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喫茶室 過去ログ136(2010.9.1〜9.30)

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喫茶室:[最新の発言を見る/投稿する] [2010年10月のログ] [2010年8月のログ]


私も一言

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)20時07分53秒
   谷垣総裁の発言は「領海侵犯の中国漁船船長を直ちに海外退去させればよかった」
だった。「逮捕して起訴しないで釈放した」民主党も同罪
 比較する方がオカシイ

 それとここは厳しく取締まらなかったのは事実で、政治家の職務怠慢だが、
「無法地帯」ではない。だから、逮捕した。
 逮捕のいきさつは、侵犯したからではなく、巡視船に損害を与えたからである。
先に示した韓国漁船の例も同じである。この辺りが当否は別として<限界線?>
であろう。

 認識の差だが、一杯食らったのは現場(那覇地方検察庁)の検察官で、法務大臣
や官房長官ではない。

>検察発表でも政治介入を受けたと断定はしていないと思います。<
 こんなの当たり前だろう 政治介入があったと公表する馬鹿がどこにいる。
 

ほらほら 言い訳している

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)19時45分39秒
  >私は手続きと言うたが「法」との言葉はゆうてない・・<
 何の手続かいな?
 >諸般の事情(?笑)で「起訴せずに釈放した」・・<
 これって何の手続? 政治的手続?
 

一人言(ごと)

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月30日(木)16時11分23秒
  ははは・・同じ自民党谷垣発言を非難しながら、その意味合いの感覚がズレまするなあ〜・・貴方は法理論・・私は、よりどちらがタチ悪いかを論じてる・・

「■・事件を世情にあげ、国民の判断を喚起する、「身を捨ててこそ、浮かぶセもあれ!」の検察方式・・アカンはアカンでも谷垣方式よりタチがいいと思ってる。
・・法論争してるのではない・・私はここは(尖閣)は無法地帯の認識だからね・・。

谷垣方式は従来の「国民に、日・中の紛争の真実迫りは極力避け、日本は見て見ぬふりして逃げれ! コレであると言うとるのです・・この谷垣方式だと、今回のシナのゴリ押し、それに対応しきれず苦悩する政府の実態が浮かびあがってこないですよ・・屈辱ではない・ゴングが鳴る前の仮病退場ですから・・。

私は逆説的に言rば、今回の検察、口ではアカンといいながら、内心はええコトやったと思うとりまする・・青山繁晴さんも言うことが本当なら・
青山繁晴
http://www.asyura2.com/10/senkyo96/msg/449.html
官房長官も法務大臣も検察に一杯くらった・・その意味では、前の私のレスで・・
『■・しかし諸般の事情(?笑)で起訴せずに釈放した』(・)の中に?と笑いがあることにご留意ください・・。

検察は従来自民党なら、こう谷垣発言になることぐらい・・ケツのケバまで知りぬいていた・・だから当然にノンであり・・そして、仙石長官の注文に乗ったカタチの諸般の事情(?・笑)での釈放・・これも逆説的(こう言わないとこの板での総叩き刑くらいましからの・涙)に言えば・・お見事検察やないですか?・・アカンことやりなが国民啓蒙はお見事や・(笑)。

もう、民主党内・幹部・議員ふくめ・上へ下への座布団飛ばし合いながらの大騒ぎやないですか・・自衛隊の尖閣駐屯まで、民主党議員が叫んでいる・・民主党議員が自民党議員より声高にね・・・もう完全に「外国人地方参政権」民主党内でケシ飛んだと見るべきなのでは・・自民党ハト議員からこの声が出ても・・民主党が大反対するかも・(笑)。

あれだけシナに辞を低く、サービスし続け、あげくの果てに、あれほどスゴまれ脅され、どのツラ下げて「親中国・地方参政権」が言えるのですや・サービスしたぶん余計、硬派になるのがこの世の習いです・・私、これは、あくまで逆説的、逆説的ですよ、逆説的ながら、
那覇地検、オマイなあ〜とんでもない悪いコトやったんだぞ・・と、文句たれながら、ここまでよく国民議論を呼びこんでくれたと感心してるの・・私、変人かな?・・。

そのワリには、自民党谷垣総裁・・時代遅れの「まーなんとトレー遺跡・化石論」ぶっとるんじゃと思ってる・・最後にこの質問にお答しておく・・そう同じようで尖閣感性の違いを
認めながらね・。

『■・逮捕は司法当局者の手にあるから、逮捕しなくとも<法の一応の手続は踏んでいる>。逮捕して、起訴せずに釈放しても同じである。谷垣自民党総裁の発言内容も<法の一応の手続は踏んでいる>ことになる。』

『■・刑事法には2つの重要な要素がある、1つは手続の公正で、もう1つは処分内容の公正である。その2つがあって、初めて刑事法の適用が正しかったことになる。
 歴史の観察者さんの頭の中から2番目のことがスッポリ抜け落ちている。それは法を学んだことがないか、あるいは法知識がないかのどちらかにある。』

私は手続きと言うたが「法」との言葉はゆうてない・・そう、この尖閣列島、自民党政権は法の及ばない地域にした、過去ここに占拠した他国人を日本法律適用いたしましたかな・・
ある意味では「無法地帯」・・そう自衛隊法でも、この島は軍防備ができない・法のない地域・・だって駐在員が居ないんでしょ・・無人島での国民の生命と財産を守る自衛権などあれへんぞと憲法が定めておるのでは?・・。

「それは憲法解釈・自衛隊法解釈が違う!」ゆうても、自民党過去政権がこの島を守らなかった一種の「無法地帯」は事実でしょ・・。
刑事法云々と、急に「有法地帯」の如く言われ、その守護神検察はなぜにそれを遵守せぬかと申されても・・これは検察ではないですよ・私の観念でいけば、それはご勝手さまとゆうもの・・過去に厳しくやったかな?・・私の言う手続きとは、法ではないの、日本のメンツ
まあ感情面考え、逮捕したとゆうこと・・そのあとは諸般の事情だ!。

だから、前回に書いたが、自民党谷垣総裁は特別に間違っとることはゆうとらん・・。
あそこ(尖閣諸島)は東アジア国際情勢で、日本の法の及ばない「無法地帯」である。
だから、軍ではないぞ、警察の威圧力だけで追い払うだけでよろしい・・起訴し裁判にもちこむタワがどこにおるか!とういう正論を言っているのである。

ただ私は、もうそれが愚論だ化石論だ、正論変じて最もタチ悪論だとゆうとるの・・もうこの時点に来て、刑事法遂行の怠慢をせついてもセンないこと・・ある意味ではピントはずれ、法の遵守を検察に要求し責めるなら、憲法また自衛隊法でこの尖閣を「有法地帯」ぬ政治がするべきだと思う。
私の意見が正しいとはよう言わん・・だがこれが私の意見である。

(以上)
 

誤り?恥?

 投稿者:無学人  投稿日:2010年 9月30日(木)14時27分59秒
  >公務の執行妨害、危険な行動したから、逮捕は当然や・・だから捕らまえた・しかし諸般の事情(?笑)で起訴せずに釈放した・・アカンことはわかっとるが、一応の手続は踏んでいる<

◎この文章にはどこにも政治介入で釈放したとは
書いていないし釈放理由として確立していない。
検察発表でも政治介入を受けたと断定はしていない

と思います。政治介入を受けたと断定する人が
居る事は理解できる状況ですがそういう個人的
判断により他者の意見や参加姿勢を批判つまり

悪く言うのは考え物です。法律以前の悪口の類。
自分の知識に自信を持つ事は悪くは無いけれど
も他人の知識不足を責めるのは考え物です。

他人と自分との知識の違いを明確に認識など
出来るものでは無いと思うのです。
裁判官でさえ法判断の違いは多い。

それに処分内容の公正と言われるが特定の
違法行為に対して異なる処分が下される
事は日常茶飯事のごとくに多いのですよね。
 

法への知識を欠いているとこういう誤りをする

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)12時14分21秒
   >公務の執行妨害、危険な行動したから、逮捕は当然や・・だから捕らまえた・しかし諸般の事情(?笑)で起訴せずに釈放した・・アカンことはわかっとるが、一応の手続は踏んでいる<
 ここのところは、逮捕後直ちに釈放をするべきだったという谷垣自民党総裁の発言への批判だと思うが、根本の法の理解が欠けている。
 逮捕は司法当局者の手にあるから、逮捕しなくとも<法の一応の手続は踏んでいる>。逮捕して、起訴せずに釈放しても同じである。谷垣自民党総裁の発言内容も<法の一応の手続は踏んでいる>ことになる。
 刑事法には2つの重要な要素がある、1つは手続の公正で、もう1つは処分内容の公正である。その2つがあって、初めて刑事法の適用が正しかったことになる。
 歴史の観察者さんの頭の中から2番目のことがスッポリ抜け落ちている。それは法を学んだことがないか、あるいは法知識がないかのどちらかにある。
 今回の場合は、この2番目が問題となっている。法の適用には政治的介入を排除することが法治国家に科せられた義務であることは説明するまでもない。だから、指揮権発動(検察庁法で法務大臣が具体的事件〔個々の事件〕の取調又は処分について検事総長のみを指揮できる〔同法第14条但書〕)を除いては、政治的介入が厳しく制限されている。次に、適用の衡平が望まれる。つまり、同一・類似事案については同じように法を適用するということである。領海侵犯に関する類似事案としては、平成10年の韓国漁船の領海侵犯と巡視船に対する公務執行妨害がある。このときには逮捕・起訴され、船長には懲役2年6月(執行猶予付)、罰金150万円が科せられている。これと比較しても今回の中国漁船の船長への処分が著しく<適用の衡平>を欠いていることは明らかである。検察庁は過去の事案を逐一把握しているから、韓国漁船の件も知っていないはずはない。にもかかわらず今回のような処分がなされたということは<政治の介入>があったことを物語っている。
 こうした刑事法の適用に要請される「処分内容の公正」を知らないで、「手続の公正」のみを論じるのは、
 歴史の観察者さんは「法」には言及されない方が読者に誤解を与えず、また自ら恥をかかないで済むというものだ。
 

一人言(ごと)。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月29日(水)22時30分22秒
  また、「異端の輩、この板の嫌われ者」が、何を言うか!と、怒られるかもわからないが・・これでも私は、私の一人言は、まだ、正論の枠にかろうじて入っているつもりですから辛抱して聞いてくだされ・・嫌なら読まずと無視してください。

私は自民党支持者である、前の麻生さんの解散総選挙、勿論に応援したよ・・さらに先だっての参議院の選挙、郷里まで2度にわたり帰郷し、ドブ板選挙手伝い、民主党議員落としにセッセ汗流した。

勿論に東京では、腹の中、コーヒでガバガバになるほど、ご婦人連中喫茶店に誘い、民主党の悪口言うた・・ワイは「外国人地方参政権」の大反対やったからの・・これほど、かってお世話になった自民党に仁義は尽くした・・「自民党、腐っても鯛」や「駆け出し三下民主党」よりヨカと思うていたからのう〜・・。

今回の尖閣列島の中国漁船の衝突事故と、その後の中国のゴリ押し
インネンのアヤづけ・・私は、私はこれは「腐っても自民党」の鯛部門と思ってた。そして、この腐った刺し身を、ま、ウンが悪いと言うか?、時期が悪かったと申すか?、その時期がきて無理やり食べさせられたが民主党の不運と思っていた・・この尖閣問題に関しては民主党に同情的だった。

だが今、世相は一方的に無茶口茶に民主党・菅政権を叩きまくっている・・この掲示板もおおかたそうである・・そして、一方の自民党の谷垣総裁ウッカリ談話は、これ訓戒程度で、江戸府内所払どころか、百叩きの刑にもあってはいない・・親自民・反民主の私でもいささか義憤を感じてる。

検察の言い分(菅または仙石の代弁かもわからんが?)

「★・中国漁船(シナの工作特務機関かも?)が、我が国の領海内で、適正な職務に従事していた石垣海上保安部所属の巡視船「みずき」に停止を求められた際、左舷側約40bの海域を並走していたみずきに向けて急旋舵(せんだ)して、故意に衝突させたことは明白である

「★・みずきに航行障害を発生させるおそれや、甲板上の乗組員らが海に投げ出される恐れがあった危険な行為だった。
他方、みずきに現実に発生した損傷は、直ちに航行に支障が生じる程度のものではなく、乗組員が負傷するなどの被害の発生もなかった。」

「★・被疑者はトロール漁船の一船長で、本件は巡視船の追跡を免れるためにとっさにとった行為で計画性は認められず、かつ被疑者には我が国における前科等もない。」

「★・加えて、引き続き被疑者の身柄を勾留したまま捜査を継続した場合の我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上の身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当でないと判断した。」

「★・被疑者の処分については今後の情勢をふまえて判断する。なお、この件については本日、福岡高検及び最高検と協議の上で決した。」

「★・(政治的判断は)ない。検察当局として決めた。日中両国の外交その他に与える影響についてはあくまで本件に関する諸事情のひとつとして考慮した、ということに過ぎない。中国政府に配慮したということではない。今後の尖閣諸島付近、海域の状況、日中関係の推移などを見て、最終処分を行うこととなる見込みだ。」
・・・・・・・・・・

コレである・・そりゃアカン・・弱腰だ、国土は命をかけて守るべきもの、この検察の答弁がいい筈がない・・だが、この無人島防衛のための法整備、憲法も自衛隊法も、なーにもやってこなかった自民党の歴代内閣の「腐っても鯛」料理である。

そう、国民の命を守るための自衛権にあらず・・無人島(なぜに国土に駐在員がおらんのや?)の防衛のためだけに、武力(自衛隊)を行使は憲法が認めとらん・・あくまで巡視船による近海のパトロール警察行為のみの尖閣守りである・・これが過去政権の取り決めだった・・「ことさらソフトに平和主義のゴマカシでカタをつける」。

この素晴らしい若い娘のストリップ演技をさせ、周辺の餓えた色気違いの欲望を募らせ続けたは、民主党でもない、検察でもない、自民党の歴代「腐っても鯛」内閣やなかったかや?・巡視船は軍ではない警察である。

「★・追跡を免れるためにとっさにとった行為で計画性は認められず、かつ被疑者には我が国における前科等もない。」
「★・我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上の身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当でないと判断した。」

こんなん、屁の屁の屁理屈候や・・警察なら悪いことやった奴、簡単に釈放してアカン・・なんら釈放理由にならん・・だが、公務の執行妨害、危険な行動したから、
逮捕は当然や・・だから捕らまえた・しかし諸般の事情(?笑)で起訴せずに釈放した・・アカンことはわかっとるが、一応の手続は踏んでいる。
それに比べりゃ、自民党総裁谷垣さんのアノ発言なんやんね・。

『■・騒いで得をするのは中国で、問題を深刻化させないことが一番大事だ。直ちに国外退去させた方が良かった。最初の選択が間違っていた」。

要するに巡視船も、相手によっては警察行動の仕事もするな・・取調べもせずにすぐに「ご苦労さん」と送り返すべきや・・そう、あの、北朝鮮の金ブタ息子のゴクタレの
密入国とデイズニー見物を、ただちに「国外退去」させた、田中真紀子方式ヤレゆうとる。

私は、谷垣総裁は従来の自民党の「腐った鯛」方式やっとるだけだから・・別に悪いコト言ったとの感覚ないと思う・・「都合の悪いコトは見て見ぬするが高等政治であると・・」
これを未熟な民主党に教えたるわの・・暖かい志である。

私、今のこの時点だっせー・・この東アジア国際情勢の中・・1970年代の「日中友好」の時やない、この2010年の中華膨張のこの時期、台湾危うしのこの時期に、事件を世情にあげ、国民の判断を喚起する、「身を捨ててこそ、浮かぶセもあれ!」の検察方式・・アカンはアカンでも谷垣方式よりタチがいいと思ってる
私が変わり者かもわからんが・・谷垣の「逃げるが勝ち」方式は過去残像、今では最もタチ悪方式と思うとる。

ただ、私は、自民党が先の総選挙で大敗し、この反省から内部改革がおき、構造変革がおきること期待した。だから、この谷垣発言を聞いた時に、
「これは、自民党内どエライ事になるぞ・・「腐っても鯛」をまだやってる・・これは自民党内で畢竟、谷垣排斥運動まで進むかと・・けど、自民党内、新三役が決まっても、静かなるものである・・ほほうーやはり今も自民党は田中真紀子スタイルかや?・・。

民主党は、今、内閣糾弾だ、仙石の首も落ちるであろう・・西岡までが批判の声だ、私は人間が甘いかもわからんが、政治家の変革は自民党より、民主党が早いのではないかと思い始めている・・自民党の内部の改革論は、つまり「古き谷垣理論・腐っても鯛料理」より脱却できないのではないか?と・・自民党の政権復帰より、民主党の改革を期待したほうがいいのではないかと思い始めてる・・またこの気持ちは変わるかもわからんが?・・。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)20時40分15秒
   今回の領海侵犯漁船の船長の釈放について、その原因を作ったのは「民主党」のみならず、かつての政権党「自民党」にもあったことである。このことを如実に示しているのが、先の谷垣自民党総裁の「逮捕後、直ちに釈放すればよかった」の発言である。この発言は単なる谷垣の独走ではなく、自民党に脈々と流れている<媚中派>を承継したものに他ならない。河野洋平元自民党総裁、加藤紘一自民党元幹事長の言動を見ればよく理解できる。
こうしたことの淵源は、田中角栄の日中国交回復にあったが、それはアメリカの示唆によるが、それまで親交を重ねてきた台湾を見捨てることだった。しかし、よしんばそれが政治的情勢から許されたにしても、いくらでもそれまでの人脈を生かし、水平面下で台湾とつながることは可能だったが、それを捨て去り、中国に傾斜していったのである。
 森 喜朗元首相・安部晋三元首相らの歴代自民党首相も靖国神社の参拝を断念してまで、中国との友好を果たそうとしたが、このことが日本の首を絞めたことを忘れてはならない。「朝貢外交」を行ってきたのはなにも民主党に限らないのである。この度の問題について、自民党が民主党を糾弾する姿はコッケイでしかない。
 

【極左】反日左翼活動家ザキンコ(zakinco)【底辺】

 投稿者:AAW  投稿日:2010年 9月29日(水)18時01分33秒 Remote Host: HDOfb-01p3-136.ppp11.odn.ad.jp, Time: 1285750893
  (個人情報が含まれる為、管理者権限に於いて削除)  

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)12時55分58秒
   今回の中国漁船の領海侵犯で明々白々となったことは、「日米安保」への懐疑である。
 日米安保条約の第5条に「各締結国は、日本国の施設の下にある領域における、いずれか一方に対する攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とある。ここにいう「領域」に尖閣諸島が含まれるかであるが、ブッシュ政権のときには含まれるとされていた。しかし、アバマ政権になって、クリントン国務長官の発言のように「含まれるが侵略されてもアメリカが直ちに武力行使することは規定されてない」としている(産経新聞 平成22年〔2010年〕9月29日(水)朝刊 東京第12版 7面
正論〔西尾幹ニ〕)。これがブッシュ政権とは違った対応であるかどうかは定かではないが、政権により解釈が異なるようでは信頼に欠ける。それはともかく、これでは何のために「日米安保条約」を締結したのか意味がない。産経新聞を中心とする保守派論客が「日米安保条約」堅持を唱えるが、事実すら見ておらずむなしい。懐疑を抱かないのは、もはや信仰に近い。保守派という看板を下ろしたらよかろう。
 尖閣諸島への対応について、アメリカに依存するのは属国意識も甚だしく、やはり日本独自で行わなければならないということが明確になっただけでも今回の事件は大きな意味があったと考えられる。
 

RE:目を誤魔化す事は一時的に可能では?

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月28日(火)20時31分50秒
  >魚雷発射時に海中で複数の爆発が起こっている場合、音がかきけされてしまい、その場での聴音はとても難しいと思います。

漁船団に紛れて尖閣海域に進出した潜水艦が魚雷の発射はおろか海中で複数の爆発を起こせば、自国漁船も巻き添えとなり少なからず犠牲者も出る事でしょう。それを百も承知で支那海軍が事を起こせば、ご指摘の事もあり得ますが、果たして支那が其処迄するかどうか。

毛沢東の頃でしたら「アメリカは結局のところ、怖くて核兵器を使えない。したがって、アメリカの核兵器は、見掛け倒しの張子の虎にすぎない。もし核兵器が実際に使われたとしても、我が国の人口は六億人だから、核戦争でたとえ半分の三億人が死んでも、まだ三億人残るから、人口はすぐに回復する。」と言う論理も通用したでしょうが、今の支那ではそれも無理でしょうし。

もっとも彼等の事ですから、海中で興した爆発を日本の攻撃と嘯くかも知れませんが。
 

RE:竹下先生へ

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月28日(火)20時15分57秒
  >「中国」の古典に、「支那」の表記されているのはどんなのがありますか?

サンスクリットで書かれていた仏教経典が支那に伝来した際、自国を指す「チーナ」の呼称に、支那人自身が「支那」の文字を当て嵌めて漢訳したのが起源です。但し、私も具体的な教典名迄は存じませんが。

>「中国」には100年くらい前には国籍が無かったとか、何かで読みました

清末に至る迄、支那には「国家」と言う概念がありませんでした。しいて言えば「世界(ワールド)」です。詰まり、清が世界の中心であり、清の朝貢国・属国を含む領域が「中華世界」であった訳です。ですから、支那人には「国籍」等と言う概念も無かった訳です。
 

別に日本国など滅んでもいいです

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月28日(火)19時51分23秒
  このままでは日本が中国に滅ぼされるが、べつに『日本国憲法』などという意味不明のもので成立しているこんな国、いらないと思ってる。自主憲法でも制定して大日本帝国にするのならいいけど、  

倭はどこにあったのか(21)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月28日(火)18時50分59秒
   このことを少し詳しく見てみたい。朝鮮半島から出土した「倭系遺物」のうち、主だったものを挙げる。「柳田康雄」〔福岡県教育庁文化課〕(『応神天応の秘密』安本美典 廣済堂出版 1999年11月15日 239頁から引用)の考察を挙げる。
1.玦状耳飾(けつじょうみみかざり)
  「玦状耳飾」とは、環状(円形)でその下の部分が欠けている耳飾のことで、日本の
 縄文時代前期以後に盛んに使用されたものである。これは「沙村里遺跡」(現在の韓国の
 慶尚北道清道部)で発見されている。この場所に注目していただきたい。つまり、朝鮮
 半島南端ではなく、南部でも北(上)の方である。
2.円形銅器
  卍あるいは逆卍形の銅器は日本独自の銅器で、これが「大成洞13号古墳」から出土
 している。
3.金海式甕棺、これは紀元前2世紀のもので、成人を甕に入れて埋葬する風習のことを
 いう。これは日本の成人埋葬方式で当時の朝鮮にはこうした風習はなかった。これは「
 金海会峴洞貝塚」で出土している。場所は、現在の慶尚南道金海市(釜山市郊外)であ
 る。
4.仿製鏡(中国の鏡を真似て作った鏡)
  「仿製鏡」は朝鮮にも存在するが、多数を墓に副葬する習慣は朝鮮にはなく、日本の
 制度(「伊都国」・「奴国」)である。「坪里洞」(現在の韓国の慶尚北道大邸市)、
 「朝陽洞」(現在の韓国の慶尚北道慶州市)などから出土している。
 

竹下先生へ

 投稿者:飛鈴  投稿日:2010年 9月28日(火)14時03分46秒
  以下にこうありますね。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/cina.html
>中国人自身が「支那」・「脂那」と表記したのが起源です。
>つまり、中国側が侮蔑用語としている「支那」の表記は、中国自身が編み出したもので

「中国」の古典に、「支那」の表記されているのはどんなのがありますか?

「中国」には100年くらい前には国籍が無かったとか、何かで読みました
日本に留学しに来た留学生は国籍欄が空白だったり、「中華」と書いていたらしいですね
 

理解はできますが・・・

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月28日(火)11時56分17秒
   あなたの考えは、アマノジャクさんが指摘しているとおり、今回の事件は中国の意図的なものではなく、領海侵犯も確定的なものではない。まだ間がある。この間に国民が知恵を出し合って対処すべきだ。現に首相も民主党の議員も知恵を出している。ここは冷静に事態の推移を見守るべきだということだと推察します。
 これに対し、私は今回の事件は中国の意図的なもので、領海侵犯も確定的なものであり、喫緊の問題であり、直ちに知恵を出して実行に移さなければならないというにあります。
 この辺は認識の違いで、アマノジャクさんが言うようにこれ以上論争しても不毛だと思います。
 したがって、これであなたとの論争を打ち切りたいと思います。
 あなたの見解は、有り得るもので、異端児・嫌われ者と言う必要はないと思います。
長い間、ありがとうございました。
 

領土問題と国益

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月28日(火)11時01分58秒
   領土問題は、経済的価値だけにあるのではない。北方領土(千島列島)は経済的
価値はない。漁業資源だけで国土に回復しても投下資本の方が遥かに多い。
 やはり政治的価値を考える必要がある。これは自明の理だと思うが。
 

尖閣侵犯事件に関して

 投稿者:無学人  投稿日:2010年 9月28日(火)11時00分58秒
  http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6209031.html より。

第一段階。 南シナ海の制空権制海権を支配する。
第二段階。 東シナ海の制空権制海権を支配する。
第三段階。 東、南シナ海に領土権を確立。
第四段階。 中華民国(台湾)の実権を掌握。
第五段階。 中華民国(台湾)軍を用いて沖縄諸島を攻撃。
第六段階。 大陸空軍で米軍を牽制しつつ沖縄本島を占領。
第七段階。 沖縄独立宣言。
第八段階。 中華民国(台湾)が沖縄を併合。
第九段階。 中華民国(台湾)軍を用いて小笠原攻撃占領。
第十段階。 中華民国(台湾)軍と北朝鮮軍を用いて対馬占領。
第十一段階。韓国の実権を掌握。
第十二段階。3カ国を用いて日本本土を攻撃
第十三段階。ロシアに北海道を渡す事で分割支配の開始
第十四段階。北京政府が日本を含めて4カ国を併合。

中共国ならこう望み行動するでしょうね。

◎これが真実とは言いませんが可能性が高いとは
思います。中共国は沖縄も領土であると主張し宣言し
国内法で規定していますからこの地域への攻撃は

国内問題であるとして中共軍を動かす事が可能です。
現在は他国の民間活動に制限を加えて制海権を増大中
と見ることが出来ます。制海権とは何も軍事に限りません。

日本が尖閣を失えば中共国の重圧に耐えかねて中華民国
(台湾)の実権が中共国に渡る事に成りかねません。
そうなれば台湾が日本を攻撃してくるでしょうね。

アメリカはおそらく中華民国(台湾)軍との交戦を避けると
思います。沖縄の大部分は中共国の手に落ちてしまいます。
尖閣に出てくるのは単に資源を求めての物では無いのです。

資源だけなら買えばよい。領土拡大という政治軍事上の行動
と受け止めるべきだと考えます。自衛隊に関しては他国の軍
とは違い、国境の監視や警備の任務は在りません。

偵察機が国境で行なっているのは監視警備訓練という名目です。
つまり監視や警備は自衛隊法の任務では無いけれど訓練まで
禁止されてはいないという理屈ですね。

自衛隊がこの地域で難しいのは警備活動が出来ないと言う
運用体系による物です。現場で迷いながら対処している現実。

◎自衛隊に国境警備権を与える事が我国が最初にする事と思う。
 

これはすでに指摘してます

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月28日(火)10時57分32秒
  >常識で考えればすぐにわかりそうなこと・・今回の尖閣問題、谷垣総裁以下の新党三役・これが与党だったら、どうゆうことやったと思われますか?・・<

>菅政権より、もっと軟弱外交やったと思いますよ・・<
 そのとおり
 

Re知恵

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月28日(火)09時46分59秒
  解法者さん

常識で考えればすぐにわかりそうなこと・・今回の尖閣問題、谷垣総裁以下の新党三役・これが与党だったら、どうゆうことやったと思われますか?・・。

菅政権より、もっと軟弱外交やったと思いますよ・・だって、今回の尖閣無防備ストリップ劇のセッセのタネ撒き・中曽根内閣以来の歴代内閣じゃありませんか?・・だから、その延長戦上に、今の谷垣総裁の「最初に国外退去で日本は逃げるべきであった・」

保守も民主党糾弾と同時に「自民党、過去総括だ!」の糾弾せんrば、世間の国民の支持と同感は得られぬと思いますが・・それにもう現実にヤラれてしまった竹島は、もうこれは
「すんだコトだ!」との諦め・達観の心ですか・・この問題を放置し、尖閣に集中、「未だ盗られていないから?」の理屈なら、竹島は何もない・・尖閣は石油がある、この損得で動くが国益だ! ここを国民に啓蒙してからやるべし・・ただの愛国だけの訴えは矛盾を生じる?。
 

目を誤魔化す事は一時的に可能では?

 投稿者:MOAI  投稿日:2010年 9月28日(火)07時23分52秒
  魚雷発射時に海中で複数の爆発が起こっている場合、音がかきけされてしまい、その場での聴音はとても難しいと思います。

後で解析して中国の兵器だとわかったとしても、『あれはテロリストに盗まれたものだ』とか言って、シラを切るでしょう。

まあ、潜水艦が逃げられる時間を稼ぐぐらいの爆発を継続する量の爆薬を使えば軍が協力した立派な証明ですが。
 

竹下様、ありがとうございます

 投稿者:飛鈴  投稿日:2010年 9月28日(火)01時09分13秒
  まずはご返信ありがとうございました。

しかし、先生の御論文は既に拝読させて頂いておりました。
ここだけの話、かつて中国語に一部を抄訳して故郷の人たちに送った事もあります(申し訳ありません)。
浅学非才の身なので何をどうやって調べれば良いのか解らなかったのです。
本当にすみません。

今一度再読いたしましたが、
「台湾すら領土と見なしていなかった中国が、尖閣諸島を中国領土などと思うはずもない」
という理解で宜しいでしょうか?

やはり「東シナ海は悪魔の海」というのはガセネタだったのかしら…
竹下様ですらご存知無いとなると、諦めた方が良いかも知れませんね

ありがとうございました
 

RE:最善策?

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月27日(月)23時56分15秒
  >自衛隊だしても軍事的挑発ととるから、潜水艦で攻撃してくるでしょ。
>にもかかわらず「この海域に我が軍の潜水艦は航行していない」と言うのは見え見え。
>漁船に偽装した船で威嚇しながら魚雷撃てば爆発音に紛れて逃げられる。

こと対潜能力に付いて言えば、海自は世界一。米海軍よりも優秀だとされています。

抑も、日本の護衛艦隊と言うのは、米海軍機動部隊(空母艦隊)に対する敵潜水艦からの攻撃に対応する為に存在すると言っても過言では無く、その為に対潜水艦戦に特化している部分が大きいんです。だからこそ、以前、支那の潜水艦が自国の領海に逃げ込む迄散々追い回す事が出来た訳です。これは、海自が相手を決してロスト(見失う事)しなかったから出来た賜物です。

ですから、支那の潜水艦が漁船船団に紛れて魚雷を一発でも発射したら、その存在を知られる事となり、そうなったら海自の「目」からは逃げられません。たとえ、海自が反撃しなかったとしても、どのルートで逃走したか全て把握される事になります。
 

RE:竹下義朗 様

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月27日(月)23時44分3秒
  自衛隊の常駐が最良です。

>そうでなければ、これが不可との理由は何でしょうか。

「現場で偶発的衝突が起き、武力紛争に発展したとしても、それはそれで可である共思います。」に対するコメントと捉えた上で、お答え致します。

彼のフォークランド紛争が最たるものですが、自国の領土を守る最後の手段は、矢張り「力 対 力」です。偶発的衝突から武力紛争、詰まりは支那海軍と日本海自が戦火を交えても良いと言う意味です。まあ、そうなれば国交断絶に至るかも知れませんが、ここで日本が「自衛隊を使っても日本の領土は死守する」と言う気概を見せれば、今回の汚名・屈辱は充分に挽回可能です。因みに、この場合、尖閣諸島が日本固有の領土である以上、そこに進出してきた支那海軍と交戦する事は、日本の国防戦略である「専守防衛」を逸脱しませんし、「自衛権の発動」ですから、法的には何ら問題はありません。

屈服した日本を目の当たりにして大いに落胆失望していた国々、特にスプラトリー(南沙)諸島・パラセル(西沙)諸島の領有権を巡って支那と争っている東南亜細亜諸国を中心に、突出する支那の抑止役としての日本に期待を寄せ支持に回るであろう事は想像に難くありません。

支那の戦国時代、西方の大国・秦に対し、列国が合従連衡したが如く、日本・台湾・東南亜細亜諸国が結束し、覇権主義の支那に対する包囲網を構築する方向に向かう好機となるかも知れませんし、平和呆けした日本国民の目を醒ます為にも、ドンパチが必要では無いか? そう私は考えます。
 

竹下義朗 様

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)23時23分55秒
   あなたのお考えは、自衛隊の常駐も含むというお考えでしょうか。
そうでなければ、これが不可との理由は何でしょうか。
 

最善策?

 投稿者:絵夢  投稿日:2010年 9月27日(月)23時10分29秒
  自衛隊だしても軍事的挑発ととるから、潜水艦で攻撃してくるでしょ。
にもかかわらず「この海域に我が軍の潜水艦は航行していない」と言うのは見え見え。
漁船に偽装した船で威嚇しながら魚雷撃てば爆発音に紛れて逃げられる。

口八丁手八丁で逃げる詐欺師を相手にどう対応すれば良いのかを考えないと
自衛隊出すのは自殺行為だと思います。
まずはロシア以外の反中感情をもつ人々を煽って中国に圧力をかけるべきだと思います。
でも、アメリカが漁夫の利を得ようとしているのでこれも難しいでしょうねぇ。
 

RE:質問させてください

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月27日(月)22時54分6秒
  飛鈴さん

手前味噌ですが、多少は参考になると思いますので、以下の私の小論をご覧下さい。

「お宝」目当ての領有権主張 ── 尖閣諸島問題 (2001.10.7)

「琉求国征討」 ── 台湾領有のとんでも無い根拠 (2001.12.8)
 

Re知恵

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月27日(月)22時52分48秒
  解法者さん
それは知恵ではなく喧嘩口上文である。憲法の制約があり難しかろうで? そのデモは。
日本の現状は、鎧を着ても、上に法衣をまとわねばならぬ・・これでは威圧交渉はできん。
知恵を出し合うとは、私の知恵ではないですよ・・国民統合の知恵ですよ・・。

この法(憲法)の自縛霊からの離脱やあらしまへんやろか? 賢明なる貴殿ならおわかりと思うものだが・・。
 

RE:Re再び知恵?

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月27日(月)22時48分13秒
  >◇有志73人

この中で私の住む山梨選出の議員は、米長晴信参院議員だけですね。
同じく参院の輿石東も、衆院の小沢鋭仁も名を連ねていないですし、彼等のスタンスも見えない。まあ、どちらもロクでも無い政治家ですが。
 

RE:何を言ってんだか!

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月27日(月)22時44分11秒
  >尖閣列島付近に軍艦まがいの監視船を派遣するだろうね。

中国漁政指揮中心(CHINA FISHERY LAW ENFORCEMENT COMMAND)の漁業監視船が尖閣沖に出張ってきたとの事。監視船には固定の武装は装備されていないらしいですが、乗員は武装していますし、逮捕拘束した漁船とは訳が違います。若しも、この監視船が日本の領海に侵入し、海保巡視船の退去勧告に応じなかったとしたら、日本として一体どの様な対応をするのか? 実力行使してでも領海から強制排除するのか? 自発的に領海から立ち去るのを唯々指を咥えて待つのか? 検察による漁船船長の釈放で海保の現場が正常な対応を取る事に躊躇したりしないか? 非常に問題です。私個人としては、ここは飽く迄も尖閣諸島が日本固有の領土であり侵入は断固として認めない事を知らしめる為にも、海保巡視船では無く海自護衛艦(取り敢えず、ヘリコプター非搭載のDDクラスでも良い)を現場海域に貼り付け監視警戒す可きものと考えます。そして、現場で偶発的衝突が起き、武力紛争に発展したとしても、それはそれで可である共思います。
 

知恵

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)21時57分38秒
   知恵といえば、どうして尖閣諸島に自衛隊を常駐させないんだろう。
これが最善策とも思える。

 昨今の状況では、与那国島への自衛隊派遣問題を見ても、住民の賛同が
必要だが、国防に地域住民の賛同もないだろう。これは左翼どもの画策。
これは別として、尖閣諸島には住民などいないから、すぐにもできるはずだ。
昔からできたはずなのに。自民党が今回の事件に対する民主党政権の措置に
反発しているが、元はといえば自民党の責任である。
 自衛隊が常駐し、海上保安庁(警察職務)漁船の取締りに協力する体制を
採っていれば、今回の事件は起きなかったように思えるが・・・
 

何を言ってんだか!

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)20時05分57秒
   あのね! 知恵というものは実現してこそ知恵なの。
あなたの挙げたものは単なる<思いつき>。
 一国の首相の発言の重み? ならば消費税はどうなったの? アイツの発言に
重みなどある。首相に望まれるのは、発言より実現だよ。間違っているかな?
 >来たとしたら・・それは漁船群団の形でも、これは日本は排除せざるを得ない
・・<
こんなの誰が信じようか! まず、釈放してからこんなことを言っても始まら
ないし、釈放しても中国は嵩にかかって来ることが予測できなかったのか。それを
以ってしても首相 落第だ。
 民主党の有志の声明だって、具体的なものは何一つないんだから。

 >余裕を持って眺めてやろうではありませんか・・<
 これだって、そう言っているうちに中国は攻勢を深めてくる。尖閣列島付近に
軍艦まがいの監視船を派遣するだろうね。
 

Re再び知恵?

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月27日(月)16時40分3秒
  解法者さん

新聞報道
「菅直人首相は、26日、沖縄県尖閣諸島沖での中国抗議(謝罪と賠償)につき、「まったく応じるつもりはない」と拒否する考えを強く示した。首相は中国側の要求について
「尖閣諸島は、日本固有の領土だ!謝罪とか賠償とか、そんなことは考えられない・」と強調した。

一国の総理大臣が公の会見の場所で国民相手に堂々と宣言した。
中国が攻め寄せた場合(?・今はそれは考えられぬが)もし、来たとしたら・・それは漁船群団の形でも、これは日本は排除せざるを得ない・・一国の総理の発言の重みである。

案の状 コレに繋がる
「 われわれ民主党国会議員有志は「処分を保留し釈放」の判断を下したことに強く抗議すると同時に、今後、尖閣諸島近辺でのわが国の漁船などの船舶の安全、諸資源の確保に万全を期すための諸制度・法律の構築をめざす。もとより中華人民共和国からの謝罪と賠償の要求は言語道断であり、「一切応じない」という政府の判断を強く支持する。その上で、立法府に与えられたあらゆる権限を駆使して、真相の究明ならびにわが国の国益にそったあらゆる対応を今後行う決意である。

◇有志73人 石山敬貴▽畑浩治▽斎藤恭紀▽石森久嗣▽高邑勉▽今井雅人▽空本誠喜▽木内孝胤▽木村剛司▽村上史好▽渡辺義彦▽柳田和己▽向山好一▽福島伸享▽柴橋正直▽花咲宏基▽長尾敬▽中津川博郷▽石関貴史▽松原仁▽金子洋一▽福田昭夫▽神風英男▽中野譲▽加藤学▽小宮山泰子▽玉木雄一郎▽若泉征三▽川口浩▽中野渡詔子▽石原洋三郎▽牧義夫▽若井康彦▽皆吉稲生▽勝又恒一郎▽網屋信介▽高橋英行▽本村賢太郎▽松岡広隆▽福嶋健一郎▽大谷啓▽宮崎岳志▽仁木博文▽神山洋介▽山本剛正▽柿沼正明▽萩原仁▽太田和美▽和嶋未希▽山岡達丸▽石井登志郎▽米長晴信▽石井章▽谷田川元▽豊田潤多郎▽外山斎▽大久保潔重▽舟山康江▽友近聡朗▽行田邦子▽安井美紗子▽大石尚子▽河合孝典▽水戸将史▽打越明司▽梶原康弘▽川内博史▽平山泰朗▽岡本英子▽高松和夫▽小林正枝▽近藤和也▽吉田公一(敬称略)

法華の太鼓と同じで、知恵もだんだん出てくる、それがこの世の習いです。
まだ、シナが 眦を決して攻めかかった訳ではありません・・もう少し菅政権(ズル菅・昔市民活動家、今、体制派変身の現代の高杉新作)お手並みを、短路的でなく、余裕を持って眺めてやろうではありませんか・・こりゃ、この板の嫌われ者、余分ゴトだったかな?。
 

領土的野心とは

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月27日(月)16時33分58秒
   どうせ日本の漁師が近づけないのなら、尖閣諸島周辺に、機雷を張り巡らしときましょうか。
 以前から、北京五輪や上海万博が終わる迄はおとなしくしているだろうが、その頃には中台の軍事バランスも逆転し、中共が強気に出てくるだろうと言われていたが、現実のものとなったようです。
 本来、石油資源が見つかったことは喜ぶべきことなのに、それが争いの種になるのだから人間ってヤツは困ったものだ。まさか、水産資源が主目的ではあるまいし、島に住みたいと思ってるわけでもないだろうから、海底石油資源が無ければ尖閣諸島になど見向きもしない。海上交通路を占めることで、外交カードを増やす狙いもあるだろう。それもこれも全ては、経済的欲求からくるものと考えれば、尖閣諸島に限っては“領土的野心”と言うよりは“経済的野心”とも言える。中共政府も対外強硬に出なければならない理由は有るのだろうが、それに付き合わされる方はタマラナイ。
 中国人民の不満原因である国内の経済格差解消の為、中共政府を助ければいいのだろうか? かつて、中国を支援し人民の生活が向上すれば、巨大市場を持つ経済パートナーともなるだろうし、やがて民主化されるだろうと考えられていたが、その目論見はもはや消え失せ、逆に世界経済への影響を盾に取り恫喝する現状を見れば、それはないだろう。
 先進工業国が、ガン細胞国家を増殖させてしまったツケを払う時が来たようだ。これ以上、経済的豊かさの為に譲歩すべきではない。核を必要以上に恐れることもない(東京在住ではないので、ゴメン)。
 大体、色々な意味で国が大き過ぎるから、独裁的・強権政府が必要にもなるし、多数の人民の生活レベルを底上げする為に大量に資源が必要にもなる。多種多様な民族・地域が同じような発展を望んでいるわけではない。中国は分裂しなければならない。
 取り敢えず、中国に進出した企業が撤退して失業者だらけになれば、人民の不満はピークに達して内乱を誘発できるだろう。一度、豊かさを知った者が元の貧しさに耐えるのは難しいし、豊かになれると夢見た者がなれないことを納得するのも難しい。外征に打って出る隙を与えないように、予めシンボル的な内乱指導者を何人も養っておく必要が有る。
 そもそも、人民解放軍とは国土と人民を守る為の国軍なのか? そうではなく、共産党の為の私軍で、各地方軍閥の寄せ集めだと聞いたが、本当だろうか? 人民を抑圧する軍であっても、人民の為に戦う軍であるとは思えないのだが、原油相場が安定している限り、尖閣に本気で出てくるのはまだ先ではないかと思う。いや、尖閣を領有したくらいでは全く足りないのだから焼け石に水、それでも血を流す覚悟があるのだろうか?
 どんな組織でも派閥や権力闘争はあるだろうし、そうならば、巨大組織であるほど分裂・内乱に発展させる下地は有るハズだ。単なる内陸部との経済格差ばかりではなく、チベット・ウイグル・モンゴル等自治区の独立という火種もある。満州にも五族協和国家を樹立する。ついでに北朝鮮も道連れに崩壊させる。イスラム勢力やインド、モンゴル等周辺国の協力も取り付けておく。後は、龍馬にお願い。まずは、共産党政府内に勝海舟のような人物を見つけなければならないが、いるだろうか? 新中国の指導者の希望者は、日本と仲良くしといた方がいいよ。中共政府は、お互い疑心暗鬼となって粛清しあってくれることだろう。これを、孫子の兵法では、何の計と呼ぶかは知らない(まだ読んだこともない)。
 

訂正

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)10時43分27秒
   谷垣総裁の発言に関する報道は、産経新聞〔平成22年「2010年」9月27日
[月] 朝刊 東京15版 5面〕でした。
 

中国漁船の船長釈放に関する雑感(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)10時39分45秒
   先に、>自民党 非難はしたが、政権党だったら、釈放を拒絶できたか大いに疑問である。谷垣総裁などはガチガチの迎中派である<と評したが、そのとおりになってしまった。彼は「領海侵犯の中国漁船船長を直ちに海外退去させればよかった」と24日の京都市での講演で発言したという(産経新聞〔平成22年「2010年」9月25日[土] 朝刊 東京15版 1面〕)。自民党の総裁がそのとおりだから政治家が国益などは守れるはずもない。
 仮に穏便な措置を取るなら、逮捕→船長の自白を得る→簡易裁判所に略式起訴→釈放、ということが最善だったが、民主党に中国側と掛け合って知恵をつける者がいなかった。最初から外務省が蚊帳の外に置かれていたらしいから、それが原因とも思えるが、政治主導を標榜する民主党政権だから理由にはならない。小沢など媚中派がたくさんいたはずなのに、どうしたことだろう。元々人脈などなかったのか、それとも知恵そのものがなかったのか、だろう。
 

中国漁船の船長釈放に関する雑感(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)10時38分38秒
   これで国民の間に国防意識が高まれば良いのだが、そうは思えない。
国民の間に海を隔てた向こうに野蛮な国がいるという認識は高まったと思う。しかし、それが国防意識まで高まったかというと疑問が残る。長年の平和ボケで、今回の事件を機にそれから抜け出るのは難しいと思える。それをいくらかでも打破するためには、ネットなどで中国・日本政府を叩き続けるしかなかろう。
 起訴すれば、中国の反発は高まり、経済制裁などが一段と強化されたと思う。中国一辺倒の経済界に痛烈な打撃を与えるためには、それが最善だった。国益は経済界への中国依存への警告が一番だったと考える。それに中国の狂気が増幅されることによる日本国民の国防意識の高揚が実現されたとも考える。国防意識というなら起訴が最善だったのではなかろうか。
 いずれにせよ、日本は絶好の機会を失ったと言える。
 

ありがとうございます

 投稿者:飛鈴  投稿日:2010年 9月27日(月)00時33分12秒
  日野護国運動家様、ご教示頂き非常に感謝いたします。
私もちょっとは探してみているのですが、なかなか見つからない次第でして。
細かく解るサイトは無いでしょうかね

もしも解れば、それを悪辣な我が共産党独裁政府に叩きつけてやるのですが

とにかくお教えいただきありがとうございます。
歴代王朝の東シナ海の認識について、もっと勉強します。
 

倭はどこにあったのか(20)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月26日(日)20時40分43秒
   ここで、少し、朝鮮半島における「倭」との交流を考えてみたい。これまではややもすると、朝鮮から一方的に「倭」に文物が伝えられたという考えがまかり通っていた。こんなことは少し考えれば、誤りだということがわかろう。人の交流は相互に行われるのは自然であろう。最初に交流の印とされるのは、朝鮮の安島(現在の韓国全羅南道麗川郡安島里)の貝塚から、約7千年前の「縄文人」(安島人)の人骨とともに「黒曜石」の矢じりが発見されたである。朝鮮の南部には「黒曜石」は産しない。調査の結果、これは九州の佐賀県の「腰岳」のものであることがわかった(ハイビジョン特集『私たちはどこから来たのか−日本列島人の起源に迫る』BS103〔平成22年[2010年]6月13日(日)22:45分〜0:15分〕、「朝鮮半島の黒曜石について」西谷 正〔『賀川光夫先生還暦記念論集』1982年[『弥生時代 渡来人から倭人社会へ』片岡宏二 雄山閣 2006年9月10日 28頁より引用]〕)。つまり、この時代には既に朝鮮と日本との間には人々の交流があり、それも日本から朝鮮に物資が渡ったことが明らかとなったのである。
 また、朝鮮南部の「金海」の「大成洞遺跡」、「東莢」の「福泉洞古墳」などの「金官伽耶」の遺跡から古代の日本と関連する遺物が出土している(『倭と加耶の国際環境』東湖 吉川弘文館 2006年8月10日 156頁)。「筒形銅器」・「巴形銅器」・「碧玉製紡錘形石製品」・「碧玉製石鏃」・「碧玉製玉杖」・「仿製鏡」などである。これらのもののうち「銅器」・「仿製鏡」は発掘調査団は「伽耶」製ある品あるいは「伽耶」の影響の下に製作されたものだとしているが、朝鮮南部では紀元前後に「青銅器」の生産が終り「鉄製器」の生産と移行しており、儀器的な「青銅器」を製作する理由も必要もその可能性もないので、日本製である可能性が高いとされている。そして、これらの製品はそれまでの九州北部のものとは異なり畿内のものであるということは、「狗邪韓国」または「金官伽耶」が「畿内」を対象として交易していたことを示しており、日本の覇権の推移を物語っていると考えられる(「四・五世紀の金官伽耶の実像」申 敬〔『巨大古墳と伽耶文化』角川書店[角川選書 235]1992年12月20日 44頁〕、「大塚初重」−『巨大古墳と伽耶文化』218頁)。こうした「青銅器」のみならず「武器」についても日本製である可能性が高いものがある。「甲冑」は胴を覆う短いもの(「短甲」)が発達するが、当初は甲冑の前面の防御板を革で留める技法の「三角板革綴短甲」(5世紀前半)から、鋲で留める技法の「三角板鋲綴短甲」(5世紀中期)、さらに「三角板」ではなく「横矧」(よこはぎ−長方形の板)をつなぎ合わせる「横矧鋲綴短甲」(5世紀末)と発達していったが、いずれも朝鮮南部から出土している。このうち「三角板鋲綴短甲」が日本製だという者もいるが(「南部朝鮮出土の鉄製鋲留短甲」穴沢和光・馬目順一郎〔『朝鮮学報』第76号 1976年〕)、少なくとも「横矧鋲綴短甲」は日本製であるという考えが支配的と言える(「東 湖」−『巨大古墳と伽耶文化』226頁、「鉄製甲冑の形式学的研究−大和国を中心として−」堀田啓一〔『末永先生米寿記念献呈論文集』奈良明新社 1986年4月)。このことは「日本古代国家の形成」で詳しく考察するが、四・五世紀には「畿内」に覇権国家が成立していた証拠となろう。私は前述の古墳の被葬者が「倭人」であるとも考えている。
 

なるほど理解できました

 投稿者:アマノジャク  投稿日:2010年 9月26日(日)17時54分13秒
   歴史の観察者さんの言わんとするところは、前から繰り返し主張している「中国は
ハリボテ」であることから始まって、すぐには領海侵犯を仕掛けることはないだろう
ということだったと記憶してます。
 そういうことを前提に今回は領海を侵犯したのであるが、どこにでもあることで
あって、冷静に対処しなければならないということだろうと考えます。
 言わんとする趣旨は一貫してます。
しかし、満州においてソ連との間に中立条約があり、攻めてはこないだろう。大丈夫
だろうと言って、結局はやられて悲惨な結果を生みましたね。またヨーロッパでも
ヒットラーが攻め込んでこないだろうとたかをくくっているうちに、これまたヨー
ロッパ中が侵略されたことをまさか知らないことはありますまい。
 これと同じようにやられてからでは遅いのです。おそらく尖閣諸島は回復できない
でしょう。
 今回の領海侵犯はあなたとは認識を異にします。本格的な領土化の前章だと考え
ます。冷静になれということじたい無理というものです。こういうときになって、
冷静に! 冷静に! という者が必ず出てきますが、裏を返せば何の策もないという
ことです。あなたからも策がてきされたようには思えません。策は管理人さんから
提示されたものが良策と思います。
 それと冷静にならなくとも策は出てきましょう。したり顔で冷静になどということは
ないのです。
 それとあなたも指摘してましたように、国民の間に国防意識が高まっていうことが
予想されますが、これにあなたの言う一部の保守派などが声たからかに叫ばば世論も
変わってくるでしょう。あなたが考えているほど保守派は小さな存在ではないのです。
 最後に、解法者さんにいうことがあります。あなたの考えは支持しますが、以前
で、歴史の観察者さんとの論争は終わってます。これ以上、刃を交えてもムダという
ものです。
 

悪い癖とは誰?

 投稿者:アヤノジャク  投稿日:2010年 9月26日(日)17時24分57秒
   ちりとてちんサンのことです。前にもいいましたが、誰もあなたに行事役を頼んでは
いません。勝手にしゃしゃり出てきて、板を混乱させないでいただきたい。
 事実、歴史の観察者さんは、回答されている。
以前、KY! KY! KY! を連発していたのは、あなたでしょう。
まったく空気の読めない人ですね。あなたがしゃしゃり出てこなくとも、板は回って
いるのです。
 

Re 流れに水を差すのはアナタです。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月26日(日)15時08分26秒
  洋介さん

『■・ならば、知恵など出す必要はないのではあるまいか。知恵を出せとは理解できない。』

なぜこうなるかわからない・・
「真剣に皆が国民が知恵を出すべきでは?」
コレそんなにおかしいですかな?、国民が知恵を出さな・・足を出すんですか? 手を出すんですか? ドスを出すんですか?・・そのドスにしても、国民が知恵を出して憲法を、国防意識を変えな・・誰が?、何を? どう出したらいいんですか? 何んに始まらんのでは?。

すべて菅総理の責任におしつけ、罵倒するだけではどうにもならない・・彼が事件に正常に対処できるように応援したらな?・・支援する任・能力にあらずゆうなら、国民がまた知恵を出し、前原に変えるとか? 野田に変えるとか? 現実に今、絶対多数で民主党が政権を運営してるのですよ・・

それに事実「領海侵犯ぐらいはたいしたことはない」世界中では日常茶飯事におきてること、これが竹島の武力制圧にならないよう・・国民が「私やあなただけではないですよ・」
皆が知恵を出さな・・そりゃ、核も?、空母も?、ミサイルも?、あるいは旅順要塞も?
あるでしょう・・国民が皆が知恵出さな?、一部の保守や右翼が騒いでも・国論は動かない・・急がねばならぬが・・まず冷静さが必要との意味です・・。
 

中国漁船の船長釈放に思う(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月26日(日)14時12分51秒
   それはそうと、今後どうなるのであろうか。まず、南シナ海で中国漁船が武装監視船に守られて操業しているという事実に注目しなければならない。今回の中国漁船の領海侵犯は偶発的なものではなく、意図的で、中国政府の支持の下になされた計画的なものと考えなければならない。なお、それが日米安保をめぐる日米のギクシャクした関係から、その間隙を縫ったものだとする味方が主として保守派論客の間からなされているが、これは誤り。アメリカは東シナ海の領有権問題には関与しないとい中立的態度を貫いており(毎日新聞 同上 5面)、今回の釈放に賛同している。アメリカは中国とこの海域で紛争を起こすことを望んでいない。アメリカの考えているのは、あくまでアメリカの国益。これに頼っていては国防すらできない。尖閣諸島は日本独自で守らなければならない問題なのである。
 加えて、中国は拿捕された漁船の「護送」のために、農業省の監視船を派遣している。これからは武装監視船が尖閣諸島に常駐することも予想される(読売新聞 同上 2面)。いや、常駐するだろう。
 こうしたことを背景に、尖閣諸島に中国漁船が押し寄せても、逮捕できないだろう。そればかりか、海上保安庁は警告さえもしないだろう。
★ 歴史の観察者さんの情報提供
  「ニューヨーク 23日 ロイター伝、クリントン米国務長官は
 23日、沖縄・尖閣諸島付近の海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突
 事件について、地域に長期的な影響が及ぶ前に速やかに問題を解決
 するよう日中両国に要請した。」
  「ニューヨーク 24日 ロイター伝、クローリー米国務次官補
 は24日、記者会見し、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で日本側が中国
 人船長を釈放したことに関し、「日本は正しい決定をした。事態が解
 決し、満足している」と述べ、歓迎の意向を明らかにした。」
 

中国漁船の船長釈放に思う(8)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月26日(日)14時10分30秒
   問題はそればかりではない。尖閣諸島で漁をしている漁船および航行する船舶に中国が退去を警告し、最悪の事態として<拿捕>することが大いに想定できる。その際、日本政府は自国の領土を侵犯したとして、中国に強硬な態度を取れるか。釈放させられるか。まず、軟弱な民主党政権では無理だろう。
 今回のことは、日本が尖閣諸島の領有権を放棄したことを国際社会に明らかにしたものである。
 中国ばかりではない。韓国も「日本など恫喝すれば、竹島など放棄する」と確信を持ったことであろう。このことは韓国の新聞を見れば明らかである。ロシアにしても同じで北方領土などについても同じである。
 話し合いで解決するならば、こんな良いことはない。しかし、相手はいずれも「反日国家」・「敵性国家」である。左翼どもは、紛争はいけない、やがて戦争に発展するという。しかし、相手がその気だ。どうするのか。軍事的解決も辞さないという態度も必要で、軍事的紛争も止むを得ないということを認識すべきだろう。
 中国漁船の船長の釈放で終わらなかった。果たせるかな、中国は9月25日(土)未明に、日本に対する謝罪と賠償を要求してきた。考えれば、領土的野心を如実にする中国は、これを機会に徹底的に軟弱な民主党政府を揺さぶる挙に出てきた。当然だろう。釈放で一件落着を考えたであろう民主党の<馬鹿さ加減>を笑うしかない。
 民主党は領土を守る意識など微塵もない。いち早く潰さないと、日本が崩壊する!
                         〔完〕
 

RE:たちあがれ日本?

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月26日(日)12時24分22秒
  別に私は与謝野幹事長の思想に賛成しているわけではありません。ただ、平沼代表が船長釈放に抗議したことを評価しただけです。
与謝野共同代表は尖閣諸島に上陸しようとした党員をかつて除名したことがあるように、その思想は「国民保守主義」ではなく「国民売国主義」でしょう。それでも管首相よりはましですが。
私はたちあがれ日本より、鳩山時代の民主党を支持しています。もっとも鳩山由紀夫氏には一刻も早い自主憲法の制定をしてほしかったのですが…。
 

流れに水を差すのはアナタです

 投稿者:洋介  投稿日:2010年 9月26日(日)11時04分29秒
   うまく回っているのに、横から口を出したらアカン!!
どうも空気が読めないらしい。悪い癖とはアナタです。

 見ていても、どうも歴史の観察者氏の言うことがわからない。
>尖閣諸島が武力攻略に遭った訳でもない・・一種のシナのデモンストレーション
に過ぎぬ・・将来(台湾・大陸吸収後)の本場での予行演習かもしれない・・<
 これは今回の領海侵犯はたいしたことはないというように聞こえる。ならば、
知恵など出す必要はないのではあるまいか。知恵を出せとは理解できない。

 そして、管理人さんとのやりとりならば、直接メールでやればいいのでは。
それで満足すると思うが・・・
 

東シナ海は東夷の海

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月26日(日)10時46分28秒
  中国は東シナ海を倭国の一部とでも思っていたらしい。詳しいことはわからないが、呉の孫権が「人間狩り」と称して一万ほどの軍をわざわざ派遣して壊滅的被害を植えたことは有名。『隋書』では琉球の官僚と人民を2000人も虐殺したことを誇らしげに書いている。そして、タイ国(九州王朝)の使者に対してその戦利品を見せていたが、これが白村江の戦や天武天皇の南西諸島政策と関係しているのかもしれない。
確実なことは中国より日本の方が東シナ海についてに関心が高く(だから薩摩藩の侵攻以前から琉球の公用語は漢字ではなく仮名だった)台湾についても南明のころまで「帰属未定」の地帯だった。だから、中国が東シナ海に熱狂的になったのはつい最近。そんな国が台湾問題(その一部として尖閣問題)をでっちあげているのは全く不賛成である。
なお、歴代シナ王朝の認識と今の問題は全く無関係。
 

質問させてください

 投稿者:飛鈴  投稿日:2010年 9月26日(日)01時03分41秒
  スイマセン、空気を読まずに質問させてください。
私、ほとほと困っております。

最近でこそ、中華人民共和国は「東シナ海は我が国の内海だ」みたいなコトを言ってますが、
支那歴代王朝の認識はどうだったのでしょうか?
確かどこかで、
「支那歴代王朝は東シナ海を悪魔の海と呼んでいて、積極的に進出したがらなかった」
という論旨の話を読んだ記憶があるのですが、悲しいかなGoogleで探してもソースが見つかりません。

実際の所はどうだったのか?「悪魔の海」の元ネタはどこから来たのか?
もしお分かりでしたらご教示ください。

突然来て勝手なコトを申し上げまして申し訳ありません。
あと、日本語がおかしかったら今の内に謝っておきます。
 

悪い癖やで

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 9月25日(土)23時32分59秒
  またぞろ煽るような物言いはヤメや。ヤメ。
せっかくうまく回っとるんやから、この流れに水を差したらアカン!!
 

再び知恵

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)23時07分13秒
   管理人さんは、知恵を出した。歴史の観察者さんからは出てこない。
出すだけの知恵がないのか、出す必要がないのか、さっぱりわからん。
 

RE知恵?

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月25日(土)22時43分54秒
  解法者さんへ

竹下さまへの返答が私の答えです。私の知恵ではありません・・みんなの知恵、国民の知恵です・・そう全員が「一歩後・二歩前進」この国民意識の統合が一番肝要かと、これに従わぬは切り捨てるぐらいの覚悟で・・。

大変に、大ヌル山の「平和憲法遵法者」みたいな愚論たいへん失礼いたしました。
 

竹下さまへ

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月25日(土)22時34分17秒
  竹下義朗さま

私はね、この一件で国民の中に国防意識がいくらか高まるかを予測してる。
考えが甘過ぎる、さらなる「負け犬根性」が高まり、さらに日本は斜陽化に向かうとの観測があるが、わたしは大和民族を信じてる、こんなことではヘコタレない・必ずに「何クソー!」の気概の念が、急速とはいわぬが序々に強まると見る。

今回は確かに屈辱だ、国家の尊厳が傷ついたは事実であろう・・だが、尖閣諸島が武力攻略に遭った訳でもない・・一種のシナのデモンストレーションに過ぎぬ・・将来(台湾・大陸吸収後)の本場での予行演習かもしれない・・。

今は「一歩後退・二歩前進」の心気概を持ち、与野党議員・官僚・産業界・自衛隊ともに、国防立直しのために頑張ればまだ時間余裕はある・・今はこの屈辱に耐え、反撃の力を蓄える・・情けないがこれしか手がないように思う・・過去の政権の大怠慢が招いたものと認識し・・前進的道筋もありと思うことも必要なのでは・・悲観論ばかりではさらに蟻地獄に落ちる・。

私は、日本国民に精神的一発のドヤシを貰った、いいきっかけでもあった。
それほど悪くは感じていない・・さあとなれば日本民族強いんだ・・。
 

RE:中国漁船の船長釈放に思う

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2010年 9月25日(土)21時27分32秒
  歴史の観察者さん

私の主宰するブログ「日臺一宇」に、私なりにその「方法」を披瀝しましたので、ご覧頂ければと思います。

http://taiwanx.exblog.jp/

 

知恵?

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)21時02分24秒
編集済
   歴史の観察者さん、まずあなたが提示すべきだ。
 「後出しジャンケンじゃダメだよ」
 

中国漁船の船長釈放に思う

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月25日(土)20時53分36秒
  「★・ニューヨーク 23日 ロイター伝、クリントン米国務長官は23日、沖縄・尖閣諸島付近の海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件について、地域に長期的な影響が及ぶ前に速やかに問題を解決するよう日中両国に要請した。」

「★・ニューヨーク 24日 ロイター伝、クローリー米国務次官補は24日、記者会見し、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で日本側が中国人船長を釈放したことに関し、「日本は正しい決定をした。事態が解決し、満足している」と述べ、歓迎の意向を明らかにした。」


いったいどうする方法があったかや?・・。
「とことん頑張れ! 目には目、歯には歯だ!」と叫んだところで、その頑張る方法も、目も歯もない・・なーにも無かった。

どうゆう方法があったかを、ただ「アカン!アカン!アカン!ゲス・カス・タワケ・売国!」だけではなく、真剣に皆が国民が知恵を出すべきでは?。
 

中国漁船の船長釈放に思う(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)18時44分4秒
   一方、政党だが、中国への布教しか頭にない「公明党」とこれまた親中の社民党は、いち早く釈放を歓迎したが、この政党には守るべき国益などという考えはまったくない。自民党 非難はしたが、政権党だったら、釈放を拒絶できたか大いに疑問である。谷垣総裁などはガチガチの迎中派である。
 「たちあがれ日本」に期待したが、「与謝野 馨」共同代表は今回の政府・検察庁の措置に賛成している(産経新聞 同上 5面)、一方、同じ共同代表の「平沼赳夫」はこれに反対している(同紙 同面)から、まったく政党の体をなさない。【立ち枯れ日本】と揶揄されているのも<むべなるかな>である。
 どこもかしこも中国! 中国! 中国だ! 今こそ健全な右翼政党の結成と躍進が望まれる時代はない。
 

中国漁船の船長釈放に思う(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)18時41分22秒
   不思議なことであるが、なぜこの度の中国の恫喝に対抗して中国人の入国および査証の制限をしないのか。日本にいる中国人は中国共産党の支配下にある。日本にいること自体が日本の<国益>に反する。どうせマスコミは何も言わないだろうから、我々はインタ−ネットなどを通じて、政府・政党・経済界・マスコミなどと名指して指弾すべきだ。今やネットの力は大きい。吼えるだけ無駄というものではない。
 それと中国からの観光客が減少する? 何を言ってんだか。旅行界のために日本が存在しているのではない。旅行会社 つぶれたってどっていうことはない。そもそも中国からの観光客 歓迎すべき存在なのか。
 逆に、政府は何で日本人観光客の中国渡航を制限・警告しない。中国が河北省石家荘市で日本人4人を軍事施設に入ったとして逮捕したが、こんなのいつでも起こり得る。また、反日を煽る者が跋扈している。常に危険性を国民に周知しておく必要がある。これを怠っている政府は国民の生命を守る義務を果たしているのか。
 

強権発動を願う

 投稿者:絵夢  投稿日:2010年 9月25日(土)18時33分9秒
  いい加減、ビデオを公開して欲しいものだ。

事件発生当時は「馬鹿なことしてやがる」と船長どもを罵っていた中国人が
今じゃ「略奪者どもがぶっ殺すぞ」と恫喝に変わっている。
それが単なる飲み屋のけんかならまだいいが、
いろんな国の人間が集まっている作業現場で起こっている。
一触即発の状態になっている所も発生している。

他国巻き込んででも中国を非難すべきではないか。
他国が非難したという報道は見たことも聞いたこともない。
 

中国漁船の船長釈放に思う(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)16時21分13秒
   これが日本国内で、密漁船が海上保安庁の巡視船に同じような危害を加えたら、船長は処分保留で釈放されるか。そんなことはなかろう。起訴は間違いない。密漁船はこれからは<法の均衡>を主張したらよい。
 それと何で、海上保安庁は中国漁船の狼藉ぶりを撮影したビデオを公開しなかったのであろう。海上保安庁は公開するつもりだったが、官邸の差し金により7日に葬り去られたのである(読売新聞 同上
39面)。釈放は最初からの方針だったのは間違いない。公開することにより、事実を隠蔽できなくなって、国民の怒りが沸騰することを恐れたのである。
 しかし、馬鹿だね! まったく国際政治というものを知らない。こういう馬鹿に外交を任せているから、いつまで経っても日本は国際社会に打って出れないのだ。官邸? 「仙石由人」官房長官に決まっているだろ。それと海上保安庁を統括する「国土交通省」も同罪だ。大臣の「馬渕澄夫」も沈黙している。ビデオが公開されたら、中国漁船の無法ブリが国際社会に明らかとなって、中国の対応も変わってきただろうに。<先手必勝>という格言すら知らない。
 

中国漁船の船長釈放に思う(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)16時08分36秒
   どうしてこのような結果になったかというと、説明するまでもないが、民主党に媚中派という者が跋扈していたからである。「小沢一郎」民主党幹事長(当時)が大量の議員を引き連れて中国詣でをしたり、「小沢一郎」の圧力で天皇陛下がこれまでの慣行を破る形で中国副主席に会見した。こうしたことを受けて「鳩山由紀夫」首相(当時)が、東シナ海を<友愛の海>にしようと提案したからである。その遠因は自民党にあり、靖国神社を参拝しなければ日中関係は確固たるものになるという思想にはまってしまったからである。これを推進したのが経済界であるのはつとに知られる事実である。
 この度の中国の対応を見ていると、これらが<何の役にも立たな
い>ということが暴露されたのである。こういう者どもを【馬鹿の極み】というが、特に経済界の面々は指弾されてよい。今になって中国の攻勢で危機に瀕しているというが、何をやってもこういう状態になるのを読み通せなかった無知蒙昧さには同情はしない。国民は怒りの先を経済界にも向けるべきだ。
 とにかく、彼らには中国と付き合っていくことについての認識を欠いている。リ−マンショックとやらで、経済界は中国に活路を見出したが、そもそも体制がまったく異なる中国と政治的対立が起きれば、このような結果になるということを認識しなかったのか。批判されるべきは中国に依存している経済界である。これを機会に中国依存から脱却することを望むが、これは実現可能だろう。政治と比べて足が速いからである。また、経済界もレアア−スを含む中国一辺倒を放置してきた政府に批判の目を向けるべきだ。マスコミも同じだ。
 

犬と中国人は入る可からず

 投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2010年 9月25日(土)15時11分31秒
  今回、支那(中華人民共和国)が取った態度及び措置に対し、一日本国民として抗議の意を表する為に、以下のバナーを制作した。これは、ご存じの方もあろうかと思うが、嘗て上海の列強租界に建てられていたと言う彼(か)の有名な立て札

狗与華人不准入内
No Dogs and Chinese allowed
(犬と中国人は入る可からず)

をもじったものである。


◆文字のみ(453×83ピクセル Download) ◆抗議表明文入り(453×188ピクセル Download


尚、バナーの公開に伴い、私と同じく支那の横暴に憤慨している日本国民有志に対し、自由に使用・頒布する事を許可する。
 

たちあがれ日本?

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)12時45分10秒
  与謝野馨が、今回の政府・検察庁の対応を是認してるんだから、政党の体を
ないてないよ! どなたかが、「立ち枯れ日本」と揶揄していたが、そのとおり
だ。大体からコイツを加えたところに「たちあがれ日本」の行く末が案じられ、
今回そのとおりになったのである。
 

中国漁船の船長釈放に思う(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)12時26分31秒
   今回の検察庁の対応を見てみると、那覇地方検察庁の「鈴木 亨」次席検事が『日中関係への配慮』と釈放の理由を述べている。マスコミはこれを検察庁の政治判断だと言うが(産経新聞〔平成22年「2010年」9月25日[土] 朝刊 東京15版 1面〕)、これは政府およびそれに従った最高検察庁への<当てこすり>と見るべきである。つまり、【政府から釈放の要請がありましたよ】ということを言明しているとみるべきだ。なぜなら、@ 「菅 直人」首相が『超法規的措置』は取れないのかと22日に発言していること(読売新聞〔平成22年「2010年」9月25日[土] 朝刊 東京14版 1面〕)、A 最高検察庁が9月24日(金)の午前10時に、担当検察庁の那覇検察庁の検事正と上級検察庁の福岡検察庁の次席検事を呼んで、本件について検討したときに、両名とも「起訴相当」の意見を主張している(朝日新聞〔平成22年「2010年」9月25日[土] 朝刊 東京14版 2面〕、これに対し、最高検察庁は、処分保留(事実上の「不起訴」)を主張して、これが決定した(毎日新聞〔平成22年「2010年」9月25日[土] 朝刊 東京14版 1面〕)、B 検察庁幹部は7日、海上保安庁、外務省、法務省、水産庁の幹部が集まって協議した会議のときでの発言で「中国漁船の船長が故意に海上保安庁の巡視船にぶつかったことは明らか」と言っていた(読売新聞 同上 3面)〔だから、10日の勾留延長を選択した〕にもかかわらず、24日の那覇地方検察庁の発表では「巡視船の乗務員が怪我をすることもなく、追跡を逃れるためのとっさの行為と認められる」という180度異なる説明をしている(読売新聞 同上 3面)、C 勾留延長(10日の再延長)の途中で被疑者を釈放することはまずない、からである。言うまでもない、首相→官房長官→法務大臣→検事総長と早期に決着を付けたいという政府からの強要があったからである。
 検察庁は、小沢不起訴、村西厚子無罪・証拠改竄と重ねて失点してきた。威信を取り戻す絶好の機会だったが、みすみす失うことになった。最高検察庁の幹部はさぞかし歯軋りしていることであろう。検察庁はこれで再び国民からの信頼を失った。威信を失うのは早く、取り戻すのは長い。図らずも検察庁が【政治的中立】を有するなどと言うことがいかに<絵空事>であるかを天下に明らかにしたということだ。法の要がこのようなことでは法治国家の行く末が案じられるが、検察庁と言えども官僚の集まりで、上命下服の組織に過ぎないから、致し方なかろう。
 

尊皇攘管

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年 9月25日(土)09時07分25秒
  大日本帝国復活のため、売国奴「管直人」を追放せよ。皇国臣民は速やかにクーデターを起こし、(とくに皇国の復活を目指すたちあがれ日本)日本国憲法の無効を高らかに宣言せよ。  

(無題)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年 9月25日(土)09時04分20秒
  たちあがれ日本が抗議の声明
http://www.tachiagare.jp/pdf/newsrelease_100924_2.pdf
 

管首相への提案A尖閣を台湾と二分しろ!

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月25日(土)08時58分5秒
  どうしても売国をしなければ気が済まない管首相だが、どうせ国を売るなら中国ではなく台湾にしろ。尖閣の南は台湾、北は日本にすればよい。中国は尖閣を台湾の一部と言っているのだから、日本はその揚げ足を取ればよい。
管首相は辞職しろ。
 

船長を釈放やと?

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 9月25日(土)07時45分56秒
  なんやねん。あの幕引きは!!
いくらなんでもひど過ぎるやろ?
政治のトーシロ集団の民主党政権を叩き潰せ!!
倒幕や!!
 

目くじら立てることもない

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)03時47分48秒
  >古代の船とカッターの類のボートの速度比較なんぞ無意味な事じゃ。
いい大人がそったら議論してどないするねん<

 確かに、瑣末といえばそうかも知れないが、ネットでこのようなことに
話題が集中することは日常だ。
 それと投稿者としては、知識が深まる。読者も同じように感じる者も
いよう。取り立てて目くじら立てることもない
 

中国漁船の船長釈放に思う(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)03時43分17秒
   やっぱし! ここに参加される方ならこの結末は予想できたことだろう。土下座外交を繰り返す民主党では検察に圧力をかけて釈放を強要したのは間違いない。仙石官房長官が否定するが、誰〜も信じる者などいない。
 この間、マスコミはこの事件から日本の経済への影響を心配していたが、中国に依存する経済界こそ非難されるべきであって、経済よりも守らなければならない<国益>というものがある。このことがスッポリと抜け落ちている。日本のすべてが<溶けている>のである。
 また、今度の釈放は恫喝すれば日本などどうにでもなるという自信を中国に与えたことが最大の失策であったが、属国を招来する民主党に言ってもむなしい。
 この件について思うことがある。先日の「中国の領土的野心」についての論争だが、名指して指弾しておこう。八神封建さん、あなたは中国など>張子の虎<といったが、張子の虎は日本ではないのか! それとあなたが主張する中国の尖閣諸島への領土的野心は存在しないのか。最近、ここでもあなたに対する批判が踊っている。>知識を欠いている< まったくそのとおりだ。批判されて当然だ。
 

Re:カッター

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月24日(金)23時14分5秒
   確かに、カッターはオールが重過ぎて、長距離を漕ぐのには不向き過ぎますが、カッターを紹介したカッターもので…。削除してもいいです。  

ハルさんに代わって、

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月24日(金)22時52分10秒
  はるがお答えします。
 舌の根の乾かぬうちに見っとも無くも投稿した理由を察して頂ければ幸いと思いますが、伝わって欲しい方には多分伝わっていると思いますので充分です。
 しかし、あの方とか、さる方とか失礼ですよ。八神さんも少し感情的になった所は確かに有るでしょうが、解法者さんに反論されることがどれだけプレッシャーになるか想像してみてください。私なんぞ、常にどんな罵声を浴びせられるかとドキドキしながらこのサイトを覗いているんですよ…、これでも。
 ただでさえ投稿数が少ない上に(失礼)、以前は折角の連載にも全く反応が無くて去って行ったオロモルフさんという方もいらっしゃいましたし。知識がどうのと、あまり投稿のハードルを上げない方が私はいいと考えています。ちょっとした疑問や不審点を率直にぶつけているだけで、納得できないことは勿論撤回しませんが、納得すれば、むしろ節操無く前言を翻している方だと思いますが…。
 百%の勝ちを目指し過ぎない方がいいというのも、止めを刺して相手の面子を潰せば、その方は二度と投稿をしなくなってしまうと思うからです。よっぽど知識に自身のある方か、厚顔無恥のはるみたいな者しか残らなくなってしまうでしょう?
 では、今後とも空気が読めていない時には御指摘を頂きたいと思います。
 

RE:「大日本帝国」は韓国へ次の要求をせよ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月24日(金)20時26分52秒
   そのとおりですね。特に日本の残した財産をただで取っておきながら、賠償の
請求とは人倫に外れてます。
 

(無題)

 投稿者:ちりとてちん  投稿日:2010年 9月24日(金)17時30分45秒
  船の話題もええけど、今旬やったら尖閣の件やろ。
ちゃんころの奴ら人の足元見てレアアースの禁輸なんぞしよってからに。
日本もなんぞ対抗措置を考えんといかんな。
 

カッター

 投稿者:黒木豹介  投稿日:2010年 9月24日(金)15時55分42秒
  ワシ、水産高校でカッター部員やったけんよく分かるが
古代の船とカッターの類のボートの速度比較なんぞ無意味な事じゃ。
いい大人がそったら議論してどないするねん。
 

古代航海の目的

 投稿者:無学人  投稿日:2010年 9月24日(金)15時53分57秒
  日本から大陸に向けて航海した目的を検討して
見ることも考えを深める事につながると思います。
つまり同じ場所に着きたかったのか別の場所に

着いて新しい文物や経験を得たかったのかという事。
別の場所を目指す場合には日本海を横断して広い
範囲の大陸海岸がたどり着くべき場所と成ります。

上陸を果たした後で南下して対馬海峡から日本
に戻る。商売的、旅人的には目的地に直行して
成果を得たら慣れ親しんだ帰路を選んで戻る。

対馬海峡から大陸に渡って危険な陸路を北上
する商売人や旅人が極少数だとしても理解できます。
遣隋使や遣唐使でさえ陸路を避けて海路を多く

選んでいますからね。日本海を横断して大陸に
渡り南下して対馬海峡から日本に戻る。左周りの
さすらい集団が居たとしても不思議は無い。

役に立つ種族は仲間として迎えたでしょうから
朝鮮人とか倭人とかの意識は低かったと思います。
倭寇の構成人種は多種類であったと言われています

から人種的意識ではなくて日本海左回り種族と
言える集団が対馬海峡を通過していたと想えるのです。
想像をたくましくすれば倭という言葉はこのような

種族を指していたのでは無いのか?なので明確な
倭の都という表現が見当たらないのでは無いのか?
半島の戦乱により倭が日本に留まる事が多くなり

定住して日本国の基を構成したのでは無いのか?
 

実験歴史学

 投稿者:無学人  投稿日:2010年 9月24日(金)15時15分20秒
  1986年に実験歴史学を提唱した人が居たのですね。
コンチキ号航海よりは後だとは思うけど有意義です。
http://www.nara-u.ac.jp/hist/d.html

ボートによる対馬海峡横断は良き課題でしょうね。
それにたのしい。
海上自衛隊が参加するとなれば対抗意識から韓国

海軍も進んで参加するでしょうね。テレビの話題に
もちょうど良い。毎年の一年一度の対抗戦。
 

倭はどこにあったのか(19)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月24日(金)13時09分8秒
   ここで注目すべき事実がある。『三国史記』の「新羅本紀」を精査すると、「倭」と「伽耶」の記事の顕著な違いが見られる。「倭」に関する記事は前記でも明かにしたが、新羅と倭に関する記事は始祖「赫居世居西干」8年(BC50年)から第21代「照知麻立干」22年(500年)まで間断なく続いて、その後は途絶えているのに対し、新羅と加耶に関する記事は解脱王21年〔77年〕第4代「脱解尼師今」21年から第11代「助賁尼師今」7年(236年)まで続き、その後260年も空白があって、再び第23代「法興王」9年(522年)から加耶の滅亡の第24代「真興王」23年(562年)まで続いている。
 一方『三国遺事』の卷二−紀異第二には「駕洛国記」があり、始祖「首露王」が42年に建国してから「仇衡王」の532年(『三国史記』とは異なる)に滅亡するまで490年続いたとされている。
 この『三国史記』での空白の260年は、一体何を意味するのであろうか。それは「伽耶」(「加耶」とも「駕洛」ともいう)はこの間、ここにいた「倭」の支配下にあったと考えられる。つまり、236年ころまでは「倭」と並存していたが、その後は「倭」の支配下に入り、500年ころからの「倭」の衰退に従って再び「伽耶」が盛り返したが、それも次第に「新羅」に圧迫され滅亡を迎えたと考えられよう。だから、空白の期間があるのである。
 

あの方のこと

 投稿者:アマノジャク  投稿日:2010年 9月24日(金)12時42分12秒
  ハルさんがさる方のことを言っておられましたので、過去ログを探ってみました。

<「おれさま正しい」でやりたければ、以前も申し上げましたが、ご自分でホームページや掲示板を立ち上げられればよろしい。そこまで自己の正義を主張されたいなら、落葉さんのところや、ここのような人さまのホームページで記事をまとめてもらったり、他者運営の掲示板に間借りし続けるようなことはなさらないほうが、ご自身の精神衛生上もよろしいかと存じます。>

 でも、投稿される方は少なからず「おれさま正しい」でやっておられますよね。解法者さんに限らず、ハルさんだって、なかなか自説を撤回しませんし、歴史の観察者・日野さまだって同じです。「おれさま正しい」でなければ投稿なんかできないと思います。私がまとまったことを投稿できないのも。「おれさま正しい」という知識と自信がないからです。
 それと「おれさま正しい」を貫けるこそ反論もされ、議論が深まるのではないでしょうか。限度がある? そんなことを言っちゃ始まりませんよ。行司役はあくまで管理人さんで、まかせればいいのです。
 それと自分でプログをたちあげろ。他の掲示板で吼えていろと。自分を何様だと思っているのでしょうね。プログを立ち上げ方も知らない、また勇気もない、暇もない、という方もおられましょうに。
 <「私は正しい」という思い込みを強く持つ生き方は、たとえれば「頭に角を生やして生きていること」です。いいかえれば「鬼」だということです。「人」の社会で生きるのに、「鬼」ではさぞや生き辛かろうと察します。>に至っては何でしょうね。余計なお世話でしょう。まぁ、傲慢不遜としか思えません。
 それとハルさんはいやにこの方の肩を持ちますね・・・・。私は柏崎さんと同じように感じてますが。これは余計なお世話かな?

 最後に、知識がないから投稿しないと言って、舌・・・のうちに投稿するのはみっともないですが・・・
 私が指摘したのは、解法者さんの<朝鮮人は来なかった>についてで、ハルさんが一般的に知識がないとは言ってません。知識など必要ないと開きななおって叩かれるのを覚悟で、投稿を続けるのもOK!でしょう。ただ、知識の不足(読者それぞれが判断する)は叩かれて当然です。
 

私も期待するが

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月23日(木)19時49分49秒
  >韓国海軍と海上自衛隊が同時に漕ぎ出して現実の経験を得る。現代人と古代人
の体力を補正して昔の状況を推察する。学問的にはこういう方法を取るのも一案
だと思います。<

 大変面白い提案で大賛成ですが、果たして韓国がこれに応じるかでしょう。
韓国では日本に文化を伝えてやったことを強調するために、これまで釜山など
から日本に帆船(「朝鮮通信使」の派遣を復活)を航海させたことがあるよう
です。これに賛同したのは在日韓国人や拝韓派の日本人ですが、逆に日本から
韓国への航海はないようです。
 古代の舟についても韓国からというのは聞いたことがありますが、これも
その逆はないようです。誰か聞いたことがあるなら、情報をお願いします。
あれば、これまでの論争も決着すると思います。なければ、想定しかありま
せんね。
 

古代の舟

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月23日(木)15時11分46秒
   無知ゆえの厚顔無恥でして、懲りずに投稿してみました。今日も雨で…。
 古代の舟を想像すると、このタイプ(http://www.mahorobapq.com/hpgen/HPB/entries/99.html)だったので、絶対に無理だと思ったのですが…。
 ちなみに、長崎ペーロン選手権(http://www.at-nagasaki.jp/nitca/peron/)というのがあり、これに使用される“ペーロン舟”は、長さ45尺(13m636o)に26名の漕手が縦二列に乗り込みます。レースは、往路630m、復路520mの計1150mを競漕し、社会人チームの優勝タイムが約5分弱(http://www.at-nagasaki.jp/nitca/peron/qu/2010_kiroku.pdf)とのこと。折り返さずに直進すれば、タイムは縮むでしょうが、このタイプでは26名が漕いでも時速15qを維持できるのは、5+数分でしょう。仮に外洋に適するように強度を上げれば、もっと速力は落ちるでしょう。
 しかし、解法者さんは湖の手漕ぎボートを大きくしたタイプだと言われました。とすればフィックスやカッター(http://cutterjapan.com/)の20人乗りのような舟となりますが、そうであれば、やってみなければ何とも言えません。果たして、古代の日本にそのような漕ぎ方の舟が本当に有ったのか?と疑問に思うのですが、有りました。
 参考、国崎二船祭り(http://wadaphoto.jp/maturi/nifune4.htm
 この写真の様なオールで、20人で漕いで、どれほどの速力が出るのかは疑問ですが、可能性が無いとは申しません。
 ちなみに、カッターは安全重視で設計され、転覆しても浸水しても沈まない救命艇のような構造なので、重た過ぎて速力は出ませんが、12人乗りとは言え、試しに実験してみたら本当に面白いだろうなと思います。
 

管首相への提案@台湾に条約破りを謝罪せよ!

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月23日(木)12時05分59秒
  拝啓 帝国電網省の皆様御中…いえ、管首相個人に対して
管首相は今の日本の最大の罪を知っておられるでしょうか?韓国併合ではございません。南京大虐殺さえも事実としたところで(最も事実だと思っておられるのは管首相だけかもしれません)大した罪ではありません。戦争にはつきものです。
私が問題にするのは、戦時中の事ではなく、平時に行われた罪です。はっきり言うと、「日中基本条約」の制定です。このとき、我が国は一方的に「日華基本条約」を放棄しました。戦争でもないのに、勝手に条約を放棄するのは言語道断です。よく、台湾が宣戦布告を我慢したものか、不思議なぐらいひどいことをしたのです。なのに、なぜ管首相は「日韓友好」は挙げて「日華友好」または「日台友好」は無視するのでしょうか。
これが平時のことなら何ともいいません。しかし、今の皇国を見たらよい。管首相の国の一部が台湾と香○(アジアの某国の特別行政区です)に犯されております。私がなぜこのようなことをいったか、総理大臣にはわかるはずです。
某国が親日の某国に武器を輸出した時点で管首相は気付くべきだったのです。もはや時すでに遅し、2012年人類滅亡の予言も嘘ではないかもしれません。早く台湾に謝罪したうえで…これ以上言うと某国がうるさいので黙っておきましょう。
 

「大日本帝国」は韓国へ次の要求をせよ

 投稿者:日野語句運動家  投稿日:2010年 9月23日(木)10時05分37秒
  大韓民国に対し、大日本帝国総理大臣たる管直人より以下の要求をする。
@親日反民族行為者財産帰属特別法(通称親日弾圧法)の取り下げ。
A竹島より撤兵。…>注・返還ではありません、侵略者に対する侵略軍の撤兵を要求するのです。
B日韓基本条約に基づきこれまで日本が韓国に払った賠償金の返還。
 

倭はどこにあったのか(18)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月23日(木)09時59分7秒
   『三国史記』において「倭国」が出現するのは、第8代「阿達羅尼師今」同11年(122年)である。『倭国の女王卑彌呼が使臣を遣わして修好した』と記している。同じ5年(157年)に『倭人が修好のためにやって来た。』とあるが、このころには「倭」をまとまった国と認識していたのではなかろうか。その後、「倭人」、「倭兵」とあるが、たびたび<修好>として国と国の関係を記していることからもそうしたことがうかがえる。なお、「新羅本紀」では「倭」、「倭人」、「倭国」と用語がまちまちであるが、「百済本紀」、「提上記」(『三国史記』卷第四十五−列伝第五)では「倭人」、「倭国」が同一記事に混在する例があり、これらを「倭」という同一実体を指すものとして考えているから、強いて区別する必要はない(「『三国史記』にみえる「倭」関係記事について」〔『歴史公論』8−4 雄山閣出版 1974年〕、「朝鮮三国と倭」〔『古代を考える 日本と朝鮮』木村 誠 吉川弘文館 2005年1月1日 96頁〕)。
 前述の「倭」の朝鮮半島南部への侵攻など伝承に過ぎず信じるに値しないという者がいる。その代表的なものは、新羅王権史は第17代「奈勿尼師今」(356年即位)から始まるとし、それ以前は伝説的世界である(『古代の日朝関係』山尾幸久 塙書房〔塙選書 93〕1989年4月10日 281頁)というのである。こういう者の主張は『日本書紀』・『古事記』の史実性への疑問にもつながっていく。しかし、伝承というものは簡単に<造作>できるものではない(このことは「神功皇后」の項で詳しく説明する)。「倭」の侵略は朝鮮半島南部、特に「新羅」の人々にとっては恐怖として長い間語り継がれて来たものであろう。『三国史記』新羅本紀によると、「倭」については、「倭」、「倭国」、「倭人」、「倭兵」の用語が使用されている。これは『三国史記』の編者が異なった史料を見ていたのではないかと考えられる(『任那日本府と倭』井上秀雄 東出版 1973年1月16日 159頁、『倭王権の時代』吉田 晶 新日本出版社〔新日本新書 490〕1998年9月30日 29頁)。そして、『三国史記』新羅本紀での「新羅」と「倭」との戦闘記録の35のうち、「新羅」が勝利したものは11、敗退したものは5ある(「吉田 晶」−前掲書 同頁)。「新羅」が敗退したものまでを載せるということは、新羅中心主義史観で編纂した『三国史記』の編者にしておそらくその記事に信憑性を感じたからであろう。こうしたことからも『三国史記』新羅本紀の対「倭」記事が<造作>とは到底考え難い。
 

手漕ぎボート

 投稿者:無学人  投稿日:2010年 9月23日(木)09時26分28秒
  見物していて思うのは実際に手漕ぎボートで
渡れば昔はどうだったかいくらかは想像でき
ますよね。20人乗りで実行して見れば良いと思う。

たのしい話題になると思うのですよねえ〜
まぁ海峡の強い海流の影響がどのくらいとか体力
がどこまで続くか興味が沸きます。

韓国海軍と海上自衛隊が同時に漕ぎ出して現実の
経験を得る。現代人と古代人の体力を補正して昔
の状況を推察する。学問的にはこういう方法を取る

のも一案だと思います。ボート競技から直接の推測
は無理が在るだろうと考えます。実験室と現場は違う。
 

失礼しました。

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月22日(水)22時17分17秒
  揚げ足取りと思われていたとは、不徳のいたすところでした。
気を付けます。
知識が無ければ投稿できないとなれば、以後控えることにします。
 

はて?

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月22日(水)22時07分30秒
  >よくわかる。エイトでは比較もできない。<
 さっぱり分からない。
 重たい木製で固定シートの漕手6人が上半身のみで漕ぐフィックスが、軽いFRP製でスライドシート式の8人が全身を使って漕ぐエイトよりも、速く楽に漕げるという意味でしょうか?
 ・エイトの例、東レ滋賀ボート部(http://www.toray.co.jp/boat/
 ・フィックスの例、琵琶湖周航の青春(http://kyoto-np.jp/sports/article/20100718000107
 

投稿は気楽に、批判は慎重に

 投稿者:アマノジャク  投稿日:2010年 9月22日(水)20時52分5秒
   解法者さんの>朝鮮人は来なかった<について、ハルさんから反論がなされましたが、
外野から見ていると揚足取りに始終し、あまり気分のよいものではありませんでした。
特に提議(結論)部分は、思いつきの感がいなめず失望しました。
 この間、知識が必要だとの投稿がありましが、私も同意見です。知識なく思い付きでは
見る人を失望させます。
 それと100%の勝ちを求めて何が悪いのでしょうか。事実は論争から生まれます。
ときにはエキサトイトすることがあるでしょうが、事実は戦いの中から生まれてくる
というのもあるというのも真実を突いていると思います。
 掲示板が荒れるという指摘もあるでしょうが、それを警告することによりかえって
論争に水をさしてしまうことがあるのです。
 荒れているかどうかは管理人さんに委ねて、外野からは口を出すべきではないと考え
ます。連続投稿の判断についても同じでしょう。
 

早すぎることはない

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月22日(水)19時47分7秒
   わが高校時代は、ボ−トはフィックスというのが一般的だった。
私も漕いだことがある。当時は本荘高校(秋田県)と長浜高校(滋賀県)がライバル
だった。高校三年生の時は、全国3位だった。
  簡単に言えば、今のよく湖で皆さんが利用する手漕ぎのボ−トを大きくしたもの
と考えてよい。したがって、古代の船もこの形で、大きさが違うだけと考えてよい。
よくわかる。エイトでは比較もできない。
 6人乗りで時速15キロくらい。

 はるサンよ! 俺だってだてに投稿しているんじゃないぜ!
 

倭はどこにあったのか(16)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月22日(水)13時32分4秒
   『三国史記』の記述から大規模の「倭」の進攻を再び挙げてみたい。
1.第2代「南解次次雄」11年(14年)
  『倭人たちが兵船百余隻を繰り出して海辺に侵入し、民家を略奪したので、王は六部
 の精兵を動員してこれを防いだ』
2.第11代「助賁尼師今」3年(232年)
  『倭人が俄かに攻めて来て金城(王城)を取り囲んだので、王は親ら出て戦うと、賊
 は敗れて逃げていった。(そこで)軽騎を遣わして賊を追撃し、一千余級を殺戮した』
  同4年(233年)
3.第12代「沾解尼師今」4年(249年)
  『倭人が舒弗邯(最高官)の于老(太子)を殺した』
4.第14代「儒禮尼師今」4年(287年)
  『倭人が一礼部(郡)を襲い火をつけて焼き払い、一千名を生け捕りにして連れてい
 った』
5.第16代「訖解尼師今」37年(346年)
  『倭兵が突然風島にやってきて辺戸(国境近くの民家)を掠奪し、また進んで金城(王
 城)を取り囲み急に攻めてきた』
6.第18代「實聖尼師今」4年(405年)
  『倭兵がやって来て明活城(慶州の東)を攻めたが勝てずに退くと、王は騎兵を率い
 て独山の南でこれを要撃し、二度戦って破り三百余級を殺戮した』
  同6年(407年)
  『倭人が東辺を侵し、6月にもまた南辺を侵して百人を掠奪した』
7.第19代「訥詆麻立干」28年(444年)
  『倭兵が金城(王城)を取り囲むこと十余日、食糧が尽きて帰っていった』
8.第20代「慈悲麻立干」2年(459年)
  『倭人が兵船百余隻を率いて東辺を侵し、進んで月城(半月城−王城)を取り囲み、
 四方から矢と弓を雨のように浴びせ掛けた』
  同5年(462年)
  『倭人が活開城を襲って破り、一千名を捕まえて連れ去った』
  『倭人が東の辺境を侵したので、王は将軍の徳智に命じてこれを撃って破り、二百余
 人を殺しあるいは生け捕りにした』
  同20年(477年)
  『倭人が兵を挙げ五道に分かれて攻め込んできた。だが何の功を収めることなく帰っ
 て行った』
9.第21代「照知麻立干」22年(500年)
  『倭人が長峯城(慶州の東)を攻め落とした』
 

倭はどこにあったのか(17)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月22日(水)13時30分48秒
   これは当時の兵団の規模からいってもはや「海賊」というものではない。背景には「国」というものがあったと考えられる。しかも、「兵船」による侵攻ではなく「陸路」を経由して攻め入ったと考えられるものも現れている。侵攻は頻繁に行われており、「王城」まで囲まれ、最高官でもある太子まで殺されている。これらのことを見ても、やはり攻め入ったのは「大軍団」で朝鮮半島南部に「倭」の拠点があったと考えざるを得ない。加えて前記のとおり舟による頻繁な通行は規模においても危険度においても考え難い。
 このことは、先の『三国志』東夷伝 弁辰条に「国に鉄を出し、韓・濊・倭みな従って之を取る。諸市は買うに皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」、また『後漢書』東夷伝 辰韓条に「国に鉄を出し、韓・濊・倭みな従って之を市〔あきない〕す」と記している。これは「倭」がわざわざ日本本土からやって来て「鉄」を商い、鉄貨を日本本土で用いたというのではなく、その近接地において商い、鉄貨を使用したと解するのが自然である。「倭」が朝鮮半島に進出し、そこで集団移住していたのは、この鉄と先進文物の享受である。
 このことは、前述のとおり朝鮮半島の古墳から「倭」の文物が出土していることからもわかる(『加耶と倭』朴 天秀 講談社〔講談社選書メチェ 398〕 2007年10月10日、「朝鮮の墳墓と日本の古墳文化」吉井秀夫〔『倭国と東アジア[日本の時代史 2]』吉川弘文館 2002年7月10日 178頁〕、「加耶成立前後の諸問題」申 敬〔『伽耶と東アジア』新人物往来社 1993年11月15日 115頁〕、「倭と伽耶の文物交流」柳田康雄〔『伽耶はなぜほろんだか(増補改訂版)』大和書房 1998年3月20日 115頁〕。そこでは主に朝鮮南部に「筒型銅器」などがあるが、これらの物は4世紀の物だと言われ、日本の近畿地方にも同様な物が分布している。いずれも前方後円墳の出現前後でないかとされている(「申 敬」の前掲書 146頁)。もちろん、5・6世紀の物もある(仿製鏡など−吉井秀夫の前掲書 181頁)。4世紀までのものは27古墳から、5世紀のものは14古墳、6・7世紀のものは2古墳、そのほか年代不詳のものは13古墳から出土している(柳田康雄の前掲書 120頁)。その他にも「前方後円墳」がソウル近辺から慶州、全羅南道、南海岸に分布している(「古墳文化期における日韓交渉」小田富士雄〔『伽耶と東アジア』新人物往来社 1993年11月15日 97頁〕)。なお、当初は「前方後円墳」が朝鮮発だと言われてきたが(「姜 仁求」〔「韓国の前方後円墳の真偽」[『韓国の前方後円墳−松鶴洞1号墳問題について』森 浩一 社会思想社 1984年10月30日 183頁]〕)、今では完全に否定されている(朴 天秀の前掲書 13頁)。
 

辰韓と弁韓

 投稿者:日野語句運動家  投稿日:2010年 9月22日(水)09時58分0秒
   李 鍾恒や沈 仁安の本の解説を書いている古田武彦の説については既に述べたが、この説で注目すべきところは「朝鮮半島はもともと倭国で、そこへ韓国人が侵略してきた」とする説である。李 鍾恒は九州や近畿に朝鮮民族が王朝を作ったとあるが、それはありえない。
 つぎに解法者しの論考について。
>ここで重要なのは「辰韓」=「新羅」でないことである(前掲書 同頁)。「慶州」にある「新羅」と「阿珍浦」(「浦項市」)の間には「音汁伐国」があり(第5代王「婆娑尼師今」23年〔102年〕条)、「阿珍浦」も「音汁伐国」が支配していたと思われる。<
 この部分は確かに事実である。しかし、辰韓が海岸に接していたこともまた確実である。『三国史記』には辰韓の歴史が新羅の歴史に盗用されていると思われるが、かといって倭国が辰韓東部を支配していた形跡はない。任那も狗邪韓国も弁韓であって辰韓ではない。したがって「倭国は日本列島と朝鮮南海岸部にあった」と結論せざるをえない。
 

速過ぎる

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月21日(火)14時08分37秒
  >それでは、この時代の舟はどのくらいの速度が出たのであろうか。舟の大きさを全長12メ−トル、漕手20人として、8ノット(1時間に15,000メ−トル)、1日8時間漕ぐとして120キロ、ちょうど博多と釜山の距離の半分であるから、2日もあれば行き、休みなく漕げば1日で行ける。対馬からなら半日(1日8時間漕ぐ)で到着しただろう。<
 かつては、防大に負けたことの無いボート部員でした。
 レガッタと呼ばれるボート競技のエイト種目の二千mのタイムは、静水で6〜7分ですから、早くても一時間に二万mです。しかも流線型の軽い艇体でも、二千mのゴールとともに倒れ込むほど力漕するのですから、時速二万mは有り得ません。
 なのに、漕手が20人とはいえ、波風の影響の強い海上で、休み無く漕いで“1時間に15,000メ−トル”は、うーむ、無理。艇体やオールが特殊なのか潮流に乗ったのか、現代人がヤワなのか、興味深いです。
 

割り込み御免

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月21日(火)13時19分6秒
   九月に入り、稲刈りの最盛期で心身ともにキツク、しばらくROMに徹しています(今日は天気が悪いので)。今年も豊作ですので、日本人なら米を食いましょうね(外国人も)。最近は、読み慣れない漢字が多くてついて行けそうにありませんが、後でじっくり読みたいと思います。

9月12日投稿の柏崎さんへ
>やはり知識は必要でしょう。前にどなたかが、中国の領土的野心で、中越戦争や南沙諸島のことを知らなかったのは致命的でしたね。この方が中国のことを論ずるのは無理だと感じました。<
 この方というのは、八神封建さんのことだと思いますが、少々誤解があるようなので指摘させていただきます。八神さんは決して、中越戦争や南沙諸島のことを知らなかったわけではないと思います。当初は、経済的な利益が続く限り、領土的な野心のみで対外戦争に打って出ることはしないだろうと言っていただけなのに対し、反論があり、徐々にエスカレートして、解法者さんが、「経済破綻して民衆の怒りや混乱の矛先を海外に向けるのは過去の歴史に例がある」と言うので、説明を求めたところ、先の二例を示されたわけです。
 しかし、この二例は、中共の領土的野心を現すものであっても、経済破綻の結果もたらされた戦争ではないと考えますがいかがでしょうか? もう一度過去ログをじっくりと読んで誤解を解いていただきたいと思います。
 投稿は気楽に、批判は慎重に。
 

倭はどこにあったのか(14)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月21日(火)12時57分10秒
   もう少し、古代の航海のことを検証してみよう。史料は『古代日本の軍事航海史』(上巻)・(中卷)松枝正根 かや書房)である。筆者の「松枝正根」氏は防衛大学を卒業後、艦船の航海長を勤められた。
 縄文時代、弥生時代の舟については多くの出土があり、また銅鐸などにも描かれている。弥生時代後期(2世紀〜3世紀後半)の古墳(福井県坂井郡春江町の「井向遺跡」)から出土した銅鐸に描かれている舟は12人で漕ぐようになっており、それから全長14メ−トルである。同時代と思われる「大石遺跡」(福井県)の銅鐸では櫂が両舷合わせて18〜20とみられるので全長15メ−トル程度の大型船である(同上巻 158頁)。
 弥生時代中期(前1世紀〜2世紀)の古墳(奈良県天理市の「清水風遺跡」)から出土した土器には櫂が左右に17本ずつあり、帆柱も描かれている。このことからこの舟は全長20メ−トルと考えられる(同上卷−179頁)。実際に出土した舟(大阪府八尾市の久宝寺遺跡」〔弥生時代後期から古墳時代初期〕3世紀後半〕)は全長20メ−トルもあった(同中卷 69頁)。ところで、先のとおりこの時代から「帆」があったが、それはあまり使われず、櫂で漕ぐのが一般的だとされている。それは帆舟は風を利用するため重心を失い易かったといわれている(同上巻−81頁、)。
 それでは、この時代の舟はどのくらいの速度が出たのであろうか。舟の大きさを全長12メ−トル、漕手20人として、8ノット(1時間に15,000メ−トル)、1日8時間漕ぐとして120キロ、ちょうど博多と釜山の距離の半分であるから、2日もあれば行き、休みなく漕げば1日で行ける。対馬からなら半日(1日8時間漕ぐ)で到着しただろう。
 それが時代が下り、欽明朝15年(554年)の朝鮮半島の遠征では兵1000人を40隻で運んでいるから兵員25名と考えられる。そのほかに漕手30人、馬(平均2.5頭)、兵器、食糧・水7日分(仮定)して、重さ10トン余と考えられる(中卷 166頁)。この数字は前記の史料から考えて妥当であり、誇張はない。『日本書記』は正確で感心させられる。全長は30メ−トルもあったのではなかろうか。
 

倭はどこにあったのか(15)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月21日(火)12時55分50秒
   朝鮮人研究者のなかには、「倭人」が朝鮮半島南部にいたとする者がいるが(「高 濬煥」〔『「加耶」を知れば日本の古代史がわかる』双葉社[ふたばらいふ新書 019]1999年3月20日 209頁〕、「李 鍾恒」〔『韓半島にいた倭国』(新装版) 2000年10月10日 36頁〕)のように、ほんの少数である。ほとんどは日本本土にいたと考えている(「李 基白」(『シンポジウム 日韓古代史の謎』朝日新聞社 1992年7月25日 101頁、「金 錫亨」(『古代朝日関係史』勁草書房 1969年10月30日 337頁)。ただ、ここで注意しなければならないことは、「倭人」が朝鮮半島にもいたとする朝鮮人研究者がその地の「伽耶人」が日本にやってきて大和政権を形成したとしていたとしているである(李 鍾恒の前掲書)。つまり、「伽耶」=「大和政権」を導き出す前提としての考えで、「伽耶」に「倭人」がいては困るのである。加えて、その根底にあるのが「倭」=日本人が朝鮮半島に拠点を持っていたのでは「任那日本府」との関係において<民族的自尊心>から許さないという意識である(「李 基白」の前掲書74頁)。

★ 日本の研究者で「倭人」が朝鮮半島南部にいたとする者
1.「寺本克之」(『任那と古代日本』新泉社 1999年7月15日 60頁)、
2.「上田正昭」(『シンポジウム 日韓古代史の謎』朝日新聞社 1992年7月25日 98
  頁、「倭王権と朝鮮」〔『日本の歴史 2』上田正昭 小学館 1973年12月
  25日 175頁〕)
3.「井上秀雄」(『任那日本府と倭』東出版 1973年1月16日 113頁)、
4.「近江昌司」(『日本古代史の問題点』学生社 2003年10月10日 154頁)
5.「澤田洋太郎」(『伽耶は日本のル−ツ』新泉社 1994年1月10日 103頁)
6.「関 裕二」(『謎の出雲・伽耶王朝』徳間書店 1995年2月28日 66頁)
7.「吉田 晶」(『古代日本の国家形成』新日本出版社 2005年4月20日 67頁)
8.「黒岩重吾」(「任那日本府について」〔『史話 日本の古代 4−巨大古墳を造る−倭王
  の誕生』作品社 2003年2月25日 228頁〕)
9.「鳥越憲三郎」(『古代朝鮮と倭族』中央公論社〔中公新書 1085〕 1992年7月
  25日 14頁)、
10.「武光 誠」(『謎の加耶諸国と聖徳太子』文藝春秋 1995年11月7日 37頁)
11.「小林敏男」(『日本古代国家の形成』吉川弘文館 2007年8月10日 68頁)
12.「鈴木英夫」(『古代の倭国と朝鮮諸国』青木書店 1996年2月25日 32頁)
13.「東 潮」(『倭と加耶の国際環境』吉川弘文館 2006年8月10日 174頁)
14.「村山正雄」(「古代の日朝関係について〈金錫亨教授の論文を批判する〉」〔『朝鮮
  史研究会論文集』(第1集)1965年11月20日 朝鮮史研究会 22頁〕)
15.「安本美典」(『応神天応の秘密』廣済堂出版 1999年11月15日 239頁)
16.「平野邦雄」(『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館 1985年6月10日 36
  頁)
17.「岡本堅次」(『神功皇后』吉川弘文館 1959年7月20日 56頁)

★ 日本の研究者で「倭人」が朝鮮半島南部ではなく日本本土にいたとする者
1.「田中俊明」(『大加耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館 1992年8月20日 214
  頁)
2.「山尾幸久」(『古代の日朝関係』塙書房〔塙選書 93〕1989年4月10日 70頁)
3.「旗田 巍」(「三国史記−新羅本記にあらわれた倭」〔『日本文化と朝鮮』第二輯 朝鮮
  文化社 1976年7月28日〕)
4.「武田幸久」(「日本列島と朝鮮半島」〔『古代を考える 日本と朝鮮』武田幸久 吉川弘
  文館 2005年1月1日 13頁〕)
5.「榎 一雄」(『増補改訂 邪馬台国』至文堂 1978年11月15日 164頁
★ 中国の研究者で「倭人」が朝鮮半島南部ではなく日本本土にいたとする者
1.「沈 仁安」(『倭国と東アジア−東アジアのなかの日本歴史 1』六興出版 1990年2
  月10日 30頁)
 

新羅の区域

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月21日(火)01時41分56秒
   新羅の建国伝説によると、その始祖「赫居世居西干」(紀元前51年〜紀元4年)の即位前に、「新羅」は「徐那伐」(ソナボル)といい、6村(楊山村、高墟村、珍支村、大樹村、加利村、高那村)で構成されていた(『三国史記』赫居世居西干の条)。これらは現在の「慶州市」に当たり、日本海には接していなかった。
 第4代王「脱解尼師今」(57年〜80年)は、「倭」の「多婆那国」の出身で、「倭」から「金官国」(現在の金海市−釜山に隣接)にたどり着き、次いで「辰韓」の阿珍浦(現在の「浦項市」(「慶州」から東に約30キロ)の「迎日湾」(「神功皇后」の侵攻地)に着いた。この地は、232年・364年・393年の「倭」の侵攻地の「斧見」(正しくは「山」+「見」)に接している(「斧見」も「浦項市」に属する)。
 韓国の理解では、「脱解尼師今」は「金官国」の権力者であり、ここから「慶州」の「新羅」に侵攻し、王権を奪ったと理解されているようである(『韓国歴史地図』韓国教員大学歴史教育科 平凡社 2006年11月10日 30頁)。
 ここで重要なのは「辰韓」=「新羅」でないことである(前掲書 同頁)。「慶州」にある「新羅」と「阿珍浦」(「浦項市」)の間には「音汁伐国」があり(第5代王「婆娑尼師今」23年〔102年〕条)、「阿珍浦」も「音汁伐国」が支配していたと思われる。この年、「音汁伐国」は「新羅」に降伏したとあるから、この年から「新羅」は東海岸と接したのである。ただ、「新羅」の領土は、「大邸」から南部では「洛東江」を越えることはなかった。なぜなら「任那」があり「伽耶」諸国を支配していたからである。
 

「倭はどこにあったのか」批判

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月20日(月)13時21分49秒
  解法者氏の論考ですが、確かに朝鮮半島内に倭地はあった。しかし、新羅の東部に倭国があったというのはおかしすぎる。「20人〜50人くらいの者しか乗船できない」船しかもっていなかった倭人が任那を北上して新羅の海岸部の大部分を抑えるとは不可能に近い。いや、当時の新羅が海岸に接していたことを示す有力な資料がある。
「初めは金官国(現韓国慶尚南道金海市)の海辺に着いたが、金官人はこれを怪しんで取得せず。又、辰韓の阿珍浦海岸(現韓国慶尚北道慶州市)に漂着した。是(これ)は始祖・赫居世の在位39年(紀元前19年)のこと也。その時、海辺の老婆が(船を)縄で引き寄せて海岸に繋留させた。」三国史記
脱解王は新羅の「海辺の老婆」に拾われたという。新羅東部は海岸に接していたのである。
 

倭はどこにあったのか(12)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月20日(月)12時56分33秒
   「倭人」については、ここにもあるように「東辺」、「南部の辺境」を侵したとあることから、新羅(慶州近辺)の東部、南部にいたと考えられる。これについて、本拠は日本本土にあり、日本から来た季節的海賊であるとする考えがある(「初期朝日関係研究」社会科学出版社 1966年〔『古代朝日関係史−大和政権と任那』金 錫亨(北朝鮮人) 勁草書房 1969年10月30日 337頁]〕、『韓半島からきた倭国』李 鐘恒 新泉社 2000年10月10日 33頁、『新装 伽耶国と倭地』尹 錫暁 新泉社 2000年10月10日 226頁、『韓国古代史論』李 基白 学生社 1976年9月10日 74頁、『好太王碑と高句麗遺跡』王 健群〔中国人〕 読売新聞社 1988年6月14日 103頁・115頁、「朴 時亨」〔北朝鮮人〕『広開土王碑』社会科出版社 1966年[『広開土王碑』朴 時亨 そしえて 1985年8月1日 318頁]〕、『東アジアのなかの日本歴史 1−倭国と東アジア』沈 仁安〔中国人−北京大学〕六興出版 1990年2月10日 298頁、『加耶諸国と任那日本府』李 永植 吉川弘文館 1993年4月20日 96頁)。この論拠は、@ 新羅の海岸を侵犯したのは玄界灘が穏やかな4月〜9月に集中している、このことは季節風の制約を克服するだけの造船、航海技術を持てなかったことを意味する、A 新羅の城邑を持続的に占領・支配する力がなかった、B 物や人の掠奪を目的にしたものだった、B 『三国史記』の記事のなかで信頼できる記事は、「新羅」の朝鮮半島統一の少し前にあたる6世紀末以降のものに限られる。そして、海から来る敵としての「倭」が朝鮮半島の人々の記憶にあった。それが後になって昔の王と倭との戦いにまつわるいくつもの話が創作されたのであるから、「倭」そのものの朝鮮半島への侵攻などなかった(『大和朝廷と天皇家』武光 誠 平凡社〔平凡社新書 180〕2003年5月19日 136頁、『倭国の時代』岡田英弘 筑摩書房〔ちくま文庫 お‐30−3〕2009年2月10日 225頁)、というにある。  

倭はどこにあったのか(13)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月20日(月)12時55分26秒
   しかし、@ 当時の船は手漕ぎでせいぜい20人〜50人くらいの者しか乗船できない(『任那と日本〔日本の歴史 別卷 1〕』金 廷鶴 小学館 1977年10月1日 225頁)、あるいは20トンくらいの大きさで漕手を含めて25人くらいであった(『古代日本の軍事航海史』(中卷)松枝正根 かや書房 1994年9月27日 132頁)。毎回玄界灘を渡ってきたとは考え難い、A 単なる小集団ではなく大軍団であったことは先の『三国史記』の記述から十分にうかがえる。B 海路とは何も玄界灘とは限らない、朝鮮半島南部から陸伝いに新羅(慶州)に攻め入ったとも考えられる。「倭人」および「倭国」が朝鮮半島南部にはおらず日本本土にいたとする考えの前提となっているのが<海路>による進攻であるが(『古代を考える 日本と朝鮮』武田幸男 吉川弘文館 2005年1月1日 96頁)、考えが浅い。<海路>とは何も玄界灘を示す資料が無いのである。朝鮮半島南部から海路で慶州にある「新羅」を攻めた方が、陸路を行くより安全なのである。B 侵攻が春・夏に集中しているが、侵攻しやすい時期にするのが当たり前だろう(『任那−「紀」における古代外交史』森 正平 私家本 1988年3月 40頁)。朝鮮は寒く冬が長いのである。C 前述の第17代「奈勿尼師今」38年(393年)に倭人が「独山」(現在の慶尚北道延日郡神光面)に退却していったという記事がある。この「独山」とは慶州の海側(東側)ではなく、西側つまり内陸部にある。場所は現在の慶州から大邸の途中の富山の西側に位置する(『シンポジウム 日韓古代史の謎』朝日新聞社 1992年7月25日 113頁)。これは「倭」の本拠が朝鮮半島の内陸部にあったことを意味する。D 前述の第20代「慈悲麻立干」6年(463年)「倭人が歃良城(現在の梁山)を侵したが、破れずに退却した」という記事がある。この「歃良城(歃良−そうら)」は『三国史記』地理志一「良州」の項に「歃良州(中略)今梁州」とあり、これは現在の梁山に当たる。釜山の北20キロ、慶州の南30キロのところの伽耶諸国が新羅と接する辺りにあり、『日本書記』の「神功皇后」の5年条にも「(葛城)襲津彦は(中略)蹈韛津(たたらつ−多大津−現在の釜山の南)に次り(やどり−行き)草羅城(歃良城)を抜き」とある。これも「倭」の本拠が朝鮮半島の内陸部にあったことを意味する(『古代の倭国と朝鮮諸国』鈴木英夫 青木書店 1996年2月25日 32頁)。E 海賊集団が「新羅」の王城(慶州)を取り囲んだり、城を破って1千名を捕らえて連れ去ったりすることができるだろうか。前述の船の大きさからいって捕虜をどうやって日本に運んだのであろうか。F 『三国遺事』紀異 第1「靺鞨・渤海」に、「羅人云。北有靺鞨。南有倭人。西有百済。是国之害也」という記述がある。意味は「新羅人が言うには、北に「靺鞨」(ツング−ス系の民族でロシア沿海部から満州東北部・北朝鮮の日本海側に居住した民族で、後に渤海を建国したとされる)がおり、南に「倭人」がおり、西には「百済」がいる。これらは「新羅」の害となっている、である。この記述はその前の部分に『三国史』とあることから、これに依ったものであろう。『三国史』とは『三国史記』の基礎となった『旧三国史』であると思われる。ここに「倭人」とあり、南にあるとしているが、海の向こうなのか、こちら側の半島内なのかはハッキリとはしないが、当時の「新羅」は「慶州」の付近のみを支配していた小国であって、「南」というならやはり「半島内」を意味するものではあるまいか。G 「倭」が朝鮮半島に侵攻したことは、「広開土王碑」で391年ころからのことであることが明確になっている。これから、「倭」が朝鮮半島に進出していたことは否定しがたく、さればこそ、朝鮮人の記憶に「倭」の侵略が鮮明に記憶に刻まれていたのであって、何も後世になってからの<創作>ではない。
 こうしたことから、「倭人」は海賊でもなく、日本本土にのみいたとすることは明らかに誤りであると断言できる。このことは「広開土王碑」の項でも明らかにする。
 

(無題)

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月20日(月)10時18分55秒
   歴史の観察者氏、支那や満州から朝鮮に文明が伝わったのは事実でしょうが、倭国にとっては多婆耶国(豊前)の分家である新羅(それに新羅と争っている韓国諸国)から何も学ぶ気はなかったと思いますよ。
 それより稲作も伝えた江南の方を重視したでしょう。
北中国→満州→朝鮮
南中国→倭国→南米
 

劾繁に猟苧なし

 投稿者:晩勸忽喙  投稿日:2010年 9月20日(月)10時12分29秒
  s雰の賀宀箆、レ輿藍窺をますと仟には仝忽藍々または仝忽麼々の兆各が聞われておりません。茲gなる酎怛兆なので、ここではoしますが、箭えば屶塘崙業とかいったのもかに砦櫃籌・任・薐・rに擦錣辰燭發里任靴腓Α・靴・掘・噌砲盞R恬とともに臭掴から擦錣辰真苗榻圓老餠┐任C覆い里任后N3定で拜忽が署咫を誼た尖喇は、・それは廉掲阿箸發・・錣辰討い泙坑・噌領鳥・・・rよりれていたからではないのでしょうか。そうでなければ仝|卍の拜繁が捲靴拭抗牟箸能Kわっているはずです。
 また、舞冷|尢は2弊でしょう。
 

倭はどこにあったのか?

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月19日(日)17時57分20秒
  私は自分の説が正しいとは思ってはいない・・正しいと思っていないのになぜに書くかと申せば、書くことにより反論が出る・・その中に自分を導いてくれる指導の論に当たるかもわからない・・自分が納得できる反論に出会うかもわからないからである・・このようにして私は歴史を学んできた。

ただ、私は自分のブログでは、このような異端な説(濊の来日)は書かない・・そりゃ濊とは汚濊の濊だ、そんな漢書で下等に蔑まれている差別用語を日本歴史開闢の民とすることには抵抗も多々あるし、自虐にも繋がる・・東夷や鮮卑よりまだ悪い・・あくまで、江華島らの世界遺産の「支石墓文化」の貊文化(濊を極力はずし)の日本到来により・・ある種の集落革命と『倭』がおこり、その後の倭の南鮮進出と書いている・・

そう濊種族の日本上陸はブログでは書いてはいない・・書けば必然的にも時代から見ても神武東征に行っちゃうからね・・濊と神武・・繋げるだけで不敬の国賊になりかねない・・ ただね、いくらなんでも、文化も支配も「日本から朝鮮」への我田引水・唯我独尊の国威史観にはさすがに行っておりません。それではただの皇尊右翼だけになるからです・・。

石器・土器文明はこの日本列島で育った、稲作は中国江南地方から入ったものでしょう。
周の成立と前後しての来日でしょう・・青銅器文明もすぐに江南の楚から渡来した・・半島経由ではないと思います。、

ただ、支石墓文化や環濠集落文化らの人民支配システム・・まあ、戦争・侵略、当然にはこれには神話も入りますが、これはあきらがに、半島より日本に入ったと思います・・青銅器文明は別ですが、鉄器文明も半島より日本に入ったものと考えております。

ただ、その文明が入る場所を日本の倭人がその土地を確保していたとゆうことではないでしょうか・・私が前の投稿で述べたが如く、あの人民支配システム文化が半島から入らな・・ま、秦の徐福の線もありますが、大陸から入らねば、列島は三内丸山集落の数が増えるだけで、国造りはならなかったと思います。

従来の日本列島人・縄文人は栗栽培から稲耕作に移行しても平和民族だ、なにかの激しい外部からの刺激がないことには、倭国大乱には入らない・・鉄器導入も農耕ではなく戦争に必要だ、弁韓・加那地方(任那)にそれがあれば、当然に出かけるでしょう。

話を元に戻しますると、私がこの掲示板で、お調子にのり、文化だけではなく「濊」の日本上陸をやらかしたは、中国の東北三省(旧満州)史学内の一部の説に乗ったかたち・・
いわゆるシナ人同調の日本人の精神を忘れた輩になるかもわかりませんが・・このような乱暴説も一つぐらいあってもいいのではとの思いであります。

それは、まだ、箕子朝鮮や三韓の出来ていなかった半島南部・中の江華島だけではなく、
ウイキベティア参照・・
高敞・ゴチャン( 濊の本場)
光州から北西に約40kmの所の高チャン郡に点在する先史時代の遺跡群。全羅北道の西海岸側にある高敞と富安地方にも支石墓が数多く分布しています。特に富安面サンガッ里と高敞邑梅山里一帯には約500の支石墓があり、訪れる人を圧倒しています。高敞ではテーブル壮の北方式と基盤壮の南方式が混在しています。それも巨大なものが多いのが特徴

光州から東南へ約17km行った所、和順郡一帯の約60万坪の地域に1000基余りの支石墓が密集しています。
支石墓郡は、基盤状の基盤石、土台石が見えない無支石型などの様々な形態の支石墓を見ることができます。和順は南方式で、巨大なものが多いのが特徴。
石は近くの山から切り出して据えたといい、採石場跡も残っています。

この遺跡文化が1世紀遅れて九州西北部に興ることは、「濊」の文化の伝来です。 文化と共についでに「濊」人の海を渡っちゃった・・この強引さ説も 一つぐらいあってもいいのではないでしょうか・・それにね・・朝鮮中が「濊」まるけ・・これは独論ではなく、中国資料からくるもの・・「濊」以外の他の種族の名前が見えないのに・・わが、日本の研究は、
「濊」の名前がきれいに消えて・・馬韓・辰韓・弁韓と楽浪・帯方郡そして、百済・新羅・任那・高句麗の名前ばかり・・あきらかに朝鮮・韓国に気を使ったこと、檀君熊公朝鮮の名前を汚すことになるからです。朝鮮人のアイデンテテイが濊そのものでは、縄文・弥生人の倭人誕生よりもっと激しい侮蔑ですからね・・。

ま、紀元前数世紀の濊の日本訪問は勇み足としても、1・2世紀の半島に慶尚南道の辰韓国(三韓)の北、慶尚北道に「濊・貊」国家(後に4世紀・同系の高句麗に呑み込まれる)が、1・2世紀ー4世紀に存在したは事実である。この時期はまた出雲神話の成立ともダブル。 韓国では、昔よりスナノウの命が、慶尚北道の王(斯蘆国か、弁韓かは不明?)が・海を渡り、現地の土民ヤマタオロチ族を切り従え、さらに因幡・若狭方面の濊族の玄莬(満州系沃沮のことだろう・・北鮮の地からここに進出)を討ち、出雲地方に韓国の王朝を築いたとの韓国優越説があった。

沃沮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%83%E6%B2%AE

ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81

出雲風土記
収録された説話を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

スクナビコナ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%B3%E3%83%8A

だが最近はスサノウ命どころか、大国主命も韓国人説で三韓の地より、出雲にわたった大国様が、因幡の白兎を和邇・鰐・ワニ族(満州系海賊国家の挹婁・・隠岐まで進出)から助ける、出雲から因幡・若狭まで韓国王朝の勢力を拡大する。

因幡の白兎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E
因幡の白兎の話は縄文語で語られたものを日本語訳して伝わった、それを古事記や風土記が記録した。であるから、縄文語の後裔言語(ではないかと研究しているのだが)であるアイヌ語でこれほど理解が進むのだ。

因幡の国、高草の郷の話だ。老兎が洪水で「オキノシマ」に流された。「数を数える」とワニを欺いて「着物を剥がれる」。「蒲」の花を撒いてその上に伏して転ぶ。それで治った。

挹婁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%A6%E5%A9%81

そして、ここに哲学者でありがてら、いささかオッチョな先生が飛び出る。
梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。 私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。 『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。 弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。 出雲王朝の創立者は韓国系と考える。 その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。 (神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。 新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

われわれみたいな市井のトーシロ様ならいいが、高名なる学者は、そう簡単に粗忽に断言、結論づけてはね・・もっともっと議論を重ねなければね・・われわれの発言の軽さとは、周囲へのその影響の重みが違うんだよ・・。

ここに面白い発表がある。
2000年前の新羅建国勢力推定の墓地発掘
http://plaza.rakuten.co.jp/kakasinojamp/diary/20100620/

JUNE 19, 2010 08:11 東亜日報

韓国文化財保護財団は、「慶尚北道慶州市塔洞(キョンサンブクド・キョンジュシ・タプドン)の一戸建ての新築予定地で、1世紀頃の支配勢力の首長級の墓地と推定される木棺墓を確認した」と18日発表した。

ここでは漆塗りした木の鞘に挟んでおいた漆鞘銅剣(左側の点線)、漆鞘鉄剣(右側の点線)、鞘飾り(小さい写真)、青銅腕輪、遺体の顔を隠すための漆塗りの扇子、蛙文様の青銅ボタン、虎文様の腰紐などの遺物が出土した。

このため、この古墳の主が1世紀新羅の建国戦力である可能性が提起されている。
http://plaza.rakuten.co.jp/kakasinojamp/diary/20100620/

斯蘆国
辰韓(しんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。
斯蘆国(十二国中最大で後の新羅) の都が慶州・日本海の出入り口の浦項とは20キロも離れない。

この浦項から、松江まで330キロ、日本海は真冬でも穏やかな海域、太平洋や遣唐使が渡った東シナ海より、ずっとずっと航行がし易い海なのです・・韓国で囁かれる、
スサノウ命の日本渡りの出雲朝の建国・・これに、この神話(浦項にもこれと似た伝承ありとゆうが、私は信じられないが・・)に呼応して日本側の山陰地方である計画が立ったとゆう・・
それが、

丸木舟で日本海横断
http://www.47news.jp/news/2010/07/post_20100731094204.html

30年前、隠岐から本土まで丸木舟を作って渡られた勇士が、再度島根から韓国へチャレンジを行うと言う話が、韓国浦項市に伝わり、浦項市や韓国の大企業の大亞グループなどが応援するということから交流が始まっています。

私は韓国が愛国のためか国威発揚のためかは知らぬが、日本コンプレックスの裏返しか、なにごとも韓国主人役、日本召使役・・韓国先生役、日本生徒役これは如何がなものかと思うが、また、これに対抗意地を張り、日本から始まり、それが韓国に伝えられた・・これもあまり賛成はできません。
ただ、意外と日本海は狭い・・韓国・朝鮮とは申さぬが、大陸文明と人の交流は、満州系の濊が駄目なら、貊とゆう形をとり、西暦前後に日本列島の北岸地帯に上陸した可能性は
絶対とは言わんが、いくらかは有ったのでは・・。

私は前に述べたとおり、
『■・私はウラジオストック勤務半年ほどありました、この短い期間のチャンスを生かし、当時はソ連領沿海州の東岸を国境警備隊の許す範囲でドライブに行きました。
オリガは挹婁の海賊出撃拠点となっていたとハルピンのB教授に聞いていたからです。少数民族のツングース・ウデヘが挹婁ノ末と聞いてうたからです。
なお余分ゴトですが、西周から歴史に出現した古アジア・シベリア種の粛慎の末は、ニブヒ族またはナナイ(山丹)族らしいです。

オリガから北海道の江差まで直線で450キロ、、意外に近い親潮の乗れば2日での距離です。
太平洋と違い・・北前船が活躍したが如く、海は荒れないのです。西暦658年に阿部比羅夫が蝦夷を討つ時に、後方羊蹄(シリベシ・北海道)の渡島半島西岸より出羽に入った、
「みしはせ」が沿海州の黒水靺鞨ならば靺鞨は挹婁の末と謂われる・・丸木舟でも渡れる穏やか海域、海賊挹婁が羊蹄に渡ったとしても何んら不思議さはない。』

ただし、西暦4世紀ー5世紀の朝鮮半島における倭の攻勢と活躍については、なんら異論を唱えるものではない・・私のは西暦前のコト、この話だけである。、
 

倭はどこにあったのか(10)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月19日(日)09時15分46秒
  13.第18代「實聖尼師今」元年(402年)
  『倭国と修好し、奈勿王の子、未斯欣(ミキシン)を人質とした』
  同4年(405年)
  『倭兵がやって来て明活城(慶州の東)を攻めたが勝てずに退くと、王は騎兵を率い
 て独山の南でこれを要撃し、二度戦って破り三百余級を殺戮した』
  同6年(407年)
  『倭人が東辺を侵し、6月にもまた南辺を侵して百人を掠奪した』
  同7年(408年)
  『王は倭人が対馬島に軍営を設けて兵器と軍需品を貯え、わが国を襲おうと企んでい
 ることを聞き、精兵を選んで彼らの軍需品の蓄えを打ち破ろうとすると、舒弗邯の未斯
 品は「臣の聞くところによりますと、兵は凶器であり戦いは危険なものでだと言われて
 ます。まして大海を渡って人を撃ち、万が一にも利を失えば悔やんでも悔やみ見切れな
 いことになりましょう。臣の考えでは険しい所に関所を設け、敵が来れば防いで侵せな
 いようにし、もし、わが方が有利な場合は出て行って敵を生け捕りにすることほど勝る
 ものはないのです。これがいわゆる人を誘い込んで人に誘い込まれないというもので、
 この方策が最も優れたものであります」と申し述べると、王はこれを聞き入れた』
  同14年(415年)
  『風島で倭人と戦って勝った』
14.第19代「訥詆麻立干」2年(418年)
  『王弟の未斯欣が倭国から逃げて帰ってきた』
  同15年(431年)
  『倭兵がやって来て東辺を侵し、明活城(慶州の東)を取り囲んだが、何の功を収め
 ることなしに退いていった』
  同24年(440年)
  『倭人が南部の辺境を侵して生口(農民)たちを掠奪していったが、6月にはまた東
 部の辺境を侵した』
  同28年(444年)
  『倭兵が金城(王城)を取り囲むこと十余日、食糧が尽きて帰っていった。王は兵を
 出してこれを追撃しようとすると、群臣が「兵家の説に、窮している敵は追うな」と言
 ってますから、中止してください」と申し上げたが、王はこれを聞かずに親から数千騎
 を率いて独山(現在の慶尚北道浦項市北区神光面)の東側まで追って合戦となって賊に
 破れ、将士の戦死者が半分以上に達した。王は慌てて馬を捨て山に登ると、賊どもは幾
 重にも取り囲んだ。そのときにわかに暗くなり霧がかかって一寸先も見分けがつかなく
 なった。賊どもはこれは神が王を助け給うところだと言って、兵を収めて退却した』
 ★ 未斯欣(ミキシン)の人質
  日韓古代交流史上で大変重要な事柄で、これについては、後ほど詳しく説明する。
 

倭はどこにあったのか(11)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月19日(日)09時14分4秒
  15.第20代「慈悲麻立干」2年(459年)
  『倭人が兵船百余隻を率いて東辺を侵し、進んで月城(半月城−王城)を取り囲み、
 四方から矢と弓を雨のように浴びせ掛けた。それでも王城をよく防衛し賊が退こうとす
 るときに兵を出して追撃して破り、後を追って北方から海口(現在の慶尚北道の浦項−
 迎日湾)に至ると、賊の溺死する者が半数以上であった』
  同5年(462年)
  『倭人が活開城を襲って破り、一千名を捕まえて連れ去った』
  同6年(463年)
  『倭人が歃良城(現在の梁山)を侵したが、破れずに退却した』
  同19年(476年)
  『倭人が東の辺境を侵したので、王は将軍の徳智に命じてこれを撃って破り、二百余
 人を殺しあるいは生け捕りにした』
  同20年(477年)
  『倭人が兵を挙げ五道に分かれて攻め込んできた。だが何の功を収めることなく帰っ
 て行った』
16.第21代「照知麻立干」19年(497年)
  『倭人が辺境を侵した』
  同22年(500年)
  『倭人が長峯城(慶州の東)を攻め落とした』

 新羅が倭に攻め込まれた記録はここで終っている。しかし、そんなはずはない。倭と新羅がこれまでとは異なり友好的とは考え難いからである。理由は「欠史」にあると考える。つまり『三国史記』は原典(『旧三国史記』〔高麗前期の10〜11世紀に編纂されたとされている〕、『新羅古記』〔新羅第24代王「真興王」6年[545年]に編纂〕など)が失われており、確かめようがなかったと思われる。
 これを見てもわかるとおり新羅は倭に対しては防戦一方であった。倭の本拠地である日本にも攻め込むだけの力量もなかったことがハッキリと見て取れる。
 ところで、ここにいう「倭人」および「倭」とはどこを指すのであろうか。
 

韓国は世界に冠たる差別国家だ(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月18日(土)21時28分1秒
  <韓国社会に定着できずに戻る脱北者たち>

  >韓国籍を取得した脱北者たちの第三国「偽装亡命」が外交問題に秘話しているという話だ。外交通商部資料によると2004年以後、イギリスに亡命を申請した北朝鮮脱出者が1000人で、中でも約70%が韓国籍所持者だという。イギリス政府がこれらに対する送還対策用意を韓国に要求し、外交問題に浮上したというのだ。偽装亡命だと確認された脱北者20人がノルウェーで強制追放された事例もある。行くあてのない境遇になった韓国籍脱北者がイギリスとノルウェーの両国で約600人にのぼるというのが外交部の推算だ(中央日報 2010年9月16日(木)社説)。

  韓国社会に根付くことができずに第三国に逃避する新たな人たちがそれだけ増えているのだ。国内に入ってくる脱北者は毎年大きく増えている。昨年だけで約3000人が入国した。統一部は韓国籍を取得した脱北者数が今月にも2万人を突破するものと見ている。これらのうち少なくない数が米国、カナダなど北米国家やイギリス、フランス、オランダ、ノルウェー、スウェーデンなどヨーロッパ国家、またオーストラリア、ニュージーランドなど大洋洲国家に発っている。

  韓国籍を隠したまま現地で亡命を申請するか不法滞在をしながら新しい生活の機会をうかがっているのだ。

  脱北者2万人時代の暗い影だとそのままにする問題ではないと思う。定着に必要な住居、就職、教育、医療恩恵など各種支援にもかかわらず、脱北者たちが韓国に背いて去るのは韓国社会で希望を見つけることができなかったからだ。15歳以上の脱北者の就業率は44.9%にとどまっており、それも日雇い労働者など単純労務職が半分に近く、基礎生活受給者が全体の60.2%にのぼるという統計はこれらの大変な現実を物語る。

  しかしもっと大きな苦痛は脱北者たちに対する韓国社会の否定的認識だ。多くの脱北者たちが職場や学校で移住労働者より下の「3位市民」という劣等感に苦しんでいる。「同じ同胞よりはかえって外国人に差別を受けたほうがましだ」と第三国行きを決意した脱北者たちも少なくないという。一部では第三国行き脱北者たちを国民の血税で各種恩恵は恩恵を受け、ふらりと去る不届き者だと決めつける。しかし彼らを咎める前に果たして韓国社会が彼らを温かい血肉の情でかばう努力をしたのかから謙虚に反省することが先なのだ。もちろん新たに来た者たちも北朝鮮脱出過程の艱難辛苦に耐えたその意志と覚悟で韓国社会に定着し、同化しようとする努力をしなければならない。

  第三国行きが確認された脱北者に対しては支援恩恵が自動で中断されるので帰って来たくても帰って来ることができない脱北者たちも多い。まずこれらから制限的にも制裁を猶予することで自ら帰国を誘導する必要がある。苦労して受け入れた脱北者たちを失うのは国家的にも大きな損失だ。南北両方の経験を持つ脱北者たちは統一時代に南北統合と和合に大きな役割ができる大事な資産だ。これらをうまく抱えて将来統一の担い手として育成するという方向に発想の転換が必要な時点だ。<

 笑わせないでくれ! 朝鮮人は世界に冠たる差別推進民族! 長年、北朝鮮との離散家族問題に当たってきたから、よくわかる。
 北朝鮮から「金 日成」の圧制を嫌って、南に逃げてきた人たちがまず直面したのは南の人たちの北の人たちへの差別意識である。北から逃げてきた人たちは、日本時代に有産階級の人たちや有識者が多い。なぜなら、真っ先に彼らが「金 日成」体制での粛清の対象になったからである。「金 日成」が独裁体制を敷くうえで、一番ジャマだったからである。北の親たちは長男だけでも生き残らしたいと長男を南に逃がした。だから、長男が多い。長男 朝鮮では特別な意味を持つ。祭主は長男しかなれない。その結果、どういうことが起きたかというと、北では正式な祭事が行われなくなったのである。墓を守る人がいなくなるという現実に直面したのである。
 彼らは、日本時代の知識人。南の大半の人たちより優れていた。南の者たちは彼らを優遇するごころか、差別した。これを<アパッチ狩り>とも言う。就職は差別され、北の人たちは食べるために軍人になる者が多かったが、北とつながりがあると言われ、出世できなかった。彼らを優遇したら、南は1960年初頭には北を遥かに凌駕した。朝鮮の発展は日本時代の知識人抜きでは有り得なかった。
 ところで、この状況は、今の脱北者と何ら変わらない。北の人たちはナマリがあるから、すぐにわかる。<多くの脱北者たちが職場や学校で移住労働者より下の「3位市民」という劣等感に苦しんでいる>のは、当たり前で、彼らの住む場所など南にない。
 在日朝鮮人が帰国しないのは、同じような<差別>があるからだ。しかし、決してこれを口にしない。ならば、日本人に感謝しなければならないのだが、これもない。「強制連行とやらで日本に連れて来られた」という虚偽の事実を口外することで、母国への強制送還を免れているのである。これに踊らされているのが<左翼>だが、この事実を知っているのは間違いない。反日を標榜するには格好の味方だからである。
 『日本が嫌なら帰れば良い』 正論だが、彼らはこれに答えられない。

★ 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133111&servcode=100§code=110
 

三国史記

 投稿者:護国運動家  投稿日:2010年 9月18日(土)16時20分38秒
  〉『三国史記』の「年代」は、時に“あやまっている”ことがある。たとえば、
    (阿達羅尼師今)二十年夏五月、倭女王の卑弥乎(=呼)、使を遣わして来聘す。(新羅本紀、第二)
しかし、実は「同じ干支」の「二三三」(癸丑)の事項であった可能性が高い。わたしはかつて、そのように論じた(『古代史の霧の中から』古田武彦)
>『倭国の女王卑彌呼が使臣を遣わして修好した』
◆ 末尾の書籍の著者は『このあたりの紀年には疑問もあるが注目すべき記述である。若いころの卑彌呼だったとしても矛盾はないからである』している。朝鮮の研究者はもちろん、日本の研究者もこれに関する言及がないのはどうしてだろう。<
私は前者が正しいと思う。
 

批評「倭はどこにあったのか?」

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月18日(土)16時08分41秒
  歴史の観察者氏の意見は根拠に乏しい。
>濊が対島海峡で前進を止ねるであろうか?・・(中略)済州島・対島・壱岐を経由して筑紫に入った(中略)現代の漢語では、倭は「iuai→wo」、濊は「iuat→huo」に変転しているが、同様にウァの変化である。<
全く、こんなことがどうして言えるのか。こんな推測を言うと津田史学と変わらないではないか。
呉音では倭は「wi」と発音する。「うぃ」である。
当時の日本列島の文化は朝鮮半島よりはるかに優れていた。なにしろ江南から直接文明を取り入れたのである。鉄器の使用も日本のほうが早かった。
そんな朝鮮人に日本は占領された?これはまさか形を変えた騎馬民族征服説では…など奴思ってしまう内容だ。とにかく、日本→朝鮮であり、朝鮮→日本ではない。
 

批評「倭はどこにあったのか」

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月18日(土)15時58分21秒
  >他の書物は出自を曖昧のままにしているものが多い。
管理人さんも読んでいる『古代は輝いてきた』では脱解王の出自について「下関」であると明記しています。
多婆耶国の位置は丹波とすると根拠に乏しい。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen3.html参照
「さらに不思議なことは、新羅の初代の王である赫居世と言われる人物についても書いてある。彼は「朴」を姓として名乗ったと書いてある。朴というのは韓国の朴大統領の姓と同じです。それを表せば瓢の事であるから、漢字で「朴」という姓を名乗った。ですから初代自身も倭人と深い関係がある。」(『王朝多元』「『三国史記』の倭」古田武彦)
新羅をつっくたのは倭人であり、その意味において「倭はどこにあったのか」は大筋において正しいと思う。
 

倭はどこにあったのか(8)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月18日(土)13時07分32秒
  10.第15代「基臨尼師今」3年(300年)
  『倭国と修好した』
11.第16代「訖解尼師今」3年(310年)
  『倭国王が使臣を遣わして王子の婚姻を求めて来たので、阿食の急利の娘を送ってや
 った』
  同35年(344年)
  『倭国が(またもや)使臣を遣わして婚姻を求めて来た。前にも女性を嫁がせたのを
 理由に断った』
  同36年(345年)
  『倭王が書を送ってきて断交した』
  同37年(346年)
  『倭兵が突然風島にやってきて辺戸(国境近くの民家)を掠奪し、また進んで金城(
 (王城)を取り囲み急に攻めてきた。王は兵を出して戦おうとすると、伊伐食の康世は
 「賊は遠方より来たのでその勢いには勝てません。ゆっくり構えて敵の疲れるのを待つ
 のが得策でしょう」と述べた。王はそれに従って城門を閉めて出なかった。敵はやがて
 食糧が尽き退却しようとしたときに、康世に出撃を命じた。彼は強騎を率いて追撃し追
 い払った』
 

倭はどこにあったのか(9)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月18日(土)13時02分44秒
  12.第17代「奈勿尼師今」9年(364年)
  『倭兵が大挙して攻めて来た。王はこのことを聞き、敵対できないと恐れ草人形数千
 を作り、着物を着せ兵器を持たせて吐含山(慶州の東)の下に並べ立たせ、勇士一千を
 斧見(正しくは「山」+「見」−以下同じ)(慶州の近郊の東原)に潜伏させておいた。
 倭人は多勢をたのんで直進してくるところを伏兵たちが飛び出して不意に撃つと、倭人
 は大いに敗れて逃げた。それを追撃してほとんど皆殺しにした』
  これは大変重要な記事で、「倭」がどこから「新羅」の王都「慶州」に迫ったかがわ
 かる。韓国側の資料で、ここが迎日湾(韓国の慶尚北道浦項市)から「慶州」の途中に
 ある(『韓国歴史地図』31頁)ことがわかった。そこでは、232年、364年、39
 3年の「倭」の侵入経路は「迎日湾」から「斧見」を経由して「慶州」に迫ったことが
 記されている。
  ここで、「神功皇后」を思い起こしていただきたい。第14代「仲哀天皇」9年(32
 0年と考えられる)(神功皇后摂政前紀)〔『日本書記』卷第九〕(新羅征伐−「三韓征
 伐」)に、「冬10月3日、和珥津(対馬の鰐津)から新羅に向けて出発なされた。この
 とき、海水が新羅の国の中まで上がってきて新羅の王は恐れおののき降伏した」という記
 事があり、直接「新羅」に近い場所からそこを攻めたことを表わしている。その場所は「
 「迎日湾」(王城「慶州」から東に約30キロ−現在の韓国慶尚北道浦項市)であること
 は間違いなかろう。。「迎日湾」を2度訪れたことがあるが、馬蹄形をした良港で日本海
 の風雨から港が守られている。ここには浦項製鉄所(現 ポスコ)があり、韓国有数の一
 大産業都市となっている。
  同38年(393年)
  『倭人が金城(王城)を取り囲み5日間も解かなかった。将士たちはみな出て行って
 戦おうとしたが、王は「いま賊どもは船を捨てて陸地深く入って死地にいるからその精
 鋭には立ち向かうことはできない」と言った。そこで城門を閉じて守った。賊は成果を
 挙げられずに退いていった。王は勇騎二百を繰り出し賊の帰路を遮り、また歩兵一千名
 を遣わして独山(現在の慶尚北道浦項市北区神光面)で追いつき、両方から挟み撃ちに
 して大いに破り、殺したり捕虜にしたものがはなはだ多かった』
  これも大変重要な記事で、「倭」がどこへ逃げて行ったかを示すものである。「独山」
 は、王都「慶州」の北部にある。「倭」が海路で侵攻したとするならば、そこは前述のと
 おり「迎日湾」(浦項市)しかない。ところが「独山」はそこではなく、そのかなり北部
 にある。「倭」軍が「新羅」軍に追撃されて逃げるのであれば、侵入地域であろう。そこ
 にはおそらく船団が待機していたと思われるからである。しかし、逃走したのはそこで
 はなく、その北部である。それが一度であれば、追撃が急で逃げ場を失い、侵入した「迎
 日湾」に戻れなかったと言えようが、第18代「實聖尼師今」28年(444年)にも
 同じ「独山」で「倭」軍が「新羅」軍と戦闘を交えている。これは「倭」の本拠地が「独
 山」近辺にあったことを示している。つまり、「倭」軍は毎回、海路で侵攻したのではな
 く、内陸部に拠点を有していたことになる。
 

倭はどこにあったのか?。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月18日(土)08時26分2秒
  『魏略』逸文によれば、
朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、箕子朝鮮を建国とあるが、今、この国家が本当に実在したかどうかはわからない・・ただ、この『魏略』逸文の示す文により地図を作成すると次のようになる。東周が秦により滅亡した前3世紀の中頃(BC256年) 、現在の北朝鮮と中国吉林省の国境、鴨緑江の南に「箕子朝鮮」なる国家がある・・その東・威鏡南道、威興・興南あたりに「東濊」なる勢力が跋扈する。どうもこの「東濊」が「箕子朝鮮」とダブってる感じ・・これ私だけの錯覚かな?(笑)。

威鏡北道・清津あたりに、濊系の「沃沮よくそ」があり、その威鏡北道の北、沿海州のウラジオストック辺りに、同じ濊系の「挹婁(ゆうろう)・・アジア最初のバイキング海賊国家と噂高い国家である・・そして、今も北朝鮮、「箕子朝鮮」の北、吉林省の長白山脈の西側
泉陽・漫江辺りに「濊・貊(わいばく)」がある。そしてその北、長春から吉林辺りに「扶余(ふよ)があった。

西暦前214年に、この「濊・貊」が、燕の衛満(?濊の軍人かも)と共に、南下して東濊
と謂われる箕子朝鮮を乗っ取るかたちで、「濊・貊」系衛氏朝鮮ができるのだが?・・。
ところが、前3世紀中頃、この箕子朝鮮の東南の慶尚北道、周王山国立公園・まあ、浦項辺りにまた「濊わい」が出るの・・そして、南鮮地方、慶尚南道、全羅北道・全羅南道には、「辰国」がある。

この「辰国」が、満州側発表の最初の・・下記の山川出版社のならば、濊の半島進出部隊ならば、

『■・山川出版社『世界史用語集』「【貊族】紀元前7世紀〜紀元前6世紀以降河北省長城地帯から中国東北地方にいたツングース系民族で、漢族・モンゴルに系に圧迫されて東方に移り、のちの夫余・高句麗を建国する」』

え?、え? え? 古代朝鮮の歴史は、濊ばかり、そりゃ石器時代からこの地にも現地人が居たから、それが、「檀君朝鮮」かもわかりませんが、歴史を動かす政治勢力としては、濊
以外は他の種族・・例えば山戎・山戎・粛慎などの古代種族はいない。

山戎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%88%8E

東胡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%83%A1

この南鮮の果てまで進出した、濊が対島海峡で前進を止ねるであろうか?・・私も異端の説者の一人かも知れぬが、前6世紀ー5世紀頃に、まだ日本が縄文時代と呼ばれし頃・・実際は、もう日本は前9世紀には弥生が開始してるが、済州島・対島・壱岐を経由して筑紫に入った・・五島列島を経由して松浦方面に入ったかもしれない?・・。

遼寧から、半島の西岸の平安南道を通り、平壌あたりで留まり部族が、東濊(箕子朝鮮のご先祖)になり、前進部隊は、黄海南道から江華島、忠清南道、全羅南道も光州から、そのままの勢いで日本列島に渡った・・海を渡るが恐いとビビったが、辰国のご先祖になった。

ただ辰国の建国は、その時期より、200年ほど遅れ、倭(渡来濊と弥生人の合流)となった種族が、解法者さんご指摘の対島海峡を逆北上して、親戚筋だった辰国のご先祖さんと連合政権を樹立したのではないか・・・そう最初に海峡を北から南に渡った濊は、半島より支石墓文化をこの日本列島に持ち込んだ。

支石墓遺跡
 支石墓は、数個の支石の上に安山岩の蓋石をのせ、その下に箱式棺または土壙を設けたもので、箱式棺は長さ1メートル前後、幅50センチのものが普通である。支石墓の約半数では、蓋石の下に副葬品として土器を置いており、いずれも繩文時代晩期に属し、副葬品のなかには弥生式土器はまったくない。したがって、この支石墓は繩文文化の伝統のなかで生活した人々の墓制に朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれているものとして、繩文時代から弥生時代への転換期の動態を知るうえで重要な遺跡である。

支石墓文化
http://inoues.net/ruins/hayamajiri.html

との大胆とゆうより歴史プロから噴飯モノの仮説、それも異端説を書いてしまった。
ただこれも、掲示板討論の活発化のための対案の一つとして、ど素人の遊び漫談としてお許しあれ・・けど歴史談義は素人発想でなければ面白くない・・これも一つの魅力ある仮説・異端説として読まれることを推薦する。





「濊(わい)・濊貊(わいはく)」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-4-waihaku.htm

(これは正史ブログではなく、あくまで異端の意見ではあるが、非常の面白い、まるで黒竜江省の好き者史家と同意見のため貼る・・私も粗忽単純者、ここに傾斜しそうな自分を懸命にとめている。

その中での「倭」については、そのままに表記・・。

「★・筆者は濊々や汪濊から、魚を獲るのが上手な民族とされた「倭人」を連想する。

 日本語では、上古音韻の穢(huat)の母音を「クァ」、濊(iuat)の母音を「ウァ」に発音したと思われる。そして、「クァ→カ」「ウァ→ワ」に転化する。 穢し(kitanasi)は(クゥタナシkua tanasi→カタナシka tanasi→キタナシki tanasi)に転化している。

『史記』匈奴伝に「濊、音亡格反」と注記がある。
濊の音韻は、発音は亡、声調は格と同じ反切(はんせつ=日本語の五十音図と相当)。
濊の音韻は、反切では、亡(wang)を格(ge)の声調で読むという意味である。
参考のために、亡も格も現代の発音を記入したので、上古音韻ではない。濊の上古音韻が(iuat)なので、亡は(iuat→wang)に変転したものと推測する。当時の声調は分からないが、現代では「穢hui」も「濊huo」も声調は「第四声」である。

 上古音韻のクァとウァを第四声で発声すれば「クァイ→カイ、ウァイ→ワイ」、その他の声調では「クワ→カ・コ、ウワ→ワ」。まさに濊は倭に通じる音となる。上古音韻も、倭は「iuai」、濊は「iuat」と母音が「ウァ」と相似している。

 現代の漢語では、倭は「iuai→wo」、濊は「iuat→huo」に変転しているが、同様にウァの変化である。現代の日本語では「濊wai」「倭wa」となっているが、倭人の古音では同じだった(同族だった)のではないか。あるいは濊「waiワイ」部族から、「waワ」と発音する集団が分立した。それが倭族だったのではないかと想像する。」
 

倭はどこにあったのか(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月17日(金)12時36分7秒
   このように、「倭」が朝鮮半島と日本の両方にまたがって存在したことは朝鮮の歴史書である『三国史記』などからもうかがえる。
 『三国史記』の「新羅本紀」にはたびたび「倭」の侵攻が記されている。これを挙げる。
1.始祖「赫居世居西干」8年(BC50年)
  『倭人が兵を率いてやって来て、辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳のあることを聞
 いて、すぐに引き帰った』
2.第2代「南解次次雄」11年(14年)
  『倭人たちが兵船百余隻を繰り出して海辺に侵入し、民家を略奪したので、王は六部
 の精兵を動員してこれを防いだ』
3.第4代「脱解尼師今」3年(59年) ◆ 「脱解尼師今」は倭の多婆那国(丹波)
                      から来た人である
  『倭国と友好関係を結び、互いに修好を交わした。』
  同17年(73年)
  『倭人が木出島を侵したので王は角干の羽鳥を遣わして防いだが、勝てずに羽鳥は戦
 死した』
4.第6代「祗摩尼師今」10年(121年)
  『倭人が東側の辺方を侵した』
  同11年(122年)
  『都の人々の間に倭兵が大挙して来襲するという流言がはやったので、(住民たち)
 は争って山や谷に避難した』
  同12年(123年)
  『倭国と講和を結んだ』

 ★ 『三国史記』
   「金 富軾」(1075年〜1152年)の編纂になる歴史書。新羅、高句麗、百
  済、高句麗の三国時代を記した書物。高麗の仁宗(第17代)23年〔1145年〕
  に撰進された。「新羅本紀」、「高句麗本紀」、「百済本紀」、「年表」などから成
  り、全部で50巻ある。それは「金 富軾」により明石書店から1997年11月28日に日
  本語版(翻訳者「金 思ヨプ(火+華)」が出版されている。ここではそれに依拠す
  する。なお、翻訳も主としてそれによった。
   『三国史記』は、中国の史料を写し取ったり、書き改めたりしたものが大半で、オ
  リジナルのものはほとんどない。しかも、非常に簡略に、省略されている。『日本書
  紀』とは比べくもない(「碑文からみた四、五世紀の高句麗」武田幸男〔『広開土王
  碑と古代日本』東京都目黒区教育委員会 1993年9月10日 51頁〕)。
   『三国遺事』
   禅僧「一然」(1206年〜1289年)の編纂になる歴史書。新羅、高句麗、百
  済、高句麗の三国時代の遺事(正史に漏れている雑多な事実)を拾い集めた書物。高
  麗の忠烈王の時代の1277年〜1289年にかけて撰進された。5卷から成る。同
  じく訳者「金 思ヨプ(火+華)」」により明石書店から1997年11月28日に日本語版
  (翻が出版されている。翻訳も主としてそれによった。
   これは「説話集」と呼んだ方がよく、「歴史書」ではないが、その記述内容は『三
  国史記』を補って貴重なものがある。
 ★ 『卑彌呼と日本書紀』石原藤夫 栄光出版社 2001年11月10日
  「脱解尼師今」は倭の「多婆那国(丹波)」から来た人であるとしたのは、これが初
  めてではなかろうか。他の書物は出自を曖昧のままにしているものが多い。
 

倭はどこにあったのか(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月17日(金)11時55分54秒
  5.第8代「阿達羅尼師今」5年(157年)
  『倭人が修好のためにやって来た』
  同11年(122年)
  『倭国の女王卑彌呼が使臣を遣わして修好した』
   ◆ 末尾の書籍の著者は『このあたりの紀年には疑問もあるが注目すべき記述であ
    る。若いころの卑彌呼だったとしても矛盾はないからである』している。ところ
    がこれだけ朝鮮の歴史書にもはっきりとした記述があるのに、朝鮮の研究者はも
    ちろん、日本の研究者もこれに関する言及がないのはどうしてだろう。
6.第10代「奈解尼師今」13年(208年)
  『倭人が国境を侵したので、伊食(正しくは冫が付く−以下同じ−2等級の官吏〔1
 7等級まであった〕)利音を遣わし、将兵を率いていって防いだ』
7.第11代「助賁尼師今」3年(232年)
  『倭人が俄かに攻めて来て金城(王城)を取り囲んだので、王は親ら出て戦うと、賊
 は敗れて逃げていった。(そこで)軽騎を遣わして賊を追撃し、一千余級を殺戮した』
  同4年(233年)
  『伊食の于老が沙道(現在の慶尚北道盈徳郡旧沙冬院付近)で倭人と戦う際に風に乗
 じて火を放つと賊兵どもは水に飛び込んでみな死んだ』
  ここの「沙道」がどこに位置するかも重要である。ここは前述のとおり、「新羅」の「
 王都「慶州」から北へ約60キロの日本海沿いにある(『韓国歴史地図』韓国教員大学歴
 史教育科 平凡社 2006年11月10日 31頁)。つまり、「倭」は朝鮮半島南部の「釜
 山」付近からではなく、日本海を北上し、「慶州」の遥か北に上陸し、ここから「慶州」
 に進撃したのである。前記史料には、「倭」は233年、292年、294年の3度にわ
 たり「沙道」に上陸してから「慶州」を攻めたことが記されている。どうして、このル
 −トを利用したかはわからないが、おそらく「沙道」に「倭」の拠点(兵站基地)があ
 ったと考えてよいのではなかろうか。
8.第12代「沾解尼師今」4年(249年)
  『倭人が舒弗邯(最高官)の于老(太子)を殺した』(第16代「訖解尼師今」はそ
 の子である)
9.第14代「儒禮尼師今」4年(287年)
  『倭人が一礼部(郡)を襲い火をつけて焼き払い、一千名を生け捕りにして連れてい
 った』
  同6年(289年)
  『倭兵が攻めて来るという噂を聞いて、船を修理し鎧と兵器を繕い直した』
  同9年(292年)
  『倭兵が沙道(盈徳)城を攻め落としたので、王は一吉食の大谷に命じ、兵を率いて
 いって救い、完全に修復させた』
  同11年(294年)
  『倭兵が長峯城を攻めて来たが、勝てなかった』
  同12年(295年)
  『王は臣下たちに「倭人はしばしばわが国(城邑)を攻めて来るので、百姓たちは安
 らかに暮すことができない。私は百済と謀って一時その国を討ちたいのだが、どうであ
 ろうか」と言われた。舒弗邯の弘権は「我々は海戦に慣れていません。冒険を犯して遠
 征すれば、思わぬ危険が待ち構えていることを恐れます。まして百済は偽りが多く、常
 にわが国を呑み込もうとする野心がありますから、やはり彼らと一緒に謀るのは困難で
 あります」と答えた。王は「もっともだ」と言われた』
   ◆ 「新羅」がこの時点で「倭」を国と意識していたことは注目に値する。

 ★ 『卑彌呼と日本書紀』石原藤夫 栄光出版社 2001年11月10日
 

倭国は九州にあり@

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月16日(木)16時49分14秒
   解法者氏は倭は朝鮮と日本にまたがっていたと主張する。解法者氏の考証はかつて私も述べていたように、全く同感だが、倭国の中心地をっ近畿にすることについては同意しかねる。
 天孫降臨により倭国(出雲王朝実在説にたてば「現・倭国」今の天皇家につながる倭人国家といえる)は誕生した。中国はそれを邪馬一国(原文による、邪馬台国の間違いと言われてはいる)と呼んだ。<根拠としては弥生中期に九州の土器の様式が変わることと、その後九州で大規模な兵乱があった考古学・文献学的根拠がないこと、『魏志』の解釈により邪馬台国は九州らしいことがある。つまり、ニニギノミコトの子孫が卑弥呼というわけである>
 しかし、私は神武東征は3世紀邪馬台国(正確には邪馬一国)よりはるか以前と考えるのである。今後、「現・倭国」史に関する私見について投稿していく。
 

満州民族と日本民族に分割されていた朝鮮半島

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月16日(木)16時31分7秒
   朝鮮半島はもともと蓋人と倭人に分割されていました。その後、新羅は当時九州倭国の支配下にあった地域(多婆耶国、竜城国)の脱解王の血筋(昔氏、天氏)に支配されました。韓国初の統一王朝・金氏王朝ももともと昔氏に婿入りして王位継承権を得た家なので母系では倭人の地をひいています。
 一方で朝鮮北部は中国に支配されました。しかし、中国の力が弱まると高句麗(当然満州族)が北朝鮮を占領、これに対して中国は「失地回復」をスローガンに(なぜか)南朝鮮を侵略しますが失敗。その後、新羅と百済と任那に南朝鮮は分割され、北は満州に本拠地を置く高句麗に支配されます。
 そして、新羅は国王が日本民族で、任那は日本の属国で、百済は倭国の朝貢国なので、当時の朝鮮半島は北は満州民族、南は日本民族に支配されたことになります。(なお、その後の日朝関係については別述。これは歴史の観察者氏や解法者氏の投稿を参考に書いたもの)
 

朝鮮の歴史は満州にいた民族を抜きにしては語れない

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月16日(木)11時47分4秒
   「濊」、「貊」だけでなく「靺鞨」など満州・朝鮮北東部にいた民族を抜きにしては語れません。
 現在の韓国では、こうした民族は朝鮮民族ではないという理由から、これらの研究は必ずしも進んでいるとは言えません。私は果たして「高句麗」が朝鮮民族の国家であるかについては疑問があります。少なくとも前記に示したツング−ス系の民族と朝鮮民族の連合国家である、いやむしろツング−ス系の民族の国家であると考えております。中国? ツング−ス系の民族は中国人(漢民族)ではありませんから、中国が自国民族だなんていうことはチャンチャラおかしいのです。中国が「高句麗」を論じる資格はありません。
 「歴史の観察者」さんが、ツング−ス系の民族を中心に朝鮮古代史を構成されるのは<卓見>と言えましょう。私には力が及びませんから、今後の論考を大いに期待するところです。どなたかが指摘しておりましかが、知識は必要です。「歴史の観察者」さんの知識には敬服しております。
 

これは無理と思われる。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月16日(木)09時14分31秒
  9月14日の投稿はたしかに説明不足でした。補足をいたします。
こ貴殿のご趣旨の倭が南鮮にありに同じことを申しているのです。ご貴殿の論にただ私は、
外来からの新しい集落文化と申すか、精神と申すか、この進取運動をもった種族が、わが列島に入って、伝聞ではなく実地でそれを試さないことには、日本は弥生式集落で終わった。

朝日遺跡に見られる如く、ただの弥生集落から、環濠集落に移行したわ、周辺の討征集中のエネルギー運動です。南鮮の三韓の前の韓(辰国)の時代、倭国大乱の1世紀ほど前ぐらいの時期でしょうか、「濊・貊」が、半島中東部に国家をつくる前、衛氏朝鮮(燕と濊の合同政権)の前です。 黒竜江省のハルピン大B教授は、 韓(辰)そのものが濊と言うておりましたゆえ、私は前の投稿で、南鮮にはすでに、韓と倭の合同政権ができていたとの仮説を立てました・・「韓と倭」そのものが、濊との意味です。

その意味では旧唐書にある
「★・「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」
倭と濊の場所は違えども種は同じの混同話パターンかもわかりなせん。

九州の弥生集落が対島海峡を渡り、南鮮に上陸し周辺の土民を平定する、このようなエネルギー熱意とゆうような文化は、九州側には感じられません。その意味で前にご貴殿に倭の原郷は済州島ですか?とお聞きしたのです・・そう私は、濊は韓(辰)をつくると同時にその一派は対島海峡を渡ったのでは? と思います。

ウイキペディアでも、
ご貴殿が推薦の、鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国
した」
宮脇淳子「高句麗人は、南満州で半農半牧の生活をしていた貊人の一種である[37]」

貊とは、
山川出版社『世界史用語集』「【貊族】紀元前7世紀〜紀元前6世紀以降河北省長城地帯から中国東北地方にいたツングース系民族で、漢族・モンゴルに系に圧迫されて東方に移り、のちの夫余・高句麗を建国する」)

鳥越憲三郎氏の他の著作を読めば、「濊・貊」によっての扶余・高句麗の建国どころか、韓(辰)も、濊の別派の勢いです。私のは、ただそれにお調子にのり、その中のさらの別派が海を渡ったとの推理しかすぎません・・これは異端です・・と申せば、鳥越憲三郎氏の説も異端になるのです。

檀君朝鮮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B%E6%9C%9D%E9%AE%AE

を神話におき、歴史的にも三韓を朝鮮固有の民族とする、韓国の歴史学会に、山川出版社『世界史用語集』の「紀元前7世紀〜紀元前6世紀以降河北省長城地帯からの移住者を当てはめることは韓国の激昂を買うだけのことです。 私の倭の元は、満州人(朝鮮人とは申しません)が朝鮮半島より、五島列島かあるいは玄界灘をわたり直接に筑紫かの妄想も、
「朝鮮より来る」これはこの掲示板では異端になる・・これはよく承知しております。
ただ、論活発のための、一つの対案にすぎないとご理解してください。


もう8年ほど前ですかね〜、東北工程と云い、中国が自国の少数民族の一つとして、高句麗を中華の歴史として見るとの運動に対して韓国が激しく反発し、中国と韓国との政治問題(当事者の北鮮は意外と冷静)に発展したことがありました。

東北工程
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B

ま、これは中国の中央政府(北京)よりも、中国の旧満州(遼寧・吉林・黒竜江)地方政府が引っ張る・・特に省内に朝鮮族自治県をもつ吉林が一番に熱心だった感じがします。

(東北三省が主)の史学・考古学会で激しい論争となり、ついに政治問題に発展しましたね・・中国の方は主に旧満州がやっておりますから、政府は傍観していた感が、だが、韓国の方は愛国加熱ですから、国会が議員が騒ぐ・・「中国の朝鮮侵略だ!」とね・・。

われら日本は、高句麗は、後に日本亡命渡来と感じていますから、朝鮮国家としてとらえていますから、やや中国側(東北三省)の横車的ゴリ押に感じられた。 なるほどに、高句麗は吉林省で勃興(扶余の分派として)し、ピヨンヤンに首都を移す前は、鴨緑江北岸集安にあり、その最大領域も満州側に多くあり、満州国家と言ってもよさそうな雰囲気があります。

高句麗王家も北朝の北魏王家との縁組を何回か重ねてる、いわば、北魏の家来筋に当たる、隋や唐とは中国王朝同格と高句麗自身が思うていたかもわからない・・北魏は満州系(ツングース)鮮卑拓跋部の出であり、高句麗も満州系(ツングース)濊わい」系扶余族の出である。 隋・唐の中国王朝正統争いからくる近親憎悪意識からくる「高句麗征伐」かもわからず、一概に満州人(中国人)の、高句麗中国少数民族歴史説をコジツケ論と、採るわけにもいかない事情もあります。

私は、かって仕事関係で、遼寧省や吉林省や黒竜江省に多くの友がいますから、この東北工程運動よく知っていますが、黒竜江省のある一部ですが、高句麗どころか、三韓(濊・貊)そのものを中国史の少数民族史でとらえる・・これでは韓国側が激怒するの無理ないと思いました。
 

これは無理と思われる

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月16日(木)00時44分38秒
  >私は前4世紀頃、半島より、それは氏族とゆうものではなく、部族と云う単位で、好戦・掠奪的・支配・権力的な、『濊わい』とゆう西方民族が、この日本列島に押し寄せた可能性も有ってもいいのではと思う・・濊が弥生式集落に入り『倭』となったのでは?
「倭わ」は「濊わい」の音のナマリ・・<

 「倭」と「濊」が朝鮮半島で連合体を形成していたというのは、これまでの常識を超えた
発想で敬服するが、ただ、「濊」が日本にやって来たというのはどうかと思う。「濊」の本拠地は朝鮮半島北東部にあり、日本にやって来るとしたら、彼らに押された南部の種族であろう。
 「倭わ」は「濊わい」の音のナマリというものは、単なる語呂合わせと考えられる。古代の発音は不明というのが実情である。
 

倭はどこにあったのか(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月15日(水)19時47分44秒
   「倭人」という種族名の初見は、『論衡・儒増篇』で『周の時代は太平で、(中略)倭人鬯〔チュウ−芳香酒の一種〕を貢いだ』とある。次いで『漢書』地理志・燕地条に『楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云う。(顔師古注)魏略に云う。倭は帯方東南の大海に在り。山島に依って国を為す』(『楽浪海中有倭人、分為百餘、以歳時来献見云』)とある。『三国志』魏志・東夷伝・倭にも同じような記載がある。『後漢書』列伝・東夷・倭では「楽浪」が「韓」に代わっている。以下、『漢書』を参考に『晋書』、『宋書』、『隋書』、『北史』にも同様な記載がある。先と同じように「楽浪」が「帯方」や「高麗」、「百済・新羅」と代わっている。つまり、その時代時代の地域に換えられているのである。
 ここにいう「倭人」がどこの者かは定かではないが、現在の日本にいたと考えられる。そして、ここでは「倭人」の住まう所が現在の日本となっているが、前述のとおり同じ『三国志』の「韓伝」では朝鮮半島に「倭」があるしており、これまた『山海経』の記述から「倭人」は朝鮮半島と日本の両方にまたがって住んでいたと解される。
 なお、この点に関し、「倭人」は中国の雲南あたりから長江(揚子江)流域に進出し、やがて朝鮮半島を経て日本本土にやってきたとし、朝鮮半島の「馬韓」・「辰韓」・「弁韓」も「倭族」であるとする((『古代朝鮮と倭族』鳥越憲三郎 中央公論社〔中公新書 1085〕 1992年7月25日 11頁・13頁)。それはそれとして成立する考えであろうと思えるが、ここでの中国の史料からは「倭人」は「韓人」とも別種の民族であると考えていたので、ここではその考えは採りえない。

 ★ 『論衡・儒増篇』
   「王充」(28年〜100年ころ−「後漢」の人)が著した書物
   『漢書』
   「班固」(32年〜92年−「後漢」の人)が著した書物。「漢」の高祖から王莽ま
  での史実を記している。
 

倭はどこにあったのか(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月15日(水)01時48分37秒
   ところで朝鮮人の研究者は総じて「倭」は日本列島にあって、その北岸に「狗邪韓国」あるとする(『任那と日本(日本の歴史 別卷 1)』金 延鶴 小学館 1977年10月1日 37頁・304頁、『加耶諸国と任那日本府』李 永植 吉川弘文館 1993年4月20日 20頁)。これは「倭」が朝鮮半島にあって勢力を及ぼしているのはその依って立つ「民族主義的史観」から認め難いというのである。こうした「民族主義的史観」は朝鮮人(在日朝鮮人も含む)に蔓延する病根であって、しかも異論を許さない。こうした傾向は日本と朝鮮交流史ばかりか日本統治史の探求に所々に見られる。私が【朝鮮人の著す書籍は読む必要がない】というのはここにある。
 「倭」とはやはり朝鮮半島の南部にもあったと考えてよい。その時期は『三国志』の記述から220年〜280年ころだった(「原三国時代」−韓国ではこう呼んでいる)。
 その上で「倭」とは「日本」と同意義かどうかを検証すべきであると考える。
 なお、「門脇禎二」は『三国志』魏志韓伝に「是より後、倭韓遂に帯方に属す」という記述があることから、「倭国」が「公孫」氏がいる「帯方」にあったとする(『邪馬台国と地域社会』吉川弘文館 2008年6月10日 15頁)。この「帯方」はかの有名な『倭人在楽帯方南海大海之中』(『三国志』魏志倭人伝)で、朝鮮半島の38度線の北側の「黄海」に面した場所に位置している。これにより「倭」は朝鮮半島南部のみではなく、中北部にもいたのではないかというものであるが、後述するような『三国史記』などの朝鮮側資料の裏づけがないのが寂しい。しかし、『三国志』の編者「陳壽」が「韓」とは別に「倭」という国があり、「帯方」にあったと考えていたことは間違いなかろう。
 

朝鮮人は来なかった。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月14日(火)16時33分58秒
  これも一つの対案として投稿してるだけのもの・・・絶対に自分は「こう思うんだ!」との強い意思ではなく・・従来からこれが、日本古代史研究家の常識論としての紹介でありますとの意味合いのものです。

私も稲作文化は半島経由でなく、中国江南地方より氏族(20人〜30人)単位が、・・東シナ海を渡っての、九州の鹿児島県か、長崎・熊本県あたりの上陸、あるいは黒潮に乗り・紀伊半島か、静岡県あたりに流れついたものかとも思っております。

稲作
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

中国江南地方で何が国外脱出しなければならなかったのか? その理由はわからない・部族間の抗争か、あるいは西暦前1000年頃の西周の封建制度による中原からの江南への人の移動により、東シナ海に押し出されたのであろうか?・・。

だが、この水稲耕作による弥生時代の到来(現在では従来の前4〜3世紀を修正し、前9〜8世紀と500年の先行繰上げとなっている・)を日本の国造りの開始とは思うていない。
その意味では私も守旧派歴史観察者なのです。

三内丸山遺跡が、尻岸内遺跡・日の浜遺跡・サイベ沢遺跡がいくらあと1000年続こうが、あれでは国にはならない・・集落のままである。弥生式集落が500年続こうが、ある刺激がこれに加わらないと国にはならない・・集落のままである・話し合いで選ばれし者は集落の長となるだけにて、強大なる権力の集中、民を下僕・奴隷に従える国家形態には移行しない・・。

三内丸山遺跡
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1/?from=websearch

よき例が、愛知県、清洲の朝日遺跡がそうである・・縄文時代から古墳時代近くまで続くが、国家の形態をもちはじめたは、この遺跡が環濠集落の姿を顕わした時からである。
壕を掘り柵を囲み、櫓を組み、恐ろしき富の略奪、民の虐殺に防備を固めなければならなくなった時に、はじめて平和的・他を尊重すべし、協力的な集落から、好戦的・他を支配し、富の略奪への国家と権力の開始である。


朝日遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E9%81%BA%E8%B7%A1

環濠集落
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD

「倭国大乱」・中国戦国末期に伝えられし、この大乱がないことには国家は誕生しない。
私は前4世紀頃、半島より、それは氏族とゆうものではなく、部族と云う単位で、好戦・掠奪的・支配・権力的な、『濊わい』とゆう西方民族が、この日本列島に押し寄せた可能性も
有ってもいいのではと思う・・濊が弥生式集落に入り『倭』となったのでは?
「倭わ」は「濊わい」の音のナマリ・・。

これは漢書の、鮮卑族の項でも、
「檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。そこで、汙人(倭人[1])たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという。」

檀石槐
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90

あきらかに、「倭わ」と「濊わい」を混同している、濊人と倭人を「烏侯秦水」あたりに住む、漁撈狩猟民とみている・・「烏侯秦水」とはどこか?古くから、遼寧の老哈河か、または、吉林の松花江を示す研究が多いが、私の知人のハルピンのB教授は、 庫莫奚(契丹)の北、烏洛侯あたりの貝爾湖よりのハルハ川と指摘してる・・いずれにしても、東海の島国の倭人を言っていない。

このように、西方から日本の弥生集落を東征した「濊わい」を私は神武東征を意識はしていないが、この武力侵攻によって、日本の国造りが始まった、との従来の説も捨てるは抵抗があります・・同じ条件をもった、台湾や、沖縄、フリピンが、国造りが1000年、1500年、2000年も遅れたは、内部から変革する要素はきわめて少なく・・それは外部からの渡来による刺激ではないでしょうか?・・。

烏洛侯
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%B4%9B%E4%BE%AF

庫莫奚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%9A
 

「村木厚子」元厚生労働省局長は、無罪放免か

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月14日(火)13時27分22秒
   平成22年9月11日(金)に、大阪地方裁判所で無罪が言い渡された。容疑は、障害者団体向け郵便制度を巡る偽の証明書を発行したとして、虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われ、懲役1年6月を求刑されていたものである。
 検察側の描いた構図に無理があったのが原因である。これについてはこれまで幾多の報道がなされているから、ここでは述べない。
 おかしいのは、これまで「村木厚子」被告の有罪を言い立てていたマスコミが手のひらを返したように、今度は検察側への非難に回っている。有罪を言い立てていた反省などどこにもない。そして、今度は「村木厚子」への同情一色である。
 「長妻 昭」厚生労働省大臣は、「復職いただき、それなりのポストで処遇する」という(平成22年9月11日(金) 産経新聞 朝刊 東京15版 24面)。
 この事件は、彼女の部下の「上村勉」係長が障害者団体向け郵便制度を巡る偽の証明書を発行したことに端を発している。郵便当局の蒙った損害は22億円とも言われている。民間会社だったら、当の昔に部下の監督不行き届きを理由に罷免されている。復職など<狂気の沙汰>である。罷免が妥当である。
 無罪は、国家賠償法で保障すればよく、このこととは全くの別問題である。
 マスコミもこの点を指摘するものはいないのか!
 

待ってました!

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2010年 9月14日(火)11時48分5秒
  解放者さんの新シリーズ、「倭は何処にあったのか」素晴らしい考察といい洞察力といいワクワクしながら読んでます!  

倭はどこにあったのか(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月14日(火)11時32分38秒
   確かに双方は矛盾しているとも言え、江戸時代から研究者を悩ませてきた。筆者の「陳寿」も悩んだと思える。彼はこれに気づいて、『弁辰は帯方の東南の大海の中にあり、売〔正しくはサンズイ+売(売も正字「以下同じ」〕慮〔正しくは心が皿「以下同じ」〕国は倭と接し、十二国がありそれぞれ王がいる〔弁辰、在帯方東南大海之中、依売慮国与倭接界、十二国又有王〕』と記述し、倭との間に12国も挙げて、その信用性を強調している(井上の前掲書 320頁)。「売慮国」とは釜山市郊外の「東来〔正しくはくさかんむり+来「以下同じ」〕(トンネ)」と考えられている。「巨済島(コセド)」に比定する見解があるが、間違い。ここは島で「接界」とはならない。それは、「韓伝」を見てみると、「西与鮮卑接」、「北与夫余接」などとあり、ここでの用法は<陸続き>のことをいうからである。同一の文献で異なる用法は使用されないのが原則であるから、「倭」が海を隔てて接していたなどとはとうてい考えられない(井上の前掲書320頁、「李 鍾恒」−前掲書 同頁)。「田中俊明」の考えは明らかに誤りであると断言できる。山尾は『新唐書』地理志にある「北岸」は海を隔てた北側にあるという用例を示すが(同 72頁)、前述の同じ中国の古書では、これと相反する表記方法を採っている。彼が「伽耶イコ−ル倭説」を<史料の証拠力の限界を踏み越えた議論>であると批判しているが(同 72頁)、<我田引水>の史料のみを引用して事を論じるのはいかがなものか。
 これらの論争は、前記のとおり「倭」は北(朝鮮半島)と南(日本)との双方にまたがって存在していたと考えれば氷解する。なお、「倭人伝」の編者の記述からは「狗邪韓国」は「売慮国」に接しており「倭」であったと認識していたと思われる(『任那と古代日本』寺本克之 新泉社 1999年7月15日 30頁)。
 『後漢書』の「馬韓伝」にも『その南界は倭に近く、また文身する者あり』と記され、同「弁辰伝」にも『その国は倭に近く、故に頗る(すこぶる)文身する者あり』と記されている。ここにも「倭」とは海を隔てているとは記されていない。
 「倭」が朝鮮半島の南部にあったということは朝鮮の資料からもうかがえる。『三国遺事』(第3巻「塔像第4−皇龍寺九層塔」)に唐に留学していた「慈蔵法師」が『我國北連靺鞨。南接倭人』〔わが国は、北は靺鞨と連なり、南は倭人と接し〕と記載されている。当時の朝鮮人はこうした認識の下にあったのである。また、『三国史記』新羅本紀 第9代「伐休尼師今」10年(193年)6月条に「倭人が大飢饉に合い、食を求めて千人がやって来た」とある。当時の「新羅」は慶州を中心とした小国で、これもわざわざ危険な海を渡って「新羅」にやって来たと考えるより、「倭」が朝鮮半島にあったと考えれば容易に理解できる。
 

倭はどこにあったのか(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月13日(月)22時52分31秒
   日本でも名高い『三国志』の「魏国史」の中の「東夷伝」には「魏志倭人伝」があるが(以下「魏志倭人伝」という)、『魏志』は何も「倭」のことばかり記しているわけではなく、朝鮮のことも記している。それが「韓伝」である。そこには『韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す』(「韓、在帯方之南、東西以海為限、南与倭接」)との記述がある。
 これについて「田中俊明」は「倭は海を挟んで南側に位置する」とする(「『魏志』東夷伝の韓人と倭人」〔『古代を考える 日本と朝鮮』武田幸夫編 吉川弘文館 2005年1月1日 19頁〕)、山尾幸久もこれに同調する(『古代の日朝関係』塙書房〔塙選書 93〕1989年4月10日 71頁)。朝鮮人の研究者はこぞってそれを支持する。しかし、「韓」の位置を示す記述には「海」があるが、「倭」のそれには「海」の記述がない。こうした表現は中国の古書にも見られ『元和郡県志』(巻13)に、「西北微東至大海北岸都里鎮五百三十五里」とあり、「都里鎮」(旅順)は大海(黄海)の北岸に位置することを意味する。また『武経総要』(巻16上)に、「去海西岸黒龍港口」とあり、黒龍港口は海(渤海湾)の西岸とある。このように「海」が記され、そのすぐ後に目的地を表示している。
 さらに、その末尾に『其弁韓瀆盧國。與倭接界』〔その弁韓・瀆盧國、倭と界を接す〕とある。「倭」はやはり今の朝鮮半島にあったと考えられる。なお、同じ『三国志』の「韓伝」(弁韓・辰韓条)に「國(辰韓)出鐡。韓・濊・倭皆從取之」とあり、「倭」がこの地にまで進出していたことがうかがえる。
 これについて、なお、同「倭人伝」に『郡至倭。循海岸水行。歴韓國。乍南乍東。到其北岸狗邪韓國』(郡〔帯方〕より倭に至るには、海に沿って水行し、韓を経て、あるいは南しあるいは東し、その(倭)の北岸狗邪韓国)とあることから、この「北岸」とは「海を隔てた北側」ということだとして、「倭」は海(対馬海峡)を挟んだ南側の今の九州にあるという再反論がある(「北岸−三国志・東夷伝用語解の一」日野開三郎〔『日野開三郎東洋史学論集 9巻』三一書房 1984年3月31日 427頁〕、山尾前同)。ここにいう「其」北岸の「其」が「倭」を指すことについては異論がない(日野 前掲書 430頁)。この「韓伝」と「倭人伝」を素直に読めば、朝鮮半島に「倭」があり、その北岸に「狗邪韓國」(「金官伽耶」)があるように読める(『新装 韓半島からきた倭国』李 鍾恒 新泉社 1990年3月20日 256頁、『日本古代国家の形成と東アジア』鬼頭清明 校倉書房 1976年6月15日 231頁)。もちろん、「北岸」を「海を隔てた北側」とすれば、日本列島側に「倭」があり、その北岸の朝鮮半島に「狗邪韓國」があることになる。

 ★ 『三国志』
   「陳寿」(233年〜297年)の編纂になる歴史書。魏・蜀・呉が鼎立していた
  紀元220年〜280年までの間の歴史を記した書物
   『後漢書』
   「范嘩」(398年〜445年)宋の文帝(元嘉9年〔432年〕)の時代に著した
  歴史書。「倭伝」については『三国志』を参考にした形跡がある。
 

朝鮮人は靺鞨・濊などに興味はない

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月13日(月)22時35分26秒
   朝鮮の研究者は、「古朝鮮」に関心を示す。その対象は建国の主体が朝鮮人なのか、中国人なのかにある(『日韓古代国家の起源』金廷鶴編 学生社 1980年3月20日、「楽浪文化の歴史的位置」金元龍、「韓国古代史の成長」金哲峻〔『韓国史の再検討』井上秀雄監修 学生社 1974年8月30日〕、『韓国古代史論』李基白 学生社 1976年9月10日)。常に民族の高揚が常に焦点となる。靺鞨・濊などには興味を示さない。いつもながらの極めて<単眼的>だ。
 『三国史記』にも、「靺鞨」・「濊」がたびたび出てくる。しかし、これらが研究対象になることは少ない。理由は朝鮮民族でないと考えていることにある。「濊」は現在の北朝鮮の咸鏡南道あたりから江原道にかけていた民族らしく、「靺鞨」は満州南部にいたらしい。いずれもツング−ス系の民族のようだ。この他にも粛慎があったりする。「歴史の観察者」さんの指摘するとおりである。この間、これらについて、研究してみたが、私には基本的知識を欠いていたのでわからなかった。ただ、朝鮮の古代史を研究するについて、彼らのことは欠かせない。「古朝鮮」は朝鮮半島の北西部にあったもので、北東部の「濊」あるいは満州の「靺鞨」を考察の対象から外してしまうのは片手落ちであろう。「渤海」だって「靺鞨」単独王朝との考えもあり、高句麗遺民と「靺鞨」の連合体だというのが通説になっている。
 「歴史の観察者」さんは彼らの研究をなされているようで、当を得たものと言える。せっかく研究されているのだから、人の批判など物ともせずに発表していただきたい。研究対象は人それぞれで、大変期待しております
 

歴史の観察者さんへ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月13日(月)19時47分11秒
  >ただ掲示板の世界は、「右ならえ右に!」「一糸乱れずに統一だ!」では、これでは板に活気と論談の進取が生まれないおそれもある・・私の投稿は、論に華を添えるために「敢えて対案を出す・」との意味合いもある、決して貴殿の論をケナスとの意気込みは何もない。
その点を自分では気をつけているつもりだ。<

 再三申し上げているように、あなたの博識を評価しております。
誰が何と言おうと異論があって当然 時には喰ってかかることがありますが、性格もあって
お許しください。
 

朝鮮人は来なかった。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月12日(日)21時50分41秒
  解法者さん

「倭はどこにあったか?」
のその後の投稿が無いのはどうされたのかね? 私はそれを楽しみにまっている。
それに合わして、「朝鮮人は来なかった?」あるいは「朝鮮人は来たのかも?」の続編投稿をしようかな?と待ってるの・・。

ただ、これだけを聞くと、私が一見荒らし投稿のようで、君の意見に意地悪く、イチャモン意見をぶつけるような感じを受けるが、違うのだよ、あなたはとても博識で、またよく勉強もしておられる・・そして、投稿される意見もとても、新鮮であり「ううーん」と唸るような感心する面白さがある・・。

ただ掲示板の世界は、「右ならえ右に!」「一糸乱れずに統一だ!」では、これでは板に活気と論談の進取が生まれないおそれもある・・私の投稿は、論に華を添えるために「敢えて対案を出す・」との意味合いもある、決して貴殿の論をケナスとの意気込みは何もない。
その点を自分では気をつけているつもりだ。

だが、「折角に統一論で楽しんでいるのに、要らざる別意見は不要である」との意見もまたこれも当然なる主張である・・遠慮なく言ってほしい、さすれば、私は投稿を差し控えて、ROMに徹するつもりだ・・。

なかなか次の貴殿のご意見が出ない・・。
あとは、これだけで、私も撤収しようと思う・・。

この「倭はどこにあったか?」については、学者・研究者の間では古来より、いろいろな意見があるが、専門家の談は用心深く断定的でなく、おもしろくない・・市井の古代史同好者の間では、下記のURLにだいたい集約されている。


倭・倭人関連の中国文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#.E6.9C.AC.E6.96.87_10

弥生の興亡1、魏志倭人伝から見える日本
http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_5.pdf

『中国史のなかの日本像』
http://www.japanology.cn/japanese/book/nihonzo/01/1.htm

あなたのご意見が、だいたいこの辺りにあるのか、それともまったく別のところ・・例えば
庵美諸島だ!沖縄列島だ!いや台湾島そのものだ、違う済州島がその本拠だ!
の意見のように、まったく別の海域にあったかを聞きたいものです。

(かしこ)
 

朝鮮人は来なかったを読んで

 投稿者:柏崎  投稿日:2010年 9月12日(日)19時36分52秒
   解法者さんの力作を読んで、やはり弥生時代以前に朝鮮などから渡来人が集団としてやってきたと考えるのは無理でしょう。
 イネの遺伝子からいってもそうですし、考古学上からも文献上からも無理でしょう。
ただ、ヒトの遺伝子を考えると集団としてやってきた可能性がありますが、それがはたして
弥生時代以前となるとどうでしょうか。
 日本人は渡来人が作ったというのは真っ赤の嘘でしょう。また日本にやってきて小国をつくり、再び彼らが朝鮮に渡って倭を作ったというのも考えられませんね。

 やはり知識は必要でしょう。前にどなたかが、中国の領土的野心で、中越戦争や南沙諸島のことを知らなかったのは致命的でしたね。この方が中国のことを論ずるのは無理だと感じました。
 

私も期待してます。

 投稿者:子泣きジジイ  投稿日:2010年 9月12日(日)16時07分59秒
  私も投稿できないのは知識が無いからです。
今後の新シリーズ、期待しております。
 

私も期待してます

 投稿者:柏崎  投稿日:2010年 9月11日(土)08時35分6秒
   豊富な知識に裏づけされた考察にはいつも感心しております。
先日 投稿に対し連続投稿をやめろという人が現れましたが、こういう人は知識もなければば投稿する勇気もない人です。そもそもこの板は投稿者が少ないので、目立っているだけです。数分間に大量のものを連続して投稿するものを連続投稿といい、解法者さんのものはそれにあたりません。
 投稿には知識も必要です。100%の勝利を目指すのもありです。非難することではありません。それくらいでないと実のあるものはできません。そのうえ論争も深まります。私が投稿できないのは知識ないからです。
 

超期待してます。

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2010年 9月10日(金)22時17分19秒
  解法者さんの新しいシリーズ倭は何処にあったのか、ファンとしては胸が高鳴る程超期待してます。  

朝鮮人は来なかった。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月 9日(木)20時57分7秒
  私はかって○○年ほど前に、黒竜江省の▲▲大学のB教授と共に、その教授が唱えていた、る、ツングース族の原点となった「濊わい」族が、吉林省に入る前の原郷の呼倫湖(フルン・フーリン)に行ったことがあります。その北岸の地・ジャタイノールの新石器時代、BC10世紀以上前に遺物は、海拉爾(ハイラル)の考古学博物館(今はハルピンと聞くが?)
にあり、そこも見物、あの世紀の大発見の鮮卑族発祥の地の「嘎仙洞ガ・シェン・ドン」
の壁面・北魏碑文解読で有名なる、米文民氏にの会い・「濊わい」についてもお聞いたしました。

当然に、大興安嶺を西に越えたのですから、ツングース族形成の土地、アムール川の上流の
アルグン川・・モンゴル語ではエルグネ河畔「エルグネ・クン」・・ここは後に、室韋蒙兀(シツイ・モウコツ・成吉思汗のご先祖の地)になるのですが、この森林地帯も見てきましたよ・。

また、吉林省の長白山地東南の延吉(イエンチー)やロシア・北鮮国境の町、琿春(フンチユン)も行きました。延吉は濊が半島に入る前、前4世紀ー前3世紀頃でしょうか、ここを部族の根拠地としていた場所です。濊はここから半島に入った、その前衛部隊は南鮮まで至る。現地に残ったが、沃沮(よくそ)一部は北に走るが、これが海賊国家の挹婁となるのです。延吉は濊、琿春が沃沮となるのです。

私はウラジオストック勤務半年ほどありました、この短い期間のチャンスを生かし、当時はソ連領沿海州の東岸を国境警備隊の許す範囲でドライブに行きました。
オリガは挹婁の海賊出撃拠点となっていたとハルピンのB教授に聞いていたからです。少数民族のツングース・ウデヘが挹婁ノ末と聞いてうたからです。
なお余分ゴトですが、西周から歴史に出現した古アジア・シベリア種の粛慎の末は、ニブヒ族またはナナイ(山丹)族らしいです。

オリガから北海道の江差まで直線で450キロ、、意外に近い親潮の乗れば2日での距離です。
太平洋と違い・・北前船が活躍したが如く、海は荒れないのです。西暦658年に阿部比羅夫が蝦夷を討つ時に、後方羊蹄(シリベシ・北海道)の渡島半島西岸より出羽に入った、
「みしはせ」が沿海州の黒水靺鞨ならば靺鞨は挹婁の末と謂われる・・丸木舟でも渡れる穏やか海域、海賊挹婁が羊蹄に渡ったとしても何んら不思議さはない。

黒水靺鞨
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8

どうして、扶余・高句麗の名前が出てこないのか?・・扶余は、別の濊系種族なのです。 その出発点はモンゴル共和国の貝爾湖(ブイル)・・これもハルピンB
教授と米文民氏との会話の中の出来事・・通史とゆうのではありません。実はこの7月・8月に友人4人と共にここに行ってきました、○○年ぶりやっと行くことができました。
貝爾湖(ブイル)は、ハルハ川に繋がる淡水湖で琵琶湖の大きさです。ハルハ川は元朝秘史にある、鉄木真(テムジン・成吉思汗)と、宿敵のタタール族との決戦の場所です。

またハルハ川の戦いで有名なる、日ソ激突の場所の、ノモンハン戦場でもあります、濊系の扶余は前3世紀ー2世紀に、このハルハ川に沿うて、阿爾山(アルシャン)から、
大興安嶺を東に抜け、タオアル川を下り、白帝(パイチョン)に至り、ここで勢力をたくわえ、査干泡湖(チャガンノール)の扶余(フーユ)に出た。
私は白帝から、タオアル川とコイリュウ川の合流点・・烏桓(東胡の末、蒙古種)原郷説の一つ・・まで行ったことがあります。

烏桓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%A1%93

長い長い、長説が続きましたが、濊(わい)の地・沃沮(よくそ)の地・挹婁(ゆうろう)の地を訪ねました・・地元の人より伝承らも聞きましたよ・・
そして、出雲風土記、とくに国引き神話によく似た伝承を聞きましたよ・・ま、この国引きは南アジア方面にも多いから、あまり重要視してはいけないとは思いますが・・。

出雲風土記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

国引き神話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BC%95%E3%81%8D%E7%A5%9E%E8%A9%B1
 

倭はどこにあったのか(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 9日(木)12時30分51秒
   中国の文書に「倭」が現れたのは『山海経』という地理書である。この書物は紀元前1世紀にあったというほか成立がはっきりしない。その書物の「海内経」に『蓋国在鉅燕南倭北倭属燕』という記述がある。ここにいう「燕」は中国の戦国時代(紀元前403年〔晋が韓・魏・趙の3国に分かれて〕から紀元前221年〔秦が中国を統一するまで〕の間に栄えた国家であるが、「鉅」〔強大の意〕とあることから紀元前4世紀末から3世紀初のころであると考えられる。中国の現在の北京付近に都を置き河北省から遼東半島を支配していた。つまり「倭」はそのころの所在を示すものと考えてよい。「蓋国」とは不詳であるが、高句麗には「西蓋馬」があり(『漢書』地理志)、「蓋馬大山」があった(『魏志』沃沮伝)とあるから、そのことを意味すると思われる。さて、この読み方であるが、『蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り倭は燕に属す』と読む者がいる(『古代王権の原像』山尾幸久 学生社
2003年9月10日 61頁、「日本列島と朝鮮半島」〔『古代を考える 日本と朝鮮』武田幸久 吉川弘文館 2005年1月1日 13頁〕)。しかし、私は『蓋国は鉅燕の南に在り、南倭・北倭は燕に属す』と読みたい。昔(平安時代)は私の読み方が一般的であった(『任那日本府と倭』井上秀雄 寧楽社 1978年10月1日 294頁・380頁、『任那−「紀」における古代外交史』森 正平 私家本 1988年4月 26頁)。

 こう読むのは「倭」が朝鮮半島と日本の二つにあったことの解釈にある。つまり、「倭」は次の資料が示すとおり朝鮮半島にもあったのである。そして、すでに「燕」(中国)では「倭」の存在が知られていたことを示している。「倭」が中国の「燕」に属していたとは大げさな表現だが、当時の中国では「倭」が中国の「燕」に属していたという認識だったと考えられていたのである。
 この時代の「倭」が遠く離れた「燕」と交流があったのは注目に値する。なお、「海内経」の先の記述に続いて『朝鮮は列陽の東海、北山の南に在り、列陽は燕に属す。鉅燕は東北の陬〔隅〕に在り』とある。「列陽」、「北山」は不詳である。
 

これは鋭い発想ですね

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 9日(木)12時29分2秒
  >半島の南端にはすでに、濊人と倭人との合同政権の辰国が有ったから<

 『三国志』の「韓伝」(弁韓・辰韓条)に「國(辰韓)出鐡。韓・濊・倭皆從取之」
とありますから、その可能性はあるでしょうね。
 ここまでは踏み込めませんでした。発想が柔軟ですね。感心いたしました。
 

朝鮮人は来たかった。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月 8日(水)21時58分56秒
  <『■・その痕跡が日本列島に確実にあるかどうかでしょう。』>

考古学的には、残念ながら今の段階で、痕跡がまるで無いでしょう・・銅鐸の、宗教的意味さえまだはっきりとは掴んでいませんからね・・。

だが、過去の状況を知るには、この考古学からの追求と共に、歴史学、文献または伝承から推理する方法もあるのでは?・・そりゃ考古学が大事なことは言うまでもありません・・貴殿投稿の稲作伝来をプラント・オパールから、その真実に走る・・この一種の考古学手法により、今回の稲作伝来は半島経由にあらず・・貴殿のご主張、まことに当を得てると私は思います。

だが、考古学一本槍では、また歴史の楽しきロマンは語れないのでは、私は文献(古事記・日本書紀・風土記)や神社由来伝承の中からも、朝鮮人(厳密に申せば、檀君朝鮮のオフザケ人種ではない・・満州を原郷とする、渡り半島人を意味する)の日本列島訪問記はないのだろうかと思うています・・自信はまるでありません、空想・ロマンの枠に入るものであるかも?・(笑)。

そう浜島書店の「総合資料世界史」の23頁の半島地図帳にある、衛氏朝鮮は、燕の満と、濊との連立政権だったのでは?・・108年に、漢朝は西部朝鮮は制圧することができたが、東部朝鮮、さらに南部のこの濊系の韓(辰国)も押さえることができなかった。

韓(辰国)は、漢書から読めば西暦前3世紀に、つまり衛氏朝鮮(前195年頃建国)の前にできています。また、この23頁には沃沮(よくそ)・挹婁(ゆうろう)・扶余(ふよ)
が出るに、これらの親元筋の、濊(わい)が消えるのはおかしいですね・・衛氏朝鮮に滅亡させられたのでしょうか?・・。

燕も濊もその本拠は満州です。燕が遼寧なら濊は吉林です。実は私は「燕の満」は濊の武人ではないのか、蓁の始皇帝により燕が滅亡した際に、亡命燕人と共に多数の濊人を率いて半島に逃れた。半島の南端にはすでに、濊人と倭人との合同政権の辰国が有ったから、南鮮には行きやすかったのでは?

前108年に漢の武帝による半島攻略も燕の遺臣政権は滅び、帯方・楽浪の2郡が設置されたが、連立部だった濊政権は半島中東部にこもり、半島南部の三韓(辰国の後輩)と連携して漢植民地勢力と対抗したのでは・・。

私は、南鮮に辰国が興る前3世紀頃には、南鮮より対島海峡を渡り、濊人(南鮮人と表現するのか? 満州人と表現するのかは難しいが?)が九州に渡った・・辰国じたいに倭人がおり、その手引きと和平的渡来は・・それほど難しくなかった・・。

だが、大量移民はやはり軍事的衝撃によっておきる・・108年の衛氏朝鮮が倒れるにより、多くの朝鮮人(今度は満州人ではなく朝鮮人)が三韓地方へ、さらにこれのトコロテン現象で、この朝鮮人と共に三韓人も海をわたり九州に渡来したと想像できる。

また、この漢朝の植民地形成後に、半島中東部に興った「濊(わい)・貊(ばく)」国家より、日本海をわたり、隠岐を中継点として、出雲・因幡・越への渡来も神話や風土気記・民間伝承たにより読みとれぬこともない・・。

いずれにしても日本学会における、
馬韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%9F%93

辰韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93

弁韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E9%9F%93
の研究は盛んであるが、「濊・貊」の研究、沃沮や挹婁(アジア最初の海賊国家)の研究は皆無である、出羽とか佐渡島の民間伝承にも非常に影響すると思うが残念ながら皆無である・・あとは満州人や沿海州人学者によるこの方面の研究成果を待つより手がない状態である。
 

驚きました!

 投稿者:烏賊徳利  投稿日:2010年 9月 8日(水)18時13分42秒
  開放者様ファンがここまでたくさんいるとは!
全く嬉しい事です。
この際、オフ会でもやりませんか。
幹事は「夜泣きそば屋」さんで決定です!
 

私の言いたかったのは

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 8日(水)13時48分13秒
  >稲作文化は半島経由にあらずと、朝鮮人は来なかったとは別問題なのでは?<

 私の言いたかったのは、『主として朝鮮半島から人々が手に手に稲を持って
日本列島にやって来た。これが弥生人である』と教えられてきたことに対する
疑問から出発してます。
 >朝鮮人が日本に来なかったは、西暦前1000年の頃であり、縄文人から
弥生人が急速に人口が増え、村から小国家成立の機運が漲るは、ただ食料事情
や定住との生活環境の変化かえあくるものもあったではしょうが・・やはり
根本的には前2世紀頃からの大量の半島からの移民であるとするのが自然な
のでは・・<
 あなたの疑問はもっともですが、その痕跡が日本列島に確実にあるかどうか
でしょう。ここのところを明らかにしないとダメではないでしょうか。
 

朝鮮人は来なかった。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月 7日(火)22時31分42秒
  朝鮮人は来たのでは?

総合資料世界史地図「浜島書店」の23頁に、西暦前2世紀後半のアジア地図・
ま、漢朝武帝の匈奴攻撃が開始された頃かの・西暦前130年頃の地図と想定される。

だが、また漢書地理志に、高句麗建国の前37年頃のわが日本国(倭国?)の状況について、
「この頃の倭人の小国分立」とあるから、この地図はその100年ぐらい前になるから、?まだ倭国には倭人集団は居たが、国とゆう概念の小国すら立っていないと解釈するのか?
あるいは、古事記・日本書紀を信用して、9代開化天皇(BC158年ーBC97年)の御世と解釈するかは?、とても難しい問題だがね・・。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD

とにかく、その総合資料世界史地図「浜島書店」の23頁を見れば、
北朝鮮の威鏡南道の北、慈江道蓋馬高原の東、後に漢書では玄莬の郡と表記される北方の地、今の金策(キムチェク)あたりであろうか?

沃沮(よくそ)と云う国が明記されている。 そして、その沃沮の北方、今での沿海州あたりには、挹婁(ゆうろう)があり、その挹婁の西、今の吉林の辺りに扶余(ふよ)があった。この時代、高句麗の存在はまだない。 高句麗の建国は前37年だから、この100年前にはまだ無い。

沃沮(よくそ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%83%E6%B2%AE

挹婁(ゆうろう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%A6%E5%A9%81

扶余(ふよ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99

高句麗(こうくり)
http://search.goo.ne.jp/web.jsp?MT=%B9%E2%B6%E7%CE%EF&PT=OCNTOP&from=query&bt_search.x=42&bt_search.y=10

この沃沮の南に衛氏朝鮮(BC195年ーBC108  戦国燕の遺臣・衛満)がある。
そして衛氏朝鮮の南・今の慶尚南道・大邱(テーク)あたりに韓(辰国)とゆう政治勢力があった。後に漢の郡の一つとなる真番の東方の地にね。

衛氏朝鮮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE

韓(辰国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%9B%BD

だが、この紀元前2世紀の総合資料世界史地図23頁地図帳が・・次の24頁に来るや・・これは(2世紀のアジア・西暦100年ー200年)に移ると・・・まあ、この時代は、倭国の内乱(147年ー189年)にあたるか? 倭の伊都国王の師升(スサノウ?)が、107年に後漢朝に遣使、生口160人献上(保有奴隷の?%にあたるか? 相当なる強大国家と推察できる)の倭国内乱の前の平穏時代に当たる地図帳なのかはわからない?。

または、古事記、日本書紀を信用して13代、14代の仲哀天皇・成務天皇の頃か、あるいは神功皇后(170年ー)の三韓征伐の時期・・(★注意・事実この24ページ地図帳には、辰韓・馬韓・弁韓の三韓が列挙されている)かどうかはとても難しい問題だ。

三韓(さんかん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93

馬韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%9F%93

辰韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93

弁韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E9%9F%93


この西暦2世紀に朝鮮半島中東部、太白山脈に沿うて、江原道に「濊わい・貊ばく」と云う国家があらわれるが、この地図表記にはまったくの頭が混乱する。

濊(わい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BA%BA

貊(ばく)
http://wapedia.mobi/ja/%E6%BF%8A%E8%B2%8A

それは、この「濊わい・貊ばく」の西に漢朝の2郡(楽浪・帯方があり、これは、108年に衛氏朝鮮が滅亡した後の半島の漢朝の植民地である。
ならば、「濊わい・貊ばく」は、衛氏朝鮮が滅亡の後に中半島東部で独立したか?・・それもおかしい。

漢書にはこの「濊わい」の記事は多くでる、それも、前漢時代(BC202年ーAD5年)にその名前が出る。
紀元前134年、前漢の武帝は穢州[1]を取らんとして城邑を築いた。
紀元前128年冬、穢君南閭ら(穢族の首長の「南閭」たち)が二十八万もの穢人を率いて投降、その地に「蒼海郡」[2]を設置
紀元前126年春、蒼海郡を廃止。この時、現地の首長(南閭か?)に「穢王之印」を授けて独立を認めたらしい。
紀元前134年〜紀元前126年の9年間は漢帝国と穢族の戦いが継続していたのではないかとみる説もある。
紀元前108年、衛氏朝鮮を滅ぼしその跡地に楽浪郡を、周辺に真番・臨屯の二郡を設置。このうち臨屯郡は現在の韓国江原道にあたり、穢族の居住地の一部(最東端)だった。

この記録からも、漢は衛氏朝鮮よりもこの「濊わい」を強敵として対峙している。
その「濊わい」が、総合資料世界史地図「浜島書店」の23頁に、西暦前2世紀後半のアジア地図に出ていない・・実におかしな話である。

沃沮(よくそ)も、挹婁(ゆうろう)も、扶余(ふよ)、高句麗(こうくり)も総て「濊わい」の出である。辰・三韓(さんかん)すら、濊系の可能性すら高い。
私は、倭国すら、前2世紀頃に遼寧より、半島の東岸・黄海を南下し、全羅南道より独巨群島・所安群島・済州島より対馬・壱岐そして佐賀に上陸した大量の濊「わい」の移民団により、家族・氏族単位から村単位の集団社会が形成されたのでは?、即ち、世界史資料23頁の地図帳のこの時期に、朝鮮人は日本に来らのではないのか?・と思うています。

ごめんなさいね・・異端の論をぶち当てたような形になり・・。
 

朝鮮人は来なかった。

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2010年 9月 7日(火)20時13分12秒
  朝鮮人は来たのでは?

稲作文化は半島経由にあらずと、朝鮮人は来なかったとは別問題なのでは?
日本で、水田農耕が開始されたは、現在の研究においては、西暦前800年から1000年
とされる・・・この時代には半島での稲作開墾遺跡はどこにも見っかってはいない・・

稲作
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.B8.E3.81.AE.E4.BC.9D.E6.9D.A5

2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており・・縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。
それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸(中国南部以南)からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説もある・・現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は2800〜3000年前とされている。

檀君朝鮮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B%E6%9C%9D%E9%AE%AE

箕子朝鮮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90%E6%9C%9D%E9%AE%AE

いずれも幻の後世の人の想像上の国家政であり、西暦前1000年に稲作伝来を半島人が成し遂げるとするには、その基盤勢力が南朝鮮に存在しようも無かったことを思えば、
陸稲はそのモミが丸木に付着し黒潮に流され、日本に乗り上げたかもわからないが、水稲に関しては、種族・部族単位まではいかないが、氏族単位で、あきらかに移住・移民を目的として中国江南地方より渡ると考える・・ここが妥当なところでは?。

だが、朝鮮人が日本に来なかったは、西暦前1000年の頃であり、縄文人から弥生人が急速に人口が増え、村から小国家成立の機運が漲るは、ただ食料事情や定住との生活環境の変化かえあくるものもあったではしょうが・・やはり根本的には前2世紀頃からの大量の半島からの移民であるとするのが自然なのでは・・。

韓(辰国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%9B%BD

衛氏朝鮮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE

濊(わい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BA%BA

貊(ばく)
http://wapedia.mobi/ja/%E6%BF%8A%E8%B2%8A
 

私もファンです。

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2010年 9月 7日(火)19時39分31秒
  いつも解放者さんの投稿を楽しみに又期待しています。
解放者さんのファンは自分だけじゃなかったのですね。
御庭番臭さん、ラーメン問屋さん、ホント勉強になりますね!
 

最高だ!観ていない人はすぐに観るべきだ!

 投稿者:御庭番臭  投稿日:2010年 9月 7日(火)15時45分9秒
  解法者様のおかげで長年考え続けていた日本人の起源の謎を理解する事ができました。
感謝しております。
本当に感謝しております。
今後もムチな私どもに知識をお与え下さいませ。
 

朝鮮人は来なかった(30)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 7日(火)13時43分1秒
   これまでの論考のまとめとしては、次のようなものになる。理由は既に説明してある。
1.稲は中国の長江中下流域から日本に伝わった。そして、日本を経由して朝鮮半島に
 に伝えられた。
2.日本人は最初、スンダランド(インドネシア・タイなど)とシベリアからやって来た
 が、スンダランドからフリィピン、台湾を経由したスンダランドからの人たちは消滅し、
 現在の沖縄の人たちは日本列島の人たちと同じく、シベリアから来た人たちが南下した
 ものである。朝鮮半島からは集団としては日本にやって来ることはなかった。
3.日本人の祖先は、シベリアから渡って来た人たちであって、これが縄文人と称された
 のである。したがって、縄文人が祖先であると考えられる。なお、日本には原日本人は
 いなかったか、いても消滅したと考えてよい。
4.アイヌ人もシベリアから渡って来た人たちであって、縄文人であり、現在の日本人と
 さしたる変わりはない。したがって、日本人と系統を異にする先住民ではない。日本人
 は「単一民族」であると言える。
5.弥生人は縄文人が進化したものであり、朝鮮半島からの朝鮮人、中国大陸からの中国
 人ではない。
6.縄文人は決して暗黒の社会にいたのではなく、稲作を行うだけでなく、おしゃれで、
 世界最古の土器を持ち、高い文化水準を有していた。
7.渡来人(朝鮮人・中国人)は極めて少数で、日本人の形態にさしたる影響を与えなか
 った。
8.朝鮮半島にはむしろ日本列島からの移住者が多く、彼らはそこに小国を形成し、「任
 那」などはその一つである。そして、朝鮮に日本列島の文化を伝授した。
                                    〔この稿 完〕
 

感動した!

 投稿者:ラーメン問屋  投稿日:2010年 9月 7日(火)09時22分11秒
  解放者さんの朝鮮人は来なかったシリーズを詠んで、こんなに感動したのは生まれて初めて
夜も眠れない程感動した!
凄い凄すぎる。タダでこんなに凄い知識を吸収出来るなんてバチが当らなければ良いと思っている今日この頃です。
 

朝鮮人は来なかった(29)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 6日(月)12時15分28秒
   「縄文時代=食料採集の段階→弥生時代=食糧生産の時代」などという歴史的構図などは、無意味である(「縄文・弥生幻想からの覚醒−先史社会研究における狩猟・採集・育成技術の経済構造化論−」山田昌久〔『食糧獲得社会の考古学』現代の考古学 第2巻 朝倉書店 2005年 99頁〕)。「少なくとも食糧生産の有無のみをもって単純に縄文/弥生を区分するような時代区分論は、もはや成立が困難である(「縄文文化と弥生文化」山田康宏〔『弥生時代の考古学 T 弥生文化の輪郭』設楽博巳 同成社 2009年12月20日 170頁〕)。あるいは「水田稲作の開始を以って弥生時代とする」という考え方は、そもそも従来の弥生時代の開始時期が500年も早まったことを意味しており、縄文/弥生の区分自体が問われていることを忘れてはならない。
 特に、弥生時代は縄文時代の発展したものであるという考えを採るならば、「弥生時代」という表現を削り、縄文時代を古墳時代の前まで引っ張り、後期・晩期の定義を変えていく必要があると思えるのだが、どうだろうか。将来、こうした考えが支配的になっていくと思う。このことは、日本の歴史を考えるときに大きな転換点になると考える。
 

朝鮮人は来なかった(28)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 5日(日)12時12分49秒
   最後に「アイヌ」について、簡単に述べたい。彼らが前述のとおり「縄文人の直系子孫で樺太から移動してきた」のは事実であろう。頭蓋の形態を見ても「北海道アイヌ」と縄文人はとても近接していると言われている(『ここまでわかってきた 日本人の起源』87頁)。また、「アイヌ」に分布するY染色体のD2系統の型とC1は縄文人の遺伝子型と考えられ、C3もその可能性があるとされる(「田島 敦」−『ここまでわかってきた 日本人の起源』105頁)。さらに、「アイヌ」が縄文人でない証拠として土器を作らないというものがあるが、「鳥居龍造」(人類学者・考古学者)は千島列島でアイヌが土器を作っているのを見ている(『アイヌは原日本人か』梅原猛・埴原和郎 小学館〔小学館ライブラリ− 44〕1993年4月20日 100頁)。アイヌには「家を焼く風習」があるとされる。これは、女性が亡くなり、あの世(神の国)に行っても、独りでは家を建てられず、住む家がない。死者の家の主人は神に祈った後、家に火を付けて焼き、住み慣れた家を死者に送るというものである。この習慣は縄文時代中期からあり、これが発展してアイヌにつながった可能性が否定できないという(「大島直行」北海道伊達市噴火湾研究所長〔『ここまでわかってきた 日本人の起源』101頁〕)。言語的特徴を見ても、「縄文語=アイヌ言語が日本語の基礎をなしている。すなわち、日本語はアイヌ語と最も強い言語であり、その両者の根幹をなす言語層はアイヌ語系である縄文語にさかのぼる。(中略)沖縄の地名をみても本来のアイヌ語の音声を表している。すなわち、沖縄も北海道、東北も同じ言語圏にあったと見ることができ、日本列島全域でアイヌ語系言語が行われていたのである」(「日本列島の初期の言語史−縄文語の復元とその言語的特徴−」板橋義三〔『縄文時代の考古学 12』小杉 康など 同成社 2010年1月5日 146・149頁〕)。このことから、アイヌ人は独自の民族ではなく、日本人と同じ縄文人の系列にあると考えられる(『アイヌは原日本人か』131頁)。加えて、前述したATLの分布からも、沖縄とアイヌは同系統であると考えられる。アイヌを和人(日本人)と<別種の先住民族>などと言うのは、科学的根拠のない誤りである。しかし、どうして、こういう話が出て来たというと、和人(日本人)が渡来人から形成されたという前述したような考えがまかりと通ってきたことと、これを逆手に取ったわけもわからない人権主義者の台頭である。  

朝鮮人は来なかった(27)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 4日(土)13時01分12秒
   以上、述べてきたことから、まずわかることは、次のとおりと考えられる。
1.稲の遺伝子から
  稲作を伝えるため、あるいはそれに伴って中国の江南地方などから日本列島に渡来人
 がやって来たことはある。しかし、朝鮮半島からはない。もちろん、玄界灘という海を
 越えて、近接する日本列島にやって来たものがいるにしても、集団としてやって来たと
 いうことはないと考えてよい。したがって、【弥生人が朝鮮半島からやって来た】という
 従来の定説は崩壊したと見てよい。
2.遺跡およびその出土品から
  集落にしても土器にしても、朝鮮半島から渡来したという痕跡は薄く、これらから朝
 鮮半島から渡来人が<集団>としてやって来たとする根拠は薄い。
3.言語形体から
  日本語と朝鮮語は弥生人が渡来されたとする弥生時代より遥か昔に分化しており、こ
 こからの渡来人とのつながりはない。
4.人骨(頭蓋など)・歯から
  日本列島で発見されている人骨から、従来の日本人である縄文人と渡来したとされる
 弥生人との進化は、<頭蓋など人骨・歯が食物や栄養を始めとする生活環境の影響で変
 化する>可能性を否定できず、渡来人がやって来たという証明にはならない。
5.耳垢、耳垂(耳たぶ)から
  これも渡来人がやって来たという証明にはならない。
6.人口の増加から
  渡来人がもたらした人口の増加とされてきたが、人口の増加数そのものが怪しく、し
 かも人口の増加に渡来人が寄与したという根拠が稀薄である。むしろ、縄文人が稲作を
 行うなかで食糧事情が著しく改善し、出産率も増え、平均寿命も延びて、それが人口増
 加をもたらしたというのが正しい理解と思われる。
7.Y染色体、ミトコンドリア、ATLなどの遺伝子
  これから見ると、確かに中国・朝鮮の人々の影響が見られる。しかし、この対象とな
 った遺伝子は現代の人々のものから採取したものを基礎としているため、渡来人がやっ
 て来たことは是認されるにしても、それがいつの時代かを認定することは難しい。主と
 して朝鮮半島からの渡来人がやって来たことは、『日本書紀』の記述からもうかがえ、否
 定する者はいない。ただ、渡来人はいつの時代にもいたと思われ(「豊臣秀吉」の朝鮮出
 兵の時代にもいた)、その後の明治時代の末期からの日本統治時代にも大量の者が流入し
 た。これらのことから、現在の日本人に朝鮮人の影響が少なからず残っているとも言え、
 現在の日本人の遺伝子などをいくら分析しても、どの時代に朝鮮半島からの渡来人がや
 って来たかについて確定することは難しい。中国人・台湾人にしても同じであろう。
 

朝鮮人は来なかった(26)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 3日(金)13時04分53秒
   朝鮮半島から【縄文時代はもちろん弥生時代にしても渡来人はパラパラとせいぜい年に2〜3家族程度に過ぎなかった】(「長浜浩明」−前掲書 36頁)にせよ、日本にやって来た人たちは、日本にたわわに稲が実っているのを見て、さぞかし驚愕したであろう(『よみがえる 日本の古代』金関 恕・早川和子 小学館 2007年7月22日 50頁)。木の実などを食べてようやく永らえていた自分たちに比べて、<地上の楽園>がこの地にあったのかと。そして、日本列島にいた縄文人たちも種籾や黒曜石あるいは翡翠などを持って海を越えて朝鮮半島に交易に出かけたが、そのまま日本列島とのつながりを生かすために、その地に居住した者も多かったと思われる。彼らは日本から持ち込んだ種籾をその地の寒冷と戦いながら、やがて稲を栽培し、やがては水田耕作にまで発展させたと思われる。わが国は正に「瑞穂の国」だったのである。
 朝鮮半島には多くの「倭人」たちが住み着き、小国を形成していったものと思われる。
 『三国史記』に「新羅」が「倭国」の人たち、「倭人」に侵略されたという記事が頻繁に出ているが、これは何も海を渡って侵攻したばかりではなく、むしろ、朝鮮半島に定住し小国を形成していた「倭人」たちによるものと考えられる。その地は何も朝鮮半島南部の玄界灘沿いのみに止まらず、「独山」などの「新羅」の都「慶州」の北部約60キロのところにまで広がっていたのである。こうした「倭人」の人たちの小国があったればこそ、「神功皇后」の<三韓征伐>も可能だったと考える。
 

朝鮮人は来なかった(25)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 2日(木)12時27分10秒
   以上、最新の資料を提示して説明したように、<集団として>朝鮮半島から朝鮮人が、中国大陸から中国人がやって来たというのは、全くの<虚構>であった。にもかかわらず、冒頭で示したように、「2300年ほど前に、稲作と金属器の技術を持った新モンゴロイドが九州北部に上陸し、やがて、瀬戸内海をへて近畿にまで拡大した。この人々が渡来系弥生人である。アイヌ・琉球人は縄文人の直系子孫である。彼らは古モンゴロイドで、このうち西南縄文人は西南諸島か朝鮮半島から、北東縄文人は樺太から移動してきた」(「アイヌ・琉球人は縄文人の直系子孫か」馬場悠男〔『争点 日本の歴史 1』119頁〕)、「日本列島の歴史にもっとも大きな影響を与えたと考えられているのが、約2800〜2700年前のこととされる、朝鮮半島南部からの水稲農耕の伝来だ。(中略)朝鮮半島南部から渡来して日本列島に住みついた人びとのものと考えられるムラが北部九州の玄界灘沿岸に点々と現れる。そのもっとも典型的な例とされるのが、菜畑遺跡である。支石墓は大陸から朝鮮半島南部に伝わったり、朝鮮半島南部で発達したもので、ここにいた人々が北部九州に持ち込んだものである。(中略)朝鮮半島の文化の流入が北部九州社会を弥生化させた」(「松本武彦」−前掲書 164頁・184頁を要約)。「大陸から伝えられた新たな農耕文化は、北部九州に定着する。これを伝えたのが、渡来系弥生人で、朝鮮半島に近い玄界灘沿岸で農耕を始めた人たちの子孫である。水田稲作農耕の技術を伝え、運んだのはやはり渡来人であったのであろう」(「片岡宏二」−前掲書 26頁・28頁・47頁を要約)。ところが、今度は「菜畑遺跡」の主体者が縄文人であるのを知るや、「菜畑遺跡の時代のすぐ後、(紀元前300年頃)日本列島には中国大陸や新たな渡来人が押し寄せてきたと考えられている」という者さえいる(「浦林竜太」〔『はるかな旅』98頁〕)。一体、中国大陸や朝鮮半島から人が押し寄せる歴史的事実があったのか。これを説明しないでこういうことを抜けぬけと言う者の神経が理解できない。
 頑強に稲作が朝鮮半島南部から日本に伝来したと主張するのが「池橋 宏」である。彼はその伝来ル−トを、中国山東半島→朝鮮半島中西部→同西南部→九州北部とする(「池橋 宏」−前掲書 75頁)。「金関 恕」も同じような考えを採る(『弥生文化の成立』14頁)。寒冷地の中国華北に稲作が伝来したのは後世になってからで、このル−トは考えられない。これについては前述の拙稿で明らかにしたので、ここでは説明しない。
 こうしたことを頑強に主張する者に共通なのが、前述した近時のイネのプラントオパ−ルや人の遺伝子に関する研究成果を全く紹介してないことである。このことは<総合的>検討を加えて判断するという視点が全く欠けていることである。これでは「考古学」というアナグラに籠って外界を見ようとしないと揶揄されても反論の余地はなかろう。きっと<思考停止>しているのであろう。

★ 稲のプラントオパ−ル
 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html
★ 稲の伝来
 http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ine_denpan.htm
 

日韓併合100周年に考える(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 1日(水)23時12分20秒
   朝鮮の初等教育の問題として、朝鮮人から挙げられるのは、次の点である。
1.義務教育化ができなかった。
2.日本人、朝鮮人の別学だった。
3.朝鮮語教育が無視された。
4.書堂などの朝鮮従来の伝統的な教育が顧みられなかった。

 まず、3については、当時の先進的な文化は日本語を通じてしか獲得できなかった。教育が朝鮮語のみでは教育の実が上がらなかったのである。朝鮮総督府は朝鮮人児童にも朝鮮語を学習させており、排除したのは統治時代の終期になってからである。加えて、他の植民地でも現地語での教育は稀であり、日本のみの特徴ではない。
 4ついては前述のとおり、女子が教育から排除されており、書堂が教育の障害になっていたことを看過している。また、儒生(儒教教育を国是とする者)も女子教育に頑強に反対していたことを隠している。
 2については、日本と朝鮮とでは教育の差が顕著で、朝鮮に在住する日本人学童を朝鮮人と一緒に学ばせるのは無理があった。ただ、朝鮮人の就学率が上がり、教育の実が見られた統治時代の後半には共学にしても良かったし、両者の融和にも役立ったと考える。なお、共学には朝鮮人自身も反対していた。
 1については、予算の問題が一番大きかったが、早い段階で義務教育化にすれば良かったと考える。朝鮮総督府も義務教育化の方針を打ち出していたが、それ実行されないまま、日本統治が終了してしまったのである。
 【今日の韓国の発展は、日本時代に教育を受けた者を尊重して、その上にさらに教育を施した結果である。一方、北朝鮮はそれを排除したために凋落してしまったのである】 朝鮮人はこのことを<隠蔽>している。
 

新説

 投稿者:はる  投稿日:2010年 9月 1日(水)13時38分42秒
編集済
   なるほど、渡来説を否定する材料は非常に多いことは分ります。しかし、それでも混血の可能性は捨て切れません。そこで新説?を。
 ざっくりと、古代(主に朝鮮半島)史についてまとめると。
・朝鮮半島南部から縄文時代の「倭製土器」が「新岩里U遺跡」など5ヶ所から発見されている。慶尚南道三千村の沖合いにある「勒島」で、3千から2千年前の、縄文土器や弥生土器が見つかっている。
・日本では半島部よりも早く、既に前10世紀には水稲作が行われていた。
・前550年頃の朝鮮半島には、環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。また、特に南岸部に人口が集中している。
・弥生時代は、諸説あるが概ね、前400年頃からと考えられている。
・朝鮮南部の大成洞焼成遺跡や勒島遺跡などで発掘された弥生式土器が日本からの移住者かその子孫により製作されたものの可能性を示唆している。
・衛満朝鮮が有ったとしても、それは朝鮮北部であり、漢に滅ぼされた後にできた楽浪郡など4郡も中〜北部に有った。残りの南部は三韓(馬韓・辰韓・弁韓)と呼ばれた。
・神功皇后の三韓征伐については日本の各地に伝承が数多く残されている。
・中北部は後に高句麗となり、南部はそれぞれ百済・新羅・任那となった。
・『三国史記』によると、朝鮮半島から日本列島に朝鮮人がやって来たという記録が全く無いのに対し、新羅は度々「倭」に攻め立てられ、早いところでは紀元前50年にもある。初代王の時代の重臣も倭人と記され、第4代王「脱解尼師今(57〜80年)」も「多婆那国(丹波)」からやって来た人だとされている。

 これらから想像されることをまとめると、江南地域から伝わった水稲栽培は、前1000年頃には九州北部で行われており、徐々に人口も増え、当時は陸路よりも水路の方が便が良かった為、朝鮮半島南部に進出した。前550年頃に南部に人口が増えたのはその為と考える。その人々が朝鮮に水稲作を伝えるとともに現地で混血が進み、その人々が九州北部との往来を盛んに行うに従い、弥生期を通じて本州にも混血した人々が広まっていった。しかし、北海道までは行かなかった。
 半島南部の混血人は、三韓と呼ばれる勢力に発展し、中北部の4郡の勢力に飲み込まれることも無かったが、時代が下るにつれ…後はご存知の通り。
 すなわち、朝鮮人は来なかった。が、混血は有った(棲み分けは…?)。
 半島の混血人はどうなったか? 元々少数派な上に、統一新羅の成立とともに、日本へ渡ったり一掃されたり?自然淘汰された? 平均身長は半島人の方が高いので、女性達が高身長を選べば有り得るかも。
 

朝鮮人は来なかった(24)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 1日(水)12時59分23秒
   朝鮮では日本の縄文時代の後期・晩期にあたる紀元前1500年〜同300年を「無文土器時代」と呼び、読んで字のとおり表面に模様を持たない土器が製作された時代があり、前述の「支石墓」からの出土も朝鮮人がやって来たという証拠の一つに使われている。しかし、この「無文土器」は縄文土器に全く影響をもたらすことはなく、その「支石墓」からの出土自体の痕跡はまばらである(「縄文後・晩期土器と板付T式土器」小南裕一〔『弥生時代の考古学 2』102頁〕)。つまり、朝鮮から人びとが渡来しなかったのである。縄文土器は日本人の祖先である縄文人が製作した<世界最古>の土器である(「長浜浩明」−前掲書 76頁)。
 そればかりではない。前述のとおり、朝鮮半島からの日本への渡来人の流入のみが語られ、日本から朝鮮半島への人の移住が語られることはなかった。ところが、近年、それが研究されるようになった。韓国では近時、日本に刺激を受けたか、盛んに遺跡の発掘調査が行われるようになった。その結果、朝鮮半島南部から縄文時代の「倭製土器」が「新岩里U遺跡」など5ヶ所から発見されている(「櫛目文土器との関係」田中聡一〔『弥生時代の考古学 T』162頁〕)。NHKスペシャルも「朝鮮半島南部、慶尚南道三千村の沖合いにある「勒島」で、3千から2千年前の、即ち日本の縄文晩期から弥生時代中期にわたる日本列島からやって来た人々の土器(縄文土器や弥生土器)が見つかっている」という事実を明らかにしている(「長浜浩明」−前掲書 48頁)。こういう話が出ると必ず「日本からの交易のために持ち込まれた」という者がいるが、重い土器を海を越えて持ち込んだというより、その地で生産したと考える方が自然である。
 決定的なのは、渡来したとされる者たちが集落にしても、墳墓形式、磨製石器にしても土器にしても彼らが構築あるいは製作したものか判別がつかないということである(「片岡宏二」−前掲書 42頁)。したがって、「渡来」というのは単なる想像上の産物とも思えるのである。
 加えて、朝鮮半島からの渡来人が最初にやって来た九州北部で、渡来人と原住民の縄文人が<棲み分け>してなかったことである(「討論 弥生文化成立のプロセス」での「下条信行」・「藤田憲司」の発言〔(『弥生文化の成立』211頁〕)。この見解は、渡来人が集団でやって来たことを前提としており、賛成できない。したがって、私の立場からは渡来人が集団でやって来なかったのであるから、<棲み分け>の議論そのものが否定される。また、<棲み分けがなかった>と言う者は、縄文人は争いを好まず平和的な人たちだったとする。しかし、縄文社会でも階級は存在し、平等ではなく(「松本武彦」−前掲書 117頁)、「新町遺跡」(福岡県志摩町)などでは、縄文人と思しき男性に「磨製石鏃」が打ち込まれた人骨が多数出土している。渡来人という異分子がやって来たなら当然に原住民との間で争いが起きる。現代の社会だって日本国内で日本人と朝鮮人・朝鮮人とが友好的な関係にあるとは言い難い。ましてや古代である。同じ集落に一緒に居住していただとか、争いがなかったと考える方がオカシイ。したがって、<棲み分けしてなかった>というのであれば、少なくとも同じ縄文人だけの集落だったのである。そもそも渡来人など来なかったのではあるまいか。
★ 無文土器時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
★ 勒島
 http://www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/news/2008/0416-72.html
★ 新町遺跡などでの抗争の痕跡
 http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=89994
 

当然、朝鮮人は来なかった

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年 9月 1日(水)12時10分22秒
  農業といのは食うものと育てるところとそれを使いこなす頭があればできるのであり、「世界最古」の土器をつっくた縄文人に「使いこなす頭」がないとは間違っても言えない。また「食うものと育てるところ」は三内丸山の栗の遺跡を見たらわかる。
稲作だが、板付遺跡については縄文遺跡と呼ばれている。(『古代通史』古田武彦)
同著のなかに日本の稲作はパラオや江南から伝わったと書いてあるが、確かに中国の属国だった朝鮮から伝わったとする説より、長江文明を作っていた海洋民族から伝わったとするう方がよほど説得力がある。
というより、現在の日本の学界では一部の左翼を除くと、解法者氏の説が常識となっている。
 

日韓併合100周年に考える(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月 1日(水)08時20分27秒
   それが、昭和17年(1942年)には、就学率が53.83%(男子 74.59%、女子 32.88%)と飛躍的に増加している。

                  全   初   等   学   校
            男子数        女子数       合   計
            男子就学率      女子就学率     就学率
       普通学校               簡易学校

1942年       1,375,601   602,406    1,978,807
(昭和17年)        74.59%    32.88%     53.83%

 「書堂」は、3,052校、生徒数は153,784人と、生徒数にして大正7年と比べて半減しており、全就学児童の7.8%に過ぎず(大正7年は68.6%)、その役目を終えていた。旧態依然のものでは朝鮮総督府の指導とは関係なく、消滅の途を歩んで行くのは当然のことであった。

 ※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
   入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、1943年度 朝鮮
   総督府学務局
 ☆ 前記表は、『植民地期朝鮮の教育とジェンダー』金 富子(世織書房 2005年5月
   10日) 372頁より利用・引用 「全初等学校」とは、普通学校、簡易学校、私
   立学校、書堂をいう。
 


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