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喫茶室 過去ログ96(2007.5.1〜5.31)

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『卑弥呼と日本書紀500』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月31日(木)12時08分24秒
  [承前]

〈4〉池上曽根遺跡の驚くべき建造物と古さ

 大阪府の堺市の南西、和泉(いずみ)市と泉大津市にまたがる池上曽根遺跡は弥生中期の遺跡として知られてはいたが、発掘調査が進んだ結果、平成七年に高床(たかゆか)式の大型建造物や巨大な井戸が発見されて、大きなニュースになった。
 吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より古い時代に、より大きな建物をもつ大規模な集落が関西にあったのだ!
 遺跡から出た多数の檜(ひのき)の柱根は直径が七十センチもあり、《平城宮》なみの大きさで、樹齢も二百年前後だったし、井戸は樹齢七百年の楠(くす)をくりぬいた外径二メートルにも達する巨大さだった。

 この発見は、弥生時代には大型建物は無いという通説をうちやぶるものだったが、その古さが「年輪年代法」によって測定されると、衝撃はさらに強まった。
 測定可能な柱根の発掘も、測定そのものも、大変だったが、多くの関係者の努力によって、いくつものサンプルが測定され、さらに土器の調査をはじめさまざまな調査がなされた結果、この遺跡の大型建造物の柱の檜は、
「西暦前五二年に伐採された」
 ――ことが明らかになり、かつ、
「古材が再利用された可能性はきわめてうすい」
 ――ことが明らかになった。
 この結果は平成八年三月に発掘報告書の形で公式に発表された。

 この前五二年という伐採年はじつに衝撃的で、従来の土器の推定より百年はさかのぼることになったのだ。
 つまり弥生時代中期は、ごく最近の教科書に書かれていた数字にくらべてさえ、百年も古いことが分かったのだ。
 奈良時代なみの大規模な宮殿状の建物があったというこの西暦前五二年がどういう意味を持つのかを、いくつかの事例で述べてみよう。

▽この年はクレオパトラが女王に即位したころだが、その時代に日本にも巨大な宮殿に住む王がいた。
▽「漢委奴國王」という金印を九州の倭奴国がもらった年よりも百年も古い時代に畿内に大きな国があった。
▽『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の時代より二五〇年も前の時代にすでに大規模宮殿が畿内にあった。
▽〈卑彌呼〉の時代よりずっと古くから、畿内に九州より大きな集落遺跡があった。
▽さらに、弥生時代の畿内に大きな国がいくつもあり、独自に大陸や朝鮮半島と交流していたらしいことも推量されるようになった。

 考古学界がうけた衝撃の大きさがわかるであろう。
 この「年輪年代法」の威力によって、いまでは、九州在住の考古学者ですら、「《邪馬台国》九州説」を唱える人が激減したといわれる。

[つづく]
 

前文の欠点を改めること  投稿者:鷹森竹志  投稿日:2007年 5月30日(水)15時51分22秒
  「政府への圧力は、どこへ転移られますか。」間違いました。
「政府への圧力は、どこへ転移できますか。」です。
 どうも、すみません。ご勘弁ください。
 

中国反日の舞台裏  投稿者:鷹森竹志  投稿日:2007年 5月30日(水)15時39分5秒
    日本人や中国人は、「歴史の問題で、中国人の若者は反日をしている」と考えるらしい。実は、そうですか。全然そうではありませんって。
  中国反日の舞台裏は国内矛盾を転移するのです。
  昔、中国では、「封建主義・帝国主義・官僚資本主義」という三つの大山の政府的宣伝が流行っていましたが、今では三つの大山の内容がもう「教育・医療・住宅」に変わってしまいました。両方の差は、新大山が民間から出た噂です。
  入学でも難しくて、教育費でも高い。中学校でも、高校でも、特に大学、皆はそうです。教育費は、もう普通の中国家庭の重荷になりました。
  仮に、折角大学に入学したら、卒業後、仕事が取れない恐れもあります。中国当地の報道で、2004年に数十万人、2005年に百四十万人ぐらい、去年に二百万人以上の大学卒業生は、仕事がないし、再び浪人になってしまいました。今年は。。。。。。
  百万人の浪人は、全社会の不安の本なのです。この問題が、よく解決できなければ、中国は絶対大混乱に陥るはずです。
  「もしも、仕事があれば、安い月給で住宅も買えないなあ〜」
  世界中、中国の家賃は安いかもしれませんで、中国人の給料も安いですよ。
  中国の庶民にとって、住宅は遠い夢なんです。特に、中国人の悪習にしたがって、新婚の夫婦は必ず新しい住宅があるべきです。それは、中国人の馬鹿な「家庭的安全保障」ということです。
  では、普通の中国人は買えないのですが、住宅は結婚の障害になります。
  政府への圧力は、どこへ転移られますか。
  勿論、民族主義を高め、この圧力を日本へ転移するのは悪賢い方法でしょうね。
  そうすれば、役立った点は二つ以上あります。
  まず、国内圧力を転移、政府への圧力を低め、社会の「安定」が保てます。
  次は、日本を圧制、干渉の理由を取り、アジアのトップに立ちます。
  また、他の国に「中国は正義感の強い国だ」ということを感じさせます。
  中国政府は、自分の敵がアメリカだと知りますが、今の中国はアメリカと対抗する力が不足、暫く日本を練習の相手にします。
  それは、中国がロシアに占領された150万平方キロメートル以上の領土を取り返す勇気がない原因である。
  それも、魚釣り島とか東海問題の原因である。あれは、日本を騒がす手段である。
  なお、日本人としての皆様は、北方四島の問題に退歩できない。「譲るな!」これは、海外の邦人の声である。
  私は日本語が苦手で、ご理解になれば、嬉しいです。
                       鷹森竹志 上海にて
 

『卑弥呼と日本書紀499』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月30日(水)12時26分20秒
  ■■■■■ 十・五「年輪年代法」の衝撃と編年表の大修正 ■■■■■


 この節では、「年輪年代法」を実地に適用した結果とそれによって弥生時代から古墳時代にかけての古代編年表がどのように修正されたかを、前節と同じく倉橋秀夫の資料によって検証しよう。


◆◆◆ 衝撃的だった「年輪年代法」の適用結果 ◆◆◆

〈1〉紫香楽宮(しがらきのみや)の柱根の測定

『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、第四十五代聖武(しょうむ)天皇(皇后は光明(こうみょう)皇后)の離宮である紫香楽宮は天平十四年(西暦七四二年)の八月に建て始めたとされる。
 候補地は滋賀県にいくつかあったが、その一つの宮町遺跡から出た檜(ひのき)の柱根を測定したところ、一本が七四三年の初秋に伐採、他の一本が七四二年の冬か翌年の春に伐採されたことがわかり、正史の記述を裏づけた。
 この九年あとに木簡が出土して、測定の確かさが証明された。

〈2〉法隆寺五重塔の心柱

 前記の西岡秀雄の測定した檜の心柱を、新たに光谷のデータによって測定しようとしたが、樹皮に近い部分が無かったために推定しかできず、創建の七世紀初頭よりかなり遅く、六七〇年の火災によって再建されたのだろうとの説が一度は流布(るふ)した。
 ところがそのご平成十三年になって、エックス線撮影により樹皮に近い部分――白太と呼ばれる部分――が残っていることがわかり、再測定したところ、西暦五九四年という意外な伐採年が出た。
 これは再建どころか創建時よりさらに十年以上も前の伐採であり、議論を呼び、現在著名な学者たちがいろいろな仮説を発表している。

〈3〉滋賀県の二の畦(あぜ)・横枕遺跡

 典型的な弥生時代の環濠集落であるこの遺跡は、従来は西暦後五〇年くらいとされていたが、井戸の遺跡の檜や杉を測定したところ、紀元前六〇年と九七年という値が出された。つまり百年以上古く出たのだ。
 ただし井戸に使うような木材は、古材の再利用かもしれないので、まだ編年表の修正には疑問がもたれた。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀498』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月29日(火)12時04分28秒
  [承前]

◆◆◆ 光谷拓実の予想外の成果 ◆◆◆

 光谷は年代が明確に分かっている原生木の測定からはじめて、同じ年代で二十ていどのサンプルをとって統計的に処理しながらデータを積み上げていった。微妙な変化を見るために年輪測定の精度は一〇ミクロンという微細な値にした。
 選んだ樹木は、古代から現代まで一貫して使いつづけられていて、どの地方にもあり、そして百年以上の年輪が得られやすい――という条件を満たす、杉・檜(ひのき)・高野槇(こうやまき)の三種だった。

 こつこつとデータをとり続けた結果、数年ほどで、日本でも年輪のパターンが――同じ地域なら――どの木材でも一致することがわかってきた。
 ただし、日本は気候変化が微妙なので、年輪の照合には、欧米とちがって百年から二百年という多くの年輪が必要だった。
 しかしさいわいなことに杉や檜の類は長寿であり、各地に百年をこえる太い木材がかなり残されていて、データの収集は可能だった。
 これは予想外の嬉しい結果で、周囲の期待も高まった。

 つぎに日本列島の各地域で年輪パターンが一致するかどうかの研究がなされた。
 その結果として、従来の考えをくつがえす『驚くべきデータ』が得られた。
 日本列島の北と南ではまったく気候が違うので、大和(やまと)なら大和、山陽なら山陽・・・といった具合に、別のデータになるだろうと思われていたのが、ほとんど同じであることが分かったのだ。
 青森・秋田・長野・岐阜・三重・和歌山・高知・屋久島など遠く離れた場所でも、パターンの一致が見られたのだ。
 またさらに、地域による微妙な違いの資料も得られて、産地の推定も可能となってきた。

 年代的にもじわじわとさかのぼり、六年後には二千年前までの年輪パターンが得られるようになった。つまり弥生時代から古墳時代にかけての年輪変化が分かってきたのだ。
 光谷の所属する研究所は各地の遺跡からの木材や、古い寺社の解体修理のおりの古材などが求めやすい環境であり、そのことも研究に幸いした。
 そして、倉橋が執筆した平成十一年には、七千本もの木材を測定した結果として、

 杉で西暦前一三一三年(いまから三三〇〇年前)まで
 檜で西暦前九一二年(いまから二九〇〇年前)まで

 ――の標準年輪幅パターンが得られるようになった。
(悠仁(ひさひと)親王殿下の御印(おしるし)で有名になった高野槇でもかなりのデータが得られた)

 欧米では一万年前まで分かっているので、それに比べれば僅(わず)かな期間だが、古墳時代をこえて弥生時代までの精密なパターンが求められたのだ。
 こうして、百年ていどの多くの年輪を持ち、かつ樹皮に近いところまでの年輪が残されている太い木材であれば、それが伐採された紀年を、年単位で――うまくすれば季節単位で――確定できる技術が完成した。

**********

 これは日本の考古学にとって、じつに画期的なできごとであった。
 以下に述べるように、従来の編年表の定説がつぎつぎに覆されることになったのだ。


[つぎは『十・五「年輪年代法」の衝撃と編年表の大修正』]
 

『卑弥呼と日本書紀497』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月28日(月)12時08分2秒
  [承前]

◆◆◆「年輪年代法」の歴史 ◆◆◆

 この方法は、一九二〇年代にアメリカの天文学者A・E・ダグラスによって考案され、アメリカとヨーロッパで発展した。
 アメリカは年々の気候の変化が激しく、したがって年輪の変化が大きいため、出土した木材に十五年分ていどの年輪が刻まれていれば、それがいつ頃の伐採かが分かるといわれている。
 ヨーロッパはもうすこし長く必要だが、それでも三十年分くらいの年輪が分かれば、判定可能だとされている。
 しかし日本では、

一 島国で海によって気候が緩和されるため、年毎の気候の変化が少なく、したがって年輪幅が毎年ほとんど一定である。
二 地形が複雑で、山地や平地の森や水際など、じつにさまざまな場所に樹木が生育しており、同じ年でも場所によって年輪幅がまちまちであろう。
三 日本列島は北から南まで細長く、北と南では気候がまったく違うので、統一的に扱うことは不可能であろう。

 ――といった困難が考えられ、欧米のようなわけにはいかないだろう、と誰もが考えていた。

 じつは日本でもかつて試みた人はおり、大正時代、終戦直後、また昭和五十年ごろ・・・などに実行されかかったことはあったのだが、成果をあげられずに終わってしまった。
 戦後まもなく、西岡秀雄という学者(トイレットの研究でトイレット博士としても知られていた)が、法隆寺五重塔の解体修理のときに中心となる木材をこの「年輪年代法」で計測して、西暦六〇七年という値を出したことがあったが、周囲の納得は得られなかった。
 図10.9(a)に相当する資料が不備だったからである。

 しかし考古学の進展が著しくなるにつれて、日本でもこの方法ができないか――との要望が強くなり、一度徹底的にやってみようということになり、昭和五十五年(西暦一九八〇年)に、光谷拓実という当時三十二歳の若い学者がはじめることになった。
 光谷は東京農業大学で造園を学び、千葉大学大学院で園芸を学び、そののち奈良国立文化財研究所に入って遺跡の植物の研究や遺跡発掘あとの公園化などを担当しており、考古学者としては変わった経歴だったが、この経歴が「年輪年代法」の確立には大きくものをいった。
「年輪年代法」とは、もともと植物を対象とする研究だからだ。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀496』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月27日(日)12時08分35秒
  [承前]

◆◆◆「年輪年代法」とは何か ◆◆◆

 この方法の原理自体は簡単である。
 樹木の成長は均質ではなく、一年間には成長の速い時期と遅い時期があるため、輪切りにしたとき濃淡が見える。これが年輪だが、この年輪は、毎年一定の幅でできるわけではない。
 その樹木にとって都合の良い気候が続いた年は、大きく成長するため年輪の幅は広くなる。また気候の悪い年は狭くなる。
 したがって、年輪は年代の記録になっているのだ。

図10.8
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H107-109.htm

 図10.8でわかりやすく説明しよう。
 たとえば、三十年前に生まれて今年伐採した樹木の各年の年輪の幅を顕微鏡で見て測定したところ、図(a)のようだったとする。グラフの上ほど年輪の幅が広く、下ほど狭い。横軸は年で、右端が今年であり、左端が五十年前である。
 これとは別に、もう一本の同じ種類の樹木があり、それは三十五年分の年輪をもっていて、測定してみるとその幅が図の(b)のような変化をしていたとする。
 図(a)と(b)を比較すると、(b)の外側の伐採時の年輪から十五年前までの変化の形が(a)の十五年前から三十年前までの形と同じになっている。
 すなわち、この(b)の樹木は、五十年前に生まれて十五年前に伐採されたものだと判定できるのだ。
 そして、(a)と(b)を組み合わせることによって、現在から五十年前までの年輪幅の変化の様子――つまり各年の気候の様子――をあらわす図(c)のパターンができる。

 もちろん気候が同じでも樹木の個性や場所によって年輪変化は違ってくるが、だいたい合っていればそれを統計的に処理して、標準の年輪幅のグラフをつくることができる。
 そこで、この操作を何百本何千本という樹木に適用してゆくと、百年前、五百年前、千年前・・・というふうにさかのぼることができ、古墳時代や弥生時代までの年輪の標準パターンが描けるであろう。
 それができてしまうと、遺跡から出土した木材が、何年ごろに伐採されたものかが、判定できるはずである。

 その原理を図10.9に例示した。

図10.9
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H107-109.htm

 図の(a)が多数の樹木によって得られた標準年輪幅のパターンだとし、(b)がある遺跡から出土した年代不明の木材のパターンで○印の右端がその木の樹皮のすぐ近く――いちばん外側――だったとする。
 そして(b)を(a)と照合していった結果、図のようにパターンが一致する年代が見つかったとする。
 すると、この出土した木材は、六十年前に生まれて三十年前に伐採されたものだと判定できるのである。
 このように「年輪年代法」の原理はとても単純であり、すぐにもできそうに思える。
 しかしじっさいは、そう簡単にはいかない。
 日本では不可能だといわれていた時代もあったのだ。

[つづく]
 

南鮮がイージス艦を保有。  投稿者:參河人  投稿日:2007年 5月27日(日)11時10分51秒
  こんにちは、南鮮(韓國)がイージス艦を配備したらしいです。
対地対艦等の能力を保有した奴らしいです。
しかし名称ですが朝鮮王朝の「世宗大王」は朝鮮王朝第4代の国王の名らしいです。
大東亜戦争後朝鮮王朝を再興せんかった連中が良くもこんな名前を付けれたもんですね〜。
恥じな民族ですねー朝鮮民族と言う奴らは・・。
しかも米國の衛星と連結をしたかったらしいですけど、米國側から拒否されて、フランスと交渉中の事です。まぁ今後どうなるかですねー。それでは失礼しました。
 

『卑弥呼と日本書紀495』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月26日(土)11時54分12秒
  [承前]

◆◆◆ 放射性炭素年代測定法の限界 ◆◆◆

 古代を対象とした考古学おいては、ある遺跡が成立した年代の推定は、主として遺跡から出土する土器の時代変化によってなされる。
 土器類の形式変化と年代の前後関係は、きわめて精密に研究されていて、数年単位の違いがわかるらしい。
 ただし絶対年代の決定となると、なかなか決め手がなく、困難であり、さまざまな関係史料や物理的方法から推定されていた。

 物理学的方法のなかでよく用いられてきたのが、木材に対する放射性炭素年代測定法と呼ばれるもので、木がふくむ炭素14という元素の量から伐採年を推定する方法である。
 これは木材についてはかなり有効で、たとえば青森市の有名な縄文遺跡・三内丸山遺跡から出土した栗の大木を測定した結果、四八二〇年前の伐採であることが分かった。
 こういう方法で遺跡の木材の伐採年代が分かれば、そこに埋められている土器類も、ほぼ同じ年代に製造されたものだろう――と推理することができ、ひいては遺跡そのものの年代も推理することができる。
 ところが、この方法は、誤差が大きいという欠点がある。
 右の三内丸山遺跡の栗の場合は、プラスマイナス十五年という誤差がいわれているが、一般には数十年の誤差を覚悟しなければならない。
 したがって、物理的方法として有力ではあっても、《箸墓(はしはか)》が〈卑彌呼〉の墓かどうかといった「きわどい問題」に使用するのは――不可能ではないにしても――難しい。
 十年か二十年ちがうと、次の代になってしまうのだ。つまり〈卑彌呼〉が〈臺與〉になってしまうのだ。
 そこで、近年になって登場したのが、「年輪年代法」という方法である。

[つづく]
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日:2007年 5月25日(金)22時34分54秒
  赤報隊は旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面もあることを忘れてはいけない。  

『卑弥呼と日本書紀494』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月25日(金)12時35分8秒
  ■■■■■ 十・四 遺跡の木材の伐採年を確定する「年輪年代法」■■■■■


◆◆◆「年輪年代法」の登場 ◆◆◆

 前節で、《纒向(まきむく)京》の時代を西暦一八〇年から三四〇年と推理したが、これは、最近の考古学の成果に基づいて石野博信教授らが提唱している数値である。
 この数値は『魏志倭人伝』の《邪馬台国》を連想させるにじゅうぶんなものがあるし、《纒向京》南端の巨大古墳である《箸墓(はしはか)》(またはハシノミハカ)が、やはり倭人伝にある〈卑彌呼〉の大きな冢(墓)である可能性をも感じさせる。

 つまり、

「《邪馬台国》大和説」
 かつ、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉説」

 ――である。

 しかしごく最近まで、そのような主張は少数派であり、学会の主流ではなかった。
 なぜなら、纒向遺跡の年代も《箸墓》の年代も、しばらく前までは『魏志倭人伝』の時代よりずっと後だ――とされていたからである。
 北九州の大きな遺跡は『魏志倭人伝』の時代と合うかもしれないが、《大和(やまと)》の同様な遺跡はその何十年かあとである――というのが、多くの学者の見解だったため、《大和》説に同意する人が少なかったのだ。

 それが、この十数年ほどで、多数派にかわった。
 それは、考古学的な年代の決定法が、画期的に進展したからである。
 この節では、ジャーナリスト倉橋秀夫の『卑彌呼の謎年輪の証言』によって、その新しい年代決定法である「年輪年代法」を概説することにしよう。
 以下は倉橋の解説を著者なりに短くアレンジしたものである。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀493』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月24日(木)12時36分9秒
  [承前]

『記紀』のなかに「葦原ノ中国(あしはらのなかつくに)」という言葉がでてくる。
 これは、天と地底のあいだの国――つまりこの地上の国(日本列島)――として理解されており、じじつ文脈はそのとおりであるが、では、なぜこの地上の国が、「葦の原の中の国」という言葉で表現されたのだろうか?
 字義どおりに解釈すれば、それは葦の生えている原っぱの中にある国――ということになる。
 そこで、大和(やまと)朝廷の先祖が王権を築いた土地が、葦原の中にあったからではないか――との想像が浮かんでくる。
 第六章に記した神武(じんむ)天皇の御製(ぎょせい)の冒頭も「葦原の」である。
 葦というのは水辺(みずべ)の湿地帯に自生する多年草で、稲の親戚である。したがって葦の生えている場所は水のある場所であり、どうじに稲のつくりやすい場所に隣接しているといえる。

 俳優で《大和》の発掘に長年従事してきた苅谷俊介は、図10.3の+印に位置し、図10.5に図示した「唐古(からこ)・鍵遺跡」こそ、この「葦原ノ中国」にふさわしい土地だ――と述べている。
 つまり《纒向(まきむく)京》ができる直前のこの弥生集落は、水郷(すいごう 二つの大河)の間の微高地であり、水郷には葦原があるのがふつうだから、まさに「葦原ノ中国」だというわけである。
「唐古・鍵遺跡」に限定する必要はもちろん無く、《纒向京》やその周辺もまた、岸辺に葦の生えた河川の間の微高地の連なりであり、「葦原ノ中国」にぴったりなのである。

(なお、先の枕詞(まくらことば)「敷島(しきしま)」の元になった神武天皇の時代からおなじみの土地、「磯城(しき)」であるが、この名には、丈夫な石の城という意味があるらしい。神武東征譚(たん)からも、それは納得できる)

**********

 次節では、《纒向京》やその中の《箸墓》の重要性を決定づけた、考古学的年代の大修正の話を記すことにしよう。
 平成に入ってからの研究や発見によって、戦後の古代史書が大幅な修正を求められるようになったのだ。


[つぎは『十・四 遺跡の木材の伐採年を確定する「年輪年代法」』]
 

早すぎた判定  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月23日(水)21時54分28秒
  時間を損した 亀田のボクシングを観ての感想、、
日の丸を背負って戦っているが こいつ等兄弟は応援出来ない
試合中の無作法さは比類が無い ボクシングは殴り合いゆえに
対戦者への敬意が無いと のら犬の喧嘩になってしまう、、
幸か不幸か 亀田が勝ったようだが この所KO勝ちの無い彼
に 無理やりTKO勝ちさせたような試合だった、、。
 

『卑弥呼と日本書紀492』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月23日(水)12時02分15秒
  [承前]

◆◆◆「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)」と「葦原ノ中国(あしはらのなかつくに)」◆◆◆

 江戸時代のもっとも著名な国学者である本居宣長(もとおり-のりなが)の詠(よ)んだつぎの短歌は、よく知られている。

敷島の
やまと心を 人問(と)わば
朝日に匂(にお)ふ 山櫻花

 この歌の冒頭の敷島は大和にかかる枕詞(まくらことば)だが、それは「磯城(しき)の地」が古代の《大和》を代表する場所だったからであろう。
 前述したように、第十代崇神(すじん)天皇の皇宮は現金屋の磯城の地にあったし、第二十九代の欽明天皇の皇宮も同じ場所にあった。また第六章に記した神武(じんむ)東征神話にも磯城の戦いが強調されている。
 だから「磯城すなわち敷」が大和の枕詞になるのは判るのだが、そのあとになぜ「島」がつくのだろうか?
 じつは欽明天皇の皇宮は、厳密に「磯城島」とされているのだ。

 島というのは、海のなかの小さな陸地であり、それがのちに意味を拡大して、特定の場所を示す言葉にもなった。ヤクザ言葉のシマもそうである。
 だから、たんに皇宮の場所として「島」がついたと解釈できないことはないのだが、図10.6の地勢を見ると、《纒向(まきむく)京》のなかの宮殿地域にせよ磯城宮のあった金屋にせよ、幅広い河川に囲まれた微高地であり、本来の意味での「島」であったとも考えられるのである。
 古伝の一部には、初瀬(はつせ)川と栗原川に挟まれたせまい地域(図10.3の東端の34のあたり)が磯城島と記されているらしい。
 つまり、水郷(すいごう)の中の居住地だからこそ、「島」という文字がつけられているのだ、とも考えられるのである。

図10.3(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀491』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月22日(火)12時11分52秒
  [承前]

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

《大神(おおみわ)神社》のさらに南、地図の右下ぎりぎりのあたりは、古くから金屋と呼ばれていた土地で、そこの初瀬(はつせ)川の北岸あたりに、第十代崇神(すじん)天皇の皇宮「磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)」が置かれていたと伝えられている。
 考古学的には崇神天皇の時代にこの《纒向(まきむく)京》が発展を開始したと考えられるのだが、皇宮は郊外にあたる場所に有った。
 人々の集まるにぎやかな場所と王宮がすこし離れているのは、前述のように古代では一般的なことで、権力者の城は防御に適した場所を選んでいたのであろう。

 すでに何度か述べたことだが、金屋の金は鉄を意味していて、このあたりに鉄を生産した遺跡が多数発掘されている。
 したがって古代の武器を造る最善の金属だった鉄の産地に皇宮を設けたのかもしれない。

 なお金屋と呼ばれる地域は、数百年あとまで栄えていて、飛鳥(あすか)時代に遣隋使の小野妹子(おののいもこ)や隋の使者の裴世清(はい-せいせい)が朝廷の盛大な迎えを受けて船から降りたのもこのあたりで、初瀬川の南岸だったらしい。
 隋の使者など遠方からの旅人は大阪湾で外洋船から川船に乗り換えたのであろうが、それにしても大国の要人を乗せた船が行き来できるほどの川幅が、このあたりの上流でもあったのだ。
 またそのあたりは、海石榴市(つばきいち)とも呼ばれて歌垣などの遊びもなされたにぎやかな場所であった。

《纒向京》の特色はさらにあとで述べるが、この古代の謎の都について、苅谷俊介がデータと想像によって面白いCGをつくっているので、ご紹介したい。

図10.7
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H107-109.htm

 図10.7がそれである。図の中央部の四角は、図10.6の四角に対応し、初期纒向京の推定範囲である。

[つづく]
 

URL訂正  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月22日(火)03時12分53秒
  http://ikketushugi.info/blog/2007/05/post_1.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070519-00000004-rcdc-cn
 

中国ネタを二つほど、、  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月22日(火)02時49分11秒
  毎度芸も無いのですが、、
【シナでは泥棒家業も命懸け】住民に生け捕りにされた後 ボコボコにされ死に至る、、
泥棒に同情しますな〜 まぁ 警官が犠牲になっても凶悪犯を大事にする日本のマスコミや斜民党党首の居る国へ来る訳ですな、、 心臓の弱い方は見ないで下さい、、。
http://ikketushugi.info/blog/2007/05/post_1.htm
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本場の中国料理を、、クワバラ クワバラ ご用心 廃油を再利用をするレストランが少なからずあるそうです、、。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070519_00000004-rcdc-cn
 

『卑弥呼と日本書紀490』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月21日(月)12時03分13秒
  ■■■■■ 十・三《纒向(まきむく)京》周辺の主要地域 ■■■■■


◆◆◆《纒向京》の周辺 ◆◆◆

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

 つぎに図10.6によって、《纒向京》近くの主要な場所を説明しておこう。
《纒向京》の右隅のあたりに、《檜原(ひばら)神社》がある。これは第八章や第九章で述べたように、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉を皇宮外に奉斎(ほうさい)した最初の神社である。
 図示したのは現在位置だが、古代にはこのやや北だったらしい。
 ――ということは、《箸墓(はしはか)》から真東にあったことになり、逆にいえば、〈天照大神〉を祀(まつ)っていた神社を真東に拝む位置に、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の御墓が造営されたことになる。
 これは、《檜原神社》が《箸墓》より先にできたという前提のもとにいえることであるが、『日本書紀(やまとのふみ)』の記述はそのとおりの順序になっている。

 さらにこの《箸墓》のあたりは、大きな市場があったらしく、大市(おおいち)墓とも呼ばれ、〈百襲姫命〉の別名にも神大市(かみおおいち)があることはすでに述べた。
 考古学的にも、このあたりで「市」という墨書ののこる土器が発見されている。
 だから《箸墓》の場所は、古代の国道沿いで交通至便であり、大きな市場があり、また〈天照大神〉を真東に拝む「日神祭祀(さいし)」がなされた場所でもある――と推理できるのだ。

 もちろん聖山である《三輪山》を目前に望み、その神〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉に祈るにも、その神子(みこ)だった〈倭迹迹日百襲姫命〉を祀るにも、絶好の位置であった。
《檜原神社》のそばに矢印があるが、その方角が《三輪山》の山頂である。そしてその山頂の南西の山際に、〈百襲姫命〉が神子(巫女)をつとめた〈大物主神〉を奉斎する《大神(おおみわ)神社》の拝殿がある。鳥居を描いておいた。

《大神神社》のすこし北に「神武(じんむ)天皇聖跡」という石碑が建てられているが、このあたりが、第六章で述べた、神武天皇が皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を見初めて歌を詠(よ)んだ場所――狭井川(さいがわ)という小さな川のほとり――だと考えられている。
 これは、《三輪山》を祀(まつ)る豪族の娘を皇后にすることによって、大和(やまと)朝廷がこの山麓に進出して《三輪山》の祭祀権を手中にすることを可能にした、巧みな婚姻政策を暗示する伝承である。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀489』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月20日(日)12時37分38秒
  [承前]

 この《纒向(まきむく)京》の範囲はもちろん推定だが、その重要な特色として、「環濠がない」ことがあげられている。
 それまでの弥生集落は、ほとんどが環濠をめぐらしており、集落を外敵から防ぐ構造になっていた。
 直前に栄えた「唐古(からこ)・鍵遺跡」もそうである。
 それが、弥生時代の終わりである二世紀末に、とつぜん、環濠を持たない大集落がここに出現したのだ。
 これは《纒向京》独自の特徴で、同じ時期の他の地域の集落には、大和(やまと)であってもやはり環濠があったらしい。
 つまり、

「弥生の末にあたる西暦一八〇年ごろに、それまでの日本列島の集落とはまったく異なる構造を持った開放的な巨大都市が、突如として、しかも日本でただ一つ、《三輪山》の麓(ふもと)だけに誕生した」

 ――のである。
 そしてその誕生の時期が、

『魏志倭人伝』にある女王〈卑彌呼〉擁立の時期に一致する。

 ――と推理されるのだ。
 環濠が無いということは、敵に攻められる恐れが無いか、または攻められても圧倒的な力で追い払うことが出来るほどの軍事力を持っているか、どちらか――または両方――だったことを意味している。
 しかも水運によって遠方と交易できる場所でもあったのだ。

**********

 西暦一八〇年ごろ、三輪山麓の《大和》を中心にして日本列島に何か大きな動きが起こったことは、なにも外国史料の『魏志倭人伝』によらなくても、このように考古学と『記紀』によって推量できるのである。


[つぎは『十・三《纒向京》周辺の主要地域』]
 

『卑弥呼と日本書紀488』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月19日(土)12時46分40秒
  [承前]

◆◆◆《纒向(まきむく)京》の内部 ◆◆◆

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

《纒向京》推定範囲の大きな囲いの中央に、太線で方形の区域が描かれているが、この部分が、西暦一八〇年から二三〇年ごろまで――つまり〈卑彌呼〉の時代――の初期《纒向京》と推理される地域である。
 その北東の隅に初期の宮殿跡あるいは祭祀(さいし)建物らしい遺跡があり、その同じ場所に、天照御魂(あまてるみたま)神社という古い神社がいまも残されている。
 そしてその真西にあたる地域に、きわめて古い前方後円墳の祖形をなす――帆立貝(ほたてがい)型ともいわれる――巨大な古墳がいくつかある。
 その古墳群のあたりに、纒向大溝と呼ばれている運河の遺跡が発見された。発掘場所が限定されるので、ごく一部しかわかっていないが、何条かの天然の河川を結んで船で産物を往来させる通路として使われたらしい。
 つまり本格的な都市施設である。

 有名な《箸墓(はしはか)》は南の微高地にあり、そのすぐ右に、やはり前方後円墳の祖形をなすホケノ山古墳がある。
 北東には景行(けいこう)天皇陵があるが、そのすぐ南(楕円の部分)に、どうやら後期の宮殿があったらしい。
 初期《纒向京》が大きく拡がって太線枠になった時代の宮殿である。
 考古学的な推定はそういう事だが、『日本書紀(やまとのふみ)』によれば、この楕円のあたりに、第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇宮「纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)」や第十二代景行天皇の皇宮「纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)」があったと伝えられている。
 つまり、古代史書の記述が現代考古学と、地域の呼び名までふくめて照応しているのだ。

 この二天皇の皇宮があったらしい楕円と《纒向京》の中心部とはかなり離れているように見えるが、古代の皇宮のほとんどは都の中心から離れた場所にあった。
 奈良時代になっても、皇居は《平城京》の中心ではない。
 だから第十代崇神(すじん)天皇の皇宮が図10.6の右下隅の金屋のあたりだったのも不思議なことではない。
 さらにこの地図から気づくのは、いずれの皇宮も山に近い場所にあることである。
 おそらく神聖な山に近くかつ守りに強いことから選ばれたのであろう。

 さて、この《纒向京》の中央には、南北に一直線の「原上ッ道(かみつみち)」という古くからの道が通っているが、これは日本で最古の国道の跡とされており、もうすこし南の磐余(いわれ)のあたりからはるか北部にまで続いている。
 いまでは山沿いの山辺の道が《大和》を忍ぶ古道として観光ルートになっているが、この一直線の道も印象的である。
 時代ははっきりしないが、きわめて計画的な道路が作られ、《箸墓》はその道路に接した位置にあるのだ。
(むろん南北に歩くためには多くの河川を渡る必要があるので、船便が庶民の足としても発達していたのだろうと推理できる。一方山辺の道は山に近いので川幅は狭く、橋を渡ったかもしれない)

[つづく]
 

戦士よ、起ち上がれ!  投稿者:萩生十兵衛  投稿日:2007年 5月19日(土)01時16分39秒
  『戦士よ、起ち上がれ! かく戦えり 近代日本!』(YouTube)
http://www.youtube.com/watch?v=Nb3Bb5EyOXE&mode=related&search=
このYOUTUBEを皆様に紹介します。けっこう私にとって元気付けられます。
 

こいつら救いようがない  投稿者:萩生十兵衛  投稿日:2007年 5月18日(金)22時39分14秒
  『弾丸列車「1か月検診」、備品持ち去られボロボロ―河南省鄭州市』(Yahoo!ニュース)http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=m20070518-036&d=20070518

弾丸列車「1か月検診」、備品持ち去られボロボロ―河南省鄭州市

5月18日13時33分配信 Record China

2007年5月17日、鉄道高速化計画の目玉として登場した弾丸列車が走行を開始して1か月、定期点検のため河南省鄭州市の鉄道局検査場に戻ってきた。約100人の技術者が車体を検査したところ、無残なほどボロボロにされていることがわかった。

ボロボロになった原因は乗客による備品の持ち去り。被害が最も多かったのは手洗い場のセンサー式蛇口。多数取り外されてなくなっていた。さらに緊急脱出用のハンマー。また密室であるトイレも被害が大きかった。便座の温度調節つまみやペーパーホルダーの軸さえ取りはずされ消え失せている実態には、ただもうむなしさが募るばかりだと技術者たちはこぼす。

鳴り物入りで走り出した夢の高速列車だが、わずか1か月で満身創痍になって戻ってくるとはおそらく想定外だったはずだ。同局は今後、備品持ち去り禁止を表示するのか、乗客の資質向上を待つのか、判断を迫られることだろう。(翻訳編集・WF)


これ、見てください。あの国は本当に救いようがない、民度・モラルが低い世界最低の種族の国です。新幹線の備品までをを盗むおバカの国です。あんな種族は日本入国お断りです。

 

『卑弥呼と日本書紀487』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月18日(金)12時05分34秒
  [承前]

 推定をまとめてみると、《纒向(まきむく)京》とは、第十代崇神(すじん)天皇の直前の時代に勃興し、〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の指導をうけた崇神天皇の御代(みよ)に発展を開始し、次の垂仁(すいにん)天皇と景行(けいこう)天皇の御代に大きく進展し、景行天皇の崩御(ほうぎょ)と次の成務天皇の遷都によって衰退した――ということができる。
 要するに大和(やまと)朝廷が、有力ではあっても《大和》の支配者にすぎなかった状態から抜け出して、周辺の諸氏族を束ねた本格的な王権へと移行した時期に、《大和》の地にできた広大な都――それが《纒向京》だったのである。

 もちろん、考古学の推定時期が『記紀』の諸天皇の推定在位年代と一致していたとしても、それだけでは、

「《纒向京》は『記紀』にある前記諸天皇の都である」

 ――と断言することはできない。
 しかし、崇神・垂仁・景行三天皇の皇宮がこの《纒向京》周辺にあったことや景行天皇が纒向に都をつくったことなどが『日本書紀(やまとのふみ)』や『古事記(ふることふみ)』に明記されており、しかも巨大な天皇陵・皇女陵などの古墳がいくつもこの地に実在しているので、その蓋然性はきわめて高いであろう。

 図10.6はその《纒向京》の概要で、上半分の太線内が、推定される全盛期の都の区域である。

図10.6
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


 全盛期の大きさは、下の縮尺でわかるように、東西が二・五キロ、南北が一・五キロほどで、古代の集落としては桁外れの大きさである。
 東はすぐに山地であり、西方は奈良盆地の中心部である。

 近くには大和川の支流の初瀬(はつせ)川が端をかすめるように南東から北西に向かってながれており、その上流は《三輪山》の南山麓に達している。
 初瀬川に流れ込む巻向(まきむく)川(纏向川)は《三輪山》の北側山麓から流れ出て南西に向かっている。
 ただし古代の河川は、経路も川幅も今とはかなり違っており、考古学者が推定している河川を、《纒向京》内部のみ斜線の帯で描いておいた。
 つまり、東の山地から、幅が百メートルをこえるような豊かな河川が何本も西に向かって流れており、その河川の間に微高地があり、そこに宮殿や祭祀(さいし)施設や居住地があったらしいのである。

 よく『万葉集(まんにょうしゅう)』に、七世紀後半の有名な歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が巻向川や穴師(あなし)川を詠(よ)んだ詩が出てくるが、それは現在の巻向川ではなく、むしろ景行天皇陵の近くを流れる川だったらしい。
 万葉時代の都は明日香のあたりで図よりずっと南だったが、人麻呂はこの巻向川や穴師川の上流の景観を愛でて、図の上右のあたりに別荘をかまえていたといわれている。

[つづく]
 

従軍慰安婦問題につき参考資料  投稿者:八神邦建  投稿日:2007年 5月17日(木)23時16分52秒
   大東亜戦争当時のいわゆる「従軍慰安婦」が、「従軍」でも「強制」でもなかったことは、小林よしのりさんが、だいぶ前に著書に書いていますので、それについては繰り返しません。
 今後、また「従軍慰安婦ゆえに日本軍が悪い」というようないちゃもんがあったときのために、若干の西洋の「娼婦」と「従軍娼婦」の史実を、ここに投稿しておきたいと思います。よろしければ、みなさまこれらをコピペして、ご自由に「従軍慰安婦説」への反論の材料の一助にしていただければ幸甚です。

出典:『世界性風俗じてん(上)』(福田和彦/河出文庫)p90〜91
「『15世紀のドイツのウルム史の記録文書に、「娼家の抱(かか)え主はその誓約に従って、女たちを次のように待遇した。彼女たちの毎回の食事は三品だけで、スープ・肉・カブラ菜だけであった。肉を食べないときはイワシを一匹供した。もし女たちが妊娠すれば追放した。前借金を払えば、女たちは公娼生活をやめて自由の身になった。もし、就業中に病死でもすれば、(法王ピウス5世の命令で)必ず塵芥(じんかい)の中に埋められたか、皮剥場(かわはぎば)に捨てられた。また、娼婦になる資格は独身であること。ただし性病患者は除外され、乳房が未熟で恋の相手にそぐわない相手も除外された」とある。娼婦達の報酬も僅(わず)かで、いわゆる色町の娼家では、ドイツ貨幣にして1マルク以下であった。地方都市の娼家では、卵一個分の安価にすぎなかった。いかに彼女たちの生活が貧苦で悲惨なものであったかが知れる。また、安価であることは売春婦がいかに多くなり、過当競争であったかが憶測されるのである。これら娼婦たちは、社会的にも哀れな薄幸の生活を強(し)いられた。
 イタリアやドイツの娼婦たちは、黄色い服を着せられたり、肩に黄色いリボンをつけられて一般婦女子から識別されたし、フィレンツェでは、帽子に小鈴をつけさせられ、ライプチヒでは青い紐(ひも)のついた黄色いマントを被(かぶ)ることを義務づけられたりして、堅気(かたぎ)の女と区別された。また、金銀はもとより、真珠・珊瑚(さんご)・宝石類の装身具も身に帯(お)びてはならず、刺繍(ししゅう)入りの服を着てはならなかった。指定された街区内からの外出も禁止され、英国では教会のミサや礼拝も差し止められた。むろん、公娼以外の密売春は厳禁され、露見すれば厳しい処罰を受けた。これら娼家は、いずれも教会・司教・領主・市の所有する所であって、楼主(ろうしゅ)はそれぞれの所有者に税金を払い、上納金を差し出さねばならなかった。娼婦たちは奴隷以下の生業でしかなかった。」

出典:『世界性風俗じてん(上)』(福田和彦/河出文庫)p96〜97
「人間にとって性交という行為は生存上、欠くべからざるものだ。軍隊とて同様である。馬や戦車が必要であるように、娼婦も軍需品である。古代ギリシャから、18世紀のアメリカ独立戦争まで、西欧の遠征軍にはかならず娘子軍(びょうしぐん)=派遣娼婦が連隊をなして同行した。
 目的の第一は、兵士たちの孤閨(こけい)を慰撫(いぶ)すること、次に兵士たちの身のまわりの世話、掃除、洗濯、身づくろいなど。また娼婦を同行されることによって兵士たちが異国の女を強姦(ごうかん)したり、あるいは梅毒を感染させられたり、私生児を増やさぬためでもあったし、兵士の男色を防ぐためにも役だったが、なによりも、若い女がいることは兵士の士気をいっそうふるいたたせたのである。娼婦たちも兵士と同じ、給金をもらう傭兵であった。
 ある記録によると、「アルバ公(オランダ独立・八十年戦争時のスペイン公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレド)の軍隊は、オランダ遠征の途上、四百名の高等遊女が馬に乗り、下級娼婦たち八百名が徒歩で、しんがりに連隊の隊伍を整えて従った」「一二九八年、アルブレヒト王(バイエルン公・のちのドイツ王)がストラスブルグに入城したさい、八百名を下らぬ娼婦を連れていた」「一三四三年、ドイツの師団長ウルスリンガー=ヴェルナー三五○○人の軍隊の中に、一○○○人の娼婦を抱えていた」「一五七○年、フランスのストロッチ元帥はイタリア遠征中、娼婦たちがあまりにもなまめかしすぎて、士気が沈滞したため、八百人の娼婦たちを海中に溺死させてしまった」
 これら娼婦たちが夜伽(よとぎ)をするときには、それぞれ相手の将官やら兵卒から花代をもらった。花代を払えぬ兵士たちは槍(やり)や剣をカタにとられた。娼婦たちのなかには、剣を十本、腰にゴルフバッグのような袋に入れてぶらさげていたり、槍を四、五本、束(たば)にして担(かつ)いでいた豪の者もいた。
 この娼婦連隊はにぎやかなものであった。恋仲(こいなか)になるやら、子供が生まれるやら、世帯をもって逐電(ちくでん)するやら、あるいは客のうばいあい、痴話喧嘩(ちわげんか)をしでかすやらで、喧噪(けんそう)の絶え間がなかった。」


 なにがいいたいのかというと、軍隊につきそう女性達は「性を職業」とする人たちが通例で、普通の素人(しろうと)を「強制的に性奴隷にして、くりかえし軍に従わせる」というようなことを、軍隊というのはしないものだということです。少なくとも、軍紀に従う正規軍と、行く先々で略奪暴行を行う匪賊(ひぞく)などの犯罪者集団とは別個のものであり、「戦時中の日本軍による強制連行・拉致による女性の性奴隷化」という説は、「正規軍」と「匪賊」の区別がつかないか、あるいは意図的にイメージの混同を狙ったものによる情報操作であると思います。
 

『卑弥呼と日本書紀486』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月17日(木)12時18分17秒
  [承前]

◆◆◆《纒向(まきむく)京》の位置と時代 ◆◆◆

 ふしぎなことに、二世紀の後半になると「唐古(からこ)・鍵遺跡」は急速に衰亡し、それと反比例するように、この遺跡から初瀬(はつせ)川をしばらくさかのぼった東岸にある《纒向京》が勃興する。
 図10.2や図10.3でその位置を確認してから、内部の想像図である図10.6を見ていただきたい。

図10.3
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

図10.6
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


《纒向京》は、時代的には二世紀末の西暦一八〇年ごろに突如として現れ、三世紀に大いに栄え、そして四世紀初めの西暦三四〇年ごろに急速に衰退した――といわれている。
 出土品からそう推定できるのだ。
 すなわち、飛鳥(あすか)時代のほぼ三百年前に全盛期をむかえた都であったらしい。
 西暦一八〇年という年は、『魏志倭人伝』にある、倭国の乱をおさめるために女王〈卑彌呼〉が共立された時期に対応している。
 また『記紀』でいえば、第七代孝靈天皇から第九代開化天皇にかけての時代と推理される。

 倭国の乱がどこまで真実なのか疑問もあるが、巨大な都ができる前にたくさんの集落どうしが競い合うのは歴史の必然なので、大なり小なり騒乱があったことは、倭人伝を読まなくとも想像できることである。
 だから騒乱自体は不思議なことではないのだが、興味ぶかいのは年代の一致である。
『後漢書倭伝』などに西暦一五〇年から一九〇年にかけて倭国が乱れたという意味の記述があるので、そこから女王共立が一九〇年前後と推理され、西暦一八〇年という《纒向京》出現時期の考古学的知見と照応するのである。
 また『記紀』との関係は、第十代以降の崩年干支などから推理できる。

《纒向京》が衰退したと考古学が推理している西暦三四〇年は、第十二代景行(けいこう)天皇が崩御(ほうぎょ)され、次の成務天皇が都を滋賀県大津に移して全国の行政区画を整理し、国の役職(国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし))を置きはじめたころの推定年とほぼ一致している。
 つまり《纒向京》時代の天皇は、第七代孝靈天皇・第八代孝元天皇・第九代開化天皇・第十代崇神(すじん)天皇・第十一代垂仁(すいにん)天皇・第十二代景行天皇・・・だと想像でき、とくに最盛期は第十代の後半から第十二代ごろだと考えられる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀485』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月16日(水)11時47分36秒
  [承前]

 この「唐古(からこ)・鍵遺跡」の発掘が始まったのは古く明治にさかのぼるが、ここ数十年に新発見が相次ぎ、面積も当初の予想よりはるかに大きく、中心部だけでも径一キロ近くあり、弥生集落に特有の何重もの環濠にかこまれており、周辺にも多くの集落があったことが分かってきた。
 栄えた時代は、消長がいろいろとあったらしいが、おおむね西暦前三世紀から西暦後二世紀にいたるとされている。
 すなわち《纒向(まきむく)京》出現の直前であり、かつ〈卑彌呼〉の時代の直前でもある。

図10.5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H104-105.htm

 はじめは複数の小さな弥生式の集落だったが、人口が増えるにつれて統合され、ついには、図10.5(a)の概要図にあるような、弥生時代としてはきわめて巨大な環濠集落に発展したらしい。
 周辺を加えると、北九州の吉野ヶ里遺跡を上まわる規模の雄大な環濠集落跡である。

 遺跡からは各時代、各地方の土器・石器・金属器・銅鐸(どうたく)鋳型(いがた)・占い用の卜骨など、あらゆる弥生的な品が出土している。
 平成十七年には、紀元前二世紀にまで遡(さかのぼ)る銅鐸鋳型が発見されて話題になった。
 また建物の絵の描かれた土器が発見されて注目を集めたが、その絵をもとに楼観が復元された。
 図10.5(b)にその写真を示す。これに登ると何キロも先まで見渡せたであろうし、到着する船を前もって知ることもできたであろう。

 もうひとつ無視できないのは、この「唐古・鍵遺跡」から聖山《三輪山》が遠望できることである。
 縄文・弥生の集落が円錐形の山容を眺望できる場所によく作られたことはすでに述べたが、この遺跡もその条件をみたしているのだ。
 この事実も、古代の《纒向京》成立の謎を解く鍵なのかもしれない。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀484』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月15日(火)11時22分27秒
  ■■■■■ 十・二「唐古(からこ)・鍵遺跡」と《纒向(まきむく)京》の地勢と時代 ■■■■■


◆◆◆「唐古・鍵遺跡」の地理 ◆◆◆

 飛鳥(あすか)川の上流とならんで《大和(やまと)》の地で恵まれた居住環境をもつ地帯に、大和川の下流の初瀬(はつせ)川と寺川の流域があることは前節で述べたが、そのもっとも北側に、巨大な弥生遺跡として知られる「唐古・鍵遺跡」がある。

 場所は、今の地理でいえば磯城(しき)郡田原本町の唐古と鍵という地区で、位置は図5.2の円または図10.3の+記号で示してある。磯城郡の磯城は神武(じんむ)天皇紀にも崇神(すじん)・垂仁(すいにん)天皇紀にも出てくる地名で、《纒向京》やその南を指していたようだが、古代と現在とでは示す範囲が違っているらしい。
「唐古・鍵遺跡」の地形は、長い年月の氾濫によって堆積したのであろう、二つの河川の間の低い丘のような沖積地帯で、大阪湾から河内(かわち)湖や大和(やまと)川を遡航(そこう)して《大和》の地に入った最初の船着き場だったらしい。
 水路の便がきわめてよく、また湿地帯よりすこし高いので居住や倉庫にも適していた。
 付近は豊かな農作地帯なので、食糧にも困らない場所だったであろう。

 おそらく、交易品の集配所としてこの微高地に倉庫の類があり、北東に向かう布留川、南東に向かう初瀬川(大和川)、南に向かう寺川などを利用して、集まった農作物や土器や銅製品や鏡や玉などを大阪湾方面に送り出し、また逆に外から来た産物を《大和》内各地に渡していたのであろう。
 はるばる朝鮮半島や大陸から届いた品々も、弥生時代にはここで集配していたのかもしれない。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀483』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月14日(月)12時00分24秒
  [承前]

◆◆◆ 絶好の帯状地域にあった《纒向(まきむく)京》◆◆◆

図10.3
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

 橿原(かしはら)・《藤原京》・《飛鳥(あすか)京》のあたりが、この奈良盆地の代表的な都の適地であるが、もう一つ適地がある。
 それは、図10.3の中央より東寄りを流れる初瀬(はつせ)川と寺川で挟まれた地帯とその東側(山地の近く)を合わせた帯状の地域で、水にも土にも恵まれて農作に適した土地だったらしい。
 この帯状地域の大和(やまと)川主流に近いところに、後述する「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」があり、山に近い上流部分には神武(じんむ)天皇の活躍で知られて国風謚号(しごう)に使われている有名な磐余(いわれ)の地がある。
 また初瀬川の東岸は、次第に山に近づくので、洪水の恐れも少なく、《三輪山》やその周辺の山地からは木材・玉・鉄鉱石などを産し、川では砂鉄も採れ、農作にも居住にも技術にも適した場所だったようで、その恵まれた初瀬川東岸にあったのが、《纒向京》なのである。

図10.4
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H104-105.htm

「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の内部のことは次に記すことにして、図10.4には、古代の都がどのように変遷したかを大まかに示す図を描いておいた。
 神武天皇は南方の山地を越えて橿原に達して即位し、それから幾代かして《纒向京》ができ、それからしばらく転々としたのち《飛鳥京》ができ、ついで《藤原京》ができ、そして北方の《平城京》ができて奈良時代になった。

 その間、大津に都を移したり、河内(かわち)や摂津(せっつ)に皇宮を設置したり、また朝鮮半島との関係で北九州や山口県に臨時の皇宮ができたりしたこともあった。
 このような歴史を振り返るとき、《纒向京》の重要性がよくわかるであろう。


[つぎは『十・二「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の地勢と時代』]
 

『卑弥呼と日本書紀482』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月13日(日)12時18分56秒
  [承前]

 樋口清之は前章に記したように、古代の奈良盆地には大和(やまと)湖があり、それが次第に隆起して水が減って現在のようになった――と主張しているが、その樋口が指摘している例証の一つに、『万葉集(まんにょうしゅう)』にある飛鳥(あすか)時代の第三十四代舒明(じょめい)天皇の御製(ぎょせい)「国見の歌」がある。

 大和には 群山(むれやま)あれど
 とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま)
 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ
 海原(うなばら)は 鴎(かもめ)立ち立つ
 うまし国ぞ あきつ島
 大和の国は

 意味は、

「大和には多くの山があるが、とくに香具山に登って国を見渡すと、広い平野にはかまどの煙が立ちのぼっており、広い海面には鴎が飛びかっている。大和の国は本当に豊かで平和な国であることよ」

 ――といったことであるが、注目されるのは、この御製のなかに、《大和》の香具山から「海原が見えた」と歌い込まれていることである。
 この海原を単なる池とする従来の解釈に樋口は異議を唱え、じっさいに香具山から海のような広々とした湖水が見えたに違いない――としている。

 他の考古学者の最近の資料を見ても、盆地の中央部一帯が水郷に近かったことは確かなようで、この欽明天皇はじっさいに香具山から広大な水面をご覧になったのであろう。
 山から自分の国を一望しようという歌に、足もとの小さな池を詠(よ)みこむのはおかしい。香具山からの遠望に果てしない水面があったにちがいない。
 飛鳥時代でもそうだったのだから、それより約三百年前の崇神(すじん)天皇や〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の時代の奈良盆地の中央部は、なおのこと明確な水郷(すいごう)地帯または湖だったのであろう。

[つづく]
 

議論の伝統  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月13日(日)12時09分34秒
   良心的日本人と某半島近隣国とでいかに議論の仕方が違うかは、正論新風賞の古田博司さん等が李朝時代からの歴史的由来(儒教論争の伝統)を含めて説明しています。
(たとえば『韓国・北朝鮮の嘘を見破る(文春新書)』・・・など)
 以下は、「日韓歴史共同研究委員会」の委員として苦労なさった古田氏らの解説をわたし流に纏(まと)めたものです。

◎議論の伝統〔甲〕
 事実を客観的に調査して資料をつくり、その資料をもとに論理を組み立てて結論を出し、その結論を相手に丁寧に説明する。

◎議論の伝統〔乙〕
 自分にとって都合のよい結論を最初につくり、その結論を支持する資料だけを探し(見つからなければ自分で創作し)、それを貼り付けて結論を補強し、大声で相手を威嚇する。

〔甲〕は良心的な日本人の議論の伝統です。
〔乙〕は某半島近隣国の五百年前からの伝統です。

 要するに〔乙〕は何百年もの間に身にしみついた伝統文化で、彼らにとってはそれが正しい方法です。

(これに対して某大陸近隣国の場合は、史実と論理を無視する点では同じでも、方法は〔乙〕とは少し違うように思います。強大な武力を背景にして微笑の仮面をかぶり、餌をぶらさげてきます)

 以上は古田氏らの解説を纏めたものですが、以下は私の感想です。

 よくインターネットで、憂国の人たちが、近隣国に対して、「何という大嘘つきだ。恥を知れ」と叫んでいるのを見ます。
 しかしこの怒りの言葉は、「嘘をつくのは悪いことで、恥ずかしいことだ」という考えを持っている(ごくわずかな)人たちにしか通じないと思います。
 世界の多くの人たちは、「嘘は悪い」とか「恥」とかいう観念とは無縁で、もっとも大切だと思っているのは「お金」です。

 だから重要なのは、「自国内の団結」と「他の国々への宣伝」です。
 この二つが苦手な日本人は常に悲劇の主人公です。
(むろん、より根源的には武力です。〔乙〕のような議論をする人たちは武力に弱いのです)
 

カメハメハ王朝の末裔  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月12日(土)19時45分27秒
  ウイングさん
大神正念さん

ハワイでは、20世紀末に、「王朝の末裔」と名乗る御仁が王位継承を宣言していますし、現在もアカヒ=ヌイと言う人物が「ハワイ国王」を名乗っているそうです。

まあ、初代のカメハメハ大王の直系は断絶してしまいましたが、傍系子孫は今も健在らしいので、王位継承・復辟(即位)を主張する権利はあるでしょうね。尤(もっと)も、継承候補者が多数名乗り出る可能性(逆に言えば、其程(それほど)、子孫に事欠かないと言う事)の方が大きく、その場合、誰を国王にするかでもめるかも知れません(笑)

『Free Hawaii』
http://www.freehawaii.org/

 

なぜ今、「従軍慰安婦」なのか?  投稿者:ぶらり旅兵  投稿日:2007年 5月12日(土)19時36分53秒
  すべて想像ですが…。

おそらくアメリカは、所謂(いわゆる)「従軍慰安婦問題」を利用して、日本を『スケープゴート』に仕立て上げようとしているのでは?

何故(なぜ)そうするのかと言えば、イラクで大失敗したアメリカの次の政権を担うであろう民主党と次期大統領、延(ひ)いては自分達のデタラメさを見たくないアメリカ国民が、自らに対する『クリーンな正当性』を見いだしたいと心から望んでいるからに他ならない…というのはどうでしょう?

そして、序(つい)でにさらに日本人を去勢し、最近目覚め始めている日本人を、なんとか自分たちの支配下に今後も置いておこう…というつもりなのでは?

で、最悪な想像としては、真にアメリカで力を持っている西欧系アメリカ人が、彼らが隠し持っているであろう日本と日本人に対する『レイシズム』を、これを期に、思うさま爆発させてくる可能性があるということ…。

人間は、自分に後ろ暗い所があると感じたときに、余計に“いい人”になろうとする。

それは、議論の始めから問答無用で日本を非難している、アメリカマスコミの反応を見てみれば、火をみるより明らかな出来事です。まるっきり日本の側に立った論調を見ることができない。まるで、過去・現在における自分達の罪科にはすべて目をつぶり、「日本だけが悪いのだ!」と言わんばかりの勢いです。

おそらく、次期大統領候補が『女性と黒人』であることも、あるいは関係しているかもしれません。「隷属(れいぞく)させられていた立場から立ち上がり、隷属されていた民衆を解放し、隷属させていた者どもを完膚(かんぷ)なきまでに叩き伏せる力強いアメリカの大統領…うっとり」という、アメリカの恐ろしいまでの『自己中心的性格』を見せつけられるかも知れない。

あぁ〜、やだやだ。クールジャパンの次は、“日本よ。オタクは寒い”よばわりかぁ?
 

「従軍慰安婦」は哀れか?  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月12日(土)19時35分53秒
  先ず、指摘す可(べ)き点は、当時、「従軍慰安婦」なる名称は存在していなかった事。「鬻(ひさ)ぐ」側、「買う」側当方共に、その様な名称を用いては居なかった。とは言え、それでは話が進まないので、此処では敢えて「従軍慰安婦」なる名称を便宜上用います。

抑も、「従軍慰安婦」は、本邦左翼や支那・韓国、更には米国が主張している様な、日本政府・軍が「国策」として強制連行・徴用した様な女性達ではありません。女衒(ぜげん)や置屋の存在は否定しませんが、それらを軍が軍の制度として管理・統括した事もありません。だからこそ、当時の軍による関与を決定づける様な証拠が出てこない。

又、彼女らの大半は、支那人や鮮人では無く日本人。その彼女らも北鮮風に言う所の「拉致」されてなった訳では無く、三度の飯が食え、給金が良かったから、自ら志願してなった口。だからこそ、中には、時の総理よりも収入が多かったと「従軍慰安婦」まで居たと言う。

では、「従軍慰安婦」は「哀れ」であっか? 確かに、その末路が「哀れ」であった者も多かった事は否定しない。然(しか)し、末路に至る迄に、「美味(おい)しいものを食べ」、高報酬だった事を考えると、例えれば、株で儲(もう)けに儲け、都心の一等地のマンションを買い、外国の高級車を乗り回し、世界中の珍味を食べ尽くした挙げ句、持ち株の大暴落で、一夜にして破産してしまった投資家にも相通ずるものがある。

「我が世の春を謳歌」していた時の事は棚に上げて、「一文無し」になった、その責任を他人(日本国であり軍)に押し付ける姿勢には、はっきり言って虫ずさえ走ります。

要は、「乗るか」、「反(そ)るか」であり、博打(ばくち)での勝ち負けと同じ事です。「反った」からと言って、恨(うら)みっこ無しです(合掌)
 

RE:嘆息  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2007年 5月12日(土)19時14分6秒
  八神様

>ここだけではありませんが、旧態依然とした「反天皇」「日本軍はこんなにわるかった」投稿が、掲示板の趣旨を無視して、ときどき見受けられますね。

日本が「右傾化」し、左翼(社民党や進歩的文化人等々)に対する支持が凋落(ちょうらく)の一途を辿(たど)っている昨今、彼らも相当焦(あせ)りを感じている証拠では無いかと私は思っています(憐憫) とは言え、掲示板の管理者としては、正直言って迷惑な話ですね。

と言う訳で、「福田恒存をやっつける会会長」改め「福田」君。二度も同じ内容の投稿をしない事。そう言う行為を「多重投稿」(重複投稿)と言って、掲示板の常連諸氏(RAM、ROMの区別無く)から嫌われる理由の一つですよ。
 

レス  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月12日(土)16時00分49秒
  日系二世もピンからキリまで居て困ったもんですな 福田さんw
進駐軍の日系二世ほど嫌な奴等も居なかったと聞きますよ、、 俺たちゃ〜戦勝国民だ!!
まぁ 全てとは言いませんが 近頃何かと賑わしている M.ホンダ氏(日本人?)を連想
させますね、、。
ご紹介の本絶版のようですが 何処(どこ)から入手されました、、。
最近は朝日新聞でさえ「従軍慰安婦」などと言いませんよ、念のためw、、。
 

従軍慰安婦について  投稿者:福田  投稿日:2007年 5月12日(土)14時06分48秒 Remote Host: KHP222000058190.ppp-bb.dion.ne.jp, Time: 1178946408
   従軍慰安婦についての記述がある下記の本を読みました。この記述から見ると、大日本帝国陸軍は、従軍慰安婦について直接関与していたことはおろか、負け戦中の最前線においても、塹壕の中にまで慰安婦を引きずり込んで性的奉仕をさせていたことがわかります。しかも、負けたとなると、贅沢三昧、したい放題の日常を楽しんでいた指揮官が真っ先に逃げ出す。これじゃ負けたのも無理はないでしょうね。

(管理者註 この間、「福田恒存をやっつける会会長」名義による投稿『哀れな従軍慰安婦』 2007年 5月11日(金)17時05分36秒 と重複する為、過去ログに於いては割愛)

 著者のヨネダ氏は1906年ロサンゼルス生まれ。1942〜45年に米軍情報部軍曹として主としてビルマおよび中国戦線で対日情報作戦に従事。
 

『卑弥呼と日本書紀481』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月12日(土)11時36分17秒
  [承前]

◆◆◆ 水郷地帯としての《大和》◆◆◆

図10.3
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

 図10.3は、図5.2に歴代天皇の御陵(ごりょう)位置を記入してみた地図である。
 図8.1は歴代皇宮位置だったが、比較すると、大体は皇宮と同じような場所に御陵が造営されたことがわかる。
 樋口清之が大和(やまと)湖と呼んだ中央部――図5.3参照――を除いた周辺の区域に、皇宮も御陵も設けられていたことは興味ぶかい。
 また樋口が述べているように、橿原(かしはら)のあたりが、大和湖に突き出た半島状の地形だったらしいこともわかる。

 この図10.3で大和地方の主要部全域が一望できるので、この地図によって《大和》の特色を概説しておく。
 見にくいときは、基本図である図5.22に立ち返っていただきたい。
 中央部には、大和川の支流が数多く流れているが、古代においてはそれぞれが今よりもずっと大きな川幅をもっており、幅数百メートルに達することも珍しくはなかったらしい。
 したがって図の中央部分は――とくに梅雨時においては――湖ではなかったとしても、ほとんど水郷(すいごう)地帯といっても過言ではない領域だったと考えられる。
 そして、それらの河川の間に、微高地と呼ばれるわずかに隆起した丘状の地帯があったとされる。

 大和川の支流のなかでも有名な飛鳥(あすか)川は吉野山地の方角から図の中央を流れているが、山に近い南の上流に、神武(じんむ)天皇即位の地・橿原や、《飛鳥京》や《藤原京》がある。
 このあたりは全体が飛鳥の地域であるが、大阪湾から船だけで短時間に到達でき、南に吉野山地があり、北に水郷地帯を望み、近くに香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)の大和三山が見え、北東に《三輪山》が聳(そび)える、皇宮には絶好の地形だったことがわかる。

[つづく]
 

ご無沙汰です。  投稿者:大神 正念  投稿日:2007年 5月12日(土)03時06分43秒
  皆様、こんばんは!
ご無沙汰(ぶさた)しておりますが、世相は刻々ですねぇ。

ウイングさん。
竹下さんへのご質問のところ、僭越(せんえつ)ではありますが・・・

>カメハメハ王朝の末裔って存在しているのですか?

実は来週、ハワイに行って来ます。
面白い!調べて来てみましょうか?
(前回のハワイ訪問時は、戦艦ミズーリの乗船報告をさせて頂いております。)

>中国が次の超大国になると言う本も出ているが、果たしてそうなるのでしょうか。

否定は致しません、私は。(人口の点からの観点ですが)
でも・・・ど〜でしょうか。
例えば技術的なハナシになると、例え支那が月に飛行士を飛ばしたからと言え、日本は既に、技術的には軽く凌駕(りょうが)しているわけですし。その気になれば、軍事衛星もね。
(つーか、そもそものハナシになれば、支那がそこまでなれたのは、日本のODAの賜物なんですからねぇ)まぁ、腹が痒(かゆ)い!

・・・最初に、()書きで人口の点を書きましたが・・・。
(かしこ)い我が大和(やまと)民族は、その“人口”を既に利用しているわけですので、心配無いじゃないですか。
支那が大国になるならその分、我々はそれ以上に潤(うるお)います。
ま、終生、かの国が我々の技術を超えられるハズもありません。
我々は、大いに儲(もう)けさせて頂きましょう。(これこそ、大東亜共栄圏構想!)

極めつけの事例ですが、昨今、デイズニーランドを模倣した支那の施設が笑材を報じておりましたが、あれこそウイングさんのご心配に対する回答の象徴(笑徴)ではないでしょうか。
                      ゲラゲラ。
 

嘆息  投稿者:八神邦建  投稿日:2007年 5月12日(土)01時58分16秒
   ここだけではありませんが、旧態依然とした「反天皇」「日本軍はこんなにわるかった」投稿が、掲示板の趣旨を無視して、ときどき見受けられますね。
 でも、最近は特に名指しで反論しようとかは思いません。昭和帝のことや、大東亜戦争当時の歴史的な経緯や、日本軍のことも知らないでいってるようですし、挑発目的かもしれませんし。

 日本軍のことを悪く書くなら、支那の軍隊、ヨーロッパ各国の軍隊、ソ連軍、アメリカの軍隊のことなど、当時の各国の軍隊と比較してどうか、という「比較軍隊論」でやってもらわないと納得できない、ということだけは書いておきたいです。「おまえが悪い。なぜなら、おまえが、おまえであるがゆえに悪い」というような書き方では、お話しにならない。

 天皇陛下や皇室についてもその通り。「英国王室やタイ王室などの各国王家の歴史・歴代と比べてうんぬん」という「比較王室論」を、「反天皇」の人たちがおこなったのをみたことがありません。要するに「君主制はよくない。ゆえに天皇もよくない」という、歴史・史実のできる限り公平な勉強をせずにいても、なんとも思わない単純な「共和制優先」の考え方の持ち主なのでしょうか。

 そのうち整理したいと思っていますが、日本は明治以来、立憲君主国家であって、わが国の「民主主義」は「立憲君主制下の民主主義」であって、アメリカやフランスなどの多くの「共和制下の民主主義」とは、厳密には異なると考えています。「君主制を容認している民主主義」と「共和制の民主主義」のどこかどうちがうかを、まだ明確に書ける段階ではありませんが、なにかがちがうことだけは感じています。

 つまり「民主主義にはすくなくとも2種類ある」という考え方です。このような指摘は、もちろん私が初めてではないと思いますが、ひとつの論考としてまとめたいと考えています。
 

竹下義朗 様  投稿者:ウイング  投稿日:2007年 5月11日(金)18時38分45秒
  カメハメハ王朝の末裔(まつえい)って存在しているのですか?

中国が次の超大国になると言う本も出ているが、果たしてそうなるのでしょうか。
 

哀れな従軍慰安婦  投稿者:福田恒存をやっつける会会長  投稿日:2007年 5月11日(金)17時05分36秒 Remote Host: KHP222000058190.ppp-bb.dion.ne.jp, Time: 1178870736
  カール・ヨネダ(Karl G.Yoneda) アメリカ一情報兵士の日記(A Nikkei M.I.S Sodier's Diary 1942-1945) PMC出版KK 1989

 雨上がりだが空は曇っている。「掃討戦だからミチナの完全占領は時間の問題だ」と一戦友は語る。それでも日本兵は強情に反撃してくる。敵の本部の塹壕に到達したとき、入り口で数名の病傷兵と、驚くなかれ二十余名の朝鮮系慰安婦が中米兵士に取り囲まれている。「どうしたのか」と問うと、「(略)第一一四連隊長丸山房安大佐は、昨夜、こっそりと壮健な部下を連れて逃げ出し、彼らや彼女らを置きっぱなしにした。日本の将校は臆病者だ」という。(96頁)

 本部に帰って、臨時拘置所に出かけると、多くの米軍兵隊が涎を流す”ような顔をして鉄条網に寄りかかっている。衛生兵が慰安婦の足や手にできている水虫に薬の手当てをしているのを見ているのだ。(略)どの女も、宣伝放送は塹壕の中にいたので聴いたことがないという。(略)手榴弾を与えられたが使わなかったとのこと。(97頁)

 ミチナを守備した日本軍将兵は、”皇国のために”命を捧げた。彼らの指揮官である丸山房安大佐は、特別強固に作られた個人用居室壕で風呂をとり慰安婦の給仕で食事をとり、己の安全のために部下を捨てて後方に遁走した。(略)彼らの指揮者は誰か?いうまでもなく大元帥天皇である。天皇に関しては絶対に書くな、の言明を米国務省から受けているが、この日記には、子供、そしてその子供たちのために私見として、何百万人という日本の若い命を中国に、南太平洋に、ビルマに埋めた責任者は天皇であるとはっきり書き残しておく。
(98頁)

 強制的に性労働に従事させられたばかりか、最前線の塹壕内でも好色な大日本帝国陸軍将兵により性奉仕を強制され、負け戦となれば指揮官や壮健な兵隊はさっさと逃げ出して、最後の温情?として自殺用の手榴弾を与えられて敵兵の中に置いてきぼりにされる。従軍慰安婦とは哀れなものだ。
 

RE:食の自主防衛w  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月11日(金)11時58分55秒
  中国製の毒入り食物が世界中で話題になっているようですね。
私はかつて、某近隣国の日本向け食料品を製造している工場で、従業員がタンを吐き入れながらつくっている――という話を読んで、それ以来、近隣半島大陸系の食べ物は極力喉に入れないように気をつけています。
(日本人が食べると分かると面白がって料理にタンを入れるという話は、インターネットでも読みました)
しかしながら、日本製の食品の中に一部中国製が混在している場合、まったく識別できず、避けようがないのが実態です。
ですから私も、知らないうちに、近隣国人のタンを食べているかもしれません。
 

『卑弥呼と日本書紀480』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月11日(金)11時52分46秒
  [承前]

◆◆◆《纒向(まきむく)京》と大和川 ◆◆◆

図10.2
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H98-102.htm


 図10.2は、図10.1における大和国(やまとのくに 奈良県)とその近傍のみを拡大した地図である。
 奈良盆地を斜線つきの太線で明示しているが、まず第一に、大和川によって大阪湾すなわち瀬戸内海と短距離でつながっていることがわかる。
 大阪湾の内側は、図5.1で説明したように、河内(かわち)湖と呼ばれる巨大な湖(水郷 すいごう)になっており、それは大阪湾と直接つながっていて、海水と淡水が混ざった汽水湖だったらしい。
 つまり湾の内側にもう一つ湾があるような地形だったのだ。

 古代の大和川はその河内湖に流れ込んでいたので、奈良盆地を出るとすぐに海に注ぐという感じであり、おおまかにいって《纒向京》から海までは直線距離にすると二十キロていどにすぎず、マラソンコースよりずっと短い。
 しかも大きな大和川が流れているので、船でそのまま行けたのである。
 大和川の上流を初瀬(はつせ)川ともいうが、その初瀬川が《纒向京》に近接して流れていたのだ。
 のちの飛鳥(あすか)時代に遣隋使やその返礼の使者が初瀬川から上陸したという『日本書紀(やまとのふみ)』の記述も、地図を見れば納得できる。

《飛鳥京》はこの図には記載していないが、《藤原京》のすぐ右下である。
 奈良盆地の周囲は山地であり、とくに南方は神武(じんむ)天皇が苦難の遠征をおこなった奥深い山々であり、敵に攻められる恐れは少ない。
 盆地は南でいったんくびれたのち、東西に伸びる部分があるが、これは紀伊水道に注ぐ有名な紀ノ川の上流の両岸であり、《大和》とは別の低地と考えたほうがよい。交通も不便だったと考えられる。

 奈良盆地の北部を除いた主要部を破線で四角に囲ってあるが、これは、図5.2や図8.1、またつぎの図10.3に描いた部分である。見比べれば、大きさの感覚がつかめると思う。

[つづく]
 

細石刃と日本刀  投稿者:みどり  投稿日:2007年 5月11日(金)10時23分28秒
  なんと、細石刃は日本刀の原型だった!
ついに明かされた三内丸山遺跡の謎!
ブログでは、国津神と天津神のルーツを解明。
縄文土器・縄文人・海に消えた徐福軍団の謎、日本人のルーツの謎に迫ります!!
      ↓
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137
「細石刃と日本刀」「日本神話の原風景」「マンモスハンターの大移動」
「北のまほろば(三内丸山遺跡)」掲載中!
 

RE:(無題)菅原道真  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月10日(木)22時21分13秒
  >菅原道真(すがわらのみちざね 845〜903)だ。彼は死後に立てられたこの祠堂(しどう)で「天神」として崇拝される日本歴史上の大人物だが、日本の先住民ではなく新羅(しらぎ)人の子孫なのだ。

その新羅の第4代国王の脱解尼師今(昔姓王朝の祖)が、「倭国の東北一千里のところにある多婆那国」の出身であると『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀に記載されており、オロモルフさんのご指摘により、「多婆那国」が「丹波国」(現在の京都府北部)であり、新羅王となった脱解尼師今が古代日本人であったであろう事は、此処(ここ)『喫茶室』をご覧の方には周知の事ですが、洪潤基(ホン-ユンギ)教授は未だご存じで無いのでしょうね。
 

RE:ふと最近思う事が・・  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月10日(木)22時06分3秒
  參河人さん

>創価党

心配ありません。池○大作氏も高齢。彼が寂滅すれば「偉大なカリスマ」を失った巨大教団は、四分五裂しますから。いや、そうならないとしても、彼程のカリスマ教祖は現れないでしょうから、集団指導体制で無難な線を行くしかありません。又、創価党が政権与党の座に固執するならば、現実路線を進むしか無く、結局の所、自民党に引き摺(ず)られます。

>憲法9條

強力な自衛力は、相手の侵略を容易に許さない強力な「盾」=抑止力になります。平和憲法、特に9条があったから、日本は戦後60年もの間、平和であった訳ではありません。日本の平和を保証するだけの自衛力=軍事力と言う裏付けがあったればこそであり、極東の軍事バランスが日本の独立を保障する構造だったればこそです。

強大な軍事力を保有しているからと言って、明日にでも戦争をおっ始める等と左翼の連中が考えているのなら、大間違いです。戦(いくさ)に於いての上策は「戦わない」事。詰まり、相手に、此方への攻略を断念させる事が出来れば良い訳で、それは「一滴の血も流さずに、国土を守る」事と同義です。その点でも、強大な軍事力を有し乍(なが)ら、60年もの間、一度も戦争をしなかった日本は大したものであり、誇りに思っても良いでしょう。
 

RE:食の自主防衛w  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月10日(木)21時51分11秒
  >シナ殺人シロップの猛威…世界に毒を振りまく中狂

米国産牛肉もさる事乍ら、支那の農産物に付いては、日本国民の生命と健康を守る為に、政府は全面輸入禁止措置を採る可きでしょう。何と言っても、死亡を含む健康被害に対して、支那は何らの補償措置も講じないのですから、被害が出てからでは遅い。水際、詰まり、輸入の段階でストップをかけるしか無いでしょうね。
 

RE:訂正(汗;  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月10日(木)21時46分49秒
  yfさん

>/200705/   7が抜けてました、、

過去ログへの収録の際に、『食の自主防衛w』内のリンクにつきましては、訂正させて頂きました。
 

訂正(汗;  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月10日(木)11時48分47秒
  /200705/   7が抜けてました、、  

食の自主防衛w  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月10日(木)11時45分48秒
  スーパーなどで買い物すると 中国製の物産が目に付くようになって来ました、、
大丈夫なのか中国製生鮮食料品 数年前のほうれん草に懲りて必ず製造国が何処(どこ)
確認するようになった 中国・韓国・北朝鮮が生産地の場合買わない事にしています
製造地が日本でも原材料生産地が明確でないものも多い これも買わない、、、

blogを徘徊してましたら 恐ろしい記事を見つけましたので、、、

シナ殺人シロップの猛威…世界に毒を振りまく中狂
http://dogma.at.webry.info/200705/article_9.html
            blog:東アジア黙示録
 

『卑弥呼と日本書紀479』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月10日(木)11時30分42秒
  [承前]

◆◆◆《纒向(まきむく)京》の地理的利点 ◆◆◆

 まず最初に、この問題の《纒向京》のある場所がどのような利点を持っているかを理解するために、いくつかの地図を眺めてみよう。

 ここまでの章ですでに説明した関係地図に、つぎのようなものがあった。

 図4.2 畿内とその周辺の古い国名図
 図5.1 大阪湾から奈良盆地にかけての地図
 図5.2 奈良盆地の南半分の基本地図
 図5.3《大和》地方の古代地名の地図
 図7.7《大和》地方の有力氏族の勢力分布図
 図8.1 図5.2に歴代皇宮位置を書き込んだ地図
 図8.5《大神神社》周辺の俯瞰図
 図8.13《大和》の主要な神社と前期古墳の地図

 これらの地図をざっと眺めることによって、あるていどは地理的問題が頭にはいるであろう。
 いちいち詳しく見る必要はないが、図5.1と図5.2および図8.1は、《纒向京》を理解するうえで参考になると思う。

図5.1
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

図5.2
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

図8.1
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


 ざっと見ていただいたところで、本章のために新たに描いた地図を説明しよう。

図10・1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H98-102.htm


 図10.1は、図4.2をもう少し詳しくしたもので、大和国(やまとのくに 奈良県)が、周囲の国々に対してどのような位置関係にあるかを示している。
 奈良市や三輪山麓の《大和》は奈良県のなかでも北西の端であって大阪湾にきわめて近いこと、瀬戸内を通らずに日本海に出るためには《籠(この)神社》のある丹後(または若狭湾)が重要であること、東国(とうごく)へ行くには伊勢が重要であること、などがわかる。
 さらに、《大和》の安定をはかるためには、北西の播磨(はりま)やその西の吉備(きび 兵庫県から岡山県)、北東の美濃(みの)や尾張(おわり 岐阜県や愛知県)を味方につけることが必要であることも、一目瞭然である。
 このことは〈倭姫命(やまとひめのみこと)〉一行の旅程である図9.2を見ても理解できる。大和朝廷が周辺の豪族を帰順させるために苦労した跡がうかがえる順路だからである。

[つづく]
 

(無題)  投稿者:  投稿日:2007年 5月10日(木)06時06分26秒
  京都市の北野にある「北野天満宮」という大規模な祠堂(しどう)。この祠堂の祭神は、菅原道真(すがわらのみちざね 845〜903)だ。彼は死後に立てられたこの祠堂で「天神」として崇拝される日本歴史上の大人物だが、日本の先住民ではなく新羅(しらぎ)人の子孫なのだ。

北野天満宮は容易に訪れることのできる場所だが、誰が祀(まつ)られているのか知っている韓国人は珍しい。筆者も20年ほど前までは、9世紀の大物政治家だった菅原道真を、日本先住民系列の人物だと間違って理解していた。この人物が新羅人の血を引く子孫だと知ったのは、日本の古代王室系図「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(815年に日本王室が編纂)を研究してからだ。「新撰姓氏録」は、百済(くだら)人である桓武王(在位781〜806年)の指示で、彼の第5王子である万多親王(788〜830)が藤原園人(ふじわらのそのひと 756〜818)などとともに王室で編纂した。編纂作業が完了したのは桓武王の死後のことだ。

この系図の内容を総合すると、菅原道真は「天孫土師宿禰の子孫、すなわち新羅から渡って来た天日槍(チョニルチャン)王子こと天日槍命(アメノヒボコノミコト)の子孫だ。光仁王の元年(781年)に、王が土師(はじ)氏を菅原に変えさせた。」(「新撰姓氏録」右京神別下、右京諸蕃下、及び山城国諸蕃編など)

日本古代神道研究の権威である今井啓一教授も、「土師氏一門の先祖は出雲臣(いずものおみ 倭王室の新羅人)で、平野神(平野神社の祭神である百済第26代聖王)系列とは関連がない」(『帰化人と社寺』1974年)と明らかにした。慶応大学史学科の水野祐教授も、「出雲民族は韓民族、特に新羅人だ」(『古代の出雲』1974年)で断言し、「出雲地方の人々のA型血液型と、慶尚道(新羅人)のA型血液型の分布率はほとんど同一数値だ。これは、出雲人と新羅人の混血が長年にわたって継続的に行われたからだ」と述べた。出雲地方とは島根県地域のことだ。すなわちこの地域に根拠を置いた出雲族は、新羅から東海(訳注:日本海のこと)を渡って来た新羅人がルーツだということだ。

日本書紀には、日本の開国神である素盞鳴尊(スサノオノミコト)は新羅人だということが次のように書かれている。「素盞鳴尊は天の国から五十猛神(イソタケル)を連れて新羅国へ天降(あまくだ)り、その地の牛頭(ソシモリ)という場所に住んだ(素盞鳴尊、師其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之処)。」

素盞鳴尊が新羅神だということについては、東京大学史学科の久米邦武(1839〜1931)教授が自らの著書『日本古代史』(1907)で明らかにしているほか、江戸時代の著名な歴史学者である藤貞幹(1732〜1797)も『衝口発』で指摘している。日本が明治維新以後に軍国主義を展開するにあたり「皇国神道思想」の頂点に据えた女神・天照大神(アマテラスオオミカミ)も、日本書紀によれば素盞鳴尊の姉だ。天照大神もまた新羅人だという史料であり、日本開国神話の主軸が新羅人たちで成り立っていることを感じさせる。<中略>

日本の天神であり唯一の学問神となった学者・菅原道真が新羅人の血を引いているという事実を、日本の学者たちはまだ一度も論じたことがない。道真が使ったすぐれた詩作は、「菅家文草」「菅家後集」などに伝えられている。

【洪潤基(ホン・ユンギ)・韓国外国語大学教授】

世界日報 (2007/05/08 17:24)
http://www.segye.com/Service5/ShellView.asp?TreeID=1052&PCode=0007&DataID=200705081157000049
 

卑弥呼と日本書紀478  投稿者:津田誠  投稿日:2007年 5月 9日(水)20時20分53秒
  オロモルフ様

私は学生の頃より《纒京》は何度となく行っている あれは一つの国だ《纒向(まきむく)》という国だ「平城京」は大和(やまと)の都だ、同じテーブル上にはのせられぬ
 

『卑弥呼と日本書紀478』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月 9日(水)11時41分37秒
  ■■■■■ 十・一 《邪馬台国》の有力候補地《大和(やまと)》の地理と地勢 ■■■■■


◆◆◆ 日本最古の首都《纒向(まきむく)京》◆◆◆

 古代の首都――大和朝廷の都――のほとんどは奈良県(大和国(やまとのくに))の北西部の奈良盆地に集中しているが、そのなかでもっとも詳しく構造や規模がわかっているのは、八世紀の奈良時代の《平城京》である。いまの奈良市に広大な遺跡がある。
 そのつぎにわかっているのが、《平城京》にうつる直前の《藤原京》であろう。七世紀の終わりから八世紀の初頭にかけの短い期間ではあったが、きわめて計画性の高い都市構造をしていたらしい。
 その前が《飛鳥(あすか)京》で、聖徳太子のすこし前から大化改新のすこし後くらいまで明日香(あすか)の地につくられた。時期的には六世紀から七世紀にかけてと考えられる。ただしこの《飛鳥京》は断続的であって、都市構造は《藤原京》ほど明確ではなく、遺跡の発掘も容易ではなく、明確になっていない点も多い。
 その前の四世紀から五世紀にかけての皇宮は、桜井市、明日香村、天理市、橿原(かしはら)市などを転々としていたらしい。またその間には、大阪府方面に遷ったり滋賀県に遷ったりしている。それぞれ遺跡は指摘されているが、明確な都市構造の発掘はなく、規模もさほどではなかったらしい。

 ところが、さらにその前の三世紀には、同じ奈良盆地に、広大な都があったらしいと、最近の発掘調査によって分かってきた。
 場所は、もっとも狭い意味での《大和》である。
 すなわち、これまで何度か言及してきた、《三輪山》の北西山麓にひろがる《纒向(まきむく)京》である。

《纒向京》という都としての名称は著者が便宜上使っているもので、考古学的には纒向遺跡といわれる。
 この纒向遺跡という名はこれまでの歴史書にはほとんど書かれておらず、なじみの少ない名前であるが、命名者は徳島文理大教授で二上山(ふたかみやま)博物館館長などもつとめた考古学者の石野博信で、『記紀』に纏向と記され、昔纏向という村があったことが命名の理由である。
(纒向または巻向(まきむく)という名前は現存もしている)

《纒向京》の本格的な発掘調査は、戦後の昭和四十年代からはじまり、現在百回をこえる回数の調査がなされている。
 この地域の多くは私有地であり、民家や田畑のなかに古墳が点在しているような土地である。また代表的な古墳は皇族の御陵(ごりょう)なので宮内(くない)庁の所管になっている。
 したがって発掘調査は簡単ではなく、予算の関係もあり、百回をこえる調査で調べられた面積は、推定される《纒向京》全体の二パーセントていどにすぎないといわれている。
 しかしそれでも、ずいぶんいろいろなことが分かってきた。
 とくにこの十年の成果はめざましいものがあり、規模からいうと《飛鳥京》を上まわり、《藤原京》に匹敵するほどの大きさと計画性を持っていたらしい――と分かってきたのだ。

[つづく]
 

ふと最近思う事が・・  投稿者:參河人  投稿日:2007年 5月 8日(火)19時54分3秒
  こんばんは、竹下様とここに来られる方お久しぶりです、お初のお方宜しくお願い致します。さて、最近思う事ですが、政府におる野党をはじめ創価党(公明党)以下を創価党と言わせて下さい。それらの政党は國神社や憲法9條を改正反対とか吠えとりますねー。
まず國神社参拝問題?とやらに触れて見ましょう・・・この國の為家族の為友人の為恋人の為などの為に半世紀前の大東亜戦争に挑んで行った英霊達の眠る國神社の首相参拝とかを
非難する大手マスゴミや野党や創価党などの人々に言いたい事がある。「お前らはどちらの味方だ!?お前らは何処(どこ)の國で生まれ育っただ!?」と問いかけたい位です。皆様もそう思いませんか?それと私が思うに9條は改正すべきと思います、ただし怪しげな市民団体とか大学の教授とやらが言う「憲法9條があったから約60年間平和だったと」仰(おっしゃ)っとるようですが・・それは全くの誤りかと思います、日々國の為家族の為に厳しい訓練や厳しい復興支援活動等をこなす現自衛隊の自衛官の方々の日々の國防に携わってくれている、お陰で平和が保たれていると思います。第一抑止力の無い國だったら何時(いつ)かは支那やロシアや朝鮮の思うがままになっとったかも知れませんよね。あと米國の核の傘下のお陰でもあると思いますがね。このように憲法9條はすでに古い憲法であり連合國の思惑で作られた日本國憲法とやらを廃止し、明治憲法いや大日本帝國憲法の再発行を望みたいですね。即(すなわ)ち今の國防の能力では後世に日本の平和を伝えて行くには厳しいかと思いますので、再軍備を推し進めるべきと断言します!長文で失礼しました(m_ _)mそれでは失礼します。
 

『卑弥呼と日本書紀477』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 5月 8日(火)12時05分29秒
   しばらくの間、野暮用で忙しくて、第十章の準備が遅れてしまい、失礼しました。
 今日から第十章に入ります。
 付録の類を除けば、これが最後の章です。


■□■□■ 第十章 〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が眠る日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓(はしはか)》の謎――併(あわ)せて《大和(やまと)》に展開する雄大な《纒向(まきむく)京》――■□■□■


遠つおやの しろしめしたる 大和路(やまとぢ)の 歴史をしのび けふも旅行く
〔昭和天皇御製(ぎょせい)/昭和六十年〕

(かん)なびの みむろの山の くずかづら うら吹かへす 秋は来にけり
〔大伴家持(おおとものやかもち)(新古今集 (しんきこんしゅう))〕

巻向(纏向)の 穴師の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む
〔柿本人麻呂歌集(かきのもとのひとまろ)(万葉集(まんにょうしゅう)1100)〕
「纏向の穴師川(巻向川)を流れる水が絶えないように、私も絶えることなくここに来ることにしよう」


[つぎは『十・一 《邪馬台国》の有力候補地《大和》の地理と地勢』]
 

朝鮮人は変わらんな  投稿者:粕谷真人  投稿日:2007年 5月 6日(日)04時53分28秒
  >彼らは、畏(おそ)れ多くも天皇の御物(ぎょぶつ)であり、神宝である「三種の神器」迄盗んだ程の民族です。たかが鶏位は盗んだ内に入らないのでしょう

衝撃的だな。朝鮮人の盗みは、まるでケモノがエサを食べていくようだ。
こういった、情報は貴重だな。
 

突発的ですが  投稿者:利亜  投稿日:2007年 5月 6日(日)03時48分19秒
  >「日本と言う拠点を失いたくなかったら、お前ら日本をもっと大事に扱え」と言う位の事は、米国に言っても罰(ばち)は当たりはしません。

「日本が保有するアメリカ国債を売却する」と爽(さわ)やかに文句をつけるのもオツかと思います(苦笑)

ご無沙汰(ぶさた)しております。
 

RE:朝鮮通信使 VS 日本の町人  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月 5日(土)22時00分9秒
  粕谷真人さん

>朝鮮通信使が鶏を盗んで、日本の町人とけんかになったという図

以下、オロモルフさんのご投稿『卑弥呼と日本書紀470』(4月21日)からの引用です。

>天智(てんぢ)天皇七年(西暦六六八年)、日本に来ていた新羅(しらぎ)の沙門道行が、
>「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を神宮から盗んで帰ろうとした。しかし海が荒れて帰れず、
>大阪湾で降参した。このとき道行が盗んで通った清雪門という神社内の門は、不吉だと
>いうのでずっと開かずの門とされている。

彼らは、畏(おそ)れ多くも天皇の御物(ぎょぶつ)であり、神宝である「三種の神器」迄盗んだ程の民族です。たかが鶏位は盗んだ内に入らないのでしょう。
まあ、その程度と言う事です。鮮人と言うのは。
 

萩生十兵衛様  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月 5日(土)21時53分58秒
  こちらこそ、こちらこそ宜敷(よろしく)お願いします。  

RE:竹下義朗様  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月 5日(土)21時49分13秒
  ウイングさん

>アメリカも、もうあてになりませんね。

あてにならないのであれば、敢えてあてにしない方が今後の日本の為にもなります。戦後60年。何時迄(いつまで)も「ぬるま湯」に浸(つ)かって平和呆けしている日本の、日本人の目を覚まさせる為には、ここいらで少々手荒でもショック療法が必要です。

米国が曲がりなりにも「同盟国」の日本に対して、斯様(かよう)な仕打ちを続けるのであれば、日本は米国の意向を無視して、例えば、日米共同開発若(も)しくは米国製の購入を求められている空自の次期支援戦闘機(攻撃機)を、内需拡大・技術振興の名の下(もと)に純国産する旨、米国に通告するとか、安保改定・地位協定の大幅見直しを強硬に要求するとか、まあ、他にも、カメハメハ王朝の末裔をハワイ国王に復辟(ふくへき)させる運動(詰まりはハワイ独立)をあからさまに起こすとか、色々あります。

米国が何と言おうと、「浮沈空母」の日本を米国が失う事は、極東に於ける橋頭堡を米国が失う事を意味する訳で・・・かと言って、れっきとした「独立国」である日本を、米国の意にそぐわないからと言って占領する訳にもいきません。やってしまえば、それは「侵略」以外の何ものでもありませんから。ですから、日本は米国の顔色を窺(うかが)う必要等全くありません。「日本と言う拠点を失いたくなかったら、お前ら日本をもっと大事に扱え」と言う位の事は、米国に言っても罰(ばち)は当たりはしません。

色々ありますが、米国の絶頂期は今は昔。衰退期にある米国の顔色を窺っている暇があったら、「明日の事」(米国没落後の事)を日本はもっと真剣に考えておく可(べ)きです。
 

竹下義朗様  投稿者:ウイング  投稿日:2007年 5月 5日(土)18時47分26秒
  『安倍首相のメンツ丸潰れ』(livedoorニュース)
http://news.livedoor.com/article/detail/3146965/

安倍首相のメンツ丸潰れ

2007年05月05日10時00分

 安倍首相の先の訪米はなんだったのか? いきなり、こう問いたくなる展開になってきた。ブッシュ・米国は30日、06年版のテロ年次報告書を発表したが、そこには北朝鮮をテロ支援国家から外す作業を始めることが明記されていたのである。安倍首相があれだけ頼んだのに、なんだか面目丸つぶれだ。

 安倍首相は先の訪米でブッシュ大統領に対し、「テロ支援国家の指定解除の際には、拉致問題を考慮に入れてくれ」と頼んだ。ブッシュも「考慮に入れる」ことを明言したが、どうやらリップサービスだったようだ。

 06年度のテロ年次報告書には、北朝鮮など5カ国をテロ支援国家にしていたが、北朝鮮については「指定解除の作業開始で合意した」とバッチリ、書かれているのである。しかも北朝鮮に関するくだりはたった7行しかなく、03年度と比べると半分に。米国が北朝鮮に“気を使っている”のがハッキリ見て取れる変化だった。

 米政府高官は「報告書は事実関係を記しただけだ」と言い、2月の6者協議で決まった中身を書いただけと強調している。しかし、米国はすでにテロ支援国家指定解除で動き出している。安倍の“お願い”は全然、聞き入れられていないのである。

●慎重判断を求めたのに聞き入れられず

「米国は北朝鮮への金融制裁を解除し、凍結していたマカオの銀行口座からの北への送金を認めました。でも、米国にはパトリオット法という法律があり、テロ支援国家への送金は1日1万ドル以上はできない仕組みになっている。口座には2500万ドルの金があるので、1日1万ドル以下にして返していたら、数年を要してしまう。その間に北が再び核開発を始めれば、6者協議は吹っ飛んでしまいます。この問題をクリアするには2つの方法しかありません。北をテロ支援国家から外すか、大統領令でパトリオット法の適用除外にするかです。どうやらテロ支援国家から外す方向で動き出しているようです」(外交評論家・小山貴氏)

 訪米中の麻生外相はライス国務長官と会談。核放棄をしない北に対し、「必要があれば圧力を強めることで合意した」とか言っていたが、むなしい。

 本当は、日本はますますカヤの外に置かれつつある。

【2007年5月2日掲載】


アメリカも、もうあてになりませんね。

 

朝鮮通信使 VS 日本の町人  投稿者:粕谷真人  投稿日:2007年 5月 5日(土)05時54分50秒
  朝鮮通信使が鶏を盗んで、日本の町人とけんかになったという図があるのだが、こともあろうに、藤井教授といのが「日本の子供と遊んだり、鶏を一緒に追いかける観半島人の姿が活き活きと描写され、日本の民衆と交流していた様子がわかる」と歴史を歪曲しているようです。



このような、在日を含めた朝鮮人のうそを暴いて、日本人に広めて欲しい。

『enjoy Korea/翻訳掲示板−伝統文化・伝統芸能』
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1800305

 

萩生十兵衛さま  投稿者:八神邦建  投稿日:2007年 5月 5日(土)02時03分0秒
   はじめまして。日本をうれうるそのお気持ちは、とても大切だと思いますし、ずっと持ち続けていただきたいと思います。

 私もかつては、日月神示を熱心に読み、中矢さんや、あすかさんなどの著作を、けっこう読んでいたつもりです。ところが、ここ5年ほど『古事記(ふることふみ)』『日本書紀(やまとのふみ)』『古語拾遺(こごしゅうい)』や祝詞(のりと)、明治陛下や昭和陛下のご事績を勉強するうちに、だんだん離れてしまい、正直、すみませんが今ではまったく興味がもてなくなっております。

 ですから、ご紹介のHPや著作者のことについては、コメントいたしかねますが、萩生十兵衛さんの憂国のお志(こころざし)は、とてもよくわかるつもりです。『古事記』『日本書紀』や近現代の天皇陛下や皇族の方々について書かれた書籍なども、よく読まれることを、お勧(すす)めいたします。そうすれば、投稿された疑問についても、おのずから解消されることと存じます。
 

こちらこそ、よろしくお願いいたします  投稿者:八神邦建  投稿日:2007年 5月 5日(土)01時50分46秒
  >竹下様

 それぞれ、多忙の由(よし)、それでも続けるHP・掲示板というのが「やりがい」です(笑)。

>yf様

 こちらこそ、よろしくお願いいたします。お互いによい情報交換ができれば幸甚(こうじん)です。
 

まさに痛快な策  投稿者:萩生 十兵衛  投稿日:2007年 5月 5日(土)01時42分31秒
  http://askado.web.infoseek.co.jp/のアスカジーラ支局特別版をごらんください
あのアカシナへの策はまさに痛快そのものです。また、飛鳥昭雄氏のアスカジーラ支局もなるほどです。
 

>韓国だけは許さん!  投稿者:萩生 十兵衛  投稿日:2007年 5月 5日(土)01時08分6秒
  また、中共の政権種族も許せません。我が国の第1段目の敵は韓国、北朝鮮、赤シナ、
                     第2段目はロシア
                     第3段目はアメリカだとおもいます。
 

韓国だけは許さん!  投稿者:萩生 十兵衛  投稿日:2007年 5月 5日(土)00時49分19秒
  先ほどの萩生 十兵衛 です。もう韓国と北朝鮮だけは絶対に許さない国です。特に韓国はフリーエネルギーを応用したプラズマ兵器で潰(つぶ)したい国です。  

逆転勝ちの我が国  投稿者:萩生 十兵衛  投稿日:2007年 5月 5日(土)00時37分35秒
   竹下先生、はじめまして。また、八神先生のサイトもご拝見させていただいています。我が国はどうなるのだろうか?このままでは我が国我が民族はどこへいくのだろうかと心配な毎日を送っています。ある日このhttp://www.nihoniyasaka.com/と中矢 伸一 先生の最新刊 [日月神示]神か獣か!魂の超選択 を読みました。なかでもフリーエネルギーと核無力化の発明についてですけど、我が国が世界に先駆けて開発、発明してアジア太平洋地域の強国を目指すべきだとおもいます。日清戦争時に我が国がもっと飛行機を開発、発明をしておけば日露戦争でパーフェクト勝利をなしえたかも知れません。分野ごとにしがらみがあるかもしれませんが、我が国が危機に瀕しているときに四(し)の五言ってられません。中矢先生も我が国の現状をうれいている1人と私はみています。皆様どう思いでしょうか?  

RE:日本が地図から消えた!  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月 4日(金)21時37分5秒
  yfさん、面白いネタをご提供頂きまして、有り難(がと)う御座(ござ)います。

それにしても、本当にコリアンは救い難(がた)い民族(ミンジョク)ですね(苦笑) 腹が立つのを通り越して、蔑笑(べっしょう)してしまいます。

で、次回の「歴史再考」のテーマも、韓国ネタで書こうと思っています。(次から次へとネタを提供して呉(く)れる韓国には、ホント、感謝(カムサ)ハムニダ 笑)
 

八神様  投稿者:竹下義朗  投稿日:2007年 5月 4日(金)20時43分47秒
  こちらこそ御無沙汰(ごぶさた)しております。恙(つつが)なくお過ごしの様で、安堵(あんど)致しました。

>「神国の森」の掲示板「磐境(いわさか)のまつり」を再開し、コンテンツの更新をおこないました。

それはそれは喜ばしい限りです。尤(もっと)も、当方も最近は公私共に忙しく、なかなかページの更新や掲示板への投稿も満足に出来ずにおり、恐縮の日々を送っております ^^;

>竹下さまのHPで、今回の当サイトのコンテンツのコピー・引用・リンクを、これまで通り自由にしてくださってけっこうです。

何時(いつ)も乍(なが)らのご厚意に心より感謝申し上げます。
大型連休が明けましたら、発表済み最新小論に引用させて頂きたく思います m(_ _)m

それでは、今後共、宜敷(よろしく)お願い致します。
 

日本が地図から消えた!  投稿者:yf  投稿日:2007年 5月 4日(金)14時57分20秒
  韓国のトンデモオリンピック誘致、、だそうです
http://myuuta.blog32.fc2.com/blog-entry-662.html
               blog:The planet earth

親日派子孫の財産没収にも吃驚(きっきょう)したが 日本を抹消するとは、、
熊の子孫にして小汚い民族の面目躍如ですなw
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八神さん
HP再開おめでとうございます 時々訪問させていただきます
 

おひさしぶりです。更新・掲示板再開のお知らせ  投稿者:八神邦建  投稿日:2007年 5月 3日(木)13時32分25秒
  >竹下様・ご常連さま

 ご無沙汰(ぶさた)しております。初夏の緑がいよいよまぶしくなる季節です。
 このたびは、「昭和の日」の施行がなされ、まことによろこばしく感じております。
 あんまりうれしいので、「神国の森」の掲示板「磐境(いわさか)のまつり」を再開し、コンテンツの更新をおこないました。

 ご興味のある方は、ご閲覧・ご投稿ください。この喫茶室へは、投稿はご無沙汰いたしておりますが、平穏かつ地道に、質の高い投稿が、すぐれた投稿者のみなさんによって続けられているのを見て、励まされます。

更新コンテンツは下記です。

『韓国併合ニ関スル詔書』
http://www.geocities.jp/kunitama2664/heigou_syoutyoku.html
『日韓議定書』『日韓協約』『日韓併合に関する条約』『日韓基本条約』
http://www.geocities.jp/kunitama2664/heigou_kyouyaku.html
『国際聯盟脱退ノ詔書』
http://www.geocities.jp/kunitama2664/renmei_dattai.html
藤田東湖 『正気(せいき)の歌』
http://www.geocities.jp/kunitama2664/seikinouta.html

神国の森
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4669/index.html
掲示板:磐境のまつり
http://www1.ezbbs.net/33/yuniwa125/

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
 貴HPならびに喫茶室のますますのご発展をお祈りいたします。

追記です:肝心のことを忘れてました。竹下さまのHPで、今回の当サイトのコンテンツのコピー・引用・リンクを、これまで通り自由にしてくださってけっこうです。ほかにHPをお持ちの方も、八神邦建のHPからのものであることを明記してくださればリンクフリーですので、よろしければご活用ください。
 


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