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喫茶室 過去ログ102(2007.11.1〜11.30)

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(無題)  投稿者:ウイング  投稿日:2007年11月30日(金)15時49分28秒
  『慰安婦:カナダ下院でも決議が通過』(livedoorニュース)
http://news.livedoor.com/article/detail/3409828/

慰安婦:カナダ下院でも決議が通過

2007年11月30日08時22分

 米国下院に続きカナダ下院も28日、日本軍慰安婦問題について日本政府に対し謝罪と賠償を促す決議を満場一致で通過させた。

 カナダ下院は決議で、「第2次大戦当時、日本軍がアジアの女性20万人以上を性奴隷として強制的に動員した事実を日本政府が認め、公式の謝罪と賠償を行うべきだ」とし、さらに日本の教科書にこのような戦争犯罪が日本軍により行われたという事実を明記することも促した。

 日本政府はこの決議案の通過前、スティーブン・ハーパー・カナダ首相に対し、「慰安婦被害者たちに対してはすでにやるべきことはやった」と伝え、決議案の採択を防ぐよう要請していたという。

 カナダ下院に先立ち、米国やオランダ下院も今年7月と11月に日本軍慰安婦についての決議を採択している。

ワシントン=崔宇ル(チェ・ウソク)特派員


内政干渉をすべきでない。

植民地支配を謝罪したのか?

 

朝鮮人の内地での生活(4)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月29日(木)22時19分2秒
   朝鮮人労働者の朝鮮での生活状況については前述したが、今度は内地での生活状況について説明したい。大正14年〔1925年〕末現在である。
1.土方 独身 27歳 月収 35円  2.職工 独身 30年 月収 28円
@ 下宿料    19.50       @ 下宿料    15.00
A 酒・煙草    7.00       A 酒・煙草       0
B 被 服        0       B 被 服        0
C 雑 費     2.00       C 雑 費        0
 計       28.50       計       15.00
D 送 金     5.00       D 送 金    10.00
E 預 金        0       E 預 金     2.00
F 残 金     1.50       F 残 金     1.00

3.職工(ガラス工場) 妻帯者    4.職工(染色工場) 妻帯者・子供
   妻 下宿経営(8人)         妻 飲食店経営
〈1〉収 入             〈1〉収 入
  夫     28.00        夫     55.00
 妻    184.00        妻    104.00
 計     212.00       計     159.00
〈2〉支 出             〈2〉支 出
@ 食料品  140.00       @ 生活費   25.00
A 家 賃   16.00       A 家 賃   17.00
B 被 服    3.00       B 営業費   61.00
C 小遣い    6.00         ※ 飲食店経営経費
D 雑 費   20.00       C 被服       4.00
 計     185.00      D 雑 費   20.00
E 残 額   27.00       計     127.00
E 残 額   32.00

 独身者は倹約して朝鮮に送金していることがうかがえる。送金できるだけの余裕があったとも言い得る。これでは朝鮮人が内地に移住したいという気持ちがよく理解できる。内地での生活がこれまで<日本統治暗黒史観論者>の言い分とは異なっていたことがわかると思う。
 それにしても朝鮮人はシブトイ。

 以上、そんなに過酷なものではなかったようだ。樺太で就労していた「朴魯学」は就労後1年半で朝鮮に1000円を送金している(自己資金−300円、後は借金)〔『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』新井佐和子 54頁 草思社 1998年1月5日〕。1000円といえば内地で家が1軒買える金額だったという。

 ★ 被服費が0なのは夏であると考えられる。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 87頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学
   法文学会 515頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地での生活(5)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月29日(木)22時17分15秒
   日本に渡航した朝鮮人労働者はどこに居住したのであろうか。それを示す資料がある。大正12年〔1923年〕の調査に基づく。主だった地域を挙げる。

        人 夫      職 工        計
大阪府    10,471    7,586    18,039
福岡県     9,872      620    10,492
兵庫県     2,754    1,947     4,701
山口県     4、124      106     4,230
京都府     2,267    1,620     3,887
長野県     3,817       64     3,881
岐阜県     3,420        1     3,421
北海道     2,990       33     3,023
広島県     2,491      357     2,848
新潟県     2,689       45     2,734
愛知県     1,817       64     2,710
東京都     2,183      335     2,518
合 計    61,528   16,452    77,980
      (78.90%) (21.1%)

 朝鮮人が技能などの問題もあり、人夫などの肉体労働者が大多数を占めていた。したがって、工事が多かった地域に居住者が多いことがわかる。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 78頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学  法文学会 506頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 ★ これまでもたびたび「山田文雄」の前掲書を引用したが、この時代に京城帝國大学に「朝鮮人労働問題」を専門に研究している者がいたのには驚いた。
 

朝鮮人の内地での生活(6)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月29日(木)22時15分29秒
   内地に渡航した朝鮮人の居住地を少し詳しく見てみたい。資料は末尾に挙げてある。居住者が1万人以上の府県を挙げる。なお、資料が見づらく数値を推測したことは前と同じである。

        大正13年   昭和元年    昭和4年    昭和8年
大阪府    27,046  35,229  67,864  140、277
東京府     8,285  13,291  15,988   39,314
愛知県     5,757  10,447  21,735   34,819
京都府     5,576   8,614  15,988   32,594
福岡県    13,542  13,810  23,835   31,510
兵庫県     7,392   8,519  14,738   30,440
山口県     5,786   5,761  10,026   17,796
広島県     3,398   4,178   6,638   14,856
神奈川県    4,028   6,420   9,942   12,976

 ※ 「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10052106078.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド A03023591400』
 ★ 「朝鮮人の内地への就労・移住」は先に説明したとおり、「獄長日記」を見たら加筆しなければならなくなり、ここに投稿したものの2倍の長さになってしまった。
 

朝鮮人の内地での生活(1)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月28日(水)08時33分38秒
   これだけ多くの朝鮮人労働者が内地に移入しても<歓迎されない客>であった。それについて、山田は次のように分析している。
  1. 朝鮮人労働者が内地人労働者に比べて知識程度が低く(学歴の違いについては先に説明した)、企業家の賃金は高くとも技能の優秀は熟練労働者を求めるという要望に答えられなかった。
  2. 朝鮮人労働者は国語が理解できる者が少なく、作業での意思の疎通を欠いた。
  3. 朝鮮人の習性として一定の場所に落ち着いて仕事を励むという習慣に乏しい。したがって、熟練の域に達すると他に転職するので、企業家も雇用の意欲を失う。
  4. 朝鮮人労働者を雇用する利点は賃金が安いということに尽きるが、不況の際には内地人労働者を雇用するので、失業の社会問題が発生する。
  5. 内地人労働者と朝鮮人労働者の折り合いが悪い。これは内地人の朝鮮人蔑視にも問題があるが、朝鮮人自身が他と融和せず、朝鮮人のみで団結し、協同生活を営むという資質に欠ける。
  6. 朝鮮人は正月に国に帰るという習慣があり、連続勤労を期待する企業家にとって好ましくない。
 これについて、「宣在源」は末尾の資料で解説しているが、事実なのかそうでないのかはサッパリわからない。つまり、何を言いたいのかが不明である。
 ただ、このような朝鮮人労働者の習性については、「朝鮮のルムペン−半島に於けるルムペン生活の特相−」桜井義之(『社会政策時報』協調会 1933年)、『朝鮮に於ける鉱夫労働事情』(朝鮮総督府殖産局 1930年)、「原地との関連性より見たる半島人の勤労管理」広崎真八郎 57頁〔『社会政策時報』協調会 268号 1943年〕)(「宣 在源」資料 引用)、朝鮮総督府警務局長「池田 清」から社会局長「丹羽七郎」への書簡(昭和9年〔1934年〕(「獄長日記」)でも指摘されている。単なる偏見とは言えない。
 偏見があることは否定しない。だが、この朝鮮人の習性(3、5)は現在でも同じで、そう簡単に直るものではない。ただ、「団結心」については疑問がある。朝鮮人は好くも悪しくも<孤高>である。団結心などない民族と理解している。ただ、内地人に対抗するうえで団結したのだろう。
 ※「日本人の朝鮮人労働者観」宣在源 139頁(『朝鮮史研究会論文集』朝鮮史研究会 No.34〔緑蔭書房 1996年10月31日〕)
  「朝鮮人労働問題」山田文雄 81頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学 法文学会 509頁 刀江書院 昭和4年9月10日)

 ※ 「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10052106078.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド A03023591400』
 ◆ 「獄長日記」を主宰する「dreamtale」さん、感謝してます。
 

朝鮮人の内地での生活(2)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月28日(水)08時28分24秒
   6.について末尾に挙げるとおりの資料がある。内地から朝鮮に帰還した朝鮮人数である。

      大正15年  昭和2年   昭和4年   昭和6年   昭和8年
1月    9,968 11,272 14,059 12,563 15,923
2月    9,851  5,896 15,377 12,155  6,572
3月    6,164  7,018  7,223  8,313  6,571
4月    6,019  5,849  7,867  7,757  9,071
5月    6,004  6,831  7,930  7,563  7,715
6月    5,993  4,874  8,356  7,373  8,887
7月    6,755  7,198 10,712  8,231  7,691
8月    5,950  7,830 10,134  9,716  9,379
9月    7,374  7,354  9,963  8,733  7,836
10月   7,142  8,838  9,656  8,446  9,366
11月   9,938  9,874 11,273  9,168  9,636
12月  10,331 11,157 13,847 10,962 10,449

 12月から2月にかけての帰還者が多いことがわかる。秋夕の時期である9月が少ないことに驚く。これだけ一定の時期に朝鮮に帰還されたら雇用者も困ったと思われる。

 ★ 字が薄くて判読できず、推定したものもある。

 ※ 「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10052106078.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド A03023591400』
 

朝鮮人の内地での生活(3)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月28日(水)08時26分18秒
   朝鮮人の大正12年〔1923年〕6月現在の大阪市における成年労働者の賃金は次のとおりである。大阪市の調査による。日給 朝鮮における朝鮮人賃金は同年末現在

       朝鮮における     内地における      内地における
        朝鮮人賃金      朝鮮人賃金       内地人賃金
                 最高    最低    最高    最低
農作夫     0.85    1.70  1.20  2.20  2.00
農作婦     0.48    0.90  0.85  1.20  1.20
洗濯夫     1.43    1.90  1.00  2.70  1.00
染色工     1.59    1.90  1.00  3.00  1.50
メリヤス工           1.90  1.00  3.00  1.50
紡織工             2.00  0.90  2.80  1.00
ガラス工            3.00  0.90  3.50  1.10
沖仲仕     1.46    2.50  1.70  3.00  2.00
人 夫     0.99    1.70  1.00  2.00  1.80
土 方     1.28    2.50  1.70  2.80  2.00
坑 夫             2.30  1.60  3.00  1.80

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 81頁
  (『朝鮮経済の研究』京城帝國大学 法文学会 509頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(53)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月26日(月)21時25分48秒
   昭和12年〔1937年〕に朝鮮総督府は労働者募集の指針を示した。これを以て「官斡旋」だという者(「広瀬貞三」−末尾資料)がいる。しかし、これは<労働者の供給調整>を定めたものであり、誤りである。こういう者の常道として、何が何でも<強制性>を誘導したい気持ちはわかるが、<妄言>である。
 これは、@ 方針、A 協定案(覚書案)、B 注意事項、3つからなる。
@ 「方針」は労働者の供給調整を定めたもので、2つからなる。

〈1〉6項目
  1. 道は労働供給調整のため、毎年1回、イ.工事量・所要労働者数の調査、ロ.就労可能者数の調査、を朝鮮総督府に報告する。
  2. 道は常に労働者の現況を明らかにし、毎月1回、次月の労力見込を朝鮮総督府に報告する。
  3. 道内における労働需給調整は道が行う。
  4. 道外における労働需給調整は朝鮮総督府の統制下にこれを行う。
  5. 労働者の保護・指導は就労地の道で行い、朝鮮総督府はこれに協力する。
  6. 労働者の募集は朝鮮総督府または道の承認を受けること。
〈2〉14項目
  1. 使用者は労働者の待遇の待遇並びに争奪防止に協定を結ぶ。
  2. 就労は日出から日没まで(適当な休息時間を含む)とする。
  3. 普通標準賃金は飯場料の2日分に相当する額とする。
  4. 賃金の支払は月2回以上とし、伝票の割引・売買は厳禁し、傷病・死亡についての慰謝料・葬祭料は雇主の負担とする。
  5. 飯場は直営や指定人が経営し、飯場料は1人当り35銭を標準とし40銭を越えないこと。主食物は1人1日9合(米・粟の混食)を標準とする。
  6. 地方連絡統制機関を業者、協会、関係官憲などで設置する。

 ※ 「「官斡旋」と土建労働者」広瀬貞三 115頁」
  (『朝鮮史研究会論文集』朝鮮史研究会 No.29〔緑蔭書房 1991年10月31日〕)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(54)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月26日(月)21時22分52秒
   「協定案(覚書案)」は朝鮮総督府において紹介する労働者に関する事項について協定を行い、朝鮮総督府内務局、雇用主、立会人(土木建築協会)が署名することになっている。
 その主たる内容は次のとおりである。
  1. 労働者の標準年齢は20歳以上45歳未満とする(26条)
  2. 並人夫で見習期間(約2週間)を過ぎた者の賃金は「日銭×銭」とする(2条)
  3. 宿舎はオンドル付を無償貸与とする(5条)。
  4. 単身労働者はできるだけ同一地方出の者20名内外を一団として、同一宿舎で共同共同自炊させる(6条)。
  5. 労働者の往復旅費は雇用主の負担で、始発乗車駅に至るまでの旅費・輸送諸雑費は朝鮮総督府が負担する(12条)。
  6. 旅費中で船車賃には朝鮮総督府が割引する(13条)。
  7. 労働者の家族旅費は朝鮮総督府が負担する(14条)。
  8. 雇用期間満了者や雇用主の都合で解雇した者には、帰郷のいかんを問わずに居住地までの旅費のほか日当1円を加算した額を雇用主が支払う(15条)。
  9. 公傷病のために帰郷する労働者の旅費は「経費の許す限り」朝鮮総督府が負担する(17条)。
  10. 毎月25日以上稼動した者には1円以上の奨励金を加算する(22条)。
  11. 雇用主は労働者への賃金支払のたびに1割程度の天引きしてこれを預金し「事情已むを得ざる場合の外」払戻しをしない(24条)。
  12. 雇用主は労働者の貯金額が19円を増すごとに1円を奨励金として支給する(25条)。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(55)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月26日(月)21時20分4秒
   「注意事項」は次のとおりであるが、これまでの「方針」および「協定案(覚書案)」の繰り返しとなっている。
  1. 労働調整に関する一般事項
  2. 労働者の募集・斡旋・輸送並びに不用労働者措置等に関する事項
  3. 飯場に関する事項
  4. 賃金、支払、貯金に関する事項
  5. 労働者の保護指導に関する事項
 以上のどこから朝鮮総督府が<労働者の斡旋>を行ったと言うのであろうか。「広瀬貞三」は<妄想>を抱いている。当時の朝鮮人労働者の内地移入については内地からの危惧もあり、また北朝鮮、満州でも労働者の需要もあり、朝鮮総督府としても過剰農業人口を何とか労働者として振り向けたいという意向もあって、当事者として労働行政に積極的に関与するのは当然であった。しかし、「官斡旋」を行った形跡はない。<労働者供給調整>に止まっていた。労働者の募集に当って主体となったのは先の「朝鮮土木建築業協会」で労働者の募集が進まないことから、警察の協力を求めたことはあったが(「第5回通常総会会長挨拶」〔『協会報』1941年7月号 31頁〕)、実際の協力がなされた報告例はない。「官斡旋」とは朝鮮総督府が<自ら>労働者を動員することである。先の3つの綱領を見てもそこまでは行ってない。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(50)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月25日(日)07時25分45秒
   昭和11年〔1936年〕5月30日、朝鮮総督府警務局は各道警察部長および日本派遣先に対し、「例規通牒」を送った。その内容は大正14年〔1925年〕10月を改定したものである。その比較をしてみる。
 双方ともこの条件に合致した者に対して「渡航許可書」あるいは「渡航紹介状」を本籍地または住所地の警察署長が発給し、渡航希望者が提出した「戸籍謄本」に奥書をして離鮮地の警察署長に通知あるいは紹介するものであった。

大正14年〔1925年〕               昭和11年〔1936年〕
1.許可を受けた募集業者による募集である    1.同じ
2.就職口がある                2.同じ
   内地の就職先を所轄する警察署に照会する
      必要なし                必要
3.国語(日本語)を解する           3.不必要
4.必要なる旅費以外の所持金10円以上     4.同じ
 を有する者
5.モルヒネ患者でないこと           5.不必要

 「国語」を解することが削除されたのは、労働に当って必要ないことと労働を継続すればその習得にそう問題がないと考えられたことによる。また「モルヒネ患者」は内地でそういう問題が少なくなっていたことを示している。それを除けば、「就職口」を確認するために警察署に照会することが義務付けられ、渡航条件は強化されたと考えられよう。「密航」の取締については先の『内甲第149号 朝鮮人移住対策ノ件』などと同じく厳重になされた。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(51)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月25日(日)07時23分13秒
   この改正の大きな点は、「扶養家族」の渡航を法制化したことである。その理由は、@非労働者の渡航は内地での朝鮮人労働者の家族によるものが多かった、A 内地での朝鮮人労働者の安定的労働を確保する必要があった、B 一時帰郷が内地の雇用者の業務を圧迫し、これを緩和する必要に迫られた、にあった。この内容を見てみたい。
  1. 扶養義務者タル労働者ガ内地ニ在ル場合其ノ被扶養家族ノ渡航取扱
    (1)被扶養家族ノ渡航ニ関シテハ被扶養義務者ノ居住地所轄警察ニ対シ事前ニ其ノ扶養能力ノ状況ヲ照会シタル上扶養能力アル場合ニ於テ渡航セシムルコト
    (2)被扶養家族ガ妻ノ場合ハ前号ノ内地照会ノ際其ノ旨明記シ渡航取締上特ニ考慮セラルル様養成スルコト
    (3)被扶養家族ガ鮮内ニ於テ稼動能力ナキ父母及子ノ場合ニアリテモ前号ニ準ズルコト
    (4)被扶養家族渡航の場合ニハ本籍地又ハ住所地所轄警察署長ニ於テ離鮮地轄警察署長宛被扶養家族渡航紹介状ヲ発給スルコト
 

朝鮮人の内地への就労・移住(52)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月25日(日)07時21分19秒
   このような渡航規制は朝鮮総督府にとっては過剰農業人口の削減の観点から望ましいものではなく、昭和13年〔1938年〕3月8日、朝鮮総督と警務局長は「朝鮮人ノ内地渡航制限ニ関スル件」という電文を拓務大臣および拓務省朝鮮部長に送った。その時の朝鮮総督「南次郎」は、内鮮一体の理想は着々成果を挙げているが、朝鮮人の内地渡航制限は朝鮮人の反感を呼びそれを阻害している。これまで渡航に当っては朝鮮側と内地側で二重の規制がなされてきたが、朝鮮側の規制を信頼して船車、港湾、停車場などにおける一切の規制を撤廃することを求めている。
 しかし、内地側では不逞分子の潜入・検挙の必要から渡航緩和については難色を示した。ただ、扶養家族の渡航についは、@ 所轄警察署長の簡易な紹介状を発給する、A 一時帰鮮者の用務が扶養家族の同伴を目的とする場合には内地への照会なく所轄警察署長の簡易な被扶養家族渡航紹介状を発給する、という緩和を行った。
 こうした規制は昭和14年〔1939年〕9月の「募集」方式の戦時動員まで続くことになる。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(45)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月23日(金)07時54分13秒
   これによって、一時帰郷をためらう朝鮮人労働者が増えたとされるが、不満が鬱積していった。例えば「金敬中(阪神消費組合長)」は『一時帰鮮証明書は10日前から発行を受けようとしてもなかなかもらえないのです。そのため両親が亡くなったとか、結婚式があるとかの理由でももらえないのです。止むを得ず証明書なしで帰郷し45ヶ月も証明書がないからといって内地に戻ってこれず、10年かけて努力して商工業や工場で築いてきた信用が水の泡となってしまい、廃家流離した人が多いのです』と述べている(「京阪神地域在住朝鮮人座談会」朝鮮日報主催 昭和11年〔1936年〕4月29日)。
 これより前の昭和7年〔1932年〕1月8日、「李奉昌」が櫻田門前で天皇に爆弾を投じるという事件が、同年4月29日に「尹奉吉」が上海で「天長節」式典で爆弾を投擲し軍司令官「白川義則」らが負傷するという事件が勃発した。内務省が朝鮮人の渡航を規制したのは無理もなかった。
 それとともに朝鮮人労働者の移入に関し、@ 南朝鮮が人口密度が高くそのためここから内地に渡航する者が多い、A その結果、内地労働者の失業、これから来る朝鮮人労働者の失業をもたらしている、B これに誘引される犯罪、借地紛議、治安の問題が危惧されている。そこで『内甲第149号 朝鮮人移住対策ノ件』閣議決定(昭和9年〔1934年〕10月30日)〔「獄長日記」より引用〕は、これを解決するため、@ 朝鮮人の鮮内安住、A 満州・北鮮への移住、B 内地渡航減少、の3点を挙げ、鮮内安住とは北朝鮮への移住で「北鮮開拓と鉄道敷設計画」を急いだのである。

 ※ 「戦間期における日本の朝鮮人渡日規制政策」金廣烈 184頁
  (『朝鮮史研究会論文集』朝鮮史研究会 No.35〔1997年10月31日〕)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(46)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月23日(金)07時51分20秒
   『内甲第149号 朝鮮人移住対策ノ件』の内容は、次のとおりである。
  1. 朝鮮内ニ於テ朝鮮人ヲ安住セシムル措置ヲ講ズルコト
    (1)農村振興及自力更生ノ趣旨ヲ一層強化徹底スルコト
    (2)春窮期ニ於ケル窮民ノ救済ノ為社還米制度ノ普及土木工事其ノ他有効ナル方途ヲ行フコト
    (3)北鮮開拓鉄道敷設計画等ノ実施ヲ成ルベク促進スルコト
  2. 朝鮮人ヲ満州及北鮮ニ移住セシムル措置ヲ講ズルコト
    (1)農業移民ノ保護助成ニ付適当ナル施設ヲ講ジ殊ニ人口稠密ナル南鮮地方ノ農民ヲ満州及北鮮ニ移住セシムルコト、満州移住ニ付テハ満州国トノ関係及内地人移民トノ関係ヲ考慮シ関係諸機関ト連絡ノ上実施スルコト
    (2)満州殊ニ其ノ東部地方及北鮮ニ於ケル各種土木事業ニ従事スル労働者ニ付テハ能フ限リ南鮮ニ於ケル農民中ヨリ之ヲ供給スルコト、之ガ為労働者ヲ移動スル場合ニハ朝鮮総督府ニ於テ之ガ統制及助成ニ付適当ナル方策ヲ講ズルコト
  3. 朝鮮人ノ内地渡航ヲ一層減少スルコト
    (1)朝鮮内ニ於ケル内地渡航熱ヲ抑制スルコト
    (2)朝鮮内ニ於ケル地元論止ヲ一層強化スルコト
    (3)密航ノ取締ヲ一層厳重ニスルコト
    (4)内地ノ雇傭者ニ論示シ其ノ朝鮮ヨリ新ニ労働者を雇入レントスルヲ差控ヘ内地在住朝鮮人又ハ内地人ヲ雇傭セシムル様勧告スルコト
  4. 内地ニ於ケル朝鮮人ノ指導向上及其ノ内地融和ヲ図ルコト
    (1)朝鮮人保護団体ノ統一強化ヲ図ルト共ニ其ノ指導奨励監督ノ方法ヲズルコト
    (2)朝鮮人密集地帯ノ保安衛生其他生活状態ノ改善向上ヲ図ルコト
    (3)朝鮮人ヲ指導教化シテ内地ニ同化セシムルコト
 この措置が効果のあったことは次の表からも読み取れる。

 年 度      流出者      帰還者         差 引
1933年    153,299   89,120      64,179
1934年    159,176  112,462      46,714
1935年    108,659  106,117       2,542
1936年    113,714  110,559       3,155
1937年    121,882  120,748       1,134
1938年    164,923  142,667      22,256
 

朝鮮人の内地への就労・移住(47)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月23日(金)07時48分58秒
   過剰農業人口からくる朝鮮人をどこで勤労させるかについて、昭和時代に入ると盛んに「北鮮ル−ト」論(鈴木武雄)、「日・鮮・満経済ブロック」(鈴木正文)が叫ばれ始めた。
 これは北朝鮮内の「鴨緑江」を利用した水力発電による豊富な電力を利用した肥料産業(日本窒素−咸南)、茂山の石灰を利用したセメント鉱業(小野田セメント−古茂山)、茂山鉄山・鉱山(石炭)を利用した製鉄業(日鉄製鋼所、三菱製鋼所−清津)、満州からのパルプを利用した人絹産業(大日本紡績−清津)、大豆を利用した油脂産業、製紙、化学繊維(新義州化学繊維連合企業所−旧王子製紙)など「鮮・満」一体となった工業化が推進され、満鉄(南満州鉄道)・鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局)の連結(吉会線〔満州の吉州−朝鮮の会寧〕、京図線〔満州の新京−間島地方の図們―満州の佳木斯(チャムス)〕、図佳線〔満州の新京−間島地方の図們〕、朝鮮内の両津線〔清津−羅津〕、白茂線〔白岩−茂山〕の敷設、北鮮4港(雄基、羅津、清津、城津)と日本海港(新潟など)を結んだ航路を利用した「日・鮮・満経済ブロック」が提唱された。
 北朝鮮工業化には労働者の移入が必要だが、これを南朝鮮から求めるというものであった。

 ※ 『朝鮮経済の新構想』鈴木武雄 164頁(東洋経済新報社 京城支局 昭和17年年6月30日)
   『朝鮮経済の現段階』鈴木正文 110頁(帝國地方行政学会朝鮮本部 昭和13年8月17日)
 ※ 「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10052106078.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド A03023591400』
 

朝鮮人の内地への就労・移住(48)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月23日(金)07時45分51秒
   「北鮮開拓」とは文字通りであるが、しかし、北鮮の開拓は南鮮に比べれば遅れてはいたが、耕地を開拓できたとは思えない。北鮮は「火田民」の平地への定住化の問題を抱えており(山地で共産化していたこともその理由の一つ)、南鮮人を移住させるくらいなら、「火田民」の平地への定住が先だった。しかも、開拓できる耕地は少なく満州への移住も真剣に検討されていた〔この辺の事情は拙稿「焼畑」で詳しく説明してある〕。南鮮人を移住させる「北鮮開拓」は無理だったと考える。

 昭和6年〔1931年〕年当時の朝鮮の方里当りの人口密度は次のとおりである。

南朝鮮                北朝鮮
 京畿道     2479.1     黄海道     1368.7
 忠清北道    1792.3     平安北道     811.6
 忠清南道    2596.0     平安南道    1349.7
 慶尚北道    1881.4     咸鏡北道     555.5
 慶尚南道    2601.5     咸鏡南道     707.3
 全羅北道    2633.4     江原道      821.0
 全羅南道    2491.4

 「鉄道敷設」とは朝鮮内でいえば「両津線(清羅線ともいう)」と「白茂線」が最も重要であったが、満州との鉄道の連結から北鮮内の鉄道の広軌化と整備が要請されていた。「鉄道敷設」と朝鮮人の鮮内移住の関係は鉄道敷設に労働者を雇用することも極めて大きかったが、それに加えて鉄道敷設後の工業化に労働者を投入することが期待されていたのである。

※ 「「官斡旋」と土建労働者」広瀬貞三 115頁(『朝鮮史研究会論文集』
    朝鮮史研究会 No.29〔緑蔭書房 1991年10月31日〕)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(49)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月23日(金)07時43分18秒
   こうして北鮮に就労した労働者は昭和9年、10年だけでも約9,300名にも達した。労働者の募集、選考、輸送さらには家族の旅費も朝鮮総督府が負担した。一方、労働者の就労条件に関して土木業者間で、最低賃金の設定、中間搾取の撤廃、疾病傷害、帰郷費用の負担を協定して労働者の移入を図った。
 北鮮への労働者の移入はよいことばかりではなかった。東亜日報はその事情を次のように伝えている。『最近北朝鮮出稼労働者を輸送したため、全南綾州地方農家に雇用する作男〔モスニム〕の内数十名が雇主の目を避けて任意で出奔し、労働者と共に出稼ぎに行った関係で、農業の準備に忙しい時期なのに働く労働者がいなくて廃農の瀬戸際までになり損害が莫大だという』(昭和13年〔1938年〕5月3日)、『全羅南道求礼郡では郡の斡旋で去る14日求礼郡出身の荘丁労働者400名が平安南道陽徳に立ったが、農繁期の求礼地方では働き手飢饉で支障が甚だしいという』(昭和14年〔1939年〕5月16日)、『最近になり毎日到るところで郡斡旋で北に行く人夫が数百千名だというが、慶尚南道金海郡内でも数字にわたって人夫募集をした。その後、農繁期をむかえた最近は人夫が特に不足し、各農家では大きな混乱を招いている。砂防工事にも毎日の出役人夫がなく大きな支障を引き起こしているという』(昭和14年〔1939年〕6月17日)。
 労働者の均衡な配置がいかに難しかったかを示している。

 北鮮への労働者の移入募集は満州地区でも行われた。しかし、「満州国」でも工業化が進み、労働者の確保が緊急課題となり、昭和10年〔1935年〕4月には、満州土木建築業協会理事長「榊谷仙次郎」と朝鮮総督府の労務担当者との間に、互いの地域から労働者を募集しないという「満鮮労働賃金協定」が締結された。

 ※ 「「官斡旋」と土建労働者」広瀬貞三 131頁(『朝鮮史研究会論文集』
  朝鮮史研究会 No.29〔1991年10月31日〕)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(44)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月22日(木)19時10分36秒
   内地の朝鮮人の数と割合は次のとおりである。資料は前記と同じ。なお労働者は工場などの職工および肉体労働者をいい、官吏、事務員などの有職者、学生などは除いた。無職者=失業者ではない。

           総  数    労働者数      無職者
大正13年     92,055   79,051     8,341
〔1924年〕           (85.87%)  ( 9.06%)
昭和元年     118,154   90,707    20,701
〔1926年〕           (76.70%)  (17.52%)
昭和4年     275,109  197,409    51,208
〔1929年〕           (71.76%)  (18.61%)
昭和8年     357,217  262,225    29,527
〔1933年〕           (73.41%)  ( 8.28%)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(40)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月21日(水)05時29分1秒
   大正14年〔1925年〕10月、再び朝鮮人の内地渡航が制限された。渡航に当っての条件は、@ 就職口があるか A 国語(日本語)を解するかであった。これは内務省警保局から朝鮮総督府への働きかけにより実現された。具体的にいうと、渡航許可を出さないものとして、@ 無許可労働者募集に応じて渡航する者、A 内地において就職不確実な者、B 国語を解せざる者、C 必要なる旅費以外の所持金10円以下の者、D モルヒネ患者、が挙げられた。こうした朝鮮人の内地渡航が制限されたのは、関東大震災(大正12年〔1923年〕)後の復興景気が終わり、内地では失業者が急増していたことによる。大正14年〔1925年〕10月の失業率を見てみると、給与生活者−3%、一般労働者−3%、日雇労働者−19%にも上っていた(『日本労働年鑑(1926年版)』4頁 大原社会問題研究所)。
 政府は同年12月から6大都市に冬季限定の「失業救済土木事業」を実施し、職業紹介所において失業登録を済ませた者を救済した。もちろん、朝鮮人もその対象となっていた。
 労働手帳交付者については資料(末尾の「獄長日記」参照)がある。時代が少し後であるが、朝鮮人の失業者が多く、しかも、日本人と差別されることなく<優遇>されていたことがわかる。

       労働手帳交付者     朝鮮人数     朝鮮人交付率
昭和7年
 1月     139,886    36,967    26.4%
 4月     128,528    30,944    24.1%
 7月     111,057    32,539    29.3%
 10月    148,360    35,845    23.5%
昭和8年
 1月     183,931    38,194    20.8%
 4月     128,527    28,773    22.4%
 7月     132,403    29,222    24.1%
 10月    135,488    30,989    22.9%
昭和9年
 1月     158,937    33,742    21.2%
 4月     122,666    29,492    24.0%

 これまでもそうだったが、朝鮮人労働者の移入は余剰人口の解決を内地に転嫁したい朝鮮総督府と内地での日本人の失業と朝鮮人の移入による治安の悪化を懸念する内務省警保局とのせめぎ合いだったのである。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(41)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月21日(水)05時25分1秒
   これに対し朝鮮では不満が渦巻き、大正14年〔1925年〕10月23日の『東亜日報』の社説「失業者渡日を阻止」で『(職を求めて渡日する)朝鮮窮民は生活苦が極端に至った人たちであるから、不景気中の日本人の生活が多少困難だとしてもこれを阻止することは人情としてできない』と日本を非難している。
 大正14年〔1925年〕10月から昭和2年〔1927年〕12月までの渡航阻止者(釜山経由)の数は次のとおりである。慶尚南道警察部調査による。

          渡航阻止者           渡航者
大正14年     3,774(17.57%)   17、701
昭和元年     21,407(18.99%)    91,292
昭和2年     58,296(29.73%)   137,816
合  計     84,477(25.50%)   246,809

 これについて、『日に2回の内地渡航の関門である釜山港において関釜連絡船の出港1時間前には内地渡航希望者が続々と集まってくる。白衣の朝鮮人が着のみ着のままで小さな風呂敷包みを1つ手にして延々列をなして乗船を待っている。かくも多数の朝鮮人が何所を目あてに又何を目あてに行くのであるろうかと思われる位である』と表現されている。
 朝鮮人は阻止しても阻止しても続々と内地を目指したのである。<日本統治暗黒論者>はこうした「渡航阻止者」の実態を指摘することはない。
 なお、昭和3年〔1928年〕2月1日〜7日までの内地への朝鮮人渡航者は1日平均750人で、渡航阻止者1344人(15.16%)だった。釜山港まで来て内地渡航の希望を断たれて止むなく故郷などに帰らねばならなかった心情が察せられる。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 70頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学
   法文学会 498頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
   「戦間期における日本の朝鮮人渡日規制政策」金廣烈 175頁
  (『朝鮮史研究会論文集』朝鮮史研究会 No.35〔1997年10月31日〕)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(42)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月21日(水)05時22分57秒
   先の渡航制限は前表でも明らかなとおり効果がなかった。そこで、昭和2年〔1927年〕7月から、全ての渡日希望者は、@ 居住地の警察署から審査を受け、許可を必要とする、A 許可を受けた者は居住地の警察機関から釜山水上警察署宛の紹介状が記載された戸籍謄本の所持、が内務省の要請で義務付けられた。それでも朝鮮人の渡航は減ることがなかった。
 昭和4年〔1929年〕8月3日、内務省警保局長は「朝鮮人労働者ノ証明ニ関スル件」という通牒(後記)を各府県長官宛に送り、表向きは朝鮮人の一時帰郷に関する場合に「再渡航の便宜」を与えるということだったが、実際は「再渡航阻止」を行った。対象となるのは日本の工場や鉱山で働く朝鮮人(全体の内地で働く朝鮮人労働者の24%)であった。
  1. 帰来後帰鮮前ノ雇傭ノ下ニ於テ同一職業ニ従事スルコトヲ宣誓セル証明下付願ヲ、雇傭主連署ノ上就業地所轄警察署ニ提出セシムルコト
  2. 右証明下付願ニハ本人ノ最近撮影シタル写真二枚ヲ添付セシムルコト
  3. 証明書下付スル際本人帰来期限ヲ定ムルニハ就業場ニ於ケル休業又ハ休暇期間等ノ事情ヲ斟酌シ、証明書発行ノ日ヨリ壱ヶ月以内の範囲ニ於テ定ムルコト
  4. 右証明書ニハ本人ノ写真ヲ貼付シテ所轄警察署ノ契印ヲ為シ、帰来期限ノ外本籍、住所、氏名、年齢、職業、就業場ノ所在地及名称ヲ記載スルコト
  5. 右証明書ヲ下付シタルトキハ帰来期限経過後十五日以内ニ発行地警察署ニ返戻セシムルコト
    但シ本人ニシテ帰鮮後所定期限内ニ帰来シ能ハザル場合ハ本人ノ所在地警察署ヲ経テ返戻セシムルコト
 こうまでして朝鮮人<一時帰郷>渡航労働者までもの<再渡航阻止>をしたかったのは、それだけ内地は朝鮮人渡航労働者の増加に悩まされていたのである。
 なお、昭和5年〔1930年〕7月17日、内務省警保局長は「内地朝鮮人ノ一時帰鮮証明ニ関スル件」という通牒(後記)を各府県長官宛に送り、その範囲を「官署傭人、会社従業員」にまで範囲を広げたが、それでも全体の内地で働く朝鮮人労働者の30%に過ぎなかった。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(43)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月21日(水)05時20分13秒
   内地では朝鮮人の失業者があふれていた。末尾の資料からそれがわかる。昭和4年〔1929年〕〜昭和9年〔1934年〕の資料である。
 これでは政府が朝鮮人の内地への渡航を必死になって阻止する気持ちが理解できる。

         総失業者数    朝鮮人数     割 合
昭和4年
 10月    268,590   21,144   7.9%
昭和5年
 1月     340,488   24,623   7.2%
 4月     372,127   25,120   6.7%
 7月     378,484   25,578   6.8%
 10月    374,140   26,976   7.2%
昭和6年
 1月     371,802   29,457   7.9%
 4月     394,625   29,733   7.5%
 7月     406,923   33,088   8.1%
 10月    439,014   39,467   9.0%
昭和7年
 1月     485,886   43,055   8.9%
 4月     482,366   45,514   9.4%
 7月     510,901   47,270   9.3%
 10月    503,958   66,261  13.1%
昭和8年
 1月     444,032   61,046  13.7%
 4月     414,392   62,029  15.0%
 7月     418,177   65,318  15.6%
 10月    392,294   60,563  15.4%
昭和9年
 1月     382,315   55,879  14.6%
 4月     381,114   55,047  14.4%

 ★ 下記資料の字が薄く見づらく推測した(以下同じ)。

  ※ 「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10052106078.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド A03023591400』
 

在日特権(1)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月18日(日)22時04分5秒
   「在日特権」 どんなものがそれに当るのか、明確なものを探し得なかったが、このたび一つ明らかとなった。
 三重県伊賀市が、2006年までの「在日朝鮮人」の<市県民税>の減免を認めていたことが発覚した。「中日新聞」の記事を紹介する。
 三重県伊賀市が数十年前から市内の一部の在日韓国人や在日朝鮮人を対象に市県民税を減額していた措置について市は12日、「昨年度まで市県民税を半額にしていた」と認めた。同県内では桑名市で本年度も同様の減免措置を講じていることが判明。四日市市に合併前の旧楠町でも減免していたことが分かった。
 伊賀市の減額措置は、昭和30年代から40年代にかけ、当時の上野市(現伊賀市)が、地元の在日本大韓民国民団(民団)や在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)との交渉を経て開始。市長が特例で認めたという。当時は納付しない人も多く、半額でも徴収したい、と始めたらしい。
 35年ほど前は算定額を低くしていたり減額率が細分化していたりと方式は一定ではなかったが、最近10年は納付額を一律に半減。市は2004年11月の合併前まで市市税条例にある減免条件「(市長が)特別な理由があると認める」場合に相当するとして慣例として単年度の市長決裁を受けずに適用していた。
 昨年度に半減措置を受けたのは市内の定住韓国・朝鮮人約400人のうち個人事業主を中心に在日韓国人35人と在日朝鮮人18人。市が該当者分の納付書を民団と総連にまとめて送付。それぞれの団体が取りまとめて納税していた。
 他町村との合併協議の中で「減免措置があるのはおかしい」との指摘を受け、民団、総連と協議。2005年11月に翌2006年度で全廃することで合意した。
 民団三重県伊賀支部の申載三・支団長は「3年前に支団長になって措置を知った。参政権などを求めるのに日本人と違うのは不公平だと改善に応じた」と話す。総連伊賀支部の金栄泰委員長は「過去の経緯は話せない」と語った。
 伊賀市は市民税と合わせて徴収する県民税も半額にしていたが、伊賀県税事務所は「減額は市の裁量だが、半減措置は知らなかった」という。
 県市町行財政室は「地方税上、条例の定めのない減免はできず、条例がないなら問題」、総務省市町村税課は「減免は各市町村が判断し条例で定めるが、このような例は初耳」としている。

 ※ http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007111302063852.html
 

在日特権(2)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月18日(日)21時04分48秒
   これによると、この措置が昭和30年〜40年にかけて行われたということだ。当時の在日朝鮮人の<凶暴>ぶりはつとに知られているところで、国税庁との間に所得税などの申告が朝鮮総連・民団を通じて行われたという噂がある(国税庁はこれを明らかにしてない−後記のとおり違法であるから明らかにはできない)。
 ところで、租税債権者である国または地方公共団体が一方的な意思表示によって、一度成立した納税義務を解除・消滅させるという「納税義務の免除」は課税と同じく法律の規定がなければ行い得ない。この趣旨は
@ 租税債権者の有する国民などに存在する課税財源の確保を厳格に行う。
A 租税債権者の恣意的な課税権限の行使を禁止する、ことにある。
「納税義務の免除」は、例えば「災害減免法(昭和22年法律175号)」では、自然災害によって納税者が被害を受けた場合に所得税、相続税、贈与税、各種間接消費税が減免・徴収猶予が規定されている(同法第2条以下)。先の申告を朝鮮総連・民団を通じて行うというものも、納税義務者でない者の関与は税理士など以外には認めておらず(税理士法第52条)、これに違反する(罰則は2年以下の懲役又は百万以下の罰金〔同法第59条1項3号〕ばかりか、先の「納税義務の免除」に違反する。
 先の伊賀市の場合においても、「地方税法」に明らかに違反する。同法では、天災その他特別な事情があるため租税の減免を必要とする者、貧困により生活のため公私の扶助を受ける者、その他特別な事情がある者について<条例>の定めるところにより、各種地方税を減免することが認められている(同法第45条、72条の62〔都道府県知事〕、162条、323条、367条〔市町村長〕。このように「条例」が条件になっている。さらに、「条例」が制定されたとしても直ちに「各種地方税を減免」が許されるものではなく、合法性を欠く場合には許されない(裁判所例が存在する)。この度の【伊賀市市税条例にある減免条件「(市長が)特別な理由があると認める」場合】などのような<概括的>な条件は前記の法の趣旨からいって許されない。
 伊賀市の場合は違法性が明確であるから、歴代市長は時効にかからない
最大過去20年分(民法第724条)の減免相当額の損害の賠償を免れないほか、免除を受けた「在日朝鮮人」も時効にかからない過去7年分の支払を免れない。受益者たる伊賀市民は直ちに訴訟を提起すべであろう。
 なお、朝鮮総連・民団も民法第719条の共同不法行為による責任を免れない。つまり、「条例」が条件になっているということを知らなかったという抗弁は過去、幾たびか免税強要団体だった存在から通らないと考えられる。

 「部落解放団体」などにも同様の例はないだろうか。

 ★ 本稿はマルチですみません。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(34)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月17日(土)05時21分4秒
   ここでも、土方、下男・下女、農作夫・農作婦の朝鮮内の内地人(日本人)と朝鮮人の比較をしてみたい。資料は『朝鮮総督府統計年報』各年度である。日給である。

        農作夫    農作婦    下 男   下 女    土 方

1922年   0.94   0.58    0.41  0.29   1.31
〔大正11年〕 1.68   0.75    0.67  0.48   2.50
       (55.9%)(77.3%) (61.2%)(60.4%)(52.4%)
1925年   0.81   0.44    0.44  0.33   1.13
〔大正14年〕 1.24   0.95    0.73  0.59   2.22
       (65.3%)(46.3%) (60.2%)(55.9%)(50.9%)
1928年   0.76   0.47   0.53  0.33   1.01
〔昭和3年〕  1.75   1.00    0.72  0.60   2.31
       (43.4%)(47.0%) (73.6%)(55.0%)(43.7%)
1931年   0.58   0.32   0.39  0.29   0.85
〔昭和6年〕  1.10   0.82   0.64  0.50   1.83
       (52.7%)(39.0%) (60.9%)(58.0%)(46.4%)
1934年   0.61   0.37   0.25  0.34   0.80
〔昭和9年〕  1.16   0.90   0.50  0.69   1.56
       (52.6%)(41.1%) (50.0%)(49.3%)(43.7%)
1937年                 0.38  0.26   1.07
〔昭和12年〕               0.77  0.50   1.97
                     (49.3%)(52.3%)(54.3%)
1939年                 0.38  0.28   1.65
〔昭和14年〕               0.70  0.50   2.28
                      (54.3%)(56.0%)(72.4%)
1940年                              0.39  0.29   2.04
〔昭和15年〕                            0.62  0.50   2.59
                                     (62.9%)(58.0%)(78.7%)
1941年                              0.45  0.34   2.21
〔昭和16年〕                            0.62  0.54   2.93
                                     (72.6%)(62.9%)(75.4%)
1942年                              0.46  0.37   2.28
〔昭和17年〕                            0.52  0.58   2.94
                                     (88.5%)(63.8%)(77.5%)

 最下層といわれている労働者のなかでも「土方」などの肉体労働に従事する者の賃金は昭和14年〔1939年〕ころから急上昇しているだけでなく、内地人〔日本人〕との格差も急激に縮まって来ている。戦時体制がその原因であろう。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(35)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月17日(土)05時18分29秒
   昭和2年〔1927年〕末当時の朝鮮の鉱山労働者と内地の鉱山労働者との賃金を比較した資料(末尾)がある。単位は円 日給である。

           朝    鮮            日    本
坑内労働者    最高   最低   平均     最高   最低   平均
 採鉱夫    0.60 0.52 0.88?  2.50 0.25 0,78
 運搬夫    0.70 0.54 0.62   0.86 0.31 0.55
 機械夫    3.70 0.50 1.05   2.30 0.54 1.42
 工作人    0.70 0.52 0.92?  1.32 0.60 0.92
 雑 夫    1.80 0.30 0.60   0.89 0.43 0.62
坑外労働者
 選鉱夫    0.52 0.40 0.48   0.86 0.31 0.55

 いずれも最高、最低の差が激しく、朝鮮、日本のどちらの鉱山労働者の賃金が高かったかは不明であろう。

 ★ 朝鮮の鉱山労働者は平壌鉱業部、日本の鉱山労働者は北海道載寧鉄山のものである。
   朝鮮の鉱山労働者も昭和2年〔1927年〕末ころのものと思われる。
   朝鮮の鉱山労働者の平均で明らかに誤りがあるが、そのまま挙げる。

※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 19頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國
  大学法文学会 447頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(36)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月17日(土)05時16分54秒
   朝鮮人の賃金が内地および朝鮮における内地人に比べて低額だったのは、@ 勤労の意欲が欠けていた。A 労働技術上で劣っていた。B 学歴が低かった。C 生活費が低かった。D 年少(12歳未満)、女子労働者が多かった。とされている。
 @〜Bまではこれまで説明してきたので繰り返さない。「生活費が低かった」とは内地人に比べての話で、そのために賃金の低下を招いたということである。
 昭和元年〔1926年〕ころの数値と思われる次の資料(末尾)がある。土木工事に従事する労働者について「朝鮮土木建築協会」が調査したものである。日給である。

1.朝鮮人 32歳 煉瓦工 妻帯者    日本人 30歳 煉瓦工 妻帯者
   日給−1円20銭 1日当りの生活費  日給−3円50銭 1日当りの生活費
@ 被服費         0.153円             0.330円
A 食費(1日3回)    0.552円             0.961円
 主 食          0.252円             0.261円
 副 食          0.150円             0.380円
 間 食          0.050円              0.200円
 酒            0.100円              0.120円
B 住居費         0.133円                            0.500円
                                (借家)                                (借家)
C 雑 費         0.264円              0.399円
 煙 草          0.050円              0.120円
 理 髪(沐浴を含む)    0.024円             0.018円
 沐 浴                              0.067円
 洗 濯          0.015円              0.015円
 薪 炭          0.017円              0.100円
 灯 火          0.025円             0.025円
 職工具          0.030円              0.050円
 租 税              0円              0.004円
合 計           1.152円              2.190円
                               (62.57%)
1日実所得         0.048円              1.310円
 (賃金より生活費控除)
1ヶ月実所得     ▲  4.560円             14.800円
 (1ヶ月平均労働日数 24日)      (1ヶ月平均労働日数 23日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(37)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月17日(土)05時15分21秒
  2.朝鮮人 26歳 人夫 独身        朝鮮人 25歳 人夫 独身
     日雇−70銭 1日当りの生活費    日雇−1円20銭 1日当りの生活費
@ 被服費         0.084円             0.143円
A 食費(1日3回)    0.390円             0.650円
 主 食          0.240円             0.270円
 副 食          0.150円             0.180円
 間 食              0円              0.100円
 酒                0円              0.100円
B 住居費             0円                                       0円
                                (飯場暮)                              (飯場暮)
C 雑 費         0.067円              0.082円
 煙 草          0.050円              0.050円
 理 髪          0.003円              0.007円
 沐 浴          0.005円              0.010円
 洗 濯          0.010円              0.015円
合 計           0.542円              0.875円
            (77.43%)            (72.92%)
1日実所得         0.158円              0.325円
 (賃金より生活費控除)
1ヶ月実所得        1.940円              4.950円
 (1ヶ月平均労働日数 26日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(38)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月17日(土)05時14分15秒
  3.日本人 大工 独身
   日雇−3円50銭 1日当りの生活費
@ 被服費         0.282円
A 食費(1日3回)    0.890円
 主 食          0.180円
 副 食          0.270円
 間 食          0.200円
 酒            0.240円
B 住居費             0円
                                (飯場暮)
C 雑 費         0.202円
 煙 草          0.012円
 理 髪          0.012円
 沐 浴              0円
 洗 濯          0.020円
 薪 炭          0.050円
 灯 火          0.020円
 職工具          0.010円
合 計           1.494円
            (42.69%)
1日実所得         2.006円
 (賃金より生活費控除)
1ヶ月実所得       39.180円
 (1ヶ月平均労働日数 24日)

 しかし、朝鮮人労働者の生活費が低かったとは、上記の数値からも考えられない。収入に応じた生活費を支出していたと考えられる。山田の分析は別の資料から導き出されたのではなかろうか。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 23頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國
  大学法文学会 457頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(39)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月17日(土)05時12分57秒
   「年少(12歳未満)、女子労働者が多かった」という意味は、彼らが成年労働者の賃金を引き下げていたということである。
 昭和元年〔1926年〕ころの数値と思われる次の資料(末尾)がある。京畿道の労働者の賃金である。日給である。

          最高(円)    最低(円)    平均(円)
10歳未満
 男 子      0.30     0.10     0.25
 女 子      0.35     0.20     0.30
12歳未満
 男 子      0.50     0.12     0.28
 女 子      0.60     0.20     0.37
15歳未満
 男 子      1.00     0.17     0.44
 女 子      1.00     0.15     0.42
20歳未満
 男 子      2.25     0.21     0.75
 女 子      1.20     0.21     0.60
30歳未満
 男 子      4.00     0.30     1.09
 女 子      0.99     0.48     0.69
50歳未満
 男 子      4.50     0.30     1.41
 女 子      2.15     0.30     0.70
60歳未満
 男 子      5.00     0.30     0.80
 女 子      0.78     0.45     0.53

 「日本統治暗黒論者」はこうした分析もせずに<朝鮮人労働者の賃金は内地人労働者の賃金に比べて低く、民族的差別を受けていた>と喚き立てている。賃金の低さはこうした諸条件が重なって生み出されたものである。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 17頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國
  大学法文学会 445頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

ヴィジー政府  投稿者:ウイング  投稿日:2007年11月15日(木)23時48分12秒
  当時のフランス人は、積極的、消極的の差こそあれ認めたそうですが、ドイツがいるのですから、逆らえなかったのではないでしょうか。  

朝鮮人の内地への就労・移住(32)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月15日(木)20時31分6秒
   この間の日本への朝鮮全体の流出者と居住人口の推移は次のとおりである(『韓国の経済と人口』金哲 岩波書店 1965年7月27日 36頁−原典は『在日朝鮮人に関する綜合的調査研究』朴在一)。「流出者」とは内地に渡航した人数から再び戻ってきた人数を差し引いた者をいう(以下同じ)。 ](単位 人) 「流出者」は「朴在一」の推計値、「居住者」は日本の国勢調査による(以下同じ)。

 年 度     流出者         居住者
1920年    4,211       40,755
1921年    7,362       48,774
1922年   32,806       82,693
1923年   27,850      112,051
1924年   53,690      168,002
1925年   16,582      187,102
1926年   17,953      207,853
1927年   35,344      245,515
1928年   90,622      341,737
1929年   40,953      387,901
1930年   25,468      419,009
1931年   12,621      437,519
1932年   59,871      504,176
1933年   61,995      573,896
1934年   56,472      639,651
1935年   71,465      720,818
1936年   49,204      780,528
1937年   30,619      822,214
 

朝鮮人の内地への就労・移住(33)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月15日(木)20時29分3秒
   この間の日本への朝鮮全体の流出者と帰還者およびその差、つまり日本に残った者の推移を挙げる。1929年〔昭和4年〕から1939年〔昭和14年〕まである。資料は末尾のとおりである。前記の数値と異なる。

 年 度      流出者      帰還者         差 引
1929年    153,570   98,275      55,295
1930年     95,491  107,706  ▲   12,215
1931年    102,164   83,952      18,152
1932年    113,615   77,575      36,040
1933年    153,299   89,120      64,179
1934年    159,176  112,462      46,714
1935年    108,659  106,117       2,542
1936年    113,714  110,559       3,155
1937年    121,882  120,748       1,134
1938年    164,923  142,667      22,256
1939年    284,726  176,956     107,770

※ 「在外朝鮮人の保護」67頁(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』
   大蔵省管理局 通巻第10冊 朝鮮篇 第9分冊〔『日本人の海外活動に関する歴史的調査』[復刻版]大蔵省管理局 第五巻 ゆまに書房 2002年1月21日〕)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(29)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月12日(月)22時10分27秒
   先のとおり1村落の内地からの帰還者の持参金の内容を提示したが、同じく慶尚南道の警察部の調査により「貯金高」の数字が判明している。

          在住   在住   在住   在住   在住   在住
          1年未満 1年以上 2年以上 3年以上 4年以上 5年以上
10円未満      544  248  167  112   53  143
10円−30円     20    8    8    8    4    4
30円−50円      6   11   10    2    2    9
50円−100円     6   20   20    3    3   14
100円−300円    9   16   15   14   12   17
300円−500円    1    2    2    3    1    8
500円以上            1    2    1         5

 1人平均は6.16円であるが、ただ、これは貯金額であって、内地渡航朝鮮人は「送金」が「貯金」を遥かに上回っていることは後述する。

 朝鮮人の生活を<内地>が支えていた面があったことは否定できない。これを以て、このような結果は朝鮮総督府の「土地調査事業」の結果、朝鮮人が土地を奪われ、「産米増殖計画」により米を奪われた結果、内地(日本)などに渡航せざるを得なかったなどというものではなく、何度も繰り返すが、李氏朝鮮時代の「農本主義」が過剰農業人口を作り出し、日本統治時代になっても解決できなかったということである。500年も続いた「李氏朝鮮時代」をここまでわずか25年余りで解決できるはずもなかったのである。「朝鮮総督府」の責任では断じてない。また、こうした状況から、朝鮮人は争って内地に渡航したのである。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 94頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学
  法文学会 522頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(30)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月12日(月)22時08分30秒
   同じく慶尚南道の察部の調査により「送金高」の数字は次のとおりである。

          在住   在住   在住   在住   在住   在住
          1年未満 1年以上 2年以上 3年以上 4年以上 5年以上
10円未満      334  109   75   38   14   45
10円−30円     86   30   18    6    6    9
30円−50円     67   31   12   10    4   11
50円−100円    64   41   43   20    8    8
100円−300円   33   84   60   48   19   40
300円−500円    2   11   14   15   11   29
500円以上                 2    6   13   58

「送金」が「貯金」を遥かに上回っていることはこの分布表から一目瞭然である。

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 94頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学
  法文学会 522頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(31)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月12日(月)22時07分26秒
   同じく慶尚南道の察部の調査により帰還時での「持参金高」の数字は次のとおりである。

          男 性       女 性        計
100円以上    117         5       122
50円以上     222        12       234
25円以上     447        28       475
10円以上     259        20       279
10円未満     234        23       165
な   し     142        23        23
合   計   1,421       113     1,534

 以上3表を綜合すると、内地渡航朝鮮人は内地からかなりの金員を朝鮮に持ち帰っていることがわかる。これでは朝鮮人が内地に渡航することを熱望するはずだ。

※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 96頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学
  法文学会 524頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(26)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月11日(日)16時11分13秒
   流出戸(日本のみらず満州、朝鮮内も含む)の平均経営面積は次のとおりである。

        戸数    所有面積     借入面積       計
上 層      1    13.5反    18.5反    32.0反
中層 上     4     7.2反    11.0反    18.2反
中層 中    10     3.0反     8.8反    11.8反
中層 下    15     0.7反     5.8反     6.5反
下 層     22     0.07反    1.8反     1.9反

 ★ 上層は2戸いたが、1戸は5町ほどの土地を所有するので、下層は30戸
  だったが、8戸は耕地を持たない雇農だったので、いずれも省いた。

 渡航者の仕送り・持ち帰り額(以下「送金・持参金」という)の推移は次の
とおりである。

          送金・持参者    送金・持参金(1人当たり)
1926年       24人      91円
1927年       29人      92円
1935年       27人      54円

 渡航者の仕送り・持ち帰り額(以下「送金・持参金」という)の<蔚山邑>
全体の推移は次のとおりである。

            送金・持参金(1人当たり)
1924年         54円
1925年         45円
1926年         86円
1927年         69円
1928年         78円
1929年         83円
1930年         58円
1931年         38円
1932年         69円

 送金・持参金(1人当たり)は年々変化しており、全体としては辻村のいう
激減しているわけではない。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(27)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月11日(日)16時10分2秒
   渡航者の昭和10年〔1935年〕の年齢構成は、次のとおりである。

1歳〜12歳     10人    26歳〜30歳     9人
13歳〜15歳     9人    31歳〜40歳     6人
16歳〜20歳    23人    41歳〜63歳     6人
21歳〜25歳    28人    不 明         4人

 16歳〜25歳の青年層が53.6%を占めている。

  渡航者の昭和10年〔1935年〕の年齢構成は、次のとおりである。

商業学校卒業                   1名
農業補修学校卒業                 2名
 ないし小学校卒業後日本に留学中
農業補修学校卒業                 7名
小学校卒業                   39名
小学校修業                    3名
合 計                     52名

 1935年当時の日本渡航者(在住者)は97名(不明を含む)だったから、
53.6%が有学歴者だったことになる。
 このように有学歴者が渡日したのは、@ 若い者の発言権が老人と慣習の
厚い壁に阻まれ、農村文化建設に情熱を注ごうとする欲望は官権によって
禁圧された、A 父兄や本人がせっかく学校を出たのにいまさら村で年雇を
するのも恥ずかしいと感じ、さりとて食べていかねばならないので日本に
行った方が良い、ということにあった(前記「姜 金+延澤」の報告
〔梶村 前掲書 67頁〕)。しかし、梶村は大事なことを忘れている。
それは募集した側でも少なくとも国民学校卒業程度の者を必要としていた
ことである(同視−樋口 前掲書58頁)。つまり、労働にも知識が必要
だったということである。そして、このような有学歴者が流出したことに
よって農村振興運動に支障を来たしたと指摘している(前記「姜 金+延澤」
の報告〔樋口 前掲書 68頁〕)。
 

劾繁の坪仇への祥#12539;卞廖�27�  投稿者:盾隈宀  投稿日:2007年11月11日(日)16時07分11秒
  (文字化け重複投稿に付き、管理者権限に於いて削除)  

劾繁の坪仇への祥#12539;卞廖�27�  投稿者:盾隈宀  投稿日:2007年11月11日(日)16時04分3秒
  (文字化け重複投稿に付き、管理者権限に於いて削除)  

朝鮮人の内地への就労・移住(28)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月11日(日)16時02分27秒
   朝鮮人労働者の学歴については次のとおりの末尾の資料がある。大正11年
〔1922年〕現在のものである。内地人(朝鮮人なども含まれると考えられる)
の数については概数 上段は東京 下段は大阪
 併合以来10年が経過しても、朝鮮にはこれだけの無教育者が存在していた
のには驚かされる。

           朝 鮮 人            内 地 人
中学校卒業者      170(0.3%)       9,893( 6%)
                           11,737( 7%)
同中途退学者      339(0.7%)
普通学校卒業者   4,969(10%)       89,041(54%)
                           68,775(41%)
同中途退学者    3,633( 8%)
書堂修学者    11,452(24%)
無教育者     27,480(57%)       13,192( 8%)
                           11,737( 7%)
合   計    48,043           164,890
                          167,670

 ★ 普通学校は日本では小学校

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 37頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学
  法文学会 465頁 刀江書院 昭和4年9月10日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(23)  投稿者:盾隈宀  投稿日:2007年11月11日(日)00時37分42秒
   それでは、日本に終了した朝鮮人はどのような階層の者だったのあろうか。
昭和11年〔1936年〕夏に、朝鮮慶尚道蔚山郡蔚山邑達里(現在の蔚山市
達洞)で行われた下記の調査がある。ただ、双方の調査内容は少し異なっている。
どうやら調査者が異なっているように思える。そのうち後記の資料のうち前者
の調査を挙げる。
 当時の「達里」は蔚山邑(蔚山市街)の南東約2キロの京釜線(京城−釜山)
の沿線に広がる比較的交通便利な農村である。作物は米単作でわずかな蔬菜
(ソサイ=野菜)、果実を栽培している地域であった。昭和10年〔1935
年〕に行われた国勢調査では、137戸661人が居住していた。調査は
そのうち水利組合工事労働者の残留組5戸、他地での商業失敗による1戸を
除く131戸、637人を調査対象としている。
 耕地は水田−85町2反、畑−16町4反 合計 104町6反 1戸
当たりの耕地は8反 小作地は水田の72%(慶尚道平均−67%)、畑の
56%(慶尚道平均−57%)で、地主のほとんどは村落外の不在地主だった。

 ※ 1.「朝鮮農村の人口排出機構」姜 金+延澤(日満農政研究報告
    (第9輯)』(「日満農政研究報告(第9輯)」日満農政研究会
     1940年7月〔「1920〜30年代朝鮮農民渡日の背景−蔚山郡
    達里の事例−」梶村秀樹(『在日朝鮮人史研究』第6号 在日朝鮮人
    運動史研究会 1980年6月30日〕
   2.『朝鮮の農村衛生』朝鮮農村社会衛生調査会 岩波書店 1940年
    (「朝鮮人日本渡航者の出身階層−一つの試論−」樋口雄一
    (『在日朝鮮人史研究』第25号 在日朝鮮人運動史研究会
     1995年9月25日〕)
 

雄雄雄雄雄ぉお!  投稿者:もんた  投稿日:2007年11月10日(土)21時19分34秒 Remote Host: p2068-ipbf204kyoto.kyoto.ocn.ne.jp, Time: 1194697174
  (当掲示板に相応しからざる投稿につき、管理者権限に於いて削除)  

劾繁の坪仇への祥#12539;卞廖�23�  投稿者:盾隈宀  投稿日:2007年11月10日(土)12時45分33秒
  (文字化け重複投稿に付き、管理者権限に於いて削除)  

朝鮮人の内地への就労・移住(24)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月10日(土)12時42分58秒
   この村落での昭和10年〔1935年〕現在の日本渡航者(在住者)の数は
次のとおりである。(単位 人)

1920年   1     1927年   9     1934年    8
1921年   2     1928年   2     1935年    4
1922年   2     1929年   7     1936年    2
1923年   3     1930年   2     1937年    1
1924年   8     1931年  10     1938年    3
1925年   2     1932年   6     1939年   14
1926年  13     1933年  16     不   明   2
合   計 111
  ※ 1936年以降は調査員が別途「報告書」以外で付け加えたもの

 1935年当時の日本渡航者(在住者)は97名(不明を含む)で、全村落の
15%にもなり、蔚山郡の1936年末現在の5%に比べてかなり高いことが
うかがわれる。それは1924年〔大正13年〕に渡航した者が日本で土木
請負業として成功を収め、彼が呼び寄せたことにあるとされる。なお、14戸
48人は一家離村して日本に渡航している。
その面ではこの村落は特殊な例かも知れない。その他「満州」移住者も20人
未満いたとされる。日本に渡航を希望し、それがかなわない(落選)ときに満州
に移住したという。
 内地には喜んで出発して行ったのである(前記「姜 エン澤」の報告〔樋口
前掲書 56頁〕)。
 

劾繁の坪仇への祥#12539;卞廖�24�  投稿者:盾隈宀  投稿日:2007年11月10日(土)12時36分44秒
  (文字化け重複投稿に付き、管理者権限に於いて削除)  

朝鮮人の内地への就労・移住(25)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月10日(土)12時35分27秒
   流出者(日本のみらず満州、朝鮮内も含む)の階層は次のとおりである。

              上層  中層  中層  中層  下層   計
                   上   中   下
総戸数       A    8  14  27  38  44  131
渡日者を出した戸数 B    1   3   8   9   9   29
              (12.5)   (21.4)  (29.6)   (23.6)   (20.4)   (22.1)
その他の流出者を  C    1   2   5   7  17   32
 出した戸数   B+C  (25.0)   (35.7)  (48.1)   (42.1)   (59.0)   (46.5)
渡日者後帰村者の  D    0     4  11  15   6   36
 属する戸数   B+D  (12.5)   (50.0)  (70.3)   (63.1)   (34.0)   (49.6)
満州移住者の         0   0   2   2   1    5
 属する戸数
1936年〜1939年       0   3   1   6   1   12
 に渡日者を出した戸数

 全体から見れば、ほぼ半数の戸数が渡日者を出している。下層は朝鮮内への
流出者が多いが、内地への流出者は上層を除いた階級のなかでは一番少ない。
それは渡航費用を捻出することができなかったものと考えられる。
 なお、「満州移住者の属する戸数」は「その他の流出者を出した戸数」に
含まれるので重複している。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(19)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 9日(金)12時58分45秒
   朝鮮内における大正5年〔1916年〕当時の労働賃金は次のとおりで
ある。日給(単位 円)

職 種      内地人     朝鮮人     支那人
石 工      1.74    0.99    1.20
煉瓦職      1.67    0.97
木 挽      1.52〜   0.97    1.09
          1.58
表具師      同 上     0.91
瓦 葺      同 上     0.92
井戸掘      同 上     0.78
車 夫      1.10〜   1.20
          1.40
活版工      同 上     0.78
人 夫      0.89    0.45

 ※ 『京城日報』1916年8月9日(福井 譲 前掲書 9頁)
   原典は『朝鮮総督府統計年報』と思われる。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(20)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 9日(金)12時57分43秒
   朝鮮においては、最下層とされたのが、土方、下男・下女、農作夫・農作婦
とされたが、この比較を日本、朝鮮、台湾と比較したいが、下男・下女の
資料は見つかったものの、後の2つが見つからない。そこで朝鮮内の内地人
(日本人)と朝鮮人の比較をしてみたい。
上段が朝鮮人、下段が日本人。( )内は朝鮮人の日本人に対する割合。
資料は『朝鮮総督府統計年報』各年度である。日給である。


        農作夫    農作婦    下 男   下 女    土 方
1910年   0.34   0.25   0.30  0.16   0.51
〔明治43年〕 0.63   0.32   0.40  0.20   0.96
       (53.7%)(78.1%) (75.0%)(80.0%)(53.2%)
1913年   0.38   0.24   0.44  0.19   0.44
〔大正2年〕  0.78   0.43   0.69  0.46   0.94
       (48.7%)(55.8%) (67.8%)(41.3%)(48.8%)
1916年   0.36   0.31   0.22  0.17   0.48
〔大正5年〕  0.65   0.52   0.25  0.18   0.89
       (55.4%)(61.3%) (88.0%)(98.4%)(53.9%)
1919年   0.94   0.52    0.24  0.16   1.27
〔大正8年〕  1.68   1.12    0.48  0.31   2.11
       (55.9%)(51.8%) (50.0%)(51.6%)(60.2%)

 賃金は年を経るにつれ上昇していった。特に1919年〔大正8年〕に急激に
上がっている。これは次の1922年〔大正11年〕は後に示すように少し
下がっているが、土方は引続き上昇している。おそらく開発が進み肉体
労働者の需要が増していったと思われる。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(21)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 9日(金)12時55分44秒
   朝鮮からの日本への渡航者は統治が進むにつれ増加していった。しかし、
これが内地の労働賃金を引き下げ、失業者が増加するという内地からの声
もあって、朝鮮総督府は、内地企業の朝鮮人募集に対して、<労働者募集
取締り>という行政指導を行い規制した。
 これに対し、東亜日報(1921年9月9日)は社説で、「朝鮮人全体を
無視し侮辱する悪法」と言ってキャンペーンを行った。
 そこで、大正11年〔1922年〕12月5日「朝鮮総督府令第153号」
を発令して制限を撤廃した。しかし、これは表向きのことであり、実際は
渡航が制限され、大正12年〔1923年〕5月17日、釜山港では、
5万人程の市民集会があり、渡日制限撤廃を訴え、朝鮮労農総同盟、朝鮮
青年同盟が抗議をしている。渡航者は密航を企てる者が多く、規制など
<何処吹く風>であった。このように朝鮮人の渡航熱は収まるところを
知らなかった。こういう事実は「日本統治暗黒論者」は一切提示しない。
常に<暗黒>を言い立てるために自説に有利な事実しか挙げることを
しない。例 高崎宗司
次の数字からも日本政府・朝鮮総督府の朝鮮人移住者への制限政策が一定で
なかったことがわかる。つまり、締めては緩め、緩めては締めるの繰り返し
だった(この辺の事情を物語る数値は〔不正渡航、渡航諭止など『数字が
語る在日韓国・朝鮮人の歴史』森田芳夫 明石書店 1996年6月14日 74頁に
詳しい)。政府としては朝鮮人の内地への移住は必ずしも歓迎しない。
何としてでも豊かな生活を求めて内地で働きたい朝鮮人とのせめぎ合いだった
のであろう。<強制連行>とはほど遠い実態が広がっていたものと思われる。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(22)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 9日(金)12時53分26秒
   大正6年〔1917年〕から昭和2年〔1927年〕での朝鮮人の内地へ
の渡航者と帰還者の数は次のとおりである。ただ、これは釜山を経由した者の
数で、済州島から直接に大阪に渡航する者および密航者の数は含まれてない。
朝鮮人の内地への渡航者の数を正確に把握することは不可能で、それだけ
密航者の数が多かったことを示している。

          渡航者      帰還者        差引渡航超過者
大正6年      14,012    3,927     10,085
大正7年      17,910    9,305      8,605
大正8年      10,987   12,739      8,229
大正9年      17,497   20,947      6,550
大正10年     38,118   25,536     12,582
大正11年     70,462   46,326     24,136
大正12年     97,395   89,745      7,650
大正13年    122,215   75,430     46,785
大正14年    131,173  112,471     18,802
昭和元年      91,092   83,709      7,383
昭和2年     183,016   93,991     44,025
合  計     768,958  574,126    194,832

 昭和2年〔1927年〕の渡航者の職業は次のとおりである。

学 生       5,000( 3.7%)
労働者     102,434(74.2%)
その他      30,574(22.1%)
合 計     138,016

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 68頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國
   大学法文学会 496頁 刀江書院 昭和4年9月10日

★ 内務省秘第1538号
  「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10050371896.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド
   A05032506600』
 

朝鮮人の内地への就労・移住(16)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 8日(木)12時16分39秒
   朝鮮における民族別工場数の推移をみてみたい。「日本帝国主義下朝鮮人
工場の動態」許 粹烈 152頁(『近代朝鮮工業化の研究』中村 哲・
安 秉直 日本評論社 1993年)の資料を引用する。原資料は『朝鮮総督府
統計年報 各年度』である。

         朝鮮人工場    日本人工場  中国人工場  合  計
1906年        3       42      0     46
        (6.52%) (91.30%)
1910年       39      112      9    151
       (25.82%) (74.17%)
1915年      207      559      5    786
       (26.33%) (71.11%)
1920年      943    1,125     13  2,087
       (45.18%) (53.90%)

 ※ 工場の基準  1912年まで        従業員数10人以上または
                         原動機を有するもの
          1913年から1920まで 平均一日5人以上を使用する
                         ものおよび原動機を有し、
                         かつ1ヵ年の生産額が5千円
                         以上のもの

 規模別で見てみたい。資料は前記と同じである。

1910年     朝鮮人工場
         A        B        C        D
        27        3        3        1
      (17.76%) ( 1.97%) ( 1.97%) ( 0.65%)
          日本人工場
         A        B        C        D
         78       16        7        3
      (51.31%) (10.52%) ( 4.60%) ( 1.97%)
1915年     朝鮮人工場
         A        B        C        D
       198        3        2        1
      (25.84%) (0.39%) (0.26%) (0.13%)
          日本人工場
         A        B        C        D
        409       30       33       17
      (53.39%) (3.91%) (4.30%) (2.21%)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(17)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 8日(木)12時14分52秒
   1910年代の朝鮮工業化が遅れていたことは事実であるが、徐々に工業
が勃興して来た。
 1910年から1920年までの朝鮮の工場数を見てみたい。工場数は
1910年〔明治44年〕以降に設立されたものに限定した。資料は末尾である。
         1910年〜1920年  1910年〜1932年     比 率
紡 績        35社        260社    13.46%
金 属        65社        205社    31.70%
機械器具       86社        230社    37.39%
窯 業        78社        285社    27.36%
化 学        38社        919社     5.28%
製材・木製品     38社        166社    27.89%
印刷・製本      71社        219社    32.42%
食料品       343社       2069社    16.58%
ガス・電気       8社         49社    16.33%
その他        62社        186社    33.33%
合 計       824社       4588社    17.95%

 ※ 『朝鮮工場名簿(昭和9年度版)』朝鮮総督府殖産局(財団法人
   工業協会 昭和9年〔1934年〕8月1日)
    なお、『朝鮮工場名簿』は昭和18年度版もある(朝鮮総督府殖産局
     (財団法人朝鮮工業協会(昭和18年〔1943年〕10月5日)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(18)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 8日(木)12時13分19秒
   これを見てわかるとおり、一番大きな工業は「食料品製造業」である。
昭和7年〔1932年〕当時では、生産高では「食料品製造業」が60%、
「紡績業」が10%、「化学工業」が10%であり、従業員数では「食料品
製造業」が20%、「紡績業」が20%、「化学工業」が20%であった。
1920年でも同じだったと思える。「食料品製造業」といっても「米穀業」、
「精米業」などが主力で伝統的な「酒造業」も大きな地位を占めていた。
ただ、これは朝鮮国内向きで朝鮮の輸出額(1910年〜1920年)から
見れば「米穀」がせいぜい多くて15%で「生産財」が65%から80%を
占めていた。これまであたかも「米穀」がほとんどで【米を日本に奪われま
した】などということがまかり通っているが、これは間違いである。生産財
では、金属(金など)、化学(油脂、魚脂)、紡織(綿製品、製糸)が
3大輸出製品だった(1920年〔大正9年〕の割合は約45、45,10
だった)。このなかでも「紡織」は1920年を過ぎると急速に輸出割合を
伸ばし、1930年〔昭和5年〕には比率が50となっている(金属―15、
化学―30)。(資料は末尾)
 朝鮮の「紡織」は日本の「紡織業」の発展に刺激され朝鮮でもそれが発展
した。つまり、「紡績業」が朝鮮の主産業となっていくのである。本当の
意味での<工業>といえるものは「紡績業」であった。これを担ったのが、
朝鮮の民族資本の象徴として語られる「京城紡織梶vである。その前身の
「京城紡紐梶vが日韓併合の直後に設立されている。「京城紡織梶vの
発展については「カ−タ−・J・エッカ−トの『日本帝国の申し子』(草思社
2004年1月30日)に詳しいが、彼は同書で『朝鮮の資本家成長の萌芽は
17,8世紀に初めて見られたが、1878年以降は日本の帝国主義に
ほぼ根絶され、再び出現するのは1945年以降であるとされている。
(中略)植民地支配は資本家の成長を抑えるどころか、むしろ大きく
前進させた。(中略)日本は朝鮮人資本家階級の発展を容認し、これを
支援したのである。(中略)朝鮮の資本主義は、植民地支配という環境の
なかで最初の成長を遂げたのである』と述べている(94頁)。

 朝鮮における「日本統治下」の産業については、拙稿「日本統治下の朝鮮
における労働者の就業実態」、「日本統治時代の朝鮮人企業の隆盛」で詳細
に説明している(機会があったら投稿)。ここでは主題が違うので一部のみ
を挙げる。

※ 「植民地朝鮮工業化の歴史的諸条件とその性格」堀 和生・許 粹烈
  33頁(『近代朝鮮工業化の研究』中村 哲・安 秉直 日本評論社
   1993年)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(14)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 7日(水)03時51分30秒
   日本統治初期の日本への流出者と居住人口の推移を参考までに挙げる
(『韓国の経済と人口』金 哲 岩波書店 1965年7月27日 36頁−
原典は『在日朝鮮人に関する綜合的調査研究』朴 在一)。「流出者」と
は内地に渡航した人数から再び戻ってきた人数を差し引いた者をいう
(以下同じ)。(単位 人)。ただし、1910年〜1912年の居住者は
末尾の資料によった。

 年 度     流出者         居住者
1910年    3,952        2,246
1911年  ※ 1910年〜1913年  2,527
1912年                 3,171
1913年                 3,952
1914年      168        4,176
1915年      802        5,046
1916年    2,082        7,225
1917年   10,003       17,463
1918年    9,507       27,340
1919年    8,171       35,995

 ※ 「内務省警保局調査による朝鮮人人口(1)」田村紀之 59頁(『経済
   と経済学(第46号)』東京都立大学 1981年−福井 譲 前掲書 9頁
 

朝鮮人の内地への就労・移住(15)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 7日(水)03時50分8秒
   どうして朝鮮人が流出したかというと、朝鮮に労働者を吸収できる産業が発展
してなかったということにある。そのうち工場における朝鮮人労働者の数も
次のとおり微々たるものであった。各年末現在

         朝鮮人労働者数         工場労働者数   工場数
明治44年    12,180(87.57%)  14,575     251
大正元年     14,974(86.18%)  17,376     328
大正2年     17,521(83.30%)  21,032     532
大正3年     17,325(82.65%)  20,963     654
大正4年     20,310(82.77%)  24,539     782
大正5年     23,787(83.04%)  28,646   1,075
大正6年     35,189(84.71%)  41,543   1,358
大正7年     40,036(85.64%)  46,749   1,700
大正8年     41,873(71.33%)  58,705   2,087
大正9年     46,200(83.62%)  55,279   2,087
大正10年    40,418(81.98%)  49,302   2,384
大正11年    45,553(83.31%)  54,677   2,900
大正12年    59,687(85.99%)  69,412   3,499
大正13年    63,483(86.74%)  73,184   3,685

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 7頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学法文学会
  435頁 刀江書院 昭和4年9月10日
 

朝鮮人の内地への就労・移住(11)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 5日(月)21時24分23秒
   朝鮮の企業は朝鮮人労働者が内地などに取られることに苦しんでいた。
このころになると後に示すとおり工業も発展し、労働者の不足に悩まされて
いた。大正7年〔1918年〕9月に鉄道院の理事が朝鮮で6千名もの労働者
を募集するとの報が伝わると朝鮮土木建築協会などの団体は「労働者移出
制限運動」を起こし、朝鮮総督府警務総長宛に陳情書を提出するという騒ぎと
なった。内容は、@ 労働者移出のため事業者は経営困難を来たしている、
A 募集者は熟練労働者を誘引するため、未熟な者が残り事業遂行を阻害
している、B 労力不足のため西鮮地方の事業者は支那人労働者を雇用せざる
を得ないが、銀貨暴騰により資金の不足を来たし補充が困難を極めている、
C 労働者の賃金が高騰し経営困難となっている、にあった。

 朝鮮総督府もこれを受け、同年10月初めには「渡航労働者調節通牒」を
発した。
 これによると、「現にほかの土木、建築、鉱山および工業に雇用中の者に
対しては勧誘を禁止」し、許可に当たっても「渡航者の数および労力需給の
情勢などを考察」したうえで「朝鮮内各種事業の経営に支障」を来たさない
ように配慮することを指示した(『大阪朝日新聞』附録鮮満版 1918年
10月13日)〔水野 前掲書 34頁〕。

 ★ 大阪朝日新聞
    http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00728460&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00728460
 

朝鮮人の内地への就労・移住(12)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 5日(月)21時21分57秒
   内地において朝鮮人労働者の移入を制限したのは、@ 朝鮮人労働者の就労
によって内地の日本人労働者が失業する虞がある。A 朝鮮人が制限なく内地
に職を求めるため移入し、職を得られず路頭に迷う虞がある、ことにあった。
 そのため、大正8年〔1919年〕4月15、「総督府警務総監部第3号」
(朝鮮人ノ旅行取締ニ関スル件)を発した。
 この全文を挙げる。
第1条 當分ノ内朝鮮外ニ旅行シ又ハ朝鮮内ニ渡来スル朝鮮人ハ左ノ各號ニ
    依ルヘシ
 1、朝鮮外ニ旅行セントスルモノハ居住地所轄警察署(警察ノ事務ヲ取扱フ
  憲兵分遣所含ム以下同シ)又ハ警察官駐在所(憲兵駐在所ヲ含ム以下同シ)
  ニ旅行目的及旅行地ヲ届出テ旅行證明書ノ下附ヲ受ケ朝鮮最終ノ出発地ノ
  警察官(憲兵含ム以下同シ)ニ之ヲ提示シヘシ
 2、朝鮮内ニ渡来セムトスルモノハ前號ノ證明書又ハ在外帝國公使館ノ證明書
  ヲ朝鮮最初ノ到着地ノ警察官ニ示シヘシ
 3、前二號ノ證明書又ハ外国旅券規則ニヨル旅券ヲ有セサルモノハ朝鮮最初
  ノ到着地ヲ管轄スル警察署又ハ警察官駐在所ニ自ラ出頭シ旅行目的及旅行地
  ヲ届出スヘシ 但シ警察官ニ於テ取締上特ニ其ノ必要ナシト認メタルモノハ
  此限ニアラス
第2条 本令ノ規則ニ違反シタルモノハ拘留又ハ科料ニ処ス
附則  本令ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

 これは、先の「労働者募集取締規則」とは異なり、労働者のみならず留学生
などの渡航者にも適用された。また、行き先の制限はなく内地以外にも適用
された。
 ところが、内地人が朝鮮に渡航するのは自由であるならば、朝鮮人が内地
に渡航するのも自由であるべきだという見解が強くなり、大正11年
〔1922年〕12月5日、「総督府警務総監部第153号」によって、
先の「総督府警務総監部第3号」は廃止され、自由渡航が許されることと
なった。

 この間の罰則の適用状況を末尾の「獄長日記」から引用する。結構、
違反者が多かった。
「笞刑」もまだこの時期には行われていた。「笞刑」は朝鮮伝統の刑罰で
日本にはなかったが、朝鮮では維持されていた。

             罰金  拘留  科料  笞刑  その他  計  合計
大正8年  即決例        50  40   2   92
      裁 判
      合 計                            92
大正9年  即決例       144 467   1         612
      裁 判             1   1           2
      合 計                           614
大正10年 即決例    16 154 480        4    654
      裁 判
      合 計                           654
大正11年 即決例     1  71 304        8    384
      裁 判             4
      合 計                           388

 ※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 66頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國
   大学法文学会494頁 刀江書院 昭和4年9月10日
   「獄長日記」も参照した。
    http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10051079303.html
 

朝鮮人の内地への就労・移住(13)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 5日(月)21時18分4秒
   朝鮮人労働者の内地就労は、大正3年〔1914年〕に勃発した第一次世界
大戦による好景気で内地での労働者の不足と朝鮮人の安価な労働力の利用、
朝鮮人側からみれば過剰農村人口のはけ口(朝鮮ではまだ商・工業が未発達で
それを吸収できなかった)、内地での高い賃金への期待が相乗的になされた
結果である。それまで朝鮮人といえば「両班意識」にとらわれ労働を潔しと
しないと風評があり、内地企業もその採用に二の足を踏むようなことがあった
が、予想とは異なり優秀だったことも認識され、採用は徐々に増えていった。
 朝鮮人の内地企業への就職は、朝鮮人にとって「勤労」という認識を変える
大きなものとなった。朝鮮人の<勤労意欲>は内地での就労によって育まれた
という面も指摘できよう。近時の共産主義に毒された中国人が日本で
<勤労の意義>を知ることにもそれがうかがわれる。
 ただ、内地に就労した朝鮮人労働者のなかには「観光気分でいる者も多数
いた」(『大阪朝日新聞』附録鮮満版 1918年9月6日)。
 なお、募集された朝鮮人労働者は内地のみでなく、外地である樺太にも、
南洋群島にも派遣された。「樺太」には大正6年〔1917年〕に250名
の朝鮮人労働者が募集されている「内地行朝鮮人労働者の概況」の「府県別
労働種別概況」(『朝鮮彙報』朝鮮総督府警務総監部 1917年1月〜8月
〔水野 前掲書 28頁〕)。「南洋群島」にはサイパンに110名(男子
90名、女子 2名)が従事し、さらにポナペ、クサイで600名(男子
400名、女子 100名)を募集中であるとされる(「南洋行鮮人労働者」
〔『大阪朝日新聞』附録鮮満版 1918年5月4日〕)。サイパンの
朝鮮人人口は1917年12月末には0だったのが、徐々に増え1919年
9月末には398名(男子 340名、女子 58名)となっている(水野
前掲書 同頁)。彼らは道警務部長発行の「朝鮮人労働者募集認可証」を
所持していた事業者によって募集され、派遣されたのである。
 

ちょまじwwすっげ!!!  投稿者:哲司  投稿日:2007年11月 5日(月)19時50分52秒 Remote Host: softbank218112056061.bbtec.net, Time: 1194259852
  (当掲示板に相応しからざる投稿と判断し、管理者権限に於いて削除)  

朝鮮人の内地への就労・移住(7)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 4日(日)15時53分34秒
   朝鮮人を内地の企業が<組織的>に雇用したのは、明治44年〔1911年〕
と日韓併合後まもなくである。最初に雇用したのは大阪府の摂津紡績木津川工場
であるとされる(「内地在住半島人問題」武田行雄 103頁(『社会政策時報』
第213号 1938年6月)。しかし、朝鮮総督府側の資料では、大正元年
〔1912年〕8月の九州水力電力会社であるという(「内地行朝鮮人
労働者の概況」121頁(『朝鮮彙報』朝鮮総督府 1917年10月、『朝鮮総督府
施設年報(大正6年度版)』314頁 朝鮮総督府 1919年4月)。
 こうした状況を見て、朝鮮総督府総監部保安課長は大正2年〔1913年〕
4月24日、「保安親発第210号『内地ニ於ケル事業ニ従事スル職工労働者
募集取締ニ関スル件』」という通牒を発した(『警務彙報』第49号
1913年4月4日)。これの骨子は次のとおりである。
 内地における事業に従事させるため朝鮮人を10名以上募集しようとする者
は警務総長に申請し、認可を受けなければならないとし、次のとおりの
申請書の提出を義務づけ、警務総長に募集する会社・事業経営者の業務状態・
信用を調査し契約事項を確実に履行する見込みがあるかどうかを調査する
ことを命じている。極めて厳格なものであった。
@ 労働者の履歴(氏名、本籍、住所、生年月日、A 従事する事業の種類、
B 給与の額、C 貯金の方法 一定の積金の義務付け、D 契約期間 2年
または3年くらいを適当とし、最長5年以内、E 労働者の年齢 満14歳
以上40歳以下、20歳未満は父母または戸主、夫がいる者は夫の承諾が必要、
F 寄宿舎の完備、G 渡航費用の募集者負担および2年以上勤務した者へ
の帰国費用の募集者負担、H 業務上の傷害または疾病の場合の募集者負担
および給料の半額負担、父兄・付添人の往復旅費の募集者負担、I 就業時間
は12時間以内にして週1日の休日、J 作業の余暇の読書、裁縫(女子のみ)
の教授があればこれを定め費用の募集者負担、であった。正に至れり尽くせり
であったことがうかがわれる。

 ※ 「「内地」渡航管理政策について−1913〜1917年を中心に」福井 譲
     5頁(『在日朝鮮人史研究』No 29 緑蔭書房 1999年10月30日)
   「朝鮮総督府の「内地」渡航管理政策−1910年代の労働者募集取締−」
    (『在日朝鮮人史研究』No 22 緑蔭書房 1992年9月25日)

 なお、福井も先の「摂津紡績木津川工場」の件を「朝鮮人を内地の企業が最初
に雇用した」としている。これが誤りであることは先に示したとおりである。
<組織的>という注をつけなければならない。彼もまた「水野直樹」と同じ
部類である。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(8)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 4日(日)15時50分58秒
   朝鮮総督府がこうした通牒を発した理由は、日韓併合後間もない時期で
朝鮮人の内地での労働に関する不安・動揺が朝鮮人全体の日本に対する意識
の悪化につながることを恐れたものと考える。これについて福井は前掲書
で「朝鮮総督府が「朝鮮人同化」という視点から「順調な渡航」が必要で
あり、日本人側からの拒否反応を可能な限り低減させる必要があったと
思われる。そのため「内地」側との情報交換を求めたのであり、また同時に
これは、そうした日本人の拒否反応が朝鮮内に波及することも回避する目的
があったと考える。というのも、この時期に既に朝鮮内においても、日本人
の対朝鮮人蔑視感とそれに対する朝鮮人側の反感が問題化しており、こうした
両者の反目の拡大は総督府の施設に影響を与えかねないのみならず、ひいては
「帝国統治」の存在基盤をも崩しかねないと認識されたからである」とする
(福井 前掲書 8頁)。これは明らかに誤り。日本人の朝鮮人に対する
蔑視感があったことは否定しない(現在も続いている。朝鮮人の日本人
蔑視感も同じ)。しかし、雇用する側は「朝鮮人同化」のために雇用する
のではない。朝鮮総督府も同じである。日本での労働者不足、朝鮮人の
安価な労働力利用のために雇用するのであって、政治的理由はこの時点
では全くない。また、雇用と朝鮮人蔑視から来る不安とは関係がない。
むしろ、朝鮮人の日本人に対する感情の悪化を恐れたのである。治安を
司る警察が朝鮮人労働者の渡航について掌握しようとするのは当然のこと
である。このことを示すものが「保安親発第195号『朝鮮人ノ内地ニ
雇用者取締ノ件』」という通牒である。これは朝鮮人労働者が内地に雇用
されるにつき内地の事情に通じないため不利な契約を結ぶものがあるので、
府尹・郡守に警察機関と連絡を取って取締りを加えるというものである。
先の「保安親発第210号」も同じく警察が前面に立っている。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(9)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 4日(日)15時49分2秒
   朝鮮総督府は内地に就労した朝鮮人労働者が雇用主と紛争を生じることを
前記の理由および内地での治安の面から恐れ、大正6年〔1917年〕3月
16日、「保安親発第29号『内地ニ於ケル事業ニ従事スル職工及労働者
募集認可及渡航後ノ状況ニ関スル件』」という通牒を発した(『警務彙報』
第141号)。これは内地で従事する朝鮮人労働者を認可したときは、
就業後6ヶ月の間の成績を調査し、その後の状況(労働者が帰郷したときは
その理由、所持金など)を必要に応じて報告を求めるものである。
 また、渡航について、大正6年〔1917年〕9月1日、「保2676号
『朝鮮人労働者募集取締方ノ件』」という通牒を発した(『警務彙報』
第149号)。これは乗船地の警察署に内地で勤労する朝鮮人応募者の履歴、
契約条件などを名簿と照合することを求めたものである。そのほか、募集者
の身元確認の徹底を指示した「保5887号『内地渡航朝鮮人労働者募集ニ
関スル件』」(大正6年〔1917年〕12月26日(『警務彙報』
第153号)、「保5919号『内地渡航朝鮮人労働者取締ニ関スル件』」
(大正6年〔1917年〕12月27日(『警務彙報』同号)を矢継ぎばやに
発した。このことは私企業のみならず官営事業にも及んだ「保27号
『官営事業使用ノ内地渡航朝鮮人労働者取締ニ関スル件』」(大正7年
〔1918年〕1月7日(『警務彙報』第153号)。
 先の「朝鮮総督府警務総監保安課長通牒第210号」は、大正7年
〔1918年〕1月29日に「労働者募集募集取締規則」〔朝鮮総督府令
大正7年第6号〕、「朝鮮人労働者募集要項」、「朝鮮人労働者移住ニ
関スル事務取扱手続き」が発布されるにともない廃止された。この両者
の違いは、@ 雇用期間 5年以下と変更、A 認可制、B 募集者のみ
ならず募集従事者の表示、C 違反者(募集者・募集従事者)に罰金が
定められた(200円以下の罰金または科料)、D 渡航先が内地から
朝鮮以外、E 渡航認可・許可人数が10名以上から1名以上、F 募集時点
の遵守事項が被募集者の年齢(14歳以上40歳以下)から事実隠蔽、
14歳未満の禁止、承諾者(20歳未満、夫の承諾)と規制の付加、
G 労働者身元確認書(給与額、貯金方法、契約期間、被募集者の年齢など)
にあった。いずれも従来と同じく警察が前面に立っている。
 ただ、「労働者募集募集取締規則」は渡航許可官庁の朝鮮と受入内地事業
所轄官庁の連絡が悪かったため、内地において使用者が契約に定める義務を
履行せず、もしくは許可を受けた目的以外に使用したりすることがあった
ことが指摘されている(『朝鮮人内地渡航外4項に対する事務取扱方連絡
に関する件依命通達』〔内務省秘第1538号−大正7年7月12日〕)。

★ 内務省秘第1538号
  「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10050371896.html
    原典は『アジア歴史資料センタ− レファレンスコ−ド
     A05032506600』
★ 労働者募集取締規則
   「朝鮮総督府令第6号「労働者募集取締規則」について(一)」福井 譲
     57頁
   『在日朝鮮人史研究』No 31 緑蔭書房 2001年10月30日)、同(二)
   65頁(同 No 32 緑蔭書房 2002年10月30日)
   「獄長日記」 http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10050505849.html
 

朝鮮人の内地への就労・移住(10)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 4日(日)15時45分59秒
   この間の罰則の適用状況を末尾の「獄長日記」から引用する。思ったより
違反者が少なかった。ただ、昭和14年は非常に多かった。この年から
「戦時動員」の「募集方式」が実施され、動員が本格的に行われたが、拙速
な動員が行われたことによるものと考える。
罰則は募集者・募集従事者に課せられた。つまり、これだけ<悪徳業者>が
いたことになる。
 先のような問題があったにせよ、朝鮮総督府も内地政府も朝鮮人労働者の
<保護>に力を注いでいたことがわかる。単なる朝鮮人労働者の移入ばかり
を急いでなかったのである。
つまり「獄長日記」でも指摘されているように「朝鮮人労働者の移入制限」
ではなく「悪徳募集業者の取締」に力点が置かれたていた。

             罰金  科料  笞刑  その他  計  合計
大正7年  即決例     7  17   4      28
      裁 判                    16
       内地人    2   4           6
       朝鮮人    1   8   1      10
      合 計                            44
大正8年  即決例                     0
大正9年  即決例     3   8          11
      裁 判                     3
       内地人    1               1
       朝鮮人    1   1           2
      合 計                            14
大正10年 即決例     3   6           9
      裁 判                     2
       内地人    1               1
       朝鮮人    1               1
      合 計                            11
大正11年 即決例     7   5       2  14
      裁 判                     1
       内地人
       朝鮮人    1               1
      合 計                            15
大正12年 即決例    23  12          35
      裁 判                     4
       内地人
       朝鮮人    4               4
      合 計                            39
大正13年 即決例    22   4          26
      裁 判                     7
       内地人    1               1
       朝鮮人    5           1   6
      合 計                            33
大正14年 即決例    93  22      13 128
      裁 判
       内地人
       朝鮮人   10   2          12
      合 計                           140
昭和2年  即決例    70  24       2  96
      裁 判                     3
       内地人
       朝鮮人    3               3
      合 計                            99
昭和11年 即決例                     0
昭和14年 即決例  538   53                 591

 ★ 罰則に「拘留」はない。

※ 「朝鮮人労働問題」山田文雄 66頁(『朝鮮経済の研究』京城帝國大学法文学会
  494頁 刀江書院 昭和4年9月10日
   「獄長日記」
    http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10050767956.html
    http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10051079303.html
 

(無題)  投稿者:世界をまたにかける男  投稿日:2007年11月 4日(日)03時24分12秒
  (下記投稿に対するコメントと思われるが、当該投稿を削除した事に伴い、管理者権限に於いて本投稿も削除)  

ちょwwすっげ!!!  投稿者:哲司  投稿日:2007年11月 3日(土)21時33分57秒 Remote Host: p2239-ipad07kagawa.kagawa.ocn.ne.jp, Time: 1194093237
  (当掲示板に相応しからざる投稿と判断し、管理者権限に於いて削除)  

朝鮮人の内地への就労・移住(5)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 3日(土)08時44分33秒
   山脇は、日本の戦前の外国人労働者の研究が、日韓併合の1910年以前には
専ら中国人のみを取り上げ、それ以後(戦時動員時期を除く)は朝鮮人のみを
取り上げていることに<疑問>を呈し、それは@ 在日韓国・朝鮮人は朝鮮に
対する日本の植民地政策の産物である、A 先の勅令第352号が朝鮮人労働者
にも適用され、その適用が解かれたのは1910年であった、B 日韓併合直前
の1909年には在日朝鮮人は790名で、親日的な政治家を除けばその
ほとんどは留学生だった、という理由であると指摘している(前掲書 1頁)。

 これまでは、『朝鮮人の日本への渡来は1910年の日韓併合以後の事に
属する』朴 在一(『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』22頁 新紀元社
1957年)、『1905年現在の朝鮮人数は1944名となっている。この
在日朝鮮人というのは、ほぼ留学生か、親日的政治家であったといえるだ
ろう』(「在日朝鮮人渡航史」(『朝鮮月報』別冊 朝鮮研究所 1957年)、
『在日朝鮮人の存在は、日本の朝鮮植民地支配の結果からうまれたもの』
朴 慶植(「在日朝鮮人史研究の現代的意義」2頁〔『在日朝鮮人史研究』
第21号 1991年〕)、『1910年以降、どうして日本に朝鮮人が入って
くることになったのか。それは1910年に日本が朝鮮を併合したからです』
金 賛汀(「天皇制と朝鮮人労働者」14頁〔『寄せ場』第3号 日本寄せ場
学会 現代書館 1990年〕)と説明されてきた(小松 裕 前掲書)。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(6)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 3日(土)08時42分15秒
   なぜ、こういうことがまかり通っていたかというと、日韓併合の1910年
以前から日本に朝鮮人労働者がいたということを認めると、<在日朝鮮人が日本
の統治によって土地を奪われ日本にやって来ざるを得なかった>という立論が
崩壊するからである。つまり、先の@である。これを強調しなければならない。
 日韓併合の1910年以前から日本に朝鮮人労働者がいたということを認め
ざるを得ないとなると、<とても悔しいのか>、今度は朝鮮人労働者が日本で
過酷な労働条件の下で虐げられていたかを強調する者(東定宣昌〔小松 裕
前掲書 131頁〕)、賃金差別を強調する者(川瀬俊治〔小松 裕 前掲書
254頁〕)、植民地化と植民地労働者としての朝鮮人の歴史が1910年
以前に始まっていたなどという者(徐 根植〔小松 裕 前掲書 202頁〕)
がいる。現在の韓国が韓国人労働者と外国人労働者を同一待遇しているという
のであろうか。また、労働者が日本に移入したのは朝鮮に職がなかったあるいは
賃金が安かったからであり<経済の摂理>である。で「植民地」とは何の関係
もない。<牽強付会>の類である。
 現在の韓国の<外国人労働者>の差別は凄まじく、映画でも取り上げられて
いる。例えば「ネパ−ル 平和と愛は終わらない」朴 賛旭(『もし、あなた
なら−6つの視点』2003年製作)、「鐘路、冬」金 東元(『5つの視点』
」2005年製作)。前者はネパ−ル人労働者、後者は中国人労働者への差別
を扱った作品である。彼らはこれらの作品を鑑賞した方が良い。

 日韓併合の1910年以前にも朝鮮人労働者が多数存在していたことは、
新聞記事、『第二次統監府統計年報』、『第三次統監府統計年報』、『第四次
朝鮮総督府統計年報』を見ればすぐにわかるはずである。研究者がそれを
知らぬはずがない。つまり、自説に不利なことは徹底的に隠蔽するという
<統治暗黒論者>の習性である。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(1)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 2日(金)08時00分7秒
   朝鮮人労働者の日本への移入は何も日韓併合が始まった明治43年〔1910年〕から始まったわけではない。
 安政5年6月19日〔1858年7月29日〕にアメリカとの間で締結された「日米修好通商条約」により、神奈川(1859年7月4日)、長崎(左同日)、箱館(既に開港)、新潟(1860年1月1日)、兵庫(1863年1月1日)を開港することを迫られ、次いでイギリスなどと同じ趣旨の条約の締結を余儀なくされた。そして、外国人を居留地に居住させることとなった。わが国の「入国管理体制」の始まりである。しかし、この条約は朝鮮人には適用されなかった。
 朝鮮との間には、明治9年〔1876年〕に締結された「日朝修好条規附録」の第5款で「議定したる朝鮮国各港に於て、日本国人民は朝鮮国人民を賃雇するを得べし。朝鮮国人民、其政府の許可を得ば、日本国に来るも妨無し」と定められた。朝鮮人の来航について疑義があったと見られ、長崎県令代理(「金井俊行」)から朝鮮人の来航は朝鮮国の免許〔許可〕が必要か、の「伺い」(明治14年〔1881年〕2月22日)に外務卿(「井上 馨」)になされ、その必要はないとの回答(同年4月1日)がなされている。続いて、長崎県令(「石田英吉」)から市内で土地を借受け家屋を所有し、勝手に商売してよいかとの「伺い」(明治18年〔1885年〕6月13日)が外務卿(「井上 馨」)になされ、朝鮮国の免許の不必要、居住・商売の自由の回答(同年9月18日)がなされている。司法次官からも外務次官へ朝鮮人は日本国内を自由に旅行してよいかとの問い合わせ(明治25年〔1892年〕12月28日)がなされ、これまた自由であると回答(明治26年〔1893年〕1月16日)がなされている。これほど早く朝鮮人が日本に渡航していたのである。
 その取扱は、欧米人・支那人が居留地に限定されたのとは大きな違いがある。その理由は、@ 朝鮮政府に日本での領事裁判権がなかった、A 日本政府が朝鮮に渡った日本人を引き換えに優遇されることを期待した、からであるとされる(後記資料 6頁)。その後、明治32年〔1899年〕7月17日に90日以上居住する清国人はその履歴(氏名、国籍、職業、年齢、居住所、本国の住所など)を居住の日から10日以内に警察署に届出を義務づけ(内務省令32号)、同年8月4日に外国人がその居留地以外で居住、移転、営業の自由を認めたが、労働者については行政官庁の許可を必要とした(勅令第352号−法文の内容は小松 裕 前掲書 41頁参照)。しかし、いずれも朝鮮人には適用外とされた。この法令は清国人を対象にしたものとされている。清国人の阿片吸引、窃盗、日本人との婚姻についての警戒心が指摘された(『内地雑居評論』林 房太郎〔時事新報社・中近堂 1884年〕、「支那人の内地雑居を論ず」〔『日本人』第35号 1889年11月18日〕)。

 ※ 「「韓国併合」以前の日本における朝鮮人労働者の移入問題」山脇啓造
    1頁(『在日朝鮮人史研究』No.22 緑蔭書房 1992年9月25日)に全面的に依存した。
  「「韓国併合」以前の日本における朝鮮人労働者の移入問題」山脇啓造
   81頁(『「韓国併合」前の在日朝鮮人』小松 裕・金 英達・山脇啓造
   明石書店 1994年9月30日〔以下 小松 裕 前掲書という〕)
 ● 日韓併合前の朝鮮人労働者の日本移入については「小松 裕 前掲書」にとても詳しい。

★ 日米修好通商条約
      http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/ja_tsusho.html
 

朝鮮人の内地への就労・移住(2)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 2日(金)07時55分59秒
   こうした日本政府の方針が明らかにされたため、明治9年〔1876年〕には釜山(プサン)・長崎間に、明治23年〔1890年〕に釜山・大阪間、明治26年〔1893年〕に仁川(インチョン)・門司(もじ)・大阪間、明治38年〔1905年〕に釜山・下関間に、それぞれ航路が開かれた。

 朝鮮人労働者が日本で就労した最初のものは、兵庫県の佐野村の鉱山に来たという記事(『神戸新報』明治15年〔1882年〕)から明らかである。その後、主として鉱山で朝鮮人労働者を雇用している。珍しいところでは明治29年〔1896年〕に仁川から「朴 文学」(21歳)なる者が高松市にやってきて散髪業を始め、明治36年〔1903年〕には済州島の海女が東京の三宅島にやってきた、という記録がある。
 朝鮮人労働者の雇用が本格化したのは明治38年〔1905年〕ころからである。これは朝鮮に「韓国統監府」が設置されたのが大きい。それと「日露戦争」があった。明治40年〔1907年〕には、肥薩線(門司−鹿児島)の敷設工事に500名を越える朝鮮人が雇用されている(小松 裕 前掲書 37頁参照)。ただ、朝鮮人の無気力にはほとほと手を焼いていたようで、「朝鮮人の無気力仕事がきつく無銭で帰国」(明治41年〔1908年〕2月28日−『九州日日新聞』)、「韓人人夫の逃走頻多」(同年4月2日−同新聞)、「韓人路頭に徨う」(同年6月21日−同新聞)などの記事が多く掲載されている。「小松 裕」は『これらの会社(鹿島組、間組、西松組など)が、戦時中の朝鮮人の強制労働ばかりでなく、その設立当初の段階から朝鮮人労働者を酷使し肥えふとっていったことを、私たちはみすごすわけにはいかない』という(前掲書 67頁)。そのとおりだが、朝鮮人労働者もそのことを知らずに日本にやって来たというなら少しオカシイ。鉄道敷設工事は朝鮮でも「京義線」、「京釜線」の工事は行われ、その労働のきついことは知り渡っていたものと思われる。日本人は優しい。こうした逃亡・落伍朝鮮人労働者に路銀を与え帰国させている記事もいたるところに掲載されている。
 

朝鮮人の内地への就労・移住(3)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 2日(金)07時53分15秒
   炭鉱労働者もいた。長崎県長者炭鉱に明治30年〔1897年〕8月に仁川から朝鮮人労働者(坑夫−57名、炊事方−2名)が就労している(小松 裕 前掲書 145頁参照)。
 その後、続々と朝鮮人労働者が来航している。次表を見ても、日韓併合の年には数千人はいたのではなかろうか。朝鮮人はすでに日韓併合まえから日本にやって来ていたのである。

 この間の朝鮮人の来航の記録は次のとおりである。

場所  出稼  商業  留学  漁業 その他 合計
釜山  295   0  120   0   0  425
群山   0  244   9   0   0  300
木浦   21   18   0   20   21   80
仁川                 63   63
平壌   0   2   50   0   3   55
大邸   10   6   9   0   16   41
その他  1   10   25   0   2   38
合計  327  280  223   20  152  1002

★ 仁川は職業別調査がないため、すべて「その他」に集計

※ 『第二次統監府統計年報』統監府 第50表 明治40年〔1907年〕から、山脇啓造が作成(14頁)
 

朝鮮人の内地への就労・移住(4)  投稿者:解法者  投稿日:2007年11月 2日(金)07時50分52秒
  場所  1904 1905 1906 1907 1908 1909

下関              2146 1202
神戸               154  80
長崎               202  14
函館               145  20
大阪                4  129
その他              55  53
合計  3080 1944 1000 1600 2706 1498

※『第三次統監府統計年報』統監府 第62表(131頁)1910年
 『第四次朝鮮総督府統計年報』朝鮮総督府 第63表(182頁))1911年 から山脇啓造が作成 14頁

 なお、明治44年〔1911年〕の府県別在住朝鮮人の統計表が存在する。毎月の統計となっている。その9月末現在によると主たるものは、次のとおりとなっている。
 これは、明治26年〔1893年〕〜昭和22年〔1946年〕までのものが現存する(一部欠落)。これらの数字もこの史料から拾ってきたものである。

労働者   1308     製造業  39
教師      9     農業   24
牧師・僧侶   2     漁業   80
商人     133     雑役   167
学生     468     書画家   3
演芸     19     合計  2357

 労働者が55.49%を占めていたが、農業従事者がいたことには驚く。どこかに入植したのであろうか。府県別では一番多いのはやはり東京で488人(19.00%)、福岡−293人、長崎−241人、京都−173人、山口−148、大阪−121で、青森、富山、沖縄は全くいなかった。

※『明治44年中在住朝鮮人ニ関スル調』内務省−警保局長決済書類(『在日朝鮮人史研究』No.33 福井 譲 165頁 緑蔭書房 2003年10月30日)
 


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