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喫茶室 過去ログ135(2010.8.1〜8.31)

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喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2010年7月のログ]


そうですね

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月31日(火)19時54分49秒
  >ともかく“O”系統を持つ渡来人が来たとしか思えないのです<

 ここのところは、確かに“O”系統を持つ渡来人が来たとも考えられますが、比較が現代であるため、それがいつかが問題です。
 私は先史時代に限って論じてますが、この問題は後のほうで指摘するつもりです。
 

確かに、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月31日(火)19時08分36秒
   えぇまぁ、衛満朝鮮については「古代朝鮮の重大事件(8/23)」で書いてます。が、その後「アイヌのY染色体より(8/25)」で、「確かに、朝鮮人は来なかった。が、…。」とも書いてますよね。私は、解法者さんのように確固たる自信を持って書いていませんので、しょっちゅう考えが変わりますので御注意を。このあたりから、もはや朝鮮人だろうが支那人だろうが、究極、ハワイ人だろうが、ともかく“O”系統を持つ渡来人が来たとしか思えないのです。だから、先祖帰りだの分国論だのにはあまり興味がありません。根本的に、来たかどうかだけを検討すれば、その後のことは自ずから分るのでは有りませんか?
 来たとすれば、単純に朝鮮が近いのでしょうが、実際にイネをもたらしたのは華南人だというのだから、その線も先入観無く検討すべきでしょう。実際、「ナゾ多し。(8/21)」では、「Gm遺伝子で見る限り、アイヌ民族や琉球人は南方系の遺伝子を僅かしか持たず、極めて北方的である。それに対し、本土日本人は2倍ぐらいの南方遺伝子を持っている。さらに、琉球人と台湾の先住民とは、Gm遺伝子では全く関連性がない。」との記述からは、朝鮮人よりも華南地域がむしろ有力ではないかとも考えられますし、台湾と琉球は近いのに関連性無しという例も有りますから。
 

朝鮮人は来なかった(23)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月31日(火)12時29分22秒
   九州の西北部に大陸由来の葬制とされる「支石墓」が点在しているが、これは従来大陸由来の葬制とされて来た。しかし、この下から発掘された人骨が在来型の西北九州弥生人であることがわかった「弥生人とはどんな人々か」中橋孝博〔『争点 日本の歴史 1』237頁〕)。何も「西北九州弥生人」と言わなくともよい。「縄文人」のことである。「葬制」は極めて伝統的なもので、そう簡単に取入れられるものではない。つまり、「支石墓」が縄文人の葬制だった可能性が高い。「大友遺跡」(佐賀県唐津市)・「新町遺跡」(福岡県志摩町)の「支石墓」でも埋葬者が渡来系弥生人ではなくそこに居住していた縄文人であることが判明している(「片岡宏二」−前掲書 21頁)。
 昭和28年(1953年)に山口県の響灘に面した「土井ヶ浜」から弥生時代前期のものと見られる約300体もの人骨が発掘された。すべて頭を南東側に海を見る向きで埋葬されていた。このことから渡来人だとされた。『土井ヶ浜の人びとは日本列島の縄文人とは別のグル−プであることがわかる。より近いのは中国人の同時代の人骨である。このことはつまり、縄文人が進化して弥生人になったというよりも、中国の同時代の人が日本列島にやって来て土井ヶ浜に住みついたと考える方が遥かに的を得ていることを物語っている。ここに進化説か渡来説かという長年の論争は、渡来説の勝利で決着したのである。その後、松下さん(土井ヶ浜ミュ−ジアム館長)は河南省の黄河中流域やチベットに境を接する中国奥地の青海省でも土井ヶ浜そっくりな人骨を確認している』(「戸沢冬樹」−前掲書 44頁)。ところが、これがとんでもない間違いであることがわかったのである。「土井ヶ浜遺跡からは北部九州で作られた弥生土器が出土しています。種子島以南の海でしか採れない貝で作った腕輪や硬玉製の勾玉、ガラス小玉などを身につけて埋葬された人がいます。これらから、土井ヶ浜の弥生人は北部九州からきたと考えられてます」(「藤田憲司」〔『よみがえる日本の古代』金関 恕〕[「長浜浩明」−前掲書 90頁])。肝心の「土井ヶ浜ミュ−ジアム」のHPも、中国江南地域や朝鮮半島では古人骨の出土量が少ないために、両地域での比較研究が進展しておらず、土井ヶ浜の人びとの原郷はまだ明らかにされてません」としている(「長浜浩明」−前掲書 91頁)。「土井ヶ浜では弥生人骨が300体以上見つかっていますが、そのなかでこれは縄文的人の子孫だろうといわれているのは、701号人骨1体だけで、それ以外はすべて渡来系ですね」(「シンポジウム 弥生のはじまりと東アジア」での「春成秀爾」の発言〔『歴博フォ−ラム 弥生時代はどう変わるか』春成秀爾ほか 学生社 2007年3月30日 180頁〕)。渡来系と決め付けた「春成秀爾」の考えは単なる思い込みであろう。それにしても、一体、松下館長は何を見ていたのであろう。根底が崩れ去って「戸沢冬樹」もさぞ困惑しているであろう。【ここに進化説か渡来説かという長年の論争は、進化説の勝利で決着したのである】。さらに、土井ヶ浜の弥生人には縄文人に特有な「抜歯」が見られたことである。これについては、その事実を認めながら、上顎側切歯の抜歯や上顎歯にかたよった抜歯形式が大陸集団の抜歯風習の特徴が見られるとしている(「弥生人とはどんな人々か」中橋孝博〔『争点 日本の歴史 1 原始編(旧石器〜縄文・弥生時代)』235頁〕)。しかし、「中橋孝博」の反論も、自ら認めているように、<朝鮮半島から大陸沿岸の資料がまだ不足している現状での結論づけは困難である>(「中橋孝博」−前掲書 同頁)。さらに、彼が挙げる「抜歯パタ−ンの比較表」(234頁)を見ると、北部九州の弥生人とされる「抜歯」が縄文人のそれと同じであることから、抜歯の内容が異なるからといって、弥生人に<独自の抜歯形式>があったかどうか疑わしい。
 さらに最近明らかになったのは、「中橋孝博」が主張していた<抜歯形式が大陸集団の抜歯風習の特徴が見られる>ことを自ら否定せざるを得ない結果が出てきたことである。北京・社会科学学院考古研究所の「韓 康信」との共同研究で古代中国の膨大な「抜歯」資料を日本の縄文人や「土井が浜人」の抜歯と比較すると中国のそれと「土井が浜人」のそれとでは関連性が疑わしい結果となったことである(『日本人の起源−古人骨からル−ツを探る−』講談社〔講談社メチェ 318〕2005年1月10日 178頁)。「土井が浜人」の抜歯から縄文人の抜歯形式を否定するのは難しいのである。この人の研究が<進化>しているとは極めて疑わしい。
 このように、ことごとく稲作が渡来した朝鮮人により伝えられたという証拠が否定されている。
★ 土井ヶ浜遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E3%83%B6%E6%B5%9C%E9%81%BA%E8%B7%A1
 

日韓併合100周年に考える(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月31日(火)01時05分33秒
   「日韓併合」の功績については、列挙の暇がないが、これも一つだけ挙げるとしたら、教育の推進、特に女子教育の振興にあると考える。
 李氏朝鮮時代は、身分制度が厳しく、庶民などは教育の埒外におかれていた。
日本の江戸時代のような寺小屋などは全く存在しなかった。おそらく文盲率は世界各国と同じような水準だったと思われる。
 支配階級とされる「両班」の教育にしても、科挙という登用試験のための儒教科目に縛られ、受験資格者にしても、商工業者、男巫(芸能・霊媒・降神・占いを行う男性)、僧侶、奴婢、庶子、女子は排除されていた。加えて、実学(これを雑科と呼んでいた)にしても、医学、通訳、陰陽学、法律学に限定され、農学、商学、数学、土木学などは省みられることはなかった。
 こうした教育の弊害は、儒学(朱子学)の内容の解釈をめぐって抜き差しならぬ抗争を生み(これを「士禍」という)を生み、たびたび血を血で争う抗争にまで発展したのである。
 こうした弊害を除き、庶民にも教育を施したのが、朝鮮総督府である。教育は「公教育」を通じて行われたが、その推移は次に掲げるが、朝鮮の従来の教育機関である「書堂」を朝鮮総督府は無理に廃止せず、それを認めていた。その結果、朝鮮人児童の就学者は次のとおりとなっている。
 

日韓併合100周年に考える(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月31日(火)01時04分48秒
   大正7年(1918年)5月末現在。( )内は明治44年(1909年)〔日韓併合の前年〕現在の数値は次のとおりである。資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正7.8年版』(朝鮮総督府学務局 大正9年3月)である。

         学校数        生徒数
                 男子       女子
 普通学校(官立・公立・私立を含む)
         490     79,571  11,207
         ( 1.9%)   (20.7%) (54.3%)
          355     40,640   3,998
         〔 1.9%〕
 私立学校     864     41,155    8,515
         ( 3.4%)   (10.7%) (41.3%)
 書  堂  24,294    264,023      917
         (94.7%)   (68.6%) ( 4.4%)
        16,540    141,034      570
         (90.6%)
 合  計   25,648    384,749  20,639
  男女比               (95.0%) ( 5.0%)
  普通学校           (87.7%) (12.3%)
  私立学校           (82.9%) (17.1%)
  書  堂           (99.6%) ( 0.4%)
 総生徒数                     405,380

 ★ 空欄は、男女別の数値がないため不明
   ( )内は、学校数、生徒数(男女別)の全体から見た比率

 これを見てもわかるとおり、朝鮮の従来の「書堂」からは、女子が排除されていることがわかる。加えて、日韓併合10年弱で、就学する学童数が2倍くらいになっている。ただ、就学率は大正7年(1918年)で、15.65%(男子 29.09%、女子 1.41%)に止まっていた。しかし、教育の埒外にあった朝鮮人の児童を父兄の無理解のなかで、これだけにしたのは、特筆すべきであった。
 

こう言ってませんか

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月30日(月)22時13分23秒
  >渡来した人々(朝鮮人に限らず)<

 朝鮮人が渡来したことを否定するのですか? そうとは読めませんよ。大体から、渡来人が日本にやって来たとすると中国からの者だけだ、あるいは彼らが中心だったとするする方がオカシイのです。来るとしたら朝鮮半島が近いので、彼らが中心だったのでしょう。
 「衛満朝鮮」の崩壊で南朝鮮の人たちがトコロテンしきに日本に押し出されたといってませんでしたっけ? 何のために「衛満朝鮮」のことを持ち出したのでしょう?
 

投稿の削除について(告知)

 投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2010年 8月30日(月)21時25分19秒
  先般、原田実氏の名を騙って投稿された記事に付いては、先程、全て削除しましたので、此処に告知します。(但し、過去ログには収録)  

ピエール・パリゾ騒動

 投稿者:無学人  投稿日:2010年 8月30日(月)19時28分45秒
  8月15日にこんな騒動が靖国神社で起きたのですね。
国家的な意義の在る私有地でなぜ外国人が大手を振るのか?
いっその事、身分証明書を提示させて

日本人だけの参拝を基本原則としたら良いと思う。
外国人は例外として強く参拝を規制する。
靖国神社は公園でも駅でも無いのだから。
 

これって何?、って何?

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月30日(月)17時22分52秒
  >その人々(渡来人)が九州北部に根付いて、ムラからクニへと発展し、勢力を拡大させ、朝鮮の新羅の時代(前51〜後298年)には逆に攻め登ったとして、何の矛盾も感じません。<
 これのどこが、疑問なのですか? 渡来人が支那人ならば、先祖帰り(里帰り?)でもなく朝鮮による分国論でもありませんよね。
 縄文人の子孫でもあるアイヌのY染色体調査で、弥生系と言われる“O”系がゼロだったことから、縄文人が単独で進化して弥生人になったとすれば、どうして“O”系が存在し、それが弥生系だと言われるのでしょう?
 あくまでも、調査対象は現代人であって、縄文時代人や弥生時代人を調べたわけではないので、これだけで確証が得られたとは言えないでしょう。しかし、混血無しでも外観は変化するにしても、変化しなかったアイヌ人への説明は必要だと何度も申しています。
 現代の福岡においても、縄文系・弥生系がほぼ半々の割合で存在することは解法者さんの書き込みの通りなのですから、弥生期の集落を形成した人々の割合も似たり寄ったりだったかもしれません。渡来人が攻めて来て、現地人を全滅させたのであれば別ですが、そのような記録を知りませんので、現地に同化したと考えれば、渡来人だけの集落跡が無いのも仕方がありません。故郷を捨てて日本人となるからには、郷に入って郷に従ったまででしょう(想像)。
 稲を伝えた人々も(19)で「その数はというと従来考えられていたほど大きくはなく」とか、(7)でも「渡来人の影響は、その人数であれ、人口増加であれ、大きくなかった…」などと、小さく考えようとされていますが、何かをもたらした渡来人の方が上だと思って否定したいのではないでしょうね?
 Y染色体の例で説明しますが、縄文(D)系100人・弥生(O)系ゼロ人のムラが、何年か後にD・O系とも1500人で計3000人のクニになる為には、Dが1400人増え、Oは1500人増えなければなりません。もし、Oが100人渡来したのなら、DとOとで人口増加に違いはほとんど有りませんが、渡来数がもっと少なければ、Oの人口増加はDよりも大きいとの結論になるはずです。
 現代日本人の縄文・弥生系の割合が、ほぼ半々だと言うことは、それだけ渡来したか増えたかということでしょう。
 これを否定するには、アイヌのデータが間違いであるとするか、アイヌがどうにかしてO系のみを追い出したか滅ぼしたか。または、大前提を変え、縄文人の祖先がシベリアから来た人々に限定せず、既に“O”系を持っていたとして、その後ナゼか弥生時代だけ日本列島に大陸から来なくなったと説明する。もしくは、弥生人にも“O”系が存在しないとした上で、それでも外観が変化したとするしかないと思います。その場合、アイヌに変化がナゼ少ないかも当然説明しなければなりません。但し、後者の場合は、弥生期の後にO系渡来人(この時代は帰化人と呼ぶべき)がたくさん来たことになります。時代が下るにつれて、D系人口も増えているので、追い付く為には、その分渡来人の総数も増えなければなりません。
 まだクニも無く、もちろん国境も無かった当時、ODAもボランティアも無いのだから、攻め込んで来た結果の入植でない以上、海を渡った理由は、原始的な交流・交易、戦乱や飢饉による難民、政変による亡命、漁労中に難破して流された…等々でしょう。まさに海に落ちたイヌ、ではなくヒト達を迎え入れた祖先達を誇りに思うことは有っても、恥じることも無ければ、でかい顔をされる覚えも無いと思うのですが。
 

朝鮮人は来なかった(19)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月30日(月)12時06分55秒
   再び話を「稲作」に戻したい。イネが中国の長江下流地域で栽培され、やがて、長江中・下流地域で水稲として栽培され、これがそこから日本に伝えられたが、それを伝えたのは中国からの渡来人であった。しかし、その数はというと従来考えられていたほど大きくはなく、百万人もの渡来人が手に手に稲籾を携えて来たという想像を描くことができないでいる(「DNA分析からみた弥生時代の稲作」佐藤洋一郎〔『歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか−炭素14年代と新しい古代像を求めて−』学生社 2007年3月30日 65頁〕)。
 イネの伝播ルートであるが、「片岡宏二」は、朝鮮半島に稲作が発達していたことを前提に、紀元前195年ころに朝鮮半島北部を治めていた「準王」が中国「燕」の将軍「衛満」に攻められて紀元前108年に滅び、「衛満」が北部朝鮮に「衛満朝鮮」を建国し、こうした混乱の中で、多くの混乱を生み出し、難民を生み出し、彼らが南部に進出し、そこにいた人々が玉突き式に押し出されて日本にその稲作技術を持って渡来したというのである(『弥生時代 渡来人から倭人社会へ』雄山閣 2006年9月10日 25頁)。こんなのは全くの<想像の産物>で何の根拠もないが、決定的な誤りは、当時、朝鮮での稲作は日本のものより遥かに遅れていたものであったということを看過していることである。つまり、日本では既に紀元前10世紀には稲作が行われていたのであり(「縄文から弥生へ・弥生前史」藤尾慎一郎〔『弥生時代の考古学』第2巻 弥生文化誕生 雄山閣 2009年1月30日 10頁)、稲作技術を持った朝鮮人が日本に来るはずもなく、人の移動が行われたとしても、日本への水田稲作の伝来と何の関係もないということである。日本列島に朝鮮人がやって来た理由を見出すために、たまたま「衛満朝鮮」があった。そして、この国が滅亡した。これはちょうどいいや! これが日本列島に朝鮮人がやって来た理由だということにしようやとしたに過ぎない。加えて、「衛満朝鮮」の遺民が朝鮮半島南部に来たのなら、その文化がそこにも移動したはずだ。ところが、この国の文化・墓制が朝鮮半島南部から発見されない。朝鮮半島には「土壙墓」という墓制があるが、これは「衛満朝鮮」を滅ぼして、「漢」が楽浪郡など4郡の1つの「真番郡」のものとされ、それは朝鮮半島南部にもあり、被葬者は中国人だとされている(「韓国古代史と考古学」李 基白〔『韓国古代史論』同 学生社 1976年9月10日 154頁〕)。その1つの「金海礼安里遺跡」からは鉄製武器と鉄製工具が出土しているから、鉄器時代と考えられている(「考古学の立場から見た韓国古代国家形成の問題」金元龍〔『日韓古代国家の起源』金 廷鶴 六興出版 1980年3月20日 13頁〕)。「衛満朝鮮」は鉄器と騎馬文化の人々であるとされ、滅亡後南下したとするが(「丁仲煥」−「シンポジム「日韓古代国家の起源」〔『日韓古代国家の起源』91頁〕、その痕跡は見い出されてない。
★ 土壙墓
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%9D%91%E5%A2%93
 

朝鮮人は来なかった(20)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月30日(月)12時05分39秒
   さらに、彼の立論が正しいならば、九州北部に大規模の渡来人の集落跡や土器があるはずである。しかし、それがない。そればかりか、朝鮮南部の「大成洞焼成遺跡」(慶尚南道金海市)や勒島遺跡などで発掘された弥生式土器が日本からの移住者かその子孫により製作されたものの可能性を示唆している(「韓国出土の弥生土器」片岡宏二〔『二十一世紀の考古学−桜井清彦先生古稀記念論文集』雄山閣出版 1993年2月20日 114頁〕、「片岡宏二」−前掲書 69頁)。こんなことは考えれば当たり前のことで、一方的に朝鮮から人が来て、逆に日本から人が行ってないなどと考える方がオカシイのである。それで、今度は紀元前10世紀から紀元前5世紀の間に幾度となく見られた寒冷化により朝鮮半島から朝鮮人がやって来たというものである。しかし、これもそれ以前に朝鮮半島に稲作が発達してなければならない。これも同じく根拠がない。この他、紀元前11世紀末の縄文晩期後半から紀元前8世紀の弥生前期にかけての朝鮮半島における首長による地域共同体再編成により圧迫を受けた人々の新天地を求めての渡来だとする者(「安 在晧」〔「藤尾慎一郎」−前掲書 11頁〕)、同じ理由で根拠がない。  

なんだかな〜

 投稿者:栗と障子  投稿日:2010年 8月30日(月)03時23分47秒
  著名人の成り済ましが現れるなんて穏やかじゃないですね。
せっかくいい議論が始まったと思ったのに残念です。
本当に残念です。
 

日韓併合100周年に考える(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月29日(日)23時03分9秒
   本日(平成22年〔2010年〕8月29日)で「日韓併合100周年」を迎えた。先の「菅 直人」政権の謝罪にも見られるように、謝罪が先走ったように思える。
 「日韓併合」を一言で総括すれば<大韓帝國(李氏朝鮮の後身〔実質は同じ〕)は苦渋の選択だったろうが、良い選択をした>というに尽きる。
 当時の情勢から言って、朝鮮が独立する可能性は全くなかった。ロシア、清、日本の対立の狭間にあっからである。ロシアに占領されたら、現在の北朝鮮になっており、清に占領されたら、現在の中国になっていた。その結果は押して知るべしである。もちろん、途中(1910年〜1945年)でも、民衆は<塗炭の苦しみ>を味わっていたことだろう。
 朝鮮での論議は、こうした点に触れることは全くない。それはそれを検証すること自体、日本統治の肯定的な面を否定できなくなってしまうからである。
 

これって何?

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月29日(日)14時42分54秒
  >その人々(渡来人)が九州北部に根付いて、ムラからクニへと発展し、勢力を拡大させ、朝鮮の新羅の時代(前51〜後298年)には逆に攻め登ったとして、何の矛盾も感じません。<  

>根本的な違い

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月29日(日)09時04分14秒
  が何かと言えば、渡来人が来たかどうかだけであって、<先祖帰り>が有ったとは言ってません。渡来人が来たとして、朝鮮人だとは限定していないし、九州北部にできた王権が渡来人のみによるものとも思っていません。故に、指摘されたような文献上・考古学上の問題など発生していません。
 旧石器時代の後期に、シベリアから北海道経由でやって来た人々が縄文人の祖先であり、その後、縄文期も弥生期も渡来人はやって来なかったし、弥生人は、縄文人が生活環境などの変化によって単独に進化したと主張されて来ました。
 それに対し、縄文人の純粋な子孫と考えられるアイヌの人々のY染色体に、弥生系と考えられる“O”系が存在しないことから、混血が有ったと考えざるを得ないと反論しました。
 それだけのことであって、いつの時代にどれだけの数でやって来たかについては、専門家に任せる他はありませんが、解法者さんの数々の説明は、納得できる部分は有っても、解釈次第でどちらとも取れる内容も多く、旧来の定説を覆す可能性は有っても断定できるほどにも思えないのです。

 ハニートラップに関しては、「中共に脅されとるけど、相手の要求には屈しない言うて暴露するわな」に同意。隠し撮りされていることは、悩むところですが…。カネの問題に比べれば女性達に顰蹙を買うかもしれませんが、山本モナのように復活の道もある。それよりも脅迫に屈しなかったという事実を知らしめることができれば、逆に評価が上がるようにも思う。但し、変態行為をしてなければ…。
 あまり、評判の良くない旧陸軍大佐の辻政信氏ですが、女性の同席する酒席には絶対に出なかったそうですよ。
 

ハニートラップ

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月29日(日)07時52分35秒
  前原がハニートラップに会うたかどうか知らんけど、中共やったらたださせるだけやのうて写真やビデオの隠し撮りくらいはするやろな。
それをばらまく言うて脅されたらどないする? フライデーに垂れ込むにしろユーチューブに投稿するにしろ政治家には致命的やろ?
ま、わいやったら脅されたら逆に、ハニートラップでちゃんころ女と一発してもうて中共に脅されとるけど、相手の要求には屈しない言うて暴露するわな。
 

根本的な違い

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月29日(日)01時51分51秒
   私は<先祖帰り>はないと言ってるのです。これに対し「はる」さんはそれがあると言うのです。これは大変大きな違いです。
 朝鮮の日本本土の「分国論」 が成立するためには、文献上の問題と考古学上の問題をクリアーしなけばならないのですが、まず前者は無理でしょう。後者も日本列島に朝鮮からの渡来者の築いた王権の痕跡がなければなりません。これが果たして立証できるでしょうか。考古学上からの「分国論」を言う者がないのは、その辺にあると思います。
 

ハズじゃだめと言われても、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月29日(日)00時16分42秒
  (2)より、
>九州では3000年前(紀元前1000年頃)には灌漑施設を伴った水稲栽培が行われていたのである。<
と解法者さん自身が書かれていますけど…。
 弥生時代の始まりが前400年頃であり、水稲栽培が前1000年頃にはじまっていたなら、それ以前に種籾をもたらした渡来人(朝鮮人とは限らない)が来たってことになるのは当然で、信じるも信じないも無い。全て情報源は解法者さんの書き込みです。
 しかも、朝鮮に稲作を伝えたのは日本だ、とまで主張されているわけですから、日本が朝鮮にどのような理由があって稲作を伝えたというのでしょう。農業普及の伝道師でなければ、攻め込んだ時とも考えられるのではないでしょうか。
 

朝鮮の日本本土の「分国論」

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月28日(土)15時05分26秒
  こういう考えは、北朝鮮の研究者から提唱されましたが、ほどなく反論され、消えてしまいました。こういう考えの根底には、朝鮮人が日本にやって来て「倭国」を形成し、逆に朝鮮半島に進出したというものです。信じるのは勝手ですが、論拠が希薄ですハズじゃだめですな。
 詳しくは下記をご覧ください。
 http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/nicho2.htm
 

政局とか、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月28日(土)13時12分43秒
   前原氏がどうかは別として、金品を受け取ったわけじゃなければ、ハニートラップに引っかかりその為に頭が上がらない、という理屈がよく分からん。よっぽどの変態行為でもしたのかね? それをネタに脅しをかけて来たなら、脅す方のリスクが高いと思うけど。それにしても、権謀術だらけの政界に有りながら、そんなに日本人政治家は引っかかり易いのだろうか?

 衆院解散が無ければ、今後三年間は衆参ともに国政選挙が行われないから、小澤一郎の力を行使する出番は無くなる。それなのに、小澤を支持する議員達は、菅首相では不信任→解散を避けられないと考え、どうせ解散に追い込まれるなら小澤の力を借りようとしているのだろうか? それとも、既に民主分裂以降を見通しての行動か? もしくは小澤の毒饅頭を食っただけの話か? いずれにしろ、見るのも聞くのも耐え難き醜態。小澤選出の選挙区民として、申し訳ない限りです。

>朝鮮人は来なかった<
(16)に、「如何せん縄文人の出土が少なく、縄文人の特徴をつかみ得てない」、「弥生時代の渡来人の拡散については、これまでに西日本以外から発見されている弥生時代の人骨のほとんどが保存状態が悪く、まともに頭蓋や顔面が残っている例はきわめて少ないため、渡来人が日本列島のどこまでひろがっていたかは定かではなかった」という記述が有ったので、埴原和郎や中橋孝博による頭蓋の形状分析が、遺跡から発掘されたものでは無いと思っていました。尚更、これらのデータから結論を導くのではなく、参考程度に留めた方が良いかと思います。
(18)より、
 弥生時代の始まりが前400年頃からならば、渡来した人々(朝鮮人に限らず)は当然、それ以前には来ていたと考えなければならない。水稲作の遺跡は確か、前1000年頃のものが見つかっていたハズ。その人々が九州北部に根付いて、ムラからクニへと発展し、勢力を拡大させ、朝鮮の新羅の時代(前51〜後298年)には逆に攻め登ったとして、何の矛盾も感じません。この間に来た記録が無いことについても。また、渡来人がやって来た=侵攻した、という意味には捉えていません。この時代に限らず、朝鮮単独で九州を侵攻することは、支那が命令したか、支那が朝鮮に友好的でない限り不可能でしょうね。
 

(無題)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月28日(土)09時44分59秒
  朝鮮人は来なかった(18)

 弥生時代は紀元前400年頃から紀元300年ころまで続いたというから、新羅の初代「赫居世居西干(紀元前51年〜紀元4年)から第14代「儒禮尼師今」(284年〜298年)までは、その時代に該当する。この間の歴史を記した『三国史記』新羅本紀・百済本紀によると、朝鮮半島から日本列島に朝鮮人がやって来たという記録が全くない。それに対し、新羅は度々「倭」(当時の朝鮮では「倭」を日本列島の人たちだという認識があった)に攻め立てられている。早いところでは初代王の8年(紀元前50年)にもある。講和も何度も行ったが、効果はなかった。
 また、初代王の時代の重臣「瓠公(ほこう)」も倭人と記されている(新羅本紀 始祖「赫居世居西干」38年〔紀元前20年〕条)。第4代王「脱解尼師今」(57年〜80年)も「多婆那国」(「丹波」と目されている)からやって来た人だとされている(新羅本紀 第4代王「脱解尼師今」冒頭)。いちいち日本から海を越えて新羅に攻め入るのは大変だから、朝鮮半島内に「倭」の小国があったと考えている。
 『三国史記』は高麗時代の1145年に編纂されたから、古い時代のことが確かでないきらいはあるが、それにしても大量の朝鮮人が日本列島にやって来たなら何かしらの伝承が残っているはずだ。「神功皇后」の三韓征伐については日本の各地に伝承が数多く残されている。朝鮮人が日本列島に侵攻したなどということは国の権威を増す重大な事項である。古代の歴史書は自国の強勢を記したものという色彩が強い。こうした誇るべき伝承がないということは、朝鮮人が集団として日本列島にやって来なかったという傍証になろう。
★ 弥生時代
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
 

前原

 投稿者:鳩山岡一郎  投稿日:2010年 8月27日(金)09時15分7秒
  漏れ聞くところによると中国女の誘惑に負けて肉体接待を受けたとかで中国政府に頭が上がらないらしい。

あの若さで民主党代表まで勤めた有望株だったが中国のロボットに成り下がるようじゃ…終わったな。
 

小沢一郎の民主党党首選挙への出馬に思う

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月26日(木)21時44分28秒
   小沢一郎としても、反小沢を鮮明にされたら「菅 直人」に対抗せざるを得ない。このまま「菅 直人」が再選されたら、政治権力を失っていくからだ。
 今度の出馬は大賛成だ。どちらかかが敗れても離党することを期待したいが、「小沢一郎」が勝利すれば「菅 直人」が離党することはないだろう。「菅 直人」にはそこまでの腹が座ってない。グズということだ。そこで、「菅 直人」が勝利して「小沢一郎」一派が離党することを期待する。これが政治再編につながるからである。つまり、「菅 直人」のような左翼と非左翼との分裂で、野合の「民主党」が瓦解するからだ。そうなれば、「壊し屋」と揶揄される「小沢一郎」の面目躍如たるものがある。
 「菅 直人」が勝利して、左翼どもが転落するならば、拍手喝采である。「社民党」と合併すれば、国民からもわかりやすくなってとても良い。
 ところで、どうする「前原誠司」。どうちらにつくか。それとも第三の道を選ぶか。生き残りの道は険しい。「鳩山由紀夫」も同じだ。彼は「小沢一郎」と行動を共にするか?
 「小沢一郎」は嫌いだが、今回の出馬には賛成する。「小沢一郎」が当選して、国民から打倒されれば、それはそれで「民主党」が瓦解し、再建不可能になるから、これもいい。ついでに「小沢一郎」がいなくなればもっといい。
 

日本人の顔

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月26日(木)21時18分5秒
   「日本人の顔」馬場悠男〔『はるかな旅』第5巻 194頁〕を見ると、とても面白い。時代により顔の形態が変化しているのが一目瞭然である。素人にもわかるから一読されたらと思う。

 埴原和郎や中橋孝博による頭蓋の形状分析は、遺跡から発掘された頭蓋によるものである。そうしないと比較分析はできない。もちろん、遺跡の時代考察は行われている。
 

個人的には、もう満足です。

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月26日(木)16時29分37秒
  (15)より
 島根県の“古浦弥生人”は、つまり、西日本の縄文人と北部九州弥生人の中間的であるということで、地理的にも時間的にも渡来人説に都合がいいように思います。
>しかし、渡来系の形質の影響は明らかにあるので、すでに縄文時代段階に大陸との間に人的・遺伝的な交流があり、縄文人の形質に大陸系の遺伝的形質が浸透していったと考える必要があろう。
 縄文期に交流が既に有ったなら、特別な理由が無い限り、その後も交流が有り続けたとするのが妥当ですが、この記述により何を言おうとしたのでしょう?
>アイヌは縄文人の祖先と言われ、…
 祖先でもかまわないのですが、隔離された地理的環境から、縄文人そのものでもあり子孫でもある、と考えているのですが、この前提でよろしいでしょうか。それとも、上記のように既に交流が有り、アイヌを縄文人の祖先と見ることで、“アイヌのY染色体”に“O”系統が無かったとしても、その後混じった可能性があることを言いたいのでしょうか。それでもかまいませんが…。

 埴原和郎や中橋孝博による頭蓋の形状分析は、遺跡から発掘された頭蓋によるものであろうか? もし、現代人のものならば、調べるほど混乱するのは当然かも。比較するならば、縄文期なら縄文期、弥生期なら弥生期とすべき。もし、発掘された頭骨によるものなら、ごめんなさい。
 どちらにしろ、それでも中橋孝博氏による“マハラノビス距離”からは、興味深い結果が得られています。琉球や東北が、アイヌに近く朝鮮・南中国に遠いのは当然として、“北陸”が、東北よりもアイヌに近く、日本海に面しているのに朝鮮に最も遠い。南中国については琉球と同値となっています。北陸には、何か秘密が有りそうな気がします(直感は大切)。

(16、17)より
>【(前略)、渡来系がほとんどやって来なかった鎌倉時代、江戸時代、現代に顔の変化があるわけがない。ということは弥生時代の顔の変化も渡来系の影響とは何ら関係がない】と考えられる。
 逆に言えば、渡来系がほとんどやって来なかった鎌倉、江戸、現代以外は、多少なりとも来ていたことになるし、来なかった時期の方が短い(揚足取り)。また、渡来系がやって来なかった時期に顔の変化が有るわけがない、と決め付けるのもおかしい。完全に混血して均一化しないうちは変化し続けることは不思議ではない。
>【弥生人の人骨が縄文人のそれと異なるのは、食物や栄養を始めとする生活環境の影響で、縄文人が変化して行った可能性が大きく、渡来人が原因ではない】
 混血が無くても変化し得ることには、同意。しかし、…。
 例えば、当初、北東アジア人の目が細くなり顔が扁平になったのは、寒冷地に適応した結果だと説明していましたが、日本列島において特に本土人は、いかなる影響で大陸顔が増えたのだろう。気候・風土が明らかに異なるのに、アイヌと琉球人の近さの説明も難しい。もちろん、何の影響を受けてどこがどう変化した、などと確定することは難しいでしょう。しかし、本土でも寒い北海道のアイヌがナゼ、縄文人の形質を多く残しているか、ナゼ変化が少ないのかについての説明は必要に思う。その点、Y染色体の分析からは、まぁまぁ納得できたつもりです。
 

朝鮮人は来なかった(17)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月26日(木)11時45分42秒
   したがって、次のように結論付けるのは、前述のデーターを一切無視した<単なる思い込み>であろう(『日本人の顔』埴原和郎 講談社 1999年1月15日 150頁)。
  1. 全体としては東日本と西日本との差が大きく、西日本では渡来系弥生人、東日本では縄文系弥生人に近い人が多い。
  2. 全九州に限っていえば北部と南部の差が強く、北部の集団は渡来系、南部の集団は縄文系の特徴を持つ。
  3. 北部九州から近畿地方にかけての地域ではとくに渡来系の特徴が濃厚に見られるが、これより遠ざかるにつれて縄文系の特徴が優勢になる。
 ところで、中世の鎌倉人の人骨が昭和28年(1953年)に、鎌倉市中心部(昔の「由比ガ浜」)から発見された。これらは元弘3年(1333年)に「新田義貞」が鎌倉を攻めたときに犠牲となった者だという。これらの頭蓋はちょうどラグビーボール(長頭)のような形であった。さらに一般に中世の人が長頭だということがわかった。どちらかというと縄文人に似ている(『日本人の骨とルーツ』埴原和郎 角川書店〔角川文庫 12630〕 2006年9月25日 182頁)。さんざん、渡来人の弥生系の人の顔は土着の縄文人のそれとは違うということを力説していた本人(35頁)が困惑している。【おそらく食物や栄養を始めとする生活環境の影響と思われるが、その実体は不明である】(183頁)。何のことはない。<頭蓋など人骨は食物や栄養を始めとする生活環境の影響で変化する>ことを自ら認めざるを得なくなったのである。
 ならば、弥生系と縄文系も同じはずである。【弥生人の人骨が縄文人のそれと異なるのは、食物や栄養を始めとする生活環境の影響で、縄文人が変化して行った可能性が大きく、渡来人が原因ではない】というのが正しい理解である。これからしても前述の「埴原和郎」(『争点 日本の歴史 T』229頁)の分析は信頼するに値しない。
 

朝鮮人は来なかった(16)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月26日(木)11時42分24秒
   また、山口地方の「土井が浜」、「中の浜」、「吉母浜」で大量の人骨が発見されたことから、これと北部九州での弥生人遺跡とされるものから出土した人骨をこの地域での縄文人の人骨とを比較して、「頭蓋骨」、「四肢骨」について「高顔」・「高身長」など一定の結論を導き出そうとしているが(「弥生人 1.形質」中橋孝博・永井昌文〔『弥生文化の研究 1−弥生人とその環境−』永井昌文・那須孝梯など 雄山閣出版 1997年5月1日 23頁〕、「古人骨の性判定法」中橋孝博〔『日本民族・文化の生成 1 (永井昌文教授退官記念論文集)』永井昌文教授退官記念論文集刊行会 六興出版 1988年3月31日 217頁〕)、ここ(「弥生人 1.形質」)でも認めているように如何せん縄文人の出土が少なく(44頁・34頁)、縄文人の特徴をつかみ得てない。「池橋 宏」が言うように(前掲書−197頁)、信頼性が高いとは言えない。

 「弥生時代の渡来人の拡散については、これまでに西日本以外から発見されている弥生時代の人骨のほとんどが保存状態が悪く、まともに頭蓋や顔面が残っている例はきわめて少ないため、渡来人が日本列島のどこまでひろがっていたかは定かではなかった。また頭骨をはじめとする骨格の形態は、混血による変遷のみならず、生活環境による変化も大きいため、個々の人骨の系譜を追究するのは一筋縄ではいかないのが現状である」(「松村博文」−前掲書 139頁)。
 確かに、「日本人の顔」馬場悠男〔『はるかな旅』第5巻 194頁〕を見ても時代により顔の形態が変化しているのが一目瞭然である。「馬場悠男」もそのことを認めている(同 196頁)。【ここで明らかである渡来系だとされる弥生時代の顔がそのまま現代人にも残っているならば別であるが、これが古墳時代、鎌倉時代、江戸時代、現代と時代ごとに変化しているのを見れば、渡来系がほとんどやって来なかった鎌倉時代、江戸時代、現代に顔の変化があるわけがない。ということは弥生時代の顔の変化も渡来系の影響とは何ら関係がない】と考えられる。つまり、ことさら「弥生時代の顔」を「渡来系」だなどと強調する必要はなく、これを見ていると「顔の変化」に学問的な系統立った説明が果たして可能なのか大いに疑問を感じる。
 

もしも「日本ハワイ連邦」が実現していたらA

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月26日(木)11時01分6秒
   ハワイ王国に西郷隆盛が、もし行っていたらアメリカもあまり派手な子音はできないはずである。
 小説的になるが、仮にアメリカ人によるクーデターが起こっても東郷平八郎や西郷隆盛と戦う気はアメリカにはない。それは史実からでもわかる。
 イギリスの協力もあればハワイ経営はなんとかなるだろう。
 

緊急連絡

 投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2010年 8月25日(水)18時53分50秒
  この所、「原田実」名義で投稿していた人物についての緊急連絡です。

本日、『原田実の幻想研究室』の主宰者である原田実氏本人より連絡があり、ご本人とは全くの別人、詰まり「成り済まし」による投稿である旨指摘がありました。尚、ご本人は当掲示板に今後も一切投稿する意志が無いとの事ですので、これ以後、「原田実」名義で投稿されたものに付いては、全て成り済ましによる投稿と見なし削除対象とします。

従って、過去の「原田実」名義の投稿に対するレスも今後は一切為されませんよう、各位に対し重ねてお願いする次第です。
 

朝鮮人は来なかった(15)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月25日(水)14時39分14秒
   今度は、人骨はどうだろうか。「土井が浜や三津永田遺跡での人骨の特徴として、縄文人と比較して、最も変化が大きいのは顔の縦方向の伸びで、眼窩や鼻孔も含めていずれも上下の伸長が著しい。縄文人はかなり彫りの深い顔立ちの持ち主であったが、弥生人の方は、全体的に凸凹の少ない、のっぺりとした偏平性の強い顔つきに一変している。また、身長は162〜164センチに達しており、当時の日本人としては例外的な高身長集団であった。さらに、弥生人は縄文人に比べて前腕やすねが相対的に短く、全体のバランスからいえば、高顔・高身長の弥生人の方がむしろ胴長、短足的な体型を持っていたともいえる」(「弥生人とはどんな人々か」中橋孝博〔『争点 日本の歴史 1 原始編(旧石器〜縄文・弥生時代)』鈴木公雄 新人物往来社 1991年10月20日 229頁〕)。「「古浦遺跡」(島根県鹿島町)の古浦弥生人骨(43個体)頭蓋形質の特徴は、北部九州弥生人と変わらないとされるが、細かくみれば、たとえば前頭骨の平坦度についてみた場合、扁平性が強く、この特徴は西日本の縄文人と大差がないという。しかし、渡来系の形質の影響は明らかにあるので、すでに縄文時代段階に大陸との間に人的・遺伝的な交流があり、縄文人の形質に大陸系の遺伝的形質が浸透していったと考える必要があろう」(「縄文から弥生への転換」小林青樹〔『歴博フォ−ラム 弥生時代はどう変わるか』広瀬和雄 学生社 2007年3月20日 142頁〕)。
 そして「頭蓋」の7項目についての分析が「埴原和郎」により行われ、その結果、アイヌに一番のが、東北で次が北陸、九州と続く。関東はかなり離れていて、近畿は一番距離がある
(「山口 敏」−前掲書 54頁)。しかし、これはおかしいのではないか。アイヌは縄文人の祖先と言われ、沖縄人に近く、渡来人に一番遠いとされる。ところがこの分析ではむしろアイヌ人は九州の人に近く、関東・近畿には遠い。こんなはずはなかろう。
 「中橋孝博」は「頭蓋」をあらゆる方面から分析し、特に主要8項目を選び出し、アイヌ、朝鮮人、南中国人の遠近(マハラノビス距離)を下記のとおり明らかにしている(「日本人の骨」〔『人類学講座 6−日本人 U−』143頁・169頁〕)。係数が小さいほど近接関係にある。

        アイヌ   朝鮮人   南中国人
東 北     1.62  2.61  1.61
関 東     1.92  1.85  1.32
北 陸     1.48  2.87  1.88
近 畿     2.23  1.60  1.66
中国・九州   2.15  1.96  1.00
琉 球     1.36  2.62  1.88

 ここから何がわかるかというと、アイヌに一番近いのが琉球で、一番遠いのが近畿である。朝鮮人に一番近いのは近畿、次いで関東と続く、距離的に近い中国・九州は3番目である。遠いのは琉球と東北である。南中国人に一番近いのは中国・九州で続いて関東となる。遠いのは北陸と琉球である。結局、彼の分析からは何もわからないということである。中国・九州が距離的に近い朝鮮人に近いはずなのに、そうなってない。中国・九州が南中国人に近いのはわかるにしても関東が近いとは信じがたい。
★ マハラノビス距離
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%93%E3%82%B9%E8%B7%9D%E9%9B%A2
 

さらに修正

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月25日(水)12時54分22秒
  連行すみません、「 もしも「日本ハワイ連邦」が実現していたら」も間違いで、正しい題は「 もしも「日本ハワイ連邦」が実現していたら@」です。
誠に申し訳ございません。
 

もしも「日本ハワイ連邦」が実現していたら(修正)

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月25日(水)12時46分57秒
  「もしも日本ハワイ連王が実現していたら@ 」の題は「 もしも「日本ハワイ連邦」が実現していたら」の誤記です。  

在日朝鮮人のための韓国講座(665)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月25日(水)12時31分37秒
  >「崔 洋一」監督の頭からスッポリと抜け落ちているもの<

 NHKで平成22年(2010年)8月14日、討論番組「日本の、これから ともに語ろう 日韓の未来」が放映された。番組中で、一般参加者の日本人ウェブデザイナーの男性(古屋さん)が『当時の日本人は韓国人が憎くて併合したわけではない。当時、世界は帝国主義列強の時代であり、植民地支配はあたり前だった。日本が韓国を併合したことはやむを得なかった』と発言した内容に、在日朝鮮人の「崔 洋一」映画監督が『当時の日本のイデオロギーは、そういう方向に流れていた。国そのものがそうなっていた。だけど、36年間にわたる植民地支配がそれによって肯定されるという考え方(を持つ人)は、基本的に歴史を語る資格がない』と反発。この時の「歴史を語る資格はない」との発言が、ネット上を中心に波紋を広げた。
 まず、古屋さんの発言内容は事実を伝えており、非難されるべきものではない。これに対する「崔 洋一」の「歴史を語る資格はない」との発言は極めて不穏当だ。それは、日本で飯を食っている彼自身が「日韓併合」の<恩典>を受けている者の一人だと言うことが頭の中からスッポリと抜け落ちていることである。彼が日本に居住しているのは両親が日本統治時代に光を求めて日本にやって来たからである。日本が移住を認めなかったら、彼の日本での生活もなく、活躍の場もなかった。次に、こうした発言を封殺しようとした監督自身が「言論の自由」が保障されている日本で活躍することができていることである。監督の発言は<正義は自分の頭の上だけにある>という朝鮮人特有の宿病から一歩も抜け出してない。番組に参加していた京都大学准教授の小倉紀蔵が「歴史というのは、どんな考え方もあり得る。どんな考え方を持ってもいい。それが間違った事実にもとづいて、自分の歴史観を構築したら、それは正していかなければならないけれども『歴史を語る資格はない』という言い方は、間違っていると思う」「歴史問題というのは、権力者があなたの考えは完全に間違い、と言詮封鎖してはいけない」と崔監督の発言を正したのは、そこのところを指摘している。
 こういう者が映画監督としているというから恐ろしい。

 この種の番組が「日韓友好」を謳って、NHKで今夏、盛んに放映された。NHKは内容を意図したとおりに展開させるのが得意技だが、思わぬ展開になってNHKもさぞかし驚愕したことであろう。この番組をちょうど見ていたが、古屋さんに、天晴れ!だ。彼の発言が光っていた。後の者? 「日韓友好」のオンパレ−ドで<思考停止>だった。もっともそういう者ばかりをNHKが選んだろうな。
 ともかく、NHKも番組を編集し直すのも難しかったと見えてそのまま放映しただろうが、<言論誘導>だけは止めた方が良い。と言っても聞かないだろうがね!  古屋さんがいて、この番組も救われた。NHKの意図に反しただろうが、日本人の中には健全な者もいるということがわかっただけでもこの番組の価値はあった。

★ http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0815&f=entertainment_0815_012.shtm
 

もしも日本ハワイ連王が実現していたら@

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月25日(水)12時30分53秒
  ご存じのとおり大日本帝国とハワイ王国は連邦計画があった。そして、ハワイ王国の滅亡の際には東郷平八郎がアメリカに威嚇した。
そこで、もし既成事実ができたうえでのハワイ併合の提案だったらどうだろうか。西郷隆盛とかがハワイへ薩摩士族を率いて移住していたら、明治大帝も「そこまで日本人がいるのなら縁談ぐらいなら認めよう。ただし、アメリカには気をつけるように」と返答したかもしれない。東郷艦隊が威嚇しても日本と戦わなかったアメリカは、当時は日本と戦う気力があまりなかったと思いますがどうでしょうか?
 

アイヌのY染色体より、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月25日(水)08時21分20秒
編集済
   確かに、朝鮮人は来なかった。が、…。
 解法者さんの8月18日投稿、「朝鮮人は来なかった(7)」 を併せて読んで頂きたく。
 アイヌには、弥生系とされる“O”系統は皆無で、縄文系とされるC、D系統の特にD2が88%を占め、残りもC3のみ。
 このことから、縄文人が単独で現在の日本人のように、縄文系・弥生系とも半々の比率で全国に散らばることは考えにくいと思われます。
 驚きなのは、縄文系と思われていた沖縄人に、O2b・O3が本土人並に存在することですが、弥生時代よりもずっと後に混ざったと考えれば良いのだろうか。それとも亜熱帯性気候の為に、縄文人の形質が強く残ったのか。
 これで、寒冷地の住人であるアイヌが、気候に適応した北方系の外観とならなかった理由が分ったように思えます。
 解法者さんが言われるように、縄文人が弥生人に進化した、というような、混血が無くとも生活形態や食生活の変化により、急激に形質が変化しうるという主張は“変形説”と呼ばれてあるそうです。明治以降の日本人もかなり変化したと言われています。しかし、その急激な変化には、混血による下地が必要なのでは?と考えます。アイヌのように純血が長期に渡って守られ易い環境では、遺伝子の組み換えも起こりにくいということかと。
 少なくとも、Y染色体に関する限り、弥生人が混血によって誕生したと言えるのではないでしょうか。
 それでも、現代日本人の半数近くに“O”系統がいるからからと言って、弥生時代の弥生人に“O”系統がいたとは限らないとも考えられますが、そこは皆様の判断に委ねます。
 詳細は、Wikipediaより、日本人(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA)御参照。
 同サイトの「2.3.3 Y染色体による系統分析」の項目。
 

(無題)

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月24日(火)21時23分33秒
  ディプロなんたらっちゅうのは何やねん?  

在日朝鮮人のための韓国講座(664)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月24日(火)12時55分13秒
  >日本人はすばらしい<

  中央日報と日本経済新聞が韓日強制併合100年を迎え、両国国民を対象に共同で電話質問調査をした分析結果がこのほど平成22年(2010年)8月23日(月)に発表された。
 これによると、「韓日強制併合について韓国では「悪かった」という回答が78.9%だった。しかし日本では「悪かった」は20%にとどまり、「悪い点もあるが良い点もあった」(60%)という回答が多かった」
 また、「植民地支配に対する日本の謝罪については韓国では82.4%が「謝罪が不十分または謝罪をしていない」と答えたが、日本では「謝罪した」(47%)が「謝罪していない」(15%)を大きく上回った」
 さぞかし、韓国の「中央日報」もこんな結果になるとは思いもよらなかっただろう。<お気の毒>と言うしかない。

 日本人の見識もまんざら捨てたものではない。日本統治時代の評価は、「良い点が悪い点を遥かに凌駕している」という評価で、これまで縷々説明してきた。
 そして、重要なことは、「菅 直人」政権の「日韓併合100周年」に当たっての謝罪は、日本人の良識から大きく外れるものだということが明らかとなったことである。
市民運動上がりの「菅 直人」や「学生運動」上がりの「仙谷由人」官房長官は、朝鮮の大衆に迎合しようと考えたのだろうが、日本の国民の常識から大きく遊離することとなった。これも<お気の毒>と言うしかないが、こと国益に関するものだから、そうとばかり言っていれない。総理は国民の前で謝罪すべきだろう。
 ただ、インチキなのは、この世論調査が「菅 直人」政権の謝罪後に出されたことである。世論調査の結果を知り、驚愕して、謝罪が必要ないという日本国民の考えを公にしないため、<隠蔽>したのだと考えるが、どうだろうか。
★ 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=132359&servcode=100§code=140
 

何がおかしいか

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月24日(火)12時41分24秒
   弥生人が渡来したという論者の考えは、紀元前4世紀〜3世紀にやって来たというものです。なぜなら、そのころに稲作が日本列島で生まれたと考えるからです。
 しかし、これも誤りで、北九州の菜畑遺跡から発見された水田跡から、紀元前600年ころには日本で水田稲作が行われていたことが確定してます。
 ところで「衛満朝鮮」が滅亡したのは紀元前108年で、人の移動が行われたとしても、日本への水田稲作の伝来と何の関係もありません。
 つまり、日本列島に朝鮮人がやって来た理由を見出すために、たまたま「衛満朝鮮」があった。そして、この国が滅亡した。これはちょうどいいや! これが日本列島に朝鮮人がやって来た理由だということにしようやとしたに過ぎません。まぁ! コジツケでしょうな! 時代考証がまったく省みられてないのです。
 

RE:衛満朝鮮

 投稿者:モリマン  投稿日:2010年 8月24日(火)12時35分43秒
  燕国からの亡命者衛満が建国したと言う朝鮮国の存在意義は漢と夫余の間に横たわる緩衝国家。だから中国と米国の息のかかった韓国との間に横たわる北朝鮮と同じ。両側どちらかの国が均衡を壊して覇権を握ろうとしない限りたとえどんなに弱小国だったとしても存立する。でも衛満朝鮮は武力で周辺を征服しようとした漢の武帝が均衡を破ったことで滅ぼされたけどね。  

日本人の風貌の変化

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月24日(火)00時16分31秒
  >わずか千年足らずの弥生時代に、弥生人らしい風貌の渡来人が来ないにもかかわらず、いかにして本土人のみが弥生人らしい風貌に変容したか? それが最大の関心事です<

 日本人の顔は弥生時代とされてから、2000年の現在とではずいぶん変化してます。
1000年も経てばずいぶんと変わるものです。このことは後に説明しますが、顔(頭蓋)・人骨の変化はあまり決め手にならないようです。
 

ともかく、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月23日(月)23時56分27秒
編集済
   「稲作の伝来」については特に異論無し、と以前書いたように、朝鮮半島からの渡来人が稲作技術を持って日本列島にやって来たなどとは一度も書いてません。ただ、来たかどうかを検証しているつもりです。従って水稲作をした集落が無くとも全くかまいません。渡来人だけの集落でなくともいいわけですし。
 衛満朝鮮が仮に無かったとしても、「紀元前550年頃から、環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。また、特に南岸部に人口が集中している」という内容は、何らかの物的証拠があるのでしょう。
 支那で動乱があれば、朝鮮半島が影響を受けるのは自然な流れで、当時の朝鮮が“燕”の支配下にあったらしいので尚更でしょう。強国“秦”に対抗する為、徴兵・徴用何でもアリだったかも(想像)。東西南北どこへ逃げても、水に落ちた犬に憐れみを抱くメンタリティは無いという噂なので、海を渡るしか無さそうです。そうでなくとも、今の韓国人は生まれ変わったら韓国人にはなりたくないとか、経済的余裕があればアメリカ等へ出て行ってしまうそうで、今も昔も暮らしにくいのか、新天地で一旗挙げようと思ったか。海の向こうに日本が有る事は知っていたでしょうし、反日教育で洗脳もされてなかったでしょう。徐福も不死の薬を求めてやって来たし…。来た理由は想像し易く、来ない理由は想像しづらい。
 ともかく、わずか千年足らずの弥生時代に、弥生人らしい風貌の渡来人が来ないにもかかわらず、いかにして本土人のみが弥生人らしい風貌に変容したか? それが最大の関心事です(私だけではないでしょう)。
 最後に、何で調べようと、最終的には自分の頭で考えているつもりです。
 

衛満朝鮮

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月23日(月)21時53分14秒
   日本列島に朝鮮半島から朝鮮人がやって来たという者(『弥生時代 渡来人から倭人社会へ』片岡宏二 雄山閣 2006年9月10日 26頁)の論拠として必ず持ち出されるのが「衛満朝鮮」です。しかし、この国は謎で果たして存在したのかも不明ですが、仮に存在していたとして、この国は朝鮮の北部にありました。難民がどうして朝鮮半島南部にやって来たのでしょうか。北部にだって東部だって西部だって移動した可能性があるでしょう。そして、仮に南部にやって来たとしましょう。ならば、どうしてトコロテンのように日本列島に押し出されたのでしょうか。単なる想像でしょう。彼らが稲作技術を持って日本列島にやって来たなどは<噴飯物>です。稲作技術は朝鮮半島北部にはありませんでした。理由は寒冷のためです。朝鮮半島南部の者たちが稲作技術を持っていたのなら、どうして日本列島にやって来たのでしょうか。まさか伝道者ではありますまい。理由が希薄です。
 さらに決定的なのはこうした者たちが日本列島にやって来たのなら、集落を作ったでしょう。しかし、この痕跡が見当たらないのです。
 ウィキペディアでの俄か調べじゃだめです。パソコンで拾って論文を書く類です。自分の頭で考えることが肝要です。
 

原田実って

 投稿者:伊集院郷  投稿日:2010年 8月23日(月)20時44分39秒
  史学博士って言ってるけどさ、
博士課程を修了したって言うアメリカのパシフィック・ウエスタン大学って、
ディプロマミルなんだってな、

本人は博士だって言ってるけど、
その学位、
日本どころかアメリカでも認められてないんだとさ、

結局金で学位買って、
世間的には通用しない博士号を名乗ってるわけだ、

なんか、
むなしいよな、、、
 

古代朝鮮の重大事件

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月23日(月)19時16分22秒
  >当時、朝鮮半島から日本列島に向かう重大事件がありましたか?
 以下、ウィキペディアでの俄か調べですが。
 前195年?に中国の燕を出自とする中国人亡命者である衛満が朝鮮北部に“衛氏朝鮮”という国を立てたそうですが、前108年、漢の武帝によって滅ぼされた。その故地には楽浪、真番、臨屯、玄菟の漢四郡が置かれ、漢の植民地になった(4世紀中葉迄)。それ以降は、676年に新羅による統一迄、三国+αによる戦乱が繰り返されたていた。
 つまり、亡命者の流入、建国の騒乱、滅亡の混乱、植民地支配下の色々、三国の戦乱と重大事件だらけです。
 衛氏朝鮮以前のことは謎も多いのですが、朝鮮半島の、前1500〜前300年頃を“無文土器時代”と呼びます。表面に模様を持たないことから命名されているようですが、この時代後期、紀元前550年頃から、環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。また、特に南岸部に人口が集中している。などの記述もあります。
 ちなみに、更に時代を遡ると、前8000〜前1500年頃を“櫛目文土器時代”と呼ぶ時代があり、かつては模様を描いていた時代も有ったという事が分ります。それが、模様無しへと変化した何らかの社会情勢の変化が朝鮮半島にも有ったことは興味深いところですが、“模様無し”とは、この頃から極端な民族性が有ったのですね。

>そこで稲作と出会い、弥生人に変革していったのではなかろうか。
 狩猟採集生活と異なり水稲作は人手を要す為、男女の区別無く農作業にかり出されるから、土器の芸術性に凝る手間暇を失い、弥生式へと変化したことは想像に難くない。が、弥生式土器を見ると、縄文式土器から変化したというよりは、無文土器に文様をつけたように見えるのは偏見であろうか?
 また、水稲作との関わりで、人間自身がどのようにして概観上の変化を遂げるのかは、今後明らかにされるのだろうか?
 

(無題)

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月23日(月)18時18分6秒
  確か唐の歴史書に二つの日本が出てたんやなかったか?

それが大和と九州のことやないんか?
 

倭国

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月23日(月)12時05分7秒
   私は「倭国」は大和にあったと考えますが、『三国史記』の記事から見て、新羅第4代
王「脱解尼師今」(57年〜80年)には、九州にあったと認識していたと思われます。
したがって「倭国」が九州にあったと考えるのもあながちオカシイことではないと思います。
 

原田実さん 大歓迎

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月23日(月)11時55分9秒
   ここに異論を述べる者が出てきて、論戦が繰り広げれることは大歓迎!
これぞ「言論の自由」である。
 原田実さん もう少しまとまった論考をお願いします。少し断片的で
仰りたいことが伝わりません。
 

中華民国は「奪った」のではなく「割譲された」

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月23日(月)10時07分1秒
  原田実といえば恩師裏切りで有名な学者ですね。
遼東半島と台湾はサンフランシスコ平和条約によって平和的に割譲されました。もし平和主義を放棄するのならとんでもない軍国主義です。また中華人民共和国の前身である中華ソビエト共和国は日本に宣戦布告していました。
古田先生が大東亜戦争の用語を使用していた→右翼である
これはあまりにも短絡的だと思います。確かに古田先生は高校の教師時代からソ連を批判するなど左翼では理解できないことをしましたが、左翼は現在日本で歓迎されていないのは選挙結果でも明らかです。
 

朝鮮人は来なかった(13)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月23日(月)00時00分50秒
   【弥生人は縄文人が進化して行った可能性があり、稲作を行うなかで食糧事情が急速に改善されていき、出産率も上昇し、平均寿命も延び、その結果、人口が増加していったと考えた方が正しい理解であろう。つまり、人口増加は渡来人が原因ではない】と。
 このことを裏付けるものがある。『縄文時代中期までの西日本は、温暖化とともに暑苦しく生い茂った照葉樹林にはばまれ、人口の伸びも鈍く、大規模な定住も発達としなかった可能性が高い。東日本に比べて人口密度がぐっと低く、(中略)中期の遺跡数からうかがえる東日本と西日本の人口の比は、だいたい30対1くらいではなかったかといわれている』(「松本武彦」−前掲書 156頁)。これが中期から後期になると西日本の人口が増加し、だいたい5対1くらいの比率になる。これは栗などの豊かな食糧資源をもたらす落葉広葉樹林が慣例化により西日本に広がったことが要因だったと考えられている(「松本武彦」−前掲書 同頁)。東日本からの人びとの移住は東日本の特徴を持った土偶・石棒からも裏付けられる。西日本の人口増加は東日本からの移住によるが、先進的な東日本の人々が西日本に移住し、そこで稲作と出会い、弥生人に変革していったのではなかろうか。つまり、弥生人の基礎は朝鮮などからの渡来人ではないということである。
 なお、渡来人の数については、「稲作」の項でもう一度検証する。
★ 縄文時代の区分
 草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。
 

なぜ人口推定を挙げたか

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月22日(日)21時50分35秒
  1.年代毎に、縄文系が何人、弥生系が何人という推定に意味は有るのでしょうか
  意味がないと思います。しかし、渡来人が日本列島にやって来たということを
 主張する者にとっては、人口増加の算定は避けられない問題で、こうしてその
 根拠を挙げているのです。
2.春秋・戦国時代などの大陸の動乱期と重なるように思うので、戦火を逃れた人々が日本
 を目指してきたとしても何の不思議も有りません
  当時の航海術などから考えて、近いところに移住するというのが常識でしょう。中国
 大陸からであれば、西に向かうのは、まず朝鮮半島です。朝鮮半島の人は日本列島です。
  それと渡来人とされる人たちのほとんどが朝鮮半島からやって来たとされてます。
 当時、朝鮮半島から日本列島に向かう重大事件がありましたか? まず朝鮮半島の情勢
 を分析すべきです。
 

原田様

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月22日(日)21時43分31秒
編集済
  はじめまして、管理者の竹下です。
ご高名はかねがね存じております。

扨、他の投稿者諸氏も反論されております事ですが、私も原田様から「あいた口がふさがらない」とご指摘を受けましたので、少なからず反論させて頂きます。

第一に、日本と中華民国との間に平和条約が締結されていないとのご指摘ですが、大陸統治時代の中華民国とは、ちりとてちんさんが指摘されている通り、支那事変の最中の昭和15(1940)年11月30日、南京に成立した汪兆銘政権との間に『日華基本条約』が調印され、支那事変の講和が成立しています。それ以後、終戦迄は汪兆銘政権に反抗する蒋介石や毛沢東と言った「ゲリラ残党勢力」の掃討作戦の色彩が濃く、それはさながら米軍がイラクに於いてフセイン政権の残党を掃討していたが如くです。又、上記の『日華基本条約』とは別に、蒋介石が国共内戦に敗れ台湾に移った後の昭和27(1952)年4月8日、台北に於いて改めて『日華平和条約』が調印されています。詰まり、日本と台湾は国交断絶前に平和条約を締結しています。

第二に、韓国に於ける多婆耶国架空説に付いてですが、新羅の昔氏王統の祖、脱解尼師今が倭の多婆耶国出身だと書いているのは、『三国史記』「新羅本紀」脱解尼師今条であり、それを架空と切り捨てた韓国側学者の根拠が私は知りたい程です。同じ自国の歴史書を根拠に、かたや竹島が新羅領だったと主張、かたや新羅王の倭国出身を否定と言うのは、納得がいきません。

第三に、「言論の自由」と韓国の大学教授たちについて。原田様は解法者さんの指摘を充分に理解されていない様ですので、補足しますが、北鮮社会に「言論の自由」が無いのは当然の事として、韓国社会にも完全な「言論の自由」は残念乍ら存在しません。日本統治時代の朝鮮半島に付いては「日帝の七奪」や「従軍慰安婦」と言った話が韓国内では「定説」と化していますが、資料を渉猟し、当時の実情を知る人達の証言から、それらが「妄説」である事を一部乍ら認めた学者は韓国民からそれこそ吊し上げに会い、大学教授であれば、教授の地位を奪われるどころか、大学をも逐われます。だから、韓国の学者はたとえ日本統治時代の歴史的真実を知っていても、自らの保身の為に決してその事を口にはしません。詰まり、韓国には一見「言論の自由」が存在する様に見えて、その実、こと日韓関係については「言論の自由」は存在しません。

第四に、同盟国の件ですが、現時点で米国との同盟関係を破棄して、支那・ロシア・韓国と言った諸国と同盟関係を結ぶ位ならば、私はスイスの様に国民皆兵・一国防衛主義、しかも、現在を遙かに凌ぐ重武装の方が余程マシだと考えます。

第五に、古田史学云々の件ですが、私とて古田武彦氏の史観に全て同調しているわけではありません。但し、九州が畿内よりも大陸や朝鮮半島に近いにも関わらず、畿内に王権が誕生し乍ら、九州に何らの王権も存在しなかったと考える方が不自然ではないかと考えている訳です。ましてや、所謂「倭の五王」(旨・哲・満を入れれば八王か?)の系譜が必ずしも天皇の系譜と一致しない事(だから、一人の王に複数の天皇が比定される説が存在する)一つとっても、倭国王権=大和朝廷説は完全ではありません。その点を私は指摘しているのであり、私が古田史学の盲信者とお考えでしたら、それは撤回して頂きたいですね。

最後に、何やら「右翼たち」呼ばわりされている点について。何を以て「右翼」と呼ぶのか、定義にもよりますが、私は戦後、左舷側に傾きに傾き転覆寸前の日本丸を元に戻す為に、思い切り右舷側に船体を戻そうとしている、それが一見「右翼」に見えるものと思っています。斯く言う私も、世間的には思い切り右翼なのでしょうが。然し、それに対し、私から見れば原田様は、こてこての「左翼」にお見受けします。尖閣は中国領であり、韓国側の定説を嬉々として取り上げるその姿勢には、正直「おぞましさ」すら感じます。

まあ、日本は思想・言論の自由が保障されている国ですから、原田様が何をどうお考えになろうとそれはそれで一向に構いませんが、これ以上、「私の板」(私が自腹を切って使用権を得ていますので)を汚されません様、ご注進申し上げます。

あ、それと書き忘れる所でしたが、私は投稿の際、メールアドレスを入力しています。原田様は私なんぞより遙かに著名な言論人なのですから、私の板に関わらず、せめてメールアドレス位はきちんと入力なさって下さい。
 

歴史の専門家さんへ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月22日(日)21時21分48秒
   歴史の専門家を自称しているなら、例えば、朝鮮半島に「倭」があったかについて、
韓国人の「千 寛宇」、「金 廷鶴」、「任 昌淳」、「金 元龍」、「李 基白」、
「金 貞培」、「文 定昌」、「金 烈圭」らの発言を当然ご存知のはずだ。「任那日本府」
についても同じ。
 一人くらい「倭」が朝鮮半島にあり、また「任那日本府」もそうだったと言うものが
いてもいいんじゃないのかぇ! <一致団結 重ね餅>の類じゃないのかね。
 

オイオイ、原田!!

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月22日(日)18時25分54秒
  尖閣諸島が中国領やと?  アフォぬかしとるんやないぞ!!

いつ尖閣諸島を中国が支配してたんや?  言うてみ。

中華民国と平和条約を結んどらんとか言うてはるけど、あのなぁ1940年に南京国民政府と日華基本条約を結んで手打ちしとるんや。

そないなことも知らんで歴史が専門とかぬかしとるんやないぞ!!
 

北朝鮮と韓国の区別もつかない右翼たち

 投稿者:原田実(←成り済ましです)  投稿日:2010年 8月22日(日)16時32分7秒 Remote Host: 112-68-121-150.eonet.ne.jp, Time: 1282462327
  解法者様
>朝鮮人にとって新羅王が「倭」の出身だなんと唱えたら何と言われる。あなたは
朝鮮で「言論の自由」というものが封殺されているという実情を全くご存じない。<
あなたは世界地図をご存じない。朝鮮人とは北朝鮮の人を指し、私の言っていることは韓国の大学教授たちです。朴念仁様と同じく事実を調べてから反論してください。
 

日本から台湾と遼東半島を奪った仮想敵国「中華民国」

 投稿者:原田実(←成り済ましです)  投稿日:2010年 8月22日(日)16時27分25秒 Remote Host: 112-68-121-150.eonet.ne.jp, Time: 1282462045
  私は歴史が専門なので政治とはあまり関係ありませんが、ここの投稿している右翼の方のように歴史的事実を重視すると、旧中華民国(現・台湾)は日本から領土を奪った敵国です。それに日本と平和条約を結んでいません。
朴念仁様、中国は尖閣諸島を狙っているのではなく、すでに統治しているのです。そして、海図を見るとあそこは中国の大陸棚に属しています。私の「万世一系・多元史観批判」を再批判する前に、もっと事実を調べてください。
 

先生! こんなところにアホがいます!

 投稿者:朴念仁  投稿日:2010年 8月22日(日)15時22分58秒
  原田君!  君って頭イカれてない?

原爆のことはともかく、アメリカより中国や韓国、ロシアの方が同盟国にふさわしい?  中国は尖閣諸島や沖縄を狙い、韓国は占領中の竹島どころか対馬も自分達の領土だと言い、ロシアだって北方領土を返さない。それなのに同盟国にふさわしいってどうよ?

それと韓国側の定説では…って、あいつら嘘八百並べてるじゃない。それなのに彼らの言うことまともに信じてるんだから、君の書いてる本もアヤシイもんだ。
 

計算は苦手なので、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月22日(日)14時02分8秒
  なんとも言えませぬ。
 年代毎に、縄文系が何人、弥生系が何人という推定に意味は有るのでしょうか。どれだけの数の人々がやって来たかは知りませんが、これまでの科学データから、半々くらいでいいのでは?
 弥生時代になっても、縄文系が相変わらず狩猟採集のみの生活を続けているという前提は疑問ですし…。アイヌはそうかもしれませんが、弥生時代の沖縄人の生活がどうだったのか、そして人口の変化も知りたいところですね。
 そもそも、ここで言う、縄文系・弥生系とはどういう区分なのでしょう? 外観上で見分けられる区分なのか、それとも、狩猟採集生活を続けている人・農耕生活をしている人という区分なのか? 前者の場合、混血した人はどちらに入るのか?
 弥生時代の始まりは、春秋・戦国時代などの大陸の動乱期と重なるように思うので、戦火を逃れた人々が日本を目指してきたとしても何の不思議も有りません。来なかったとすれば、逆にナゼ来なかったのだろうとすら思います。土器の文様に凝っていられなくなった社会情勢の変化が有るのは間違いないでしょう。そして、日本でも弥生時代の始まりとともに戦乱の時代が幕開けしていますので、単純に人口増加シミュレーションが当てはまるとも思えないのですが、そこのところはどう考慮されているのでしょうね。
 

さらに

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月22日(日)13時58分16秒
  >日米安保が日本を守ったといいますが、日本に原爆を落としたのは誰でしょうか?アメリカや台湾、イギリスは日本の仮想敵国です。一方で戦後成立の中国やロシア、韓国こそ日本の同盟国にふさわしいのです<

 日本に原爆を落としたのはアメリカですが、それとは別。日米同盟がソ連からの日本への侵略を防止したのです。
 「アメリカ」が日本の仮想敵国ですというのは理解できるとしても、何で「台湾」が。
「台湾」こそ日本の大事な同盟国なのです。直ちに「国家承認」しなければなりません。
 >中国やロシア、韓国こそ日本の同盟国< 何じゃいな! 本気にそう思っているの?
まさか茶化しているんじゃないだろうね。彼らこそ<仮想敵国>です。なぜって。日本の
領土を侵略しており、また侵略しようとしているからです。
 あなたに説明しても無駄だわな!
 

こんなの当たり前でしょう

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月22日(日)13時51分8秒
  >韓国では多婆耶国架空説が通説になっています<

 朝鮮人にとって新羅王が「倭」の出身だなんと唱えたら何と言われる。あなたは
朝鮮で「言論の自由」というものが封殺されているという実情を全くご存じない。
古代史だけでなく、近世・近代史の日本統治時代史だって同じ。
 朝鮮人の考えを紹介するだけ<愚>というものです。
 

多婆耶国は架空の国

 投稿者:原田実(←成り済ましです)  投稿日:2010年 8月22日(日)13時13分30秒 Remote Host: 112-68-117-254.eonet.ne.jp, Time: 1282450410
  日野様、竹下様、解法者様、韓国では多婆耶国架空説が通説になっています。
三人とも倭国=九州説を前提としておりますが、それは間違いです。解法者様は知りませんが、日野様も竹下様もすでに私が誤りだと立証済みの古田氏学を信じており、あいた口がふさがりません。

また、解法者様は日米安保が日本を守ったといいますが、日本に原爆を落としたのは誰でしょうか?アメリカや台湾、イギリスは日本の仮想敵国です。一方で戦後成立の中国やロシア、韓国こそ日本の同盟国にふさわしいのです。
 

朝鮮人は来なかった(11)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月21日(土)20時57分12秒
   「埴原和郎」が「渡来人が弥生時代の開始以後の1000年間(だいたい紀元前300年ころから紀元後700年ごろまでの間と考えられる)に100万人もやって来た。例えば、年あたりの人口増加率を0.2%とすると、1年に1500人ずつ、計150万人)」(『はるかな旅』第5巻 101頁〔「渡来人がもたらした弥生の人口爆発」中橋孝博〔同上〕122頁、で指摘〕などと言うのは<誇大>の何物でもない。「小林青樹」は膨大に推定していると指摘する−前掲書 同頁、「長浜浩明」は砂上の楼閣だとする−前掲書 141頁。考古学的に見てもそれだけ大勢の渡来人がやって来れば、北部九州ではその痕跡が住居跡や墳墓に見られるはずなのに、それがない(「中橋孝博」−前掲書 同頁)。
 「縄文時代の人口は、早期21,100人、前期105,100人、中期261,300人、後期160,300人、晩期75,800人、弥生時代594,900人、土師(奈良)時代5,399,800人、である」(「小山修三」−前掲書 109頁)。これによると、三内丸山遺跡の人口も24人、巻向遺跡(纒向遺跡)の人口も57人となるという(「長浜浩明」−前掲書 127頁)。ところが、本人の「小山修三」自身が前者は1000人も考えられると言っている(前掲書 160人)。巻向遺跡にしても卑弥呼の宮殿があったとされ、57人どころか数千人が暮らしていた可能性は大きい。これからしても、彼の人口推計は仮説でしかない。
 

朝鮮人は来なかった(12)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月21日(土)20時55分15秒
   「中橋孝博」の前述(「渡来人がもたらした弥生の人口爆発」)の人口増加シュミレ−ションを要約すると、次のようになる(「長浜浩明」−前掲書 214頁)。

     −300年 −250年 −200年  −150年  −100年  −50年   −0年
縄文系  75,724  79,604  83,684  87,972  92,480  97,219  102,099
弥生系    76   317   1,325  5,535  23,115  96,529  391,751
        50年    100年     150年       200年
縄文系   107,331    112,832      118,614      124,692
弥生系 1,635,985  6,832,004   28,530,991  119,147,682
◆ 「中橋孝博」の設定した条件
 1.弥生中期集団のなかに占める縄文系弥生人の比率 10〜20%
 2.土着縄文集団のなかに占める初期渡来人の比率  0.1%〜10%
 3.人口増加率  縄文系−0.1%〜0.3% 弥生系−0.5%〜3.0%
 4.弥生開始期から前期末までの時間       200年〜300年

 「中橋孝博」は、狩猟・採集民の縄文人の人口増加率は低く、稲作などの先進文化を持って渡来した弥生人の人口増加率が高いという前提で立論がなされ、渡来人が少数であっても、その人口は150年も経てば、縄文人を追い抜き、その後は爆発的に人口が増加していくというものである。これによると、200年には日本の人口は約1億2千万人という現在の人口とほぼ同じものとなっていく。こんなことはないだろう。これでは過大と評価されている「小山修三」の人口推計よりも多くなってしまうのである。
 

新たな問題

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月21日(土)12時17分18秒
   これまで、言語・石器・Gm遺伝子などから、氷河期の旧石器時代(10万〜1万年前)に、シベリア経由で陸続きであった北海道に渡って来た北方系の人々が、縄文人(沖縄も含む)の祖先であるということが提議されています。
 しかし、その人々の外観は、南方系の特徴を備えていることが不思議です。
 すると、東日本は今より1000q南に位置していた、という提示がされました。
 ここで、新たな問題ですが、単純計算で、移動速度を10p/年として、1000q移動するには、1千万年かかります。
 10万年前に来たとすると、北海道は今より南に10qの位置でしかないので、亜熱帯気候に適応することができません。ならば、もっとはるかに古い時代としなければならなくなります。
 また、シベリアごと南に位置していたとすれば、やはり、ポールシフトが起こったということになるのですが、イザナギ・イザナミに記紀て、いや聞いてみなければ分からないかも。
 

また出始まりましたね。

 投稿者:マーチン  投稿日:2010年 8月21日(土)08時23分5秒
  自分でまともな投稿もせず、ただ、読むだけのユーザーなのに、書き込みが同じ方だと「連続投稿」とレッテル張りをする。
まめに書き込んで下さる方々の労力を考えたことがあるのだろうか。
投稿時間を見ると数時間のインターバルがある。
私の感覚だと「連続投稿」は数分の間隔で他の投稿の邪魔になるほどのことを言うのだと思っています。
「あのなー」等と書き込む暇がおありなら、実のある投稿をなされたら良いでしょう。

私は言論弾圧が嫌いなもので、スレ汚し失礼しました。
 

南方系の特徴を持つアイヌ

 投稿者:霧島サクラ  投稿日:2010年 8月21日(土)06時56分44秒
  アイヌが南方系の特徴を持っていても何の不思議もない。
なぜなら彼らが主に暮らしていた東日本は大昔、事実上”東日本島”として千キロ以上も南方にあったのだから。だから”北限の猿”と言われるニホンザルも現在、東北地方に住んでいる。それはそうだろう。アイヌやニホンザルが住んでいた亜熱帯地域の”東日本島”が現在あるところまで千キロ以上も移動してしまったんだから。
ニホンザルは好き好んで”北限の猿”になったわけじゃない。島の移動で生息域を亜熱帯から温帯や亜寒帯に自動的にされてしまったのだから。

その後、”西日本島”や現在伊豆半島と呼ばれている”伊豆島”と合体し本州となった。

もっとも誕生時の本州は九州や四国とともに西側を軸に90度時計回りに傾き、現在の西日本は”北日本”、同じく東日本は”南日本”だった。だから、東日本の方が西日本より温暖な低緯度にあり、肥沃な地味ともあいまって現在のように寒さ対策など考えることなく農業生産することができた。だからこそ、武内宿弥が現在の関東や東北地方を”土地が肥沃だから手に入れるべし”と進言したわけだ。

結論として、暖かい低緯度地域に住んでいる民族の特徴を持つアイヌがなぜ寒い高緯度地域にいるかと言えば、それは”ひょっこりひょうたん島”のように島ごと運ばれてきたからである。
 

あのなー

 投稿者:軍人快感  投稿日:2010年 8月21日(土)02時50分55秒
  連続投稿はやめなはれ。  

あのなー

 投稿者:棺直人  投稿日:2010年 8月21日(土)00時47分0秒
  連続投稿はやめなはれ。  

ナゾ多し。

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月21日(土)00時10分3秒
  始めにお断りしますが、弥生系の山口百恵よりも、縄文系の桜田淳子派でしたので…(古い?)。

・Y染色体(付け足し)
 九州北部を渡来人の入口とすれば、縄文系は福岡に少なく神奈川に多いはずで、弥生系は福岡に多く神奈川に少ないはず、というその定義は正しいのだろうか? その定義に当てはまらないからと言って、縄文人が弥生人に進化したと言えるのだろうか?
 渡来人が大量に来たとしても、九州北部が弥生系だらけになるとは限らず、定住地が無ければ、内陸なり本州へと移動して行くに違いない。ならば、福岡で縄文系・弥生系の人口比が半々なのは、共存に成功したということか。日本中がほぼ均一になっているなら、それは神武東征以後、二千年間でシャッフルされたのでしょうか。
 朝鮮人といえども弥生系Y染色体(O1・O2)頻度は、100%ではないようですから。

・mtDNA
 日本人に多い系統:D(D4)
 日本人:34%、韓国人:5、北京人:1、タイ人:0、青森人:40、福岡人:34
 神奈川ではなく青森? 都合のいいデータを提示していると思われるので、サンプルは統一した方が…。
 mtDNAは、母から娘へと引き継がれるものなので、渡来人が女子供を置き去りにして男ばかりだったとすれば、どれだけ多く来ようともその比率は変わりません(超飛躍)。
 これも、Y染色体と同見解です。
 Y染色体にしろ、mtDNAにしろ、アイヌと沖縄のデータが欲しいところです。

・ATL
 沖縄:33.9%、九州:7.8、中国:0.5、四国:0.5、近畿:1.2、中部:0.3、関東:0.7、東北:1.0、北海道(アイヌ45.2、和人1.1)、朝鮮:0.0、支那:0.0
 この結果こそ、渡来人が来た証拠になっちゃったりして。本州・四国・九州ともアイヌ・沖縄よりも随分低い。九州だけ割と高いのは、沖縄から来た人が多いから、と考えれば説明がつく。この場合、女性も渡来にトライしたことになるけど…。
 逆に、渡来人がやって来なかったならば、ナゼ、沖縄・アイヌを除いて低いのだろうか? 元々低かったならば、アイヌ・沖縄と本州・四国・九州の人達は別の系統ということになります。

 最後に、ちょっと自分でも調べてみたのですが、“Gm遺伝子”という研究によれば、驚いたことに、
「Gm遺伝子で見る限り、アイヌ民族や琉球人は南方系の遺伝子を僅かしか持たず、極めて北方的である。それに対し、本土日本人は2倍ぐらいの南方遺伝子を持っている。さらに、琉球人と台湾の先住民とは、Gm遺伝子では全く関連性がない。」
とあります。(http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_08.html
 これが、本当なら解法者さんの書かれている事に近いのですが、一体どういうことでしょう? 考えられることは、氷河期が終わる頃、現在と方位が変わる現象が起きたのでしょうか? つまりは、極移動、ポールシフト?
 

朝鮮人は来なかった(9)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月20日(金)20時24分31秒
   日本に渡来民がやって来た根拠として「耳垢(じこう)」が挙げる者もいる。これについては早くから(1938年)「足立文次郎」が知られている。「耳垢」には「乾燥耳垢」と「湿型耳垢」とがある。「湿型耳垢」の人はアポクリン腺と呼ばれる汗腺の活動が発達していて、それから分泌される耳垢は粘り、腋臭が強い。その逆が「乾燥耳垢(乾型耳垢)」である。足立の集めたデ−タ−によると、日本の本州・四国・九州の「湿型耳垢」の頻度は16.7%、朝鮮人の7.6%、ツング−スの10.3%、蒙古人の13.3%に比べると大きいが。琉球列島の38.0%、北海道のアイヌの50%に比べるとかなり小さい。「湿型耳垢」の比較的高い頻度は、日本列島の南北両端ばかりではなく、華南(29.4%)、タイ(35.5%)、台湾山地(71.4%)、フィリピン(55.0%)、ミクロネシア(53.4%)にも見られる。むしろ、「乾型耳垢」の多い地域がアジア大陸の東北部に限局されており、その傾向が北海道と南西諸島をのぞいた日本列島の中央部分に強い影響を及ぼした、というようにみることができそうである。【本州の中で「乾型」と「湿型」の割合がどのように文付しているかは、まだ地域差調査が本格的におこなわれていないため、よくわかってない】(『日本人の生いたち』山口 敏 みすず書房 1999年6月25日 69頁)。ところが、「池橋 宏」は肝心の【 】を省いて、<朝鮮半島経由で乾燥耳垢型をもつ集団が渡来して九州から本州へ移住したという説が支持される>としている(『稲作渡来民』池橋 宏 講談社〔講談社メチェ 411〕2008年4月10日 197頁)。「Y染色体」、「ミトコンドリア」などの分析でも示したように、日本各地での分析調査が行われていなければ、「乾燥耳垢(乾型耳垢)」がそういうル−トで日本にやって来て、どのように拡散したのかがわからず、「池橋 宏」は<朝鮮半島経由で乾燥耳垢型をもつ集団が渡来して九州から本州へ移住した>などと言っている『稲作渡来民』池橋 宏 講談社〔講談社メチェ 411〕2008年4月10日 197頁)。原典の【捏造】である。結局、「耳垢」の型からの渡来人の痕跡を証明することも確証がない。
 その他、「耳たぶ」による分析がある。これに関するものに「分離型耳垂」(耳たぶの下縁がやや垂れ下がっている−「福耳」のこと)があるが、これも朝鮮人には低い比率でみられるという(32,62%または29.88%)。「分離型耳垂」の出現率を見ると、渡来人がやって来たとされる九州地方(44.10)よりも山口県(36.88%)、山陰地方(37.35%)、四国(41.71%)が低く、逆に近畿(京都−36.6%または53.2%、奈良−42.5%または49.2)の方が高い(「日本人の筋肉系と動脈系」欠田早苗〔『人類学講座 6−日本人 U−』雄山閣 1978年10月20日 56頁〕)。特に四国地方が低いのがオカシイ。結局、これも渡来人がやって来たという確証にはならない。また「二重まぶた」(「欠田早苗」−前掲書 44頁)、「指紋」、「手掌紋」からの分析もデ−タ−が不足しており(「山口 敏」−前掲書 72頁・63頁)、結果は同じである。
 

馬鹿で投稿もできない?

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月20日(金)20時04分0秒
  あんたが投稿したらよい!!!  

あのなー

 投稿者:光クラブ  投稿日:2010年 8月20日(金)16時06分1秒
  連続投稿はやめなはれ。  

朝鮮人は来なかった(8)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月20日(金)12時24分18秒
   Y染色体は男性の系統を示すものであるが、女性の系統を示すものとしてはミトコンドリアである(「中堀 豊」−前掲書 50頁、末尾も参照されたい)。これにも系統があって、そのなかにD(D4)系統は日本人(日本本土人)に多く(34%)、韓国人にはとても少ない(5%程度)。中国の北京人も同じである(1%程度)。スンダランドを形成していたタイ人には全く見られない。これも青森人はミトコンドリア系統の40%が有しているが、福岡人は34%となっている(「中堀 豊」−前掲書 144頁、「長浜浩明」−前掲書 257頁)。これも朝鮮半島に近い福岡に極端に少なく、そこから遠い青森に多いはずであるのが、そうなってない。つまり、朝鮮半島から大量に渡来人(弥生系)がやって来たのであれば、まず、朝鮮半島に近い福岡から混血が始まり、D(D4)系統の%が少なくなるはずである。しかし、そうではなく、全国の平均値と同じである。これも前述のY染色体の分析で示したものと同じく、現在の日本人は従来から土着していた縄文人の遺伝子を有していたと考えるしかない。
 これも結論としては【渡来人が大挙して押し寄せたような状況は考えにくい。渡来してきた人の数となると、多く見積もっても数百年で数千人。1年になるとせいぜい数十人程度に過ぎない。2家族とか3家族とかごく少数の人びとが、長い間にぱらぱらとやってきたというのが実態ではないか・・・】(「戸沢冬樹」〔『はるかな旅』第5巻 38頁〕)というのが、真相であろう。
★ ミトコンドリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2DNA
 

朝鮮人は来なかった(10)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月20日(金)12時22分49秒
   朝鮮人などの渡来人が本当に来たのかを疑う証拠はもう一つある。母乳を通じて母子感染し、白血病などを引き起こすウイルス(成人T細胞白血病ウイルス〔以下ATLという〕)があり、日本人に多い。これを持っている人の分布は、沖縄−33.9%、九州−7.8%、中国−0.5%、四国−0.5%、近畿−1.2%、中部−0.3%、関東−0.7%、東北−1.0%、北海道(アイヌ45.2%、和人1.1%)となっているが、朝鮮−0.0%、中国−0.0%である(『私たちはどこから来たか』隅元浩彦 毎日新聞社〔「長浜浩明」−前掲書 111頁〕)。このことは日本人がどこからやって来たかを探るうえで重要な問題を提示している(「山本七平」−前掲書 31頁)。
 これも渡来人である中国人・朝鮮人が日本にやって来たなら、九州、中国地方の人々にATLを持っている人が少ないはずだ。しかし、そうはなってない。やはり、朝鮮人などの渡来人がやって来たとの証拠からはほど遠い結果となっている。特に朝鮮人などの渡来人が「四国」が大量にやって来たという記録がないのに、ここがATLの度合いが少ない。全く納得がいかない。
 

私、縄文系ですから。A

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月19日(木)17時30分54秒
  Aについて、
南方系の特徴を持つ縄文人が寒冷地に適応した特徴を持つ弥生人(北方系)へと進化することが、水稲栽培可能な温暖湿潤気候の日本で、しかも僅か千年に満たない期間で可能でしょうか?
また、寒冷地で暮らすアイヌの人々はナゼ、南方系の特徴を維持しているのか?という疑問が浮かびます。
もしくは、“進化”とは身体的(遺伝子)な意味を示しているのではなく、文化の担い手として言っているのでしょうか?
縄文人に渡来人が混血して弥生人になった(進化した)という意味なら分ります。あるいは混血していない人たちも含めてその時代の人達のことを弥生人と呼んでいるのでしょうか?
そういう意味で、どのくらい渡来して来たのかについて述べる為に“Y染色体”の投稿がされたのかもしれませんね。
(調査結果)
  縄文系:福岡 47%、神奈川 40%
  弥生系:   48% 、   57%
これをまとめると、弥生系が渡来系ならば、福岡に多く神奈川に少ないはずであり、縄文系は福岡に少なく神奈川に多いはず。しかし、その逆となっている。また、渡来系は日本中どこでもほぼ均一と考えられる(?)。これらから、渡来人の影響は、その人数であれ、人口増加であれ、大きくなかったという結論が導かれています。
が、この結論は怪しい…。
まず、縄文系が福岡に多く神奈川に少ないというよりは、福岡は縄文系・弥生系とも半々で、神奈川はナゼか弥生系が多い?と見るのが素直だと思う。
先住民と同じ比率になる為には、最大で同数の移民が必要ではなかろうか?
もし、移民が少ないのに半々の人口比になったのなら、移民の人口増加が大きかったか先住民が減少したかと見るべきで結論が真逆です。
男ばかりがやって来た場合、少数でもそうなるかもしれない。数学の得意な方がいたら、計算をお願いしたい。また、女性のミトコンドリアDNA調査結果もあればいいのだが。
奈良時代以降の歴史や社会情勢も考慮する必要があるのではないでしょうか? 例えば福岡は、九州各地から人が集まる場所ですが、その影響とか。また、神奈川のサンプルは学生だが、出身地はどうなっているのだろうか? 神奈川は日本中から人が集まりそうですが、特にかつては集団就職も多かったと思います。更に、20世紀に入って来日した人達がいなければ、もっといいデータが取れるのでしょうが…。
 

私、縄文系ですから。@

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月19日(木)17時28分54秒
  「朝鮮人は来なかった」における問題提起は、次の2つですね。
@、縄文人の祖先はシベリア(北方)から来て沖縄まで広がったのか?
A、弥生人は縄文人が進化したのか?

@について、
氷河期の旧石器時代に、シベリアから北海道に渡って来た人達がいたことは間違いないとしましょう。
彼らは、日本列島では、南方系の身体的特徴を持つ縄文人となり、北東アジアに残った人達は、寒冷地に適応して北方系の特徴を持つ人々となった。そして、朝鮮半島の人達も北方系の特徴を持っている。
氷河期が終わったのは、1万2千年前頃と言われているので、縄文中期には縄文人的特徴を持ったとして、長くても5千年程で変化しなければなりませんが、妥当な時間なのでしょうか?
それとも、日本列島に来る前、既に特徴を備えていたのであって、変化が大きかったのは大陸に残った人々なのでしょうか?
どちらも合点しづらく思います。
湊川人が縄文人に繋がらないとしても、彼らが消滅してからの1万数千年間の空白期間に南方からやって来た人々もいて、混じり合ったと考えた方が理解し易いように思いますが、北からのみに限定する必要が有るのでしょうか?

「稲作の伝来」については、解法者さんの書かれた『「稲」は日本から朝鮮に伝わった』(http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ine_denpan.htm)を読みましたが、特に異論はありません。ただ、日本から朝鮮半島へ稲が伝わったならば、あちらにも縄文系の人がもう少し居てもいいような…。あっちは暮らしにくくて帰って来ちゃったかな?
 

あのねー

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月19日(木)11時18分11秒
   あんたが投稿したらよい!!!  

あのねー

 投稿者:光クラブ  投稿日:2010年 8月19日(木)02時02分22秒
  連続投稿はやめなはれ。  

隣国との友好をいたずらに促進するべきではない(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月19日(木)00時15分35秒
   日本統治時代を経験した人の証言を少しずつ集めているが、意外に日本統治時代を経験した人に日本の「歴史認識」を問題にする人が少ないないということである。「朝鮮は独立するに足りる情勢にはなかった」、「思ったより日本時代は悪くはなかった」というのが大半の意見である。本来であればこうした人たちの意見が前面に出てこなければならないのに、それが封殺されているのは健全な「言論の自由」が確立してない現状を物語っている。先に自国の歴史は自国中心であると言ったが、朝鮮の場合はそれが度を過ぎている。
 55回も韓国を訪問したが(北朝鮮にも3度行ったが、庶民との会話が不可能だった)、嫌な目にあったことはない。庶民は日本・日本人に親しみを感じている。田舎ほどそれが強い。日本時代を経験したことのある人たちに会いたければ、ソウルの中心部の「タプコル公園」(かつてのパゴダ公園−朝鮮独立運動の発祥地)に行かれるとよい。日本時代を経験したことのある人たちが集まっているから、日本語で話し掛けたら話がはずむ。遠慮することはない。彼らは家族からもうとんじられており、話し相手を待っている。近所でご馳走すれば、日本時代の話などがもっとはずむこと請け合いだ。食事代など大したことはない。ただ、彼らは「絶滅危惧種」なので早く行かないと鬼籍に入られてしまう。
 【何もNHKが煽らなくとも、朝鮮人は十分に友好的である】
 

先史時代の日本

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月18日(水)22時23分31秒
   私たちは「南から日本列島に人々(縄文人)がやって来てやがて北海道に達し、その後で朝鮮半島から人々(弥生人)がやって来て、日本列島にいた縄文人が南と北に駆逐された」と習ったと思います。この縄文人の祖先とされる人々が沖縄で発掘された「港川人」で、南のスンダ−ランドからやって来たとされてました。しかし、その人たちとされる「港川人」と同じ形態の人骨がその後発見されず、どうやら縄文人の人骨の形態とも異なり、絶滅してしまったのではないか。さらに土器・装飾品や言語などからむしろ北からやって来た人たち(これが縄文人の祖先)が現在の沖縄人であるということが定説となってます(「アイヌ・琉球人は縄文人の直系子孫か」馬場悠男〔『争点 日本の歴史 1.原始編』鈴木公雄 新人物往来社 1990年10月20日 106頁〕。
 北から来た人々とはシベリアからやって来た人たちですが、一度にやって来たわけではないようで、先に来ていた人たち(「小型剥片石器」を使用していた)を駆逐して現在の縄文人が形成されたと考えられています。
 さて「弥生人」のことですが、これも「縄文人がいた日本列島に朝鮮半島などから渡来人とされる人々がやって来て、従来の縄文人を駆逐して、現在の日本人を形成した」と習ったと思います。しかし「縄文人」と「弥生人」(時代も含める)の区別があったのか、が最近問われて「縄文人」が「弥生人」に進化しただけではないか、つまり渡来人などは集団としてはやって来なかったのではないか、ということが提唱されています。本題もここにあります。なかなか従来刷り込まれてきたことを払拭するのは困難で、私もその一人でしたが、もう一度勉強しなおした次第です。
 なお、「稲作の伝来」も含め研究書は詳細に紹介しておりますから、それをご覧ください。とにかく自分で勉強することが肝要です。その結果、新たな結論に達したら、ご紹介ください。
 

朝鮮人は来なかった(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月18日(水)16時40分5秒
   では、朝鮮半島や中国から私たちの祖先が<集団として>旧石器時代に渡って来たというのはどうだろうか。結論を先に言うと、これはない。もちろん、縄文時代、弥生時代にもない。
 「男性はX染色体を1本、Y染色体を1本持つ。女性はX染色体を2本持つ。男児は母親からX染色体を1本、父親からY染色体を1本受け継ぐ。女児は母親と父親からそれぞれX染色体を1本ずつ受け継ぐ。例えば、5万年前に、ある男性に2人の男子ができたとする。2人のY染色体の元になったY染色体はもちろんもとの男性のものであり、世代を伝わるうちに何の変化も起こらなければ、2人のY染色体は5万年経っても全く同じものとして伝わっているはずである。(中略)ある変化が1人の男性のY染色体に生じても、その男性からY染色体を受け継ぐ男性は、全てその変化を受け継いでいる。従って、現存するY染色体の型を調べると、途中で起きた変化と、それぞれのY染色体の系統関係が確実にわかるのである。(中略)このY染色体の型は最も古いアフリカのA,B系統からR系統まで18系統に分類され、その下に153の亜形(ハプログル−プ)が定められた」(『Y染色体からみた日本人』中堀 豊 岩波書店〔岩波科学ライブラリ− 110〕2005年9月6日 27頁・49頁)。これを基に分析した結果、縄文系とされるC,D系統は、福岡の男性が47%であったのに対し、最小が神奈川の学生で40%となっている。弥生系とされるO(O1・O2)系統は福岡の男性が48%程度、神奈川の学生で57%程度となっている(「長浜浩明」−前掲書 255頁)。本来であれば、弥生系(渡来系)とされるO(O1・O2)系統は朝鮮半島に近い福岡に多く、そこから遠い神奈川に少ないはずであり、渡来系(朝鮮半島・中国からの人々)とは関係のない縄文系統であるC,D系統は、福岡に少なく、神奈川に多いはずである。ところが、分析は全くその逆となっている。すなわち、Y染色体の分析からは、弥生時代から奈良時代にかけて日本にやって来たとされる渡来人の影響は、その人数であれ、人口増加であれ、大きくなかったからこそ、「中堀 豊」が渡来系としたY染色体のO(O1・O2)系頻度は、日本中どこでもほぼ均一と考えざるを得ない(「長浜浩明」−前掲書 254頁)。これは在の日本人は従来から土着していた縄文人の遺伝子を有していたと考えるしかない。結論としては、渡来人が日本に来なかったか、来たとしても少人数だったことを示している。
 

更に、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月18日(水)14時41分43秒
  稲作が始まったのは中国の長江下流域で約7000年前(紀元前5000年頃)。最初は「焼畑」だった。
6000年前(紀元前4000年頃)には日本にその技術が伝わり、「熱帯ジャポニカ」という品種が栽培された。
水稲栽培が始まったのは中国の長江中下流域で約6000年前(紀元前4000年頃)。
日本の北部九州では3000年前(紀元前1000年頃)には灌漑施設を伴った水稲栽培が行われていた。
朝鮮で水田稲作が始まったのは紀元前1000年前頃からであるから、日本の方が朝鮮より遥かに早く稲作が始められていたのである。
日本における稲作は、焼畑にしても水稲にしても中国より1000年遅れて開始されたのであって…。

とあるのですが、
日本と朝鮮での水稲栽培は、同時期にしか見えませぬ。
日本の焼畑は中国より1000年遅れ、水稲は3000年遅れということでは?
なんか、揚げ足取りみたいでスミマセン。
 

Re:朝鮮人は来なかった

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月18日(水)14時29分0秒
  少しまとめてみました。
まず、「日本原人」というものは存在せず、日本人の祖先は、旧石器時代中期の末期〜後期(10?万年前〜1万年前)にシベリアから北海道を伝ってやって来た“新モンゴロイド”である(シベリアで発達した「細石刃」が北海道を中心に発見されている)。
そして、氷河期だった為、長くは続かなかったが、既に農耕も行われていた(3万年前頃まで「局部磨製石斧」の出土)。
一方、南方からも台湾、沖縄を経由して“古モンゴロイド”が日本列島にやって来たが、1万数千年前には消滅してしまった(彼等が縄文人とは異なる特徴だったことより)。
現在の沖縄の人達のル−ツは約6千八百年前に日本本土から南下した縄文系の人達である(九州産の黒曜石や新潟の翡翠などが出土、琉球語は日本語と同系統の言語)。
“新モンゴロイド”とは、シベリアから渡って来た人達であり、彼らが縄文人の祖先で、これが弥生人に進化した。朝鮮半島などからやって来た人達を「新モンゴロイド」と言い、弥生人の祖先となったという考えもあるが、これは誤り。

つまり、日本人のルーツは、旧石器時代中期以降にシベリアからやって来た“新モンゴロイド”と呼ばれる人々で、彼等が縄文人の祖先であり、やがて弥生人へと進化した。更に、南方系の人々もいたが消滅し、北方系が残った。

うーん、縄文人の特徴は南方系であり、弥生人の特徴は北方系という従来の定説からは俄かに信じがたいです。
一方で、
「シベリアに近い北海道の先住民たちは「小型剥片石器」を使っていたが…「細石刃石器」に取って代わられた」
という箇所もあり、先住民はどういう人達で、どうなったの?という疑問も残ります。
また、
『縄文人と似た集団が東アジアで見つからない理由は、東アジアの諸集団がいろいろなル−トで日本に入ってきて縄文人となったが、その後、シベリアから寒冷地に適応した新モンゴロイド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の祖先は駆逐されて残らず、日本の縄文人だけが残った』
と有りますが、これまでの記述と合致しない部分もある上に、氷河期にシベリアにいた縄文人の祖先が南方系の特徴を備えているのに、東アジアに残った人々が、氷河期が終わって温暖化した時代(日本で言えば縄文時代)に、寒冷地に適応して北方系の特徴に変わったというのはいかにも不自然。
しかも、縄文人が弥生人に進化したというのは、身体的特徴から言って、水稲が行われた時期(またはそれ以前)に寒冷化しなければならないという、おかしなことになりそうです。
縄文人と弥生人は異なる時代にやって来たと考える方がしっくり来るのですが。
読み間違いなど有れば、御指摘いただきたく。

漢文は、頭に入っているわけではありません。今は何かと便利な時代ですから。
 

(無題)

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月18日(水)12時47分50秒
  ところで、とんちんかんなことを書きよった“原田実”って、あの“原田実”かいな?  

護憲やと?

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月18日(水)12時44分13秒
  “日本国憲法”が施行された時、一番に反対してたんはどこの党やった?  たしか共産党や旧社会党やなかったか?  “米製憲法”や言うて。

それが今じゃどないや?  共産党も社民党も護憲の“最右翼”やないか?

新憲法反対から護憲に“転向”した理由をうちは知りたいわ!
 

凄いですね

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月18日(水)12時42分41秒
   すらすらと漢文が出てくる。もちろん漢文は習いましたが、総て忘却の彼方で。

 そうそう。日本を維持するためなら「軍国主義」でも構いませんがね。
平和が長い間維持できたのは『日本国憲法』のためではなく「日米同盟」のお陰で
すな。つまり、『日本国憲法』は無用だったと言うことです。
 

隣国との友好をいたずらに促進するべきではない(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月18日(水)12時32分15秒
   いつもとおりで前段が長くて申し訳ない。そろそろ、本題に入りたい。「歴史認識」 これは政府・マスコミが一方的に教育あるいは扇動する韓国と、全く教えない日本との差にある。したがって、日本人は一方的に<言い負かされる>ことになる。アメリカに留学する若者が韓国人に「歴史認識」で一方的に言われて反論もできないで黙ってしまう姿を見て、アメリカ人などが不思議に思うという報道がなされるが、全くそのとおりである。歴史好きな朝鮮人 歴史嫌いな日本人 ということは、政府がキチント日本の近代史・現代史を教えてないことで、大学入試にもまず日本の近代史・現代史は試験に出ない。
 韓国にも問題があるが、日本にはもっと大きな問題があるということを認識しなければならない。おそらく私も含めて成人してから、日本の近代史・現代史に触れ、日本の朝鮮・台湾などの統治は朝鮮人が言うように一方的に日本が悪いのではないということを学んだと思うが、ここの掲示板を見られる方々のレベルにならないと朝鮮人には太刀打ちできまい。
 私は朝鮮の教育を問題にするよりは、日本の教育の現状を問題にしたらよいと思う。どうしても自国の歴史は自国中心で、これさえも怠っている日本に怒りを向けるべきであろう。
 

RE:憲法改正ではなく憲法放棄を

 投稿者:原田実(←成り済ましです)  投稿日:2010年 8月18日(水)11時45分25秒 Remote Host: 112-70-61-11.eonet.ne.jp, Time: 1282099525
  今更自主憲法論を唱えて何の意味があるのか。戦後約70年も『日本国憲法』が続いてきたのは、この憲法が素晴らしいからである。
日本が軍隊をもって何の意味があるか。軍国主義は排除しなければならない。
私が古田先生の指示を取り下げた理由の一つに、古田先生が『東日流外三郡誌』の研究で日本人がアラスカまで行ったという奇説を主張したことである。古田先生は天皇制に反対していると思ったのだが全然違った。
曰く
神武天皇は実在した
倭人は太平洋を渡った
土器文名は日本で始まった
ウラジオストクや朝鮮は日本人が住んでいた
最近はやつ国神社のA級合しにも賛成している。極右だ。
日本国憲法は厳守しなければならない。
 

指導者

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月17日(火)23時26分56秒
  >監督を県外から呼ぶことが可能となったことだと言う。やはり監督の力は大きい。
全く同感。
前にも書き込んだことが有ったような気もしますが、以下、高校の漢文で習いました。
“世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。”
(和訳)世の中に伯楽(馬を見分ける名人)がいて、初めて日に千里を走れる名馬というものが見出されるのである。千里の馬というものはいつもいるのだが、それを見つけて育てる伯楽のような人物は常にはいない。人材を見抜いて育てる人が先である、という意。
北海道の駒大苫小牧高を二連覇させ、更に翌年も準優勝させたのは、佐賀商出身で自身も選手として優勝経験のある香田監督だった。部員の不祥事が続いて退任後、同校が甲子園出場すら果たせていないことからも、指導者の力がいかに大きいものかを語っている。
太田幸司、ダルビッシュ、菊池雄星らスーパースターをもってしても未だ東北に優勝旗が来ていないのは、伯楽の不在に他ならない。
野球に限らず、指導者については考えさせられる夏でござる。
 

隣国との友好をいたずらに促進するべきではない(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月17日(火)18時22分45秒
   この世論調査では、それぞれの国の人から見た相手国への印象がある。
1.韓国人から見た日本人
 @ 親切 A 勤勉 B 礼儀正しい C 感情を出さない D 個人主義的
2.日本人から見た韓国人
 @ 気が強い A 感情的 B 勤勉 C 集団主義的 D 攻撃的
 韓国人から見た日本人については、「個人主義的」については、そうでもあり、そうでもないようにも見え評価できない。日本人から見た韓国人については、「気が強い」は間違いで、とても気が弱い、小さいというのが正確なところである。「集団主義的」についてはすこぶる「個人主義的」で、バラバラでまとまりがないというのが本当のところである。サッカ−などの応援で熱狂的なのを見て、そう感じるかもしれないが、単に「感情的」から来ている。「攻撃的」も同じく「感情的」から来ているので、「熱情的」というのが正しい理解だろう。
 もうひとつ面白かったのは(私にしたら当たり前だが)、@ 近づきすぎる人間関係
A 見た目で人生が変わる B 愛情は形で現す、である。これについては、NHK・KBSも隠している。つまり、表面的にしか報道せず、本質的なものを隠蔽しているということである。@については、親しくなると物凄く距離が近くなるが、他人には見向きもしないということである。嘘だと思ったら、道を尋ねてみたらよい。朝鮮人は見栄を張るから知らないとは言わない。適当に教えるから要注意で、また教えるにも横柄で顎で指すから腹を立てないように。日本のようにその場所に連れて行ってくれるなどとは絶対に期待してはならない。自分の利害と関係のない他人には鼻水も引っ掛けない。Aは、よく整形が語られるが、それよりも学歴が大事だということで、韓国では学歴詐称が多い。韓国人は日本のこともよく知っているから、日本の有名大学を出てないとてんで問題にされない。高卒、短大、専門学校出などはゴミと同じである。何といっても「早稲田大学」が一番だ。残念ながら「慶応義塾大学」は知名度が低い。行かれたら堂々と「早稲田大学」出身を名乗ろう。待遇が全く変わってくる。また、外見に左右されるから韓国を旅行される際には、せめてブレザ−とネクタイは用意した方が良い。Bは韓国人が好きになったらとにかく「贈り物作戦」を展開することだ。愛は金で買える社会である。また、韓国に友人ができたらお土産はケチらないことだ。「菓子折り」などは<以ての外>である。気にすることはない。日本に来たら韓国人も同じことをする(これは親切というより見栄である)。ケチると『手が小さい』と言われるから、要注意である。
 

隣国との友好をいたずらに促進するべきではない(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月17日(火)15時48分36秒
   今年は日韓併合100周年ということもあって、NHKでは「地球アゴラ もっと韓国が近くなるスペシャル」(2010年7月18日〔日〕)、「日韓の未来」(同年8月13日〔金〕)で、盛んに日韓友好を奨励している。しかし、隣国は仲の悪いのが当たり前。それは領土問題を抱えており、戦争をした経験があることが多いからである。むしろ仲の良い方が珍しい。韓国・北朝鮮とも同じ状況にある。そもそも「友好」などは時の流れに任せておけばよく、意図的に友好を謳うのは裏がある。NHKのものは、若者を通して<歴史認識に対する反省を迫る>を語らせ、そういう思想が根底にあると感じた。つまり、「菅 直人」首相の謝罪への賛同である。正確には<露払い>を演じたものである。
 ところで、「日韓の未来」のなかでいつものとおりの世論調査を提示している。何回やっても同じ結果である。質問もいつもながらの「隣国が好きですか」である。毎年行われる8月15日の「靖国神社」参拝に関する国会議員への感想を聞くものと同じで、全く以って新鮮味というか、進歩がない。
 それでも一応、NHKとKBS合同の世論調査(20歳以上の者への面接調査−日本人 1478人、韓国人 1000人)の結果を挙げると、次のとおりである。
1.日本人に対する質問
 韓国が好きですか  好き 62% 嫌い 25% どちらでもない 13%
2.韓国人に対する質問
 日本が好きですか  好き 28% 嫌い 71% どちらでもない 1%
 結果については、韓国政府やマスコミが煽っているから、そのような結果となり、ドッテ言うことないが、どちらでもないが韓国人が圧倒的に少ないのは、日本に対する関心の高さというよりハッキリと意見を言う韓国人の性格を現している。
 

新潟勢 順々決勝へ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月16日(月)22時20分14秒
   新潟と言ったら甲子園で必敗の常連だったが、昨年の「日本文理高校」の決勝進出
でも見られたように、そうでもなくなったようだ。
 旧友に聞いてみたら、今では私立高校には室内練習場も完備し、冬でのハンディを
感じさせないことと監督を県外から呼ぶことが可能となったことだと言う。やはり
監督の力は大きい。一方公立高校では室内練習場も完備できず、監督もよそから
呼べないため、甲子園に出場するのはほぼ絶望的だ。これからはますます私立高校
と公立高校の差が開き、甲子園は私立高校大会になって行くだろう。
 わが高校も今春の甲子園では補欠第一だったが、出場はかなわなかった。今夏も
準々決勝で「新潟明訓高校」に敗れた。今後は甲子園はまず無理だろう。
 なお、「新潟明訓高校」の名誉のためにも言っておくが、私立だが、勉学のレベル
は高く県下ではトップクラスにある。
 

朝鮮人は来なかった(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月16日(月)20時59分51秒
   こうしたシベリアから渡ってきた人々(新モンゴロイド)が現在の日本人の祖先ということになる。理解を深めるために、前述したことをもう一度繰り返すが、シベリアには独特の「細石刃石器」が見られる(『日本人とは何か』安斉正人 柏書房 2010年6月15日 69頁)。シベリアに近い北海道の先住民たちは「小型剥片石器」を使っていたが、2万1500年を挟んだ1000年〜2000年の間に「細石刃石器」に取って代わられたとされる(「安斉正人」−前掲書 136頁)。そして、これが次第に関東地方にまで伝わっていったのである。このことから、こうした石器を持った人々がシベリアから日本に渡って来たという証になる。この「細石刃石器」とは、木や骨の先端に溝を彫り、そこに鋭利な細石刃をはめ込んで主に槍としてナウマンゾウなどの大型草食動物を狩猟するときに使用されるものである。
 ところで、縄文時代は土器が生まれたことを以って名づけられたもので、約1万5千年前から始まり、約3000年前(紀元前1000年)に終わるとされている。もちろん、研究者により若干時代区分が異なっている(「縄文時代はいつ始まったか」鈴木公雄〔『全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記』78頁〕)。ただ、縄文時代の人々も旧石器時代の人たちにつながっている。こうした人々は沖縄にまで移住している。後述のとおり北海道の人々の遺伝子と沖縄の人々とのそれとが似通っていることは、このことを物語っている。
つまり、旧石器時代の人々と縄文時代の人々は断絶してないのである。
★ 剥片石器
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A5%E7%89%87%E7%9F%B3%E5%99%A8
★ 細石刃石器
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8
★ 縄文時代
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
◆ 新モンゴロイド
  朝鮮半島などからやって来た人たちを「新モンゴロイド」と言い、弥生人の祖先とな
 ったという考えもあるが、これ誤りで、シベリアから渡って来た人たちが「新モンゴロ
 イド」であり、彼らが縄文人の祖先で、これが弥生人に進化したものである。『縄文人と
 似た集団が東アジアで見つからない理由は、東アジアの諸集団がいろいろなル−トで日
 本に入ってきて縄文人となったが、その後、シベリアから寒冷地に適応した新モンゴロ
 イド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の
 祖先は駆逐されて残らず、日本の縄文人だけが残った』(「中橋孝博」〔『ここまでわかっ
 てきた 日本人の起源』産経新聞 生命ビッグバン取材班 産経新聞出版 89頁〕)。
 

憲法改正ではなく憲法放棄を--元社会党総理の日本は解散せよ

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月16日(月)18時22分32秒
   過激な題になりましたが、私は管首相に極右と同じぐらい反発を感じています。管首相は確か元社会党の幹部だったはずです。民主党は国民保守主義の鳩山元総理によって政権交代を実現させました。にもかかわらず管首相はとんでもない左翼路線を歩んでおり、これは国民に対する裏切りです。極左までいかなくとも売国奴とは言える政治家であるといえます。
 2011年改憲の国会審議が始まり、2012年には場合によると国民投票です。

 しかし、あの安部首相が、GHQの押しつけ憲法に基づいて作った「凍結期間」つきの国民投票法に従う意味はあるのでしょうか?皆無でしょう。たちあがれ日本の平沼代表は日本国憲法は無効だと言っていますが、まさにその通りだと思います。ここはたちあがれ日本のいう「自主憲法」をつくるべきではないでしょうか。

自主憲法草案抜粋

日本国民は天皇を元首と認める義務を負う。
Aただし、国民は自らの意思で国籍を放棄できる。

日本は資本主義国家である。
 

『歸國』

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月16日(月)16時27分32秒
  14日夜、『歸國(きこく)』というドラマを視ました。
TBSの放送だったので不安も有りましたが、『北の国から』の倉本聡脚本ならば、悪くは無いだろうと思いながら…。
単なる“反戦”でもなく、ましてや“反日”でもなく。
思い出しただけでも、ドライアイの予防になりそうです。
昨日は、近くの神社で黙祷してきましたが、久々に靖国神社に行きたくなりました。
TBSがこのドラマを放送できたのは、現社長が旧帝国陸軍中将石原莞爾の孫であることと関係有りや無しや。
それとも、反日政権樹立によって目覚めた英霊のなせる業か。
 

朝鮮人は来なかった(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月15日(日)16時00分3秒
   同じく氷河期には、今のタイからボルネオあたりは地続きであり(「小山修三」−前掲書142頁、『全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記』松本武彦 小学館2007年11月14日 43頁)、ここを「スンダランド」と呼び、ここにアフリカからインドを通って人々がやって来た。そして、ここから台湾、沖縄を経由して日本列島にやって来た(古モンゴロイド)。それは種子島にある約3万年前の「大津保畑遺跡」や鹿児島にある約2万4千年前の「耳取遺跡」がそれを物語っている。沖縄で発見された約1万8千年前の港川人骨が南から北へとやってきた証となっている(「巨大噴火に消えた黒潮の民」荻野太朗〔『はるかな旅』第2巻 44頁〕、「港川人骨から探る日本人の起源」馬場悠男〔同 106頁〕)。ただ、その後、約1万年間、沖縄では遺跡や人骨が発見されないことから、彼らは消滅してしまったと考えられている。「沖縄のような限られた面積の島では、狩猟採集だけで人口を維持、増加させるレベルでの適応は不可能」というのが、その理由である(「高宮広土」〔『日本人の起源』30頁〕)、また、「港川人は縄文人の遠い祖先である」(『骨が語る日本史(解説付新装版)』鈴木 尚 学生社 2009年5月30日 59頁)とされてきたが、「人骨の分析から縄文人とは異なり、その後にやって来た縄文的特徴を備えた人々によって駆逐された可能性が高い」(「馬場悠男」〔『日本人の起源』30頁〕)とされている。
 現在の沖縄の人たちのル−ツは約6千八百年前に日本本土から南下した縄文系の人たちだったとされている。それは伊礼原遺跡から九州産の黒曜石や新潟の翡翠(ヒスイ)などが出土しており、琉球語は日本語と同系統の言語であることからも、本土からの人の流れを裏付けている(「長浜浩明」−前掲書 18頁)。なお、沖縄から港川人を祖先に持つ人々は南九州に渡った者もいるとされるが、彼らは「鬼界カルデラ」の大噴火(「貝文土器の時代」新東晃一〔『はるかな旅』第2巻 167頁〕)により滅びてしまったとされる(「荻野太朗」−前掲書 93頁)。これを逃れて四国・中国などに渡った人々もいただろうが(「荻野太朗」−前掲書 97頁、「馬場悠男」−前掲書 12頁)、その痕跡は途絶えている。
アイヌについては末尾(26)で説明する。
★ スンダランド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
★ 大津保畑遺跡
 http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/rekishi/genshi/ootubobata.html
★ 耳取遺跡
 http://homepage3.nifty.com/tmizuno/kyuusekki_isekivisit/mimitori.html
★ 港川遺跡
 http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/how/minatogawa.htm
★ モンゴロイド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89
 

朝鮮人は来なかった(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月13日(金)13時17分1秒
   旧石器時代は前期(250年前〜12万年前)、中期(30万前〜3万年前)、後期(3万前年〜1万年前)、に区分されるが、日本に人々が移住して来たのは、中期の末期〜後期であるとされている。旧石器時代は氷河期(300年前〜1万年前)だったが、海面が今より40m〜100くらい低く、シベリアと朝鮮半島が日本列島につながっており、日本海も内海となっていた。シベリアからはナウマンゾウ、オオツノジカ、ヤギュウなどの大型草食動物を求めて日本列島にやって来た。大型動物は当時の人々の最大の食糧源で、ナウマンゾウからは肉が1.5トン〜2トンは採れるとされ、大人2人と子供数人の家族ならば、焼肉パ−ティが1000回もできる量で極めて効率が良い狩猟だったのである。彼らが捕殺したとされる約4万年前のナウマンゾウ、オオツノジカの骨が長野県信濃町の野尻湖湖底から発掘されている(「松本武彦」−前掲書 35頁)。彼らがシベリアからやって来た証としては、シベリアで発達した「細石刃」が北海道を中心に発見されていることにある(『日本人とは何か』安斉正人 柏書房 2010年6月15日 68頁、「マンモスハンタ−、シベリアからの旅立ち」浦林竜太・戸沢冬樹〔『NHKスペシャル 日本人はるかな旅』[以下『はるかな旅』という]第1巻 マンモスハンタ−、シベリアからの旅立ち 日本放送出版協会 2001年8月20日 58頁〕、(「堤 隆」〔『日本人の起源』産経新聞社 2009年5月30日 39頁〕)。彼らは木や骨の柄の先端に近いところに溝を掘り、薄い「細石刃」の小片をはめ込んで、動物などの狩りに使用していた。
 そして、注目すべきはこの時代には既に「農耕」が行われていたらしいということである。これは「局部磨製石斧」というもので、土堀りに使われたとされている。ただ、この時代は氷河期で農耕は長くは続かなかったらしい。3万年前ころには「局部磨製石斧」は消えてしまっている(「松本武彦」−前掲書 38頁)。
★ 氷河期
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E6%B2%B3%E6%9C%9F
 

在日朝鮮人のための韓国講座(660)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月12日(木)20時41分15秒
  >朝鮮人に「未来志向」などあるもんか!<

 日本政府が「菅 直人」首相の下で、日韓併合100年に当たり、「植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明した首相談話を出すという。
 これに関し「読売新聞」は『未来志向の両国関係に弾みを』と題して、これを支持している(平成22年〔2010年〕8月11日(水)東京13版 3面「説」)。
 あのね! 「未来志向」など朝鮮にはないの! 朝鮮の諺に『水に落ちた犬は叩け』とあるように、謝罪などしたら徹底的にこれでもか、これでもか、と謝罪を要求してくる。もちろん賠償もだ。<潔い>、<相手のことを慮る>などという文化はない。これは末尾のマスコミの論調を見ればすぐに理解できる。「朝日新聞」ならいざ知らず、本当に「読売新聞」も輪をかけた馬鹿だ。もっと馬鹿なのはこれを主導した「菅 直人」・「仙谷由人」・「鳩山由紀夫」だ。朝鮮人の習性を知らなくて政治が務まるもんか!
 「読売新聞」の報道によると、韓国政府が把握している文化財が日本に約6万1千点あるという。次の報道を見ると、合法に持ち出されたのもあるようだ。しかし、何を以って違法だということが明らかになっていない。
 >文化財庁国立文化財研究所は、日本の250以上の政府機関や個人が合計6万1409点の韓国文化財を保有しており、その中で宮内庁で保管されているものは639種4678冊に達すると発表した。この中で違法に持ち出されたものは最低でも660冊以上あり、調査によっては700−800冊以上になる可能性もある<
 「文化財」と言えば、現在のソウル大学校に所蔵されている図書・絵画・文物のうち日本の文化財がある。特に絵画は日本にもない江戸時代の浮世絵・絵などが多数ある。ソウル大学校の前身の「京城帝國大学」は日本帝國一の図書館を目指して膨大な費用を費やして図書・絵画・文物などを買い漁った。また、朝鮮総督府図書館には、大谷探検隊のトルファンの壁画・美術品があり、現在、それが国立中央図書館に所蔵されている。その他の府立図書館(「京城」・「釜山」・「平壌」などは府と言った)・市立図書館にも貴重な日本の文物が所蔵されている。それを何食わぬ顔をして<強奪>している。日本に文化財の返還を求めるなら、まず、それを日本政府に返還すべきである。日本のまともな朝鮮研究者は朝鮮人が隠したって知っている。日本時代の朝鮮における統計などは朝鮮総督府により編集され、これがそのまま朝鮮に残されたので、日本の国会図書館に行ってもない。そのため大変苦労している。これが日本に戻されたら、研究が進む。私が一番欲しいのは「土地調査事業」での土地所有権の判定材料である。これは既に韓国の「李 栄薫」ソウル大学校教授により研究がなされ、土地所有権の判定が極めて公平に行われ、日本(朝鮮総督府)・日本人が朝鮮人の土地を奪ったことはないことが判明している。これが日本に返還されたら、研究がもっと進むと思われる。韓国はこれを返還しない。理由はそれを返還し目たら、「日本収奪論」が崩壊してしまうからだ。なお、日本統治時代に「崔承姫」という伝説の舞姫がいるが(1969年に北朝鮮で処刑)、「朝日新聞」(平成22年〔2010年〕8月12日(木)夕刊 東京3版 5面)で、「彼女の父は貴族階級で日本に土地を奪われた」と記している。こういう例は唯の一例もない。さすがに根拠なくこういう記事を掲載するとは<反日新聞>だけのことがある。おそらく放蕩の末に財産をすってしまったのであろう。

★ 朝鮮日報
  http://www.chosunonline.com/news/20100811000024
   朝鮮日報−文化財返還
  http://www.chosunonline.com/news/20100811000015
  http://www.chosunonline.com/news/20100811000016
★ 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=132027&servcode=100§code=110
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=131992&servcode=A00§code=A10
   中央日報−文化財返還
http://japanese.joins.com/article/article_reply.php?aid=132053&servcode=A00§code=A10&p_no=1&comment_gr=article_132053
★ 日本時代の釜山府の図書館
  http://www.ksyc.jp/sb/200311geppou.html
 

RE:朝鮮人は来なかった

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月12日(木)12時49分33秒
  『古代通史』(古田武彦)によれば旧石器時代から日本では集団労働で大型石器っを作っていたようです。『POPな日本史』(安本美典)では作者が右翼なのにそこには触れていませんでしたが、縄文土器は1600年前から始まったらしい。
 『古代通史』では朝鮮の先住民が倭人だとも言っていました。
 中国の正史に書いていたらしい。
 

(無題)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月12日(木)12時09分16秒
  >朝鮮人は来なかった(3)<

 まず最初に「日本原人」は存在しなかったことである(「日本原人は実在したか」高山 博〔『争点 日本の歴史 1 原始編(旧石器〜縄文・弥生時代)』鈴木公雄 新人物往来社 1991年10月20日 29頁〕)。ジャワ原人、北京原人に平行する中期更新世人類(120万年前〜12.8万年前)の人類の人骨が日本で発見される可能性は地質学・地理学的にみてかなり低いとされ、「明石原人」も中期更新世人類に該当しないとされている(「高山 博」−前掲書 39頁)。
 したがって、現在の日本人は外から日本列島にやって来たことになる。これが旧石器時代の人々である。旧石器時代と言っても日本でその痕跡が顕著なのは「岩宿遺跡」(群馬県みどり市笠懸町)を始めとする約3万年前〜1.2万年前の後期旧石器時代のものであるから、そのころには日本列島に人の痕跡が顕著となっていたと考えられる(「旧石器時代の集団はどこまで復元できるか」小野 昭−前掲書 63頁)。
★ 日本列島の旧石器時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
★ 岩宿遺跡
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%BF%E9%81%BA%E8%B7%A1
 

8月

 投稿者:帝国凱歌  投稿日:2010年 8月11日(水)17時24分59秒
  だいたい、戦犯といふ言葉だが、これらを使うこと時代が
さながら敗戦と、不当な占領の追認にあたる。

まったくもって内憂外患とはこのことだろう。確かにわれらの
先達を誇らしく思うとともに、やはりもっと懸命な手段を講じられなかったかと、
敗戦より65年を経たこの忌わしき8月に考えさせらる
 

朝鮮人は来なかった(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月11日(水)12時30分31秒
   まず、稲作の話を少ししたいと思う。最近の研究で、稲作が始まったのは中国の長江下流域で約7000年前(紀元前5000年頃)ということがわかった。最初は「焼畑」であった。そして、6000年前(紀元前4000年頃)には日本にその技術が伝わり、「熱帯ジャポニカ」という品種が栽培されていた。水稲栽培が始まったのは中国の長江中下流域で約6000年前(紀元前4000年頃)。日本の北部九州では3000年前(紀元前1000年頃)には灌漑施設を伴った水稲栽培が行われていたのである。朝鮮で水田稲作が始まったのは紀元前1000年前頃からであるから、日本の方が朝鮮より遥かに早く稲作が始められていたのである。つまり、朝鮮半島から稲作が日本に伝わったのではなく、日本から朝鮮半島に伝えられたのである(末尾の拙稿参照)このことはまた後で説明したい。日本における稲作は、焼畑にしても水稲にしても中国より1000年遅れて開始されたのであって、この稲作を担っていたのが、縄文人である。「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリ−を着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えていたと考えられている。翡翠(ヒスイ)や黒曜石、食糧の交換ネットワ−クがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいた」(『縄文学への道』小山修三 日本放送出版協会〔NHKブックス 769〕1996年6月20日 3頁)。「司馬遼太郎」や「山本七平」がいう縄文人は闇の中にいたわけではなく、東アジアの最後進民族でもなかったのである。
★ http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ine_denpan.htm
 

誇りです。『真珠湾奇襲攻撃』

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月10日(火)23時22分27秒
  20年ほど前、船で太平洋を横断したことがあります。(事情は聞かないで)
北緯50度以北の北太平洋は、連日霧雨で、6月というのに気温が10℃を超える日が無く、手足がかじかんでいました。
それに比べて70年も前に、しかも12月の北太平洋がどんなに寒く、強風が吹き荒れ、大波に船体を揺られただろうかと想像すれば、壮大な作戦を遂行した先人達の勇気や忍耐強さ、使命感や実行力に敬意を覚えることは有っても恥ずかしく思うことなどありません。
 

それにしても

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月10日(火)22時07分45秒
  仙谷由人の様な全共闘活動家上がりの人物が内閣の要である官房長官を務めているのですから、世も末と言っても過言では無いでしょう。

ちりとてちんさんも指摘していましたが、坂本龍馬も「こんな国にしたかった訳じゃ無いぜよ!」と言って、あの世で泣いている事でしょうね。
 

RE:誰ぞ菅直人を処断せえ!!

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月10日(火)21時58分6秒
  官房長官は「仙谷」です。とは言え、私の愛用している日本語変換システム「ATOK2009」でも、「せんごく」と入力して「仙谷」とは一発変換されませんが。  

はるさん

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月10日(火)21時52分16秒
  仙丈ヶ岳に甲斐駒ヶ岳ですか? ご明察の通り、何時(いつ)でも登れると言う思いで、残念ながら登っていません。まあ、仙丈ヶ岳は無理すれば日帰り登山も可能ですし、甲斐駒ヶ岳も東側の黒戸尾根ルートならいざ知らず、西側の北沢峠からのアプローチなら大して難しくありませんからね。とは言え、足腰が丈夫な内に登っておこうとは思っています。  

RE:悲しいです

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月10日(火)21時47分39秒
  浅草寺は仲見世の土産物店に、「神風」と染め抜かれた鉢巻きが売られていますが、そう言った鉢巻きを嬉々として買っていく白人を目にした事があります。然し、彼等は「神風」の二文字を読めるでも無く、何の意味かも知らない訳で、もしも理解出来ていたなら絶対に買っていかないでしょう。なんと言っても、死をも恐れぬ特攻で連合軍将兵の心胆寒からしめた彼(か)の「KAMIKAZE」の事なのですから。

ま、「I♥NY」や「MADISON SQUARE GARDEN / SPORTSMAN CLUB / boxing wrestling football」等、単なる横文字が記されたTシャツやバッグを持て囃した日本人も五十歩百歩かも知れませんが。
 

談話もやけど

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月10日(火)19時36分34秒
  終戦記念日の15日に菅内閣の閣僚は首相以下誰一人と靖国神社へ参拝せえへん言うやないか?
韓国にはペコペコ、英霊は無視なんやと。
こないな反日日本人内閣でホンマええんかい?
坂本龍馬も草葉の陰で泣いとるやろな。
 

誰ぞ菅直人を処断せえ!!

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月10日(火)19時27分23秒
  こやつはほんま煮ても焼いても食えん奴やな。
韓国併合百年ちゅう節目の年に、なしてあないな談話を閣議決定してまでして出すんや?  あないな談話を出せば韓国が大人しゅうなるどころか逆に増長してまうやろが?
菅も仙石もA級戦犯や!!
政権交代した暁には菅内閣の閣僚全員を処断せなあかんな。
 

言われるまでも無いでしょうが、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月10日(火)16時13分38秒
  かつて首都圏に住んでいた頃は、私も休みの度に甲信方面の登山を楽しんでいましたので、もしかしたら会っていたかも知れませんね。
管理人様は、山梨在住だったと記憶しておりますが、南アルプスの甲斐駒ケ岳と仙丈岳はまだのようで?
近過ぎて、いつでも行けると御思いかもしれませんが、3000m級の割には短時間で登れてお薦めです。
 

朝鮮人は来なかった(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月10日(火)12時20分50秒
   我々は、『先史時代、朝鮮半島から先端技術や文化を携えて多くの人々が渡来した』(「縄文人と渡来人の遭遇−日本人の誕生へ−」小林青樹[『NHKスペシャル 日本人はるかな旅{以下『はるかな旅』という}第5巻 そして“日本人”が生まれた』]日本放送出版協会 2002年1月30日 冒頭)、『今から2300年前ころ、朝鮮半島や中国から人々が渡来し、水田耕作の技術を日本にもたらした。つまり弥生時代になって、渡来人がやってきて、水田耕作が行われるようになった』(『NHK 日本人はるかな旅〔以下『NHKはるかな旅』という〕4.イネ、知られざる1万年の旅』あかね書房 2003年4月5日 6頁)、
『弥生時代のはじめに、つぎつぎと日本列島にやってきた渡来人、かれらはすすんだ水田稲作の技術を手に、日本列島の各地にひろがり、巨大な集落をきずいていきます』(『NHKはるかな旅』5.そして“日本人”が生まれた 3頁)、と習ってこなかったか?
 また、「日本の縄文時代は、(中略)人々は狩猟や漁猟に明け暮れていた」と教えられてこなかったか? その代表的なものに『日本列島は、紀元前300年ぐらいに稲を持ったボ−ドピ−プルがやって来るまで、闇の中にいました。この闇の時代のことを“縄文時代”といいます。旧石器時代に続く時代で、この狩猟採取生活が八千年も続いたというというのは、驚くべきことです。文明は交流によって生まれます。他の文明から影響を受けずにいると、人類はいつまでも進歩しないということを雄弁に物語ってます』(『文学から見た日本歴史』司馬遼太郎〔ケンブリッジ大学・英国日本研究会主催のシンポジウムでの特別後援−1987年〕[『日本人ル−ツの謎を解く−縄文人は日本人と韓国人の祖先だった−』
長浜浩明 展転社 2010 年5月27日 23頁])。『日本人は東アジアの最後進民族です。
(中略)中国人は偉大な民族で起源0年頃、既に代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却したらしい状態です。(中略)中国人は紀元前600年頃に(水稲栽培)を発見してました。中国人は当時の超先進民族です(『日本人とは何か 上巻』山本七平 PHP研究所 1989年9月4日 29頁)。
 ところが、最近の研究では、<朝鮮人などの渡来人など日本列島に来なかった>というのが、定説になりつつある。
 

悲しいです

 投稿者:MOAI  投稿日:2010年 8月10日(火)09時34分16秒
  昨日、アメリカ人が『真珠湾奇襲攻撃』と書かれたTシャツを着ていたのを見ました。  

最高だ!

 投稿者:烏賊徳利  投稿日:2010年 8月 8日(日)03時13分48秒
  こんな最高なサイトが存在するとは!
常連の皆様も最高です。
本当に最高です!
 

日野さん

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月 8日(日)00時18分25秒
  初めまして、管理者の竹下義朗です。(「義郎」では無く「義朗」です)

日野さんの「尖閣・江南交換条約」と言う発想は面白いものです。ですが、どうせ其処迄するのでしたら、宋代(国姓趙氏)支那の領域丸ごとと言うハッタリもありだと思います。何故なら、『宋史日本伝』に宋の二代皇帝太宗の言葉として、この様な事が書かれています。曰く、「上(宋太宗)は、その国王(天皇)が一つの姓で継承されてと聞き、嘆息して言うには『継襲して絶えない。これは思うに、古の道である』」と。そして、易姓革命で次々と王家が交代し、更には周以来の支那人による「中華」が、鮮卑や沙陀突厥と言った彼等支那人から見れば蛮族でしか無い異民族の君主を奉じる王朝の出現により変質。最早、「中華」は支那大陸には無く、連綿たる皇統を誇る日本こそ「中華」であると言った思想迄出てくる始末。だとすれば、「中華」の盟主が支那から日本に移動した事になり、日本が宗主国として支那を属国・属領として扱う事も理論上可能と言う事になります。(とは言え、あの大陸国家を抱え込むとろくな事は無い。それは、契丹・女真・蒙古の例を見れば一目瞭然)

次に多婆那国=豊前王朝論ですが、私は矢張り多婆那国=丹波国派です。豊前が重要な土地である事は承知していますが、豊後と合わせ「豊の国」と呼ばれたこの地域が、何故、「多婆那」と呼ばれたのか? 其の根拠が示されませんと、支持を得るのは難しいかと思います。何と言っても、「タバナ(ラ)」と「トヨ」では余りにも違い過ぎますし。

最後に、8月2日に投稿された「未来の百科事典」の記事を興味深く読ませて頂きました。今月29日は日韓併合100周年。それに関連した小論を先月末発表しましたが、その続編を書く予定ですので、その際の参考にさせて頂きます。
 

RE:草食系には登山は無理だ

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 8月 7日(土)23時35分3秒
  今更レスすると言うのも何ですが、先月の解法者さんの投稿に対し、はるさんが「草食系と登山は無関係」と指摘されましたが、私もそうだと思います。何故かと言うと、斯く言う私自身が世間一般で言う処の「草食系」(然も年齢から見て恐らくは元祖世代?)であり乍ら、登山を趣味としているからです。

私の登山歴は10年以上あり、今迄に富士山を筆頭に、日本の高山トップ40の内、21座の頂を極めています。

1.富 士 山(3,776メートル)
2.北  岳(3,193メートル 南アルプス白峰三山)
3.奥穂高岳(3,190メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
4.間 ノ 岳(3,189メートル 南アルプス白峰三山)
5.槍 ヶ 岳(3,180メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
8.涸 沢 岳(3,110メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
9.北穂高岳(3,106メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
10.大 喰 岳(3,101メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
12.中  岳(3,084メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
15.農 鳥 岳(3,051メートル 南アルプス白峰三山)
18.南  岳(3,033メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
20.大 汝 山(3,015メートル 北アルプス立山連峰)
23.劔  岳(2,999メートル 北アルプス立山連峰)
26.木曽駒ヶ岳(2,956メートル 中央アルプス)
27.白 馬 岳(2,932メートル 北アルプス後立山連峰)
28.宝 剣 岳(2,931メートル 中央アルプス)
33.西穂高岳(2,909メートル 北アルプス槍・穂高連峰)
34.白馬鑓ヶ岳(2,903 北アルプス後立山連峰)
35.赤 岳(2899メートル 八ヶ岳連峰)
37.広河内岳(2,895メートル 南アルプス白峰南嶺)
39.別  山(2,880 北アルプス立山連峰)

この中には、大キレット(南岳・北穂高岳間)やジャンダルム越え(奥穂高岳・西穂高岳間)、不帰の険(白馬三山・唐松岳間)と言った国内一般コースでも難易度の高いルートもありますし、昨年映画公開された事で改めて知名度の上がった劔岳の「カニのタテバイ」、「カニのヨコバイ」も経験済みです。これらは、一歩間違えば滑落死する危険性の高いルートばかりですが、挑戦する人は年齢や性別、所謂「肉食系」・「草食系」多種多様です。

要は端から挑戦する気があるかどうかですし、挑戦するなら挑戦するで、途中で挫折せずに全うする根性があるか否かにある訳で、そこに性差や肉食・草食の区別は無いと私は思います。

(参考迄に、私が撮影した涸沢岳頂上から奥穂高岳を望む写真を掲載します)
 

金 賢姫の訪日に思う

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 8月 7日(土)05時49分18秒
  「金 賢姫」が平成22年(2010年)7月20日(火)訪日し、国賓待遇で扱われたことが物議をかもしている。
 この要因は、「金 賢姫」の日本での様子がマスコミに公開されず、マスコミが報道できず、その恨みがそこに向けられたというマスコミの傲慢にもある。ただ、それを割り引いても、彼女を国民の前にさらさなかったことは十分に非難に値する。これは法務・内務(捜査)官僚の筋書きに民主党が乗っかったということであり、民主党が豪語している割には官僚を統制できないということを露呈した。加えて、民主党に「拉致問題」を取扱うに足りる見識を持っていなかったことにも大きな要因がある。
 やはり大きな問題は、彼女の訪日での日程の詳しい状況と記者会見を公開しなかったことだろう。例えば、軽井沢の鳩山の別荘での過ごし方の様子を行えば、もっと彼女の性格などが国民に知らされ、テロリストとされた彼女の内面が明らかにされ、評価もなされただろう。記者会見にしても緊張のなかで行われるし、隠匿すべき情報もあるから、そこまでは行かないにしてもある程度の彼女の様子が映し出され理解が深まったことであろう。
 今回の「金 賢姫」の訪日を見て、つくづく「民主党」の政権の機軸が定まってないことがわかった。だから、パフォ−マンスの域を超えてなかったと思う。こういう政権に国益を委ねた国民の馬鹿さ加減を強く感じた。
 「読売新聞」は彼女の「テロ関与者入国悪しき前例懸念」と題して、訪日そのものに反対しているが(平成22年〔2010年〕7月17日(土)朝刊 東京14版 34面)、これこそ「国益」を考えない暴論である。テロリストであれ、殺人者であれ、日本の国益にためなら、どんな処遇をしてもいいというのが、国民はもちろんマスコミの態度であろう。
 「国益」といったが、日本人の「拉致」は日本の主権を侵すもので、これの解決に向けて、どんなことがあっても行う。もちろん「情報収集」も極めて大切である。これが「拉致問題」に関する「国益」というものであろう。
 なお、「金 賢姫」を「元死刑囚」はないだろう。韓国では単に「氏」
(シ)〔朝鮮には日本のような「さん」という便利な言葉はない〕と呼んでいるそうだが(「産経新聞」平成22年〔2010年〕8月6日(金)朝刊 東京15版 1面)、そこまではしないまでも「元工作員」と言うべきだろう。この記事を書いた「黒田勝弘」ソウル支局長が「彼女は北朝鮮の非道な体制を糾弾する「生き証人」であり、それは北朝鮮の非道を行った「元工作員」だからであって「元死刑囚」ではない」というが、同感である。
 彼女を観光させた、報酬を払ったなどというのは<ケツの穴が小さい> それなりの情報を得るのだったら、当然の対価であろう。何だかわからない「官邸機密費」の支払いなどよりよほど価値がある。
 

宇佐神宮

 投稿者:はる  投稿日:2010年 8月 4日(水)12時25分35秒
  タバナ(ヤ)国が豊前国に有ったか、それとも、丹波・丹後・但馬を束ねた…たばねた…たばなた…たばな国に有ったかどうかは、他の皆様にお任せしますが、豊前に大きな国が有った事はなんとなく納得します。
豊前には、宇佐神宮(宇佐八幡宮とも)という、4万4千社と称する全国八幡宮の総本山が有ります。
この宇佐神宮には不思議な点が幾つか有ります。
まず、ナゼ総本山が豊前に有るのでしょう?
次に、主祭神は八幡三神と呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一の御殿)、比売大神(二の御殿)、神功皇后(三の御殿)の三柱の神がいるのですが、一の御殿の応神天皇が真ん中かと思いきや、比売大神が中心で、その両脇を応神天皇と神宮皇后が固めているのです。これもナゼ?ですね。
そして、有名な“宇佐八幡宮神託事件”が有ります。ナゼ、弓削の道鏡を皇位につけていいかどうかという重要な判断を、宇佐八幡に委ねたのでしょう?
更に、宇佐八幡での参拝は、拍手は四回となっています。四拍手をするところは、他には出雲大社だけだと聞いています。ナゼ、この二箇所のみ四拍手なのでしょう?
これらを合わせ考えると、宇佐には出雲と同じように、丁重に祀らなければならない神が存在していたハズで、それはヒミコと呼ばれた女性に違いない、との推論を立てる人もいます。
邪馬台国九州説が優勢だった頃読んだ本なので、今は違うかも。
 

管理人さん、韓国の主張通りにしますとこうなります

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月 2日(月)13時07分48秒
   ここまで来たからには矛盾だらけの韓国人の「揚げ足をとる」必要がある。
 もし日本が本当に韓国の主張である「日韓併合条約無効説」を受け入れたら未来の百科事典には次のように記されるだろう。

大韓民国  1946年にアメリカが州国の信任統治から独立した共和制の国家。国際法的な問題もなく、国連により国家承認されていた。(中略)2010年、日本の鳩山由紀夫首相(当時)に「日韓併合条約」は無効だと主張、日本の公式見解の取り消しを求めた。その後、日本で小沢一郎と自民党、たちあがれ日本、新党改革が管直人総理大臣(当時)のにえきらない態度に反発、超党派の内閣不信任案を決議して衆院解散が起こり、小沢一郎と鳩山邦夫の新党「国民民主党」とたちあがれ日本、新党改革の連立政権が樹立し、韓国の主張に対し国連で審議を求めた。平沼外務大臣は「韓国の主張を受け入れると今でも大韓帝国が正当な政府になってしまう」と主張、国連は安全保障理事会において韓国で国民投票をすることに決定した。
 内容は次の二点。
@日韓併合条約無効説に賛同するか。
A韓国皇室を復活させるか。
韓国政府は@のみの可決を国民に働きかけようとしたが、アメリカ合衆国から苦情、政府は一切宣伝行為を行えなくなった。その結果、両案ともに可決され、大韓帝国の末裔である日本人・李源を大韓帝国皇帝と国際承認された。この時点で大韓民国政府は正当性を失われたが、親日弾圧法を利用して国連の判決は違法とし、李海瑗を君主としてソウルを占領した。国連はそれを国家承認せず、釜山で独立宣言をした日韓米台連合軍は北上、ソウルまで攻めていった。その後の李海瑗を君主とした政府については「旧大韓民国亡命政府」を参照。
 

豊前と里程記事

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 8月 2日(月)10時49分50秒
   昔は「短里」(一里70メートル)が使われていました。(例・風土記や『魏志』)
 そうするとタバヤ国は下関「周辺」になります。
「せやけど有力な国は何も豊前だけやないやろ? 」
 『三国史記』の説話によれば「タバヤ国から海に卵を流すと新羅についた」とあり、下関海峡から対馬海流に沿って流せばちょうど新羅です。(北朝鮮海流の影響も含める)
「出雲や吉備やかて有力な国やったし」
 「多婆耶国豊前論―後篇 」でも述べたようにあまり大国すぎてもいけません。丹波は日本海沿岸で最大級の古墳が集中し、にもかかわらず『記紀』や「中国史書」に記載されていないところをみると倭国の一部だったことさえ疑いたくなります。
 再びタバヤ国の条件をあげると次の通りです。
@倭国を本国、または大国とみなしていること
A倭国の東北一千里にあったこと
B世襲制の王権をもった国家、または地域であること
C女国等のほぼ同規模と思われる国家が近くにあること
D別名が竜城国であること
E国王の称号に「竜城国大王」とあること
F新羅及び任那との間に海路が存在すること
 

タバナ国

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 8月 2日(月)07時57分59秒
  音が近い丹波やったらそうかもしれん思うんやけど、豊前言うんはどないやろか。

豊前に有力な国があったっちゅう意見は否定せえへん。せやけど有力な国は何も豊前だけやないやろ?  出雲や吉備やかて有力な国やったし、タバナ国が豊前やったとはどないしても思えんな。
 


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