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喫茶室 過去ログ142(2011.3.1〜3.31)

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卑弥呼

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月31日(木)21時02分5秒
   卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命 神武天皇実在説とは関係ない  

R アホかな

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月31日(木)15時09分56秒
  投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月31日(木)14時34分44秒

<<『■・歴史の観察者氏は詭弁を始めた。
仮に真書でも信用できない、とかいろいろ言っているが、私が聞きたいのは「信用できるか」どうかじゃなくて本物か偽物かということなの。』>>
---------

詭弁ではありません・・私はこれを言ってるのと説明いたしましたが呑み込みが悪いですなあ〜・・。

日本の偽書 (文春新書) [新書]
藤原 明

http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%81%BD%E6%9B%B8-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E6%98%8E/dp/4166603795

出版社/著者からの内容紹介
荒唐無稽なものに人はなぜ魅せられるのか
世間を騒がせた「超古代史」と呼ばれる偽書のたぐいは、どのようなメカニズムで人々の興奮を掻き立てて来たのか、その謎に迫る
内容(「BOOK」データベースより)
“記紀以前の書”といった荒唐無稽な偽書のたぐいには、意外にも正史には見られぬような精彩のある歴史像が描かれている。超国家主義者と深くかかわる『上記』『竹内文献』、東北幻想が生んだ『東日流外三郡誌』『秀真伝』など、本書では世間を騒がせた「太古文献」と呼ばれる偽書を取り上げ、ただあげつらうのではなく、どのようなメカニズムで人々の興奮を掻き立てて来たのかを検証し、人はなぜ偽書に魅せられるのか、その謎を詳細にさぐる。

偽書の対比の真書
「★・真実の事柄を書いた書籍」

私のスレ
http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/8449

私は和田家文書といわれる・・「『東日流外三郡誌』の内容が嘘っ八候とゆうとるだけ。
そんな小便で浸した文書が、和田喜三郎さんが書いたか、奥さんが代筆したか、友人が代筆したものか・・あるいは彼の祖父か、あるいは、秋田孝季さんか、和田長三郎吉次さんか・・そんなこと関係ないの筆跡鑑定、興味がないの『東日流外三郡誌』の内容、最初から
SF雑誌として・・雑誌「ムー大陸」と同じ感覚で読んだ・・77年頃かな?。

そして学会・・マトモな権威あるところ・・全部が冷笑黙殺しとる・・当然や、あれ歴史ではない・・妄想御伽噺や・・こんなもん歴史とゆうとるのとマトモな話ができる筈なし。
(以上)
 

アホかな

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月31日(木)14時34分44秒
  歴史の観察者氏は『東日流外三郡誌』が偽書であると主張していたが、日野氏がその根拠を覆してしまった。そこで、歴史の観察者氏は詭弁を始めた。

http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/8449

仮に真書でも信用できない、とかいろいろ言っているが、私が聞きたいのは「信用できるか」どうかじゃなくて本物か偽物かということなの。アホが。そんなの、『日本書紀』も『古事記』も『魏志』も信用できないし、北朝鮮の公式文書も「本物」の方が逆に信用できないというのに。
 

古墳は天皇家の物

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月31日(木)14時26分39秒
  解法者氏は神武天皇実在説なのでしょ?それなら邪馬台国九州説になるはずじゃないですか。完全に矛盾していますよ。

<神武より光仁に至る天皇は奈良県にいた、若しくはそこが本拠地であったのであるから、そこに邪馬台国の存在する余地はない>
 

ときみつる会

 投稿者:歴史の解明者  投稿日:2011年 3月31日(木)14時22分40秒
  こういう場に宗教を持ち出すべきではないと思いますが、保守派にはかなりときみつる会の信者が多い。右翼的なことをいう教師は大抵新教育者連盟の人。こういう団体は生長の家から追い出されてできた団体です。

要するに、生長の家系列の出版社が、生長の家総裁・谷口雅春氏を批判する内容の台湾人の本について「出版拒否」した。それに怒ってできたのが上記の団体であるのですが、とさんの「と」は私が見たところ「と学会」の「と」ですね。貴方は原田実のファンなのでしょう。

然し、残念ながら私は日野氏の「頭の狂った偽書派」に賛成します。やはり原田実は詐欺師ですね。最も私は日野氏の邪馬壹国論には反対ですが。
 

護国さん

 投稿者:  投稿日:2011年 3月31日(木)12時33分28秒
  僕が背教者だそうですが、背教者の意味がわかりません。それにときみつるって誰ですか?  これも意味がわかりません。

僕の頭が悪いのか?  それとも護国さんの方が?

誰か頭のいい人解説してくれません?
 

国家非常事態宣言(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月31日(木)00時31分37秒
   まず、最初に「国家非常事態宣言」の私なりの法文を挙げておきます。
1.緊急事態の宣言及び指揮・監督など(新設)
  これまで、国家の緊急事態に関する規定が欠けていた。これを新設する
@ 緊急事態の宣言及び指揮・監督
(1)内閣総理大臣は、我が国の独立と安全又は多数の国民の生命、身体若しくは財産が
  侵害され、又は侵害される恐れがある事態が発生し、その事態が重大で緊急に対策を
  取る必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、全国又は一部地域につ
  いて、緊急事態の宣言を発することができる。
(2)前項の宣言には、その区域、宣言を必要とする事態の概要及び宣言の効力が生じる
  日時を明示しなければならない。
(3)内閣総理大臣は、緊急事態の宣言を発した場合には、法律に基づき、自衛のため軍
  隊のほか、警察、消防等の治安機関を一時的に統制し、それぞれの機関の長を直接に
  指揮監督できる。また、前段に定めるもの以外の国の機関、地方自治体その他の行政
  機関に、必要な指示及び命令を行うことができる。
(4)内閣総理大臣は、緊急事態の宣言を発したときには、30日以内に国会に付議して、
  その承認を求めなければならない。国会が解散されているときは、新たに選出された
  衆議院議員で構成する国会の冒頭で承認を求めなければならない。
(5)内閣総理大臣は、国会が緊急事態の宣言を承認しなかったとき、又は宣言の必要が
  なくなったときは、速やかに宣言を解除しなければならない。
(6)内閣総理大臣は、緊急事態の宣言を発した場合には、国民の生命、身体又は財産を
  守るために止むを得ないと法律が認める範囲内で、身体、通信、居住及び移転の自由
  並びに財産権を制限する緊急の措置を取ることができる。
(7)内閣総理大臣は、前項の措置を取る場合には、この憲法が国民に保障する基本的人
  権を尊重するように努めなければならない。
★ (『憲法改正−読売試案 2004年』中央公論新社 2004年8月10日 367頁を
  一部改変)
 

国家非常事態宣言(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月31日(木)00時30分51秒
   国家非常事態宣言とは、このように国家が戦争や災害で国家の独立と安全、あるいは国民の生命、身体若しくは財産が侵害され、または侵害される恐れがあるときに、国家の代表者に強権を与えるものです。そしてその権限は広範囲に及びます。近代国家では憲法にその規定がおかれております(アメリカ−8節15号、ドイツ−12a条、フランス−16条)。日本にこれがないのは世界からみて特異の存在です。これは危機意識の欠如と人権主義者の跋扈にあります。
 今回の東北関東大震災から卑近な例から示してみましょう。津波が押し寄せ自宅が流され、その敷地の上に流木や自動車あるいは船舶が乗っており、自宅の所有者が自宅を再度建築するためにそれらの残留物をどかしたいと考えた場合、それを実行することは費用があってもそう簡単ではありません。なぜなら、それらの物にはそれぞれ所有者がいることが予想されるからです。憲法では財産権が保障されており(第29条1項)、所有者に断りなく撤去してしまったら、損害の賠償を求められる可能性があるからです。したがって、物品の所有者に自宅の所有者が所有権の侵害を理由として撤去を求める民事訴訟を提起することになります。ただこういう場合には裁判によらなくとも「緊急避難」の法理による物品の撤去があります。「他人の物から生じた急迫の危難を避けるためその物を損壊した場合は損害賠償の責任を負わない」(民法720条2項)というものです。この緊急避難という概念は刑法でもある(第37条)ことはご存知のことと思います。しかし、この場合でも物品の所有者にもなお損害賠償の請求が認められていることです(同法同条、同条1項)。一見矛盾するように見えますが、よりどちらの者に損害が多いかということで、場合によっては自宅の所有者に対する物品の所有者からの損害賠償の請求が認められる可能性があります。これを「自然災害による損害の分配の問題」といいます。そのほか自宅の所有者に認められるものとしては「自力救済」(最高裁判所昭和40年12月7日判決−最高裁判所判例集19巻9号2101頁)があります。これは「権利に対する侵害からの回復が緊急を要し、法律の手段によったのでは、その回復が著しく困難あるいは不可能である場合に被害者が自力で回復を行うことが許される」というものです。ただし、自然災害の場合は緊急非難と同じくる物品の所有者からの損害賠償の請求が認められる可能性があります。
 また、憲法上の「公共の福祉」の法理で財産権が保障の制限が可能ですが(第29条2項)、具体的な条項を欠いているため、緊急時の対応がなされません。
 

国家非常事態宣言(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月31日(木)00時29分53秒
   このような場合に、国家非常事態宣言がなされますと、私権の制限が行われます。先の例を考えますと、自宅の所有者からの物品の撤去が認められ、その場合の物品の所有者からの損害賠償の請求を制限し、国が代わって賠償を行うということも可能です。つまり、民間の権利の調整に国が介入して解決を図るということです。
 国家非常事態宣言とは、何も民間の紛争の解決のみに効果を発するものではありません。むしろ、行政の執行に絶大な効果を発するものなのです。国家非常事態宣言が発せられずにおりますと、現在のように災害時の予算の確保・執行、復旧に関する計画には法律の制定が必要で議会の承認が必要ですから、政党の対立がある現状では迅速な対応が取れません。また、行政機関同士の縄張りからくる災害への対応の障害があります。これも例を示しますと、ガソリン・灯油などの運搬には警察の許可が必要です。また、被災地への車両の進入についても同じです。いちいち、警察署に行って事情を説明し許可書をもらっていたのでは、被災地の被害復旧に支障が生じることは間違いありません。東京の警察署での許可が現地の警察署で否認されることも有り得ます。これに対処するためには、内閣府に災害対策室を設けてそこに震災担当大臣をおいてそこに権限を委譲させることが必要です。前記の許可などはそこからファックスなどで交付するか、許可などを免除すればよいのです。災害の対応は当該地域の独自性に委ねる必要もありますが、均一の対応も必要なこともあります。被災地の瓦礫の撤去などもその一つです。地域とは関係なく国がやらねばならないことも多くあります。原子力発電所の事故対策がこれでしょう。
 現在は国家非常事態宣言に関する法規はありません。それではどうすればいいかについては、政府がこれをまず発する。そして議会に法律として承認を求める。反対する政党があったら国民に公表する。まず反対はできないでしょう。多くの復興法律を議会に諮って議決を得るのは迅速さに欠けますから、政令で行えるようにすることです。一番良いのは「菅 直人」首相が辞任し、「谷垣」自民党総裁に首相を譲ることでしょう。もろろん、民主党議員も大臣に就任します。大連立を成功させたいならこの一手でしょう。
 国家非常事態宣言 今すぐにも必要です。
 

邪馬台国(53)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月30日(水)12時51分7秒
   「箸墓」古墳に限らず、当時の権力の象徴とされた「前方後円墳」の数、規模とも圧倒的に「大和」に多いことを忘れてはならないと思う。「前方後円墳」は九州に16個ある。そのうち福岡県は5個に止まる(『古墳文化と古代国家』斉藤忠 至文堂 1966年3月25日 164頁)。畿内には150個はあるようである。また規模からしてもやっと49位に「女狭穂塚古墳」(宮崎県西都市)〔古墳時代中期〕で全長175メ−トルで「箸墓古墳」〔古墳時代初期〕の276メ−トル(11位)、「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」〔古墳時代中期〕の486メ−トル(1位)に比べくもない。その他は73位(全長148メ−トル)に至まで1個もない。群馬県にだって「太田天神山古墳」といって全長210メ−トル(26位)がある(「巨大古墳の造営」白石太一郎〔『古代を考える 古墳』吉川弘文館 1989年3月20日 76頁〕)。
 「纒向遺跡」の古墳(「石塚古墳」・「矢塚古墳」・「ホケノ山古墳」・「東田大塚古墳」・「勝山古墳」〔3世紀後半の築造〕)は全長90メ−トルで、1/3が前方部の長さになっている。「勝山古墳」を除いては前方部は撥形に開いている。同時代の北部九州の最古式の古墳とされる「津古生掛古墳」(福岡県小郡市)・「那珂八幡古墳」(福岡市博多区)・「原口古墳」(福岡県筑紫野市)はいずれも1/3が前方部の長さになっており前方部は撥形に開いている。ただ、全長は33メ−トル、75メ−トル、80メ−トルと小振りとなっている。これらを比較すると北部九州の古墳は「纒向遺跡」の古墳と同型で小さい(「北部九州の出現期古墳とその背景」柳田康雄〔『東アジアの古代文化』52号 1987年〕)。この時代は北部九州の「邪馬台国」の東遷がなかった時代であり(後記参照)、しかも「前方後円墳」の起源は北部九州だとする見解(『日本古墳文化』原田大六 東京大学出版会 1954年)があるが、北部九州弥生勢力の墓制をいかに発展させても古墳の誕生には結びつかないとされる(『前方後円墳の成立』近藤義郎 岩波書店 1998年10月22日 41頁)。
 「前方後円墳」にしてもその他の古墳(「円墳」など)にしても九州の数は畿内に遥かに及ばず、この点からは「邪馬台国」=大和が有利と思われる。
 

RE:頭の狂った偽書派

 投稿者:歴史の解明者  投稿日:2011年 3月30日(水)11時24分3秒
  そりゃ、私も解法者氏は冗談で偽書説を言っていると思いますよ。「和田家文書」が偽書のはずがないのですから。

安本元教授なんか、「和田家文書」以上に怪しい「先代旧事記大成経」を研究している、だから、「和田家文書」を研究しても全然問題ないのです。解法者氏はちょっとジョークを言っただけだと私は思いますよ。
 

ほら、ここにもときみつる会の信者がいる

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月30日(水)10時09分48秒
編集済
  と氏、貴方のような背教者とはまともな話はできません。このことだけ言いたくて投稿しました。或いは新教連か新しい歴史教科書を作る会の誰かですか?
ときみつる(と嘘をつく)会・新(しい原理主義者による)教育者連盟・谷口雅春先生(の揚げ足)を学ぶ会等公式(?)HPhttp://hikarinoshingun.web.infoseek.co.jp/00-toppage/mokuji.htm
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2011年 3月29日(火)13時25分21秒
  護国さんてどこかのカルト宗教の信者ですか  

邪馬台国(52)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月29日(火)13時03分12秒
   箸墓=卑弥呼の墓とするにはまだ問題がある。『三国志』魏志倭人伝の記述では「卑弥呼」の墓は「円墳」とされているからである。「箸墓」は「前方後円墳」で「円墳」ではない。これについても「前方後円墳」も「後円」部が未発達で一見「円墳」に見えるとの指摘もあり(寺沢 薫−前掲書 305頁)、また「箸墓」は最初に「円墳」部分が築かれ、後に「後円」部分が付け足されたという考え(丸山竜平−前掲書、山成孝治−前掲書)もある。これについては、「箸墓」の「円墳」部分と「後円」部分は同時に作られたという再反論(「纒向遺跡と箸墓古墳の出現」橋本輝彦〔『東アジアの古代文化』97号 1998年〕もなされている。
 そのほか「箸墓」については、宮内庁の『陵墓要覧』(陵墓台帳)は「倭述述日百襲姫」(第10代「崇神天皇」の叔母)とし(安本美典−前掲書164頁)、「卑弥呼」と「台与」の間の男王だとする者(寺沢 薫−前掲書 304頁)、「台与」だとする者(淵田三善−前掲書 242頁)もいる。結局定説を見ないことになろう。
 

邪馬台国(51)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月28日(月)21時06分47秒
   日本最古の前方後円墳とされる「矢藤治山古墳」(岡山市)〔2世紀−弥生時代後期中葉〕から一番新しいとされる「小見真観寺古墳」(埼玉県行田市)〔7世紀初頭−奈良時代初頭〕まで数々の「前方後円墳」があるが、「卑弥呼」の墳墓]として「邪馬台国」=「大和」の有力な証拠となっているのが「箸墓古墳」(桜井市箸中)である。規模は全長278メ−トル、後円部−径150メ−トル、高さ−30メ−トル、前方部−前面幅130メ−トル、高さ−16メ−トルという大規模な「前方後円墳」である。
 問題はその築造年代である。「箸墓古墳」は纒向3式(庄内2式)〔ここまで遡らず次の纒向4式(庄内3式)との間の「布留〇式」に当たるとの考えもある[『日本の歴史 02−王権誕生』寺沢薫 講談社 2000年12月20日 304頁]〕とされ(『邪馬台国論争』岡本健一 254頁)、3世紀後半というのが定説であった(『箸墓は卑弥呼の墓か』大和岩雄 74頁、武光 誠−前掲書247頁)。となると「卑弥呼」ではなく「台与」の時代となる。しかし、築造は3世紀中葉として(『古墳とヤマト政権』白石太一郎 文藝春秋〔文春新書 036〕1999年4月20日 51頁)「箸墓=卑弥呼の墓」と言う者がいた(「箸墓と卑弥呼」丸山竜平〔『季刊 邪馬台国』17号 1983年〕、「巨大古墳の発生」丸山竜平〔『東アジアの古代文化』52号 1987年〕、「卑弥呼の墓」山成孝治〔『卑弥呼の鏡・三角縁神獣鏡』毎日新聞社 1998年〕、白石太一郎−前掲書 63頁)。3世紀中葉であれば「卑弥呼」の亡くなった時期(248年ころ)と合致する。
 「国立歴史民俗博物館」の研究グル−プが2009年に「炭素14年代測定法」という科学的方法で「箸墓古墳」から出土した土器と同一形式の「布留〇式土器」を分析したところ「箸墓古墳」は「卑弥呼」が亡くなった240年〜260年ころの築造であると発表した(『前方後円墳の世界』広瀬和雄 岩波書店〔新赤版 1264〕2010年8月20日 95頁)。これにより被葬者は「卑弥呼」である可能性が一段と高まった。しかし、これについては「安本美典」からの反論もあり(『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚構を衝く!』宝島社〔宝島新書〕2009年9月24日)、この「炭素14年代測定法」による分析も慎重になされなければならないという指摘もある(「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C(炭素14)年代測定」奥山誠義〔『ホケノ山古墳の研究』2008年11月〕−安本美典 前掲書 16頁)。
 

アホ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月28日(月)18時24分11秒
  >日本の技術力は世界有数ですよ、見本なんかなくともできたんじゃない
ですか?支那なんかを手本にする必要無し<

 思考力ゼロ!
 

邪馬台国(50)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月28日(月)14時58分0秒
   「唐古・鍵遺跡」(奈良県磯城郡田原本町)は、弥生時代前期〜古墳時代初期のものとされ、大きさは「吉野ケ里遺跡」と同じで、環濠が四重に巡らされ、大規模の堀は幅10メ−トル、深さ2メ−トルで「吉野ケ里遺跡」の1重のそれ(幅6.5メ−トル、深さ3メ−トル)を遥かに上回る防衛体制が取られていた。楼閣も存在している。注目すべきは青銅器工房があり、銅鐸のみならず銅剣・銅鏃(矢じり)も製作されていたのである。弥生時代の九州での青銅器の生産量は約1トンと推定されるが、近畿地方では約2.5トンものものが生産されていたのである。つまり「纒向遺跡」の1/10の規模しか持たない「唐古・鍵遺跡」でさえ「吉野ケ里遺跡」を凌駕していたのである。
 「唐古・鍵遺跡」は「纒向遺跡」より古いが、ここにも大規模な国が形成されていたと考えられ、九州の国より規模が大きい。
 

Re:必ず見本がある

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)14時24分55秒
  すみません、気づきませんでした。

崇神天皇陛下なら見本がなくとも作れた。そりゃ、邪な馬の国の人には無理かもしれませんが・・・。

然し、日本の技術力は世界有数ですよ、見本なんかなくともできたんじゃないですか?支那なんかを手本にする必要無し。
 

和田家文書論

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)11時51分29秒
編集済
  誰か偽書派への批判を書いて下さい。私は昨日の宣言通り、之から投稿を控えます。  

頭の狂った偽書派(9)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)11時49分23秒
  原田氏曰く、
「古田氏は和田喜八郎からの宅配便、郵便などを本人にみせ、「これはおれ」「これは娘」とその筆跡を仕分けしてもらったこともあるという。」

根拠は何?いったい、どれほど嘘や根拠のない推測を言ったら気が済むのだろうか。

「k氏(原文では実名)は古田氏の支援組織の一つで事務局長を務めている。古田氏はk氏について、「次々に研究業績を示しておられる」と紹介するが、実際にはその「研究業績」発表の場は古田氏の支援組織の編纂・刊行物に限られる。」

ここに出てくるkとは、古賀達也氏のことである。斎藤記者が「古田に影のように付き添う、助手のような青年」とした人物だ。

「「和田家文書」は質的にいっても、量的にいっても「天才」や「超人」でなければ書き得ないものではない。その内容は現代の書籍や雑誌、新聞、テレビなどで得た知識に「その場の思いつき」を交えての覚書の羅列である。」

これも根拠がない。

「『東日流外三郡誌』では、十三湊は1340年頃の「興国の大津波」で壊滅し、安東氏(安藤氏)も衰亡に向ったと伝える。ところが現在の発掘成果は、その内容を否定している。十三湊遺跡からは大津波の痕跡がなんら見つからないだけではなく、その最盛期は14世紀中葉から15世紀前半であったことを明らかにした。1340年頃に十三湊が壊滅したなら、このような結果にはならないだろう。」

これも大嘘である。和田家文書には「津波で東北王朝が滅びた」など度とは書いていないし、仮にその内容の信憑性が低くても偽作の証明にはならない。それはいくら「本物の北朝鮮の学者の報告書」であってもその内容が信用できないのと同じ理由である。
 

頭の狂った偽書派(8)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)11時27分26秒
  さらに、原田実は和田家文書の「原本」についても次のように述べている。

「その「寛政原本」の筆跡はことごとく従来の和田家文書(古田氏の言う「明治写本」)と同じ、すなわち和田喜八郎のものに他ならなかったのである。」

これが誤りであることは既に述べた。

「字が極端な右肩上がりを示す特徴といい、「東」「流」「郡」「和」「安」といった漢字の書き癖、ひらがなの「て」「る」「も」などの顕著な特徴、「於」「覇」などの特徴ある誤字といい、すべてはいわゆる「明治写本」と筆者が共通であることを示している。すなわち、明らかに和田喜八郎の筆跡だ。」

まず、「右上がり」問題だが、これは多くの日本人に共通することである。また、原田氏が言ったような書き癖の特徴も存在しないものがほとんどである。このことから、原田氏がとんでもない詐欺師であることがわかる。

尚、「極端な右上がり」というのも妥当な表現ではないが、そのような反論を予期してか、原田氏はその直後に次のように書いた。

「一字一字丁寧に書かれているため、右肩上がりの癖も抑えられている。」

なんだこれは?「極端な右上がりを示す特徴」即ち「和田喜八郎の筆跡」としておきながら、「右上がりの癖も抑えられている」?とんでもない矛盾だろ、この二つは。

「さらに言えば、古田氏が、それらは江戸時代の古文書であると本当に世に問いたいのなら、電子出版よりも先になすべきことがある。それは、第三者的な研究機関に委ねての検査・鑑定である。その手続きを抜きにしての「寛政原本」認定はもはや拙速としか言いようがないだろう(もっとも「寛政原本」が正規の鑑定に耐えられるシロモノではないこともまた確かなのだが)。」

え?笠谷教授が本物だと鑑定していますよ?頭、大丈夫ですか、原田さん。

「石塔山にかつて古い祠があったのは事実だが、喜八郎はその跡地にユンボを入れて整地し、勝手に神社を建ててしまった。つまり「石塔山は本物」だったにしても、その痕跡は他ならぬ喜八郎により、跡形もなく破壊されたのである。」

この内容も、同じ偽書派の斎藤記者の言っていることと、大分違っているのだが、そのことは大目に見てあげよう。問題は、「勝手に」和田氏が神社を作ったとすることだが、この神社を作ったのは和田氏の父親とその友人であり、又営林署の許可もある。

やはり、原田実は詐欺師なのである。



 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(7)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)11時15分27秒
  そのことは置いといて、次に進もう。

何故偽書派は、如何なる理由によって「偽作キャンペーン」を続けるのであろうか?

原田実氏は『判例タイムズ』に次のように文句を言っている。

「『判例タイムズ』も古田氏の口車に乗せられたか、この無記名の解説者が実は古田氏の支持者だったか、どちらにしてもその公正さに疑問が持たれるところである。」
「そもそも『判例タイムズ』という権威あるとされる出版物に、被告側の一方的な言い分に近い内容の解説が掲載されたということ自体、そこに被告側に近い立場の人物の意思が介在しているとみなすぺきではないか。」
「解説が本当に「専門家による第三者としての解説」「専門家による客観的な解説」といいうるものかさえ疑わしくなってくる。」
「この解説は被告側(和田氏、さらにひいては古田氏)の立場に立って原告側(野村氏)を論難するものである。」
「和田氏は詐欺の常習者として、警察の世話になっていたのである。」

ひどい内容だ。こうも根拠のないことがよくかけるなあ、というのが感想である。

さらに、原田氏は古田説への批判もしている。

「古田氏は『三国史』に「邪馬壹(壱、一)国」とある以上、本来の形も「邪馬壹(壱、一)国」だったはずだと言い続けた。」
「史料事実に基づいてその説に反論した研究者に対し、真実に目をふさぐ者との罵言を浴びせ続けたのである。」

この原田氏の言い分が正しいかどうかはさておき、問題は仮に古田氏がそのようなとんでもない学者であったとしても、和田家文書偽作の証拠にはならない、ということである。事実、多くの郷土史家は『東日流外三郡誌』や「金光上人史料」といった和田家文書を終戦直後に目撃しており、「明治時代の成立」との判断を下していた。その中には『北海道史』の編集者もおり、なにも古田という一人の「異端派」だけが真書派ではなかったのである。

 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(6)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)10時47分29秒
  和田家文書は「大化の改新」についても決定的な証言を残している。

「丑寅日本記 第八」“丑寅日本国要記”
 「(前略)倭史の作説なるを審し得るは天皇記、国記、に依るこそ倭史の実相なるも、是を古事記、日本書紀、等にくらぶれば、雲泥の相違なり。天皇紀元ぞ、前漢恵帝の巳酉年とあるも、即位の定かならずとありき。
 凡そ仁徳天皇にて倭を一統せるも、その王朝も崇神天皇が久耶漢族を入れて斃し、崇神天皇成れるも、河内王和珥一族に誅滅さる。
 後、耶靡堆の三輪郡蘇我郷箸香に春日和珥王朝相成り、攝津の葛城王朝の二朝
に、倭国は成れりとありぬ。依て、天皇紀元の一統に定まれるは推古天皇の辛酉九年に、上宮太子らに依りて、国建の一統成れりと曰ふなり。
 依て、天皇記及び国記の抹消に抗して蘇我一族、滅亡の悲運に了りぬ。倭の蘇我蝦夷の古墓に至るまでに解掘さる跡ぞ、石舞台とて残りき。(原漢書)
   建長壬子年三月一日 竹内金明」

「丑寅日本記 第十」“天皇記行抄一”
 「(前略) 抑々、天皇記、に創まれる記行の筆頭にありては、耶靡堆国、筑紫国、琉球国、南海道国、淡志国、那古国、越国、出雲国、高嶋国、日本国、日高国、流鬼国、千嶋国、佐土国、対馬国、伊治島国、隠岐国、壹木国、坂東国、高砂国、の二十国なり。此の国々、島国、治むる国主の基に二百七十八主の族長ありて、各々睦みぬ。即ち、族長の基になる民は、海部、狩部、稲部、織部、工部、式部、卜部、船部、杣部、河部、あり。その他、馬飼、鵜飼、犬飼、鷹飼、魚飼、鶏飼、あり、更に塩造、玉造、器造、木造、土造、橋造、酒造、車造、鞍造、荷造、網造、炭造、石造、糸造、皮造、鍬造、らあり。是を部の民、造の民とて、営を譜代せり。防人は民、皆兵として急挙に臨めり。討物は、常にして各々備へたり、弓箭、矛、腰刀、楯、ら士気に委せて士風に造り、砦、物見、見告、攻防は族長にして指揮せり。
 主系の累代を定むるは長老の選にて位し、衆に引導秀ならざる者は、旧主の子息とて廃せり。世、移りにして国主、族主、併合し、坂東より丑寅を日本国とし、赤間に至るを耶靡堆国とせり。亦、筑紫を邪馬壹国とて、三王国にて併せしも、耶靡堆は、木国、那古国、越国、出雲国、浪速国、高島国、南海道、とて分岐し、筑紫にては、奴国、熊襲国、日向国、薩陽国、隼人国、に相分岐して、常に攻防をくりかえせり。
 丑寅にありき日本国、耳治安し、民の生々能く富めり。 (原漢書、天皇記)
   正平六年十月二日
         三河住 橘秀継」

「丑寅日本史総解」“日本国号由来”
「(前略) 日本国たるの国号にて、倭国と国を異にせるは、天皇記及び国記にて明白なり。然るに、此の天皇記、国記、ぞ倭朝に無かりけり。大化乙巳の変にて蘇我蝦夷より奪取せんとて、蘇我氏を天誅に中大兄皇子の宣を奉じて、甘橿丘を攻め、蘇我館に火箭を放ってるも、その参謀に当りたる船史恵尺が火中より得ること能はざりきと世に伝ふも、蘇我蝦夷は是事の起らんを覚りて、坂東なる荒覇吐神社へ移密保護し置けり。依て、蝦夷の墳墓までもあばかれ、その玄室は風雨に今尚さらされけむ。爾来、奥州を化外、外民蝦夷とぞ国号せしは通常と相成りぬ。
 天皇記及び国記ぞ、東奥にありて世に顕れずと、世に伝ふなり。右、坂東記より。
 寛文二年正月三日  浅利与之介」


ここで私の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。「第三の竹内文書」――――それが、和田家文書に収録されているのではないか、というものである。
 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(5)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)10時37分7秒
編集済
  もうすでに偽書説は成り立たない。偽書説を主張する者は気違いだ。

ところで、この和田家文書に『天皇記』が引用されている。これについて検討してみよう。

「丑寅日本史総解」“荒覇吐要源抄”
 「(前略) 天皇記に曰(いわ)く一行に記述ありきは、高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇(たか)し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻(おおあさ)を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
 高砂(たかさご)族と曰ふ(いう)も、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ(いう)支那仙霞嶺麓(せんかれいろく)、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ(いう)。
 筑紫の日向(ひむか/ひゅうが)に猿田王一族と併(あわ)せて勢(いきおい)をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼(か)の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以(もっ)て造(つく)りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀(はか)れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚(さと)る故(ゆえ)に、地民をその智覚を以て惑(まどわ)しぬ。例へ(たとえ)ば、天岩戸(あまのいわと)の神話の如(ごと)し。
 当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒(さぬ)と称し、耶靡堆王阿毎(あめ)氏を東征に起(おき)ぬと曰ふ(いう)は、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふ(いう)なり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光(きたばたけ-あきみつ)」

「丑寅日本記」第七“天皇記、国記、之抄”
 「(天皇記)倭国第一世之天皇以宗国(支那国之事)武帝之永初二年二月十日為倭国之応神天皇還難波之津都宮云々。
 (国記)夫倭之国異丑寅之日本国其領界坂東之阿毎川東海水戸越之糸魚川西海水戸横断東北堺西南堺相裂堺在是可云々。
 即ち、天皇記とは、蘇我氏に公蔵されし、天皇秘書なり。国記また然(しか)りなり。然るに、由(よし)ありて、平将門の手に入りて、豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし将門の遺姫(いき)に届けしものと曰ふ(いう)。大巻の書なり。
    文正丙戌年二月七日
             竹内宗達

 追而(おって) 天皇記は東日流の石塔山に平楓姫(たいらのかえでひめ)奉寄せりと曰ふ。余、是(これ)を写したるものなり。
 右、追而如件(くだんのごとし)。       宗達」

「丑寅日本記 第七」“丑寅日本国史抄”
 「倭国の天皇記に曰(いわ)く。唐津(からつ)より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて、兵を遣(つかわ)して敗(やぶる)るが故(ゆえ)に、河内(かわち)王和珥(わに)帝と和睦(わぼく)せんとせるも、和珥帝、元より膽駒(いこま)王富雄郷之長髓彦(とみおのさとのながすねひこ)系なりせば、春日穂無智別(かすがのほむちわけ)を遣して崇神天皇を討伐せり。
 和珥帝に縁(よ)れるは、宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏、ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相争ふ(あいあらそう)たり。
 崇神天皇に加勢せるは、葛城(かつらぎ)王にて、日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井(いわい)氏に滅亡さるまま崩滅せる後を猿田氏が地配せり。是また薩陽王、隼人(はやと)王、併軍押領(おうりょう)に屈したり。
 筑紫にては熊襲(くまそ)王、邪馬壹王と併せて奴(な)国王を亡(ほろぼ)し、茲(ここ)に立国せり。崇神天皇とは伊裡(いり)王の事なり。天皇系にして、景行(けいこう)天皇、倭武(やまとたける)、神功(じんぐう)皇后、ぞ実在せざるとぞ、天皇記に記述ありき。
   文正丙戌年二月七日
     船史恵尺之流胤 竹内宗達」

 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(4)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)10時25分11秒
  2006年から2007年にかけて、『東日流外三郡誌』及び『東日流内三郡誌』の「原本」が次々と「発見」された。

第一(2006年十一月十日)
「寛政五年七月、東日流外三郡誌 二百十巻 飯積邑和田長三郎」
 第二(2006年十一月中旬)
「東日流内三郡誌 安倍小太郎康季、秋田孝季編」
 第三(同 上)
「付書第六百七十三巻、寛政二年五月集稿、陸州於名取、東日流内三郡誌、秋田孝季、和田長三郎吉次」
 第四(同 上)
「建保元年七月安東七(「十」か)郎貞季殿之軍諜図、東日流外三郡大図、文政五年六月、和田長三郎源吉次(花押)(カラー版)」
 第五(2007年二月上旬)
「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人秋田孝季(第一巻と合冊)」
 第六(2007年六月二十二日)
「(表)水墨画、秋田孝季(裏)視鏡像自筆、千季(花押)」(三枚は薬草の漢方)
 第七(2007年六月二十四日)
「第五百巻之廿三〜廿七、石塔山荒覇吐神社秘伝(白山神、三輪山神、荒覇吐神、天竺神、仏陀、紅毛国神、アブラハム)」

又、その後和田家文書(竹田侑子さん蔵)の中で「秋田孝季・自筆」と見られるものが、有ることがわかった。
第八、詩集『瀛奎律髄・下』「道中慰讀書 孝季」
第九、「護国女太平記巻之十」「孝季記」
第十、「荒木武藝帳 秋田孝季」「安永乙未年月日 秋田孝季(花押)」

現在、和田家文書の写真集が五千円で出版されている。
http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0069
笠谷和比古教授の鑑定付き。

 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(3)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)10時14分24秒
  従って、前記の『判例タイムズ』も「本件訴訟におけるX側の狙いは『写真』『論文』を手掛かりにして裁判所に『東日流外三郡誌』の偽書性を肯認させようとするにあった」と看破し、「控訴し上告しても偽書説への手掛かりを全然残せなかった点で、実質的敗訴感はX側の方が大きかったであろうと思われる。」と評したのである。しかし、上告趣意書だけを読んで高裁判決を読んでいない人には、「仙台高裁が前者(東日流外三郡誌)は後者(野村氏論文)の記述にヒントを得た部分があると認定し、その部分が確定した」という誤解 ーー少しは偽作説の手掛かりを残したのではないかという誤解ーー を与える恐れがあり、また実際そのように偽作キャンペーン側は主張しているのである。

尚、古賀氏はこの「事件」についてこのように述べている。「このような仙台高裁判決文と上告趣意書での引用の差異、すなわち原文改定をわたしは知人からの手紙により知った。本稿執筆に於いてもその手紙の内容を参考にさせていただいた。本来ならばお名前をあげて紹介すべきものであるが、ご迷惑をおかけする(偽作キャンペーンに巻き込まれる)ことを恐れ、伏せさせていただくことにした。ご諒解賜りたい。」

全く、偽書キャンペーンは歴史の謎である。私は『偽書「東流外三郡誌」事件』(斎藤光政)も一応呼んだが、その詭弁的な上手な文章については「さすが左翼!」と感心したのだった。左翼がかつて、自らを「進歩的文化人」とか思い上がったことを言っていたそうだが、これほど詭弁上手なら、確かに右翼より文章力は「進歩」しており、それなりの左翼「的」な「文化」を構成している「人」々であろう。
 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(2)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)10時07分54秒
  さらに呆れるのは偽書派による「上告留意書」である。これについても古賀氏は、
「こうした白を黒と言い含めるような主張は、その後控訴人側から出された最高裁への上告趣意書中にも見られるので、紹介したい。上告趣意書には仙台高裁判決文を次のように傍線まで引いて引用している。なお、当該文書や仙台高裁判決文は『新・古代学』第三集に資料として掲載しているので確認していただきたい。」
と述べ、
 「結局、前者には、後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるというに止まるべきである。」(上告趣意書)
の文を引用した。ここでいう前者とは『東日流外三郡誌』、後者とは控訴人野村氏の執筆になる「論文」であるが、この部分を根拠に偽作キャンペーン側は仙台高裁が「盗用を認めた」としているようだ。しかし、仙台高裁判決文はこのようには書かれていない。当該箇所は次の通りである。
 「結局、前者には、後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。」(仙台高裁判決文)※『新古代学』にひかれている傍点は古賀達也氏による。
驚くべきことに、傍線まで引いて引用した箇所が原文改定されているのである。この「程度」「という」の文字をカットすることにより、文意は巧妙に変質する。高裁判決では、「後者の記述にヒントを得たと見られる」という修飾語は「部分があるという程度」に掛かっており、更に全体を「止まるというべき」という婉曲的表現を用いて、あくまでも裁判所は、前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があると認定しているのではないということをーー神経を行き届かせてーー明示しているのである。
全く、呆れるほかない。
 

頭の狂った偽書派――何故明白な「真書」と偽書とするのか(1)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)10時01分38秒
編集済
  平成九年十月十四日、最高裁第三小法廷。
「主文、本件上告を棄却する。」
 五年に及んだ古文書(津軽、和田家文書)「真偽」裁判に勝訴した瞬間だった。
 事の発端は、古田武彦氏らが紹介された和田家文書が、所蔵者により偽作された偽物で、古田氏も偽作に荷担しているとする、事実無根の誹謗中傷がNHK、TBS等大手マスコミをも巻き込んで始まったことにある。古賀達也氏も実名をあげて中傷され、それを弁護した私もこの掲示板で批判されている。その背後には古代史論争で古田先生に負けた学者達がいた。偽作キャンペーンで古田武彦とその学説を失墜させ、古田説支持者を分裂させることが彼らの真の狙いのようだった。その結果、動揺した支持者の一部が古田氏から離反した。
 一方、所蔵者の和田家は裁判に訴えられ、青森県地元新聞も偽作キャンペーンを展開。そのため、和田家は村で孤立し、子弟は学校でイジメにあった。
「和田家へのイジメを座視するわけにはいかない。」
 古田先生と古賀氏の弁護活動が始まった。和田家文書を古くから知る証人や証拠を求め、津軽半島を何度も行脚した。また、反論のための本(『新・古代学』新泉社)を出したり、裁判所への陳述書を書き、偽作説の「根拠」を一つひとつ覆していった。私はそれでぎしょせつは崩壊したとばかり思っていた。
 最高裁まで争われた裁判は、地裁・高裁も含めて勝利に終わった。この裁判は法曹界でも注目を集めたようで、仙台高裁判決に対する解説が『判例タイムズ』にて次のように掲載された。
 「この事件の甲号証は二百号証を超えたという。判決文から窺われる事案の寸法からはちょっと考えられない数字であるが、結局本件訴訟におけるX側(控訴人、野村孝彦氏側)の狙いは「写真」「論文」を手掛かりにして裁判所に「東日流外三郡誌」の偽書性を肯認させようとするにあったことからの現象であろう。裁判所が判示事項二のように述べてその判断を回避した段階でその狙いの大半は失われた筈であるが、もし、判示事項三が全部排斥でなく、七項目中一つでも剽窃・盗用の判断が出ていたら、判示事項二にもかかわらず、X側は実質上狙いを──論理法則上「偽書でない」という全部否定は一部肯定で崩せるから──達することもできた。
 その意味では、控訴し上告しても偽書説への手掛かりを全然残せなかった点で、実質的敗訴感はX側の方が大きかったであろうと思われる。」(『判例タイムズ』 No.九七六、一九九八年九月)
裁判の専門家である第三者の判断でも、「控訴し上告しても偽書説への手掛かりを全然残せなかった点で、実質的敗訴感はX側の方が大きかったであろう」としていることは貴重である。

ところが、偽書派はいまだに偽作キャンペーンを続けている。(原本が発見・公開された今でも)これを古賀達也氏は次のように言った。「しかし、それにもかかわらず偽作キャンペーン側は「裁判所は盗作を認めた」と白を黒と言い含めるようなキャンペーンを続けたのは、ご存じの通りである。そして今日に至っても故和田喜八郎氏の人権を侵害するような本が出されているが、偽作キャンペーンがいかに悪質で非人間的か、このことからも明かであろう。かれらは手段を選ばないのである。」
 

邪馬台国近畿説の根本的欠陥――これに答えられないものは自説を捨てよ

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)09時55分43秒
  さて、解法者氏もそうだし、歴史の観察者氏もそうだが、彼らは「神武天皇以来、万世一系なる大和王朝」という事実を無視している。このことについて説明できなければ、解法者氏の説は「試案」の域を出ない。

いや、解法者氏は説明できないからこそ、このことを「無視」しているのである。そのことが明確になった。全く「議論錯乱」もいいところである。
 

古田説からは脱却しています

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月28日(月)09時48分40秒
  変わった人もいますね。貴方の脳味噌では小沢も古田も売国奴なんですか?

私はあなたが思っているほど古田氏も支持していませんし、(古田氏はとある仏教系の新興宗教に買収されている、とか)だいたい解法者氏自体、古田説さえも(半周読法)批判できていないのによくそんなことが言えますねえ。

結局、批判ができないから無視しているだけでしょ?「大雑把」な論考なら「大雑把」に批判すればよろしい。
 

悪知恵の働く者がいるもんだ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)23時51分36秒
   みずほ銀行のATMの不具合からお金を引き出せなくなったため、応急措置として銀行カ−ドあるいは身分証明書を提示すれば10万円まで引き出せるようにした。
 ところがこれに便乗して、残高がないのに銀行から10万円を引き出した者があり、合計で2億円あまりにも達したという。なかには5つの支店を回り合計50万円を引き出した剛の者もいたという。立派な「詐欺罪」だ。よくもまぁ、こんなことを思いついた者がいたもんだと感心してしまう。こういうのを「火事場泥棒」というが、それだけ日本人が腐り始めている証左なんであろう。銀行は返済を求めると言うが、まず「詐欺罪」で告訴して逮捕してもらい、名前を天下に公表すべきだろう。
 

原子力安全・保安院は何をしていたのか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)23時50分50秒
   原子力発電所の設置に関する安全基準を定めるのが「原子力安全・保安院」だそうだ。ところが、東京電力の福島第一原子力発電所がご承知のとおり津波で壊滅的被害を受けたのに対し、東北電力の女川原子力発電所は被害がなく、女川町民の避難所となっているという。どうしてこういう対照的なことになったかというと、福島第一原子力発電所では津波の高さを約5・6メ−トルと想定して建設されたのに、の女川原子力発電所ではそれを9.1メ−トルと想定して建設したからだという(産経新聞 平成23年〔2011年〕3月25日〔金〕朝刊 東京第15版3面)。福島第一原子力発電所の隣の南相馬市では津波が約10メ−トルにも及んだというから、福島第一原子力発電所の津波の高さ約5・6メ−トルの想定では一たまりもなかったことだろう。一方女川原子力発電所では主要施設を海面から14.8メ−トルの高さに設置していたため、津波の被害が及ばなかったという。同じ原子力安全・保安院が管理しているのに、どうしてこの差となったのか理解しがたい。
 原子力安全・保安院のホ−ムペ−ジの行動規範の「強い使命感」を見て、思わず笑っちゃった。
★ 原子力安全・保安院のホ−ムペ−ジ
 http://www.nisa.meti.go.jp/genshiryoku/epitome/gaiyo.html
 

何だか理解しがたい

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)23時49分27秒
   「各国の支援行き届かず」と題して日本政府を批判している(産経新聞 平成23年〔2011年〕3月25日〔金〕朝刊 東京第15版6面)。
 これによると、東南アジアのある国が日本に毛布を数万枚送ると申出た。ところが、日本政府はサイズ(80センチ×80センチ)と指定し、送られる予定の毛布が20センチほど規格に合わないとして受入れに難色を示したという。20センチほど長かろうが短かろうが毛布は毛布だ。どうしてこんなことにこだわるのか理解しがたい。きっと頭が四角なのであろう。また、日本から救助犬の派遣を要請され、送り出そうとしたが、空港での検疫に1ヶ月かかる。1週間に短縮できるがその間救助犬を管理できないとして断ったという。救助犬の管理など日本の一般の民間人でも可能じゃないの。また、米の援助を申出た国があり、それも日本人の口に合わないともち米を混ぜる工夫をしていたという。結局、日本には余剰米があるということで、既に空輸準備が終わっていた一部を除いて日本には届けられなかったという。
 善意を踏みにじるものだ。これらの仕業はは頭が硬直している日本の役人だと思えるが、こういう者には、「菅 直人」がお得意の恫喝をしてよい。
 

これが批判だよ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)22時10分59秒
   古田説から脱却できない者は精緻な論考ができない。極めて大雑把。
全く参考にもならない。
 

これには驚いた

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月27日(日)12時50分25秒
  竹下先生>現在の(人皇(にんのう)の)「皇統譜」では、今上天皇で百二十五代ですが、私は実際にはかなり代数が増えると思っています。

例えば、

日本武尊(やまとたけるのみこと)→倭武天皇(やまとたけのすめらみこと)
神功(じんぐう)皇后→神功天皇
菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)→宇治天皇
市辺押磐皇子(いちべおしいわのみこ)→市辺天皇
忍海飯豊青皇女(おしぬみのいいとよあおのひめみこ)→飯豊天皇
間人皇女(はしひとのひめみこ)→中皇命(なかつすめらみこと)=中津天皇
高市皇子(たけちのみこ)→高市天皇?(子の長屋王が天皇の子を意味する「長屋親王」と墨書された木簡が出土)

と言った記述が、『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』や『扶桑略記(ふそうりゃくき)』、その他、諸国「風土記(ふどき)」に散見していますし、後南朝諸帝や蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか 林太郎○○ママ ○○=「天皇」か?)等も含めると、更に代数が増えそうですね。<

倭武天皇は倭健に非ず、間人皇女は中皇命に非ず。高市天皇は九州王朝なので、代数に入れず。市辺天皇(命)は古代怨霊信仰に基づく追号であり、実際には即位せず。

確かに宇治天皇は認められますが、推古天皇以前には女性の天皇は存在しなかったと思います。

以上は竹下先生の説に対する私の考え。

次に聞きたいのは、天武・南朝の扱いについて。天武天皇は天皇家の者に非ず、また私は南朝ではなく、北朝が正当であると考えています。(水戸黄門の気まぐれで南朝が正当になった?)

以上、返事をお願いします。
 

汚い手段ですね

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月27日(日)12時23分3秒
  やはり解法者氏は私を批判するわけでもなく、ただ皮肉を言うだけ。しかも、私の考えも「Nコリアや在日と一緒」であるかのように思わせる、さすが常連だけはあるなあ。見事な手段だ。私が同じことをやったら「出入りお断り」間違いなし。  

倭の五王(75)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)12時21分9秒
  2.「江田船山古墳出土鉄剣」
 獲加多支鹵大王の刀剣といえば、「江田船山古墳」で出土したものがある。
 明治6年(1873年)、熊本県北部に位置する「玉名市」の江田にある「江田船山古墳」から75字の銀文字が象嵌された長さ90.9センチの鉄剣が発掘された。
 「江田船山古墳」は全長62メ−トルの前方後円墳である。5世紀後半から6世紀初頭にかけての築造とされているから、「稲荷山古墳」より少し新しい。古墳の石棺内からは、金銅製の冠帽や沓(くつ)、垂飾付耳飾(朝鮮半島製−「加耶」・「新羅」)、画文帯神獣鏡(中国製)、刀剣・土器(朝鮮半島製−「百済」)、馬具(「鉄製輪鐙」−朝鮮半島製−「加耶」・「新羅」)なども発掘されている(「大山誠一」−前掲書 228頁)。つまり、さまざまな国の物が混在しており、被葬者が「百済」と関係の深い人物(「金 錫亨」など)などと決めつけてはならない。古墳の築造は5世紀末から6世紀初頭にかけてのものとされている(「大山誠一」−前掲書 同頁)。
 鉄剣の両面には文字が象嵌されており、それは次のとおりである。『江田船山古墳出土国宝銀象銘太刀』(東京国立博物舘 吉川弘文舘 1993年8月1日)を参考に判読してみた。
表面(太刀を横から見て、刃の部分が右側に来る)
 「台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名無利弖八月中用大鐡釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀(服)(此)刀者長壽子孫洋々得(王)恩也不失其(能)統作刀者名伊太和書者張安也」
 「天下を治(台)める「獲加多支鹵大王」の世に役所の文書(典曹)を司る(奉事)人、名は「無利弖」(むりて)。8月中、大鉄釜を用い、鉄を混合し(并)4尺の廷刀を80度練り、90度打って(振)製作した。(こうして出来上がったものが)素晴らしい(3寸上好)の刀(刊刀)である。この刀を持つ(服)者は長寿にして子孫洋々、王恩を得る者である。その統治は万全となろう。刀を作る者、名は伊太和、文を書いた者は張安である。」
裏面(太刀を横から見て、刃の部分が左側に来る)
 象嵌された文字は見あたらない。
 

倭の五王(76)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)12時20分10秒
   「獲□□□鹵大王」については、従来は、「反正天皇」と考えられていた。つまり、「蝮宮彌都歯大王」(たじひのみやみずわけのおおきみ)=「反正天皇」と考えたのである(「朝日新聞」昭和53年〔1978年〕9月20日 朝刊 東京13版 1面、「井上秀雄」−「鉄剣を朝鮮金石文と比較する」〔『鉄剣文字は語る−115文字が 明かす古代史の謎』171頁〕、「岸 俊男」−『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』96頁)。これが今度
の「稲荷山剣」で瓦解したのである。
 これを以って、「李 進熙」は「反正天皇」と言っていたのに、今度は「雄略天皇」だと言うことを非難している(「毎日新聞」昭和53年10月24日 夕刊 東京2版 5面)。確かに、これまで「江田船山古墳出土鉄剣」の「獲□□□鹵大王」を「反正天皇」としていた研究者は非難されなければならないが、誤りを認めることは恥ずかしいことではない。むしろ、あの「広開土碑文」や「七支刀銘文」の<偽造>をさんざん言い立て、それが研究者から批判の嵐で賛同者がおらず、自説が瓦解しているのもかかわらず、なお、自説に固執していることこそ<反省>しなければならない。これについては「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(6)>日本の参謀本部による広開土王碑文の偽造説(1)< 以下に詳細に説明しているので、参照されたい。
 「江田船山古墳出土鉄剣」も「獲加多支鹵大王」(「雄略天皇」(「武」))に奉仕した「無利弖」(むりて)が自己の功績を讃えるために作刀したものである。「獲加多支鹵大王」(「雄略天皇」)の威光が九州にまで及んでいたことを物語っている。
 なお、ここでは「典曹人」とあり、役所の文書(典曹)を司る人を意味するが(「西嶋定生」−『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』100頁、「川勝 守」−前掲書 289頁、「篠川 賢」−前掲書 106頁、「上田正昭」−前掲書 97頁、「吉田 晶」−前掲書 167頁)、「稲荷山古墳出土鉄剣」に「杖刀人」(武人)との対比が考えられよう(「直木孝次郎」−前掲書 114頁、「田中卓」−前掲書 154頁、「川勝 守」−前掲書 同頁)。
 なお「狩野 久」は獄を治める裁判官のような役目だとする(監獄を治める裁判官のような役目だとする(前掲書 137頁、「平野邦雄」−前掲書 127頁)。「川勝 守」は『後漢書』百官志に「世祖凡六曹」とあり、一般的に役所、官属をいうとされ、これを否定している(前掲書 同頁)。
 いずれにせよ、「稲荷山古墳出土鉄剣」も含めて、東西にこうした役目を司る者がいたということは、5世紀後半には日本中に官僚機構が張り巡らされていたことがうかがえ、国家体制が確立していたことを物語っている。

★ 冒頭に掲げた『江田船山古墳出土 国宝銀象銘太刀』はとても克明で、判読するに大変に参考になる。
 

倭の五王(77)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)12時18分23秒
   作刀者は「伊太加」である。これについて、「山本 博」は「伊太祁」であるとし、紀伊
名草郡(現在の和歌山市)に「伊太祁會(いだける)」神社があり、祭神は「五十猛命神」
で、作刀集団の祀る神だったという(『古代の製鉄』学生社 1975年9月25日 122頁)。
そう考えれば「雄略天皇」が九州の有力豪族に下賜した太刀であろうとする(「川勝 守」−前掲書 290頁)。しかし、銘文からはそうは読めない。「無利弖」が作刀したもので
ある(「武光 誠」−前掲書 186頁)。被葬者も「無利弖」である(「篠川 賢」−前掲書
107頁)。
 書者は「張安」である。渡来した漢人か、朝鮮人であろう。『日本書記』雄略天皇2年冬10月条に「史部」とあり、これは「文書を扱う部署」を意味する。同じく「史戸」とあ
るのも「史部」を養成する部民をいうものと思われる。なお、同じく「史部」に所属する者が「青」・「博徳」とあることから、渡来した漢人か、朝鮮人であると考えられる。
 このことは、「稲荷山古墳出土鉄剣」と銘文の内容と相まって、大和朝廷において武官・文官の官僚組織が整備されていたことを物語っている。被葬者は九州の有力豪族で中央に
出仕した者であろう(「吉田 晶」−前掲書 167頁)。「稲荷山古墳出土鉄剣」での「乎獲居臣」(中央豪族)との差は、「乎獲居臣」の系譜、「吾左治天下」などによる。
 なお、わが国にいつごろから、官僚制度が芽生えたかについては、「崇神天皇」の10年秋7月己酉条の「四道将軍」が派遣され、その効果が翌年に現れ、12年秋9月己丑条に「調役」が始まったことが記され、このころ(3世紀後半)からと考えられる(「川勝 守」−前掲書 291頁)。「鬼頭清明」は「雄略天皇」の時代になっても「国家的官僚機構」が存在したとは考えられない(「8世紀までの日本列島」〔『岩波講座 日本通史 第2巻 古代 1』朝尾直弘・網野善彦など 岩波書店 1993年10月22日 61頁〕)としているが、前述の理由から、採り得ない。
 

倭の五王(78)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月27日(日)12時17分29秒
   ここでも朝鮮人研究者から<荒唐無稽>な見解が提議されている。「台天下獲□□□鹵大王世奉事」を「治天下復百済蓋鹵大王世奉為」(「蓋鹵王」−第20代王〔在位期間 455年〜475年〕と読むのである(『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』江田素里奈 五月書房 2007年8月27日 168頁−筆者は日本に帰化した朝鮮人)。これはとんでもない<偽読>である。前述の書籍を見ても、どう見ても「百済蓋」などとは読めない。この部分は判読不明である。こういう話になると必ず出現してくるのが、「李 進熙」と「金 錫亨」である。
 「金 錫亨」は、同じく「百済蓋鹵大王」とし、「百済王」が北九州の王者に下賜したものだとする(『古代朝日関係史』勁草書房 1969年10月30日 243頁)。刀剣の他の出土品が朝鮮半島のものである、名文に「八月中」の「中」とあるのは、朝鮮語の「吏読」の証(「中」=「に」)である、というのを傍証とする。「李 進熙」も「被葬者は大和政権と関係がないものと見る。遺物からみて、かえって百済系渡来人か、百済と関係の深い武人的性格が濃厚な人物と見ている」としている(「船山大刀銘の研究上の諸問題」〔『青丘学術論集』第1集 東京・韓国文化研究振興財団 1991年 90頁〕)。しかし、朝鮮半島のものであるとしても色々な国がある。「新羅」のものだという者もいる(「直木孝次郎」、「上田正昭」、「保坂三郎」−「江田素里奈」前掲書 182頁)し、「高句麗」だという者もいる(「金 思ソプ」(「江田素里奈」前掲書 同頁)、「百済」だという者もいる(「崔 夢龍」−「江田素里奈」前掲書 同頁)。それと、遺物の中には明らかに中国(後漢)の鏡があり、その他のものが朝鮮半島のものであるとしても、被葬者が朝鮮半島の者であるとは限らない。当時、先進文化の朝鮮半島の文物は珍重され、権力者の証となっていたのである。「中」にしても朝鮮からのものではないことは、「吏読」の項で説明した。何よりもこうした考えが崩壊したのは前述の「稲荷山古墳」で出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王」と銘があったことによる。「江田船山古墳出土鉄剣」の「獲□□□鹵大王」の欠字が「加多支」であると特定できるからである。
 「稲荷山古墳出土鉄剣」についても<衝撃的>なのか、「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあるのに、まだ、そうは読めないとしたり(「金 元龍」−「毎日新聞」昭和53年〔1978年〕10月13日 夕刊 東京2版 6面)、これを「雄略天皇」でなく「百済」の「蓋鹵王」としたり(「李 進熙」−「毎日新聞」昭和53年〔1978年〕9月20日 朝刊 東京14版 23面)、何でも朝鮮に結びつけ百済系の豪族であるとする者がいる(「江田素里奈」−前掲書 75頁)。どこをどう読んだら「獲加多支鹵大王」が「蓋鹵王」と読めるのか不思議でしょうがない。
 「稲荷山古墳出土鉄剣」の銘文から「江田船山古墳出土鉄剣」が「獲加多支鹵大王」に関係するものと判明して悔しいだろうが、こうなってくると【何が何でも認めたくない教】に取り付かれているとしか言いようがない。副葬品も朝鮮半島製のものは「帯金具」だけである。
 

ちょっと質問

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月27日(日)11時35分12秒
編集済
  「投稿を控える」といっておきながら、これれはなんだとおもわれてりるかもしれない(いや、確実に思っている)竹下先生に、質問があります。

一、竹下先生と河西氏はどちらも保守的な人で、九州王朝説と、意見が似ていますが、お知り合いですか?
二、私は「天の浮船」を気球であると考えていますが、どうでしょうか?(黒歯国との関連も含めて)
三、政治的な活動をする予定はあるのでしょうか?
四、インドネシアの歴史教科書に田中上奏文が載っていますが、やはり東南アジア諸国は反日なのではないでしょうか。
五、私の「暫定憲法論」に対する意見。
六、私の「天皇記」に関する投稿についての意見・評価等。
七、私は昭和天皇は明治天皇の息子であると考えていますが、それに関する意見。

以上、一日一つで返事が一週間かかるのは負担になるかとも思うのですが、七つの質問に答えてください。
 

日野流「日本の生きた歴史」(1)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月27日(日)10時42分54秒
  第一、「纒向遺跡」論

崇神天皇、この人物は「三道将軍」を派遣し、「木津川の戦い」で銅鐸圏を破った、人物です。その崇神天皇陛下の、御稜の近くにあるのが「纒向遺跡」です。

この遺跡、当然崇神天皇の御墓の近くなのですから、「天皇家」のものです。「纒向遺跡」は崇神天皇の遺跡、それが順当な判断、ということになります。『古事記』とも、矛盾しません。

ところが、考古学者の方々は、これを「邪馬台国」の遺跡、とします。若し、そうなら、「大発見」でしょう。「邪馬台国論争」に終止符を打つだけではなく、『古事記』を「造作」とする、「津田史学」の正しさをも証明することになるのです。――然し、実際は…。

この「纒向遺跡」を、「卑弥呼(ひみか)の宮殿」とする時、余りにも「矛盾」が多すぎます。その一つ、それが「古墳」問題です。

『魏志』には、卑弥呼の「古墳」の「半径」が記されています。すると、当然「半径」があるのですから、「円墳」のはずです。ところが、実際には「纒向遺跡」の周辺には、「崇神天皇陵」「倭述百襲姫陵墓(箸墓古墳)」「景行天皇陵」等々、全て「前方後円墳」です。「宮殿」があっても、肝心の「墓」が存在しない、という「奇妙」な事態となってきたのです。

一方で、これを「崇神天皇の宮殿」と解釈すれば、どうか。すると、全てぴったり、「矛盾」はありません。(前述)つまり、この「纒向遺跡」は「卑弥呼の宮殿」に非ず、「崇神天皇の宮殿」であったのです。

第二、「江田船山古墳出土鉄剣銘文」論

「江田船山古墳出土鉄剣銘文」、これにはとある「大王」の名が記されていました。ところが、その肝心の「大王名」が「欠けていた」のです。

以下はその原文です。

台(治ヵ)天下獲□□□鹵(西ヵ)大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和ヵ)、書者張安也

このように、「欠字」だらけの銘文、それを通説では「雄略天皇」としてきていました。然し、それは無理です。

http://6207.teacup.com/stromdorf/bbs/716

それはあくまでも「稲荷山古墳出土鉄剣銘文」からの、「推測」にすぎません。「雄略天皇=日本全土(関東から九州まで)の支配者」と考えなければ「不可能」な解釈です。然し、その「雄略天皇=日本全土の支配者」という「前提」も、揺らぎつつあります。

それについては、また今度述べます。
 

纒向遺跡は天皇家の遺跡

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月27日(日)10時02分0秒
  投稿を控えると言っておきながら、これは何だ、と、皆さんは起こられるかもしれない。然し、解法者氏の説の根本的欠陥、そして、氏が一度も私に反論しなかった問題点を指摘しなければならない。

>「邪馬台国」=「大和」の有力な考えの的となっているのが「纒向遺跡」(マキムクイセキ)である。これはJR桜井線の「巻向駅」の近くの「纒向川」の辺(奈良県桜井市)にある。近くには「崇神天皇陵」や「景行天皇陵」がある。ここは1971年から橿原考古学研究所によって発掘調査が行われているが、近年次第にその規模が明らかとなっている。この遺跡は2世紀末〜4世紀末(弥生時代末期〜古墳時代初期)にかけて存在したとされている。<

私はこれを天皇家の遺跡であると解釈する。然し、解法者氏は邪な馬の国の遺跡であるとする。なぜ?どうして邪馬台国になる?津田左右吉じゃあるまいし、自ら右翼を名乗る解法者氏が、何故天皇家の遺跡と考えないのですか?(念のために言っておくが、『古事記』には卑弥呼などいない)

この遺跡の調査で分かったこと、それは「天皇家の歴史」であり、「邪馬台国の歴史」ではない。何故そんなことがわからないのか。

もうひとつ、歴史の観察者氏もそうだが、貴方方は九州に纒向以上の遺跡が見つかったら、九州説になるのが科学的だとお考えか?そうではないだろう。『魏志』の解釈の結果、「邪馬台国は大和だ」とするのなら学問的であるが、「ヤマトは日本で一番大きい遺跡がある=そここそ邪馬台国だ」は単なる「邪馬台国信仰」である。

 

投稿を控えます

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月27日(日)09時49分29秒
  また歴史観察者氏が詭弁を言っているが、題名を変えて引用するアホがいるか!それは解法者氏の「邪馬台国」を批判するふりをしておきながら、実際にはその憲法論を批判するようなもの。

等々、いろいろときみつる会(極右のカルト団体である。その問題点はすでに指摘した)の信者らしき人物を批判したいのであるが、竹下先生の過去ログの更新が遅れているゆえ、先生の負担を少しでも減らすために投稿を控えることにした。
 

だからダメなんだ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月26日(土)21時50分57秒
   被災地から避難する人たちにホテルや旅館を提供するために、1人当たり1泊5000円(3食付き)でそこを借り上げるという(讀賣新聞 平成23年〔2011年〕3月26日〔土〕朝刊 東京第14版1面)。実家は地方都市でホテルと旅館を経営しているから言うが、これではどのくらいのホテルや旅館が応募するか? こんなところをケチらないで、1泊10,000円(3食付き)だったら応募殺到だろう。被災して大変苦労しているから、これくらい出しても良いのではないか。ホテルや旅館は大きな風呂も娯楽施設もある。被災者は身体も心も休まるだろう。こんなみみっちいことだからダメなんだ! ホテルや旅館が儲けすぎだって? 良いじゃないか。ホテルや旅館ばかりが儲かるのではない。食材を提供している者も儲かる。蒲団を新調するかもしれない。裾野も儲かるのだ。ほんの少しだが、経済活性をもたらすかもしれない。  

ボランティア

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月26日(土)21時39分19秒
   「辻元清美」などというボランティアに名を借りて反政府ビラをまいたり、自衛隊を揶揄したりした者などを登用するより、新潟の中越地震の際に旧山古志村村長だった「長島忠美」自民党衆議院議員や阪神淡路大震災・中越地震のボランティアの中心人物を登用した方がより効果的だと思えるが・・・
 それと被災地で役場の職員が被災して死亡したり行方不明になって大幅に不足しているという。これも過去に震災にあった地方の公務員を動員したらよいと思うが、どうなっているんだろう。
 

政治主導

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月26日(土)21時38分40秒
   政治主導、とても響きが良い。こういう言葉には無知蒙昧な国民も騙されがちだ。
 しかし、長い間野党で離合集散を繰り返して政権を担ったことのない民主党にこれができるはずがない。にもかかわらずこれに乗っかった国民の離反を恐れてなおも政治主導に固執するから、実務経験が豊富な官僚を登用できない。
 国民にも言いたいが、官僚叩きは敵を身近に見つけて気分が良かろうが、いい加減にしないとダメだ。日本の官僚がいかに優れていたかは朝鮮・台湾の統治で実証済であるばかりか、戦後の復興でも官僚が大きな役割を果たしたと考える。今回の震災で混乱しているのは、政治主導もままならない民主党政権が政治主導にこだわり官僚を登用しないからでもある。
 なお、政府は組織ばかり増やし政治家を登用しているが、経験のない政治家を登用するだけ無駄だし、組織を増やすことは会議ばかり多くなり、会議は踊り小田原評定に陥ってかえって混乱が増す。こんなこともわからないのかと失笑を禁じ得ない。
 韓国の軍人に「日本は政治がダメでも官僚がシッカリしているから良いが、韓国は官僚がダメだから政治がダメだとたちどころに国が混乱する」と言われたことがある。この方は日本統治時代を生きてきた方だから身をもって体験したのであろう。この方が言われたとおり、韓国は1995年のIMF危機で沈没してしまった。今から考えても慧眼だった。
 

元凶は岡田幹事長

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月26日(土)21時38分0秒
   前にも指摘したが、岡田民主党幹事長は「一言居士」、「原理主義者」と言われている。なかなか持論を曲げないという意味だろう。
 未曾有の国難に直面している。こういうときには与野党を問わず人材を集めて国難に立ち向かっていかねばならないことは誰しも思いつく。その要は幹事長にあり、党内をまとめて首相に進言し、野党の協力を進める立場にある。ところがこの男、民主党のマニュフェストの三大バラマキ(子供手当て、高校無償化、高速料金の無償化)になお固執している。これは野党が最も反対しているところだ。したがって、野党の協力を得て国難に立ち向かうには、これを凍結し対立をできるだけ少なくしなければならない。こんなことは子供でもわかるが、当の本人はわかっていないらしい。
 持論を曲げないというのは聞こえが良いが、<頑固は頑迷に通じる>ということを理解できてないようだ。
 彼を幹事長職から排除しないと国難はさらに増す。
 本当に馬鹿な男だ。
 

邪馬台国(49)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月26日(土)15時32分5秒
   この「纒向遺跡」の大型建物の南側より祭祀の供え物と見られるマダイ・アジ・サバなどの近海魚のほかコイ科の淡水魚などの魚の骨、鹿や鴨の骨も見つかった。栽培植物も多く、イネ・アワのほかウリやヒョウタンもあった。昨年発見された桃の種は2765個もあり、桃の花粉も検出され桃園を営んでいた可能性も出てきた。この「桃」は重要で「卑弥呼」が「鬼道」の際に使用されていた可能性が高い。この「鬼道」とは「道教」のことであるとされ、中国の道教寺院の祭事の際には「桃」が捧げられている。これは「桃」が女性を現し尊いものとされたからである(“邪馬台国を掘る”NHKスペシャル[デジタル1]〔2010年1月24日(日)午後9時〕)。これまで「卑弥呼」はシャ−マンだとされてきたが(『日本の歴史 1−神話から歴史へ−』井上光貞 中央公論社 1965年2月4日 206頁、『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 207頁)、「卑弥呼」が「銅鏡」を使い、それの図像(神獣図)と銘文は 「道教」の証であることから(「新邪馬台国論−女王の鬼道と征服戦争−」久米雅雄〔『北山茂夫追悼日本史学論集』日本史学叢会 1986年1月[『邪馬台国論争』岡本健一 講談社[講談社メチェ 52]1995年7月10日 233頁]〕)、「道教」だったとする考えが有力となっている。
また骨は調理された形跡がなく、祭祀に使用されたものと推測される(産経新聞 2011年1月22日(土)朝刊 東京15版 20面)。いずれにせよ大きな発見であることには間違いない。先に発掘状況は5%に過ぎないと述べたが、今後続々と新発見がなされるだろう。
 

邪馬台国(48)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月25日(金)19時48分0秒
   これをまとめると、@ 集落規模が大きく、弥生時代以来の拠点的な一般農耕集落規模を遥かに凌駕した都市的規模を持っている、A 集落内に非在地性、企画性の高い発生期前方後円墳群を持ち、祭式一切を実現しており、その発生が人為的=政治・経済的であり、かつ初期ヤマト政権の大王墓の成立と一体化していた、B 鍬・鋤の比率からみて農耕具的色彩は希薄であり、逆に大溝の性格が灌漑施設ではなく物資導入水路であることを考え、導入時の多さを加味すると市場を想定させる商業都市であった、C 宮殿や神殿の政治的・祭祀的色彩の強い建物群が存在していた、D 初期ヤマト政権の最初の都宮であった可能性が高い(「纒向遺跡と初期ヤマト政権」寺沢薫〔『橿原考古学研究所論集(第6)』吉川弘文館 1884年[『邪馬台国は二ヶ所あった』大和岩雄 38頁]〕を参考に構成)。これまで「纒向遺跡」の都市的性格を否定する見解があったが(「『図説 日本の古代 4−諸王権の造型』中央公論社 1990年 89頁)、度重なる発掘で完全に否定されたと考える。
 これが「卑弥呼」の宮殿跡であったと考えるのもそう無理ではなかろう。
 

邪馬台国(47)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月25日(金)12時14分31秒
   「邪馬台国」=「大和」の有力な考えの的となっているのが「纒向遺跡」(マキムクイセキ)である。これはJR桜井線の「巻向駅」の近くの「纒向川」の辺(奈良県桜井市)にある。近くには「崇神天皇陵」や「景行天皇陵」がある。ここは1971年から橿原考古学研究所によって発掘調査が行われているが、近年次第にその規模が明らかとなっている。この遺跡は2世紀末〜4世紀末(弥生時代末期〜古墳時代初期)にかけて存在したとされている。その大きさであるが、3平方キロメ−トルで前述の九州の「吉野ケ里遺跡」の10倍であり比較にならない。さらに近くの河川からの溝(運が)が引かれまさに水の都としての体制が整えられ大量の物資を運び込むことが可能になっている。そして、住居として高床式跡と共に竪穴式住居跡も見つかり階級社会があったことが証明された。集落は「太田北集落」・「太田集落」・「箸中集落」が有機的に結合し、その面積は約100万平方メ−トルに及ぶとされる〔「板付遺跡」福岡市[弥生時代前期]はその約100分の1〕。奈良時代の「藤原京」よりもやや小さいという巨大なものであった(『体系 日本の歴史 2 古墳の時代』和田 萃 小学館 1988年1月1日 53頁)。また浄水道設備も備わり人々は都市生活を享受できたのである。宮殿もあったと推測されている。まだ、大規模な集落跡は発見されてないが、発掘状況は5%に過ぎないというから今後さらに新発見があると期待されている。  

?????

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月24日(木)22時05分47秒
  皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)13時38分15秒

<<『■・最も、歴史の観察者氏はときみつる会の信者であることがわかったから、まともな話ができるはずもないのだが・・』>>
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ときみつる会て何やんねん・・???・どこかの歴史よもやま話会ですか? 普通は会員と言って信者とは言わない・・古田教の信者は、あれは歴史ではないの、SF?否妄想信者なの?

私は和田家文書といわれる・・「『東日流外三郡誌』の内容が嘘っ八候とゆうとるだけ。
そんな小便で浸した文書が、和田喜三郎さんが書いたか、奥さんが代筆したか、友人が代筆したものか・・あるいは彼の祖父か、あるいは、秋田孝季さんか、和田長三郎吉次さんか・・そんなこと関係ないの筆跡鑑定、興味がないの『東日流外三郡誌』の内容、最初から
SF雑誌として・・雑誌「ムー大陸」と同じ感覚で読んだ・・77年頃かな?。

そして学会・・マトモな権威あるところ・・全部が冷笑黙殺しとる・・当然や、あれ歴史ではない・・妄想御伽噺や・・こんなもん歴史とゆうとるのとマトモな話ができる筈なし。
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皇国の護国運動家(日野智貴)  投稿日:2011年 3月20日(日)10時41分54秒

<<『■・歴史の観察者さん、私のHNが統一されていないこと、そして、私は今後も統一する気がないことをかつて解法者氏に言いました。ソックパペット疑惑のある人に、HNの統一を求める方が、頭が可笑しい。』>>
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一連の流れを説明しておきます。

●投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)18時21分54秒
「歴史の観察者氏とまともな議論はまともな人には不可能」

歴史の観察者氏は、私が投稿したという次の投稿文を批判したが、実はこんな文章は歴史の観察者氏の頭にしか存在していなかった
私が実際に投稿したのはこれである。

今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月12日(土)09時39分45秒

○播州人の私は、自身の存在を知らなかった。そして、親戚のいる地域に津波「注意報」が出ていると聞いて、テレビを見ると「これは夢ではないか?」と思った。然し、夢ではなかった。驚いた。
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皇国の護国運動家は、私が実際に投稿したはこれである
「今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月12日(土)09時39分45秒」

と、投稿者護国と皇国の護国運動家は同一人物であると自ら認めている・・・
だってそうだろ・・  私が実際に投稿したHN護国は?と言っているのであるから。

そして、その表題に「今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 」とはっきりと、地震と菅直人の関連を、自ら認めた護国=皇国の護国運動家は述べている。

だから、「今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月12日(土)09時39分45秒」
この表題の「菅と地震」をくわしく引用するために、護国=皇国の護国運動家の投稿の

   RE:準戒厳令の布告 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)11時40分52秒

『■宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。』
と彼の言ったことをそのまま引用しただけなのに?・・。

ところが
、実はこんな文章は歴史の観察者氏の頭にしか存在していなかった
@本文部分が一文字も一致していない
A私がそのことを指摘すると無視する。

とイチャモンつけに来る・・・何を言うてるのさ・・一言一句間違いなく引用してるに・・本文部分が一文字も一致していない? と
いったいどうなってるのさ、この御仁の頭・・2・3日前に御自分の投稿文さえコロリと忘れてる・・
あまりアルツハイマーのボケ頭指摘しても、ROM者から「思いやりがない!」とヒンシュクをくらうから、そーつとしておいたら
今度は「私がそのことを指摘すると無視する」とイチャモンつけてくる

そして詐欺だ!?名誉毀損だ!?、議論錯乱(どっちが? 笑)と来る
ふぇーまともな議論を?・・・いったいこの私、どうすりゃいいのさ?(涙)



 

倭国と日本(19)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)18時42分16秒
  さて、『隋書』「[イ妥]国伝」(以下、タイ国)についてみよう。これまであたかも、この記事が『日本書紀』に対応するかのように記されていた。然し、『日本書紀』をよく見ると、いや、よく見ないでもそれが誤りであることがわかる。

【(推古十五年)大礼小野臣妹子を大唐に遣わす】
【(唐の国書)皇帝、倭…(中略)…遠く朝貢を脩むるを知る。…朕、嘉する有り】

『日本書紀』によれば、隋とタイ国の外交ではなく、唐と倭国の外交であるという。しかも、倭国は唐に「朝貢」したというのである。

これでは『隋書』のタイ国のイメージとはかけ離れているのであるが、論者は年代の一致等から「タイ国=倭国=大和王朝」としてきたのである。然し、これも覆された。前述の「十二年誤差説」である。

これにより、『隋書』におけるタイ国と倭国は別国としなければならない。そのうち、倭国が大和であるのは『日本書紀』より明確なのであるから、タイ国は大和に非ず、という結論になる。実は、それは『隋書』からもわかることなのであるが、こちらは文字通り『隋書』の端から端まで「よく見」なければならない。(続く)
 

倭国と日本(18)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)18時26分26秒
  さて、「多利思比孤を目し」たとされる用明天皇について見てみよう。この天皇は初めて中国と国交を結んだというが、開皇の末には『日本書紀』によると用明天皇はあの世である。

之についても、少し触れたが、「十二年誤差説」というものがある。「継体天皇紀」から「皇極天皇記」に至る、『日本書紀』の年代は十二年ずれているというもので、それを証明する記事は「推古天皇紀」にある。

【(十七年夏四月)「百済王、命じて以て呉国に遣わす。……」】

このように、推古17年に百済王が呉へ使者を派遣した、とある。然し、呉といえば3世紀の国である。

唯一、7世紀にも「呉」は存在した。

【九月辛末、賊師、李子通、江都に拠り、僭して天子を称す。国、呉と号す】『旧唐書』

これは621年のことである。その年の十一月に呉は唐に併合される。つまり、「推古17年=621年」という等式が成り立つ。

『日本書紀』ではあたかも609年であるかのように記されているが、実際には12年も年代がずれていたのである。他にも例があるが、そのようにして考えると、用明天皇は699年に死んでおり、多利思比孤の補佐官であったことがわかる。大和王朝が初めて中国に接したのは用明天皇の晩年、ということになる。


このことは、あのタイ国の問題にもかかわる。
 

倭国と日本(17)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)18時08分14秒
  次は川村氏は『新唐書』が神武天皇より用明天皇以来の天皇家を「倭国」として扱っている、とする。

確かに『隋書』や『通典』ではそうであった。然し、『新唐書』では前述のようにそれを思わせる記事はない。『旧唐書』のあたりから「大和王朝=日本」に変わったのである。(別述)

最後に、川村氏は新唐書では「用明天皇=多利思比孤」と記されていると主張する。それについて検討してみよう。

以下はその記事の原文である。

次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。

之を川村氏は「目」を「自」の誤りとした。そうすると、次のように読み下されてしまう。

【次に用明、亦曰う「自ら目多利思比孤、開皇の末に、初めて中国に通ず」と。】

之では意味が不明である。

また、この目多利思比孤を一種の官職名的な名詞とみなして、用明天皇ではなく、「崇峻〜舒明」の各天皇に欠ける説もある。(「歴史ビックバン」古田武彦『学士会会報』『新古代学』収録)然し、之は管文の決まりを破っている。(この説の根拠の一つとなっている、用明天皇の年代問題については別述)

私は、この「目」を動詞として呼んだ。政治する、助ける、凝視する、といった意味である。すると次のように読み下される。

【次に用命、亦曰う「多利思比孤を目し、開皇の末に、初めて中国に通ず」と】

これなら意味が通る。少なくとも「自ら多利思比孤」などよりわかりやすい。

これでわかるのは、天皇家が初めて中国に通じたのは「開皇の末」(595~600年)であるということだ。つまり、邪馬台国も倭の五王も大和王朝ではなかった、ということになる。

なんと、『新唐書』が邪馬台国近畿説を崩してしまったのである。
 

六世紀から八世紀の日本史の論点

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)17時44分13秒
  >なぜ、「日出づる処の天子」が聖徳太子ではないのか? 簡単な事です。「日出づる処の天子」を名乗った人物は「倭王」、つまり「国王」だったからです。一方の聖徳太子は、「国王」である推古天皇を補佐する「摂政兼皇太子」。たとえ実力が「国王」級だったとしても、日本の歴史書「古事記」や「日本書紀」には「摂政」としか出てきません。決して、聖徳「天皇」とは書かれていないのです。そして、もっと重要な事は、「日出づる処の天子」の「天子」の称号です。「天子」と言うのは、「天なる父」(天帝)より地上の支配権を委託された者の事で、「皇帝」と同義です。日本で「皇帝」と同列なのは「天皇」ですが、では、当時の天皇、推古天皇が「日出づる処の天子」だったのでしょうか?


「日出づる処の天子」は推古天皇か? これもNOと言わざるを得ません。なぜなら、「倭王」の国書が隋の煬帝に届けられた後、隋は裴世清と言う人物を「倭国」に派遣しており、「日出づる処の天子」を名乗った「倭王」とも会っています。その事は隋側の史料にちゃんと書かれています。さて、裴世清が会った「日出づる処の天子」が、もし、推古天皇だったとしたら、隋側の史料にはちゃんと「女王」として書かれた筈です。しかし、なんらその様な記載は見受けられません。三国志の時代から中国側の史料には「倭王」の名前は何人か登場しますが、卑弥呼や壱与と言った「女王」の時は、きちんと「女王」と書かれています。なぜなら、中国は「皇帝」・「国王」イコール「男性」だからです。中国の歴史上、女性が「皇帝」・「国王」を含めて名実共にトップに君臨したのは、則天武后ただ一人です。そんなお国柄の中国ですから、相手が「女性」だったとしたら、卑弥呼や壱与同様、「女王」と書いた筈です。<「.「日出づる処の天子」は聖徳太子ではない!!」竹下義朗

以上は竹下先生の文、われわれ竹下史学の支持者なら、以上の事は脳味噌に入っていることと思います。つまり、タイ[イ妥]国(倭国?)はどこか、九州か近畿か、という問題になるわけですが、先程引用した文、それに納得いかない人(解法者氏、歴史の観察者氏)が近畿説を主張し、私は「倭国は大和、タイ国は九州」と主張し、竹下先生はタイ国は倭国と同一国で九州とされているわけです。

それでは、解法者氏や歴史の観察者氏の説が正しいか、私の説が正しいか、それとも竹下先生の説が正しいか、皆さんで考えてみましょう。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/hi_izuru.html
 

これ以上議論しても始まらない

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)17時29分38秒
  もう邪馬台国に関する議論は充分でしょう。相手の立場はよくわかったと思います。解法者氏は私の説を無視していますが、それなら、解法者氏には批判能力がないということで次に移ります。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/hi_izuru.html
 

新説(2)

 投稿者:歴史の解明者  投稿日:2011年 3月24日(木)17時23分22秒
  さて、次に注目すべきは里程ですが、之は短里で決まりでしょう。とはいっても、それが九州説に有利になるわけではありません。なぜなら、まだ「水行十日・陸行一月」が残っているからです。

之を里程に直すべきではありません。何故なら、半周読法を採用すると、不弥国で丁度一万二千里となるからです。

さて、この水行十日ですが、私は出雲までの旅程と考えます。そして、非大型銅鐸圏を通過しながら、陸行一月して大和に至ったと考えています。(大和も非大型銅鐸圏)尚、これも倭人からの伝聞です。

また、水行二十日で行ける、投馬国は淡路島の事でしょう。そこも非銅鐸圏です。
 

【至】と【有】の違い

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)17時21分52秒
  歴史の解明者氏、興味深く読みました。田中説は私は知っているので。

然し、やはり近畿説は無理ですね。特に主線行程に侏儒國(足崎)や黒歯国(南米)を入れるのは誤りでしょう。何故なら、【至】と【有】の違いがあるからです。

解法者氏の呼び掛けに応じて、この掲示板にいろいろな新説が出ています。然し、これらは仮説として成り立つのだろうか?天皇家と邪馬台(壹)国の関係を無視して近畿説を主張できるのだろうか?神武天皇実在説を主張しながら、神武東征後の大和に卑弥呼(ひみか)なる人物がいたとする、解法者氏の論考、一読する価値はあるが、肝心の邪馬台国と天皇家の関係については触れられていない。そこが私の疑問なのである。

 

新説(1)

 投稿者:歴史の解明者(観察者に非ず)  投稿日:2011年 3月24日(木)14時22分33秒
編集済
  私は田中重弘氏の『諸葛孔明と卑弥呼』を読み、不弥国放射式独法による近畿説の存在を知りました。その後、古田説や日野説を読むと、違いは奴国の解釈だけだと気付き、新たな近畿説を提唱しました。

私はあらためて、先行動詞があるものとないものを並べてみました。その結果、以下のようになりました。

A型(先行動詞有り)
・循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
・始度一海、千餘里至對馬國
・又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
・又渡一海、千餘里至末盧國
・東南陸行五百里、到伊都國
・東行至不彌國百里
・女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
・又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里
・又有裸國、K齒國復在其東南、船行一年可至

B型(先行動詞無し)
・東南至奴國百里
・南至投馬國、水行二十日
・南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月

里程は魏の使者が実際に行ったところ、日程は倭人からの伝聞とすると、邪馬台国の位置に混乱があってもおかしくありません。邪馬壹国の記事は日程で、しかもB型、つまり傍線行程なのです。
 

RE:邪馬台国(46)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)14時06分17秒
  >。「邪馬台国」が「筑前」・「筑後」だったとすると今度は『三国志』魏志倭人伝の旅程表と整合しない。「邪馬台国」が九州にあったと考えは無理だと思える。 <

何故ですか?私の「邪馬壹国」に関する論考を読んでください。私は古田と同一人物ではないのです。
 

わかりました

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)13時55分52秒
  失礼、若し解法者氏が邪馬台国近畿説を立証すれば、九州王朝説は崩壊します。楽しみに待ちましょう。
http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/7171
今回の地震で、多くの人々は中華人民共和国日本自治区長菅直人の指示を離れました。解法者氏も石原都知事を支持したとあれば、以上の論考も争点にはなりませんね?
私は帝國電網省で自主憲法草案を憲法記念日までに作ることを提案しましたが、来年の記念日にしましょう。
私の邪馬台国(壹でも台でもいいでしょう)に関する論考はすべて完了しています。後は解法者氏の批判を待つだけ。なるべく早くお願いします。
 

今は「邪馬台国」

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月24日(木)13時44分25秒
   『新唐書』日本国伝と『旧唐書』倭国伝
論考は終わっているが、今は今は「邪馬台国」
憲法もお休み。
 

反論できない解法者

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)13時38分15秒
編集済
  私は、憲法論議を除いて、解法者氏の批判を一度も受けたことがない。『皇国史論・邪馬壹国編』への「直接の」批判はいまだ存在していない。とはいっても、解法者氏は常連だから無視する権利はあるのだろうが、解法者氏ぐらいかしこい人なら和田家文書が本物とわかっているはずなのに全く触れていない。確信犯か?

追記

失礼しました。今は邪馬壹国に関する論考に専念すべきとの解法者の意見は正論です。歴史の観察者氏との議論もこれで破綻しました。今回は『魏志』のみに専念します。(最も、歴史の観察者氏はときみつる会の信者であることがわかったから、まともな話ができるはずもないのだが)
 

死者、二万六千人を超す

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月24日(木)13時35分10秒
  大東亜戦争以来だ。(太平洋、と言ったら左翼扱いされる)

放射能にこれだけの死者、最も大東亜戦争の死者はけた違いに多いのだが、私にはやはり神風特攻隊で無くなった英霊が、菅直人に怒って天罰を下したとしか思えないのである。
 

邪馬台国(46)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月24日(木)12時09分37秒
   さらに論を進める。祭事器具(青銅器)の分布である。これについては前記のとおり九州の「銅剣」・「銅鉾」・「銅戈」文化圏、大和の「銅鐸」文化圏と説かれる(井上光貞−前掲書 258頁)。
 ここでは、北部九州の甕棺墳墓に副葬されていた「鏡」・「剣」・「玉」が、初期古墳の副葬品になっており、これが皇室の三種の神器に発展していることから、「倭国大乱」は九州の「邪馬台国」が大和を征服して定着させたものだとする(「須玖岡本出土の鏡片研究−鏡剣玉三器尊重の由来−」中山平次郎〔『考古学雑誌』18巻10号〜19巻3号 1929年〜1930年〕)。あるいは九州の文化の大和への伝播として「銅鐸」を挙げる(井上光貞−前掲書 91頁)。そして「銅鏡」・「銅矛」・「銅剣」も提示されている(森 浩一−東京新聞 1989年4月20日朝刊)。しかし、これらには九州と大和の途中にある独自の文化圏の「吉備」が抜け落ちている(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 309頁)。「吉備」の祭器(特殊台器・特殊壺−壺状のもので近畿・北九州の青銅祭器と異なり独自の祭事器具となっていた)が大和などの畿内に伝わっていたのである(『邪馬台国へのみち』高橋護 岡山県立博物館 1991年、「大和弥生社会の展開とその本質」寺沢薫〔『橿原考古学研究所論集 第4巻』吉川弘文館 1979年〕、『箸墓は卑弥呼の墓か』大和岩雄 大和書房 2004年2月20日 34頁)。北九州の「銅鏡」・「銅矛」・「銅剣」などの祭事器具が大和の「銅鐸」という祭事器具を圧倒したならば、その途中に位置する「吉備」の「特殊台器・特殊壺」という独自の祭事器具をも駆逐していたはずである。しかし、その事実はない。北九州の祭事器具(「銅鏡」・「銅矛」・「銅剣」)が「銅鐸」を駆逐したならば、どうして「吉備」の祭事器具(「特殊台器・特殊壺」)を葬り去らなかったのかを説明しないと北九州の「邪馬台国」の「大和」進出が確信的事実の証明がつかないのでる。
 つまり、祭事器具(青銅器)の分布からは「邪馬台国」=九州と「大和」への進出が証明できないということになると思える。
 なお、「邪馬台国」が九州にあったと考えるにしても、こうした祭事器具(青銅器)の分布からしても「筑前」・「筑後」以外の地域を比定するのは無理だと指摘されている(『古墳時代』小林行雄 青木書店 1961年4月1日 88頁)。それ以外の地、例えば「山門郡」などには祭事器具(青銅器)が発掘されていないのである。巫女とされる「卑弥呼」が君臨していたのであるから祭事器具(青銅器)が使用されたと考えるのが常識というものである。これが発見されないようでは「邪馬台国」を比定できない。「邪馬台国」が「筑前」・「筑後」だったとすると今度は『三国志』魏志倭人伝の旅程表と整合しない。「邪馬台国」が九州にあったと考えは無理だと思える。
 

西壁17面の三角縁神獣鏡

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月23日(水)20時36分49秒
   魔よけでしょう。我が国では「画文帯神獣鏡」より「三角縁神獣鏡」の方が
多いのですね。とすれば「画文帯神獣鏡」の方が古く価値が高かったのではないで
しょうか。だから「画文帯神獣鏡」を被葬者の頭の上に置いたのでは。
 

邪馬台国(45)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月23日(水)20時14分24秒
   ところで、ここでも「銅鐸」は北九州から全国に広まったという者がいる。銅鐸は朝鮮小銅鐸を祖型にして、弥生時代の前期後半から末ころあるいは中期中ごろに製作され、弥生時代終末期から古墳時代初頭には廃絶されたと考えられている。そしてそれが島根・鳥取などの日本海沿岸、同時に廣島・岡山などの瀬戸内海北岸部に運ばれていったと推測できる(『邪馬台国の東遷』奥野正男 毎日新聞社 1982年8月30日 108頁)と考える。
この考えは、青銅器が朝鮮半島から北九州を経由して他の地域に伝わったことを前提としている。
 青銅器の伝播については次項で明らかのように理解されがたい事実もあり、後述するが、
「青銅」(「銅鐸」・「青銅武器」・「武器形祭器」)の総量も「大和」:「九州」=2.5:1となっており、「大和」の方が多い(同 63頁)。どうして貴重な銅の移入地の九州が大和より少ないのかの説明がない。
加えて「銅鐸」について言えば、どうして「銅鐸」が北九州に少ないのか。北九州のものがどうして小型なのか、そして貧弱なのか、についての明確な説明がない。
 この考えは到底採り得ない。
 

黒塚古墳

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月23日(水)16時57分23秒
  黒塚古墳のことが少し出た。私は2度行った。
興味がつのる
埋葬者の一番大事なところ、頭の上に、画文帯神獣鏡1面・・両側に刀1・剣1・・棺外に東壁15面、西壁17面の三角縁神獣鏡・・。

これは何を意味するか?・・
埋葬者は、初代天皇の神武天皇と同名の10代崇神天皇・所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと)の生母(9代開化皇后)イガシコメの弟イガシコオ(倭人伝の倭載斯烏越のこととの説?)とも謂われている・・(定説ではないが)。

かってこの発掘作業にも関係した、奈良県立橿原 考古学研究所長のH氏にも、ある講座で質問した・・大和朝廷の戸籍謄本にも位置づけらる証文33枚をダラダラ並べに扱い・・そのチャクラに画文帯神獣鏡1面を置くは・・創立者の母方の叔父に・・「ここは何を意味するか?」

H氏・・「とても重要な質問だ!」だが現時点ではその仮説が言えぬ・・10年・20年経過すれば新設も出るであろう・・チンプンカンで意味がわからなかった・・この「何故が!?」・・ただの何の意味もない葬式の風習だけであろうか?
この掲示板には歴史・古代史の精通者が多い・・ご教授お願いしたい。



 

邪馬台国(44)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月23日(水)13時18分36秒
   今度は「銅鐸」である。この「銅鐸」は畿内に集中しており、九州には見られない。ところが「銅剣」・「銅鉾」・「銅戈」は前記のとおり九州に集中しており、畿内にはほとんど見られない(井上光貞−前掲書 258頁)。「銅鐸」は祭祀用として用いられたと考えられ、風鈴のように上部の穴から紐で吊るした金属製などの小器をその下部にある紐を振って銅鐸の内側を打ち鳴らして使ったものとされている。この銅鐸は紀元前2世紀〜紀元後
2世紀までの約400年間に渡って使用されたようであるが、3世紀になると突然使用されなくなる。「銅鐸」が土中に埋められた形あるいは破砕された形(西は「久田谷遺跡」〔兵庫県豊岡市〕、「乾谷遺跡」〔徳島県阿南市〕から「纒向遺跡」〔奈良県桜井市〕、東は「藤井原遺跡」〔静岡県沼津市〕まで10ヶ所くらい[『銅鐸への挑戦 4 破壊された銅鐸』原田大六 六興出版 1980年10月20日 71頁])で発見されることから、九州にあった「邪馬台国」勢力が「大和」に進駐してきて「銅鐸」を葬り去ったとする考えがある(『日本古代文化』和辻哲郎 1920年〔井上光貞−前掲書 258頁〕、『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 303頁)。つまり、「邪馬台国」=九州、そして「大和」への東遷の証拠とされているのである(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 248頁)。
「銅鐸」は普段から埋められて祭りのときに掘り出されて使われたという。それは「銅鐸」は今でこそくすんでいるが、製造当時は青銅製のため黄金に光り輝いており太陽の光を浴びて反射し、それによって地霊を鎮めるために地中に埋められていたのである(「復元した銅鐸」久野邦雄〔朝日新聞 1983年2月7日夕刊〕)。したがって土中に埋められて発見されたとしても別に廃棄されわけではなく、しかも明らかに破壊されたものは少なく、これをしても九州から東遷した「邪馬台国」の勢力が「大和」の「銅鐸」を破壊して葬り去ったとは言えないという(「シンポジウム 邪馬台国は東遷したか」〔『邪馬台国は東遷したか』荒木博行・奥野正男 三一書房 1994年9月15日 [佐原 真の発言]133頁〕)。
仮に、土中に埋められた形あるいは破砕されたとしても、明治時代初期の「廃仏毀釈」のように内部から宗教的な考え方が急激に変わって従来の祭祀用具が打ち捨てられたという可能性も捨てがたいのである(「対輪青銅製祭具はなぜ埋められていたか」石野博信〔『東アジアの古代文化』49号 1986年〕)。「銅鐸」の衰退は「邪馬台国」=九州説の根拠と成り得ないと思われる。
★ 銅鐸(参考)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
 

倭国と日本(16)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)13時15分38秒
  川村明はさらに『新唐書』からも九州王朝説は成り立たない、と論証した。それでは、本当に成り立たないか見てみよう。

川村説の根拠
その一、『新唐書』日本国伝と『旧唐書』倭国伝の類似性。
その二、倭国の記事を天皇家の系譜に含めている。
その三、用明天皇の事を「目多利思比孤」を同一視している。

川村氏は精密な論証により「二」を見ちびたうえで、「三」から「タイ国=倭国=日本=大和王朝」としている。その全部を取り上げると、「訳がわからん」ことになるかもしれないので、とりあえず皆さんには川村氏の文を読んでいただくとして、ここでは上記三点の批判を行う。

その一、『旧唐書』との類似性について。

<日夲、古倭奴也。>去京師萬四千里、直新羅東南、在海中島而居。東西五月行、南北三月行。
 國無城郭、聯木爲柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置夲率一人、検察諸部。其俗多女少男、有文字尚浮屠法。其官十有二等。<其王姓阿毎氏。>『新唐書』

倭國者古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。<世與中國通。>其國居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國、皆畏附之。設官有十二等。<其訴訟者匍匐而前地。>多女少男、頗有文字、俗敬佛法。『旧唐書』

この<>内の部分を除くと新唐書」と『旧唐書』の内容が一致する、というのである。

確かにそうだ。「殆ど」同じである。然し、それではなぜ<>内の部分が違うのであろうか?特に重要なのは、<世與中國通。>の部分が『新唐書』には存在しない、という事実である。之は「世世、中国に通ず」と読み下されている。つまり、『新唐書』の日本伝にそれがなく、『旧唐書』の「倭国伝」にそれがあるということは「倭国は中国と通じていたが、日本は世世、中国に通じなかった」という事実を示しているのではないだろうか。

そうやって考えると、川村氏の解釈は大きな誤りがあるように思えてならない。(続く)
 

解法者さん

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時57分40秒
  九州王朝説を批判するのなら、川村明みたいな、私が悪戦苦闘するようなものにしてください。http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

でないと、議論が深まりません。論争大歓迎!
 

倭国と日本(15)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時41分59秒
  『通典』に次の記事がある。

【倭一名日夲、自云「國在日邊、故以爲稱」。】

倭国の別名が日本であった、という。

この『通典』は『旧唐書』より成立年代が早い。つまり、中国史書における大和王朝の表記が「倭」(『隋書』)か、それとも「日本」(『旧唐書』)カの中間地点にあるわけだ。

川村明は次のように論じた。

1、「倭、一に名づく日本」とあることから、倭国と日本は同一国である。
2、従って、『旧唐書』の内容は誤りである。
3、そのことから、『旧唐書』を基にした九州王朝説は成り立たない。

それでは、この『通典』における倭国とは何か、から考えてみよう。

まず、九州王朝とするのは不可能である。なぜなら、この『通典』は唐のころの成立であるからだ。同じ唐のころに成立した『隋書』では九州王朝を「タイ[イ妥]国」大和王朝を「倭国」とするからである。

すると、『隋書』の後に成立した『通典』も「倭国=大和王朝」ということになる。そして、「実は倭国の別名は日本でした」というのが、先程あげた【倭一名日夲】の意味であったのだ。

こうしてみると、大和王朝には「倭国」と「日本」の両方を名乗っていた時期があったことになる。こうして、川村明の「九州王朝説批判」は呆気なく崩れたのであった。
 

倭国と日本(12)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時14分45秒
  唯一の問題が『百済本記』にある。継体紀の「日本天皇」問題だ。

二十五年春二月、天皇、病甚し。丁未(七日)、天皇、磐余玉穂宮に崩ず。時に年八十二。
冬十二月丙申朔庚子(五日)、藍野陵に葬る。
或本に云はく「天皇、二十八年歳次甲寅、崩ず」と。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩ずと云へるは、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云はく「太歳辛亥三月、軍進みて安羅に至り、乞[宅-宀]城を営る。是月、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず」と。此に由りて言へば、辛亥歳は二十五年に当る。後に勘校へむ者、知らむ。

これを整理すると、以下のような状況だ。

1、国内伝承では継体の没年は二十八年甲寅の歳(五三四年)だった。
2、百済本記には辛亥の歳(五三一年)に「日本天皇、太子皇子が崩薨」とあった。
3、書紀編者は迷ったが、百済本記の記載に従い、二十五年(五三一年)を継体の没年と定めた。
4、書紀編者はなおも疑問を残し、注としてこれを付した。
5、またその際に次代の安閑の即位年は、「国内伝承」のとおり甲寅歳(五三四年)としたため、三年の空位期間が生じたが、これもそのままにしておいた。

 

倭国と日本(13)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時13分16秒
  さて、ここの日本は、やはり天皇家であろう。ところが、この百済本記の記載は、国内伝承と真っ向から対立する。単なる没年のずれだけではない。天皇・太子・皇子がともに死亡、これは大事件である。「日本」史上、稀に見る大事件だ。ところが国内にはそんな伝承のあった形跡はない。それどころか、「太子」安閑は即位、「皇子」たちには宣化・欽明といった天皇達がいていずれも当然即位している。健在だ。この両者(国内伝承と百済本記)の食い違いは、どういうことなのだろうか。この継体没年に関する書紀の「混乱」に加え、いわゆる「仏教公伝」の年次の矛盾(書紀では欽明十三年壬申、上宮法王帝説他では、欽明の戊午年とする。書紀では欽明紀に「戊午年」はない)から、様々な説が出されている。

1.平子鐸嶺説
上記の書紀の記載や、継体二十三年に没したとされる巨勢男人が安閑紀においても「大臣」であったとすることから、継体二十三年はすでに、安閑の治世に入っていたとし、安閑・宣化両朝を継体紀末尾に組み入れ、「百済本記」の「日本天皇」は実は宣化崩年である、とする。(継体没年=五二七、安閑元年=五二八、宣化元年=五二八、欽明元年=五三二とする)
2.喜田貞吉説
上宮聖徳法王帝説に、欽明の治世を四十一年とするところから、これを認めて、欽明の即位年を五三二年とし、継体没後、欽明が即位したものの、その即位を認めない勢力がいて、安閑・宣化両朝が起こったとする。「二朝並立」である。
3.林屋辰三郎説
「二朝並立説」を更に推し進め、継体時代の「内乱・反乱」の情勢から、「二朝並立」に至ったのだとする説。
主なところは、この辺りだろう。いずれにせよ、この「継体紀末」の書紀の混乱を収拾しようとして、たてられた説である。しかし、古田武彦の指摘するとおり(『失われた九州王朝』)、いずれも、「日本天皇太子皇子倶に崩薨ず」の文面を説明できない。結局は、このような情勢だったから、「誤伝」もあったのだ、というに過ぎない。一方、その古田武彦は、「百済本記」の「日本」を九州王朝を指すと見なした上で、「日本天皇」は筑紫君磐井その人であるとする。

すでに述べているとおり、「百済本記」の「日本」は近畿天皇家を指すべきだと見られるから、古田のこの説には従えない。逆に、ここの「日本」が実は九州王朝を指しているのだとしよう。ならば、必然的に以下のように考えざるを得ない。「書紀編者は、「百済本記」の「日本」が九州王朝を指していることを知らなかった」これである。「百済本記」の「日本」が九州王朝を指すのであれば、当然ながら、この「日本天皇」が継体ではなく、九州の王者を指すこと、古田の論じたとおりだ。ところが、書紀編者は「日本天皇」が近畿天皇家を指すことを疑っていない。疑っていないからこそ、惑い、「後に勘校へむ者、知らむ」という異例の形式を取らざるを得なかったのだ。もしも、それでもなお、「日本」が九州王朝を指すのであれば、書紀編纂の過程を知る貴重な史料だ。「故意の盗作」ではなく、「過失」である。

だが、事実はそうではない。欽明紀の本文に見えるとおり、書紀は敢えて、欽明天皇と九州王朝の王者を同一視しようとしている。だが、実際は、欽明その人こそ、「任那日本府」を統括し、「天皇」や百済側と対立した「王」だったのである。従って、私は、ここで書紀編者が「戸惑う」事実こそ、「百済本記」の「日本」が天皇家を指している証拠。そのように見える。

 

倭国と日本(14)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時12分16秒
編集済
  私は以下のように考えている。

(1)古田の指摘するとおり、「天皇・太子・皇子倶に崩薨」という事態は尋常なものではない。従って、これがそうたやすく「誤伝」され得るものではない。
(2)継体の没年は「国内伝承」のとおり、甲寅年が正しい。これを、辛亥年に切り替えた為に矛盾が頻出したこと、書紀編者の語るとおりだ。
(3)継体の在位年数の二十八年は、疑問である。なぜなら、この時代はちょうど「二倍年暦」と「通常暦」の境界にあたる。継体の没年齢(書紀では八十二歳、古事記では四十三歳)を考えれば、書紀の記載は「二倍年暦」によっていると見なされる。従って、即位年は、書紀の記載よりも時代が下る可能性がある。
(4)継体の即位は「不法の簒奪」であった可能性が高い(武烈悪逆記事問題。古田武彦『日本列島の大王たち』参照)。少なくとも、異常な即位だった。従って、武烈の一族は、継体によって全滅させられた可能性がある。
(5)推古朝の「十二年のずれ」問題(古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』参照)が、継体紀まで遡る可能性がある。欽明・宣化・安閑・継体・武烈の書く天皇の即位・没年が十二年下る可能性があるのだ。
(6)3と5から、五三一年は実際には武烈の治世ではなかろうか。「日本天皇」とはすなわち、「武烈」である可能性があるのだ。

もっとも、これは、推測の域を出ないものだ。ともあれ、やはり、この「日本天皇」を継体と見なすことは出来ない。その一方で、九州王朝の王者と見なすことも、書紀編述の姿勢からいっても、認められないのである。要するに、結論は保留、としておきたい。

次は『通典』の解釈である。之は川村明から九州王朝架空の証拠とされてきた。また、今回参考にした川西氏も触れていない。古田氏は詭弁でごまかしているようにも見える。従って、私の解釈は新説となる。批判があれば遠慮なく言ってほしい。
 

倭国と日本(11)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時07分58秒
  では、『日本書紀』を見てみよう。問題となるのは、『日本書紀』における、「百済本記」である。まず、全ての引文を挙げよう。

1、久羅麻致支弥、日本従り来る。<継体紀三年条所引>
2、委意斯移麻岐弥。<継体紀七年条所引>
3、物部至至連。<継体紀九年条所引>
4、太歳辛亥三月、軍進みて安羅に至り、乞[宅-宀]城を営る。是月、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず。<継体紀二十五年条所引>
5、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都等。<欽明紀二年条所引>
6、津守連己麻奴跪。<欽明紀五年条所引>
7、河内直・移那斯・麻都。<欽明紀五年条所引>
8、汝の先、那干陀甲背・加蝋直岐甲背。亦云う、那奇陀甲背・鷹奇岐弥、と。<欽明紀五年条所引>
9、為哥岐弥。名は有非岐。<欽明紀五年条所引>
10、烏胡破臣を召さしむ。<欽明紀五年条所引>
11、安羅を以て父と為す。日本府を以て本と為す。<欽明紀五年条所引>
12、我、留まること、印支弥の後。既洒臣の時に至る。<欽明紀五年条所引>
13、冬十月、奈率得文、奈率奇麻等、日本より還りて曰く「奏す所の河内直・移那斯・麻都等の事、報勅無し」と。<欽明紀五年条所引>
14、十二月甲午、高麗国、細群と麁群と、宮門に戦う。鼓を伐ち戦闘す。細群敗れ兵を解かざること、三日。尽く細群の子孫を捕え誅す。<欽明紀六年条所引>
15、高麗、正月丙午を以て、中夫人の子を立て王と為す。年八歳。狛王三夫人有り。正夫人、子無し。中夫人世子を生む。其の舅氏、麁群なり。小夫人、子を生む。其の舅氏、細群なり。狛王疾篤に及び、細群・麁群、各其の夫人の子を立てんと欲す。故、細群の死者、二千余人なり。<欽明紀七年条>
16、三月十二日辛酉、日本の使人阿比多、三舟を率ゐ来り、都下に至る。<欽明紀十一年条所引>
17、四月一日庚辰、日本の阿比多、還るなり。<欽明紀十一年条所引>
18、筑紫君児、火中君の弟。<欽明紀十七年条>

一見して明らかなように、その多くは「本文の何某と言う人物は、百済本記にはこう書かれている」という、注釈だ。したがって、これらの限られた情報から、「百済本記」の「日本」がいずれを指すのかは、決しがたい。

これが、率直なところだ。

 

倭国と日本(9)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時06分51秒
  2、融天師彗星歌
融天師彗星歌(新羅、真平王(五七九〜六三一)代)
第五、居烈郎、第六、実処郎(一に突処郎に作る)、第七、宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。彗星の心大星(二十八宿の一。心宿。さそり座の中央付近)を犯す有り。郎徒、之を疑い、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師、歌を作り、之を歌う。「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反りて福慶を成さん」と。大王、歓喜す。郎を遣わして岳に遊ばしむ。(このあとに「新羅の郷歌(新羅語の歌)」がある。そこには「倭理叱軍置来叱多烽焼邪隠辺也藪也」とあり、これは「倭軍が攻めてきたとして烽火をあげた国境なのだ」の意)

さて、ここでポイントとなるのは、天師の歌った歌だ。「彗星が心大星を犯す」という天体の状況を目の当たりにして、「これは不吉だ」と感じた郎徒達の「感性」は私達にも容易に理解できよう。だが、これが、なぜ「福慶」を為すという意味となり得るのであろうか。占星術、すなわち天文を専門とした占いの専門技術であるから、私のような素人には判らぬ、と言ってしまえばそれまでなのだが、どうにも、その意味が不明なのだ。そもそも、「彗星が心大星を犯す」がなぜ、「日本兵、国に還り」となるのか。「二十八宿」とは、中国の天文学で、東の蒼龍(角・亢・[氏/一]・房・心・尾・箕)、北の玄武(斗・牛・女・虚・危・室・壁)、西の白虎(奎・婁・胃・昂・畢・嘴・参)、南の朱雀(井・鬼・柳・星・張・翼・軫)である。この中で、「心宿」は東方に属し、この方位は中国を起点にしたものだとすれば、日本列島、中でも東夷の雄・倭国を暗示するものと考えても良いのではなかろうか。(中国では「天官」といい、天空においては「太一(北極星)」を中心とした宮廷(紫徽宮)とそれを取り巻く「衆星」という、政治的な捉え方が特徴である)そこに「彗星」が襲いかかるというのである。天師は、これを「倭国への凶兆」と見たのであろう。では、「日本兵、国へ還り」は、その「凶事の結果」であろうか。もし、「日本=倭国」と見れば、そのようにしか受け取りようが無い。ここで、「日本」と「倭国」をあくまで別国と見た場合には、どうなるだろうか。この場合は、まさに「日本兵、国へ還り」そのものが、具体的な「倭国にとっての凶事」だ。その直後に「反」とあるのがそれである。通例、この「反」は「かえって」「反対に」という意味に釈られているが、本来の用法は「反り返る」「反する」という動詞だ。私はこの一文は、「日本兵が国に還り、(倭国に)反逆して、(我々にとっての)福慶を成し遂げるだろう」という意味に解釈するのが良いように思う。また、この直後に、新羅の「郷歌」があって、ここには、「倭」が使われている。やはり「倭」と「日本」は使い分けられていると見たほうが良いのではないか。いずれにせよ、この真平王の時代は、天皇家で言えば、推古天皇の時代だ。「天皇」号を称し、唐とも独自の外交を開始したと見られる時代である。『旧唐書』の示すような、

「倭国」=九州王朝
「日本」=近畿天皇家

という図式があてはまってもいいように思う。

なお、『旧唐書』や『三国史記』の示す六七〇年というラインは、あくまで、日本列島の中心国が「倭国」から「日本」に変わったと言う意味である。当然、中心権力移行前であっても、「日本」という号がなかった、ことにはならない。

 

倭国と日本(10)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時05分47秒
編集済
  さて、『日本書紀』には三つの百済系史書が引用されている。

・『百済記』…神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。百済の王で言うと、肖古王から蓋鹵王までの九代(三四六〜四七五)。
・『百済新撰』…雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王から武寧王まで五代(四五五〜五二三)。
・『百済本記』…継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王までの三代(五〇一〜五五七)。
これらである。この百済系三書に対する、古田の批判を見よう。

1、『日本書紀』では、神功紀に『魏志倭人伝』の引用が見られる。だが、これは、

(1)『魏志』の「倭女王」とは、卑弥呼であり、卑弥呼と神功皇后とは、別人である。
(2)卑弥呼は三世紀、神功皇后は四世紀の人であり、時代が異なる。

という二点(人物の異同と紀年)で無理がある。従って、同じ神功紀に引用された「百済記」が先の二点(人物の異同と紀年)で正しいか、疑問である。その他の「百済系三書」についても、同じことが言える。
2、よって、「百済系三書」の叙述対象の「倭」が、どの王朝をさすのか、これを慎重に検討する必要がある。
3、「百済新撰」(六世紀の成立と推定)に「大倭」の用語がある。これは、『三国志』の「使大倭」、『後漢書』の「大倭王」の用例に基づいていると考えられる。決して後代の「大倭(大和)」の用例に基づくものではない。したがって、「百済新撰」にいう「倭」は九州をさしている。
4、「百済新撰」の最終記事(五〇二年)と「百済本記」の最初記事(五〇九年)とは、わずか七年であり、両書が「武寧王」について記述している。この点から、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
5、同様に「百済新撰」の最初記事(四五八年)と「百済記」の最終記事(四七六年)が交錯している。また、ともに「蓋鹵王」について記述している。したがって、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
6、さらに「百済記」と『魏志』は同じ神功紀にある。両書の「倭」は同一。少なくとも書紀の編者には、そう見えていたはずである。
7、『魏志』の「倭」は九州王朝である。
8、従って、「百済記」「百済新撰」「百済本記」の「倭」は九州王朝である。
9、「百済本記」にはしばしば「日本」という国号が出てくる。これを「信用しない(書紀編者の書き換えと見なす)」というのが通説だが、「百済記」「百済新撰」には「日本」という国号は出てこない(倭→日本という書き換えは行われていない)から、「百済本記」そのものにもともと存在した、と見なすべきである。
10、したがって、この「日本」も九州王朝と見なされる。

慎重な立論であるかに見えるが、ここには、大きな問題が見られる。1〜9については、一応、異論は無い。ところが問題は10である。ここには、大きな飛躍が見られる。当然ながら、「百済本記」における「倭国」と「日本」が同一国を指しているのか、十分に検証する必要があるのである。これを検証するためには、『日本書紀』の検証が不可欠となるだろう。

要するに、この日本は大和王朝の可能性もあるのである。
 

倭国と日本(7)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時03分48秒
  さて、次は、朝鮮半島史料における「倭国」「日本」について、見てみよう。

まずは、『三国史記』(十二世紀、高麗、金富軾撰)である。『三国史記』には、次のような記事がある。

(文武王十年(六七〇))倭国更えて日本と号す。自ら「日出る所に近し。以て名と為す」と言う。<三国史記、新羅本紀、文武王>

そして、『三国史記』はこの年を境として、それ以前を「倭国」。それ以後を「日本」と記している。だが、この記事は、『新唐書』の文面によるものである。

咸亨元年(六七〇)、使を遣し高麗を平ぐるを賀す。後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す。使者自ら「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と言う。或は云わく「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」と。<新唐書、日本伝>

金富軾は、倭国から日本への国号転換を六七〇年と読んだのである。私は、これは金の誤読だろうと思う。国号転換の時期を六七〇年と見たのでは、「後に稍く」の意味が不明である。やはり、国号転換は六七〇年から次の記事、七〇一年の間と見るのが良いのではないだろうか。ともあれ、『三国史記』は、六七〇年を境として、「倭国」と「日本」を厳密に使い分けている。

さて、もう一方の『三国遺事』になると、様相が変わる。ここには、いくつか、『三国史記』の示す、六七〇年のライン以前にも「日本」の号が見えるのである。これは、『三国遺事』の史料性格によるものであろうと言われる。歴史書と言うよりは、史料集成・説話集という性格が強いからである。原史料にあった表記をそのまま残したものであろう。だが、だからといって、「倭国」と「日本」が全くの同一国を示し得るのか、甚だ疑問である。

まずは、「日本」という表記の見えるいくつかの説話を検証してみよう。

 

倭国と日本(8)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)12時02分29秒
  1、延烏郎・細烏女説話
第八阿達羅王即位四年丁酉(一五七年)。東海の浜に延烏郎・細烏女有り。夫婦にして居す。一日、延烏、海に帰り、藻を採る。忽ち一巌有り(一に云はく、一魚)。負ひて日本に帰る。国人、之を見て曰く「此れ、常人に非ざるなり」と。乃ち立てて王と為す。(日本の帝記を按ずるに、前後、新羅人の王と為る者無し。此れ乃ち辺邑の小王にして真の王に非ざるなり)。細烏、夫の帰り来らざるを恠(あや)しみて之を尋ぬ。夫の脱ぎし鞋(わらじ)を見る。亦、其の巌に上る。巌、亦負ひて帰ること、前の如し。其の国人、驚き訝(いぶか)る。王に奏献す。夫婦相会ふ。立ちて貴妃と為る。是の時、新羅の日月、光無し。日者、奏して云はく「日月の精、降りて我が国に在りき。今、日本に去る。故に斯の恠を致す」と。王、使を遣はし、二人を求めしむ。延烏曰く、「我、此の国に到る。天、然しむるなり。今、何んぞ帰らんや。然りと雖も、朕の妃、織る所の細[糸肖](細かい生地の薄絹)有り。此れを以て天を祭らば、可なり」と。仍りて其の[糸肖]を賜ふ。使人、来り奏す。其の言に依りて之を祭る。然る後、日月旧の如し。其の[糸肖]を御庫に蔵して国宝と為す。其の庫を名づけて貴妃庫と為す。天を祭る所、迎日県、又都祁野と名づく。

これは、一五七年、中国は漢、日本列島は弥生時代の話だ。当然ながら、『三国史記』の示すライン以前である。さて、この説話に関して、古田武彦は以下のように分析している(同氏『風土記にいた卑弥呼』)。

1、この説話の「日本」は後代の国名によって記されたものである。これは、この『遺事』編成の仕方によるものだろう。
2、「負いて日本に帰る」とある「帰る」とは「かつていたところへ行く」という用法である。また、「海に帰る」という語もある。つまり、「海」も「日本」もこの夫婦にとって「かつていたところ」である。したがってこの「日本」とは「海の国」であり、「天国(あまくに=対馬・壱岐)」である。
3、「降りて我が国に在り」と「日者」は述べている。記紀でも「高天原から新羅へ降る」という表現がある。これは、対馬海流・東鮮海流を背景にした表現である(「川を下る」のと同じ)。従ってこの表現も「この夫婦が対馬・壱岐の人だった」と考えると矛盾がない。また壱岐・対馬の「日月」の神への信仰は著名である。
4、「日本」の都城の地は、「細[糸肖]」=絹の出土地である。それは、九州北岸以外にない。
5、従って説話中の「日本の帝記を按ずるに…」という注釈の見当はずれは明らかである。なぜなら、この「日本」は近畿天皇家を差すのではないからだ。

私はこの解説は、以下の点で不当であると考える。

1、後代の名前かどうかは、『遺事』の原史料が明らかでない以上、想像に過ぎない。もちろん、こういうケースがないとは言わないが、逆に「日本」という国号が意外に古かったという貴重な史料かもしれないのだ。
2、「負いて日本に帰る」について、これは古田の誤読だ。「負う」「帰る」の主語は「延烏郎」ではなく「巌」である。これは、「巌が延烏郎を背負って(上に乗っけて)日本に帰った」のであって、「延烏郎が巌を背負って日本に帰った」のではない。これは後文に「巌、亦負ひて帰ること、前の如し」とある点からも、明らかである。こういった説話によくある「巌」の擬人的表現だ。
(例えば、岩波文庫の佐伯有清編『三国史記倭人伝』では、この点をふまえてか、「帰る」に「おくる」と仮名を振っている)
ただし「海に帰る」のは延烏郎で、間違いはない。しかし、ここから「天国」へと結びつけるなら、それはあまりにも飛躍し過ぎだ。
3、これは先の「天国」という解釈がなくなった今、あまり意味を持たない。むしろ、「降る」とは「垂直的な天」を考えたほうが良さそうだ。
4、これは確かに有力だ。だが、重要なことは、説話上、「細[糸肖]」の「織られた場所」は明らかでない、ということである。むしろ、かつていた新羅の地で「日月の精」だった頃に「織った細[糸肖]」であったのではないか、と思うのである。このほうが説話としてスジが通るであろう。もし、そうなら考古学上の分布図によって、「日本」の地が明らかになるとは言えない。
5、また日本だが、このころは既に神武東征が行われていたと私は考えるる。従って、大和王朝であっても問題はないわけである。
 

倭国と日本(5)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時58分50秒
  さて、この「言葉の定義」の問題は、『旧唐書』の次の『新唐書』でより鮮明となる。まず、『新唐書』には、「倭国伝」はなく、「日本伝」のみである。ただし、たとえば、「白村江」の叙述においては、あくまで、「倭国」と記されていたりと、「倭国」「日本」の書き分けは、存在している。その一方で、『旧唐書』においては「倭国伝」に記載されていた内容も『新唐書』日本伝には一部見える。

(1)日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。海中に在りて島にして居す。東西五月行、南北三月行。(略)
(2)其の王の姓、阿毎氏。自ら初主を号して天御中主と言う。彦瀲に至る凡そ三十二世、皆尊を以て号と為し、筑紫上に居す。
(3)彦瀲の子、神武立つ。更えて天皇を以て号と為す。徙りて大和州に治す。次に綏靖。(略)
(4)次に欽明。欽明の十一年、梁の承聖元年(五五二)に直る。
(5)次に海達。次に用明。亦、目多利思比孤と曰う。隋の開皇(五八一〜六〇〇)の末に直り、始めて中国と通ず。
(6)次に崇峻。崇峻死して、欽明の孫女雄古立つ。次に舒明。次に皇極。(略)煬帝(六〇四〜六一七)に至り、其の民に錦綫冠を賜う。(略)
(7)太宗の貞観五年(六三一)、使者を遣し入朝す。帝、其の遠を矜み、有司に詔して歳貢に拘るること毋からしむ。新州刺史高表仁を遣し、往きて諭くに、王と礼を争い平ならず。肯えて天子の命を宣らずして還る。久しくして、更に新羅の使者に附き書を上る。
(8)永徽(六五〇〜六五五)の初、其の王孝徳、即位し、改元して白雉と曰う。虎魄の大なること斗の如き・碼碯の五升器の若きを献ず。時に新羅、高麗・百済の暴する所と為り、高宗、璽書を賜い、出兵し新羅を援けしむ。未だ幾ばくもせず孝徳死す。
(9)其の子・天豊財立つ。死し、子・天智立つ。明年、使者と蝦[虫夷]人、偕に朝す。
(10)天智死し、子・天武立つ。死し、子・総持立つ。咸亨元年(六七〇)、使を遣し高麗を平ぐるを賀す。
(11)後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す。使者自ら「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と言う。或は云わく「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」と。
(12)長安元(七〇一)年、其の王文武立ち、改元して太宝(七〇一〜七〇四)と曰う。朝臣真人粟田を遣し方物を貢る。

(1)は、「日本」の地理描写である。ここでは、「倭国」と同様の描写が為されている。(2)は、「其の王」とあって、この「其」は当然「日本」を指すから、「日本の王の姓は阿毎氏」と語っている。「彦瀲」(うがやふきあへず)に至るまでは、「日本王」は筑紫城にいた、というのである。(3)以降は、神武を始めとした、「天皇」の系譜が連綿と続く。注目されるのは、(5)だ。ここに至って、「始めて中国と通」じたのである。(7)〜(10)の記事はそれぞれ、以下の書物に見える記事である。

(7)貞観五年、使を遣わし方物を献ず。太宗、其の道の遠きを矜み、所司に勅して、歳貢せしむこと無からしむ。又、新州刺史高表仁を遣わし、節を持して往きて之を撫さしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。二十二年に至り、又、新羅に附して表を奉じ、以て起居を通ず。<旧唐書、倭国伝>
(8)十二月癸丑、倭国琥珀、碼碯を献ず。琥珀の大なること斗の如し。碼碯の大なること五斗器の如し。<旧唐書、高宗紀上、永徽五年>
高宗の永徽五年、倭国、虎珀・馬脳を献ず。高宗、之を[小刷]撫す。仍りて云わく、王の国、新羅・高麗・百済と接近す。若し危急有れば、宜しく使を遣わし之を救うべし、と。<唐録>
(9)(顕慶四年、六五九)十月、蝦夷国、倭国の使に随い、入朝す。<冊府元亀、外臣部、朝貢>
(10)咸亨元年(六七〇)三月、[[四/厂]/[炎リ]]賓国、方物を献ず。倭国王、使を遣わし、高麗を平ぐるを賀す。<冊府元亀、外臣部、朝貢>

以上のように、別の書物では、「倭国」として登場していても、「日本伝」に記載されているケースはあるのである。(5)や、「白村江」の際の記述で明らかなように、『新唐書』においても、

「倭国」=九州王朝
「日本」=天皇家

という「定義付け」は変わらないように見える。この一方で、ある書物には「倭国」のこととして描かれた事件が、『新唐書』においては、「日本国」の事件として描かれているのは何故だろうか。

 

倭国と日本(6)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時57分33秒
  また、(11)の例は、やはり、異様だ。「後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す」とある部分の「倭」「日本」は、

「倭国」=天皇家(改称前)
「日本」=天皇家(改称後)

であるかのようだ。一方、「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」の部分は、釈然としない。そもそも、この文はどういう意味なのだろうか。「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る」は、とりあえず良い。文脈ははっきりしている。ところが、「故、其の号を冒す」が意味不明である。「冒」の主語はいったい誰なのか。「倭国」なのか「日本」なのか。「其」が指しているものは、「日本」のほかには考えられないから、「冒」の主語は、「倭国」としか思えぬ。では、「号を冒す」とはどういう意味だろうか。「冒姓」と言えば、他人の姓を語ることである。

故に青、姓を冒し、衛氏と為す<漢書、衛青伝>

従って、「号を冒す」とは、「他国の国号を語る」という意味だろう。通釈すれば、「日本はすなわち小国であり、倭国によって併合された。このため、倭国は日本の国号を語った」という意味になる。だが、なぜ、「倭国」は併呑した小国の名をわざわざ語ったのであろうか。

これらの疑問を解く鍵は、「倭国」と「日本」の「言葉の定義付け」の問題にあるようにも思うが、それは、後の論証によって明らかとなるだろう。少なくとも、中国側は、

「倭国」=九州王朝
「日本」=天皇家

という位置付けを明確にしながらも、なお、これに当てはまらないケースを多く内蔵しているのである。混乱、とまでは言わないが、「倭国」「日本」の分別は非常にあいまいなものであった形跡が認められるのである。


 

倭国と日本(4)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時55分35秒
  『旧唐書』の文面を精視すれば、以下のような事実に気がつくだろう。(1)(2)のように、『旧唐書』の地の文においては、

「倭国」=直前の倭国伝に記載された国(=九州王朝)
「日本」=これから語る「日本伝」の叙述対象となる国(=近畿天皇家)

と、「倭国」「日本」の「言葉の定義付け」がしっかりしている。その一方で、(3)やその中で紹介される「或云」「又云」の「倭国」「日本」の定義付けは曖昧である。

A 倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す
B 日本は旧小国、倭国の地を併す

この二つの文面がいずれも事実を語っているのだとすれば、「倭国」「日本」の意味がAとBで異なるのだ、と考えざるを得ない。

古田は、Aについては、

「倭国」=九州王朝(改称前)
「日本」=九州王朝(改称後)

と見なし、Bは、

「倭国」=九州王朝(改称前)
「日本」=近畿天皇家

と見なしているのである。

然し、それが間違っていることは既に述べた。
 

倭国と日本(3)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時53分49秒
  私は以下のような読みがよいと思う。

或は曰く、『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と』と。

私は「曰」と「云」の使い分けを注視して、このように読んだ。勿論、大意に影響は無いのであるが、私は、通説や古田説のように、旧唐書編者が、日本命名の諸説を収集したというよりは、「日本について記載のあった書」を引用したように見えるのである。

いずれにせよ、ここにはいくつかの日本国の誕生のいきさつが記されている。(2)は、旧唐書編者の採用した、日本国号命名の根拠である。(3)は、その異説だ。倭国が自ら日本を名乗ったのだと言うものである。ここで、さらに2つの情報を添付している。1.は(3)の説と矛盾するように見える。1.を受けて「其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う」といい、更には、と続けて、2.を紹介している。即ち、この1.2.は、少なくとも旧唐書には採用されなかった説である。だからこそ、地の文ではなく、引用という形をとっているのである。(私の読み方をした場合、「其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う」という判断は、旧唐書編者ではなく、「ある書」の判断ということになる)

さて、読解上の相違を踏まえて、先の古田の解釈は、はたして正しいのであろうか。私は、必ずしも古田のような時系列でことが進行したようには見えないのである。『旧唐書』のこの部分は、歴史の叙述を目的とした個所ではないからだ。あくまでも、『旧唐書』が、「確実な情報」として提供できたのは、(1)と(2)だけである。(3)以降は、あくまでも(2)を補強する為の記述である。従って、古田がこの記述をもって、「九州王朝が日本を称した」というのは、あたらないのである
 

倭国と日本(2)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時52分31秒
  それでは、「日本伝」の記述を見てみよう。

(1)日本国は倭国の別種なり。
(2)其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
(3)或は曰く『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。
1.或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
2.又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。
』と。<旧唐書、日本伝>

(3)は、通常は、以下のような読まれ方をすることが多い。

或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。

また、古田武彦は次のように読んだ。

或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う」と。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。

その上で、次のような解釈をしている。

(1)において、「倭国」とは、この「日本伝」の前にある「倭国伝」の「倭国」を指している。九州王朝である。今言う「日本国」とは、その倭国の別種だ、と言っている。(3)では、理由はともあれ、「倭国」自らが「日本」を称したのだと言っている。(3)-1.では、「日本」すなわち「日本伝」の対象たる「天皇家の日本」は、「倭国」を併合したのだと言っている。これをまとめて、

1 「倭奴国」から「多利思北孤」に至る九州王朝の「倭国」が連綿と存在した。
2 その「倭国」が自ら「日本」を称した。
3 近畿大和の一豪族だった天皇家が、これを征服し、併合した。
4 そのとき、天皇家は、「日本」の国号を継承し、やはり「日本」と名乗った。

と見なした(古田武彦『失われた九州王朝』)。

然し、それは次の理由で否定される。

1 『旧唐書』における「倭国」が「日本国」となったとしよう。
2 すると、大和王朝の国名は「なかった」ことになる。
3 最大の問題、それはこれらの記事が「日本伝」に書かれていることである。
4 若し「倭国」が「日本」に改称したのならそれは「倭国伝」に記されなければならない。



 

軍国主義に陥らぬように

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時44分25秒
  解法者氏も、判断が甘すぎる。この日本で憲法を超えるのは天皇陛下だけ。然し、菅直人は天皇制を廃止する憲法を用意しているとのことであある。

いいですか、ここは自衛隊を即正規軍に昇格させるのです。その規定は『大日本帝国憲法』に基づき、陛下の統帥のもと、内閣から自衛隊を分離させるべきです。

一言でいえば、「自衛隊は管直人の指揮下から離れます」ということ。但し、軍国主義に陥らないように、天皇による「勅令厳守」とします。
 

日本国を滅ぼすチャンス

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時38分11秒
  皆さん、こういう有事の時こそ「日本国」を滅ぼし、新たな皇国を作るチャンスです。

たちあがれ日本、本当に立ち枯れたままなのか?早く立ちあがれ!管を殺せ!

私は「菅直人を殺す者は犯罪者に非ず、英雄である」と主張します。賛同者はどれくらいいるでしょうか?
 

嘘はつきません

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月23日(水)11時34分53秒
  ソックパペットは問題には非ず、と私は思います。

 

米軍は何をしに来たのか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月22日(火)20時44分30秒
   娘からの情報や新聞報道を見ていると、米軍は日本に何をしに来たのかという疑問が払拭できない。
 アメリカは「化学・生物・放射性物資・核・爆発物(CBRNE)被害管理反応軍」から先遣隊として専門家9人を日本に派遣したほか、無人偵察機グロ−バルホ−ク、偵察機U2を飛行させ、福島原子力発電所建物内部の被害状況を調査している。さらに大気中の放射線物質を採取・分析できる装置を備えた気象観測機WC135を投入したほか多用途ヘリUH1や軽輸送機C12を派遣して、汚染の程度を独自に調査している。17日には在日米軍の家族のうち希望者の海外退去支援も決め、19日に避難を開始している(産経新聞 平成23年〔2011年〕3月22日〔火〕朝刊 東京第15版3面)。そして日本では30キロまでの住民の避難を実行しているが、アメリカはそれを80キロまでに拡大している。横須賀に停泊中の空母ジョ−ジワシントンも放射能汚染を防ぐため横須賀から離れたという。
 これを聞くと、アメリカは原子力発電を熱心に推進している国の一つで世界最大の原子力発電大国であるが、今回の調査団の派遣は、来るべき原子力発電所の事故によるデ−タ−を集めるためなのか、それとも在日アメリカ人の安全を確認し、その退避判断を行うためなのか、つまり、自国および自国民のためで、果たして日本のためということが有り得るのかという疑問を抱く。日本政府としてもこのことはハッキリと質すべきであるまいか。
 

東京は住む場所を選択できて幸せだ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月22日(火)20時07分28秒
   液状化現象 確か新潟地震から言われたと思う。
体験したから説明すると、新潟市は信濃川の堆積した土砂が長い間積もって
できた街。したがって、市内全部が液状化現象が現れると言ってよい。
 液状化現象のため、信濃川沿岸にあった高層県営住宅が倒れたり傾いた。
新潟駅前のナショナルビルは1階部分が沈んで2階が1階となった。もちろん
市内至るところで地下から土砂が吹き上げて、道路も陥没する事態となった。
下町では冠水し親戚から小船を借りて食料を届けた経験がある。
 今はどうなっているかと言うと高層県営住宅が倒れたところは公園になって
いる。これは県の所有地だったからできたもので、液状化現象が起こったところ
は以前のように住宅が立っている。移転するにしてもどこでも液状化現象が起こる
可能性があるので、そうするしかないし、地元に仕事もありこれを他で求める
のは難しい。また新たに土地を求める資金もないからである。
 さて、今回地震による津波で壊滅的被害を受けたところも今だからこそ再び
住めないと言うが、おそらくまた同じ場所に家を建てると思う。状況は違うが
阪神淡路大震災後も同じだったと思える。災害に備えて道幅など広くしたから
やむを得ず立ち退いた人もいただろうが、それにかからなかった人は新潟と
同じだっただろう。東北も同じであると考える。
 

知らないんだよね!

 投稿者:夜泣きソバ屋  投稿日:2011年 3月22日(火)17時45分8秒
  今、ニュースで浦安で地震による液状化現象で水道が出ないなんてやってるけど神戸の震災で谷川名人が命からがら逃げたというニュース忘れちゃったかな?
自分は、小学5年生の時(昭和40年)に遠足で幕張に潮干狩り行ったけど、それを知ってれば浦安だの幕張だの埋め立て地には住まないけどね!
尤も、地方から来た人はマクハリーヌなんてハイカラな言葉でお洒落な街だと思って住むのかな?
それにしても地震で電車が時間通りに動かないから客が早く家に帰りたいから客が全然来ないので、こちらも干上がっています。
 

ドタバタ内閣

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月22日(火)15時14分41秒
   「菅 直人」首相は、原発より早く暴発したという。地震発生の翌日の3月12日(土)、経済産業省原子力安全・保安院の「中村幸一郎」審議官が『福島原子力の炉心の中の燃料が溶けているとみてよい』と記者会見で明らかにしたところ、パニックに陥って、国民に不安を与えたとして当審議官の更迭を命じた。13日(日)になって、「蓮舫」行政刷新大臣を「節電啓発担当大臣」を兼務させ、「辻元清美」衆議院議員を「災害ボランティア」担当の首相補佐官に任命した。ところが、前日に「枝野幸男」官房長官が『災害ボランティアは二次被害や交通混雑で救援に遅れが生じる』として今は不要と表明している。今度は「仙谷由人」元官房長官を官房副長官に任命した。
 案の定、「蓮舫」節電啓発担当大臣は『初めてなので・・』と阪神淡路大震災の「村山富市」首相と同じ台詞を吐いたという。彼女が東京電力の計画配電で指導力を発揮したという話は聞かない。「辻元清美」に至っては同震災のときにボランティアを率いて、現地で反政府ビラを撒き、カンボジアでの自衛隊がPKO活動で邁進しているときに現地に赴き、自衛隊の幹部に向かって』胸のポケットにはコンド−ムが入っているんじゃないの」と暴言を吐いたほか、自身のプログで「軍隊という組織がいかに人道支援に適してない」とも言っている(産経新聞 平成23年〔2011年〕3月21日〔月〕朝刊 東京第15版4面)。こんなヤツに災害ボランティアを統率させたのでは何をするのかわからない。事実、彼女がいなくとも経験豊富な神戸、新潟の災害ボランティアは十分に活躍している。そもそも「辻元清美」は災害ボランティアとしての実績もノウハウも持ち合わせていないのだ。
 <自衛隊は暴力装置>で有名となった「仙谷由人」官房副長官にしても<お山の大将>気分が抜けておらず、情報を俺に上げろ、といきまいているという。
 「岡田哲也」幹事長は常々「一言居士」・「原理主義者」と揶揄されていたが、今回もご多分に漏れず、「国家非常事態宣言」も「復興院」も彼の頭の中にない。復興に強い権限を与える「震災担当特命大臣」も否定している(讀賣新聞 2011年〔平成23年〕3月18日〔金〕朝刊 東京14版7面)。
 「海江田万里」経済産業大臣も福島第一原子力発電所への東京消防庁の放水に対し、幹部に向かって『言う通りやらないと処分する』と放言し、これに対し石原都知事が直接に首相に厳重に抗議したという(産経新聞 平成23年〔2011年〕3月22日〔火〕朝刊 東京第15版2面)。どいつもこいつもとんでもない輩だ。

 こうなっては、自衛隊が権力を掌握し、憲法を停止し、議会を解散し、各省の事務次官を大臣に任命して災害対策に当たるのが最善の策ではあるまいか。災害が落ち着いたら、選挙を行い、国民に信を問えばよい。国民も納得すると思う。

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/postseven-20110320-15548/1.htm
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/yomiuri-20110322-00290/1.htm
 

RE:欧米のリビア介入に反対する

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月21日(月)20時44分25秒
  ズバリ、リビアの石油利権と、北アフリカの要地に位置するリビアを押さえたいと言う思惑からの軍事介入でしょう。

米英主導で行われたイラク戦争と基本的な構図は変わりません。

ただし、「市民革命」への肩入れで独裁政権を攻撃した以上、親欧米のサウジやカタールと言った独裁体制の湾岸産油国で同じ状況になった時、果たしてリビアにしたのと同様の態度に欧米が出る事が出来るのか? その時、違う態度を取ったりすれば、「何故、リビアでは市民に味方したのに、今度は、我々では無く体制側に与するのか?」との矛盾と批判に晒されるのは必至でしょうし、体制側に向けられていた矛先が、体制側を擁護支援する欧米へと向けられ、反欧米感情の増加とそれに便乗したイスラム勢力の伸張へと向かう事も考えられます。

リビアに付いては、同じイスラム教を信仰するアラブ諸国が介入するならいざ知らず、キリスト教圏の欧米が介入しても、何一つ良い事は無いでしょう。
 

ご無事で何よりです

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月21日(月)20時31分56秒
  はるさん、ご無事で何よりです。

お亡くなりになった方々の分迄、残された我々が精一杯生き、国をしっかりと立て直していく事が最大の供養では無いかと思います。
 

そのとおりですね

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月21日(月)17時57分14秒
   ご無事でなりよりです。確か農業をやられていると聞いておりますが、
そちらの方は大丈夫でしょうか。

>物資を揃える前に室内を整理整頓し、死なないように、怪我をして他人の
世話にならないようにすることです<

 震源地を遠く離れた東京の我が家でも本棚から本(約千冊)が総て本棚から
落ちて足の踏み場も無い惨状ですから。本棚は倒れないようにしてましたから、
無事ですが、ただ、本が落ちないようにするにはどうしたらよいか思案中です。
 

恥ずかしながら、

 投稿者:はる  投稿日:2011年 3月21日(月)14時18分17秒
  生きておりました。
岩手県宮古市出身ですが、現在は内陸部在住の為無事でした。
美しい我が郷土が無残な姿と成り果て、多くの友人知人の所在が未だ不明のままですが、私自身は電気水道の復旧と共に日常を取り戻しております。
日頃からの備蓄の甲斐有って、一週間は買い物せずに過ごせましたが、ガソリンスタンドに並ぶ車の列や、食料の消えたスーパーを見るに付け、安心の為に必要以上の物資を手に入れようとする人間のエゴに辟易とする思いも感じています。
大災害に備えて、何を用意すべきか?
まずは、物資を揃える前に室内を整理整頓し、死なないように、怪我をして他人の世話にならないようにすることです。
 

欧米のリビア介入に反対する

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月21日(月)12時47分39秒
   イギリス、フランス、アメリカが国連の安全保障理事会決議に基づきリビアに軍事介入し、リビア上空に飛行禁止区域を設定し、リビアを空爆したという(産経新聞 平成23年3月21日〔月〕朝刊 東京15版 1面)。
 リビアのガタフィ大佐の独裁には賛成できないが、だからといって反体制側に正義があるとは思えない。欧米のリビア介入はリビアに欧米の正義を持ち込むもので、これがリビア国民に利益をもたらすと考えてはならない。欧米の介入の理屈は独裁者ガタフィ大佐が国民を殺戮するという人権侵害を看過できないというにある。ならば、北朝鮮はどうであろうか。リビアよりも遥かに長く「金日成」・「金正日」体制が続き、国民を1995年ころには300万人を餓死に追いやったという。中国だって文化大革命時には3000千万人が殺されたという。現在だってチベット・ウイグルで虐殺が行われている。ならばなぜ軍事介入しない。欧米の人権主義は二重基準でご都合主義の何物でもない。
 仮に反体制側に正義があるとしてもガタフィ大佐を打倒するにはあくまでリビア国民が独自でなすべきだ。日本だって明治維新で多くの犠牲の下に新生国家が誕生したのである。血を流してまで生みの苦しみを味合うべきだ。外国勢力の助けを借りてガタフィ大佐の独裁を打倒しても欧米の勢力に飲み込まれ、石油資源も彼らの手に握られる。つまり、今回の欧米の軍事行動は石油資源の独占にあると考えてよい。人権の回復などという美辞麗句に騙されてはいけない。日本政府も反対の意思を表明し、欧米に追従してはならない。
 

邪馬台国(43)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月21日(月)10時43分37秒
   この「三角縁神獣鏡」の総てが「同笵鏡」はあるという者もいるが(「吉野ケ里から邪馬台国が見える(下)」森浩一〔『朝日ジャ−ナル』1990年1月19日号〕)、そんなことはあるまい。「邪馬台国」が「三角縁神獣鏡」を総て製造したとしてもその祖型があるはずである。独自で総てを製造したはずはなかろう。それほど文化が進んでいたとは思えないからである。
 「三角縁神獣鏡」には出来の悪いものもあり、良いものもある。出来の良いものは舶載品で、出来の悪いものは「同笵鏡」であるという考えも成り立つのではあるまいか(『邪馬台国は二ヶ所あった』大和岩雄 129頁)。

 なお、3世紀の「卑弥呼」(北部九州)の時代には「長宣子孫銘内行花文鏡」で、これが「卑弥呼」の後継勢力の東遷と共に東に移って後の時代に「三角縁神獣鏡」が大量に作られたという者がいる(「シンポジウム 邪馬台国は東遷したか」〔『邪馬台国は東遷したか』荒木博行・奥野正男 三一書房 1994年9月15日 [安本美典の発言]169頁〕)、これは「三角縁神獣鏡」が「同笵鏡」ということである。それならばどうして鋳型が発見されないのであろう(「異論・反論OBJECTION 邪馬台国はどこにあった?」大塚初重〔『私大蛍雪』1997年12月号〕)。こういう基本的なことが詰められていない気がしてならない。
 やはり、「三角縁神獣鏡」が舶載品(中国製)であれ、「同笵鏡」(国産品−模造品)であれ「大和」から「西日本」を含む全国に配布されたという事実は否定しがたいと思われる(『日本の歴史 1 倭国の誕生』直木孝次郎 小学館 1973年10月25日 301頁)
 したがって、「三角縁神獣鏡」の問題は、前記の「鉄鏃」とは逆に「大和」説に有利となっている。
 

邪馬台国(42)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月20日(日)22時45分53秒
   「三角縁神獣鏡」が舶載品(中国製)であれ、「同笵鏡」(国産品−模造品)であれ(「三角縁神獣鏡」は1998年現在で全国に504面あるとされる〔『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』安本美典 廣済堂出版 2008年11月15日 60頁〕)、「卑弥呼」の時代あるいはその死後まもなく「大和」から配布されたものとされていることから、権力の中心は「大和」にあったと考えられるのである。「九州」説の泰斗「安本美典」の分析でも「三角縁神獣鏡」は九州に49面であるのに対し、大和では100面となっている(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 16頁)。九州の「赤塚古墳」(大分県宇佐市)からも「大和」の「椿井大塚山古墳」や「桜井茶臼山古墳」(奈良県桜井市)からの「三角縁神獣鏡」の「同笵鏡」が出土している(『前方後円墳の世界』広瀬和雄 岩波書店〔新赤版 1264〕2010年8月20日 111頁)。
 「安本美典」は「三角縁神獣鏡」が4世紀以後の古墳から出土したとしきりに強調するが(前掲書 159頁)、これらの古墳から出土した「三角縁神獣鏡」8枚を世界最大級の放射光施設(高輝度光科学研究センタ−)「スプリング8」で分析したところ、中国製の同世代の青銅鏡とほぼ一致し、同じ原料で製造された可能性の高いことが判明した(朝日新聞 2004年5月15日(土)夕刊)。これに対し「安本美典」はなお中国から原料を輸入し、日本で製造したと主張する。しかし「三角縁神獣鏡」は全国で300面あまり出土する〔1998年現在では504面〕(『古鏡』小林行雄−前掲書 165頁)。これだけの原料を中国から輸入したとは考えがたい。しかも近隣の朝鮮なら理解できるが、遠い中国からわざわざ輸入することはないだろう。「安本美典」の主張は反論になってない。それと分析方法に疑問があれば、独自に分析を行えばよいのである。これを提議しないで分析を批判するのは納得できない。いずれにせよ「三角縁神獣鏡」が舶載品であれ、「同笵鏡」であれ、その分布状況から見て「大和」説に有利なことは間違いない(「永遠の謎か、邪馬台国と女王卑弥呼」直木孝次郎〔『王権の争奪』集英社 1986年〕)。
 そして「魏」から伝わったとされる「三角縁神獣鏡」は九州からほとんど出土してないのである((『邪馬台国は二ヶ所あった』大和岩雄 128頁)。これについても北九州の「平原遺跡」(福岡県糸島市−「伊都国」のあったとされる場所)から「内行花文鏡(2面)」・「方格規矩鏡(32面)」・「四螭文鏡(1面)」が出土したが、これが「三角縁神獣鏡」より重要な後漢鏡であるとして、「卑弥呼」が賜った鏡とはこのことであり、「卑弥呼」の墓もここであるとする者がいる(『邪馬台国はここだ』奥野正男 291頁)。しかし、「卑弥呼」が賜った鏡は『三国志』魏志倭人伝の記述から「魏鏡」であると考えるのが自然である。そして、前記の「後漢鏡」の数は少なく、ここから全国に配分された形跡がない。この考えには従えない。
 

ソックペット

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月20日(日)19時53分30秒
   あまりに馬鹿馬鹿しくて反論する気にもなれない。
反論しないからと言って、かんぐっちゃダメだよ。
 そんなことよりもっと大事なことがあるんだ。
 

ソックパペットって

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月20日(日)18時34分35秒
  自作自演のコトですよね?
お二人とも自作自演を認めるんですか?
 

邪馬台国(41)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月20日(日)17時19分58秒
   ところが、平成10年(1998年)1月9日、「黒塚古墳」(奈良県天理市)から「三角縁神獣鏡」33面が発見されたとの発表がなされた。
「黒塚古墳」は3世紀末の築造とされ(毎日新聞 1998年1月12日〔月〕朝刊)、全長130メ−トルの前方後円墳である。これが「卑弥呼」が「魏」から賜った鏡ではないかとされたのである。ここには景初3年(239年)〔「卑弥呼」が「魏」に遣使した年−前述の(5)参照〕と考えられるものもあったからである。そのほか「崇神天皇」陵付近から出土されたといわれる「三角縁神獣鏡」(京都国立博物館所蔵)もあり、ここと「黒塚古墳」は約50メ−トルしか離れてなく、築造年代も近い。そのことから未発掘の「崇神天皇」陵からは「三角縁神獣鏡」が納められている可能性もあるとされている(武光 誠 前掲書 159頁)。このことから「邪馬台国」は「大和」にあったとする考えが一挙に噴出したのである。「黒塚古墳」出土の「三角縁神獣鏡」は「同笵鏡」も含めて全国で発掘されているが、九州は福岡県に5個、宮崎県に1個しかないのに対し、「大和」を中心とした畿内に34個、遠くは群馬県にも3個出土している。「三角縁神獣鏡」より少し前に製造された「画文帯神獣鏡」(3世紀初頭)もやはり同じく「三角縁神獣鏡」と同じような分布を見せている(武光 誠−前掲書 165頁)。
 景初3年(239年)に「卑弥呼」が「魏」より賜ったのは、単に「鏡」とあり「三角縁神獣鏡」とも記されていない。したがって、この「三角縁神獣鏡」がそのときの「鏡」とは断定できないが(『魏志倭人伝を読む(下)』佐伯有清 吉川弘文館 2000年11月1日 103頁)、発掘された「三角縁神獣鏡」の総てが「同笵鏡」ではあるまい。「三角縁神獣鏡」がどこで製作されようとも240年前後とされるものもあるのである(白石太一郎−前掲書 50頁)。やはり景初3年(239年)に「卑弥呼」が「魏」より賜った時期に極めて隣接していることは否定できないのである。やはり「邪馬台国」は「大和」にあったと考えてもよいと思える。
 

必ず見本が要る

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月20日(日)17時17分24秒
  >銅鐸の青銅はかなりの量で、銅矛数百歩本分に上るとか。それなら、三角縁神獣鏡
ぐらい安く作れただろう<

 三角縁神獣鏡の総てを「邪馬台国」で作れたはずはない。鏡の文様が中国の鏡に
似ていることから、舶載鏡(中国から伝来した鏡)があって、それを真似たと考える
のが正しい。青銅があったから作れたのではなく、見本があったからこそ作れたので
ある。
 

やはり外国人には参政権は要らない

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月18日(金)22時12分14秒
   今回の地震で、在日中国人が東京入国管理局に列をなして「再入国許可」申請を行っている。今日のニュ−スでも報道されていたし、水曜日に東京入国管理局に行ったウイグル人から聞いた。
 彼らは逃げる母国がある。日本の国難に際して逃避することが実証されたのである。今後とも外国人に参政権を与えよという運動が無くなるとは思えないが、この例を示して反論すべきた。
 

本当だった

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月18日(金)21時41分43秒
  >在日アメリカ人に本日午後6時に成田および羽田空港に集合するように勧告した。航空機を用意し、ソウルおよび台北に運ぶという<

 本日の「朝日新聞」夕刊 東京4版 3面に同じような記事が載っていた。外交官の家族
約100人を「台北」に運んだ。
 

復興院、確かに正論だが

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月18日(金)20時44分59秒
    関東大震災後の「帝都復興院」、終戦後の「戦災復興院」、確かに設置が急がれる。
それには政治主導の下、官僚を結集し一丸となって邁進しなければならない。しかし、
政治主導の標語は長い間の野党生活で実現すると考えるだけヤボというべきである。
しかも、「国家非常事態宣言」すら発布できない。人権におもねっている民主党内閣
に実現できる可能性は極めて少ない。さらに政権にしがみついている「菅 直人」では
なおさら無理であろう。
 こういう民主党政権を選択した国民にそのツケが回され、困窮の極みに落ちるのも
良いのではないかと思える。こういうことはあの「村山富市」社会党内閣で嫌という
ほど経験したのに、いつの間にか忘却の彼方に押しやられてしまい、再びこのような
事態に陥っている。『国民はいつも正しい、政権のみが責任を負担する』ということ
に鉄槌を下す良い機会と考える。堕落した国民はもっと苦しむが良かろう。
 

悪い冗談

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月18日(金)12時22分16秒
   「仙谷由人」が官房副長官だって。驚いたな!
よほど人材が払底しているとみえる。
 暴力装置だと言われた自衛隊は日夜奮闘している。就任第一声は
「自衛隊は暴力装置」の発言について、自衛隊と国民に土下座して
詫びるべきだろう。
 
 

原発の全面廃止

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月18日(金)11時00分20秒
  「絶対に安全」と宣伝し、世界で最も先進的とされてきた日本の原発神話が脆くも崩れ去り、福島原発の事態は既に「レベル6」にあり、今後の推移によってはチェルノブイリと同じ最高レベル「7」になるかも知れないと指摘されている。

チェルノブイリ級の放射能被害が生じても国土が広ければ、まだ良いが、日本の様に国土が狭隘で原発設置箇所から大都市部迄の距離が余り無いと、ひとたび大規模事故が発生すると、風向き次第で直接事故とは関係の無い地域に迄放射能被害が及ぶ。現に、福島原発から飛散した放射性物質が微量とは言え首都圏でも検出されている。

抑も本当に原発が安全だと言うのであれば、柏崎刈羽原発で発電した電力をわざわざ東京迄送電する必要は無い。送電線が長ければ長い程、途中で消える電力のロスも大きくなる訳で、東京の臨海副都心の空き地にでも建設すれば事足りる話だ。然し、絶対に大都市のど真ん中や周縁部に原発は絶対に建設されない。それは、とどの詰まり「原発は危険」だからだ。

現在、東電管内では連日の様に輪番停電が実施されており、地域住民・企業に負担を強いている。だが、これを機に輪番停電の該当地域だけで無く、日本全体で「当たり前の様に消費してきた」電力に付いて考えるべきでは無いだろうか?

不必要且つ過剰なパチンコ屋の巨大屋外電光広告や夜空に向けたサーチライト。過剰で耳障りな店内BGM。閉店後も煌々と付けている店外看板。こう言ったものの為に一体どれ程の電力が日本全国で消費されてきた事か。

又、我々自身も反省せねばならない点が多々ある。「取りあえず付けていないと何となく寂しい」と言った程度の理由で付けているお茶の間のテレビ。いや、それどころか部屋毎に一台ずつあるテレビで、てんでばらばらに番組を視る事も今や当たり前。部屋の明かりを点けた儘、平気で寝る。面倒だからと言って、こまめにスイッチを切らない。戦後、経済成長と共に我々日本人は一体どれ程、電力の無駄遣いをしてきたのだろうか?

最早、「世界最高水準」と謳われてきた日本の原発安全神話が完全に崩壊した以上、引き続き原発に依存する事は出来ない。代替発電もさる事乍ら、巨大な電力を消費してきた日本人一人々々の意識改革も不可欠だ。

その意味では、現在行われている「ヤシマ作戦」の第二弾、第三弾を行っていく必要があるだろう。
 

大震災後の対処

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月18日(金)10時06分32秒
  政府がしっかりするのは当然の事だが、民主党が目の敵にする官僚の力をフル活用せずに被災地の復興は到底成し遂げられない。その為には政府による国家統制も必要だが、省庁に於ける「縦割り行政」の弊害とそれに起因する復興事業の遅延を防ぐ為に、今次大震災に於ける被災地域の復興に特化した臨時官庁「復興院」を設置し、省庁間に横断する情報・権限を一元管理、各省庁の復興担当部局を指揮統制する仕組みを早急に整備しなければならない。  

菅政権の対応

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月18日(金)09時39分44秒
  初動はまあまあだったが、その後の大震災及び原発事故への対応には呆れかえる。
東北沿岸の被災地域では拠点となる役所自体に甚大な被害が生じ、職員にも多くの死傷者・行方不明者が出ており、自治がまともに機能していない。それにも関わらず、政府は重い腰を上げない。

この未曾有の事態を収拾する為には、第一に被災した市町村の機能・権限を一時的に所管する県の直轄とし、それでも手に負えないのであれば、国の直轄として指揮するしか方策は無い。

又、やれ法律がどうのと言った問題はこの際抜きにして、総理自身が一時的(無期限)な超法規的措置により、今現在出来る事をなんでもする、後の責任は全て自分が被る位の気概を見せなくて一国の政治が預かれるだろうか?

日本人は「国民は一流、政治は五流」等と揶揄されている通り、この様な事態に於いても、被災地を中心に暴動も略奪も起きては居ないが、一日や二日ならともかく、一週間、十日、一ヶ月・・・と時間が経過し、その間も必要な物資が被災地に届かず、生き残った人々にすら命に関わる問題が生じれば、治安も統制も保てなくなるだろう。そうなってからでは、最早手の付けようが無い。

過日も主張した事だが、現行法制には無い「戒厳令」に準ずる「国家非常事態宣言」を発令し、政府が強い権限を持って国家を統制するしか無い。その為には、与党も野党も無く、都道府県の垣根も無い。在野で進められている「ヤシマ作戦」だけでなく、ダメージを受けた東日本を西日本と北海道の自治体・住民がカバーし、この国難に対処していかなくてはいけないし、「欲しがりません。(震災被害に)勝つ迄は」の心持ちで皆が心を一つにしなければならない。
 

デマだということを祈る

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月17日(木)23時36分18秒
   娘は外交関係の仕事をしている。その関係でアメリカ大使館と接点がある。
アメリカは福島原子力発電所が火曜日までもたないと判断し、在日アメリカ人
に本日午後6時に成田および羽田空港に集合するように勧告した。航空機を
用意し、ソウルおよび台北に運ぶという。
 一方、横須賀にいる空母ジョ−ジ・ワシントンおよび現在仙台沖で活動中の
空母ドナルド・レ−ガンを横須賀に寄港させ、在日アメリカ人をグァムに運ぶ
準備をしているそうだ。
 アメリカは日本政府の島原子力発電所に関する報告を全く信用してない。
 以上、悪い冗談だと考えてください。
 

国内の難民

 投稿者:憂国人  投稿日:2011年 3月17日(木)22時06分59秒
  最近テレビで公共広告機構のコマーシャルが多いが、その中に国連UNHCR協会の難民に対するものがある。
ナレーションで「戦争や迫害で故郷を追われた難民の人たちーーーー」画面の文字で「避難生活が20年以上続く難民もいる。」というものである。
このコマーシャルを見ていて、我が国の北方領土の住民であった方々はまさしくこの「難民」であり、65年以上も続いていることに思い至った。
こういう事実を日本政府はもっと世界に対して発信すべきであると思った。
 

R いい加減にしたら

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月17日(木)21時19分41秒
  RE:準戒厳令の布告 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)11時40分52秒
   福島第1原発、放射能漏れか=格納容器の減圧作業開始?第2原発も避難指示
時事通信3月12日(土)10時37分[.]
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
【引用終】

兵庫の人は、村山に恨みがある。

昨日は山梨県ではあまり大きな揺れがないと思っていたが、それは震度五を見落としていたからだった。山梨は竹下先生の住居であり、しかも今年中に生長の家の本部が立つなど、私にとっては(確かに他人の事ではあるが)決して他人ことでは終わらない問題であった。

そして、今度は原発。新聞を読んだ時点で「冷却装置が壊れた時点で、放射能が漏れないはずがないだろ、馬鹿か。」と菅内閣や新聞社に対して思ったのだが、(そのあたりは戦記シュミレーションでだいたいわかっている)案の定、皇国の危機が訪れた。

『■・注意・宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。』
(以上)
 

R いい加減にしたら

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月17日(木)20時21分2秒
  歴史の観察者氏とまともな議論はまともな人には不可能 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)18時21分54秒

≪≪『歴史の観察者氏は、私が投稿したという次の投稿文を批判したが、実はこんな文章は歴史の観察者氏の頭にしか存在していなかった。

歴史の観察者氏が「引用」?した文章>今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国

宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。<

一方の、私が実際に投稿したのはこれである。

>今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月12日(土)09時39分45秒
   播州人の私は、自身の存在を知らなかった。そして、親戚のいる地域に津波「注意報」が出ていると聞いて、テレビを見ると「これは夢ではないか?」と思った。然し、夢ではなかった。驚いた。』≫≫
------------

皇国の護国運動家と護国は同一人物なんだろ・・。
ゆえにわざわざと、この御仁へのレス文を護国に文字ったのよ・・

http://323.teacup.com/yoshiro/bbs?page=6&
RE:準戒厳令の布告 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)11時40分52秒
宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。

同一人物だから護国から文句がこないんだろ? へへへ筋論からいけば護国から文句がこないアカンわな・・それがなんで皇国の護国運動から文句くるのさ・・皇国の護国運動が言ったことそのまま引用した・・もう一つの覆面のHN護国でさ・・これ、そんなに詐欺行為かな?・・なら、警察に告訴しなさい・・私の混乱させる趣味を壊した損害とね・・。

だども、 なんでより混乱することするのさ・・へへへ、これ趣味かい・(笑)。
 

医療被曝(CTスキャンの場合)

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月17日(木)20時10分17秒
  CTによる被曝線量は各種放射線検査のうちで、やや多い方に属する。被曝量は検査部位や検査方法、機器の性能や設定によって異なるが、検査によっては1回で数十mSv - 100mSvを超えるX線被曝を受けることもある。ただし血管撮影をはじめとするX線透視下に行う各種手技(IVR)に比較すればCTの被曝量は総じて少なく、また放射線治療目的で使用される線量と比較すると、数十 - 数百分の1にとどまる。一般的に、放射線による健康被害のうち、確定的影響(ある閾値を超えれば誰にでも起き、逆にある閾値未満では決して起こらない影響)とされる急性期の放射線障害がCTで起こる可能性は皆無である(つまり白血球減少・脱毛・吐き気などが数週間のうちに起こる可能性はない)。CTで問題となるのは、数か月から数十年後に初めて顕在化してくる悪性腫瘍のリスクの増加、あるいは子孫への遺伝的影響である。これらは確率的影響と呼ばれ、どんなに少量の被曝であってもリスクはゼロにはならず、少量の被曝なりに少量のリスクが存在するものと”仮定”されている(直線しきい値無し仮説。疫学的証明があるというよりは、”安全のために”そのようなモデルが「想定」されている。保険物理の観点からは被ばく影響の発生には一定の閾値が存在しそれ以下では影響がないという意見の方が優勢である)。従って放射線検査は必要最小限のみ行い無駄な被曝をしないようとどめることが原則である。
CT被曝による具体的な健康被害を統計的に見積もることは難しい。最低でも数年にわたる追跡が必要になるし、CTを受ける人は通常何らかの症状があり元々癌の可能性が高い。健康な成人をCTを施行する/しない群に分けて追跡するのは倫理的問題があり、またCTを施行するほど当然無症状の早期悪性腫瘍は余分に見つかるので、見かけ上の癌発生率は高まってしまう。私の知人は都内の某大学病院で長年放射線技師をやっていますがとても元気です。
 

いい加減にしたら

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月17日(木)18時30分47秒
   私は逆で、むしろ皇国の護国運動家とはまともな議論は不可能だと思うし、
みなさん 国の護国運動家氏には気をつけましょうだが、今は休戦にしたら。 
 

歴史の観察者氏とまともな議論はまともな人には不可能

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)18時21分54秒
  歴史の観察者氏は、私が投稿したという次の投稿文を批判したが、実はこんな文章は歴史の観察者氏の頭にしか存在していなかった。

歴史の観察者氏が「引用」?した文章>今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国

宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。<

一方の、私が実際に投稿したのはこれである。

>今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月12日(土)09時39分45秒
   播州人の私は、自身の存在を知らなかった。そして、親戚のいる地域に津波「注意報」が出ていると聞いて、テレビを見ると「これは夢ではないか?」と思った。然し、夢ではなかった。驚いた。

案の定、新聞の一面は管ではなく、地震であった。多くの臣民の犠牲と引き換えに、政府の信用が保たれたのである。

「尊皇倒閣」祈願  <

本文の部分は一文字も一致していない。同じなのは、題名と投稿者名だけ。これは「名誉棄損」以上に「詐欺」である。これまでも、古代史討論では似たようなことがあったが、その場合は「論敵同士だから、誤解もあって当然」と私は我慢してきた。然し、今回の事は次のように悪質である。

@本文部分が一文字も一致していない
A私がそのことを指摘すると無視する
B国家有事の時だというのに、「偽書カード」を持ち出して話題をそらそうとする(私の指摘した後である)

全く、論敵の間同士、「名誉棄損」までなら許せるが、「詐欺」となっては許すことはできない。この歴史の観察者氏は常連であるということだが、いくら常連でも「名誉棄損権」「詐欺権」は持っていないはずだ。

歴史の観察者氏の投稿http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/8329

尚、Bについては皆さんには意味がよくわからないかもしれない。これは次の投稿の事を指す。

歴史の観察者氏の「偽書カード」http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/8343

この文章が成り立たないことは、歴史の観察者ともあろう方が知らないはずがない。つまり、単なる議論錯乱が目的なのである、しかも国家有事の際に!

何故成り立たないかは、今すぐにでもいえることなのだが、国家有事の際に議論錯乱を目的とした文章を相手にすることは、この掲示板の秩序を乱すだけであるから、私は今ここでの批判はあえてしない。

とにかく、この歴史の観察者氏という輩は「名誉棄損」「詐欺」「議論錯乱」ということを国家有事の際に平気でやるものなのである。学問の世界で、これらの三つすべてをした人は私は一人しか知らない、それは和田家文書偽作キャンペーン時の原田実(昭和薬科大学元助手、首になった)である。

みなさん、歴史の観察者氏には気をつけましょう!
 

北茨城以南は被爆の危険無し

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)17時55分21秒
  >原子力発電所の爆発事故で、東京の人もなるべく外出してはいけないって
本当ですか?<

解法者さん、私は関西の田舎者なのでよく知りませんが、東京では雪が降りましたか?関西では雹が降ってきましたが、もしあれと同じぐらいの表が東京で降って、それに合ったたら、何度かレントゲンを特化化のレベルの被ばくが起こるのではないでしょうか?学者先生は大げさに言っていましたが、よく話を聞くと、東京では数時間外にいると、CTスキャンレベルの放射線を浴びることになるような、レベルです。

要するに、少なくとも癌になるようなことは絶対に起きない。一日中外にいてもがんにはかからないことは私が保証します。(もし本当に一日中外にいて、癌が発病したならば、私が治療費を払いましょうか?)

仮にそれだけきつい放射線だと、家の中にいても確実に被ばくします。だから、「放射線がある、危ないから家にいろ」と云うこと自体おかしなことです。確か、テレビの学者さんも「念のため」というようなことを言っていたと思います。

詳しくは珍宝啓氏が投稿するのを待ちましょう。
 

衝撃の情報(2)

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)17時44分15秒
  【地震】夕方にかけて大規模停電の恐れ……海江田経産相がより一層の節電呼びかけ
RBB TODAY3月17日(木)16時39分[.]

経産省HPに掲載された大規模停電回避のための節電の呼びかけ

 首都圏を中心に大規模な計画停電が実施されているが、海江田万里経済産業大臣が談話を発表。このままでは大規模停電の可能性があると、より一層の節電を呼びかけている。

 海江田経産相は、会見のほか経済産業省のHPでも節電を呼びかけている。それによれば、厳しい寒さの影響により電力需要が急増しており、計画停電を最大限実施しているにもかかわらず、東京電力管内における電力需要は、昨日を約400万KW上回るペースで推移しているという。

 この状況が続けば、1日の電力需要がピークを迎える本日夕方から夜にかけて需要量が供給量を大幅に上回り、予測不能な大規模停電が発生する恐れがあるとして、より一層の節電を呼びかけている。

 これに関連し、国土交通省は東京電力管内の鉄道各社に運行する列車の本数を減らすよう要請もしている。 [.]



このままでは、東京の首都機能が停止するかもしれない。そういえば、昨日に停電の影響でバイクに乗っていたおじいさんが不幸にも、事故死したという。これも地震の間接的な被害者、まるで戦争だ。

今の原発はどうなっているか、これは北朝鮮より恐ろしい。北朝鮮の技術では核ミサイルは作れないが、地震は我が国にある核爆発装置を作動させてしまう。

これを機に、我が国から原発廃止、ひいては核廃絶運動が大きくなるのを願うばかりである。
 

遂に解法者氏もたちあがれ日本支持へ

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)14時22分13秒
  >「非常事態宣言」を発令し、超法規的に憲法を停止し、「石原慎太郎」東京都知事に全権を委ね、「菅 直人」は退陣し(自民党の「谷垣」総裁はその任ではない)、自民党からも入閣させ、挙国一致内閣のもと災害に対処するというのが最善の策ではなかろうか。「菅 直人」および民主党では混乱が増し、また復興は無理である。 <

ある程度同感。たちあがれ日本の石原都知事なら、なんとかしてくれるはずだ。然し、「挙国一致内閣」には反対。

寧ろ、石原都知事の指揮下で、自由民主党、たちあがれ日本、新党改革、国民と国益の安全を守る会、などが一致団結して菅首相がノイローゼになるまで足をひっぱってやったらいい。

私が望むのは「大日本帝国の復活」である。偽りの「日本国体制」など崩壊すればよいのだ。国家転覆こそ望むところだ。
 

神も助ける気はない

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月17日(木)14時16分50秒
  神にもいろいろあるが、人格を持つ超自然的な存在であったら、私ならこう考える。

「日本なんか、滅んどけばいい。無能な首相に、つい最近までそれを支持していた国民。小沢憎さに、最悪の内閣を選んだ民主党。そして、それを与党にしたのは国民だろ。
自業自得、これを最後の審判だと思え!」

私なら、そういうであろう。

もう、神風は吹かないであろう。数千人の皇国臣民の死、それで一番得しているのは、間接的にしろ、国民が選んだ菅直人なのである。

>自衛隊に信頼を置かない左翼内閣のときに限ってこういう大震災が起きるのも何かの因縁であろうか。かくてその被害は国民に負わせられる。<

売国奴が首相になると、多くの臣民が死ぬ。愛国者が首相になると、天災は起こらないのである。
 

最悪の展開

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)13時56分12秒
  放水作業を三十分以上行ったが、結局、放射能は収まらず。

靖国の英霊よ、どうか臣民たちを守ってください。首相の首級を差し出しますから。いえ、これはジョークです。

然し、A級戦犯に国を守ってもらいたい。
 

RE:国民一流、政府五流

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月17日(木)13時52分32秒
  こういう時ばかりは、中国のマスコミの批評がなんとなく正しいようで、空しい。支那の首脳部も馬鹿じゃないから、少なくとも、我が国の内閣以上に優秀。

嗚呼、生長の家は祟りを認めないが、私は残念ながら靖国の英霊が起こっているように思えてならない。
 

国民一流、政府五流

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月17日(木)00時08分14秒
   日本国民は大災害にも冷静で、秩序正しく行動している。外国からも絶賛されている。ところが政府の評価は極めて低い。無策だと言ってよかろう。
 福島県知事の「佐藤雄平」が福島原子力発電の放射能漏れ事故の非難について「菅 直人」内閣の地方丸投げについて本日の夜7時のNHKニュ−スで怒っていた。住民を避難させるについても受入場所、そこへの移動手段の確保が必要だが、福島県に丸投げで困惑しており、政府の無策に語気を強めて非難していた。そのとおりだが、彼も同じく民主党員。いかに無能な政党に依拠していたと臍をかんでいることだろうが、民主党員であることはおくびにも出さない。お気の毒だが同情しない。
 新潟県は福島県と阿賀野川沿いで道が開けており、鉄道も「磐越西線」があり(その先には「磐越東線」がある)、古くから交通が通じている。今回の福島県の避難住民の受入に邁進している。末弟も交通会社の役員でバスの手配と社宅などへの受入に助力している。実家の旅館にも宿泊の要請があった。これは政府の要請というより新潟県および新潟市の申入れ。無策な政府を信じていたら、助かる者も助からない。地方の方が真剣で役に立つ。これも<国民一流>の現れだろう。石原東京都知事は「我欲」が横行していることに対し<天罰>だと言うが、国民が馬鹿な政党を支持したものだという意味で<天罰>だと考えている。
 

最悪の内閣に最悪の事故(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月16日(水)13時21分52秒
   「菅 直人」内閣の無能が次々と露呈している。まず、首相が官邸に陣取って災害の陣頭指揮を執るのが危機管理の鉄則だと思えるが、地震発生の翌日の12日(土)の午前中に福島第一原子力発電所を視察し、現場で放射線漏れの対応に忙殺されていた同発電所の職員が首相の対応に時間を割かれた。首相はその後も被災地視察を望み、たまりかねた周囲に引き止められたという。首相が
同発電所を視察して何か事態が変ったのであろうか。全くの無駄・徒労だったと思える。それに懲りることなく、今度は15日(火)早朝、統合対策本部の立ち上げのため東京電力本社に赴き、東京電力本社の幹部たちを「一体どうなっているんだ」と怒鳴り挙げたという。しかも、ここには3時間11分も留まっていたという。怒鳴るのは「イラ菅」で知られる「菅 直人」の専売特許であるが、怒鳴って何の意味があるのだろうか。それはまだいいが、ここに3時間11分もいたということは災害の情報の中枢である官邸の指揮命令はどうなっていたのであろうか。<危機意識>の欠如も甚だしい。そのほかにも福島原子力発電所の緊急事態の情報公開が後手後手に回って国民から厳しい指弾を受けている。
★ 産経新聞 平成23年(2011年)3月16日(水)朝刊 東京15版
 4面 政論
 

最悪の内閣に最悪の事故(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月16日(水)13時21分6秒
   13日(日)には「蓮舫」行政刷新担当大臣を「節電啓発担当大臣」に、「辻元清美」を「災害ボランティア担当」の首相補佐官に任命したという。「蓮舫」は早速石原東京都知事に協力を求めるため訪問したが、そこで知事に事業仕分けで大津波対策の「ス−パ−堤防」の廃止についてたしなめられている。コイツがやることと言ったらパフォ−マンスだけで、これまで事業仕分けにしても実効性があったかは疑わしい。「辻元清美」にいたっては平成7年(1995年)の「阪神淡路大震災」のときにボランティアと称して反政府ビラを撒いたという前歴があり、コイツが選ばれたのは「ピ−スポ−ト」という実績を買われたのであるが、「ピ−スポ−ト」は青年に反日を吹き込む組織であり、首相もその仲間である。「災害ボランティア」の実績もなく、コイツにボランティアを束ねさせたらとんでもないことになる。産経新聞が<ブラックジョ−ク>だというのもそのとおりである。  

最悪の内閣に最悪の事故(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月16日(水)13時19分42秒
   福島原子力発電所を爆発から防ぐために放水などが必要とされるが、これには消防などではダメで、できるのは自衛隊だという。ところが、内閣を去ってもなお大きな影響力を持つ「仙谷由人」が自衛隊を<暴力装置>と言っているせいか投入が遅れている。こういう反国軍内閣が自衛隊に信頼されるはずもなく、自衛隊員自身も士気が上がらないであろう。常日頃から良好な関係を結んでおかないと非常時に役だってもらおうとしても無駄なのである。
 それとどうして「非常事態宣言」を発令しないのか理解に苦しむ。夜間外出を禁止し、私権を制限し災害地の住民を統制下に置き、被災害自治体の対応を統率する、こういうことは喫緊の措置であろう。あの「阪神淡路大震災」のときの「村山富市」首相もそうだった。自衛隊に信頼を置かない左翼内閣のときに限ってこういう大震災が起きるのも何かの因縁であろうか。かくてその被害は国民に負わせられる。
 「非常事態宣言」を発令し、超法規的に憲法を停止し、「石原慎太郎」東京都知事に全権を委ね、「菅 直人」は退陣し(自民党の「谷垣」総裁はその任ではない)、自民党からも入閣させ、挙国一致内閣のもと災害に対処するというのが最善の策ではなかろうか。「菅 直人」および民主党では混乱が増し、また復興は無理である。
 

何かむなしい

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月15日(火)12時47分48秒
   地震の研究者が今回の地震について解説しているが、後の祭りで何か
むなしい。
 原子力発電所の爆発事故で、東京の人もなるべく外出してはいけないって
本当ですか?
 原子炉の構造の解説よりも一般人にとっては危険かどうかが一番の問題で
す。このあたりの情報が欠けているように思います。
 

アンケート

 投稿者:戸田  投稿日:2011年 3月15日(火)09時32分15秒
  http://www.mapinion.jp/enq/Timely/20110315-092002/

アンケート・・・ヨロシク
 

困ったときの神頼み

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月15日(火)05時15分19秒
   これで行けるなら、こんな良いことはないんだけど。  

宗教的にみた今回の地震

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)17時36分22秒
  『小閑雑感』(谷口雅宣)より引用
>2011年3月11日
東北地方太平洋沖地震
 日本の観測史上最大といわれるM8・8の大地震が東北地方中心に起こり、最高7メートルもある大津波が列島の太平洋岸を襲った。まだ被害状況の詳細はわからないが、テレビ等で伝えられる揺れの大きさや津波のすさまじさから考えると、阪神淡路大震災なみの相当数の被災者と、甚大な被害が出ているものと思う。被害に遭われた大勢の方々に心からお見舞い申し上げるとともに、被災者の救助と救援活動に尽力されている政府各機関を初め関係者、ボランティアの皆々さまに、心から感謝申し上げます。また、海外からもたくさんのお見舞いのメッセージと祈りの念をいただいています。感動するとともに、“神の子”の同志との一体感を感じます。
:2011年3月13日
東北地方太平洋沖地震 (2)
 大震災の被害状況について、福島、岩手、長野の3教区の教化部長さんから報告をいただいた。多くの読者の関心事でもあると思うので、一部、ここに紹介する。また、カナダのトロント教区、小林俊朗・教化部長からは、同国の人々の反応をつづったメールをいただいたので、それもご披露する。

>午後3時から執務室で人と会う約束があったから、揺れが収まると隣室の秘書たちに頼んで、床に落ちた本や書類を片付けてもらった。そして、予定通り来訪したその人と面談を始めた。そうこうしている間に、2回目の揺れが来た。今度は明確な縦揺れだった。面談の相手と顔を見合わせ、「下へ降りたほうがいい」と合意した。そして、階段を伝って1階まで降り、隣接する東郷神社のピーターハウスの前で、揺れが収まるのを待った。そこには、同じように危険を感じて外を出た本部職員が何人もいて、その数はだんだん増えていった。

>2回目の揺れが収まると、私は面談相手とともに再び執務室へもどり、そこで手短に用事をすませてからテレビを見た。いつも落ち着いた態度でニュースを報じているキャスターが、声を震わせていた。そこに映し出された映像は尋常でなかった。特に津波の大きさに舌を巻き、早く帰宅しようと決めた。残った仕事は家でもできるものばかりだったからだ。こうして帰宅できた私は、幸運だった。東京の鉄道は地下鉄を含めてすべて止まっていた

>自宅の被害はなかった。ただ、高い場所にあった多くの物が落ち、一部の花瓶やコップなどが壊れた。私が帰宅したとき、妻はそれらの片付けをほとんど終わっていたが、私の書斎では本が散乱していた。大きなもので壊れたのは、庭にあった石灯籠ぐらいである。また、ガスが止まっていた。が、これも夕食前には出るようになっていたので、食事も普通にいただけたのは本当にありがたかった。

>私は、7年前に新潟中越地震を長岡駅で経験しているので、揺れに対する恐怖はそれほどではなかった。あの時は、立っていられないほどの揺れで、駅の床に這いつくばって恐怖に耐えたのだった。それと比べて、「まだ大丈夫」という気持がずっとあった。しかし、今回の地震の激甚さはその比較ではないだろう。被災地の一刻も早い復興を心からお祈り申し上げます。

>岩手教区 矢野俊一・教化部長
:地震の発生以来、岩手県全域では停電が続き通信網が途絶えておりましたが、12日の夜遅く復旧いたしましたので、教区内の被害状況について、現在、把握している範囲内でご報告申しあげます。
:内陸部の県北・二戸市、盛岡市から南下して、花巻市、北上市、水沢市、そして県南の一関市も、信徒からの情報によりますとほとんど被害は出ていないようです。また教区の七者も全員無事であります。
:ただ沿岸部では、報道にもありますように、津波による甚大な被害が出ている模様です。特に被害の大きい地域には、聖使命会員や組織会員が多数おりますので、大変心配しております。聖使命会員は、宮古市に192、大槌町に8、釜石市に65、大船渡市に30、陸前高田市に1、山田町は0、また組織会員は、宮古市に15、釜石市に6、大船渡市に4、大槌町に2の会員がおります(陸前高田市は0です)。今はただこの方々の無事を祈るのみです。

>カナダ・トロント教区 小林俊朗・教化部長
:当地カナダの信徒・誌友の中にも、被災地域に親族や知人、またその地域に隣接の県で、連絡がとれず様子を案じている人がおります。また、日系人のみならず、当地カナダでの各種メディアが刻一刻と報道され、それで知られた方からもお見舞い・励ましをいただいているところです。<

http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue/2011/03/post-51b6.html#comments

引用が長くなり、すみません。然し、もうひとつ、これに対する神戸の人のコメントも引用しておきます。

>合掌
総裁先生、ありがとうございました。
今、朝のお祈りから帰って参りました。
私は、環境への取り組みで体を壊し、
生長の家の物質無し、肉体無しの教えに救われました。
本当に人体は、肉体でない、神のコトバの振動によってなりたっている、ということがハッキリとわかり、
肉体は、心によってどうにでもなる、ということを思い知り、
最終的には、神の子の自覚によって、救われました。
人とは、霊(コトバ)であると。
今は、すべてに調和した形で環境のことにも配慮できつつあります。
万物を救うのは、生長の家の説く真理しかないと思います。
本日の大講習会の大成功をお祈りしております。
            再拝
投稿: 松尾 | 2011年3月13日 07:42
私は以前、老朽化した原発の停止を訴えておりましたが、
生長の家の人から、生長の家の人の中にも、原発にお勤めの方がおられるので、原発の話しはしないでほしいといわれ、
それから生長の家に行きづらくなり、
そのころはまだ人間は肉体だと思っていましたので、
そういう意識で環境問題に取り組んでいましたら、
見事に体を壊し、生長の家に救われました。
人間を肉体だと思うのは諸悪の根源かもしれないですね。
               再拝
投稿: 松尾 | 2011年3月13日 08:48<

私はこの松尾氏と全く同感である。「人体は、肉体でない、神のコトバの振動によってなりたっている」のである。この言葉とは、神の言葉であり、悪魔の言葉ではない。そのことを信じたら、私や松尾氏のように神兪が現れるのである。

日本人には宗教を嫌う傾向があるが、この掲示板の方にはどうか「人間神の子」の真理を知っていただきたいのである。
 

東京電力の責任

 投稿者:無学老人  投稿日:2011年 3月14日(月)17時25分11秒
  東京電力の責任範囲は設備の安全上
の問題を含まないと思います。なぜ
なら設備安全上の問題は国の指示監

督による事は原子力基本法?で規定
されているからです。東電に在る責任
とは通常の注意を払って運転と管理を

する事でしょう。今回の事故が設備の
構造や安全装置の問題としたら認可を
与えた原子力安全委員会に在ると思う。

なぜなら採用できる設備や安全装置ま
で国の認めた物でなければいけないから。
もっと安全な構造や装置が在っても東電

が自由に選択は出来ないのですから
今回の事故責任は無し。
 

余震以上に問題である「連動地震」

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)17時20分20秒
  問題は連動自身です。今回の事に連動して起こるもの。例えば新潟でもあったそうですね。それが西日本でも起これば、我が国の終わり。今は太平洋沿岸での連発地震、それに新潟の若干小規模な地震、そして余震。然し、私にはそれで終わるとはとても思えないわけです。

それが東海地震かもしれないし、東南海地震かもしれない。どちらにしろ、私のいる播州も無事ではなくなる。

あと、何もなくても原発の事がある。最初は「大丈夫」と言っていた菅首相だが、全然大丈夫ではなかった。そのことも不安。

非、常連の私が言うべきことではありませんが、若し常連で亡くなられた方がおられたら、親族の方には連絡していただきたいと思っています。

今後起こるかもしれない地震、そのために聖経読誦は必須。「日本の敵は北朝鮮だ、中国だ」と言っていた方はこれを機に「誰も攻めてこなくとも、平和が崩れることはある」ということを再確認すべき。私はこれにさっき気付いたばかりですが…。

とにかく、『甘露の法雨』を読むことをお勧めします。また、できるだけ小閑雑感等の生長の家の文章もお読みください。かつて、私は谷口雅春先生の本を読んでインフルエンザが一日で直ったことがあります。そのような神兪が起こるのです。
 

仙台の状況

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月14日(月)15時21分52秒
   仙台にいる友人から昨深夜電話があった。こちらからも電話しているが全く
通じなかったので安心した。彼は独身。職業は土木設計士。市内に事務所を
経営している。
 仙台市は合併で市域が広がっている。彼の住まいは青葉区 中心部からそう
遠くはない。マンションの4階に住んでいる。マンションの人たちと日頃の
付き合いはない。
 地震当時、部屋にいたが、地震の強烈な揺れで室内の家具は全部倒壊した。
めちゃくちゃという状況にある。電気は昨深夜通じた。水道・ガスは止まった
まま。水道はマンションの屋上にあるタンクが崩壊し、復旧のめどが立たない。
昨日は幸い暖かかったので助かったが、それまでが大変だった。とにかく昼でも
布団にくるまって寝ているしかなかった。エレベ−タ−も止まっている。
 近所のス−パ−、コンビニは一軒も開いてない。まず食べ物に困った。行政
からの連絡は皆無。避難場所の指示さえない。そもそも電気が止まっているので、
テレビも見られず、情報が全く入ってこない。携帯も通じない。水道が止まって
いるので、トイレに困った。道路も破壊され、自転車で通行できない。マンション
の人たちは避難しているのか留まっているのかわからない。マンションの管理人も
どこかに行ってしまった。情報は全く取れない。
 意を決して中心部にある友人宅に30分歩いて行った。途中、同じくス−パ−、
コンビニは一軒も開いてない。友人宅では水道も通じており、風呂に入れた。
食料も分けてもらった。
 事務所も心配だが、ビルの高層階にありエレベ−タ−も止まっているだろうから
行く気にもなれない。従業員とも連絡は取れない。
 仙台でも区・場所により状況はかなり異なるそうだ。中心部ではビルの倒壊は
見られない。
 海に近い若林区などは壊滅状態だという。
 市内でもタンスなどの下敷きになって死んでいる独居老人が多数いるのでは
ないか。
 公共の交通機関は止まっている。自転車にでも乗って情報を拾いたいが、
道路状況が悪いので無理。
 新潟地震の比ではない。
 

衝撃の情報

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)14時21分34秒
  計画停電、第4グループも電力供給中
読売新聞3月14日(月)14時8分[.] 東京電力は14日午後、東日本巨大地震に伴う計画停電について、市町村を時間帯で区分けした第1グループ(午前6時20分〜午前10時)、第2グループ(午前9時20分〜午後1時)について実施しなかったと発表した。

 第3グループ(午後0時20分〜午後4時)、第4グループ(午後1時50分〜午後5時半)も電気を供給しており、計画停電は見送っている。
[.]COPYRIGHT THE YOMIURI SHIMBUN

計画停電って、口先だけ?

菅直人よ、「実施するのなら早くしろ」を言え。いや、よく考えると首相が言っても、意味無いか。

今は国家有事の際、誰か地震に関することを、生きているのならこの掲示板で教えてください。特に常連の方々は。
 

地震収まるも、臣民の枕低し

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)14時14分25秒
  死者・不明3300人超=「女川で1000人」、被害拡大?東日本大震災
時事通信3月14日(月)13時24分[.] 東日本大震災の死者・不明者は14日正午現在、死者1647人、行方不明者1720人で、3300人を超えた。壊滅した宮城県南三陸町で約9500人と連絡が取れない状態が続いているほか、宮城、福島、岩手3県では多数の行方不明者がおり、被害はさらに拡大する見通し。
 宮城県警の竹内直人本部長は同日、孤立状態が続く女川町について「牡鹿(半島)の被害がひどく、1000人以上遺体があると思われる」と述べた。本部長は県内の犠牲者について「万人単位になることは間違いない」との見通しを示している。
 一方、同日午前、青森県八戸市と福島県新地町で新たな津波発生情報が海上保安庁などから寄せられ、八戸市など沿岸部の自治体に避難指示が出されたが、気象庁は「東北から関東の範囲では、関連する地震はなく、津波も観測されていない」としている。同市の避難指示は解除された。警察庁によると、死者は岩手531人、宮城643人、福島420人など12都道県に及んでいる。
 避難している人は東北、北関東の6県で約37万2000人に上り、岩手県や仙台市など一部の自治体は仮設住宅建設の検討を始めた。
 岩手県大船渡市で市庁舎や病院などに電気が通ったほか、宮城県でも仙台市を中心に回復の動きが出ているが、水道やガスを含め被災地のライフライン復旧のめどは立っていない。既に5万人が動員され、捜索・救助、食料輸送を続ける自衛隊は近く10万人規模に態勢を拡大、復興支援にも当たる方針だ。米国際開発局(USAID)の救助隊員ら各国からの支援隊も続々来日し、活動を本格化させた。
 一方、気象庁は今後マグニチュード(M)7以上の余震が発生する確率について、16日までに70%、その後3日間以内で50%と予測、警戒を呼び掛けている。

[時事通信社] [.]

官房長官「注水は継続中」=原発爆発
時事通信3月14日(月)12時23分[.]


枝野幸男官房長官(写真)は14日午前の記者会見で、福島第1原発3号機の爆発について、「(圧力容器への)注水は継続されている。圧力の数値が若干低下しているが、一定の範囲内にある」と述べた

http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0314/jjp_110314_7751052312.html

菅さんと枝野さんだから、安心できないというのに。国民の不安を和らげたいのであったら、真っ先に辞任すべき。あと、前原さんの名誉回復と。

小沢一郎氏の党員資格停止処分も見直すべき。こういう有事の際は有能な人が政治をすべき。「政治と金」問題は管も同じなのだから、小沢の出番だろう。
 

我が国とチベット

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)14時03分50秒
  日本人複数名の阿闍梨の称号授与についてのご注意2010年9月28日 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所関係者各位

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所にメディア・寺院および一般個人から、日本人複数名に阿闍梨の称号が授与されたのは本当でしょうか、という問い合わせを度々頂いております。

この件に関しまして私どもは、ダラムサラのチベット亡命政権の宗教省をはじめ各の宗派の関係者に問い合わせましたところ、阿闍梨およびその他の宗教関係の称号を与えた事実はない、という回答を書面でも受け取っております。

チベットは歴史上もっとも厳しい現状の中にあり、このような残念なことは二度とおこらないよう、そしてご関心のある皆様におかれましては、このような事実無根の内容に十分お気をつけくださいますようお願い申し上げます。

2010年9月28日

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
代表ラクパ・ツォコ

「生長の家」の大調和の教えを守らず、政教分離の原則をも破ったとある団体(チベット側さえ、名指しにしていないのだから、よほど恐ろしい団体なのだろう、まあ、ピンとくる人も少なくないでしょうが)が勝手に阿闍梨を名乗っているらしい。

ちょっと脇道にずれた。チベットから、我が国の地震に対する連絡がない。ニュージーランドには生命を発していたのに。

なんとなく、我が国が世界から無視されているような気がする。チベットに言わせれば「西戎(いや、チベットからみれば北狄か? )の言いなりになるような国など、話にならない」ということか。観音菩薩たるダライ・ラマも日本に訪問した時はひどい目にあったからなあ。

仏の顔も三度まで、先程のカルト団体に、2008年の無礼な態度、そして自分の国さえも守れない馬鹿な首相、いくらに観音菩薩といってもこれには呆れるほかないだろう。
 

(無題)

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)13時51分50秒
  四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん ……

昭和天皇陛下も難しい歌を歌ったものだ。

私は騒ぎすぎているでしょう。

被災者のご冥福を祈ります。

国家有事の際には全臣民が一丸となるべきですね。

私は先程調べるまで全く知りませんでした。
 

追記

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)13時42分45秒
  歴史の観察者氏は全然偽作の証明をしていないが、現在は有事なのと、こいつに何を言っても無駄なので、反論は後回しにする。(そんな有名な話など、屁理屈にしろ言い訳を擁護派が言っていないわけがないだろ、馬鹿者)  

解法者さん

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月14日(月)13時39分52秒
  今は歴史の議論をすべきではないと私も言っています。然し、「偽書カード」を切ったのは解法者氏でしょう。

いえ、直接のきっかけを作ったのは私です。不適切な投稿を深く謝罪します。
 

あと一つは何だたっけ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月14日(月)13時07分46秒
   日本の三大禍根というのがあると言われている。
1.鉄道の狭軌、2.電力の50HZと60HZ(あまりよくわからん、誰か教えて)
3.は思い出さない。
 2.であるが、関東一円で停電騒ぎになっていても、関西から電力の供給はできない
そうだ。どうしてこんなことになったのだろう。
 ところで、3は何?
 

計画配電

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月14日(月)13時02分56秒
   東京などの関東一円は福島原子力発電所の事故で電力が不足し、計画的な停電が
実行されんとしている。そのため電車が一部止まり大混乱となっている。
 こう聞くと止むを得ないと思いがちであるが、少し腹が立つ。
これは突然昨日の深夜になされ、今日になっても情報が錯綜し、どこの電車が動いて
いるやら、あるいは止まっているやらよくわからない。停電にしても昨夜のとおり
実行されるのか、延期されるのか、延期されるならいつまで延期されるのかがこれ
また正確に伝わってこない。政府の対応は後手後手だ。
 この停電が今回の事故によるというならまだガマンできるが、事故と関係の無い
原子力発電所は先の事故隠しで稼動してないところがあると聞くが、そうならば
人災だ。
 「最悪の時期に最悪の事故」だというが「最悪の内閣に最悪の事故」というのが
正確の表現であろう。
 

よかげな

 投稿者:薩摩大尽  投稿日:2011年 3月14日(月)02時34分56秒
  ほんなこてね

夜泣きのそば屋どん

田舎もんも災害の勉強せんといかんばい
 

無題

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月13日(日)22時20分40秒
  四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん  

東京電力に責任はない?

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月13日(日)22時12分40秒
  >原子力発電は全て原子力安全委員会の指導監督下に置かれていますので
責任は全て委員会に在ります。
 東電に責任が在るとしたら委員会の指揮監督の指示に違反している事実
が必要です<

 実際に福島原子力発電所を運営・管理しているのは東京電力だと思います
から、事故の責任は免れないのでは? つまり、工作物設置責任(民法第717条)
を問われるのではということです。原子力安全委員会のみが責任を負担し、東京電力
が免責されるとは信じがたいな。
 

こんなときに「和田家文書」ですか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月13日(日)21時55分5秒
   「護国」氏が地震で日本が大変なときに「和田家文書」なんぞを持ち出すから
「歴史の観察者」さんがエキサイトするのです。
 あまり感心しませんな。
 

おや・おや?

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月13日(日)18時58分34秒
  皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月13日(日)10時54分6秒

<<『■・歴史の観察者氏は「和田家文書」を偽書と信じている時点で、まともな議論など不可能・・』
--------

?????(笑)
1991年から93年にかけて国立歴史民俗博物館が行った十三湊遺跡の総合調査では14世紀の大津波の痕跡や、安東水軍の実在を示す証拠は一切見つからなかった。
(国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学
らの調査)

また、その調査で、貿易港としての十三湊は13世紀半ばに開かれ、その繁栄がピークを迎えたのは14世紀半ばから15世紀初めであることが判明した。つまり十三湊が鎌倉時代以前に開かれて14世紀半ばに滅んだという『東日流外三郡誌』の主張は実情とまったく合っていなかったのである。

国立歴史民俗博物館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

組織と理念 [編集]歴博は開館当初から国立大学共同利用機関として位置付けられた。歴史資料の展示公開を行うことが歴博の重要な業務であることは言うまでもないが、歴博は展示施設であるとともに考古学、歴史学、民俗学の研究機関であり、他の研究機関や大学と共同で研究を推進し、調査研究の基盤のもとに展示を行うことが重視された。

歴博は組織上も研究を重視し、開館当初は情報資料研究部、歴史研究部、考古研究部、民俗研究部が置かれた。このうち情報資料研究部は展示資料の材質、技法、保存修復、博物館運営におけるコンピュータの活用、展示手法の研究などを行う部門であり、歴史研究部、考古研究部、民俗研究部の役割は読んで字のごとくである。各研究部はそれぞれ4から6の部門に分かれ、それぞれの部門に教授、助教授、助手(現在は、教授、准教授、助教)が配置された。2004年に歴博が大学共同利用機関法人人間文化研究機構の所管になるとともに、研究組織の改組が行われ、「研究部」のもとに情報資料研究系、歴史研究系、考古研究系、民俗研究系が置かれることとなった。
--------

私、歴史の観察者は、1977年に青森駅前の古本屋で買った、本当に安っぽい学術雑誌か小説か区別のつかない、『市浦村史 資料編』(上中下の三部作)、「東日流外三郡誌」を読んだ・・SF雑誌大うに面白かった、だから、その2年後1979年に日本に帰国のさい・・秋田よりレンタカーで十三湖湊まで走っている・・一泊して『東日流外三郡誌』を片手にもち湊をゆっくりまわったよ・(笑)。


 

解法者氏

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月13日(日)18時17分32秒
  私は素人です。然し、素人だからといって、余り謙遜する気にはなれないものです。

自らに納得のいく形で批判されなければ、例えば歴史学においては和田家文書が偽書であるという証拠がない限り、誤りを認めることはできません。私が頑固な法であるかもしれませんが、多かれ少なかれ人間にはそのような傾向があるはずです。

今回は歴史についてあれこれ言っている場合ではありません。原発について、最大限の対策を発案すべきです。この掲示板には「常連以外出入り禁止」とは書かれていないので、私にも発言権はあるはずです。
 

原発事故

 投稿者:無学老人  投稿日:2011年 3月13日(日)17時40分37秒
  原子力発電は全て原子力安全委員会
の指導監督下に置かれていますので
責任は全て委員会に在ります。

東電に責任が在るとしたら委員会の
指揮監督の指示に違反している事実
が必要です。東電の意思で原発を

どうにか出来るものでは在りません。
安全装置の一つでも勝手に変更は
出来ない運用と成っているからです。

委員会の人達は現場人間では在り
ませんし書類管理を得意としてます。
もちろん危機管理や事故防止の専門

家でも在りません。今回の事故でも
書類上では安全に落ち度は無いと
主張する事でしょうね。

たとえては何ですが裁判官が捜査方法
を指揮監督する事に似ていると思います。
法律は自分の方が良く知っているから

言う通りに捜査しろという事でまとも
な捜査は出来ないでしょう。同じ様な
事で安全委員会の言うとおりに原発を

作っても安全は向上しないのです。
 

災害に体験者 教えてください

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月13日(日)17時34分37秒
   災害に関してどういうものを準備しておいたらよいでしょうか。
私の経験からは、1.寝袋(必ず家族分は準備しておく)、2.耳栓(避難所で
は周りがうるさいので便利)、3.眼鏡(今回も机の上においておいたが地震で
飛んで、見当たらず本日書籍の下から出てきたが破損していた)4.水(ペット
ボトルに5本)、です。
 私の経験からは、災害で一番早く復旧するのが電気、次にガスです。水道はかなり
遅れます。食糧の備蓄も必要でしょうが、これは何とか配給などで手に入ります。
 

原発事故に思う

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月13日(日)14時39分0秒
   全くの科学オンチであり、これから述べることが正しいという自信は全く無いが、一言言わせていただく。誤りがあればどなたか詳しい人に解説をお願いしたい。
 素人内閣を取り仕切る「菅 直人」はどこかでボロを出すと思っていたが、案の定「福島原子力発電所(1号機)」でその能力が露呈した。「菅 直人」は地震発生直後にここを視察に訪れたそうだが、何を見ていたのだろうか。彼の視察で何か変わったことがあったのであろうか。首相が視察するとなると現場の人たちはその応対に忙殺される。今回の事故はそれに忙殺されて原発の事故発生への対応が遅れたことも要因の一つがあるのではなかろうか。
 原子力発電所の事故はその影響が甚大だということは理科知識オンチの私にだって少しくらいはわかる。それゆえ、情報は逐一地域住民および国民に公開すべきである。その遅れが住民に被爆の損害をもたらしたのではあるまいか。政府はいたずらに地域住民および国民に不安を与えてはならないと考えて情報を適切に公開したと抗弁するだろうが、民事損害賠償訴訟に発展したら、被爆住民が存在しては。100%国の責任が認定されよう。これも尖閣諸島・北方領土から続いた危機管理意識がない。まさに素人内閣に起きるべくして起きた事故であると言える。
 原発の直接の責任は「福島原発」を運営・管理する東京電力にある。これも想定外だったと言うだろう。しかし、あの阪神大震災で村山富市という社会党出身の首相が「何しろ初めてのことなので」と言い訳したように、同じことを繰り返すかもしれない。我が国は世界でも有数の地震国である。それを前提に原子力発電所が設置されている。そして国民もそれを容認している。国民の信頼を裏切った東京電力の幹部は万死に値する。
 それはそうとして、原発事故の最大の要因は、国家のエネルギ−政策の電力供給政策の一つである原子力発電を民間の電力会社に委ねたことにあると思う。つまり、政府がエネルギ−政策を電力会社に丸投げしていたことにある。これは何も民主党政権のみでなく長年続いた自民党政権に最大の責任がある。しかも、原子力発電はこれまでも世界で事故を起こし、危険を伴うことは公知の事実となっている。にもかかわらず、国家が主導しない国がどこにあろうか。その責任は政治家も負うべきだ。
 安価だと言われる原子力発電はその推進が世界中に広がっており、日本もその例外でないが、度重なる事故とその隠蔽で国民の信頼を失いつつあった。それが今回の事故で原子力発電反対の国家のエネルギ−政策は今後50年は停滞するのではなかろうか。極めて残念なことである。もう一度安全対策を進めたうえで原子力発電の復活を願わないでいられない。原子力発電は依然として我が国のエネルギ−政策の根幹なのである。原子力発電反対者の跋扈を許してはならないのである。
 

逆だよ!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月13日(日)13時23分38秒
   まともな議論ができないのは「護国」氏。
知識が少なく(書物などはまともに読んだことがないのでは?)、
したがって、多角方面から事実の検証もできず、一定の見解から抜け出せない。
 「歴史の観察者」さんの方が格段にレベルが上ですね。
 

歴史の観察者氏とまともな議論はまともな人には不可能

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月13日(日)10時54分6秒
  歴史の観察者氏は「和田家文書」を偽書と信じている時点で、まともな議論など不可能。中傷を趣味として、にもかかわらず紳士的さを装う。だが、文章はわかりづらい。みなさん、こんな人は無視しましょう。

まさか、ときみつる会の輩か?
 

歴史の観察者氏の存在は菅直人と一緒

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月13日(日)10時50分37秒
  >そして、「本当に酷い書き込みだな」は・・次のこころ比較して

『■・今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国

宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。』<

さっき調べてみましたが、私はその投稿をしていません。「今回の地震を起こしたのは管直人だろ」に当該の文章はありません。

やはり、貴方の頭は根本的におかしい。宣言通り、歴史についての貴方の論考は一切無視します。

こんなことばかり言っていると、名誉棄損罪で訴えます。

 

RE:不思議なことがある

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月13日(日)10時45分16秒
  私も不思議に思っていた。然し、誰も突っ込まない。

>偏見かもしれないが、外国人にその危険性はないのだろうか。 <

意味不明のヘルメットに火事場泥棒、然し、私はそれ以上に「火事場原発事故」が恐ろしい。

だが、やはり民法の奴らは臆病ものなのだろうか?地方のアナウンサーにテレビ局の人が「ちょっと質問していいですか?」と言って嫌そうな顔をされ、それ以来スタジオは勝手に聞くことにしていたような。

>そして、「本当に酷い書き込みだな」は・・次のこころ比較して

『■・今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国

宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。』

より高いか、低いかを君にではなく、管理人の批評を待つの・・それを要らざる余分投稿を
不適切発言と反省されましたなら・・当掲示板を波風立てぬように、ご沈黙願いたいですな・・どうしても、物言いをつけたいのならば・・同じ内容文を某掲示板・某々掲示板に載せてほしい・・その場合は戸田さんやなく本HNでね・・これが波風立れぬ方法と思いまんが?。
(かしこ)<

歴史の観察者氏はどうしても私の皮肉を言いたいようである。

私は「皇国臣民の犠牲により、菅直人の地位が守られる」という現実に怒り、このような論考を発表したのである。さらに言うと、歴史の観察者氏の「先例」もあった。

若し、竹下先生がこれを削除したとしても、不服はありません。この掲示板は竹下先生の掲示板であり、竹下先生の判断が法律よりも重視されています。それは当然のこと。「出入りお断りにしてもよろしいでしょうか?」と警察に聞く人は管理人とはいえない。

然し、私にも言論の自由はある。歴史の観察者氏の言論を批判する自由は「基本的人権」の一つである。

さらに言うと、私が「歴史の投稿をしている場合ではない」というのも、云うだけ自由なのである。観察者氏はそのあたりがわかっていない。

さて、皆さんには『生命の実相』(全四十巻)を読むことをお勧めします。

「尊皇倒閣」祈願
 

前投稿者のTくん

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月13日(日)07時43分55秒
  CH桜の前投稿者のTくんや・・そして戸田くんや

<<『■・けどいま政治なんかあえて持ち出すなと言いたかったんじゃない?(戸田くんは)それでいいじゃん。
ここはチャンネル桜じゃないから波風立てないでね。』>>

<<『■・本当に酷い書き込みだな。
貴殿も大人なら襟を正してください。
不適切と少しでも感じていただけるなら沈黙願う。
ひどいことを書いても誰からも文句は言われない。」
ブラウン管(液晶)からは貴殿の言に対して叱責はできぬ。』
某掲示板云々もこの際はもうよろしい。
ここはその掲示板ではない。』>>
---------

まず、某掲示板は宜しいは了解できるが、私は同一HNでここに投稿してます・・討論の基本ルールとしては、覆面掲示板である以上・・同一HNで挑戦してまわないけまへんナモ・・
投稿者Kくんや・・私はこれをゆうとるの・・。

そして、「本当に酷い書き込みだな」は・・次のこころ比較して

『■・今回の地震を起こしたのは管直人だろ! 投稿者:護国

宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。』

より高いか、低いかを君にではなく、管理人の批評を待つの・・それを要らざる余分投稿を
不適切発言と反省されましたなら・・当掲示板を波風立てぬように、ご沈黙願いたいですな・・どうしても、物言いをつけたいのならば・・同じ内容文を某掲示板・某々掲示板に載せてほしい・・その場合は戸田さんやなく本HNでね・・これが波風立れぬ方法と思いまんが?。
(かしこ)
 

少し悪い話をしよう

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)22時43分43秒
   こういう災害には必ず「火事場泥棒」が出現する。
 新潟大火のときも近所の洋裁学校が一時避難所に持ってきたミシン約100台
がそこに火の手が迫って移動しなければならなくなり、手伝いに来たと称する者
たちに全部持っていかれた。それを目撃していたが(もちろん善意の人たちと
信じていた)、リアカ−を多数用意した組織的な犯罪だった。行方はようとして
知れなかった。その組織性、盗品の処理の手際から朝鮮人だろうとの噂がたった
がわからずじまいだった。
 次は新潟地震 これは水没した地域にあった港の倉庫からテレビなどを小船
を乗り付けて盗んでいった者がいた。これは犯人がはっきりしており、漁師で
逮捕され裁判になり有罪判決が下された。しばらくは漁師と見ると石を投げる者
たちがいたという。親戚の漁師も肩身が狭いとこぼしていた。
 阪神大震災のときにもあったと聞いたが、どうだったのだろう。
 時代も進んできている。こういうことがないように祈りたいが、いつの世も
こういう輩が絶えないのではなかろうか。
 偏見かもしれないが、外国人にその危険性はないのだろうか。
 

CH桜の前投稿者だけど

 投稿者:投稿者T  投稿日:2011年 3月12日(土)20時30分59秒
  たしかに運がいいな菅直人は
大胆な救護策で支持率が上がる
自民党は歯ぎしり!

けどいま政治なんかあえて持ち出すなと言いたかったんじゃない?(戸田くんは)
それでいいじゃん
歴史さん、ここはチャンネル桜じゃないから波風立てないでねw
 

不思議なことがある

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)20時29分59秒
   テレビで地震の報道を見てると、どのアナウンサ−もヘルメットをかぶっている。
何のためにそうしているのか。災害地の真ん中にいれば理解できるが、どうやら
東京のスタジオにいるらしい。
 天井から何か落ちてくるのか? 東京にいる私だってヘルメットをかぶってない。
NHKだけが例外だった。
 NHKのアウンサ−がヘルメットをかぶってないのに民放のアウンサ−がヘルメット
をかぶる理由がどこにあるのか理解しがたい。
 こういうパフォ−マンスは馬鹿馬鹿しくて見てられない。
 また、枝野官房長官も記者会見で防災服を着ている。東京にいて何が防災服を
着用する必要でもあるのかね。
 面白い風潮だ・・・
 

こういう風刺も必要だろう

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)20時20分39秒
  >打ち首寸前・・切腹寸前のところ・・この震災・・一番にハリ切ってる
は菅総理ではないかな?・・もはや、この日本の混乱時期・菅の首をとる
余裕などなくなった・・ムゴイ表現ではあるが、菅直人
本当にウンの強い男かもわからん・・。<

 事実だと思う。堅苦しい投稿が続くなか、こういう風刺も必要だろう。
「菅 直人」 外国人からの献金もあって落城寸前であった。今回の地震で
挙国一致が叫ばれ、政治休戦となり、予算案も通る可能性が出てきた。
 本当にウンの強い男かもわからん そのとおりではないか。
 

Rただ合掌、冥福を祈るのみ?

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月12日(土)19時56分5秒
  戸田  投稿日:2011年 3月12日(土)17時23分2秒

<<『■不適切と取られかねない投稿と指摘された場合には事が事だけに「不適切だった」と反省する。』>>
-----------

戸田くんや、頭があまり宜しくありませんなあ〜・・小生のレスをよく読んでおりませんなあ〜 だから論理をよう理解できない
あるいはよく読んでも理解する能力がないのかな?
「不適切だった!」と反省するのは、投稿を許可した管理人への遠慮だけじゃないのかな?

どうして「不適切と思っていない」当人が、勝手に「不適切と思いこんでいる」・・安っぽい偽善家・欺瞞(ポランティアとか合唱との言葉)
を吐く・・ノー天気さんに反省しなくちゃならないのか私はわけがわからないの・・だから、「ムゴイ言葉かもわからぬが・」それは
菅総理に向けての言葉だとわざわざ説明しとる。

「政権運営持続にウンがよかったかも?」 そんなこと事実の話し、自民党または在野の倒閣派は、誰でも思うている
ここまで追い詰め、辞職か解散かとの勝ちどきを期待してた人々は「あ〜あ 地だ踏む」
これが真実、「菅を浮かれてないで・・しっかりと救済に全力投球せい・・党利党略の政権大事だけを考えるな!」

このパッパ投稿が・・
「ひどいことを書いても誰からも文句は言われない。」
になるのか?・・ひどいことではないから・・誰も文句を言わない・・管理者はどうゆうかは未定だがね?
と考えれないのか?

と、ここに欺瞞・偽善の「唯我独善論」が出ると、私は思うものであるがどうかね戸田くんや・(笑う)。

『■・私も早く動きたい。
今朝からボランティアメンバーを募っている。』

と、急にしらじらしい・救済・博愛主義の言葉が急に飛び出してきて・・
失礼! 私の知る他板の戸田くんらしき人物は、このような俄か仕込みのエセ善人のような人のために
君も同類人と疑ったりして・(笑)

とにかく、君の指摘する
『■・貴殿の言に対して叱責はできぬ。』

どうして叱責されにゃならんのか?

『■・貴殿も大人なら襟を正してください。』

どこにな・・私の襟が乱れているのか?
全然にわからない・・管理人から注意がくるまではね・・
よって

『■・不適切と少しでも感じていただけるなら沈黙願う。』

と、少しも不適切と感じていないから・・沈黙してると また「我田引水」方式で
「反省しとるな・・説教の甲斐あったわい・」と、とられるから御一報
だけ入れておきます・・な、戸田くんや・・(笑)。、
 

訂正

 投稿者:戸田  投稿日:2011年 3月12日(土)17時23分2秒
  発言者さんの名誉のために若干訂正する。
>私なら不適切投稿を指摘された場合には事が事だけに「不適切だった」と反省する。
>>不適切と取られかねない投稿と指摘された場合には事が事だけに「不適切だった」と反省する。

 

ただ合掌、冥福を祈るのみ

 投稿者:戸田  投稿日:2011年 3月12日(土)17時11分53秒
  私なら不適切投稿を指摘された場合には事が事だけに「不適切だった」と反省する。
「国民の犠牲を見るのもTV
国会を見るのもTV
ひどいことを書いても誰からも文句は言われない。」
ブラウン管(液晶)からは貴殿の言に対して叱責はできぬ。
某掲示板云々もこの際はもうよろしい。
ここはその掲示板ではない。
貴殿も大人なら襟を正してください。
不適切と少しでも感じていただけるなら沈黙願う。

国民も政府も今必死になってこの事態にあたっている。
私も早く動きたい。
今朝からボランティアメンバーを募っている。
数名の応募者からFAX、メールを頂いたがまだ足らない。

みなさんもメンバーを集めて現地まで駆けつけてください。

ではこれにて私はこの掲示板から失礼させていただきます。
 

RE:もっと大切なものがある

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)15時07分59秒
  私は播磨の田舎に住むもので、解法者氏より若い。災害らしい災害は経験していない。雷にあったことすらない。

ただ、一言言えるのは、その人が助かるかどうかは「業」で決まるということ。町内会へ参加するという業もあるが、解法者一家の旅館が地震の被害を受けなかったのは、解法者氏やその家族の善業の結果である。

>「国家非常事態宣言」、「戒厳令」を説くのも大切だが、悪いがこういう人は
災害を体験してないと思う。
 最近では個人主義者が跋扈して「町内会」の活動が低調と聞くが、自治体自ら
「町内会」の構築に邁進すべきである。
 政府(中央・地方)よりも「町内会」 これが私の体験だ。 <
私は実体験者の意見を尊重する。解法者が詐欺師で無いことは過去ログを見ればわかる。

個人主義、これは無論良くない。然し、町内会の活動の活性化は難しい。

だが、全ての人々は町内会の活性化に必要最低限の努力を果たすべきだと思う。
 

都市難民

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)15時06分52秒
   東京都庁の近所に住まいしている。昨日は気持ちの悪くなるほど人の波だった。
家路につく人たちで甲州街道沿いの道(八王子方面)は人で溢れかえっていた。
人の波は12時過ぎまで続いていた。今日中に家に着くのだろうかと心配になった。
 甲州街道 これも車で溢れ動きが取れない状態だった。
 久しぶりに人の波を見た。そして都市の災害の大変さを知った。マンションの
エレベ−タ−は止まり、電気は大丈夫だったもののガス・水道は止まり今日の昼ごろ
通じた。トイレの水が大変だった。マンションを歩いて降りて隣のビルの食堂から
水をもらい、またマンションの8階まで歩く。大変だったのは食事、近所のス−パ−
は早々に店じまい。コンビニもパンを始め食料品は総て売切れ。仕方がないから食堂を
訪ねたが、閉鎖しているところも多く、やっているところも都市難民で一杯。30分
並んでラ−メンにありついた。これもマンションを降りたり上ったり。
 都市に生活する人は困難を伴うということを感じた。
 さて、これから散乱している書籍約千冊の整理だ。
 

軍人快感も屋根がずっこけた!

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 3月12日(土)15時00分24秒
  軍人快感では某専門学校の卒業式を挙行中、屋根がずっこけて2人亡くなった。
合掌!
民主党政権にとっては正しく○×カミカゼが吹いた結果となるか?
しぶといですね。
皆さんは、無事ですか?
 

少し歴史について

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)14時38分6秒
  過去ログを見て、一言言っておきたい投稿があったので、私の倭国史観について言っておきます。「こういう説もある」ぐらいに思っといてください。
>倭
投稿者:はる  投稿日:2010年11月 1日(月)21時39分8秒

  東に矛先を向けなかったことと、“倭”だけが人偏であることは何か関係が有るのでしょうか?<
中国の黄河文明は、日本の土器文名から伝搬した。

東アジアや環太平洋文明圏の中で、最も早く生まれた文化が日本文化である。

かつて、「皇国史論・多元史観編」で述べたが、元祖・中華思想の論者である孔子が「中国はもう乱れた、私は海の向こうにある日本に行きたい」という意味の事を言っていた。

一万六千年前の土器が見つかっているのは日本だけであるが、一般にはこのことはあまり有名ではない。なぜかといえば、これらは模様の無い「無文土器」だからである。

もし、これが「縄文土器」なら「縄文時代が早まった」と学会はアピールするかもしれないが、無文土器なら「こんなの大したものじゃない」という風に考える。

然し、無文土器にしろ、縄文土器にしろ、一万六千年前の土器はほかの地域では一切見つかっていない。シベリアでは一万三千年前の土器が見つかったというが、質・量ともに一万六千年前のこちらが勝っていることは言うまでもない。

まして、中国は日本と比べて「後進地帯」であった。

このことから、環太平洋の多くの文明は日本から伝わったと考えられる。

例えば、南米文明もそうである。インカなどは十一世紀にできた、新しい文明。

紀元前の古い文明は、みんな土器から何まで日本風。紀元後も北九州のものと類似した甕管が多数発見なれている。

他にも、言い出せばきりがないのであるが、自分自身が「歴史の議論をしている場合ではない」といったため、ここで切り上げることとする。

結論――古代、日本は中国の中華思想の例外であった。それは東シナ海が「暗黒の海」と考えられてきたからである。(誰かが言っていた「悪魔の海」は誤り)
だから、「倭」にも人偏がついていた。
 

もっと大切なものがある

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)14時37分1秒
   「国家非常事態宣言」を布告、「戒厳令」の布告 異存はない。
しかし、今後に向けてもっと大切なものを忘れてはいないだろか。
 私はおそらくここにいる諸君の中でも最も多く災害に会った人ではなかろうか。
空襲(あまりに幼かったので記憶は極小)、新潟大火(1955年−市の中心部
約千軒が焼失−自宅も焼失)、新潟地震(1964年)、新潟大洪水(1968年−
約240名?が溺死−山津波も発生)、落雷(1969年)。まだ遭遇してないのは
海津波だけだと思う。
 こうした災害で一番痛切に感じたのは、政府(中央・地方)の支援・援助よりも
地域の助け合いだ。ありていに言えば「町内会」の存在である。こういう末端の
援助が一番の身近に役に立つ。新潟地震の時も、日頃から「町内会」の活動に参加
せずこれを冷ややかに見ていた年配者が近所にいたが、援助から排除され、やがては
家を引っ越してどこかに行ってしまった。
 実家は旅館、幸い珍しく地震の被害を受けなかった。そればかりか家にはガスパイプ
(新潟では地下から天然ガスが噴出するため大きな家では自分でガス管を地下に堀り
それを利用していた。しかし、地盤沈下のため禁止され利用されなくなっていた)が
あり、それを利用して炊き出しを行った。また、井戸が2本もあったため、これをも
利用し炊き出しを行った。米は十分に備蓄があった。こうして我が家を中心に救助
活動が行われたのである。協力者はもちろん町内会の人たちだ。風呂も十分に入れた。
家が破壊された人は我が家、町内会で被害が少なかった家で預かった。幼児がいた
家庭が優先された。市内の避難所?人が一杯でとても収容しきれない状態であった。
 「国家非常事態宣言」、「戒厳令」を説くのも大切だが、悪いがこういう人は
災害を体験してないと思う。
 最近では個人主義者が跋扈して「町内会」の活動が低調と聞くが、自治体自ら
「町内会」の構築に邁進すべきである。
 政府(中央・地方)よりも「町内会」 これが私の体験だ。
 

R ただ合掌

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月12日(土)13時55分8秒
  戸田  投稿日:2011年 3月12日(土)08時44分54秒

<<『■本当に酷い書き込みだな。
この方の論では国民の犠牲で菅が助かると言いたいらしい。』>>
-----------

との、日本人の「災害時に非常識だ!」との神妙雰囲気に流されやすい」特質がモロに出た投稿で御座る・・。
当方は、このような低俗感情論が来るを予感しているから注意して書いた。

『★犠牲者の冥福を祈ると共に震災者の救済が第一だ、政府は、または国会はドロ試合、コップ内の争いをやめて・・震災事後処理に全力をあげなければならない。』

と書いた上で、

『★打ち首寸前・・切腹寸前のところ・・この震災・・一番にハリ切ってるは菅総理ではないかな?・・もはや、この日本の混乱時期・菅の首をとる余裕などなくなった・・ムゴイ表現ではあるが、菅直人本当にウンの強い男かもわからん・・。』
と、そう

「★この方の論では国民の犠牲で菅が助かると言いたいらしい。」
らしいのではなく、助かるとの、現象の政治休戦の事実を書いた・・

だが・・
「非常識だ、災害時は事実を書いてはならぬ・」
の神妙雰囲気論で批判してきた。
「本当かどうかは不明なただ合唱の戸田某(いずれ他の掲示板で「歴史の観察者」に論戦論破された御人で御座ろう・・

でなければ私が注意して書いた
ムゴイ言葉の先の標的は「ウンの強い奴め!」は、菅直人に向けられれいる
こんなことわかるものである・・その意味合いは
「菅よ、いい気になり、ウンのよさに口元ほころびたら承知しないぞ オマイはやりかねん」の警告であることが・・菅批判の一節の投稿であるころが・・。

ところが、この戸田某(?初HN)は・・私の投稿が国民の犠牲をネタ話した「野次馬投稿論」とマゼかえしてきた
「★ ひどいことを書いても誰からも文句は言われない」
案に管理室に警告・削除を求めるような書き込みである・・。

さあこれが私が戸田某への反論感想文である・・ムゴイ表現は、この掲示板のROM者ではなく・・菅直人のつもりだが
管理人がどう判断されるか・・
「★ ひどいことを書いても誰からも文句は言われない」
と注文が入っている・・どのような裁定が下っても異議申し立てはしないことは約束いたします。   
 

「尊皇倒閣」(3)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)13時04分55秒
  米国務長官「あらゆる支援行う」 50カ国・地域から支援申し出
産経新聞3月12日(土)9時33分[.] 松本剛明外相は12日朝、東日本大震災を受け、クリントン米国務長官と電話で会談した。国務長官は「米国として日本に対しあらゆる支援を行う用意がある。今後も緊密に連絡を取り合いたい」と伝えた。

 松本氏は謝意を示すとともに「同盟国、米国の支援を心強く思う」と応じた。

 一方、外務省は12日午前8時現在で計50カ国・地域から支援の申し出があることを明らかにした。

 外務省幹部によると、韓国からの救助隊は、12日正午ごろ羽田空港に到着する予定だ。救助隊には捜索犬2匹も含まれるという

【引用終】

親日国も残っているのか…。「もはや親日国は存在しない」といった私は誤りでした。ここで修正します。

<地震>海外からの対日支援申し入れ続々
毎日新聞3月12日(土)9時29分[.] 外務省によると、東北沖大地震に対する海外からの救助隊員・救援物資などの支援申し入れは増え続け、12日午前8時現在、計50の国・地域などとなった。申し入れがあったのは次の通り。

 オーストラリア、台湾、米国、韓国、中国、メキシコ、タイ、ニュージーランド、イスラエル、シンガポール、インドネシア、アゼルバイジャン、インド、ロシア、トルコ、ドイツ、フランス、ベルギー、ウクライナ、スロバキア、アラブ首長国連邦(UAE)、スイス、ハンガリー、ポーランド、ヨルダン、英国、欧州連合(EU)、チリ、スペイン、ギリシャ、香港、パキスタン、デンマーク、セルビア、ウルグアイ、モンゴル、エクアドル、イラン、キルギス、マレーシア、アルゼンチン、フィリピン、カナダ、イタリア、スウェーデン、コソボ、アイスランド、ノルウェー、ルーマニア、スロベニア
[.]2011 毎日新聞社 ALL Rights Reserved.

【引用終】

西戎人民共和国の支援は要らないよ…。まして、台湾と一緒に来たら…。被災地で国共内戦ならぬ「国共出張線」をやられたら困るからなあ。

エクアドルがペルー以上に心強い。これも古田氏の影響があるのだろう。

韓国の支援?中国の百倍、意味がない。中国はまだ「論理」や「倫理」はあるけど、あそこの民族は統一○○とか、その他いろいろわけのわからん組織を作っているし、日本の売国奴から国を買っている?というような行動が昨日分かったんだから。

菅首相「自衛隊総動員、5万人態勢で救出」
読売新聞3月12日(土)12時25分[.] 菅首相は12日午前、首相官邸で緊急災害対策本部を開き、「今回の地震は津波地震だ。海岸沿いで火災が続いている地域もたくさんあり、どこまで救出作業が進むか、大変重要な1日だと感じている」と語った。

 そのうえで、現在約2万人が派遣されている自衛隊について、「全国から総動員し、5万人態勢でやっていく」と表明した。

 さらに、首相は「警察、消防、海保など、最大限の力を合わせ、生存者、孤立した人を救う活動を頑張り抜いてほしい」と述べた。
[.]COPYRIGHT THE YOMIURI SHIMBUN

【引用終】

菅首相をとりあえず信じよう。菅直人から仏性が現れるのをとりあえず待とう。何年後かわからないけど。
 

歴史の議論をしている場合ではない

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)12時07分0秒
  現実の政治問題が山積みしている。今は歴史について議論している場合ではない。

特に解法者氏は、この中で一番政治に詳しい方である。なので、今の日本の有事体制について述べてほしい。私のように無知な人もこの掲示板にはたくさんいるだろう。だから、解法者氏のような詳しい方に説明をお願いしたいのである。

「尊皇倒閣」祈願
 

背教者の団体――生長の家を弁護する

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)12時02分58秒
  背教者の団体である「ときみつる会」のホームページにおいて、よくわからん屁理屈が並べられていた。
http://hikarinoshingun.web.infoseek.co.jp/03-aikoku/0302akk-nakajima-isao/01warera-no-aikokuundou-towa.htm

生長の家の『完成(ななつ)の灯台の点燈者の神示』の一番初めに来るのが「大調和の神示」である。にもかかわらず、些細な違いで生長の家と争うとは、言語道断。同じ生長の家を主張する団体でも、これは単なるカルトである。誤解の無い様にしていただきたい。
 

『甘露の法雨』

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)11時51分29秒
  全文の記載されているサイトを見つけました。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/51107792.html
もしこれがときみつる会の類であれば、私は皆様に謝罪します。然し、とりあえず『甘露の方』の内容自体は正当なものですので、一読の価値はあります。
昭和二十年に皇国を救った『甘露の法雨』を、ぜひ、お読みください!
 

大したものですね

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)11時49分37秒
   「歴史の観察者」さんは相当書物を読み込んでおられますね。朝鮮古代史に関する
基本書は網羅しておられますね。感心しました。
 どの方面の勉強もそうですが、基本書に何を選ぶかは大変重要なことで、その選択
でとんでもない方向に進んでしまって後戻りができないことがあります。
 「歴史の観察者」さんで感心したことは「ワイ族」など朝鮮北部から満州地方の
歴史に詳しいことですが、その地域にまで行かれていることです。「邪馬台国」でも
そうですが、フィ−ルドワ−クに対する関心が旺盛なことです。私にも言えますが、
机上だけではダメですね。反省しております。
 それと「中国は西に向かう」 あれは素晴らしかった。私も含め皆が尖閣諸島などの
東に関心が向いているなかで西に目を向ける。こうした視野の広さが私には決定的に
不足していると気づかされました。「ワイ族」の研究もその一つでしょう。
 ところで、「ワイ族」 まとめて投稿してくださいませんか。
 

RE:準戒厳令の布告

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月12日(土)11時40分52秒
  福島第1原発、放射能漏れか=格納容器の減圧作業開始?第2原発も避難指示
時事通信3月12日(土)10時37分[.]

地震により被害を受けた東京電力福島第1原子力発電所。原子炉建屋から放射性物質が漏れた可能性があるという=12日午前7時46分、福島県大熊町、双葉町

 東日本巨大地震で被災し、運転を停止した東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)について、経済産業省原子力安全・保安院は12日、建屋内の中央制御室で通常の1000倍の放射線量を観測したと発表した。原子炉建屋から放射性物質が漏れた可能性があるという。
 また、福島第2原発(同県富岡町、楢葉町)でも原子炉格納容器の圧力が上昇する恐れがあり、政府は既に半径10キロ以内の住民に避難指示を出した福島第1原発に続き、同第2原発にも半径3キロ以内の住民に避難を、同3〜10キロ以内の住民に屋内退避を指示した。
 保安院によると、中央制御室では1時間当たり150マイクロシーベルトの放射線量を記録。これは、肺のX線撮影約3回分に相当するという。東電も、1号機から約1.5キロ離れた福島第1原発正門付近で、通常の20倍の放射線量を検出。敷地内の放射性物質の測定値も通常より増えているという。
 運転中だった同原発1〜3号機は、地震直後に自動停止。原子炉格納容器内の圧力が上昇する恐れがあり、東電は12日午前9時すぎから、1号機の弁を開放して、圧力を逃がす作業を開始。二つあるうちの弁一つを開放した。
 東電は同様の作業を福島第2原発1〜4号機でも開始。この作業を行うと、微量の放射性物質が大気中に放出される可能性があるが、東電によると、実質的に人体に影響のある量にはならないという。

【引用終】

兵庫の人は、村山に恨みがある。

昨日は山梨県ではあまり大きな揺れがないと思っていたが、それは震度五を見落としていたからだった。山梨は竹下先生の住居であり、しかも今年中に生長の家の本部が立つなど、私にとっては(確かに他人の事ではあるが)決して他人ことでは終わらない問題であった。

そして、今度は原発。新聞を読んだ時点で「冷却装置が壊れた時点で、放射能が漏れないはずがないだろ、馬鹿か。」と菅内閣や新聞社に対して思ったのだが、(そのあたりは戦記シュミレーションでだいたいわかっている)案の定、皇国の危機が訪れた。

宗教的にいえば、菅首相が潜在意識で望んでいたことが、現象界に現れたわけであるが、ようするに菅首相は内心、日本の滅亡を求めていたわけであることは容易に想像できる。

大分変な文章になった。「準戒厳令の布告」をすべき。然し、今の首相ではそんなことできない。寧ろ「在日問題の時間稼ぎができた」と内心喜んでいるに違いない。だが、生長の家では人を信じるように言うので、とりあえず菅首相が一人でも奥の人を救うことを信じておこう。

そして、若し阪神に上の犠牲者が出たら、私の主張している「尊皇倒閣」も現実性を帯びてくるだろう。

最初から最後まで変な文になった。半年の間、マグニチュード七以上の余震が起こる可能性があるという。関東在住の皆様には『甘露の法雨』を持つことをお勧めする。かつて、宮城事件を鎮圧した田中静壱大将がこれを持っており、また台湾(中国国民党)を守った根本元中将の愛読書『生命の実相』にも収録されている。本当に役に立つものなので、ぜひ買ってほしい。

「尊皇倒閣」祈願
 

古田武彦の妄想(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月12日(土)11時20分24秒
   「卑弥呼」の射王宮だが、『三国志』魏志倭人伝では「以婢千人(中略)居処宮室・楼観、城柵厳設」とある。古田はこれをそのまま認める(古田武彦−前掲書 219頁)。そしてその場所を「福岡市」と比定する(古田武彦−前掲書 222頁)。しかし、この地から王宮跡が発掘されたという情報に接しない。古田は「わたしたちは、三世紀の卑弥呼の壮麗な宮殿趾が今も、福岡市域(周辺を含む)の一角に地底深く眠りつづけていることを疑うことはできないのである」という。こういうことがまかり通りならば、『「卑弥呼」の墓である「箸墓」から「卑弥呼」の墓誌が出てくることを疑うことはできないのである』とも言い得るのである。現在ありもしないことを想像たくましく言い立てるのは古田の<専売特許>であるが、いい加減<恥を知るべき>である。
 次に「卑弥呼」の墓だが、『三国志』魏志倭人伝では「卑弥呼以死。大作塚。径百余歩」とある。古田は「大」を「おおいに」と読む。しかし「大きい」と読むのが正しい。「大」は「塚」に対する形容詞的修飾語である。つまり「大きな塚を作る」というのが、その後の「径百余歩」とつながるからである。この「径百余歩」を約30メ−トルと解するのであるが(古田武彦−前掲書 238頁)、その根拠として、@ 卑弥呼以前においては、径30メ−トルをずっと下回る墓しか存在してなかった、A 卑弥呼の墓は魏の王墓・貴人墓(「帯方」の太守「張 撫夷」の墓−約径30メ−トル)を基準に作られた、B 卑弥呼の墓は我が国の古墳の創始的存在(もっとも原始的な時期)であること(古田武彦−前掲書 239頁)、とする。 そして「須玖(すぐ)遺跡」が「卑弥呼」の墓だと考える(古田武彦−前掲書 250頁)。@ 確かに3世紀中頃には墳長100メ−トル以上の古墳は存在しない(『古墳文化と古代国家』斉藤忠 至文堂 1969年2月25日 20頁)。しかし、九州にしても「卑弥呼」の時代(3世紀前半)に相当する九州の墳墓としては「小熊山古墳」(墳長−120メ−トル)〔大分県杵築市〕と「一貴山銚子塚古墳」(墳長−103メ−トル)〔福岡県糸島市〕とがあり、畿内には「箸墓」(墳長−280メ−トル)〔奈良県桜井市〕、西殿塚古墳(墳長−219メ−トル)〔奈良県天理市〕、行燈山古墳(墳長−242メ−トル)〔奈良県天理市〕、渋谷向山古墳(墳長−310メ−トル)〔奈良県天理市〕、桜井茶臼山古墳(墳長−280メ−トル)〔奈良県桜井市〕、マスリ山古墳(墳長−240メ−トル)〔奈良県桜井市〕、規模は畿内の方が遥かに大きい。A 卑弥呼の墓は魏の王墓・貴人墓(「帯方」の太守「張 撫夷」の墓−約径30メ−トル)を基準に作られたとするのは<想像>に過ぎない。B 30メ−トルくらいの墓では、何も驚くに値しない。「径百余歩」は前述((4))で説明したとおり定かではないが、まさか径30メ−トルということはないだろう。当時の墳墓の大きさから100メ−トル以上と考えてもよいと思われる。

★ 須玖遺跡(参考)
 http://atuhistory.fc2web.com/japan/rekisi/fukuoka/sukuokamoto.htm
 

準戒厳令の布告

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月12日(土)09時42分25秒
編集済
  阪神・淡路大地震の時の村山富市に比べれば、菅総理の初動の対応はある程度評価出来ますが、事態は地震と大津波による激甚災害に加え、福島第1・第2原発の不具合、更には関東や信越でも断続的に一定規模の地震が起きており、私の住む山梨県も含め、東日本の何処で大きな地震が発生し、第二、第三の激甚災害に見舞われても何ら不思議では無い状況です。だとすれば、現行法制には無い「戒厳令」に準じ、総理の責任に於いて「国家非常事態宣言」を布告。少なく共、以下の措置を講じるべきです。

1.国民に対し、緊急車両(遠隔地からの救援部隊等)の迅速な通行等を確保する為、なるべく不要な外出は控えさせる。

2.原発の被害(点検による操業停止も含む)による電力不安に対処する為、パチンコ屋の屋外電光広告や、都市部の広告照明等を自粛させると同時に、国民に対しても節電を求める。

3.被災地を含む国民の不安を解消する為、生活物資の値上げによる買い占め等のパニックが起きないよう、物価統制を布く。

まだまだ他にも考えられますが、未曾有の国難に対し、ある程度強制力を伴う措置の必要性を私は感じます。
 

今回の地震を起こしたのは管直人だろ!

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月12日(土)09時39分45秒
  播州人の私は、自身の存在を知らなかった。そして、親戚のいる地域に津波「注意報」が出ていると聞いて、テレビを見ると「これは夢ではないか?」と思った。然し、夢ではなかった。驚いた。

案の定、新聞の一面は管ではなく、地震であった。多くの臣民の犠牲と引き換えに、政府の信用が保たれたのである。

「尊皇倒閣」祈願
 

お気遣い感謝

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月12日(土)09時22分13秒
  最初の地震が発生した時、私は静岡県におりました。

私の気のせいなのか、それとも体調でも悪くなったのか・・・目眩と言うか何と言うか・・・得も言われぬ長周期の横揺れが延々と続き、これが規模の大きい地震である事に気付きました。

静岡県と言えば、来る来ると言われて久しい駿河湾沖を震源域とする東海地震の激甚被害予想地域。いよいよ、来るべき時が来たのか?と覚悟しました。幸い東海地震ではありませんでしたが、様々な情報が入ってくるにつれ、これが近世に入ってから最大級の広域大地震であった事、そして、被害のあまりの大きさに絶句しました。

静岡県内では大津波警報が発令された事もあり、海沿いを走る東名高速と国道バイパスが通行止め。広域停電で信号機も役に立たず至る所で渋滞。帰宅したのは深夜でした。

山梨県内も所によっては震度5強の揺れに襲われましたが、幸い我が町では震度3でしたので、築50年の耐震設計も糞も無い木造住宅の自宅に被害はありませんでした。ただし、震度5クラスの揺れに襲われたなら・・・おそらく全壊していたでしょう。その意味でも、今回の大地震は決して他人事とは思えません。

月並みな言い方ですが、被災された皆様の心中をお察し申し上げる次第です。
 

ただ合掌

 投稿者:戸田  投稿日:2011年 3月12日(土)08時44分54秒
  日本人のひとりとして私はやれることをやりたい。
阪神淡路の時に経験したとを今回も是非活かしたいと思っている。

まだまだ犠牲者は増えてくる。
今はただ合掌。

>打ち首寸前・・切腹寸前のところ・・この震災・・一番にハリ切ってるは菅総理ではないかな?・・もはや、この日本の混乱時期・菅の首をとる余裕などなくなった・・ムゴイ表現ではあるが、菅直人
本当にウンの強い男かもわからん・・。

本当に酷い書き込みだな。
この方の論では国民の犠牲で菅が助かると言いたいらしい。
国民の犠牲を見るのもTV
国会を見るのもTV
ひどいことを書いても誰からも文句は言われない。

 

R 地震

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月11日(金)23時17分3秒
  掲示板「電網喫茶」の
「R古田武彦の妄想」の投稿を終えて、その文面をパソコン画面で確認してる時に突然にきた・・。

ユーラ・ユーラ、ゆーらと・・阪神・淡路の大震災の時は、関西の実家で東京出張で、一番の新幹線に乗るために、朝ゴハンを食べていたところ・・あわててガスの火を消したが・・あん時は直下型なのか・・ガターン・ガタ・ガタ・ガタと上下にきた・・。

だが、今度は、横にゆーら、ゆーら、ゆーらと、そして、おさまり・・小さくなったかなと思ったら、また、ゆーら ゆーら ゆーらのブリ返しが、前より強くくる・・そしておさまる・・ところが
3度目のゆり戻しが又始まる・・そして強く・・。

こんな、しつこい地震ははじめてだ、今度は恐怖の直下型のドカーン・ガタガタガタが来ると思い・・ついにパソコンの電気切った。
本当に直感でわかった・・ど素人でもわかった・・あの、しつこい
地震揺れ・・こんなん始めての地震だ・・海から津波が来る!
本能でわかった。

テレビとラジオ・携帯ら全部つけた・・そしてテレビで見た・・岩手県のあの津波の恐ろしさを・家が車が海流にのみこまれるサマを
阪神淡路震災の150倍の巨大エネルギーだと・・被害の大きさは
明日になり・・実情の把握がわかるようになればケタはずれの高きものが報道されるのではないのか?

原発も危ないとの報道も・・犠牲者の冥福を祈ると共に震災者の救済が第一だ、政府は、または国会はドロ試合、コップ内の争いをやめて・・震災事後処理に全力をあげなければならない。

打ち首寸前・・切腹寸前のところ・・この震災・・一番にハリ切ってるは菅総理ではないかな?・・もはや、この日本の混乱時期・菅の首をとる余裕などなくなった・・ムゴイ表現ではあるが、菅直人
本当にウンの強い男かもわからん・・。
 

地震

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月11日(金)20時09分41秒
   竹下義朗さんのところは大丈夫でしょうか。
皆さんのところはどうですか。
 私は東京都庁の近くに住まいしておりますが、地震で本棚から本が全部
落ちて目も当てられない惨状となっております。
 

R古田武彦の妄想

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月11日(金)14時39分41秒
  解法者さん

<<『■「武田幸男」氏が第一人者。私は多くの書物を読み込んで
一定の結論を得ている』>>
------------

成る程と、総てがわかった気持ちがいたします。
朝鮮古代史、高句麗史、古代日朝交流関係にあれほど詳しい論考ができる・・そうですか・武田幸男先生ですか・・まさかご本人ではないうと思いますが、あれほどの博学・・・お弟子関係の方だろうと推察いたします。

「倭の五王」で、解法さんが護国さんをピシャリと押さえたは、武田幸男先生が古田の「九州王朝説」を窘めたことを彷彿することだったんですね・・。

あれはまるで大人と子供の差がありましたね・・今や、末松保和氏の後をひきついで朝鮮古代・日朝関係史では第一人者ですから・・本来ならば、学会で「クルクルパー」の異名がある、詐欺師・屋台バナナのたたき売り師の古川某など相手になされない開きがあるのですが、第一人者ゆえ・・責任上・・虚言騒ぎを放置できなかったんでしょうね・・。

私も、氏の
『朝鮮社会の史的展開と東アジア』
『高句麗史と東アジア―「広開土王碑」研究序説』
を読みました。なかなかの名著でした。

『隋唐帝国と古代朝鮮』(礪波護と共著)もよかったです。
一応、私は宮崎市定先生の自称押しかけ弟子、まあ陳舜臣さんみたいなものですが、礪波護氏は私より1歳年上の兄弟子にあたります。(笑)。

だが、宮崎先生は中国史が専門・・朝鮮古代史となれば、私は末松保和氏のフアンであります
『任那興亡史』
『新羅史の諸問題』
でありますが・・私の本当の情報源は、この掲示板でも前に書いた如し・・黒竜江大学の歴史文化旅游学院(歴史学部)
私学理論及び史学史の・・・ワイ族研究のもと教授K氏(黒竜江省博物館・黒竜江古代歴史文物陳列責任者)です。70年代に北扶余解夫婁王の原郷といわれる呼倫湖まで旅した。

そうですか・・武田幸男先生のお弟子さんですか、これじゃどう逆立ちしても護国さんが詭弁空想をまくし立てても勝てる筈なしです。
私は自分の趣味に沿ったいわば素人衆の歴史好き程度ですから、論争・デヴェート術にはまこと苦手な部類・・あの護国さんのバナナの
叩き売り・・臆面なしのペラペラ説法にはとても太刀打ちできません。

お任せいたします・・どうか護国さんを正常な歴史知識人にもどすべく、切々と正道たる歴史の道筋を教えてやってください
ROMしながら・・・応援声援いたしております。
 

「尊皇倒閣」(2)

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月11日(金)13時55分8秒
  中国共産党日本支部の活動を見てみよう。

去年
三月 菅直人の売国プロジェクトに関する機密情報が、自民党経由で私の手元に伝わる(極秘)
五月 売国プロジェクト、始動
六月 菅直人、総理大臣に就任(計画が遅れた?)
八月 韓国へ意味無き謝罪
九月 中国海軍の大差が漁船に乗って、海上保安船へ体当たり
十月 「政治判断」で那覇地検に船長を釈放させる(中国に見習った?)
 

RE:「菅 直人」は確信犯だ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月11日(金)13時37分16秒
  遂に、「皇国西戎化計画」もぼろが出てきましたね。私は『朝日新聞』を読んでいたので、気がつきませんでした。この掲示板はいい情報源ですね。

あの、解法者氏は朝鮮と韓国の区別が明確ではありませんが。まあ、それは置いといて、桁が違いますね。

前原――たったの年間五万円
菅――なんと、百四十万円!小沢よりひどい

「尊皇倒閣」「皇国復活」
この百四十万円を、去年参拝できなかった代わりに靖国神社へ寄付しましょう!
 

神武天皇は実在した

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月11日(金)13時29分43秒
  解法者氏がいくら古田氏を批判しても、私は古田武彦ではないので関係ない。尚、古田武彦『古代史の十字路』は「詭弁の集まり」である。このように、いくら現地調査までする勤勉な人でも、一度左翼史観に陥ったらそのような詭弁師になってしまうのであるから、津田氏学の弊害であるといえる。

私が『皇国史論』を投稿した理由は、邪馬台国や倭の五王論争に終止符を打つためではない。先日、私の「域内読法」が間違っていたことを発見した。

私の目的は、津田史学を批判することである。従って、すでに述べたように私は神武天皇実在説をとる。私は「本居史学の方法で、九州王朝を証明」することにあるのであるから、左翼の古田でさえ実在説であるものを架空だというのは学問的ではない。今後、神武架空説を唱える者はその根拠を明記してほしい。

>皆さんの政治論は、ちょっと右翼すぎますね<いえ、倭人氏が左翼すぎるのです。

竹下先生、>支那の検索エンジン「百度」に「帝國電網省」と入力しても弊ウェブはヒットしません。と言う事は、中共が意図的に自国人民に対し弊ウェブを閲覧出来ない様に制限=情報遮断していると言う事でもあります。<なるほど、この帝国電網省も結構有名なんですね。西戎共産党も臆病者だ。

「暴支膺懲」 このほうが、目的が明確だと思います。
 

「菅 直人」は確信犯だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月11日(金)12時10分52秒
   「菅 直人」首相が在日朝鮮人から104万円の献金を受けていたと問題になっている。
 この在日朝鮮人は「横浜商銀」の元理事だったという。そして「菅 直人」首相はこの男と会食したという。「菅 直人」首相はこの男が在日朝鮮人とは知らなかったと釈明しているが白々しい。「横浜商銀」の元理事は真っ赤かの「民団」の幹部とみてよい。しかも「横浜商銀」は破綻し日本政府の資金投入を受けている。つまり日本国民に多大な負担をかけている。その責任は「横浜商銀」の元理事も負担すべきだのに、こういう者と面談して、かつ献金を受けている。政治資金規正法違反(第22条の5−3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金〔第26条の2の3号〕)で司直の捜査の発動が望まれる。
 前原外務大臣が在日朝鮮人からの献金で辞任したが、彼女は単なる「民団」の一員。内容が違う。「菅 直人」首相は辞任すべきだ。
 ところで、献金者が本人の名義以外の名義又は匿名で政治活動に関する寄付をした場合には、同じく3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処せられる(同法第22条の6、第第26条の2の4号)。本件の在日朝鮮人は通称名(日本名)で献金している。これは「本人の名義以外の名義」である。この在日朝鮮人も逮捕して起訴すべきだ。
 

これは凄いぞ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)23時46分20秒
  >中共が意図的に自国人民に対し弊ウェブを閲覧出来ない様に制限=情報遮断
している<

 掲示板の本懐じゃないの。考えてみれば当たり前だよね。共産党一党独裁
を破綻に追い込むことは人類共通の願いだからね。
 右翼の本懐は共産主義の打倒にあると考えるが。共産主義思想こそ現代の抹殺
すべきものだ。
>皆さんの政治論は、ちょっと右翼すぎますね< それならなお結構じゃないの!
 

標語

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 3月10日(木)23時29分13秒
  「弾劾支那」が不適切でしたら、「暴支膺懲」でも私は構いません。

私の生命云々とお気遣い頂けるのは有り難い事ですが、弊ウェブ『帝國電網省』を開設している時点で、既に支那からマークされていますし、過去にサイバー攻撃の対象として告知された事もありますから。

因みに、支那の検索エンジン「百度」に「帝國電網省」と入力しても弊ウェブはヒットしません。と言う事は、中共が意図的に自国人民に対し弊ウェブを閲覧出来ない様に制限=情報遮断していると言う事でもあります。

まあ、私にしてみれば、弊ウェブの内容が中共の独裁体制にとって極めて不都合であり、自国人民の目に触れては困ると認識されていると解釈していますから、ある意味「してやったり」と言う気持ちではいますが。
 

それはどうかな

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)22時12分39秒
  >神武天皇実在論を唱える時点で問題あり<

 そう決め付けるものでもないと思うが・・・
 

古田武彦の妄想(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)21時43分6秒
   「投馬国」の南九州(薩摩・大隈・日向南部)の比定であるが(古田武彦−前掲書 209頁)、ここでは「不弥国」−(南)水行20日−「投馬国」を忠実に守り、「水行20日」を水行1日当たり450里=33.75キロメ−トル〜40.5キロメ−トルと考え、20日であるから、675キロ〜810キロメ−トルと考えと考えるのである。『三国志』魏志倭人伝の該当部分は、「東行至不弥国百里(中略)。南至投馬国、水行二十日(中略)。南至邪馬台国。女王之所都、水行十日」とある。ここでは「不弥国」−(南)水行20日−「投馬国」、「投馬国」−(南)水行20日−「邪馬台国」となっている。もし「投馬国」が「邪馬台国」から遠ければ、「邪馬台国」・「投馬国」の順に書くべきであろう。しかも「魏使」の目的は「邪馬台国」に行き「卑弥呼」に下賜品を届けることにあったのであるからこそ、最終目的地の「邪馬台国」が末尾に記されているのである。
 「邪馬台国」を「福岡市」に比定するが(古田武彦−前掲書 218頁)、彼はここに戸数7万余があったとする。ところが、元禄14年(1701年)の福岡市の戸数は4,643戸、人口は34,421人である(安本美典−前掲書 246頁)。福岡市を含め筑前各地(糟谷郡・宗像郡・遠賀郡・鞍手郡・嘉穂郡・朝倉郡・筑紫郡・糸島郡・早良郡)の総戸数は51,639戸、人口は334,209人である(『筑前続風土記』貝原益軒−安本美典−前掲書 247頁)。もっともこれは農業・商業者の戸数であるから、戸数は1.8倍、人口は1.5倍しなければならないという(『筑前旧志略』末永茂世−安本美典−前掲書 同頁)。明治33年(1900年)末の福岡市の戸数は9,945戸、人口は75,687人である。福岡市を含め筑前各地では111,307戸、人口は667,322人である。私は戸数7万余=42万人(1戸=6名)と考えるが、古田は博多湾沿岸に「奴国」(2万余戸)もあって「邪馬台国」に隣接していたというから、合計で9万余戸となる。当時の人口からみて、この地に「邪馬台国」があるはずがなかろう。弥生時代の九州の人口分布図(『Senri Ethnological Studies(千里民族学研究』小山修三−安本美典−前掲書 244頁)では、北九州の博多湾沿岸ではなく北九州の中央部(甘木あたり)から筑後にかけてが人口密度が高い。ここからも「福岡市」および「博多湾沿岸」に「邪馬台国」があったはずもない。
 「歴史の観察者」さんは良く研究しているよ!
 

古田武彦氏は研究者の一人だよ!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)21時38分51秒
  >あなたが好太王碑の研究ができるのも古田氏のおかげですよ。学恩を知れ! <

 たくさんいるよ。「武田幸男」氏が第一人者。私は多くの書物を読み込んで
一定の結論を得ている。あなたのように「古田武彦」氏の本のみを読んで、
<狂信的>に信じ込むとは訳が違うんだが・・
 

そういえば

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月10日(木)18時50分16秒
  タリシホコさん、確か古田氏は「弟子」を名乗ることを禁止していたのですね。思い出しました。
あの、「古田に影のように付き添う、助手のような青年」と反対派から言われた古賀達也氏でさえ、「弟子」ではありませんからね。(で、斎藤記者、古賀氏は青年というほど若くないよ!失礼)
 

『古事記』を無視する倭人氏に解法者氏

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月10日(木)18時40分50秒
  憲法についても、いろいろ言いたいのだが、歴史学の分野でこれだけは言っておかなければならないことがある。それは、解法者氏の『古事記』無視である。『古事記』には邪な馬の国に関する記事など、片鱗すらないということを解法者氏は無視している。
 

憲法草案

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月10日(木)18時30分37秒
  皆さんの政治論は、ちょっと右翼すぎますね。神武天皇実在論を唱える時点で問題あり。
憲法記念日までの間、頑張ればいいでしょう。だけど、多分、誰も支持しないでしょう。
 

誤解を正すため

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月10日(木)18時28分4秒
  私はウガヤフキアエズ王朝架空説ですが、何故そのことを論じたかというと、竹下先生の論考が存在していたからです。その一部を引用します。



以前、コラムで『古史古伝』について取り上げましたが(詳しくは、『26.封印された超古代日本史〜「古史古伝」の世界』を参照)、多くの『古史古伝』に共通したある問題があります。それは、「ウガヤフキアエズ朝代数問題」(以下、「ウガヤフキアエズ朝」は「ウガヤ朝」と略)と呼ばれるものです。これがどの様な事かと言うと、『古事記』・『日本書紀』(『記紀』と総称)で、「1代」とされている神武天皇の父・ウガヤフキアエズ尊(ミコト)が、『古史古伝』では「73代」(『宮下文書』以外)あるいは「51代」(『宮下文書』 但し、神后摂政を合わせると75代)続いた「王朝」として扱われているのです。


つまり、数学的には絶対にあり得ない数式

1=73


が生じてしまうのです。と言う訳で、今回は「ウガヤ朝代数問題」における「問題点」と、「1=73」が成立し得る「歴史トリック」(解決)について書いてみたいと思います。

代表的な『古史古伝』でのウガヤ朝存続期間

文書名 ウガヤ朝存続期間 一代あたりの平均在位年数
竹内文書 8277年※ 113.4年
九鬼文書 1200余年 16.4年
宮下文書 2750年 36.7年
※『竹内文書』の数字は、研究者・林信二郎氏による。

仮に一代あたりの平均在位年数を20年としましょう。すると、


73代×20年=1460年


となるのです。『古史古伝』における「ウガヤ朝」の事績を紐解けば分かりますが、文化的水準はおおよそ「弥生時代」に相当します。そこで、「ウガヤ朝」を「弥生王朝」に仮定したとします。するとここで再び問題に突き当たってしまうのです。その問題点とは、先に挙げた「存続期間」なのです。



「ウガヤ朝」が「弥生王朝」だったとしたら?

  実際の歴史     「ウガヤ朝」を組み込んだ場合
  縄文時代 縄文時代
紀元前3世紀  弥生時代 ウガヤ朝(弥生王朝)
前2世紀
前1世紀
紀元後1世紀
2世紀
3世紀
4世紀  古墳時代
5世紀
6世紀  飛鳥時代
7世紀
8世紀  奈良時代
平安時代
9世紀
10世紀
11世紀
12世紀
13世紀  鎌倉時代    古墳時代
14世紀  南北朝時代
室町時代
15世紀  戦国時代    飛鳥時代
16世紀  安土桃山時代
17世紀  江戸時代    奈良時代
18世紀          平安時代
19世紀  現  代
20世紀


上記の表を見ての通り、「ウガヤ朝」を「弥生時代」に仮定したとすると、「ウガヤ朝」は12世紀−つまり、平安時代末期まで存続していた事になってしまいます。すると、20世紀はまだ「平安時代中期」と言う事になり、到底、時間的な無理が生じてしまいます。
「ウガヤ朝」はやはり架空の王朝だったのか? この答を解く鍵は、『記紀』と『古史古伝』における「ウガヤフキアエズ」の「代数」の違い−つまり、1=73 に隠されていたのです。結論から言うと、『記紀』の採る「1代」も、『古史古伝』の採る「73代」(あるいは「51代」)も、どちらの記述もある意味では「正しかった」のです。さて、ここで再び「ウガヤ朝」に話を戻しましょう。ひょっとしたら、モンゴル帝国・元朝と同様に、「ウガヤ朝」も「海外王朝」だったのではないでしょうか? つまり、『記紀』が採る「1代」は、日本を「実効支配」した王の代数で、『古史古伝』が採る「73代」(あるいは「51代」)は、「海外王朝」時代も含めた代数だったのではないでしょうか? 又、「ウガヤ朝」全期を通じての文化・事績が日本を実効支配した最後の王一代のものだったとしたら、これも辻褄(つじつま)が合います。
海外時代
(72代)
日本時代
(1代)


以上が竹下先生の論考だが、私は『正統竹内文書』(この中で述べられている『天津教竹内文書』とは別物)や『古事記』から、『天津教竹内文書』の言うウガヤフキアエズ王朝は存在しなかったとしている。従って、「誇妄のウガヤフキアエズ王朝」であるというのが私の結論なのであるが、私は素人である故、結論はよく調べてからにしよう(でないと、竹下先生に失礼である)と考え、曖昧にしたのである。そこに突っ込みを入れた大馬鹿は、まるでかつての公○○みたいだ。
 

改めて提案

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月10日(木)18時16分50秒
  今年の憲法記念日までに「自主憲法帝国電網省草案」を皆さんで作ろうと思いますが、どうでしょうか?  

尊皇倒閣だ!(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月10日(木)18時14分31秒
  憂国の士さん、私も現実を見ました。
昨年五月に始まった(自民党機密情報による)菅直人の「対中華売国プロジェクト」はここまで進んでいたのですね。

そういえば、皆さんも知っていると思いますが、菅直人は司法権を掌中に収めただけではなく、党則の改正により議員立法を事実上禁止しています。これでは、中国共産党と何ら変わるところはありませんね。行き詰ったら、『朝日新聞』が後継者を支持するでしょうし。
 

和田家文書を偽書と信じるようでは、研究者失格――完全に頭がおかしい歴史の観察者

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月10日(木)18時09分46秒
  歴史の観察者さん、和田家文書を偽書と信じるようでは研究者失格ですよ。

だいたい、貴方はタリシホコ氏や私の説に古田説を混ぜて「ここがおかしい」「あそこがおかしい」と批判している。そりゃ、素人の思いつきと元大学教授の学説を混ぜたら矛盾も百出するでしょう。

そういうわけで、歴史の観察者氏は『幻想の万世一系』を記した原田実や『世界に向けられた牙・在日米軍―軍事列島日本』を記した斎藤光政と同類の偽書派であり、こんな人を信用するととんでもない目に遭います。みなさんも気をつけましょう。

無論、私は今後一切、歴史の観察者氏の歴史に関する論考は無視します。政治についてはその限りではありませんが、「歴史」の観察者が政治に口を出すと、政治学者の解法者氏が歴史に手を出したのと同じ目にあうでしょう。
 

解法者氏は学恩を知れ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月10日(木)18時00分43秒
  >「投馬国」(「不弥国」−水行−「投馬国」)の部分がすっぽり抜け落ちている<
もう、貴方には失望しました。人の意見のきかず、一生懸命揚げ足取りに努力する、そして古田氏に感謝しない。
あなたが好太王碑の研究ができるのも古田氏のおかげですよ。学恩を知れ!
 

争う標語は良くない

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月10日(木)17時57分15秒
  「弾劾支那」は少し過激すぎるのでは。我が国が中国に併合されたときに、竹下先生の命がどうなるか、ということを考えると。というより、もうすでに併合されている?

みなさん、「尊皇倒閣」「台湾併合」「東亜友好」をスローガンに全力を尽くしましょう。

まあ、私も殺されるかもしれませんが。竹下先生は命に気をつけてください。解法者氏もかなり過激なので、中狂の思想教育を受けないようにしてください。私も実名を出した以上、中国共産党日本支部長の菅直人による迫害は覚悟しています。然し、天皇と信仰を守るためなら命をかけます。
 

珍 宝啓さん

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月10日(木)17時36分41秒
  誰も気づかないと思っていましたが、突っ込む人がいたとは…
そうです、たんぱく質の変いたいです。それがなぜ、他の菌などを介さずに病原体になるのか、私には不思議なのです。
「不思議」というだけで何も言わないのは素人だと言わないでください、私は素人なのだから。ただ、「もしかして地球外生命では」と思った次第です。


<補足>
プリオンやウイルスは生命体ではない。その理由は、独自に繁殖することが不可能だからである。
私もそのことは知っているが、今の日本では「病原体=菌」とすることが多いため、便宜上「菌」と表記した。
尚、もちろん本来の意味での「菌」は生命体である。
 

現実を見よ!

 投稿者:憂国の士  投稿日:2011年 3月10日(木)16時59分2秒
  ○:実現済み。△:実現中。×:要求中。

○1.公文書への通名使用可(在日隠蔽権獲得)
○2.永住資格(非権利)
○3.犯罪防止指紋捺印廃止
○4.所得税・相続税・資産税等税制優遇
○5.生活保護優遇
○6.永住資格所有者の優先帰化
○7.民族学校卒業者の大検免除
○8.外国籍のまま公務員就職
○9.公務員就職の一般職制限撤廃
○10.大学センター試験へ韓国語の導入
○11. 朝鮮大学校卒業者の司法試験1次試験免除
△12. 民族学校卒業者の無審査公私高校受験資格
×13.在日外国人地方参政権
×14. 公務員就職の管理職制限撤廃(これは9と同じか?)
△15. 掛け金無しで年金受給可能
 

古田武彦の妄想

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)12時47分13秒
   『三国志』魏志倭人伝の朝鮮の「帯方郡」から「邪馬台国」に至る旅程に関して前に説明した「順次式」、「放射式」を超えて、<水行10日・陸行1月>を、@ 「帯方郡」の都−「帯方郡」の西南端、A 「狗邪韓国」−「対海国」、B 「対海国」−「一大国」、C 「一大国」−「末盧国」までの<水行>と、@ 「帯方郡」の西南端−「狗邪韓国」、A「対海国」内と「一大国」内、B 「末盧国」−「邪馬台国」までの<陸行>を合わせたものだとする(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 ミネルヴァ書房 2010年1月30日 169頁)。その理由は、『三国志』魏志倭人伝に、@ 「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国」、A「(「狗邪韓国」)始度一海、至対海国」、B 「又南渡一海、至一大国」、C 「又渡一海、至末盧国」と<水行>・<日数>があるのに対し、D 「歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里」、E 「末盧国」−五百里−「伊都国」−百里−「奴国」−百里−「不弥国」−「邪馬台国」と<陸行>・<里数>がある。これは別々に考えるべきだというのである。そして、このことは『漢書』に「(難兜国)西南、罽賓(はいひん)に至る。三百三十里。(罽賓国)東北、難兜国に至る。九日行」とあり、これは両国間を一方では里数で一方では日数で示していることから、『三国志』の撰者「陳壽」もこれに依ったのであるとする。
 これは<妄言の類>だ。@ 『漢書』の例は一目して往復の行程が読み取れる。しかし、『三国志』魏志倭人伝の該当部分は、往復の行程を示していない、A 「帯方郡」の都−水行−「帯方郡」の西南端−陸行−「狗邪韓国」−水行−「対海国」−陸行−「対海国」の国内−水行−「一大国」−陸行−「一大国」の国内−水行−「末盧国」−陸行−「邪馬台国」と極めて複雑な旅程をたどるが、『三国志』魏志倭人伝には、この旅程に従って<水行>、<陸行>がその都度記されてない。B 「帯方郡」の西南端−「狗邪韓国」が<陸行>だということが有り得ないことは既に説明してある。C 「投馬国」(「不弥国」−水行−「投馬国」)の部分がすっぽり抜け落ちている。D 『三国志』魏志倭人伝には「帯方郡」−「邪馬台国」までの旅程が<順次>記されており(放射式にしても同じ)、このような複雑な旅程を想定してない。E 現在の「博多」を「邪馬台国」に比定するが、結論を先にして過程を導き出した感じが否めない。
 

的を射ているよ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)12時37分30秒
   「歴史の観察者」さんの考えは的を射ているよ!
 板付遺跡の付近に「邪馬台国」があったとは到底思えないな。
 古田武彦という毒饅頭を喰った者が多いのには驚いた。センセイ−ショナルで
素人を引き付けるからな。一度喰ったら止められないのかもね。
 

R 歴史の観察者さんへ

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月10日(木)07時40分57秒
  <<『■古田氏によほど恨みでもあるような書き込みですが、何か古田氏にいじめれたのですか?』>>
----------

面識は御座いません。
ただ一般論を述べているつもりです。彼の著書は10冊以上は読みました。
たしかに面白いのです。
だがそれはあくまでSF本としての感覚です・・歴史とは思ったことありません。

私はこの掲示板で「ワイ」と扶余・日本について書きましたが・・これは空想物語ですと断りをいれております・・通史・新説とはしておりません・・・説とゆう論理の定まったものでなく・・ただ個人の思いつきの空想だからです・・・。

正直、古田さん内容ブツは、和田文書・ウガヤ王朝・パラオ島説・ナスカの地上絵ら私のさらに上をいく妄想そのもの・・それをSFではなく、歴史として学会に挑戦しているところに精神の異常さがある・・と私は思うています。歴史は歴史、SFはSFと区別すべきと・・。
ただ、それだけのことです。

<<『■   私は直接には知りませんが、高度成長期やバブルの時代など、
遺跡が出ても崩してそのまま埋めてしまう事があったそうです。』
----------

あなたは古田さんと異なり、自分の言を空想的意味合いで書いているから宜しいのです。
そう、上の言、これも空想の部類・・実際は戦前だろうが明治だろうが、江戸であろうが、先祖神強きわが国・・戦国期にさかのぼらないことには・・貴重遺跡を埋めることはまずないでしょう・・これを空想と返されればそれまでですが・・。

書くならば
「★板付遺跡の右隣は、戦国期に築城された・・板付砦があった今も国宝として現存する
左隣は板付神宮である・・この下に必ず?・・これならば空想でも、より真実に近づきます。

<<『■私に尋ねる前に貴殿が発掘されたら宜しいのでは?』>>
--------

意味がわかりません・・私にその権がある筈ありません・・あのトロイの遺跡のように古田さんが掘るべきでは、だいぶSF本で稼いだのでしょう・・そのお言葉は古田さんに?
本人も思いつき承知ですから自信はカラ・・そんな無駄ゴトする筈ありません・現地に行かれればわかります・・地権者の同意あればすぐに掘れるのです。

まず可能性が高いなら、古田さんどころか学会がその1里四方を掘って板付遺跡にしたでしょう・・あれだけしかないのです・・邪馬台国・卑弥呼の宮殿がないから 現在の小じんまり遺跡となっているのです。
 

何をおっしゃる宝啓さん!

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 3月10日(木)01時22分54秒
  あなたは、解法者さんと同じ位素晴らしいじゃありませんか。
もっと自分をアピールしても良いんじゃないですか?
 

『三国志』と『後漢書』の関係

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)00時40分21秒
   古い「後漢」時代の歴史書『後漢書』が新しい「三国」時代の歴史書『三国志』よりも後で編纂されている
 ここのところを説明すると、『三国志』とは紀元220年〜280年の「魏」・「蜀」・「呉」の三国が鼎立していた時代の歴史を表したものである。編者は「陳壽」(233年〜297年)で「晋」(「魏」・「呉」を滅ぼした王朝)時代の歴史書編纂官をしており、その在任中の280年〜285年に私撰(皇帝の命により書かれたものではなく私的に書いたもの)として書かれたとされている。これに対し『後漢書』は25年〜220年の「後漢」についての歴史書で「范曄(はんよう)」により432年に表されたものである。ただ、彼はその編纂の途中で死刑に処せられたため、「本紀」と「列伝」のみが完成し、「志」については「晋」の「司馬彪」の『続漢書』により、また「本紀」12巻と「列伝」88巻は「唐」の「章懐太子」の註により補われた。そして現在に伝わる『後漢書』は「北宋」時代(960年〜1127年)の版本による。なお『後漢書』の倭に関する事項は『三国志』魏志倭人伝に依っているものが多い。
 ここで注意すべきは、『三国志』は散逸してしまっており、一番古い写本でも「紹興本」である。これは1131年〜1162年のものである。次に古い写本は「紹熙本」である。これは1190年〜1194年のものである。これに対し『後漢書』はほぼそのまま残されていることである。
 つまり、『三国志』は写本でのみしかたどれないのであって、その写本が正確に『三国志』の原本を写しているかについては大きな疑問がある。この点「古田武彦」がしきりに『三国志』、『三国志』というが、これは原本ではなく写本に依拠しているのであって、正しい歴史を把握しているかについては疑わしいのである(古田の誤謬については次に指摘する)。『後漢書』の方が『三国志』(写本)よりも正しい史実を伝える可能性があるということである。
 

「邪馬壹国」と「邪馬臺国」

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月10日(木)00時37分44秒
   『三国志』魏志倭人伝に「邪馬壹国」とある。『後漢書』列伝東夷倭国之条では「邪馬臺国」とある。前者は「壹(一)」であり、後者は「臺(台)」である。『三国志』にはいくつかの写本があり、「宋本」以下が「壹(一)」とある。ところが『後漢書』、『梁書』、『隋書』、『北史』は「臺(台)」となっている。このことから『後漢書』以下の関係記事には魏志倭人伝の本文に「邪馬臺国」とされたものがいくつもあったと考えられているし、筆写の誤りではないかとされている(榎 一雄−前掲書 44頁)。
 同じく『三国志』魏志倭人伝に「一大国」とある。これも「一支国(壱岐)」の誤りだとされる(「卑弥呼考」内藤虎次郎〔『読史叢録』22頁〕)。
 ところが、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とは全く異なると説く者がいる(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 122頁)。その根拠は『三国志』全体の中で「壹」は86個、「臺」は56個ある。この86個の「壹」のうち、「邪馬壹国」(1個)、「卑弥呼」の後を継いだ「壹与」(2個)を除いた82個のうち「臺」の誤記と認定されるものは1例もない。また、82個のうち81個までが人名である。56個の「臺」のうち「臺」の誤記と認定されるものは1例もない。したがって、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とは全く異なるという。しかし、これは可笑しい。まず、『三国志』の原本は存在してない。一番古い写本でも「紹興本」である。これは1131年〜1162年のものである。次に古い写本は「紹熙本」である。これは1190年〜1194年のものである。『三国志』は前記でも説明したが、「陳壽」(233年〜297年)により280年〜285年に編纂されたものである。これは散逸してしまっている。「裴 松之」が429年に補注して作成したものがあるが、これも散逸してしまって現在に伝わらない。古田が見ているのは遥か後世の「紹興本」と「紹熙本」である(古田武彦−前掲書 15頁)。この写本が『三国志』の原本を忠実に写したという保証は何もないのである。1924年にウイグルの鄯善(ピチャン)で発見された「新疆鄯善写本」(4世紀「西晋」時代のもの)でも57ヶ所も現行刊本(「紹熙本」)と比べて相違点が見られるのである(『「邪馬壹国」はなかった−古田武彦説の崩壊−』安本美典 新人物往来社 1980年1月10日 82頁)。写本とはそういうものなのである。決定的なのは、大宰府天満宮に伝来する『翰苑』がある。これは「張 楚金」撰、「雍 公叡」註のもので、「唐」の太和年間(827年〜835年)以前の成立だとされる(同上 113頁)。そして平安時代初期の書写されたものだとされる。「紹興本」と「紹熙本」よりも早い。現行刊本(「紹熙本」)で「壹與」とあるのは『翰苑』では「臺與(台与)」となっている。『後漢書』には「壹與」あるいは「臺與」というのは一切見えないから、『翰苑』が『後漢書』を参考にしたとは言えない。「紹興本」と「紹熙本」よりも早く編纂された『翰苑』が「臺與」となっているのは、『三国志』の原本を見たのか、それとも他の史料を見たとしか考えられない。つまり、「紹興本」と「紹熙本」の「壹」は「臺」の誤植だった可能性が高いのである(安本美典−前掲書 114頁)。加えて、『三国志』の写本時代の4世紀〜10世紀末までに執筆された書物、つまり『後漢書』倭伝(445年ころ)、『梁書』諸夷伝(636年)、『随書』俘(倭)国伝(656年)、『通典』(801年)、『太平御覧』(983年)などは総て「臺」と表記している(「倭人伝を読む」山尾幸久〔『続 邪馬台国のすべて』72頁〕)。『三国志』より後世の書物が「壹」ではなく「臺」と記していることは、『三国志』の「壹」が「臺」の誤りだったと考える。したがって、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とは同じもので、「邪馬臺国」の表記が正しい。古田の考えは採り得ないのである。
 

歴史の観察者さんへ

 投稿者:多利思北孤  投稿日:2011年 3月10日(木)00時14分29秒
  私は貴殿と論争するほど暇人ではありません。
私の感想を述べただけです。
古田氏によほど恨みでもあるような書き込みですが、何か古田氏にいじめれたのですか?

>また「★博多区の板付遺跡や唐津市の菜畑遺跡」とあり、その前に「★そこが倭人伝に記された7万戸の大国、邪馬壹国である事に何ら疑問を感じないのです」とあるが・・ここに矛盾を感じられないは、板付遺跡や菜畑遺跡に直接に行かれ、あそこが7万戸の大国の住居跡の規模でありかどうか・・見られ調査されたかどうかである?。

私は直接には知りませんが、高度成長期やバブルの時代など、
遺跡が出ても崩してそのまま埋めてしまう事があったそうです。

板付遺跡の隣は戦時中に造成された広大な福岡空港です。
昔は板付空港と地元の人は呼んでいたそうです。
発掘する事はまずもって無理でしょうね。
もしかすると軍事優先の時代により、先と同じ運命を辿ったかもしれません。

私に尋ねる前に貴殿が発掘されたら宜しいのでは?

 

とんでもない!

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月 9日(水)23時37分50秒
  そば屋さんや解法者さんに比べると私なんかただのハナタレ小僧です。
ゴミです。
クズです。
 

ご謙遜を!

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 3月 9日(水)22時14分15秒
  珍さん程、何事にも造詣が深く思慮深い人を私は、初めて知りました。
これからも色々なコトを教えて下さい!
 

私はただの中華料理屋のオヤジです

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月 9日(水)21時21分36秒
  そば屋さんは仮の姿で実は京都の高貴なお方だと以前から思っておりました。
解法者さんは歴史と政治、両方に非常にお詳しい!
間違いなく学者さんでしょう。
私なんてただの素人です。
 

感動!!!

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 3月 9日(水)18時08分45秒
  珍さん、どうしてそんなに難しいコト知ってるの?
凄い感動!!!
 

日野様

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月 9日(水)17時37分20秒
  まず、次の点を指摘させていただきます。

○フーバー博士の発表は個人的な発表でありNASAの公式発表ではない。

○フーバー博士は「窒素はほとんど無かった」とコメントしており
 「全く無かった」とは言っていない。

○隕石からの生物の化石の発見の報告は今回が初めてではなく、以前にも火星から飛来
 したと思われる隕石から生物の痕跡を発見したとの発表があったが批判にさらされ
 結局ウヤムヤになった。

○今回の隕石も他の研究機関等の検証は今現在行われていない。

○仮に地球外バクテリアだとしても、どうしてそれが地球外「知的」生命はいた!という
 結論に達するのか。
 

R 古田さんの弟子?

 投稿者:歴史の観察者  投稿日:2011年 3月 9日(水)15時17分22秒
  歴史とは、そこに古き実証物が存在し、それを解明・推理するために発展するものです。
遺跡そのものが存在しないのにそこに焦点を当てるは空想の部類に入るのです・・古田氏の論が史家の多くから排斥されるはその空想・妄想論が強過ぎるのでは?。

空想物語としては、素人衆には面白いのです、事実、私も面白いと思う、だが、歴史と言えるものではありませんね・・私は最初からこれは個人の空想ですと断りを入れたほうがいいと思う・邪馬台国の話が、東大九州説・京大畿内説での論戦参加ならいいのですが・・

『東日流外三郡誌』東北アラババギ王朝・・さらに裸国・黒歯国のペルー・エクアドル・ナシカ地上絵・・天皇家のパラオ諸島出身説・・要するに最後にはムー大陸に持っていきたいのでしょう・・もはや歴史家とは言えません・・SF漫談・SF講談の領域に入った・・どんなもんにも喰らいつくタボハゼ論に過ぎないと思います。

歴史とは、大陸より遠く離れし、瀬戸内の奥・紀ノ川を上ったその盆地に豊葦原瑞穂中津国の最大の集落跡が出現したために・・そこに焦点を当てて研究するのです。
「★物資が主に船で輸送される時」とあるが、あの時代は船で輸送されし時代であったのか? 物資とは何を指すのか、鉄か? 鏡か? 勾玉か? 稲作か? 墓制か? 物資運搬にもっとも不便なる山奥の纏向に大遺跡が出現する説明の方法がつかない・・。

「★大陸に一番近い九州北岸の博多が」とあるが、魏志倭人伝は・・「また、一海をわたる。千余里で、末盧国にいたる」とある・・末盧に上り、伊都を通り、奴国に至った博多が一番近かったのではない・・。

また「★博多区の板付遺跡や唐津市の菜畑遺跡」とあり、その前に「★そこが倭人伝に記された7万戸の大国、邪馬壹国である事に何ら疑問を感じないのです」とあるが・・ここに矛盾を感じられないは、板付遺跡や菜畑遺跡に直接に行かれ、あそこが7万戸の大国の住居跡の規模でありかどうか・・見られ調査されたかどうかである?。

今、この掲示板で2〜3世紀の邪馬台国(邪馬壹国?)の場所を論じている、そして学会の定説も畿内纏向遺跡にだいたいに固まったが
現状である・・2世紀〜3世紀の邪馬台国の場所探しをしてる・・宮下文書や竹内文書の
ウガヤフキアエズ朝の都探しをしているのではない・・。

古田氏がなおも九州のSF説を展開するなら・・その都跡の有無の論理の通った説明をしなければならない・・歴史とゆうならばね?
ただ夢とロマンと空想だけでは・・ただの珍聞の域であろう・・。

余分ごとだが、河姆渡遺跡(私は2度行った)博物館・資料館もまわったが、紀元前後の弥生と西暦前30世紀時代的隔たり・・出土品的にも、石器・木器・什器・陶器・道具類ら
九州北部文化圏とはなんら関連性も感じられなかった・・だい一の米の第二ルートと申すなら、その上陸地点を五島列島と定めな博多はまったくの方向違いである・・。

やはり文化は紀元前5世紀、否!7世紀ほどにもなるか? 第一の南鮮釜山ルートを通り、魏志倭人伝と同じ対島に向かうが一番妥当な考えだが、タボハゼ喰いの古田さん・・こんな平凡論調はとらない・・虚をつくことにより読者に夢とロマンを与えることに生きがいを感じておられるからね・(笑)。

そしてここに繋がる
『■陳寿が史記を引用した「会稽東治の東」で、
倭人は呉人に通じていると陳寿が理解した会稽には、河姆渡遺跡があります。
この遺跡は、稲の日本伝来第二のルートとされており、昭和48年のこの発掘を、
執筆当時の古田氏は知り得ません。

この事実は、古田氏が『「邪馬台国」はなかった』で最も主張した、
「魏志倭人伝の記述は正しい」を、最も証明している事例だと私は思います。』





 

私は、しがない夜泣きソバ屋

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 3月 9日(水)13時56分47秒
  珍さん、あたなこそ京のお公家さんとみた?
あなたは凄い!
解法者さんも凄いけどあなたは何者?
 

邪馬台国(38)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 9日(水)12時07分35秒
   「古鏡」については「小林行雄」の詳細な研究があり(『古鏡』学生社 1965年11月10日)、「三角縁神獣鏡」といっても単一の形態のものばかりではなく、第1期から第7期の7つに分類されるという(「邪馬台国から倭政権へ」都出比呂志〔『史話 日本の古代 2−謎につつまれた邪馬台国』直木孝次郎 作品社 2003年4月30日 237頁〕)。そして第1期のもの(約40面)に前述の年号鏡が入り、これらのものが舶載鏡であるという(前掲書 239頁)。
 そして、「小林行雄」の研究によると、「椿井大塚山古墳」から出土した銅鏡(32面以上)が発掘された。この鏡は総て中国製であるとされている(『三角縁神獣鏡の時代』岡村秀典 吉川弘文館 1999年5月1日 179頁)。「椿井大塚山古墳」は3世紀末とされていたが、近時、3世紀中葉ともされている。重要なのは「三角縁神獣鏡」がここから全国に配布された形跡が強いということである。その分布を見てみると、九州では8点なのに対し大和の7点を中心に東西(東は千葉県の「城山古墳」、西は山口県の「竹島古墳」)に無数に広がっている。
なお、「三角縁神獣鏡」に似た「斜縁盤龍鏡」が「広峯古墳15号墳」(京都府福知山市)から発見されたが、ないはずの「景初4年」の銘が彫られていた。このことは「同笵鏡」が広く日本に分布していたとの証拠とされている。
 

RE:外国人の政治活動

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 9日(水)12時05分36秒
   政治活動とは、次のものをいいます。
1.公職について公選することおよび公選されること(これをそれぞれ選挙権、被選挙権
 といいます)。
2.政治上の主張をし、あるいはその主張を支持しまたは反対すること
3.政党を結成し、またはその政党に参加すること
4.公職の候補者を推薦し、あるいは支持しまたはこれに反対すること
 現在も過去も刑法上での外国人の政治活動の規制規定はありません。
 他の法律ですが、外国人の政治活動が制約されているのは、選挙権と被選挙権(前記の1)のみです(選挙権−公職選挙法第9条、被選挙権−同法第10条)。その他では、法務大臣が日本国の利益又は公安を害する行為を行ったと認定する者については強制退去を命じることができますから(出入国管理法第24条4のヨ)、例えば「竹島」が韓国領だと主張して運動を起こすことはこれに該当することになろうかと考えられます。
 こういう場合(国益などに反する場合)を除けば、外国人の政治活動は制約されないと考えてよいと思います。例えば、外国人にも選挙権、被選挙権を与えよと運動することも許されます。つまり、外国人の政治活動は現行法では自由だと考えられています。
 

外国人の政治活動

 投稿者:無学老人  投稿日:2011年 3月 9日(水)10時11分40秒
  昔は刑法で外国人の政治活動は禁止されていたと
記憶しているのですが廃止されたのでしょうか?
それとも私の記憶違いなのでしょうか。

外国人の政治献金が問題に成りましたが金だけ
の問題では無いと考えます。資金提供は日本の
政治に対する外国人活動の一つに過ぎません。

現在の刑法に外国人の政治活動を禁止して
いる条文は在るのでしょうか?
在るならば適用して外国人を取り締まるべき

と考えます。
 

古田さんの弟子?

 投稿者:多利思北孤  投稿日:2011年 3月 8日(火)23時37分58秒
  >古田の弟子は多利思北孤さんでしょう。普通なら多利思「比」狐ですからね。

倭人さんスルドイですね。
ただし私は古田氏の弟子ではありません。
建設工事の現場で早朝から深夜まで働く現場監督です。
そして古田氏の多元的古代史が一番納得できると思う一介の素人です。
邪馬台国に関しては、古田氏の博多湾岸説が一番納得出来ると思っているだけです。

私は常識として(私だけの常識かもしれませんが)、
文明の伝播が文物の伝播であるなら、物資が主に船で輸送される時代、港に人が集まり、
そこが都市となり、その都市が国となって、そこに王が出現する、といった一連の過程、
これは歴史の必然であろうと思うのです。

こう考えた時、大陸に一番近い九州北岸の博多が、現在でも大きな都市であるように、
古代において最も栄えた、先進文明地帯である事に何ら矛盾を感じないのです。
そこが倭人伝に記された7万戸の大国、邪馬壹国である事に何ら疑問を感じないのです。
九州北岸部が、弥生時代になって、いきなり先進文明地帯になった訳ではありません。
博多区の板付遺跡や唐津市の菜畑遺跡は、縄文晩期の日本最古の水稲耕作跡であり、
縄文時代から続く先進文明地帯なのです。

貴殿には釈迦に説法かもしれませんが、陳寿が史記を引用した「会稽東治の東」で、
倭人は呉人に通じていると陳寿が理解した会稽には、河姆渡遺跡があります。
この遺跡は、稲の日本伝来第二のルートとされており、昭和48年のこの発掘を、
執筆当時の古田氏は知り得ません。

この事実は、古田氏が『「邪馬台国」はなかった』で最も主張した、
「魏志倭人伝の記述は正しい」を、最も証明している事例だと私は思います。
 

知識の無い者はいかんともし難い

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 8日(火)23時34分12秒
   全くの理科系オンチ+機械オンチだった。小学校のときコイルを巻いてモ−タ−を作らされたが自分一人だけモ−タ−が回らなかった。全く自分ながら嫌になった。
 高校の物理 これも全く理解できなかった。クラスの秀才に試験で何が出るかと聞いたら、たくさん教えても覚えられないから1つだけ教えると言われ教えてもらいそれが出て、それだけできて15点だった。がっかりしてたら平均点が7点だった。化学も同じようなものだった。国立大学には理科系科目から1科目選択だったので仕方なく生物を選択した。これはどうやら理解できた。
 こういうような始末だったので、今でも理科系の知識のある者には畏敬の念を抱いている。パソコンだってやっとのことで触っている。「猿でもできるパソコン」というのがあったが、猿以下であることは間違いない。
 「鉄鏃」に関する知識もこの類で科学的知識の無いことに起因しているかもしれない。
 

re:石鏃

 投稿者:多利思北孤  投稿日:2011年 3月 8日(火)23時15分31秒
  >大型化することにより殺傷力が増すという面もあるのではなかろうか。

鏃が大型になれば殺傷能力は当然増します。
12.7mmの機関銃より20mmの機関銃の方が破壊力は増します。

しかし問題は「弾が大きくなれば銃も大きくなる」と言う事です。
その大型化した鏃は弓で放たれる訳ですから、弓も反発力が強くなければなりません。
当然、弦も長くなり弓も大きくなると思います。
そして弓を引くのは人間です。
それなりに多くの力が必要になるし、力が無くては飛距離も出ず命中率も下がるでしょう。
それなら尚更に、沢山放てる鉄鏃の方が戦闘力も上がるのではないでしょうか?
接近戦以外なら、敵を一撃で殺す必要はありません。
弓矢は足でもどこでも体に命中するだけで敵の戦闘能力を奪えます。
アウトレンジから敵に大量に矢を放つ戦法は理に適っています。
 

在日朝鮮人を使った政治家潰し

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 8日(火)21時14分10秒
   前原外務大臣が在日朝鮮人から献金を受けていたとして外務大臣を辞任するはめとなったが、この在日朝鮮人は通称名(日本人名)を使って献金していた。前原外務大臣はこの在日朝鮮人と旧知の間柄だったというから弁解の余地はないが、在日朝鮮人は政治家を潰すために通称名(日本人名)を使って献金することが行われる可能性が高い。朝鮮総連や民団が彼らと対立する政治家に通称名(日本人名)を使って献金し、これをマスコミに密かに通報して潰す、こうしたことが意図的に行われるだろう。
 政治家はこれに対処する手段を講じることは極めて困難であろう。政治献金の身元を一々確かめることはそう簡単なことではないからである。これに対処するには政治献金をした外国人に罰則を与えるしか方法はない。こうした法整備を行わないと朝鮮総連や民団が跋扈することは防止できない。
 なお、こうした外国人を強制退去できればその効果は飛躍的に増すが、在日朝鮮人は内乱罪・覚せい剤取締法違反などや懲役7年以上の懲役・禁錮でないとそれができない(「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定」第3条)。
 

解法者さま、夜泣きそば屋さま

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月 8日(火)16時29分53秒
  はじめまして。
以前からROMっておりました。

お二人の豊富な知識、投稿内容に比べると私なんてゴミみたいもんです。
特に解法者さまの歴史、政治に関する投稿を拝見しますと学者さんだとすぐわかります。
夜泣きそば屋さまの捕鯨や宇宙開発の御意見には共感しました。
(もしかして高貴なお方では?)
今後とも宜しくお願い申し上げます。
 

続 珍さんてもしかして

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 8日(火)12時33分11秒
   こういう理科系の知識がある人はうらやましい。  

珍さんてもしかして

 投稿者:夜泣きそば屋  投稿日:2011年 3月 8日(火)06時15分36秒
  そんな難しいコト知っているなんて凄い!
もしかして学者さんですか?
 

RE:やはり、地球外知的生命体はいた@

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月 8日(火)02時19分34秒
  <ここで少し、私の見解を言っておきたい。問題は「非、窒素生命体」が発見されたということである。それに対して、今の生命は「窒素生命体」だ。狂牛病の菌はRNAもDNAも持っていない、異質な生命だ(私はこれこそ地中外生命だと思っている)が、それでも窒素は含んでいる。

狂牛病の病原体は菌でもウィルスでもありません。
「プリオン」と呼ばれる蛋白質の変異したものです。
 

邪馬台国(37)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 7日(月)22時38分51秒
   近年、中国の研究者「王 金林」が中国にも「三角縁神獣鏡」が「洛陽博物館」にあることを指摘している(『弥生文化と古代中国』1992年〔『邪馬台国論争』岡本健一 講談社[講談社メチェ 52]1995年7月10日 213頁〕)。これについては直径14.3センチで、日本出土の大型の「三角縁神獣鏡」が平均22.3センチ、最小17センチと比べてあまりに小型であり、また「三角縁神獣鏡」特有の外区を廻る鋸歯文も復波文帯も見えず「斜縁神獣鏡」ではないとの指摘もある(前掲書 214頁)。ただ、神獣の文様など類似している点もあり、「岡本健一」も指摘するように中国に「三角縁神獣鏡」がなかったとすることについては相当の反証にはなるであろう。
「王 金林」は前記のように紀年銘のあるものは「舶載鏡」で、無いものが「同笵鏡」だと考えている(前掲書 217頁)。これも一つの考え方であろう。
いずれにせよ日本に出土する総て「同笵鏡」だとする考えは成り立ち得ないと考えられよう。
 なお「同笵鏡」は日本で製作されたものではなく中国で製作され日本に持ち込まれたとする考え(『日本の歴史 1 倭国の誕生』直木孝次郎 小学館 1973年10月25日 297頁)がある。これは祖型の鋳型や製造場所が「銅鐸」については発見されているのに(「摂津国茨木市東奈良遺跡」〔『銅鐸への挑戦 3 誇り高き銅鐸』原田大六 六興出版 1980年9月30日 146頁〕)、「三角縁神獣鏡」についてはそれがないことから、そのような可能性も有り得るのではなかろうか。
 

RE:やはり、地球外知的生命体はいた@

 投稿者:珍 宝啓  投稿日:2011年 3月 7日(月)22時11分39秒
編集済
  え、ちょっと違うんじゃないの?

http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-19847920110307
 

RE:台湾併合論

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 7日(月)20時53分7秒
   台湾が中国に擦り寄っていくと「台湾併合」が現実味を増してくる。
台湾は日本の生命線だから。鍵は「国民党」の動向だろう。
 

(無題)

 投稿者:中道保守  投稿日:2011年 3月 7日(月)19時09分19秒
  1点 もう実力行使しかない野党にはできないだろう

ビグロべニュースのこのコメントに皆さんで連打しましょう。

いえ、これは宣伝行為になるのか。然し、武力革命で菅を殺してやりたいな。尊皇倒閣だ!
 

やはり、地球外知的生命体はいた@

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月 7日(月)18時59分59秒
  <今回NASAの科学者が、隕石の中に地球外生命体の痕跡を発見したとして、またもや世間を騒がしている。



その科学者とは、NASAのマーシャル宇宙飛行センターの宇宙生物学者リチャード・フーバー博士。彼は世界各地で発見された隕石の中にバクテリアの化石を発見し、10年もの間宇宙から来たとされるバクテリアの研究を行ってきた。



そして今回その隕石の中に、地球のバクテリアと類似する生命体の化石、さらには地球外生物の存在を示唆する生命体の痕跡を発見し、世界を驚かせている。



まず、地球上のバクテリアに似た生命体の話からすると、博士は「Titanospirillum velox」という地球に実際に存在する巨大バクテリアに、大きさも構造もそっくりな生命体の痕跡を発見した。フーバー博士は、この他にも地球上の生物と類似したバクテリアを隕石の中に発見しており、「これは生命体が地球だけではなく、宇宙全体に拡散していることを意味するものだと私は解釈しています」と述べた。



そして、地球外生物の存在を示すものとして、フーバー博士は窒素を全く持たない生命体の痕跡を発見。窒素は生命に欠かせない物質とされており、博士は「最短でも150年前の生物が窒素が全くない状態、もしくは私の検知レベル以下の窒素の中でどうやったら生息可能なのか説明できたのなら、私は喜んでその人の話を聞きましょう」と述べ、この生命体がいわゆる地球外生物であることを暗に主張した。



今回のフーバー博士の発見は、「胚種広布説」という生命体は隕石または小惑星によって宇宙に分布しているという説を支持することとなり、また地球外生物の存在を示唆していることから、現在科学者たちの中で大きな反響を呼んでいる。>

すごい、新発見だ。最も、ここで述べられている「胚種広布説」には私は納得していない。私は天文マニアで、西はりま天文台にもたまに行くが、やはり「胚種広布説」は成り立たないだろう。


ここで少し、私の見解を言っておきたい。問題は「非、窒素生命体」が発見されたということである。それに対して、今の生命は「窒素生命体」だ。狂牛病の菌はRNAもDNAも持っていない、異質な生命だ(私はこれこそ地中外生命だと思っている)が、それでも窒素は含んでいる。

つまり、今回のはたとえ宇宙生命ではなくとも、世紀の大発見なのである。フーバー博士のこの発見はノーベル賞級であるといえる。
 

台湾併合論

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月 7日(月)18時09分57秒
  あれ、賛同者がいないみたいだな。  

嫌な予感

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 7日(月)18時07分59秒
  私は嫌な予感がしたのだが。前原外相をはじめ、売国を止めていた勢力が消えていく。去年、自由民主党の幹部周辺から流出した機密情報によれば、菅直人の売国プロジェクトは2010年5月から始まっていたという。(但し、機密のため提供者名など詳細はここでは明かせない)  

(無題)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 7日(月)18時02分55秒
  古田氏の支持者が意外に多いな。竹下先生の影響かな?私も古田氏の説は参考にしているけど、古田氏の組織には思想的な理由から入っていない。

おっ、倭人さん、久しぶり。eajjin128とは別人だったのですか。然し、『古事記』を無視していたら、解法者さんや津田左右吉と一緒ですよ。
 

だいたい・・・

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月 7日(月)17時59分12秒
  私はwajin128とは別人です。ただ、彼と名前が似ていたから使用していたからです。
むしろ、古田の弟子は多利思北孤さんでしょう。普通なら多利思「比」狐ですからね。
 

ん?

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月 7日(月)17時57分8秒
  私は古田何かの弟子じゃありませんよ。いい加減にしないと名誉棄損罪で訴えますよ。  

石鏃

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 7日(月)15時32分21秒
   大型化することにより殺傷力が増すという面もあるのではなかろうか。  

邪馬台国(32)の疑問

 投稿者:多利思北孤  投稿日:2011年 3月 7日(月)13時03分46秒
  >「鉄器」は戦闘に優位ではあるが、これが「石器」に勝てるとなるとそう簡単に結論づけられないであろう。この時期には「石鏃」も2・3グラムくらいから10グラムのものまで製作されるようになってきている。

弓矢での戦闘において、その優劣は鏃の重量よりも数量ではないでしょうか?
鉄は一旦型を作れば大量生産できます。矢は銃の弾と同じです。
機関銃のように沢山撃てるほうが有利に決まっています。
 

邪馬台国(36)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 7日(月)12時26分32秒
   「王 仲殊」の考えを補強するのが「寺沢 薫」で「三角縁神獣鏡」は粗末に扱われ貴重品としても価値はなかったことを理由とする(『日本の歴史02 王権』寺沢 薫 講談社 2000年2月10日 309頁)。「寺沢 薫」の見解については「三角縁神獣鏡」が棺外にあるのは魔よけの呪具としての意味があり、棺内の被葬者あるいはその霊を封じ込める意味があった(「黒塚古墳」からの出土した「三角縁神獣鏡」は棺外に棺と石槨の間に鏡面を死者に向けて立ち並べられていたという再反論がなされている(『古墳とヤマト政権』白石太一郎 文藝春秋〔文春新書 036〕1999年4月20日 106頁)。「三角縁神獣鏡」の扱いについても粗末にするのであれば、そもそも墳墓に埋葬する方がオカシイのであって、「寺沢 薫」の考えも賛同できない。
 これに関して当時の「鏡」の価値を探る研究がなされている。『萬葉集』(3314番に「鏡」1枚を「馬」1匹と交換する歌が詠まれている。
 当時の資料がないので、そこで一番近い資料(『駿河国正税帳』)によると、天平10年(738年)の馬1匹は22石5升(225升)〜12石5升(225升)であった。
 1斗(1/4俵=10升)で約18リットルされ、これは容積で重さではない。現在、米を買う場合はキログラムという重さの単位を基準にするから、1斗は約15キログラムに相当するようである。現在の一般的な米の価格を1斗当たりで考えると約5000円蔵だろう。これを前記の馬の価格に当てはめると、約1,125,000円〜約625,000円と計算される(『邪馬台国論争』原田大六 三一書房 1969年5月31日 77頁)。
つまり「銅鏡」の価格は現在で言えば、相当に高額のものとなる。「寺沢 薫」の考えのように「鏡」を<粗末>には扱えなかったのである。
 「三角縁神獣鏡」を副葬するにせよ、33面ものそれを副葬するとなると2000万円から3000万円もの大変高価なものを副葬したというから、当時の権力者の権勢がしのばれよう。
 

妄想

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 6日(日)17時50分18秒
   「邪馬台国」は熊本県にあろうはずはありません。大規模の「卑弥呼」の墓も
ありませんし、7万戸という王都もありません。
 こうした貧弱な地域体が「大和」を支配したなどと考えること自体が<妄想>
の域を出てません。
 

邪馬台国(35)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 6日(日)11時11分25秒
   こうした「三角縁神獣鏡」が「同笵鏡」であるとする理由は、中国から「三角縁神獣鏡」が発見されてないことである。そして、「三角縁神獣鏡」は「呉」から工人がやって来て日本で製作したと考えるのである(「日本の三角縁神獣鏡について」王 仲殊 1981年)。これには疑問がある。日本の手工業の歴史から見て、大陸系の工人が日本に入ってくるのは5世紀ころである(『シンポジウム 古墳時代の考古学』森 浩一 学生社 1970年6月5日[甘粕 健の発言]140頁)。この時代にどうして「鏡」だけを製造する工人のみが渡来したのであろうか。この時代に外から日本にやって来た技術集団の痕跡が見当たらないのである。また彼らは中国に見当たらない「鏡」をどうして製作したのであろうか、さらに彼らはどうして他の「鏡」を製造しなかったのであろうか。「呉」の工人だというのにどうして「魏」の年号を刻んだのか。彼らが「同笵鏡」を製造しあっとしても手本となる「舶載鏡」(中国伝来の鏡)があったと考えるのが常識ではなかろうか。製作者が「呉」の工人というのは考えられない。「王 仲殊」の考えは成り立たないのである。なお、「三角縁神獣鏡」は「東晋」(317年〜420年)の時代のものであるという者がいるが(『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』安本美典 275頁・315頁)、前記と同じくなぜ「東晋」の工人が「魏」の年号を刻んだ鏡を作ったかの疑問に答えられない。これも採り得ない。
 中国に見当たらないのは、<特注品>だったから発見されてないとの再反論がなされている(「副葬品は語る」岡村秀典〔『古代を考える 古墳』白石太一郎 吉川弘文館 1989年3月20日 152頁〕)。この<特注品>という考えは戦国時代の「趙」が現在の内蒙古
の遊牧系民族の王に銀の馬具の帯皮留めを贈っているが(西溝畔戦国墓出土)、これは「趙」にない特注品であるとされている(「三角縁神獣鏡と紀年銘鏡」近藤喬一〔『謎の鏡−卑弥呼の鏡と景初四年銘鏡』175頁〕)ことから説得力がある。
 

また一人古田武彦の弟子が現れた

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 5日(土)19時35分50秒
  >大和は熊本県にあった邪馬台国の直轄地であったと考えている<

 根拠は? いつまで? これが示されないと単なる<叫び>
 

皇国史論「邪馬壹国」編D倭国易姓革命論(邪馬台国水沼説)批判

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)18時20分37秒
  ばらばらに投稿すれば観覧車の誤解を招く恐れがあるのと、まだ言い足りなかったことがあるので、ここで今日に上・中・下に分けて投稿した三つの元投稿を一つにまとめ、さらにいくつかの事を補足しておこうと思う。
竹下先生、過去ログに元投稿は収録しなくていいです。
皇国史論「邪馬壹国」編D倭国易姓革命論(邪馬台国水沼説)批判上 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)10時55分16秒
これで邪馬壹国は環太平洋圏を代表する勢力であり、それは九州北東部にあって、中心地はまだ未定だが、その範囲はほぼ確定した。そして、三世紀の遺跡は博多湾に集中しているため、おそらくそのあたりであろうが、その邪馬壹国はいったいどうなったのか、という問題が出てくる。

まず、「東遷説」だが、これは無理だ。まず、神武東征は紀元前後に行われており、三世紀と時間は合わない。井沢元彦のように五世紀東遷(応神東征)を主張する者もいるが、大した根拠はないし、だいたい『古事記』を安易に疑う、その姿勢は認められない。

その頃の大和王朝は崇神・垂仁天皇陛下がいたころで、三角縁神獣鏡を天皇家が大量生産していたころだ。その勢力は本家である筑紫君・九州王朝に並ぶほどになっていた。その頃に邪な馬の国の王が金印をもらった記録はない。大和王朝と邪馬壹国がべっ国である何よりの証拠だが、それはともかく邪馬壹国が近畿に東征した記録は片鱗すら見いだせないのだ。

邪馬壹国編D中 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月 5日(土)10時58分45秒
   そこで福永伸三氏が「邪馬壹国が滅びて邪馬台国ができた」と主張した。然し、古賀達也氏の言う通り、それには文献学的・考古学的証拠が一切ない。また、仲哀天皇や神軍皇后、応神天皇、さらに仁徳天皇までをも「邪馬台国の天皇」とし、その間「ヤマトは何もなかった」とするのはおかしい。

皇国史論「邪馬壹国」編D倭国易姓革命論(邪馬台国水沼説)批判<下> 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)14時37分49秒
   さらに問題なのは、『後漢書』だけで邪馬台国を解決しようとしている点である。これについては西山某氏も似た様なことを言っていたが、さらにこの両者は『万葉集』までを駆使して、思い思いの土地に「邪馬台国」を建国している。松下史学、そしてその亜流の津田史学の典型的な末期症状であろう。

こうして、私は邪馬壹国は決して滅びず、四世紀まで続いていたという結論に達した。つまり、福永説(及び西山説)は成り立たないのである。この国が滅んだのか、それとも続いたのかは別に述べる。(尚、西山説は論ずるにたりない説であるので、ここでは無視する)

【補論】『万葉集』について

『万葉集』の中皇命を福永氏は仲皇命=仲帯皇命=中帯彦(仲哀天皇)としている。然し、『万葉集』収録の『倭書・日本紀(わしょ・やまとのふみ、仮に命名しておく、原書名不明)』によれば「朱鳥」年間に仲皇命はいたという。そうすると、「朱鳥」は九州年号だから七世紀のことになる。従って、福永氏の論証は成り立たない。詳しくは別に論じる。
 

RE:護国運動家氏へ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)18時05分57秒
  邪馬壱国(原文は「壹」)なら一応完成しています。また「ナスカの地上絵は日本人が作った」は邪馬壹国問題と密接にかかわっているものであり、『魏志』の信憑性にもかかわるものです。「倭人伝」の研究は里程問題だけではありません。

とにかく、『皇国史論・邪馬壹国編』はもうすでに完成しています。批判があるなら言ってください。「蜜柑」ではありません。
 

護国運動家氏へ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 5日(土)16時10分45秒
   あなたの「邪馬台国論」は未完
「邪馬台国論」に集中して論じて下さい。
 

ナスカの地上絵は日本人が作った

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)15時54分4秒
  「La-balsa」のHPより引用。

3. 縄文人は優れた海洋航海民族であった(日本・エクアドル交流説)

エクアドル・グアヤキル市の市長でもあり、考古学に造詣の深かったエミリオ・エストラダ氏は、1960年代にエクアドル太平洋岸のバルディビアから出土する土器と、日本の「縄文土器」との相似性に着目して、アメリカのスミソニアン博物館のエヴァンズ・メガース夫妻に送り調査への協力をもとめた。夫妻はこれを正面から受け止め、エストラダ氏からの遺物や情報に接するや、ただちに日本に飛び、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本列島〜エクアドル」間の縄文伝播という前人未到の新学説を樹立した。その学説は1965年にスミソニアン博物館学術報告書に『エクアドル沿岸部の早期形成時代−バルディビアとマチャリラ期』として世界に発信された。この「太平洋における文化の伝播説」はその後、各方面における研究成果により進展を見せた。このことは古田武彦氏の『海の古代史』原書房1996年,に次のように記述されている。

<『海の古代史』より>
1995年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証からさかのぼってみよう。

第一は、「HTLV1(ローマ字)型の論証」である。1994年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV1(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。

第二は、「寄生虫の論証」である。1980年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アウラージョ博士等による共同報告である。それによると、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジャー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。

その放射能測定値は、はじめ「3500年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、1995年、わたしの手元に到着した、アウラージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は右の前後(縄文中期−弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。スペイン語等の論文もふくんでいるから、今後、各専門家の手によってより詳細に確認したいと思う。

いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。

第三は、「三国志の論証」である。1971年、『「邪馬台国」はなかった』によって明らかとされた。
「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。古田氏は魏志倭人伝に描かれているこの南米における倭人の国についてさらに詳しく述べている。

わたしを導いたのは、学問の方法だった。“ただ、三国志の著者、陳寿の指し示すところに従う”この方法であった。その結果「邪馬台国」ならぬ邪馬壱国(原文は「壹」)を“博多湾岸とその周辺”へと指定することとなったのである。思いもかけぬ決着だった。( 『「邪馬台国」はなかった』参照、朝日文庫1971)。

それにとどまらなかった。この方法は、わたしを導いて、倭人伝の中で誰一人、真面目にとりあげようとしなかった二国“「裸国と黒歯国」が、南米西海岸北半部、エクアドル、ペルーの地にあり”、この予想外の帰結にまで到らしめたのである。

陳寿によれば“女王国の東、千里にして「倭種」あり”という。一里は、約77メートル(当時は“75メートルと90メートルの間。75メートルに近い”とした)の「短里」だから、関門海峡以東が「倭種」。その“「倭種」の南に「侏儒国」がある”という。女王国の東南にあたる。 その「侏儒国」は「女王を去る、四千余里」とあるから、里程は、関門海峡からは“残り”三千余里。海上を測ってみると、当初「予想」した宇和島近辺を越え、高知県の足摺岬近辺となったのであった。その「侏儒国」が、次の問題の一文の起点だ。

「(裸国、黒歯国)東南、船行一年にして至る可し」 わたしは倭人伝の「年数」について、「二倍年暦〕という仮説に到達していた(後述)。この立場からすると、右の「一年」は実質半年のこととなる。六カ月だ。ところが、「太平洋ひとりぼっち」の堀江青年などの航海実験によると、「日本列島−サンフランシスコ」間は、約三カ月前後。とすると、あと三ヶ月の「距離」を黒潮上にたどれば−−その結果がエクアドル、ペルーだった。

わたしは論理の筏に乗り、冒険航海の末、ここに到ったのである。前人未到だった。
すでに述べた「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。この論証の成立後、わたしはエヴァンズ説の存在を知った。

第四は、無論、エヴァンズ説(1965)「縄文土器の伝播」だ。エストラダ氏の「発見」にもとづく新学説の誕生である。

以上のように、最初は「単独」にして「孤立無援」だった、この独創的学説は、30年たった今、状況が一変した。当初は、予想さえされなかったであろう、種々の「学際的裏付け」をえたのである。 この一点が重要である。すなわち、右にあげた四つの論証は、相互に何等の関係なき、別の学問分野に立つアメリカの孝古学、アジアの古典研究(史料批判)、ブラジルの自然科学(寄生虫)、日本の医学(ウイルス)と各別である。

1995年初頭、田島氏にはじめてお会いしたとき、氏はわたしの名前も著書(『「邪馬台国」はなかった』)も、全くご存じなかったのである(東京、国立予防衛生研究所における学会の会場脇でお会いした)。にもかかわらず、四者の学問研究の“指示した”ところは、一致した。もしくは同一方向へと帰着点をもつように見える。すなわち、 「(古代における)日本列島の住民と南米北・中部住民との関係」の存在である。

引用終。実は、私が古田氏の説を初めて知ったのは、この「倭人は太平洋を渡った」というテーマだった。よって、之からそれを立証していく。
 

再び応神東征

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 3月 5日(土)15時33分59秒
  私は大和は熊本県にあった邪馬台国の直轄地であったと考えている。

大和には欠史八代の物部氏王朝があり、やがてその後半は蝦夷の倭根子王朝によって変わられる。

そして、邪馬台倭国に追われたクナ国の崇神天皇が第三次大和王朝を開く。クナ国は日向にあり、この崇神東征が神武東征のもとになる。

しかし、この第三王朝の仲哀天皇は、熊本県の熊襲(邪馬台法国)に敗れ、さらに大和まで再び襲われる。こうして、大和を奪回した邪馬台国の応神天皇は、遷都して今の第四次大和王朝を開くのである。


ところで、残念ながら神武天皇は架空である。崇神天皇もほんとにいたのか疑わしい。確実なのは応神天皇以後の王朝だけ。そして、それも本当は五代(倭の五王)だったのに、九代に水増ししている。

とどのつまり、ほんとうにしんようできるのは継体天皇以降。つまり、万世一系など極右の妄想。

それが私の結論である。
 

やはりそこか

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)14時39分39秒
  解法者さん、あのサイトは「タイ国」を平気で「倭国」と改竄しているところです。気をつけた方がいいでしょう。  

皇国史論「邪馬壹国」編D倭国易姓革命論(邪馬台国水沼説)批判<下>

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)14時37分49秒
  さらに問題なのは、『後漢書』だけで邪馬台国を解決しようとしている点である。これについては西山某氏も似た様なことを言っていたが、さらにこの両者は『万葉集』までを駆使して、思い思いの土地に「邪馬台国」を建国している。松下史学、そしてその亜流の津田史学の典型的な末期症状であろう。

こうして、私は邪馬壹国は決して滅びず、四世紀まで続いていたという結論に達した。つまり、福永説(及び西山説)は成り立たないのである。この国が滅んだのか、それとも続いたのかは別に述べる。(尚、西山説は論ずるにたりない説であるので、ここでは無視する)
 

邪馬台国(34)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 5日(土)11時38分17秒
   卑弥呼は景初2年6月に「漢」に朝貢している。この景初2年は3年(239年)の誤りとされる(『梁書』−末尾の資料参照)。このとき「卑弥呼」は「親魏倭王」の称号を下付され、金印のほか銅鏡100枚を賜っている。この銅鏡が「三角縁神獣鏡」とされている(争いがある)。
「三角縁神獣鏡」というのは、鏡の外周の淵が三角形になっていることに特徴がある。
鏡の裏には、中国の神話や神仙と天を守護する霊獣との浮き彫りがある。また4つの乳がある。
 ここで注目されるのは、「魏」の年号の銘があるものが5面発掘されたことである。「景初3年」(239年)の銘のある「三角縁神獣鏡」は「黄金塚」(大阪府和泉市)、「神原神社古墳」(島根県雲南市加茂町)、「正始元年」(240年)銘のあるものは「柴崎古墳」(群馬県高崎市)、「森尾古墳」(兵庫県豊岡市)、「竹島御家老屋敷古墳」(山口県周南市)である。これらについては「同笵鏡」(国産品−模造品)である(「語りかける出土遺物」森 浩一〔『邪馬台国のすべて』佐伯有清・大林太良など 朝日新聞社 1976年6月30日 186頁〕)とする考えがある。特に「森 浩一」は日本で発掘された「三角縁神獣鏡」は総て「同笵鏡」だとする(前掲書、「吉野ケ里から邪馬台国が見える(下)」森浩一〔『朝日ジャ−ナル』1990年1月19日号〕)。
 注目すべきは、「三角縁神獣鏡」のなかには、「景□三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師(以下省略)」(「黄金塚」)、「□始元年、陳是作鏡、自有経述、本自□師(以下省略)」(「神原神社古墳」)、「(前略)銅出徐州、師出洛陽(以下省略)」(「唐古・鍵遺跡」〔奈良県奈良県磯城郡田原本町)の銘があるものがある。つまり鋳造の工房・工匠を入れたり、原材料の場所などを記したものがある。

 なお「同笵鏡」と似た言い方に「仿製鏡」というものがある。前者は同じ型から製作したものを言い、後者は単に真似たものを言うが、ここでは厳密に区別せずに「同笵鏡」と言う。
★ 梁書
 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm
 

邪馬壹国編D中

 投稿者:護国  投稿日:2011年 3月 5日(土)10時58分45秒
  そこで福永伸三氏が「邪馬壹国が滅びて邪馬台国ができた」と主張した。然し、古賀達也氏の言う通り、それには文献学的・考古学的証拠が一切ない。また、仲哀天皇や神軍皇后、応神天皇、さらに仁徳天皇までをも「邪馬台国の天皇」とし、その間「ヤマトは何もなかった」とするのはおかしい。  

皇国史論「邪馬壹国」編D倭国易姓革命論(邪馬台国水沼説)批判上

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)10時55分16秒
  これで邪馬壹国は環太平洋圏を代表する勢力であり、それは九州北東部にあって、中心地はまだ未定だが、その範囲はほぼ確定した。そして、三世紀の遺跡は博多湾に集中しているため、おそらくそのあたりであろうが、その邪馬壹国はいったいどうなったのか、という問題が出てくる。

まず、「東遷説」だが、これは無理だ。まず、神武東征は紀元前後に行われており、三世紀と時間は合わない。井沢元彦のように五世紀東遷(応神東征)を主張する者もいるが、大した根拠はないし、だいたい『古事記』を安易に疑う、その姿勢は認められない。

その頃の大和王朝は崇神・垂仁天皇陛下がいたころで、三角縁神獣鏡を天皇家が大量生産していたころだ。その勢力は本家である筑紫君・九州王朝に並ぶほどになっていた。その頃に邪な馬の国の王が金印をもらった記録はない。大和王朝と邪馬壹国がべっ国である何よりの証拠だが、それはともかく邪馬壹国が近畿に東征した記録は片鱗すら見いだせないのだ。
 

あらら、いつまでたっても反論が来ない

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)10時42分19秒
  解法者さん、『軍事列島日本』といった記者の説を信じた時点で古代史研究家失格ですよ。

失礼なことを言ったが、結局今回の議論でわかったことは次の事だけだ。
@解法者氏は和田家文書偽書派であること。
Aしたがって、解法者氏は相手が古田派とみるとオウム真理教扱いをする。(偽書派――特に斎藤光政記者や原田実の手口)
Bそして、古田氏に対する非学問的な批判を繰り返している。
Cまた、私の『皇国史論・邪馬壹国編』は解法者氏にせかされて書いたもので、不十分な内容であるが、それさえも解法者氏は批判していない。

私はまたインタ―ネットにつながらなかったため、しばらくこの掲示板に投稿できなかったが、逆に言うと解法者氏にはそれだけ持ち時間が与えられたはずである。私もたびたび本名を公開しており、無責任な匿名投稿者ではない。私の説を無視しないでほしい。
 

朝鮮併合は無論、台湾も併合せよ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 3月 5日(土)10時31分49秒
  >韓国も含めて朝鮮は中国の属国化に向かうと認識するのが正しい。これは三国時代からの歴史が証明している。つまり反日だということ。
 これは日本にとっても危機である。したがって、中国の覇権主義を阻止するために、韓国も含めて朝鮮を再併合することが望ましい。朝鮮が日本と中国の戦場になるかもしれない。
日清戦争の再来ということになろう。
 台湾、これは反中で日本の同盟国になる。台湾は日本の障害にはならない。 <

大筋は解法者の言う通りだと思う。何度も言うが、私は解法者氏ほど政治には詳しくない。というより、解法者氏は政治学者ではないのか?

然し、私に言わせれば台湾こそ日本が併合すべき国である。「反中同盟」を組んだところで、日本と台湾が組めば尖閣をめぐって争うことになる。つまり、戦前の日ソ不可侵条約の二の舞になるわけで、私は台湾を併合すべきと考える。これで私を軍国主義者扱いするのは結構だが、一つの案として考えていただきたい。
 

邪馬台国(32)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 4日(金)13時35分46秒
   「邪馬台国」=「九州」とする論者からしきりに言われるのは、『三国志』魏志倭人伝に「其地(中略)兵用矛・盾・木弓(中略)鉄鏃」とある。鉄の鏃(矢じり)を使っていたのである。
 この「邪馬台国」の遺物(武器)を「九州」と「大和」で比較した結果は次のとおりである(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 16頁)。
                     九州         大和
1.鉄 鏃               398個         4個
2.鉄 刀                17本         0本
3.素環頭大刀・素環頭鉄刀        16本         0本
4.鉄 剣                46本         1本
5.鉄 矛                7本         0本
6.鉄 戈                16本         0本
7.素環頭刀子・刀子          210個         0個

 そのほか、「絹製品」、「翡翠製勾玉」(新潟県糸魚川産)も九州がそれぞれ15地点、10個であるのに対し大和では2地点、0個である(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 24頁・46頁)。

 これを見てもわかるとおり、圧倒的に「九州」が凌駕している。これに対する「大和」派の有効な反論がなされてないような気がする。確かに「鉄」は「青銅」より硬く、「鉄器」の使用は農業などの生産力の飛躍的発展をもたらすのであって、「大和」がこれを用いるのが「九州」より遅れたということは、政治的・経済的中心が「九州」にあったことを示していると考える(奥野正男−前掲書 121頁)のは当然のことである。このことから「鉄」を「武器」よりも「農業器具」に重点を置いて考えるべきだと思う。後述(「邪馬台国の東遷))するが、「鉄器」は戦闘に優位ではあるが、これが「石器」に勝てるとなるとそう簡単に結論づけられないであろう。この時期には「石鏃」も2・3グラムくらいから10グラムのものまで製作されるようになってきている(「邪馬台国をめぐって」直木孝次郎〔『史話 日本の古代 2−謎につつまれた邪馬台国』直木孝次郎 168頁〕)。
 ただ、「鉄器」の普及は「邪馬台国」=九州に分があるような気がする。
 

邪馬台国(33)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 4日(金)13時34分25秒
   ところが、これと関連する次のようなことが明らかとなっている。
 「後漢」の「霊帝」の光和7年に「黄巾の乱」が起き、年号を「中平」と改元している。
日本の「東大寺山古墳」(奈良県天理市)〔4世紀後半築造〕から1961年に「中平□年五月丙午に(支)刀を造作す。百度清銅を練れり。上は星宿に応じ、下は不祥を辟(さ)く」との銘の剣が発掘された。「霊帝」といえば、前記のとおり「倭国大乱」のあったころである。この剣はこれと関係があったかもしれない。また「魏」に遣使した倭王に下賜されたものであると推測されないでもない(『魏志倭人伝を読む(下)』佐伯有清 32頁)との指摘がなされている。この古墳の築造の年代は「仁徳天皇」の時代に当たり、しかもこの地は「和邇」一族の本拠地とされており、「ヤマト政権」が楽浪郡など中国(「後漢」)と交流を持ったことにもなるとされている(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 191頁)。
 「大和」にこれがあったということは、「邪馬台国」がこの地にあったということも考えられるのである。もっとも「邪馬台国」=九州とし、これが「東遷」したとする考えからはそのときに九州から運ばれて来たと考えるだろうが、「東遷」が難しいことは後記に指摘するとおりである。「東遷」が立証されないと今度は「九州」説が厳しい。
 

邪馬台国(30)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 1日(火)12時56分46秒
   「魏使」は「帯方郡」の都(黄海北道沙里院市〔旧「鳳山郡」〕)を出発し、ここから海路で朝鮮半島沿いに黄海を南下し、朝鮮半島の南西端から今度は東に同じく朝鮮半島を回りこむように現在の釜山方面に向かい、「狗邪韓国」(多大浦)から「対馬」に向かうというコ−スを取っている(『「邪馬壹国」はなかった−古田武彦説の崩壊−』安本美典 新人物往来社 1980年1月10日 137頁)。ここまでが7000余里である。
 ところが、そうではなく「魏使」は「帯方郡」の都(現在のソウル市)のから朝鮮半島沿いに黄海を南下し、「帯方郡」の南端に上陸し、そこから陸上を南また東にと階段状に「狗邪韓国」に向かうのが正しいとする(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦 ミネルヴァ書房 2010年1月30日 173頁)。
 『三国志』魏志倭人伝のこの部分の記事を改めて見てみると、「従郡至倭、循海岸水行、歴韓、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里」とある。古田はまず「歴」を「歴観」(次々に見る)と解し、「韓」の諸国を次々に訪ねて「狗邪韓国」に至るとする。次に「乍」を「たちまち」と解し、小刻みにたどって「狗邪韓国」に至るとする。
 「歴」(ふる)は「次々と」の意であり、古田の言うとおりであるが、海上を行くについても当然停泊するのであるから、やはり「韓」の諸国を次々に訪ねて「狗邪韓国」に至るということと解しても不都合はない。次に「乍」は「たちまち」、「ながら」、「しかし」の用例がある。大半の者は「また」と解する。これは『三国志』魏志倭人伝に見られる「陸行」がここでは見られず、「帯方郡」の都から「狗邪韓国」まで<水行>だったことを前提にしている。
 

邪馬台国(31)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 3月 1日(火)12時55分15秒
   古田の致命的欠陥は上陸した「帯方郡」の南端が示されてないことにある。さらに、この地点は朝鮮半島の黄海沿いにあると思われるが、そこを「泰安」(忠清南道)と仮定しても、そこから「狗邪韓国」まで階段状の道は無い。古田は朝鮮の古道についての知識が全く無い。
 そればかりではない。こんな複雑な経路を取るまでもなく、「帯方郡」の都(ソウル)から「狗邪韓国」まで最短距離の陸上の道が開けている。これは「文禄の役」(壬辰倭乱)のときの日本軍の第一軍(小西軍)と逆をたどればよい。
 第一軍は「釜山」に上陸し、ここから北上し「密陽」を経て「大邸」に行き、そこから北西に向きを変え、「金泉」から再び北上し「忠州」に至り、また北西に針路を変え、「利川」を経て一気に「ソウル」(漢城)に攻め込んだ(『秀吉の朝鮮侵略と民衆・文禄の役(壬辰倭乱)』中里紀元 文献出版 1993年3月8日 128頁)。この道は古代からあり、「釜山」および「多大浦」から「ソウル」(漢城)の最短距離である。「帯方郡」の都(ソウル)から朝鮮半島沿いに黄海を南下し、「帯方郡」の南端に上陸し、そこから陸上を南また東にと階段状に「狗邪韓国」に向かうという複雑な経路を行く必要は全くない。
 『「魏使」は韓国をもって、倭国にいたるための「単なる通過地」とみなしているのではない。“中国正統の、魏の天子に対する礼を守って、朝貢してきた倭国の忠節を賞美する、威儀正しい答礼使と、莫大な下賜品を連ねた行列”によって、韓人に対するデモンストレ−ションを行いつつ、行進したものと思われる』と記している(同 173頁)ことに至っては<噴飯物>である。こうした記録にもないことを<想像たくましく>説くことは古田のお家芸であるが、それが<禁じ手>であることもわかってない。
 古田の陸上説は破綻しているのである。
 


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