以下のようになる。


◆◆◆ A めぐまれた自然環境 ◆◆◆

〈A1〉交通の便と防御の便がよい

《大和(やまと)》の主要部を占める《纒向京》が、大阪湾から船で大和川をさかのぼればすぐに着く場所にあり、瀬戸内海を経由して大陸や半島にまで連絡していることは、すでに何度も述べたとおりである。
 また日本海側の港である丹後半島の東の若狭湾に出るのも、決して不可能ではなく、さらに伊勢から東海への経路も可能な場所であることも述べた。
 一方東側は山地であるため狭い道しかなく防御は簡単で、背後から攻撃される恐れは少ない。
 また敵軍が南から北上しようとしても、神武(じんむ)東征の苦労で分かるように紀伊の国の山地がひかえていて困難である。
 したがって、主な部隊は西側の生駒(いこま)山地と金剛山地の間の大和川周辺のみを守ればよく、防御もしやすい。

〈A2〉聖山《三輪山》の山麓にある

 当時の人たちにとって特別な聖山だった円錐形で秀麗な《三輪山》の山麓にあり、祭政一致の時代にあっては、絶好の場所であった。
《三輪山》は古く縄文・弥生初期の時代から信仰を集めていたと考えられ、事実縄文時代からの遺跡が山の周辺にある。
 したがってここに都をかまえたということは、その主が《大和》全体の祭祀と政治を手中におさめたということを意味している。
 とくに《大和》の外から来た豪族にとっては、ここに都をかまえることは、付近の諸豪族の頂点に立つことを意味していたであろう。
 神武天皇が三輪山麓の狭井(さい)川岸から皇后をむかえたことを想起していただきたい(第六章)。これは《大和》の祭祀権を手中にするための政治的判断だったと考えられる。

〈A3〉水田をつくりやすい斜面をなす

《纒向京》およびその周辺は、東の山地と西の大和湖(水郷 すいごう)の中間にあって、水の豊富なゆるやかな斜面であり、したがって稲田をつくりやすい土地である。
 完全な平地だと――古代の土木技術では――水を万遍なく行き渡らせるのは大変だが、緩い斜面で斜面の上方に水源があると、きわめて容易に水田をつくることができるのだ。

〈A4〉大きな河川の流域で肥沃(ひよく)な土壌がある

 初瀬(はつせ)川(大和川)と寺川の流域で、そこに流れ込む無数の川があるため、肥沃な土壌が形成されていて夏枯れの心配もなく、農作物に最適な場所である。
 また斜面の微高地だから洪水の心配もない。

〈A5〉山地が近く木材が得られやすい

 東側は《三輪山》だけではなく巻向(まきむく)山、初瀬山はじめ笠置(かさぎ)山地の山々があり、そこから巨木をふくめて木材を容易に得ることができる。

〈A6〉鉄や玉や朱が得られやすい

 周囲の山々――とくに《三輪山》――は鉄を含んでおり、それが川に流れ込んだ砂鉄もあり、古代の重要産物である鉄を得ることができたと考えられる。また付近の山々は玉の産地であり朱の産地でもあった。

[つづく]
 

訂正  投稿者:臨時匿名志望  投稿日:2007年 6月14日(木)04時10分33秒
  訂正
親支那派どころか自称「右翼」掲示板の常連でも、戦争を擁護する論や異論に対して暴力で「風圧する」→「封殺しようとする」手合いが多いこと。
 

『卑弥呼と日本書紀510』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月13日(水)12時36分39秒
  [承前]

 従来からの考えでは、古墳時代のはじまりは前期形状の古墳が出来はじめた時期とされ、それは図10.10で説明したように、最近になって、西暦三〇〇年ごろから西暦二五〇年ごろにさかのぼることになった。
 しかしその直前の祖型の墳墓も、弥生時代の小型の円墳墓とは大きさも形状も明らかに異なっており、古墳時代の特徴を備えている。
 したがってこれらの祖型墳墓ができた時期を古墳時代のはじまりとする考え方もある。
 となると《大和(やまと)》における古墳時代の幕開けは、西暦二〇〇年より前にまでさかのぼることになる。
 この問題については、考古学者の間でも意見の統一はまだ見られないようである。

図10.16
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 図10.16には、《箸墓(はしはか)》と第十代から第十二代までの一皇女三天皇の四つの前方後円墳の形状を描いておいた。
 これは長年のあいだに損壊したり、また幕末に修復したりしているので、最初の形を厳密に残しているとは限らないが、いずれも本格的な前方後円墳で、大きさも拮抗しており、《箸墓》が三天皇の墓とほぼ同一寸法であることが印象的である。
 つまり《箸墓》は、単なる一皇女の墓とはとても思えないほど巨大なのだ。
 しかも、史上有名な三天皇に先駆けての造営なのである。

**********

 この節では前方後円墳の大きさや形状に着目して《纒向(まきむく)京》とその周辺の特徴をみてきたが、もちろん古墳以外にもさまざまな特色を、この《纒向京》は有している。
 次節ではそれらを列挙してみることにしよう。


[つぎは『十・七 国家の黎明(れいめい)を告げる古代の都《纒向京》1――その自然と祭祀(さいし)――』]
 

Re:神武(じんむ)東遷は遡(さかのぼ)ると?  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月12日(火)23時46分46秒
  ご感想ありがとうございます。
神武東征伝説の問題は高地性集落の所に記しましたが、私も確かに史実を反映した伝承だと思っています。だたしその時期は〈卑彌呼〉の時代よりかなり前だと思います。
・・・と言いましても素人(しろうと)の感想に過ぎませんが・・・。
 

神武(じんむ)東遷は遡(さかのぼ)ると?  投稿者:MOND  投稿日:2007年 6月12日(火)18時07分51秒
  オロモルフ様
いつも興味深く読ませて頂いています。
最近の動向では、いつの間にやら九州説を置き去りにしているそうで、目から鱗(うろこ)でした。
 しかしながら、一向に解決されないのは、伝承で神武東遷伝説があること、祭祀(さいし)が近畿では銅鐸文化であったことで、いつから自生的に三種の神器(じんぎ)に移り変わったのかということが問題でありましょう。
ま、先を急がず傾聴(けいちょう)いたします。
 

『卑弥呼と日本書紀509』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月12日(火)12時37分18秒
  [承前]

◆◆◆ 前方後円墳の一覧と形状変化 ◆◆◆

 つぎに、これらのなかでもとくに目立つ前期「超巨大」前方後円墳が、中期・後期まで含めた前方後円墳群のなかでどのような地位にあるのかを、日本列島のすべての前方後円墳を大きさの順にならべたベスト二十の一覧で示してみよう。

図10.14
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 図10.14がそれである。
 もちろん最大は、世界でも最大といわれる仁徳(にんとく)天皇陵で、墳丘長だけで五百メートルに近く、面積は東京ドームの外周の三倍もある。これに三重の周濠を入れると長さ八百メートルにも達し、ほとんど一キロである。
 面積は東京ドームの十倍である。
 こういう超々巨大な天皇陵は中期古墳であるが、それらのベスト三を除くと、《大和(やまと)》の「超巨大」古墳群は、中期や後期の古墳群に劣らない大きさをもっている。

 仁徳陵などを含めた全体で景行(けいこう)天皇陵が七位、《箸墓(はしはか)》が十一位、崇神天皇陵が十六位である。
 そのなかでも最古が《箸墓》であるが、この中期後期に負けない大きさの「超巨大」前方後円墳が、《纒向(まきむく)京》に「いきなり」出現したのである。

図10.15
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 図10.15に、

   祖型(二〜三世紀)
   前期(三〜四世紀)
   中期(五世紀)
   後期(六世紀)

 ――にかけての形状の変化の概略を描いた。
 個々によって形は異なるが、おおまかにはこういった変化――すなわち時代とともに前方部が次第に大きくなる変化――をなしている。
 祖型については、前方部の形状が推測の域をでないことも多いが、その形から帆立貝型と呼ぶこともある。
 また前方部がもっと細長いものもあるらしい。

[つづく]
 

誰のことを言っているのか  投稿者:臨時匿名志望  投稿日:2007年 6月11日(月)17時36分7秒
  暫時匿名希望 よ!  投稿者:よう!  投稿日:2007年 6月 8日(金)21時44分44秒
>手前は、日本が中国を侵略するのは正当化されるけど、中国が日本を侵略するのはいけないなどという幼稚園未満の論理を展開して、(1)
>右翼の恥を世界中に晒したから俺は怒ったんだ。(2)
>お前みたいな奴が右翼や日本人を名乗るのは日本の恥だ。(3)

返答
(1)おれはそんなこと、どこにも書いていない。勝手に人の意見を捏造(ねつぞう)しないこと。
(2)国や侵略に関する「自分と違う意見」ごときで怒るそっちの方が幼稚。
(3)おれは一度も「右翼」など名乗っていないし、そんなもの名乗る意味もない。

では、さよなら。

訂正
親支那派どころか自称「右翼」掲示板の常連でも、戦争を擁護する論や異論に対して暴力で「風圧する」→「封殺しようとする」手合いが多いこと。
 

『卑弥呼と日本書紀508』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月11日(月)12時15分21秒
  [承前]

図10.13A(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013A.htm

図10.13B(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013B.htm


 Aは下方が《纒向(まきむく)京》で中央から上が天理市の範囲で朝和(大和 やまと)、柳本と呼ばれる古墳群である。小さな黒点もすべて古墳であり、数え切れないほどの古墳が密集していることがわかる。
 Bは上部が《纒向京》の南端で、下方が磯城(しき)から磐余(いわれ)と呼ばれた地域で、現在の桜井市の南部である。Bの中央部に古墳が見られないのは、地形的に河川を中心とした低地であって古墳の造営に適していないからである。
 このAからBにかけての土地は、前述した初瀬(はつせ)川(大和川)と寺川の流域でつくられた農業や住居に適した地勢をもち、範囲は広いが両河川の流域という意味では単一の地域である。
 A、Bにある大きな古墳は、そのほとんどが祖型と前期の前方後円墳である。

 参考までに、北から順に書き出してみよう。
( )のなかは所属する地域名と周濠を除いた墳丘長の概略値である。
 巨大、超巨大の区別も記しておいた。

  東殿塚古墳(朝和/一三九メートル/巨大)
  西殿塚古墳(朝和/二三四メートル/超巨大)
  中山大塚古墳(朝和/一三二メートル/巨大)
  黒塚古墳(柳本/一三〇メートル/巨大)
  崇神(すじん)天皇陵(柳本/二四二メートル/超巨大)
  景行(けいこう)天皇陵(纏向/三一〇メートル/超巨大)
  勝山古墳(纏向/九〇メートル/巨大)
  纏向石塚古墳(纏向/九六メートル/巨大)
  矢塚古墳(纏向/九六メートル/巨大)
  東田大塚古墳(纏向/九六メートル/巨大)
  ホケノ山古墳(纏向/九〇メートル/巨大)
  箸墓(はしはか)古墳(纏向/二八〇メートル/超巨大)
  桜井茶臼山古墳(磐余/二〇八メートル/超巨大)
  メスリ山古墳(磐余/二五〇メートル/超巨大)

 ここでホケノ、メスリというカナ名は、その古墳の場所の小字名が昔からカナで表記されていたからであり、漢字が難しいからカナにしたわけではない。
 年代・形状や出土品などについては後述するが、とにかく《纒向京》を中心とした地域に、弥生時代から古墳時代への過渡期と見られる最初期(祖型と前期)の「巨大」および「超巨大」な前方後円墳がずらりとならんでいることがわかるであろう。
 図10.13の最初期古墳群はまさに壮観である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀507』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月10日(日)12時00分2秒
  [承前]

◆◆◆ 前方後円墳の《大和(やまと)》での分布 ◆◆◆

 これらの祖型と前期の巨大、超巨大な前方後円墳によって彩(いろど)られる《纒向(まきむく)京》の雰囲気を、図10.11と図10.12によって感じとっていただきたい。

図10.11、12
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1010-1012.htm

 図10.11は北方からの航空写真で、中央が崇神(すじん)天皇陵、右上が景行(けいこう)天皇陵で、上部中央が聖山《三輪山》である。
 図10.12は南方からの航空写真で、中央下部が《箸墓(はしはか)》であり、右上が景行天皇陵である。
「超巨大古墳」が《纒向京》の地勢そのものとなっていることが実感されるであろう。

 つぎに《纒向京》およびその北方と南方の古墳群を描いた地図を、図10.13のAとBに示しておこう。

図10.13A
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013A.htm

図10.13B
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013B.htm


[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀506』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 9日(土)11時35分16秒
  [承前]

◆◆◆ 前方後円墳の分類 ◆◆◆

 話を《纒向(まきむく)京》にもどして、この日本最古の本格的な都の内部とその周辺――すなわち狭い意味での《大和(やまと)》――には、最初期の前方後円墳がきわめて多い。
 おおまかにいって《大和》の前期の前方後円墳は全国の四割をしめるが、最初期の大古墳にかぎれば、百パーセントが《大和》にあるといってよい。
 古墳時代はかなり長いため、三つにわけられており、

 前期・・・ほぼ三〜四世紀
 中期・・・ほぼ五世紀
 後期・・・ほぼ六世紀

 ――と考えればよい。
 このほかに前期と弥生期の境目にあるものが《纒向京》には多いので、これを祖型とすると、

 祖型・・・ほぼ二〜三世紀

 ――となる。
《纒向京》にあるのはほとんどが祖型か前期のなかでもとくに早い時期のものであり、真の意味で最初期の巨大な前方後円墳によって《纒向京》が構成されているといっても過言ではない。

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

 図10.6を振り返っていただけばおわかりのように、《纒向京》には少なくとも七つの最初期の前方後円墳があり、それは大小二つの大きさに分かれている。
 しかし小とみえる古墳も、じつは弥生時代の墳墓にくらべればはるかに巨大で墳丘長が百メートルもある。
 そしてその多くは前方部が後円部にくらべて小さく、円墳時代の形状を残している。
 この前方部が小型の形の古墳は、時代的には超巨大な前期古墳の前であり、形状も過渡的なので、前記のように祖型と呼ぶことにしたのであるが、便宜上大きさの呼び方をつぎのように決めよう。

 祖型(前方部が小さく、墳丘長が百メートル前後)→「巨大」
 前期(前方部が大きく、墳丘長が三百メートル級)→「超巨大」

 百メートル前後とは、サッカー・グラウンドの大きさであり、図10.6では小さくみえても、じっさいにはじつに「巨大」なのだ。
 さらに三百メートル級の「超巨大」になると、東京ドームの外周を上まわり、周濠を合わせるとドームよりはるかに大きい。

[つづく]
 

◆軍事特許対策の国際比較  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 9日(土)11時30分13秒
   前に一部掲載したと思いますが、軍事特許の日本の扱いを批判したことがありました。
 今回それを短くまとめて保存頁に保存しました。
 よろしければどうぞ・・・。
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/gunji-pat.htm
 

暫時匿名希望 よ!  投稿者:よう!  投稿日:2007年 6月 8日(金)21時44分44秒
   手前は、日本が中国を侵略するのは正当化されるけど、中国が日本を侵略するのはいけないなどという幼稚園未満の論理を展開して、右翼の恥を世界中に晒(さら)したから俺は怒ったんだ。

 お前みたいな奴が右翼や日本人を名乗るのは日本の恥だ。
 

『卑弥呼と日本書紀505』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 8日(金)12時41分12秒
  [承前]

 さて、前方後円墳の命名だが、蒲生君平(がもう-くんぺい)は『山陵志』のなかで、つぎのように記している。

「其爲制也。必象宮車。而使前方後圓。爲檀三成。且環以溝。」

 読み下(くだ)すと、

「その制をなすや、かならず宮車にかたどり、前方後円となさしめ、檀をなすに三成とし、かつめぐらすに溝をもってす。」

 ――である。

 これが前方後円墳の語源で、言い得て妙である。
 蒲生君平のころは上から見ることは難しく、横からみた形を前方後円と描写したのだ。
 さらに君平はこの形が古代の宮車を模したものだと推理している。この推理は現在では否定されているが、面白い考えである。
 檀をなすに三成――というのは、墳丘が三段でできているという意味だが、たしかに古代の前方後円墳はそういう作り方が多かったらしい。
 蒲生君平は戦前は修身の教科書の常連だったが、戦後は忘れられている。
 しかし日本独自の巨大墳墓に「前方後円墳」という名をつけただけでも、日本人が記憶すべき人物ではないだろうか。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀504』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 7日(木)12時23分19秒
  ■■■■■ 十・六《纒向(まきむく)京》に集中する「祖型および前期」前方後円墳の概観 ■■■■■


◆◆◆ 前方後円墳の名づけ親 ◆◆◆

 日本の古墳時代は弥生時代と飛鳥(あすか)時代をつなぐ重要な時代区分であるが、それは巨大な前方後円墳で特徴づけられている。
 巨大前方後円墳は世界的にみてきわめてユニークな日本独特の墳墓形状である。
 弥生時代の小さな円墳が巨大化する過程で小さな方形部をもつようになり、その方形部が、相対的に急激に大きくなり、ついには円形部を上まわるようになった――と考えられている。
 方形部の役割は、墳墓造営後の祭祀(さいし)に関係しているらしい。

 前方後円墳というお馴染(なじ)みの名称を発案したのは、江戸後期の勤王の志士として高山彦九郎とならんで著名な蒲生君平(がもう-くんぺい)で、出典は文化五年(一八〇八年)に刊行された『山陵志』である。
 山陵とは天皇や皇后の御陵(みささぎ/ごりょう)のことであるが、この本は極貧(ごくひん)のなかで全国の天皇陵をめぐった君平が、その現状を漢文で書き記したもので、御陵についての総合的な研究書の先駆である。
 その前に松下見林が似た仕事をしているが、昔の史書を参考にしただけで実地の調査はほとんどしなかったといわれており、内容においては『山陵志』が群を抜いている。
 蒲生君平はこの経験によって、天皇陵が荒廃しているさまを知り、心を痛め、その修復や維持を幕府に訴えた。
 訴えは幕府には通じなかったが、それからほぼ六十年ののち宇都宮藩がこの『山陵志』に刺激されて御陵の修復整備を計画し、幕府の許可を得て実行した。
 そして文久三年(一八六三年)から慶應元年(一八六五年)までの幕末騒乱期に、百以上の天皇陵を修復し垣根(かきね)をめぐらすなどして荒らされることを防いだ。
 これは昨今の幕末史ではほとんど無視されている偉業であった。

[つづく]
 

歴史上、国家レベルの侵略、略奪は正当化される  投稿者:暫時匿名希望  投稿日:2007年 6月 5日(火)15時05分41秒
  以前、別の網名(ハンドルネーム)で書き込んでいましたが、今回、以前の別のネット閲覧者に関わることなので、別の名前を使い、匿名にします。

------------------------------------------------------
数年前、「ざ。右翼」というホームページの掲示板が今のスレッド式でなくこの「帝國喫茶室掲示板」に近い形だったころ。

「南斗六星」という人物が確か大英博物館などを理由に「国家レベルでは略奪も侵略も正当化されるのでしょう」と書き込んだ。

すると常連だった「国士夢想」または「人間権利」がブチ切れて、「南斗六星」と共に支那に留学中だったらしいが「南斗六星」をボコボコに殴って投稿をやめさせたらしい。

「国士夢想」いわく「お前の投稿を中国語に訳して配って中国にいられなくしてやる」、「お前の部屋のものを略奪していいのか」だそうだ。

その後、「国士夢想」は本人に謝罪しようだが、ネットでは「あんなのなでた程度だよ」と書き込んでいた。
一部、ここの某投稿者の書き込みが「国士夢想」のそれと重複しているのを見た記憶もある。

会って話ができる環境でネットで「会話」すると暴力沙汰になるとう典型例だが、ここからわかることは、親支那派どころか自称「右翼」掲示板の常連でも、戦争を擁護する論や異論に対して暴力で風圧する手合いが多いこと。

それから加害者は絶対に反省しないということだ。口では本人に謝罪しても社交辞令、外交辞令にすぎない。

また、「侵略は国家レベルで正当化される」というのは本心の侵略肯定でなく、逆説的な皮肉だととるのが大人の世界だが、最近は大人の年齢でもそこをわからない世代が増えているようだ。

最近、話題の「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」も日本にいた大和(やまと)以外の諸民族にとっては侵略者であろう。
日本の戦国時代を描いた「風林火山」でも「侵掠(しんりゃく)すること火のごとし」と言っている。

やはり、国家レベル、そして古代から続く歴史全体では、侵掠や略奪は正当化されるのだろう。
何しろ映画で海賊が英雄化されているくらいだから。
「正当化される」ということと「だから正しい」ということは違うが、ネットに書き込んでいる自称「愛国者」でも、そういう深い洞察力がないようだ。

昔から外交と防衛というのはどちらが先に手を出そうが、戦争も侵略もあって当然という前提で行われている。
 

島根応援隊  投稿者:海若  投稿日:2007年 6月 3日(日)15時55分51秒
  日本文明の出発点ってかんじですね。司馬遼太郎も「砂鉄のみち」というエッセイで島根県東部の安来(やすぎ)、奥出雲(いずも)地域を旅行したときの印象記の中で、日本を日本たらしめたのは鉄のおかげだといっていたことを思い出します。島根は一度いってみたいですね。  

『卑弥呼と日本書紀503』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 3日(日)11時48分17秒
  [承前]

 しかし「年輪年代法」の威力が認められるようになった二十世紀末になって、大和(やまと)の古墳時代の始まりと〈卑彌呼〉の没年とが一致するという判断が主流になったのだ。
 さらに細かな検討の結果として、本邦初の「超巨大」前方後円墳である《箸墓(はしはか)》の造営年が、西暦二五〇年から二六〇年の間くらいだろうと推定されるようになり、

「《大和》説における年代の矛盾が一挙に解消してしまった」

 ――のである。
 そしてその同じ年代には、《箸墓》のような「超巨大」な墳墓は、《大和》以外のどの地域にも――北九州にも南九州にも――存在しないことが、あらためて認識されるようになってきたのである。

**********

 この節の最後に、
「《邪馬台国》大和説」と「《邪馬台国》九州説」の論争にこの「年輪年代法」の成果が与えた影響について、倉橋秀夫のコメント(大意)を紹介しておく。

「・・・「年輪年代法」で《大和》の古墳の年代がずっと古いことが分かった結果、九州説につきものの《邪馬台国》東遷時期より以前に、《大和》に九州より大きな墓があり、その後に九州に大和式の墓ができるようになったと認められるようになった。土器も近畿から九州への流れが認められるようになった。
 ・・・すくなくとも《纒向(まきむく)京》に日本列島ではじめて大王墓――箸墓のこと――ができたことは間違いない。
 ・・・最近では考古学者の九割までが「大和説」になり、九州在住の考古学者でさえそうなっている」

 断言はしていないが倉橋の感想は「大和説」極めて有利であり、著者もそれに同感である。


[つぎは『十・六《纒向京》に集中する「祖型および前期」前方後円墳の概観』]
 

『卑弥呼と日本書紀502』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 2日(土)11時43分40秒
  [承前]

◆◆◆「年輪年代法」に基づく編年表の大修正 ◆◆◆

 以上のような多くの適用結果を考古学者が受け入れた結果として、弥生時代から古墳時代にかけての畿内の編年表がどのように修正されてきたかを、図10.10に略描した。

図10.10
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1010-1012.htm

 いずれも佐原真、都出比呂志といった著名な考古学者の案で、倉橋秀夫の前掲書の資料をアレンジした。
 これをみると、一九七〇年の説Aと一九九八年の説Cとでは、弥生後期の始まりが二百年も後退し、古墳時代の始まりも五十年後退していることがわかる。
 さらに驚くのは、一九八三年Bから一九九八年Cまでのわずか十五年の間に、同じ学者の説が、弥生後期の始まりで百年、古墳時代の始まりで五十年も後退してしまったことである。
 この、一九八三年Bから一九九八年Cへの変化こそ、「年輪年代法」の衝撃によるものなのである。

(なお前述した放射性炭素年代測定法によっても、弥生前期の大幅な後退が唱えられており、精度は別にして「年輪年代法」と矛盾しない結果が出ているようである)

 読者の多くは、おそらく、一九八三年より前に中学高校などで弥生・古墳の年代を先生から習ったであろうから、その記憶と現在の最新の研究成果とは、弥生時代後期にして二百年も違っているのだ。
 都出比呂志は平成十年の講演録で、古墳時代のはじまりは三世紀半ば(一説では二世紀末)とわかったのに、教科書には検定基準によって三世紀末から四世紀初と書かねばならない――と述べている。

 再度図10.10をみて、〈卑彌呼〉の推定没年の西暦二四八年を縦軸で確認していただきたい。
 つい最近の一九八三年ごろまでは、その没年は畿内の弥生時代であって、古墳時代の始まりより五十年かそれ以上も前であり、したがって《大和》に径百余歩もあるような巨大な墳墓はなかった――とするのが通説であった。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀501』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 6月 1日(金)12時41分13秒
  [承前]

〈5〉その他の測定と《箸墓(はしはか)》の推定

 その後もいろいろな遺跡の出土木材が測定された。
 たとえば、《纒向(まきむく)京》の纏向石塚古墳の周濠から出た檜(ひのき)の板材は、西暦一九五年伐採らしいことがわかった。つまり〈卑彌呼〉の死の五十年以上も前の造営であることがわかった。
 またそのすぐそばの勝山古墳の周濠から出土した檜板は、西暦一九九年の伐採であることがわかった。

《箸墓》からの木材の出土はまだ発表されていないが、こういう多種の測定と土器の研究から、《箸墓》の造営年は、西暦二五〇年から二六〇年の間くらいであろうと推定されるようになった。
 それまでは、西暦三〇〇年以後であろうとか、どんなに古くても西暦二八〇年ごろであろうとかいわれていたので、これはじつに大きな修正だった。
『魏志倭人伝』から考えられる〈卑彌呼〉の死の西暦二四八年から五年後くらいには、《箸墓》ができたことになるが、巨大な墓の造営には最低でも五年はかかるだろうから、《箸墓》の造営年と〈卑彌呼〉の没年はピタリと一致することになったのだ。

 それまでは、〈卑彌呼〉の死から何十年もたって墓ができる筈はなく、したがって別の人物の墓だろうとされていたのが、あっさりと覆され、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉説」

 ――が急上昇することになったのだ。

 さらに、《大和》の古墳がこのように古いと判明したことは、逆にいうと〈卑彌呼〉の時代に北九州に無いような巨大古墳が《大和》にはあった――とわかってきたことでもある。
 それまでは、《大和》の発展は北九州より何十年か遅れていると考えられていたので、《大和》の巨大古墳と〈卑彌呼〉を結びつける人が少なかったのだ。

[つづく]
 


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