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喫茶室 過去ログ140(2011.1.1〜1.31)

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在日朝鮮人のための韓国講座(685)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月31日(月)22時52分55秒
  >だから朝鮮人はいつまで経っても進化しない<

 日本名「り・ただなり」、韓国名「李忠成(イ・チュンソン)」は在日韓国人4世として東京で生まれた。小学校のころからサッカーをしていた彼の夢は、韓国代表になり太極マークが付いたユニホームを着ることだった。JリーグのFC東京U18(18歳以下)に加入、04年に韓国U19代表(19歳以下)候補になった。
 日本の中学・高校で差別を受けながらサッカーをしていた李忠成は、普段から「僕の夢は韓国代表になること」と言っていた。ところが、韓国では別の差別が待っていた。チームメートたちは韓国語が拙い李忠成を、同じ韓国人として認めなかった。チョッパリ(動物のヒズメが割れていることー下駄を履く日本人を揶揄した言葉)という言葉さえ投げかけられたという。彼の故郷は韓国ではなかったのである。それが彼を日本に帰化させた理由である。
 ところが、サッカーアジアカップの決勝戦で決勝点を挙げるやこれまでの蔑視のあったことを忘れて、韓国人の英雄だともてはやしている。

>日本サッカー代表チームが30日(韓国時間)、カタール・ドーハで行われた豪州とのアジアカップ決勝戦で延長接戦の末に1対0で勝利し、通算4度目の優勝を達成した。延長戦後半4分に左ボレーシュートで決勝ゴールを決めた李忠成(26、広島)は日本の英雄に上り詰めた。
 李忠成。在日同胞4世の彼は、韓国取材陣と会うとすぐ、「韓国語が下手ですみません」と話した。それから日本語で「私は韓国人でも日本人でもなく、サッカー選手としてここにいるだけ」と話した。完全な韓国人にも日本人にもなることができなかった彼に、祖国は“サッカー”だけということだろうか。決勝ゴールを決めた彼は両手の親指で自身の背に刻まれた“Lee”を示した。イ・チュンソンは「りただなり」という名前の日本人になったが、韓国の姓の「李氏」を守った。
 2006年、日本のオリンピック代表チームからラブコールが来た。日本チーム合流のために同年9月に帰化申請をした彼は、2007年2月に日本国籍を取得した。社会生活が不便で一時は「橋本忠成」という名前を使ったりもした彼は、帰化をしながら李氏の姓を守った。「朝鮮人」という差別にも韓国籍を守った祖父の墓の前で、「李氏の姓だけは最後まで守る」と約束したためだ。帰化申請の時は親戚らの反対がすごかった。だが、李忠成の母チョン・ユミさんは、「おまえの思いを貫け」として息子に力を与えた。<

 ここにもあるように彼は「り ただなり」である。「李 忠成」は漢字名でしかない。大体から在日4世が朝鮮人であろうはずがない。どっぷりと日本文化に浸っている。帰化するのが当然なのである。帰化申請に反対する親戚が馬鹿なのである。
 そして彼は韓国代表にはなれなかったが、日本代表になれ、英雄となった。ラモスもトゥーリオも日本人! まだ日本の方が懐が広い。「李 忠成」の本心は、ザマミロ! 韓国だったのではなかろうか。
★中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=137098&servcode=600§code=610
 

在日朝鮮人のための韓国講座(684)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月29日(土)18時51分16秒
  >馬鹿の言い訳は飛び火する<

 2011年1月25日に行われた日本とのアジアカップ準決勝で、「奇 誠庸」(キ・ソンヨン)は前半23分、PKを決めた後、中継カメラに走って行き、上唇を出しながら左手で顔をかいた。奇誠庸の行為が何を意味しているのかについて、サッカーファンの間で論議を呼んだ。ネットユーザーの多くはオンライン空間で日本人を表す時、「猿」という隠語を使う。多くのサッカーファンが「人種差別」だと批判した。

 奇誠庸は試合後、ツイッターに「観客席にある旭日旗を見る私の胸は涙が出た」と書いた。旭日旗は帝国主義日本の軍隊が使った旗だ。奇誠庸はツイッターを通して、パフォーマンスの意味を説明したようだ。旭日旗を掲げた日本応援団を非難しながら、奇誠庸の肩を持つサッカーファンもいた。しかし非難するファンのほうが多かった。また奇誠庸は「選手である前に大韓民国の国民」というコメントを載せた。
 ところが当日の試合には「旭日旗」は掲げられてなかった。

 奇誠庸も昨年(2010年)10月、スコットランドリーグのセントジョンストン戦で相手サポーターから侮辱を受けた。相手サポーターは「ウー、ウー」という猿の鳴き声で東洋人の奇誠庸を侮辱した。奇誠庸の同僚チャ・ドゥリが先にこれを知り、ツイッターで悔しさを表した。またこのコメントで内容を知った国内ファンも怒った。奇誠庸もスコットランドでは人種侮辱の被害者だったという。
 ところが皮肉のことに、「奇 誠庸」が「サルまね」は、日本人に対してという当初の説明を覆して、スコットランドでバカにした敵サポーターに向けてと発言し、今度は炎上は海を飛び越えて英国に渡ってしまった。
 奇選手は、日韓戦でゴールを決めた際に、サルまねをしたが、これを当初は「観客席の旭日旗」を見たことで「怒りを抑えられなかった」などと発言していたが、結局は「スコットランドでバカにした敵サポーターを見返すため」と説明し、英国で大炎上となった。英国営放送BBCなどでも報道されている。
 奇選手がセルティックス(中村俊輔がプレーしたことがある)に帰えると、どのような扱いを受けるのか楽しみだ。
●サッカ−での侮辱行為
 FIFAには06年10月30日に確定した人種差別関連の懲戒規定(55条)がある。FIFAが主管する大会で選手やチームスタッフ、観客が特定チームまたは選手に対して人種差別的な言動をした場合、該当チームの勝ち点を3点減点し、2度目の摘発では勝ち点6点を差し引く。3度目には大会出場を禁止する。処罰を受けたチームが属する協会は2年間制裁を受ける。FIFAが処罰規定を設定した理由は、人種差別がスポーツマンシップに背くだけでなく、国際的に許されない行為とされているからである。
★中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=137057&servcode=600§code=610
★2011年1月28日(金)20時20分配信(ゆかしメディア)
http://news.nifty.com/cs/sports/soccerdetail/yucasee-20110128-6406/1.htm
 

方法

 投稿者:無学老人  投稿日:2011年 1月29日(土)12時08分29秒
  まったく知らずに使っていました・・・

方とは四角形。法とは法律のような決まり事。
つまり四角に入れる決まり事なのですね〜
四角四面というのも在ります。

全く理解できない他人同士の意見比べを見るのもとても有意義と想いました。
なにしろ当方は古代史に無知ですから。
 

本当に勉強不足だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月27日(木)21時06分54秒
   中国の「魏」の時代に1日の歩行距離について「40里」(約18キロメートル)とする記事が見られる。同じ『三国志』魏志の明帝記に「明帝が司馬宣王を遣(つか)わして遼東の公孫淵(帯方郡を創設した公孫度(たく)の父)を討伐しようとして都の「洛陽」から「襄平城」(遼東)までの距離を四千里」としており、『晋紀』にはこのときの明帝と司馬宣王との間の問答で「往(ゆ)くに百日、攻めるに百日、還(かえ)るに百日」とある。つまり、1日の行程は40里なのである(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 105頁、『邪馬台国はここだ』奥野正男 224頁)。これを「短里」にすると<3キロメ−トル>しかならない。そんなことはないだろう。1日に<3キロメートル>じゃ戦争に勝たないよ!  

再び「短里」

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月27日(木)20時31分31秒
   『三国志』魏志倭人伝の朝鮮部分の記述は「短里」では説明がつかない。
朝鮮では「長里」、日本では「短里」のはずもないだろう。

 『関東に大王あり』 天下の<愚書> あまりに馬鹿馬鹿しくてあきれてしまった。「稲荷山(いなりやま)古墳出土鉄剣」を全く理解してない。誰一人として賛同者のいない哀れな研究者だよ。
 

蘇我氏と九州王朝の関係――『天皇記』と大化の改新の真相(1)[前半]

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月27日(木)18時36分11秒
  『天皇記(すめらみことのふみ)』という歴史書は、『日本書紀(やまとのふみ)』によると「かつて聖徳太子が持っていたが、大化の改新(乙巳(いっし)の変)で一部焼失、残ったものが天智(てんぢ)天皇(むろん、当時は中大兄皇子(なかのおおえのみこ))に献上された」とあります。

(しか)し、ここで不思議に思う人はいないでしょうか? 当時の歴史書は貴重(きちょう)なものです。それが、たった一回の政変で、一部でも内容が失われ、それが今も続いている・・・仮の歴史書は無かったのでしょうか?肝心の天智天皇が(当時なら斉明天皇でもいい)がなぜ『天皇記』を持っていないのでしょうか?

これに対して「蘇我氏は天皇だった」と主張する人がいます。竹下先生もその一人です。その理由は以下の通りです。
  1. 蘇我蝦夷(そがのえみし)の邸宅を「上(かみ)の宮門(みかど)」、子の入鹿(いるか)の邸宅を「谷(はざま)の宮門」と呼んだ。
  2. 蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
  3. 『国記(くにつふみ)』・『天皇記』と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
 <まず、1ですが、「宮門」と言う語。これは「御門(みかど)」・「帝(みかど)」とも書かれますが、意味する所は、「天皇の住む処(ところ)」すなわち「御所(ごしょ)」です。そして、2ですが、これは言わずもがなでしょう。最後の3ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が保管を許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示す物は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」又は「天皇に準じる扱い」を受けていたと言う事なのです。>「蘇我入鹿とは何者か? 「大化改新」秘史-其の壹-」

ところが、私に言わせれば「天皇に準ずる扱い」どころか「天皇を超える扱い」と言わざるを得なくなってきているのです。そこで、すでに竹下先生が述べられて以外に蘇我氏の「不審な点」について見てみましょう。
  1. 蘇我氏が歴史の表舞台に現れたのは、丁度神武(じんむ)東征以来「大和(やまと)王朝の譜代」ともいうべき地位にあった大友氏の失格の直後である。
  2. また、蘇我氏は「大和王朝の譜代」でもなかったのに一気に「大臣(おおおみ)」にまでなった。(蘇我氏と同じ系列の葛城(かつらぎ)氏はそれ以前に滅ぼされたにも拘(かかわ)らず)
  3. そして、軍事の家系でもないのに物部(もののべ)氏に勝利した。
  4. 『天皇記』を肝心の天皇家(当時は大和大王(おおきみ)家)が持っていなかった。
「3」では蘇我氏の実力が単なる豪族に留(とど)まらないことを示し、「4」では蘇我氏の権威が天皇家を超えていたことを示しています。

さて、以下の事実を総合してみましょう。「子らが親王に準じた扱いを受け」家の名前は「天皇の住む処」を指す「宮門」で「一豪族が保管を許されるようなシロモノではない」「国の歴史を記す官撰史書を保管していた」上に「軍事の家系でもないのに物部氏に勝利し」「権威が天皇家を超えていた」――こうして見ると、蘇我氏が既に「天皇を超えていた」というべきです。

次に考えてほしいのは大化の改新の起きた場所です。『日本書紀』には「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」で「改新の詔(みことのり)」が出されたとし、またその異伝(「旧本」に云うの部分)・・・実は「こんな宮殿などない!」のです。

確かに「難波京(なにわのみやこ)」の存在は、考古学その他から裏付けられていますが、それが肝心の「長柄」には無いのです。(なお、私は「難波の長柄の豊碕宮」と解釈するが、「難波の長柄の豊碕の宮」説もある。最も大意は変わらない)そして、九州にはそれにぴったりの場所が存在するのです。<続く>
 

日程を無視する理由

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月27日(木)18時24分39秒
  手っ取り早く古田氏の説を紹介する。私の説は古田氏と全く同じではないが、参考になる部分を引用することにした。私の説はまた『皇国史論』で述べ、その時に古田氏への批判もする。

『三国志魏志倭人伝』。その本に、中国の使いが帯方郡、現在の韓国ソウルの近辺だと言われているのですが、そこから出発して日本列島にやってきたことが書いてある。それは皆、部分部分の方角と里程、何里・何里と記載がずっと連なっている。一番最後にあるのが不弥(不彌 ふみ)国。その不弥国という国が最後になってまして、最後に全体の里程が書いてあります。それは一万二千余里になる。最後の「余」いう字が入っていますが、大体一万二千里になる。そのように書かれてある。ところが先ほど言いました部分部分の何里・何里を足していきますと一万二千里にならないのです。足らないのです。

 いくら足らないかと言いますと、わたしの計算では一万六百里になりまして、千四百里足らない。一万二千里から一万六百里引きますと千四百里。

  千四百里足らない。おかしい、おかしいと思って、忘れもしません三〇年昔。前に住んでいたアパートの一室で、夏の暑い時、裸みたいな感じで考えていた。
 そしたら先ほどの話ではないですが、なんと足(た)し残しがあった。
 なにかと言いますと、途中の玄界灘(なだ)。朝鮮半島から日本列島に来るときに荒波の海がございます。そこに二つ大きな島がありまして、北の方から言うと、まず対馬(つしま)。これを『倭人伝』では対海国、海に対する国と書いてあります。それが面積が書いてありまして方四百余里。つまり「方四百里」というのは正方形の一辺が、四百里。次にこんどは壱岐(いき)の島。これが一大国、一つの大きな島と書かれてある。これが「方三百里」。つまり正方形の一辺が三百里。現在の方眼紙で考えれば正方形の中に入るような島である。島自身はどうせ真四角ではないでしょうが。

 これが中国古代の数学で発明された「方法」という言葉である。「方法」という言葉は皆さんよくご存じですが、英語の method の訳と考えられている方もあるかも知れませんが、とんでもございません。ヨーロッパ文明より古く、ヨーロッパ文明がオギャーとも言わなかった時期に、中国で紀元前千年ぐらいの中で発明されたのが、この「方法」という正方形の中にものを入れて考える。土地の面積などは、ぐちゃぐちゃしていますが、それをすっぽり入る正方形の面積を考える。
 それが「方」と「法」で、正方形の「方」と法律の「法」で「方法」と呼ばれた。

 その「方法」で『倭人伝』は書いてあります。すると対海国は方四百里。一大国は方三百里と書いてある。これはあきらかにソウルあたりから日本列島 ・ 倭国へ来る途中です。そこへ寄ったと書いてあります。ところが従来はその島を、まったく里程の足し算の計算のなかに入れていなかった。

(それを入れてみますと、四倍入れる必要はない。島をぐるりと回ったら元に返ってしまいます。)
 それで半分入れてみますと、四百里と四百里で計八百里。対海国は八百里。そして三百里と三百里で計六百里。一大国は六百里。それで八百里と六百里を足しますと合計千四百里。
 わたしがない、ないと思って、開けても暮れても探し求めていた千四百里がパッと出てきた。
 わたしは喜んで、お恥ずかしいながら真っ裸に近い格好をしていたのですが、それも忘れて外回りの階段をおりて下へ。ちょうど妻が下で洗濯をしておりましたが、分かった!分かった!と跳んでいったことを覚えております。

「卑弥呼はどこで死んだか」より
 

卑弥呼の墓

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月27日(木)18時18分46秒
  どうしても墓にこだわる人がいるので、卑弥呼の墓の候補だけ言っておこう。それは「銚子塚(ちょうしづか)古墳」である。  

わかりやすく…

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月27日(木)14時52分3秒
  私のような素人が、いくら叫んでも解法者氏はまともに反論しようとしない。氏は私の説が古田武彦氏を参考にしているを知っておられるようだが、明らかに氏は古田氏の論考を読んでいない。『関東に大王あり』すら読んでいないであろうし、まして最近復刊された「古田武彦古代史コレクション」など存在すら知らないのであろう。

ここで「短里」の証明があるので読んでもらいたい。(文字化けした場合はF5をクリック)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.html
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin05/tantikus.html

あと、氏はなぜか「邪馬台国」を使うが、古田氏がその誤りをとっくの昔に論証しており、そのことは「九州王朝説」以上に有名であるから、解法者氏が知らぬはずがない。然(しか)し、念のため引用しておく。(私自身の意見については後ほど)

たゆまぬ検証の成果
 右のような二つの理路を、わたしは第一論文「邪馬壹国」の中に書いた。その末尾はつぎの句で結ばれている。
 「特にこの際銘記さるべきは次の一点であろうと思われる。すなわち、今後再び、三世紀における『邪馬臺国』の存在を前提して立論せんと欲する学的研究者には、再史料批判上、『臺』が正しく『壹』が誤である、という、必要にして十分なる論証が要請される、という一点である。」
 そしてわたしは、この昭和四十四年九月以降、いわゆる「邪馬台国」論者がいかなる対応をしめすか。それを注視したのである。
 その反応はつぎの各種の型に分れていた。
 第一の型は、一切“口を閉す”手法である。わたしの、史料批判の根本に対する問いかけを無視し、「邪馬台国」という命題があたかも今もなお「自明の真理」であるかのようにふるまう。それがいかに著名の学者のものであっても、この人々には学問的率直さが欠けている。失礼ながら、わたしにはそのように見えたのである。
 第二の型は、“邪馬臺国でなく、邪馬壹国だという説もあるが、採用しがたい。”とだけ言って、反証の論理を一切しめさぬまま“切り捨てる”やり方である。あるいは“いろいろ反対説も出ているから、わたしは採用しない。”といった抽象的な言いまわしで切り抜け、自分自身の積極的な反論を避けているものも、これに準じよう。
 思うにこれらの論者は“自分は通説側に立っている”という安心感に依拠しているのであろう。その上、“高名な自分が、こう言うのだから、明確な理由などしめさずとも、人々は信用してくれるだろう“そういう「自己の世評」の上にあぐらを欠いた筆法ではあるまいか。すでに真実に対して誠実な姿勢はどこかに置き去られている。わたしにはそのように見えた。
 なぜなら、反対理由が一切明示されていないから、わたしの方からこれに対する再反論もできぬ。すなわち“論争の中で真理を深める”この学問の大道から、みずからを敢えて遠ざけているのであるから。
 これに対して第三の型は、わたしには敬重(けいちょう)すべき人々と思えた。この人々は、わたしに対して一定の理由をしめして反論されたからである。
 わたしはその反論に聴き入り、その中に一片でも真実があれば、直(ただ)ちに従いたい、と思った。けれども、結果としては、いずれもわたしに“意外とするもの”を見出(みいだ)しがたい。そういう帰結に達するほかはなかったのである。それらを個条書きして左にしめそう。
 (一)中国の史書、宋版の各本および三国志中に“あやまりがありうる”ことをしめすことによって、わたしへの反論になる、としたもの。
 この方法は、率直に言って“わたしの立論への反証とはなりえない。”という論理的性格をもつものだ。なぜなら、いつの時代のいつの書物でも、“可謬(かびゅう)性”をもつ。それは人間の手による産物である限り、当然の原則だ。だからこそ、わたしは「臺と壹」という特定文字に対する、具体的な検証に立ち向ったのである。すなわち、わたしの調査はまさにその“可謬性の原則”そのものから出発しているのであるから。
 その上、「壹」と「臺」という特定字の検証のみによって、三国志全体はもとより、宋版全体、さらには中国の史書全体の「無謬(むびょう)性」など到底主張しうるはずはない。これは自明の真理ではあるまいか。(三国志魏志倭人伝中の「絳地(こうち)」(景初二年十二月詔書)の語について、裴松之(はい-しょうし)が「此(こ)の字、体ならず。魏朝の失に非(あらず)んば、則(すなわ)ち伝写者の誤なり。」として、“三国志文面のあやまり”について推定している。また、わたしも、宋版紹興本、三国志倭人伝の「対馬国」の「馬」は「海」(紹煕本)のあやまりと見なした)
(二)後漢書の方に明らかに「邪馬臺国」という字面がある以上、“古田の「卑字と貴字との背反(はいはん)」の論理は成立できない。”と論じたもの。この問題は、わたしの新著「失われた九州王朝」ーー以下新著と呼ぶーー (第一章II)において詳記された。後漢書の「邪馬臺国」は、范曄(はん-よう)がこの本を書いた五世紀における、倭国の国名である。この時代には、「臺」の唯一性はすでに失われていた。なぜなら、西晋滅亡の三一六年以後、中国はいわば「臺のインフレ」の時代に突入した。五胡(ごこ)十六国相競(あいきそ)って「臺」を各地に乱立させたからである。すなわち、三世紀の三国志には三世紀の道理があり、五世紀の後漢書には五世紀の道理がある。 ーーこの平明な真理をわたしは見失うことができない。この歴史的時間の誤差を安易に交錯させたこと、ここに従来説の致命的なおとし穴が存在したのであろ。
(三)『隋書(ずいしょ)』・『梁書(りょうしょ)』・『北史』・『通典』・『太平御覧(たいへいぎょらん)』等、七、八世紀以降の各種唐宋代史書類に「邪馬臺国」とあることは、三国志の原形にもそのようにあった証拠だ、という論。これは三世紀と七、八世紀との間に、五世紀の後漢書が存在することを忘れた議論ではあるまいか。三世紀の「邪馬壹国」は五世紀において「邪馬臺国」という国名へと、いわば拡大して継承された(「壹=倭」→「臺=大倭」第二書六九ページ参照)。それゆえ、七・八世紀以降の唐宋代史書類がこれ(後者)によって記録したのは当然だ。「日本の神武(じんむ)天皇」「中国の孔子」といって怪しまないように、古い名称を後代名称によって“置換”して表記する。これは中国史書でも慣例的な手法なのである(第二書七六ページ参照)。それゆえ、これもまた、何等(なんら)わたしへの反論となりえない性質の問題であるというほかない。
 以上、右の三種類の反論は、遺憾ながら、いずれも、わたしの従うところとはなりえない性格のもの、と言うほかはなかったのである。
 

それなら九州だ

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月27日(木)14時39分29秒
  >神武(じんむ)天皇は実在しているんですよ<(私)
>当たり前だよ!<(解法者氏)
それなら、なぜ邪馬壹国九州説にならないのですか?
大和(やまと)には神武天皇以来「万世(ばんせい)一系」の天皇陛下がおられたのですよ。そんなこと「当たり前」ですが…。
 

まだ出てこないぞ!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月27日(木)12時32分13秒
  >「高句麗(こうくり)伝」も短里じゃないと解釈できないぞ<
 本当に読んでいれば、直(ただ)ちに回答があるはずだが、ないところを見ていると読んでいるか疑わしいね・・・
 

当たり前だよ!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月26日(水)23時57分20秒
  >神武(じんむ)天皇は実在しているんですよ<

 「古事記(ふることふみ)」が大事といいながら、東征の時期を動かしているなどという<虚妄(きょもう)>はあなたと違って持ち合わせてない。
 

ならば

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月26日(水)13時24分5秒
  >「高句麗(こうくり)伝」も短里じゃないと解釈できないぞ<

 「帯方郡」−「狗邪(くや)韓国」までは何キロ?
 

『正統竹内文書』とホホデミ王朝

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月26日(水)12時13分58秒
  解法者氏の言うことが、一から十まで詭弁(きべん)という訳ではないが、氏の説は邪馬台国(本当は邪馬一国)からだけでは分からないので、早く神武(じんむ)東征に関する論考を書いてほしいものである。

さて、私が神武東征のところで述べた「ホホデミ王朝」であるが、以外にもそれを裏付ける文献が存在するそうである。その名を『正統竹内文書』という。(私が真っ赤な偽書(ぎしょ)と判断した『天津(あまつ)教竹内文書』ではない)この『正統竹内文書』のよれば、八代のホホデミ王朝が存在していたという。他の古史古伝は非現実的な「ウガヤフキアエズ王朝」をいっていたが、これは現実的であり、私は本物の可能性が高いと思う。
 

神武天皇は実在しているんですよ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月26日(水)12時04分46秒
  題名の通り。どうやら、解法者氏は架空説のようですので。

あと、大事なことを言っておきます。「蘇我氏と九州王朝の関係――『天皇記』と大化の改新の真相(1) 投稿者:護国運動家 投稿日:2011年 1月25日(火)15時52分50秒」は未完成のものを誤って投稿したものです。完成版は後日投稿します。ここでお詫びします。
 

詭弁じゃないか

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月26日(水)12時00分4秒
  おい、「高句麗(こうくり)伝」も短里じゃないと解釈できないぞ。ちゃんと調べろ。
>護国氏の論考はいつも根拠が示されてない。<
>『三国志』魏志倭人伝の全体を見ずに<
人をばかにするな。「倭人伝」なら全文読んでいるぞ。短里の根拠もわずかだが、挙げた。それへの批判は無いようですねえ。解法者さんみたいな「邪馬台国」と「原文改定」されているものではなくて、版本の写真付きのをちゃんと見ていますよ。
もう、解法者氏の論考は話になりませんね。いくら「頭」で考えても、その「基礎」が間違っていたら、絶対に正しく考えられません。
 

短里など絵空事だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月26日(水)11時19分50秒
   邪馬台国に関する「里」の齟齬(そご)から、『三国志』魏志倭人伝の「里」は「短里」を使ったのではなかろうかという指摘がなされている(「短里の由来」道家康之助〔『東アジアの古代文化』53号 大和書房〕、「『骨髀算経』の里単位について」〔『季刊 邪馬台国』35号 梓書院〕、『卑弥呼と台与の邪馬台王権』淵田三善 2007年8月15日 49頁)。
 これによると、1里=約76〜77メートルであり(「『骨髀算経(ママ 『周髀算経(しゅうひさんけい)』)』の里単位について」谷本茂〔『季刊 邪馬台国』33号 梓書院〕、これまでの1里=435メートルの1/5.65となり、ほぼ『三国志』魏志倭人伝の「里数」に合致することになる。ただ、どうして<短里>を使うのかの理由が示されてない。たまたまこれを使ったら自説に合う里数が見つかっただけなのである。
 これが証拠に、『三国志』魏志倭人伝には「従郡(郡より;帯方郡−現在の北朝鮮黄海北道沙里院)至倭(倭に至るに)、循海岸水行(海岸にしたがい水行し)、歴韓国(韓国をへて)、乍南乍東(たちまち南し、たちまち東し)、到其北岸狗邪韓国(その北岸、狗邪韓国へ到ること;現在の韓国慶尚南道巨済市多大浦)、七千余里」とある。つまり帯方郡の沙里院を出て海岸沿いに黄海を南下し、韓国を経由し、今度は東に向かい(朝鮮半島の西南岸沿いに進む)狗邪(くや)韓国(現在の韓国慶尚南道巨済市多大浦)までが7000里だというのである。短里でいうと約539キロメートルとなるが、実際は約970キロメートルで1/1.8である。日本だけ見て朝鮮を見てないという<近視眼的>思考が露呈するのである。結局「短里」など<ご都合主義>の何物でもない。
 また、この<里数>を基準に考える者は<水行・陸行>を全く無視することになるが、どうして無視するのかの理由が示されてない。

 護国氏の論考はいつも根拠が示されてない。これは空想で考えているに等しい。加えて、『三国志』魏志倭人伝の全体を見ずに、日本のことした見てないから「短里」などという<虚妄(きょもう)>を抱(いだ)くことになる。
 

蘇我氏と九州王朝の関係――『天皇記』と大化の改新の真相(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月25日(火)15時52分50秒
  『天皇記(すめらみことのふみ)』という歴史書は、『日本書紀(やまとのふみ)』によると「かつて聖徳太子が持っていたが、大化の改新(乙巳(いっし)の変)で一部焼失、残ったものが天智(てんぢ)天皇(むろん、当時は中大兄皇子)に献上された」とあります。

(しか)し、ここで不思議に思う人はいないでしょうか?当時の歴史書は貴重なものです。それが、たった一回の政変で、一部でも内容が失われ、それが今も続いている・・・仮の歴史書は無かったのでしょうか?肝心の天智天皇が(当時なら斉明天皇でもいい)がなぜ『天皇記』を持っていないのでしょうか?

これに対して「蘇我氏は天皇だった」と主張する人がいます。竹下先生もその一人です。その理由は以下の通りです。
  1. 蘇我蝦夷の邸宅を「上(かみ)の宮門(みかど)」、子の入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門」と呼んだ。
  2. 蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
  3. 『国記(くにつふみ)』・『天皇記』と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
 <まず、1ですが、「宮門」と言う語。これは「御門(みかど)」・「帝(みかど)」とも書かれますが、意味する所は、「天皇の住む処(ところ)」すなわち「御所(ごしょ)」です。そして、2ですが、これは言わずもがなでしょう。最後の3ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が保管を許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示す物は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」又は「天皇に準じる扱い」を受けていたと言う事なのです。>「蘇我入鹿とは何者か? 「大化改新」秘史-其の壹-」

ところが、私に言わせれば「天皇に準ずる扱い」どころか「天皇を超える扱い」と言わざるを得なくなってきているのです。そこで、すでに竹下先生が述べられて以外に蘇我氏の「不審な点」について見てみましょう。
  1. 蘇我氏が歴史の表舞台に現れたのは、丁度神武(じんむ)東征以来「大和(やまと)王朝の譜代」ともいうべき地位にあった大友氏の失格(ママ 失脚)の直後である。
  2. また、蘇我氏は「大和王朝の譜代」でもなかったのに一気に「大臣(おおおみ)」にまでなった。(蘇我氏と同じ系列の葛城(かつらぎ)氏はそれ以前に滅ぼされたにも拘(かかわ)らず)
  3. そして、軍事の家系でもないのに物部(もののべ)氏に勝利した。
  4. 『天皇記』を肝心の天皇家(当時は大和大王(おおきみ)家)が持っていなかった。
「3」では蘇我氏の実力が単なる豪族に留(とど)まらないことを示し、「4」では蘇我氏の権威が天皇家を超えていたことを示しています。

さて、以下の事実を総合してみましょう。「子らが親王に準じた扱いを受け」家の名前は「天皇の住む処」を指す「宮門」で「一豪族が保管を許されるようなシロモノではない」「国の歴史を記す官撰史書を保管していた」上に「軍事の家系でもないのに物部氏に勝利し」「権威が天皇家を超えていた」――こうして見ると、蘇我氏が既に「天皇を超えていた」というべきです。

次に考えてほしいのは大化の改新の起きた場所です。『日本書紀』には「難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)」と記していますが・・・実は「こんな宮殿などない!」のです。
 

RE短里

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月25日(火)15時13分20秒
  「倭人伝」だけではなく、「韓伝」をはじめとする『魏志』にはほとんど短里が使用されている。特に『魏志』東夷伝では完全に短里だ。
「倭人伝」の「一大(一岐)国」(壱岐説が有力)の「方三千里」なんか、どう考えても短里です。私は『魏志』の全文なんか、持っていないから「倭人伝」でしかわかりませんが、「一大国」だけが短里で「それ以外は長里」などという詭弁(きべん)を言う人はいないでしょう。

ところで、解法者氏の説は今だに未完成ですが、にもかかわらずなぜ「近畿説」なのか、神武(じんむ)天皇についてどう考えているのか、説明してください。相手の意見がわからなければ議論は難しいので。
 

短里

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月24日(月)20時47分6秒
   何? 短里があれば長里があるの? どうして短里を使うの?  

発見された『天皇記』

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月24日(月)18時21分4秒
  竹内宗達たる人物か何者か、私は知らないため現在調査中だが、とにかく江戸時代には『天皇記(すめらみことのふみ)』は存在していたのである。
この『天皇記』が九州王朝の歴史書であること、言うまでもないが、ここで重要なのは『天皇記』に「高天原(たかまのはら)とは、(中略)南藩(なんばん)諸島に住分せし民族なり。」の一文である。古田武彦氏が古代日本の風習とパラオの類似性を説いていたが、私としては高天原は古田氏の言う対馬ではなく、パラオであると思っている。それがここで裏付けされたわけである。それも、
『天皇記』という一級資料によって。
さらに『天皇記』によれば、崇神(すじん)天皇は即位前に唐津(からつ)におり、開化天皇の死後に九州王朝の支援を受けて河内(かわち)の豪族・和珥(わに)帝と争い勝利したという。之(これ)は銅鐸(どうたく)圏と大和(やまと)王朝の争いについての貴重な史料である。
いまや、引用文の形でしか残されていない『天皇記』であるが、国民が必死で探せば必ず見つかるであろう。引用文だけでも、これだけのことがわかるのであるから、『天皇記』は貴重な資料といえる。
 

和田家文書における『天皇記』

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月24日(月)17時46分27秒
  「丑寅日本記」第七“陵墓改葬之事”
 「(前略)蘇我氏の陵墓を掘り荒したるは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)にて、八十日を土民を徴してあばきたり。即(すなわ)ち、天皇記(すめらみことのふみ)の焼けざるを船史恵尺(ふねのふひとえさか)の報に依れる捜掘なり。終にして天皇記、国記(くにつふみ)、ら文書なきが故(ゆえ)に、蘇我蝦夷(そがのえみし)、自刃(じじん)にして住居をるときにぞ焼失しけると思いきや、事の兆(きざし)を察せる蝦夷、加之書(かのしょ)を高賀茂(たかがも)の公麿(きみまろ)に秘蔵を頼みけるに、是(これ)を豊田郷(とよだのさと)の荒覇吐社(あらはばきのやしろ)に秘蔵せしを、世々(よよ)に降(くだ)りて平将門(たいらのまさかど)、此(こ)の社(やしろ)を神皇社(しんのうしゃ)とて祀(まつ)りき。天慶(てんぎょう)の乱に討死(うちじに)し、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の菅領(かんれい;管領)と相成(あいな)りき。依(より)て、此の社を取潰(とりつぶし)にせしとき、はからずもこの書管の入(い)りたるを知らず、将門の遺品とて秋田生保内(おぼない)に住むる将門息女楓姫(かえでひめ)に届けたり。楓もまた是を見届けず、そのままにして東日流(つがる)石塔山に奉寄せるものなり。天皇記は是(か)くして奉寄されたるものなり。
     寛政五年八月一日
          和田長三郎吉次」

「丑寅日本記」第七“天皇記、国記、之抄”
 「(天皇記)倭国第一世之天皇以宗国(支那国之事)武帝之永初二年二月十日為倭国之応神天皇還難波之津都宮云々。
 (国記)夫倭之国異丑寅之日本国其領界坂東之阿毎川東海水戸越之糸魚川西海水戸横断東北堺西南堺相裂堺在是可云々。
 即ち、天皇記とは、蘇我氏に公蔵されし、天皇秘書なり。国記また然(しか)りなり。然るに、由(よし)ありて、平将門の手に入りて、豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし将門の遺姫(いき)に届けしものと曰ふ(いう)。大巻の書なり。
    文正丙戌年二月七日
             竹内宗達

 追而(おって) 天皇記は東日流の石塔山に平楓姫(たいらのかえでひめ)奉寄せりと曰ふ。余、是(これ)を写したるものなり。
 右、追而如件(くだんのごとし)。       宗達」

「丑寅日本記第七」“石塔山古書目録”
 天皇記 十二巻 秘巻
 国記  十二巻 秘巻
 和珥記 一巻 全
 葛城記 一巻 全
 大臣蘇我記 二巻
 大連物部記 二巻
 伊理王記 一巻 全
 奴王記  一巻 全
 平群氏系録 一巻 全
 阿毎王記  二十七巻
 壬申之乱始末 一巻 全
 巨勢王記  一巻 全
 大根子王記 一巻 全
 紀氏代系記 一巻 全
 大伴氏記  一巻 全
 天神地神記 八巻
 多利思比孤記 一巻 全
 磐井王記  一巻 全
 薩陽王記  一巻 全
 隼人王記  一巻 全
 阿輩?彌記 一巻 全
 佐怒王記  一巻 全
 安日長髄彦王記 三巻
 春日王記  一巻 全
 倭王旧事記 二巻
 天皇旧事記 二巻
 皇統審議記 一巻 全
  右之通蔵書在是候
   文正丙戌年二月七日
        竹内宗達

「丑寅日本史総解」“荒覇吐要源抄”
 「日本国之国、坂東(ばんどう)より丑寅(うしとら)を曰ふ(いう)
 人跡十万年乃至(ないし)十五万年の古歴に在(あ)りて、古来よりアラハバキイシカホリガコカムイを信仰す。国土、国民、能(よ)く治(おさ)まりて、七族併合し、亦(また)、信仰も一統にして、更に西南へ皆、人相捗(はかど)りぬ。依(より)て、坂東より西を倭国と称し、その国主ぞ耶靡堆(やまたい)王阿毎(あめ)氏とせり。
 今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫(ちくし)にその実耕を相果(あいはた)したりきも、筑紫にては、南藩(なんばん)民、航着し、筑紫を掌握せり。
 天皇記に曰(いわ)く一行に記述ありきは、高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇(たか)し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻(おおあさ)を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
 高砂(たかさご)(注一)と曰ふ(いう)も、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ(いう)支那仙霞嶺麓(せんかれいろく)、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ(いう)
 筑紫の日向(ひむか/ひゅうが)に猿田王一族と併(あわ)せて勢(いきおい)をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼(か)の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以(もっ)て造(つく)りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀(はか)れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚(さと)る故(ゆえ)に、地民をその智覚を以て惑(まどわ)しぬ。例へ(たとえ)ば、天岩戸(あまのいわと)の神話の如(ごと)し。
 当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒(さぬ)と称し、耶靡堆王阿毎(あめ)氏を東征に起(おき)ぬと曰ふ(いう)は、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふ(いう)なり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光(きたばたけ-あきみつ)

「丑寅日本記 第七」“丑寅日本国史抄”
 「倭国の天皇記に曰(いわ)く。唐津(からつ;注二)より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて、兵を遣(つかわ)して敗(やぶる)るが故(ゆえ)に、河内(かわち)王和珥(わに)帝と和睦(わぼく)せんとせるも、和珥帝、元より膽駒(いこま)王富雄郷之長髓彦(とみおのさとのながすねひこ)系なりせば、春日穂無智別(かすがのほむちわけ)を遣して崇神天皇を討伐せり。
 和珥帝に縁(よ)れるは、宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏、ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相争ふ(あいあらそう)たり。
 崇神天皇に加勢せるは、葛城(かつらぎ)王にて、日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井(いわい)氏に滅亡さるまま崩滅せる後を猿田氏が地配せり。是また薩陽王、隼人(はやと)王、併軍押領(おうりょう)に屈したり。
 筑紫にては熊襲(くまそ)王、邪馬壹王と併せて奴(な)国王を亡(ほろぼ)し、茲(ここ)に立国せり。崇神天皇とは伊裡(いり)王の事なり。天皇系にして、景行(けいこう)天皇、倭武(やまとたける)、神功(じんぐう)皇后、ぞ実在せざるとぞ、天皇記に記述ありき。
   文正丙戌年二月七日
     船史恵尺之流胤 竹内宗達」

「丑寅日本記 第十一」“丑寅日本国実史”
「丑寅日本国を君主とて統治せしは安日彦(あびひこ)王なり。安日彦王の祖系累代は安倍(あべ)(注三)にして、耶靡堆彦王を遠祖(おんそ)と為(な)し、爾来(じらい)、多利思比孤(たりしひこ;足彦)を祖と世代せる加賀犀川(さいがわ)の三輪山に分住(わけす)みの系あり。亦(また)、山住の阿輩雞彌(おほきみ)は白山(はくさん)にありて越(こし)に移り立山(たてやま)を領す。亦、宗主(そうしゅ)の系は東国(とうごく)に移り、富士山を領と加へ(くわえ)てより安倍氏と改姓し、更に丑寅の地を開き、坂東(ばんどう)より北の領を日本国(ひのもとのくに)と号(なづ)けたり。
 安倍氏の代に地豪の王を併せて耶馬臺五畿の五王を連立せしめ国治(おさ)むれば、世に是(これ)を耶馬臺五畿王と号されたり。
 筑紫に賊起り、その王を佐怒と曰ふ(いう)。日向王となりて筑紫を討伐せしめ、更に山陰、山陽、南海道、内海諸島、をも掌握したり。地王たるは出雲(いずも)王、筑紫王、猿田彦王、ら県主(あがたぬし)、邑王(ゆうおう)、らを併せて国ゆずりとす。
 高嶋に王城し、耶靡堆を攻(せ)むる事八年、遂にして略す。依(より)て、時の王、安日彦王及びその舎弟(しゃてい)富長髓彦(とみのながすねひこ)ら、地領の民ら大挙して東国に降(くだ)りて、更に丑寅に落北せり。
 国末の東日流(つがる)に豊葦原(とよあしはら)を拓(ひら)き、晋の流民(るみん)群公子一族、及び地民の阿蘇辺(あそべ)族、津保化(つぼけ)族、麁族(そぞく/あらのやから)、熟族(じゅくぞく/にぎのやから)、らと併せ、漁撈(ぎょろう)、稲作、馬飼(まかい)、犬飼(いぬかい)、鶏飼(とりかい)、牛飼(うしかい)、杣(そま)、狩猟の民と一統し、茲(ここ)に、荒覇吐(あらはばき)王国を建国し、その一世なる王とて安日彦王を即位せしむ。その補王とては富長髓彦を従へ(したがえ)て、茲に日本国(ひのもとのくに)と号し、東西南北に補王を置き、更に隔(へだ)つる間に県主、郡主(こおりぬし)、邑長(むらおさ)、郷長(さとおさ)を定めたる国治をなせり。
 代々に東日流、世禰志呂(よみしろ)、糟部(かすべ)、飽田(あきた)、仙北(せんぼく)、瀧澤(たきざわ)、和賀(わが)、衣川(ころもがわ)、迫(さこ)大野、桃生(ものう)大野、名鳥大野、砂瀉平(すなだかだいら)、白根大野、会津平、坂東豊葦原、へと拓きて、国栄ふ(さかう)日本瑞穂国(ひのもとみずほのくに)と相成(あいな)れり。東西北なる海幸(うみさち)、山幸(やまさち)、もまた民富(たみと)める国と相成りてより、安東国亦(また)は日高見国(ひだかみのくに)とも語部(かたりべ)録に国号を遺(のこ)しむ。
   寛政五年九月二日  秋田孝季(たかすえ)


一、台湾ではなく寧波。
二、原文韓国ともあり。
三、原文阿毎氏ともあり。
 

古田史観の功績と問題点(1)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月24日(月)17時27分46秒
  古田史観(古田史学)は親鸞(しんらん)をはじめとする日本思想史学の一部門として始まった。
その後、古田史観により従来絶対的な事実とされてきた「邪馬台国」の国号が『魏志』にないことを指摘、原文改定によるこれまでの定説を否定して「邪馬壹国九州説」を主張したことは著名である。
さらに、これまで絶対視されてきた「広開土王碑(好太王碑)改竄(かいざん)説」に対し勇敢に反論されて、中国政府に対し日本の学者に対して開放するように要求(北朝鮮の学者に対しては、頭皮文を中国は早くから公開していた)その数年後、自ら日本人として初めてその碑文を観察し、改竄説の非を自ら確かめていた。(もっとも、いまでも一部の気違い韓国人は改竄説を主張しているそうだが)
そして、近年になると『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』をはじめとする「和田家文書」の「真書」であることを論証した。これにより、(ほんの一断片であるものの)『天皇記(すめらみことのふみ)』の内容が明らかとなった。つまり、少なくとも江戸時代までには『天皇記』が存在していたことが明らかとなったのである。
然し、その古田史観には根本的な問題もあった。津田史観と同じ立場に古田氏はたったのである。
 

どうしても近畿じゃないといけないようですね

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月24日(月)16時46分0秒
  解法者氏は「九州説は信仰に近いもの」と嘯(うそぶ)いてまで近畿説にもっていきたいようですね。それは学問じゃありませんよ。単なる津田史学の信者です。
政治学については「なるほど」と思える意見もありましたが、歴史学については詭弁(きべん)の連続、気違いの作品ですよ。どうやら、氏は神武(じんむ)天皇架空説のようですね。『古事記(ふることふみ)』を信用して邪馬台国近畿説になるはずがない、というのは自明の道理です。
 

だいたい、倭人氏は何も考えていませんよ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月24日(月)14時51分38秒
  里程問題等で、私も考えてきたんですが、どうやら倭人氏は、熊本県出身ではないか、と。人間の理性において、邪馬壹国が福岡県にあることは疑えないですからね。
もっとも、所謂(いわゆる)「邪馬台国」ではなく、「邪馬壹国」と原文通りの表記にしていることは評価出来ますね。解法者氏なんか、自ら「試論」と謙遜(けんそん)されているのだから、なおさら原文に忠実じゃないといけない。なのに、「邪馬台国」で「位置は近畿」とは。
「試論」しか建てられない人間が、「近畿説絶対化」をするな!失礼、然(しか)し「初めに近畿ありき」だと単なるカルトですよ。ここで「卑弥呼の墓は箸墓(はしはか)古墳」などと言い出したらやはり「津田史学信者」となりますね。箸墓古墳はどう考えても、倭襲百姫(ママ;倭迹迹日百襲姫 やまとととひももそひめのみこと)の墓ですから。
江戸末期から明治初期まで、「邪馬台国も倭の五王も九州」というのは、本居(もとおり)史学の通説だったといってよい。「邪馬壹国は邪馬薹国の誤りにして、倭の五王は天皇陛下のことである」とする松下史学はむしろ、少数派。それが、明治中期に逆転して、津田史学につながるのだから、全くとんでもない話だ。
 

短里を無視するな!

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月24日(月)14時34分56秒
  当時は短里が使われていたんですよ!そんなことも知らないんですか!  

そうか、でもね

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月24日(月)06時34分8秒
  >【 邪馬壹國 】は、博多湾から千三百里南に行った地点に有ります<(倭人さん)

 なるほど! <水行・陸行>を無視して<里数>のみで論じてるんだ。つまり「自郡(帯方郡)至女王国万二千余里(帯方郡より女王国に至ること一万二千余里)」を基本に計算しているわけね。
 それでも当時(「魏」・「晋」)の1里は435メートルとされていたから、1,300里=565キロくらいとなるから、九州から飛び出してしまうよ。
 それとも里を別の計算をするのかな? ならば根拠というものが必要だろうね。

 でもどうして<水行・陸行>を無視するのかを説明してもらわないと単なる<虚妄(きょもう)>になってしまわないか?
 

これも無理!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月23日(日)16時00分3秒
  >さて、邪馬壹国の「水行十日・陸行一月」は「邪馬壹国内の日程」である。また、之は「水行十日又は陸行一月」と解釈すべきであって、若(も)し「水行十日の後に陸行一月」なら「後に」に当たる動詞が必要である。<
 若し「水行十日又は陸行一月」と解釈すべきなら「亦(又)」に当たる助詞が必要である。
 これについては後述で詳しく説明しますが、常識的にみても誤りということがわからないようでは<国語力>が0ということ。
 

そうじゃないんだが

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月23日(日)13時04分5秒
  >詭弁(きべん)だらけの倭人氏の説<

 そう決め付けるのは早いんじゃないか? 何しろ自分の頭で考えた人を尊重しないとね!
 

正統竹内文書

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 1月23日(日)12時24分12秒
  私は「真書」と認めます。  

降参宣言

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月23日(日)12時20分45秒
  竹下先生の「航空機支援艦」及び「原子力潜水艦」に関する議論について降参宣言をします。  

倭人氏の説

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月23日(日)12時19分4秒
  こんな音当てだらけじゃ、近畿説と同じじゃないか。九州説なら、科学的に。  

その通り!

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月23日(日)12時01分46秒
  さすが、解法者氏、詭弁(きべん)だらけの倭人氏の説の急所を見事につかれた!その通りである。  

水行十日・陸行一月

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月23日(日)12時00分6秒
  皇国史論で述べる予定だが、「投馬国」及び「奴(な)国」の里程記事は傍線行低と考えられる。
従って、里程記事は「不弥(ふみ)国」止まりとなる。(だいたい、「投馬国」自体が里程ではなく日程である)「郡より倭に至る、一万二千里」とあるから、魏の使者が通ったところは里程で表わされている。
議の使者は「邪馬壹国」より東南四千里の「侏儒(しゅじゅ)國」に行ったが、それより後の里程記事も、ない。

傍線
奴国  伊都国の東南、百里
投馬国 不弥国の南、水行十日
四至
狗奴(くな)國 邪馬壹国の南(実際には東)
東倭種 邪馬壹国の東、百里
侏儒國 邪馬壱国の東南、四百里
黒歯(こくし)国等東南船行一年

さて、邪馬壹国の「水行十日・陸行一月」は「邪馬壹国内の日程」である。また、之は「水行十日又は陸行一月」と解釈すべきであって、若(も)し「水行十日の後に陸行一月」なら「後に」に当たる動詞が必要である。

不弥国から「水行十日・陸行一月」の範囲の全てが「邪馬壹国」であるから、邪馬壹国は福岡県から大分県、佐賀県を含む膨大な領域となる。(解釈によっては宮崎県を含むかもしれない)
 

無理!無理!

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月23日(日)11時57分56秒
   倭人さんの考えによると「投馬国」は現在の久留米(くるめ)市の付近となる。出発点の「不弥(ふみ)国」が大宰府(だざいふ)の付近となろうからここから水行20日もかかるわけがない。せいぜい水行3日だろう。
 また「邪馬台国」は熊本平野というから、これまた出発点の「投馬国」から水行10日・陸行1月もかかるわけがない。これもせいぜい水行3日だろう。
 

水行・陸行

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月22日(土)23時48分28秒
   水行も陸行も1日あたりの距離は同じで40里(17キロ〜18キロ)です。「不弥(ふみ)国」から「投馬国」(水行20日)、「邪馬台国」(水行10日・陸行1月)ですから、「投馬国」はともかく「邪馬台国」が九州にあったとするのは<無理>でしょうね。  

有難うございました

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月22日(土)22時12分30秒
  ご返答、有り難(がと)うございました。これで竹下先生の立場がわかりました。有難うございます。  

竹内文書の件に付いて

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 1月22日(土)21時25分28秒
  同じく、皇国の護国運動家さん

本件に付いても私からの反論は本投稿のみとさせて頂きます。

竹内巨麿(きよまろ/おおまろ)が世に出した『竹内文書(もんじょ)』(古文書並びに神宝類の総称)の内容が百パーセント全て正しい等とは私自身思っていません。実際、「正統竹内文書伝承者」と称す竹内睦泰(むつひろ)氏は、巨麿が『竹内文書』として世に発表した際、意図的に嘘=偽情報(流行の言い方ではディスインフォメーション)を含まされたと言っていますし、私もそうだったと考えています。

「モーセの十戒石(じゅっかいせき)」に付いては私も懐疑的ですが、一を以(もっ)て十を否定する事には賛同出来ません。又、九州王朝に関する記述が無い事も偽書の証拠と言うのは如何(いかが)なものでしょう? それならば、記紀や六国史(りっこくし)その他多くの史書も偽書と言う事になります。

私は、記紀等の官製史書の記述全てが真実だとは考えていませんが、だからと言ってその反対である共考えていません。

世に「偽書」の烙印(らくいん)を押されているものの中にも、真実(逆の意味でのディスインフォメーション)は少なからず含まれているものですし、「正史」で全てを語れる程(ほど)、歴史と言うものは単純ではありません。
 

空母の件に付いて

 投稿者:竹下義朗  投稿日:2011年 1月22日(土)20時51分59秒
  皇国の護国運動家さん

私の小論に対する反論を読ませて頂きました。確かに仰有(おっしゃ)る事は痛い程(ほど)分かるのですが、それを承知の上で私からも反論させて頂きます。尚、多忙な身ゆえ、本件に関する私からの反論は本投稿のみとさせて頂きます。

現行憲法との絡みから「攻撃的」兵器たる空母の保有は不可能とのご指摘に付いてですが、それならば、抑(そもそ)も「自衛隊」の保有自体が不可能になるのではありませんか?

私が「航空母艦」を「航空機支援艦」と呼んでは如何(どう)か?と提案した事に付いて、呼称を誤魔化(ごまか)しても無駄との論理ですが、それならば、日本以外の諸国が孰(いず)れも「日本国軍隊」と認識している「日本国自衛隊」は、憲法9条に於いて保持が認められていない「陸海空軍その他の戦力」である以上、即刻廃棄せねばならなくなりますよ。然(しか)し、事実上の日本軍である自衛隊は今この時も厳然と存在し、日本の国防を担(にな)っていますし、国民の大多数もその事を是としています。

又、海自の空母のみが問題ではありません。おおすみ型輸送艦は「ドック揚陸艦」ですし、空自が保有する「支援戦闘機」を、他国では「戦闘攻撃機」と呼んでいます。空母の様な「攻撃的」兵器の保有が無理でしたら、同じく「攻撃的」兵器である支援戦闘機の保有の事実は如何(どう)解釈すれば良いのでしょう?

又、日米安保の絡みからも日本の空母保有は不可能との事ですが、その辺りは政治家が上手(うま)く立ち回り、米国の急所(痛い所)を押さえさえすれば、それ程難しいとは思いませんし、純国産空母がどうしても無理ならば、日米共同開発の空母(試験艦)の建造から初めても良いと思っています。

尚、私は原潜の保有に付いては反対です。原潜は動力機関に原子炉を用いているので作戦行動時間でプラスですが、デメリットは「音がうるさい」事です。海底の忍者である潜水艦にとって、最大の課題は静粛性です。上空を飛ぶ哨戒機が投下するソノブイにしろ、艦艇のソナーにしろ、それらに音を拾われ探知される事は避けねばなりませんが、その点では、原潜よりもディーゼル型潜水艦の方が有利です。又、近年続々と就役している日本の潜水艦は依然としてディーゼル型ながら、他国に一歩もひけをとらない優秀艦揃(ぞろ)いです。原子炉内蔵故(ゆえ)の取り扱いのシビアさや退役(たいえき)後の処理(核廃棄物等々)で頭を悩ます事も考慮すれば、ディーゼル型でも充分だと私は考えます。
 

『魏志』解釈の諸問題

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月22日(土)15時52分27秒
  @『後漢書』と矛盾

【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】
( 訳 ) 建武中元二年 ( 57年 )
_ _ _ _ 倭奴國の使者 自称大夫(たいふ)が貢物(くもつ)を捧げて朝賀におよぶ
_ _ _ _ 倭奴國は倭國の最南端に在るという

【 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 】
( 訳 ) その南に狗奴(くな)國が有る
_ _ _ _ 男性の王が治め、女王には属せず
_ _ _ _ その官を狗古智卑狗(くこちひく;「菊池彦(きくちひこ)」との説有り)と言う

倭國とは【 倭人の集落 】という意味です。

また倭奴國とは【 倭 ( ヤマト ) 奴 ( の ) 人の集落 】という意味です。

倭奴國とは魏志倭人伝の【 邪馬壹國 】と考えて間違いないでしょう。

【 世有王 皆統屬女王國 】
( 訳 ) 伊都國には代々王が治めていた、皆女王國に統属す

この文章によれば【 邪馬壹國 】が倭國全体を治めていたことになります。

そして後漢書に倭奴國 ( 邪馬壹國 ) は最南端に在ると記載されていますが、魏志倭人伝では、邪馬壹國の南に更に【 狗奴國 】が在るとなっています。

つまり【 邪馬壹國 】は倭國の最南端では無くなっています。

この理由は【 狗奴國 】が亡命政府である可能性を示しています。

卑弥呼以前は男性の王が 70〜80年治めたとあります。

おそらく女王の共立によって、男性の王は逃亡し人吉(ひとよし)あるいは八代(やつしろ)付近に亡命政府を樹立したものと思われます。

〜〜┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜┣━━━━━━━━━━━━━┫〜〜
〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛〜〜
〜↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃〜〜〜
〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛〜〜〜
〜↓┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛〜〜〜〜〜〜
〜↓┃∵┏━━━┛┌┤〜┏┓〜〜〜〜〜
〜↓┗━┛┌→→→┘↓〜┃┃〜〜〜〜〜
〜└→→→┘〜〜〜〜↓┏┛┃〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜對馬國├@┏┛〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜一大國├A┛壱岐〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜┏━┓〜┏━━
〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓↓┏┛∵┗━┛E∵
〜〜〜〜┏━━━┛∵↓∵∵∵∵∵/↓∵
〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵B→→C→D∵不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊∵奴∵彌∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都∵國∵國∵
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓∵
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南∵
∵┏┛〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵至∵
┏┛〜〜〜┗┓∵∵┌←←投馬國F←┘∵
┃〜〜〜〜〜┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜有明〜〜┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃〜〜〜〜〜┃▲∵└→→→→→G∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國
┃〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵◎狗奴國 ( 亡命政府 ) ∵
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A【 邪馬 】は【 山 】

【 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 】
( 訳 ) 中国で化粧をするように、倭人は身体に朱丹を塗る

朱とは【 水銀朱 】そして丹とは【 ベンガラ 】と思われます。

【 水銀朱 】は自然界には希少で、倭人が日常使用していたのは【 ベンガラ 】と思われます。

【 其山有丹 】
( 訳 ) その山では、丹 ( ベンガラ ) を産出する

ここに記されている【 其山 】とは、其餘の 21國の一つ【 邪馬國 】と思われます。

熊本県菊池郡大津町から清正公道を進めば二重の峠 ( 阿蘇の外輪 ) に差し掛かります。

この峠を下れば【 肥後赤水 】に到着します。

この赤水から大量の【 阿蘇黄土 】が出土しますが、これを焼くと【 ベンカラ 】になります。

その山の【 丹 】とは、このことだと思います。

【 邪馬壹 ( ヤマト )】の名称は、この山の入り口に有ることから生まれたと想像しています。

つまりヤマトとは【 山戸 】だと思っています。

赤水・内牧の湯水は鉄分が多く、古代から沸き出し続けています。

その濃度は白いタオルを一週間もせずに赤く染めてしまうほどです。

おそらく【 ベンガラ 】は邪馬壹の貴重な収入源だったと思われます。

北部九州の甕棺(かめかん)からは、大量の水銀朱とベンガラが発見されています。

赤水から採取された【 阿蘇黄土 】から抽出したものと思われます。

また 21國の中に【 蘇奴國 】が記載されていますが【 園 ( その ) 國 】と思われます。

園とは、周囲を何かに囲われている【 特定の地域 】を指しますが、おそらく外輪山に囲われた阿蘇の盆地を指すものと思われます。

阿蘇は世界最大の複式 ( カルデラ ) 火山ですが、中央に阿蘇の五岳が走り、阿蘇谷を二分しています。

やはり 21國の中に【 對蘇國 】とありますが、【 對馬國 】を連想します。

【 對馬國 】は対馬上島(つしまかみじま)と対馬下島(しもじま)が対(つい)になっている事から命名されたと思いますが、【 對蘇國 】も阿蘇谷を二分している五岳の南側の、南阿蘇を【 對蘇國 】、そして他方を【 蘇奴國 】と命名したと思われます。

このほかに【 躬臣國 ( クジュン國 )】は久住地方に比定したいと思っています。


∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵∵∵∵
┓∵∵∵┌─水行十日─投馬國◎久留米∵
〜筑後川┼──────────────
〜┗┓∵◎八女∵∵妻∵∵∵∵∵∵∵∵森
〜〜┗┓◎柳川∵森森森【 耳成山地 】森
〜有〜┃南∵∵森森森森森森森森森森森森
〜明〜┃至森森森森森森森森森森森森森森
〜海〜┃↓∵森森森森森森森森森森森森森
〜〜〜┃陸∵∵森森森森森森森森森森森森
〜〜〜┃行∵熊∵森森森森森森森森森森▲
〜〜〜┃一∵本∵∵森森森森森森森森久住
〜有〜┃月∵平∵∵森森森森∵∵∵森森森
〜明〜┃↓∵野∵∵森森森∵∵∵∵∵∵森
〜海〜┃↓∵∵∵∵┌─⇒◎赤水∵∵阿蘇
〜〜〜┃↓∵∵∵都◎∵森▲▲▲▲▲五岳
〜〜〜┃邪馬壹國∵│∵森∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃◎熊本市─┘∵森森∵∵∵森森森
〜〜┏┛∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
〜〜┃∵∵∵森森森森森森森森森森森森森
〜〜球磨川───────────森森森
〜〜┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森森
〜〜┃∵狗奴國∵森森森森森森森森森森森
〜〜┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
〜〜┃八代平野∵森森森森森森森森森森
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B【 裸・黒齒國 】の倭人

【 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 】

女王國の東に裸國 黒齒國が有り船行一年で至ると記載されています。

【 裸 】は【 ラ 】と読み、現在の【 奈良 】と思われます。

また【 黒齒 】は【 カチ 】と読み、現在の【 河内(かわち) 】と思われます。

私たちは【 黒 】を【 コク 】と読みますが、魏志倭人伝に記載されている【 黒 】とは全く異なる文字です。

私たちが知っている【 黒 】の源字は【  】ですが、上の二つの点を横【 一 】につなげたことから生じた文字です。

一方、魏志倭人伝に見える【 黒 】は、【 里 】を形声文字化したものです。

【 里 】は本来住居を意味する文字でしたが、これに【 火 ( カ )】を表す声符を加えて【 黒 】の文字を作ったのです。

したがって【 黒 】の上の部分 ( 里 ) は義符 ( 文字の意味 ) を表し、下の四つの点 ( ,,,, ) は声符ですから、読みを表すだけで意味はありません。

したがって倭人伝に記載されている【 黒 】は【 カ 】と読みます。

そして【 齒 】を私たちは【 キ 】と読みますが、中国では【 チ 】と読みます。

したがって【 黒齒 】は【 カチ 】と読みます。

魏志倭人伝は言うまでも無く【 倭人 】について述べられたものです。

したがって【 倭人 】以外が住む國では、どういった種族が住むか全て記載されています。

たとえば狗邪國の場合は【 韓 】、女王國の東の國の場合は【 倭種 】、そして侏儒國の場合は【 人長三四尺 】などと記載されています。

ところが【 裸・黒齒國 】については何も記載されていません。

種族の記載が無いと言うことは、この國の人々は【 倭人 】と言う事になります。

それにもう一國種族の記載されていない國があります。

それは【 狗奴國 】ですが、この國も倭人が住むと理解されます。

**********

以下は、倭の 30國です。

【 女王國以北の國々 】
1 對馬國 . . . 5 奴國
2 一大國 . . . 6 不彌國
3 末盧國 . . . 7 投馬國
4 伊都國 . . . 8 邪馬壹國

【 其餘 ( 上記 8國以外の女王支配 ) の 21 國 】
9 斯馬國
10 已百支國 . 20 華奴蘇奴國
11 伊邪國 . . . 21 鬼國
12 都支國 . . . 22 爲吾國
13 彌奴國 . . . 23 鬼奴國
14 好古都國 . 24 邪馬國
15 不呼國 . . . 25 躬臣國
16 姐奴國 . . . 26 巴利國
17 對蘇國 . . . 27 支惟國
18 蘇奴國 . . . 28 烏奴國
19 呼邑國 . . . 29 奴國

【 旁 ( そのほか ) 國 】
30 狗奴國
**********

この他に【 裸・黒齒國 】を加えると 32國になり、【 今使譯所通三十國 】と合わなくなってしまいます。

したがって【 裸・黒齒國 】は女王、邪馬壹國の直轄領と見なされます。

つまり【 裸・黒齒國 】は邪馬壹國で、後の【 大和(やまと) 】につながるものと思われます。
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C熊本平野の理由

熊本平野に邪馬台国 ( 邪馬壹國 ) を決定した理由を説明します。

  1. 不彌國からの道里

    不彌國から邪馬壹國までの道里は 1,300里ですが、現在の距離にして約 180kmです。

    博多湾から南に向かって 180km進めば、熊本平野にたどり着きます。

  2. 戸数からの推測

    奴國の【 二萬餘戸 】の南に投馬國の【 五萬餘戸 】が在り、更にその南に邪馬壹國の【 七萬餘戸 】が在ると記載されています。

    奴國の耕作地を福岡平野全域とした場合、投馬國は【 福岡平野の 2.5倍 】そして邪馬壹國は【 福岡平野の 3.5倍 】になります。

    福岡平野の南に在りしかも三つもの連続した平野となれば、筑後平野そして熊本平野以外には見当たりません。

  3. 鐵鏃の出土

    福岡平野・筑後平野・熊本平野から弥生時代の、大量の鉄のヤジリが出土しています。

    これはこの地域で激しい抗争が行われたことを物語っています。

    弥生時代の鉄は大変な貴重品ですから、使えなくなったとしても土器のように捨てたりはしません。

    溶かして再利用したと考えます。

    熊本平野では弥生時代の目覚しい発見は有りませんが、そうした地域から何故これ程の鉄のヤジリが出土するのでしょう。

    弥生時代の戦闘は接近戦ですから、当然その周辺に巨大な権力が有ったと想像されます。

    全くそうした遺跡等が出土しないということは、かつて在った権力や文明が他に移動して行ったと考えられます。

    【 鐵鏃(てつぞく) 】の出土は、その周辺を支配していた権力の残骸といえます。

  4. 大津町は最東南端に在る

    後漢書倭人伝には、次の文章が記載されています。

    【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】

    この文章によれば【 倭奴國は倭國の極南界也 】とあります。

    当時の方位は、反時計回りに 45度のずれがあります。

    したがってここに記された方位、南は東南になります。

    福岡平野・筑後平野・熊本平野の最東南端は熊本県大津町になります。

    大津町の東南は九州山地となり、集落をつくれるような地域はありません。

    大津から見た阿蘇は当時の方位でいえば、東になります。

    また西には有明海が在り、集落は有りません。

    したがって【 倭國之極南界也 】という意味は、熊本県大津周辺を指すと考えられます。
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神代文字について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月22日(土)15時44分25秒
  さて、失礼ながら竹下先生の説に対して批判をしたわけですが、私の説のほとんどは竹下先生の説と同じです。

ただ、ほんの一部だけ納得いかないことがあっただけですが、ここで『竹内文書(もんじょ)』偽書説を唱えたため、私が古史古伝を完全に信用していないと誤解されるかもしれません。そこで、今度は神代文字が「本物」であることを証明していきます。

*引用*まず、私が疑問を持ったのは、世宗大王(せいそうだいおう/セジョンデワン)の勅命(ちょくめい)で発動したプロジェクトが、なぜ短期間に、あの様に理路整然とした合理的な「文字」を「創造」できたかです。一口に、文字と言っても、漢字に代表される「表意文字」系と、アルファベットに代表される「音標文字」に分類されます。例えば、表意文字の場合、「口」と言う漢字は口の形、「手」と言う漢字は手の形から作られ、その一文字で一つの物を表記する事が可能です。それに対して、音標文字は母音(ぼいん)字・子音(しいん)字単体ではほとんど用をなしません。母音字と子音字の様々な組み合わせによって、はじめて「音」を表す事が出来、それらの様々な組み合わせで「単語」を表す事が出来るのです。


表意文字と音標文字


表意文字(例:漢字) 目 鼻 耳 口 手 足


音標文字(例:アルファベット) abcdefghijklmnopqrstuvwxyz


話のそれついでにもう一つ。「ハングル」の様にその国独自の文字を作った例は多数あります。しかし、それらはほとんどが既製の文字に手を加えて作られた物ばかりなのです。
文字の伝播


漢字(中国)┬契丹文字(10世紀)─女真文字(12世紀)
      ├西夏文字(10世紀)
      └チュノム(ベトナム 14世紀)


アラム文字┬ヘブライ文字
     ├アラビア文字
     └ソクド文字──突厥文字─ウイグル文字─蒙古文字─満州文字


フェニキア文字─ギリシア文字┬ラテン文字(アルファベット)
              └キリル文字(ロシア文字)


そこで、ハングルはどうかと言うと、その「お手本」となる文字が無いのです。「お手本」となるべき文字が無く、今まで漢字と言う「表意文字」を使っていた朝鮮人が、なぜ、「音標文字」と言う全く異なるシステムの文字を「創造」出来たのでしょうか? 私には不思議でたまりません。そんな中、「お手本」となった可能性のある一つの文字が浮かび上がったのです。その文字の名は「阿比留文字」(アヒル文字)と言います。【引用終わり】

突然の引用ですが、ここで私が竹下先生の文をそのまま引用したのには理由があります。

それは「私はその説に完全に賛成である」からです。

「阿比留文字」之(これ)は、超古代史ファンを除くと聞きなれないものでしょう。或(ある)いは、「トンデモ説の代表」として耳に入れている人も中に入るかもしれません。

(しか)し、この「阿比留文字」はかつて本居(もとおり)史学において、「九州年号」とともに「正統な古代文字」とされてきたもので、「偽作」の一言でかたつくような代物(しろもの)では決してないのです。

【引用】
、「阿比留文字」は右側(漢字の「旁(つくり)」に当たる部分)に母音字、左側(漢字の「偏」に当たる部分)に子音字を配置する「二次元」構成を取っています。対する「ハングル」は左右・上下配置の他に、三つの字母を配置する複雑な「三次元」構成を取っています。つまり、「ハングル」の方が「阿比留文字」の字母構成法よりも、明らかに「進化」していると言えるのです。こう考えると、「阿比留文字」が「ハングル」を模倣して作ったと言うよりも、むしろ、「ハングル」が「阿比留文字」を模倣して作ったと言う方がより自然なのです。【引用終】

『上記(うえつふみ)』をはじめとする、多くの史書に出てくるこの文字。文字通りの「神代」の文字化はともかく、江戸時代の平田篤胤(あつたね)が「ハングル」を手本にこの文字を偽作した、などと誰が言えるのでしょうか? 平田篤胤の時代、朝鮮においてハングルはほとんど使用されていませんでした。

「八母音説」によって、この文字の偽作性を決めつける論者もいます。

然し、例えば『上記』は鎌倉時代の成立であり、この時代には「五母音」であることは言うまでもありません。

さらに、私が注目するのはもう一つの神代文字「秀真(ほつま)文字」です。これについては『皇国史論・異録文書編』で詳しく述べますが、2007年を境に神代文字研究は大いに変わろうとしています。「大筋」において、竹下先生の説は次々と証明されて言っているのです。
 

『竹内文書』は真っ赤な偽書である!なぜか日本語で書かれた「モーゼの十戒石」の正体を見よ!―竹下義朗批判A

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月22日(土)14時41分57秒
  ・封印された超古代日本史〜「古史古伝」の世界
・狩野亨吉(かのう-こうきち)博士への批判〜「古史古伝」は偽書ではない!!
の二つに対して、批判させていただきます。

私は「古史古伝」の中にも真実があると思い、『竹内文書(もんじょ)』についてもある程度調べました。

その時、史料批判に使用したのは、天津(あまつ)教の信者の著作らしい『竹内文書――宇宙三千億年の歴史』です。『竹内文書』の写真も多くあり、もしかしたら本当かもしれないという考えが私の脳裏を横切りました。

というのは、『竹内文書』の中に『奥州風土記(おうしゅうふどき)』という古文書と一致する部分があると聞いたことがあるからです。

(しか)し、その中の「モーゼの十戒石(じゅっかいせき)」なるものの写真・図・現代字板を見たときには失望しました。その根拠をいかに上げましょう。

@まず、モーゼのものであるにもかかわらず、日本の神代文字で記されている。
Aまた、その神代文字をそのまま読むと「現代字板」と同じ発音である。
Bさらに「モーゼの真十戒」なるものは、どう見ても「四戒」であった。
C念のため、写真も見てみたが、やはり「十戒」などではなかった。
D「裏十戒」には「日本国天皇への絶対服従」まで解かれているが、当時は「日本」の国号すらなかった。

私は以上の史料批判により『竹下(ママ 「竹内」の誤記)文書』のアキレスけんをついた、と思うのです。

次に竹下先生の論証に対する批判です。
>、『竹内文書』の「原本」は「神代文字」で書かれていました。しかし、武烈天皇の時代、天皇の勅命(ちょくめい)を受けた大臣(おおおみ)・平群真鳥(へぐりのまとり)が「神代文字」で書かれた『竹内文書』を、「漢字仮名交じり文」で「写本」したと言われています。<
そのころ、「仮名文字」などありませんでした。従って、武烈天皇時代の制作とは到底考えられないのです。

>「継承者」にとって大事な事は「一字一句正確に書写」する事よりも、「後世の継承者が理解」出来る事の方がずっと重要だった<
それは有り得ません。というより、全く有り得なわけではないのですが、可能性は限りなくゼロに近いのです。

だいたい、若(も)し武烈天皇の時代から継承されていたのなら、多少正確ではなくても九州王朝についての記述があってもよさそうなものですが、それが全くありません。やはり、『竹内文書』は真っ赤な偽書であったのです。
 

考察・「中国」に対抗する迄も無く、海洋国家日本こそ航空母艦を保有す可きだ!―竹下義朗批判@

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月22日(土)14時15分0秒
  竹下先生の論考に対し、失礼ながら異議を唱えさせていただく。
とはいっても、もちろん「日本に空母は不要である」などと主張するのではなく、もっと「根本的」なことについて、である。

>自衛隊が名実共に日本の国軍となり、運用に様々な制約を課している「専守防衛」政策が大幅に緩和若(も)しくは撤廃されたなら、「航空母艦」の呼称を大手を振って用いる事も可能でしょう。然(しか)し、現状では甚(はなは)だ難しいと言わざるを得ません。<
竹下先生、憲法放棄もできないような国家(というより、政府・自衛隊か)が「空母」など持てるはずがありませんよ。

それでは、以下にこのことに対する論証をしましょう。

まず、日本には「在日米軍」という組織があり、さらに『日米安保条約』まで結ばれています。この条約により、日本は自らの領域の中に「在日米軍」を除く軍隊を入れてはいけないことになっているのですが、実際には「中国」と「北朝鮮」の二国のこの行動を「黙認」しています。(実効支配している領土でみた場合)

(これ)は日本が条約違反しているのも同じわけですが、実は同じ『日米安保条約』が日本の空母保有を阻止しているのです。

『日米安保条約』第三条(自衛力の維持発展)

締約国は、個別的に及び相互に協力して、持続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。

竹下先生もご存じのこの条項。ここに「憲法上の規定に従うことを条件」と記されています。そして、「憲法上の規定」により日本は「専守防衛」しか、してはならないことになっているのです。

つまり、日本はこの「呪われた憲法」を放棄しない限り「攻撃用」の兵器である空母を保有してはならない、ということであり、「憲法放棄」もできないようでは「空母保有」などまさに「論外」であるわけです。

『同』第六条(基地の許与)
  1. 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持の寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

  2. 前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合州国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合州国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
そして、アメリカは日本において事実上自由に陸海空軍を動かせるとも規定されています。これは「日本がはむかったらいつでも攻撃可能」と言っているようなもので、事実亜米利加(アメリカ)帝国は「日本の強大化」を「中国の強大化」以上に恐れていることからしても、日本が空母をもった時点で在日米軍が文句を言ってくるに違いないのです。

ここで名称を「航空機支援艦」などとしてごまかしても無駄です。亜米利加以上に、中国及びその手下である『朝日新聞』あるいは菅直人が反発するに違いないのです。

つまり、竹下先生は現行憲法下で空母を持とうと考えているようですが、そんなことは夢のまた夢、それより先に「憲法放棄」または「憲法改正」の方が重要だと考えられるのです。

一方で、空母の代わりに何を持つか、それは「原子力潜水艦」です。もっとも、「核兵器」を搭載するわけではありませんが、「原子力」と聞いただけで左翼はアレルギーを起こすでしょう。

それが狙いなのです。明らかに「攻撃用」とわかる空母を作るよりも、まずは「原潜製造」なり「憲法放棄」なり「憲法改正」なりをして、平和ボケに浸(つ)かっている国民の目を覚ますことの方が重要ではないか、というのが私の意見です。

今の日本の体質は「航空機支援艦」などと誤魔化(ごまか)して治るようなものではありません。失礼ながら、最も現実的にして根本的な問題として、あえて竹下先生に異議を唱えさせていただきます。
 

「邪馬壹国」についてA

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月22日(土)13時42分40秒
  『魏志』を素直に解釈すれば邪馬壹国の位置も明らかになるはずである。
これまでの論者は「南=東」と解釈していた。然し、魏・晋の時代に倭子機が南北に細長いと記した地図は無いのである。
もっとも、『魏志』にも明らかに方角を間違ったと思われる方位がある。それも、「倭人伝」に。
だが、詳しくは別述するが、『魏志』の「里程」は実際に魏使が言ったところであるのに対し、その記事は里程も日程も記されていない、明らかに「伝聞」とわかる記事なのである。
それでは、『魏志』によって「投馬国」(とうま、に非ず「つま」と呼ぶべきであろう)の位置を求めるとどうなるか。
「不弥国」から「南の水行二十日」そこは「薩摩」である。

<資料@『魏志』の全方向記事>
  東 ーー 八五九
  西 ーー 五六〇
  南 ーー 五七六
  北 ーー 二四二
 (計)  二二三七

<資料A『禹貢(うこう)地域図』>
現存していない地図。従って、どのような地形を記していたかは不明である。
・日本を細長く記した中国地図一覧
『古今華夷区域総要図』1100年(現存している最古の地図)
『華夷図』1137年

<資料B邪馬壹国はどう読むか>
 「邪馬壹国」という国名は、いったい、なんと読むのか。この問いを発したら、読者は笑いだすかもしれない。“もう、所在地までわかってしまった、という今ごろになって、そんな問いを出しはじめるとは!”と。
 しかし、これには深い理由がある。
 従来の「邪馬台国」研究史では、「ヤマト」と読むことは自明だ、と前提していた。そしてその「ヤマト」は近畿大和(やまと)か、筑後山門(やまと)か、というふうに、発想は展開していった。すなわち、同音地名の選択に迷ってきたのである。新井白石が方法として一般化し、のちの学者の従ってきた、このような地名比定、ひらたくいえば「地名あて」のやり方こそ、学問の方法論上、わざわいのもとをなした。
 このことはいくら強調しても、強調しすぎることはないであろう(この方法のもつ問題点については、すでに一応ふれたけれども、のちにより徹底的な形において、その根本問題を明らかにする)。
「邪馬壹国」研究は、この古き研究のあやまちを、ふたたびくり返すことを拒(こば)むことからはじまった。
 それゆえ、国名の倭訓(日本語読み)を求めることを先とせず、もっぱら行路記事の客観的検証に徹することによって、自然にその到着点をえたのである。
 けれども、すでに事の終った今、あらためて虚心に、この「国名表記の倭訓」(日本側の現地音)を探究しようと思う。
 では、「邪馬壹国」に対する、日本側の「倭音」(現地音)についてのべよう。



  「邪」 ーー 余遮(よしゃ)切〈集韻〉 yeh2
  「馬」 ーー 母下(もか)切〈集韻〉  ma3
  「壹」 ーー 益悉(えきしつ)切〈集韻〉i1

 右のうち、「邪馬」はこれまでの「邪馬臺国」の場合と同じく、「やま」と読んでよいと思われる。
 問題は「壹」である。これは倭音では「い」あるいは「ゐ」に当るものだ。だが、このうち、「い」と読んだ場合、その相当する倭語、倭名を見いだしにくい。それゆえ、これは「ゐ」の方に当るものだと思われる。すなわち、仮名書きすれば「やまゐ」である。また、漢字でこれに意味をあてれば「山倭」だと思われる。
 その理由を以下にのべよう。
「倭」の音は、はじめ「ゐ」だった。のちに「わ」の音に転じたのである。この間の、音の時代的転移はつぎの史料によって明らかとされる。
  如淳(じょ-じゅん)(いわ)く「墨の如(ごと)く委面して、帯方東南万里に在(あ)り」・・・・(臣讃注、略す)・・・・師古曰く、「如淳の『墨の如く委面す』と云へ(いえ)るは、蓋(けだ)し、委字を音するのみ。此(こ)の音、非なり。倭の音は『一戈か反』。今猶(いまなお)倭国有り。魏略に云ふ(いう)。『倭は帯方東南の大海の中に在り。山島に依(よ)りて国を為(な)す。海を度(わた)ること千里、復(ま)た国有り、皆倭種』と」
   〈『漢書』地理志、倭人項の注〉
 唐の顔師古(がん-しこ)は、魏の如淳の「委面」の表記に対して、批判を加えた。そこで師古は三つの理由をあげた。
 その一、「倭」の発音は「一戈反」つまり「わ」である。
 その二、当代(唐)において、当地に「倭(わ)国」が現存している。
 その三、『魏略』に「倭国」と記されている。けっして「委国」ではない。
 それゆえ、この三点が示すように、「倭」は今も昔も「わ」である。だから、如淳が「ゐ」としか読めない「委」字をあてて用いているのは不当だ、と。これが師古の主張である。
 たしかに、如淳注は『漢書』本文の「倭」(「夫(そ)れ、楽浪(らくろう)海中、倭人有り」)を「ゐ」と読み、「委」と通じ用いた、と解されるのである。なぜなら、「委」に「わ」という音は古今共に存在しないからである。
 けれども、今わたしたちがこの如・顔両者の「論争」を分析すると、後代の顔師古の側の誤断だったことが、つぎの二点から判明する。
 (一) 言語学上、「倭」の音は上古(三世紀以前)「ゐ」であった。『周道倭遅(ゐち)』(『詩経』)のごときはその例である。
  「倭」は、「委」に「ニンベン」が加えられた字である。本来、同義同音にして、「委の人」を意味するようになり、「わ」の発音が生れたものと思われる。したがって、唐代にはたしかに「わ」の音となっていた。しかも、「ゐ」という上古音の記憶はすでに失われていたのである。そのため、師古は後代音「わ」に固執して、上古音「ゐ」の存在を知らなかったのである。
 (二) 右の事実は、師古を去ること遠き江戸時代、日本の志賀島(しかのしま)で発掘された金印によって、劇的に証明されることとなった。
 ここには「漢委奴国王」とある。明白に「委」字が用いられているのである。これは中国音による限り、今も昔も「ゐ」であって、「わ」とは読めぬ。
 ここに、如淳が用いた「委」という表記が正しかったことが裏打ちされている。この金印の記事を記載した『後漢書』(范曄(はん-よう)、五世紀)では、これを「漢倭奴国」として「倭」字で記していた。そのため、唐代の師古は、日本志賀島に眠る金石文史料が三世紀如淳の表記を支持している、という事実を夢想だにしえなかったのである。
 右を要するに、魏の如淳は、当然、かれの時代の音である「上古音」に従い、唐の師古は、自分たちの属する時代の「後代(こうだい)音」に固執(こしゅう)したのである。
 以上によって、先の「邪馬壹国=山倭国」という等式が成立しうることが知られよう。
『「邪馬台国」は無かった』古田武彦、より

<資料C「壹」と「臺」の字体(金石文) >
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/itaiji.html#itaizi1
 

邪馬台国(4)〔訂正版〕

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月22日(土)07時11分54秒
  邪馬台国(4)

 『三国志』魏志倭人伝の元となった「魏使」は正始元年(240年)に前年の「卑弥呼」の遣使に対する答使の「梯儁(テイシュン)」、正始8年(247年)に「卑弥呼」の「狗奴国」との報告に対して遣使された「張政」であると考えされる。彼らの報告に基づいて
『三国志』魏志倭人伝が記されたと考えてよかろう。
 「卑弥呼」からの中国の王朝への朝貢は「景初3(239年)年6月」、「正始4年(243年)」、「正始6年(245年)」、「正始8年(247年)」の4度で、「台与」が「泰始2年(266年)」に遣使している。
 『日本書紀』にも「神功皇后」の39年条に「明帝の景初3(239年)年6月」、40年条に「正始元年(240年)」、43年条に「正始4年(243年)」、66年条に「晋の武帝の泰初2年(266年)10月」の4度にわたり中国の王朝に朝貢したとの記録が見える。これらはいずれも『日本書紀』の編纂者が『三国志』を見ていたものと考えられている。
 これらのことから、「邪馬台国」のことはかなり正確に中国の王朝に伝わっていたと考えられる。これは『三国志』魏志倭人伝の記述(「倭」の国々の様子など)は詳細であることからもうかがえる。だた、旅程表が正確だというのには後記のとおり疑問が無きにしもあらずである。
 こうした考えに対し、「梯儁」らは「伊都国」には行ったものの「投馬国」や「邪馬台国」には赴いてないとする見解がある。それは@ 「伊都国」から40日もかけて「邪馬台国」に行っているのであるが、その間の国々の様子が全く記されてない。A 「自女王国以北、其戸数・道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳」(『三国志』魏志倭人伝)とされており、「投馬国」などの状況の詳細が記されていない。そして「邪馬台国」自身が<遠絶>の国なのである。B 「伊都国(中略)千余戸有、世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐」(『三国志』魏志倭人伝)とあり、帯方郡などの使者が長く留まるところであった。「梯儁」らはここで「投馬国」や「邪馬台国」の情報を得ていた可能性が高い。C 「自女王国以北、特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺使。王遣詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯」(女王国より北に特に一人の大率〔地方長官〕を置き、統治する諸国を検察しており、諸国に恐れられている。京都〔「魏」の都〕・帯方郡・韓国の諸国および郡の倭国〔「魏」では「倭国」を属国と考えていた〕の使者を港で臨検し、文書・使者の贈物を女王〔「卑弥呼」〕に伝送して、職務が滞ることがない)とある(『三国志』魏志倭人伝)。つまり、大率〔地方長官〕が「伊都国において絶大な権限を有しており、「梯儁」らは「伊都国」の大率〔地方長官〕から「投馬国」や「邪馬台国」や他の諸国の情報を得ていたと考えられる(『新版 魏志倭人伝』山尾幸久 講談社〔講談社現代新書 480〕1981年11月20日122頁)。これは傾聴すべき見解であり、その可能性が高いかもしれない。とすると「投馬国」や「邪馬台国」の旅程は<伝聞>ということになる。そうであれば、『三国志』魏志倭人伝の「投馬国」や「邪馬台国」の旅程は不確かものである可能性が高く、これを精査することに重点を置くことはあまり意味がないことになる。
 しかし、大半の者は「投馬国」や「邪馬台国」への旅程表は信用がおけると考えており
(『邪馬台国(改定増補版)』榎 一雄 至文堂 1978年11月15日、「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 勉誠出版 など)、これにそって論を進めることにしたい。
 

邪馬台国(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月21日(金)16時52分31秒
   『三国志』魏志倭人伝の元となった「魏使」は正始元年(240年)に前年の「卑弥呼」の遣使に対する答使の「梯儁(テイシュン)」、正始8年(247年)に「卑弥呼」の「狗奴国」との報告に対して遣使された「張政」であると考えされる。彼らの報告に基づいて
『三国志』魏志倭人伝が記されたと考えてよかろう。
 「卑弥呼」からの中国の王朝への朝貢は「景初3(239年)年6月」、「正始4年(243年)」、「正始6年(245年)」、「正始8年(247年)」の4度で、「台与」が「泰始2年(266年)」に遣使している。
 『日本書紀』にも「神功皇后」の39年条に「明帝の景初3(239年)年6月」、40年条に「正始元年(240年)」、43年条に「正始4年(243年)」、66年条に「晋の武帝の泰初2年(266年)10月」の4度にわたり中国の王朝に朝貢したとの記録が見える。これらはいずれも『日本書紀』の編纂者が『三国志』を見ていたものと考えられている。
 これらのことから、「邪馬台国」のことはかなり正確に中国の王朝に伝わっていたと考えられる。これは『三国志』魏志倭人伝の記述(「倭」の国々の様子など)は詳細であることからもうかがえる。だた、旅程表が正確だというのには後記のとおり疑問が無きにしもあらずである。
 

邪馬台国(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月21日(金)16時51分36秒
   ところで、先に<漢の人たちは日本を南北に連なると誤解していたと思われ、南とは東を意味する>にと言ったが、これには理由がある。「魏」の末から「晋」の始めにかけて「裴秀」(224年〜271年)により『禹貢地域図』を作ったとされる(これが中国で一番古い地図とされる)。彼はさらに十里を1分、百里を1寸に縮尺した『地形方丈図』を作成している。これは現存してないが『三国志』の編者「陳寿」は彼の10歳くらい年少であり、
これを見ていた可能性は大きいと言えよう。そのほか「唐」時代の「賈耽(カイタン)」(730年〜805年)により記された『海内華夷図』を縮図して石碑に刻まれた「華夷図」(「宋」時代の1137年)、『古今華夷区域総要図』(北宋時代の1100年〔これが中国で二番目に古い地図とされる〕)、その後の「南宋」、「明」時代に作成された地図でも、日本は南北に位置すると記されている。朝鮮でも『混一疆歴代国都之図』(中国の明時代の1402年〔朝鮮王朝時代[第3代「太宗」時代]〕では同じく日本列島が南北に細長く描かれている。これについては『古事記』・『日本書紀』成立以後の大和朝廷時代の情報を元に描かれているとの考え(『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典 勉誠出版 2008年4月20日 90頁)があるが、「志賀信夫」が「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」(『神道学』第10号〔1956年〕)で、日本が南北に細長く位置しているのは『地形方丈図』が原型であると述べている(『卑弥呼と台与の邪馬台国』淵田三善 清風堂書店 2007年8月15日 67頁)。「安本美典」の見解は根拠のない想像の産物であろう。日本が南北に細長く位置しているという中国および朝鮮での認識はこのように長く続いていたのである。
 

「邪馬壹国」について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月21日(金)16時31分25秒
  「それは邪馬台国ではなかった」http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/ititai1.html
「身勝手な「各個改定」への反論」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/betukai3.html「南=東」か?(引用)
 しかし、この「南」をなんとか「東」とみなそうとする努力はこれにつきていない。そこで“原文の南のままで、これを東と考えよう”とする苦渋にみちた学説が登場する。
 昭和四十五年四月に出版された三品彰英の『邪馬台国研究総覧』は、文字どおり、従来の「邪馬台国」研究を総括した大著である。従来の学説を知るうえで、わたしたちにとってきわめて便利な本である。わたしの第一論文「邪馬壹国」は、すでにこの前年九月に『史学雑誌』に発表されていたのであるけれども、三品は、わたしの論文の出たと同じ昭和四十四年九月にその序文を書き終えている。それゆえ、「邪馬台国」という従来説共通の立場に立って、この本は成立しえたのである。
 さて、その中で三品はつぎのようにのべている。
 「『魏志』の本文の訂正を努めて避けようとした論者に内藤湖南がある。一見、不弥(ふみ)以遠の記事の南を東に訂正されているようであるが、同氏の説くところを熟読すれば必ずしも訂正ではない。すなわち“支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく云々”というのであるから、原文の南を東に訂正したのではなく、南を東に解し得る可能性を注意しているのである」(同書五三〇ぺージ「倭人伝研究の歩み」)
 三品は、この本の中で、“原文を改定することによって学説を立てるのはフェアーではない”という立場をくり返しのべている(ただし、「壹→臺」「治→冶」「二→三」「海→馬」「大→支」というような共同改定、いわばもっとも基本をなす改定については、疑問をいだかなかったようである)。
 この立場から、三品にとって一番問題となったのは、近畿説を立てるうえで、運命的な、いわば「不可欠の改定」である「南→東」の課題であったと思われる。
 そして、明治以降の近畿説の中興の祖ともいうべき湖南の論文『卑弥呼考』によって、その解決を見いだしたのである。そこでは、中国の古書では「東と南」「西と北」を「相兼ね」るのが「常例」だ、という奇妙な論理が用いられている。この考えに立てば、わたしたちは中国の歴史書を読む場合、この両方向を自由に読みかえていい、ということになる。
 このような場合、いつもわたしたちを困らせるのは、「常例」というような大家の表現である。“わたしは広く中国の古書を読んでいる。だから、わたしの識見を信じてもらいたいが、常例として・・・・”という形をとる。そして、それがはたして「常例」かどうかの論証は存在しない。
 したがって、その「大家の識見」を信ずるか、否か。権威に従順か、否か。その決断が読者に迫られるのである。
 このような場合、大家のあとをうけた後学のとるべき道はなんであろうか。大家の言に盲従することではなく、これが真に「常例」かどうか、精密に科学的に検証することでなければならぬ。
 幸い湖南は、ただ一つの例をあげている。
『後魏書』の「勿吉伝ぶつきつでん」に、沌*児(タオール)河から松花江上流に行くのに、「東南行すべきを東北行十八日とせる」といって、中国史書が方角をあやまった例としている。
沌*は三水偏に兆。JIS第3水準ユニコード6D2E

 この一つの例が「常例」の証明となりうるのであろうか。
 『後魏書』は、六世紀に完成された本だ。この本で方角がまちがっていたら、中国古代の人は、「常例」として方角観が甘い、という証明になりうるのだろうか。
 日本の例で考えよう。十四世紀の『神皇正統記』の方角記事が狂っていたら、十三世紀の『吾妻鏡』の方角記事も信用しないでいいという保証になるのだろうか。“由来、日本の古書は方角が信用できない”といっていいのだろうか。
 だれも、こんな論法を信じることはできない。これで「論証」になると思う人はいないであろう。
 問題はきびしく限定されねばならぬ。あくまで肝心の『三国志』を対象として、“陳寿には「東のことを南と書く」というくせがはたしてあったのか”という一点に焦点がしぼられねばならないのである。
 この命題なら、検査は容易である。『三国志』の中の方角記事を全部抜き出してしらべたらいいのだから。そこでしらべてみた。
  東 ーー 八五九
  西 ーー 五六〇
  南 ーー 五七六
  北 ーー 二四二
 (計)  二二三七

 参考として、東南、東北といった記事もかかげておく。
  東北 ーー 一〇
  東南 ーー 一八
  西北 ーー  四
  西南 ーー  八

 この数値を分析しよう。「南」は「東」の六割七分だ。「東」は四方の中、抜群の数値を占めている。最低値「北」に対しては、実に三・五五倍の数値だ。“東のことを南と書くくせ”が陳寿にあれば、こんな数値は出てこないはずだ。当然、東より南の方の数値が多くならねばならぬ。しかし、『三国志』全体の数値の事実はこれに反し、右の臆説を拒否しているというほかない。
 しかも、「南」五百七十六個の内容をしらべても、湖南のいうように、「東のことを相兼ねて南とする」のを「常例」とした形跡は存在しない。
 このようにして、内藤 ーー 三品説は結局成立しえないことが判明したのである。

【引用者注】
邪馬台国近畿説を唱える者は、こうした批判にも耳を傾けるべきである。
なお、このホームページは更新が必要。
そこに「邪馬壹国」と「邪馬台国」のどちらが正しいかの論証もされている。
 

ソックパペットについて

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月21日(金)16時22分50秒
  解法者氏が竹下先生のソックパペットであると、私も疑ったことがありましたが、いろいろと調べた結果それらしき証拠は見つかりませんでした。

だいたい、仮にそっくアペットと疑ってもそれを指摘することは失礼です。だから、私もそれを口にはしませんでした。ソックパペット「疑惑」が最近この掲示板で話題になっていますが、はっきり言って議論の邪魔になるだけです。
 

それは別にいいですよ

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月21日(金)16時18分29秒
  近畿説なら行けないわけではありません。只「試論」と謙遜しながら「考古学からみて、邪馬台国の位置は大和である」と「確信」されているようで。

「大和が日本の中心=邪馬台国近畿説」という「先入観」が解法者氏の頭の中にあるようです。
 

邪馬台国

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月21日(金)16時00分22秒
   本当にわからん! 私のはあくまで試論です。資料を漁って勉強しているが、
頭の中がグチャグチャになってしもうた。
 「大和」説を採りますが、一応というか確信は全くありません。
 

RE誤解だね

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月21日(金)15時59分0秒
  え?

一世紀 九州(成り済ましさんとの論争で)
二世紀 不明
三世紀 大和(邪馬台国、神功皇后)(『九州王朝は有り得ない』で)

としていたじゃないですか!邪馬台国は三世紀ですよ!
 

RE:邪馬台国論

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 1月21日(金)15時55分8秒
  まず、『魏志』の内容を述べる際は私や倭人氏のように「邪馬壹国」の表記にすること。もっとも、自説を述べる際は「邪馬台国」でも良いと思うが。

>さらにこれだけの大都市を統括していれば王の墳墓も強大ではなかろうか。こうした巨大墳墓が九州のどこにあるのであろうか。<
卑弥呼の墓については『皇国史論・邪馬壹国編』で述べるが、ここで問題なのは「卑弥呼の墓は大和にあるであろう、だから『魏志』はこのように解釈する」という「考古学を基に文献を解釈する」姿勢である。

私は逆に「文献をもとに考古学を解釈」している。だから、仮に卑弥呼の金印が「青森県」で発見されても、私は九州説を支持する。(『東日流六郡誌大要』が正しいと考える)

解法者氏の説、それはこれであろう。
「三世紀の倭国の中心は大和であった」
それなら、私も認めることができる。(正しいかどうかはともかく)
しかし、仮に「大和が九州を支配していた、動かぬ証拠」が発見されても私は『魏志』の里程解釈から「然し、邪馬台(壹)国は九州である」と言わざるを得ない。それが学問の方法であり、仮に『魏志』の里程が間違っているとしても、「ならば魏は九州を邪馬台(壹)国と間違えたのであろう」と私は考えるのである。

<「卑弥呼」の墳墓が示されない限り「邪馬台国」=九州という考えは採り得ないと考えられよう。<
要するに、この結論は「論理が逆立ちしている」のである。
かつて、「九州に楼閣はない、だから九州に邪馬台国などない」という説があったが、「吉野ヶ里遺跡」の発見でそれは吹っ飛んでしまった。思うに「一貴山銚子塚古墳」の近くの塚か神社に金印があると思うが、それは「憶測」となろう。

但し、解法者氏の説は試案にしては理路整然としており、「近畿説にも根拠がある」事を証明しようとする、優れた論考ではある。唯一の欠点、それは「九州説への批判が少ない」ということである。相手の説への正面からの批判がないと、学問としては説得力がないのである。(多婆耶国問題についても同じである)

HNの統一については、少し難しいです。私を呼ぶときは「護国運動家」としておいてください。
 

私の憲法論(8)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月19日(水)12時39分39秒
  新設の章(1) 国民主権

 この規定は、第1章「天皇」の次の第2章として規定する。「国民の要件」もここで
 規定してもよかろう。
  @(国民主権) 主権は国民に存する。A(主権の行使) 国民は、正当に選挙され
 た国会における代表者を通じて主権を行使する。B(政党)1.国民はその政治的意思
 を実現するために自由に政党を結成することができる。2.政党は国民主権を実現する
 ために、その政策の実現に邁進しなければならない。3.政党には国家がその活動資金
 を援助する。4.政党は政治活動に要する資金の収支を国民に公開しなければならない。
 政党がそれに違反したときはその地位を失う。
 

としあきさん

 投稿者:竹下義朗(管理者)  投稿日:2011年 1月19日(水)10時36分6秒
  としあきさんから、解法者さんと私が同一人物ではないかとのご指摘がありましたので、お答えします。

私は「解法者」のハンドルを用いた事は一度も無く、常に本名である「竹下義朗」を用いています。又、解法者さんとはリアルな世界での面識も一切無く、解法者さんが何処(どこ)にお住まいの何方(どなた)かを知らず、電話番号も存じませんので、お互い連絡を取り合って何かをすると言った事も出来ません。

したがって、解法者さんと私とは全くの別人物です。
 

皇国の護国さんへ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月19日(水)00時29分35秒
   HNを統一してくれない!  

失礼ですが(2)

 投稿者:としあき  投稿日:2011年 1月18日(火)00時49分19秒
  >過去ログをみればわかるはずんだけど。
では別人という表明を即座に用いないのは同一人物であると認めるという解釈で宜しいのでしょうか?

こちらの心得違いならばご無礼の段、何卒ご容赦。
 

馬鹿か

 投稿者:皇国の護国  投稿日:2011年 1月17日(月)18時57分37秒
  パソコンの不調のため返事が遅れました。

>ここからが問題である。『南至投馬国、水行二十日(中略)可五萬余国』とある。ここでの南であるが、漢の人たちは日本を南北に連なると誤解していたと思われ、南とは東を意味する。これは「水行二十日」とあることからも導かれよう。したがって「投馬国」は九州ではなかろう。「吉備国」(岡山県一帯)と考えられよう。<
『魏志』の解釈については後で述べるが、私は『魏志』の里程も完全に解明し、さらに『筑後国風土記』とも照らし合わせて傍証まで得ている。

しかし、わざわざ私の説に代わる新しい案を発表してくださったのだから、一から十まで批判することはないだろう。ただ、一つだけこの説に問題があることを指摘しておく。
>漢の人たち(魏・晋も含むか――引用者注)は日本を南北に連なると誤解していたと思われ<
実際には『魏志』や『後漢じょ』の作者は「邪馬台国」または「邪馬壹国」の東に「倭種」の国があると記している。従って、「倭は東西南北に広がる」というのが魏の見解であり、「その北東部分に卑弥呼がいる」と『魏志』には記してあるのである。
 

邪馬台国論

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月16日(日)12時46分23秒
   誰か後に続いてもらえませんか。  

邪馬台国(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月15日(土)16時05分42秒
   「投馬国」は五萬余戸、「邪馬台国」は七萬余戸とされている。当時は大家族だったと思われるから1戸=6人としても、それぞれ30万人、42万人とされる。現在でも大都市だろう。これだけの大都市なら歴史書に記載があるはずだ。果たして九州にこれだけの大都市が存在したという歴史書が存在しているのであろうか。これについて「邪馬台国」の王宮は近時発掘された「吉野ケ里」とする考えがあるが、どうみても2、3000戸の大きさしかない(『邪馬台国 魏使いが歩いた道』丸山雍成 芳川弘文館 2009年4月1日 52頁)。その他の候補地も該当しない。こうしたことから考えて「投馬国」は「吉備王国」、「邪馬台国」は「大和王国」と考えるのである。
 さらにこれだけの大都市を統括していれば王の墳墓も強大ではなかろうか。こうした巨大墳墓が九州のどこにあるのであろうか。これについても「江田船山古墳」(熊本県玉名郡和水町)だとする考えもある。しかし、これは5世紀から6世紀初頭の築造とされ時代が合わない。「卑弥呼」の墳墓が示されない限り「邪馬台国」=九州という考えは採り得ないと考えられよう。卑弥呼の時代(3世紀前半)に相当する九州の墳墓としては「小熊山古墳」(墳長−120メ−トル)〔大分県杵築市〕と「一貴山銚子塚古墳」(墳長−103メ−トル)〔福岡県糸島市〕の2つしかないように思えるが、どうだろうか。いずれも「熊本平野」ではなく、ここに「邪馬台国」があったとするのは無理だと思われる。
 

管理人さんに失礼だよ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月15日(土)11時28分45秒
  >解法者さんと竹下さんは同一人物なのですか?<
 過去ログをみればわかるはずだけど。
 

失礼ですが

 投稿者:としあき  投稿日:2011年 1月15日(土)00時52分45秒
  解法者さんと竹下さんは同一人物なのですか?  

私の憲法論(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月12日(水)12時12分14秒
  15.環境権(新設)
  @ 国民は健康に資する環境を享受する権利を有し、かつその保全を行う義務を有する。
 A 国は国民の健康に資する環境の保全に努めなければならない。
16.人為による人の生命の操作及び生成(新設)
  人為による人の生命の操作及び生成は、人及びその生命の尊厳の保持、生命及び身体
 の安全の確保並びに社会秩序の維持に重大な影響を及ぼす恐れのあるときは、法律を以
 って制限し、又は禁止することができる(『憲法改正−読売試案 2004年』中央公論
 新社 2004年8月10日 343頁のとおり)
 

投稿の態度

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月11日(火)12時14分11秒
   倭人さんの「邪馬壹國」に関する論考は感心する。「邪馬壹國」の位置を言うなら、
やはり中国古典の論及から始めなければならない。そして自分の頭で考えているという
ことだ。
 それに比べて護国運動家さんの論考は稚拙極まりない。文献学は考古学に優先する!
文献学こそが重要といってながら、考古学上の出土品に始終し、一向に『三国志』、
『後漢書』の「邪馬壹國」の位置に関する記述がない。文献を無視しているから始末が
悪い。
 一体「伊都国」、「投馬国」などの中国古典に記載されている国々はどこにあるの?
 それと歴史の観察者さんが卑弥呼の墓、王宮はどこ?と尋ねても解答が無い。これで
勝手に喚いているに過ぎない。
 まぁ 私も九州王朝説に組しますがと言って自説を展開しない者よりはマシだがね。

 これ以上の論考は無理だと思うし、この問題よりも憲法問題に関心があると言ってい
のだから、そろそろそちらの自説を展開しましょうや!
 

誤解だね

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月11日(火)11時51分43秒
  >解法者さんも支持していただろうに。みなさんも過去ログを見ましょう。氏は一世紀の首都は筑紫、三世紀以後は大和、二世紀はよくわからないという考えのようですよ<
(護憲運動家)

 そんなことは言ってないんだけどね。「邪馬台国」時代から大和にあったと思うが。
 

訂正

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月11日(火)11時20分15秒
   「五萬余国」などの「国」は「戸」の誤りです。  

邪馬台国(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月10日(月)18時11分20秒
   繰り返すが「投馬国」は「不弥国」(福岡県穂波郡穂波〔現在の福岡県飯塚市〕)から<水行二十日>とあり<陸行>がないことにある。したがって、「投馬国」は海岸線にあることになる。『三国志』の南をそのまま解すると九州を西回りか東回りに行くことになる。海と考えれば<二十日>もあるのだから、九州を越えてしまう。
 そこで「河」を考えるかもしれない。久留米市(福岡県)が「投馬国」だと考える者がいるが、「不弥国」が香椎(福岡市東区北部)であったとしてもここから20日もかかるはずがない。
 「邪馬台国」はそこから<水行十日、陸行一月>である。九州のどの河川を考えても<30日>もかかることはなかろう。したがって、九州には候補地がないと考えるのが常識というものであろう。
 ともかく九州に「邪馬台国」があったとする考えの致命的欠陥は、王宮と卑弥呼の墳墓がないことにある。しかも<七萬余戸>とされる住居跡が発見できないことにもある。
 

邪馬台国(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月10日(月)13時43分18秒
  私は「邪馬台国」について深く勉強したことは無い。したがって「倭人」さん、「護国運動家」さんのような知識は無い。
 思いつくままに考えをまとめてみた。たがこれは<試論>の段階を出ないものであることを付記しておきたい。そして、さらに論争が深まるように提示するものである。

 魏使(『三国志』)は朝鮮から「対馬」、「壱岐」と渡り、日本本土へは最初に「末盧国」(佐賀県唐津市)に上陸した。そこから東南陸行五百里のところにある「伊都国」に上陸した。「伊都国」は現在の糸島半島(福岡県の北西部の玄界灘に突き出た半島)にあったと考えられている。そこからさらに東南百里の「奴国」(福岡県飯塚市)、さらに東百里の「不弥国」(福岡県穂波郡穂波〔現在の福岡県飯塚市〕)に行った。これらの国についての比定はほぼ動かしがたいであろう。
 ここからが問題である。『南至投馬国、水行二十日(中略)可五萬余国』とある。ここでの南であるが、漢の人たちは日本を南北に連なると誤解していたと思われ、南とは東を意味する。これは「水行二十日」とあることからも導かれよう。したがって「投馬国」は九州ではなかろう。「吉備国」(岡山県一帯)と考えられよう。
 ここからが本番である。魏使は「吉備国」から東に向かう。
 『南、至邪馬壹国。女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰佳鞮、可七萬余国』とあるのがそれである。
 こうして魏使は「大和」にあった「邪馬壹(台)国」に到着するのである。
 

倭奴國王は【 邪馬壹國 】の王

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)13時01分43秒
  さて、皆さんの反論なり説なりを聞きたいと思いますが、その前に重要な論証をしておきます。

【 世有王 皆統屬女王國 】
伊都國には代々王が居た
女王國に皆、従う

歴代の伊都國の王が従った女王卑弥呼、およびそれ以前の王とは、漢に使者を送った男王です。

【 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 】

委奴國の男王は70〜80年の間、倭國を治めたと記載されています。
つまり【 倭奴國 】とは、女王卑弥呼の住む【 邪馬壹國 】ということになります。

【 漢委奴國王 】の金印を【 漢の倭の奴の國王 】と訳す者もいますが、とんでもないインチキな訳です。
奴國に王がいたなどとは、どこにも記載されていません。

『後漢書』倭人伝
【 建武中元二年 ( 57年 ) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫倭國之極南界也 】
 倭奴國の自称大夫という使者が、倭國の最南端から貢物を捧げて、朝廷を祝賀にやって来た

もし【 倭奴國 】を【 倭の奴の國 】と訳したばあいは【 倭國の中に倭があり、その中の奴國 】ということになります。

当時、倭國は百以上の國に分立していたとあります。
しかも【 倭奴國 】は、倭國内の最南端に在ると記されています。

もし伊都國の百里隣の奴國が最南端とすれば、残りの百あまりの國は博多湾の中に存在したことになります。
倭奴國王は【 邪馬壹國 】の王のことです。

そして【 邪馬壹國 】は、博多湾から千三百里南に行った地点に有ります。

之が私の説の概要です。
 

【倭】の意味

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時56分26秒
  中国の辞典を調べると【 倭 】について次のように掲載されています。

http://wajin.chips.jp/wa/kanji/wa.htm
〈名〉 (形声
1.古代対日作戦時称日本為倭 ( 古代日本と戦う際の名称 )

**********

倭の音には二種類あり【 ウォ ( wo1 )】と【 ウェイ ( wei1 )】です。

ところで倭は【 形声文字 】と記載されています。
倭の声符は【 委 】です、したがって読みは【 ウェイ ( wei1 )】です。

http://wajin.chips.jp/wa/kanji/i.htm

**********

日本語

呉音 : イ(ヰ)
漢音 : イ(ヰ)

韓国語

wi

ところで福岡県志賀島から出土した金印には【 漢委奴國王 】と刻まれています。

『後漢書』倭人伝
【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】
建武中元二年 ( 57年 )
倭奴國の使者自称大夫は倭國の極南界より貢物を捧げ朝賀す

【 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 】
安帝永初元年 ( 107年 )
倭國王の帥升等は、生口百六十人を献上し朝見を請願す
光武は以って印綬を賜う

** 【 帥升 】の【 帥 】とは最高軍事指揮官を指し【 率 】同じ意味です。
** 【 帥升 】の【 升 】とは【 将軍 】のことです。

倭の使者は漢 ( 後漢 ) を二度訪問したようですが、安帝永初元年 ( 107年 ) に【 漢委奴國王 】の金印を賜ったと思われます。

上の文章では【 倭 】となっていますが【 漢委奴國王 】では【 委 】となっています。
多くは【 委 】を【 倭 】の簡略字体と判断していますが、私の意見は異なります。

【 委 】には【 末端 】という意味があります。
東夷傳 の【 東夷 】とは【 東の未開の人々 】という意味です。

【 委 】は【 東夷 】のさらに東の末端の國という意味で、命名されたものと想像します。
つまり極東という意味です。

漢から見れば日本は東では無く【 東北 】に在りますが、当時の漢の方位は反時計回りに 45度のズレが有ります。

したがって当時としては、倭は真東の方位になります。
倭の文字は声符の【 委 】に義符の【 イ ( 人偏 )】を付加して作られた形声文字と考えます。

韓国語では【 倭 】を【 ヤマト ( ya mato )】と読みますが、おそらく【 委 】の時代からの習慣と思われます。

**********

やまと【大和/倭】

旧国名の一。
五畿内に属し、現在の奈良県にあたる。

大和朝廷の発祥地で飛鳥(あすか)京・藤原京・平城京などが置かれた。

もと「倭」と書いたが、元明天皇(在位期間:707年8月18日 -715年10月3日)の時、「倭」と通じるとして「和」の字に「大」をつけて「大和」と書くよう定めた 。

**********

元明天皇以前は【 倭 】を【 ヤマト 】と読んでいたとあります。
すると【 倭奴國 】の読み方は【 ヤマトの ( 倭奴 ) 國 】となります。

伊都國のところに次の文章があります。

【 世有王 皆統屬女王國 】
伊都國にも代々王が居た、全員女王國に従う。

なぜ使者は伊都國の王について質問したのでしょうか、それは【 委奴國 】に原因があると想像します。

つまり使者は【 倭奴國 】を【 イノ國 】と読み、伊都國を指すと勘違いしたと思われます。
その考えが間違っていたことに気付かされたようです。

【 世有王 皆統屬女王國 】の回答によって、漢代から使者を送り続けた國とは【 女王國 】と言うことが明確になります。

その國名は【 委奴 ( ヤマトの ) 國 】そして今回、梯儁が訪問する【 邪馬壹國 】ということになります。

最後に【 漢委奴國王 】の読みについて述べさせて頂きます。
委奴國とは【 ヤマトの國 】ですから【 漢委奴國王 】の読みは【 漢のヤマトの國王 】となります。
http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr2.html

もちろん三世紀のヤマトの國とは、いうまでも無く【 邪馬壹國 】です。

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/を参考にしました

 

邪馬台国も邪馬壹国も音は一緒

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時48分24秒
  『魏志』には邪馬壹国、『後漢書』には邪馬台国とあるこの国、どちらも音は「ヤマト」です。

中国の辞典で【 壹 】を調べたところ次のように記載されていました。

1.一的大写⇒一の大文字
1.(形声。 ⇒形声文字

壹 - 龍維基
www.longwiki.net/%E5%A3%B9

つまり【 壹 】は【 形声文字 】で【 一の大文字 ( 一の仮借 )】ということになります。

**********

か‐しゃ【仮▽借】

漢字の六書(りくしょ)の一。
音はあるが当てるべき漢字のない語に対して、同音の既成の漢字を意味に関係なく転用するもの。

**********

漢字の 90%、つまり殆どは【 形声文字 】に属しています。

そして【 形声文字 】とは、義符 ( 文字の意味を表す部分 ) と声符 ( 文字の読みを表す部分 ) から成り立っています。

その音符が【壹】は【豆】つまり「ト」なのです。

このことを前提として『魏志』を読むべきです。
 

奴国より邪馬台国への道(2)

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時44分35秒
  【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】

-- 意訳 ------------------------------------------
( 投馬國=久留米 ) から東南へ 水行十日 陸行一月 で 邪馬壹國 の 都 ( つ=津 ) に至る

ここは女王は住まう所
--------------------------------------------------

魏の使者は【 水行十日⇒陸行一月 】の順序で移動したとあります。

投馬國を久留米に比定したとして【 水行十日 】で、久留米から八女に向かったと思われます。

八女から南へ向かって【 陸行一月 】とあります。

何故【 水行 】から【 陸行 】に変わったのでしょうか ?

この答えは九州の地図を見て頂ければ、一目瞭然です。

博多湾 ( 不彌國 ) から御笠川〜宝満川〜筑後川の河口、八女まで【 水行 】しました。
ところが、八女から南へ向かう河川は一本もありません。

八女〜熊本までの河川は、全て東の山側から、西の有明海に向かって流れています。

従って南へ向かうには、河川を横切る形で南へ向かう事になります。

この為に【 水行 】から【 陸行 】に変更しなければならなかったのです。


∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┓∵∵∵∵┌水行十日─投馬國┘∵∵∵
〜筑後川〜┼〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┗┓∵◎柳川∵∵◎八女∵∵∵∵∵∵森
〜〜┗┓∵↓∵∵∵森森森【 耳成森地 】
〜有〜┃∵南∵∵森森森森森森森森森森森
〜明〜┃∵至∵∵森森森森森森森森森森森
〜海〜┃∵↓∵∵∵森森森∵∵∵森森森森
〜〜〜┃∵陸∵∵∵森∵∵◎赤水∵∵∵森
〜〜〜┃∵行∵熊∵森森∵∵∵∵∵∵∵森
〜〜〜┃∵一∵本∵∵森∵∵∵∵▲阿蘇森
〜有〜┃∵月∵平∵∵森∵∵∵∵∵∵∵∵
〜明〜┃∵↓∵野∵∵森森森森森森森森森
〜海〜┃∵↓∵∵∵∵森森森森森森森森森
〜〜〜┃∵↓∵∵∵∵森森森森森森森森森
〜〜〜┃邪馬壹國∵∵森森森森森森森森森
〜〜〜┃∵↓∵∵∵∵森森森森森森森森森
〜〜┏┛◎熊本市∵森森森森森森森森森森
〜〜┃∵∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
〜〜球磨川〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜森森森
〜〜┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森森
〜〜┃∵狗奴國∵森森森森森森森森森森森
〜〜┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森森
〜〜┃八代平野∵森森森森森森森森森森森

【 邪馬壹國 】=【 筑後川 〜 球磨川 】
 

奴国より邪馬台国への道(1)

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時43分17秒
  多くの人々は、福岡県前原市に【 伊都國 】は在ったとしています。

私は【 伊都國 】の中心地 ( 官邸 ) を三雲に比定しています。

【 伊都國 】から東へ百里行った地に【 奴國 】の中心地 ( 官邸 ) が在ったとされています。

三雲から東へ百里 ( 14km ) 行った地は、大濠公園付近になります。

さらに【 奴國 】から東北へ百里行った地に【 不彌國 】の中心地が在ると記されています。

大濠公園から東北へ 14km行った地は、香椎付近になります。

伊都國 や 不彌國 は千餘戸の小国ですが【 奴國 】は【 二萬餘戸 】の大国です。

【 二萬餘戸 】の人々は自給自足の農耕生活を営んでいたと思われます。

一戸あたり 4〜5人で生活していたとすれば、消費カロリーから見て 70m×70m程度の耕作地が必要です。

( 70m×70m )×【 二萬餘戸 】の耕作面積は、約 100kuになりますが、この面積は【 福岡平野 】と同等の面積になります。

つまり【 奴國 】は【 福岡平野 】全域に比定されます。

【 南至投馬國 水行二十日 】

-- 意訳 ------------------------------------------
( 不彌國から ) 東南へ河川を舟で移動し、二十日で投馬國に至る
--------------------------------------------------

不彌國 から 投馬國へ行くには【 奴國 】を北から南へ縦断して行くことになります。

博多湾から御笠川を【 水行 】して大宰府まで進み、更に宝満川を【 水行 】して久留米付近に到着したと思われます。

久留米〜八女一帯を古くは【 妻 】いいます。

【 投馬 】を韓では【 つま 】と発音します。

おそらく【 妻 】は【 投馬 】の名残と思われます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
∴┗┓〜〜〜〜〜〜志賀島▲┳━┓〜〜〜
∴∴┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┗┓〜〜
∴∴┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┗┓〜
∴∴┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∴┗━
∴∴∴┗┓〜〜博多湾〜〜〜┏┛∴∴森森
∴∴∴∴┗━┓〜〜〜┏◎━┛∴∴森森森
∴∴∴∴∴∴┗━┯━┛不彌國∴∴森森森
◎伊都國∴∴∴◎奴國∴∴香椎∴∴∴森森
∴三雲∴大濠公園└┐∴∴∴∴∴∴∴森森
森∴∴∴∴∴∴∴∴└┐御∴∴∴∴∴森森
森森森∴∴∴∴∴∴∴└┐笠∴∴∴∴森森
森森森森∴∴∴∴∴∴∴↑川∴∴∴∴森森
森森森森森∴∴∴∴∴∴↑∴∴∴∴森森森
森森森森森森∴∴∴福岡平野∴∴∴森森森
森森森森森森森∴∴∴∴└┐∴∴森森森森
森森森森森森森森∴∴∴∴↑∴∴∴森森森
森森森森森森森森森∴∴∴▲大宰府∴森森
森森森森森森森森森森∴∴↓∴∴▲宝満山
森森森森森森森森森森森∴↓∴森森森森森
森森森森森森森森森森森┌┘∴森森森森森
森森森森森森森森森∴┌┘宝∴∴森森森森
森森森森森森森∴∴┌┘満∴∴∴森森森森
森森森森∴∴∴∴∴↓川∴∴∴∴∴森森森
森∴∴∴∴∴∴∴┌┘∴∴∴∴∴∴森森森
∴∴久留米市∴┌┘∴∴∴∴∴∴∴∴森森
∴∴投馬國◎←┴──┐∴∴∴∴∴∴森森
∴∴∴∴┌┘筑∴∴∴└┐∴∴∴∴∴∴森
∴∴妻┌┘後∴∴∴∴∴└←←←←←∴森
───┘川∴∴∴∴∴∴∴筑後川∴∴森森
←至有明海∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴森森
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴森森
 

【 邪馬壹 】は【 ヤマト 】

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時12分15秒
  【 邪馬壹 】を何と読むかについて考えてきましたが、結論としては【 ヤマト 】に落ち着きました。

その理由を説明しましょう。

中国の辞典で【 壹 】を調べたところ次のように記載されていました。

1.一的大写⇒一の大文字
1.(形声。 ⇒形声文字

壹 - 龍維基
www.longwiki.net/%E5%A3%B9

つまり【 壹 】は【 形声文字 】で【 一の大文字 ( 一の仮借 )】ということになります。

**********

か‐しゃ【仮▽借】

漢字の六書(りくしょ)の一。
音はあるが当てるべき漢字のない語に対して、同音の既成の漢字を意味に関係なく転用するもの。

**********

漢字の 90%、つまり殆どは【 形声文字 】に属しています。

そして【 形声文字 】とは、義符 ( 文字の意味を表す部分 ) と声符 ( 文字の読みを表す部分 ) から成り立っています。

例えば【 至 】は象形文字で【 地面に矢が突き刺さった 】形を現しています。

この象形文字の【 至 】を形声文字にしたのが【 到 】です。

【 到 】は象形文字 ( 義符 ) の【 至 】と声符【 り ( 刀 )】から出来ています。

声符【 り ( 刀 )】の音は【 トゥ 】です、したがって【 到 】の読みは【 ト 】になります。

さて【 壹 】の声符は【 豆 ( dou4 )】そして義符 ( 文字の意味 ) は【 士+冖 】になります。

豆 - 龍維基
www.longwiki.net/%E8%B1%86

上のホームページで、スピーカのアイコンをクリックすると中国語の発音が聞けます。
中国のホームページのために、ダウンロードに数秒かかります。

【 壹 】の声符は【 トゥ 】です、したがって【 邪馬壹 】は【 ヤマト 】と読む事になります。

では何故、私たちは【 壹 】を【 イチ 】と読むのでしょうか ?

【 壹 】を私たちは【 数字の一 】と認識しています。

【 壹 】の本来の意味は【 数字の一 】ではありません、これについては後で説明します。

【 数字の一 】の大字としての【 壹 】の読みは【 イチ 】になります。

これは文字の【 仮借 ( 借字 )】のルールに従ったからです。

【 仮借 ( 借字 )】のルールについての、良い例があります。

**********

 漢書 高帝紀
【 高祖爲人隆準而龍顔 】
( 訳 ) 高祖は鼻が高く 而して額が広い

この文章に【 服虔 ( フッケン )】という人が注釈を行っています。

【 服虔曰準音拙 】
( 訳 ) 服虔曰く 準 ( ジュン ) の音は拙 ( セツ )

**********

服虔は、本来は【 拙 】と記載すべきところを【 準 】を用いた ( 仮借した ) したがって、この場合【 準 ( ジュン )】は【 拙 ( セツ )】と読みなさい。

このように述べています。

wajin3.web.fc2.com/keiseimoji/

上のホームページに【 放送大学 】の一部が置いてあります、参考に観てください。

では【 壹 】の本来の意味は何だったのでしょう。

【 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 】
( 訳 ) 掖邪狗等は率善中郎將印綬を一同 ( 壹 ) に賜り、お礼の儀式 ( 拜 ) を行う。

『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
【 自初為郡縣 吏卒中國人多侵陵之 故率數歳壹反 】
( 訳 ) 初めて郡縣と為して以来、中国人の兵卒・官吏は陵 ( 墓 ) を荒らす。
________故に数年の間、中国の総大将に ( 地元民は ) 一同 ( 壹 ) で逆らう。

卒=兵卒
吏=官吏

【 壹 】の本来の意味は【 一同 】あるいは【 等しく 】と言う意味です。

このときの【 壹 】の読みは【 ト 】になります。
http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/
(注・これについては先行説を参考にしました
 

【 邪馬壹國 】は熊本平野

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時10分8秒
  魏志倭人伝に記載されている各國を比定する際に、最も重要なのは【 道里 】と【 方位 】を知る事です。

倭人伝に記載された【 道里 】と【 方位 】の精度が高ければ、各國の比定にそれほど手間はかからないでしょう。

ではさっそく倭人伝の一里は現在の何メートルに当たるのか、調査してみましょう。

【 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 】

郡から狗邪韓國 ( 後の伽耶國 ) まで海岸を船で行き【 七千餘里 】と記載されています。

郡をソウル、そして狗邪韓國を泗川に比定した場合、この間の海岸線の長さは 963.87kmになります。

したがって、倭人伝の一里は 137mという事になります。

では一里は 137mとした場合、その精度を調べて見ましょう。

一大國は【 方可三百里 】と記載されています。

方 - 龍維基
www.longwiki.net/%E6%96%B9

中国の辞典【 方言集シ匚 】に【 方 】の意味は【 円 】と記載されています。

すると一大國 ( 壱岐 ) の円周は【 方可三百里 ( 400里×137m )】は、41.1kmになります。

現在の壱岐の面積は 133.81Kuです。

133.81Kuを円面積とした円周は 41kmですから、倭人伝の【 方可三百里 】と見事に一致します。

では【 方位 】のはどうでしょう。

【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】

對馬國から見た一大國の【 方位 】は南となっていますが、対馬から見た壱岐の方位は【 東南 】になります。

【 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 】

女王國から東へ渡海したところに【 復有國 】と記載されていますが、女王國の港を伊都國 ( 博多湾付近 ) とした場合、東に向かって渡海できる海は有りません。

おそらく東の國とは、山口県の南岸のことだと思われます。

この二つの例からみても、倭人伝の【 方位 】は現在の方位と、反時計回りに 45度のズレが有ります。

したがって倭人伝の【 方位 】を現在の地図で調べる際は、【 南は東南 】【 東南は東 】【 東は東北 】と読み替える必要があります。

多くの人は福岡県前原市に伊都國を比定していますが、私も前原市三雲に比定しています。

【 東南至奴國百里 】

伊都國 ( 三雲 ) から東へ百里行ったところに奴國が在ると記載されています。

百里とは 14kmですから、大濠公園付近になります。

奴國には【 二萬餘戸 】の家が在ると記載されていますが、一戸あたりの居住者数を 4〜5名とした場合、消費カロリーから計算した耕作面積は 70m×70m程度になります。

これを【 二萬餘戸 】に広げると 100Kuほどになりますが、この面積は福岡平野と同面積です。

つまり奴國は福岡平野全域に比定する事になります。

【 東行至不彌國百里 】

奴國 ( 大濠公園 ) から東北に百里行ったところに不彌國が在ると記載されています。

大濠公園から 14km行ったところに香椎があります。

不彌國は香椎に在ったと思われます。

【 自郡至女王國萬二千餘里 】

郡から女王國まで萬二千餘里と記載されていますが、郡から不彌國までの各区間の道里を合計すると、10,700里になります。

すると不彌國から女王國までは、残り 1,300里ほどになります。

1,300里とは、約 180kmほどです。

【 南至投馬國 】

不彌國の東南に投馬國が在ると記載されていますが、香椎に在った不彌國から東南に向かうには、福岡平野 ( 奴國全土 ) を北から南へ縦断する事になります。

投馬國には【 五萬餘戸 】の家が有ると記載されています。

投馬國は奴國の 2.5倍の耕作面積が必要ですが、福岡平野の南に在って、それほど広大な平地を探すとすれば、筑後川流域が頭に浮かびます。

投馬を呉読みにすると【 ヅマ 】になりますが、かつて久留米から八女市一帯を【 妻 】と呼んでいますが、投馬國はこの付近に在ったと思われます。

【 南至邪馬壹國 女王之所都 】

投馬國の東南に邪馬壹國の都は在ったと記載されています。

邪馬壹國には【 七萬餘戸 】の家が有ると記載されています。

奴國の 3.5倍の耕作面積を筑後川流域の東南に求めるとすれば、熊本平野を置いて他には無いでしょう。
http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/
 

応神東征

 投稿者:倭人  投稿日:2011年 1月10日(月)12時03分29秒
  私は大和は熊本県にあった邪馬台国の直轄地であったと考えている。

大和には欠史八代の物部氏王朝があり、やがてその後半は蝦夷の倭根子王朝によって変わられる。

そして、邪馬台国に追われたクナ国の崇神天皇が第三次大和王朝を開く。クナ国は日向にあり、この崇神東征が神武東征のもとになる。

しかし、この第三王朝の仲哀天皇は、熊本県の熊襲(邪馬台国)に敗れ、さらに大和まで再び襲われる。こうして、大和を奪回した邪馬台国の応神天皇は、遷都して今の第四次大和王朝を開くのである。
 

無学人さん

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月10日(月)10時15分26秒
  ようするに弥生時代だと、銅鏡を除くと文字の遺跡がほとんどないわけです。銅鏡に書かれてあることも、なんかのおまじないみたいなもので、「○○天皇の鏡」とか「倭王(大王)○○の鏡」と明記しているわけではないのです。
すると、史料は後代の文献――信憑性の高いもので行くと『古事記』――しかないわけです。『魏志』や『後漢書』をやけに学者は重視しますが、それは確かに貴重な資料名のですが、中華思想でゆがめられているうえに「断片的」な記録しかない。
そうすると、やはり『古事記』を基に、中国史書をいかに矛盾しないように解釈していくか、それ以外に方法はないわけです。
安本美典氏は結構な右翼ですが、それでも「『古事記』の系図は信用できない」としています。然し、私は信用できると思う。稗田阿礼は天皇家の系図を必死になって覚えたはずです。そして、その『古事記』を基に造作の多いとされる『日本書紀』の史料批判を行うべきだと思います。

>文字記録の年代確定だけでも大変な作業と思います。<
その通りです。だから、私も「だいたいあっている」とは思いますが、「絶対あっている」とは口が裂けても言えないわけです。私は素人なので、その点ご了承ください。
 

RE:何だかわからないね

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月10日(月)09時36分33秒
  何だかわからないね?え?
解法者さんも支持していただろうに。みなさんも過去ログを見ましょう。氏は一世紀の首都は筑紫、三世紀以後は大和、二世紀はよくわからないという考えのようですよ。
 

大昔だと

 投稿者:無学人  投稿日:2011年 1月 9日(日)13時14分42秒
  大昔だと学者の色んな説ごとに年代が在るという事でしょうか。
文字記録の年代確定だけでも大変な作業と思います。
仕事の少ない現代を思うと歴史調査を国が事業として

取り組めば面白いと思うのですが。年表が在ると理解の
参考になるので助かります〜
 

『古事記』による皇史年表

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 9日(日)08時50分46秒
  「倭国通史編」は私の説を皆様に知っていただくために書いたもので、論証は最小限省いております。皆様には「こういう説もある」ぐらいにとりあえず、考えといてください。
もっともわかりやすくないと困る、それは確かにそうです。やはり、年表にした方がわかりやすいでしょう。

年表
天孫降臨   紀元前4世紀?
山幸彦    紀元前327年    ホホデミ王朝開始
五瀬東行開始 紀元前37年
神武東征終了 紀元前29年     大和分流王朝開始
綏靖天皇   紀元前14年
――欠史八代(省略)――     欠史八代実在説―紀元前一世紀〜〜二世紀
崇神天皇   212年       このころ、九州で甕依姫即位?
垂仁天皇   228年
 

年代

 投稿者:無学人  投稿日:2011年 1月 9日(日)07時50分5秒
  年代関係がまるで判らないのですが
どこかに判り易い年表は在りませんか?
並記してあると理解し易いと思うのです・・・
 

何だかわからないね

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)23時20分45秒
  >一世紀の大和は「非、首都」であり筑紫が「首都」であること、多くの学者が
認めつつある<
 これって誰?

>神武東征も「神武東遷」のような首都移動ではないことも事実である<
 神武東征なら有り得るが、首都移動ではない? 首都? ずっと九州かいな?
 それといつまで?

 九州王朝説の方がいらっしゃったが、解説して頂戴!
 

0>149と本気で考えている歴史の観察者

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月 8日(土)15時51分41秒
  >無理筋理論をもっていく手法・・歴史を学ぶ者、もうすこし謙虚なる姿勢・・。
まあ、このような可能性見方もあるのでは? と、この程度でおさめるべきが一番宜しいのでは?・。<
>至極あっさり簡単にもっていかれては・・書かれていること一応は読まさして頂いたが、
お宅さまの、その意見は、その意見として、横に置かさして頂くとしても、致命的な欠陥が
あります・・その都のあとがない<
福岡県に都の跡がない…と、歴史の観察者氏は述べていおられる。しかし、少なくとも一世紀の大和からは都は無論、「銅鏡一枚」さえ発見されていないのである。
一方で、一世紀においては銅鏡が149枚も発見されている、福岡県の方がはるかに首都にふさわしいのである。

>福岡のどこに高千穂の峰あるんや・・それが志賀島け?、高天原は釜山け? 扶余け?

そんなこと一言もいっとらん!ちゃんと福岡県には高千穂があることは既に述べた。高天野原が朝鮮?そんなこと全く言っていない。
>完全に『古事記』『日本書紀』無視の、・・無茶苦茶のことゆうて御座るなも・<
『記紀』を無視しておられるのはあなたです。
 

皇国史論「倭国通史」編D金印と大倭の論証<下>

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)15時42分35秒
  「欠史八代」とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの八代で、天皇名、おくり名(和名)、宮、皇后、皇子、皇女など、必要事項しか記載されていない代を指す。

言い換えれば「統治時代の事績がない」つまり「帝紀」(系譜)のみで「旧事」(事績)のない天皇が八代続いたということだが、これをして「これら八代の天皇は実在しない、造作された天皇である」ことの証左とする見解がある。しかし、事績がないということでは、古事記では上の八代に加えてさらに実在が疑われたことのない第24代仁賢天皇から33代推古天皇までの十代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまうだろう。

また、実在するのは祟神天皇からで、それ以前の9代は大和王朝をより古く見せるために造作した――とする見解も根強いが、それならわずか9代の造作などといわず、20代でも30代でも創作すればよかったわけで、それをしなかったということは、9代が史実だったからに違いない。

ところで、今、八代は事績がない、と言ったが、実は2代目の綏靖天皇にはわずかながら事績がある。多くの「八代欠史」論者が見落としている点であり、津田氏学の弊害の一つであろう。(というのは「三種の神器と神武天皇が出てきたら帝国主義の亡霊」とされてきた学界ではその神武の息子・綏靖天皇の説話を考察することさえ、タブー視されていたからである)

綏靖天皇の即位前記に当たる部分は次の通りだが、意外に重要な事績・事項が網羅されている。


@綏靖天皇ことカムヌナカワミミは、神武天皇の第三子とある。これはタギシミミ(母はアイラツヒメ)、カムヤイミミ(母はカムヌナカワミミと同じヒメタタライソスズヒメ)に継ぐ三人目ということである。

A長子で腹違いの兄タギシミミは、年嵩がいっており、長いこと治世の要枢をになっていた。けれども、タギシミミは仁義の心がけに欠けており、神武天皇の諒闇中、自分が後継者たらんとして二人の弟を亡き者にしようと考えていた。

Bこれを察知したカムヌナカワミミは、兄のカムヤイミミと図ってタギシミミを誅殺することにした。
 最初、カムヤイミミが矢を射ろうとしたが怖気づき、カムヌナカワミミが代わって射り、首尾よくタギシミミを殺すことに成功した。

Cタギシミミ亡き後、皇位継承権はまずカムヤイミミにあったが、惰弱な兄に代わって弟のカムヌナカワミミが2代目後継者となった。


以上が「欠史八代」の中で、他の7代には見えない第2代だけが持つ事績である。

Aを私は重く見る。というのは「長いこと治世の要枢をになっていた」(原文は「行年、已に長けて、久しく朝機を歴たまえり」)の部分だが、これを看過してはならないと思うのだ。「久しく朝機を歴(ふ)る」とはひかえめに言っても「王権の中枢にいた」、重く解釈すれば「王権の中心だった」となろう。

すると、一般に言われているように「欠史八代には王位継承が異常なほど平和裏だった」というのは真っ赤な嘘となる。

さらに、欠史八代のうち四代に使用される「大倭」の二文字、これはなにか。津田氏学では造作とされてきたが、津田左右吉のいう「造作者の気まぐれ」ですべてを解決するのは学問ではない。やはり、これは「実際に大倭だった」のであろう。

前述のとおり、「大倭」は「たいゐ」と呼ばれた倭国の官職の一つであると考えられる。もっとも詳しいことはわからないが、当時の大和、それが「倭国の中心」に非ず、というのは既に証明した。

特に一世紀、奈良には「何もない」のである。(だからこそ欠史八代と言われるのであろう)所謂「葛城王朝?」とされる遺跡もせいぜい二世紀ごろまでしか遡れない。

「欠史八代は実在した」しかし、その頃の大和は「非、首都」なのであった。(詳しい証明は「多元史観編」を参照)

ならば、「首都」はどこか。大和は「非、首都」である。

さて、一世紀といえば後漢の時代、その頃使用されていた鏡を「漢式鏡」という。

それでは、漢式鏡の分布を見てみよう。

福岡― 149点
佐賀―  11点
兵庫―  2点
山口−  1点
岡山―  1点
奈良―  0点
他 − 1点

もうこれでお分かりであろう。中心地はどう考えても福岡県である。少なくとも、一世紀においては。

その一世紀、福岡県が「首都」であることを裏付けるかのように、志賀島の金印が存在している。この金印を受け取った「倭王」即ち「筑紫天孫王朝の直系」であろう。大和からみれば本家にして主君、それが筑紫なのである。

他に詳しい論証はもうすでにしたので繰り返さないが、一世紀の大和は「非、首都」であり筑紫が「首都」であること、多くの学者が認めつつある。したがって、神武東征も「神武東遷」のような首都移動ではないことも事実である。

これを仮に「金印と漢式鏡の論理」と名付けておく。
 

RE:どうしていつも簡単に意見を変えるのか

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)14時51分16秒
  どうしていつも簡単に意見を変えるのか、それは私の考えに誤りが多いからですよ。だから降参宣言も出したわけです。
一方で神武天皇実在説・邪馬台国九州説・天孫降臨実在説は長い間考え続けたこと、政治では「浅学」ですが、歴史ではそれほど誤りはないと自負しています。(もちろん細かいところはいろいろ間違いはあるでしょう、だから私の『皇国史論・倭国通史編』ではあえて細かい部分は無視しています)
見苦しくても少々我慢していただきたい、全ての人が解法者氏と同じぐらいの知識を持っているわけではありません。
 

名称にこだわるな

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)12時38分39秒
  人頭税でも直接国税でも一緒

>徴兵制の公平性に反する。「無銭有役、有銭無役」となり不平等が拡大し
国が持たなくなる。<
いや、それはない。国全体が貧しいと軍事力が上がり、金持ちだと経済力が上がる。これほど優れた制度はない。(もっとも短絡的に考えてのことだけど)

金持ちは経済力で国に奉仕し、貧乏人は軍事力で国に奉仕。解法者氏自体が貧富の差の解消を考えていないのだから、(確かに貧富の差を極端に解消すると共産主義になってしまう)
少しでも貧富の差がある今はこれの方がいいだろう。

金持ちは経済力で国に奉仕し、貧乏人は軍事力となって皇国に奉仕する、それが「皇民主義」である。
 

皇国史論「倭国通史」編D金印と大倭の論証<上>

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)12時31分45秒
  綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇
安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇
懿徳天皇 - 大倭彦耜友天皇
孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇
孝安天皇 - 倭足彦国押人天皇
孝霊天皇 - 大倭根子彦太瓊天皇
孝元天皇 - 大倭根子彦国牽天皇
開化天皇 - 若倭根子彦大日日天皇

これが欠史八代の天皇です。定説では神武天皇とともに架空とされています。

然し、私は神武天皇も天孫降臨も事実としましたそうすると、欠史八代も事実とするのが筋です。

さて、この欠史八代には一つの特徴が見られます。それは「大倭」の二文字が半分近くの天皇に入っている、という事実です。この「大倭」は『魏志』にも出てくる官職名なのです。

使大倭之を監す。   『魏志』

この「大倭」とは市場を監視する官職です。これまで欠史八代は架空視されてきましたが・・・・なぜ、この「大倭」がすべての天皇にないのか、説明した人は一人もいません。

これは左翼史観の弊害、『魏志』にはちゃんと「大倭」(当時は「たいゐ」と発音していたようである)の二文字が存在するではないか。

そう、欠史八代には「大倭」だった天皇と、そうで無かった天皇がいたのである。

さらにこの帰結は次の結論を導き出す。

「大和大王家(天皇家)は『魏志』で言う邪馬壹国の臣下だった」と。

さて、筑紫で天孫降臨があったことは論証しましたが、大和の本家は九州にあったわけです。その「本家」が「邪馬壹国」なのではないか、というのが私の考えです。

この帰結を支持するもの、それは志賀島の金印である。なぜなら、「金印」は『北史』によれば邪馬台国の王に後漢が授けたとあり、また、大和からは金印が見つかっていないからです。

つまり、倭国では

筑紫「金印」をもつ「漢倭奴国王」=本家

大和「大倭」たる分家

ということになっていたと考えられるのです。
(続く)
 

何を考えているのか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)12時08分18秒
  >貧乏人は徴兵して軍人にすればよい。一方で、富裕層に対してはそれが払う
人頭税に応じて徴兵を免除する<

 徴兵制の公平性に反する。「無銭有役、有銭無役」となり不平等が拡大し
国が持たなくなる。
 

どうしていつも簡単に意見を変えるのか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)12時03分3秒
  >ならば「直接国税」としましょうか?<
 簡単に意見を変えるということは、思いつきで意見を述べているということ。
 見苦しい!
 

TPPの批准は当然だ(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時59分46秒
   日本の第一次産業の全体に占める割合はわずか1.6%にしかすぎない(「国民経済計算年報(平成16年度)」内閣府経済社会総合研究所)。農業の占める割合は1.4%であるとされる。農業従事者も3.8%にすぎない(平成17年度「国勢調査」)。こうしたわずかの農業のためにTPPにより恩恵を受ける他の産業が犠牲になるのは許しがたいと批判されるのは当然であろう。
 こうした議論の際に常に言われるのが「日本の農業の自給率=食糧安保」だ。
しかし食糧は世界の輸出品である。食糧がその国にとって重要であれば輸出品となりそうでなければ輸入品となる。それだけのことである。食糧が重要であるならば生活の三大必需品である「住居」、「衣服」はどうであろうか。こうしたものになぜ<自給率>が叫ばれないのであろうか。日本国民が「安全」で「良質」な農産物が必要なら日本の農産物を購入するはずである。しかし、国民は「安価」に目が向いている。これがオカシイのか、それとも「安価」な農産物を提供できない現在の「農業」がオカシイのかどちらかである。こうした現状に目をつぶって日本の農業の自給率を高めようなどと叫ぶこと自体がオカシイ。
 TPPの導入は日本の農業に打撃を与える。援助づけになっている日本の農業を覚醒させ競争原理を導入するためにもTPPの導入は必要である。日本人の持つ精神は必ず農業従事者の再生を構築するであろうが、打撃が顕著であり、また再生に時間がかかるのであれば、時限的に保障なり援助すればよいと考える。
 それにしても下記食糧の関税率は高く、それは消費者の高負担というツケに回されている。
★ 関税率
 米    1キロ  402円(関税率に換算すると 780%)
 肉    50%
 野菜   5%〜10%   芋類        20%
               こんにゃく芋  2308%
 酪農品  バタ− 25%  甘味料を含むもの  35%
 

TPPの批准は当然だ(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時57分0秒
   これらの協定に反対してきたのが農業団体である。とりわけTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)を締結すると関税の例外が認められないため、農畜産物が日本に安価で輸入され農業が大打撃を受けるとして反対している。しかし、競争のない社会はない。これまで自民党政権により長い間農畜産業は援助づけになっていた。その結果、農畜産業従事者は政府からの援助に頼って競争という文字を忘れていた。近時、一部ではあるが農産物が中国・台湾などに輸出され好評を受けている。つまり、高価とされる日本の農産物も品質の良さで海外で勝負できることがわかってきたのである。日本の農業も競争意識が高まったということであろう。  

それが問題

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時56分55秒
  >この協定(条約)の特徴は関税の例外を認めないことで、これまでの二国間協定(条約)とは大きく異なる。<
そう、だから問題なんです。生産力の強い豪州(農業)やアメリカ(工業)相手に関税を撤廃すると…これ、「日米修好通商条約」と同じだろ!
 

解法者も与謝野も管直人信仰の信者

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時53分48秒
  失礼な題になった。然し、事実解法者が小沢以上に菅直人を支持していることは事実である。親友に民主党員でもいるのだろうか。
どうせ民主なら「前原首相」だったら申し分ないが。
 

TPPの批准は当然だ(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時51分57秒
   これまで貿易障壁を撤廃する方式として、WTO(世界貿易機関)があった。これは物品の交易における関税の撤廃・数量の規制制限や金融・情報通信・知的財産権・サ−ビス貿易などの国際通商ル−ルを協議するものである。しかし、これには多国間の合意が必要のため、いきおい妥協的なものとなり必ずしも実効的とはなってない。
 そこで二国間での合意が可能なFTA(自由貿易協定)が主力を占めるようになってきた。これは関税の撤廃、企業への規制の排除などの物流を中心としたものである。しかし協定締結国間に他国に先んじて有利な利益を持つという利点があるものの二国間協定のために協定内容がまちまちで広域性を持たないという欠陥がある。
 さらにFTA(自由貿易協定)をもう少し広げて知的財産権の保護、投資のみならず幅広い分野での関係強化・協力を目指すものとしてEPA(経済連携協定)が台頭してきた。これも二国間協定のために同じく広域性を持たないという欠陥がそのまま残っている。
 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は、元々はシンガポ−ル、ブルネイ、ニュ−ジ−ランド、チリなどの環太平洋の小国の地域協定として2006年に発足した。ところが、アメリカがリ−マンショックで金融危機に陥ったのをきっけに貿易拡大を目指し、これに積極的な参加を表明し、アメリカ主導のもとでオ−ストラリア、ペル−、マレ−シア、ベトナムなどが参加を表明している。この協定(条約)の特徴は関税の例外を認めないことで、これまでの二国間協定(条約)とは大きく異なる。
 

日本の農業を守れ

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時50分59秒
  TPPなどしたら日本の農業は大混乱する。菅直人は国を韓国に売り、中国に売り、豪州・米国にも売るつもりか!
そんなもん、国がいくつあっても足りん。
解法者氏はいつまで管を支持している!管より小沢の方が千倍もましだ!
 

TPPの批准は当然だ(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時46分1秒
   「環太平洋戦略的経済連携協定」(TPP)の批准推進に向けて「菅 直人」首相が一度は表明したものの党内の反対から提案を見合わせている。自民党も及び腰である。それは農業団体の反対にある。
 日本は輸出に依存してはいないが(10.71%、韓国−43.64%、中国−24.48%、ドイツ−33.35%、イギリス−16.11%、フランス−13.12%、ロシア−24.55%〔いずれも2009年〕)で、先進国の中ではアメリカ(7.41%)に次いで低い(資料はいずれも下記)。これはそれだけ国内で国民の購買力があり、それで経済が賄われているからである。
 しかし、だからといって輸出が必要でないというわけではない。輸出の増加はさらに国力を増進させるからである。輸出を増やすには貿易障壁をできるだけ撤廃しなければならない。これも日本の輸出についての貿易障壁を撤廃することを相手国に求めることはできない。相手国からの輸入の貿易障壁を日本が撤廃しなければならないという相互主義が存在する。
★ 輸出依存度
  財の輸出÷名目GDP
★ 『中国がなくても、日本経済はまったく心配ない!』三橋貴明 ワック
 2010年12月30日 19頁
 

出典を忘れました

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時35分17秒
  『新古代学』より引用。  

しみちょろさん

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時34分16秒
  ならば「直接国税」としましょうか?  

和田家文書についてB

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時33分8秒
  さて、筆跡のほかに偽作論者は内容に文句を言っていた。一々取り上げる必要がないほど、支離熾烈なものだが、中にはこれを信じている馬鹿もいるので古田氏の反論を引用する。(というのは、私が使用している『東日流六郡誌大要』がこの偽書派の説により偽書扱いされたからである)

「大和桜の反証」

−−日本のドレフュス事件−−

古田武彦

       一
 『国史画帖・大和桜』は、偽作論者の宝典だった。「和田家文書の偽作性の立証は、これできまり。」そのように信じ込んだ人々も、少くなかった。−−しかし、今、原本(画帖、それ自身)を手にしてみると、事実は全く逆、この画帖こそ「和田家文書が真作であった」こと、その事実に対する絶好の証人、無類の証言の書だったのである。

        二
 八幡太郎義家と安倍貞任をめぐる「衣川の戦」、これは両書(画帖と和田家文書)に共通 の題材を扱っているから、対比上、貴重である(多くは、題材が異っている)。
和田家文書の場合、「東日流六郡誌考察図」の中にある(『東日流六郡誌絵巻・全』津軽書房、及び『東日流六郡誌大要』八幡書店、以下「考察図」と言う。)。その図柄は、義家と貞任の二人がそれぞれ矢筒を背負い、弓を手にし、馬に乗っている(A図)。これに対し、画帖の場合(B図)、義家と貞任と、二人の姿(馬と人)が酷似している。この点から、両書の間に(直接にせよ、間接にせよ)関係のあること自体は疑えない。これが今回の問題を生じた原因(の一例)であろうと思われる。(中略)

       三
 義家の戦功を画いた著名の名画に「前九年の役合戦絵巻」がある。十三世紀中葉の成立であるが、ここには、あの「衣川の応答歌」の場面はない。義家が「衣の館はほころびにけり」と呼びかけ、即座に貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と答えたという、文字通 り「画になる」場面は画かれていないのである。これに対し、同時期に成立した『古今著聞集』にはじめて右の応答歌の説話が登場する(これ以前の今昔物語集などには、ない)。従ってこの応答歌は「和歌者流の創作」というのが、『大日本史』以来の通説である(『大日本百科』小学館、参照,。)
そこで、次の三段階が存在しよう。


 古形(A型)−−応答歌ナシ
 新形(B型)−−応答歌アリ
 改変形(C型)−「鎧を引きちぎる」


考察図は、右のA型に属している(津軽書房版)。これに対し、同じ考察図でも「八幡書店版」の場合、B型に属している(この問題については、後記)。
ところが、画帖の場合、C型である。人口に膾炙した、つまり平凡なB型にあき足りず、「鎧を引きちぎる」という、一層「画になる」新工夫を導入したのである。この画の作者、延一(明治二十三年以降、歌川派)の手法であろう。そのため、画の構成に無理を生じたこと、前述のごとくである。

【引用者注】
「4」では八幡書店出版の『東日流六郡誌大要』とその原本の違いが述べられているが、省略。

      五
 第二に対比すべきは、「高星丸脱出」と「曽我の夜討」である。このケースは、両書題材がちがう。ちがうけれど、男二人、女一人の姿勢の酷似していること、一目瞭然だ。ここでも、両書の間に(直接にせよ、間接にせよ)関係のあることは明瞭である。
 しかし、子細に観察すると、前者が図柄として百パーセントと言っていいくらい「自然」なのに対し、画帖は「不自然」きわまる構図となっている。(当画は、秀湖。明治二九年没、楓湖の門人。)
まず、考察図の場合、貞任の自決のあと、遺児高星丸を落ちのびさせるため、乳母の 一の前が抱いて外に出ようとする。(中略)その後方に管野左京が抜刀寸前の姿勢で、侵入者を警戒している。さらに右端上方では、高畉(=畑)越中がかがり火をさし出して、落ちのびるべき路をさししめしている。(中略)すべて、脱出の緊迫のただよった名場面である。
これに反し、画帖の場合、女中風の女性が雪灯(ぼんぼり)を抱きかかえている。雪灯は、外を照らす明かりであるから、下を支えるか、上からつるすか、いずれにせよ、中間の和紙を張った部分を外に露出させなければ、用をなさぬ。(中略)
 さらに不自然なのは、十郎(向って右側)の持つ松明(たいまつ)だ。ここは、敵、工藤祐経の邸内である。この点、考察図が自分の邸(安倍館)からの脱出であるのと、全く逆の設定だ。だのに、あかあかと松明を焚いて侵入するとは。(中略)「潜入」の態をなしていないのである。(中略)
これに対し、これほどの「改変型」をもって原型とし、「古型」をもって現代人(和田喜八郎氏)の偽作視するとは。正気の沙汰ではない。先入観をもって見れば、「見れども見えず。」その好例として、後世に語り継がれることであろう。

【引用者注】
結論として、両図の間には間接的関係はあるが、直接的関係はないと言えるだろう。「曽我の夜討」の原図とも言うべきものを、『東日流六郡誌大要』の作者が「高星丸脱出」を描く際参考にしたと思われる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furut033.html
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furut034.html

(中略)
     八
 画帖の序文には、次の一文があった。「吾社茲に感ずる所あり、国史画帖、大和桜を刊行して聊か精神教育の資料に供せんと企図し、資料は我が国神代より明治維新に至
る間の歴史により、絵は古今に於ける武者錦絵中の日本趣味豊かな名画より採り、どこまでも本書の題名に相応しい感じを与へたのが本書の特色である。」
 わたしは当画帖にもとずく「偽作」論証にはじめて接したとき(『季刊邪馬台国』五号)、その所載絵画が「昭和十年の創作画」として扱われているもの、と信じた。なぜなら、その一点を既定事実とせぬ以上、「昭和十年以降の『偽作』説」は、論理上成立しえぬこと、自明だからである。(中略)
 けれども、事実はそうではなかった。逆に、明白に「昭和十年時点の創作画ではない。」と明記してあったのである。「偽作」論者は、この記載事実を隠した。読者の眼前に紹介しなかった。なぜか。この記載事実を紹介すれば、「偽作」説は、簡単には成立しがたいこと、自明だからだ。だから隠したのである。卑劣としか言いようがない。(中略)
 以上によって知られるように、本稿で扱った「考察図」が「古型」であるという事実は、必ずしもそれらが孝季の「創作画」であることをしめすものではない。将来の研究によって、孝季の依拠した元絵類が、彼以前の錦絵や下絵類から発見されること、期して待つべきものがあると言えよう。
 要は、このように学問上当然至極の探究を一切行わず、自家の「偽作説」に不利な文章をひた隠しにしたまま、「この大和絵問題で、『偽作』は決定」したかのごとく宣伝しつづけ、偽わられた賛同者を増やしつづけてきたこと、その非はいかに強調してもしすぎることはないであろう。
さらに、それに“上乗り”し、紙面にこの問題を大きく扱って、青森県下に「偽作説」ムードをもり上げ、そのため「和田一族いじめ」の風を瀰漫させ、「いじめ」問題を惹起したジャーナリズムの責任は重大であると言うほかはない(東奥日報、一九九三、十二月五日)。
【引用者注】
まさに偽作論者の主張はとんでもないものである。「昭和十年時点の創作画ではない。」と明記してあった絵を「昭和十年時点の創作画である」と嘘八百の主張をしていたのだ。そして、いまだに原田実や「東奥日報」はその主張を続けているようである。(『偽書「東日流外三郡誌」偽書事件』ではいまだにその嘘が記載されている)なお、中略部分で論証された絵のリンクを載せる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furut036.html

(中略) 「偽作」論者の拠説は、すべてこの種の「論理的思考の不在」に非ずんば、「先入観にもとづく悪意」に満ちている。まことに、わが国の現在と未来の学問のために、「寒心」せざるをえない。

 (後略)

 

(無題)

 投稿者:しみちょろ  投稿日:2011年 1月 8日(土)11時09分34秒
  いまどき人頭税なんて愚の骨頂。誰も支持しないYO  

貧乏人から徴兵し、富裕層から税金を取れ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)10時57分57秒
  解法者氏ほどの人物ならわかっているはずだが、私は

「金のない貧乏人から税金とって何の意味がある!」

と言いたい。金がないから貧乏人なのであって、金があるのなら富裕層である。

貧乏人は徴兵して軍人にすればよい。一方で、富裕層に対してはそれが払う人頭税に応じて徴兵を免除する。

年間人頭税納税額と特権の割合・試案
10000円   国防大学受験権
100000円   相続税半額免除
1000000円  所得税半額免除
10000000円  徴兵半期免除
100000000円 相続税全額・固定資産税半額免除
500000000円 徴兵全期免除
1000000000円 所得税全額免除
(注・人頭税の納税は任意とする
 

大政翼賛会を復活せよ

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 8日(土)10時45分56秒
  何度も言ったように立ちあがれ日本の目標は大政翼賛会の復活、挙国一致内閣を作りその上で自主憲法を制定することになる。

菅直人じゃなかったら、(もし小沢だったら)民主党とたちあがれ日本が連立を組んでも不思議はない。事実、鳩山政権時代は私は民主党支持だった。(民日連立を望んでいた)

与謝野馨?あれは人気取りのために入っていただけ。鳩山政権のときは重要な切り札だったけど、今は危険な人物。これを機に石原都知事は「与謝野追放」をしてくれるだろう。そのあたり、楽観できる。
 

「たちあがれ日本」はゴミ政党だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 7日(金)23時18分43秒
   与謝野馨共同代表が「民主党」の連立工作に傾きかけたが、「たちあがれ日本」の
幹部の反対で連立はご破算となった。与謝野馨共同代表の話では平沼赳夫共同代表も
乗り気だったとか。平沼赳夫共同代表は否定するが、そういう話が出てくること自体
この党の末路を物語っている。また、それが事実でないにしても共同代表自身がそれ
に乗るなんて信じがたい。
 この党の党是は一体何だったのか。日野護国運動家さんはこの党をヨイショする
が、政治オンチも甚だしいね。大いに反省してもらいたいものだ。
 やはり「立ち枯れ日本」だった。
★ http://news.nifty.com/cs/headline/detail/fuji-zak20110107014/1.htm
 

私の憲法論(6)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 7日(金)22時30分30秒
  10.財産権の保障
  現行の@ 財産権の不可侵、A 財産権の公共のための制約、B 私有財産の公共への利
 用とその保障、はそのままでいい。ただし、前記のとおり財産権も法律の定めにより制
 約される。
11. 裁判を受ける権利
  現行のとおり認めるが、裁判員裁判、陪審裁判、参審裁判は禁止する。人民裁判を避
 けるためと国民の負担を無くすためである。
12. 住居の不可侵
  現行のとおりにするが、「捜索又は押収は、権限のある裁判官が発する各別の令状によ
 り、これを行う」と「司法官憲」を「裁判官」と変更する。「司法官憲」では警察官、検
 察官などを含み適当でないからである。
13.自己に不利益な供述、自白の証拠能力
  現行憲法の@ 自己に不利益な供述の強要の禁止、A 強制された自白の証拠能力の排
 除、B 自白の証拠能力の制限、は維持する。ただし、黙秘権の保障は認めてもいいが、
 黙秘権の行使による不利益は甘受する。黙秘権の発祥の地のイギリスでも近時従来の方
 針を変更しそうなっている。
14.遡及罰の禁止、一時不再理
  一時不再理はそのままでいいが、遡及罰の禁止は改正する。例えば拉致事件の加害者
 を追求するためには遡及して罰すべきである。国会での2/3の議決があったときは、
 過去に遡って罰することにする。
 

平等など絵空事だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 7日(金)12時55分50秒
   『人は生まれながらにして不平等である』 健常者も生まれ、障害者も生まれる。ある種の才能に恵まれた人も生まれ、ある種の才能がない人も生まれる。私について言えば、子供のときから機械に全く弱い。芸術的才能は全く無い。したがって、「猿でもできるパソコン」と言われるのに、やっと触っている段階を一歩も抜けだせない。才能と言えば記憶力と地理勘である。地図などは一目見て記憶できる。また道に迷ったという経験が無い。いずれも日本だけではない。自動車免許を持たないが、助手席に座っていてナビゲ−タ−代わりとなる。人には得手・不得手があるというヤツだ。
 それでも人には「平等」というなら<機会均等の平等>であり、それが確保されていれば良い。それ以上の平等は必要ない。
 社会主義・共産主義は「平等」を標榜してきた。その結果がどうだったかは、ソ連、中国、北朝鮮を見れば理解できる。つまり「平等」などは権力者の権力掌握の道具だったに過ぎない。日本でもこの手の者が跋扈している。「お手つないでゴ−ルイン」というヤツだ。
 こうした「平等主義者」(左翼と言っても過言ではない)が忌み嫌う「立身出世」が戦前までの日本の美徳だった。『末は博士か大臣か』というヤツだ。それが社会を壊したというのか? そんなことはなかろう。選挙権だって富裕層に与えられていた時期があった。日本人はこうして切磋琢磨して日本という国を作ってきた。
 「天皇」 特権階級だろう。平等に反しない? 日本の屋台骨を支えてくださるなら「特権階級」大歓迎だ!
 「資本家」が悪い。日本を支えているのは「資本家」だ。彼らが支払う税金で日本が支えられている。税金を払わない「貧乏人」が日本を支えているのではない。戦前だったら「徴兵」で国家を支えていたが、今はそれもない。
 「資本家」が悪い。貧乏人のやっかみだ。
 

法人税の減税は当たり前だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 7日(金)07時41分7秒
   2010年の税制改革で、政府は法人税の5%の引下げ(1兆5千億円の財源必要)を決定した。喜ばしいことではあるが、遅きに失しまだまだ高率である。
 法人税の実効税率に関しては、2004年に日本が今と同じ40.69%で、ドイツが38.26%、イギリスが30%、中国が33%、韓国が29.7%だった。それが2010年にはドイツが29.41%、イギリスが28%、中国が25%、韓国が24.2%
にまで軽減した(讀賣新聞 2010年〔平成22年〕12月29日 朝刊 東京13版
9面 回顧2010)。日本は全くの無策だったと言い得る。
 こんなことをしていては、企業が海外に逃げるのは必至である。雇用率が一向に改善しないのもこれが一つの要因であろう。
 

「朝日新聞」からの情報?

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 6日(木)21時14分20秒
   この左翼新聞は情報を操作するから注意するように。
 日野護国運動家さんは左翼を自称しているからいいけど。他の皆さんは注意したらよかろう。
 

「和田家文書」についてA

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 6日(木)14時46分6秒
  「和田家文書」の写真です。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Uchi_001.html『東日流内三郡誌』第壱巻
http://www.tagenteki-kodai.jp/Kihachiro_360.html『東日流外三郡誌』第三百六十巻
http://www.tagenteki-kodai.jp/Chousaku360.html同上(内、「丑寅日本国譜」)
(注・『内三郡誌』のみ原本、『外三郡誌』は現代のレプリカ、但し「丑寅日本国譜」は大正写本

和田家文書の作者・秋田孝季の筆跡は以下のリンクにあります。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Taihi_DVD024.jpg
筆跡鑑定の史料はこちら
http://www.tagenteki-kodai.jp/Shiryo_07.html
この通り、今ではだれでも和田家文書の筆跡を自由に調べることができます。「和田家文書」偽書説の方がもしこの中にいたら、じっくり筆跡を調べてください。

ここで真書派の古田武彦氏の論考を引用します。

「決定的一級史料の出現」
ーー「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅したーー
古田武彦
<古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1>

    一
 日本の歴史学は、新しい段階に入った。そして、同時に、日本と世界との新たな接点がわたしたちの視野の中に現われてきた。それは、あたかも夜明け前の霧の中から、朝日の光がもれ出ずるにも似ていた。永く夜の眠りの中にいた者が、新しい光を正視できず、目をそむけた人々の少なくないこと、当然のことと言えよう。
 わたしは、図らずも、わたしの名を冠していただいた会、その会報の創刊号に、この一文をのせはじめること、それを真に光栄に思う。思うに、この会の名は、“たとえば、古田のごとく、真実だけを求め、他の一切を枝葉末節と見なし顧慮せぬ 、現在から未来への多くの探求者たち”への、時を越えた呼びかけであり、そのために、わたしの名を“仮そめに”用いていただけただけであろう。 そしてそれこそ、わたしにとって無上の光栄に属する。この世に生きてきて過分の幸せをえたもの、そのようにもまた、言われうるであろう。

    二
「新しい段階」は、一枚の奉納額によって導入された。長さ、約七十センチ、幅、約三十三センチ、厚さ、約三・四センチの木板だ。その中央には、二振りの矛状鉄剣(宝剣)が打ちつけられている。長さ、約四八・五センチ。

その周辺の文字は、次のようである。
「(向って右側)
奉納御神前 日枝神社
(下部署名)
土崎住
  秋田孝季
飯積住
 和田長三郎
(向って左側)
寛政元年酉八月□日 東日流外三郡誌 (右行)筆起
                  (左行)爲完結」

 この奉納額に対する「所見」は、次のようだ。
 第一、「向って左側」の□は、木の「目(節目)」に当っていた。ところが、その「目」が脱落したために、そこに書かれていたと見られる「日にち(数字)」が失われた、と思われる。
 第二、同じく、「向って左側」の下端近く、「左行」二字目は、唯一、“判読しにくい文字”であるが、前後の文意、及び残存字形からすれば、「完」かと思われる。
 第三、「向って右側」上方の「御神前」や「向って左側」の「寛政元年----<左行>完結」は、やや墨色がうすれている。(甲部)
これに対し、「向って右側」中央部の「日枝神社」や「下部署名」に関しては、墨色がうすれていない。(乙部)
  この点、当奉納額が「絵馬堂」に掛けられていたさい、前面 の別の額などで、外光や風雨などから「保護」された形になっていたのが(乙部)であり(甲部)はそれがなかった(外光や風雨に直接さらされていた)ものと見られる。(後述するように、昭和五十年代初より現在までは、教育委員会で保存。)
 第四、中央の二振りの矛状鉄剣について。
向って左側のものは、下部の「止め金」がはずれ、全体“ずり落ち”やすくなっているため、裏に「紙」が入れられていた。(またさらに、今回、「紙」を補い、入れた。)これらの「紙」は、もちろん、最近のものである。
 第五、以上、当奉納額は、江戸時代(後期)の所掲物として、ふさわしい「年代変化」の相貌を各所に呈していると言えよう。

    三
 次いで、さらに一歩立ち入った「観察」をのべよう。
 第六、「下部署名」中、「土崎住、秋田孝季」(α)と「飯積住、和田長三郎」(β)とは、別 筆である。墨色も、(α)は濃、(β)は淡である。また、筆勢も、両者異なる。両方に現われる「住」字の差異を見れば、この点、特に明瞭である。
 第七、「向って右側」の「奉納御神前、 日枝神社」は、墨色・筆勢とも、右の(α)と同じである。これに対し、「向って左側」の「寛政元年酉八月□日、東日流外三郡誌、<右行>筆起<左行>爲完結」は右の(β)と、墨色・筆勢とも、同じである。
 右の二点(第六・第七)は、今後、デンシトメーター装置による、筆圧曲線の検査によって、科学的に検証しうるであろう。

    四
 本額は、青森県北津軽郡市浦村の日枝(日吉)神社の絵馬堂に掲示されていた。その事実を証言しておられるのは、土地の故老、青山兼四郎氏である。(中略)
 青山さんが本額の字面をハッキリ意識されたのは、昭和二十八年。村の依頼をうけて、当神社周辺の「測量 及び登記事務」を行ったさいである、という。三十代初頭のことである。「日枝神社」「秋田孝季」などの文字が記憶にある、という。
 その上、青山さんは、本額について認識していた人として、多くの人名をあげておられる。福士貞蔵(小学校長)・奥田順蔵(内潟村長)・佐藤万次郎・山内英太郎・山内秀太郎・鳴海藤雄・柏谷豊作・三和清吾・岡本米太郎(各財産区委員。委員長は佐藤氏)などである(古賀達也氏宛、青山書簡による)。
 このような証言者の実名を得たこと、本額の“身元”の裏書きとして、きわめて貴重、かつ幸せであった。
 というのは、昭和四十年代の終り頃、和田喜八郎氏がこれを見て、本額の貴重さに気づき、「退色」や「破損」または「盗難」などの災厄に遭うのを恐れて、これを市浦村教育委員会の保存に委ねた、という。本額の現状から見て、まことに適切な処置であったのではあるけれど、万一、これに「悪意ある中傷」を加えようとする人あるとき、右のような、青山氏他、幾多の証言者の存在は、「中傷」に対する、決定的な反証をなすものとなろう。それゆえ、本額を取り巻く現状、その関係者の御健在中に、本額が「再発見」され、学問的検証をうけるに至ったこと、その幸運を喜びたいと思う。


    七
 以上のような「偽作騒動」を一掃するもの、それが今回の「奉納額」の「発現」だ。なぜなら、「偽作」論者によって「架空の人物」視された、当の秋田孝季と和田長三郎(吉次)の筆跡が、いわゆる「金石文」に属する、同時代史料として、わたしたちの眼前に凛然と立ち現われたからである。しかも、ただ「筆跡」だけではない。「東日流外三郡誌」の執筆という、後代に遺すべき最大の事業の「完結」を、二人は神かけて祈願した。 その事実を裏書きする、最高の一等史料が疑いなく、わたしたちの眼前に出現したのである。(中略)
 このように貴重な「再発見」の功労者、それは、誰よりも、本会の事務局長、古賀達也氏その人であることを、後代の研究史のために特記させていただきたい。藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」<『「古史古伝」論争』別 冊歴史読本>に付せられた小写真(奉納額)に注目し、わたしと共に八方これを探し、市浦村役場の成田義正さんの御協力をえて、再び陽の目を見るに至ったのである。その功績は、はかり知れない。また快く、科学調査に応じて下さった市浦村教育委員会に対しても、心の底から感謝の思いを向けさせていただきたい。
(昭和薬科大学における顕微鏡写真<木質部分>及び東北大学金属研究所による検査 <金属部分>については、改めて報告する。
(追記 2000.11.1 奉納額の写真は古賀氏のところにあります。)

【引用者注】
「東北大学金属研究所による検査」については後に『東奥日報』の偽書派の記者により、鑑定者が調査を放棄した。そのことについて、古田氏が批判している。

なお、これは「和田家文書」原本発見前の論考である。その時既にこれほど決定的な証拠があったにも拘らず、いまだに偽書派が消えないのは「不思議」としか言いようがない。
 

皇民主義論―解法者批判@

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 6日(木)14時20分55秒
  解法者氏は資本主義を唱えながら、「個人所得税の減税(最高税率―30%)」、「相続税の廃止」、「法人税の減税(25%−韓国・中国並み)」などというとんでもないことを言っている。

これは「世襲制資本主義」の復活に他ならない。即ち、
 資本家が儲かる
    ↓
  相続税なし
    ↓
子孫にそのまま相続される
    ↓
資本家の子孫も資本家になり富を独占
    ↓
 資本家が儲かる
という悪循環になるのである。即ち、世襲制の資本家階級の登場という事態になりかねない。

皇民主義からみればこれは許されないことである。皇民主義では国民を「天皇の下に平等」とする。世襲制資本主義など絶対にあってはならないことである。
 

皇民主義論「資本主義批判:解法者『税金は貧乏人から取れ』批判@

 投稿者:日野護国運動家(反憲家)  投稿日:2011年 1月 6日(木)13時58分28秒
  解法者氏の悪い癖で、また過激な理論が出てきた。

解法者氏の考えは資本主義そのものである。私が新たに提唱している「皇民主義」とは違う。
 

税金は貧乏人から取れ(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 6日(木)13時39分19秒
   2010年の税制改革で、政府は法人税の5%の引下げ(1兆5千億円の財源必要)、子供手当の増額(月額1万三千円→2万円〔3歳未満〕―2400億円の財源必要)による財源の確保のため、相続税の増税(2600億円)、富裕層への増税(給与所得控除の上限設定―800億円の増収、企業役員の給与所得の控除学縮小―400億円の増収、成年扶養控除の年収制限―800億円の増収、それらに伴う住民税の増収―500億円〜600億円の増収)を決定した。つまり、富裕層から増税をしようということである。
 これには賛同できない。富裕層は一般的に言えば、努力して財を成した人だと言い得る。「立身出世」は明治以来の美徳で、これにより日本が発展してきたという側面は否定できない。つまり<頑張ればできる>という夢を与えたのである。一方、貧乏人は努力を怠ったがためにそういう境遇に陥っているとも言い得る。
 「日本国憲法」は「納税の義務」を国民に課している(30条)。「大日本帝國憲法」でも同じであった(21条)。さらに「大日本帝國憲法」では選挙権および被選挙権は一定の納税者に限定して認めていた(後に改正され納税は要件とはならなかったが、生活保護を受けている者はそれらが与えられることはなかった〔衆議院議員選挙法第6条〕)。考えてみれば、当たり前のことで現行選挙法で「納税の義務」を果たさない者にどうして選挙権および被選挙権を与えているのか理解に苦しむ。
 

税金は貧乏人から取れ(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 6日(木)13時38分12秒
   日本では所得税が課せられる最低年収は325万円でアメリカ、イギリス、ドイツなどの先進国を上回る水準だとされる(読売新聞 2010年〔平成22年〕12月15日〔水〕朝刊 東京14版3面 社説)。
 「納税の義務」を果たしてない者も道路を歩き、橋を渡り、公園で休む。これらの施設は税金で作られている。所得税が課せられる最低年収を100万円以下に持ってこないと<租税の公平負担>の原則に反すると考える。
 今回の富裕層への増税は「子供手当」の増額などバラマキ政策のツケを富裕層へ転化したもので、極めて不当である。富裕層が日本経済を支える優秀な人材だとも言え、増税により海外への移住などむしろマイナスの面が多い。
 日本は「個人所得税の減税(最高税率―30%)」、「相続税の廃止」、「法人税の減税(25%−韓国・中国並み)」を税制改革の基本に掲げるべきだろう。そうすれば、アメリカなどの富裕層、企業(アメリカー40.75%〔カリフォルニア州〕、フランスー33.33%、ドイツー29.41%、イギリスー28%)が続々と日本に本拠地を移して来よう。それにより日本経済が活性化する。
 国費の無駄遣いを削減するだけではやっていけない。「消費税」の導入も喫緊の課題である。最終的には25%は必要だろう。
 いずれにせよ現在の「納税の義務」を果たしてない者(貧乏人)を優遇する必要はなかろう。
 

選挙権

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 6日(木)13時33分30秒
   受刑者を除き制限しない。被選挙権は受刑者でも認めて良いと思う。政治弾圧による受刑が想定されるからである。  

RE知識は簡単に手に入れてはならない

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月 6日(木)12時32分55秒
  日野護憲かって、誰?私は「朝日新聞」からの情報ですが。  

「和田家文書」について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 6日(木)12時29分57秒
  さて、そろそろ「異録文書編」も投稿しようと思うが、いまだに学界ではこの書物の真偽が決着ついておらず、特に原田実がネット上で盛んに偽書説を宣伝しているため、ここで故・藤本光幸氏の偽書説に対する反論を引用する。

『東日流外三郡誌』公刊のいきさつ
藤本光幸

<『古田史学会報 1994年12月26日 No.4』より>

「責任編集」とは名ばかりに、匿名「情報」を羅列した無責任な無署名記事で他者を名指しで中傷し続ける『季刊邪馬台国』誌はもはや学術雑誌とは程遠い。同誌に名指しで誹謗中傷を受けた、和田家文書の紹介者藤本光幸氏に『東日流外三郡誌』公刊時のいきさつと『季刊邪馬台国』誌への反論の筆をとっていただいた。(編集部)

  『季刊邪馬台国』五二号に、“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”との表題で、ニュースソースはすべて匿名という、およそ学術雑誌とは思えぬ 内容で、虚偽記事が掲載されている。 『東日流外三郡誌』に最も深く携わった者の一人として、ここに真実の歴史、同誌公刊のいきさつを明らかにしておきたい。
 『東日流外三郡誌』公刊の件に関しては『季刊邪馬台国』五二号一一〇頁に藤野七穂氏が述べて居られる

「“和田家文書”が世に出る契機は、昭和四十六年の市浦村長・白川治三郎氏の発意になる村史編纂事業に端を発する。村史編纂委員長の山内英太郎氏が史料の収集に奔走するうちに和田喜八郎氏と知り合い、その家蔵の『得難い貴重な史料』を提供され、通史編に先立って、資料編の刊行に踏み切ったのである。この『得難い貴重な史料』というのが『東日流外三郡誌』だったのである。」

と云う事が本当の事実である。
 なお昭和四十六年の時点で、私の所へ『東日流外三郡誌』が約二百巻(冊)程、来て居り、当時の白川治三郎村長が、私の家に和田喜八郎氏と共に訪れて、村史を編纂しいので何とか協力してもらい度い、そしてその為には『東日流外三郡誌』を市浦村に貸出してもらえないかと懇願するので、今まで埋もれていた「安東氏」が正式に公表される事でもあるので、私としては、既に約十年も前から出版の為に原稿化して居り、『東日流外三郡誌』として出版の予定で居る事を話した所、それでは、資料の中から市浦村に関係のある項目のみを摘出して出刊するとの約束で、初五十巻程既原稿化済みのものを、和田喜八郎氏の了承のもとに貸出したのである。従って、市浦版の『外三郡誌』は初版を『みちのくのあけぼの』と題し、「市浦村史資料編東日流外三郡誌」と副題して刊行されたのである。
 その後、和田喜八郎氏と私は市浦村史編纂委員に任命されたが、刊行された上巻は当初の約束であった市浦村に関連する項目のみという点が守られてなかったので、それまでに市浦村へ持参した約百巻程で、以後の貸出を停止したのである。

 藤野七穂氏が『季刊邪馬台国』五二号一四八頁で

「《東日流外三郡誌読掟》には全三百六十八巻だとあるのだが、市浦版編集段階では『虫にくい荒されボロボロ』な部分を除き、『読み得る事のできる』約百巻分を編集した時(昭和五十八年)にはさらに『読み得る事のできる』ものが百巻余りも追加発見されたことになっている。」

と述べているが。真相は前述した様に昭和四十六年の段階で、既に約二百巻程が来ていたのであるが、市浦村の約束違反のため、貸出を約百巻程で停止し、私達(北方新社版)の編集方針も一応の年代別 、ジャンル別に整理して出版することに変更し、従って出版時も昭和五十八年と遅れたのである。これが真相である。
 なお、当初、私は「金光上人関係資料」「天真名井家関係文書」は『東日流外三郡誌』と表題がないので、別 な文書として処理したが、後に和田喜八郎氏から『外三郡誌』の中の文書だと指摘されたので『東日流外三郡誌』補巻として出刊したものである。

(中略) 以上が『東日流外三郡誌』公刊に関する真実である。次に『季刊邪馬台国』のデタラメな虚偽記事に反論する。同記事には次の様に述べられている。(反論の便宜上1 〜 7 の番号を付した)

「関係者の話を総合すると『東日流外三郡誌』が世に出るまでの事情は、つぎのようになる。


1 昭和四七年ごろ、和田喜八郎氏が、市浦村の村長であった白川治三郎氏に、和田家の蔵のなかから、安東家の秘宝の隠し場所の書かれた文書がみつかり、場所もわかっているので、発掘調査の費用を出してほしいと、話をもちかけた。
2 市浦村と、他に五〜六人のひとが、和田喜八郎氏に出資した。藤本光幸氏が、多額の出資をした。市浦村は、公費を出した。
3 秘宝が出たばあいの取り分を多くするため出資者の人数は限定した。
4 しかし、秘宝は出ず、市浦村は和田喜八郎氏を追及した。和田喜八郎氏は出資への対価として『安東文書』(当時は『東日流外三郡誌』とはいっていなかった。市浦村の関係者と表記されていたのである。が、この文書に『東日流外三郡誌』と名づけたら、そのあとは、『東日流外三郡誌』と書いた文書が出現するようになった)を提出した。
5 『安東文書』については、当時、しかるべき人(存命中)のところにもちこまれたが、その方は「古文書とはみとめられない」とののである。
6 しかし、市浦村は、公費を支出しており、なんらかの形を残さなければ、責任問題が生ずる可能性があった。市浦村に関係のある部分を抜き出し、昭和五十年に『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』として刊行された。
7 和田喜八郎氏からは、仏像その他が出土したとして提出され、出資者全員で出土物を分けた。出土場所はわからない。」

 これから前記に対する反論を述べる。

 最初に“関係者の話を総合すると”とあるが、関係者とは誰か。具体的な氏名を一人もあげられないことが、冒頭からこの記事の虚偽性を明らかにしているのではないか。

  同時に1 ,2 のような事実もまったくない。すべて安本美典氏の推定による捏造された事柄である。
 前記の事実がないことであるから、3 の様な事実も全くない。事実は先に述べた通 りである。
 4 の事実もない。また、『東日流外三郡誌』には当初から『東日流外三郡誌』と表題があり、『安東文書』とは呼んでいなかった。安本美典氏は“市浦村の関係者が名づけたとしているが、市浦村関係者にはそのような人は一人もいない。当初から『東日流外三郡誌』と表記されていたのである。
 5 「当時、しかるべき人(存命中)のところにもちこまれた」とするが、しかるべき人(存命中)とは誰のことか。氏名も発表できないような人のことを“しかるべき人”として虚偽記事の根拠とするのは五流週刊誌と同じではないか。
 6 の事実もない。市浦村に関係のある部分を抜き出して刊行されていれば、当初の約束通 りであり、約百巻程では終らなかったのである。
 7 の事実もない。その他の出土物とは何の事か。明確に示しもしないで、しかも出資者全員で分けたとしているが、全くの中傷、誹謗である。

 以上の様に、『季刊邪馬台国』五二号の“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”の文章こそ、単なる推定によってありもしない事実をあった様に書いた捏造された偽作文である。なお、この文には和田喜八郎氏、元市浦村長白川治三郎氏、私、藤本光幸が実名で出て居り、他は全て匿名である。全く名誉毀 損も甚だしい中傷文である。賢明なる古田史学の会々員、及び一般の皆様の判断を乞うものである。

(編集部注)
  藤本氏が批判された『季刊邪馬台国』五二号の記事は、無責任な無署名記事だが、そのほぼ同文が安本美典著『虚妄の東北王朝』(毎日新聞社刊、一九九四年)の九四頁に「『東日流外三郡誌』が世に出た事情」として掲載されている。したがって、『季刊邪馬台国』の無署名記事も安本氏の執筆と考えざるを得ない。同氏(同誌)はこのような匿名「情報」や無署名記事、あるいは論文無断掲載を愛用されているようだが、「責任編集」の看板に偽りあり、と言うほかない。

【引用者注】
安本美典は心理学者で、『季刊 邪馬台国』の編集責任者である。この記事が発表された後、『だまされるな東北人――東日流外三郡誌をめぐって』において安本美典とは別の人物の名で『季刊邪馬台国』五二号の記事とほぼ同じ内容の文が収録されている。その『だまされるな東北人』の内容はひどいもので、のちに偽書派に回った古田氏の助手・原田実さえも知らない古田氏の「謎の講演」についての批判まで収録されている。明らかにそれは嘘で、とても信用できるものではない。
 

知識は簡単に手に入れてはならない

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 6日(木)12時08分38秒
   今やインタ−ネット時代で情報が簡単に手に入る。「ウィキペディア」で検索すれば知識が容易に得られる。しかし「ウィキペディア」の知識は疑わしいのものが多く、またうわべだけのものも多く、そのまま信じてはならない。例えばアメリカの「徴兵制」であるが、アメリカで徴兵制が廃止されていると説かれている。アメリカはイラン、アフガニスタンだけでなく世界中に軍隊を派遣している。これが「志願制」でまかなえるはずもない。戦争は死にも至る。「志願制」では兵員の充足はできない。こうしたことに疑問を抱くことなく「ウィキペディア」で情報を拾い徴兵制が廃止されていると信じてしまう。つまり<思考>という大切なものを忘れ去ったと言うほかない。<浅学>を超えて<馬鹿>だということだ。知識はいろいろな書物を紐解き、情報を拾い苦労して得るものだ。
 ところで、日野護憲家さんは、アメリカで徴兵制が廃止されているとどこから情報を得たの?
 

皇国史論「倭国通史」編C神武東行(東征)は実在した

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 6日(木)11時24分48秒
  大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。

尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。

『古事記』によれば、日向から東に向かい、宇佐(神武の母・豊玉姫の故郷か)にしばらく滞在した後安芸(広島県)と吉備(岡山県)に合計十六年間(正確には八年間)いました。

しかし吉備の豪族の発案か、そこに留まるわけにはいかないことになったようです。その結果銅鐸国家圏への進出に切り換えました。

これは恐らく吉備の豪族の援助もあったと思われます。その証拠に、のちの大和と吉備の遺跡の発掘品はとても似ているからです。

そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは(大阪市)南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。

彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。

それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、神武天皇と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の名前です。

大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。

もう一つの証明は、弥生時代後期と前期・中期の銅鐸の分布図です。 弥生時代後期には、大和には銅鐸がありません。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimmuj/picturej.html#picture5

神武の生まれた所は神武歌謡(久米歌)が示しています。彼らは故郷糸島の歌を大和で歌いました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimmuj/photoj.html#photo6(「更新」回転マークをクリックして観覧してください)

この歌は大王神武が糸島で海について歌った歌です。糸島の歌なら何も問題はありませんが、最初に大和のみで歌ったのなら不可解です。大和には海がありません。宇陀(宇田)は大和の地名であり、糸島の地名にもあります。

字陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや、鴫は障りらず いすくはし くぢら障る 前妻が 肴乞はさば 立柧の 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴乞はさば 実の多けくを こきだひゑね ええしやごしや 此は伊能碁布曾 ああしやごしや 此は嘲咲ふぞ。

うだの たかきに しぎなわはる わがまつや しぎはさやらず いすくはし くぢらさやる こなみが なこはさば たちそばの みのなけくを こきしひゑね うはなりが なこさば いちさかき みのおおけくを こきだひゑね ええしやごしや こはいそのごうぞ ああしやごしや こはあざわらふぞ


それでは、さらに詳しく神武東征伝承を検討してみよう。

まずは弥生後期の大阪湾の地図との関係ですが、『古事記』によりますと、船で、右端にある日下の楯津にぶつかったというんです。

その前に、どうもいまの大阪城のあたりは洲になっていて、その洲を綱かなにかで引っばって入ったらしいんですが、浪速の津、いまでいうと朝日新間社の大阪本社のあるあたり、あのあたりで船を引っぱって内海の方へ入ったみたいな感じなんです。地形から判断しますと。


とにかく結論は、日下の楯津で長髄彦、この名まえお聞きになった方もあると思いますが、鋸鐸国家側の中心人物で、これと衝突し、それでさんざんに敗れたというわけです。そして逃げ出した。どこを通って逃げたかどいうと、「南方」と書いてあります。「みなみかた」を通って逃げた。

『大阪府史』の地図では上の方に書いてありますが、実際には下の方のようです。この南方というのは、皆さんよくご存じの新幹線の新大阪駅があるところです。地下鉄で南方駅というのがございます。

大阪にくわしい方はよくご存じですが、南方で降りても新幹線の方へ簡単に行けます。ここが南方という所なんです。

ところが、ここで「南方を廻幸(へめぐ)って逃げた」と古事記に書いてあるんですね。そこで本居宣長が苦しむわけです。本居宜長は伊勢の出身で、昼間はお医者さんをやりながら、夜は「古事記伝」というものを書いた。

宜長は近畿には強い人ですから、ここには困ったわけです。侵入するとき日下に行くというのも船で行ったように書いてあるが、行けるはずがない。江戸時代の地理の頭でみますと、「あんな所へ行けはしないよ。ましてそこから南方(なんぽう)へ船でどうやって行けるの」。

それで、出た所は、堺という町がありますね。あの堺の沖合が血沼(ちぬ)の海と呼ばれる所です。そこで五瀬命(いつせのみこと)が死にます。

神武天皇、つまり狭野命のお兄さんで、同時にこの侵格軍のリーダーであった五瀬命が矢傷を受ける。そりや日下でも受けたんでしょうが、特に南方の場合はたいへんです。両側から矢が飛来して、弁慶のように体中矢が刺さりっばなしで逃げて行く。

リーダーたるもの卑怯な真似はできないというので、おそらく船の先頭に立ったんじやないでしょうか。それで拮局、血沼の海まで行った時にその矢傷がもとで死んでしまったと述べられています。

そして、この説話が弥生時代の地形とぴったり一致する。

『大阪府史』の地図をみれば日下の楯津まで船で行ける。

行く時は袋の入口で一番讐戒が厳しいですかち南方を通るわけにはいきません。侵入者はここから入らないわけです。大軍隊なら別ですけれども、ゲリラ部隊ですから。それで船を引っばって行く。

この船を引っばって若干の陸地を越えるということは、縄文とか弥生では船をあつかうノウハウの一つですから、そういう所は各地にございます。またそういう所にはそれらしい名まえがついております。

○○越とか越とか。舟越というのがあるでしょう。舟越さんという姓もあるじやないですか。あれはやっばり地名からきているんですから、船が越えた所です。つまり、そこを越えて侵入しているんです。

ところが逃げる時はそんな引っばったりしている暇はないですから、しょうがなく水路を逃げるわけです。そしたら待ってましたとばかり、両側からやられて死んでいったわけです。

津田左右吉は、神武架空説なんですが、こういう類の話は六世紀以後の天皇家の史官が勝手にデッチあげたものだと、勇敢な仮説を戦前に立てられたんです。

しかし、五世紀以後だったら陸地がこんなになっていませんから、そんなお話作りようもないわけです。だから、弥生時代の実際の行勤は、古事記で語られているようにならざるをえないわけです。そりや侵入の仕方はいろいろあるかもしれないけれど、非常に筋の通った侵入の仕方、逃げ道のとり方なんです。

これ一つとっても、神武を架空としてきた津田史学の立場、それが教科番にも敢り半世紀にわたって現在も支配しておりますが、これはもう成り立たない、神武は実在である。

もうここまでくると「神武天皇架空説」は学問として成り立ちません。

それに「神武歌謡」のこともあります。

神武は『日本書紀』によりますと、どうも宮崎県から出発したんじやないかと考えられてきていた。

しかし、古事記でみますと、出発地は宮崎県ではなくて福岡県である。それも糸島近辺が出発地であるという間題が出てまいりました。天孫降臨の地点です。そういう立場からみていきますと、いままで間題になっている個所がつぎつぎと解けてきた。

博多の西隣に糸島郡があります。糸島郡の地図をみますと、そこに吉武遺跡群があって、その西北に宇田川原という所がございます。

現在は、川原になっているから宇田川原といっているんですが、弥生時代には、さっきのように弥生初期の地図を復元しますと、実はここまで海が入ってきている。ということは海岸部の字田には鯨が集団であがってくる。

理由はよくわかっていないらしいですが、イルカとか鯨が突然発狂したように集団で陸地へ押し寄せてあがってしまうわけです。その時はみんな大客びでイルカや鯨をとるわけです。イルカも鯨も食べるためにとるんです。

比較的最近、敗戦後でもこの辺へあがって来たことがあるそうです。この辺の鯨は「ごんどうくじら」といって割に小さい鯨ですけど。

それで、おわかりのように、「字陀の高城に」というこの「宇陀」、神武たちの故郷の「字田」だったら、鴫は海でも山でもおりますから、「鴫罠をはっておったら、なんのこっちや、鴫じやなくて鯨がかかったよ」という話は、リアルである、もちろん鳥の罠にクジラがかかることはまずないが、そうやって話を面白くする、それが前半である。

で、後半。弥生時代は一夫多妻の時代です。これは倭人伝に書いてあります。

弥生時代の倭人は一夫多妻、ここでも一夫多妻。それから、鯨があがって来た。これは一頭や二頭じゃないでしょう。あがって来た時は一村、もう大喜びで、鯨の分配をやる。

いまと違って食べ物があふれている時代じやなくて、みんなお腹をすかしている時代ですから、もう鯨があがって来たら、「待ってました、なんたる神の恵みか」と集まって来るわけです。みんな血相を変えて少しでもいいところを少しでもたくさんもらおうと思ってね。

そこで、リーダーはみんなを、笑わせたいわけですよ、緊張をほぐすために。それで「お前たち! あんまり年上のかあちやんにいいとこやっちやだめだぞ。太りすぎるよ。若い方のかあちやんならいいとこやってもいいけどな」と、いうわけです。そうするとみんなドーッと笑うわけです。

そこから先は村のルールによって平等に分けていく。つまり漁村における鯨の収稜と分配の歌なんです。

これは古田武彦の説ですが、そう考えるとなんにも矛盾がない。私はこの説を支持します。これは一人の歌人が作ったっていうんじゃなくて、集団の歌です。

その集団の民謡を子どもの時から知っている連中が、侵喀者になっているわけです。そして、しぶとく生き残った残党が熊野を越して大和へ入って来た。

そして「ここはどこだ」と土地の人に間くんでしょう。「字陀」「あ、字田、俺たちの所の宇田と同しだな、おい、あれを歌おう、宇田の高城に鴫罠張る…」と。字田という地名に刺激されて、「よおし、あの歌うたおう」と、疲労困憊したおたがいを、元気づけるために「宇陀の高城に鴫罠張る……」と兵士たちが歌い始める。そう考えたら矛盾がないと思う訳です。

津田左右吉さんが、矛盾だらけで支離滅裂だといったのは、設定がまちがっていたからです。はじめから大和の陸地のどまん中で彼らがこれを作ったと読んだ、そう思ったから、まったく意味不明ということになったんです。ところがいまのように設定が変わってくると実にリアルになってきた。

このような史料事実は、重大な「一個の疑問」をひきおこす。それは何か。

  ”神武が率いていた軍団は、「久米集団」オンリーだったのではないか。”

この間いだ。

なぜなら、もし神武が「久米の子等以外」の幾多の兵士たちを率いていたとしたら、その人々に対する呼びかけがない、この史料事実は、どう説明するか。とうてい、不可能だからだ。

戦後史学の立場。そこでは、「神武の実在」も、「神武東行説話の史実性」も否定された。その否定こそ、「定説」化された「津田史学」の心臓部だったからである。

「約言すると、東遷は歴史的事実ではないので、ヤマトの朝廷は、後にいふやうに、初からヤマトに存在したのである。東遷の物語が魏志によつて知られる三世紀ごろのツクシの形勢に適合しないのも、クマソに占領せられてゐたヒムカの状態と一致しないのも、またこの物語によつて国家の形づくられた情勢のわからないのも、当然である。」(『日本古典の研究』上・二七八ぺ−ジ)

このようにのべた左右吉は、ここに「久米の子等」の言葉が頻出するのも、ただ「久米部の歌」を”引用”し、利用したにすぎず、と考え、この間題のもつ重要性に対し、さして注目しなかったようである。

たとえば、
 「記の神武天皇の字陀の大饗の場合の御製としてある『宇陀の高城にわなはる』の歌は、其の思想が戦陣と何等の関係が無いのみならず『宇陀の高城に鴫わな張る、わがまつや、鴫はさやらず、いすくはし、くじら、さやる』といふのと、其のあとの『前妻が魚迄はさば』云々といふのとはまるで意味の脈絡がない。これは書紀に来目歌としてあるのを見ると、後世の久米部の間に行はれていた俗謡であつたのが、偶々と『宇陀』の語があるために、ここに附会せられたので、而も二つの謡が混合せられたのであらう。」
 (『神代史の新しい研究』緒論、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』第二章再録)。
といった筆致にも、それが見られる。

「神話や説話の間に現われる『矛盾』こそ、それらが『造作』によるものである、現の証拠」

というのが、津田史学の「史料分析法の中心的手法」をなしていたのであるから、右のような態度も、一応”無理がない”と言えるのかもしれぬ。

しかし、実際は、そうではなかった。ここには、津田史学にとっての根本的な「亀裂」と「矛盾」があった。それは次の点だ。

もしこの「神武説話」が「後世の造作」、つまり、史実にあらぬ”作り物”であったとしたら、なぜ、「久米の子等」だけでなく、「大伴の子等」や「中臣の子等」や「蘇我の子等」や「物部の子等」などに対しても、呼びかけないのであろうか。

そのように「造作」しないであろか。解しがたい。「久米部にしか適当な歌が伝わっていなかったから」、こんな答えに満足できるだろうか。

その上、看過できぬポイントがある。それは、右のような「久米の子等、偏椅(へんい)」問題に関しては、『日本書紀』もまた、『古事記』と全く変わるところがない。ほば同一の歌が掲戟されている。

その『書紀』は、近畿天皇家の「正史」だ。八世紀初頭に成立し(七二○)、万人の前に公布された。具体的には、「学生たち」に講習され、その「学生たち」が各処にこれを公布せんとしたこと、周知のごとくだ。それより前に、天皇家の朝堂でこれが「公示」されたこともまた、言うまでもない。

したならば、そのとき、朝堂にいたのは、「久米部」だけではなかったはずだ。中臣・大伴・物部等の各氏族の並びいたこと、確実である。では、彼等はなぜ、この”史実にもあらぬ「久米部、偏椅」の造作”に対して、それぞれが、不満の声をあげなかったのであろうか。不審至極と言わねばならぬ。

このように考えてくれば、この問題が、津田左右吉の軽視に反し、「造作説」にとっての致命的な矛盾となってくること、この一事を見のがすことはできない。

さて、神武の出発池は、福岡県糸島郡の近辺だった−−この新しい帰結に立つとき、数々の新しい「発見」が続出した。

その一つは、「伊勢海の大石」問題だ。

 「神風の伊勢の海の大石に這ひ廻ろふ細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まむ。」
(『古事記』「神武記」)

 この歌について、「伊勢海一とは、文句なく〃三重県の伊勢国の海岸部〃と想定してきた。その海中に〃大きな石〃があり、そこを迂回する「しただみ」の生態を観察し、その上で歌われた歌と考えられた。
(そのため、「神風の」という枕詞を不審とし、伊勢皇大神宮建造の時期<『日本書紀』では、垂仁>ヘの疑いへと議論を及ばした論争もあった。直木孝次郎氏・田中卓氏等。)

しかし、この糸島郡には「伊勢浦」がある。現在は〃陸地の真ん中〃だけれど、弥生時代には、西(唐津湾側)から海の入りこんだ(湾入した)地帯であり、文字通り「伊勢の海」であった、と思われる。

その入口部(西部)には「曲り田遭跡」という縄文水田があり、「縄文〜弥生」期において重要な地帯だったことがうかがわれる。

そしてその南寄り(唐津湾からの湾入部、入口)に「大石」の地名がある。糸島郡には、他にも同じ「大石」の地名がある。

   イ)元両村大石
   ロ)師吉村大石

従って、このイ)、ロ)にはあらぬ、ここを指すためには、必然的に、

「伊勢の海の大石」

と限定する必要があるのだった。すなわち、

 AのB

という二段地名の用法である。

こうして考えると神武天皇は天孫降臨の移転である、福岡県から出発したと考えざるを得ない。

結論として

「筑紫天孫王朝⇒大和王朝」

への流れ、これが神武東征だったのである。
 

皇国史論「倭国通史」編B筑紫天孫王朝の文献史学的解釈

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 6日(木)10時43分23秒
  「吉武高木遺跡」は弥生時代中期の遺跡であるが、今弥生時代の年代が少し早まっている。一つは年輪年代測定、もう一つは炭素放射性年代測定、この二つによって弥生中期の実年代が「紀元前三、四世紀」から始まった、ということになった。

もっとも、これに対する異論もある。この場合、日本の方が朝鮮より早く鉄器を使用したことになるからである。だが、日本の方が朝鮮より文明が進んでいて何が悪い!と私は言いたい。やはり、この年代測定は正しいと思う。

それにこれだと天孫降臨の私が考える年代とも一致する。(前述)

そこで、天孫降臨説話の解釈をしてみる。

「天孫降臨の位置」で、いわゆる天孫降臨神話は福岡県で起きた事件をモデルにしたもの、とした。それは『古事記』による解釈である。

一方で『日本書紀』では「筑紫の日向」と「日向」の二つの事例がある。「日向の高千穂のクシフル岳」を持って宮崎県の高千穂とする、これが定説であった。そして、それをもとにこの説を批判する論者もいる。
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/6174198.htmlではこの古田武彦の説について批判している)

 一書@ 筑紫日向高千穂槵觸之峯(つくしのひむかのたかちほのくじふるのたけ)
 一書A 日向槵日高千穂之峯(ひむかのくしひのたかちほのたけ)
 一書B 日向襲之高千穂槵日二上峯天浮橋(ひむかのそのたかちほのくしひのふたがみのたけのあまのうきはし)
 一書C 日向襲之高千穂添山峯(ひむかのそのたかちほのそほりのやまのたけ)

これは『日本書紀』の異伝である。しかし、「筑紫日向……」と「日向……」は、同一箇所を指す。このテーマを裏付けする事例が『日本書紀』の本文にはある。

A日向の襲の高千穂峯に天降ります。
B因りて筑紫の日向の可愛之山凌に葬りまつる。
 『日本書紀』

いずれも、「神代紀」の第九段の文だ。いずれもニニギに関する叙述だ。

このAを「宮崎県、日向(ひむか)」にして、Bを「福岡県、日向(ひなた)」することは、可能だろうか−−否。

同一人物に関する叙述を、そのように「分断」することは、何としても不可能だ。だから、本居宣長は〃両者ともに〃南九州(宮崎・鹿児島県)ヘと〃もっていった〃のだ。それはそれで、〃筋は通っている〃のである。

これに反し、Bの「天孫降臨」項を「福岡県、日向」と見なすとき、やはりAも一蓮托生、「福岡県、日向(ひなた)と見なす他はない。

勘違いする人もいるだろうが、「筑紫の日向の可愛之山凌」である。「筑紫」が明記されているのだ。「墓は福岡だった」とか「筑紫は九州全体をさす」などというのは詭弁にしかならない。

降臨場所と墓が違うのは常識であり得ないし、もし筑紫が九州全体なら最初から「日向の可愛之山凌」と書けばいいことだ。それに『古事記』の「クシフル岳」に関する論証もある。

さて、この説話の重要なこと、それは「筑紫天孫王朝の誕生」を表している、ということである。「出雲」の大国主から「筑紫」の迩迩芸命へ、という勢力移動を語るものなのである。

ニニギノ命は太陽信仰を基に王権を筑紫に築いたのである。だから、この説話には「天照大神」が繰り返し、何度も登場するのだ。

そのニニギノ命の死後、いわゆる山幸彦の時代となる。『古事記』をまともに解釈すると、なんと「ホホデミ時代=290年」ということになるのだ。

これはとても一人で生きられる年代ではない。(原文は倍数年歴なので580年とさらに長い)そこで考え出されたのが「ホホデミ王朝」という説である。

実は『日本書紀』では神武天皇の名前も「ホホデミ」としている。これは「襲名」というもので、「子孫代々ホホデミを名前とする」としていたのである。

「山幸彦―ウガヤフキアエズ―五瀬(そして、その弟・神武)時代=290年」

然し、これでもかなり長い。山幸彦から神武までたったの三代だけ。それで「290年」もの時間を埋められるはずがない。

すると、答えは一つしかない。それは「隠されたホホデミ」である。つまり、他にもホホデミはいたのではないか、というのが私の考えだ。(この点、古田説を参考にした)

「山幸彦――・・ホホデミx世・・――ウガヤフキアエズ――神武時代=290年」

(なお、これはホホデミたちが高千穂の宮にいた年代である。神武東征以後は含まれない)

これでニニギノ命より数えて三百年以上の「筑紫天孫王朝」の歴史が解明された。
 

RE:公務員に準ずる立場の者

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 6日(木)09時50分47秒
  すると、徴兵に例外規定を入れたほうがよいですね。公務員の徴兵は免除、大学の教員も同じく・・・そういうことは法律で定めるべき事とは思いますが、一応考えるべきことだと思います。

「徴兵の義務の明記」これは必要であると先ほどの降参宣言で考えを改めました。「公務員などの政治活動の禁止」全く異論がありません。ただ、一つ気になったのは参政権について。徴兵された軍人も含めて、選挙権は制限されるのかどうか。そのあたりの説明がないと解法者氏の立場があまり分かりません。説明をお願いします。
 

公務員に準ずる立場の者

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 5日(水)17時31分24秒
   年金機構の職員、独立行政法人(大学〔旧国立大学〕の教員)が典型的な例です。
 徴兵された軍人も同じです。
 

RE私の憲法論(5)

 投稿者:護国  投稿日:2011年 1月 5日(水)12時25分42秒
  全く賛成。ただ、公務員に準ずる立場のものとは誰か、例えば徴兵された軍人(自衛官でもよいが)も政治活動を禁止されるのか、云々。ということを説明していただくとありがたい。  

補論・高千穂について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 5日(水)12時22分28秒
  http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/photo1j.html#photo1
を見てください。天孫降臨地点の写真です。
 

私の憲法論(5)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 5日(水)12時18分4秒
  6.家族生活における個人の尊厳と両性の平等
  基本的にはこれを維持するが、性差を認める規定を設けるべきである。『男女の平等は、
 これを保障する。ただしその性別における差についてはこれを尊重する』と規定すれば
 良い。また『夫婦は同姓とする』の一項を入れる。理由は家族の一体性を堅持するため
 である。
7.徴兵の義務
  これを規定する。規定に関しては男女ともその義務を課す。国防の義務は性差に関係が
 なく、男女の平等というならば、徴兵の義務に服するのも当然だからである。
8.勤労者の団結権
  労働三権(労働組合結成権・団体交渉権・争議権)は、公務員およびそれに準じる者、
 国家の基幹産業従事者(運輸・交通、教育など)には、保障しない。労働条件などにつ
 いては第三者機関での調停に委ねれば良い。国家の混乱を防止する必要からである。
 これで勤労者の権利が守られ、何の支障もない。これにより公務員のデモや政治的抗議
 活動も禁止され、教職員組合なども一切廃止されることになる。
9.公務員などの政治活動の禁止
  公務員およびそれに準じる者の政治活動を禁止し、罰則を法律で定める。彼らが国民
 の奉仕者であり政治的中立性が求められることから当然のことである。
 

RE倍数年歴

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 5日(水)12時17分57秒
  詳しくは後で述べますが、例えばパラオも倍数年歴です。パラオ以外にも、環太平洋文化として倍数年歴がある。

そして、日本。『魏略』という歴史書には倍数年歴について記されている。「倭人の独自の暦」というニュアンスで記されており、それによって『古事記』の長寿天皇の説明もつくわけです。

>私は大昔も今と変わらず一年は一年とカウントしていたと思いますけど。<
今でもパラオは一年は二年です。そのあたり説明不足でした。
 

皇国史論「倭国通史」編A天孫降臨の位置

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 1月 5日(水)12時13分57秒
  天孫降臨の位置については、私は福岡県説を採用する。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/pictur1j.html(天孫降臨の位置)
A故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳坐しき。御陵はすなはちその高千穂の山の西に在り。
B故爾に天津日子番能迩迩芸命に詔りたまひて、(中略)筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。
C神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬命と二柱、高千穂官に坐して議りて云ふう……
『古事記』よりhttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html参照

この高千穂とはどこか、それが問題である。

この文は四段地名になっている。
T筑紫(ツクシ、チクシ)
U日向(ヒムカ)
V高千穂
Wクシフルタケ
この一から四のすべてがそろっている地名、そこでのちに天孫降臨と呼ばれる事件が起きたのである。

そこは福岡県にしかない。吉武高木遺跡、そこである。

福岡県の中で、福岡市の西隅に高祖山連峯があり、高千穂と呼ばれている。その西は、糸島郡、『魏志』の伊都国だ。その連峯の中に、日向(ひなた)峠があり、日向山があり、東方(福岡市側)に日向川が流れ出して室見川に合流している。

この地帯が「日向」と呼ばれた領域であることは、確実である。しかも、決定的なこと、それはこの高祖山連峯中に「クシフル峯(だけ)」がある、という一点だ。

クシフル峯、そこは宮崎県にはない。福岡県に存在する山である。

通常、「筑紫=福岡県」だ。そして、その福岡県に「クシフル峯」があったのである。

これに対する、従来説は「筑紫」を〃全九州〃と解する上、「クシフル峯」のないことを不問に付した。その上で、「日向」を「日向国」と解し、「高千穂」を「高千穂峯」に求めたのである。
 AのBのCのD
という四段の地名表記に対し、AとDを実質上〃抹消〃し、「BとC」たけで求める−−この手法はまちがっている。言うまでもない。

これまで、『古事記』は信用できない、として学界は天孫降臨の地点がどこであるかをまともに考えようとしなかった。しかし、その場所はあったのである。

こうすると、天孫降臨には一定の事実を反映していると考えざるを得ない。

なお、ここで「吉武高木遺跡」について付言する。

「吉武高木遺跡」は福岡市の西区早良平野にある。飯盛山山麓に広がる扇状地で、真中を室見川が流れ南には佐賀県と境を接する背振山系がひかえている。

川を下れば程なく玄界灘にいたる場所である。このあたりは吉武遺跡群として知られ、高木遺跡以外にも「吉武大石遺跡」、「吉武桶渡遺跡」などが弥生の遺跡として有名である。

「吉武高木遺跡」は弥生前期末から中期初頭の遺跡で、「多紐細文鏡」をはじめとする鏡や青銅器、勾玉など、後世の「三種の神器」を思わせる豪華な副葬品が出土した事と、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見された事により一躍有名になった。

この遺跡は甕棺墓を主体とする遺跡で、甕棺墓34基、木棺墓4基が350平方bの範囲に整然と埋葬されていた。「多紐細文鏡」はこれまで北九州を中心に9面しか出土しておらず、非常に希少価値の高い鏡である。

吉武高木遺跡だけでなく、糸島・博多湾岸、中央が高祖山連峰、高祖山・日向山・クシフル峰・日向峠を挟んで両側に「三種の神器」が出てくる。

一番はじめが吉武高木遺跡。福岡市早良区、室見川の中流域、日向川との合流点にあります。ここが一番早く弥生中期初頭。最古の三種の神器が出るところです。次が三雲遺跡、細石神社の西隣にあります。

その三雲遺跡の南隣が井原遺跡。少し離れていますが、有名な原田大六さんが発掘された平原遺跡。それから博多側に戻って太宰府との間南側の春日市の須玖岡本遺跡。中国の絹が唯一出てきたところです。これだけが「三種の神器」が出てきます。

年代順に言うと、吉武高木遺跡→三雲遺跡→須玖岡本遺跡→井原遺跡→平原遺跡となり、いずれも「三種の神器」が出てきます。つまり、三種の神器を法もつとする天皇家のルーツがここであること、考古学でも裏付けられた。

吉武高木遺跡の配置図を見れば分かりますが、そういう「三種の神器」の世界を「二種の神器」 や「一種の神器」に取り巻かれている。その一番中央に「三種の神器」がある。逆に言うと取り巻いている「二種の神器」の一端に吉野ヶ里の遺跡がある。

このように、文献史学と考古学が一致している。天孫降臨は文献史学の分野ですが、それによって考古学も解決できることがわけです。

ところで何故かこういう形で論争しないのが不思議なのですが、『倭人伝』も「三種の神器」である。鏡と勾玉と剣。勾玉には管玉のことがありますが、その三つが「三種の神器」と呼ばれている。

当然、『日本書紀』でも「三種の宝物」として出てきます。これが何故か重要な王権のシンボルとされています。

そして『倭人伝』でも、実はあの内容は「三種の神器」です。何故かと言いますと「銅鏡百枚」と言っているように大変鏡を重視しています。卑弥呼がお化粧好きで百枚を、お化粧に使った。そんなことはない。太陽信仰の小道具というか、たくさん有ればたくさん反射して、あれば有るほど具合が良い。その中で儀礼を行う。

そういう太陽信仰の儀礼の場で使われていたことを示す証拠である。卑弥呼もそうです。「三種の神器」自身が、太陽信仰を強調する儀礼が行われてきた証拠である。

それでは勾玉はどうか。勾玉は日本では縄文時代から有る。韓国人は詭弁を言って、自分のところで勾玉が始まったと言っていますが、実際には日本の伝統です。

剣や矛、これは当然九州にある。三種の神器セットがたくさん発掘されている。『魏志』にも『古事記』にも出てくる。

詳しくは後で述べますが、卑弥呼も当然日本の文献で証明しなければならない。そして、邪馬台国や大和王朝の事を考える前提として、「天孫降臨」説話の解釈が必要なわけです。

それでは、次に説話の内容の解釈をします。
 

倍数年暦

 投稿者:猫又  投稿日:2011年 1月 5日(水)11時58分26秒
  古代日本で一年を二年とカウントする倍数年暦が使われていたと言いますがその根拠は何なのでしょうか?

私は大昔も今と変わらず一年は一年とカウントしていたと思いますけど。
 

皇国史論「倭国通史」編@天孫降臨の実年代試算

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 1月 5日(水)10時59分55秒
  現在の学者が『古事記』及び『日本書紀』を無視することは「常識」となっている。いまだにどこにあるか決着のついていない邪馬台国論争よりも、舞台が倭とわかっている『古事記』の研究の方がはるかにやりやすいと思うのだが、今や学界の定説と「なってしまった」津田史学によってそれがタブー視されている。

然し、私は『古事記』はもちろん、『日本書紀』にも事実があると考えている。

そこで、私が倭国史の始まりと考える「天孫降臨」とのちに伝えられる出来事がいつか、考えてみた。

まず、神武天皇の年代から述べよう。『日本書紀』をそのまま解釈すればじんむ元年は紀元前660年となるが、それは『魏略』に記されている倍数年歴を使用しているからである。(詳しくは「記紀解釈編」で述べる)

それに基づて考えると、神武元年は実際には紀元前60年となる。(「皇歴実年代算定についての考察」飯田満麿『古代に真実を求めて第十一集』収録参照)しかし、私が『古事記』に基づいて微調整をしたところ、実際には紀元前29年のようである。

そこから、神武・五瀬兄弟の東征の出発年代を求めると、紀元前37年となった。そして、山幸彦(火遠理命)が高千穂の宮で即位したのがその580年前、倍数年歴だから実際には290年前。すると、山幸彦が即位したのは紀元前327年となる。

もっとも、この計算が全て正しいとは言い切れないが、この後証明していくように「だいたい正しい」と思われる。

そして、天孫降臨はその一世代前だから、だいたい紀元前4世紀の中頃となるだろう。その時が「倭国」の始まりであるといえる。
 

徴兵はやむを得ないが・・・

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 4日(火)18時38分3秒
  徴兵が必要なこともあろうが、国民皆兵制については慎重な議論が必要だと思う。いや、これは単なる思い付きですが、少し皆さんの意見を伺いたい。  

降参宣言

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 1月 4日(火)11時49分27秒
  いろいろ考えていくうちに私の考えに矛盾があることに気付いた。徴兵制を憲法で定めることには抵抗があるが、法律により自由が束縛されても皇国臣民としての義務だろう。「法律による徴兵制」を認めるべきと考えを改め、解法者氏に降参宣言をする。  

アメリカは徴兵制ではないのか

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 3日(月)23時46分46秒
   アメリカでは徴兵制が廃止され志願制になったと説かれる。確かにアメリカ連邦政府としての徴兵制はない。しかし、アメリカ合衆国全体としては本当にそうだろうか。アメリカ憲法では叛乱の鎮圧・侵略の撃退のため州に民兵(州兵)が編成されなければならないことになっている。そして州では主として一定年齢以上の男子について民兵登録制度を置き登録に州民の義務を課している(第1条8節16、17、第10節3)。例えばア−カンソ−州では登録した民兵について軍事訓練が課せられ、また現在では連邦政府からの要請に基づきアフガニスタンへの徴兵を行っている。民兵登録を怠った者、拒絶する者には罰則が科せられる。徴兵拒否にも同じである。またこうした者たちにはさまざまな制約がある。永住者は帰化できない。年金での差別もある。もちろん就職での差別は顕著に現れる。これは徴兵制が敷かれていると見るしかない。
 ひるがえって日本ではどうだろうか。志願制である。志願しなくとも差別は全くない。つまり単純にアメリカが志願制だとし日本と比較してはならないということだ。
 

戦後六十年、我が国を守ったのは何か

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2011年 1月 3日(月)16時32分2秒
  戦後六十年間、我が国はアメリカ合衆国との『日米安全保障条約』により守られてきた。はっきり言って、それで十分だろう。

もっとも、日本の自衛隊がしっかりしていないと、アメリカが安保打ち切りを通告してきた場合困るのは目に見えている。亜米利加が日本を見捨てない程度の軍事力は必要であろう。武器輸出禁止三原則はともかく、国家戦略として軍事技術力を強化する必要はある。

>もっと現実を見ないとね。アメリカに依存して徴兵制が必要でないというなら理解できるんですけど。<
あのねえ、アメリカ帝国自身が非徴兵制なのに、中東で圧勝。一方で徴兵制時代はベトナムにさえ負けていたじゃないか。そんなことぐらい知ってると思うけど。アメリカ帝国も日本の軍国化を許さない。
 

夢のまた夢

 投稿者:アマノジャク  投稿日:2011年 1月 3日(月)15時38分43秒
  徴兵制は不要である。今の日本の技術力で補える(中道保守さん)
日本の技術なら、アメリカ並みの兵器は作れる(護国運動家さん)

あの、技術力ではなく軍事技術力なんですけど。一般的な技術力をウンヌンしても意味がないんだけど。
武器輸出禁止三原則とやらに縛られていて軍事技術力があるとホントに考えてるんだ。
戦闘機すらまともに作ることができず空母なんかも夢のまた夢。そのうえアメリカが作らせてくれないでしょう。
もっと現実を見ないとね。アメリカに依存して徴兵制が必要でないというなら理解できるんですけど。
この2人、しょせん日米安保に依存すると云うのでしょう。
 

(無題)

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 3日(月)13時34分33秒
  私の憲法論、左翼的なところもあります・・・私は解法者氏と比べると左によっています。ですが、『大日本帝国憲法』は時代遅れ、『日本国憲法』は認められない、そこで『改正版・大日本帝国憲法』(序文等はそのままで、表現や時代遅れの部分を改正)を考えたわけです。そこに左翼的な部分があるのは、第一に日本の近くに中国や韓国があり、富国強兵などはできないこと。第二に、アメリカも日本の弱体化を支持していること、第三に左翼の力の強い今ではあまり保守的な憲法を作ると政権が吹っ飛ぶ、という理由もあります。そのあたり、解法者氏の理想論とは違う訳です。

>これでは「大日本帝國憲法」復活論どころか「大日本帝國憲法」否定論を展開している。

大日本帝国とかいう国名など、所詮形式。問題は中身です。百年前と同じ憲法を作ったら、進歩がない。
>日本の技術なら、アメリカ並みの兵器は作れる。それさえあれば、アメリカは無理でも中国、少なくとも竹島や尖閣ぐらいは守れるであろう。<
>国民皆兵制、これはヨーロッパ型軍国主義の産物である。<
これは多くの日本人の考えです。私だけのものではありません。保守派にもこのような人はたくさんいます。少し内容が違うぐらいで<思いつき>扱いしないでほしい。

>また、臣民(国民)の権利は天皇から与えられたものとして、帝國議会の協賛を以って
天皇が行う立法権により制限されていた。<
実際に法律を作っていたのは、議会です。議会によって人権が制限されるようなことはあってはならない。
 

今考えても不穏当な発言だ

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 3日(月)12時25分35秒
  >>ここには毎日数千の人が閲覧する。<
なんでそんなことがわかるの?管理人?関西電力の誰か?ハッカー?ウィキリークス?
失礼、失礼。無視してください。<(非国民?売国者?)

 言いたいのは、ここは閲覧者が少ない<ゴミ掲示板>だというのであろう。
 数千人とは例えであろう。数百人でもいい。見ている人がいれば結構。
 HPの冒頭には閲覧者の数がカウントされている。相当の者が閲覧している立派な
掲示板だ。こういう失礼な者は来なくてよかろう。
 なおさら惨いのは>失礼、失礼。無視してください<だ。こんなことを自覚している
なら始めから書き込まなければいい。投稿しておいて<消去してください>などという
のは閲覧者を愚弄している。
 

護国運動家さんには失望した

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 3日(月)11時10分8秒
   護国運動家さんは「大日本帝國憲法」復活論を展開されていた。しかし、ここまでの
憲法論は「大日本帝國憲法」と似て非なるものである。
 「大日本帝國憲法」は富国強兵を国是とし徴兵制を敷いた。この「徴兵制」を否定する
ならば、一体「大日本帝國憲法」復活論は何だったのであろうか。
 また、臣民(国民)の権利は天皇から与えられたものとして、帝國議会の協賛を以って
天皇が行う立法権により制限されていた。つまり「法律」により制限されることになって
いた。「公共の福祉」なる概念は考えられなかった。しかるに、彼の憲法論では権利の
制限を広く否定している。
 これでは「大日本帝國憲法」復活論はどこへ行ったのかと疑わざるをえない。
 これでは「大日本帝國憲法」復活論どころか「大日本帝國憲法」否定論を展開している。
 私への非難は一体どうしたのか!
 極めて左翼的であるとともにどうも<思いつき>で「大日本帝國憲法」復活論を展開
していたと断じざるを得ない。
 

大韓民国の領土は日本が定める――甦る大日本帝国戦後史@

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 1月 2日(日)11時44分6秒
  大韓民国は1948年、アメリカの信任統治領から独立した。しかし、このころに大韓民国に「国家主権」などなかった。その領土たる朝鮮半島は、いまだに日本が潜在領土権を持っていたのである。1951年、日本は朝鮮半島の領有権を放棄した。そのころの朝鮮半島では、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との国家主権をめぐる朝鮮戦争があった。このどちらが正しいかは、日本が独立国として保有する「国家承認権」に委ねられていた。(この時点で朝鮮は割譲されていないため)
1952年、大韓民国は波浪島と対馬、それに竹島は自国領であると主張し、マッカーサーにも抗議したが無視された。そのため、対馬を省いた波浪島及び竹島の領有権を一方的に主張、「李承晩ライン」なるものを設定し、日本との軍事境界線とした。韓国の主張が正しい場合、日本は韓国領である対馬を侵害し、対馬と韓国の間にあるのは「国境」に非ず、「軍事境界線」となる。逆に日本の主張が正しければ、竹島と島根県の間に「軍事境界線」があることになる。
だが、結局「波浪島」なる島は無かった。今でも韓国政府は必死になって探しているそうだが、どちらにしろ日本はサンフランシスコ平和条約で竹島はもちろん、「波浪島」なる幻の島の領有権など放棄していないのだから、韓国の主張は国際法上認められない。その後、「日韓基本条約」が1965年に発効され、日本は韓国の朝鮮半島全体の領有権を認めてあげた。しかし、竹島や対馬については一切譲らなかった。
ここで重要なのは、大韓民国の領土は日本に決定権があるということである。旧・日本領なのだから、当然である。竹島問題は「竹島は大韓民国領か」というものではなく、「日本が竹島を大韓民国に割譲するか」という問題なのである。それを無視して韓国は竹島を占領したのであるから、「侵略」である。
 

マヤ文明の予言について

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 2日(日)10時54分6秒
  公開される予言には四種類ある。
@万人周知の当たった予言
A万人周知の外れた予言
B極秘にされた当たった予言
C一部当たった予言
@の例としては、ソ連の崩壊を予言したファティマの大要円盤の予言(但し、当時は内容が誤解されていた。これは私の解釈)、『古事記』を基にした同じ予言がある。
Aの例としては大本教の予言、また、邪馬薹詩の「東海騎士の国、百王にして王滅ぶ」というのがある。
Bの例としてはフランスの霊媒による第一次世界大戦のものがある。
Cの例も上と同じ。また、ノストラダムスもこれに分類する説もある。

さて、今回はマヤ文明による人類滅亡の予言だが、私はこれはやはり「誤解」だと思う。ファティマの大要円盤の予言も、当初は第三次世界大戦の予言と解釈されてきた。然し、これは「ロシアの改宗」という内容で、文脈からしても「ソ連崩壊」である。それと同じで、マヤ文明の予言も誤読、あるいはまったくの嘘であろう。もし嘘だとしたら、返っていいことだと思うが。

少し話が横にずれた。科学的に見て、予言が当たる確率は後世のものになるほどわずかである。例えば、「百万年後の予言」より「一秒後の予言」の方が当たる確率が高いわけだ。仮に、超能力が実在するとしても、「一億年後の予言」は外れる可能性が高くなる。これが多元的宇宙論である。

今は2011年、来年人類が滅亡するのか、私は楽しみに待っている。(もし外れたら『ム―』に文句を言おうか)
 

徴兵制は必要かA

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 2日(日)10時33分56秒
  国民皆兵制、これはヨーロッパ型軍国主義の産物である。韓国や北朝鮮は確かに徴兵制だが、それは朝鮮戦争がいまだに継続しているからであって、国民皆兵体制をやめる動きもある。

日本は奈良時代、徴兵制だったが、平安時代から豪族軍備性、鎌倉時代以後は武士制へと変わっていった。国民皆兵制は一世紀も続かなかったのである。このように、国民皆兵制は日本の風土に合わない。逆に、もし国民皆兵制じゃないと国が守れないようなら、人数で「仮想敵国」とされている中共に負けることになる。

日本の技術なら、アメリカ並みの兵器は作れる。それさえあれば、アメリカは無理でも中国、少なくとも竹島や尖閣ぐらいは守れるであろう。(それ以上の軍備を持つと軍国主義になる) ・・・・皆さんと比べて随分左翼的になったようだ。とにかく、私は徴兵制があるような国だったら、国籍を捨てて非国民になる方がいい。(念のため――私は非武装中立論者では無論ありません)
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 1月 2日(日)10時18分33秒
  新年の挨拶が一日遅れました。解法者氏の徴兵制論、>徴兵拒否が横行します。法というのは例外をなるべく認めないのが原則です。必ず例外規定を悪用する者が蔓延するからです。 <
ならば、「徴兵については法律で定める」でどうでしょうか?

>現在の私権の乱用を見ているとやはり法律で制限しても良いのではないかと思います。<
うぅん・・・下手したら西戎人民共和国の二の舞になりかねない・・・せめて、言論の自由は(犯罪的なものを除いて)全面的に認めないと、私もこの国を捨てますが。
 

新年明けましておめでとうございます

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 1月 1日(土)11時52分48秒
   今年もよろしくお願いいたします。

 今年は管理人さんもぜひ参加ください。確かに管理人の発言は鶴の一声で、異論を許さない雰囲気がありますが、歴史家ですのでここで論争になっている「邪馬台国」、「九州王朝」、「倭の五王」、「稲荷山古墳出土鉄剣」などについてご意見をお聞きしたいのです。また、現行憲法の改正案についても同じです。
 かつては「護送船団擁護論」を展開され、とても参考になりました。わたしも管理人さんの「日米安保懐疑論」に触発され、考えを変えたことがあります。
 


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