Archives of the Salon's log
喫茶室 過去ログ98(2007.7.1〜7.31)

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アホな朝日新聞  投稿者:解法者  投稿日:2007年 7月30日(月)19時12分50秒
   参議院選挙に敗退した自民党の安倍首相に退陣を迫っている。
馬鹿か! だいたいから参議院は首相を選任する権限を有しない。
参議院選挙は国の政策を決定する権限は有するが、予算案も含めて権限は制約されている。
 憲法のケの字も知らない。民主党も同じアホ!
 選挙に大敗したからといって退陣を迫ることはできない。
 安倍政権を支持するかどうかは全く別問題。

 安倍総裁を解任して衆議院に辞表を出させる(総辞職)かはあくまで政権党の自由民主党にある。

 こういう馬鹿がマスコミを牛耳り、政党が国会に議員を送っている。
 

(無題)  投稿者:ウイング  投稿日:2007年 7月29日(日)22時44分31秒
  アメリカがそんなことをするなら、日本もそれに対抗すれば良いだけです。

我々は、人間と思われていませんからねぇ。

米兵が犯罪を犯せば、打ち殺せば良いだけです。

攘夷(じょうい)あるのみ。
 

解法者さんへ  投稿者:但馬  投稿日:2007年 7月29日(日)22時01分59秒
  解法者さん、ありがとうございます。そして、すみません。蕪雑なもので、つい。
では、細かく分けますが、最近知りたいことは、
1.関ケ原後、もしくは、豊臣期からの徳川家康の施策
2.豊臣期から江戸初期の外交と海外情勢
3.江戸時代全般を通した農民の実情(すでにあげていただいてますが)
4.武士の実情
5.公家法度
となりますかね。お願いします。

しかし、かなり勉強されているといわれると面映ゆいものです。あれのほとんどが講談社 山岡荘八著「随想徳川家康」の受け売りなので。
一応、この本は家康に興味をもつものとしてはとてもよい書だと思うのでみなさんにすすめておきます。小説家とはいえ、徳川家康二十六巻という大作を書いただけあって、さすがだと思います。
 

但馬さんへ  投稿者:解法者  投稿日:2007年 7月27日(金)11時57分40秒
   江戸時代といっても対象はたくさんあります。
私は李氏朝鮮との比較の意味で、徹底して江戸時代を検証してます。
 あなたの投稿文を読ませていただきましたが、家康の農民の処遇を見てもかなり勉強されていると思います。
 それに関係して「江戸時代と農民」の書籍としては、次のものが適当(入門書)と思われます。
1.貧民史観を見直す 佐藤常雄 講談社現代新書 1995年8月20日
2.百姓の江戸時代 田中圭一 ちくま新書 270 2000年11月20日

 他のジャンルを示していただければ、書籍の提示をいたします。
 

家康と江戸  投稿者:但馬  投稿日:2007年 7月26日(木)12時06分24秒
  みなさん、初めまして。
いきなり、不躾(ぶしつけ)なのですが皆さんのなかで徳川家康、江戸時代について、もしくは家康、江戸時代についての良著、良サイトに詳しい方はいらっしゃらないでしょうか?
私は、山岡荘八著「随想 徳川家康」、北島正元著「徳川家康」等で、少し詳しくなったのですが、驚くことが多いものです。「百姓(ひゃくしょう)は生きぬ様(よう)死なぬ様」の言葉で農民に辛(つら)くあたったとみられがちな彼ですが、昔の三河(みかわ)武士の家老ですら百姓暮しに近かったためなのか、農民に直訴(じきそ)を許可する、農民の理由無き切り捨てを厳禁する、農民が開墾(かいこん)した土地の年貢(ねんぐ)は八年とらず、そのあとは自らの手で年貢の受け取りをしたためる(がめついと評されたりするそうですが、これは土地の保障を含んでいる)、そして、駿府(すんぷ)領内では四公六民、三公七民の善政を行(おこな)う、と百姓に篤(あつ)かったこと、また、当時における士農工商の緻密(ちみつ)さは案外知られてないのではないでしょうか。
私は、徳富蘇峰(とくとみ-そほう)氏が明治の代を書くために織田信長から調べていること、また、福沢諭吉氏が徳川家康に東西古今、比類に値する人物なし、と認めていることから家康と江戸を調べてみたいと思うのです。
 

本当の英雄  投稿者:富士王朝  投稿日:2007年 7月21日(土)20時51分0秒
  本当の男とは星や勲章の数ではない。
鋼の肉体と鋼鉄の意志だ。
本当の英雄とは弱者の前に盾となり立ちはだかる事のできる男の事だ!
 

在日特権  投稿者:解法者  投稿日:2007年 7月18日(水)07時49分20秒
   左翼どもの大好きな「法の下の平等」(憲法第14条1項)に反するもんね!
「排外主義」とは無関係だよ。

 誰か論争しますか?
 

No! Koreaの報告  投稿者:在特会  投稿日:2007年 7月18日(水)00時51分55秒
  この掲示板で告知させていただきました、在日特権を許さない市民の会/東亜細亜問題研究会の共同開催による講演会イベント「No! Korea」を無事に終えることができました。当日、会場(定員200名)には約170名もの参加がありまして、スタッフ一同、大変感謝しております。
イベント開催から随分と時間が絶ってしまいましたが、昨日、在日特権を許さない市民の会の公式サイト
http://www.zaitokukai.com/)にイベントの様子を映した動画が公開され、来られなかった方でも会員であれば見ることができるようになりました。会員で無い方は、西村幸祐氏の基調講演しか見る事ができませんが、これを機会に会員になっていただけましたら幸いです。私ども、会員数の1万人を目指して頑張っております。現在、会員数は1750人程で、まだまだといったところです。会員数が多くなれば、私達の主張(特別永住資格の廃止)を堂々と表に出し、世論形成が可能になるのではないかと思います。まだ会員になっていない方は是非、お願いします。
最後に、竹下様、在特会へのリンクありがとうございました。私どもの活動にご理解いただきましたこと、心より感謝しております。

『在日特権を許さない市民の会』
http://www.zaitokukai.com/

 

教えてください  投稿者:解法者  投稿日:2007年 7月17日(火)22時58分16秒
 
  1. アメリカは1898年にフリッピンを米西戦争の勝利によって、スペインからフリッピンを奪い植民地にしましたが、スペインとは異なり教育を現地人に施すことを積極的に行いました。初等教育として「小学校−3年制後に4年制」とそれに続く「中間学校−3年制」がありました。これは義務教育だったのでしょうか?
  2. 植民地の学校制度に関する書籍(日本統治国を除く)があれば紹介ください。
 

(無題)  投稿者:MOND  投稿日:2007年 7月11日(水)18時42分20秒
  オロモルフ様へ
勉強になっています。今後ともよろしく手ほどきをお願いいたします。
 

朝鮮近代経済史・教育史  投稿者:解法者  投稿日:2007年 7月 9日(月)13時13分19秒
   関心のある方は下記をご覧ください。

『落葉記掲示板』
http://6018.teacup.com/byama/bbs
 

“一億玉砕”問題無し  投稿者:はる  投稿日:2007年 7月 7日(土)04時20分54秒
  >日本政府も“一億玉砕”を唱えていました。つまり、軍民の区別なく戦い抜くということです。このことも国際法上、問題ありなのでは?
と、以前、軽率にも書き込みましたが、問題が無いことが分かりました。分かっていた方々ばかりかも知れませんが、一応書いておきます。
私の認識では、軍の指揮下に入り、軍服を着用しなければ、便衣兵として扱われるのかと思い、国民全てに軍服を配布できるわけがないから、実際に本土決戦となれば、国際法違反となるかと思っていました。
しかし、それは、『ハーグ陸戦条約』の「交戦者の資格」の第1条であって、2条には、そうならない場合のことも規定されております。
以下御参照下さい。

第1条:戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される。
・部下の責任を負う指揮官が存在すること
・遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること
・公然と兵器を携帯していること
・戦争法規を遵守していること
第2条:未だ占領されていない地方の民間人が、敵軍の接近に伴い第一条を充たす(軍隊等を)編成する猶予なく応戦するために公然と兵器を携帯し、戦争法規を遵守している場合は交戦者の資格を有する。
第3条:交戦当事者は、戦闘員、非戦闘員をもって(部隊を)編成することが認められ、俘虜となった場合、双方とも等しく俘虜としての扱いを受ける権利を持つ。
 

Let’s make lots of money by AZ!  投稿者:mayu  投稿日:2007年 7月 6日(金)17時08分32秒 Remote Host: p1079-ipbfp203fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp, Time: 1183709312
  (当掲示板に相応しくない内容と判断し、管理者権限において削除)  

オロモロフさんの論考  投稿者:解法者  投稿日:2007年 7月 6日(金)16時50分6秒
   朝鮮の「前方後円墳」を勉強しています。
大変参考になります。ありがたい研究です。感謝してます。
 

オロモルフさんへ  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2007年 7月 4日(水)21時35分44秒
  オロモルフさんの連載投稿は管理者公認ですので、どうぞ、気に為されず今後もご投稿下さい。  

トンビさんへ  投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2007年 7月 4日(水)21時34分31秒
  言葉遣いには気を付けて下さい。再度同様の投稿が為された際には、無条件で投稿を削除します。  

『卑弥呼と日本書紀530』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 7月 3日(火)12時14分50秒
  [承前]

図10.20、21(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm

 図10.20(c)は図10.12と同じく末永雅雄による航空写真である。

《纒向(まきむく)京》内部における位置は、図10.6によって明確にわかる。拡大された《纒向京》の南の端にあるが、方形で示した初期の範囲からは、南の郊外にあたる土地にある。
 現在の幹線道路は墓の左側を通っているが、古代の国道である原上ツ道は、《箸墓(はしはか)》と一部重なっている。
 つまり、古代国道に接する位置に〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉の御墓が造営され、一部重なった部分の道を迂回させたのだ。
 原上ツ道が《箸墓》の前からあったのか後でできたのかはわからないが、遠方から来るのにじつに便利な場所であることは間違いない。
 また、古代の幅広い二つの河川の間の住み良い微高地にあったこともわかる。

 方角的には、前方部を逆に伸ばせば、ほぼ初瀬(はつせ)山を向くようにつくられている。
 前方後円墳の向きについては、意見がいろいろあるのだが、この《纒向京》の古墳群を眺めると、後円部の先端が北東または東北東を向いていることに気づく。
 図10.6に描かれた七つの古墳のうち四基までがそうであり、そしてその向きは初瀬山の向きである。
 勝山古墳は、それと正反対だが、前方部の先端が初瀬山を向いている。
 のこる二つの、纏向石塚古墳とホケノ山古墳は、他の五基とちょうど九十度ちがう向きにつくられている。
 このように見てくると、雑然としてみえるこれら古墳群にも、おおまかには規則性があることがわかる。
 古墳の向きは地勢によってつくりやすいように決められたという説があるが、それとともに宗教的な意味もあったのであろう。

《箸墓》の位置について、重要なことがあと二つある。
 その一つは、真東に《檜原(ひはら)神社》があることである。
 図ではすこしずれているが、かつてはわずかに北にあったらしいので、真東ということになるのだ。
『日本書紀(やまとのふみ)』によれば、《檜原神社》は〈倭迹迹日百襲姫命〉存命中に創建されているので、だとすれば、〈天照大神(あまてらすおおみかみ)〉をはじめて奉斎したこの神社の向きから朝日が昇るような位置に、〈百襲姫命〉の墓が造営されたことになる。
 二つめは、当然のことではあるが、この《箸墓》から聖山《三輪山》が間近に一望できることである。

 さらに付記するならば、西南には天香具山(あまのかぐやま)など大和(やまと)三山が望めるし、大気が澄んでいれば、とおく西の金剛山地の端の二上山も望めたであろう。
 夕日が沈む方角にあるこの山から、《箸墓》の大石が運ばれたと『日本書紀』にある。
 まさに眺望絶佳である。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が眠る《箸墓》は、《大和》の地でももっとも神聖な景観に恵まれ、交通や立地条件の良い場所に造営されたのだ。

[つづく]
 

原爆使用の是非、補足  投稿者:はる  投稿日:2007年 7月 3日(火)01時14分45秒
  少し、補足します。
現実の被爆者数と、ソ連に領有され内戦状態になった時の仮定の犠牲者数とを考慮して、どっちが多い少ないという損得で判断するのではなく、悲惨かつ甚大な犠牲者を出した原爆投下に対し、日本人として素直な憤(いきどお)りを持つべきなのだろうか?
その場合、核保有との兼ね合いはどうなるのか?
自己の中で矛盾は感じないのか?
広島・長崎は必要の無い犠牲だったから憤るのであり、抑止と報復の為の核保有については正当化できるのか?
必要ならば、使用する覚悟も持ち、その場合の犠牲者については仕方が無いこと、または当然のことと受け止められるのか?
等々の疑問です。
正直、考えがまとまりません。
 

原爆使用の是非  投稿者:はる  投稿日:2007年 7月 3日(火)00時45分47秒
  国際法に基(もと)づけば、原爆の使用は違反なのでしょうが、日本政府も“一億玉砕(ぎょくさい)”を唱えていました。つまり、軍民の区別なく戦い抜くということです。このことも国際法上、問題ありなのでは?
実際、民間人も自決するものがいましたし(多寡(たか)は知りませんが)、軍人は特攻、玉砕を繰り返していました。それでも攻撃側に対して軍民の区別を求めるのは、どうでしょう?
勝利が決まりきっている情勢で、戦死をするのはバカらしいでしょう。米軍が原爆使用に踏み切る心情も理解できなくはないと思います。まだまだ人種差別が色濃く残っていた時代ですから、尚更(なおさら)です。
被爆者には申し訳ありませんが、北日本がソ連に領有されずに本当に良かったと思っています。もし、朝鮮半島のように内戦状態になったらと思うとぞっとします。ただでさえ、明治維新で賊軍扱いされてきた東北・北海道です。ちょっと洗脳されれば、北朝鮮のように統一戦争を始めたかもしれません。その時の犠牲者数は、被爆者の数を軽く超えることでしょう。
ソ連による北日本の領有を招かずに、戦争終結に原爆の使用が必要無かったのかどうか、そこがはっきりしないことには、是非の判断ができかねます。
マスコミ等では、久間(きゅうま)発言や原爆使用に対しては非難一辺倒ですが、だとすれば日本の核保有も否定的な意見が多そうです。このサイトを閲覧されている方々は、核保有に肯定的な意見が多かったように思いますが、原爆使用の是非については、いかがお考えでしょうかでしょう?
また、核保有について、報復に使用する決意も持つのか、保有すれども行使せず、なのかもお聞きしたく。
 

『卑弥呼と日本書紀529』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 7月 2日(月)12時05分44秒
  ■■■■■ 十・十《纒向(まきむく)京》のシンボル 日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓(はしはか)》の謎1――形状と造営の経緯――■■■■■


 たんに《大和(やまと)》だけではなく、日本列島全体を見渡しても、史上初の――つまり日本最古の――「超巨大」な前方後円墳・・・それが《纒向京》のシンボルともいえる《箸墓》である。

 以下、この《箸墓》について、いくつかの項目にわけて、解説してみよう。


◆◆◆ 位置と向き ◆◆◆

 図10.6や10.12でわかるように、《箸墓》は《纒向京》を縦断する幹線道路とJR桜井線と巻向(まきむく)川に挟まれた位置にあり、その周囲は、一部が民家、多くが田畑である。
 そして北西のがわに農業用水として維持されてきたらしい大池がある。
 地図や写真の右側はもちろん山地で、《三輪山》がそびえている。

図10.6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

図10.20、21
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm

 前方部の先端に小さな突起がみえるが、これは宮内庁でつくっている拝所で、その写真を図10.20の(a)に示した。鳥居、説明板などがつくられている。守衛所もあるが、ふだんは無人である。
 宮内庁の説明板には、

「孝靈天皇皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)・大市(おおいち)墓」

 ――とある。
 説明版の拡大写真は図10.21にあるが、「大市墓」がとくに大きく書かれていて印象にのこる。

 現在の住所表示は「奈良県桜井市箸中一〇四三番地」であるが、この箸中というのは、もちろん《箸墓》から来た地名で、《箸墓》を中心とした一角である。
 昔の地名は「磯城(しき)郡大市郷(ごう)」だったらしい。
 この御陵(ごりょう/みささぎ)を北西の大池を挟んで対岸から写真に撮ると図10.20(b)のように写る。この写真は四月撮影だが、樹木が鬱蒼(うっそう)としてくる五月以降に撮ると、その雄大さが実感できる。

[つづく]
 

『卑弥呼と日本書紀528』  投稿者:オロモルフ  投稿日:2007年 7月 1日(日)13時12分16秒
  [承前]

[丙]東田大塚古墳

 これは石塚・勝山・矢塚とは別の微高地にあるが、前方部の向きは矢塚と同じである。
 後円部の直径六十四メートル、前方部の長さ三十二メートルと推定されており、全長は九十六メートルで、大きさや形状も矢塚古墳と同種である。
 どの祖型古墳も、このように、方形部の長さが円形部の直径のちょうど半分(半径と同一寸法)になっており、これも《纒向(まきむく)京》祖型古墳の特徴である。
 この東田大塚古墳にも、やはり幅二十メートルほどの周濠の跡があり、そこから土器が発見されているほか、周濠の外周部から壷型の棺(ひつぎ)が発見されている。

**********

 この節で記したのは、《纒向京》に残された五基の祖型巨大前方後円墳の考古学的調査結果であるが、古代史として興味をひくもう一つは、埋葬者は誰か――ということである。
 しかし残念ながら、これについては史料がまったく残っておらず、人物名を特定することはできない。
 ただ、《纒向京》の性格から、

「二世紀末から三世紀初にかけて没した、三輪山麓の豪族の首長もしくは成立期大和(やまと)朝廷内部の要人、または朝廷に協力した有力者」

 ――ということはいえるであろう。
 また崇神(すじん)天皇より前の天皇が埋葬されていた可能性も、まったく無いわけではないであろうが、《纒向京》の主体が大和朝廷になったのは崇神天皇の直前と思われるので、その仮説には少々無理があるだろう。

**********

 以上で祖型「巨大」前方後円墳についての概説を終わる。
 次節ではいよいよ問題の、日本最古の「超巨大」前方後円墳――《箸墓(はしはか)》――の説明をすることにしよう。


[つぎは『十・十《纒向京》のシンボル 日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎1――形状と造営の経緯――』]
 


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