Archives of the Salon's log
喫茶室 過去ログ141(2011.2.1〜2.28)

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馬鹿の極みだ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月28日(月)22時13分16秒
  >台湾ですが、あの国、中国とどこが違うのですか?<
 

台湾≠中国

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 2月28日(月)21時41分54秒
  台湾人 ── 主として内省人 ── に対し、「貴方は、なに人ですか?」と質問すれば「台湾人」と答えます。決して「中国人」とは答えません。

因みに、私の知人に客家(ハッカ)系の台湾公民(国民)がいますが、彼は自分を「中国人」だ等とは決して言いません。寧ろ「中国」を毛嫌いしており、「台湾人」、それも「日本国民になりたい台湾人」と言っています。
 

そのとおり

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月28日(月)20時57分24秒
  >若しも北鮮が仰有る通り親日になるとすれば、それは日本が北鮮を再併合し、朝鮮語も朝鮮文化も全て廃止した上で、日本語と日本文化を強制する徹底的な「皇民化政策」を採り、朝鮮人が頭の天辺から爪先に至る迄、完璧な日本人に改造された時、初めて実現する事です。現時点では、親日になる素地はありません。<

 「護国運動家」氏は朝鮮を知らない。韓国も含めて朝鮮は中国の属国化に向かうと認識するのが正しい。これは三国時代からの歴史が証明している。つまり反日だということ。
 これは日本にとっても危機である。したがって、中国の覇権主義を阻止するために、韓国も含めて朝鮮を再併合することが望ましい。朝鮮が日本と中国の戦場になるかもしれない。
日清戦争の再来ということになろう。
 台湾、これは反中で日本の同盟国になる。台湾は日本の障害にはならない。
 

北朝鮮について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)18時44分47秒
  前原政権になったら、親日になるのではないでしょうか?

詳しくは明日に。

あと、台湾ですが、あの国、中国とどこが違うのですか?
 

更に、続

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 2月28日(月)18時28分8秒
  更に言えば、日本と彼の地域との防衛交流は我々が考えている以上に水面下で進んでいます。これ以上は「軍機」に付き詳しくは語れませんが、「反日」だとしたら、何故、「日本軍」と交流しているのか? 理屈に合いません。

因みに、マラッカ海峡警備の為に、嘗てインドネシアは「日本海軍」の参加を打診してきましたし、フィリピンの国防相も日本の軍事力強化に賛成、いや、賛成どころか、支那の突出を牽制する点からも強化を望む発言をしています。

護国運動家さんは北鮮唯一国が親日になるとの認識を示されていますが、若しも北鮮が仰有る通り親日になるとすれば、それは日本が北鮮を再併合し、朝鮮語も朝鮮文化も全て廃止した上で、日本語と日本文化を強制する徹底的な「皇民化政策」を採り、朝鮮人が頭の天辺から爪先に至る迄、完璧な日本人に改造された時、初めて実現する事です。現時点では、親日になる素地はありません。
 

竹下先生の歴史観について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)18時16分26秒
  >「江南シュメール人王朝説」に付いても、私は一度もその様な説を唱えた事はありません。所謂「ウガヤフキアエズ朝」に付いては、51代にしろ、73代にしろ、最後の神武天皇一代のみが日本列島に於ける同王朝の王であり、それに先立つ歴代の王は大陸を移動していたのでは無いか、泰山に祀られていた七十二聖帝伝説と関係があるのでは無いかと述べているだけです。

すみません、少し短絡的に考えてしまいました。おお詫びします。

しかし、天孫降臨より(九州王朝も含めて)「万世一系」の王朝を想定する私の歴史観からすれば、シュメール神話が天孫降臨の原型であったということが納得できず、又天津教などというカルトが文書を握っていること自体がその文書が偽物であることを示しているようなものだと、信者の方には失礼ですがそのように感じたのです。

>それと、護国運動家さんは満洲民族の多くが漢民族であるからと言う理由で満洲独立を否定されていますが、満洲族と漢民族(支那人)とは、抑も民族(血統)・言語・風俗・慣習が全く異なる別個の民族です。ましてや、支那人が清朝滅亡まで満洲の地を領有した歴史が唯の一度も無い以上、満洲族が独立を求めても何ら不思議はありません。

現在の満州住民は漢民族であり、本来の満州民族は少数派です。そのような少数派の意見を支持することは民主主義の原則から認められません。

>私は以前、琉球独立に付いて論じた事がありますが、それは過度の基地負担解決の処方箋と言える「方便」として、琉球が独立し、日本との間に国家連合を構築すれば、独立国琉球が日米安保条約に縛られる必要が無くなり、より主体的になれるだろうとの思いから述べた迄の事です。但し、実際に現在の沖縄県民が総意として日本からの独立を希望しているかと言えば、それは到底あり得ませんし、・・・(後略)

琉球が非武装中立というのはどうか、と。まず、私は台湾との連合についても反対です。台湾は最終的には日本に併合すべきです。

>神武天皇について私が架空説を採った事は、これ迄一度もありません。所謂「欠史八代」の天皇についても私は実在したと考えています。何故、私が神武天皇架空説を主張していたと言う風になってしまったのか図りかねます。

すみません、それも私の即断だったとしたらの話ですが、過去ログから判断しました。また、竹下先生自体が「東日流外三郡誌」偽書派に回られているようですし、擁護は時代の竹下先生が欠史八代は東北王朝というようなことを言っていたと記憶しています。

 

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 2月28日(月)18時15分23秒
  私は台湾を訪れた事がありますが、彼らと接した実感として「反日」を感じた事は滞在中唯の一度もありませんでしたよ。「反日」どころか、寧ろ「親日」、「慕日」と言った方が相応しい位です。

タイも私の身内が訪れましたが、華人(支那系)は別として現地の人達は概して親日だったとの事です。あの国だけで無く、シンガポールを除く東南アジア諸国では、日本人よりも現地に定住している華人の方が、寧ろ嫌われているとさえ言えます。それは、植民地時代に華人が宗主国のお先棒を担いで現地民を虐げていたからであり、彼らに対する現地民の警戒心や怨念は日本人に対するものとは比べものになりはしません。

又、フィリピンも反日との事ですが、昔はいざ知らず今は概して親日、百歩譲っても、「日本に対して、好きや嫌い以前に、何とも思ってはいない」と言った状況です。

ただ、総じて言える事ですが、反日とされている国々の人々が、何故「嫌いな国」に自らの意志でやってくるのか? 本当に嫌いだったら、私が支那へ行きたく等無いのと同様、日本にやっては来ないのでは無いか?と思いますが。
 

護国運動家さん

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 2月28日(月)17時57分17秒
  あのう、この所暫く掲示板の投稿チェックをしなかったので何ですが、護国運動家さんの投稿分中、私に関する指摘が幾つか見受けられますが、どうも私の真意(考え)を正しく捉えられていないのでは無いかと思いますので、改めて私の歴史認識を表明します。

神武天皇について私が架空説を採った事は、これ迄一度もありません。所謂「欠史八代」の天皇についても私は実在したと考えています。何故、私が神武天皇架空説を主張していたと言う風になってしまったのか図りかねます。

「江南シュメール人王朝説」に付いても、私は一度もその様な説を唱えた事はありません。所謂「ウガヤフキアエズ朝」に付いては、51代にしろ、73代にしろ、最後の神武天皇一代のみが日本列島に於ける同王朝の王であり、それに先立つ歴代の王は大陸を移動していたのでは無いか、泰山に祀られていた七十二聖帝伝説と関係があるのでは無いかと述べているだけです。

それと、護国運動家さんは満洲民族の多くが漢民族であるからと言う理由で満洲独立を否定されていますが、満洲族と漢民族(支那人)とは、抑も民族(血統)・言語・風俗・慣習が全く異なる別個の民族です。ましてや、支那人が清朝滅亡まで満洲の地を領有した歴史が唯の一度も無い以上、満洲族が独立を求めても何ら不思議はありません。(満洲族が清朝当時領有していたチベットやウイグルを含む旧領全ての回復を求めるのならば話は別ですが、満洲族発祥の地に自らの国家を復興しようと言う主張に疑義を挟む事は出来ないと思います)

因みに、私は以前、琉球独立に付いて論じた事がありますが、それは過度の基地負担解決の処方箋と言える「方便」として、琉球が独立し、日本との間に国家連合を構築すれば、独立国琉球が日米安保条約に縛られる必要が無くなり、より主体的になれるだろうとの思いから述べた迄の事です。但し、実際に現在の沖縄県民が総意として日本からの独立を希望しているかと言えば、それは到底あり得ませんし、沖縄から全ての基地が無くなれば、それこそ軍拡に邁進している支那の思う壺。自主独立すら維持出来ません。ましてや、日本から離れ、支那に付く等と言う事も考えられない事です。又、アイヌ民族に付いては、彼らは民族国家の独立を求めている訳では無く、飽く迄も日本列島に於ける先住民としての地位の確認と、国の責任に於いてアイヌ民族文化の保護政策をきちんと行って欲しいと言うレベルの話です。誰も、日本国籍から離脱したい等とは思っていないと私は思います。
 

フィリピンは反日である

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)17時48分27秒
  竹下先生がかつてフィリピンとの同盟を主張しておられたのですが、フィリピンが半日であることをご存知でしょうか?

インドネシアもスカルノが共産主義に幽閉されて以来、今に至るまで「反日」に洗脳されている。確かシンガポールも、タイも、東南アジアの多くの国は反日であったと記憶しています。

反日が多すぎる、もうアジアに親日国家など存在しない。唯一親日になりそうなのは北朝鮮の身である。私は絶望的な考えに陥っている。そして、自分の考えは99%正しい。華僑だけが半日とするジャパンファシズムのいうことは客観性に欠ける。

台湾も半日だ、西戎の反乱者を駆逐できないくせして、中華を名乗るは、尖閣を狙うは、ふざけた国だ。我が国の仮想敵国だ。
 

「万世一系の史料批判」批判(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)17時16分11秒
  過去ログを見て初めて知ったんですが、竹下先生は神武天皇架空説だったそうですね。井沢元彦氏もそうですが、みんなが「右翼だ」と言っている人は大抵左翼的な歴史観で、「左翼だ」と言われている古田武彦氏や故・津田左右吉が右翼的な歴史観を展開する。

私は天皇家が万世一系であることを論証します。そのために古田武彦「万世一系の史料批判」をとりあえず批判します。

まず、継体天皇が新王朝だということですが、それには科学的な根拠がありません。『日本書紀』の系図は今では失われており、そこに継体天皇の先祖の事が描かれていた可能性が高いのです。
 

西戎人民共和国のインターネット使用状況について

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月28日(月)16時33分17秒
  かころぐをみていると、かつてこんな投稿がされていたことを知った。

◆日本語文

 題名:満州独立万歳!
 投稿者:満洲人
 記事本文:王道楽土,大満洲国! 五族協和,共存共栄!

この方、今では暗殺されているのでしょうか?暗殺ではなくて、公式な「死刑」なのでしょうか。然し、中国では特殊なソフトを使えば全国一斉デモの打ち合わせもできるとのことなので、割と言論は自由なのではないでしょうか。

あと、「満洲独立」と言いますが、これを認めたら「琉球独立」「アイヌ独立」なども可能になってしまいます。満州民族の多くは漢民族なのですから、中国領でよいと思いますが。
 

提案

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)16時12分19秒
  『自主憲法 帝国電網省草案』を今年の憲法記念日までに完成させることを提案します。

      提案者    本名・日野智貴
 

和田家文書はやはり本物だった

 投稿者:皇国の日野護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)16時09分33秒
  和田家文書偽作説はもはや信仰に近いが、ウィキペディアを見てもわかるように、この誤った信仰が、今広まりつつある。この掲示板では、解法者氏や歴史の観察者氏が「和田家文書偽作キャンペーン」にのってしまった。そこで、ここで貴重な証言を紹介する。『古田史学会報十六号』にしるされていたもので、残念ながら昭和二十年代の証言はまだ公開されていないが、とりあえず全面的に引用する。

<昭和四六年に『東日流外三郡誌』約二百冊を見た >

    < 戦 後 偽 作 説 を 否 定 す る 新 証 言 >

 ▽▽▽▽▽▽
 偽作論者たちは、『東日流外三郡誌』を昭和五十年頃(市浦村誌版発行時期)から六十年頃(八幡書店版発行時期)にかけて、和田喜八郎氏が偽作し続けたとの虚偽情報を繰り返しているが、「嘘も百回つけば本当に聞こえる」というヒットラー流のこうした手口に対して、それを否定する新たな証言が得られた。
 証言者は、北海道史編纂などを手掛けられた永田富智氏である。氏は道南でも著名な歴史研究家であり、古文書の実地調査の経験も豊富な方である。その永田氏が『東日流外三郡誌』(明治写 本)を昭和四十六年時点で、二〜三百冊見たこと、しかも氏の経験からそれらの紙質・墨・書体が明治期のものであり、戦後のものでは有り得ないと証言された。また、その証言のビデオ収録と本会報への掲載も了承された。古文書調査研究の実績に裏づけられた氏の証言は、戦後偽作説を否定する有力な証言である。和田喜八郎氏偽作説はもはや完全に崩壊したと言わざるを得ない。(編集部)▽▽▽▽▽▽

−−『東日流外三郡誌』(明治写本)を見られたことがあるとのことですが、いつのことでしょうか。

 たしか昭和四六年(注1)の年で、私は当時、北海道史の編集委員をやってまして、調査で歩いた時に市浦村に行ったんです。その時に山内英太郎という(市浦村史)編集委員がおりまして、その人が「実は今日、和田さんの家から『東日流外三郡誌』という貴重な史料を借りてきたんで、これからいろいろ調べて村史資料編を作る考えでおります」というような話がありまして、その時に私は原本を見せてもらいました。おそらく二百冊から三百冊ぐらいが、だいたい七〇センチの長さ、幅が五〇センチくらいの木の箱に入っていたと思いますが、それを見せてもらいました。
 それを私が見せてもらった時に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
 それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
 それから書体が明治以降のものであろうと考えまして、『東日流外三郡誌』は、内容は非常に古いことは書いてあるけれども、これはそんなに古いものではないだろうというふうな判断をして、その後、その問題は研究はしなかったということです。

−−『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。

 市浦村の村役場の中です。

−−数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。

 はい。

−−それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。

 はい。

−−たとえば、戦後になって最近書いたものだとか、

 いや、そういうふうには感じません。

−−そういうふうには見えなかったということですね。

 はい。

−−その時、どなたか他に一緒に見られた方はございますか。

 村役場の編集室というのは、なにか総務課の係の後ろの方にありまして、みんな机を並べていましたから、そこで話していましたから、特別な編集室という形を作っていたようには思いませんでしたけど。

−−見られた物には『東日流外三郡誌』という名前が文書の表紙に書かれていたのでしょうか。

 たしか書かれていたと思いますね。ですら山内さんもそのように言っておられたんだろうと思いますし、行った時も『東日流外三 郡誌』という、市浦に関する記録だというようなことを言っていました。【引用者中―――もともと『安東文書』であったとする偽証言を偽書派が流していた】

−墨とかの問題から見ても明治大正のものと言ってもよいのでしょうか。

 まあ、大正の頃はどうか。私はやはり明治の後期だろうと思います。

−−まかり間違っても昭和とか戦後は有り得ないということでございますか。

 戦後はまずないでしょうね。

−−ようするに、明治期の文書であるということは、まず動かない、ということでございますね。

 はい。
−−どうも本当にありがとうございました。

<編集部>
()内は編集部による注。
(注1)インタビュー時には「昭和四二年」とされていたが、後日、当時のメモを調べたところ四六年であるとのことで、ここでは訂正された四六年で採録した。

◎日時 平成八年九月十五日 午後二時頃〜三時頃
◎場所 北海道松前町阿吽寺
◎聞き手 古賀達也氏
◎ビデオ撮影 吉森政博氏
◎同席者 阿吽寺住職・長瀬弘雄氏
     古田史学の会・北海道会員
◎文責 編集部

以上である。

次に昭和二十年代の証言を引用する。

<和田家「金光上人史料」発見のいきさつ>
<佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く>

『古田史学会報 七号』
▽▽▽▽▽▽▽
 昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進めておられ、昭和三十五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊されている。現在は青森県仏教会会長などの要職も兼ねておられる。「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)
▽▽▽▽▽▽▽

−−和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

 昭和二十四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、はっきり示してくだされば、いくらでも反論できます。ただ、こうじゃないだろうか、そうじゃないだろうかという憶測や、安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

−−和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

 そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

−−内容も素晴らしいですからね。
 素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三十一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

−−御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね
(脱稿は昭和三十二年頃、発行は昭和三十五年一月)。

 そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。

−−思想的にも素晴らしい内容ですものね。

 こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。

−−最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。

 そうそう。

−−親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三十一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。

 はい。あの方が一番早いんです。

−−和田さんの話しでは、昭和二十二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二十四年編集完了、二十六年発行)に掲載されていますね。

 そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二十四年七月でしたから、その後のことですね。

−−佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

 そばまでは行きましたが、見ていません。

−−開米さんは洞窟に入られたようですね。

 そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。

−−和田さんは「忍海」という法名をもらって、「権律師」の位だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

 正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

−−それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二〜三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

−−佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

 淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

−−量はどのくらいあったのでしょうか。

 あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

−−和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写 されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。

 そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。

−−和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

 私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

−−親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

 そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
 和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

−−当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◎日 時 五月五日 午後三時〜四時半
◎場 所 青森県西津軽郡柏村・淨円寺
◎聞き手 古賀達也
◎文 責 編集部

以上。このような「実名証言」に対して、偽書派の斎藤記者による『偽書「東日流外三郡誌」事件』では「匿名証言」が四分の三以上を占めている。さらに、最近発見された原本についても、偽書派は原田実以外誰も調べていないのが実情である。その原田実の筆跡鑑定についても誤りであることは既に述べた。

今後、この掲示板の方々が偽作キャンペーンに惑わされないことを望むとともに、解法者氏ら偽書派はこれらに対する反論をよろしくお願いします。
 

エクアドルの訳ないだろ!

 投稿者:反・護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)15時32分52秒
  常識で『魏志』にエクアドルが出てくるわけないだろ!  

第一次勝利宣言

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)15時31分26秒
  なんかおかしい、解法者氏の反論がいつまでたっても来ない。それよりも問題なのは、氏が私の説を一生懸命「なかった」ことにしようとしていることだ。「放射式」でも「順次式」でもない、私の説は解法者氏のとって迷惑以外の何物でもないのであろう。さらに「半周読法」となると「日程か、里程か」で論争しようとしていた解法者氏の構想が一気につぶれてしまったことになる。

ここでとりあえず、勝利宣言を出したが、解法者氏の事情もあるようだし、歴史の観察者氏の考えも気になる。然し、私とすれば『皇国史論・邪馬壹国編』への批判がほしいものである。それに対して、私が反論できなければ今度は「降参宣言」をだそう。政治においては私も降参したことがいくらかあったが、できたら歴史においてもそのような快挙を解放者氏に出してほしいものである。
 

ウガヤフキアエズ王朝について(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)15時24分4秒
  代数 神 皇 名 読   み
1 日子波瀲武言合命 ヒコナギサタケコトアヒノミコト
2 千穂高王命 チホタカミコノミコト
3 阿蘇豊玉王命 アソトヨタマミコノミコト
4 不二田彦王命 フジタヒコミコノミコト
佐田比女命 サダヒメノミコト
5 佐津田王命 サツタミコノミコト
6 津弥彦王命 ツミヒコミコノミコト
櫛豊比女命 クシトヨヒメノミコト
7 阿知奈王命 アチナミコノミコト
8 豊田彦王命 トヨタヒコミコノミコト
9 宇摩子王命 ウマコミコノミコト
10 日野光王命 ヒノヒカリミコノミコト
佐弥比女命 サヤヒメノミコト
11 太武王命 タタケルミコノミコト
太加比女命 タカヒメノミコト
12 武力男王命 タケチカラヲミコノミコト
13 出見彦王命 デミヒコミコノミコト
茂瀬比女命 モセヒメノミコト
14 万天子王命 マテコミコノミコト
太瀬比女命 タセヒメノミコト
15 奈良田彦王命 ナラダヒコミコノミコト
屋根比女命 ヤネヒメノミコト
16 福佐彦王命 フクサヒコミコノミコト
戸志比女命 トシヒメノミコト
17 加目男王命 カメヲミコノミコト
志毛比女命 シゲヒメノミコト
18 都留彦王命 ツルヒコミコノミコト
摩津比女命 マツヒメノミコト
19 多加彦王命 タカヒコミコノミコト
波奈比女命 ハナヒメノミコト
20 加佐田彦王命 カサタヒコミコノミコト
奈加比女命 ナカヒメノミコト
21 登美田男王命 トミタヲミコノミコト
加仁比女命 カニヒメノミコト
22 笠砂男王命 カササヲミコノミコト
23 津奈建王命 ツナタケミコノミコト
24 久真佐彦王命 クマサヒコミコノミコト
25 宇佐彦王命 ウサヒコミコノミコト
身奈比女命 ミナヒメノミコト
26 津田彦王命 ツダヒコミコノミコト
27 頭長男王命 アキナガヲミコノミコト
多美比女命 タミヒメノミコト
28 足長彦王命 アシナガヒコミコノミコト
多真明比女命 タマアケヒメノミコト
29 手身武王命 タミタケミコノミコト
明知桜比女命 アケチサクラヒメノミコト
30 山守雄王命 ヤマモリヲミコノミコト
31 佐奈田男王命 サナダヲミコノミコト
32 弥茂作彦王命 ヤシゲナリヒコミコノミコト
33 田仲雄男王命 タナカヲヲミコノミコト
34 貞仲雄王命 サダナカヲミコノミコト
35 田高彦王命 タタカヒコミコノミコト
太留美比女命 タルミヒメノミコト
36 川上男王命 カハカミヲミコノミコト
和仁比女命 ワニヒメノミコト
37 千利武王命 チリタケミコノミコト
真佐比女命 マサヒメノミコト
38 玉弥彦王命 タマネヒコミコノミコト
39 津加田彦王命 ツカタヒコミコノミコト
真江比女命 マエヒメノミコト
40 川張雄王命 カハハリヲミコノミコト
41 禰利長男王命 ネリナガヲミコノミコト
42 玉長彦王命 タマナガヒコミコノミコト
43 波奈長王命 ハナナガミコノミコト
44 照日彦王命 テルヒヒコミコノミコトヤ
津波気比女命 ツバキヒメノミコト
45 津気男王命 ツキヲミコノミコト
46 種越彦王命 タネコシヒコミコノミコト
天佐比女命 アメノスケヒメノミコト
47 禰仲穂王命 ネナカホミコノミコト
48 津加彦王命 ツカヒコミコノミコト
49 真加弥王命 マカヤミコノミコト
50 岩仲彦王命 イハナカヒコミコノミコト
51 弥真都男王命 ヤマトヲミコノミコト
玉照比女命 タマテルヒメノミコト
五瀬王命(皇太子 戦死) イツセミコノミコト
  波限建神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇) ナギサタケカムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト

以上は『富士宮下文書』によるウガヤフキアエズ王朝の記録である。竹下先生による表を基にした。私としては、『上記』について調べたかったのだが、聞くところによると『上記』にはすべての王名が記されていないそうで、とりあえず竹下先生が一覧表にまとめておられる『天津教竹内文書』と『富士宮下文書』について調べることにした。

実は『富士宮下文書』も明らかに後世の偽書なのである。その内容は絶対にあり得ないことばかりだからだ。それに、王名を見ていると豊前王朝かどこかの話のパクリに思われる。(竹下先生の「江南シュメール人王朝説」も代数等からここでは成り立たない)

私は「誇妄のウガヤフキアエズ王朝」への絶壁に立ったようである。

さて、私は『正統竹内文書』や『古事記』から「ホホデミ王朝」の存在を主張しているが、そうすると51代ものウガヤフキアエズ王朝も宙に浮いてしまう。これから、「ウガヤフキアエズ王朝」とは何者なのかについて考えたい。
 

蘇我氏と九州王朝の関係――『天皇記』と大化の改新の真相(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)14時47分22秒
  蘇我氏と九州王朝の関係――『天皇記』と大化の改新の真相(1)[前半]
投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月27日(木)18時36分11秒

  『天皇記(すめらみことのふみ)』という歴史書は、『日本書紀(やまとのふみ)』によると「かつて聖徳太子が持っていたが、大化の改新(乙巳(いっし)の変)で一部焼失、残ったものが天智(てんぢ)天皇(むろん、当時は中大兄皇子(なかのおおえのみこ))に献上された」とあります。

然(しか)し、ここで不思議に思う人はいないでしょうか? 当時の歴史書は貴重(きちょう)なものです。それが、たった一回の政変で、一部でも内容が失われ、それが今も続いている・・・仮の歴史書は無かったのでしょうか?肝心の天智天皇が(当時なら斉明天皇でもいい)がなぜ『天皇記』を持っていないのでしょうか?

これに対して「蘇我氏は天皇だった」と主張する人がいます。竹下先生もその一人です。その理由は以下の通りです。

1蘇我蝦夷(そがのえみし)の邸宅を「上(かみ)の宮門(みかど)」、子の入鹿(いるか)の邸宅を「谷(はざま)の宮門」と呼んだ。
2蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
3『国記(くにつふみ)』・『天皇記』と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
 <まず、1ですが、「宮門」と言う語。これは「御門(みかど)」・「帝(みかど)」とも書かれますが、意味する所は、「天皇の住む処(ところ)」すなわち「御所(ごしょ)」です。そして、2ですが、これは言わずもがなでしょう。最後の3ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が保管を許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示す物は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」又は「天皇に準じる扱い」を受けていたと言う事なのです。>「蘇我入鹿とは何者か? 「大化改新」秘史-其の壹-」

ところが、私に言わせれば「天皇に準ずる扱い」どころか「天皇を超える扱い」と言わざるを得なくなってきているのです。そこで、すでに竹下先生が述べられて以外に蘇我氏の「不審な点」について見てみましょう。

1蘇我氏が歴史の表舞台に現れたのは、丁度神武(じんむ)東征以来「大和(やまと)王朝の譜代」ともいうべき地位にあった大友氏の失格の直後である。
2また、蘇我氏は「大和王朝の譜代」でもなかったのに一気に「大臣(おおおみ)」にまでなった。(蘇我氏と同じ系列の葛城(かつらぎ)氏はそれ以前に滅ぼされたにも拘(かかわ)らず)
3そして、軍事の家系でもないのに物部(もののべ)氏に勝利した。
4『天皇記』を肝心の天皇家(当時は大和大王(おおきみ)家)が持っていなかった。
「3」では蘇我氏の実力が単なる豪族に留(とど)まらないことを示し、「4」では蘇我氏の権威が天皇家を超えていたことを示しています。

さて、以下の事実を総合してみましょう。「子らが親王に準じた扱いを受け」家の名前は「天皇の住む処」を指す「宮門」で「一豪族が保管を許されるようなシロモノではない」「国の歴史を記す官撰史書を保管していた」上に「軍事の家系でもないのに物部氏に勝利し」「権威が天皇家を超えていた」――こうして見ると、蘇我氏が既に「天皇を超えていた」というべきです。

次に考えてほしいのは大化の改新の起きた場所です。『日本書紀』には「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」で「改新の詔(みことのり)」が出されたとし、またその異伝(「旧本」に云うの部分)・・・実は「こんな宮殿などない!」のです。

確かに「難波京(なにわのみやこ)」の存在は、考古学その他から裏付けられていますが、それが肝心の「長柄」には無いのです。(なお、私は「難波の長柄の豊碕宮」と解釈するが、「難波の長柄の豊碕の宮」説もある。最も大意は変わらない)そして、九州にはそれにぴったりの場所が存在するのです。

[後半]現在執筆

まず、九州の博多湾岸には「字、難波」が存在します。その周辺には「名柄」「長柄」といった地名も存在しています。「邪馬壹国編」で私が不弥国とした「那の津」もその近くで、まさに「豊碕の宮」の位置にふさわしい場所です。

そこで<乙巳の変>の場所はわかりました。その後、斉明天皇は朝倉の宮にも言っていますが、やはり蘇我氏と九州王朝には何か関係があったのではないでしょうか?

そこで思い浮かぶのは「蘇我氏は九州王朝による、大和王朝への監視役だった」とする説です。そして、斉明天皇は九州王朝の命令で、蘇我氏とともに博多まで来たではないでしょうか?

それを裏付けるのは「年代論」です。なんと、乙巳の変は「645年」ではなかったのです。そのことについては次に述べます。

【補論・一】古賀達也氏の説について

古賀達也氏は「前期難波京は九州王朝の副都であった」とする、天下の奇説を発表された。さらに最近は「両京制」についても言及された。

もっとも、古賀氏の説にも一応の根拠はあるが、その内容をみると「前期難波京は首都としての資格を備えている、だから九州王朝のものだ」ということのようです。然し、それはおかしい。若し前期難波京が首都であったのなら、「九州王朝説は間違っていました」とはっきり言えばよい。

評制が難波で行われたのではないか、というものについても同様である。それは九州王朝説の誤りを認めたことになる。そして、古賀氏は九州王朝説に対する批判ができなかったから「大和王朝の都は九州、九州王朝の都は近畿」という本末転倒の考えに陥ってしまったのであろう。

【資料・一】古賀市の論考(一部略)

前期難波宮九州王朝副都説について、この数年間わたしは繰り返しその論証や傍証について述べてきました。そしてこの説の当否が、九州王朝から大和朝廷へ の権力交代の研究にとって非常に重要な論点とならざるを得ないことも明白になってきたように思われます。7世紀後半の九州王朝の宮殿や王都を北部九州内に留まるものとするのか、あるいはわたしのように難波副都を含めたスケールで考えるのかで、その様相が大きく変わってくるからです。


その一論点は、九州王朝が全国に施行した評制による中央集権体制を支えた官僚組織とその役所である大規模官衙を有した宮殿は、7世紀中頃においては前期 難波宮しかなく、その宮殿は「大宰府政庁」をはるかに凌駕し、更にその宮殿の西と東には大規模官衙群が出土しているという考古学事実こそ、ここが九州王朝 副都であったと解する他無い論理性を有しているというものです。 評制を九州王朝の制度とする九州王朝説に立つ限り、その全国支配の為の行政施設遺構を提示できなければなりませんが、そのような大規模遺構は7世紀中頃の 日本列島に於いて前期難波宮しかないのです。評制を施行し全国を統治した官僚群とその官衙が筑前や豊前にあったとしたい論者は、わたしが指摘するこの論理性をクリアできる考古学的事実を提示する学問的義務がありますが、それができた論者をわたしは知りません。

710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州 王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平 城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。

【補論・二】大和王朝と九州王朝の関係

詳しくは別に述べますが、『万葉集』から私は九州王朝の中宮天皇に大和王朝の除名天皇が服従していたと思っています。(『古代史の十字路』古田武彦、参照。但し、この本は全体的に詭弁が多いので、私は部分的にしか支持していない)

そのほかの部分も含め、九州王朝の範囲はかなり広いものであったと推定しています。私の仮説では、南米も九州王朝に服従していたと考えていますが、それは古田武彦氏も学術論文で述べていることなので、別に変った説ではありません。九州王朝説論者は古田氏の南米論を無視している人が多いですが、若しそれに納得いかないのならそれを批判すればよいでしょう。にもかかわらず古田氏の左翼的な部分のみを抜き出して自らの誤った「自粛史観」を前面に出している人(例えば元朝日新聞記者の内倉武久氏)の説は基本的に信用できません。
 

それはおかしい

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月28日(月)14時14分42秒
  邪馬臺国は大倭王のとするところ、であるのに対して邪馬壹国は七万戸の国としてしるされている。どちらも同じかもしれないが、少なくとも『魏志』の原文に邪馬臺国とする写本は一つもなく、『魏志』を論ずる場合は邪馬壹国とすべきである。(無論、『魏志』の作者・陳寿やその初期の写本者が誤った可能性もある。その場合は、なぜ彼らが誤ったかを研究の対象にすべきであるが、解法者の言う通り『魏志』によって女王国の位置を求める場合は「邪馬壹国」とすべき)

以上の理由により、私はどちらが正しいかに関わりなく、今のところ『魏志』を論ずる場合は「邪馬壹国」とし、『東日流外三郡誌』や『後漢書』について論じる場合は「邪馬台国」とします。

                 
 

邪馬台国(28)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月27日(日)14時05分57秒
   説明が遅れたが、『三国志』魏志倭人伝に「邪馬壹国」とある。『後漢書』列伝東夷倭国之条では「邪馬臺国」とある。前者は「壹(一)」であり、後者は「臺(台)」である。『三国志』にはいくつかの写本があり、「宋本」以下が「壹(一)」とある。ところが『後漢書』、『梁書』、『隋書』、『北史』は「臺(台)」となっている。このことから『後漢書』以下の関係記事には魏志倭人伝の本文に「邪馬臺国」とされたものがいくつもあったと考えられているし、筆写の誤りではないかとされている(榎 一雄−前掲書 44頁)。
 同じく『三国志』魏志倭人伝に「一大国」とある。これも「一支国(壱岐)」の誤りだとされる(「卑弥呼考」内藤虎次郎〔『読史叢録』22頁〕)。
 ところが、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とは全く異なると説く者がいる(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 122頁)。その根拠は『三国志』全体の中で「壹」は86個、「臺」は56個ある。この86個の「壹」のうち、「邪馬壹国」(1個)、「卑弥呼」の後を継いだ「壹与」(2個)を除いた82個のうち「臺」の誤記と認定されるものは1例もない。また、82個のうち81個までが人名である。56個の「臺」のうち「臺」の誤記と認定されるものは1例もない。したがって、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とは全く異なるという。しかし、これは可笑しい。問題は『三国志』のみならず『後漢書』など他の中国資料ではどう表記されているかである。全体の中で判断すべきという問題が看過されている。そして、『三国志』の写本時代の4世紀〜10世紀末までに執筆された書物、つまり『後漢書』倭伝(445年ころ)、『梁書』諸夷伝(636年)、『随書』俘(倭)国伝(656年)、『通典』(801年)、『太平御覧』(983年)などは総て「臺」と表記している(「倭人伝を読む」山尾幸久〔『続 邪馬台国のすべて』72頁〕)。『三国志』より後世の書物が「壹」ではなく「臺」と記していることは、『三国志』の「壹」が「臺」の誤りだったと考える。したがって、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とは同じもので、「邪馬臺国」の表記が正しい。
 

邪馬台国(27)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月27日(日)13時58分47秒
   『三国志』魏志倭人伝では「其国本亦以男王、住七八十年、倭国乱、相伐歴年、及共立一女子為王、名曰卑弥呼」とある。『後漢書』との違いは、「倭国」の乱に至まで男子の王がおり、70年間統治したと記されていることである。この「住」については「往」の誤りではないかという指摘がある(榎 一雄−前掲書 199頁)。これを「往」と考えると、「男王が就位する前の7、80年前に倭国の乱が起き、相当の年月にわたり争った後に卑弥呼が共立された」と解することになり(榎 一雄−前掲書 同頁、『邪馬台国はここだ』奥野正男 毎日新聞社 1981年9月20日 47頁)、意味が大きく異なってくる。しかし、原文には「住」とあり、これを「往」とすることは原文を逸脱しており従えない。
 ここにいう「其」は「邪馬台国」を指すと考えてよい。「倭国」は「邪馬台国」を含む諸国つまり「卑弥呼」を盟主として共立した「伊都国」や「投馬国」、「卑弥呼」と争っていた「狗奴国」を含めてよいと考える(榎 一雄−前掲書 同頁、奥野正男−前掲書 46頁)。

 これが「卑弥呼」の女王就任に関する記述である。『自為王以来(中略)以婢千人自侍(中略)居処宮室・楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛』(『三国志』魏志倭人伝)とある。相当大規模の宮殿があったことが記されている。九州にはこれに相当する宮殿跡が発見されてないことは前記のとおりである。
 

太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月27日(日)13時02分52秒
   感動的な映画だった。サイパン島に昭和19年(1944年)6月15日に米軍が上陸してから、終戦後も含めて521日間、米軍に抵抗を続けた「大場 栄」大尉の第43師団第18連隊衛生隊の奮闘の実話である。
 米軍の上陸当時、サイパン島には43,582名の日本軍がいたとされるが、70,000名の圧倒的勢力のために為す術なく壊滅してしまった。一方サイパン島には29,348名の日本人民間人(現地人も3,926名いた)。民間人の多くが北端のマッピ岬(万歳クリ−フ)から投身したことはよく知られている。
 「大場 栄」大尉は残された軍人80〜100名を率いて島の北部の通称タコ山に潜伏し果敢に米軍に立ち向かいゲリラ戦を展開して、米軍から「フォックス(狐)」と恐れられた。
 「大場 栄」大尉は職業軍人ではなく、中等学校で地理の教師(愛知県蒲郡市出身)を勤めており召集後幹部候補生として大尉に昇進したものである。行動は正に神出鬼没、時には捕虜・民間人収容所にも忍び入り、食糧・医薬品などを盗み出したばかりか、収容されている日本人捕虜・民間人から情報収集も行い、これを戦闘に役立てた。万にも及ぶ米軍は全く歯が立たなかった。そのため米軍は何度も投降ビラを飛行機から撒いたりしたが、米軍の民間人などに対する残虐ぶりは知れ渡っており、全く効果が無かったばかりか、兵・民間人を「大場 栄」大尉の下に結束させたという側面があった。
 「大場 栄」大尉率いる部隊は昭和20年12月1日、上官の投降命令により47名の部下とともに山を下り米軍に武器を渡して投降した。
 「大場 栄」大尉が凄かったのは兵を良く統率したばかりではない。民間人約200名の命を守りながらゲリラ戦を展開したことである。
 感動したのは「大場 栄」大尉が常に民間人に尊敬の念を抱いて接していたことである。だからこそ、民間人も離反することなく「大場 栄」大尉ら軍人と運命を共にしたと思える。そして、民間人に自決を強要することなく、ぎりぎりのところで投降させて命を救っている。
 戦闘には邪魔になる民間人を損なうことなく地形が険しかったとはいえ、よくもこんな小さな島(佐渡の1/7.5)で圧倒的な米軍に一歩も引かず戦ったと思える。それは「生きて俘虜の辱めを受けず」というよりも「右顧左眄することなく与えられた職責を全うしてこそ生きる意味がある」という精神が根底にあったのではなかろうかと考えている。現在の政治をみると右顧左眄しまるで覚悟というものがない者どもが国政・地方政治を担っている現状を憂いるが、翻って自らを省みるとき果たしてこういう覚悟が備わっているだろうかと恥じ入るばかりである。
 「大場 栄」大尉は戦後も生きられ平成4年6月8日に没している。
 日本人としての誇りとは何かを問いかけてくれる映画である。是非とも国民全員が鑑賞していただきたい映画である。
 

2020年大予測@北朝鮮が日本国と同盟、在韓米軍撤退?

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 2月27日(日)12時12分20秒
  いまや、日本の仮想敵国と化している朝鮮民主主義人民共和国と呼ばれている政権――我が国は国家承認していない――が存在しますが、この北朝鮮が「親日国」であると思う方はこの中にいるでしょうか?

おそらく、とても少ないでしょう。然し、私はあえて「予言」します。あの、2012年の天皇誕生日に「太陽が滅び、生まれ変わる」というマヤ文明の予言、それは日本による北朝鮮の「属国化」とそれに伴う混乱である、ということを。そして、あえて次の命題を言います。

<現在のわが国の最大の敵は「大韓民国」である>

と。我が国の仮想敵国は「力」によって動く中国や北朝鮮ではないのです。その証拠に、韓国は自分たちが日本よりはるかに弱かったころから「反日」を行い、「親日弾圧法」まで「堂々」と制定しています。間接的な同盟国であるにもかかわらず、そうなのです。

さて、話は変わりますが、次の首相は誰がなるでしょう?そこで私が次の首相は前原外相がなると思っています。菅直人は2013年まで首相の地位にとどまろうとしていますが、このままでは小沢系議員の造反で「内閣不信任案」が通る可能性も高い。然し、小沢一郎氏はもうすでに人望を失っている。

こうなると、小沢氏に最近急接近している前原氏が首相になる確率が高い。だいたい、この人が一番ましな人物でしょう。ところで、この「前原首相」が誕生した場合、一番喜ぶのはどこの国だと思いますか?中国、これは一番困る国でしょう。(笑)アメリカも困るかもしれません。台湾も歓迎しないでしょう。台湾も反日です。

そこで私が考えたのは、「北朝鮮は前原首相を望んでいるのではないか」というものです。まず、北朝鮮は中国の属国ですが、中国が「北朝鮮の核実験を止める」と日本に約束した矢先に「核実験をした」という声明を発表、明らかにこの国は中国と縁を切ろうとしているのですが、われわれ日本人は鈍感であったため、そのことに気づきませんでした。

ところが、最近ある新聞記事が目に付いたのです。それは前原外相の「北朝鮮との国交を検討すべき」との発言に対し、「きわめて現実的な判断だ」と北朝鮮が評価したというのです。(今月の『朝日新聞』にあったはず)

あの北朝鮮、この発言には裏があると私は直感しました。それは、

「私は反中国です」

という、金日成のメッセージではないか、というものです。ご存じのように前原外相と中国は仲が悪い。その前原氏が「現実的な判断をした」というのは、中国では絶対に言えないことです。

さて、今度は北朝鮮の状況を考えてみましょう。まず、ロシアは北朝鮮を見捨てています。蔭では支援が続いているようですが、どうやらロシアは北よりも南の韓国に興味があるようだ。黄海を握っているのは中国です。

この北朝鮮が反中国であるということは、活路を見出すには「日本海」への道しかありませんん。そして、そこには日本が存在します。実は、北朝鮮は日本との同盟を組んで、「強勢大国」へとなろうとしているのではないか、というのが私の推測です。

そして、前原政権ならその要求にも乗るでしょう。こうして「日朝同盟」が誕生し、必然的に日韓関係は悪化します。こうなると困るのはアメリカ、下手すると「在日米軍対在韓米軍」の争いになりかねない。こういう状況になると、すぐさま去るのが「大国の常識」です。そこで、アメリカは日本を捨てるか、韓国を捨てるか、考えてみましょう。

アメリカにすると、日本を捨てるとそれは中国への利益となります。従って、韓国を捨てるでしょう。そうすると、北朝鮮にアメリカ軍を置くこともできるようになるからです。
 

原文改定は基本的にしてはならない

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月27日(日)10時43分55秒
  解法者さん、あたかも『魏志』に邪馬台国と記されているかのような「ふり」をしていますが、倭人氏と同じ轍を踏まないよう。  

皇国史論「邪馬壹国」編C到着点

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月27日(日)10時39分12秒
  こうして、私の『魏志』による解釈は終わった。その方法は「放射式」でも「直線式」でもない、真に科学的な解釈である。

そこから『魏志』はさらに東の国を載せている。

【女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。又、侏儒國有り。其の南に在り。人長三・四尺。女王を去る、四千余里。又、裸國・黒歯國有り。復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。】


私は東の倭種を下関海峡を渡ったところ、即ち山口県に推定している。そこから、南の侏儒國は四国西南部に充てた。

問題は黒歯国・裸国の位置である。古田武彦氏はそれをエクアドルとした。そして、それに対する学会の反応について「自粛史観」と評価したのである。私も古田氏と同じ気持ちだ。

現在、私は天皇家がパラオから来たことを立証しつつあるが、古代の海洋民族は意外に遠くまで行っていたのである。『魏志』のこれらの国は古代の環太平洋文明圏の姿が投影されていおると私は考えている。
 

皇国史論「邪馬壹国」編B誤られた伊都国・不弥国

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 2月27日(日)10時29分16秒
  さて、そこまでみると、古代史マニアの中には「古田と同じじゃないか」という人もあるかもしれない。然し、それは違う。例えば「水行十日・陸行一月」を古田武彦は総日程と解釈していた。だが、私はそれを「非」とした。

最も重要な違い、それは伊都国の位置である。伊都国への里程は、

【東南陸行、五百里、伊都國に到る】

である。この伊都国を旧・怡土村を始めとする、前原市東南部とする説は少なくない。然し、古田はこれを様々な詭弁によって、前原市北西部にしてしまった。それではいけない。「東南」と明記されているのに、「北東」にしてしまったのである。

前原東南部を伊都国とすると、不弥国は那の津のあたりとなる。これまでの学者が奴国にあててきたところ、それが私の説では不弥国となた。(この説の先達者に兼川晋氏がいる)

こうして伊都国と不弥国の位置は定まった。そこから水行十日・陸行一月で行ける地点を含む、博多湾岸を中心とする北九州のかなりの範囲が邪馬壹国である。

但し、具体的にその中心地はどこか、それは今後の考古学的調査を待たなければならない。
 

皇国史論「邪馬壹国」編A主線行程と傍線行程

 投稿者:皇国の日野護国運動家  投稿日:2011年 2月27日(日)10時10分27秒
  まず、『魏志』の倭人伝に出てくる行程記事をすべて抜き出してみましょう。


A)区間里程
       到着地点
1.七千余里  狗邪韓国
2.千余里   対海国
3.方四百余里 対海国の面積
4.千余里   一大国
5.方三百里  一大国の面積
6.千余里   末盧国
7.五百余里  伊都国
8.百里    奴国
9.百里    不弥国
B)総里程

1.一万二千余里 帯方郡治→女王国
C)日程

1.水行二十日 不弥国→投馬国
2.水行十日・陸行一月 邪馬壹国

さて、まずC)の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。これは自明の道理である。

もうひとつ、重要なことはこれの「日程」には先行動詞がありません。『魏志』の用例を調べると以下の事がわかります。

a)進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」

行きて曲阿に至る。呉志三

諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八

これが通常の形である。

b)(先行動詞なし)「至」

東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。(C-(1)の「投馬国」も同様に「傍線行路」)

この「行」がないものは主線ではない、したがって傍線である、と考えると主線は次の六つになります。

1.七千余里  帯方郡治→狗邪韓国
2.千余里   狗邪韓国→対海国
3.千余里   対海国→一大国
4.千余里   一大国→末盧国
5.五百余里  末盧国→伊都国
6.百里    伊都国→不弥国

これらをすべて合わせると、一万六百里になります。(傍線行程の里程を合わせても一万七百里にしかならない)あと千四百里たりません。そこをどこから、探すかが問題です。

すると、Aの面積も里程で記されていることがわかります。これは「方法」という、中国の伝統的な計算法で記されているもので、ようするに一辺の長さが記されているわけです。そこで考えるに、中国人は陸地民族である。当然、島があったら上陸する。その証拠に対馬の風習も書いている。これは上陸しないと分からない。つまり、この島を上陸した里程も当然含まなければならない。

そうすると、全週一回転すると元に戻ってしまう。半周だけ行ったとすると、対馬と壱岐で丁度「千四百里」になる。

つまり、ここで「一万二千里」が出てきた。帯方郡治から不弥国まで一万二千里言っていたことがわかった。すると、邪馬壹国はどうなるか。これを求める方法は一つしかない。

「不弥国と邪馬壹国の国境は接していた」と。

そうすると、「水行十日・陸行一月」は邪馬壹国の中での日程となる。だから、不弥国の位置がわかれば邪馬壹国の位置もだいたいわかる。

そこで、今度は不弥国がどこか、それについて調べてみます。
 

邪馬壹国を<真剣に>探しましょう――「倭人伝」に邪馬台国なし

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月27日(日)09時47分2秒
  解法者さん、言いたいことはわかりますが、私が「多元史観編」で述べてきた説をなかったことにするのはちょっと。
まず、原文では邪馬壹(一)国ですし、私は不弥国と邪馬壹国が隣接していたと考えています。また、いわゆる「半周読法」を無視するのもやめてください。少なくとも三回、この説を紹介しました。

それでは、私の説から紹介しますので、皆さん異論はあるでしょうが「そういう説もある」ということを頭に入れていただければ、と思います。
 

邪馬台国を探してみませんか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月26日(土)13時43分52秒
   せっかくの機会ですから、『三国志』魏志倭人伝から、「邪馬台国」を探してみたらどうでしょうか。
 これまでも「帯方郡」から「邪馬台国」の旅程を示してきましたが、確認の意味で『中国正史 倭人・倭国伝全釈』(鳥越憲三郎 中央公論新社 2004年6月25日)を図書館で借りてきたらよいでしょう。その他の書籍は末尾をご覧ください。

 地図帳とコンパス、分度器、磁石などもご用意ください。
当然、「帯方郡」、「狗邪韓国」、「対馬」、「一支国」、「末盧国」、「伊都国」、「奴国」、「不弥国」、「投馬国」、「邪馬台国」がどこにあるかは自分で考えなければなりません。簡単に探すなら、「ウィキペディア」から探すのもよいでしょう。

 「帯方郡」から「邪馬台国」の旅程を示しておきますと、「帯方郡」−7000余里−「狗邪韓国」−1000余里−「対馬」−1000余里−「一支国」−1000余里−「末盧国」−500里−「伊都国」−100里−「奴国」−100里−「不弥国」−水行20日−「投馬国」−水行10日・陸行1月−「邪馬台国」です。「帯方郡」−「狗邪韓国」は海上のみと考えてもよいでしょう。
 もう1つ(里数で考えるもの)あって、「不弥国」までは同じですが、ここから「邪馬台国」が1300里というものです。これが「順次式」という考えで、通説と言えましょう。
 「放射式」という考えがあることも説明しましたが、これによると「伊都国」までは同じですが、ここから−水行20日−「投馬国」、「伊都国」−水行10日・陸行1月−「邪馬台国」となります。
 里数で考えるものを採りますと、「伊都国」−1500里−「邪馬台国」となります。
 さて、1里ですが、これも前に指摘したとおり1里を435メ−トル(長里)考えて旅程表のから「帯方郡」から「邪馬台国」へとたどって行きます。もちろんそれがどこにあるかは、
これについても1里を77メ−トル(短里)とする考えもありますから、これも同じようにします。
 また、水行・陸行ですが、いずれも1日あたり18キロと考えてよいでしょう。
 大事な問題は、「不弥国」から「邪馬台国」へはどちらの方角に向かったかです。私は「南」を「東」と考えますが、そのまま「南」と考えるのが通説といえます。
 水行・陸行と里数で考えるものとはおそらく「邪馬台国」の位置は違ってくると考えます。
 皆さんの「邪馬台国」はどこでしたか?

★ 原文付き
 『邪馬台国論争』佐伯有清 岩波書店(岩波新書〔新赤版 990〕2006年1月20日
 『謎の鏡−卑弥呼の鏡と景初四年銘鏡−』(財)京都府埋蔵文化財調査研究センタ−
 1989年3月31日
★ 読み下し文のみ
 『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 講談社(講談社現代新書 835)1986年11月20
 日
 『邪馬台国と大和朝廷』武光誠 平凡社(平凡社新書 224)2004年5月14日
 

韓国が麻薬組織を支援?

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 2月26日(土)12時36分6秒
  銃器 主要なソース
AK系(半自動) アメリカ
AK系(フルオート可) 中央アメリカ、南アメリカ、中東、アフリカ、中央アジア、南アジア、東アジア
AR-15(半自動) アメリカ
M16(フルオート可) おそらくベトナム
破片手榴弾 M61手榴弾/M67手榴弾/マークII手榴弾/K400 中央アメリカ、韓国、イスラエル、スペイン、旧ソ連圏、グアテマラ、ベトナム
RPG-7 /M72 LAW / M203 グレネードランチャー アジア、中央アメリカ/グアテマラ、北朝鮮
バレットM82対物狙撃銃 アメリカ
M2カービン (フルオート可) ベトナム

メキシコ麻薬戦争での死者はすでに三〇〇〇〇人を超えている。この麻薬組織に武器を援助しているのは、アメリカや中東の麻薬組織であるらしいが、中国はその中に含まれていない。東アジアでこの麻薬組織に援助をしているのは韓国、北朝鮮、越南といった国である。(ウィキペディアより)特に私が重要に思うのは韓国で、この国は予想外に悪質な民族ではないだろうか?私は北朝鮮よりも韓国を仮想敵国と考えているが、まともな自称「先進国」にはるばる太平洋を越えて麻薬組織を支援する勢力が存在することに、韓国政府は恥ずかしくないのだろうか。
 

ゴジラは日本の専売特許である!SSは惨死せよ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月26日(土)12時21分37秒
  聞くところによると、「ゴジラ号」が日本の捕鯨船へ攻撃しているとか。メキシコ麻薬戦争のこともあるのだから、日本も第二の麻薬組織であるシーシェパークに宣戦布告すべきだろう。「日本SS戦争」を行ってこそ、我が国にとって捕鯨が重要であることが認識される。
だいたい、犯罪組織の一つや二つぐらいに、防衛費世界第三位の日本が負けてどうするのか。まず、日本は次の手を打つべきであろう。

@日本人にアカデミー賞を受け取ることを禁止する。
A海上保安船「ゴジラ号」の製造。
BSSへ宣戦布告。
 

邪馬台国は近畿、邪馬壹国は熊本

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 2月26日(土)12時04分32秒
  『東日流外三郡誌』によれば邪馬台国は近畿であった、ということです。
又『東日流六郡誌大要』によると、近畿には邪馬台国、九州には邪馬壹国があったことになっています。護国運動家氏みたいな「邪馬台国でも邪馬壹国でもよい」というのは学問的ではありません。
また、邪馬台国を『魏志』で解釈しようとする解法者三も然り。『魏志』にそんな国はありません。
 

倭人さん、それは有り得ませんよ

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月26日(土)12時00分48秒
  まず、倭人氏は「四王朝交代説」を主張している。然し、『古事記』からは王朝交代の痕跡はなく、「万世一系」である。また、何故歴史を崇神天皇から始めるか、不明である。

 

Re邪馬台国(25)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 2月26日(土)11時58分10秒
  これはまとも、鋭い観察ですね。さすが、政治学者。
但し、この「倭国大いに乱れ・・・」は『後漢書』以降に出てくる表現で『魏志』では「倭国乱れ・・・」となっています。

要するに、解法者氏は少し原文に疎いかと。私も素人ですが、「奴国」は『魏志』にも出てきていますからね。(但し、金印の国は「倭奴」当時の発音で「ゐど」であったと思われる)

気 候         冷 夏   飢 饉   大 雪
期 間
51年〜150年     4     4     1
151年〜250年    6     3     3
251年〜350年    2     3     0
之は初めて知った。「倭国の乱」も「黄布の乱」も異常気象が原因だったという訳ですね。となると、やはり大和は当時の日本列島の支配者ではありえない。なぜなら、そこからは農具が一切出土していない。
 

RE:こんなことを意(言?)っているようじゃダメだ

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 2月26日(土)11時50分31秒
  投馬国が薩摩や吉備だったら、朝鮮海峡でさえ三千里なのに、1300里もたたないうちにえらい早い船に乗ったことになりますよ。だいたい、陸地民族の中国人が二十日も船に乗れますかね。薩摩なら沿岸を歩いたらいいわけだし、吉備の場合は下関海峡を越えたら歩くことは可能でしょう。川があるからこそ、船を使ったのだと思いますがね。  

その通り、だから九州

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月26日(土)11時41分55秒
  >「神武天皇」 邪馬台国が存在する遥か前に大和に東征している。
君は『古事記』が第一級史料だと言ってんだろ。ならば、そう理解する
のが当然! <
その通り!そして、私はそう理解している。
邪馬台国、いや、原文通り「邪馬壹国」と私は読んでいますが、この際国名はどうでもいい。この国が大和なら、『古事記』のどの人物か、ということになる。それに対して、私は『古事記』にそんな人物はいない、だからそれは筑紫君ではないか、と考えた。
ここで、私が最近考えた仮説を一つ。阿蘇神社に神武天皇の二男が祭られており、(すいざい天皇は三男)それが筑紫君の祖先ではないか、というもの。私は卑弥呼を「筑紫君・甕衣姫(みかよりひめ)」に批定している。


まあ、若し金印が近畿で見つかったら、私も近畿説になります。然し、甕衣姫の方が、『古事記』のほかの人よりも卑弥呼に似ていると私は思う訳です。あと、「南」を「東」に原文改定するのもおかしいですからね。
 

RE:何度同じことを言わせるのか!

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月26日(土)11時32分38秒
  それはこっちのセリフですよ。『古事記』に卑弥呼はいないですよ。いえ、若し卑弥呼が倭述百覇姫のことだといわれるんなら、それはそれで一つの仮説として成り立つのですよ。然し、解法者氏はそれを明記していない。そのことを指摘しただけです。

なお、私は神武東征は紀元前1世紀のことであると思っています。
 

邪馬台国(25)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月25日(金)13時20分52秒
   その後の「倭国」であるが、『恒・霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑弥呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立為王』(『後漢書』巻85 列伝 東夷 倭国条)
 ここにいう恒・霊間とは、恒帝(147年〜167年)・霊帝(168年〜189年)のことである。「倭国」に大乱が起き、「奴国」などは「邪馬壹国」により滅ぼされたのであろう。
 この「倭国大乱」であるが、ヒノキの年輪の調査から、当時は異常気象により気候変動が激しく旱魃などで飢饉が起きたとされており、それが原因ではないかとされている(
“邪馬台国を掘る”NHKスペシャル[デジタル1]〔2010年1月24日(日)午後9時〕「中塚 武」の発言、「邪馬臺国の科学」山本武夫〔『続 邪馬台国のすべて』251頁)。
 「卑弥呼」が活躍した約150年〜250年は「小氷期」であった。日本と一衣帯水の間にある朝鮮の「新羅」の状況を示す『三国史記』新羅本紀を見てみると「7月、イナゴが穀物を害し、海の魚が浮かび上がって死んだ」(161年−第8代「阿達羅尼師今」王8年)から「7月、日照りが続きイナゴが発生し、凶作となり盗賊がはびこった」(259年−第12代「沽解尼師今」王13年)という記事がある。ここでの気候に関する記事をまとめたものが次表である(「気候変動からみた「邪馬台国」」山本武夫〔『史話 日本の古代 2−謎につつまれた邪馬台国』直木孝次郎 作品社 2003年4月30日 140頁〕)。
気 候         冷 夏   飢 饉   大 雪
期 間
51年〜150年     4     4     1
151年〜250年    6     3     3
251年〜350年    2     3     0
 中国でも、「黄巾の乱」(184年〜192年)という大乱があり、225年に「魏」の「文帝」(曹丕−曹操の子)が「呉」を攻めんとしたが淮水(江蘇省の大河)が氷結して延期した、「蜀」の「諸葛孔明」が雲南省を攻略したのは食糧確保のためであった(『蜀志』)
との記録があり、やはり異常気象だったのである。
 『三国史記』新羅本紀の第9代「伐休尼師今」王10年(193年)には「6月、倭人が大飢饉にあい、食を求めて千余人が来た」という記録があるのは興味深い。この倭人は朝鮮半島南部に住む倭人であったと思われるが、「新羅」に隣接するその地も大飢饉に襲われていたのである。
 

邪馬台国(26)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月25日(金)13時19分29秒
   これについては、当時はむしろ温暖だったという反論が寄せられている(『卑弥呼と邪馬台国の謎』樋口清之 大和書房 1985年7月25日 38頁)。また『三国史記』の2、3世紀の記事は疑わしく、イネの花粉の分析から「倭国大乱」があったとされる弥生時代後期が必ずしも縄文時代前期より寒冷だとは言えないとの指摘もなされている(『東アジアの中の邪馬台国』白石昭一郎 288頁)。
 そこで、九州北部の有力首長層が鉄器の蓄積の普及を背景にして蓄積を重ね、やがてより広い政治支配の拡大を目指して争われたのが「倭国大乱」だという(『邪馬台国の東遷』奥野正男 毎日新聞社 1982年8月30日 121頁)。「倭奴国」が鉄などの貿易通商の利を独占して経済的に富強となり政治権力を握ってきたのであるが、筑後川流域の農業国が水稲耕作により経済力を握り、貿易通商に反旗を翻したのが「倭国大乱」だという。つまり「貿易通商国」と「農業国」との争いだというのである(『古代日本の国家形成』水野祐 講談社〔講談社現代新書 128〕1967年10月16日 75頁)。「後漢」の朝鮮半島に対する支配力が衰え、朝鮮の諸族が台頭し、これが倭国にも影響を及ぼし「倭国大乱」を招いたとする(『古代日本の国家形成』井上光貞 岩波書店〔岩波新書[青版 380]〕1960年4月18日 33頁、『大和朝廷−古代王権の成立』上田正昭 講談社〔講談社学術文庫 1191〕1995年8月10日 69頁)。
 私は、朝鮮の伽耶諸国(弁辰)での鉄を巡る権益(輸入権)の争いが原因と考えたいが、当時は温暖だったという考えは「樋口清之」自らが仮説に過ぎないと述べている(前掲書 同頁)のであり、気候変動が要因だったとする考えも否定できない。

 この「倭国大乱」で「邪馬台国」と並んで「倭」の中の大国である「倭奴国」は「邪馬台国」に敗れ去ったとされている。
 

こんなことを意っているようじゃダメだ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月25日(金)11時15分51秒
  >中国人のことですからね、お得意のほら癖で実際には三日だったのを二十日
といったんでしょう<

>だいたい、三日を二十日と記すわけがないでしょう。よくわからん計算で
勝手に里程を出して、どうして熊本平野に持っていけるのか。<
 これは当然の指摘! 史料にないことを付加することは<禁じ手>
 残念ながら倭人氏には失望した。「邪馬台国」を論じる資格はないな。
 なお、12'000-10'700=1'300の計算と三日だったのを二十日とは別問題。
 

七支刀(22)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月24日(木)23時52分35秒
  >銘文の解釈(16)<

3.「故為倭王旨造」
@ 「旨」
  これが問題となっている。ここでは3つの見解に分かれている。
〈1〉「倭王の上旨あるいはご希望」と読む(「榧本杜人」、「薮田嘉一郎」、
  「福山敏男」)。
  この考えは、「七支刀」が「倭王」に<献上された>との考えにつながる。
〈2〉「人名」とする。
   「応神天皇」(「西田長男」、「栗原朋信」)、「履中天皇」(「藤間生大」)、
  「「記紀」にその名が伝えられてない王」(「川口勝康」、「佐伯有清」、「古田武彦」−
  前掲書 184頁、「平野邦雄」−前掲書 56頁)
〈3〉「嘗」の略字だとする(「宮崎定市」−前掲書 110頁)。意味は、「初めて(嘗)
  造る」となる。
〈4〉「造」にかかる修飾語」とする(「吉田 晶」−前掲書 61頁)。「上手く(造った)」
  と解するのである。美しく造った(「村山正雄」−前掲書 164頁)というのも同じ
  分列に入る。
  どれが正しいかを考えてみる。
  〈1〉の考えが採りえないことは「百済王」と「倭王」が対等の地位にあったこと(こ
  れについては前述してある)から明らかであるが、付け加えれば、その前にある「為」
  と矛盾する(「宮崎定市」−前掲書 109頁)。
  〈2〉の「人名」であるが、これが採りえないことは「奇生」のところで説明した。
  〈3〉の「嘗」、これは、「嘗」=「試作」にもつながり、これを「初めて」と解する
  は無理がある。
  やはり、これも「吉祥句」で「「倭王」のために上手く造った。あるいは美しく造った」
  と解するのが無難であろう。
3.「伝示後世」
  これは「後世に伝えていただきたい」の意味である。「後世に伝えよ」などの<命令形
 >(「金 錫亨」)でないことは「百済王」と「倭王」が対等の地位にあったことからも明
 らかである。
 

七支刀(23)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月24日(木)23時48分26秒
  >銘文の解釈(17)<

 「七支刀」の銘文の全訳をしてこの項を終えたい。
 表
  『「泰和四年」(369年)の夏5月、良く鍛錬して製作した鉄の「七支刀」はあらゆ
 る兵器からの害を免れるものであり、恭しく「倭王」に贈るものである。』
 裏
  『先世以来、こういう素晴らしい刀はなかったのであり、百済王の世子(太子)が聖
 なる「倭王」の御恩が普く(あまねく)広がるように「倭王」のために上手く造ったも
 のである。長く後世に伝えていただきたい。』
 

何度同じことを言わせるのか!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月24日(木)23時28分20秒
   「神武天皇」 邪馬台国が存在する遥か前に大和に東征している。
君は『古事記』が第一級史料だと言ってんだろ。ならば、そう理解する
のが当然!
 

邪馬台国(24)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月24日(木)21時03分36秒
   これまで「邪馬台国」=「卑弥呼」の国として構成してきた。『三国志』魏志倭人伝には「南至邪馬台国。女王之所都」と記されている。これについて「邪馬台国」と「卑弥呼」の国(女王国)とでは異なり「邪馬台国」は単に「卑弥呼」の居住する所に過ぎないと言うのである『日本の歴史02 王権』寺沢 薫 講談社 2000年12月10日 268頁、『魏志倭人伝を読む(上)』佐伯有清 74頁)。つまり、「邪馬台国」は「卑弥呼」の居住するところに止まり、それは女王国連邦だというのである。これによれば「卑弥呼」は単なる「倭国」の王に過ぎないことになる。確かに『三国志』魏志倭人伝には「倭国乱、相攻伐暦年。乃共立一女子為王」、『後漢書』列伝東夷倭国之条にも「倭国大乱、更相攻伐、暦年無主。有一女子曰卑弥呼(中略)於是共立為王」とあり、『三国志』魏志倭人伝には朝貢した「卑弥呼」に対し「親魏倭王」を爵位している。また「詣仮倭国、拝仮(許されて拝謁する)倭王」とある。『後漢書』列伝東夷倭国之条に「其大倭王居邪馬台国」とある。
 しかし、『三国志』魏志倭人伝の最初に示した記事のすぐ後に「自女王国以北(中略)旁国(近隣の国)」とあり、21カ国の名前が挙げられている。また、「自女王国以北、特置一大率、検察諸国」(一大率〔長官〕を以って諸国を監察した)とある。これは「倭国」が「卑弥呼」の女王国連邦という表現ではない。「邪馬台国」=「卑弥呼」の国で女王「卑弥呼」が長となって「邪馬台国」に君臨しており、諸国〔旁国(近隣の国)〕を支配していたと理解するのが正しい。それと「南至邪馬台国。女王之所都」と記されているのであり、「邪馬台国」を簡約して「女王国」としたと考えるのが素直な解釈だと思える(「邪馬台国論争は終わった」古田武彦〔『続 邪馬台国のすべて』古田武彦・山尾幸久ほか 朝日新聞社 1977年4月30日 18頁〕)。

 以後は「邪馬台国」=「卑弥呼」の国として論を進めたい。
 

「和田家文書」の筆跡鑑定(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)18時00分6秒
  http://www.tagenteki-kodai.jp/Uchi_Jo_031.jpg秋田孝秀『東日流内三郡誌』表紙
http://www.tagenteki-kodai.jp/Kihachiro_36001_A3h.jpg和田喜八郎による『東日流外三郡誌』レプリカ表紙

インターネット上で公開されているこの二つの文書の筆跡を調べてみよう。まず、これらは東・日・流・三・郡・誌・秋・田・孝・秀・第の11文字が共通している。従って、これらの文字がどれくらい似ているか調べれば和田喜八郎の偽作か、否かがわかるはずだ。

これについて原田実は「どうみても和田喜八郎の筆跡」といっていた。それでは実際に見てみよう。

類似した筆跡 4文字
相違した筆跡 6文字
類似率    36%

私が調べたのは、原本に似せて作られたレプリカである。それでもたったの36%しか似ていないのだ。「どうみても和田喜八郎の筆跡」といった原田実の頭はおかしいのだろうか。

 

高天原はどこか(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)17時36分45秒
  【高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇(たか)し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻(おおあさ)を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。】『天皇記』

全く、「和田家文書」の中には貴重な資料が少なくない。『天皇記』からの引用が存在していたのである。
ここで言う南藩諸島はどこであろうか。私はそれがパラオであると思うのである。

古田武彦氏は高天原は対馬であるとした。然し、対馬から大和に降臨することは不可能である。
高天原から降臨するところは次の三地点である。
1筑紫
2出雲
3新羅
4大和

このうち、四つ目の条件に古田説はあっていない。古田氏の論考は大和に降臨した物部氏を無視しているが、それは学問的ではないであろう。
 

なんかおかしいような

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)17時21分42秒
  神功皇后が九州にいた証拠って、あるんですか?  

仲哀天皇は邪馬壹国の天皇だった

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 2月24日(木)17時20分7秒
  『古事記』によると、仲哀天皇は九州の豊浦で即位したことになっています。やはり、九州にあった邪馬壹国の王だったのでしょう。熊本県から熊襲・隼人を征伐している途中に倒れたのでは?

当然、私の説では神功皇后も九州となります。倭王旨は景行天皇でしょう。その前の崇神・垂仁天皇はイリが名前に入っているので大和の天皇です。景行天皇以後はタラシが名前にはいいているので垂仁天皇とは別の系統です。

邪馬壹国            狗奴国      大和王朝
考霊天皇
孝元天皇
亡命―――――――――――――→開化天皇
日子座王            崇神天皇
日巫女(卑弥呼)        <戦闘>     建埴輪王
壹与              敗北――――――→崇神天皇
景行天皇                     垂仁天皇
仲哀天皇                     <滅亡>
 

四王朝交代説?

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)17時03分22秒
  >何か問題でもありますか?<

おおいにあります。川村明の三王朝交代説を批判しようと思っていた矢先、何だこれは!これほど売国的な論考は見たことがない。

だいたい、三日を二十日と記すわけがないでしょう。よくわからん計算で勝手に里程を出して、どうして熊本平野に持っていけるのか。
 

竹下先生の論考がない?・・・

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)17時00分2秒
  さっそく竹下先生の論考を見ようと思ったら、あれれ?なかった。少なくとも「歴史再考」上には存在していない。どういうことだろうか。

然し、竹下先生は中国の満州支配を認めていない。私がこの掲示板に投稿しているのも、竹下先生の説を基本的に支持しているからだが、竹下先生が感情的に反中国をスローガンにしているわけではないだろう。竹下先生が若しこのことに触れていたらだれか気付いた方に教えてほしいが、これで私は自力で考えならなくなった。

それでは、満州帝国の成立が正当かどうか考えてみてみよう。満州はもともと漢民族の地ではない。然し、清の領土がそのまま中華民国に移ったと考えると、中国(台湾)は満州はおろか、露西亜連邦ツァヴァ共和国の領有権も有することになる。だれか、詳しい方はこの結論が正しいか教えていただきたい。
 

満州の立場(序)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)16時47分38秒
  1赤化支那による対台湾侵略併合策動に明確に反対し、台湾の主権独立堅持を支持しています。
2赤化支那により侵略併合された大チベット(西蔵自治区及び青海・四川・甘粛・雲南各省チベット族地域)の独立回復及び、ダライ-ラマ14世法王及び亡命チベット民族の祖国帰還を支持しています。
3赤化支那により侵略併合された南モンゴル地域(内蒙古自治区)の分離独立及び、同地域のモンゴル国(外蒙古)との統合を支持しています。
4赤化支那により侵略併合された東トルキスタン(新疆維吾爾自治区)の独立回復を支持しています。
5赤化支那により侵略併合された満洲の分離独立を支持しています。

このトップページを見たら、誰でも竹下先生が右翼だと思ってしまいますね。もし本当に右翼だったら、私が九州王朝説を言った時点で出入りお断りされていると思うけど、満州の分離独立というのは私にもファシズム的に思ってしまいます。

前、解法者氏との論争で(政治の分野なので私は事実上負けたのだが)満州の事が話題に上りましたが、問題は「満州は中国か、否か」ということにあると思います。さらに言うとポツダム宣言のことも重要なことになってきます。政治学については素人なので意見が二転、三転するかもしれませんが、歴史よりも興味がある分野なので少し考えてみます。

まず満州帝国ですが、1945年8月20日にこの国は滅びたと考えてよいでしょう。
 

大和四王朝交代説

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 2月24日(木)13時03分12秒
  第一王朝――裸国(邪馬壹国直轄領、独立国王無シ)
第二王朝――崇神王朝(狗奴国王の息子也、二代)
第三王朝――応神王朝(邪馬壹国王・仲哀の息子也、六代)
第四王朝――継体王朝(現代天皇家)
 

投馬国は筑後

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 2月24日(木)12時56分15秒
  中国人のことですからね、お得意のほら癖で実際には三日だったのを二十日といったんでしょう。

12'000-10'700=1'300

こういう風に私は計算しました。何か問題でもありますか?
 

「和田家文書」の研究方法

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)12時36分11秒
  ここで誤解してはならないのは、「和田家文書」は後代史書であり、基本的に信用できるものではないということ。私は一級史料としては『古事記』を使用すべきと考えている。
ただ、「和田家文書」は東北王朝の歴史を語る数少ない資料であり、自説に合わないからと言って偽書扱いしてはならない。「和田家文書」の内容は信憑性が低いのだから、時節に合わなくて当たり前。
 

皇国史論「異録文書」編C新・盗まれた降臨神話

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)12時30分46秒
  皇国史論「異録文書」編C新・盗まれた降臨神話<上>
投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年12月12日(日)11時26分49秒

  『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』及び『同、六郡誌大要』などに代表される「和田家文書」は神武(じんむ)天皇が出雲(いずも)に「国譲(くにゆず)り」をせまったり、筑紫(ちくし)を平定したりと、半ば「天孫降臨」状態である。さらに、肝心の長脛彦(ながすねひこ)が東征の過程で出てこない。だいたい、『古事記(ふることふみ)』では宿敵は二ギハヤヒ(物部氏)であり、長脛彦はともかく、安日彦(あびひこ)等一回も出てこない。
すでに「和田家文書」における神武東征伝承は実際には天孫降臨ではないか、とする説がある。(『真実の東北王朝』古田武彦)
私の調べたところ、長脛彦と安日彦が神武と戦うのは「吉野」で、すでに大和(やまと)が陥落した後である。
「本拠地が陥落した後に、長脛彦は戦った」などというのはあまりにも詭弁(きべん)、ありえない話である。第一、『古事記』は「奈良時代にできた一級資料」であるのに対し、「和田家文書」は「江戸時代の私史」である。信憑性は『古事記』の方が高い。だから、天孫降臨と神武東征を後世の史家が混合した可能性が高いのである。
それに、昔は人名の混合が多い。中には「ウガヤフキアエズ命」が中国にいたとする説もあるほどである。(竹下先生「歴史再考」参照)そんな「異説」を見るまでもない、肝心の『日本書紀(やまとのふみ)』にさえ、「神武天皇」を「ホホデミ」や「天神(あまつかみ)の子」など、全くの別人と混合している。(『古代に真実を求めて』古田史学の会)(『古代丹波王国はあった―国宝「海部(あまべ)氏系図」を解く』)
ならば、逆に「ニニギ命」と「神武天皇」を混合してもおかしくはない。
さらに、「日高見略記」をこの視線で解釈すると、先ほどの「日高見国の邪馬壹国服従」の意味もわかってくる。

<下>現在執筆分
さて、これまでの結論をまとめよう。
@古代史における一級資料は『東日流外六郡誌大要』に非ず、『古事記』である。
A『東日流六郡誌大要』の内容は本来の神武東征伝承ではない。
Bおそらく『東日流六郡誌大要』は天孫降臨の内容を神武東征と誤ったのであろう。
こうすると「日高見略記」で長脛彦と安日彦が吉野で登場してくる理由もわかる。なぜなら「和田家文書」によれば猿田彦が筑紫の豪族であると記されており、安日彦は筑紫に非ず、吉野の豪族と考えればすべて矛盾なく解決するのである。
実は佐賀県には吉野ヶ里遺跡をはじめ、吉野の地名が多い。吉野山、字・吉野、等々。これらのことから、私は安日彦は吉野=佐賀県の豪族であり、天孫降臨のときに点存続に抵抗して敗れ、東北まで逃げて日高見国を作ったと考えられる。
この説を主張しているのは今のところ私だけであり、皆様にはいろいろと批判したいことがあるでしょうが、とりあえず異録文書研究の手始めとしてこれを挙げたので、皆様の批判を待つこととします。
 

何故九州にならないのですか?

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月24日(木)12時11分56秒
  >神武(じんむ)天皇は実在しているんですよ<(私)
>当たり前だよ!<(解法者氏)
それなら、なぜ邪馬壹国九州説にならないのですか?
大和(やまと)には神武天皇以来「万世(ばんせい)一系」の天皇陛下がおられたのですよ。そんなこと「当たり前」ですが…。
 

ちょっと違いますなあ

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)12時04分19秒
  >今度は、実在の神武に破れた実在の長スネ彦子孫を求めて陸奥・津軽平野までのご出張か?<
古田さんはねえ、天孫降臨でやられた長脛彦と、神武東征でやられた長脛彦の二人がいて、天孫降臨でやられた方が津軽へ行って日高見国を築いた、という訳ですよ。古田武彦『真実の東北王朝』も私は呼んだ。『なかった』三号の『東日流外三郡誌』と『東日流内三郡誌』の原本が発見されたという記事も読んだ。
観察者さん、「多元の会・関東」の人たちが『東日流外三郡誌』の写本と『東日流地三郡誌』の原本の写真を公開しています、インターネット上で公開しているので一度見られたらどうですか?私なりに筆跡鑑定もしてみましたので。

>護国さん、あんた古田さんと親しそうだから、<
いえ、それは私の親戚ですよ。

それにしても、観察者氏も解法者氏も『軍事列島日本』『世界に向けられた牙・在日米軍』とか言う左翼の宣伝みたいな本を書いた人が起こした偽作キャンペーンを支持するのですか、それはちょっと学問的な態度とはいえませんね。あなたのいう倉庫みたいな神社とは「石塔山アラハバキ神社」のことでしょ。あそこは蝮が出るらしいから、私はあまり行きたくありません。
 

R古田武彦氏の腰巾着へ

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 2月24日(木)08時11分15秒
  <<『■古田武彦氏の説の評価は、専門家の間では、高くはない。むしろ、きわめて低いことが多い。というのは、古田氏が、事実に関するあまりにも明白な誤りを、あまりにも強引に、くりかえしおし通そうとすることが多いからである。古田武彦氏の説の本質は『事実』や『真実』ではなく、『センセ−ショナリズム』である。』>>

<<『■古田武彦氏はさらに世紀の偽書と言われる『東日流外三郡誌』にのめり込み<自滅の道>をたどっていったのである。』>>

^^^^^^^^^^^^
たった一片のコトガラだけで人を批評してはいけないと思いこれは控えていた。
だが上記の文に心励まされ、私も一つの存念を言う古田武彦氏について

今から20年ほど前かな・21年になるかな?亀ヶ岡遺跡〔木造館岡町 )(現在では・つがる市)の遮光器土器を見にいった。
縄文晩期の集落跡で森と湖が多くとても幻想的でいい場所であった。
そこから五所川原に戻り、津軽鉄道にのり終点津軽中里駅(津軽中泊町)に出た・・この有名なる鉄道に乗ってみたかった。

中里駅で降り、ここでタクシーを拾い、十三湖に出た・・ここは、1977年に一度来ている。
とゆうのは1977年に青森駅前の古本屋で買った、本当に安っぽい学術雑誌か小説か区別のつかない、『市浦村史 資料編』(上中下の三部作)、「東日流外三郡誌」を読んだからだ・・歴史的興味を持った。そして、その2年後に日本に帰国のさい・・秋田よりレンタカーで十三湖まで走っている

村の歴史資料館や湖の周辺の歴史的遺跡は見たが、日程がとぼしくて 湖畔のホテルで一泊したが、)「東日流外三郡誌」の内容のイメージには結びつかず・・期待はじれで、1日だけの逗留で下北半島の恐山に向かった。

今度、1990年頃に津軽中里駅から向かったは、
陸奥津軽 洗磯崎神社「大己貴命、少名彦命」安倍、安東氏の祖神である荒吐神を祀った神社であるといわれている。青森県北津軽郡市浦村脇元である。

タクシーの運転手が、声をかけた
「これは珍しい・午前中にもアラハバキ神社へのお客さんが、あった学者さんだった、ホイ、この人だったよ・」と名刺を一枚出した・・古田武彦氏の名前があった。

私は古田氏はそのムー大陸SF論調の学術とゆうより古代妄想小説を3冊〜4冊読んでいたから知っていた。確かにその内容は、世間常識から背を向け・・大向うをアッと驚かせる意外性モノばかり・・面白いと言えば面白いが、あれは歴史とゆうより漫画の世界である・・。

私のような素人でも、歴史と空想、いや、ロマンは区別しているが、古田氏は学者の身でありながら、ここが混濁しているのか、あるいは金儲け主義に徹しているのか・・今度は、実在の神武に破れた実在の長スネ彦子孫を求めて陸奥・津軽平野までのご出張か?
と思うた。

今回は時間的余裕ある、十三湖で2泊してもいい。あの夢想家古田氏がどのような遺跡を回ったか興味があった。どのような調査取材して
あのような空想発想ができるか・・一度の古田氏の夢の世界にあやかってやろう・・お金も余分に持ってきた 今回はヒマある旅行だ。
タクシーの運転手さんに・・
「その古田さんが回った同じところを行ってほしい・・タクシーのメーターかさんでも構わんから・・」

運転手
「アラハバキ神社に行き、私が××さんち(神社の鍵の管理者・ここは神主も宮司もいない・・倉庫みたいな神社)に行き、戸を開けた・・
そしたら先生、本殿(と言って立派なもんでもない・・まあ、鎮守の森の神社の本尊)をバチバチと10枚ばか写真をとり、そして、さあ、津軽中里駅に帰る・・」
これだけです。

運転手
「和田さんの「東日流外三郡誌」が出てから、この神社も有名になり、全国から見物に来る人が結構多くなり、駅からここまでお客乗せる
商売繁盛のため・・私も村の歴史資料館に通ったり、中学の社会科先生にここの豪族の秋田頼季のこと聞いたり、神話の安日彦・長髄彦の勉強したり・・だいいちに神社の由来・遍歴が大事だから・・近郷のお寺の住職さんより、いろいろ聞いた知識があるから・・それ教えたって、次に十三湖もまわり・・まず一番大事は昔のお墓や・・古い墓場どこにあるか調べたる 超古い石碑も知っとるぞ・・だから誘った・・。」

運転手
「ところが、その古田とゆう先生・・煩さそうに手をふり・・時間が無いから駅に帰るの一点張り・・普通、歴史家とはたとえガセネタでも、
まず情報を聞くもんや・・そのために最初に私に名刺を出したんやないか・・あの先生、ただ写真を撮りにきただけ・・あの人、本当に大学の
先生かな?・・はじめてこの神社に市浦・十三湖に来たと言いながら・・何の調査もせず、ただ証拠の写真をとるだけで帰るとは・・」

私、当然に2時間近く、その運転手さん貸切やった、タクシーのメータもぐんぐん伸ばしたよ・『東日流外三郡誌』や『古事記・日本書紀』
『豪族安倍氏・安東氏』に関連する・・参考になる言や場所はなかった・・私は歴史には素人・・趣味の範囲でしかならない・・本を書き売り金儲けできる力もない・・だが人を騙して儲けるのではなく・・騙されても金を使う・・これが歴史愛好の趣味だと思う。

私が陸奥津軽 洗磯崎神社(津軽郡市浦脇元)に行った年か、その翌年に^ 『真実の東北王朝』(駸々堂出版、1990年) 第4、5、6章
が出る・・読んだ・・現地の実情より離れ、まったくの空想と妄想だけで書かれている。 和田喜八郎さんと完全にタッグを組んで。
もう『九州王朝』やヤマタイ国邪馬壹国」で、その奇想天外・・天空を跳ねる縁日夜店屋台のバナナ叩き売り商法・・・その内容物はわかっていたから別に驚かなかった・・ただ、これで金を稼ぐ・・資本主義の時代とはいえ何か釈然としないものを感じた。

古田武彦氏のニセ名刺かもわからん・・また、古田氏が2度目の現地取材を感熱におこない、その後に『真実の東北王朝』(駸々堂出版、1990年) を出したかもわからん・・また中里駅の運ちゃんがウソを言ったかもわからん・・。
だが、それまで私が描いていた古田武彦氏のイメージとタクシーの運ちゃんの言がピタリと一致したためにこの投稿をおこなう・。
護国さん、あんた古田さんと親しそうだから、聞いてみな1990年か89年頃に陸奥津軽 洗磯崎神社に津軽鉄道中里駅からタクシーで写真を撮りに行った・・・そしてこの『真実の東北王朝』を出版したかどうかを・・。
 

反論?

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月24日(木)01時33分17秒
   護国氏がいつ反論したかね? 自説も展開しないで、以下って何?

@『古事記』から卑弥呼を探す
A「韓伝」に短里が使用されていない証明
B「江表伝」への説明
C「南」を「東」と変える理由
D「邪馬台国」という改竄国名を使用する理由

 なお、Bは>「韓伝」に短里が使用されていない証明< これを<悪魔の証明>
という。>「韓伝」に短里が使用されている証明<が先、こんなこともわからんかな。
Cは既に説明した。Dは近々出てくる。@・Bは意味がわからん。
 いずれにせよ、自説の展開が先!
 

邪馬台国(23)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月23日(水)20時27分37秒
   ところで「邪馬台国」を考えるについてもう一つ問題がある。『三国志』魏志倭人伝に「其(「邪馬台国」)南有狗奴国(中略)不属女王」とあり、『後漢書』東夷伝倭国之条に「自ら女王国東、度海千余里至拘奴国」とある。この「狗奴国」と「拘奴国」は同じ国を指すものとされている。この「狗奴国」の位置については、前者は「邪馬台国」の南とし、後者は東とする。「邪馬台国」からの距離も異なるようである。「狗奴国」がどこにあるかについて大きな争いとなっている。『三国志』魏志倭人伝が正しいと考え「邪馬台国」=九州という考えからはそのまま「邪馬台国」の南にあることになる(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 77頁)。「邪馬台国」=大和という考えからは「熊野」あたりにあることになる。『後漢書』東夷伝倭国之条が正しいと考え「邪馬台国」=九州という考えからは「吉備」あたりにあるということになろう。「邪馬台国」=大和という考えからは「濃尾平野」(愛知県)としたり(「倭国誕生」白石太一郎〔『日本の時代史 1 倭国誕生』吉川弘文館 2007年6月10日 76頁〕)、「久努」(静岡県磐田市・袋井市)〔『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 153頁〕、「能登川」(滋賀県東近江市能登川)〔「赤塚次郎」−愛知県埋蔵文化センタ−主査、「宇野隆夫」[朝日新聞 2001年2月2日朝刊]〕とする見解がある。
  しかし、「狗奴国」の位置については『三国志』魏志倭人伝と『後漢書』東夷伝倭国之条とで異なっているのであるから、これを比定するのは不可能であろう。つまり、「狗奴国」問題は「九州」説も「大和」説のどちらも決め手にならないようである。
 

やはりその手口か

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月23日(水)13時15分31秒
  私をオウム扱いすることから、なんかあやしいと思っていた。やはり、解法者三は和田家文書偽作キャンペーンの支持者なんだね。私はかつてこの掲示板で「和田家文書について」を投稿したし、『偽書「東日流外三郡誌」事件』も読んだからこれは本物だと言う結論に至った。だって、偽書派の本の内容は「決定的」という場面になって決まって「匿名の証言」なんだから。そういえば竹下先生も偽書派に意見を変えたようですね。「軍事列島日本」『世界に向けられた牙・在日米軍』という本を書いた記者が『偽書『東日流外三郡誌』事件』を書いたということを忘れられて居らっしゃるようですね。

私は古田氏の説をっそのまま言っているわけではありません。例えばその「水行二十日・陸行一月」などを総日程とする立場にはたっていません。

あと、解法者氏は私の反論に対する再反論を一切していませんね。
 

根拠は何?

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月22日(火)20時34分22秒
  >韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸、狗邪韓国に至る。
これは「内陸陸行」ですね<

 お読みくださいじゃないの! 聞きたいのはあんたの意見だよ!
 

邪馬台国(21)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月22日(火)12時12分56秒
   朝鮮半島の行程が出てきたところで、ここで古代の舟について考えてみたい。日本の古代から「舟」についての記録が残されている。
 縄文時代、弥生時代の舟については多くの出土があり、また銅鐸などにも描かれている。弥生時代後期(2世紀〜3世紀後半)の古墳(福井県坂井郡春江町の「井向遺跡」)から出土した銅鐸に描かれている舟は12人で漕ぐようになっており、それから全長14メ−トルである。同時代と思われる「大石遺跡」(福井県)の銅鐸では櫂が両舷合わせて18〜20とみられるので全長15メ−トル程度の大型船である(『古代日本の軍事航海史(上巻)』松枝正根〔防衛大学を卒業後、艦船の航海長を勤められた〕かや書房 1993年9月 158頁)。
 弥生時代中期(前1世紀〜2世紀)の古墳(奈良県天理市の「清水風遺跡」)から出土した土器には櫂が左右に17本ずつあり、帆柱も描かれている。このことからこの舟は全長20メ−トルと考えられる(同上卷−179頁)。実際に出土した舟(大阪府八尾市の久宝寺遺跡」〔弥生時代後期から古墳時代初期〕3世紀後半〕)は全長20メ−トルもあった(同中卷 69頁)。ところで、先のとおりこの時代から「帆」があったが、それはあまり使われず、櫂で漕ぐのが一般的だとされている。それは帆舟は風を利用するため重心を失い易かったといわれている(同上卷−81頁、)。
 それでは、この時代の舟はどのくらいの速度が出たのであろうか。舟の大きさを全長12メ−トル、漕手20人として(軍事船を想定)、8ノット(1時間に15,000メ−トル)、1日8時間漕ぐとして120キロ、ちょうど博多と釜山の距離の半分であるから、2日もあれば行き、休みなく漕げば1日で行ける。対馬からなら半日(1日8時間漕ぐ)で到着しただろう。
 それが時代が下り、欽明朝15年(554年)の朝鮮半島の遠征では兵1000人を40隻で運んでいるから兵員25名と考えられる。そのほかに漕手30人、馬(平均2.5頭)、兵器、食糧・水7日分(仮定)して、重さ10トン余と考えられる(中卷 166頁)。この数字は前記の史料から考えて妥当であり、誇張はない。『日本書記』は正確で感心させられる。全長は30メ−トルもあったのではなかろうか。
 

邪馬台国(22)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月22日(火)12時11分48秒
   日本では古代の舟を復元し、朝鮮半島から九州へ航海する試みが行われている。その第1回は1975年に「野性号」と名付けられた舟によって行われた。この舟の原型となったのが「西都原古墳」(宮崎県西都市)から出土した船形埴輪(5世紀後半)である。「野性号」の漕手は左右7人ずつ櫂はオ−ルである。釜山−博多間の平均速力は1.67ノット(3093メ−トル/時)、2回目のそれは1989年に「なみはや」によって行われた。この舟の原型となったのが「長原高回り2号古墳」(大阪市)から出土した船形埴輪(5世紀)である。漕手は左右4人ずつ櫂は立って漕ぐ形式のオ−ルである。釜山−博多間の平均速力は2ノット(3704メ−トル/時)であった。(『魏志倭人伝と航海術と邪馬台国』遠澤 葆〔東京商船大学卒−日本航海学会員〕成山堂書店 2003年7月18日 14頁)。いずれも航海は7月である。
 しかし、これは「卑弥呼」の時代の航海には参考にならない(「邪馬臺国時代の船舶−野性号の欺瞞を突く−」原田大八〔『邪馬台国のすべて』佐伯有清・大林太良ほか 朝日新聞社 1976年6月30日 109頁〕)。使われたのは中国の船と考えられるからである(「邪馬国。『呉書』丁奉伝に「時北風、奉挙帆二日至、遂據徐搪」とあり、帆があったことが明らかである。それと帯方郡の使いを乗せていたのであるから、屋形があったと考えられる。「後漢」の陶製の船にも屋形がある(原田大八−前掲書 118頁)。そして貢物を乗せ、お供もいたであろうから大船であっただろう。このような古代の外洋船(軍事船ではなく通交船を想定)では巡航速力は3ノット(5556メ−トル/時)だったと予想されている(遠澤 葆−前掲書 112頁)。
 

古田武彦氏の腰巾着へ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月21日(月)21時58分26秒
   「古田武彦氏の説の評価は、専門家の間では、高くはない。むしろ、きわめて低いことが多い。というのは、古田氏が、事実に関するあまりにも明白な誤りを、あまりにも強引に、くりかえしおし通そうとすることが多いからである。古田武彦氏の説の本質は『事実』や『真実』ではなく、『センセ−ショナリズム』である。マス・コミは弱いという体質を待っている。(中略)専門家のように、事実を調べてみるわけではない一般の読者の中には、ひとたびセンセ−ショナリズムの中毒になると、麻薬を求めるように、熱烈にセンセ−ショナリズムを求める人がでてくる。(中略)およそ、不誠実きわまりない精神が、他を不誠実であると、批判しつづけている」(『「邪馬壹国」はなかった−古田武彦説の崩壊−』安本美典 新人物往来社 1980年1月10日)。
 これは論争相手の言であるから、多少割り引くとしても、古田武彦氏は「『日本書紀』を創作した「大和王朝」により抹殺されてしまったが、九州王朝は「大和」はおろか関東まで支配し、「倭の五王」はおろか「稲荷山古墳出土鉄剣」の持ち主も九州王朝の支配下にあって関東の大王だ」と説くのである。ならば3世紀以降に巨大な前方後円墳が畿内を中心に作られたのであろうか、という疑問が湧く。これに対して古田武彦氏は「前方後円墳の「方」の部分は、遥拝・服属儀礼のために作られたのであって、ここから「天皇の故地」である九州を拝んでいたと言うのである。ここまで想像を高ぶらせるのはもはや<噴飯物>である。古田武彦氏はさらに世紀の偽書と言われる『東日流外三郡誌』にのめり込み<自滅の道>をたどっていったのである。
 護国氏もセンセ−ショナリズムの中毒に陥っており、全く回りが見えてない。
 

投馬国は薩摩――倭人128氏の説は成り立たない

 投稿者:護国  投稿日:2011年 2月21日(月)17時51分42秒
  倭人氏は投馬国を筑後平野としているが、博多湾岸から「水行二十日」すると薩摩につく。(『「邪馬台国」はなかった』)投馬国が「つま」と読むことは既に述べたが、筑後平野まで二十日もかかっていく馬鹿はいない。ちゃんと自分の頭で考えましょう。

>不彌國から邪馬壹國までの道里は 1,300里ですが、現在の距離にして約 180kmです。<
之も根拠のない憶測。どこからそんな数字が出た?日程のところは魏はいかなかったのである。
 

解法者氏への反論

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月21日(月)17時44分58秒
  韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸、狗邪韓国に至る

之についての読みは、確か竹下先生が過去ログで補足していましたので、失礼ですが皆さんには過去ログを見ていただくよう、お願いします。

ええと、これは「内陸陸行」ですね。『「邪馬台国」はなかった』『多元史観の成立』等をお読みください。「韓国伝」の「方四千里」はどう解釈しても短里ですね。解法者さんはなになに、こういう屁理屈を言っているぞ。
>つまり、韓国が1辺が四千里だったというもので、1里=435メ−トルでは
合わない。おかしい。オカシイ。その結果、導き出されたのが1里=77メ−トル
の「短里」だった。
 こんなの結論から都合の良いものを導き出したに過ぎず<ご都合主義>を免れ・・・<
どこが「ご都合主義」なのだろう。「韓国が1辺が四千里だったというもので、1里=435メ−トルでは合わない。おかしい。オカシイ。その結果、導き出されたのが1里=77メ−トルの「短里」だった。」その通りです。納得いかないのなら反論をすればよろしいのに、全く反論をしない。

そこへ「邪馬台国(19)」がきた。読んでみた。ここに出てくるのは倭人伝だけで、韓伝のは一切触れていない。また、そこでは「ただ、どうして<短里>を使うのかの理由が示されてない」と言われているが、その理由は簡単である。一般販売されていないので、論証に使うのは控えてきたのだが、東方史学会(中国に対して好太王碑の開放を求めるため古田武彦が作った団体)の『東方の史料批判』において谷本茂氏は自分が古田氏の息子の家庭教師であったと述べている。

つまり、古田氏が「『魏志』の里程(「帝紀」含む)はすべて短里でしょう」と言ったら、谷本氏が「その短里は周王朝でつかわれていましたよ」と言ったという訳である。さらに『江表伝』でも短里が使用されており、(「倭人伝を徹底して読む」)もはや魏・西晋での短里の使用を疑うことはできない。政治学者の解法者氏は、私よりも学問の筋道がよくわかっていると思われるから言うが、解法者氏の説は次の証明をしないと成り立たない。

@『古事記』から卑弥呼を探す
A「韓伝」に短里が使用されていない証明
B「江表伝」への説明
C「南」を「東」と変える理由
D「邪馬台国」という改竄国名を使用する理由

「試案」しか用意できないところから近畿説の行き詰まりがよくわかる。以上の五つ「全て」に反論できなければ解法者氏の説はただの信仰ということになる。
 

邪馬台国(19)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月21日(月)12時23分2秒
   これまで再三にわたり述べてきたように『三国志』魏志倭人伝の「里」をそのまま信じると「狗邪韓国」(「帯方郡」より南に4000里、東に3000里)も沖縄の大東島あたりになり、「邪馬台国」(「狗邪韓国」から南に5000里)に至ってはボルネオ島の東の
赤道付近に位置してしまう。

 こうした「里」の齟齬から、『三国志』魏志倭人伝の「里」は「短里」を使ったのではなかろうかという指摘がなされている(「短里の由来」道家康之助〔『東アジアの古代文化』53号 大和書房〕、「『骨髀算経』の里単位について」〔『季刊 邪馬台国』35号 梓書院〕、『卑弥呼と台与の邪馬台王権』淵田三善 2007年8月15日 49頁、(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 189頁、『「邪馬壹国」はなかった−古田武彦説の崩壊−』安本美典 新人物往来社 1980年1月10日 135頁)。
 これによると、1里=約76〜77メ−トルであり(「『骨髀算経』の里単位について」谷本茂〔『季刊 邪馬台国』33号 梓書院〕、これまでの1里=435メ−トルの1/5.65となり、ほぼ『三国志』魏志倭人伝の「里数」に合致することになる。ただ、どうして<短里>を使うのかの理由が示されてない。たまたまこれを使ったら自説に合う里数が見つかっただけなのである。
 「度量衡」の制度は、民衆の生活と密接したものである。一片の法令によって、従来の1里を6分の1に切り下げることができるものであろうか。仮にできたにしても、それが歴史に何の記載もないのはおかしい(『東アジアの中の邪馬台国』白崎昭一郎 175頁)
 『三国志』魏志倭人伝を見ても「短里」説は崩壊している。同伝には「従郡(帯方郡−現在の北朝鮮黄海北道沙里院)至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国(現在の韓国慶尚南道巨済市多大浦)、七千余里」とある。つまり帯方郡の沙里院を出て朝鮮半島西海岸沿いに黄海を南下し、韓国を経由し、今度は東に向かい(朝鮮半島の西南岸沿いに進む)狗邪韓国(現在の韓国慶尚南道巨済市多大浦)までが7000里だというのである。短里でいうと約539キロメ−トルとなるが、実際は約1115キロメ−トル(「沙里院」−45キロメ−トル−黄海〔「瑞興江」経由〕、「簒島」〔「載寧江」河口〕−1070キロメ−トル−「狗邪韓国」)で約1/2である。日本だけ見て朝鮮を見てないという<近視眼的>思考が露呈するのである。結局「短里」など<ご都合主義>の何物でもない。
 なお、「安本美典」は「魏」・「晋」では長里で短里は使われてなかったが、『三国志』魏志倭人伝のみは「短里」が使われていたという(前掲書 141頁)。しかし、これもどうして『三国志』魏志倭人伝のみに「短里」が使われていたかの明確な説明がなく、やはり<ご都合主義>の何物でもない。
 

邪馬台国(20)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月21日(月)12時21分47秒
   さらにオカシイのは、中国の「魏」の時代に1日の歩行距離について「40里」(約17キロメ−トル)とする記事が見られる。同じ『三国志』魏志の明帝記に「明帝が司馬宣王を遣わして遼東の公孫淵(帯方郡を創設した公孫康の父)を討伐しようとして都の「洛陽」から「襄平城」(遼東)までの距離を四千里」としており、『晋紀』にはこのときの明帝と司馬宣王との間の問答で「往くに百日、攻めるに百日、還るに百日」とある。つまり、1日の行程は40里なのである(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 105頁、『邪馬台国はここだ』奥野正男 224頁)。これを「短里」にすると<3キロメ−トル>しかならない。そんなことはないだろう。こんな進軍のスピ−ドでは戦争に勝てるはずがない。
 それと、同じ『三国志』魏志で、あるときは「長里」を、あるときは「短里」を<注記>もなく使うことは有り得ない。統一性が取れないからである。『三国志』魏志倭人伝は「短里」であったなどと言う者は<ご都合主義>に陥っている。

 また、この<里数>を基準に考える者は<水行・陸行>を全く無視することになる。「邪馬台国」に至るには「帯方郡」から1万7千余里とあり、「女王国」(「邪馬台国」)に至る1万2千余里+水行30日・陸行1月、とは全く合わない(「邪馬台国は二ヶ所あった」大和岩雄〔『史話 日本の古代 2−謎につつまれた邪馬台国』直木孝次郎 作品社 2003年4月30日 190頁〕)
 どうして後者を無視するのかの理由が示されてない。
 

ほら! これだ!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月21日(月)10時41分9秒
  >韓国が「方四千里」の場合、「一里=約七十七メートル」なら辻褄合うけど<

 つまり、韓国が1辺が四千里だったというもので、1里=435メ−トルでは
合わない。おかしい。オカシイ。その結果、導き出されたのが1里=77メ−トル
の「短里」だった。
 こんなの結論から都合の良いものを導き出したに過ぎず<ご都合主義>を免れ
ない。
 そして、「方四千里」は「短里」で何とかつじつまが合うが、今度は別の記事
がつじつまが合わないことになる。これは後ほど提示する。
 なお、『三国志』韓伝には、「短里」のことなど一切記されてない。
 

邪馬台国(18)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月20日(日)22時44分44秒
   ところで、『三国志』魏志倭人伝に「自郡至女王国万二千余里」とある。つまり、郡(帯方郡)より女王国(邪馬台国)まで12000余里ということである。
 前記でも挙げたが、同じ『三国志』魏志倭人伝の記事によると、「帯方郡」−7000余里−「狗邪韓国」−1000余里−「対馬」−1000余里−「一支国」−1000余里−「末盧国」−500里−「伊都国」−100里−「奴国」−100里−「不弥国」となる。合計10700余里である。「伊都国」までは合計10500余里である(榎 一雄−前掲書 87頁)。「榎 一雄」は「放射式」を採るから、「伊都国」(糸島半島〔福岡県の北西部の玄界灘に突き出た半島〕)−「邪馬台国」は1300余里(次項のとおり約565キロメ−トル)ということになる。九州から南の海中にあることになる。「順次式」に従えば「不弥国」(福岡県福津市津屋崎)から1100余里〔「伊都国」−「不弥国」の200里を差し引く〕(次項のとおり約478キロメ−トル)となる。これもどう考えても九州から南の海中にあることになる。
 ところが、『三国志』魏志倭人伝の「対馬」に関する記事に「対馬国(中略)方可四百里」とある。さらに「一支国(壱岐)」についても「方可三百里」とある。これは島の長さを記したものである。そこで、「帯方郡」−7000余里−「狗邪韓国」−1000余里−「対馬国」−1000余里+400里−「一支国」−1000余里+300里−「末盧国」−500里−「伊都国」−100里−「奴国」−100里−「不弥国」となる。合計11400余里となるという考えがある(『邪馬台国はここだ−鉄と鏡と「倭人伝」からの検証−』奥野正男 毎日新聞社1981年9月20日 212頁・220頁)。しかし、これには従えない。この考えによると「魏使」は「対馬国」では最初に一番朝鮮半島に近いところに到着し、そこからさらに400里行って「対馬国」の一番日本側のところから日本に向けて出発したということになる。「一支国」についても同じである。「魏使」はあくまでその国々の王に表敬するのであるから、彼が到着したのは『三国志』魏志倭人伝の国々の都と考えなければならない。「対馬国」にしても「伊都国」にしても同じである。旅程に記されている「里」は都→都の距離なのである。「対馬国」の長さが400里、「一支国」の長さが300里というのは単にその国(島)の長さを言ったに過ぎないのである。したがって、この長さを旅程に足すのは誤りである。
 

本当に無学だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月20日(日)20時53分45秒
  >短里とは韓伝の解釈からできた概念<

 とんでもない。中国の文献が基礎になっている。こうしたこともわからないで
「短里」を論じるのは<無学>の証拠!
 

皇国史論「邪馬壹国」編@短里か長里か

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月20日(日)18時17分34秒
  この問題、それは簡単である。なぜなら、近畿説論者も、九州説論者も、すべて伊都国以前は短里で解釈しているからだ。その後、長里論者は不弥国を「広島県」に推定し、短里論者は福岡県とするが、たいていの人は短里論者につられて福岡県に推定する。近畿論者の人たちは、堂々と伊都国や不弥国も長里で考えたらいいと思うのだが、それなら近畿を超えて山梨県のあたりになってしまうので、黙認しているのが現状である。

なんということか、邪馬台国近畿説とは、このようにいい加減な学問であったのである!いっそのこと「伊都国までしか魏の使者は来ていない」という方が説得力があるが、伊都国以前(例えば「一支国」等)も短里であるので、所詮妄想にすぎない。近畿論者の中には九州説を「自粛論者」という人もいるが、新しい教科書を作る会の安本元教授は『古事記』の解釈から「邪馬台国九州説」になっており、近畿論者は『古事記』をも軽視しているといえる。
(だいたいねえ、若し近畿に邪な国の卑しい女王がいたら天皇家の『古事記』に記されていないはずがないだろうに
 

ふざけるな!

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月20日(日)18時04分22秒
  あのねえ、そもそも短里とは韓伝の解釈からできた概念であって、韓国が「方四千里」の場合、「一里=約七十七メートル」なら辻褄合うけど、「一里=約五百メートル」なら韓国人の大ウソ(それ自体は有り得るかもしれないけれど)に、意版差別の中国人がだまされていたことになる。絶対にあり得ない。  

あっ、続編が出ましたか

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月20日(日)17時56分52秒
  まだすべては読んでいませんが、政治学者の解法者氏に遅れないように、一素人ながら邪馬壹国(私は原文改定を認めない)についての私見をまとめています。またネットにつながりませんでしたが、もうそろそろ私の意見も出さなければ嘗ての論争がただの無駄骨につながりますね。  

邪馬台国(16)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月20日(日)14時51分15秒
   これまで魏使(『三国志』)は朝鮮から「対馬」、「壱岐」と渡り、日本本土へは最初に「末盧国」に上陸した。そこから東南陸行五百里のところにある「伊都国」に上陸した。そこからさらに東南百里の「奴国」、さらに東百里の「不弥国」に行った。そして「投馬国」を経て「邪馬台国」に達するというように魏使がその順番にこれらの国をたどってきたと言ってきた(これを「順次式」という)。こうした経路が先のとおり南に向かえば九州を遥かに越えて沖縄方面あるいはそれを越えて遥か南方にまでいってしまい(これについては次項で述べる)、そこに「邪馬台国」があるということになってしまう(「沖縄」にあったとする考えもある)。そこで、『三国志』魏志倭人伝の記述から、「伊都国」に着くまでの記事は、「始度一海、千余里、至対馬国(中略)又南海一海、千余里、(中略)至一大(支)国(中略)又渡一海、千余里、至末盧国、(中略)東南陸行五百里、到伊都国」と、@ 方位、A 距離、B 地名、の順で記しているのに対し「伊都国」から後は「伊都国(中略)東南至奴国百里、(中略)東行至不弥国百里、(中略)南至投馬国水行二十日(中略)南至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月」とあって、@ 方位、A 地名、B 距離の順で記している。これは前者が「狗邪韓国」から「対馬国」・「一大(支)国」・「末盧国」を経て「伊都国」に順次到った道筋を述べているのに対し、後者は「伊都国」からその後に記されている各国に至る方位と距離を示したものであるとする(榎 一雄−前掲書 53頁、『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 108頁)。
 この考えによると、朝鮮の「狗邪韓国」−千余里−「対馬国」−千余里−「一大(支)国」−千余里−「末盧国」(日本本土〔九州〕)−五百里−「伊都国」で、「伊都国」−百里(東南)−「奴国」、「伊都国」−百里(東)−「不弥国」、「伊都国」−水行20日−「投馬国」、「伊都国」−水行10日・陸行1月−「邪馬台国」となる(これを「放射式」という)。
 

邪馬台国(17)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月20日(日)14時50分8秒
   しかし、「伊都国」の前後で記述に相違があるにしても、前の部分は「順次式」に後の部分は「放射式」に解する理由がもう一つ明らかではない。「帯方郡」の使いは「伊都国」まではやって来たので、@ 方位、A 距離、B 地名、の順で記されているが、「伊都国」から先は行ってないので、@ 方位、A 地名、B 距離の順で記したというものである(『邪馬台国論争』原田大六 28頁)。ところが『梁書』諸夷倭人伝では、「伊都国」から先も「伊都国又東南行百里、至奴国。又東行百里、至不弥国。又南水行二十日、至投馬国。又南水行(十日)、陸行一月至邪馬台国」と、@ 方位、A 距離、B 地名、の順で記されている。『三国志』魏志倭人伝の記述と異なるのは「又」が挿入されていることであるが、「伊都国」から前も「一支国。又度一海千余里、名末盧国。又東南陸行五百里、至伊都国」となっており同じく「又」が挿入されている。『梁書』諸夷倭人伝では『三国志』魏志倭人伝との記述の違いに気がつき、争いを避けるため同じ表記方法を採ったと考えられる。したがって「放射式」は採り得ない。
 「放射式」を採ったとしても、「邪馬台国」はここから<南>に「水行10日・陸行1月」にあることになるが、「邪馬台国」を「筑後山門」にしても「肥後山門」に比定したとしても(榎 一雄−前掲書 113頁)、ここは「伊都国」から<東南>の方向で<南>ではない。
 それよりもこれは何としてでも「邪馬台国」を九州に持ってきたいという願望によるという疑義が払拭できない(これについてはすぐ後の「水行10日・陸行1月」の解釈にも現れている)。それと今度は「投馬国」の位置がオカシクなる。『三国志』魏志倭人伝では「投馬国」は「自女王国以北。其戸数・道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳」とある「旁国」(近隣の国)に含まれている。つまり、「邪馬台国」の北にある。しかし、「放射式」を採ると「投馬国」は「伊都国」から「邪馬台国」よりも遠く南に位置することになり、「邪馬台国」の北ではなくなる(『日本の歴史 1 神話から歴史へ』井上光貞 中央公論社 1965年2月4日 238頁)。
 さらに、この考えでも「伊都国」−水行10日・陸行1月−「邪馬台国」であれば、九州の南部あるいは最南部ということになる。そこで、今度はこの「陸行1月」を「陸行1日」の誤記だとするのである(榎 一雄−前掲書 93頁、白鳥庫吉−前掲書、「東洋史上より見たる日本上古史研究(改定増補版)」橋本増吉 東洋文庫 1956年 109頁)。こうして「榎 一雄」は「邪馬台国」を筑紫国山門郡に当てる(前掲書 109頁)のであるが、この手法は前述の「邪馬台国」を「大和」に比定したときの考えと何ら変わるところはない。「放射式」と相まって私には<ご都合主義>にしか見えないが、いかがであろうか。
 

邪馬台国(15)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月19日(土)20時44分1秒
   「延喜式」の主計式に従って考えると「大宰府」−「京都」は<水行三十日>であり、これはちょうど「不弥国」−「邪馬台国」の陸行を除いた<水行三十日>と合致する。
 そこで、「投馬国」=「吉備国」(岡山市)と仮定して考えるとみる。「不弥国」を福岡県福津市津屋崎と考えて、そこから「投馬国」=「吉備国」までの距離は約360キロメ−トルで、当時の約830里となる。<水行二十日>であるから、「水行1日」は18キロメ−トル(41.5里)である。魏使は貢物などを持参していたと考えられるから前記のとおり「陸行1日」も「水行1日」と同じく18キロメ−トル(41.5里)と考えてもよい(『魏志倭人伝』山尾幸久 講談社〔講談社現代新書 284〕1972年7月28日 68頁)。「不弥国」−「邪馬台国」は<水行三十日、陸行一月>だから、60日=1080キロメ−トル(2490里)となる。「不弥国」−「邪馬台国」(奈良市)と考えれば、実際の距離は約550キロメ−トル(1264里)となる。
 ここでも2倍くらいの誇張がある。特に<陸行>に誇張があるから、<陸行一月>を<陸行一日>と考える者も出てくるわけである。したがって、『三国志』魏志倭人伝の方位を忠実に採ると、やはり「日本海ル−ト」で「投馬国」は「出雲国」となり、そこから<水行十日>で若狭湾辺りに上陸し、そこから<陸行一月>で「大和」に至ることになる。
 なお「邪馬台国」を九州に置くというならば「不弥国」−「邪馬台国」の<水行三十日、陸行一月>という記述を根本的に考え直さなければならないのは言うまでもない。「邪馬台国」を「大和」と考えるよりもヒドイことになるからである。つまり九州を遥かに越えた海中に「邪馬台国」が位置することになるからである。
 なお、『唐六典』(巻3 戸部の条)の記事から、陸上歩行1月の行程は1500里と計
算される(榎 一雄−前掲書 87頁)。前記の「延喜式」の主計式による私の計算では1245里であるから、そう変わるものではない。「水行」についても『唐六典』(巻3 戸部の条)で記されているが、中国の河川の流れの速さ、積荷もあるのでにわかに断じることはできないが、平均して水上1日の行程は50里(22キロメ−トル)と計算される(『邪馬台国論争』原田大六 363頁)。ただ、これは河川であり海上ではない。海上ではこれより少ないと予想されよう。したがって、前記で水上1日の行程は18キロメ−トル(41.5里)と考えたのは、そう無理な考えではなかろう。
★ 延喜式(参考)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F
 

二葉亭さん

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 2月19日(土)13時11分44秒
  自分も凡人で解法者さんのシリーズものにインスパイアーされて少しずつですが歴史や政治や法律に興味を持って来ました。
私も解法者さんは、学者さんだと思っています。
 

邪馬台国(14)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月19日(土)10時40分51秒
   別の観点からこの旅程表を考えてみる。前記の中国の歴史書には「里」の表示がされている。1里の距離はどのくらいなのであろうか。『朝鮮の帯方郡から「狗邪韓国」まで7千余里、そこから海を渡り千余里で対馬に至る』、『南に海(瀚海−対馬海峡)を渡り「一大(支)国〔壱岐〕に至る』、『また海を渡り千余里で「末盧国」〔佐賀県唐津市松浦〕に至る』、『東南陸行五百里、到「伊都国」』、『東南至奴国百里(中略)東行至不弥国百里』と「不弥国」までの旅程が記されている。
 これを整理してみると、「帯方郡」−7000余里−「狗邪韓国」−1000余里−「対馬」−1000余里−「一支国」−1000余里−「末盧国」−500里−「伊都国」−100里−「奴国」−100里−「不弥国」となる。合計10700余里である。
 当時(「魏」・「晋」)の1里は435メ−トルとされていた(『邪馬台国はここだ』奥野正男 225頁)。したがって、「帯方郡」−「不弥国」は約4654キロメ−トルとなる。しかし、実際は1115キロメ−トルくらいである。4倍くらい誇張して記していることになる(約1060キロメ−トルくらいとし4倍くらい誇張して記しているという見解もある(武光 誠−前掲書 62頁)。
 ここでの「帯方郡」がどこにあったのかが問題となる。「帯方郡」については『三国志』魏志韓伝に、189年に「公孫度」(遼東大守−中国東北部の遼東)の子「公孫康」が「楽浪郡」の屯有県(現在の北朝鮮黄海北道黄州郡)以南を裂いて「帯方郡」(その後「魏」に恭順)としたとの記事があり、この地(黄海北道沙里院市〔旧「鳳山郡」〕)にある。それはこの地から1912年に「帯方大守張撫夷塼」とある墓が見つかったことにある。
 『漢書』地理志に「帯水、西に向かい帯方に至って海に入る」とあり、これがソウルを流れる「漢江」として「帯方郡」とは「ソウル」をいうとする考えがあるが、ここには「帯方郡」を思わせる遺跡がなく、「帯水」とは「列水」(大同江)と同じ場所で「黄海」に交わる「載寧江」の中流(支流)に「瑞興江」という東から西に流れている河と考えられる(「倭人伝の旅」西谷 正〔『邪馬台国のすべて』佐伯有清・大林太良など 朝日新聞社 1976年6月30日 186頁〕)。
 

ホント凄いですよね!

 投稿者:二葉亭姉妹  投稿日:2011年 2月19日(土)04時25分45秒
  解放者さんて学者さんなのでしょうか?
歴史に詳しくて政治や法律にも詳しいなんてホント凄い!
私のような凡人から見ると「神」です。
 

邪馬台国(13)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月18日(金)21時02分11秒
   前者(水行十日または陸行一月)の考えについては、『宋書』州郡志に、江州〔江西省南昌付近〕について「州を去ること水六百・陸三百五十。京都〔南京付近〕を去ること水一千九百・陸二千一百」、『通典』州郡典に、日南郡について「西京を去ること陸路一万二千四百五十里、水路一万七千里」とある。これは複数路(水陸両路)の記載(併記)とされるが、「水(水路の略)」・「陸(陸路の略)」、「水路」・「陸路」の表記がなされている。しかし、『三国志』魏志倭人伝には「行」が記されており、その例とはならない。これを見てもわかるとおり、陸路と水路の場合はそう距離が変わらない(『邪馬台国は二ヶ所あった−邪馬台国から初期ヤマト政権へ−』大和岩雄 1990年10月1日 21頁)。『三国志』魏志倭人伝では「水行十日」・「陸行一月」と書かれているのである。その表記の違いは一目瞭然である。また、『三国志』魏志倭人伝では「投馬国」(水行二十日)、「邪馬台国」(水行十日・陸行一月)の順で記されており、「邪馬台国」の方が「投馬国」より遠くにあるという認識があり、これに反するとの指摘がある(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 110頁)。そのとおりだと思える。後者についても同じことが当てはまる。
 どうしても<水行二十日>・<水行十日、陸行一月>にこだわるというならば、「不弥国」から日本海ル−トということになろう。その場合の「投馬国」は「出雲国」ということになろう(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 151頁)。そしてそこから「丹波国」あるいは「敦賀国」あたりに上陸し、「邪馬台国」(大和)に向かうことになる。私は前記で「投馬国」を「吉備国」と考えたが、文献に忠実というならば日本海ル−トが一番合理的な考えかもしれない。
 

邪馬台国(12)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月17日(木)23時35分28秒
   「不弥国」から「投馬国」までは<水行二十日>とあり<陸行>がなく、「投馬国」から「邪馬台国」までは<水行十日、陸行一月>とある。方角が<南>であるから九州を越えて「沖縄」にまで行ってしまう。「不弥国」から「投馬国」まで<東>に向かったとすると<水行二十日>で「投馬国」に到着することになる。これを先のとおり「出雲国」に比定した。これには理由がある。平安時代の「延喜式」(927年)の主計式に、九州の大宰府から京都まで上納する貢物の運ぶ陸路・海路の日数が記されている。これによると上(京都方向)は27日、下(大宰府方向)は14日、海路では30日となっている(荷物があればほぼ30日と考えてもよかろう)。上が日数がかかり下はそうではないのは上は荷物があり、下は空荷だったと思われる。この30日は「不弥国」から「投馬国」までの20日とそこから「邪馬台国」(大和)までの10日の合計と合致する。問題は「投馬国」から「邪馬台国」(大和)までの<陸行一月>である。これについては、<水行十日、陸行一月>とあるのは<水行十日または陸行一月>である(「邪馬台国方位考」志田不動麿〔『史学雑誌』38巻10号1927年〕)である、または<一月>は<一日>の誤写だとか(「倭女王卑弥呼考」白鳥庫吉〔『東亜之光』1910年6月・7月〕)いう。これの根拠は、「不弥国」から「投馬国」および「邪馬台国」までは<水行三十日、陸行一月>であるが、その間の国々の様子を記してないのは不自然だとしたうえで、魏使が恩賞目当てで当初から故意に道筋の里数・日数を誇張して記したというもので、後者には現在でも賛同者がいる(『邪馬台国と大和朝廷』武光 誠 平凡社〔平凡社新書 224〕2004年5月14日 63頁)。不自然だと言うには不自然であるが、<一月>は<一日>の誤写だとするのはどうだろうか。賛同しかねる。  

二葉亭さんこちらこそよろしく

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 2月17日(木)12時47分30秒
  二葉亭さん、こちらこそよろしくお願いします。
解法者さんのシリーズものってホント勉強になりますよね。
解法者さん、マンセイ!
 

夜泣きそば屋さんはじめまして

 投稿者:二葉亭姉妹  投稿日:2011年 2月17日(木)04時15分26秒
  私と同じく解放者さんの熱烈な支持者なのですね。
解放者さんの邪馬台国シリーズを読んでいると眼から鱗が零れ落ちます。
早く続編を書いて戴かないと夜も全く睡眠できません。
 

倭の諸国の位置

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月16日(水)20時51分19秒
   地図を引っ張り出して、朝鮮半島から倭の諸国の位置をたどるとその
方角が『三国志』魏志倭人伝と少し違っていることがわかります。
 確かめてみたらどうでしょうか。
 

邪馬台国(10)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月16日(水)17時33分35秒
   この方位に関しては、もう一つの疑問がある。『三国志』魏志倭人伝の冒頭に「倭人帯方東南大海之中」とある。続いて「(狗邪韓国)(中略)始度一海、千余里至対馬国。(中略)又南渡一海千余里名瀚海、至一大(支)国。又渡一海千余里末盧国」とある。
 「対馬国」・「一大(支)国」(壱岐)・「末盧国」への旅程には方位がない。ただ「対馬国」−「一大(支)国」は南に「瀚海」を渡る先にあると記されているから、「一大(支)国」は「対馬国」の<南>に位置すると考えられる。ここでの正しい方位は、「狗邪韓国」−「対馬国」は<東南>、「対馬国」−「一大(支)国」は<東南>、「一大(支)国」−「末盧国」(佐賀県唐津市)は<東南>である。
 「末盧国」から先は方位が記されている。「末盧国」−「伊都国」(現在の福岡県前原市〔糸島半島[福岡県の北西部の玄界灘に突き出た半島]の付け根〕)は<東南>陸行五百里。
実際は「末盧国」−「伊都国」は<北東>約25キロメ−トルである。「伊都国」−「奴国」(福岡県福岡市)は<東南>陸行百里。実際は<北東>約20キロメ−トルである。「奴国」−「不弥国」(福岡県福津市津屋崎)は<東>陸行百里。実際は<北東>約23キロメ−トルである。
 ここから<南>水行二十日に「投馬国」、さらにここから「邪馬台国」へ<南>水行十日陸行一月となるのである。
 どうして「狗邪韓国」−「対馬国」、「一大(支)国」(壱岐)−「末盧国」への旅程には
方位がないのであろうか。まず「狗邪韓国」−「対馬国」は自明であったから記さなかっ
た、わからなかった、記すのを忘れていた、の3つが考えられるが、朝鮮半島から日本に
渡るには「対馬国」、「一大(支)国」(壱岐)というのが当たり前のコ−スだったので記さ
なかったと考えるのが穏当であろう。「一大(支)国」(壱岐)−「末盧国」も同じだった
のであろう。
 

邪馬台国(11)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月16日(水)17時31分50秒
   ところで、こうした方位の狂いについて、「太陽の出る場所は夏至と冬至とは約60度
違う。もしその最中に帯方郡使がやって来て太陽の出る方向を東としたら、実際の東は東
北になり、南は東南になる。夏至近くにやって来たら、東は東南になり、南は南西になる。
狗邪韓国から不弥国までの相違が、実際と約45度内外南よりに誤差が生じているのは、
帯方郡使がやって来たのは夏であって、それに随行した記録をとった者が、(東の)方位を
太陽の出る方角にしたので、そこに45度の差が出たのではないか。そして『三国志』魏
志倭人伝に「倭地温暖。冬夏食生菜、皆徒跣」にあるように夏の風景であり、帯方郡使が
やって来たのが盛夏であることが証明される(『邪馬台国論争』原田大六 三一書房 1969
年5月31日 358頁)という(『邪馬台国はここだ』奥野正男 195頁)。一見正しそ
うな考えであるが、大きな陥穽がある。こういうことは当時文化の進んだ中国においては
わかりきったことであろう。どんな季節であろうと正しい方角は把握していたと考えられ
よう。到底採り得ない。帯方郡使が方角を間違っていたか、『三国志』魏志倭人伝の編者が
そうだったのかのどちらかであろう。
 それはともかくこのように『三国志』魏志倭人伝の方位については誤りがあることには注目しなければならない。(『邪馬台国論争』原田大六 118頁)。
 つまり「魏使」は正確な方位を把握してなかったと考えるほかはない。
 

二葉亭さんもですか?

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 2月16日(水)15時44分49秒
  解法者さんの邪馬台国シリーズって物凄い力作ですよね?
お互いに日本人に生まれてヨカッタですね!
自分は、解法者さんの投稿読むのが生甲斐です。
 

これって

 投稿者:れおなるど  投稿日:2011年 2月16日(水)11時52分39秒
  ひょっとして“デムパ”だすか?  

在日による身体攻撃

 投稿者:村井美紀  投稿日:2011年 2月16日(水)09時05分38秒
  明治天皇すり替え事件は、私の祖父母に起こった歴史的大惨事。生まれた時から、MK-ULTRAで暗殺未遂、家宅侵入、窃盗、毒物塗布される、睡眠妨害、就職妨害、子供を作るのを徹底的に阻止しようとする、催眠レイプ、犬を殺害される、等。集団ストーカーと呼ばれる。国が慰安婦末裔、朝鮮乞食による泥棒、重犯罪者集団。自分たちレベルに落とし込もうとしてきたらしい。ニセ国家のせいで、地球規模で環境破壊、人類の人体が非常に危険な状況、企業は大暴落。有害な超低周波ELF使用を直ちに中止して頂きたい。世界中の国家、企業、メディア、芸能界、エアライン等に当方から直接、1万通を超える警告メールを送信中。  

邪馬台国(9)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月15日(火)23時12分47秒
   日本を南北に細長く位置していることには理由があって、それは中国人の南方信仰が根底にあるという(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 145頁)。
 『三国志』の編纂者「陳寿」の地理観を示すものとして「(倭国)計其道里、当在会稽・東治(福建省福州)之東」とする記事が『三国志』にある。つまり、「陳寿」は倭人が住む日本列島を台湾近くまである南北に長い国と見ていたのである(『邪馬台国は二ヶ所あった』大和岩雄 大和書房 1990年10月1日 23頁)。
 なお、倭人の方位観については中国人とは異なるという指摘もある。倭人は方向を太陽の動きで決めており、東南から東北までが「東」であり、これを「ヒノタツシ(日経〔縦〕)」(日が立つ方向)といい、「西」は「ヒノヨコシ(日緯〔横〕)」(日が横になる方向)、「南」は「カゲトモ(影〔日光〕面)」(日が当たる方向)、「北」は「ソトモ(背面)」(日を背にする方向)としていた(『万葉集』・『日本書紀』・『高橋氏文』)。中国人の「梯儁」らはこれを理解できず、倭人の「ヒノタツシ」(東)を「南」と誤解してしまったとの指摘もある(『邪馬台国は二ヶ所あった』大和岩雄 23頁)。
 

邪馬台国(8)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月15日(火)23時10分28秒
   ところで、先に<漢の人たちは日本を南北に連なると誤解していたと思われ、南とは東を意味する>にと言ったが、これには理由がある。「魏」の末から「晋」の始めにかけて「裴秀」(224年〜271年)により『禹貢地域図』を作ったとされる(これが中国で一番古い地図とされる)。彼はさらに十里を1分、百里を1寸に縮尺した『地形方丈図』を作成している。これは現存してないが『三国志』の編者「陳寿」は彼の10歳くらい年少であり、
これを見ていた可能性は大きいと言えよう。そのほか「唐」時代の「賈耽(カイタン)」(730年〜805年)により記された『海内華夷図』を縮図して石碑に刻まれた「華夷図」(「宋」時代の1137年)、『古今華夷区域総要図』(北宋時代の1100年〔これが中国で二番目に古い地図とされる〕)、その後の「南宋」、「明」時代に作成された地図でも、日本は南北に位置すると記されている。朝鮮でも『混一疆歴代国都之図』(中国の明時代の1402年〔朝鮮王朝時代[第3代「太宗」時代]〕では同じく日本列島が南北に細長く描かれている。これについては『古事記』・『日本書紀』成立以後の大和朝廷時代の情報を元に描かれているとの考え(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 90頁)があるが、「志賀信夫」が「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」(『神道学』第10号〔1956年〕)で、日本が南北に細長く位置しているのは『地形方丈図』が原型であると述べている(『卑弥呼と台与の邪馬台国』淵田三善 清風堂書店 2007年8月15日 67頁)。「安本美典」の見解は根拠のない想像の産物であろう。「奥野正男」はこういう後代の資料を挙げても何の論証にもならないという(『混一疆歴代国都之図』(『邪馬台国はここだ』毎日新聞社 1981年9月20日 165頁)が、人間の一度信じたことはそう簡単に変わるものではないということである。つまり日本が南北に細長く位置しているという中国および朝鮮での認識はこのように長く続いていたのである。

前の(6)は(7)の誤りでした。
 

邪馬台国(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月15日(火)07時59分3秒
   こうした考えに対し、「梯儁」らは「伊都国」には行ったものの「投馬国」や「邪馬台国」には赴いてないとする見解がある。それは@ 「伊都国」から40日もかけて「邪馬台国」に行っているのであるが、その間の国々の様子が全く記されてない。A 「自女王国以北、其戸数・道里可得略載、其余旁国遠絶、不  

邪馬台国(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月15日(火)07時54分3秒
   こうした考えに対し、「梯儁」らは「伊都国」には行ったものの「投馬国」や「邪馬台国」には赴いてないとする見解がある。それは@ 「伊都国」から40日もかけて「邪馬台国」に行っているのであるが、その間の国々の様子が全く記されてない。A 「自女王国以北、其戸数・道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳」(『三国志』魏志倭人伝)とされており、「投馬国」などの状況の詳細が記されていない。そして「邪馬台国」自身が<遠絶>の国なのである。B 「伊都国(中略)千余戸有、世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐」(『三国志』魏志倭人伝)とあり、帯方郡などの使者が長く留まるところであった。「梯儁」らはここで「投馬国」や「邪馬台国」の情報を得ていた可能性が高い。C 「自女王国以北、特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺使。王遣詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯」(女王国より北に特に一人の大率〔地方長官〕を置き、統治する諸国を検察しており、諸国に恐れられている。京都〔「魏」の都〕・帯方郡・韓国の諸国および郡の倭国〔「魏」では「倭国」を属国と考えていた〕の使者を港で臨検し、文書・使者の贈物を女王〔「卑弥呼」〕に伝送して、職務が滞ることがない)とある(『三国志』魏志倭人伝)。つまり、大率〔地方長官〕が「伊都国において絶大な権限を有しており、「梯儁」らは「伊都国」の大率〔地方長官〕から「投馬国」や「邪馬台国」や他の諸国の情報を得ていたと考えられる(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 122頁)。
 しかし、これには到底賛成できない。『三国志』魏志倭人伝に「正始元年(240年)、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書詣倭国、拝仮倭王、并齎詔賜金・帛(以下省略)」とある。「倭国に詣る」とは、倭国の都に行くということである。都に行かないでどうして「倭王」に拝謁し、下賜品を渡したのだろうか(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 210頁)。まさか「卑弥呼」が途中まで迎えに来てそこで受取ったというのであろうか。朝貢の相手国からの使者を迎えるにはそれなりの儀式が必要だったはずである。王宮ではなくどこかでそれを行うことなど考えられまい。遣使した「魏」にも失礼であろう。「帯方郡」の使者が「邪馬台国」に赴かなかったなどと考えるのは<荒唐無稽>の類である。
 

日本人に生まれて良かった!

 投稿者:二葉亭姉妹  投稿日:2011年 2月14日(月)22時47分52秒
  驚きました!
解放者さん程の見識をお持ちの人が現代日本に存在していたとは。。
本当に勉強になります。
日本人に生まれて良かった!
 

邪馬台国(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月14日(月)12時17分56秒
   『三国志』魏志倭人伝の元となった「魏使」は正始元年(240年)に前年の「卑弥呼」の遣使に対する答使の「梯儁(テイシュン)」、正始8年(247年)に「卑弥呼」の「狗奴国」との報告に対して遣使された「張政」であると考えされる。彼らの報告に基づいて
『三国志』魏志倭人伝が記されたと考えてよかろう。
 「卑弥呼」からの中国の王朝への朝貢は「景初3(239年)年6月」、「正始4年(243年)」、「正始6年(245年)」、「正始8年(247年)」の4度で、「台与」が「泰始2年(266年)」に遣使している。
 『日本書紀』にも「神功皇后」の39年条に「明帝の景初3(239年)年6月」、40年条に「正始元年(240年)」、43年条に「正始4年(243年)」、66年条に「晋の武帝の泰初2年(266年)10月」の4度にわたり中国の王朝に朝貢したとの記録が見える。これらはいずれも『日本書紀』の編纂者が『三国志』を見ていたものと考えられている。
 ところで、この「景初3(239年)年6月」の「卑弥呼」の遣使であるが、『三国志』魏志倭人伝には「景初2(238年)年6月」と記されている。これは前記のとおり「景初3(239年)年6月」の誤記だとされるが、誤記ではないとする者がいる(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 朝日新聞社〔朝日文庫 ふ−8−6〕1993年1月1日 122頁)。その理由は、@「卑弥呼」の使を「魏」の都「洛陽」まで送り届けている、A「卑弥呼」の遣使に伴う貢物が貧弱(男生口4人、女生口6人、斑布2匹2丈)であるのに対し、「魏」からの下賜品は豪華(多くの生地、金8両、銅鏡100枚など)であった、B「卑弥呼」の使に詔勅のみが与えられて、先の下賜品は与えられてなかった、が、これは「魏」の「明帝」が景初2(238年)年正月に遼東を支配していた「公孫淵」を討伐する詔を発し、同年8月に「公孫淵」は斬られ、同年12月には「明帝」が危篤に陥った(『三国志』
明帝記)。これらの記事から、「魏」は戦乱の中で「卑弥呼」の遣使に感激し、その貢物が少ないのにもかかわらず豪華な下賜品は与えたが、「明帝」が急病になったためそれを「卑弥呼」の使に持たせることができなかった、と言うのである。
 

邪馬台国(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月14日(月)12時16分31秒
   これには重大な見落としがある。「卑弥呼」の使が赴いた「景初2(238年)年6月」は、「帯方郡」は「公孫淵」の支配下にあり、「魏」と戦争状態にあり(「公孫淵」が斬られたのは、同年8月)、この時点では遣使できなかったと考えられる。「帯方郡」が「公孫淵」の支配下から脱したからこそ「景初3(239年)年6月」に「卑弥呼」の使が「帯方郡」に入ることができ、「魏」の「明帝」は平定後間もなくの遣使だったので、感激しその貢物が少ないのにもかかわらず同年12月にわざわざ「魏」の都「洛陽」に「帯方郡」の使者に道案内させて都「洛陽」まで招きいれ、「明帝」に接見した。と考える方が筋が通っている。そして景初2年(238年)には下賜品が「卑弥呼」の下に渡されなかったという考えも、単なる想像に過ぎない。
 『日本書紀』も別の中国の資料を見たか、あるいは「景初2(238年)年6月」の記事の誤りを見抜いて「景初3(239年)年6月」と記したのであろう。
したがって、古田武彦の考えは採り得ない。

 いずれにせよ、これらのことから、「邪馬台国」のことはかなり正確に中国の王朝に伝わっていたと考えられる。これは『三国志』魏志倭人伝の記述(「倭」の国々の様子など)は詳細であることからもうかがえる。だた、旅程表が正確だというのには後記のとおり疑問が多い。
 

凄い、素晴らしい!

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 2月14日(月)08時57分17秒
  解法者さんのエジプト政変の的確なコメント、邪馬台国の話し、どれもこれも超素晴らしい!
勉強になります。生きていて良かった!
 

エジプトの政変に思う(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月13日(日)18時54分57秒
   30年にわたってエジプトを支配してきたムバラク政権が2011年2月11日(土)に崩壊した。2年半ほど前にエジプトを3週間あまり個人旅行したことがあるから感慨が深い。
 そのときの印象はエジプトは貧しかった。カイロの建物にしてもイギリス統治時代の建物がほとんどで首都に特徴的な近代的建物がほとんど皆無に近いことだった。つまり近代化から取り残されていたことはすぐに見て取れた。耕地にしてもナイル川のほんの両岸にしか存在しなかった。その外側は砂漠か荒地だった。経済にしても古代エジプトの観光収入とスエズ運河の通航料で、庶民は家族の海外での労働で得られる賃金の送金に頼っていた。
 旅行は個人でエジプトでの特異な存在の「コプト教」の方に旅行期間中お世話になったこともあって、この国の宗教事情や生活状態を良く観察できた。
 この「コプト教」は原始キリスト教でエジプトの人口の10%を占めている。エジプトはいわずと知れたイスラムの国なので、宗教対立が激しく、その旅行の直前に両教徒の衝突があったばかりだった。この衝突は長年続いており、つい最近でもアレクサンドリアで死亡者が出ている。宗教対立は中部エジプトに激しく、このときも本来であれば南部のルクソ−ルから北部のカイロまでナイル紀行を楽しめるはずだったが、中部エジプトは運航しておらず、ルクソ−ルからカイロまでは飛行機でということになった。
 当時の混乱は宗教対立だけではなく、主食のパン(ナン)が高騰し、政府は公売所を設けてそこでパンを供給していた。もちろんそこだけでは賄えず、相変わらず闇のパン屋が街に存在していた。
 

エジプトの政変に思う(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月13日(日)18時53分33秒
   高騰したのはパンだけではなかった。タバコ税を上げる国会の中継が映し出され、多額の値上げが決まって庶民から不満が出ていた。政党は大統領傘下の「国民民主党」の一党支配で、庶民のことなどどこ吹く風のようだった。
 お世話になったのは旅行会社を経営している人だったが、会社組織になってなかった。どうして会社組織にしないのかと尋ねたが、役人から多額の賄賂を要求されるからだと言っていた。この国は何でも賄賂で方が着くとのことだった。腐敗が横行していたのである。
 ところで、国民の10%を占める「コプト教」信者は差別され、カイロ市内の大教会(岩をうがって教会がその中にある)の近隣(そこを通らないと協会には行かれない)はゴミを選別するスラム街となっており、悪臭が漂っていた。
知り合いの「コプト教」信者の友人もサウジアラビアへの出稼ぎを夢見ていた。これは「コプト教」信者に限らず庶民の夢だそうだ。
 先に耕地はナイル川のほんの両岸しかなかったが、日本の援助でナイル川から灌漑用の運河を敷くという計画と聞いた。エジプトはアラブの盟主を自称していたが、外国の援助なくして灌漑設備も作れない状態だった。今回の政変で
ムバラク大統領の資産が7兆円と報道されたが、その7兆円さえあれば灌漑設備はおろか社会基盤は相当程度整備できるはずである。つまり、ムバラク大統領は国家のことなど全く考えていなかったことを示している。
 

エジプトの政変に思う(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月13日(日)18時52分44秒
   ムバラク政権の崩壊は当然と言えば当然だが、今度の政変でエジプトが良くなるかというとまず無理だろう。ムバラク大統領の独裁が確固たるものだったから、政党にしても「国民民主党」の一党支配で、野党が存在しない。したがって受け皿となる者がいない。「ムスリム同朋団」というイスラム原理主義団体があるが、異教徒の「コプト教」とも対立しており、宗教色の面からエジプトの若者に人気がない。しかも軍部とも対立しており、「ムスリム同朋団」が政権を担うことはない。したがって、イスラム原理主義が跋扈するイランのようにはならない。
 チェニジアでもそうだが、独裁者は打倒した。でも跡を継ぐ者がいないという状況が続くだろう。それと民主化などは幻想である。こうしたイスラム教国
には<民主化>はそぐわない。政教分離がなかなか実現しないからである。エジプトはイスラム教色が濃くなく、またイェメンなどと違って部族国家ではないが、民主化などということは知らないだろう。中東のイスラム教国で唯一<民主化>を実現したのはトルコであるが、エジプトには「ケマル・アタチュルク」はいない。
 中国の抱える矛盾はエジプトどころではない。次は中国を期待したい。
 

邪馬台国(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月13日(日)10時49分18秒
   「投馬国」は五萬余戸、「邪馬台国」は七萬余戸とされている。当時は大家族だったと思われるから1戸=6人としても、それぞれ30万人、42万人とされる。現在でも大都市だろう。これだけの大都市なら歴史書に記載があるはずだ。果たして九州にこれだけの大都市が存在したという歴史書が存在しているのであろうか。これについて「邪馬台国」の王宮は近時発掘された「吉野ケ里」とする考えがあるが(『邪馬台国はやはりここだった』奥野正男 毎日新聞社 1989年10月5日83頁)、どうみても2、3000戸の大きさしかない(『邪馬台国 魏使いが歩いた道』丸山雍成 芳川弘文館 2009年4月1日 52頁)。その他の候補地も該当しない。こうしたことから考えて「投馬国」は「吉備王国」、「邪馬台国」は「大和王国」と考えるのである。
 『卑弥呼以死。大作塚。径百余歩、殉葬者奴婢百余人』(『三国志』魏志倭人伝)とある。「卑弥呼」は正始7〜8年(247年〜248年)に80歳(在位65年)くらいで亡くなったようである。
 径百余歩については様々な考えがある(1歩=1間=1.85メ−トル、100歩=185メ−トル〔斉藤 忠〕、1歩=1.45メ−トル100歩=145メ−トル〔小林行雄〕、1歩=70センチ、100歩=70メ−トル〔原田大六〕、1歩=25〜30センチ、100歩=25〜30メ−トル〔古田武彦〕[『邪馬台国はやはりここだ』奥野正男 毎日新聞社 1989年10月5日 176頁])。実数をあてはめないという考えもある(『邪馬台国はここだ』奥野正男 毎日新聞社 1981年9月20日 257頁)。
 いずれとも判断がつかない。ここでは大きいという意味に解したい。したがって、大きな塚とあることから墳墓は大きかったことは間違いなかろう。ここでも九州にはこれに相当する墳墓が発見されてないのである。
 さらにこれだけの大都市を統括していれば王の墳墓も強大ではなかろうか。こうした巨大墳墓が九州のどこにあるのであろうか。これについても「江田船山古墳」(熊本県玉名郡和水町)だとする考えもある。しかし、これは5世紀から6世紀初頭の築造とされ時代が合わない。「卑弥呼」の墳墓が示されない限り「邪馬台国」=九州という考えは採り得ないと考えられよう。卑弥呼の時代(3世紀前半)に相当する九州の墳墓としては「小熊山古墳」(墳長−120メ−トル)〔大分県杵築市〕と「一貴山銚子塚古墳」(墳長−103メ−トル)〔福岡県糸島市〕の2つしかないように思えるが、どうだろうか。いずれも「筑後平野」や「熊本平野」ではなく、ここに「邪馬台国」があったとするのは無理だと思われる。
 

邪馬台国(3)−序論(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月12日(土)10時47分48秒
   「邪馬台国」に入る前に、それを記した『三国志』魏志倭人伝について考えたい。編者は「陳壽」(233年〜297年)で「晋」(「魏」・「呉」を滅ぼした王朝)時代の歴史書編纂官をしており、その在任中の280年〜285年に私撰(皇帝の命により書かれたものではなく私的に書いたもの)として書かれたとされている。ただ書かれてすぐに陽の目をみたわけではなく、それはその死後の300年〜306年ころのこととされている。
 ところで、「陳壽」と同年代の人で「魚豢(ぎょかん)」が『魏典略』(『魏略』ともいい、以下はこれを使う)を書いたとされるが、残されていないためいつ完成したかは不明確で最後の記事から263年(『東アジアの中の邪馬台国』白崎昭一郎 芙蓉書房 1978年7月31日 76頁)とも270年代(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 講談社〔講談社現代新書 480〕1981年11月20日 49頁)とも280年とも言われている。その他には「王沈」が表した『魏書』があり、これも残されていないが『魏略』と同じ逸文が知られており、265年・266年ころのものとされている。
 『三国志』魏志倭人伝はこれらを参考に書かれているのは、その中で『魏略』の「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」(正しい年や季節を知らず、春に耕して秋に収穫することを以って年を数えている)と引用されるなど多くの「倭」についての記述が見られる。また、注釈として『魏書』が引用されており、こちらも参考にしたことが知られている。一般的には『魏略』を主に参考にしたと言われているが、『魏略』自体もこれより先に完成していた『魏書』を参考に書いたという考えがある(「倭人伝を読む」山尾幸久〔『続 邪馬台国のすべて』古田武彦・山尾幸久ほか 朝日新聞社 1977年4月30日 91頁〕)。
私はどちらも参考にして『三国志』魏志倭人伝が書かれたと考えている。
 

邪馬台国(0)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月11日(金)20時22分18秒
   「邪馬台国」については、最近では下火になっているとはいうものの、古代史のロマンを与えてくれるものとして、専門家から一般人まで関心が強く、特にその場所について様々な考えが寄せられている。
 私は「邪馬台国」についてはほとんど興味がなかったが、最近「纒向遺跡」(マキムクイセキ)の発掘により「卑弥呼」の宮殿があったという報道もあり、勉強しようという気持ちになった。
 「邪馬台国」および「卑弥呼」については文献としては主に『三国志』魏志倭人伝と『後漢書』東夷倭人伝がある。「邪馬台国」については、それがどこにあったのかが一番の関心を呼んでおり、わたしもここから勉強しようと考えた。しかし、前記の資料で示されている朝鮮の中西部の「帯方郡」から「邪馬台国」までをたどるのは容易ではなく、「邪馬台国」を「大和」(奈良県)に比定したが、自信はない。思考も行きつ戻りつしまとまりが悪く、さらに提示する資料も孫引きも多く、情けないが、やっつけ勉強なのでお許しいただきたい。
 これから述べていく「邪馬台国」については、皆さんに<資料>を提供するもので、これを参考に「邪馬台国」のロマンを追及されたら、こんなに嬉しいことはない。できれば皆さんの「邪馬台国」をうかがってみたいものである。
 

邪馬台国(1)−序論(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月11日(金)20時21分33秒
   魏使(『三国志』)は朝鮮から「対馬」、「壱岐」と渡り、日本本土へは最初に「末盧国」(佐賀県唐津市)に上陸した。そこから東南陸行五百里のところにある「伊都国」に上陸した。「伊都国」は現在の糸島半島(福岡県の北西部の玄界灘に突き出た半島)にあったと考えられている。そこからさらに東南百里の「奴国」(福岡県福岡市)、さらに東百里の「不弥国」(福岡県福津市津屋崎)に行った。これらの国についての比定は争いがあることを付記しておく。
 ここからが問題である。『南至投馬国、水行二十日(中略)可五萬余戸』とある。ここでの南であるが、漢の人たちは日本を南北に連なると誤解していたと思われ、南とは東を意味する。これは「水行二十日」とあることからも導かれよう。したがって「投馬国」は九州ではなかろう。日本海ル−トを考えて「出雲国」と考えた。最初は瀬戸内海ル−トを考えて「吉備国」(岡山県一帯)と考えたが、『三国志』魏志倭人伝の記述を考えると無理のような気がする。これについては後述する。
 ここからが本番である。魏使は「吉備国」から東に向かう。
『南、至邪馬壹国。女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰佳鞮、可七萬余戸』とあるのがそれである(下記参照 『三国志』魏志倭人伝、『後漢書』については以後同じ)。
 試案ではあるが、こうして魏使は「大和」にあった「邪馬壹(台)国」に到着すると考えたい。
 ここでは「邪馬台国」という読みは「ヤマト」に通じることも重要と思われる。九州説の者は「山門郡」(福岡県柳川市・みやま市)を当てる者が多いが、ここには墳墓・宮殿・大規模集落が存在せず、「邪馬台国」の比定が無理なことは後述のとおりである。

★ 『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎 中央公論新社 2004年6月25日)
● 『三国志』は散逸してしまっており、『紹熙本』(1190年〜1194年)を参考に
 した。『中国正史 倭人・倭国伝全釈』もこれによっている。
 

邪馬台国(2)−序論(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月11日(金)20時20分32秒
   繰り返すが「投馬国」は「不弥国」(福岡県福津市津屋崎)から<水行二十日>とあり<陸行>がないことにある。したがって、「投馬国」は海岸線にあることになる。『三国志』の南をそのまま解すると九州を西回りか東回りに行くことになる。海と考えれば<二十日>もあるのだから、九州を越えてしまう。
 そこで「河」を考えるかもしれない。久留米市(福岡県)が「投馬国」だと考える者がいるが、「不弥国」が香椎(福岡市東区北部)であったとしてもここから20日もかかるはずがない。
 「邪馬台国」はそこから<水行十日、陸行一月>である。九州のどの河川を考えても<30日>もかかることはなかろう。したがって、九州には候補地がないと考えるのが常識というものであろう。
 

名古屋の首長同時選挙に思う(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月11日(金)11時12分47秒
   私は、地方自治に懐疑的である。国家が国民の帰趨を決し、地方自治はこのように国政を補完する存在であることの憲法の原理をもう一度噛み締めるべきだろう。日本は連邦国家ではないのである。いや連邦国家でさえ国家がそれを構成する連邦自治体に優先することは自明の理となっている。
 現在の憲法学者は地方住民の自治権拡大を推進すべきというのが大勢となっている(『憲法(第2版)』辻村みよ子 日本評論社 2004年3月1日 544頁、『日本国憲法(第3版)』吉田善明 2003年5月10日 222頁、松井茂記 前掲書 273頁)。こうしたことが、本来は国家が定めるべき自衛権や原子力発電などのエネルギ−政策が地方自治体の抵抗に合い実現できなかったりし、住民の意思に翻弄されているのは、こうした憲法学者の責任でもある。
 地方自治は固有の権利でも何でもなく、国家の法律に基づいて承認されたものに過ぎないと考えるべきだろう。
 今度の名古屋の混乱も地方住民の自治権拡大にその原因がある。
 国家による地方住民の自治権の制限も喫緊の問題である。
 <地方主権> 住民からすればオラが地域の幸せを実現できるという幻想を与える。これは引いて言えば、オラが地域が幸せなら他はどうなってもいいというエゴイズムを生み、国民から国家意識を奪う極めて危険な思想である。
                                                    〔完〕
 

ほらほら また根拠がない

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月10日(木)20時28分34秒
  >@『魏志』の「韓伝」は明らかに短里です<

 あなたはオウムか?
 

「韓伝」も短里

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月10日(木)18時46分42秒
  パソコンの不調のためなかなかインターネットにつながりません。今のうちに大方解法者氏への反論をしておきます。
@『魏志』の「韓伝」は明らかに短里です。
A『関東に大王あり』への批判をするなら、どこがおかしいか挙げるべき。第二部から読むことをお勧めする。(笑)
B九州王朝説といえば『旧唐書』と『倒壊要』『新唐書』だが、一体どう解釈しているのか。
 

名古屋の首長同時選挙に思う(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月10日(木)16時48分5秒
   一方、法理では中央政府が地方自治体に優先するということになっている。地方自治が国政の下に立つことは、地方公共団体の組織及び運営にか関する事項が法律の範囲内で定められることになっており(憲法第92条)、「条例」が「法律」下位法規であることも規定されている(憲法第94条)からも明らかである。
 このように、一方では中央政府と地方自治体が対等であるかのようなアメリカ型の連邦国家制度を日本に導入しようとした(『日本国憲法(第2版)』松井茂記 有斐閣 2002年7月30日 273頁)アメリカの施策(策謀と言っても良い)と他方では大日本帝國憲法下の地方自治制度(地方公共団体の首長は官選〔中央政府が選出した〕だったが、地方議会が設けられており、官選首長の専横を防止できる制度が保障されていた)との妥協の上に「日本国憲法」での地方自治が実現したのである。
 混乱の元凶は地方自治優先の政治思想と国家優先の法理とのギャップにある。
 しかる最近ではマスコミは勉強不足か盛んに地方自治こそが民主主義の本旨にかなうように扇動している。こうした考えからは名古屋市に見られる首長と議会の対立を解消できない。
 

名古屋の首長同時選挙に思う(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月10日(木)16時47分4秒
   それでは、どうしてその対立を防止できるかというと、地方自治体の首長を議会が選出するという方法しかないのではなかろうか。
 地方自治体の首長を議会が選出すると言っても首長が地方自治体の住民の意思の下で選出されることには変わりはない。ただ、直接首長を地方自治体の住民が選出できないだけである。
 直接選挙で地方自治体の首長を選出できないからといって、民主主主義に反するわけではあるまい。かえって、無知蒙昧という側面を持つ大衆から地方自治体を守るという意味はあるだろう。
 次善の策としては、地方自治体の首長が議会を解散できる場合を議会が首長を不信任した場合に限定することだろう。こうすれば首長の専横はいくらかでも制限され、議会との妥協が図られると思うからである。
 

名古屋の首長同時選挙に思う(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 9日(水)22時09分23秒
   市民税の減税は極めて無謀な提案であって、「河村たかし」名古屋市長が市民の負担軽減願望ということを煽り、議会を排除し権力を把握するための手段であると断言できる。つまり、無知蒙昧という色彩をいくらかでも持っている民衆を煽り大衆迎合主義に立脚した手法を使って権力を掌握せんとしたのである。一方議会は長年の職業化と市役所職員との癒着、高額の報酬という弱みを抱えていたため、市長の無謀とも言える攻撃を跳ね返すことができなかったのである。つまり痛みの伴う改革を実行できなかったということに尽きよう。その意味ではどちらもどっちという論評が付きまとう。
 こうした動きは首長の「地方分権」を目指す「地域政党」実現が基本理念となっており、大阪でも「橋下 徹」府知事、さいたま市の「清水勇人」市長の運動と同じ線でつながっている。
 そもそもこうした現象が現れているのは、戦後のアメリカが連邦国家であるということから日本に地方自治を実現し国家を規制しようとすることが根底になっている。したがって、中央政府と地方政府が対立するのは当たり前のことなのである。これを地方自治体の首長と議会の対立を解説すると、地方自治優先の政治思想がその地方自治での権力争いをもたらしていることに起因することを忘れてはならないのである。つまり地方自治体の首長と議会の対立は<必然>であることである。わかりやすく言えば、中央政府に地方自治体の権力争いから来る混乱を抑える政治思想がないからである。
 

名古屋の首長同時選挙に思う(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 9日(水)12時25分26秒
   愛知県と名古屋の首長の同時選挙が2010年2月6日(日)に行われ、いずれも地域政党を目指す者が当選した。いずれもダブルスコアという圧勝であった。
 この選挙の発端は名古屋市長の「河村たかし」が市民税10%減税、議員の定数と報酬の削減とを求めて議会と対立し、愛知県県知事選挙との同時選挙を求めて、自らのリコ−ルを請求し、その結果それが実現したものである。
 地方自治体の首長も議員も住民の直接選挙により行われる。その意味では今回の名古屋市の首長と議員の対立は予想されたことでもあった。つまり、どちらも民意を代表する者として抜き差しならぬ対立へと発展する可能性があるからである。
 今回の対立を見てみるとどちらもどっちという気がする。議会の議員であるが、長年定着化し、それが職員などと癒着し、特権階級化している。その意味では「河村たかし」名古屋市長が議員の定数と報酬の削減とを求めたのは当然のことであった。また議員からしてみると市長の市民税10%減税は「地方債」を400億円も発行し、市民税の減税などはなおさら市の財政を圧迫するというのである。
 

ほんなこてね

 投稿者:よかげな  投稿日:2011年 2月 9日(水)02時32分45秒
  田舎もんも
邪馬台国の勉強せんと
いかんばい。
 

思い出した

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 8日(火)13時01分30秒
   皇国の護国運動家さんは確か「豊前王国」を言っていたが、「邪馬台国」は
豊前王国? 「富来 隆」氏もそう言っていたな。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 8日(火)12時23分25秒
   これと同種の事件がある。2008年4月17日、栃木県上都賀郡西方町で農協の現金自動預け支払機の付近で異常な行動をとっていた3人組(中国人)を見た警察官が職務質問をしようとしたところ、男は警察官に襲い掛かり横転させ、逃げ出したが、追いかけてきた警察官に今度は木の棒で抵抗し、さらには抵抗を止めるように警告した警察官に対し、躊躇することなく今度は拳銃を奪おうとしたほか傍の農家にあった石灯籠の頭部を振りかざして襲いかってきたのでやむなく拳銃を発射してところ、一人の男の下腹部にあたり死亡させたというものである。本件も「特別公務員暴行陵虐致傷罪」で付審判の決定が行われ、現在宇都宮地方裁判所で審理中で2011年2月10日に判決が下されることとなっている(求刑 懲役4年)。
 本件は民事損害賠償事件としても争われ、第一審の宇都宮地方裁判所では警察官の拳銃の発射は正当な職務行為であり、警察官に過失がなかったとして死亡した者の家族の請求が棄却された(これを不服とした家族の控訴により現在東京高等裁判所で審理中−2011年4月27日判決の予定)。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 8日(火)12時22分41秒
   朝日新聞の報道はこうした日本人との類型を異にする外国人犯罪を助長するもので、治安の悪化に一役買っていると指弾されても反論の余地はなかろう。
 この事件において例え警察官に行き過ぎがあったとしても司法の判断に任せておけばよい。つまり批判は付審判の判決が出てからでよい。本件は裁判員裁判で争われることになるが、ただでも感情に支配されやすい素人裁判員に予断を与えることにもなる。朝日新聞はこのことを予想して素人裁判員を惑わし、有罪にもっていきたいと考えているのではなかろうか。
 警察官はこうした一方的な報道に惑わされることなく、武器の使用に躊躇しないようにお願いしたい。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 7日(月)12時12分26秒
   前記のように、本付審判では<運転手と助手席にいた者が一体として評価される>かが争点となる。私は警察官2人が拳銃を発射し、助手席にいた者を死に至らしめたのに<未必の故意>が存在したかについて疑問がある。せいぜい<過失>に止まるものと考えている。「特別公務員暴行陵虐致傷罪」は<過失>を罰する規定がないから、不処罰となる。
 そのことよりも前記記事に違和感が残ったのは、このような事件を1面トップで掲載する事件かということである。朝日新聞の記事を見てみるといかにも警察官が窃盗犯を射殺したことが<違法>であるかという印象を与えるように操作しているとしか思われない。近時、犯罪が凶悪化しているが、この報道は警察官に武器の使用を躊躇させる。
 頭部に銃弾を受けた運転手は窃盗罪で懲役8年の実刑判決を受け、既に刑期を終えている。窃盗罪で「懲役8年」の実刑判決とは極めて重いもので、強盗罪も加えられたのかもしれない。そして罪状(被害金額の多大、窃盗の多頻度など)はかなり重いものと考えられる。このことから彼らは窃盗行為を繰り返していたものと考えるのは想像に難くない。ここで逮捕しなかったら同種犯罪が繰り返された可能性は極めて高い。加えて窃盗は強盗の一歩手前の犯罪でいつ強盗に発展するかがわからない。例えば「空き巣」であるが、物色中に被害者家族と出会えばたちどころに強盗に変身することは犯罪学上常識というものである。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 6日(日)15時43分32秒
   では拳銃の発射を刑事法上どう評価すべきか。警察車両への衝突を繰り返し、職務質問を断固拒絶する乗用車に乗った者たちに乗用車を停止させるため拳銃を使用することはその職務からみて正当だったと言えるのではなかろうか。
 それでは運転手および助手席にいた者に対し拳銃を発射した行為は職務上正当な行為であったと考えられるかである。つまり、拳銃は乗用車に向けて発射すべきであり運転手および助手席にいた者に対し必要ではなかったのではないかと言うことである。これについては現場の状況が伝えられてないので何ともいえないが、一般的に考えれば少なくとも乗用車に向けて拳銃を発射し、それでも警察車両への衝突を繰り返されるならば、運転手への拳銃の発射が許されると考えるべきであろう。
 前記の新聞報道では発射された銃弾は8発だったというから、どうやら最初は乗用車に向けて拳銃を発射したが、それでも衝突行為が繰り返されたため運転手に対し拳銃を発射したというのであろう。運転手も銃弾を受けたが、これについては付審判の決定が行われていないから、最初は乗用車に向けて拳銃を発射したが、それでも衝突行為が繰り返されたため運転手に対し拳銃を発射したことが事実だったと考えられる。つまり運転手には正当な職務行為が認定されたと考えてよかろう。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 6日(日)15時41分53秒
   ここからが核心であろうが、助手席にいた者に対し拳銃を発射した行為は職務上正当な行為であったと評価されるだろうか。この場合、助手席にいた者が運転していた者に対し、乗用車を発進させるよう叫んでいた場合などは、運転手と助手席にいた者は一体として評価されるから、拳銃を発射した行為は職務上正当な行為であったと考えてよかろう。
 ただ、頭部に向けて拳銃を発射したことはどうだろうか。運転手は頭部に、助手席にいた者は頭部と首に銃弾を受けている。もっと身体の他の部分に向けて拳銃を発射すべきであるということも考えられる。しかし、両人とも座っており首から下は乗用車のドア付近の硬質材で防御されており、首から上を狙うしか方法がなかったと考える。現場の緊迫した状況の中と警察官も興奮状態にあったと想像される状況では首より上の部分に向けて拳銃を発射したことは止むを得ない行為ではなかったか。
 なお、死亡した者の遺族が奈良県および警察官4人に対し約1億1,770万円の損害の賠償を求めて奈良地方裁判所に提訴したが、2010年1月に発砲は止むを得なかったとして請求を棄却している。ただその中で警察官に未必の故意が存在したことを認定している。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 5日(土)22時14分29秒
   朝日新聞(2011年1月24日〔月〕夕刊 1面)で、警察官が発砲し死に至らしめたことについての不審判裁判を1面トップで報じたほか11面でも取り上げている。
 事案は、「2003年9月10日夕方、窃盗犯と思しき者2人が乗用車に乗っていたのを奈良県警の警察車両に乗っていた警察官2人が発見し、職務質問をしようとしたところ乗用車が交差点の中で警察車両への衝突を繰り返した(この行為は「公務執行妨害罪」に該当)。身の危険を感じた警察官が同乗の警察官に発砲を命じ、助手席側から発砲した警察官2人の銃弾が助手席に乗っていた中国人の首と後頭部にそれぞれ命中、死亡させ、運転席側からもう一人の警察官が発射した銃弾が運転手の頭に当たった」というものである。死亡した遺族はこの警察官2人を「特別公務員暴行陵虐致傷罪」(刑法第196条−3年以上15年以下の懲役)で告訴した。奈良地方検察庁は、2006年1月に「発砲行為は車両を停止させる目的での正当行為」として不起訴処分にした。遺族はこれを不服として奈良地方裁判所に付審判請求をし、同裁判所は2010年4月14日に「助手席にいた者にまで危害を加えるべきでないのに、至近距離から発射し死に至らしめた」として「特別公務員暴行陵虐致傷罪」で付審判決定をした。
同事件は裁判所が指定した弁護士が検察官役となって行われ、指定弁護士は同罪に加え「殺人罪」(死刑又は無期もしくは5年以上の懲役)でも付審判することになった。
★警察官の職務執行と武器の使用
 公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。
 

朝日新聞は治安の悪化を望んでいるのか(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 2月 5日(土)22時12分57秒
   本件の争点は、@ 拳銃を発射しなければならない状況にあったか、A 助手に対してまで発砲しなければならなかったか、B 拳銃を発射すれば助手席に乗っていた者が死亡するという未必の故意(死んでも構わないという認識)を持っていたか、である。こうしたことを明確にするため、裁判所は付審判決定をしたと考えられ、警察官には真にお気の毒だが、この決定自身には賛成できる。つまり、今後の同種事件への指針が明らかにされるからである。
 @については、乗用車は何度も警察車両に衝突を繰り返したようであるから、車両を停止させる目的での正当行為であると考える。問題はAである。助手席に乗っていた者が運転手に警察車両に衝突することをしていたならば、発砲行為も車両を停止させる目的での正当行為であると考える。そうではなく単に助手席に座っていたというのであれば、警察官としての職務の範囲を超えており、発射行為の正当性は認められない。Bについては、頭と首を狙って発射したのであれば、未必の故意はあったと考えられる。
 以上は机上の論で、現場での状況はかなり緊迫したものだったと思われる、警察官は窃盗犯の逮捕に向けて並々ならぬ決意を持って警察車両で警邏し、その途中で犯人と思しき乗用車を発見、職務質問をしようとしたところ抵抗され乗用車に何度も警察車両を衝突され、かなり興奮していたことが想像できる。もちろん、警察官だから冷静に対処すべきであったということも言えるだろうが、警察官と言えども人の子、職務質問をし嫌疑が高まれば逮捕しようとする警察官としての任務遂行に我を忘れていたと思える。
 


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